魔術士オーフェン無謀編・死にたい奴から前に出ろ! (29)

無謀編二次創作。タイトルは内容に即したのが思いつかなかったので適当です

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 現代社会において、金銭という存在は人が生きる上で必要不可欠なものになってしまった。

 もしかしたら、反論する者もいるかもしれない――人の繋がりや正しき心。そういった精神的な充足こそ真に生きる上で必要なものなのだと。

 だが、基本的に彼らは富める者なのだ。絆も正義も、まず最低限の金銭が無くては成立しない。

 明日の糧にも困り、死の淵に立たされるようなものにだけ、その台詞を吐く資格がある。

 そしてその台詞が吐けるなら、それは人間とは呼べないだろう。聖者、聖人。その類のものだ。

 適度に金を持つ人間こそ、その重要さを理解しない。彼らにとって、金は空気のようなあって当たり前の存在だからだ。

 あるいは現代社会において、空気のように人に付きまとうのが金銭という存在だともいえる。

 というわけで。

 袋一杯の金貨をテーブルの上に置いただけで、真っ青になって卒倒したボニーの姿に、オーフェンは何か不可解なものを感じていた。

「何なんだよ、一体」

「いや、何なんだって……」

 いつもの宿屋、いつもの食堂。そして冷や汗など垂らしながら呻くように言ってきたのは、いつものコンスタンス・マギー三等官である。

 昼下がり。バグアップズ・インの食堂にはトマトとチーズの匂いが薄く漂っている。
 ここに客が来るはずもないので、目の前の彼女が注文したものだろう。机の上には、既に空の器も無かったが。

「またサボりか?」

「サボりとは何よサボりとは。警邏の一環でしょ」

「客のいない宿屋の警邏なんざ、派遣警察様のやることじゃないと思うがね」

「何言ってるのよ。こーゆー日々の絶え間ない積み重ねが犯罪の早期発見に繋がるんだから」

 椅子に座ったままのコンスタンスは、自信満々に胸を張って言い切ると、そのままオーフェンが机上に置いた金貨袋を指さし、

「今だって、ね? 重大な犯罪の証拠を掴んだわけだし」

「誰が犯罪者だ!?」

 手をわななかせて叫ぶオーフェンに、コンスタンスはこともなげに床に倒れているボニーへ視線を向けた。

「うーんうーんオーフェン様ぁ、やめてくださいまし……そんな、産婦人科に放火なんていけませんわ。
 妊婦のお腹を蹴る酒浸りの男以上の悪どさ……優しかった頃の御自分を思い出して……」

「……」

「ほーら、世間一般ではあんたがお金を持っているっていうのはこういう認識なのよ」

「やっぱりお前ら姉妹とは、一度決着をつけておかにゃならんな……」

 半眼で呟くオーフェンに、コンスタンスはやや目を逸らしながら、強引に話題を引き戻した。

「そ、それで、そのお金どうしたわけ?
 ソケットならまだしも袋一杯の金貨なんて、それこそ銀行でも襲わないと手に入らないでしょ」


 キエサルヒマ大陸において流通する通貨は、大別して2種類が存在する。

 ひとつはソケット紙幣。もともとはソルト・チケット、塩の引換券であり、
 一般的な通貨としての地位を得た現在でも、塩相場の影響で価値が大きく変動してしまうという欠点がある。

 そしてもうひとつが硬貨だ。こちらはソケットと違い、価値の変動がほぼ起きえない。

 その為一般世間ではソケットが多く流通し、硬貨は箪笥に溜め込まれるという問題も起きているのだが、それはさておき。

 オーフェンは皮肉気に唇の端を吊り上げると、自分の胸元を指さして見せる。

「あのなぁ、コギー。モグリとはいえ、俺は金貸しだぜ?」

「ああ、借金してきたの?」

「違うわっ!」

 得心いったとでもいうようにぽんと手を打つコンスタンスをはたきながら、オーフェンは叫んだ。

「貸す方だと言っとろーが! これは事業資金だ!」

 紙幣による取引が嫌われるケースはいくつかあるが、金融業はその中でも筆頭である。
 貸し付け金の価値が不安定に上下するというのは、債権者・債務者ともに非常に面倒であるので、当然ではあった。

「叩くことないじゃないのよぅ」

 頭をさすりさすり、涙目のコンスタンスが口を尖らせる。

「それに、事業資金? そんなお金どこに隠してたのよ。銀行なんて強盗以外じゃ一生オーフェンには縁の無い施設だろうし」

 ぼやきながら、コンスタンスは袋から零れ落ちた金貨を一枚摘まみあげた。
 偽金とでも疑っているのか、重さを確かめるように軽く放ったり、歯でがじがじと噛んだりしている。

 そんな様子をオーフェンは半眼でしばらく見つめていたが、やがて諦めたように溜息をひとつ吐いた。言う。

「……まあいい。こいつは追加分だよ」

「追加?」

「前に話したろ。俺がどういう業務形態で金貸しやってるか」


 オーフェンの言葉に――

 コンスタンスは虚空に視線を向けた。遠い記憶を思い出すための動作。
 あるいは単に、思い出したくない記憶を思い出すための動作か。

 どちらにせよ、彼女は記憶を掘り起こすことに成功したらしい。咥えていた金貨をぽとりと落した。
 そして見るからに狼狽しながら、悲鳴とも非難とも区別のつかない叫びをあげる。

「これ、あの元締めとやらのお金!? 噛む前に、いや触る前に言ってよ感染したらどーしてくれんのよ!」

「俺だって思い出したくなかったんだよ!」

「っていうか、それじゃあやっぱりこれ借金みたいなもんじゃない!
 やーいこの借金ヤクザ! とうとう堕ちるとこまで堕ちたわね!」

「仕方ねぇだろが! あの妖怪、来ないと向こうから出向くって脅してきやがったんだから!
 あとこれは断じて借金じゃねえ! 未来への投資資金だっ!」

「借金した人はみんなそう言うのよ! 借金オーフェン借金オーフェン借金オーフェン!」

「このアマはぁぁ……!」

「あのぅ、ちょっといいですか?」

 と、舌戦に割り込んできたのは宿の息子のマジクだった。

 手にはコンスタンスが注文していたのだろう、ソーサーに乗せられたコーヒーなど持っている。
 ウェイトレスであるボニーが相変わらず気絶したままなので、自ら運んで来たらしい。

 尖った拳を向けるオーフェンと、それから離れるように身を引いているコンスタンスの間に難なく細い体をすべり込ませてくる。

「途中から聞いてたんですけど、そのお金の何が問題なんです? 誰かから借りて――ああいえ、その、渡されてきたみたいですけど」

 後半はオーフェンの壮絶な眼差しに射抜かれての言い換えだったが。

 オーフェンとコンスタンスはそれを一時休戦の機と捉えることにした。
 いつの間にか立ち上がっていたコンスタンスは席に戻り、オーフェンもそれにならって向かいの椅子を引く。

 視線が近づいた金貨の袋を複雑な面持ちで見つめながら、オーフェンは呻くように説明した。

「そういやお前にゃ言ってなかったか……俺は、サマンサっていう物体女の代理で金貸しをやってんだ。
 で、今日そいつに呼び出されてな。要件はご覧の通りってわけさ」

「はぁ、物体女……っていうのはよく分かりませんけど、要はそのお金を新しい人に貸せってことですよね」

「ああ。あと、あの妖怪のことは詳しく説明せんぞ。
 いたいけな少年の心にトラウマを残したくはないし、語ると本当に来そうな気がするからな」

「でもおかしいじゃない。何でオーフェンに頼むのよ。回収率0のくせに、金貨まで渡して――あ、ありがと♪」

 コーヒーをマジクから受け取りつつ、コンスタンスが疑問符を浮かべる。


 それに対して、オーフェンはバンダナを巻いた額に手をやった。彼にとっても、頭の痛い話ではあったのだ。

「一応この前、不本意ではあったが元金の一部を返済したろ。その実績が評価されちまったらしい」

「評価って……返したって言っても、たった銅貨数枚じゃなかった?」

「俺の前任者が13人ほどいたらしいんだがな。どいつもこいつも、びた一文返さなかったんだと」

「なんで?」

「……13人中、8人は発狂、3人が植物状態、1人は今も精神病院から出てこれないんだそーだ」

 先ほどまで出向いていたサマンサの事務所で聞かされた、そんな鬱屈とした事情を呟く。

 それを聞いて、コンスタンスは顔をしかめて見せた。間を取る様にカップへ口を付けてから溜息を吐く。

「……何ていうか、納得したわ。評価されたのは返済能力じゃなくて、
 あれに付きまとわれても正気でいられる、ゴキブリか雑草の如きメンタルの方だったのね」

「……ん? あれ、オーフェンさんの言った数字だと、ひとり足りなくないですか?」

 マジクが指折り数えながら指摘してくる。オーフェンもそれに倣うと、全部足しても12人にしかならない。

「確かにそうだな。記憶違いか……?
 未知の生命体と差し向かいで話してたからな、落ち着けたもんじゃなかったし」

「そういえばあれ、どんなところに住んでるわけ? やっぱり産業廃棄物の不法投棄所とかかしら」

 コンスタンスが興味を持ったのか聞いてくる。
 オカルト好きな性格がそうさせたのかもしれないが、であれば、オーフェンの返答はつまらないものだった。

「それが意外なことに見た目は普通の雑居ビルでな。まあ、人間を誘い込むための罠という可能性も高いが……」

 脳裏に数刻前の情景がちらりとよぎる。記憶に残る通された応接室は、特に変わったこともない普通の見栄えをしていた。

 強いて言うなら、趣味の悪い、等身大の蝋人形が飾ってあったことくらいだろう。
 非常に精巧な出来栄えで、まるで本物の人間を粘液か何かで固めたようにも見える代物だった。

 魔物の棲家なのに、むしろ装飾が控え目だな、というのがオーフェンの感想だったが。

「ま、どーでもよかろ、人数の食い違いくらい」

「それもそうね。別に何か害があるわけでもないでしょうし」

「本当にいいんでしょうか……」

 納得する二人をよそに、なにやら冷や汗など垂らしながらマジクが唸っていたが、彼もすぐに気持ちを切り替えたらしい。
 肩をすくめて、残念そうに呟く。

「でもそうなると、そのお金で溜まってる宿賃を払ってもらう、ってわけにもいきませんね」

「なんか近づいてきたと思ったら、それが目的かい。安心しろよ、儲けが出たらまとめて払ってやる」

「うわ、それって完全に詐欺師の台詞じゃない。信じちゃ駄目よ、マジク君」

 茶々を入れてくるコンスタンスの台詞にふんと鼻を鳴らして返し、オーフェンは零れ落ちた金貨を一枚拾いあげた。マジクに放る。

 その金の放物線の先に何とか手を差し伸べてキャッチすると、マジクはきょとんとした表情を向けてきた。

「? くれるんですか」

「やらねえよ。そうじゃなくて、飯を頼む。コギーが食ってたのと同じ奴な」

「でも、これって人に貸す為のお金なんじゃ……」

「はっはっは、馬鹿だなぁ、マジクは」

 オーフェンは朗らかな笑みを浮かべた。他にこぼれている金貨を袋に詰め直しながら、分かりきった理屈を口にする。

「確かにこれは俺が仕事を始める為の資本だ。
 すなわち! まずは俺が満足に動けるようにならなければならないので、その為のカロリー摂取に使うのは全く問題ないわけだな。
 ほらほら、分かったら早く作って来てくれよ。俺はこれから顧客を探さにゃならんし」

「そーやって都合よく自分を騙してるから、一文無しになるんじゃないかしら……」

 なにやら白い目つきでこちらを見てくるコンスタンスの呟きも、久しぶりのランチを前にすれば気にならなかった。

◇◇◇

 トマトとチーズのリゾットを平らげ、再び片付いたテーブルを前にして。

 オーフェンは金貨袋を開き、中身を10枚ずつにして積み上げていった。金貨の山が9つ、あまりが9枚。
 あとは先ほどのつり銭として細かい銀貨や銅貨もあったが、それは自分の財布の中に収めておく。

 仕事に戻る素振りもなく、物珍しげに覗き込んでくるコンスタンスに対し、
 袋の中身がきちんと想定通りであることを確認したオーフェンが声を上げた。

「さて。貸付金として、ここに99枚の金貨があるわけだ」

「結構な額よねー。マンションの頭金くらいにはなるかしら?」

「ふーむ、そんなもんか? で、あとはこいつを貸す人間だが……」

「そういえば借りてくれそうな人の心当たり、あるの?」

「まあ、なくもないが」

 そう言うと、オーフェンは口を閉じた。次の言葉を待っているらしいコンスタンスをじっと見つめる。

 10秒ほどその状態を維持すると、さすがのコンスタンスもこちらが言わんとしていることに気づいたらしい。

「わたしっ!?」

「おう」

 鷹揚に一度、頷く。

 対して、コンスタンスは心外だとでもいうように頬を膨らませて見せた。

「あのねぇ、オーフェン。一応わたし、警官なんだけど」

「知ってるぞ。だから持ちかけたわけだし。無能警官とはいえ、公僕には違いないからな。
 身元もしっかりしてるし、いざとなりゃ実家に請求できるだろ」

「え、姉さんのところに請求書送るつもり?」

「……まあ、そんなことにはならないと信じてるさ」

 明後日の方を見ながら呟くオーフェン。

 そんな信頼の証も、コンスタンスは気に入らなかったらしい。ばんばんとテーブルを叩いて抗議の意を示してくる。

「だーかーらー! 警官が非合法の金融業者から借り入れなんて出来るわけないでしょ!」

「そら、別に無理にとは言わんが……」

 そう言って、オーフェンは懐から1枚の封筒を取り出して見せた。封蝋には、派遣警察を示す刻印が捺されている。

「なにそれ?」

「今朝、ダイアンの御大がお前に渡しておいてくれって置いて行った。下宿に居なかったからって」

「ああ。だって昨日は資料室に閉じこもって始末書を書いてたんだもの。
 見えるところで書いてるとあのむっつり詐欺師に嫌味言われるし、うっかり犯罪組織の内偵リストに零しちゃったインクの始末もしてたし」

「お前のミスは今に始まったことじゃねえし、聞いても意味ないとは思うんだが……始末って?」 

 訊ねながら、コンスタンスに封筒を手渡す。彼女はワックスをパキリと割りながら、あっけらかんと答えてきた。

「きちんとホワイトで塗り潰してきたけど」

「いや、まあ、別にいいんだけどな。俺は関係ねえし……納得はいったが」

「なによ、納得って――」

 疑問を上げかけたコンスタンスの口がぴしりと固まる。いや、固まったのは口だけではなく、全身だった。
 固着した視線は手紙の文面の上に落とされている。

 顔面を蒼白にしながら固まるコンスタンスに、オーフェンは目を閉じながら告げる。
 それはこの腐れ縁の警官に対する、せめてもの慈悲のつもりだったが。

「減給――3か月だそうだ」

 彫像のようになったコンスタンスが手紙を取り落した。
 手元にまでひらりと飛んできたそれを、オーフェンが無造作に指先で捕まえる。

「ついでに来月のボーナスも取り消しだと。ちょっと驚いたぞ。お前、まだ削れるだけの給料貰ってたんだな」

「……」

 魂が抜けたような面持ちで、虚ろに天井の辺りを見つめているコンスタンスは返事もしない。構わず、続ける。

「そーいやお前、こないだブランド物のバッグだか財布だかを買ったって自慢してたっけ。
 凄いなぁ。出なくなるようなボーナスに頼らなくてもいいよう、倹約して貯金をしているんだろうなぁ」

 回収した手紙を適当に四つ折りにし、オーフェンはそれを改めてテーブルの上に置いた。
 他意はないが、重しとして適当なものが無かったので、金貨の山をひとつ、乗せてやる。

「おっと、話が逸れたが、コギー。融資の件はなしってことでいいんだよな?」

 相手の反応を待たずに、オーフェンはテーブルの上の金貨の山をひとつずつ袋に戻し始めた。

 ひとつ減り、ふたつ減り、やがて手紙の重しになっている一山だけを残した頃になって、コンスタンスが再起動を果たす。

「ば、ば――」

「ば?」

 オーフェンは手を止めて、コンスタンスの言葉を待った。幸い、さほど時間はかからず現実に復帰してくる。

「ば――馬鹿にしないで欲しいわねっ」

 叫び声ひとつ。コンスタンスは何かを振り切る様に勢いよく椅子から立ち上がると、握り拳を掲げて宣言してくる。

「どんな苦境に立たされたところで、わたしは法の信徒! 悪徳に身をゆだねるなんてこと絶対にしないわ!」

「おおー」

 啖呵を切って見せたコンスタンスに、オーフェンはおざなりな拍手を送った。そして最後の金貨の山に手を掛ける。

「じゃあな、頑張れよコギー。素人にゃ飲まず食わずは意外ときついと思うが、生きたいという気持ちが重要だぞ――」

 刹那。がしり、と金貨を下げようとしたオーフェンの手を握り留めた者がいた。言わずもがなコンスタンスである。

 どことなく熱病に冒された様な焦点の合っていない目つきで――なにかから目をそらすように――オーフェンを見つめてきた。

「ところでオーフェン、わたし達、友達よね?」

「そうだなぁ。そうとも言えるかもしれん」

「友情って素敵よね。困った時には助け合えるんだもの。
 非合法のチンピラ金貸しと、美人の最エリート警官だけど、友情の前には些細な垣根だと思うの」

「餓死って一番苦しい死に方らしいな」

 オーフェンがその手を無情に引きはがそうとすると、コンスタンスは今度こそなりふり構わず全力でしがみ付いてきた。

「あああああ! 何よちょっとしたお茶目なジョークじゃないのよ! おねーさんを立ててくれたっていいじゃない!」

「じゃあ、借りる、ってことでいいんだな?」

「……とりあえず、話し合いましょ? ほらほら、そんな怖い顔しないでってば」

 促され、オーフェンは手から力を抜いた。それを察したコンスタンスも縋りつくのを止め、席に座りなおす。


 さて、とオーフェンは一呼吸いれてから、ぱちぱちと音を立てて金貨を並べて見せた。

「とりあえず、九枚くらいでいいか? 端数が捌けると後の管理が楽だし、バッグだか財布だかの支払いには足りるだろ。
 利子も含めて4か月の分割払いでいいぞ」

「いや……まだ借りるかどうかは決めてないんだけど……」

 躊躇するように呻くコンスタンス。

「そもそも利率とか細かい契約内容とか、いろいろあるでしょ?」

「ああ、書面にまとめてあるぞ。ほれ、サインはここな」

 懐から紙とペンを取り出し、空欄になっていた金額を記入してからコンスタンスに手渡す。

 コンスタンスは受け取ったペンを机の上に置くと、まずは書面の内容を精読し始めた。

「大体ねー、確かにちょっと今月は厳しいけど、非正規の金融業者に相談したところで人生が好転するはずないのよね。
 そもそもオーフェンにお金を借りるって時点で人生の終焉感凄いし――」

 ぶつぶつと呟く彼女の様子を眺めながら、オーフェンは厨房で片付けをしているマジクに水を注文する。

 運ばれてきた氷入りのグラスを手にした頃には、すでに全文を読むに足るだけの時間は経過していただろうが、コンスタンスは契約書を離さない。
 目線を追うと、どうやら頭から再度読み直しているらしい。

(そーいや、こいつの実家って一応商売やってるんだっけか)

 だからこその用心深さ、だと思ったのだが――

 しばらくしてオーフェンは気づいた。それにしては、尋常一様の様子ではない。

 読み進めるごとに、コンスタンスの顔色がどんどん悪くなっていく。
 手や足といった末端部位がガタガタと震えだし、オーフェンの手にしているグラスの水面に波紋を生んだ。

 有体にいって、何か凄まじい恐怖に遭遇したというような有様だった。別に、変なことは書いていない筈だが。


「ね、ねえ、オーフェン……」

 歯の根が合わないらしく、かちかちという音を響かせながら、コンスタンスが恐る恐ると言った感じで口を開く。

「こ、この利息の割合……」

「んだよ。なに言われても、それよりは下げらんねえぞ」

「いや、あの……適法内……というか、物凄い良心的な利率の気がするんだけど……書き間違えてない?」

「? 見せてみろよ」

 震えるコンスタンスから書面を受け取り、読み直してみる――内容は自分の頭に入っているものと寸分の違いもない。

「いや、この数字で合ってるぞ」

 こともなげにそう返したオーフェンに――

「嘘よぉぉぉおおおお!」

 コンスタンスは甲高い声で絶叫した。誰にでもない呼びかけ。
 あるいは、それは世界そのものに対する訴えであったのかもしれない。

 真正面から予想もしない大音声を浴びせられて、オーフェンは思わずよろめいた。間髪入れずにコンスタンスが畳みかける。

「おかしいじゃない! とても払えないような高利貸しをやってそーなのがあんたでしょ!
 払えない人には容赦なく魔術を叩き込んで、家に放火したり犬の死体を放り込んだりするんでしょ!
 こんな低金利で良心的な返済プランを組むなんて、そんなの全然オーフェンじゃないわ!」

「おいコラ、人聞きの悪いことを言うんじゃねえ!」

「怖いぃぃぃぃ!」

「何がだ!?」

 おそらく防御態勢なのだろう。ダンゴ虫のようにその場で座り込み頭を抱えて丸まったコンスタンスを見下ろしながら、
 オーフェンは努めて冷静な――少なくともそう聞こえるような――声音で諭す。

「あ、あのなあ、コギー――モグリの金貸しを利用するのなんざ、よっぽど追いつめられてる奴だけなんだよ。
 おまけにトトカンタの金融業はあのオストワルドが仕切ってやがんだ。
 派手にやったら面倒なことになるし、回収役だって俺しかいねえ。夜逃げされる可能性は小さくしときたいだろ」

「……」

 頭を覆う腕の隙間から、疑わしげな視線を向けてくるコンスタンス。

 しばらく待つと、彼女はゆっくりと立ち上がって見せた。森の中で羆と遭遇した人間が、刺激しないよう後ずさりする様子にも見えたが。

「分かってくれたか」

 オーフェンの言葉を無視して、コンスタンスは再び机の上の書類を片手で取り上げた。

 そして、もう片方の手でポケットから引っ張り出したのはマッチ箱である。
 彼女に喫煙の習慣はなかった筈なので、道端で配られていたものでも貰ったのだろうが。

 その行動の是非を問うよりも早く、コンスタンスはマッチを一本摘まみ出し、火を点けていた。そのまま紙の裏面に近づける。

 しばしの空白の後、オーフェンはようやく言葉を絞り出した。


「……何の真似だ?」

「わたしが思うに、この辺にあぶり出しで『一か月後から利率10倍』とか『営利的ドナー提供に同意します』とか書いてあると思うんだけど」

「あるか馬鹿たれ! テメエ、ちょっと人が優しくしてりゃあ!」

「だって絶対におかしいじゃないこんな――熱っ!」

 叫んでコンスタンスがマッチを摘まんでいた手を振る。どうやら持ち手の方にまで火が下がってきたらしい。

 当然、手から放り出されたマッチの火は契約書に燃え移った。

「きゃあ!」

「おまっ――」

 咄嗟にオーフェンが手を伸ばす――よりも早く、小さく悲鳴を上げたコンスタンスが書類から手を離した。

 めらめらと景気よく燃えるその紙片はひらひらと宙を舞い、テーブルの上に放置されていたマッチ箱に接触、引火。

 そして中に入っていたマッチまでもが一斉に発火し、机上が一瞬で火達磨と化す!

「きゃあきゃあきゃあ!?」

「何やってんだお前はぁぁぁぁ!」

 叫び声を呪文にして、オーフェンは反射的に魔術の構成を解き放った。
 振り下ろされるように発生した衝撃波がテーブル表面を叩き、炎を噴き散らかす。

 乱暴な鎮火方法だったが、常に理想的な対応が取れるわけでもない。
 焦げたテーブルの表面は、あとでカンナでも掛ければいいだろう。最悪、魔術を使えばなんとでもなる。

「小火でも出す気か馬鹿たれっ! いまさらテメエの無能ぶりを矯正しようとは思わんが、それに俺を巻き込むなっ」

 びしりと人差し指を突き付けて、オーフェンは叫ぶが――

 魔術の余波をもろに喰らったらしい。当のコンスタンスは痙攣しながら床に突っ伏していた。
 単に気絶しているのか、間近の衝撃に体が動かないのかまでは判別ができなかったが。


 どの道いつものことではあったので、オーフェンはさほど気にせず視線をテーブルの上に戻した。

 衝撃波でマッチの残骸などはほとんど吹き飛んだが、契約書の燃えカスの一部が残っている。

「くそっ、書類作るのだって結構手間が掛かるってのに。
 こんの無能警官、本当にろくでもないことしかしやがらねえんだからな……」 

「まったくですわ。コギー姉様ったら、オーフェン様をいつも困らせて、本当にしようのない」

 唐突に響いた背後からの声にオーフェンが振り向くと、入れ替わりに復活したらしいボニーが立っていた。
 姉に対する精一杯の憤りを表そうとしているのか、腰に手を当ててふんぞり返ってなどいる。

 だが彼女はすぐに態度を軟化させた。倒れるコンスタンスをボールでも蹴るかのようにして適当にどかすと、
 ボニーはにこにこと笑いながらオーフェンの正面に回り込んでくる。

「ささ、オーフェン様。そのよーな税金泥棒は放っておいて、わたしと愛の語らいをいたしましょう」

「いや……だから俺は金貸す相手を探さねえといけねえんだって」

「そのよーな些事、オーフェン様の手を煩わせることもありませんわ」

 にこやかな笑みを浮かべて、ボニーがこちらの手を取ってくる。

「わたしが借りて差し上げます。夫の仕事を手伝うのも、妻の役目ですもの」

「それで金を借りるっていうのは、何か違う気がする……」

 やんわりと手を外しながら、オーフェンは首をかしげた。

「それはともかくとして、返す金のあてはあんのか?
 マギー家から持ち出したっていう資産は確かキースが使っちまった筈だし、ここの給料がそれほど高給とも思えんが」

「オーフェンさんが宿代を払ってくれれば、時給も上げられるんですけどねー」

 厨房から飛んできた謎の呪文を渾身の精神制御で脳内から締め出すと、オーフェンは改めてボニーに問うた。


「で、金はあるのか?」

「もちろんです。計画性の欠片もない姉様とは違いますもの。
 わたし、オーフェン様との結婚資金として貯金していますの。もう金貨で10枚ほど貯まりましたわ」

「……何て言えばいいのか分からんが……とりあえず、その努力をもっと別の方向に活かした方がいいと思うぞ」

「もう、オーフェン様ったら冗談ばっかり」

 頬に手など当てて顔を赤らめるボニー。

 どこまでも噛み合わない会話に、オーフェンはがしがしと頭を掻いた。溜息を吐きつつ、諭してみる。

「あのなぁ。さすがにそんな金を、わざわざ借りる必要もない借金の返済に充てさせるなんて出来るわけねえだろ」

「別に構いませんわ。オーフェン様の為になるのでしたら」

「だから、そういうことじゃなくてだな。俺の人間としての尊厳の問題というか……」

「まあ!」

 感極まったように、ボニーは口に手を当てて一筋の涙を流した。

「オーフェン様が、わたしのことをそこまで大事に想って下さるなんて……」

「いや、まー、そういうことになる……のか?」

「でしたら」

 首を傾げ続けるオーフェンに対して、ボニーは笑顔を浮かべてぱん、と手を打ち鳴らして見せる。
 これで問題は万事解決だと言わんばかりの態度で、

「金貨一枚だけお借りする、というのは如何でしょう。
 そのお金で、今晩はコギー姉様やマジク君も一緒に、ささやかなお祝いの席を設けるというのは」

「お祝い?」

「オーフェン様がまっとうにお金を稼ごうと、更生の道を踏み出した日の記念に」

「いや……決して合法(まっとう)じゃないんだが」

 呟きながらも、オーフェンは無意識の警戒を解き、肩の力を抜いた。
 拒んだところで、ボニーはどこまでも食い下がってくるだろう。ならここで手を打つのも悪くない選択かもしれない。


「しかし、契約書は燃えちまったからな。また書き直さんと」

「その必要はありませんわ。キース!」

 ボニーが天井の辺りに向けて呼びかけると、タキシード姿の男が姿を現した。

 先ほどまでオーフェンが使っていたテーブルの下から、異様なほどスムーズににゅるりと立ち上がってくる。

「お前……ずっとそこにいたのか?」

 半眼でオーフェンが呟くと、タキシードの男――キースは相変わらずののっぺりとした笑顔で答えてきた。

「いえ、丁度良かったものですから」

「何にだ」

「はっはっはっ」

 無闇に白い歯を見せつけるように笑いながら、キースはオーフェンの呟きを無視した。

「キース、例の物をオーフェン様に」

「御意。こちらに」

 そうしてキースが懐から取り出したのは、クリップ付のバインダーである。

 クリップには一枚の紙が挟まれており、高級そうな万年筆が添えられていた。

 どうやらそれは借金の契約書らしい。オーフェンが自身で用意していた物とは、多少書式が違うようだが。

 オーフェンは訝しげな視線を、キースが差し出してくるその書状に遠慮なく注いだ。

「今、用意したのか?」

「無論です」

「……まあ、お前の行動の突飛さに突っ込むほど、付き合いも浅くないけどよ」

「そう言っていただけるとは光栄ですな」

「言っとくが、いい意味ではないからな断じて」

 こめかみのあたりを押さえながら、オーフェンはバインダーを受け取った。だが万年筆を取り上げた時点で、ふと気づく。


「って、俺が書くのか?」

「ああ、黒魔術士殿。よくお読みください……」

 キースの言葉に、視線を再び書面に落とす。

 言われるがままに精読すると、確かに『ボニー・マギーがオーフェンから金を借りた』ことを証明するものではなく、
 『オーフェンがボニー・マギーに金を貸した』ことを証明するような書き方になっていた。

 見ればオーフェンがサインを書き入れる箇所の隣には、連名でボニーの署名が既に入っている。
 捏造した証文ではないという証明のつもりなのだろうが。

「ずいぶん変な書き方したな」

「黒魔術士殿とは無二の親友ではありますが、
 ボニー様は私の主であるからして、主を立てるのは執事として当然のことですな」

「ああ、このような使用人を持てるなんて、わたしは何て果報者なのでしょう……」

「ふーん」

 キースとボニーのやり取りを横目で見つつ、オーフェンは書状の表面に人差し指を置いた。
 擦る様にぐい、と力を込めると――

 案の定というか何というか、ぺらりと捲れた一枚目の下に、複写用のカーボン紙と2枚目の書状が挟んである。
 どうやら全く同じ大きさに揃えた紙を、1ミリのずれもなく重ねていたらしい。およそ人間業とも思えないが、やったのはキースである。

 オーフェンはクリップを外し、隠れていた紙を顕にした。
 婚姻届とある。ちょうどオーフェンが1枚目の紙にサインすると、転写されたサインが記名欄に残るようになっていた。

 いつの間にか動きを停止していた主従に、オーフェンは冷たい視線を向ける。

「……おい、ボニー?」

 声を掛けると、ボニーはバネが弾けたような唐突さで動き出した。食堂の床を指さし、叫んでくる。

「大変ですわ! コギー姉様が倒れて!」

「さっき、思いっきり蹴っ飛ばしてたような気もするが」

「頭を打ったかもしれません! 早くお医者様に連れて行かないと……
 というわけで、オーフェン様。わたしはこれで失礼いたしますね――」

 言うが早いか、ボニーはコンスタンスの足を無造作に掴むと出口に向けて駆けだしていた。

 女の細腕にしては異様な怪力であるが、
 ボニーが足を踏み出すごとにコンスタンスの身体は揺さぶられ、食堂の椅子やテーブルをどったんばったんと豪快になぎ倒していく。 


 宿の扉が閉まり、ボニーの姿が見えなくなると後には静寂だけが残った。
 その静けさの中で、オーフェンは額に手をやりながら独りごちる。

「ったく、油断も隙もあったもんじゃねえ……」

「左様ですな」

「キース?」

 独り言に反応されたということよりも、キースがまだそこにいるということに少しだけ驚いて、オーフェンは疑問符を浮かべる。

「てっきりボニーの奴と一緒にか、もっと早く退散してるもんかと思ったが……」

「奇妙なことを仰いますな。なぜ私が友人である黒魔術士殿から逃げなくてはならいのです?」

「いまさっき、思いっきり俺を騙そうとしてたろーが」

「いえ、詐欺に関して言えば黒魔術士殿の右に出る者はいないでしょうから、あの程度の結婚詐欺なら見抜けると信用を」

「誰が詐欺師だ!? しかもああいうのは結婚詐欺と言わない!」

「それはともかくとして、黒魔術士殿」

 顔をひきつらせて叫ぶオーフェンに動じた様子もなく、キースはつつつ、と距離を詰めてくる。

「私がここに残ったのは、黒魔術士殿に融資の御相談をしたいと思ったからでして」

「仮に俺が1億ソケット持ってたとしても、お前にだけは銅貨一枚だって貸さんわボケッ!」

 断言する。この執事がきちんと返済するとはとても思えなかったし、取り立てに必要な労力を考えるとどう考えても割に合わない。

 だが、なおもキースは食い下がってきた。神妙な顔でオーフェンの言葉にうなずいて見せさえする。

「黒魔術士殿の仰る通りです。私は一介の執事に過ぎません。
 この身に過ぎたる担保など持ち合わせておりません。世間様に唯一自慢できるのは、マギー家の皆様に対する忠誠心だけ……」

「コギーの奴、さっき頭をガンガン床に打ち付けられてたぞ。
 つーか、俺がお前に貸さないっていうのは担保の問題じゃなくてだな」

「忠誠心だけですが!」

 オーフェンの言葉を遮るようにして、しかし、とキースは続けた。


「共同経営、という形なら如何でしょう?」

「共同経営ぃ?」

「はい。黒魔術士殿は私にお金を貸す――そして私はその資金と自前のアイディアで事業を興す。
 その事業の経営権は私と黒魔術士殿で折半。つまり、黒魔術士殿の懐には労せず収益の半分と、さらに私からの返済分が入っていくわけです」

「……それだけなら確かに破格の取引だが」

 キースからの返済、という部分には期待できなくとも、経営権の半分を持っているというのであれば確かに金は手に入る。

「っていっても、このご時世、上手くいく保証なんざねえだろ。一応聞くが、どんな事業を興す気だ?」

「黒魔術士殿は、私の職業をご存知ですかな?」

「職業って……執事だろ?」

「正確には、マギー家の執事見習いということになります」

「そうだっけか?」

 そういえば、どこかでそんなことを聞いた気もする。彼以外の執事など見たことがないので、どうも実感が湧かなかったが。

「今は経験を積むため、ボニー様付の執事をしておりますが、お恥ずかしい話、やはり一人前の方々には及ばず……」

「前々から思ってたんだが、マギー家っていったいどんな魔境なんだろうな」

「ですので私、そろそろ完全体になってみようかと」

 そんな聞き捨てるにはあまりにも衝撃的な台詞を吐くと、キースは何処からともなく紙切れを取り出して見せた。
 どうやらチラシの類らしい。目に痛い原色刷りで、こんなことが書かれている……

 『みんな集まれ! わくわくもりもり執事養成教室! 紅茶の入れ方から毒薬の取り扱いまで完全サポート!』

 顔を伏せるオーフェンを余所に、キースはチラシをペシペシと叩きながら能面のような表情で続けてきた。

「こちらでパワーアップを図りまして、ついでにノウハウを盗み、執事講座を開くつもりです。
 私もいずれは後継者を育成したいと思っておりますし――」

「誰がんな邪悪な企みに協力するか変態執事ぃぃぃい!」

 全力の絶叫と共に、甲高い音をたてて発動した熱衝撃波は、食堂の一部ごとキースを吹き飛ばした。

 破壊された壁の向こう側に、底が抜けたような昼下がりの空と代わり映えのしないうらぶれた路地が見える。

 ぜぇはぁと乱れる息を治めようと努力しながら、オーフェンは乱れた髪に手櫛を入れた。呟く。

「ったく……なんで俺の知り合いにはまともな奴がいねえんだ?」

「類は友を呼ぶ……でしたっけ。とりあえず、壁は直しておいてくださいよオーフェンさん」

 吹き込んでくる風と、背後の厨房から飛んでくるマジクの言葉が、どこか寒々しくはあった。

◇◇◇

 人生最大の麻薬とは夢を追うことではないだろうか。

 どのような苦難も、最後に待っている夢の達成を想えば盲目的に受け入れることができる。夢は痛覚を麻痺させ、走り続けるカロリーにすらなった。

 夢が破れるまで、つまりはその夢が叶わぬものであることを自覚するまで、人は好きなだけその麻薬を貪ることができる。

 もしも最期まで夢を追い続けることができるのなら、
 それが他人から見てどれだけ卑小な生き方であったとしても、当人にとっては幸福な人生であることは間違いないだろう……

「というわけで、あなたの夢を叶える手伝いをしたいわけです」

 にっこりと満面の笑みを浮かべながら、オーフェンは紳士的にそんな台詞を述べた。

 マーシャルストリート商店街の一角にある雑貨屋の店先である。
 ぴしりとした姿勢で佇むオーフェンの眼前には、雑貨屋の店主である禿頭の中年男性が、半開きにした店の扉から顔だけを出すようにしている。

 店の主人の表情は、御世辞にも明るいとは言い難い。むしろ、あからさまに何か胡散臭いものを見るような顔つきだった。

 それでも構わず、続ける。誠意を示し続ければいつか届くと、今だけ都合よくオーフェンは信じることにしていた。

「いまならなんと、こんな低利率で金貨10枚から! このチャンスを――」

 ピシャリ!

 まさにそんな擬音が相応しいような勢いで、雑貨屋の主人が扉を閉めた。拒絶の名残である風圧がオーフェンの頬を撫でる。

「……」

 空を仰ぎ見ながら、オーフェンは悲哀を浮かべて独りごちた。

「世知辛いな……いったいいつから、人は人を信じることが出来なくなったのだろうか……」

 その答え、という訳でもないだろうが。


「オーフェェェェン……」

 背後から響いたのは、墓場の下に眠る亡者の口から漏れるような恨みがましい声である。

 振り返ると、そこに居たのは先ほどボニーに連れて行かれた筈のコンスタンスだった。
 ただし、何故か全身びしょぬれで、頭には水草らしきものが刺さっている。あからさまに疲弊しているようで、警棒を杖代わりにしていた。

「おう、コギーじゃねえか。そんな恰好じゃ春先とはいえ風邪ひくぞ?」

「好きでびしょ濡れになってると思う!?」

 がっぽぐっぽと水の入った靴を地面に叩きつけるような勢いで、コンスタンスが近づいてくる。

「あの子ったら"とりあえず水でも掛ければ起きるでしょう"とか言って、わたしをマスル水道に投げ込んだのよ!?
 危うく溺れ死にそうになるし! 寒いし! 気絶させたのはオーフェンなんだから責任取りなさいよ!」

 無茶なことを言ってくるコンスタンスに、だがオーフェンは言い返さなかった。

 しばし、彼女を観察する。水流に曝されたせいで髪は乱れているし、ただでさえ化粧っ気のない顔が輪に掛けて子供っぽくなっていた。

 一通り確認してから、オーフェンは再び営業用の笑顔を浮かべ、

「そのままの君が一番綺麗だよ――」

「そんなこと言われたって誤魔化されるもんですか!」

 何故だかさらに激昂するコンスタンスに聞こえないよう、小さく舌打ちをする。

 お気に召さないようだったので、オーフェンはあっさりと対応を切り替えた。右手を彼女に向けて、構成を展開する。

「我は流す天使の息吹」

「ちょっ――」

 咄嗟に防御態勢を取ったコンスタンスを魔術の効果が捉える――ただし、いつものような爆発や衝撃は起きない。

 オーフェンの右手から発生したのは熱を伴った風だった。

 肌を焦がすような高熱ではないし、木々をなぎ倒すような強風でもない。適温、適風量。みるみる内にコンスタンスの服と髪が乾いていく。

 スーツが湿った紺色から元の青さを取り戻すまで、およそ1分というところだったろうか。

 顔を覆っていた手を恐る恐る開き、ペタペタと全身を触って確認するコンスタンスはびっくりしたような表情を浮かべている。

「へえ、こんな便利なこともできたのねー。なんだかお風呂上りとかに重宝しそうな感じ」

「そりゃ、まあな。別に壊すだけが魔術じゃねえし」

「あんたが言うと一気に説得力なくなるけど」

 小さくうめいてから、コンスタンスは表情を笑みの形に切り替えた。

「まあ、ありがと。でも、いつもはこんなことしてくれないじゃない。どうして急に?」

「? おかしなことを言う奴だな」

 意味が分からない、という顔をしてオーフェンは肩をすくめて見せる。

「友達に手を貸すのに、別に理由はいらんだろ」

「オーフェン……」

 コンスタンスが呟く。小さすぎて、そこに込められた感情を察することができない。そんな声量である。
 まだ寒いのか、自身の身体を掻き抱く様に手を回しながら彼女は続けた。


「肌着がまだ濡れてて気持ち悪いんだけど」

「そんなもん俺にどうしろってんだ」

 厚手のスーツの下にまで熱を届かせるということになれば、どうしたって火傷するほど出力を高めるか、長時間魔術を維持するほかない。

 効果を長時間持続させる、ということに関して音声魔術は不向きなのだ。かといって、何回も魔術を使えば割に合わないほど疲労する。

 半眼で呻くオーフェンに、コンスタンスは通りの向こうを指さした。

「あっちの下着屋さんで、替えを買ってきてくれもいいわよ。オーフェンのお金で」

「分かった。2000度もあればきっと乾くよな?」

「……ま、まあ風邪は引かなくなったわよね。それが重要よ、うん」

 オーフェンの言葉に――というよりも、その右手に灯った火球に――コンスタンスはやや表情を青くして、発言を撤回した。

 追従するように、オーフェンも頷く。

「そういうこった。お前が風邪を引くと、やっぱり寂しいからな」

「ちょ、ちょっと。さっきからどうしたのよ、オーフェン。変なモノでも食べた?
 あ、きちんとした人間が食べるようなランチを摂取したせいね!?」

「おいおい、酷いな。俺はただ友人であるお前を心配してるだけだぜ?」

 朗らかに笑って、オーフェンはコンスタンスの肩を優しく叩いた。続ける。

「お前も苦労してるよな。頑張ってるのに、世間はそれを認めてくれない。分かるぜ。辛いよな、コギー」

「う、ううぅぅぅ。そうなのよ。部長はわたしを苛めるし、署員は憐れみの目でわたしを見てくるの。
 分かってくれるのね。わたし、別に好きで失敗ばっかりしてるわけじゃないの」

 何かが琴線に触れたらしい。涙を浮かべてそう言ってくるコンスタンスに、オーフェンは深々と頷いた。
 同時に肩を掴んでいる方とは逆の手を使って、さっきそこで貰ったポケットティッシュを引っ張り出す。

「ああ、お前はまったく悪くない。ほら、涙を拭けよ」

「うぅぅぅ、ありがとうオーフェン。わたし、あなたのこと誤解してたみたいね。
 人に迷惑をかけるしか能のないダメ人間達をビーカーに入れて一晩おいておいたら、
 その中でも一番底の方に沈殿してそーなクズの極みだと思ってたわ」

「はっはっは」

 笑うことで誤魔化して――大分乾いた笑いだったが――オーフェンは咄嗟の破壊衝動を無理やり飲み込んだ。
 破壊的な魔術の構成も、効果的に殴るための体重移動も今は忘れておく。


「それより、コギー。いま困ってること、あるよな? 主に金銭関係で」

「そうなの。あのむっつり詐欺師、何かあったらすぐに『減給だ』って!
 いまなんて減給に次ぐ減給で、学生の頃してたアルバイトとどっこいの手取りなのよ。酷いと思わない?」

「ああ、酷いな――そんな不条理に晒されているお前をサポートしてやるぞ。ここに一筆サインするだけでいいんだ」

 そう言ってオーフェンが取りだしたのは、新たに造っておいた借金の契約書である。先ほど宿で焼失したものと寸分の違いもない。

 コンスタンスは特に疑問に思わず、それを受け取った。書き換えなどがないことを確かめると、戸惑うようにこちらを見つめてくる。

「で、でも、本当にいいのオーフェン? こんな割合じゃ、大して儲けだってでないでしょうに」

「本当は利子なんて無くてももいいくらいだ。ああ、俺に十分な貯金があれば!
 許してくれ、コギー。俺にしてやれるのは、精々こんな友達利率で貸すことくらいさ。だからまずは、涙を止めよう。な?」

「うぅ、ありがとう、オーフェン。さっきは疑うようなこと言っちゃってごめんね」

「いや、だからいいから。まずは涙を拭けって――あ」

 目から溢れ、頬を伝い、顎の先にまで達したコンスタンスの涙は、当然のように重力作用に従い続けた――
 つまりは、彼女が受け取った借金の契約書の、余白の上に落ちた。
 
 紙が涙滴を吸い込み、円状の染みを作る。

 その染みの中に、じわりと奇妙な黒線が浮かんだ。

「? なにこれ」

「なんでもないぞ。いいから、ほら。サインをしよう、な?」

「……」

 こちらの態度に、なにか感じるものがあったらしい。

 コンスタンスが無言でポケットからハンカチを取り出す。魔術の熱が届かなかったのだろう。また絞れそうなほどに湿っていた。

 そのハンカチで、涙の痕を中心に契約書を擦る。濡れた質感に、新たな文字が浮かび上がってきた――『一か月後から利子は時価になります』。

「……」

「……」

 空気が凍りつく。

 信じがたいものを見る目つきで――まるで可愛がっていた愛犬が、
 殺人ポメラニアンだと判明したかのような目つきで――コンスタンスはオーフェンを見つめている。
 
 数秒、あるいは数十秒の空白を経て、オーフェンは溜息をついた。やれやれと頭を振り、ニヒルに唇の端を吊り上げる。

「いつクビになるか分かりゃしねえ無能警官に貸すんだから、このくらいのリスクマネジメントは当然だ――だろ?」

「何が当然なのよぉおおおおお!」

 コンスタンスは泣きながら警棒を振り上げ、オーフェンに殴りかかった。

◇◇◇

「……で、あんたここで何してたわけ? 夢がどーのこーの言ってたけど」

 と、コンスタンスが言ったのは、殴り合いが始まってから数分後のことだった。

 互いにある程度生傷を作って、どうにか落ち着いてきた頃の話である。あるいは、単に疲弊しただけかもしれないが。

 警棒で滅多打ちにされた右腕を擦りながら、オーフェンはうんざりとした口調で呟いた

「見りゃわかるだろ? 営業活動だよ」

「借金の営業……?」

 胡散臭いものでも見るような声音で繰り返してくるコンスタンスに、おう、とオーフェンは頷いて見せる。

「『モグリの金貸しでござい』なんて看板掲げてるわけじゃねえからな。地道に足で稼がねえと」

「その行動力を、どうしてもっとまじめなことに使えないのかしら……」

 首を傾げながらコンスタンスは呟いた。が、すぐに頭を元の位置に戻し、続ける。

「それで、虱潰しに融資しますって当たってるわけ?」

「んな効率の悪いことやってられっか。いいか――」

 オーフェンは出来の悪い生徒に教える教師のように、人差し指を一本立ててから説明する。

「俺が前回、福ダヌキを初めとした不良債権共に金を貸しちまった原因は、情報がなかったからだ」

「情報?」

「相手の人となりとか、財産の有無とかだな。まだこの街に来て日が浅かったから、右も左も分からんかったし。
 だが、あれからもう結構経つしな。ある程度は相手も絞り込めるってもんだ」

「で、あんたに目を付けられた不幸な人がここの人ってわけねー」

 そう言って、コンスタンスは目の前にある雑貨屋へ視線を向けた。全体的な外観を観察する。

 レンガ造りの小洒落た外観は、対象となる客層を意識したものだろう。
 外から見えるショーウィンドウに展示された商品も、ポプリやガラス細工など女性向けのものが多く見られる。

「確かに、流行りそうなお店ではあるけど……でも、それなら借金なんてしないんじゃない?」

「いや、それがな。最近、この辺りの店の客入りが落ちてるらしいんだよ」

 オーフェンは通りを手で示した。昼下がり――というにはやや下がりすぎた感もあるが、まだまだ空は青い。
 だというのに、人通りはやや少なく見える。言われてみればという程度で、まだはっきりと減退の兆候が出ているわけではなさそうだが。

「なら金を借りたい奴もいるんじゃないかと思ってな。ここは立地もいいし、まさか夜逃げなんざ――
 ――って、なんだよその目は」

 オーフェンの演説を遮ったのは、コンスタンスのじっとりとした視線だった。

 彼女はゆっくりとオーフェンの足元を指さしてくる。
 オーフェンもつられて見るが、何も特別なものはない。ただの石畳があるだけだが。


「あんだよ?」

「あんたの足元、他の場所と比べて新しいと思わない?」

 言われてみれば、とオーフェンは頷いた。

 丁度、オーフェンが立っている場所を中心とした円状に、石畳の色合いが違っている。
 周りにある大勢の靴底で均されたものとは違い、どこかけばりが残っていた。 

 よく見れば、周囲には似たような痕跡がいくつもある。オーフェンはそれらを眺めてから、ぽつりと呟いた。

「大規模な地質調査でもしたのか?」

「あんたが魔術で爆破した痕でしょーが! 何がお客さんが少なくなってる、よ!
 地上げ屋より性質が悪いわ! 思いっきりマッチポンプじゃない!」

「いやでも、だったら一言くらい言ってくれれば」

「ぽんぽん破壊光線出して人を吹っ飛ばしてるようなチンピラに、
 "あんたが出て行ってくれた方がよっぽど夢の達成に近づける"なんて言えるわけないでしょお!?」

 絶叫するコンスタンスを、何とか取り成そうとオーフェンが両手をあげる、と――

「うわーはははは! 噂を聞いたぞ極悪借金取り! 貴様、金を貸す相手を探しているそーではないか!
 地べたを這いずり俺様の靴を舐めつつ懇願してみれば、この究極英雄様が借りてやらんことも――」

「我は放つ光の白刃!」

 背後から聞こえた声に、オーフェンは振り向きもしなかった。ほぼ反射的に構成を編み上げ、魔術で爆撃する。

 轟音と振動、光と熱。そんなものの混合が収まった後には、破壊されつくした石畳だけが残されていた。
 それ以外にはなにもない。空の彼方に、何か人影の様なものが遠ざかっていくのが見えたような気もしたが。

 オーフェンはそれを確認すると、改めてコンスタンスに向き直った。何の気なしに欠伸などしつつ、訊ねる。

「――で、なんの話だったっけ?」

「……いや、もういいわ……無駄そうだし」

 肩を落としたコンスタンスは、疲れた声音でそう呟くのだった。

◇◇◇

 トトカンタには港がある――と言っても、トトカンタ市自体が海に面しているというわけではない。

 海まで続く運河に即して造られた河川港である。規模は大きく、大陸外部を周回する蒸気船が入ってこれるほどだ。

 そういうわけで、今日もトトカンタ港は賑わっていた。
 定期便に乗ろうとする人間、降りようとする人間、荷揚げの水夫に、彼らの財布を狙う串焼きの屋台。

 そんなものがひしめき合っているこの場所は、"商都"と呼ばれるこの街の特色を端的に表しているともいえるのだろう。

「で、こんな場所になんの用なの?」

 その辺で買ってきたらしいじゃがバターなど頬張りつつ、コンスタンスが聞いてくる。

 オーフェンとコンスタンスは、船着き場よりも一段高くなっている堤防の上に立っていた。
 あれから爆砕した石畳を魔術で修復し、逃げるように歩いてきた先がここだったのだが。

 十数メートルほど先の船着き場では、ちょうど港に入ってきた商船が荷卸しを始めている。
 その光景を見つめながら、オーフェンは言った。

「いや、だから金貸しの相手を探しに来たんだってば」

「オーフェンってば、まだ諦めてなかったわけ? いーい? 人生は諦めも肝心よ。
 オーフェンの場合、お金を儲けるってことに関してはもうほんと完全に望みを捨てた方が良いわよ」

「言ってやがれ」

 吐き捨てるように鼻を鳴らして、オーフェンはコンスタンスが手にしている紙皿の上から茹でた芋を取り上げた。口に放り込む。

「あー! 何すんのよオーフェン! ただでさえ今月は厳しいのに!」

「なら屋台なんかで買うなよ。節約しろ、節約」

「だって屋台の食べ物ってなんか美味しそーに見えるじゃない!
 だから買っちゃってもしょうがないけどお金はないし小腹は減るしでしょうがないじゃない! 分かるでしょ!?」

「さっぱり分からん」

 首を傾げつつ、咀嚼を終え炭水化物の塊を飲み下す。
 空になった紙皿の向こうから恨めしげにこちらを見つめてくるコンスタンスに、オーフェンは明後日の方を向いて呟いた

「腹が減っては戦は出来んと言うだろーが」

「そんなの関係ないでしょ誤魔化さないで新しいの買ってきて――戦?」

 聞きとがめたのか、コンスタンスはきょとんとその一語を繰り返した。そしてすぐに半眼になって言ってくる。

「あんたもしかして、今度は船を沈めて、その持ち主にお金を貸そうとか思ってる?」

「……お前が俺のことをどう思ってるのかはよーく分かった」

 呻いてから、オーフェンは船着き場を手で示した。

 停まっているのは大型の蒸気船である。いまは燃料の補給と、運んできた荷物の確認が並行して行われているらしかった。


「そーじゃなくてだな。蒸気船を商いに使える奴なんざ、商売人の中でも一握りだろ。
 この街の連中は、どうやら不幸な行き違いから俺のことをちょっと乱暴な魔術士だと勘違いしてるようで金を借りようとしないからな。
 もう街の外からやってきた、それも信用できそうな奴に貸すしかねえ」

「ちょっと乱暴っていうか、テロリスト一歩手前って感じよねー……」

 コンスタンスは空の紙皿を匙で叩きながらぼそりと呟いた。さらに続けてくる。

「でもオーフェン。それこそ、そんなきちんとした商人ならモグリの金貸しなんかからお金借りないでしょ」

「そこはまあ、上手くやるしかねえな。利率を低くして、向こうに有利な取引にするとか」

「……行き当たりばったりねー。そのお金で履歴書でも買って地道に就職活動した方がましだと思うわ」

「るっせえな――おっ、あれなんかいいんじゃないか?」

 そう言ってオーフェンが指さしたのは、商人の一団の中でも一際若い青年だった。
 オーフェンと同じか、あるいは少し下といったところだろう。それなのに水夫に指示を出す姿は、なかなか堂に入っている。

「将来有望そうだし、あの若さなら色々展望もあるだろ。金を必要としてるかもしれん」

「その将来有望そうな青年の未来に、早速いま暗雲が垂れ込めたわけだけど……」

「何を言ってるか分からんが、善は急げっていうしな。お前はここに居ろよ。来られても邪魔だ」

「なによそれー」

 口を尖らせるコンスタンスを置いて、オーフェンは堤防から飛び降りた。
 危なげなく着地して、つかつかと青年の方に近づいていく。

(大切なのは第一印象……)

 胸中で呟いて、オーフェンはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 襟を整えて――整えたところで革ジャケットがスーツになるわけでもないが、気持ちの問題だ――歩みを進めていく。

 あと数メートルというところで、青年は近づいてくる黒ずくめの男の存在に気付いたらしい。
 荷物のリストらしいものを片手に、オーフェンの方へ視線を向けてくる。

 それを契機として、オーフェンも立ち止まった。笑みを更に深めながら、極めて紳士的な態度で礼を送る。

「初めまして。少々、お時間よろしいですか?」


 青年の反応は劇的だった。

「う、うわあああああああああ!」

「……」

 恐怖の――間違いなくそれだけの感情が込められた雄叫びに、オーフェンは言葉を失った。

 顔を真っ青にして全身を震わせながら、青年は大音声を張り上げ続ける。

「もう嫌だもう嫌だ真面目に弁当箱の行商からはじめてやっと自分の船まで持てるようになったっていうのになんでこんな
 ヤクザに目を付けられたもうおしまいだ内臓を売るしかないんだそんなのやだひぃぃぃぃぃいい!」

「いや、あの」

「ごめんなさいごめんなさいでも勘弁してください家には幼い妹がいるんです内臓は必要なんです呼吸を続けたいんですぎゃあああ!」

「話を聞いてくれ、別に俺はあんたの」

「ひぃいいいいいいい!」

「だから」

「ひぃいいいいいいい!」

 どうやら会話は無理らしい。

 その場に突っ伏してただ悲鳴を上げ続けるだけになってしまった青年から目をそむけ、オーフェンは周囲を見渡した。

 何かを期待したわけではない。この状況を都合よく解決してくれるものを望んだわけでは決してない。

 けれども、周囲の商人たちまでもが一斉にこちらから遠ざかっていくことなど予想していなかった。

「あの……」

 何とはなしに、その内のひとりに手を伸ばす。
 髭を蓄えた好々爺としたその商人は、汚らしいものでも見る目で唾を吐き捨て、あからさまにオーフェンに背を向けた。

 いうまでもないが、彼らとは初対面の筈である――まさか出入りの商人にまで、自分の話が伝わっているということもあるまい。

 では、この状況が意味することは何なのか。

「ねえ、オーフェン」

 静寂の中心で、唯一声をかけてきたのはコンスタンスだった。パンプスだったので、遠回りして階段から降りてきたらしい。

 オーフェンは振り向かずに、うっそりとした声だけを背後に飛ばした。

「……なんだ」

「あなた、やっぱりこの仕事向いてないんじゃないかしら」

 そんな彼女の言葉に、いろいろと言いたいことはあったが。

「……そーかも」

 肩にのしかかる疲労感に、オーフェンが返せたのはそんな一語だけだった。

 後日談ではあるが。

 結局借り手はつかず、金貨は全て元本の返済に充てられることになり、利息分、オーフェンの借金が増えただけに終わったという……

終わり。オチを付けるのが難し過ぎる。
依頼出してきます

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