夏目漱石「虞美人(ルラムーン)草」 (697)

        一

「随分狭いね。元来どうやって出るのだ」
と一人がぼろきれで額を拭きながら立ち留まった。
「どうするか俺にも判然せんがね。とりあえず外に出られれば、同じ事だ。ここは辺獄のようなものだから」
と顔も体躯も汚れて煤けた緑髪の男が無雑作に答えた。
 意を決した顔三つの前には、猛々しい流れに形成さる河川とその先に峨々としてそびえる絶壁が武者の如く立ちはだかっていた。


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・夏目漱石風
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 頭に紫色のターバンを乗せた男が振り向く。そこには不安を隠せないでいながらも三人を決然たらしめんと表情を堅くして、前を見つめる鎧を着た男がいる。
 川を見つめていた緑髪の男が嘲弄気味に口を開いた。
「あの滝を下るのかね」
「そうだ」
「樽に詰まってかい」
「そうだ」
「なるほど、こりゃあ結構な妙案だ」
 緑髪が恨めしそうに呟く。方や鎧を着た男は毫も気にかけていない。

 鎧が、紫のターバンを巻いた男に袋を手渡した。
「これに君たちの元の荷物を詰めてあるから、脱出した折に使うが好い」
「そんなものが保管されてたんですか」
「金や薬草なんかは没収されているが、衣類や杖はどこぞの倉庫に転がっていた。探し出せたのは偶然であるから幸運を喜べ」
「何から何までありがとうございます」
 紫ターバンは頭を下げた。鎧は「それだって妹の為だから、貴様らはついでだ」と素っ気ないが、感謝されて悪い気はしていないと見える。

 鎧は、ぼろをまとった女を向いた。
「マリア、元気でな」
「ヨシュア兄さんも、体に気をつけて」
 呼ばれた妹が振り返る。鎧はついさっきまで険しかった表情を少し緩めた。

「無事を祈っているぞ」
「これでついぞ無事で済めば好いがね」
「なに布を詰めておいたから衝撃はさほどでもない」
「呼吸は全体どうするんです。孔でも開けますか」
「そんなことをしたら水が漏れてしまう。空気は樽にあるだけさ」
「それじゃあ途端に窒息してしまいます。岸へ着いたって他の樽と中身が同じじゃあ仕様がない」
「では滝を下った時分を見計らって開けるが好い。孔が天を向けば水も這入るまい」
「滝を下るんじゃなく落ちるんだろう」
「どちらでもよろしい。早くしないと監視が来るぞ」
 男が急かせばようやくお三方も重い腰を上げて狭い樽の中へ入る。上から男が蓋をして樽をどぼんと激流へ転げ落とす。

 外からくそ、俺も出しやがれと叫ぶ哀れな奴隷男の声が聞こえるが知ったことではない。
 やがて、人に華厳の滝と揶揄された絶壁が生きた樽を飲み込んだ。

 目覚めれば波の音が耳をくすぐった。体は柔らかい布を敷いて寝ている。
 見回すと辺りは剥き出しの岩肌ではなくれっきとした建造物である。部屋は古いが手入れが行き届いていて品がある。
 漆喰の壁と十字架の装飾から察するに教会か修道院だろう。その証拠に扉から青い修道服を着た女がやってくる。

 女は部屋に入るなりまあ、お目覚めにと何やら喜んでいる。
 ここはと訊くと海辺の修道院ですと云うのでそれは分かっているから地理的に云えば何処だと訊いてやっとここがオラクルベリーとか云う町の南西に位置することが分かった。
 オラクルベリーと云えば昔旅をしていた頃に寄ったことがあるが、サンタローズに負けず劣らず田舎の村である。
 妙なところに修道院なんか建てるなと思っていると、体に着ているものがさっきと違う。
 六の年に着ていたものと同一かと思うと目の前の修道女が顔を赤くしている。
 何でもこの女が着替えさせてくれたらしいが、よくも寝ているこの体を持ち上げて脱がしたり着せたりできたものだ。見た目に寄らず豪腕かも知れぬ。

 随分寝たままと見えて体中ががたぴし云っているから、ぶんぶん腕を回して解していると、ヘンリーが部屋にやってきた。
 彼の荷物は子供の背丈の服しかなかったので、着ているものは未だに奴隷服だ。
 ヘンリーがお前は何故子供の頃の服を着られると驚いているのでこれは服と云うより布の束だから如何様にも変幻自在なのだと説明をするとふうんと感心している。
 何用だと訊くとマリアが洗礼を受けるから見に来いよと誘う。
 マリアとは一緒に樽に詰められたあの奴隷女に違いないが、全体どんな紆余曲折を経て神の洗礼を受ける事となったかとんと見当がつかぬ。
 私がぽかんとしているとまあ、五日も眠りこけていたお前には少し解せんだろうがと云うので驚いた。
 華厳の滝から流れ落ちた際、滝と海面の高低差による着水時の甚だしい衝撃で私はぐうと云う暇もなく気を失ってしまったのだが、それで五日である。
 一方でヘンリーとマリアは岸に流れ着くや快活に脱出したというからその脅威的な生命力に恐れ入った。

 とまれ生きているだけで上々と洗礼に出席すると、見知らぬ女が跪いている。
 それがルビー色の御酒を振りかけられ、修道女から祈りを賜ると、どうやら洗礼式は恙なく終わったらしい。
 もう少し早ければマリアの洗礼も見られたのにな、と残念がっているとヘンリーが今洗礼を受けていたのがマリアだぞと不思議そうな顔をする。
 今の綺麗な髪と格好をした女がかと改めて訊くと然り、と頷いている。
 さっき――実際は五日だが――までの哀れそうだった印象とはまるでかけ離れた清廉さには度肝を抜かれた。容態も綺麗だが、第一髪の色が違う。
 汚れを落として元の髪色に戻ったんだろう。喜ばしいことだが、彼女の兄にこの晴れ姿を見せてやれないのが少し惜しかった。

 洗礼を終えたマリアがこちらに気づいた。
「お目覚めになられましたのね。体の方は如何ですか」
「ええ。おかげさまで好調です」
「それは結構ですわ。けれども大事を取ってしばらくお休みになってくださいな」
「そうしたいのは山々ですが、私はあすこを出たらやりたいと思っていた事が幾つかありまして。世話になって早々申し訳ないのですが、すぐに立ち退かせてもらいますよ」
「まあ。それはお母様のことですか」
「ええそうですが――失礼ながら何故それを?」
「あなたがお眠りになっている間に、ヘンリー様からお伺いしたのですわ」

「なるほど。では彼の生い立ちも?」
「はい。元は一国の王子だったとか」
「驚きましたか」
「それには驚かされましたが、一番驚いたのはあなたのお父様のことですわ」
「父のことも聞いたんですか」
「ええ。随分気の毒ですわ……あなたも今までよく堪え忍んでらしたのね」
 そう云って彼女は憐れんだ。
 神殿にいた頃も過去を話しては大勢から可哀相可哀相と云われていたので、慰めや哀れみの言葉には飽き々々していたが、いざこの美貌人に向かい合ってみれば存外悪い気はしない。
 私は頬の紅潮を隠したくなった。

 それにしても、ヘンリーの奴はとうとうしまいまで話してしまったらしい。
 それも私が寝ている間に彼女と交流を深めていたそうだから油断ができない。
 人の預かり知らぬところでその人の秘密を打ち明けてしまうのは何も親切心や退屈凌ぎだけが理由ではなかろう。
 マリアに好意を持ったのは彼も同じと云うことだ。
 そうなるとヘンリーはそれなりに美男子で口が回るから、女にはさぞやもてることだろう。更に云えば一国の第一王子だから将来安泰の玉の輿である。
 到底私にとって不利な戦いだが、そもそもの経緯で云えば私ごとき小市民が勝てる相手ではない。なんだか途端に奴が羨ましくなった。

 修道女の面々に挨拶をしていると数年前にお嬢様が花嫁修業としてここに来ていたという話を聞いた。
 その某も潔白な人柄で人に好かれていたようだからこの修道院は人に恵まれている。
 容貌について尋ねると、青い髪の乙女と答えるのを聞いて何かが私の琴線に触れた気がしたが、ついぞその正体は掴めなかった。

 出立の前に一つ祈りでも捧げておくかと祭壇の前で手を合わせる。
 祈る神も居ないがね、と自嘲すれば十年前の父と共に祈った日が思い起こされた。
 あの時はただ父と旅をしているという認識だけが泰然とあって、将来や目的と云ったものをしばらく見ない生活であった。
 それが突然、十年もの間、謂われなく自由を奪われ馬車馬の如く働かされ、家畜の如く扱われた。
 時間の重みに潰され、反駁すらやがて諦観へと変わりゆく刹那、マリアの兄ヨシュアに脱獄を持ちかけられたのだった。
 そうして成功し、無事五体満足となってここに立っている。

 しかし私は分からなかった。全体これからどうすればよいのか。
 母を捜すと一口に云っても手がかりらしい手がかりは微塵もない。
 何しろ母についてはマーサという名前だけで他は何も知らない。人柄も、顔すらも。
 当てもなしに人を捜すのなんて砂漠に落ちた針を探すようなものだ。ともすると一生かかっても見つからないかもしれない。
 そして人から指図を受けず自らの頭で動く。これもしばらくぶりのような、あるいは初めての経験ような心持ちがした。

 私はこれからどう生きるのか。
 理不尽と束縛に馴れた体が、有り余る莫大な自由を手にして途方に暮れている。

 不安を残しながらも祈りを終えた私はそろそろと祭壇を後にした。
 そうして身を翻した時、目の前に一人の修道女がいた。
 まだ挨拶を済ませていないらしき者だったので、お世話になりましたと頭を下げると修道女はにこりと笑みを見せる。
 私の顔を見た彼女はその時、下のようなことを云った。

「お話は聞いています。十年以上も奴隷として働き、やっと自由の身になったとか。
 あなたはもう誰からも命令されないでしょう。
 父上も亡くなられた今、何処へ行き何をするか、これからは全て自分で考えなくてはなりません。
 しかし負けないでくださいね。それが生きるということなのですから」

 私は修道女に礼を云って聖堂を去った。
 ヘンリーを連れて修道院を離れる。マリアはここに残るそうだ。

 私の胸中では祭壇の修道女の言葉が幾度も木霊していた。
 これから歩む道を自分で考え、切り開いて行く。
 それが生きるという事だとしたら。――私は父の遺言を完遂しなければなるまい。



少し休みます

今のところ書き溜めは青年期前半の前半(ニセたいこう撃破後)まであるので、
そこまではガンガン投稿できるかと思います
そこからは少し期間を置いて、またこのスレに投下して行きます

若干オリ描写が入るので、不明な点があればどうぞ気兼ねなくお問い合わせください

        二

 外でヘンリーに君はどうすると訊くと、どうせラインハットに戻っても迷惑を掛けるだろうから、当分はおまえの旅に付き合うと云ってくれた。
 しかし挨拶くらいでもと云ったが、いや、それこそ騒ぎが起きて大変だからそれもよそうと返ってきた。
 それに、おれのこの十年はおまえの人生を埋め合わせるためにあった。到底全部を取り返すことはできないだろうが、せめてでもおまえの手助けがしたいんだ、と。
 あくまで私の不幸を一緒くたになって背負い込む腹積もりらしい。未だに負い目を感じているのはしかし未練がましい気もする。
 ただ、彼の申告は素直に嬉しかった。旅に限らず何につけ、気心の知れた友と行動を共にするのが一番だ。

 北西へ進むと久しく見ない繁華街がある。
 それも住居や教会や宿屋よりカジノがこの町で最大の建物だから驚いた。
 遠い記憶に寄ればここは寂れた村だったはずだが、と町民に訊くと、何でもこの付近に橋が架かって人の往来が甚だしくなって、それで栄えたという。
 サンタローズやラインハットもここみたように栄えていたら愉快だなとヘンリーと笑いあった。
 何せここも元は田舎だったからあながち可能性がないとも言い切れない。
 しかしもしそうなると少し淋しいかもしれない。故郷は昔見たまま変わらないでいる方が好いに極まっている。

 町の端に妙な階段があるので下ってみると、獣臭い老人が檻のある穴蔵に住んでいた。
 こんなところに住み着くとはただ者ではない。何者か尋ねると「なに、この有名なモンスターじいさんを知らんじゃと?」と不思議そうな顔をするが、知らんものは知らん。
 どうやらカジノの魔物闘技場の選手の斡旋をしているようだが、異様にこちらの目を覗き込んでくる。
 何ですかと憮然として訊けばお主は不思議な目をしておるなと詐欺師みたような文句を云う。

 はあ、と返せば、お主ならモンスターを改心させられるかも知れぬと云うので驚いた。
 モンスターが改心すればどうなりますかと訊くと、人間側に寝返って、改心させてくれた者に一生ついて行くと云う。
 それは奴隷としてですかと訊くとそうとでも扱えるし、信頼関係を築くことも、友となることもできると云った。
 何だか不思議な話だが強力な魔物が味方に付いてくれるのは嬉しい。
 どうすれば懐柔できますかと訊くと、なんとまずは馬車がないと始まらんらしい。
 馬車がないと魔物が馴れよって来ないかのような云いぶりだが、まさかそんな訳があるまい。
 魔物が馬車で人か否かを判別している訳でもないだろう。第一手ぶらの私についてきたゲレゲレはどうなる。全くこの爺さんは初心得物と思って馬鹿にしている。

 ヘンリーは魔物を連れて歩けるなんて凄いじゃないかとわくわくしているが、私はとうの昔に地獄の殺し屋と称されるキラーパンサーを従えていたのだから今更驚きようもない。
 話半分で切り上げて穴蔵を見回すと、およそこの場に似つかわしくないであろう破廉恥な格好の女が居る。
 バニーガールとかいうらしいが、この爺さんはこれを助手にしているから余程助平である。しかしどうも獣臭いバニーだったので別段羨ましくはなかった。
 破廉恥な助手が云うには魔物にはそれぞれ頭の良し悪しがあって、賢い者は指示を漏らさず実行してくれるが、馬鹿な者は猪突猛進したり後先考えず呪文をぶっ放したりとてんで云うことを訊かないらしい。
 ゲレゲレが禄に云うことを聞かず勝手に飛んだり跳ねたりしていたのもこれが原因のようだ。
 できることなら、仲間に迷惑のかからん賢い魔物に慕ってほしいものだ。

 穴蔵を出ると看板があって、オラクル屋とかいう店で面白いものを売っているらしい。
 それも特別なもので、かなり珍しく、夜にしか売っていないむふふな品だそうだ。
 ヘンリーが夜のむふふと聞いてもしや、と顔をへらへらにやつかせているが、どうせ商売戦略だから大したものではあるまい。
 店を訪ねてみると、生きているか死んでいるか分からないがホイミスライムが三つ連なった不気味な暖簾が目についた。絶妙に趣味が悪いが、当の店の方は閉まっている。
 もう店じまいかと思うと住人がそこは夜にしか開いてないよと云う。
 私は大いに鼻白んだ。そりゃあ夜にしか開いていなければ品物は全て夜にしか売れまい。
 何がむふふだ。全く人を馬鹿にしている。大体「Oracle」なぞと横文字の名を使っている時点でいけすかない。珍品屋ならもっとそれらしい屋号を付けるもんだ。

 オラクルベリーと云う町は城のないただの繁華街のくせに牢がある。
 牢に色々と縁のある我々は苦い顔をしたが、逆にこんな辺鄙な牢に入れられる阿呆の顔が見たくなった。
 そうして中を覗き込んだ時、我々は二人して飛び上がった。
 何と、十年前の遺跡でヘンリーを光の教団に売り飛ばした酩酊野郎が牢に入っている。

 私は般若の如き形相で貴様。なぜ生きているのだ。と怒鳴り散らして鉄格子につかみかかると、中の囚人はまた酩酊しているわけでもないのに派手にひっくり返った。
 ヘンリーもしばらく見ない凶悪な顔で奴を睨んでいたから殺意に囲まれた囚人はひいいと情けない声を上げる。
 我々が光の教団に攫われたのも、父が下魔にやられたのも元を質せばそれを呼んだこ奴らが元凶である。
 ここで会ったが百年目、と二人がかりで牢を破って囚人をたこ殴りにしてやった。
 すると見張りの兵士に貴様らも豚箱に入りたいのかと引き留められたので好い加減に止めた。
 しかしどっちが顔でどっちが後頭部か分からん位に滅茶滅茶にしてやったので気分は好い。ヘンリーも引っ張られる直前に睾丸を踏みつぶしてやったと云うので偉いと肩を叩いた。
 連中は確か三人いたのでこれがあと二度ほどあるかと思うと少し楽しみである。

 町を歩いていると曲がり角で子供にぶつかった。
 これはすまないと謝ると、うん。おじちゃんも大丈夫かい、と心配し返してくる。私は少しくむっと来たが、堪えて、ああ、大丈夫さと答えてやると子供は走り去った。
 ヘンリーがお前ももうおじちゃんかあとくすくすやっているので君も同い年だろうと小突いてやった。
 すると先の子供が母親らしき人物と接触をした。
 喜びにあふれた顔で何やら自慢でもしているのか、母親はうんうんと頷いて、二人は手を繋いで去っていった。
 私はその様子を呆然と眺めていた。
 ヘンリーが行こうぜ、と云う。私はおう、と返事をして歩き出す。
 脳裏にはポワンと母の幻影が揺らいでいた。

 町の人間の話に拠ればどうも最近町や城がよくうらぶれているらしい。魔物の勢力が活発化している兆候だろうか。それでどこぞの城も暗黒期に突入しているらしい。
 ヘンリーはよもやラインハットではあるまいな、と心配そうな気色を見せたが、まあいずれにせよ俺には関係ないか、となかなか淋しいことを云う。
 しかし無理もない。十年も行方不明となっていた王子が彼らに歓迎される保証もないだろうし、第一この十年で我々は諦観に身を慣らしすぎた。
 彼が望郷の想いをこの歳月で深く沈めていたことは想像に難くない。

 武器屋でヘンリーがこれが欲しいと云って少ない資金を贅沢に使いやがる。それもやいばのブーメランとか云う危険極まる一品で、到底常人の扱う代物ではない。
 外に出てヘンリーの慣熟を眺めていると、奴め油断して頭部にさっくり己の武器を突き立ててしまった。
 車付きの棺桶に納めて急いで教会に向かうと神父がやはり金銭を要求してくる。
 昔のように有り金を放り投げてしまいたかったが、今は分別が付いたので幾らがよろしいかと尋ねるとなんと十ゴールドで済んだ。
 大の大人を瀕死から蘇らせるのに十ゴールドなら昔の肋骨に対するベホマだってそれ以下に極まっている。昔の短気を少し惜しんだ。
 先の如くやいばのブーメランを彼が使いこなせないことが判明したので、改めてチェーンクロスを買う羽目になった。おかげで私の武器は依然かしのつえである。
 気がつくと日が傾いている。カジノのネオンサインが無駄に煌々としていて目に痛い。

 神聖なる教会のすぐ隣で占いババとかいう婆さんが臆面もなく占いをやっている。
 それも傍を通ればこちらを睨めつけて勝手に占いやがるから閉口した。
 金をせびられると面倒だぞと心配すると、なんと男前だからという個人的趣味ここに極まる理由で無料にしてくれた。商売はどうした。
 しかし内容はこの世に暗黒が訪れんとしていると公然の事実を喚き立てるからやっていられない。
 適当に聞き流すと隣のヘンリーが苦い顔をしているので、どうしたと訊くと俺の義理のお袋がこういったものに傾倒していて不気味だったそうだ。
 もしかするとデールへの偏愛とヘンリーへの冷淡もそれが原因かもしれぬな、とひとりごちていると脇の占いババが待て、まだあるぞと何やらしつこい。
 いい加減日が沈むので無視を決め込もうとすると、お主は今、大事な人を捜しておるなと云う声が聞こえた。

 何故それを知っている。と凄むとなに、女の勘じゃよと年を食っているだけあって中々ふてぶてしい。
 安心せい、その女は生きておると性別まで当てて見せたので薄ら恐くなった。まずは北へ行け、そこにお主と近しい誰かの痕跡があると云う。
 それは私が捜している人のものかと訊くといや、そうではないがお主と大変近しい者じゃ。親か兄弟か、ともかくそやつの手掛かりはある。それを辿ればお主の捜す女に近づけるじゃろう。と云ってほっほっほとしわがれ声で笑う。
 私は気分を好くしてありがとう、婆さんと挨拶をするとなに、お主の男前の顔が見られるならいつでも占ってしんぜようと笑う。
 私もさっきまで占いなぞ信じる奴が馬鹿だと思っていたが、彼女の云うことだけは当たってほしいと切に願った。

 ヘンリーが念のため俺の顔はどうだ、男前かと訊くと婆さんはお主はどうでもいい。むしろ女々しいから好かんと途端にぶっきら棒になるので吹き出してしまった。
 元来そのうざったい長髪をどうにかしろとヘンリーに捲し立てると、ヘンリーはこいつだって長髪じゃないかと私に矛先を向ける。
 婆さんは猫なで声で、お主は顔がすこぶる好いからいいんじゃよとやはり趣味本位で商売をしている。
 ヘンリーが憤然として先へ進むので追いかけた。
 婆さんに好かれんでも、若い女に好かれれば十分であるのに贅沢な奴だ。

 夜になったばかりで少し暇があるから腹ごしらえに酒場に寄る。
 頼む酒が思いつかないのでとりあえずミルクでも貰おうか、と頼むとヘンリーがおいおい、それはないぜと嗤う。
 では貴様は飲めるのかと訊くと、昔王城でワインを少々、と威張りくさっているので店員に一番きついものを頼んでやった。
 ヘンリーが喉を焼いていると、隣の爺さんがここの飯は不味い不味いとぼそぼそやっている。
 どの品が不味いんですかな、と訊くとここのメニュー一体全く以て不味いと文句を垂れる。だったら何故そんな不満げな店にやってくるのか理解に苦しむ。

 しかしそう頑なに否定されると逆に興味が湧く。爺さんと同じものを頼んで、食ってみると案外悪くない味だ。
 私が健啖にかき込んでいると、爺さんが「こんな不味いものを美味しそうに食うとは余程酷いものしか食えなかったんじゃろう可哀想に」などと我々ならともかく他の人間に対してであれば無礼極まりない発言をする。
 土くれや残飯に比べれば御馳走ですよと云ってやると彼は非常に憐憫そうな目つきをするので少し後悔した。不幸自慢は誰も得をしない。
 すると爺さんはそうじゃな、飯が食えるだけでも万々歳じゃわいと私を真似てかき込む。
 いいぞ、爺さん、と囃し立てると喉につっかえて窒息しそうになっている。どうもここの飯は人を殺す能力があるようだ。もし我々が奴隷出身でなければ恐らく死んでいただろう。

 腹も膨れたところでオラクル屋に寄ってみると、妖精の村で見たようなドワーフが待ち受けていた。
 よくよく見るとドワーフでない、ただの髭の濃い小男である。
 ヘンリーがここの特別な品とは全体何かね、と鼻息を荒くしているが、全体その品とは馬車であった。
 それも三千ゴールドの所を獣の臭いが取れないのとガタが来ているという理由で十分の一にまで負けてもらった。
 要は中古品である。それでも貧乏所帯には大変ありがたいので即払いで買った。煩悩を空転させたヘンリーが虚ろな顔をしているが、知ったことではない。

 馬車を手に入れたのでモンスター爺さんを訪ねると、獣臭いベッドでバニーの助手が寝ている。
 それも「かしこさのある魔物はむにゃむにゃ」と唸っているには驚いた。遊び人のなりをしている癖にやに仕事熱心だ。
 爺さんになぜ馬車がないと魔物は擦り寄ってこんのですと訊いたら、知らん。と無愛想にもほどがある。
 ありゃ嘘じゃ。馬車もないのにぞろぞろと魔物を町に入れ込む不逞な輩がいるからそれを防止するために嘘を吐いたんじゃと悪びれない。
 もっとも爺さんの云うことも一理あるので黙って納得しておいた。

 さて宿にでも泊まろうかと思うと、ヘンリーがせっかくだからあすこへ行って見ようぜとさっきからチカチカと煩わしい建物を指す。
 私は賭事が好きなわけでもないのでいや、よそうと遠慮しておいた。するとヘンリーが意地の悪い顔をする。
「お前は案外臆病だな」
 失敬な云い方に私は目を剥いた。
「全体どこが臆病なんだ」
「賭けで勝てる気概がないのだろう」
「まさか。勝てるが単に好かんからやらんのだ」
「勝てるのなら余計やるだろう。負けるからやらんのだろう。嘘吐きだなお前は」
「誰が嘘吐きなものか。きっと勝てるさ」
「云ったね。もし負けたりしたらみっともないぜ」
「いいだろう。見ているが好い。大いに勝って見せるから」
 はたしてカジノへ足を運ぶことにした。

 カジノの内装は煌びやかというよりひたすら派手ですこぶる目に悪い。
 しかし盛況なようで活気にあふれている。
 景品所を覗いてみると、なんとエルフののみぐすりだのせかいじゅのはだのといった伝説級の品物を在庫にして持っているから恐ろしい。
 ただし値段に換算すればかたや六千ゴールド、かたや二万ゴールドとそれなりに適正価格だ。
 一番高い品物は緑色のガムだかゴムだか知れないが、鞭如きがコイン二十五万枚、つまり五百万ゴールドである。ひょっとしたらラインハットの国家予算に匹敵するかもしれない。
 全体どんな代物か見てみると、三本の鞭が一つになった非常に扱いにくそうな形状をしている。
 やいばのブーメランと云いこいつと云い、この世界の武器屋はきっと気狂いに相違ない。

 私は二百ゴールドで買ったコイン十枚を握りしめて闘技場へ向かった。
 ヘンリーがそんなちっぽけで行く気かと驚くが、貧乏だからこれぐらいしか買えない。大体誰のせいで貧乏になったと思っているのか。
 モンスターの名簿が並べられ、どれが生き残るかに賭けて、当たれば倍率の分だけ貰えるらしい。
 スライムやせみもぐらなぞは生き残る確率が低いから倍率が高く、グリーンワームは周りの連中より幾分強いから倍率が低い。
 私は大人しく倍率の低いグリーンワームに十枚を賭けた。
 ヘンリーがそれで勝っても少ないぜと云うがこれで好いのだとねじ伏せた。

 はたして予想通りグリーンワームが生き残った。
 後はこれみたように実力が歴然としている闘いに賭けていれば好い。
 実力が伯仲しているものは予想のしようがないから降りる。儲けは少ないが、確実に勝てる分損害がないから溜まっていく一方である。
 それを続けているとヘンリーはせこい勝ち方だなと目を眇める。
 黙れ。そもそも双方合意して正々堂々と賭けるんならまだしも、カジノなんぞ相手の土俵で戦うのは馬鹿のやることだ。必勝打たずして大博打など狂乱事である。
 そう噛みついてやったら大人しくなった。近頃子分としての立場が分かっていないようだから再教育が必要かしらん。

 攻め時と引き際さえ弁えていれば恐れることはない。
 無事に元の百倍の一千枚まで増やしてヘンリーに見せびらかしてやった。
 ヘンリーがお前って意外と利口屋なんだなと云うので、どういう意味だと問うとてっきり猪突猛進して行くものとばかり思っていたらしい。
 確かに私は無鉄砲で向こう見ずな所はあるが、愚かに邁進して滅びるほど馬鹿ではない。
 堅実に守り、退くべき所で退き、機を逃さず大胆に行動を起こせば百戦危うからず。
 そう訓示を垂れてやるとほへーと王子らしからぬ顔をする。
 俺、今までお前のこと見くびってたよ、やっぱり偉いんだなと見逸れているので今更気づいたかと胸を張ってやった。

 とはいえ大勝がないから時間の消費は甚だしく、気づけば夜も更けていた。
 どうせ欲しい景品もないので適当にせかいじゅのはをコイン一千枚で交換しておいた。
 これなら瀕死や死後数分であれば蘇生ができる。もちろんこれを頼って突撃するのは馬鹿であるからあくまで保険である。
 もちろんヘンリーに持たせていては風邪薬代わりに呑まれてしまいそうなので私が持つ。

 さてそろそろと帰り支度をすると、ヘンリーがおいおい、ただちまちま儲けただけじゃつまらんだろうと云うのでカジノを巡ることにした。
 館の右翼側にはスロットなる機械があって、何でもコインを入れると三つのリールが回り、ボタンを押してこれを止めるらしい。
 リールには様々に絵柄が書き込まれていて、止めた時に三つの絵柄が綺麗に揃えばそれに応じてコインが吐かれるのだというが、これが大変なくせ者だ。
 第一リールの回転する速力が尋常でない。はぐれメタルの逃走もかくやと云わんばかりで、こんなのはキラーマシンでも滅多に揃えられるまい。
 そしてボタンを押そうにもこいつの挙動が少しおかしい。止めたところで止まらず、止めないところで止まる。まったく幾ら経営者の土俵だって人を馬鹿にしていらあ。
 機構もただぐるぐるやっているだけで味気ないのでもうついぞやらんだろう。

 闘技場の観客には愚かにもスライムに百枚を賭けている男がいる。
 倍率が五十倍というのは確かに魅力的だがそうそう当たるわけがない。
 行け、そこだなどと熱心に煽っているが、そうしている傍からスライムがグリーンワームの猛攻を受けているので永くは持つまい。
 ヘンリーは外れろ外れろーなどとぶつくさやっていたが因果応報を鑑みればあまり褒められたことではない。
 しかしこいつが幸せになってもつまらんので外れても好い気がした。

 辺りを見渡すとそやつの他にもいろいろな人間がいる。大抵は浮かれ気分で陽気な顔だが、反対に昏い顔で視線を地に投げかけている者もいる。
 そして中には賭け事はせず、それに夢中になる人間模様を眺めて楽しむ人生のプロフェッショナルまでいる。
 随分酔狂な真似をやっているなと思うとお前らも見ていたぞと云うので、どうだったと訊けば、中々賢しいがつまらんかったななどと生意気を云うので、手に持つ酒を引っ手繰って飲み干してやった。いい気味だ。

 陽気も陽気で、いやあ勝った勝ったガハハハと凄まじい量の酒を豪快にあおる奴がいる。
 好景気にあやかろうと随分調子が好いですね。何かコツでも掴みましたかと奪った杯で乾杯してやるとうん、見つけた。聞きたいか。聞かせてやると云って大気炎を上げる。
 伺ってもよろしいですかなと問えば、簡単なことだ。用は機を逃さないことさ、とさっき私がヘンリーに訓戒してやったのと似たようなことを云う。
 気勢を削がれた私はそうですかと云って辞退しようとするが、大男はまあ待てと云って甘い息を浴びせる。そのときの臭いといったらおばけきのこにも負けていない。
 あんた若いね。恋人はいるか。いないか。だがあんたの周りには綺麗な女がいると見えるね。え? 俺には分かるよ。しかしその人は手の届かない高嶺の花だろう。あるいはあんたより器量の好い男が居て勝てる気概がないんだろう。しかし心配するねえ。俺が云った通り機を逃さず大胆に攻めるんだ。そこで男を見せればお嬢さんも揺らぐってもんよ。
 男はそう一方的にまくし立てて酒へ戻った。私は甘い息と一気飲みした酒に揺さぶられて朦朧としていたが、脳裏には修道院にいる綺麗なひとが浮かんでいた。

 カジノには賭場だけでなく劇場まである。
 劇団が催し物をやっているが観客が二人しかいないので寂しい。何もカジノの中でなくって地下にでも劇場を設えれば好かろう。
 酔った観客が他の者を捕まえて、近頃こないなのがでけたらしいですぜ、どれよう聞いていなはれやと絡んでは舞台に注目させる。
 すると踊り子は半可の英語でプリーズ。プリーズ。アイニーデュー。と何やら下手糞な発音をしやがる。隣の女は I am glad to see you. と達者なのでなおの事目立つ。
 見させられている観客は酔った客に頭をごちんごちんやられながら、なるほど面白い。英語入りだねと無暗に感心している。少し可哀想である。

 地下にはスライムレースなるものまである。なるほど斯様な知性の低い動物――仮にも魔物であるが、扱いさえ誤らなければ危険がないという意味では至極動物に近い生き物である――それの徒競走なら何が起きるか見当がつかない。一般のダービーよりも予測が難しい競技と云える。
 倍率の低いところに一枚だけ賭けて様子を見ると、連中レースの途中で眠ったり転んだり気を失ったりと自由奔放だ。
 これは下手をすると野生動物にも劣る種族かもしれない。そんな奴らにあの頃は苦戦を強いられていたのかと思うと少し腹立たしい。
 ただ必死にぷるぷるぽよぽよしている様子は愛嬌があるので女子供には人気があるだろう。

 もう一方の地下にはすごろく場がある。すごろく券がないと参加できないらしいが、私はそんなものは持っていない。
 するとヘンリーが懐から紙屑を取り出しては、へへ、実はムチおとこからくすねておいたのさと堂々と窃盗を暴露する。
 一人しか参加できないらしいから所有者のヘンリーに行かせた。
 懐手をして見守っているとヘンリーが賽を振った。一が出た。ヘンリーが一枡進んだ。
 野原の枡のようで仕掛けなどは何もない。するとヘンリーが足元を調べている。何か見つけたようだ。
 途端、ヘンリーの姿が消えた。

 階段を下りてみると敗者が地べたに転がっている。
 盗みなんぞするからこうなるのだと尻を蹴っ飛ばしてやると隣で汚らしい格好の男がアハハと笑っている。
 何だ貴様はと尋ねると、あっしはここで落ちてくる連中を眺めて楽しんでるんでげすと薄気味悪いことを云うから放っておいて表に出た。
 もう満足かとヘンリーに訊くともう懲り懲りだと早くも折れている。
 仕方がない奴だと思っていると何処から拵えたのかグラスを持っている。
 明日は早いから呑みすぎるなよと云っておいたがうへヘへと判然としないから心配だ。

 大分夜も更けたから宿に泊まる。
 機嫌の好いヘンリーがチェックインをしていると、横で待っている商人に小さなメダルを集めればどこぞの国で好いものが貰えるらしいですよと教えてもらった。
 私なんかもう二十枚も、アハハハとこちらもご機嫌そうだ。
 するとそれを聞いたヘンリーが隣で泊まるこいつの寝込みを襲えば二十枚は確実に得られるよな、とへべれけで物騒なことを考えているので軽く額に天誅をくれてやった。
 親分として子分の不逞には目を光らせねばなるまい。

 明くる朝に意気揚々と出立すると、外に馬車が置かれている。見ると「紫ターバンとサラサラ緑髪のお客様」と名札がある。
 他の者に取られないための配慮であろうが、サラサラ緑髪というのはお客様の表現としてはいかがか。
 譲渡の際に名乗らなかった我々が悪いのだが、当のサラサラ王子はぷんと拗ねている。拗ねてはいるが顔が青い。
 馬車の中で吐くなよと云ったが目が挙動不審だからかなり怪しい。

 しかし驚いたのには馬車は生きた馬がついている。
 何をそんな当たり前をと思われるかもしれないがよく考えてみてほしい。
 何せ三百ゴールドである。馬にせよ馬車にせよどうのつるぎと並ぶのは安すぎる。
 これは何かあるぞと念入りに調べてみるが、しかし馬車に異常はない。ただ伝聞通り臭いだけである。
 馬の方もご丁寧に「パトリシア」と名札があって、話しかけると「ヒヒーン」と律儀に鳴いてくれる他に異常はない。
 まあどうせ無料同然でついてきた馬であるから駄馬であれば刺身にして食うだけである。

 北へ進むと真新しい橋が架かっている。これのおかげであすこは発展したのだなと思うと偉く思える。
 さらに進むとラインハットへの関所がある。ヘンリーを顧みたが彼は視線を宙に投げ出している。
 好いにつけ悪いにつけ、あまり思い出したくはないのだろう。
 気を利かせて何も云わずに進んでいると、後ろから吐瀉音が鳴り響いた。
 ただ気分が悪かっただけのようだ。感慨も糞もない。

 ラインハット関所があるということはサンタローズもいよいよ近い。
 胸を躍らせながら歩を北西へ進める。
 ヘンリーも気分をすっかり良くしたようで馬車から降りて私に連れ立って歩き始めた。
 もう好いかと訊くと正直酔いより馬車の臭いがきつかったと云う。
 これは炭でも何でも置いて消臭せねばなるまい。
 はたしてサンタローズの石門が見えた。

 村に着いた時、私は我が目を疑った。
 そうしてヘンリーを見たが彼もまた同様だった。
 いつかこの村で、自らの見たものが夢でないことを願ったものだが、私はこの時全く逆の感慨を胸に抱いた。
 今見ている全てが夢であって欲しかった。



少し休みます

うぐう……本当にごめんなさい
もうトップページから投稿するの棄します。再三確認して投稿したのに、バグなんですかね……

応援ありがとうございます。方々でも太鼓判を押してくれる人がいらっしゃるようで、それを見るとこれは完結せねばと気力が満ち溢れてきます
文量が多いので時間はかかりますが、なにとぞじっくりとお付き合いのほどをお願いします



>>67
調べてみたらそんなバグは存在しないとのことで、これは正にミスで御座いました。全く私が悪い。
言い訳がましい云い方が気になったかと思いますからここで謝ります。申し訳ありません……

調べてみたらJaneStyleなる便利なものがあるそうで、これは結構好かろうと思います。今度からはこれにしてみます

        三

 あの日見た麗らかな故郷は悉く破壊されていた。
 屋根は焼け落ち、壁は腐食して原型を留められず、床は灰と残骸に埋もれている。
 焼け残った家財道具や玩具が所々に散乱しているのが痛々しい。
 土地は手入れする者も歩く者も居ないからか、腐り果てて異臭が漂っている。
 そして、村には人の気配が全くしない。
 おかりなさいと笑顔で迎える村民の姿も、たき火にあたって寒さを凌ぐ青年も、年甲斐もなくわーいわーいと騒ぐシスターの姿も、影も形も無かった。
 あるのはただ荒廃と死の臭いだけであった。

 幸い無事な建物が一つだけある。
 教会は煤にまみれて外見はひどい有様だが、手を付けられていない。
 ぎしぎしと建て付けの悪い扉を開ければ、中で神父とシスターが祈りを捧げていた。
 突然響いた扉の音に体を震わせた彼らは、我々の姿を見て少し安心した様子で息をつく。
 どうなされた、旅のお方と訊くのでどうなされたのか訊きたいのはこちらの方だ、全体この村で何があったのだと尋ねた。
 二人とも目を伏せて表情を昏くしている。
 シスターが口を開いた。

 「ある日武装したラインハットの兵士たちが村にやって来ました。訝しがる私たちをよそに、彼らは無言で家々に火を放ちました。
村人たちは抵抗しましたが武装した兵士に逆らえるわけもなく、たくさんの人たちが連れて行かれました。何故こんなことをと叫ぶ私たちに、彼らはこうを云ったのです

『この村の住人であるパパスが我が国の第一王子ヘンリーを誘拐し、そのまま消息を絶った。
彼奴に対する罰と近隣の村々に対する戒めとして、ここを焼き払う』

私たちは抗議しました。あのパパスさんがこんなことをする訳がない、あれほど勇敢で逞しく、慈愛に満ちた人はいないと。
しかし彼らは聞く耳を持たず、無情にもパパスさんの故郷を滅ぼしてしまったのです」

 嗚咽を堪えながらシスターは告げた。今ではパパスさんの息子もヘンリー王子も、彼とともに行方不明のまま。あの平穏は一夜にして脆く崩れ去ったのです。

 私は声が出なかった。
 驚きや怒りや憎しみよりも、悲しみが胸を貫いた。
 謂われなき暴力、謂われなき死。
 光の教団で見慣れてきた残酷が新鮮さを取り戻して私に襲い掛かった。
 痛みに馴れたはずの心が再び息を吹き返して訴える。
 何故……

 その時シスターが目を見開いた。
 あなたは、まさか、と狼狽している。神父も私の様相を見て何やら悟った様子だ。
 私は全てを打ち明けた。

 父の最期と我々の動向を聞いた彼女らは悲し気に表情を曇らせた。
 ああ、神さま、とロザリオを手が白むほどに強く握りしめている。
 我々が無事だったと知っても彼女の顔は浮かびきれなかった。
 そこにはあの時のように旧人の生還を手放しで喜ぶシスターの姿はない。悲しみで心を埋め尽くされた女が居るだけであった。

 村を見渡すと神の領域である教会の他に無事なものは何一つとしてなかった。
 私と父が住んでいた屋敷も泥と汚水にまみれ、辛うじて外壁にその面影を見せるばかりである。
 ビアンカが読んでくれた本も、サンチョが探したまな板も、何も残っていなかった。

 突然物陰から小さい影が飛び出した。
 魔物かと身構えるがよく見ると人間の子供だ。
 やい、この村に何の用だと剣呑に叫ぶので、我々はここの生まれで帰郷したのだが、と狼狽するとじゃあ泥棒じゃないんだね、と息をついている。
 どういうことかと尋ねると驚くべき話であった。

 何と旅人がこの村へやってきては物品を漁り散らしてしまうらしい。
 箪笥や机の引き出しは開けられ、壺や樽類も割られて内容を一切奪われる。
 中には金庫代わりの宝箱をこじ開けて、底まで浚っていく者まで居る。
 俄かには信じ難かった。盗賊でもない一般の旅人がうらぶれた村ですることではない。
 我々が言葉を失っていると子供はうちに宿があるから、お兄さんたちも泊まっていってよと勧める。
 ここで泊まる算段はつけていなかったが、この惨状でも健気に経営する気概を買って泊まってやることにした。

 夜、侘しい寝床で眠っていると不意に私を呼ぶ声がした。
 顔を上げるが傍に姿はない。聞こえるのもヘンリーの静かな寝息と夜風で揺れる木の葉のかすれ声だけである。
 そっと部屋を出てみると廊下で先の少年が寝ていた。
 見ると寝床から転げ落ちたらしいが、こんなところで寝転んでいては風邪を引いてしまう。
 寝床へ寝せて毛布を掛けてやると、少年がぽつりと寝言を呟いた。
 その時、私の耳についぞ予想だにしなかった言葉が飛び込んだ。

「……だれ……ベラ……ようせい……」

 私は凍り付いた。その場で少年を叩き起こして事情を引き出したかったが、すやすやと心地好さそうに眠る顔を見て辛うじて堪えた。
 音を殺して静かに外へ忍び出た。夜風は肌に纏わりつくが、体中から発する熱気に遮られて寒さは感じなかった。
 村を改めて見回す。目を皿にして辺りを窺う。
 昔見たときはそれなりの広さだと感服していたが、この体躯を手にしてみると存外小さい村だ。
 宿屋に地下があったなと思い出して駆けてみるが、入り口は土砂に埋もれて入れなかった。
 少しずつ冷気が頭を覆った。私は今一度冷静になって頭を巡らして、小さく唸った。
 大人になれば妖精は見えない。
 失望がじわりと心臓へ流れ込んだ。

 好い加減に諦めて宿へ帰ろうとしたとき、目の前を何かがよぎった。
 目を凝らすが何も居ない。居ないはずであるのに、私はそこに何かが居るような気がした。
 視線の先には幼少の頃サンチョがおかえりなさいませをしてくれた屋敷の残骸がある。
 壁も屋根も焼け落ちていたが、床だけは危うくその姿を残していた。地下へと続く階段も、煤と埃を被ってそこに鎮座していた。
 地下へ降りると、そこは昔のままに残っていた。少し狭く感じるのは私の体が成長したせいだろうか。
 さっきは何かが居るような気がしたが、幻であった。割られた壺の残骸があちこちに散らばっているだけだ。
 気力の尽いた私は床へ寝ころんだ。寒気が下から上から四方満遍なく襲い来るが、熱を帯びた体はそれに耐え得た。

 瞼を閉じれば、再び村の惨状が脳裏を埋めた。
 思い出や暖かみも全て灰燼と帰し、人々は無念に斃れ、残された者は感情をも蹂躙された。
 目頭が熱くなったが、涙は出なかった。
 胸に少しずつ杭が穿たれるような痛みを抱えて、体を強ばらせて目を瞑った。そうして石のようにまんじりともせずにいた。

 隣で何かが跳ねる音がした。顔を上げると、僅かな月光で朧ながらも、確かに魔物のスライムがこちらを見つめていた。
 私は相変わらず微動だにしないでそれを見返していた。今ならスライムごとき鎧袖一触ではあるが、この時私はそうする気力さえなかった。
 スライムが小さく跳ねながらこちらへにじり寄る。目と鼻の先まで来た。顔が一尺もないほど接近していた。
 相対するスライムの目を覗き込んだとき、私はその深淵な色に驚かされた。人を殺めんとする魔物とは思えぬほど眼は澄み渡るように綺麗で、様々な光が散乱していた。
 スライムが私の手に噛みついた。
 瞳は純真でも、やはり魔物か。少しく失望していると、スライムが私の手を咥えたまま、どこかへ連行するつもりなのかぴょんぴょんと跳ね動く。
 私は上体を起こしてスライムのさせたいようにした。彼は私の腕を連れて地下室をあちこち跳ね回る。どん、とスライムが地下室の壁に体をぶつけた。
 瞬間、スライムの体が消えた。

 私は眼を瞠った。そこには壁に埋もれる私の手がある。
 壁は実体がないかの如くぼんやりと私の手を飲み込んでいた。そうして私の手も壁の感触を失っていた。
 スライムが引っ張っているのか、腕はどんどん壁に沈む。やがて体も沈む。
 ついに頭を壁の中へ沈みこませた時、眼前に十年前の景色が閃いた。
 今や私の体は妖精の国へ踏み入れていた。

 辺りは桜の花びらと蝶が舞い、明るい日差しが野を照らしていた。
 目の前には若い妖精がにやにやとして立っている。見覚えのある顔に、君は、ベラかと尋ねると、妖精は覚えててくれたのねと笑顔を見せた。
 久しぶりだが、十年でも君は成長しないなと云うと、妖精は歳を取るのが遅いのよと少し悲しげな顔をする。
 目に兆す翳を振り払って、ポワン様に会いたいのでしょう、だったらと云って向こうを指す。
 視線の先には氷細工の階段を設えた大木が十年前に目にした時のようにそびえ立っていた。
 目線を戻すとベラは居なかった。黙っていなくなることもなかろうと思ったが、彼女の顔に浮かんだ翳を思い出して詮索は止めた。
 風に乗った春と母の匂いを感じ、私は駆けだした。階段を昇ると途中の階の妖精が驚いた顔でこちらを見るが、構わなかった。
 最上階にははたして、いつか母と重ねた麗しい女王が佇んでいた。

「お久しぶりですね、はるかぜの勇者よ」
「久しぶりです」
 私はどうにかそれだけ云えた。
「随分成長されたようですが、妖精はまだ見えますか」
「いえ……もう見えなくなってしまいました」
「そうですか。けれどもそれは確かな足がかりができたという事ですから喜ばしいですわ」
「そうでしょうか」
「誰に案内を頼みましたか」
「スライムが勝手に連れてきてくれました」
「それはもしや、この子ですか」
 見ればポワンは青い塊を膝に置いている。そこには安らかに眠るスライムの姿があった。
 私は確証はありませんが、と答えた。スライムの個体差など見分けられない。女王は微笑んだ。

「今日は何か困ったことが会って来られたのですか」
「いえ、別段用が会ったわけではないですが」
「あら、では誰かに会いたくなって来たのですか」
「それもありますが」
「全体誰に会いたかったのですか」
「それは……」
 そこまで云って私は顔を赤らめた。ポワンは少し調戯うような目つきをしていたが、やがて微笑をこぼした。
「あまり若い人を調戯うのも酷ですわね。用がなくてもゆっくりして行ってくださいな」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
 私は腰を下ろした。

 我々は世間話に花を咲かせた。と云っても私の体験は丸十年暗黒に閉ざされていたから話題は少なかった。妖精界も人間界ほど変遷がなかったらしいから余計話題に困窮した。
 仕方がないから私は奴隷時代の黒歴史を告白した。語られる残酷な日々を聞く内に、ポワンの顔は悲哀に暮れ翳りを帯びていった。
 そうして父の死と故郷の衰亡に言及した時、私は胸と喉を一挙に詰まらせて声を失った。
 ポワンは声を落として、大変な思いをしましたね、と云った。私は昏い顔で頷いた。するとポワンが手招きをする。
 何かと思って近寄ると、ポワンが両の手で私の顔を挟んで、真向かいに見つめた。
 十年前の再演かと身を堅くして見つめていると、やはりポワンの美しさに見惚れた。
 けれどもあんまり美しく澄んでいる瞳を見ているとだんだん居たたまれなくなって、ついに私は目を伏せてしまった。
 するとポワンが挟んだ私の顔を胸に寄せてそのままかき抱いた。
  

 あなたは今、深い悲しみに暮れていますね、とポワンが云った。私はポワンの胸の中で頷いた。
 辛かったでしょう、と云った。私はまた頷いた。
 頭の上に何かが置かれた。
 ゆっくりと包み込むようにして私の頭を撫でるポワンの手は、これまで触れたどんなものより暖かかった。
 気がつくと私は泣いていた。声こそ出さないが、嗚咽で体がしゃくり上がるのは抑えきれなかった。
 それすらも和らげるように、ポワンの手はより一層優しく愛撫を続けてくれた。

 しばらくして泣き止むと、私はお見苦しいところを、と謝った。
 ポワンは好いのですよ、人は誰だって拠り所が必要ですからと微笑む。
 しかしこんな齢になって泣くのはみっともないでしょうと云うと、ポワンはかぶりを振った。
 そんなことはありません。むしろ、折に触れて泣いてしまえる人こそ強いのですよと云った。
 それは信頼できる仲間や家族が居てくれるからです。それを持つ人はどんな孤独な強者よりずっと強いのですよ、と。
 私はされば、ポワン様は私の、僕の家族になってくれますかと問うた。
 ポワンはもちろんです。と柔らかな笑みを惜しみなく見せた。

 さてそろそろと居住まいを正すと、ポワンが何やら思い出したように立ち上がった。
 しばらくごそごそと探っては、私の手に黄色いリボンを渡してきた。
 随分古い品だが、何だか見覚えがある。手の中で弄んでいるとふわりと懐かしい匂いが立ち上った。頭の中で何かが閃いた。ゲレゲレにつけていたはずのビアンカのリボンである。
 何故ポワン様がこれをと訊くと、ポワンは次のような昔話を始めた。

 何でも十年前のある日、酷い火傷を負ったキラーパンサーがここにやってきたらしい。
 魔物が妖精界をうろつくのは珍しくないので抛っておいたが、そいつはベラという妖精を見るなり吠え上げた。
 ベラは呪文で焼き払おうと身構えたが、パンサーは尻尾をベラに向かって振り、そこに巻かれたリボンを見せつけた。
 それを見たベラはそのパンサーが私の横に尾いていたゲレゲレであることを見抜き、火傷を治療して丁重に迎入れた。
 ゲレゲレはしばらく喉を鳴らしていたが、やがて悲しげに一声鳴くと尻尾のリボンを振り落として元の人間界へ帰って行った。
 そしてベラはもし私がここを再び訪れた際、真っ先にポワン様を訪れるだろうと見当をつけてリボンをポワン様に献上したという。

 ポワンがそのリボンには魔法を掛けておきました。試しにこの子につけてお上げなさい、と私を抱く際に足下へ転がしたスライムを指す。
 つけろと云われてもスライムにそんな便利な部位なぞないから、全体を巡るようにぐるりと巻き付けてやった。そうしたらポワンが随分乱暴ですねと笑った。
 ではどうしましょうと云うとポワンはこれでいかがでしょうと云って頭の尖った部位に蝶結びで飾り付けた。
 しかし蝶の垂れが顔にかかってうざったそうにしているので、しまいには結び目を後ろに背負う形で落ち着いた。

 するとリボンを背負ったスライムがありがとう、ポワンさまと人間語を話し出すので仰天した。これはと訊くとポワンはリボンに掛けておいた魔法の効き目ですと答える。
 何でもこれをつけている魔物はかしこさが数段上がって利口になるらしいが、教育もなしに言語を話されては人間の幼児共の立つ瀬がない。
 生意気なスライムだと思って眺めているとそいつは私を顧みてねえ、きみはじゅうねんまえのこどもでしょ、ぼくのことをおぼえてるかなと何だか知り合いのような口を利くので驚いた。
 お前はまさか、サンタローズの洞窟の奥にいたわるくないスライムかと訊くとうん、と頷く。
 奇妙な出会いがあったものだ。しかし十年も変わらずぼくとか云っているから魔物は余程長生きだ。
 するとそいつはきみについていってもいいかなと何と旅の同行まで持ち掛ける。
 ポワンもそれを聞いてこの子もあなたの心に触れて改心したようですから、連れ立つが好いでしょうと推奨する。
 スライム個人の頼みであれば撥ねつけたが、ポワンに勧められては反抗する気が起きない。二もなく了承した。

 歓喜に跳ね回るそいつに名を尋ねると「スラリン」とか云う名を告げるので貴様は雌かと尋ねると、魔物は性別がないから好きな名を名乗っているらしい。
 魔物は悪しき力より生まれ出る存在であるから生殖しない、だから雌雄の区別が存在しないというのは納得の行く話だ。
 しかし「何々リン」と云うのは些か女々しいから「ゴルキ」にでもしたらどうだと提案すると至極微妙そうな顔をする。
 主人である私が命名するのだからそれに従えと凄むと、よくわからないけどかっこいいからそれでいいよと渋々承諾する。
 実を云えばゴルキとは、骨が多くって、まずくって、とても食えず精々肥やしにかならない雑魚にも劣るかわいそうな魚の名である。
 雑魚の代名詞であるスライムの身分にふさわしかろうと思ってつけてやったのだが、本人が好いと云っているのでこれで好かろう。

 私はポワンに改めて礼を云った。慰藉だけでなく、旧い友人の形見まで預かってくれるとは。
 ポワンはええ、どういたしましてと云って顔を綻ばせる。
 ここで待っていますから、いつでもいらっしゃいと云ってくれたのでええ、機会があればまたお会いしましょうと私も笑みを返した。
 ポワンは懐からはるかぜのフルートを取り出した。
 周囲に再び春の旋律が舞い起こり、世界を暖かく満たした。
 私は渦巻く花びらの間に、爛然たる笑みを浮かべたポワンの姿を認めた。

 目を覚ました時、私は冷たい地下室の床に体を寝かせていた。
 階段から日の光が射し込んでいる所から察するに大分時間が経っているらしい。
 外に出てみるとヘンリーが辺りをきょろきょろと見回していたので、何をしていると訊くとお前こそ何をしてたんだと驚いた顔でこちらを見た。
 スライムに頼んで妖精に会いに云ったと云うと、おいどうした、寝ぼけているのかと呆れた顔をされた。

 それを聞いて少し慄然としたが、考えてみれば昨日の行動は始終夢見心地であったから全て夢の出来事だとしても不自然はない。
 それに、今回は以前のように枝を持ってきていないから証拠も何もない。
 私は胸に淋しい火が灯るのを感じながら、ヘンリーに連れ立った。
 村には未だ生きた色が見えず、灰になった残骸が地面を覆っていた。

 その時、足下に何かがぶつかった。
 頭にリボンのついたスライムだ。

 ヘンリーが臨戦態勢をとるのを窘めて、私はおいで、ゴルキと云って腕を広げた。
 するとゴルキがおばえててくれたんだね、と云って私の腕に飛び込む。ヘンリーは何やら分からない様子だ。
 ポワンとの再会を話すのも恥ずかしいから、昨日懐柔したんだよと説明すれば納得したようである。
 ヘンリーはしかし魔物を連れるというのは不思議だなと呑気に云うのでそうだろうと云った。
 私はゴルキへ着けたリボンへ顔を寄せた。春と母と獣と、勇敢な少女の懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。

 村の入り口へ向かうと何やら老人が待ち受けている。
 我々が近づくと老人は、お前さんはパパス殿の息子かなと問うのでそうだと答えると、されば北の洞窟へ赴かれよと云う。
 そこでパパス殿は何か重要な物を置いたそうじゃ、パパス殿が逝去なされた今息子であるお前さんがそれを相続するのが道理じゃろうてと勧める。
 昔父を追いかけたが道に迷って諦めた。今どうすればそこに行けるだろうかと問うとそこへは筏を使いなさいと云う。
 そう云われると確かに父は洞窟内の泉を筏で渡っていた。子供の時分は陸路だったから別の方角へ彷徨ったらしい。
 老人に連れられて屋根のない家に着くと、はたして川に筏がつなぎ止められている。
 健闘を祈ると云う老人の激励を受けながら我々は洞窟へ侵入した。

 洞窟というのはどうしても魔物が住まなければならぬ世の理があるらしい。
 どこもかしこもブラウニーだのスライムだのと雑魚が際限なく湧いてはのべつ幕なし襲ってくるからやりきれない。
 景気付けにおおい、ゴルキが大量にいるぞ、と調戯うとぼくはあんなにやばんじゃないやいと反抗する。
 それを受けてヘンリーが、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと洒落た。
 そう意識すると可笑しい事に出てくるのも、出てくるのもみんなゴルキばかりだ。メタルスライムなんて薬にしたくってもありゃしない。
 今日は露西亜文学の大当たりだとヘンリーがチェーンクロスで一掃するが、連中は所持金も経験値も極僅かしか落とさないので至極効率が悪い。
 必死になって戦うゴルキも肥料ばかり倒しているせいか一向に成長しないようで気の毒の至りだ。

 そのゴルキも所詮雑魚の一味であるから一般の魔物との戦闘に出せばあっという間に瀕死に陥る。
 せかいじゅのはなんぞ高級な品を使うのも勿体ないから、教会の神父に十ゴールドで蘇生させてやるとつぎはまけませんとやに威勢が良い。
 しかしこう易々とへこたれてもらっては蘇生も面倒であるから、次死んだら野に埋めるからな、と脅すと突然しぶとくなった。往々人も魔物も窮地に陥れば底力を発揮できるもんだ。

 洞窟を道なりに進むと開けた場所がある。それも本棚やランプが置いてあって妙に生活感がある。
 洋卓の上には古びた手紙が置いてあって、それも宛先に私の名が書いてあるから驚いた。
 しかし表には力強く「母を見つける覚悟が無ければこれを読まずに焼き棄てろ。そうしても私は責めない。お前がそうしたい道を選べ」と警告が記してある。
 私は躊躇なく封を破った。覚悟など、とうにできている。母を見つけることが私の唯一の幸せに繋がるのだから。
 中の便箋には、初めの方に父の名が――パパスの名が記してあった。その下には、息子へ宛てたであろう短い文がしたためられていた。
 私は洋卓のランプに火をつけて、食い入るようにそれを眺めた。

「お前がこの手紙を読んでいるということは、何らかの理由で私はもうお前のそばにいないのだろう。
 すでに知っているかもしれんが、私は邪悪な手にさらわれた妻のマーサを助けるために旅をしていた。
 私の妻、お前の母にはとても不思議な能力があった。私にはよく分からぬがその力は魔界にも通じるものらしい。妻はその能力ゆえに魔界に連れ去られたのであろう。
 まだ母が見つかっていないのなら、伝説の勇者を捜せ。私の調べたかぎり魔界に入ることができるのは天空の武器と防具を身につけた勇者だけらしいのだ。
 そして、邪悪な手から妻を取り戻すのは他でもない、お前だ。

 私は世界中を旅して天空の剣を見つけることができたが、未だに伝説の勇者は見つかっていない。
 何しろ伝説の勇者というのは高貴な身分にあるものらしいから、私のような平凡な身分では調べるのに骨が折れた。しかし分かったことが一つある。
 今の時代に、まだ勇者は生まれていない。
 世界中の王や王子、果ては姫までにも参上してこれを持たせたが、誰一人としてこれを持ち上げられる者は居なかった。
 資格のない者には鉛のように重くなり、とても持っていられない。一度豪腕で知られる力将に持たせてみたが、無理に重いまま扱っても刃がなまくらになってしまう。
 これを楽に装備でき、真の力を発揮できる者こそが正真正銘間違いなく伝説の勇者なのだ。
 私の世代には生まれていないと云うことは、逆に云えば勇者の血筋は未だ魔物の毒牙にかかっていないという証左でもある。
 奴らに先んじて、必ず勇者を見つけろ。そして、母を取り戻せ。

 お前にならできると信じている。何と云っても私はお前の父だ。お前の勇敢さについては誰よりも知っているつもりだ。
 負けるな、生きろ。」

 私は手紙を持つ手が震えるのを必死に抑えた。そうして溢れんとする涙も飲み込んだ。
 父は自分の死すら覚悟していた。それにも怖じ気付かず、勇敢に立ち向かって妻を捜した。
 男手一つで子供を育てながらの旅が如何に辛いか、想像するだに苦しい。
 彼の勇気と行動力と、凄まじい気概には感服するしかない。私は一生彼の背中を追い続けるだろう。

 ヘンリーが気まずそうにしているので笑ってやった。すると彼も少し和らいだようだ。
 父の形見が散らばるこの空間で、感慨に溺れながら泣きたかったが止めた。
 泣いても鬼が来るばかりだ。好いことなど……

 しかし、ポワンはこうも云った。
 むしろ、折に触れて泣いてしまえる人こそ強いのですよ。

 その時、便箋の裏に何か文字があるのを見つけた。
 追記と書かれた文字は、何故か少し滲んでいた。

 しかし、私に尾いて洞窟へ入るなど無茶をしていたな。六歳でこの無鉄砲さは驚くばかりだが、私を継いでくれているようで嬉しい。
 お前がこの手紙を見ている間もきっと、私は天からお前を見守っているぞ。

 私はとうとう、頬を伝う涙を手紙の上へこぼした。



少し休みます

専ブラかなり好いですね
まるで初オラクルベリーでメタルキングの剣を手に入れた気分です
これなら事故も根絶できそうです

 火を照らして初めて判明したが、洞窟の中にはまばゆい輝きを放つ荘厳な意匠を凝らした剣がある。
 刃を下にして地面に突き立っているのでふん、と手に掛けると持ち上がらない。腰を入れて諸手で掴みかかるが持ち上がらない。
 ヘンリーと二人がかりで引き抜いて、どうにか背負えた。伝説の装備ともなると運ぶのも重労働だ。
 ヘンリーが鞘らしきものを見つけたので、刀身に差し込むとどうやら綺麗に納まった。
 するとさっきまでの重量は何処へやら、嘘のように軽くなった。
 これはと思って手に持って鞘から抜き出そうとすると抜けない。全力を以てしても抜けない。
 床に置いて鞘だけ握るとどうにか抜けるようだが、また最前の如く鉛のような重量物になるのは見えているので大人しく納刀して運んだ。

 よし持ち上げてもどうせなまくららしいからこれを扱えるのは本当に勇者なのだろう。ただ自分にその資格のないことを改めて宣告されたようで少し悔しい。
 ヘンリーはお前ならもしかすると、と思ったんだがなと残念がっているが元来庶民の自分が勇者では父の情報に沿わないので当然だろう。
 そう云えば高貴な身分の君ならどうだと云うと、ヘンリーは昔、お前の親父さんにこれに似たものを持たせられた記憶があると云った。
 当然その時は抜けなかったから、今もだめだろうと云って鞘に手をかける。ふん、と力を込めているがやはり抜けない様子だ。
 これを一々王族らに持たせるのは気が遠くなりそうだが、母を捜す当初の茫漠さに比べたらずいぶん簡便だ。
 私も父の後を追って、流浪に身を任せるのだろうか。

 洞窟を出ると先の老人が待ち詫びていた。
 様子を訊いてきたのでこれこれこういう経緯だと説明してやるとそうか、パパス殿が装備できぬと嘆いておったのはそれかと納得している様子だ。
 ありがとう、爺さんと挨拶をすると爺さんが待て、その剣をわしにも持たせてくれんかと乞うので持たせてやったら諦めた。まあ試してみたくなる気持ちもわからんでもない。
 父もさぞや悔しかったろう。勇者が見つからないのもそうだが自分がよもや、という淡い期待は彼にもあったはずだ。

 村の入り口で宿へ案内した子供が見送りをしてくれた。
 親御さんの云うことをよく聞くのだぞ、と云ってやると子供は昏い顔で俯向いた。
 どうしたと尋ねると、子供は訥々と語り出した。
 彼の両親はラインハットの兵士に殺されたらしい。
 直接見たわけではないが、連行された後に髪の入った骨壺が送られてきたので確信した。それ以来宿の主人に養ってもらっていると云う。
 我々は掛けるべき言葉が見つからず、しばらく黙っていたが、私が負けるなよ、小僧と励ますとそいつはようやく笑顔になった。
 そうしてサンタローズを出た後も、ヘンリーの表情は一向に浮かばなかった。

 壊滅した故郷を後にし、我々は更に西へ歩を進めた。
 隣町までは一昼夜とかからないが、こちらはラインハットの討伐命令が下っていないため無事である。
 ゴルキを懐に隠して入るとここはアルカパの町よ、と町人が云うのでようやくこの町の名を知った。昔は名も知らないでただビアンカの住む町と勘定していたのだ。

 相変わらず宿屋が巨大で立派だからビアンカらは繁盛しているだろうな、と思って訪ねてみると全く別の人間が経営していた。
 ここにダンカンという主人はいないかと訊くと、どうやら体を悪くして身を退いたらしい。
 それで店は畳んだが、立派な建物を取り壊すのももったいないので今のオーナーに売り払ったという。
 今ダンカン一家はどちらに、と訊くと遙か海の向こうの山村で療養していると云った。
 きっと空気が綺麗だからなどと理屈をつけて飛んだんだろうが、ここだって十分田舎で空気は綺麗だし、そもそも体が悪いなら海なんか渡らなくたって好さそうなものだ。
 やっぱり田舎者の考えはよく分からない。

 チェックインをしておいて、夜になるまでしばらく町を巡っていると宿屋の次に大きい一軒家がある。
 訪ねてみるとやはり双子が居て、一方が兵士の制服を着てラインハットの苛政に飽き々々して逃げてきたなどと云っていた。
 片割れが帰ってきたのが安心したと見えて母親ともう片方は顔を綻ばせていたが、そこに私が現れてやあ、この顔に見覚えがあるかと訊くと双子の顔が瞬時に青ざめた。
 その節はどうも、と途端にへいこらし始めるのであれから猫は虐めてないよなと訊くとそれはもちろん、と滝のような汗を流しながら弁解する。
 少し怪しいが別段問いつめる証拠も義理も持っていないので後にした。
 兄弟はひどく安心した様子で我々を見送った。

 先の双子の言の如く、ラインハットの評判は散々だ。武器屋の親父などはあんな所二度と行きたくないだのと文句を垂らしながら商売している。
 ヘンリーはこれまで顔を伏せていたが、やにわに親父へ声をかけてラインハットの近況を聞いた。
 武器屋の返事を聞いて、ヘンリーの顔が青ざめた。ラインハット領主が病で亡くなったらしい。
 跡はデール皇太子が継いだようだが、裏で王妃――今は太后になった――が実権を握っているようだ。
 ヘンリーは絶句していた。彼は未だ父と存分に話せていない。唯一の肉親は傀儡で、継母は政治の実権を握り悪政を強いている。
 今まで噛みしめていた唇から一筋、赤い色が流れた。

 飯時に酒場へ寄ってみれば随分年嵩のいったバニーがいる。獣臭さはなさそうだが別の臭いがしそうで少し敬遠した。
 頼んでみればこの酒場の飯も可もなく不可もなく旨い。
 しかし他の客がいないのでもしかしたらオラクルベリーみたように不味いのを我々の飢えた舌が勘違いしているだけかもしれぬ。
 話を聞く相手がいないから、年増のバニーに勇者の情報について聞くと、それならお父さんが詳しいからそっちで話を聞いてと奥へ案内された。
 酒場の主人はあらくれマスクを被ってはいるが気骨のある快活な人物で、話していて気持ちがいい。
 しかし肝心の固有名詞が闇の帝王エスなんたらと曖昧模糊なのには閉口した。

 夜も更けて、宿へ赴くと名無しでもないおかみがここに二晩泊まると好い品が貰えるよと宣伝するが、オラクルベリーの一件でこういう謳い文句の品は禄なものではなかろうと早合点をして断った。
 後で聞けばぶどうの香りのする安眠枕という随分寝心地の良さそうな品なので後悔した。
 最近、もとい十年来ゲレゲレが焼かれたり父が焼かれたり鞭で打たれたり村が焼かれたりと禄な夢見ではないので、機会があれば頂くことにしよう。

 経営者が変わっても手入れは相変わらず鄭寧で寝心地がよい。
 ゴルキを枕にしてぐっすりとしていると隣でうんうん唸る音がする。
 目覚めてみるとヘンリーが随分離れたベッドの上であぐらをかいて悩んでいる。
 どうしたと聞けばデールや皇后の事が気にかかって眠れないと云う。
 確かに不仲のまま父が死んで、少し出来の心配な弟が世を継いで、意地の悪い継母が政権を握ったと聞けば誰だって不安に陥る。
 ではラインハットを訪ねるかと聞くとやはり微妙な顔をしている。
 またもやうんうんと意気地のない迷走をしているので喝をくれてやることにした。

 精神的に向上心のないものは馬鹿だ。まだそんなことでぐちぐち悩みおおせるのか。
 君は十年前に私が云った通り周りに愛されている人間だ。
 それが二桁年行方不明ともなれば人々の心中穏やかでないことはたといゴルキにだって分かるだろう。
 それを安心させるためにも、また腐った政治体制にメスを入れるためにも君という存在をラインハット国民に知らしめねばならん。
 ここで鬱々と無い知恵を無駄に巡らすより行動した方が幾分ましである。と、そう訴えかけてやったらようやく一念発起した様子である。
 そういう訳で明日はラインハットに向けて発つことにした。

 ラインハットへの関所に着くと、橋を塞ぐ兵士がここは許可証のない者は通せぬと云って剣呑に構える。
 どうもあの皇后が余計な事をしでかしてくれたようだが、そうなるとどうしようもない。
 兵士を叩き伏せるか忍んでゆくか、何か方法がないかとあぐねていると、おもむろにヘンリーが川辺に降り立った。
 そして何かを掴みあげたかと思うと、先の兵士の背後に素早く回り込む。
 私があっと声を上げる暇もなく、ヘンリーは兵士の背中に何かを入れ込んだ。

 兵士はうわあああともがきながら七転八倒している。
 出してくれと叫ぶ合間にげこげこと鳴き声が聞こえるのでおそらく蛙の類に相違ないが、それにしても酷い。
 私はあまりに可哀想でものも云えなかったが、実行犯のヘンリーはぎゃはははとおよそ王族の風上にも置けない下品な大笑いをしてこちらも転がっている。
 地獄絵図に頭を悩ませていると足下のゴルキが軽業師の如くぴょんぴょんと兵士の背中に潜り込み、ひょいと蛙をつまみ上げた。
 こうして世にもおぞましい拷問、もとい悪戯が終結した。

 トムと云うその兵士は青ざめた顔で橋を渡っていた。
 対照に後ろのヘンリーはとても上機嫌だ。
 ヘンリーがそう云えば昔はベッドに、と思い出話の頭を出すとトムはやめてくださいと非常に沈痛な面持ちで抑止する。
 過去に彼の安眠の床で何があったかは推して知るべきである。
 それでもさっきの仏頂面はいくらかほどけ、懐かしの王子との再会を喜んでいる様子は見られた。

 橋の反対側へ着けば、お前が向こうまで出てくると体裁が悪いだろうから、ここまでで好いとヘンリーが声をかける。
 トムはお気をつけて、とヘンリーと我々を送り出してくれた。思ったより気分の好い奴だ。
 聞けば昔は城詰めの召使だったらしいが、出世してここの警備を任されているらしい。
 しかし綺麗で暖かい城からこんな川沿いのうすら寒い所に飛ばされたのはどちらかと云えば左遷ではないかしらん。

 橋を向こうに渡れば、かつて父と川の景色を眺めた展望台がある。
 懐かしい感慨を覚えながら登ると十年前の爺さんがほとんど変わらぬ姿でそこにいた。
 これは妖精かなにかかと思えば、相も変わらずこの国の行く末を案じている。
 大分時間は挟んだが、この爺さんの予感は的中していると云って好いだろう。
 だが、できることなら父や我々の不幸も予言してほしかったものだ。

 ラインハットの城下町へ入ると、相変わらず貧相な建物ばかり並んでいる。質はともかく数が足りない。これでよく財政が保てるものだ。
 町を歩く老人と目が合うと、お前さんたち、何をしに来たのか知らんが命が惜しかったら城に近づくなと物騒な警告をする。
 理由を訊いても口を噤むばかりで判然としない。
 近づくだけで危険な城などおっかなくて仕方がないが、ヘンリーはそれも構わずに歩いて行く。

 城門近くにはなんとみすぼらしい格好の乞食の女が居る。
 ヘンリーがおい、この国には乞食の身分など一人もいなかったぞと驚いていると、女の連れている子供が手を差し出した。
 恐らく施しを待っているんだろうが、私はその悲壮な姿を見て大層居た堪れなくなった。
 数週間前は我らとて似た身分だったが、彼らは周りの豪奢を目の当たりにしている点で輪をかけて惨たらしい。
 話によれば彼らの主人は城で勤める高給取りだったらしいのが太后の圧政によって牢へ入れられ、富豪らしく生活能力のない彼女らが取り残されて乞食へ陥ったという。

 懐から百ゴールドほど出してくれてやると、子供は目を大きくして輝かせた。そうして母へ持って行って見せて自慢をした。
 母親はありがとうございます。このご恩は、と頭を下げる。見ると彼女らの足元の容器には五ゴールドや十ゴールドがまばらに入っているから、百は随分な恵みだったのだろう。
 子供が良かったね、お母ちゃんと涙を零す。母親もええ、あの方々に感謝をするのよと云って哀れな頭をこちらへ見せてくる。
 二人はそうしている間もずっと手を握り合っていた。

 城の中には入れたが、王族の居住空間へ通ずる廊下は兵士によって塞がれていた。しかし昔は城門で検問されたのでむしろ警備は緩くなっている。
 ヘンリーは太后の謀略をおそれて身分を隠すことにした。髪は相変わらずサラサラだが奴隷服なのでばれはせんだろう。
 会議室を覗くと、我らは危うく腰を抜かすところであった。何と城内に武装した魔物がいる。
 恐る恐る近づくと、がいこつへいとさまようよろいと、顔中傷だらけの明らかに堅気でない人間とが群れを成してこの国は好いぞ、太后様は好いぞと無暗に囃し立てている。
 いよいよこの国もおしまいかと思えば、他の正規兵はきちんと連中を薄気味悪く思っているようだ。
 ただ魔物を見てなお「薄気味悪い」で済ませるあたりここの兵士も幾分間抜けのようだ。

 何やらベッドでうなされている兵士がいる。仮眠室らしく装備を着けたまま寝ているが、汗だくで胸を掻き毟っているから見ているこっちまで苦しくなる。
 頬を叩いて起こしてやると、すまない、悪い夢を見ていたようだと云って水差しを咥える。
 随分酷い事をされたんでしょうね、と気遣ってやるとああ、何の罪もない村を焼いた時なんかは本当に、と云って慌てて口を塞いだが、もう私の耳にそれは届いていた。
 全体どういう訳ですか、それはひょっとするとサンタローズの事ですかと捲し立てれば、兵士は慌てて私の口を抑える。
 もがもがしていると、すまないが、これは城内でも繊細な話題だから太后の耳に入られるとまずいんだ、と云って泣きそうな顔をするので渋々堪えた。
 私はそこの生まれですと云うと兵士は沈痛な面持ちですまない、我々があんなことをしたばかりにと声を絞る。私は兵士の肩に手を置いた。
 もう詰め寄る気力はなかった。彼も被害者の一人なのだ。

 先の通り王族の間へは入れないから、諦めて城下町へ引き下がると、ヘンリーが何やら思い出した様子だ。
 聞くと王族にしか伝えられていない秘密の通路があるらしく、水路に関係があるとか云う。
 何だそれはと詳細を尋ねるが、また例の如くうんうんと後架にいるおっさんみたようになる。
 手立てがないのでしばらく待っていると傾いていた日がとうとう落ちて夜になった。

 水路とは城門周りの堀のことだろうが、そんなところに隠し通路があるかねと月の下で疑わし気に城を見ると、あった。
 城門の下に堂々と大きい穴がぽっかりと開いている。昼は橋が降りていて見えないが、夜になると一目瞭然だ。それどころか昼でも角度をつければ目盲でも分かる。
 むしろなぜこんなのに気が付かないか不思議だが、住民からすると当たり前すぎてあれを秘密の通路とは思わんのだろう。
 確かに汚い水路に飛び込んであすこへ侵入する物好きもいまい。よし侵入したとしても王族にしか開けない仕掛けがあってそれで侵入できないんだろう。
 しかし水路に飛び込んで濡れるのは嫌だから、何かあるかと軽く見渡すと、まるで誂えたかのように城に筏がついている。
 まるで十年前にヘンリーを攫ったあらくれ共を思い出して少しいやだが、仕方がない。
 宿で寝ているヘンリーを叩き起こして水路へ向かった。

 水路から中へ侵入した時、私は思わず口を開けて笑いたくなった。
 筏を上がった先にはこれ見よがしに天鵞絨の絨毯が敷かれ、これ見よがしに祭壇があって、その上にはこれ見よがしにスイッチがある。
 まさかだよな、これは本物でなくって欺瞞のための偽物だろうなと期待してそれを踏んづけてみると、見事に期待は外れ、目の前の壁が取り払われて奥へ通じる通路が現れた。
 私はあまりに馬鹿々々しくなって怒れば好いやら笑えば好いやら分からなかった。
 この「どうぞ侵入し給ヘ」とでも云わんばかりの仕掛けを初めに考えた大馬鹿者が誰なのか本気で知りたくなったが、ヘンリーは真面目な顔でお前目聡いななどと抜かしやがる。
 これでは太后が居なくたってこの国の行く末が案じられるというものだ。

 中を進んでみると古びていてちと臭う。湿気も籠ったままで黴臭いのと相まってあまり居たい場所ではない。
 それに魔物まで巣くっているとなるといよいよ早く立ち去りたい。そもそも王城の地下が魔物の巣窟というのは如何なものか。
 辟易しつつ進むと奥には牢がある。秘密の抜け道と牢が併設されているのは考え物だが、地下の空間を有効利用する心づもりだろう。
 とはいえあんなにこれ見よがしに巨大なスイッチを設えては意味もないが。

 牢には鎖で壁につながれた屍がある。
 何をどう判断したのか、ゴルキがやあ、どうもと話しかけるが、返事はない。やはりただのしかばねである。
 ちぇ、もしかしたらなかまかとおもったのにと残念がるが、これは大違いの勘五郎である。
 何せ方々旅して骸骨型の魔物はがいこつへい以外見たことがない。
 骨らしいのも精々スカルサーペントやカパーラナーガだの蛇だか何だかよく分からん連中だし、レヌール城で襲ってきた奴もよく見るとおばけキャンドルであった。
 件のがいこつへいにしたって、武装していて、しかも目玉が宙ぶらりんとしていてまだ腐敗の最中であることから、目の前の綺麗に乾燥した白骨をそれと見るのは見当違いである。

 それを云ってやるとおかしいな、ぼくのきおくでは「がいこつ」とか「しりょう」とかいろいろいたのになあと不思議そうな顔をする。
 魔界ではどうだか知らんが、人間界に骸骨型の魔物はいないのだ、と決めてかかって先へ進むとこんどは爺さん型の魔物が現れた。
 まほうつかいとか云う方々の魔法使いに失礼な名前の種族だ。しかしどうせ魔法使いらしく体力がないから叩けば一瞬で沈む。

 少し歩くとまた牢があって、また爺さん型の魔物が入っている。しかしよくよく見ると魔物でなくて本物の爺さんである。それも与えられた少ないの糧食を無暗にかきこんでいる。
 私はその面影に懐かしいものを感じて、おい、爺さんと呼びかけると、振り返った爺さんは目をビックアイの如くかっと見開いて私の目を覗き込む。
 そして手にした皿を抛り出して、お前さんは、パパス殿の息子じゃなと大変な剣幕で押し寄せる。
 私は驚いて、ええそうですがと云うと爺さんはそうか、こんな所にまで来たか、会えて嬉しい限りじゃと声を詰まらせる。
 あなたは十年前に鍋を空にしたあの爺さんですかと訊くと、ぶんぶんと首がもげ落ちそうな勢いで振り回す。
 覚えておいでか、と懐かしむので私も何だか感慨を覚えたが、同時に引っかかるものを感じた。

「爺さん、あなたはサンタローズに居たのではなかったか」
「そうじゃ。しかしせんだってサンタローズが焼き討ちに遭った時に捕らわれてしまった」
「住民が捕らわれたのは知っているが、その後殺されて骨だけ送り返されたと聞いた。何故あなたは生きているのか」
「さあ、骨になった覚えはないからそれは誠でないのじゃろうが、ここにいるのはわしだけではないぞ」
「どういうことですか」
「サンタローズで捕らわれた住民はみんなここに秘密裏に捕らわれておる。ラインハット太后の命では全員住居共々滅ぼすつもりじゃったのを、哀れに思った兵士たちがわしらをここに隠してくれたんじゃ」
 この事実を聞いて我々は大いに驚いた。何しろ方々で全滅したとばかり聞かされていたのだ。
 あながちラインハット兵士諸君も鬼ではなかったらしい。流石に食事と暮らしは裕福とは云えないが、生きているだけで儲けだろう。

 さらに奥には先の老人の如くサンタローズの住人が鮨詰めにされていた。
 武器屋のあらくれに、酒場の主人、農家の面々に、たき火男。みんないる。
 私は何だか感激して目をしばたいたが、向こうの方は、あんた生きていたのか、パパスさんはどうなされた、今までどこに、と明朝の鶏舎の如く喧しいので閉口した。
 ここで騒がれて太后側の誰かに感づかれると面倒なのでとりあえず鎮めて、必ず救ってやるからなと約束すると頼んだぞ坊っちゃん、とサンチョみたような口を利く奴が居る。
 そういやサンチョはどうしたと訊くと、どうも十年前に我々が失踪した数週間もせぬ内に旅に出たらしい。
 戦闘のできぬ身では余程苦労したに相違ないが、坊っちゃんと旦那様が余りに心配で飛び出したのだろう。気心は嬉しいがせめて行き先ぐらいは記してほしかった。

 咽び泣く村民を後にして先へ進めば、ぼろくて汚いが、意匠自体は豪奢なものを着た女が牢にいる。
 そいつは我々の姿を認めると「待ってたもれ」と雅な口調で引き留める。
 はてサンタローズにこんな身分の婦人が居たかなと思うと、なんとその女は十年前にヘンリーを弾圧した太后その人である。
 これはどういうことかと話を聞くと、ある日魔物に連れられてここに閉じこめられてしまったらしい。
 その後は何やら偽物が入れ替わって政治を行ったらしいが、その間本物の太后はここでひもじい思いをしたようだ。

 私は少し気の毒だと思ったけれども、かつてやった所業についてはっきりさせておこうと思って、身分は伏せていくつか質問をした。
 ヘンリーをさらわせて亡き者にせんとしたのは彼女で間違いないらしい。そうして実の息子に王位を継がせようとしたのも哀れな一抹の親心であるとも云った。
 私は前にヘンリーに聞いた、太后が易に傾倒していたという事実に鑑みれば、この親心も偽物を立てる不心得者の計略であると見抜いたが、ヘンリーにとってはどうでもいいようだ。
 十年前に自分を虐めた太后が圧政を強いていたのでないと知って大いに狼狽し、彼女の扱いに迷っている。
 幼少の自分への仕打ちをここで復讐するか、あるいは罪を赦して救ってやるか。
 私はヘンリーの意向に沿う気で居たので何も云わなかった。ヘンリーはそれでも決めかねたと見て、そこを後にした。
 後ろからそなたは、もしやと息を呑む音が聞こえたが、悪意の謀略によって奴隷に身を落とした王子は振り返りもせずに路角へ消えた。



少し休みます

        四

 水路の終点が見えて、ようやく臭いから解き放たれるなと安心した刹那、後ろに気配を感じた。
 誰だ、と威嚇して叫べば、失礼、永らく魔物の身分に窶していた故礼儀を忘失し候と何やら物々しい口調の声が聞こえた。
 はたして角から身を現したのは鉄仮面に鎧に盾、そして剣を手にした仰々しい騎士の魔物であった。

 しかし大きさは精々人間の子供くらいで、上背の頼りなさを足下の巨大なスライムに乗ることで誤魔化している。
 所謂スライムナイトと呼ばれる連中である。先ほど群れて出てきたので一網打尽にしてやったところだった。
 何だ貴様は、と再度問えば我は孤高にして至高の騎士ピエール。お初にお目にかかるとちっこい頭を深々と下げる。
 ピエールと云うから何やら仏蘭西の者らしい。はあ、遠路遙々ようこそラインハットへと挨拶をすればふんと鼻を鳴らして得意になっている。いよいよ何だこいつは。
 ヘンリーがやい、魔物風情が我々人間に何の用だといつになく苛立たしげに発言すると、ピエールは「あなた方の勇猛果敢振りを拝見してこの虚ろの体に響く感興があった。是非仲間にして頂きたく候」とまた腰を曲げる。

 どうやらこいつもゴルキと同じく私を見て改心したらしいがとんだお門違いだ。我々は何も戦いたくて来ている訳ではない。
 果敢な戦いが見たければオラクルベリーにでも行ってカジノに入ればいい。文字通り命がけの血みどろな戦いをいくらでも鑑賞できる。
 そう云ってやったがピエールは貴君の目にどこか懐かしいものを感じる。どうか連れて行ってくれとなおせがむ。
 何故ここまで執着するか分からんが、説得も疲れるし面倒なのでここは立場の近いゴルキに任せることにした。
 きっちり断っておけよ、と釘を差して送り出せば、二人、もとい二匹……いや足下の緑色のスライムを含めれば三匹で何やら話し込んでいる。
 その間に我々人間組も話し合うことにした。

 さっき目にした太后が本物であるとすれば、上で悪政を取り仕切っている太后は偽物だろう。話によるとしかも魔物らしい。
 そうなると偽物であると見破るのは些か用意ではない。人間の変装なら顔の皮を引っ張るかを水掛ければ済む話だが、魔術的であれば解くのは難しい。
 何か彼女を見分ける身体的、あるいは精神的特徴はあるかと尋ねるがヘンリーは首を横に振るだけであった。
 まあ自分を殺そうとまでして憎んできたような女の特長など知っている訳がない。
 これでは上の偽太后をふん縛るのも骨が折れそうだな、と思っていると、魔物諸兄の談合が終わったようだ。
 達した結論は、ピエールも我々に追随するというものであった。

 私はゴルキを両手で締め上げて、おい、諦めるよう説得したよなあとぎりぎりくれてやるとだってだってと往生際が悪い。
 何でも一度で好いから彼を使ってみて、それから決めても遅くはないということで逆に説得し返されたらしい。
 確かに勝手についてくる分には問題はない。けれども蘇生は金と手間がかかるから、一度死んだらそのまま肥料にしてやるからなと忠告すればそれで結構と了承する。

 階段を上がると城の中庭に出る。青々とした緑の中にぽつぽつと花が咲き、犬らしきものが駆けまわっている。
 ここで私が犬らしき、と表現したのは何も犬か否かも判別できんほど目が鈍ったわけではない。実際傍目で犬かと思えば、実際はドラゴンの子供が放されていたのである。
 太后もずいぶん物騒なペットを飼っているが、新戦力を得た我々の敵ではない。お手並み拝見とピエールを繰り出してみれば、存外やる奴だ。
 重い剣を振るえる上に回復呪文まで抜け目ないとは、ことによるとヘンリーよりも余程戦闘に役立つ。
 初めは三人で戦闘を担当しようと思ったが、そうすることに別段何の理由もないので四人でかかることにした。

 犬の振りをしたドラゴンを一掃して城の中に入れば、十年前と似たボイが厨房にいる。
 ヘンリーが今し方拾ったドラゴンの尻尾をその背中に抛り込めば、関所の騒動の再演が催された。
 これで大抵の人に好かれているから不思議である。逆にただ同情をかけられていただけというのなら、翻ってむしろ可哀想になるが。
 

 二人がかりでピエールを隠しながら上階へ昇ると、元々第二王子のための部屋に大学者デズモンとかいう偉い学者先生が招かれている。
 何でも生き物の形の由来と未来を研究しているそうだ。太古にはそれを紐解く秘法があったらしいが、どうも眉唾だ。
 本人も存在を危ぶむくらいだからきっとほら話にすぎんだろう。
 東の第一王子の部屋は今は誰も使っていないようだ。それどころか十年前と変わらず綺麗で、机やいすの配置も変わっていない。
 そして当然ながら椅子の下の抜け道も健在だ。ピエールをここに置いて、万が一人に見つかりそうならここから逃げろと云っておいた。

 玉座の間には随分若い王と禿茶瓶の大臣が居る。 
 寄れば、大臣が君らはあの大学者の連れかねと聞くので、うまく嘘の吐けない私は尻込みしたが、隣の緑髪サラサラ第一王子は威勢よく「はい」と答えやがる。
 すると大臣はそれをすっかり信用したようで、今デール殿は体調が優れないようだから後で馳せ参ぜよと云う。
 本当に具合の悪そうな王も今日の所は退室願おう、と昏い声で云った。
 ところがヘンリーは両人の忠告もお構いなしに玉座に近づいては、顔の青い王に耳打ちをする。
 大臣が慌てて駆け寄るが、もう遅い。目の前のデール王の耳には「されど王よ、子分は親分の云うことは聞くものですぞ」と云う警句が届いていた。

 デールはまさか、いや、ばかな、とますます青ざめている。大臣が無礼であるぞと云ってヘンリーを引き離す。
 すると若き王が厳かな声で、下がれ大臣、と命じる。呆気に取られた大臣がは、いやしかしと食い下がるが、王は私やヘンリーでさえ竦み上がるほどの大声で下がれ!と叫んだ。
 大臣はあまりの事に動揺を隠せないで、は、はあと訳の分からぬまま退室した。
 王は疲労の色を隠せないで居ながらも、先程とは打って変わった表情をしていた。
 ヘンリーが久しぶりだな、デールと呼びかければ、兄さんも、相変わらず無茶だねと笑う。
 そうして兄弟は抱き合った。異母兄弟といえどその繋がりは確かなようで、彼らは十年来の再会の喜びを噛み締めていた。

 ヘンリーが事情を説明すると、デール王は一も二もなくあいわかった、偽母上の正体を暴く手助けをしようと云ってくれた。
 しかし肝心のその方法が我々は分かりません、と云うと、デールは一つの伝承を話し始めた。
 曰くある所に伝説の鏡があって、それに映された者は例外なく真の姿を暴かれ、その身に纏う偽りを取り払われるというものであった。
 もしそれが実在するものであればそれに越したことはないが、都合好くそうそうあるだろうか。
 そう思うとデールが僕の記憶は曖昧だから、地下の史料を調べると好いよと云って城の親鍵をくれた。
 有り難いが、太后の如く我々が偽物である可能性を少しも示唆しない辺りこの王も抜けている。

 倉庫と云うとヘンリーがあらくれ共に攫われた現場の近くらしいので、ヘンリーの部屋の抜け道から向かうことにした。
 ヘンリーに、おい、私は以前ここを下りた時に怪我をしてしまったのだが、君はどうやって降りたのかねと訊くと、こうやってだといって後ろ向きに這って体を差し入れる。
 そうしてある程度体を押し込めたら、えいやと飛んで下に消えた。
 以前は構造など碌に知らないから不意を衝かれたが、方法を知ればできないことはない。念のため懐にゴルキを忍ばせたが要らぬ心配だったようだ。
 しかし上からピエールが漢らしくどっすんと降りてくるには驚いた。
 奴は緩衝材代わりのスライムがいるから問題はないんだろうが、一介の騎士として些かやんちゃすぎるような気もする。
 私も今度はゴルキを当てにして飛び降りてみようかしらん。

 廊下には立派な錠前の付いた物々しい鉄扉がある。
 デールから渡された鍵を使って開けると、中は埃と煤だらけで大分汚い。
 棚を検分すると、これまた古臭い日記があるのでぱらぱらと読んでみた。すると一つ気になる記述がある。
「遠方南に崇高長大なる悠久の塔峨々と屹立して御鏡祀り之羅織虚構暴きて真映せし神域にて求むれば塔の果てしなきこと山の如く門扉の堅牢なること岩の如くして万人これを置く。
後に聞きてし太古の伝承曰く、"堅門則ち聖なる女人のひたむきな祈りにて開かん"と。」
 古文書らしく文語体で幾分読みにくいが、要は南の塔に神器が祀ってあるらしい。
 それもどうやら真実を映す鏡らしいが、肝心の塔が難攻不落とあっては参る。しかしこれがあればニセたいこうの姿を暴くのには困らんだろう。

 城を出ようとするとヘンリーがこっちに旅の扉があるから、それで近道をしようと云った。何でも瞬時に遠い場所へ移動できる便利な魔法陣があるそうだ。
 旅の扉とは不思議な空間で、視覚的には青い渦が空中に螺旋を描いて漂っているような形だ。
 渦の中心は透明な光が散乱していて、まるで深い滝壺を覗き込んでいるような気分になる。
 未知に対して抵抗のある私は少々蹈鞴を踏んだが、危機察知能力より好奇心の勝るヘンリーは少しも怖じ気ず飛び込んだ。
 これで置いて行かれるとヘンリーに馬鹿にされそうなので追いかけて渦へ飛び込んだ。
 視界は光の奔流に飲み込まれて潰え、歪んだ奇妙な螺旋が脳内を跋扈する。はたして体の一切の感覚が失われ、やがて意識も白い虚無へと消えた。

 気が付くと、我々は古びた祭壇らしき場所に居た。
 構造物は半ば瓦解しているが、代わりに蔓や苗木が石畳の隙間を不承々々といった体で生えている。
 私とヘンリーと魔物二三匹は無事に飛ばされてきたようだが、おかしなことに外に置いていたはずの馬車までついてきた。
 全く持って不思議な話だ。古書によれば南に塔があると云うから、南に赴く。

 少し歩けばすぐにその外観が目に付いた。しかし実際の高さは果てしないという割には存外低い。我々が樽に詰められて落とされた華厳の滝の方がよっぽど高いに極まっている。
 どれ、昔は開かなかったそうだが今はどうかと手をかけて押してみると、やはり扉はうんともすんとも云わない。
 塔の外壁には柱のような装飾があって、そこの隙間から侵入できそうだが、ゴルキを投げ入れてみるとどうも登った分だけ落ちてしまう仕組みらしいから、強行突破は諦めた。

 日記の言によれば、扉を開けるには聖なる女人、つまりシスターが必要らしい。
 それならそこらのシスターでも軟派してくるが好かろうとヘンリーに云うと、分かったと返して出立する。
 おい、どこまで遠征するつもりだと訊くとなんと海辺の修道院まで行くと云う。
 聞けばマリアを誘い込むつもりらしいが、最近洗礼されたばかりの半可者ではおよそ役に立つまい。ただマリアに会いたいだけだろう。

 一旦ラインハットへ戻って、関所、橋、オラクルベリーと経由して修道院へ戻った。
 我々の姿を見て修道女らは茶を出して手厚く迎え入れてくれた。帰る場所があるというのはやはり嬉しいものだ。
 旅の疲れを癒していると、修道女がマリアさんは実に敬虔で麗しいですが、最近は妙に寂しそうで気の毒にございますと云うので、ヘンリーがそれはきっと、おれが傍にいないからだろうと胸を膨らませている。
 私がどうだろう、ことによると私かもしれないぜと云うと、そうかね。何れにせよマリアに聞けばわかることだとヘンリーは茶を不作法に啜りながら云った。
 私が、なら求婚するついでに聞いてみるよと出し抜けに云えば、ヘンリーはぶうと吹いて修道女から差し出された茶をすべて床にぶちまけた。

 ヘンリーはいきなりどうしたと云って激しく咽せている。
 私はオラクルベリーのカジノで出会った大気炎を吐いていた男を挙げた。
 あいつの助言を受けてマリアに対峙しようと思うが、もし君もそうする心積もりがあったら、欺撃する真似は卑怯だからこうして君に伝えておくんだと云った。
 ヘンリーは初め動揺していたが、しばし黙して、好かろう、気が済むまで求婚なり大根なりするが好いと云ってそっぽを向いた。
 おやと思った。覚えによればヘンリーもマリアに好意を抱いていた印象であったが、あくまで私の早とちりだったかしらん。
 何れにせよ許可は頂いたんだからマリアに会えば早速敢行する所存である。

 数週間ぶりにマリアに相対した時、その不変の美貌に我々は声を失った。
 しばらく二人で囲んで見ていると、そんなに熱心に見つめられると困りますわと云って顔を赤らめる。そのいじらしい姿に我々は頬を緩めた。
 三人で和気藹々と談笑していると、ふとマリアがお二方も雰囲気が変わってらしたのね、どこか翳がありますわ、と心配そうに云う。
 我々自身では己の顔に翳が差したようには感ぜられないが、神殿より抜け出て以降明るい日差しに当たり続けている彼女からすればそう見えるのだろう。
 実は、とサンタローズとラインハットの近況を告げると、彼女もやはり悲哀の表情を浮かべた。

 少しく言葉をなくした彼女は、お二方共々、さぞや辛かったでしょうに、そんなに笑顔を繕えるのはよっぽどお強いですのねと云ってほめたたえてくれた。 
 すると二人していやあ、と照れる。そして何も云えなくなる。いくら剛健としても女子に耐性がないとこのざまだ。 

 ヘンリーが事情を説明するとマリアは同行を快く受け入れてくれた。魔物の出る中でも敢然と決行する様は女と思われぬほど勇猛だ。
 ただ、後から聞いてみるとこの時はヘンリーについて行きたいが為に発起したそうだから俗な決意である。
 そうとは知らない当時の私は好い機会だと思って、マリアに大事な話があると云って居住まいを正した。
「どうなされました」
「いえ、別段どうと云うことはないんですがね。……時にマリアさんは結婚について考えたことはありますか」
「はあ。いいえ、まだ特段極まった話があるわけではないですが」
「さいですか。でしたらどうです、私の所へ嫁に来てはくれませんか」
 そう、私が単簡に云ってのけてやると、マリアは「えっ」と目をまん丸にして驚いている。隣のヘンリーは縋るような、祈るような目つきで我々を見ていた。
 

 マリアは狼狽して、返答に少し戸惑っていたようだが、やがて決然として「ごめんなさい」と云って頭を下げた。
 男児たるや、ただ単簡にごめんなさい一つで済ませられて、それを受け合って「はいそうですか」と相成るわけにはいかない。ここが踏ん張り所だ。
「どうしてですか。私に甲斐性がないように見えますか」
「いえ、そんなことは決して。ただ、私には心に決めたお人が居ますので」
 これは驚いた。修道院で純粋培養されているはずの彼女に男の触れる機会があったとは。
「全体誰ですか。その心に決めた御仁というのは」と硝子玉のような目玉をかっ開いて詰問すると、
「ええと。それは……」と云って、顔を赤くして俯向いてしまった。
 口をもごもごさせているが判然としないので、もっとはっきりお云いなさいとけしかけてやると、さっと顔の朱を振り払って、
「実は、ヘンリー様が好きにございます」と云った。

 これを聞いて私は鼻白んだ。他の男君であれば納得の行くものだが、よりにもよってこの緑髪サラサラ野郎に惚れることもあるまい。解しかねて、
「こいつの何処が好いんですか。王子だからですか。髪がサラサラだからですか」と云うと、「そんなやましい理由じゃありません」と憤慨する。
 やましいとは前者の王子に掛けているんだろうが、話の流れだけ聞けばサラサラ頭もやましく聞こえるから不思議だ。
「身分とか、立場とかはどうだって好いんです。ただ私が彼を好きで、彼が私を好きだからそう云うんです」
 私はますます鼻白んだ。マリアだけでなく、ヘンリーまで彼女を慕っていたって?
「おい、君はマリアの事が好きだったのか」と首を回して問いつめると、「いやあそのう」とのつそつとした返事が返ってきた。
 馬鹿らしい。両思いなら早く云えば好かったのに。何だって人の玉砕を止めずして見送って、隣で以てその粉砕ぶりを眺めているのか。卑しい見学客だ。

 しかしヘンリーがこの麗人に惚れるのは分かるが、聖女マリアが全体この精神的に向上心のない馬鹿の何処に魅力を見いだしたというのか。私は権力はないが、人格なら王子の彼にだって負けていない。マリアも身分立場を鑑みんと云うのであれば、私にだって候補になる資格はあるだろう。
 そう云うと、マリアは聖女にあるまじき侮蔑の眼差しを携えて、
「だって、あなたはヘンリー様と違って、綺麗になった私を見てから惚れたんじゃありませんか」と云った。
 これは参った。別段私は綺麗な乙女と見るやたちまち執着する習性があるわけでもないのだが、この指摘には正直参った。心の臓腑を白木の杭で以てぐさりとやられた気分だ。

 マリアは奴隷時代の頃から我々の傍に居て、奴隷らの食事の分配や衣服の洗濯などを受け持つ雑用にかかっていた。
 体格の細い女人は大抵そうだが、殊に彼女は力が無く、よくものを取り落としていた。ヘンリーはそれを見かねてそれを手伝ったり優しく声をかけてあげていたのだった。
 これがはたしてマリアにすり寄るための計略か、はたまた生来の優しさかは判然としないが、ともかくそれに心を潤わせたマリアは彼に感謝と恋慕の思いを抱いたに相違なかった。
 一方私はというとそんなおっちょこちょいに掛けてやる慈悲もない、と後のゴルキの扱いに通じる冷淡さで切り捨てて無視していたのだが、これが仇となったようだ。
 奴隷時代の卑しい姿を見せた時分から惚れ合った相手と、綺麗に見違えたと見るや掌を覆して求婚してくる野卑な男のどちらを選ぶか、これ以上ないくらい明白だ。

 私は自分のしでかした行為を色々と恥じて、萎縮して固まってしまったのだが、隣のヘンリーは対照に大変輝いている。
「マリア。こんな甲斐性のない王子で好ければ、嫁に来てくれますか」といつになく爽やかな顔で云うと、マリアは「もちろんですわ」と花のような笑顔を見せてこれを承る。
 つまらない。とんだ茶番だ。彼らの親好を知らない私はまんまと道化を演じさせられたわけだ。そんなに仲が好かったのなら教えてくれたって好さそうなものだ。
 後で聞けば、既にヘンリーはマリアへの告白を済ましていたらしい。それだからマリアが私の求婚を受けてどう出るか試してみたかったそうだ。
 だとしても私にそれを教えてくれたって好いじゃないか。なぜ黙って、私の告白が砕け散る所を懐手をして見守っているのか。厭な真似をする王子だ。
 幸せそうに手を握りあう二人を置いて、私は修道院を出て海に向かった。
 そうして誰の如くというわけでもないが、何とはなしにそうしたい気分に駆られて、「海の馬鹿野郎。」と叫んだ。




少し休みます

PS2版のグラを見てマリアに惚れた殿方は少なくないかと思われます
かく云う私もその一派で、場合によっては嫁候補になったかもしれんのに、ヘンリーが間隙を突いて攫って行ったようにしか見えませんでした

しかしCDシアターを聞いて納得しました。このサラサラならマリアを気遣うくらいやるだろうなあと
原作でも(このSSではちと違いますが)マリアを真っ先に助けたのはヘンリーでしたから、万一告白の機会があっても結果は見えているでしょうね

楽しみに読んでいます。

一つ要望なのですが、
一行あたりの文字数が多くて読みにくいので
出来れば、でいいので一行20~30文字ぐらいにしていただければ
助かります。

 私はその日寝るまで機嫌が悪かったが、翌朝になってみると昨日までの自身の卑しいことが如実に思い起こされて大いに恥じた。
 きっとオラクルベリーの男に煽動されて起こった気ではあるが、それを理知的に受け止めて可否を断ぜられなかったのは甚だ遺憾である。
 起き抜けのマリアに昨日はどうも、失礼をしましたと云うといえ、もう気にしてません。
 それに、あれほど冷淡だった人が惚れてくれるくらいの器量が私にあったのだと自信がついたのですから、むしろ感謝したいくらいですわ。そう云って彼女は笑顔を見せる。
 人の失敗を侮辱せんばかりでなく成長の栄養へと昇華せしめる気遣いに心打たれた。
 そうして彼女の精神に少しばかりの慕情が仄めいたが、今更どうしようもないのは残念の至りである。

 修道女らに挨拶を済ませて修道院を発つと、北へ進む我々をマリアが引き留める。
 説明にあった南の塔であればここより橋を渡った南にありますよ、と云って我々を先導する。
 はたして南東にある橋を渡ってみると、すぐそこにラインハットから飛んできた旅の扉の祭壇がある。
 となればすぐ近くに果てしなき塔があるわけで、我々はこれほど近い二間距離をわざわざ遠い道廻りで巡ってきたという事になる。
 おやおやと思った。行く先が知れないんじゃ旅の扉も存外役に立つやら立たないやら分かったものではない。

 出発の際にマリアを馬車に乗せて行こうとしたが、例の酷い臭いがまだ残っているぞとヘンリーが忠告する。
 ではどうする、と相談すれば、マリアの方は大丈夫です、全然構いませんわ、と云って遠慮なく臭い所へ赴く。
 しかし我々は、馬車に魔物二匹を隠していたことをすっかり失念していた。
 マリアの絶叫に反応してすぐさま駆けつけると、怯えて真っ青になるマリアと、何とか和ませようと顔を珍妙に歪めるゴルキと、あたかも人形ですよと云わんばかりに脱力して転がるピエールがそこに居た。
 そいつらは改心して人間側に寝返った連中ですと説明をすればどうにか納得のいったようだが、マリアがそれ以降馬車に近づくことはなかった。

 さて南の塔へ着いてみると、大の男二人と魔物二三匹の力づくでも開かない堅牢な扉がある。もはや取っ手も鍵穴もなければ、それは扉でなくて壁である。
 聖なる女人とはいえ、こんな壁に対し何ができるのやらと思っていると、マリアは跪いて何やら祈り始めた。
 すると何処からともなく光が漏れ出たかとおもうと、あれだけ頑固だった壁が独りでに開いた。
 古文書の記述は正しいことが証明されたが、よくもまあこれだけ都合の好い伝説があったものだ。
 マリアは役目を無事に果たせたことに安堵してほっと息をついている。
 お役に立てて本当に好かったですわと爛漫に微笑むマリアに、好かったな、とヘンリーが云ってやる。
 私も一言何とか云おうと思ったが、二人が交わす視線に気圧されてついぞ黙っていた。

 ここからはきっと魔物が現れますから、馬車で待っているが好いでしょうと云うとヘンリーがいや、彼女も連れていこうと云って反対する。
 塔の内部には魔物だけでなく危険な罠が仕掛けられているかもしれない。連れて行って危険に晒したらどうすると云って諭したが、彼は何故か今回ばかりは譲らなかった。
 正直この二人をくっつけたまま進行するのは私の精神衛生上大変な損害であるから是非とも安置しておきたいのだが、恋人と一緒にいたい一心の王子は頑として譲らない。
 すると恋人と一緒にいたい一心のマリアが、私も行きますと云った。
 鍵が掛かっているくらいだから危険ですよと脅したが、誰も居ない外で一人で居る方が危険ですと云う。
 確かに我々男手が昇っている間は彼女は一人だ。ではゴルキとピエールに守ってもらえば好いでしょうと云うと、嫌です、と魔族全般に拒否反応を起こす。
 ゴルキとピエールがすっかり悄然としてしまったので、私は彼らを慰めながら塔を昇る羽目になった。

 塔は外見程武骨でなく、案外装飾も趣向を凝らしていて美麗だ。
 中庭も草花が生い茂り、溜池の水が清澄としてたゆたっている。
 その時、私は驚くべきものを目にした。現実には起こりえないはずの現象が、確かにそこにあった。

 父と母の姿が中庭の半ばで佇んでいた。

 私は父さん、と叫んだ。そうしてそれに一目散に駆け寄った。
 二つの顔がこちらを振り返った。逆光に翳るその面立ちは光に滲んで判然としない。
 近寄り、手を伸ばし掴んだそれは、手に僅かな実感を残して儚く霧散した。
 懐かしい姿は既になく、辺りは相変わらず静寂に包まれている。
 私は両の手を握り、残る微かな色と匂いをそこにとどめようとした。

 置き去りにした面々が私に追いついた。
 彼らも私が見た幻影を同じく発見したらしい。
 マリアによればこの塔は人の望みを映す力が宿っており、その縁として神鏡が祀られていると云う。
 先の幻影も魂を見通す力が私に働いた結果なのだろう。よくもここまで適切に私の望みを映したものである。

 それ以降幻影と出会うことはなかった。
 代わりに待ち受けているのは土偶だの触手の生えた目玉だのフラダンスを踊る口裂け女だのといった不気味な連中ばかりで気が滅入った。
 塔は上へ進むと吹き抜かれて床がない箇所がある。落っこちてしまわないよう注意して進むが、やがて行き止まりに当たる。
 おや道を間違えたかなと思って引き返すが、他に道はない。
 とうとう昇る道がなくなったから、くたびれた我々は一階の中庭に降りて体を休めた。

 マリアが「今日は長い旅になると思って、弁当を拵えてきました」とバスケットからほいほい食物を取り出す。
 私とヘンリーなんかは狂喜して、いただきますも云い終わらない内に手を着けた。
 腹ごしらえを済まして満足した我々は少しばかり午睡を取ることにした。
 ゴルキとピエールに見張りを任せて体を横たえた。
 うとうとと、夢心地に陥った私は父と母の夢を見た。

 二人ともいやに若い。母の顔は薄いレースが掛かっているようで判然としないが、何でも若くて美しいということだけは分かる。
 どうも空気の薄い所にいるようだが、父は薄汚い格好で、母はかなり綺麗な衣装だ。
 やがて二人が非常な勢いで駆けだし、荘厳な城に着いた。
 二人は中へ赴き、壮麗な衣装に着替えて民衆に手を振っている。まるでどこぞの国王と王妃のようだ。
 父と母が口づけを行おうと云うところで、私は目が覚めた。
 十年前にも似たような夢を見た気がする。その時は父に笑われたからこれも根も葉もない妄想だろう。

 目を擦ると周りにヘンリーとマリアがいない。ぐるりと巡ってみると物陰から二人が現れた。
 私が訝しげな顔で何をしていたんだと訊くと、ヘンリーがいや、大したことじゃない。厠の番をしていただけだと云った。
 成る程マリアも一介の女子であるから男性諸君の如く一物を引っ張り出して小用を済ませるわけにもいかない。
 魔物の蔓延る領域ともなれば場所には気を使うし、万が一の急襲を恐れて番人を立てるのも頷けた。
 ただ、二人とも少し衣装が崩れて上気したような顔になっているのは何故だろうか。

 頭をすっきりさせたところで塔の内装をもう一度入念に調べてみると、初めは気がつかなかったが柱の陰に通路がある。
 それも例の巨大な吹き抜けと隣接しているので、もし足下を滑らせでもしたら一階の庭園に赤い花が咲くことになる。
 後ろの隊員に精一杯の忠告をして、最大限の緊張を持って渡っていると、案の定誰かが滑り落ちる悲鳴が聞こえた。
 目玉だけをぐるりと動かして窺ってみると、どうやら落ちたのは人間ではなく魔物で、しかも衝撃吸収能力の高い軟体生物らしいから一安心して抛っておいた。
 無事にキャットウォークを突破すると、塔の頂上に神々しい祭壇がある。
 しかし、その祭壇まで続いているはずの廊下は途中で途切れていて、遙か下方の庭園の泉が見える。
 廊下の切れ目はそれなりに幅があって、我々に到底飛び越せる距離ではなかった。

 我々が最前で策をあぐねていると、マリアが何やら思い出したように口を開いた。
 何でも海辺の修道女に聞いた話には、道なき塔の天頂に達すれば即ち勇気を以て踏み出よと云う。
 勇気を頼りにして中空に足を投げ出すのは些か不安だが、どうせ方法が分からないんだからそれしかない。
 制止する二人と一二匹の声を後目に、私は途切れた廊下へえいや、と飛んでみた。
 今考えても無鉄砲の極みである。もしこれで私の命運が決すれば後ろの隊員はおろか遠い父母さえ笑ったろう。
 ただ、ポワンばかりは泣いて悲しむかも知れない。

 しかし、宙へ投げ出した私の体は落下しなかった。
 見ると体が宙に浮いている。足は地を踏みしめている感触があるので、屈んで探ってみると透明の足場がある。
 どうも真ん中だけ道がなくて脇が通れるような構造だ。正道を行くものが馬鹿を見るとは鼻持ちならんが後ろの連中にそのことを告げた。
 ピエールやマリアは慎重を期してそっと差し足をしていたが、ヘンリーは私を真似てえいや、と飛んでは足を滑らせて危うく落ちそうになる。
 マリアの前だからと格好をつけたって死んでは元も子もないぞと叱るとおまえだって今飛んだじゃないかと反駁するので、私のは君みたような蛮勇でなくて己の命を賭した立派な博打である。それに最前のように失敗もしなかったぞと胸を張ったら、ぐぬぬと呻いている。
 納得の行かない顔だったので、私は身寄りのない独り者だから好いが、君には家族と恋人が居るんだから無暗な真似はするな云ってやると、やっと王子は真剣な顔つきで頷いた。

 祭壇へ無事たどり着いた我々はかの一点の曇りのない御神鏡を目の当たりにした。
 近づくだけで神域のそれと分かる鏡は暮れゆく夕日を目映く映し出し、我々の姿を全く暴かんとする崇高な輝きを放っていた。
 美しい神鏡を手に取り、正面に向かって翳すと、辺りを閃光が覆った。

 すると後ろの二人が悲鳴を上げた。視力を取り戻した私が振り返ると何とそこには一糸纏わぬ姿の男女が立っていた。
 マリアはすぐさましゃがんで裸体を隠し、ヘンリーは慌ててピエールの盾を金隠しに仕立て上げている。
 何事が起きたのか咄嗟に判断は出来なかったが、何とはなしに手に持つ鏡を懐に入れてしまうと、二人の服は何ともなかったかのように再び現れた。
 憤慨気味のピエールが盾を取り返して、書記の通り、その鏡の効力は確かであるなと頷いた。それで私は理解した。真実を映す鏡はたった今その役割を果たしたのだ。

 鏡に嘘を暴かれた二人を問いつめてみると、どうも先の午睡中に二人で睦まじくしていたらしい。しばらくぶりに出会って我慢が効かなかったそうだ。
 私は怒れば好いやら呆れれば好いやら分からなかった。ただ黙って彼らを眺めていた。不思議なことにそれは叱責以上に効果があったようだ。
 先の私の問いに対する「大したことじゃない」という嘘に反応して鏡は煌めいたんだろうが、その程度の誤魔化しも許さんとは余程厳しい基準だ。制作者の狭量さが窺える。
 何にせよ真実を映すとは恐ろしい効力だ。滅多なことで使うのは止した方が好いだろう。
 羞恥で真っ赤になっている二人を連れて塔を降りた。

 人間も所詮動物の一員であり、また動物である以上自己保存の本能はみな等しく分け与えられてるから、斯様な行為に及ぶのも健全たる男女の生理学上仕方のないことだ。
 そう云って慰めてやっているのだが、あまり手応えがない。ずっと耳を赤くして俯向いている。
 特にマリアは神聖な身分にいるくせに肉欲に溺れた咎をひしひしと感じているのか苦しげな表情で少し可哀相だ。ヘンリーは責めるような目つきでこちらを睨めている。
 しかし何も私が暴いたわけではない。むしろ午睡の後の様子から察して詮索を避けていたのに、御神鏡様が勝手にやったことだ。そもそも最前から真実を暴くと再三云っていたのを無視して嘘を吐いたのが一体悪いんである。そう下した私は別段罪の意識もなかった。

 一階の庭園には青い染みが広がっていた。少しくどきりとしたけれどもマリアの祈りで何ともなかったかのように復活するから安心した。
 スライムも存外しぶとい生き物だ。ゴルキは落下死したことも忘れてぴょんぴょんと元気に跳ね回っている。
 外は既に日が暮れていた。女を連れての夜道は危険極まりないので庭園で夜を明かした。
 我々の預かり知らぬ所で安全を確保できるのであれば、存分に致すが好いと云ってやったが、結構です、もう十分だぜと遠慮する。精力旺盛だか貧困だか分からん奴らだ。

 朝になると、昨日まで離していた寝床がヘンリーとマリアの分だけ一緒くたになっている。おやおやと思った。また鏡が煌めいても知らんぞ。
 しかしもう開き直ったのか、連中、起き抜けから堂々と公衆の面前で乳繰り合い始めた。
 別段乳繰ると云っても厭らしいことはない。ただ仲良くあははうふふと笑い合うだけであるが、このときの私の目にはそう映えた。
 独身者の僻みと切り捨てればそれまでだが、面前で以て堂々といちゃつかれては誰だって好い心持ちはしないだろう。それが友達と好いた女のものであれば尚更だ。
 やにわに私も恋人が欲しくなったが、前段のように私は冷淡で、横暴で、簡単に口車に乗せられる軽薄者と明示されてしまった。
 私が振られるよりも、私と一緒になって不仕合わせになる将来の恋人が不憫で仕方がなかった。

 塔を出て北に歩き、森深きほこらに赴いた。
 旅の扉には相変わらず魔力の渦がとぐろを巻いている。
 マリアに先に修道院で待っていても好いが、どうすると訊くといいえ、私も立ち会いますと云って着いてくる。
 好奇心かヘンリーと一緒に居たいだけなのか判然としないが、もはやどうでもよくなって抛っておいた。
 一行は渦の中に踏み入れ、光の奔流にその身を溶かした。

 ラインハット城内に着くと馬車が消えていた。すわ向こうに置いて行ってしまったかと焦ったが、遠くからパトリシアの嘶きが聞こえる。
 外に出てみると馬車が中身も欠けずにあった。
 わざわざ人間と馬車を分ける意味は不明だが、地下に馬車が出現すると扉に引っかかって出られないのでこちらの方が好都合だ。

 城内に入り込むに当たって、まずピエールとゴルキを倉庫に隠して人間だけで玉座の間に赴いた。
 そしてデール王に頼んで大臣や臣下を下がらせて、それからピエールらを連れ偽太后の待ち受ける部屋へと向かった。
 本物の太后はヘンリーが指示した通り偽太后と面会させず他の部屋に隠しておいたが、デールは牢でやつれた母の姿を見たせいか幾らか消沈している。
 ヘンリーが、心配するな。今に悪党をとっちめてこの国に陽光を射してやるからと云うと、少し顔色が好くなった。

 王族の暮らす豪奢な部屋には、外聞に漏れずとんでもない高慢ちきな女が居座っていた。
 そいつは我々を見るなり、何じゃその薄汚い男共はと云って顔をしかめる。
 ヘンリーがお忘れですかお母様。あなたが殺した息子で御座いますよと云うと、そなたのような者は知らんと云って眦を上げる。
 ヘンリーは目を眇めて、左様ですか。とそれだけ云っていきなり太后の顔を張り飛ばした。

 我々が呆気に取られているとヘンリーは倒れ込んだ太后に馬乗りになってぽかりぽかりと顔と云わず胴と云わず殴りつけている。
 私が引き剥がすと太后はこの無礼者を今すぐ処刑せよと甲高い声で喚き立てる。
 すると高い声につられて兵士たちがどかどかと部屋へ入り込んでくる。太后の部屋に乗り込んだ薄汚い男共と魔物の姿を発見し、抜剣して我々を取り囲む。

 一見絶体絶命の窮地に見えるが、これはむしろ好機である。人の目はあればあるほど好い。
 私は懐から神鏡を取り出し、頭上に掲げた。
「これぞ汝らの仕えし暴君の正体である。刮目せよ!」
 手元の鏡が一閃、煌めいた。はたして周囲は白く染まり、一切の影という影が潰えた。

 我々が光に眩んだ目をしばたいていると、辺りにおぞましい咆哮が響きわたった。
 視界の先には、およそ人ならざる醜い化け物が鎮座していた。顔や胴にはさっきまで太后が着ていた服と化粧が施されている。
 魔物は人間共め、よくもオレの正体を暴いてくれたな、皆殺しにしてくれると唸り声を上げる。兵士共は慄いて一歩下がった。
 ヘンリーが皆の衆見たか。これがかの奸佞邪知の太后の真の姿である。王族になりすまし国を傾けんとする魔物に刃を立てよ。苛政の恨みを今ここで晴らせと鼓舞をして切りかかった。
 兵士たちは初めは戸惑っていたが、ニセたいこうの指に光る王族の指輪を目にして事態を察知したようだ。気力を奮い立たせ、魔物へ剣を向けた。

 魔物となったニセたいこうはやはり計略を巡らす上位種なだけあって、凡百の魔物とは訳が違う。
 かえんのいきによる集団攻撃や仲間を呼んでの援護など多彩な攻撃を繰り出してくる。あっという間にあれだけ居た兵士が半壊してしまった。
 そして何より恐ろしいのは息をためての鋭い一撃だ。気焔万丈のゴルキが一撃でぼろくずとなってしまった。
 ピエールが機転を利かせてベホイミで治療したがこの火力には参った。
 またも愚直に突撃せんとするゴルキを宥めて、マヌーサをかけるよう指示をした。すると打撃の方は空振りが多くなって幾分楽になった。

 しかし兵士共は皆脳筋であるから回復の手が足りない。私とピエールの魔力が底を尽くかと思われたとき、思わぬ加勢が入った。
 何と一階で教会を取り仕切っていた神父である。ベホマだのベホマラーだのといった高等呪文を惜しみなく使って援護する。
 よく見れば十年ほど前に私の治療をしてくれた奴だ。応援ありがとうと云うとあれから無茶はしていませんかと心配するので、無茶は今している最中だと云ってやった。
 流石の魔物も多勢に無勢では苦しいらしく、息を切らしている。
 兵士の攻撃によろけた隙に、すかさず足下を打ち払って転ばせてやれば、ヘンリーがこれで止めとチェ-ンクロスの分銅を奴の頭めがけて振り下ろした。
 聖なる重錘に脳天を割られた魔物は息絶え、豪奢な服と指輪を残して霧消した。

 息を切らす兵士たちに向かって、ヘンリーは拾った指輪を差し出した。これは太后のつけていたものに間違いないなと確認すると、最前の兵士はああ、間違いないと頷く。
 ヘンリーは外に待避したデールを呼んで、こう云った。
「暴虐の主は撃退した。これまで国を圧していた脅威は去ったのである。城下の者に事情を聞かせ、近隣の国々に謝罪を述べよ。ラインハットは今日より生まれ変わるのだ」
 デールは傷ついた兄を抱いた。ありがとう、と涙ぐんでは、兵士たちに「今の言葉は聞いたであろう。今すぐこれを実行し、我が国の権威を取り戻すのだ」と云った。
 治療を済ませた兵士らは力強く頷き、階下へと降りていった。

 かくしてラインハットは平穏を取り戻した。
 処刑された者の身内と近隣の国々への賠償で国費を大幅に使ったが、偽太后が貪欲に貯めていた宝石や貴金属類を担保にして賄った。理解のある国などは援助までしてくれた。
 特にグランバニアと云う大層距離のある国が莫大な援助をしてくれたおかげが大きい。
 どうも偽太后は時々膨大とも云える裏金をそこへ回していたらしく、前々より疑念を抱いていたグランバニアは受け取った金に手を着けずに置いて、今日の事件発覚を機にまとめて返却したと云う。

 あの知能のある魔物が全体どんな計略でグランバニアへ取り入ろうとしたのか、そして何故本物の太后を殺さず牢に入れておいたのか、疑問は色々と積み重なったが、事件に関する諸々の事情聴取で縛られて情報は得られなかった。
 手厚いような厳しいような中途半端な姿勢の事情聴取が終わり、私と魔物二三匹が解放されたのは翌日の夕方であった。
 恐らく魔物に聴取するという前代未聞の手続きで色々とごたごたがあったのだろう。つくづく魔物に振り回される国である。

 夜になると、ついこないだまでの不穏な空気と全く打って変わり、町や城には歓喜に騒ぐ人々の姿があった。
 早々に賠償が済んだのか乞食は一人もいない。例の親子が居た場所も、いまや酔っぱらいが寝ころんで鼾をかいている始末だ。
 酔っぱらいと云えば外が大層好きなようで、外で謡いを謡ったりぺちゃくちゃ喋ったり飲み食いしたものを野に戻したりと好き勝手やっている。
 中にはたき火までし出す好事家まで居ると思ったら、何とサンタローズのたき火男である。この期に及んでたき火とは余程物好きだ。
 後で聞いた所によると、あの酔っぱらった連中はサンタローズ復興隊と共に帰郷する住民で、出立する前日に城下町の盛況を利用して飲んだくれていたらしい。
 故郷が焼け野原になったと云うのに元気な奴らだ。早く帰って、残された者たちの笑顔を取り戻してくれ。

 夜を明かして城へ赴くと、門番は私の顔を見ただけで通してくれた。有名人になるのも存外気分が好い。
 玉座の間にはヘンリー兄弟が待ち受けていた。わざと恭しく頭を下げてやると、おいおい、恥ずかしいからやめてくれよと快活な笑いが響いた。
 デール王がよくぞ、我が国に安泰と平穏をもたらしてくれた。感謝すると云った。
 私はいえ、これもヘンリーや仲間のおかげですと謙遜をすると、傲慢にならないあなたはやはり徳の高い人だとどうしても誉めたいらしい。

 デールは、しかし私は直ぐに王位を献上する気で居るから、こうして褒美をくれてやれるのも最後だと云った。
 するとヘンリーが、おい、何を云う。おれは断った筈だぞと口走る。何のことか察しかねた私にデールが説明するには、なんとヘンリーを王として迎え入れるという。
 ヘンリーは最前の如く断るのをデールが粘っているようだから、私の進言を以てヘンリーを説得する心づもりらしい。
 私は少しく迷ったけれども、鏡に真実を暴かれてもつまらないので、忌憚ない意見を云ってやった。

「王よ。ご無礼ながらあなたの意見には賛同致しかねます。御存知の通りヘンリーは十年もの間教育を受けられない状況にあり、およそ政治や経済のことは無知も同然であります。
今から王として役割を果たすのは少々難しいところがあるかと。
その上彼の性格を鑑みましても、到底俗っぽく、激情に駆られやすい純朴ではありますが、これは一刻の主としては甚だ欠点であります。
その上人目を憚れば如何様な行為も許されるという怪しからん思想も少々ご持参のようで、せんだっての冒険でも若輩が午睡を取っている最中も想い人と陰にて何やら……」
「おい、君。やめたまえ。それだけはどうか、やめてくれ」
「ふむ。まあこれは本人も些か反省しているようですから大目に見るとしましょう。しかし先の通り彼は王というには到底不足な性質を持っています故、彼に王位を継がせるのは彼自身のみならず国にとっても益と成り難いかと思われます」


 デールはしばらく思考に耽っていたが、やがて顔を上げて、兄さんはそれで本当に好いのだねと念を押した。ヘンリーは勿論だと頷いた。
 左様か。であればもう云わない。その代わり王位が欲しくなってもやらないぞ、と少し調戯い気味に云うと、ヘンリーは欲しくてもきっと貰わん、と謙虚だ。
 そうして王位継承の話題が終わると、王は私にそろそろサンタローズ復興隊が出発する頃合いだが、君はどうすると聞いてきた。
 私は昨夜より思い詰めた結果を話した。
 サンタローズには戻らない。天空の装備を捜す旅に出る。

 王が驚いて、どうしてかなと聞いた。私は母と、それを見つけられる勇者の話をした。
 物心つく頃から、望郷の想いより、母を求める欲求の方が優に勝っていた。
 そして果てしなき塔で掴んだ微かな温もりは、未だ手のひらに残っていた。
 この十六年もの間ついぞ知れない感覚を、あそこで僅かに受け取った。
 揺らめく儚い幻影でない、確かな本物の暖かみが欲しかった。

 王は嘆息し、私の決意を賞賛した。ヘンリーも偉いと云って誉めてくれた。
 この場にいる三人はいずれも真っ当な母性を欠如しているからその欲望は三者三様に分かるのだろう。それもデールはつい最近本物の母を取り戻したところだ。
 そういえば、今本物の太后はどうしていると訊いた。デールはもう第一王子の部屋に住まわせてるよと云った。
 元来デールへの愛情には不足しないだろうが、もう一人愛情を注ぐべき対象が居るのではないか。
 愛情より、贖罪が必要な相手が。

 ヘンリーに、太后と会ったかと訊いた。ヘンリーは黙して頷いた。
 あいつを許せるかと訊いた。ヘンリーは少しく躊躇して、俯向いた。
 我々の尊厳が踏みにじられ、私にとっての父、ヘンリーにとっての教育者を殺され、二度とない青春が泡沫へ消えたのは、一概にあの女の謀略によるものと云える。
 それを以てして赦せるだろうか。金品や物資などよりずっと尊いものを奪われた我々が、たかだか数年檻に入った程度の贖いを受け入れられるだろうか。
 私はまだ好い。父の死も奴隷への零落も、私と父が自ら赴いて招いた結果だ。それもあの外道の権化である下魔によるものが大きいから、責任は分散できる。

 しかしヘンリーはそうは行かない。誘拐どころか危うく殺されそうになったのを、むしろあらくれ共が勝手に光の教団へ売り飛ばしたおかげで生き永らえたようなものだ。
 諸悪の根元を目の当たりにして、彼の心が疾風怒濤に苛まれたのは想像に難くない。
 復讐と憐憫の相反に板挟まれた彼の顔は、私からパパスの死を聞いたときの如く苦悶に歪んでいた。

 太后を罰したところで、我々の青春が戻る事はないだろう。父が生き返ることもないだろう。背負った悲しみを合切拭い去ることもきっとできないだろう。……
 けれども、我々の人生に架かった昏い陽炎に、断頭斧を振り下ろすことはできる。
 私は処罰を勧めた。殺さないでも好いが、このまま無罪放免と相成るのは頂けない。復讐ではなく我々の人生にけじめをつけるためにも、彼女に弾劾の剣を突き立てるべきだ、と。
 地を見つめる彼の視線は容易に上がらなかった。そうしてこれまでの十年、十六年を振り返り、噛みしめているようだった。
 次に彼が顔を上げて見せた双眸の光は、確かな葛藤と決意の輝きを携えて、私の瞳を貫いた。

 今はきっと赦せない。赦せるはずもない。しかしここであいつに刃を向ければ、二度と赦す機会はなくなる。
 おれは地下牢であいつの眼を見た時、そこにたゆたう痛烈な後悔の念に目を奪われた。
 あいつも魔物の奸計に乗せられて、おれを殺そうとした。その代償に夫は死に、自分は牢に入れられて実の息子とも会えなくなった。
 もしかすると自分で手を下したという実感のある分、おれらよりも悲壮だったかも知れない。あの時こうしなければという後悔は、おれらも味わっていない苦痛だ。
 あいつは罪を犯した。そして、天により罰せられた。だとすれば、もうおれたちにどうこうできようはずもない。死者に鞭打つが如き所行だ。
 そして何より、おれはあいつを赦したい。如何に憎まれようと蔑まれようと殺されようと……
 あいつはおれの母親だ。

 玉座の間は水を打ったように静まりかえった。言葉が壁に染み着いたように、耳底に何度もヘンリーの声が響いた。
 私は、そうか、と云った。そして笑った。
 子分が初めて親分に反目する訳だな、と云った。それを聞いてヘンリーも頬を緩ませた。
「そうだ。もうおれは子分ではない。 ……友だ。おれがこうして殿下になろうと、それは変わらない。おれとおまえは、永遠に肝胆相照らす親友だ」

 私は思わずはっとして、彼の目を覗き込んだ。そこには王族の地位を笠に着る傲慢さも、相手の身分を睥睨する卑しさもなかった。ただ友愛の美しい光が灯っていた。
 私は何百回、幾千回心中で繰り返した分からない言葉を、初めて己の口から友へ向けた。

 ありがとう、ヘンリー。

 かつて心に残した不安は今、杞憂と化した。

 ヘンリーがおまえの旅に幸運あれ、とらしくない挨拶をする。
 私は驚いて、君はここに残るつもりかと尋ねると、ヘンリーは再三顔を渋くする。
 デールが代わりに口を開いて、僕が兄さんにそうしてくれるよう頼んだんですと云う。
 何でもヘンリーが王位を継がない場合、代わりに不甲斐ない王を補佐する役目を背負うよう交渉していたらしい。
 教育のないこいつを補佐にするのは些か心配だが、弟よりは判断力に優れているだろうから補い合えば問題ないだろう。
 ただ私の旅に同行できないのはヘンリーも心苦しいようで、何度もすまないと謝っていた。
 王子の彼が何年も放浪するわけにはいかないだろう、と兼ねてより腹を括っていた私はそう気落ちもしなかったが、やはりいざとなると淋しいものがある。
 我々ははっしと抱き合って、別れを告げた。また会おうと片方が云えば、ああ、是非と返す。
 人間、生きてさえいれば会えないことはない。涙はどうにか堪えた。

 デールが行く当てはあるかいと訊いた。私はそんなのはないけれども、父の足跡を辿るのも悪くないと云った。
 するとデールが、それならビスタ港から船を出そうと云ってくれた。この大陸に着いたのも確か港であったから、本格的に父と同じ道を歩める。
 私が礼を云うと、ヘンリーがすごろく券を手渡してきた。また盗んだのかねと訊くと違う、人に貰ったんだと慌てている。デールが少し白い目をしている。
 おれはもう遊びに行ける身分じゃないから、おまえが持っていた方が得だと云った。それと、おれとマリアの事は黙っててくれると嬉しいと小声で云った。つまり賄賂である。
 私は収賄はいかんと思ったけれども、ヘンリーの必死な顔に免じて受け取った。
 そういやマリアはどうしたと訊くと、何でも太后戦で負傷した兵を治療し続けて倒れてしまったから休ませているという。一方教会の神父は本職なだけあって健在だそうだ。

 マリアを大切にしてやれよ、と云ってやった。
 ヘンリーはああ、もちろんと返して、おまえもこれからは人に優しくしてやれよと忠告をする。
 私は少しく狼狽して、努める。と云ったら、ヘンリーは笑って、ただし人によってはすぐつけあがるから、分別をつけてなと云ってくれた。
 ああ、と頷いて玉座の間を退室した。兄弟は手を振って返礼してくれた。

 城の兵士諸君も実に晴れやかな表情をしている。やはりニセたいこうの所業は一般兵士の目にも余ったのだろう。何しろ悪夢に魘されていた兵も居たぐらいだ。
 歩いていると一人の兵士がこれをば、と云って宝箱を差し出してくる。何だねと訊くと心ばかりのお礼として防具と金と、よく分からん木の実を頂いた。
 木の実は後で魔物等に食わせるとして、国家転覆の危機を救った英雄への謝礼にしては幾分金額が足りない。
 そう思うと宝箱の中には手紙があって、ヘンリーの筆跡で「すまないが、ラインハットも今は大変な貧乏であるからおまえにやれる分はこれだけしかない。後になって国力が復活したら、その時はきっと好い援助をしてやれる」と書いてあった。
 なに、そう気を回さなくたって好いさ。サンタローズの復興支援が確保されているだけで、私の懐は暖かいのだ。

 ラインハットを出て関所へ戻ると、展望台にはまだあの爺さんがいる。
 もし、身体に悪いからあまり浴びなさらんよう、と云ってやると、唐突にほっほっほと笑いだすから驚いた。
 ラインハットの衰亡を長らく案じていたこの爺さんも、十数年以来やっと訪れた平和に喜んでいるようだ。
 しかしこれもわしが案じていたおかげじゃ、などと勝手なことを云い出すので閉口した。
 できることなら彼が二度と案じなくて済む国になって欲しいものだ。

 ビスタ港と云えば私が無暗に飛び出してスライムにぼこられそうになった港である。
 少し腹が立ってゴルキをど突き回していると、なんだようやめてようと哀れな声を出すのですまんすまんとぞんざいに謝って撫でてやった。
 今や私はおろかゴルキもその辺のスライムであれば指先一つでいなせる。
 しかしあの時助けに来てくれた父の無双ぶりにはほど遠く、彼の背中の大きさに改めて感じ入った。

 港には既に船がついていた。それも何やら見覚えがある船体だ。
 乗船手続きを済ませて船長に会ってみると、何と十年前に父と乗っていた船の船長だ。
 覚えておいでですか、と訊けばおお、パパスさんの、元気してるかねと快活な声で笑う。
 私は少しく躊躇して、父は他界しましたと云うと船長はもの悲しげにそうか、辛かったろうと頭を撫でてくる。
 何だか船長の体が大きく見えて、私は危うく涙ぐみそうになった。大方父が好きだから、方々の父性の高い男君にその魂が乗り移るんだろう。
 十六にもなってこの様は少し気恥ずかしかったが、遠慮なくこうしてくれる人材も貴重だから大人しく撫でられていた。

 船が出たとき、私は世界を眺める視界が広くなったことに気がついた。
 単に成長して背が伸びたからという物理的な問題もあろうが、見えなかったものが新しく見えるようになる精神的な発展もあったのかもしれない。
 それはそうだろう。私は教育こそ受けていないが、尋常の人間よりずっと甚だしい経験はしたつもりだ。これで成長しないわけがない。
 私は強くなっている。驕りでない、確かな実感がそこにあった。

 私は自分で切り開いた道を歩んでいる。
 母を見つけるという一つの思いを胸にしかと携えて、ここに立っている。

 いつか聞いた言葉の通り、私は生きている。




前半の書き溜めが終わりました
またしばらくかかるとおもいます

要らん補完要素が多くお見苦しいかと思いますが、どうぞ生暖かい目で見守ってくれるとありがたく思います

また>>189さんの云うよう
冗長な文が多々見受けられますので見やすい簡潔な語り口を目指したいですね

ではこれにてしばらく

長らくお待たせしました
結婚編が長くなりそうなので先にルラフェン~うわさのほこら辺りまで投下します

        五

 航海の途中で聞いた話によれば、ビスタ港とポート・セルミとの定期船が魔物に襲われて沈んでしまったらしい。
 それでしばらく大陸間の連絡は途絶していたが、最近になってラインハットからのお達しが来たと云うんで、特別にルドマンという富豪からこの船を借りたとか。
 ルドマンと云えば、十年前に父と乗っていた船のオーナーである。
 船と船長が同じだから妙だと思っていたが、これを聞いて疑問が氷解した。

 幸い今回の航海中は魔物に襲われることなく無事に他の大陸まで渡れた。
 船員たちは揃って神への祈りを口々にしている。昨今は襲われない方が珍しいらしいから、今回は余程幸運だったのだろう。
 港を降りて町を見渡すと、港町だけあって結構栄えている。むしろ港にあるのに栄えていないビスタがおかしいのであって、普通は大都市は港にあるもんだ。
 水がなければ農林水産も鉄工業も立ち行かんと云うのに、内陸のくせにラインハットもオラクルベリーもよくぞ発展したものだ。

 船内の塩臭い飯が気に入らなかったので、酒場で口直しをすることにした。
 酒場を訪れてみると見せ物ではないだろうが、貧相な成りをした農民が柄の悪い男たちに囲まれている。しかも帯刀しているから驚いた。
 何だあの剣呑な連中はと訊けば山賊ウルフなどと大層なあだ名で各地を闊歩しているらしい。確かに狼と云うだけあって集団行動が得意なようだ。
 ヘンリーの云ったとおり人に優しくするべきだと思ったし、第一私は弱い者虐めは嫌いだから、すっくと立ち上がってそいつらを思い切り睨めた。

 すると狼どころか豹が如き素早さでこちらに反応し、おうおうおうおうてめえ今ガンつけやがったなこの野郎と珍妙というか滑稽な口調でこちらに臨んできた。
 おそらく脅しのつもりなんだろうが、今まで散々脅威に直面してきた私は思わず、ふん、と鼻で笑ってしまった。
 当然、笑われた方は頭に来ないわけがない。
 仲間を呼んでは私を取り囲み、おうおうおうおうおうおうと子供か猿のようにはしゃぎ出す。
 負ける気はせんが、流石に多勢に無勢では何があるか分からないので援軍を呼ぶ。
 私が口笛を吹けば、どこからともなくスライムとスライムナイトが颯爽と現れた。
 山賊たちが虚を衝かれたその隙に、ゴルキのブーメランとピエールのイオが炸裂した。

 幸運にも無傷の山賊が居るのでちょっときたまえ、と手招きをすると全く応じずに仲間を引きずって帰って行った。
 どうせだから情報を聞き出したかったが、仕方がない。
 ピエールとゴルキを馬車に返して、カウンターに座って適当な料理を注文した。
 すると横合いから声が聞こえる。振り向くと先の虐められていた農民である。
 何だか哀れそうな目をして「おらの頼みを聞いておくれんかな、もし」と云う。
 「おくれんかな、もし」た生温い言葉だ。田舎の内でも余程下級に位置するようだ。
 何だと云えば、これこれこうぞなもしと説明する。

 かいつまんだところ、畑を魔物か何かに荒らされている困っていて、それがとんでもなく用心深くて恐ろしいから外部の人間に頼ろうとしているらしい。
 魔物の一匹や二匹ぐらい、村人全員で鍬や鋤で以てかかれば何のことは無かろうと云うと、いやあえ、そんな危ない真似はできんぞなもしと云う。
 冗談じゃない。いくら危険だからって、それを人にさせるのに罪はないだなんて、そんな虫の好い話があるもんか。
 畑の収穫が少なくなって飢える人間が大勢居るだとか、何だとかこっちの同情を買おうと躍起になっているが、魔物一匹に荒らされたぐらいで飢餓に陥る農村などそもそもの基盤がおかしいんだろう。
 元来魔物は飢えたりしない。ゴルキやピエールを見ろ。
 あいつらは日に一杯の茶漬けだって文句も垂れず有り難い有り難いと云って頬張っている。

 何ぞ田舎者だってここまで腹積もりが汚いと苛立ちを通り越して呆れる。
 未だに御維新前の遺物を抱える愚な村だから魔物程度でこんなに大騒ぎするんだろう。
 ヘンリーの云っていたようにこいつは一度要求を通すとすぐつけあがる性と見た。
 今に嫁を貰ってくれだの骨董を買ってくれだの落款を買ってくれだのと矢継ぎ早に無理を通そうとしてくるに違いない。
 例外であれば仕方がない。優しくしてやる義理がないから、丁重に断ってやった。
 するとそいつはおお、そうして安請け合いせん所が信用できるぞなもし、とより一層勧誘を強くする。
 厭になって無視を決め込んでいると。農民はやがてがくりと肩を落として去っていった。

 飯を済ませて酒場を立ち去ると、先の農民がそちらこちらで勧誘しているのが見えた。
 しかしいずれも私の如くにべもなく断るので収穫はないようだ。
 するとのっぺりと色の白い奴が出てきて、何なら私がお受けいたしましょうと妙に優しい声で呼びかける。
 このご時世にフランネルの襯衣なんぞ着込んでいやがる。
 それもやに目立つほど真赤だから人を馬鹿にしている。

 そいつの容体はあまり頑健そうにないので農民は躊躇ったが、先の男漁りの不作を憂いたのか、渋々と云った体で承った。
 何時々々までに何処々々に来ておくれんがなもしと云って報酬の前金を渡すと、赤シャツは委細私に任せていなさいホホホホと顎を前の方へ突き出して笑った。
 何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。
 第一そんな細腕で魔物が打ち倒せるものか。
 十年前のビアンカやベラだってあれより頼りになるに極まっている。
 水飲み鳥の如くぺこぺこ頭を下げる農民に手をひらひらと振って、赤シャツは去って行った。

 ポート・セルミを出ると新大陸らしく見慣れない地形が視界を埋める。
 地図も縮尺が大きいものしか持っていないのでひょっとすると迷うかも知れない。
 ぼろぼろの地図と睨めくらをしつつ歩いて行くと、途中で食糧が切れそうになることに気がついた。
 思わず食糧当番のヘンリーを呼びつけようとしたが、あいつは今頃王城の中だ。
 これからは一人で穀潰し二三匹を抱えて旅をせねばならんと思うと気が重い。

 ヘンリーの奴は地位も権力もあるしきれいで清楚な恋人はいるしで私よりよっぽど贅沢な暮らし向きだ。
 比べてみると余計私の身分の貧相さに磨きが掛かる。
 友情はきっと切れ得ないだろうけども、立場に違いが出たと云うだけでこれほどまでに淋しい想いを抱くことになろうとは夢にも思わなかった。
 そうして嫉妬心が沸き起こって鬱々とすると、自身の卑屈さが情なくなった。
 早く母を見つけてその柔らかな腕の中に抱かれたくなった。

 海岸沿いに進めば町でも何でもあるだろうと見当をつけて進んでみると、思った通り民家が見えた。
 日は落ちたし、食糧がないのでは仕方がないから一晩だけ泊めさせて貰おうと民家の戸を叩くと、視界の端に黒い影が走った。
 素早く身構えてそちらを振り向くと、影は立ち止まった。
 そうしてしばらく佇んでいると、別段襲ってくる風もなく、さっと風のように走り去った。
 そいつの居た箇所を調べてみると、何と下の畑が滅茶苦茶になっている。
 人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてある処なんかは、子供が三人がかりで相撲をとりつづけに取ったかのようにぐちゃぐちゃだ。

 そして藁の上には金色の毛玉が置いてある。おそらく魔物が残した老廃物だろう。
 魔物の内でもどうも猫科に属するようだ。
 そこへ先の訪れた民家から婆さんがやってきて、酷いもんじゃろう、食えるもんもみんなこの具合じゃけれ、村の者は飢えておりますと云った。
 どうやらここでも魔物の被害が出るらしい。
 この様子じゃ魔物に対抗できる戦士の居ない村は悉く廃業だろう。

 この村は南瓜村と云うらしい。
 さぞ豊作そうな名だが、残念なことに魔物野郎のせいで不作も不作、まともな飯が出ない。
 出されたのはしなびた芋と干した芋と煮つけた芋と芋の香の物と芋の汁と無暗に芋ばかりで、肉や野菜なんか薬にしたくってもありゃしない。
 こう芋責めに会っては適わんが、彼女も同じ立場にあるようで黙々と芋を腹に納めていた。
 芋を食った後は持っていた薬草を煎じて、ようやく凌いだ。
 こんなのでも栄養をとらなくっちゃあ魔物と鍔迫り合えるものか。

 私はふと畑の様子を思い出して、南瓜はないのかと聞いた。
 するとかぼちゃとは何ぞな、もしと村の名前の野菜を知らない。
 畑にあったろう、外面が青くて、割ったら中が黄色い、西瓜を潰したような形の奴だと教えてやったら、そりゃ唐茄子じゃがなもしと云う。
 唐茄子だって南瓜じゃないか。この婆さんは優しいことは優しいがものを知らんから困った。

 あれを食えば好いではないかと云うと、あれはうらなりじゃけれ、食うと青く膨れてしまうぞなもしと反駁する。
 なんぼ、うらなりなんぞ食った所で青膨れたりするものか。
 第一青くなったら人間は痩せねばならん。
 人間が青くて、膨れるなんて、身分が卑しくて大金持ちだと形容しているようなもんだ。

 朝になって、泊めてもらった婆さんに礼を云うとあなた、もし好かったらこの老婆の頼みをば聞いておくれんかなもしと云った。
 一宿一飯の恩義に背くのは武士の名折れ――あるいは勇者パパスの倅の名折れ――であるから、進んで受けることにした。
 するとその内容がせんだっての物の怪の退治なので首を捻った。
 近頃はどこの農村も魔物退治が流行らしい。
 玄関を出ると、婆さんがその前に、村長の家で退治する旨を伝えれば便利ぞなもしと云う。
 別に後でも魔物の毛皮なり首なり持って行けば良さそうなものだが、反目する理由もないし従った。

 道中村の様子を見物してみたがひどいもんだ。
 そこここの畑は土地ばかり肥えていて作物がてんで見あたらない。
 幸い魔物は臆病なのか、人を襲うことはないそうだ。ただその見返りと云わんばかりに作物を虐めやがる。
 食料がないので飢えた者がいくらも転がっていて、端の方で鎮座する婆さんなんかは家族の食い扶持を増やすべくお山に行こうとか云う始末だ。
 この分ではいつ餓死や人肉食が起きてもおかしくない。

 婆さんは村長の家の目印に馬を挙げた。
 へん、馬なぞ何処にでもいるだろうに、目印になるもんかと思うと、存外どこにも居ない。
 馬はおろか牛や豚のような家畜すら影も見当たらない。
 まさかそうそう労働力を食うわけにはいかんから魔物に襲われたんだろうが、これではいよいよ村民全滅も近い。
 ひょろひょろと痩せっぽっちな馬のつなぎ止められた村長の家へ赴くと、何やら会議が始まっているようだった。

「……しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
と何やら腹にぼんぼん響く声がすると、
「やはりポートセルミの戦士らを雇って退治させるのが好かろうかと思いますけれ」
と何だか田舎くさい野暮ったい声が聞こえる。

 すると今度は甲高い、勘に障るような声が反論した。
「おらは断固反対ぞなもし。どこの馬の骨とも分からん連中にそげなこつしとって、大方反故にされて金だけかっぱらわれんのが落ちぞなもし」
 田舎者のくせに中々立場を弁えている。今度は聞き覚えのある厭な声がした。
「ホホホホ馬の骨ですか。わざわざ呼びつけて罵詈雑言とは結構なお手前だ」
 こいつは無暗に神経を逆に撫でつける言い方をする。ポートセルミの赤シャツに相違ない。

 この反撃に田舎連中は大いに極まりを悪くしたと見て、むっつりと黙り込んだ。
 すると「大方向こうは鹿の骨でげすな」と隣に座るべらべらした透綾の羽織を着た芸人風の男が、どこで誂えたか和風な扇子をぱちつかせている。
 そして初めに声を聞いた、目の大きい狸みたような奴が発言する。
「ええー。反対意見の出たところで何か代替案を拵えらるる人がいればお手を挙げていただきたく思います」
 すると赤シャツがひらひらと細っちい腕と赤い袖を見せつけて挙手をする。
 狸ははい教頭先生と発言を許可する。赤シャツはわざわざ立ち上がって弁舌を振るい始めた。

「私も魔物の乱暴、ひいてはそれに源因する村民の困窮を聞いて甚だ遺憾の意を表するばかりであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起るもので、事件その物を見ると何だか魔物君だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって村の方にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳戒な姿勢を見せるのは、所詮姑息な真似であるから、抜本的事件解決とならぬかと思われます。かつ魔物血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪行をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく賢知なお取計らいを願いたいと思います」

 なるほど流石は、赤いシャツなんぞ着て人を馬鹿にしているだけある。
 魔物があばれるのは、魔物がわるいんじゃない村人が悪いんだと公言している。
 気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
 まったく難有い仕合せだ。

 第一半ば無意識に畑を踏み荒らされてたまるものか。
 この様子じゃ、何時か誰かが寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 これを受けて芸人風の身なりをした男――私はこいつを野だいこと呼ぶことにした――野だは
「ただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。さればかの魔物隠士を撃退、あるいは永久に追放しむる方法に当たっては、用意周到に賢然たる罠をば是仕掛け賜るが宜しいかと思います」と云った。

 野だの云うことは旧い言葉をのべつに陳列するぎりで訳が分からないが、後半は罠を仕掛けてどうこうというのだけは分かった。
 それにしても「罠」なんぞ農民でなくとも魔物本人ですら到達できるような平易な案を発表するのに、よくもまあこれだけ回りくどい云い方ができたものだ。
 全体こいつらはさっき声の高い農民が危惧した詐欺師に違いない。
 でなければこれほど永い時間をかけて人に説法できたりするものか。
 私はよっぽどこのお三方をふん捕まえてどうにかしようと思ったが、こちらに気づいた赤シャツに機先を制されてしまった。

「おやこれはこれは。既にお雇いになられた戦士の方じゃないか」と云ってこちらに近づいてくる。
 無遠慮に私の肩を抱いてさあこっちへ、と席に案内する。
 席に着いたら、赤シャツが「何か意見が合れば云い賜え」と偉そうに云う。
 席上の目が一斉にこちらへ集中する。

 何だかあまり馴れない状況になって私は萎縮したけれども、先の連中の云い分には腹が立ったから、「私は徹頭徹尾反対だ……」と云ったがあとが急に出て来ない。
「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いだ」とつけたら、座している一同が笑い出した。
「一体魔物野郎が全然悪いんだ。どうしてもお灸を据えて得やらなくっちゃ、癖になるに極まっている。何なら殺しても構わん。……何だ失敬な、新しく来た人間だと思って……」と云って着席した。

 しばらく赤シャツはくつくつと笑っていたが、やがて
「魔物は殺しても好いが、その後が大変だと我々は論じているんです。どうせ高い金で魔物隠士をやっつけたって、また別な隠士に襲われれば繰り返すでしょう。これでは財政が持たない。だから二度と魔物の襲わないような罠なりを設えてこれを撃退するんですよ」
と子供に云い聞かせるみたいに馬鹿に易しく話しやがる。
 私は「そんなことは端から分かっているが、上手い方法がないから、反対しているんだ。どうせ襲われているのは一匹だろう。それを打ち破れば宜しい」と云った。
 すると隣の野だいこが「それが、実はあるんでげす」と東西南北何処を見渡したって見つかりゃしないほど、汚い笑みを浮かべる。

 赤シャツがユウシテッセンとは知っていますかと云うので、私は鼻を鳴らした。
 なんぼ元奴隷でも、有刺鉄線ぐらい知っている。
 刺のある針金だろう、と云うと、おやそれなら話が早い。我々はこれを村全体に巡らせようと画策しているんですよと何だか自慢げに云い出す。
 私は「それこそ無理だろう。はがねのつるぎが二千ゴールドする時局に防衛のためだけに鋼なんぞ誰が買うか」と云ってやった。
 すると狸、野だ、赤シャツの奸佞三人衆がまたもや笑い出した。私が何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等だ。
 貴様等新人風情に自明の理を暴かれて口惜しいんだろう。口惜しいが反論出来ないから笑うんだろう。

 狸が「教頭先生は全体どんな策がおありですか」と訊いた。
 赤シャツは「あるにはありますが、それをここで云ってしまうと少し面白味に欠けるのでいざという時分になったら洗いざらい白状しましょう」と云って話すつもりがない。
 どうせ策はないんだろう。ないがこうして云っておけば後から拵えたっていくらでも弁明が立つ。
 狸はそれを受けて大いに満足したと見えて、「されば教頭先生のお知恵を拝見するまでしばしお待ちしていましょう」と云って会議を閉めた。

 続々と席を立つから私も立ち上がったら、見覚えのある顔が「あんた、ああは云うてもやはり来てくれたぞなもし」と立ちふさがる。
 これはポート・セルミでウルフ山賊に取り囲まれていた奴に相違ないが、偶然立ち寄っただけの私を捕まえて依頼人扱いとは甚だ人の好い話だ。
「私は飯と宿を提供してくれた婆さんの恩義に報いるために魔物を倒すのであって、貴様らの依頼を受けるからではない。だからよしんば私が魔物を倒しても報酬はいらん」
 そう云っているのに、目の前の菜飯炊飯器は前金と云って私の手に千五百ゴールドを握らせようとする。
 しつこいので無理矢理突き返して外へ出た。お天道様は既に高く昇っていた。

 いくらあの赤シャツが頭を捻ったって、あの軟弱な体から出るなまっちょろい作戦では魔物を追い払えたってすぐに進化されて破られるに極まっている。
 そう思えばあんな気に入らんシャツに全てを譲り渡して懐手をしておくわけにもいかない。
 荷物をまとめて魔物のねぐらと云われる西の洞窟へ向かうことにした。

 そうして村の外へあるき出すと、向うから狸と赤シャツが来た。
 奴らはこれから有刺鉄線を引く場所の見当を付ける計画なんだろう。
 すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時私の顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
 すると赤シャツは返礼して向こうへ去ったが、狸は立ち止まって、あなたはさっきの話を聞いてなかったんですかねえと真面目くさって聞いた。

 聞いてなかったんですかねえもないもんだ。
 二時間前私に向ってお話は分かりましたね。それは結構々々。と頷いていたじゃないか。
 こう腹と目が大きいと人に対する態度まで大きくなるもんだ。
 私は腹が立ったから、ええ聞きました。聞いたから、これから反目して洞窟へ向かうんですと云い捨てて済ましてあるき出した。

 魔物君が毎晩ご苦労千万にもねぐらと村を往復するだけあってその二間距離は甚だ短い。
 日も落ちぬ内に洞窟へ着けば、なんと所々に屍が転がっている。
 例の魔物は人を襲わないと聞いていたから不思議に思っていると、これらは皆白骨化していて大分古い。
 その上どこからも新鮮な肉の臭いが殆どしないには驚いた。
 魔物のくせに野菜がよほど好きと見える。

 しばらく進むと、不思議なことに天然の洞窟に階段がある。
 訝みながら昇ると、黄色い毛玉だの毛屑だのが散らばる一角へたどり着いた。
 出て来い。と声を張り上げてみれば、奥から金色の毛を纏った豹の魔物が姿を現した。

 態勢を整えてそいつに向かうが、相手は一向に構えを見せない。
 ぼけらとこちらを眺めているばかりで何もしてこないようなので、牽制して鼻面にゴルキを見せつけた。
 初めはぽかんとしていたが、ゴルキに鼻を近づけるやそいつはとんでもない勢いで跳ね上がった。
 私とピエールは驚いて得物を振り回したが、奴め当てても当てても一向にへばらない。むしろどんどん元気になっていくように見える。
 しかたがないからゴルキに任せて様子を窺っていると、哀れ青い軟体生物は金色の化け物の一撃の下に倒れてしまった。
 冷や汗を拭って緊張していると、魔物がゴルキのリボンを頭頂部から引き抜いた。
 そうして奪ったリボンを諸手で弄び、クウンクウンと甘えた鳴き声を出して転がり始めた。

 とても凶暴な魔物にそぐわぬ仕草に呆気に取られていたら、豹がのそのそと私に近づいてくる。
 一瞬ひやっとしたが、その顔を真向かいに見つめたとき、何だか見覚えのある感じがした。
 豹がリボンを足下に置いて私に背を向け、尻尾でもってそのリボンを持ち上げた時、私は一体思い出した。
 目の前の豹――キラーパンサーこそ、ビアンカと共に助けたゲレゲレである。

 私は久々の再会に声を震わせた。ゲレゲレも喉をごろごろと鳴らして私の手を舐めた。
 しばらく再会を喜び合っていると、ゲレゲレが私の手を甘噛みし、洞窟の奥へ誘う。
 見ると随分大きなものが地面に突き立っている。
 近づいて観察してみると、なんと、父が後生大事にしていた剣である。

 昔はとても持ちきれない、恐ろしい大太刀だと勝手に崇めていたが、成長して持ってみると存外細身で扱いやすい。
 古くて埃は被っているが、刃の手入れは相変わらず鄭寧で切れ味も好い。
 柄を握ってみると、不思議な感覚が私の身体を包んだ。そうして父の記憶が遠く呼び起こされた。
 父の形見と旧友を一遍に取り戻して感動していたせいもあるだろう。思わずして涙がこぼれた。

 ゲレゲレを連れて外へ出た。彼の尻尾にはリボンが巻き付けてある。
 獰猛で有名なキラーパンサーには幾分可愛らしい装飾だが、本人が気に入っているのだから好かろう。
 ゴルキは幸運にも虫の息で済んでいたから回復してやった。
 こう何度も瀕死に陥ってPTSDが発症しないか心配だが、本人は快活な様子だから大丈夫なんだろう。

 村に帰る前にゲレゲレを隠さなければならない。
 もし村人に彼と連れ立っているのを見られでもしたら、あらぬ疑いをかけられかねない。
 ただゲレゲレが畑を荒らして人々を飢えさせたのは事実で、そればかりは擁護のしようがない。
 魔物血気が盛んだか知れないが、友が悪行を遂行していたと云うのは少なからずショックである。
 嘆息しながら馬車の奥深くにゲレゲレを詰め込んでいると、やにわに後ろから嫌な声が聞こえた。

「これはこれは戦士の方。いかがなされましたか」と赤いフランネル。
 私は反射的に顔をしかめて、「いいえ何でもありません」と云った。
 見ると後ろには校長とかいう狸と芸人の野だいこが引っ付いている。せんだっては教頭とか校長とか分からん役職で呼び合っていたがどういう意味だろう。
 赤シャツが「早計にも我々が策を弄する以前にもう魔物隠士の所へ行ったんですかな」とねちっこく尋ねる。
 さっき狸に云ったじゃないか。知っている癖にわざわざ訊いて、こちらの非を認めさせる腹積もりなんだろう。つくづく卑しい奴らだ。
 「そうだ。貴様等の案が気に入らんから勝手に行かせてもらった」と答えると、赤シャツ一行はやれやれとばかりに首をすくめる。いよいよ腹立たしい。

 私がむっつりとしていると「収穫はどうでした」と聞いてくるので弱った。
 前の通り口が回らないから上手い嘘が吐けない。
 かといって正直に話してしまうと大変都合が悪い。
 いえ、ともうん、ともつかぬあいまいな返事をしていると赤シャツ等の目が妖しく光る。
 不意に野だが後ろの馬車に近づく。

 私はあっ、と云って野だへ駆けだしたが、驚いたのと、非常にせっついていたのとで足を絡げてしまい、その場にどたりと転げ伏してしまった。
 その上私が転んだのに赤シャツが狼狽して蹈鞴を踏んで、それが不幸にも地べたに倒れた私の指先に着地したものだから大いに痛かった。
 ぎゃあと悲鳴を上げて飛び上がると、途端に馬車の方がぷるぷるニャアニャア候候と喧しくなった。
 野だがうひゃあと云って後退るのを境に、馬車に隠しておいた魔物諸君がわらわらと飛び出して私の周りを取り囲んだ。

 どうもさっきの悲鳴で私が攻撃されたものと癇違いしたらしい。
 ゲレゲレなんかは赤シャツを睨め付けてフーフー唸っている。
 赤シャツは目を見開いて「おやおやこれはこれは。噂に聞く魔物君じゃありませんか」と感心している。野だは泡を吹いて、狸は腹をさすっている。

 敵とまみえて興奮しているゲレゲレを宥めようと起きあがるが、一歩遅かった。
 鋭い牙を剥いて猛然と飛び上がり、赤シャツの白い喉笛に襲い掛かった。
 赤シャツも大人しく噛み千切られるのは不本意と見えて、ゲレゲレを躱しながら呪文を詠唱している。
 ゲレゲレは空を噛んで体勢を崩し、立て直して振り返った。
 そこへ、赤シャツの呪文が飛び込んだ。赤い火炎のメラミである。

 肌を焼いたゲレゲレが野に転がるのを見て、私はぞくりとした。
 十年前に見た恐ろしい体験が背筋をつんざくように走った。
 遺跡に転がる幼いゲレゲレの姿がちかちかと目に映えた。
 目の前に赤いもやがゆらりと浮かんで、なにやら話しかけてきているが、耳に入らなかった。
 気が付けば衝撃に痛む私の拳と、頬を押さえてうずくまる赤シャツの姿があった。

 しばらくして、ようやくこの手で赤シャツを撲ったのだと悟った。
 呆気に取られる校長と野だが何か云い出す前に、ゲレゲレへ駆け寄ってベホイミをかけた。火傷は幸い重傷でない。
 人を撲って魔物を助ける私の姿を見て、彼らは何事か察したらしい。
 大変だ大変だと云って赤シャツを抱え上げて立ち去るのを、我々はただぼうっと眺めることしかできなかった。




少し休みます

毎度思うのですが、主人公はよく平気でゲレゲレ等を外に連れ出しますね
古代の遺跡で男たちが「お前も魔族か」なんて独り合点していますが、それも当然でしょう
あんな獰猛な連中と一緒に居たら普通町や城には出禁だと思います

 村に帰れば、これまでないほどに白い目が私の体を射抜いた。
 魔物等は馬車に隠しているが、赤シャツ等の情報は既に狭い田舎を縦横無尽に駆けめぐったようで、着の身着のままの私を魔物か化け物を見るような目つきで睨め付けていた。
 もし、と話しかけても我関せずとそそくさ逃げて行く始末だ。
 もっとも彼らにしてみれば猫畜生を責める訳にもいかないから、飼い主である私を攻撃するんだろう。

 宿に泊まろうとすると、取り付く島もなく追い払われた。
 私がいったい何をした、宿くらい泊めろと憤慨したら、
「教頭先生が云っとったぞなもし。あんたのような魔物の仲間と関わる気はないぞなもし」
と云って追い払われた。
 ふざけやがって。大方私が金目当てで魔物をけしかけたとでも邪推してるんだろうが、勘違いも甚だしい。
 私は報酬を一切受け取らないでいたと云うのに、ここの奴らは物事の半面しか見据えておらん。
 血を一滴も流さないで平穏に事件を解決した私が迫害を受けて、何もしないで法螺ばかり吹いておった奸物は先生扱いか。
 田舎だから万事が都会のさかに行くんだろう。物騒なところだ。
 今に火事が凍って、石が豆腐になるに相違ない。

 大体何だ赤シャツの奴は。
 ゲレゲレは確かにあくどいことはしたけれどもそれは魔物血気のもので仕方がないと自分で論じていたのに、いざ面してみると全体魔物が悪いんだと吹聴する。
 その上私をまるで魔物眷属郎党のように言いふらしやがって。
 あんな奸物にかかっては適わない。
 また何かと因縁でも付けられて外聞が悪くなったらことだから、あいつとは関わらないことにした。

 白眼の最中でも、事情の分からない子供だけが飄々としている。
 ねえねえ、お兄ちゃんて魔物遣いなのと訊かれたが、もう三匹も魔物を連れている手前全然違うとも言い切れなかった。
 曖昧にうん、と頷くと子供はわあ、すごいすごいと囃し立てて行った。
 無邪気と残酷は併合すると相場が極まっている。
 それだから子供が生来苦手だったが、この時ばかりは子供の無邪気さがどうしても羨ましかった。

 村の少し外れに、赤シャツの乗ってきたと思しき馬車が道に止まっている。
 馬車まで赤くはないが、ところどころ洒落た小細工がしてあって憎たらしい。
 この分では内装もよほど厭な手合いだろうなと思って覗いてみると、驚いた。
 中にやせ細った村人が何人も放り込まれている。
 大抵は毛布を被って寝ていて、こちらが声をかけても微動だにしない。
 中へ入って揺さぶってみようとすると、後ろから肩を叩かれて大いに驚いた。
 振り返れば、何のことはない、馬車の持ち主のフランネルである。

 最前関わらないと決めてかかったが、話さなくちゃあ事情が分からないから仕方がない。
 一体こいつらはどうしたんだと尋ねた。
 すると赤シャツはあの人等はこれから転居するんですよと云った。
「転居って、彼らはここの土着民だろう」
「確かにここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行くんだ」
「セントベレス山の頂上です」
「と云うと光の教団かね。どうしてそんな所へ」
「どうしても何も、本人等が行きたいと云うから仕方がないじゃありませんか」
「そりゃいかんね。あんな所は地獄と同意語だ」
「おや、そう無暗に喧嘩をふっかけるのはいけませんね」
「喧嘩も喧嘩、大喧嘩だ。私はあすこへ行ったことがあるが、ありゃあおよそ人の住む所じゃないよ」
 そう云ってやると、赤シャツは妙な顔をして私の目を覗き込んだ。

 私は赤シャツのこの仕草にどうも寒気を覚えて、別の話を始めた。
「せんだってはいきなり殴って申し訳なかった」
 赤シャツは一寸何のことか解しかねた様子だったが、ぴんと来たと見ていきなり笑い出した。
「別段後遺症もなかったですからね。今回は大目に見るとしましょう」
 そう云って赤シャツはホホホホと顎を突き出す。
 私は未だにこの笑みが好かれない。
 別段人の笑い方くらい好きにさせたって好いのだが、こいつのものばかりはどうも気に食わない。

「村では君があの魔物君をけしかけたんじゃないかと専らの噂ですよ」
「噂も何も、君がそう言いふらしたんだろう」
「いやいや、あれは吉川君――あの透綾の羽織を着た御仁ですよ――その人が独りでに始めたことで、私は何も存じませんよ」
「存じませんで済むか。おかげで宿にも泊まれない」
「おや、それはお困りでしょう。何なら私が周旋して差し上げましょうか」
「いいや結構だ」
 ここに至って赤シャツの手助けなんか貰うくらいなら死んじまわあ。

「それで、君は本当に先のことをしでかしたんですかね」
「冗談云っちゃいけない。そんなことして私に何の得があるんだ。報酬も断って返したのに」
「それはもっともですね。空腹で全く神経衰弱になっているんでしょう。村人には私が好く云って聞かせますよ」
「うん。……ええと、よろしく頼む」
 いきなり親切にされて私は大いに狼狽した。顔や仕草は気に食わんが、道理が分かるのだけは偉いもんだ。
 ただどうせこれも計略の一部だと疑ってかからないと、いつ私も馬車に詰められるか分かったものではない。

 すると大将琥珀のパイプでもってぷかぷかやり始めた。
 そうしてふと思いついたように「君はどうして魔物なんぞの肩を持つんです」と尋ねた。
 私は「別段好きで連れ立っているわけではない。勝手について来るから放っているだけだ」と云った。
「じゃあ彼らに、何の義理も恩情もないと?」
「そうだ」
 これは嘘ではなかった。が、全部が真実でもなかった。

「随分物騒な体質ですね」
「扱いさえ誤らなければ危険はない」
「それを誤ったから今回カボチ村の方々がお困りになったんでしょう」
「知らない。なにせあいつは十年前に捨てた――捨てさせられた猫だから、私は飼い主でなかった。飼い猫でなかった時分の行為に関して責任は負えない」
「負えないと云って、今回の騒動の責は誰が取るんです。魔物君に切腹でもさせますか」
「畜生が切腹なんぞするかね。村の奴らがしたいようにさせればいい」
「おや、処刑と申しますか」
「処刑でも、禁錮でも、煮て食うでも、どうとでもするが好い。あいつはそれだけのことをしたんだから」
 私はこう述べるとき確かに胸を痛ませたけども、私よりずっと苦しい思いをした村民を鑑みればこのぐらいは我慢を利かせねばならなかった。
「さいですか。じゃあ村長に話してよく検討しますから、沙汰は追って伝えますよ」
 赤シャツはそう云ってすたすたと歩いて行った。

 ゲレゲレの処置が決まるまではこの村に留まらねばならんが、宿屋にすら拒まれてはいよいよ寝るところもない。
 消沈していると初めの婆さんの家が目に留まった。
 だめ元でそこを訪ねてみると、婆さんは他の連中と画して私を丁重に迎え入れてくれた。
 事情を知れない訳でもなく単に私のことを信用してくれていたようだからなお嬉しい。
 礼を云うと婆さんはなあに、悪いのは魔物であなたじゃないぞなもしと道理が分かっている。
 しかしゲレゲレは何だって不用意に村の畑を荒らしたのだろう。
 食べる分だけならあれほどまでに荒らす必要もないのに。

 翌朝になって、顔を洗って膳へ着くと婆さんが朝飯を運んできた。
 今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん村の何人かは光の教団へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃぞな、もし」
「うん。実に気の毒だが、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人らがさ。光の教団の教義にでも感銘して物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、あん人等のお往きともないのももっともぞなもし」

「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「昨日村長さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「どこもかしこもやはり暮し向むきが豊かになうてお困りじゃけれ、村ん人らが村長さんにお頼みて、もう食い物もなくて死にそうじゃけれ、どうぞどうにかしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「村長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでみんなも安心して、今に吉報のご沙汰があろぞ、今日か明日かと腹を凹まして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれとみんなにお云いて、集めて、赤い教頭さんと会わして、気の毒だが村全体が貧困じゃけれ、どうにもできん。しかし光の教団へ入信したら食い物に困らんで、ついでにそこで働けば毎月給料も貰えるから、それでお望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」

「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。みんなはよそへ行って食えるより、元のままでもええから、ここに居りたい。土地もあるし、家族もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、入信手続きも済まして、戸籍も渡したから仕方がないと教頭さんがお云いて、村長さんもその通りにお云いたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃあの人等は行く気はないんですね。どうれで変だと思った。なんぼ食えるからって、あんな辺獄へ好き好んで堕ちる唐変木はまずないからね」
「唐変木て、あなたなんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。事情の知れない人を騙すたあ、太え魂胆だ」

「けんどもそれで生活が楽になるけれ、仕方がないぞなもし」
「うん。そりゃあ、ひもじいのは確かだからね。しかし……それでもどうも落ち着かないや。何だかこう、胸騒ぎがするでしょう」
「何も感じないぞなもし」
「年寄りは鈍感だから分からんのさ。……さて、もう頃合いだね。そろそろ行きます」
 婆さんは見送りをしてくれた。その丁寧さに私は思わず胸を暖めた。世間の人間が全員こうであれば、誰も辛い思いはしなくて済むだろうに。
 ただ、別れ際に芋を選別してくれたのには閉口した。

 歩いていると、道行く周りの目が少し和らいでいることに気がついた。
 大方赤シャツが談判して誤解を解いてくれたんだろう。
 親切は難有い。が、親切は親切、奸計は奸計だから、村人を騙してセントベレス山に送ったのを無にしちゃ筋が違う。
 だからあいつを許すことはしないんだが、何だかすっきりしない心持ちだ。
 腹の内で感謝と腹立たしさが妙な具合でまぜこぜになってとぐろを巻いていた。

 村長の家へ着くと、村長はかみさんと一緒に私を迎え入れてくれた。
 ご丁寧にも茶まで出してくれたが、やたらと苦くて濃いのに閉口して一口で遠慮した。
 村長は構わず旨そうに啜って、「魔物の処罰が決まったぞなもし」と厳かに告げた。
 私は居住まいを正して、固唾を飲んで続きを待っていると、村長は少々目線を下げて、「あんたらをこの村から追放することにしたぞなもし」と云った。

 私は虚を衝かれた体ではい。と云った。村長はうむ。と云ったぎり動かない。しばらく場が硬直した。
 何だか妙な空気になって、息がし辛くなったので、質問を少し好いですかと訊いた。村長は頷いた。
「どうして処刑しないんですか」
「処刑してほしいげな」
「いえそうじゃないんですが、村の人々はそれで承知しますか」
「どうせ居なくなることに変わりはないんじゃから、殺さんでも好かと判断したぞなもし」
「はあ。それならもう不満はありませんが」

 私が腑に落ちない顔をしていると、村長が訳を話した。
 何でも赤シャツは有刺鉄線の為に莫大な金額を要求したらしい。それを受けて村は大変懊悩した。
 ところがそこへ前金すら受け取らず迅速に解決してくれた人間がいる。
 魔物と仲間だったのは頂けないと云う意見もあったが、やはり金に謙虚な私の様子を知っている人間から擁護する声が高まったらしい。
 特にポート・セルミで勧誘をしていた農民が私の人柄を熱心に吹聴してくれたそうだ。
 それで斟酌の末に刑罰を少し軽くして、村からの追放と相成ったらしい。

 初めは厭らしい心積もりで勧誘しているとばかり思っていたが、ただ世間を知らないというだけのようだ。
 私は安心して、分かりました。では我々は早々に退散しますと云って引き下がった。
 人生、何があるか分からないものだ。厭な奴だと思えばただの世間知らずで、悪漢は親切をする。
 人の世なんて、どうせ、こんなもんだろう。と、若い私は独り合点して頷いた。
 帰りに村長が魔物を連れないでお忍びで来る分には問題ないぞなもしと云ってくれたが、どうせこんな田舎を訪れることも二度とあるまい。

 村を出たらまずはポート・セルミへ向かった。
 またいつかのように迷って腹を空かすのは愚だから、多めの食料、それと新しい地図を買い求めた。
 すると会計をした店員が福引き券だか、何だか紙切れを渡してきた。
 何でもガラガラなるクジを引いて商品を貰えるらしいが、運に自信のない私は回すのは後にして置いた。まあゆっくり幸運の時節を待つが好かろう。
 地図によるとここから西にはルラフェンとか云う町があるらしい。
 聞き覚えはないが何しろ酒で有名な町らしいから、情報を求めるためそこへ向かった。

 道中ふと思って、ゲレゲレにどうして君は南瓜村にあんな事をしたんだねと訊いてみた。
 無論ゲレゲレはクウンと鳴くばかりで返事はしなかったが、何か云いたげな顔をしているのが気にかかった。
 するとピエールがもし、と割って入るから、何だねと訊けば、実は先日ゲレゲレ殿からそれについて話を聞き申したと云うから驚いた。
 君は猫語が話せるのかと訊けば、いや違う、所謂読心術と云うやつで、相手の心を読み解く能力だと云う。
 残念ながら猫のようなあまり賢くないものにしか通じないようだが、いずれにせよゲレゲレの考えが聞けるのは興味深い。
 早速ピエールからゲレゲレの話を聞くことにした。

 下魔に肌を焼かれ、満身創痍のゲレゲレはパパスの剣を背負って妖精の国を目指していた。
 ベラに会って治療を受け、リボンを託した後は方々をふらふらと彷徨っていたらしい。
 野草や野生動物で飢えを凌いでいたある日、ゲレゲレの目の前に紫のローブを着た青い肌をした奴が現れた。下魔である。
 魔物といえど恨みはあって、飼い主の仇を討たんと飛びかかったゲレゲレだが、残念ながら赤子の手を捻るようにいなされてしまった。

 下魔は戦利品としてパパスの剣を取り上げたが、そこでゲレゲレは息を吹き返して猛然と立ち上がった。
 その様子を見た下魔はゲレゲレがパパスの剣に執着していることを見抜き、
「もしこの剣が大事なら、あすこの村を襲いなさい。そうして人々を殺して行けばこの剣にかけた退魔を解いてあげましょう」
と云って剣を南瓜村の近くの洞窟へしまい込んだという。
 剣は退魔がかけられているからゲレゲレでは持ち運べない。
 だがこのまま置いたままでは盗人や旅人に盗られてしまう。ゲレゲレは渋々下魔の云うことに従った。

 しかし一度改心歴のあるゲレゲレは人は殺さず、あくまで畑を荒らすだけに留まった。
 その時は精々子供の悪戯程度の具合だったので、村人たちはあまり被害を受けなかった。
 やがて怒った下魔が剣を人質に脅して再三襲撃を命じた。
 ゲレゲレはそれでも人を殺せず、やはり畑を荒らすのみであった。
 しかし規模が以前と比して大きかったためかとうとう飢える人々が出始めた。
 これを見て下魔は満足したのか、この村が壊滅するまで畑を荒らし続けるよう命じ、ゲレゲレは厭々これを承った。
 これがゲレゲレが南瓜村を飢饉に陥れていた理由である。

 私は愕然とした。かつて父を殺し、私の青春を殺した下魔が、とうとう人々とゲレゲレを苦しめ始めていたとは。
 どうしてもあの奸佞邪知を滅ぼさねば気が済まなかったが、あいつは尋常でなく強い。
 それは十年前に実際に戦って分かったことだ。
 いつかあいつを倒せるようになるまで、鍛錬を怠ってはならんだろう。

 道中出てきた魔物に父の剣を突き立ててみると、魔物は凄絶な悲鳴を上げて消え去った。
 下魔がかけた退魔はどうやら順調に効果を発揮しているようだ。
 しかし万が一ゴルキなんかを傷つけでもすると大惨事になりかねないので扱いにはこれまで以上に気をつけねばならん。



少し休みます

ゲレゲレ畑を荒らす理由が本編で何も語られないので、勝手に補完してみました
それと割とポンコツ扱いされるゲマさんの株を上昇(下落)させるのと、
次の町のスネークソードより劣る可哀想なパパスの剣を強化する目的もあります

カボチ村編をかなり大幅に改変してみましたが、どうでしょうか
ここは読者の忌憚ない意見を伺いたいところです

        六

 ルラフェンに着くなり、紫の毒々しい煙が我々を出迎えた。
 その何とも云えない、鼻につんとくる異臭に堪えかね急いで宿の中へ避難した。
 主人に聞けば、ベネットとか云う爺さんが入り口の傍に家を拵えて以降、毎日あの調子で煙をたなびかせ続けているらしい。
 年で呆けかけているのかどうだか知らんが、せめて周りの迷惑を考えてほしいもんだ。

 チェックインを済ませて町を巡ると、どうもここは道が曲がりくねって、複雑に絡み合って、しかも高低差が甚だしくって歩き難いことこの上ない。
 きっと増設に増設を重ねた結果なんだろうが、少しは都市計画というものを練ってほしいもんだ。
 ぶらぶらと見当もつけずいい加減に歩いていると、情けないことに道に迷ってしまった。
 あの煙を町にばら撒く迷惑者に一つ談判くれてやろうと思ったのだが、そこまでたどり着けなければどうしようもない。
 仕方がないから思い切り道を飛び降りながらずんずん進んで行った。
 往来の人が信じられないと云った顔つきで見ているが、知ったことか。

 巨大な煙突のある家へ赴いて戸を叩いてみた。
 すると、顔がしわだか、しわが顔だか判然としない中に眼光だけが炯々とした大変よぼよぼの爺さんが出てきて、文句なら聞かんぞえと剣呑に捲し立てるのには参った。
 よほど文句を云ってやろうという腹積もりで来たのだが、相手は日々の住民からの文句を華麗に躱し続けてきた達人である。
 口の回らない私が到底適う相手ではないと瞬時に悟って、いえ、別段文句はありませんと大嘘を吐いてしまった。
 しかしこれを聞いて爺さんは急に態度を柔らかくして、
「そうか。じゃあわしの研究を見学しに来たんじゃな。感心々々」
と云って私の腕を引っ張って中へ連れ込む。

 家の中は外見と似ず爺さんが独り住むにはもったいないくらい広い。
 ところがその大部分を恐ろしく巨大な壺だか釜だかが占めていて、人がくつろげるスペースは殆どない。
 床に散らばった紙は単に放ってあるのか、はたまたカーペット代わりに敷いてあるのか分からんくらい満遍なく敷き詰められていて、とても足の踏み場がない。
 ベネット爺さんはそのパルプの海をモーゼの如く割りながら移動するためぐしゃぐしゃと汚くなっていくが、本人は一向気にしない。

 吹き放しの二階へ連れて行かれると、爺さんは棚から図鑑らしき分厚い本を取り出した。
 ぺらりと頁をめくり、一つの植物の項目を私に見せた。
 何でも虞美人草とか云う草花が研究の材料に必要らしい。
 私はふうんと云った体で聞いていたが、爺さんがお前さんにこれを採ってきて欲しいと云うので驚いた。
 何故老人の迷惑道楽に付き合わねばならぬ。

 私がうんともすんとも云わないので爺さんはいいか、この実験が成功すれば古代の呪文ルーラが復活するんじゃぞと気炎を上げる。
 何でもこの古代呪文は勇者の血統を引く者しか扱えぬ特別な代物らしい。
 無論現代では勇者家は途絶えているから自然ルーラも一緒に滅んでいる。
 しかしその「知っている場所へ瞬時に飛び立つ」という便利な呪文が滅びるのは心苦しい。
 どうかして勇者以外の血筋でもルーラが習得できないかと実験を繰り返していると云う。

 ルーラは土地についての記憶に呼びかけて発動する系統であるから、実験に失敗して記憶を失うことがままあるらしい。
 彼が長年成果を残せずにいたのもこれが理由のようだ。
 最近になってようやく紙に記録する事を思いついたらしく、研究は順調に進んだとか。
 もっとも代償として部屋がごみ屋敷になってしまったが。

 そうして最後に辿り着いたこの虞美人草だが、最前の通り爺さんは定期的に記憶を失うからこの土地のどこに虞美人草が生えているか分からない。
 町人に聞こうにも長年積み上げてきた恨み辛みでまともに話を聞いてくれる人がおらん。
 もう歳も歳で、遠方まで動ける活力もなく、人望もなく、弱り果てていたところに私が来たと云う。

 どうかこの通り頼むと頭を下げる爺さんに、私は一つの条件を出した。
 無論、この町を毒煙で埋めることを停止する旨である。
 爺さんはもちろん。この呪文が甦ったらもう実験はせんから、煙を出すこともあるまいと云って一も二もなく頷いた。
 そして「さっきまで虞美人草の代替を探す実験をしていたからちと眠い。寝る」
と云ってベッドに潜り込んだ。先程我々が浴びた煙はこの実験の成果らしい。

 図鑑を見ると虞美人草一つにヒナゲシだとかシャーレイポピーだとかコクリコだとかルラムーンだとか色々な別名があるには驚いた。
 町人に訊くにしてもこう名前が多いと幾分疲れそうだ。
 家を出るとすぐそこに井戸がある。
 少し水でもと覗き込むと、誤って懐のゴルキを中へすぽりと落としてしまった。
 これはいかんと覗き込むと、勢い余って私自身も落ちてしまった。

 吾が十六年の人生もここで決着か。
 と落下しながら悲しんでいると先に落下したゴルキがクッションになって一命を取り留めた。
 私はゴルキにベホイミをかけてすまん、と云ったが、そのすまんの中には落としてしまって申し訳ないと云うすまんと緩衝材になってくれて難有いのすまんが合併している。
 読者諸兄は少し疑問に思ったかもしれない。なぜ我々は水を大量に湛えている井戸の中で、この会話劇を披露しているのか。
 いたって簡単な理由である。井戸が涸れていたのだ。

 ではなぜベネット爺さんはこの井戸を涸らしっぱなしにしているか、そこにも重大な理由があった。井戸の中に猫が居るのだ。
 井の中の蛙云々と云う諺は大抵の方々はご案内だろうが、井の中の猫を見つけたのは世界広しといえど私だけであろう。
 妙なところに猫なんか飼っているなと思っていると、ゴルキがその猫君に向かって、きみはだれ、ぼくはゴルキなどと話しかけ始めた。
 猫なんぞ話しかけたってどうもなるもんか。第一猫又じゃあるまいし。
 そう思うと、猫の口からなんと「吾輩は猫である。名前はまだない」と人間の言語が飛び出すから仰天した。

 スライムやそれに乗るちっこい騎士だけでなく、猫畜生まで喋れるとなるといよいよ人間は言語の所有権を主張することもできん。
 おい、君は何故猫の癖に喋れるのかと問うと、猫が喋ってはいかん道理でもあるのかとやけに落ち着き払っている。
「猫が喋るなど往古来今聞いたことがない」
「吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌れなかった。しかしそこは世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を殊にしている吾輩であるから、気焔万丈の勢をもって天意に背き、見事人間言語習得と相成ったのである」

 猫の癖にえらく饒舌で驚いたが、ゴルキは何と云うこともなく泰然としている。
 ただこれは云っている意味が分かっていないのだろう。
 すると猫は、君の名はゴルキと云ったね、飼い主も随分な名を付けるなと感心している。
 それを受けてゴルキがねえ、ゴルキってどういういみかしってる? と質問するのでひやりとした。
 由来を知られると激昂して元のスラリンに戻るかもしれん。
 しかし猫は余計なことは云わず、それはいわゆる猫跨ぎと呼ばれる種族の一員で、ある界隈では大変珍重にしていると煙に巻くので恐れ入った。

 嘘を吐かず場を切り抜けるとは大した腕前だ。
 よくそんな言葉を知っているなあと誉めると、吾輩を一般猫児の毛が生えたものくらいに思ってもらうと困る。
 吾輩は猫ではあるが大抵のことは知っている。トチメンボーが西洋料理でないことも、オタンチン・パレオロガスが元は唐人の名であることも、さる坊さんは路傍で賊に斬りかかられても電光影裏に春風を斬ると云ってこれをかわすことも、首を縊ると背が一寸ばかり伸びることも、みんな知っていると云うので驚いた。
 もしかすると私やヘンリーなんぞより余程学がある。賢いですなあと感心すると、
「その他にも色々知っているが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節の一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる」
と云うので、へえ、難有き仕合せと畏まった。
 かくの次第であるから、私はこの名前のない猫を先生と呼ぶことにした。

 ところで、どこの生まれですかと聞いてみると、はて、とんと覚えておらん。
 何せ気がついたらベネット爺さんに飼われていたからな。と云うので、ではなぜベネット爺さんはあなたをこんな所で飼うんでしょうねと問うと、先生は少し渋い顔をした。
 余程厭な思い出でもあるんだろうと遠慮しようと思ったが、先生は少しずつその来歴を語り始めた。

 何でもベネット爺さんが例の如く不可思議な実験を敢行していて、それが畜生を人間に変身せしめる一大禁術の類だったらしい。
 不幸にも当時若猫であった先生はその禁術の実験台第一号として迎えられ、あの地獄の大釜へどぼんと放り込まれてしまった。
 先生が次に目を覚ました時、何と不思議なことか、浄瑠璃役者もかくやと云わんばかりの冷涼にして美麗なる声色を朗々と猫の口から吐き出したのには気狂爺さんも驚いた。
 久方ぶりの実験の成功――ただし当初の目的は達成し得ていないため、この意味に於いては失敗である――として町中を練り歩き、見よこれぞ万物の霊長を凌ぐ聖猫であると見せびらかしたと云う。

 しかし人間とは己の常識と外れた存在をそうそう容認できるものではない。
 先生がふらりと往来を歩く度にひやっ、化け猫が来た、猫又が来た、目玉を抜かれる、へそを取られるなどと勝手なことをまくし立てて追い払い、到底野良猫より陰惨な扱いを受けてしまった。
 いかに天恵を浴する聖猫とて白眼の憂き目にかかってはとても幅の利かせようがない。
 すごすごと涸れ井戸の中へ身を潜め、世を恨むでもなく憂うでもなくただ泰然自若と世の趨勢を見守る神猫としての役目を担ってここに居た、と云う。

 いささか大言壮語の感はあるが、私はこれを聞いて大層憐れんだ。
 爺さんの勝手な都合で人語を植え付けられ、衆前でもって発表され白眼視され、こんなつまらない涸れ井戸の中で日々を過ごすなど、私には想像もできない苦痛だ。
 ところがこの猫はそんな冥利の悪さを一切感じさせぬ気高い気風でもって我々と面している。
 これが精神的技倆のなせる技か、はたまた高潔な思想の賜物か黒白決しかねたが、ともかく感銘を受けた私は「先生は偉いですね」と大いに誉めた。
 これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。

 あまり可哀想だから、いっそこの猫を引っ張って連れて行こうかと思った。
 けれども飼い主に断らないでやるのは誘拐であるし、第一この猫に聞いてみないと是非も分からん。
 しかし出会ってすぐさま勧誘するのは前の経験から失敗すると断じてやめておいた。
 もう少し交友を深めてからでも遅くはなかろう。
 慇懃に挨拶をして先生と別れた。

 町のあちこちで虞美人草について尋ねてみるが、存外誰も知らない。
 もっとも食用にもならず、観賞に堪えうるかも分からん地味な野草の居場所を知る人間がどれほど居ようか。
 明け方になると発光する特異な性質こそ持っているが、夜中ならともかく夜明けと云うのは人間にとっていささか眠すぎる時間帯だ。定めし注目され辛いだろう。
 普段から見慣れている住人にとっては野草どころか雑草の一味として軽んじられている気風もある。
 そういうわけで私の耳に入るのはそれとは関係のない時事的な下世話ばかりであった。

 ラインハットのヘンリー殿下が結婚したと云う報知(しらせ)を聞いて驚いた。
 結婚くらい勝手にやれば好いのだが、できることなら友人代表として参加して一席ぶってみたかった。
 大方私が放浪の身の上だから探し出して招待するのも骨が折れるとて早々に済ましてしまったのだろう。
 祝辞の一つでも云ってやりたいが、生憎大陸を違っている。
 どうしようかと考えていると、ベネット爺さんの発言を思い出した。
 古代呪文ルーラと云うのは記憶にある土地へ瞬時に飛び立つ呪文らしい。
 もしそれでラインハットへ飛ぶことができれば、危険な大海を渡らずともヘンリー等に会える。
 爺さんがルーラを覚えた暁には、手伝いの褒美として教えて貰おう。

 武器屋に寄るとスネークソードなる武器が売ってある。
 しかもそれは父の剣より余程切れ味が好くって、軽くって、持ちやすい上等な品だから腹立たしい。
 ただ退魔の力があるから父の剣の方が実用的ではある。
 もっとも下魔によって授けられた力では少々釈然としないが。

 ルラフェンの銘酒「人生のオマケ」。
 これがいかな品であったかと云うと、舌鼓打つ美酒どころか、魔物さえ逃げ出すまずさらしい。
 もうどこにも出されていない伝説の地酒らしいが、そこまで不味いなら永遠に歴史の積雪に埋もれるが好かろう。
 好奇心で酒場の主人にそれとなく聞いてみると、そ、そんなもありませんよおアハハと目線を逸らすので黒に違いない。
 しかし不味いものをあえて飲む理由もないので追及は棄めた。

 町では相変わらず光の教団の信者らしきものが勧誘している。
 例の赤シャツも婆さんの話によれば光の教団への斡旋者であったらしいから、このご時世は余程勧誘者が蔓延っている。
 実態を知る私からすればどうしても歯止めを利かせたかったが、口の廻らない一浮浪者にできることもたかが知れていた。

 曲がりくねった街路に歩き疲れて、宿で休養を取っているとロビーに商人が現れた。
 やっ、こんにちはと挨拶をするのでこちらも返答して、少し世間話をした。
 聞けばこの商人も南瓜村を訪れたらしいが、田舎なのと、飢えているのとで商売にならず困り果てたという。
 どこかの阿呆のせいで人口は減ったし、何より畑の平穏が戻ったので徐々に復興することだろう。
 念のため虞美人草について聞いてみたら、見事群生地についての情報を頂いた。
 大陸の西の半島付近に行けばいやと云うほど見つかるらしいから、明日になったら早速向かうことにする。

 翌朝、宿を出ると辺りは清純な空気に澄んでいた。
 云わずとも、ベネット爺さんが実験を中止したからである。
 町の人々も大砲のような煙突から毒々しい煙が立ち込まないのを不審がって、あのじじいもついに死んだかなどと縁起でもないことを囁いている。
 もっともあの爺さんも随分お年を召していらっしゃるから、実験が終わると生き甲斐を失ってぽっくり逝ってしまうかもしれない。
 そうなると私が殺したようで寝覚めが悪いから、できうる限りは長命でいてもらいたいもんだ。

 町を出て西へ向かう。するとかなり大きな滝が形成されているのを見つけた。
 流石にセントベレス山の華厳の滝には敵わないが、あれよりもずっと綺麗で心洗われる景色であった。
 見識のあるピエールや純情なゴルキは巨大な滝の流れに目を奪われていた。
 獣然としたゲレゲレは残念ながら脳力が足りず風情を楽しむ余地がないようだった。
 同じ猫でも、ベネット爺さんの井戸の猫ならこの美しさがわかるだろうか。
 井戸の中で隠居する先生も久しくしているであろう、外界の美景を見せてやりたかった。

 滝山を廻って西海岸へ着いた。聞いたとおり半島の形をしている。
 ここらで見つかると云うが、生憎時候外れで虞美人草に花は咲いていない。
 惜しいことに、私は虞美人草の木部だけでそれを判別できる見識眼は持ち合わせていないから、これにはほとほと困った。

 仕方がないから一人と三四匹がかりで見境なく摘み取ってみた。
 ただどれもこれも青臭いばかりで辟易した。
 そうしてしばらく黙々と作業に従事していたが、日が落ちる頃にはもう草を摘むのが厭になった。
 海辺へ降りて手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ青臭い。もう懲り懲りだ。
 何が採れたって草はもう摘みたくない。草も摘まれたくはなかろう。
 そうそう野営の準備を済まして横になってしまった。

 道中で魔物と戦闘したり、屈んで草を摘んだりと肉体に堪える真似ばかりしたから、日が落ちたらすぐに寝入った。
 そうしてぐうぐう寝ていると、やがてむくりと目が覚める。
 やっ、朝かと思うとまだ暗い。昨日は早く寝過ぎたようだ。
 おやおや、寝直そうかなと考えた矢先へ、ぼうと目の端で何かが仄めいた。

 目を凝らせば、地面の一角が確かにぼんやりと光っている。
 これはと思って摘んでみると、何だか嗅ぎ覚えのある匂いが立ちこめた。
 私は思いだした。虞美人草――シャーレイポピーだか、ヒナゲシだか、ルラムーンだかはどうでもいい。
 ともかくそいつは明け方になると薄ぼんやりと光るのだった。
 どうしてそんな重要な事を忘れていたのかと自分の頭をぽかりとやって、袋一杯に青草を摘んで野営地に戻った。

 ゴルキとピエールの片割れはスライム特有の姿勢で、ピエール自身は相棒の上で腕組みをして警戒態勢で眠っている。
 一方ゲレゲレは腹を出して大の字に寝そべっている。
 これでは夜襲の際に瞬く間に柔らかい腹を裂かれてしまう。
 ただそうしてぐっすり眠ってくれるのは私を信頼して安心しきっていることに相違ないから、そこは素直に嬉しかった。

 日がだんだん昇って朝になった。元の道を引き返してルラフェンに戻った。
 キメラの翼で戻る手もあったが、華厳の滝二号が好評だったため再び徒歩で戻った。
 魔物とて人の心と似通った部分があるのかもしれない。
 ことにピエールは語彙があって機知に富んでいるから、まるで人間と話しているような心持ちになって淋しさが紛れた。
 ヘンリーが抜けた当初は一人旅の孤独を危惧したが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 ベネット爺さんに虞美人草を渡した。
 爺さんはこれだ、これに違いないと云って年甲斐もなく狂喜乱舞している。
 ふと部屋に虞美人草そっくりの匂いが立ちこめているのに気がついた。
 爺さんに聞いてみると、虞美人草に含まれる成分の近似を使っていたからこの匂いがするんだと云う。
 ともかくこれで実験は大幅な一歩を進む。早くラインハットへ赴いてみたかった。

 爺さんが地獄の大釜へ煎じた虞美人草を放り込み、何やら詠唱している。
 しばらくすると釜から光が漏れ出るのが見えた。
 爺さんの顔が沸き上がる喜びと、物理的に発せられる光に輝くのを目にした一瞬、辺りに閃光が迸った。
 釜の隣にいた私は轟音と衝撃に身体をしこたまやられて気を失った。

 気がつくと辺りには煙がもうもうと立ちこめていた。
 虞美人草の香りが鼻につんと来るのを感じながら、辺りを見渡した。
 梯子段の上にいた爺さんが転落して地面に倒れている。
 慌てて駆け寄ると爺さんはうーん、と呻り声を上げながらむっくりと起きあがった。
 あの高さから地面と激突して怪我一つないとは余程頑強な爺さんだ。
 目を覚ますや否や「どうじゃ、実験は」と耳元で胴間声を出すからこっちは危うく気を失いそうになった。
 この快活さはもはや魔物じみている。

 釜の底には青くぼんやりと光る、綺麗というか、少々毒々しい色の液体がたゆたっている。
 爺さんが釜の底部にある蛇口をひねる。青い液体が滴り出た。
 桶で受けていたが液体はすぐに尽き、精々三合ほどしかない。
 爺さんはそれを丁寧にグラス二杯に注いだ。片方を私に渡してきた。
 すると爺さんがグラスの青く光る液体をぐい、と一気呵成にあおるのには仰天した。
 爺さんがお前さんも飲めとゼスチャーしてくるが、こんなものを飲み干して平穏無事でいられるか不安どころの騒ぎではない。
 しばらく躊躇していたが飲み干した爺さんは何ともなさそうなので、南無三、と意を決して飲み込んだ。

 味は予想通りというか、虞美人草の匂いがした。
 しばらくは異変が起きないか非常にやきもきしたが、やがてもうどうにでもなれというある種超然とした心持ちになってきた。
 爺さんが床に散らばる紙を掃除している間、手持ちぶさたな私は涸れ井戸に赴いた。

 井戸は総じて汲み取り桶を引っ張る縄があるので上り下りに不便はしない。
 するすると降りてみると、最前の如く灰色の猫が悠然と構えていた。
 やあ、また来たねと出迎えてくれる先生に、おみやげですと云ってさっき買った鮪の切り身を餞別した。
 すると先生大きに喜んだと見えて、ぺろりと二十匁を平らげてしまった。
 そうして腹を膨れさした後は井の中の生活で困窮している運動のため、道ばたで摘んだ猫じゃらしでもってじゃれ遊んだ。
 いくら頭の裏(うち)で高尚なことを考えていようとも、こうしてじゃらしてやれば表面上はただの猫である。
 途端にこの猫先生が可愛くなった。

 ふと思って、普段は何を食べているのか聞いてみた。
 先生はふむ、それなんだがね、と曖昧に答え始めた。なんでも時折井戸に食べ物が放り込まれてくるらしい。
 普段の糊口はそれで凌げていたようだが、じっと井の中でまんじりともしないのは至極退屈で辛かったと云う。
 もっとも今は君と出会ったから久方ぶりに面白いよ、と喉をごろごろと鳴らす。
 私は素直にこの先生を満足させることができたようで嬉しかった。
 さよなら、と挨拶を交わして地上へ出た。

 爺さんはベッドの上で憮然としていた。
 どうやら青い液体はさっきの時分でみんな排泄されてしまったらしい。
 吸収されなかったところを見ると、彼は呪文の習得に失敗してしまったようだ。
 私が黙っていると、お前さんはどうかと訊いてきた。
 一緒になって青い液体を飲んだことを思い出して、懸命に頭を巡らした。

 呪文はバギやベホイミなど色々と覚えているが、中にどうも知った覚えのない知識があるのに気がついた。
 学んでいないのに知っているとは少し不気味だが、試しに唱えてみた。
 するとふわりと足下の感触がなくなって体が浮いた。
 おお、と感嘆したは好いが、そのまま非常な速力で飛び上がるから、しこたま天井に頭をぶつけてしまって大いに痛かった。

 爺さんが好かったのうと祝ってくれた。
 はあ、と喜んで好いやら悲しんで好いやら分からず曖昧な返事をすると、まあ好い、ともかく実験は成功じゃと云って杯を傾けた。今度は普通の酒である。
 もう一度虞美人草を持ってきましょうかと云ってみた。
 すると爺さんはもう好い。君に伝わってわしに伝わらんと云うことは、わしに才覚がないと判明したようなものだからなと云った。
 何でも人によって扱える呪文の系統が違うらしい。
 どうれでヘンリーのメラを一生懸命見様見真似しても唱えられないわけだ。
 爺さんは少し落胆していたが、実験の成功は素直に嬉しかったようで、やりきった笑顔を浮かべていた。しかし、その姿は同時に淋しそうでもあった。

 爺さん、井の中の猫はどんな具合ですかと訊いてみた。
 すると爺さんはきょとんとして何のことかと聞き返してくる。
 ほら、あの人の言葉を話す灰色の猫ですよと云っても、一向通じない。
 どうやらルーラの実験の失敗と同時に先生の記憶も失ってしまったらしい。
 人々から疎まれ、飼い主に忘れ去られた先生が不憫で、私は声を詰まらせた。

 そうして押し黙った私へ、爺さんは井戸か。井戸なら何か覚えがあると云った。
「わしの記憶は紙に書かれてあることくらいしか知らないが、何でも心の内にこれだけはせねばと云う観念がある。時折井戸の中に飯を投げ込むことじゃ。それだけは紙に書かれていなくともずっとやっておる」
と云った。

 私は彼の心裏にある罪悪感の相を見いだした。
 きっと猫先生を井戸の中へ追いやってしまったという罪の感覚と、世話をする習慣だけが彼の中に生きているのだろう。
 井戸の中へ飯を落とす行為が彼の罪悪感を和らげているのだとしたら。――それを完全に取り払える考が、私の中に閃いた。
「爺さん。井戸の中に居る猫、あれを私にくれませんか」
 爺さんは不思議な顔をした。何のことかいまいち理解していないようだが、何か引っかかるものを感じたようだ。
 ああ。身よりのない可哀相な奴だ。貰ってくれと上の空で云う彼の顔には、微かな安心が浮かんでいた。

 井戸の中へ再三飛び込もうとすると、後ろでにゃあという声が聞こえた。
 振り返ると斑入りの猫が毛繕いをしながらこちらを見ている。
 やあ。君に会って久し振りに外の空気が吸いたくなってね、と云って喉を鳴らす。
「こうして広い空や野を見ていると、無性に心が騒ぐよ」
「そうでしょう。動物はすべからく自然と触れ合って運動するべきです」
「もっともだね。私も身分さえ好ければもっと外界を遊ぶんだが……」
「でしたら先生、私と一緒にもっと広い世界を見ませんか。目的地なんぞありませんが、ぶらぶらと適当な所を眺め廻るのも乙なものですぜ」
「君とかね。そりゃあ魅力的な誘いだが、生憎私は飼い主が居るからね」
「それがですね、飼い主にはもう話をつけてありまして。今や私があなたの飼い主です」
「おや」
と云って先生は目を見開いた。猫睛石の如く爛々と輝くその眼は、驚きと興味と、期待に満ちた光を放っていた。

「君が吾輩の飼い主か。飼い主に先生と敬われるのも滑稽だが、なるほど。そういうわけならついて従う他はあるまい」
 先生は軽々と私の体へ飛び乗り、両肩へ襟巻きのようにもたれ掛かった。そうして鼻の孔を三角にして咽喉仏を震動させて、笑った。
「今後ともよろしく頼む」
 猫が笑うと云うのはあまり聞かないが、確かにこの時先生は笑っていた。



少し休みます

ベネット爺さんの井戸の猫について、SFC版しかプレイしたことのない人へ簡潔に説明しておきます
PS2版以降に実装された「名産品」について情報を教えてくれるキャラクターとして、ベネット爺さんの井戸の中に猫が追加されました
話しかけると突然選択肢が出て、「はい」を選ぶと前触れなく猫が喋り始めます
ドラクエで喋る猫は珍しくありませんが、考えてみると中々理不尽です

そして、「夏目漱石」で「猫」と云えばこれしかないでしょう……と云う発想の下に先生が生まれました

 ルーラとは不思議な呪文だ。
 私と身の回りのゴルキと先生ばかりかと思えば、町の外に置いてある馬車まで空中へ飛び上がるのには驚いた。
 幸い着地の際はふわりとした挙動で降りるから破損はしなかった。
 しかし旅の扉と云いルーラと云い重量物をこう軽々と扱って貰っては少し不安になる。

 城下町はやっぱり民家の数が少ないが、以前よりずっと明るい雰囲気に包まれていた。
 以前城には近寄るなと物騒な警告をした老人も明るい顔をしていた。
 ヘンリー様が結婚なされたようですね、と訊くとそれはもう、大層立派な結婚式じゃったよと目を細める。
 マリア様は本当に優しい人じゃ、わしもああいう人と結婚したかったのう、もう遅いけど。
 としょんぼりしているから吹き出しそうになってしまった。
 先生は喉をころころ鳴らしている。猫なら城へ連れて行ってもお咎めはあるまい。

 城門の兵士はようこそ、ラインハット城へと云って検閲を始める。
 しかし私の顔をじっと見た後、あっ、これは、失礼をしましたと云ってさっと後ろへ下がる。
 気持ちが好かったが、私より先に猫がずんずん歩いて行くのには苦笑した。
 これではどちらが飼い主だか分かったものではない。

 デールはもう以前の頼りなさげな雰囲気を払拭して、立派な一国の主として国を治めていた。
 これはこれは、お久しぶりですと挨拶をするので、私も久しぶりですとぺこりと頭を下げた。
 すると横の大臣は何が不満やら、ぐっと眉を顰めた。
 私の礼に不備があったのだろうか。なにしろ王族への挨拶の仕方を禄に知らないのだ。
 これではあちこちで天空の剣を持たせる計画に支障がでるから、後でこの厳しそうな大臣に躾て貰おう。
 もしかしたら王の膝の上を陣取る猫に不快を表したのかも知れないが。

 ヘンリー夫妻は上の階にいるらしい。
 階段を上がってドアを叩いた。間もなく扉は開かれたが、一瞬、目の前の王族が誰か分からなかった。
 奴隷服の姿を十年も見続けてきたから、綺麗で雅な衣装は彼とどうしてもそぐわない感じがした。
 見惚れると云うより、呆気に取られてヘンリーをまじまじと見つめていると、おれの顔に何かついているかと尋ねられた。
「うん。王族の貫禄が顔に付いている」
「お愛想さま。どうだい調子は」
「ぼちぼちだよ。そちらもどうやらおめでたがあったようで」
「君も案外耳が早いね。別の大陸にいたのじゃないか」
「そうだったが、君が私に招待もせず式を始めたと聞いて飛んでやってきた」
「そう云われちゃ耳が痛いな。こちらにも事情があった次第だからどうか許してくれ」
「おいおい許すさ」
 そうして我々は世間話に花を咲かせた。
 後にマリアとも一通り話したが、そこらの始終は蛇足の感があるので追って書くことにする。

 ヘンリーがオルゴールをくれるそうだ。
 おれの部屋の宝箱に残してあるから持って行ってくれと云うが、旅の身にそんな重いものは持ち歩けない。
 遠慮しておいたが、ヘンリーがどうしても持って行けと云う。
 仕方がないから貰うことにするが、きっと馬車の隅で埃をかぶる羽目になってしまうだろう。
 第一王子の部屋は太后の部屋として再利用しているようで、随分老けたように思われる太后が鎮座していた。
 一言二言挨拶を交わして奥へ進むと、相変わらず中身のない宝箱が安置してある。
 何のために置いてあるか分からないが、見栄えは好いので調度品のつもりなんだろう。
 あるいは将来の子供のための玩具箱かもしれない。

 中を検分してみると、ヘンリーの云ったとおり白いオルゴールが中に入っていた。
 蓋の上にはヘンリーとマリアを施したらしき人形が据えられている。
 人形にされてもあまり美貌が変わらないところを見ると二人とも美形で羨ましい限りだ。
 しかし後世になってこれを取り沙汰されると赤面するのは必至だろうなと思った、

 宝箱を閉めたとき、蓋の裏から何か白いものがひらりと舞った。
 拾い上げてみると、どうやら一葉の便箋である。
 宛先には私の名前があり、その下には親愛なる子分兼親友ヘンリーよりと銘打たれていた。

意趣返しと云う訳でもないが、以前おまえに本を読ませて貰ったとき、そこに書いてあったおれへの感謝をそっくりそのままおまえに返そうと思う。
本当にありがとう。
恥ずかしくなるくらい幼稚で、ひねくれていた昔のおれが変わったのも、あの地獄で生きながらえたのも、傍におまえが居てくれたおかげに他ならない。
いくら感謝してもしきれない。

パパスさんの事も、おまえの事も一日だって考えない日はなかった。
王族になって、マリアと結ばれてからもそれは変わらなかった。
いずれ子供が出来てもきっとそうだろう。
おれの人生はすべて、おまえのためにあると云っても過言ではない。

実を云うと、おまえがマリアに求婚したとき、マリアがそれを受けても構わないと心の端では思っていた。
おれにとっての幸せはおまえが幸せになることくらいだからな。
それだから、今自分が置かれている状況が時々恨めしくなる。
放浪者のおまえを差し置いて、おれだけが地位と家族を欲しいままにしているんだ。
おまえと入れ替わってやれたらどれだけ好かったか……

おれは咎ある身だ。おまえはいつだって君の責任じゃないと云って慰めてくれたけど、おれの心の内に燻る罪の意識は容易に消えなかった。
おれがしつこく謝っていたのもそのせいだ。おれは、おまえにこの人生を捧げねばならないと思っていた。
おまえの旅にどうしてもついて行きたかったが、国民とデールはそれを望まないようだ。
贖罪が果たせないのは悔しいが、「自分の使命を努めてからでも好い。ゆっくりやれ」
とおまえは云うだろうから、そうするさ。

しかし、これだけはおぼえておいて欲しい。
おまえなくして、おれは居ない。
おまえのことをこれほど想っている人間が居ることを、どうか忘れないでくれ。

 便箋を丁寧に懐へしまって、部屋を出た。
 ヘンリー夫妻の元へ戻ると、いつも通り明るい二人が出迎えてくれた。
 どうでした、とマリアが尋ねた。
 私は少しく躊躇って、
「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」
と云った。
 ヘンリーは笑って、
「そうだろう」
と答えた。

 二人に別れを告げると、ヘンリーがお前にも好い女が見つかると好いな、アハハハと調戯う。
 マリアはあなたの結婚式には是非とも呼んでくださいなと恋人もいない時分に気の早いことを云う。
 しかし私も好い歳だから嫁の一つでも探さねば沽券にかかわる。
 知り合いの女、と思い浮かべてまず私が見出したのは、他でもないポワンの顔だった。

 いや、彼女は私が六の頃に既に大人であったからもう数十は歳が上だぞ。第一種族が違う。
 もっとふさわしい人間がいたろう。ビアンカなど近い年でもって一緒にレヌール城を冒険した仲だ。
 しかし今は遙か海の彼方の大田舎にいると云うから滅多なことでは会えんだろう。
 ポワンが年上すぎるなら、ベラはどうだ?
 しかしこないだ会った時も相変わらず幼女の姿をしていたからあれに求婚すればたちまち少女趣味の烙印を押されかねない。
 そうなると新規開拓の道のりを歩むほかないが、私のような寡黙な朴念仁を好いてくれる人が早々現れるはずもないだろう。
 将来へ漠然とした不安を残しながら、階下へ降りた。

 階下、玉座の間には相変わらずデール王が座っている。
 お邪魔しました、と挨拶をすると王はぽんと手を打って、丁度好かった。
 たった今家臣が調べ物を終えた時分ですと云って、かつて勇者の使った盾について教えてくれた。
 なんでもサラボナと云う町にその盾を見かけた者が居るらしい。
 ルラフェンの南にあるらしいから、他の誰それに取られない内に貸していただくことにする。

 ルーラでルラフェンまで戻り、南へ向けて出立した。
 しばらく進むと砂地があって、うわさのほこらとかいう怪しい屋号の宿がある。
 噂になるくらいだから定めし特異な催しでもやっているのかと思うと、何のことはない。
 単に人々の噂を書き連ねたノートとやらが置かれているだけである。
 それも嘘か誠か判別せん眉唾の風説ばかりで一片も薬にならない。
 しかし内容はすこぶる愉快で思わずくすりと来るものもあって、読んでいて飽きがこない。
 私も便乗して「ラインハットのヘンリー殿下は一度己の投げたブーメランで死にかけたらしい」と書いておいた。
 あくまで噂の体であるから、彼の名誉を毀損するおそれもないだろう。

 宿には他にも修道女が泊まっていた。修道院で花嫁修業を終えた帰りらしい。
 話している内にどうも噛み合う箇所を感じて、彼我とも海辺の修道院の出自であることがわかった。
 途端に話が弾み、場が和気藹々とし始めた。
 しかし不思議なのは、最近海辺の修道女を出たはずの彼女らが、どうして交通の途絶えたこの大陸にわたってきたのだろう。
 私のための特別船の他に船が通ったのだろうか。

 話の中でフローラと云うどうも聞き覚えのある名が出たが、やはりどうしても思い出せなかった。
 とかく敬虔で清廉潔白なお嬢様らしいから、一度で好いから会ってみたいものだと思った。
 まさか嫁にしたいなどと云う不相応な了見などは、この時欠片も持ち合わせていなかった。



以上でルラフェンまでの投稿は終わります
結婚編はやはりDQV最大のイベントと云うことで力を入れているため、
完成までちょっと時間がかかると思われます

オリジナルシーンを多々入れているため、ご不明な点がありましたらどうぞお気兼ねなくお問い合わせください



随分お持たせしました

どうも文章中で齟齬や矛盾が出ると見逃せない性質で、一々推敲していたらあっという間に一月も経ってしまいました
今回はそんな私に代わって「先生」がお詫びの小話を披露して下さるそうです
まったく幸甚の至りです、ではどうぞ

 主人はヘンリー夫妻との会話を後で書くと云っていたそうだが、ついぞ忘れてしまったらしい。
 しかし今更になって書けと催促するのもちと酷であるから、僭越ながら吾輩が筆を執ることにした。
 猫が筆を執ると云っても何も噴飯せしめるには値しない。
 何せ吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。
 人の語を用いて筆誅するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。

 あと、ヘンリーが「おまえ」と「君」を混ぜて使っていたため、ここでは吾輩の趣味で「君」に統一させていただくことを注記しておく。

 ヘンリーがまあ座りたまえと云う。
 主人は礼儀を知らぬ男であるから赤い天鵞絨の上へ遠慮なく尻をつけた。
 しかし彼が礼儀を知らぬのは何も性格のためではない。
 事情により仕方なく礼儀を覚えなかったそうだから不憫の極みである。
「しかし随分変わったな。よっぽど王子らしいぞ」とあたかも王子らしさを知った風に云う。
「そうかね。変わったと云えば君も前より険が取れてるぜ」
「本当か」
「うん。前は何というか、飢えた野犬みたいな目つきだった」
 この云い草は失敬である。しかし主人も何だか納得している風なのでそうなんだろう。

 吾輩が主人の膝の上を占拠すると、ヘンリーがなんだその猫はと尋ねた。
「驚いちゃいけないぜ。何と人語を饒舌れる猫なんだ」
「珍しいね。どこ産まれだい」
「どこ産まれだって好いじゃないか。ほら、何とか云ってみな」と吾輩の頭をぽんとたたく。
 しかし別段云うことも思い浮かばず、とりあえず挨拶代わりににゃあと鳴いてみた。
 するとヘンリーは途端に笑みを浮かべて「そうか。式に呼ばなかった復讐と云う訳だな。しかしそう徒に人を乗せる真似はいかんね」と主人を窘める。
 主人は少々不服の体で「私が嘘を吐くと思っているのか。ほら、何か云い賜えよ」と云って再度吾輩の頭を撲つ。ちと痛い。

 ヘンリーは諸手を挙げて「わかったわかった。そこまで悔しかったんならそう云えば好いのに、君も強情だね。埋め合わせはするから我慢しとくれ」と優しく云う。
 主人は呆れて、「先生に質問もしないなんて勿体ないですね。ねえ先生」と云ってさっき叩いた吾輩の頭を撫でる。
 どうも主人の「何とか云え」とはヘンリーに向けて放ったものらしい。
 そこをしっかり伝えられない辺り主人の対話能力のほどが伺える。

 そういえばマリアが居ない。どうしたのだと主人が訊けば、今は寝ていると帰ってきた。
「王族も暇だな」と妙に嬉しそうに主人が云う。
「暇でもないさ。ただ忙中自ずから閑ありと云うだろう。貴重な暇だからこうして満喫しているのさ」
「なるほど。しかし昼間から寝ていては夜はさぞ眠れまい」
「そうさ。夜はあまり寝ないからな」
「なぜ」
「なぜって……ハハハハ君も人が悪いな。そう調戯うこともないだろう」

「調戯いやしない。なぜと訊いているんだ」
「うーん、そう真面目に突っかかられるとちと困るな。君も大人なんだから察してくれ」
そう云ってヘンリーは顔を赤くした。主人は依然としてヘンリーを見据えている。吾輩は少々居心地が悪くなった。
 かような朴念仁を主人に持ったとあってはややもすると吾輩の飼い猫としての器量も疑われかねない。
 もっともそれを指摘する者もおらんから杞憂で終わるだろう。

「大人でも子供でも夜は寝るもんだ。そうもったいぶると埋め合わせを段々増やすぜ」と痺れを切らした主人が抜き身を放つ。
「弱ったな。君も余程物分かりが悪いね。夫婦が夜にすることと云えば一つだろう」とヘンリーは間一髪でかわす。
「子作りか」とうとう主人が懐から鉄砲を持ち出した。
「そう露骨に云うと、意味もないことになるが――まあ善いさ――デールが妻帯しないからおれ等が頑張らないといかんのだよ」心臓を打ち抜かれたヘンリーは弱々しく答えた。

「それだって昼に済まして夜寝れば好かろう」
「君のような無法者にかかると叶わないな。市民の範型たる王族がそんな爛れた真似できるわけないだろう」
「それぐらいで模範から外れるんなら王族なんかやめちまえ」と主人は無茶を云い出す。
「君は一体冷やかしに来たのか、祝言を述べに来たのか判然しないな」殿下は大いに困っている様子だ。
 一国の殿下をここまで弱らせるあたり主人も並の腕前ではないが、悲しいことにこれは技量でなくてただの性格由来のものであるから、どこへ持ち出しても蕎麦屋の暖簾ほどの役にも立たぬ。
「無論祝言さ。結婚おめでとう」とさんざん冷やかした相手を大いにほめる。

 その時、奥のドアが開いて新しく人が這入ってきた。髪の幾分乱れた、寝ぼけ眼の若い婦人である。
「おはようマリア」と夫が昼過ぎの挨拶をした。
「おはようございます。……あら」
 だらしない、と云うより無警戒の顔を晒していた彼女は、夫との愛の巣に居座る珍客に少なからず驚いたようである。
「おはよう」と主人があたかも自分も王族の仲間のような口振りで挨拶をする。
 しかしマリア殿下はこの平民の馴れ々々しい挨拶に気を悪くした風もなく、「あらすみませんね。お構いもしませんで」と物柔らかな対応をする。

 この一連の流れを見る限り主人も王族の傘下にあられるように感ぜられるが、その割には彼の格好はまるで修行僧か浮浪者相応の所である。
 吾輩は所詮昨日今日で主人と知り合った仲だからどうか分からないが、この国においては彼は珍重されるべき高名を欲しいままにしているらしい。
 であればもっと分相応の身なりをしたら良さそうなものだが、そこをあえてぼろを纏う辺りが主人と世俗の下々との意識の差である。あるいは世間体の差である。

「いえいえこちらが飄然と来ただけですから。結婚おめでとう」
「ありがとうございます。その、あなたを呼んでから挙げようかと話もしていたんですが、ヘンリー様が急かすもので」
「おや急かしたのは君だろう。ヴェールが届くやぴょんぴょんと兎みたように跳ね回ってからに。まるで子供じゃないか」
「いやですわ。あなただってオルゴールなんか恥ずかしいものを作らせて。どうするんですあんなの」
「オルゴールなんぞ作らせたんですか。君もハイカラな真似をするね」
「なにちょっと職人が丁度城内をうろついてたからね。出資削減のために安く雇ったんだ」
「なんぼ安くたって、結婚式を挙げる時点で国費圧迫の沙汰だろうに。もう少し待てないか」
「しかし結婚もせぬまま殿下に子供ができたとあっては何かと差し支えるだろう」
「結婚もせぬまま子供をお作りになられるそっちが全体悪い」
 こう云われるとさしもの殿下も何も云えない。心なしか赤くなった顔を俯向けて別の話を始めた。

「ところで君は未だに結婚しないのか」と別段嫌みな口振りでもない。
 しかし主人はこれを受けて少々憤慨したようである。
「君のように器量も好ければ適当に見繕って拵えるがね、生憎私は口下手の、薄情者の、綺麗な人を見かけたらすぐに求婚するような無頼漢だからそううまく行かんのさ」と子供のような拗ね方をする。
「おや、そう自分を卑下されちゃ叶わないな。君も占いババに好かれるくらいには十分好い器量じゃないか」とヘンリーは慰めるような、それでいて半分調戯いの体で云った。
「なんぼ、婆さんに好かれたって、嬉しくなんかあるものか」主人は大いに憤慨の体である。

 吾輩は猫の器量は分かっても人間の器量は分からん。
 よし判別したと思ってもそれはあくまで猫の了見の範疇に過ぎん独断的見解であるから、これを人間の見識に置換して適応させるのはちと難しい。
 読者諸兄が猫の容貌を判然せんがごとく、あるいは世間の美猫、醜猫と判ぜられた者達の猫世俗間における不相応な立ち居振る舞いを演ずるが如くである。
 吾輩が主人の様相をここに筆誅するものは上に断ってあるよう、所詮猫の目に映えられた人間の姿であるということを念頭に置いて戴きたい。

 まず主人の顔には毛がない。眉と称ぜられる雨除けの他はつんつるてんとしている。
 代わりに頭の天頂から肩にかけて海藻の如く無暗に長い毛を伸ばしている。
 吾輩の灰色の斑入りの脳細胞が断ずるに、あれは人の頭が他の動物等と比して重厚長大と云うべき規模を有しているが故である。
 あれだけ重たいものを肩の上へ載せているわけだから必定これを支える首はぐらぐらする。
 ぐらぐらすれば頭は暴風に曝された風鈴の如く激しく旋回する。
 さればただでさえ狭い洞窟内や屋内において頭は軒、梁、柱、床、天井に至るまでこれと激突せねばならん。
 そうするとものを考えるだけが取り柄の人間種族は途端に薬缶のような頭をべこべこ凹ましてしまう。
 これではいかんと考えた末があの髪の毛である。いわば天然の緩衝材としてあんな見苦しい長毛を雇って頭の上へ平気で載せているのであろう。

 閑話休題して、主人の顔は先の如く毛がない他は特に語るに及ばざるものである。
 鼻梁も丁度庭にある置き石のようなものだ。役には立たないが足にかかりもせず見上げて首を痛めたりせず好い案配だ。
 口の周りに剛毛を生やしている強者を見たことがあるが、主人はこれを有していない。
 後で聞くところによると無精に放っておくと雨後の竹の子の如くにょきにょき生えてくるらしいから、あれでも手入れをしているんだろう。
 もっとも我々猫の如く感覚器官として働かせていないからできる芸当である。
 猫の髭は髭であって髭でない、いわば手であり目であり鼻であるから、できれば切らないで戴きたい。

 最後に、主人の目は唯一常人とかけ離れた部位である。雨除けと合併して実に壮健な印象を人に与える。
 眼窩に収まる瞳も並大抵でない。人間からすれば少し輝いて見えるくらいの水晶玉だが、我々猫族、魔物諸君等本能的動物がこれを見ると、たちまちその深奥へと引きずり込まれてしまう。
 おそらく彼の特異的な性質としてこの目玉を有しているのであろう。
 ゴルキ君もピエール君もゲレゲレ君も、また私も彼のこの不思議な眼光に魅了されてついて行くのである。
 かくの如き素晴らしき瞳孔を人間諸君が観察できないのは残念至極である。

 ところで、マリアがつんとした表情の主人に優しく声をかけた。
「心配なさらなくたって、きっと私なんかよりずっと好いひとが現れますわ」
「しかし……」
 主人は少し難しいような、それでいて淋しいような顔で云った。
「好い人を見つけるより先に済ませなきゃならん仕事がありますからね」
「あら、一体なんですの」
 この問いに主人は「ええ、ちょっと」と答えたぎりであった。マリアは首を傾げた。
 すると、椅子に座っていたヘンリーが突然立ち上がって、主人の肩を両手で掴んだ。
 そうして顔と顔をひっつくかと云わんばかりに近づけて、「君は母を見つけるためにそう云うのか」と云った。

 主人は呆気にとられていたが、すぐに平生の通りに戻って、「そうだ」と答えた。
 するとヘンリーは肩を掴む手の力を強めながら、「確かにそれはとても大事だが、君の仕合わせを確立してからだって遅くはないじゃないか。母上に君の仕合わせな姿を見せられればそれが最上じゃないか」と云った。
 これを受けて主人は少々俯向きながら、「そうだな、そうかもしれない」と呟いた。

 少々気まずい空気になった所で、マリアが明るい声で主人を励ました。
「もし容姿に自信がないのなら、それは大丈夫です。私たちから見ても余程精悍な顔立ちをしていらっしゃいますから、今にモテますわ」
 すると突然の激励に毒気を抜かれた主人が顔を上げて目を見開いた。
 ヘンリーは元の椅子に戻って、そうだそうだと云って真面目な顔で頷く。
「ですが自分はこの顔を下げて歩くのが幾分苦痛に感ぜられることも多々あります」
「それでもってご不満というのは、些か贅沢ですわね」
「全くだ。君は十分格好好いよ」
「そうかな。やっぱり世間の目と私の目はどうも違うようだ」
 主人は鼻の頭をかいた。ちと恥ずかしそうである。

 やがてヘンリーがオルゴールを主人にくれると云った。
 主人は遠慮しているが、殿下はいいや、持って行かんと駄目だとどうしても持って行かせたいらしい。
 渋々の体で主人が部屋を離れた後、吾輩はニャーニャーと愛嬌を振りまきながらヘンリーの膝へ這い上って見た。
 するとヘンリーは「イヨー大分痩せてるね、どれ」と無作法にも吾輩の襟髪を攫つかんで宙へ釣るす。

「こうしてみると猫ってのは可愛いもんだね。どうだ。宅でも一つ飼わないか」とマリアに提案する。
「いいけれど、子供に影響ないでしょうか。噛みつかれでもしたら大変ですわ」と猫を鼠か猛獣の如く考えている。
「なにそんな腕白を貰う必要はないさ。ちょっと無精なくらいのが面倒がかからなくって好かろう」と釣り下げた吾輩を右へ左へ振り回す。幾分目が回った。
「そうですわねえ。考えてみても好いかもしれませんね。……ねえ、もうお下げになられて」と夫の蛮行を窘める。
 吾輩は膝の上へそっと降ろされたが、今までぶらぶらしていたのが急に制止したものだから余計に目が回った。

 そこへ主人が来た。おかえりなさい。どうでしたとマリアが尋ねた。
 主人は「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」と世辞だか本音だか分からないことを云った。
 ヘンリーは「そうだろう」と云って綺麗な歯並びを見せつけた。

 主人はゴルキを枕にしてぐうぐう寝ている。ゲレゲレとピエールは馬車で寝転がっている。
 夜番を立てない辺り余程焚き火を信用しているのか、はたまた寝込みを襲われても退けられる実力があると自負しているのか。
 いずれにせよこうして互いに無防備な姿を晒しあえる仲と云うのはそれだけで羨ましいものだ。
 私もこの輪の中へ入って行くのだろう。また私の後輩も現れるだろう。
 主人は不思議な瞳を持つ男である。また非常な天運を授けられた人間である。 
 彼の人生にいかな波瀾万丈が待ち受けているか、見守ってやりたいものだ。



少し休みます

「猫」は時代を先取りした日常系と云って過言ではないかと思われます
何しろふつうの小説にある愛憎劇なり葛藤なり大事件もなく、
ただひたすら安穏と日を暮らすだけですから、思わず心が和みます
なんだか呑気なひとたちにしばしば萌えるので、世が世ならごちうさと比肩するやもしれませんね(?)

 宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
 出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
 ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
 説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
 一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。



ちょっとミスったので再投稿します

        六

 宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
 出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
 ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
 説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
 一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。

        七

 宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
 出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
 ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
 説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
 一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。

 洞窟を出てすぐに橋が見えた。
 渡ってみると近くに巨大な塔を併設した豊かな町がある。
 妙に物々しい物見櫓だから少し見物してみた。
 案の定兵士が番をしているが、これらは皆富豪の私兵だと云うから驚いた。
 塔を建てるのみならず兵士まで雇うとは、生半可な金持ちにできる芸当ではない。

 町へ入るなり、大変毛並みの好い犬がこちらへ飛びかかってきた。
 首でもかかれるかと思うと、尻尾をぶんぶん左右に振り回してこちらを見つめている。
 手を差し出すとぺろぺろやり始めた。存外人懐こい犬である。
 首輪をつけているが、つながれた手綱が地面にだらりと下がっている所を見ると、散歩の途中で逃げられたのだろう。
 手のひらがべちゃべちゃになるのを感じながら辺りを見渡した。
 すると向こうで青い髪をした綺麗な格好の女が右往左往している。
 犬の手綱を引いて、女の方へ向かった。もし、と声をかけると女は振り返った。

 率直に、綺麗な女(ひと)だと思った。
 手入れの行き届いた髪を後ろに束ねあげて、身には白い清楚な服を纏っている。
 傍目でも身分の好いところの娘だと悟れた。
 犬を差し出すと、まあ、ありがとうございますと云って笑顔を見せる。
 私はなんだかその笑顔に胸を打たれて、言葉に行き詰まった。
 いえ、と単簡に済ましてしまうと、犬がこちらを見上げて再度鳴いた。
 しゃがんで頭を撫でてやると、犬は満足そうな顔で目を閉じた。

 すると青い髪の乙女はまあ、リリアンが私以外の人に懐くなんてと驚いている。
 見たところ凶暴には見えないが、気難しいところでもあるのだろうか。
 女は微笑んで、珍しいこともあるものですね、と云って私の顔を覗き込む。
 その無遠慮とも、無邪気とも云える仕草に私は身を固まらせた。

 別段私は女性に対し免疫が全くない訳ではないはずだったが、どうしてかこの時ばかりは、女と初めて接触した小坊主のような心持ちになっていた。
 むっつりと押し黙っていると、こちらを見つめていた女ははっとして、
「あらいやだわ。私ったら名前も聞かずにぼうっとして。好ければ名を聞かせていただいませんか」
と云った。
 そこでようやく私も我に返って、へどもどしつつも名乗った。
 女はフローラと云った。フローラ……

 私は雷に打たれた。青い髪、清楚な器、綺麗な身なり、無暗に人の目を見つめる習性。
 いずれも懐かしい既視感と情動を携えて私の胸に迫った。
 私は恐る恐る、あなたのお父様はなんと仰いますかと訊いてみた。
 フローラはご存じありませんかと逆に訊き返した。
 町の奥にそびえる巨大な豪邸を指して、「向こうの家に住んでいるルドマンが私の父ですわ」と云った。

 水晶玉は一度手に取ったことがある。レヌール城でエリック王に譲り受けた金色の宝玉だ。
 しかしそれとは別に、水晶の珠を香炉で暖めたものを心の中で手のひらに握ったことがある。かれこれ十年以上前の話だ。
 今、全く同じ心持ちを抱いてフローラの前に立っている。
 どうもさっきから覚えがあると思ったら、全く今まで気付かないでいたのがみっともないくらいだ。

 私はルドマンさんと云えば、十年前に娘さん等を連れて船にお越しになりましたねと云った。
 フローラは驚いて、ええ、そうですが、よくご存じですのねと云った。
 十年前のお前は子供だったろうとでも云いたげな口振りである。
「実は私もその船に乗り合わせていましてね」
「あら、そうだったんですか。どうりで……」
「思い出してくださいましたか」
「ええ。昔の話ですわね。……そうだわ。どうしてこんなことも忘れていたのかしら」
 フローラは途端に顔に喜色を浮かばせて、
「まあ、するとあなたは、あのとき私を慰めてくれた優しい男の方でしたのね」
と云った。

 立ち話もなんだと云うことでルドマン邸へお邪魔させていただくことになった。
 変な話、そこは王族の住むラインハット城よりも丁寧に磨かれていて、ずっと崇高な趣を放っていた。
 もっともこれは単に金があるからだろう。
 ラインハットは現在窮乏状態にあるから、そう云う意味で負けていてもおかしくない。しかし、どこか悔しくもあった。

 娘が男を連れ込んだのをよっぽど不審がったのか、屋敷の使用人から白い目線が浴びせられた。主に私に。
 まるで「うちのフローラ様に全体どんな甘言を吹き込んだのか」と無言の問いが投げかけられているようだった。
 もっとも、古い知人を騙って女を軟派するのは詐欺師の常套手段らしいから、私がこうして詮議にかけられたのも仕方のないことである。
 居心地の悪さを感じながら席へ着くと、メードが何とも云えない香りのする茶を運んできた。
 学のない私がこれは、何というお茶ですかとフローラに訊くとこれは何処々々で採れた何々ですわと云って上品に飲む。
 よく分からんが、これほどの身分の人が飲むお茶なのだからさぞ旨いのだろうと思って口に入れると、これがとんでもない曲者であった。

 渋い。渋いばかりでない。苦い。舌の根が縮み上がるほどに渋くて苦い。
 苦渋をなめると俗に云うが、それどころの騒ぎではない。
 危うく吹き出すところであったが、無論そんなはしたない真似をかの令嬢の前で披露できるはずもなく、必死になって喉へ送り込んだ。
 全て胃の方へ追いやる頃には、私の目元は涙でいっぱいになっていた。
 何気なくそっと拭ったが、フローラは気付いていない様子だ。
 それどころかこの苦渋を実に旨そうに啜り続けている。何者だ。

 私はどんな感想を云えば好いやら分からず「うん」と唸った。
 するとフローラが「この甘い香りが私は好きなんですの。お気に召しまして」と云った。
 お気に召しましてだって? とんでもない茶だ。サヴェヂ・チーだ。いやクリュエル・チーだ。
 どうやら彼女が飲んでいるのは紛れもなく上等なお茶のようだが、私に出されたのは全く別の何かであるようだ。

 私が「ええ、まあ。何と云いますか。随分なお手前ですな」と云ってカップを置くと、フローラは「それは好かったですわ」と云って微笑む。
 その爛漫な笑顔に勇気づけられて、もういっぺんやってみるかという気概が起こった。何しろカップの中身は半分も減っていない。
 茶道では飲み干すのが礼儀だそうだが、ここ西洋ではどんな手合いか分からん。
 しかしほとんど飲まないのは定めし無礼だと思って、一気呵成にぐいっと喉に流し込んだ。

 苦い。苦い。ばかりでない。渋い。また涙が出てきた。
 相変わらず人が飲む代物ではないと警告しているかのような攻勢だ。
 たまらず顔を歪めたが、無論そんな汚い顔をかのご息女に見せられるはずもない。
 そっと首を横に回すと、偶然にもさっき私に茶を運んできたメードと目があった。
 私の顔は相変わらず苦渋に攻められて見せ物にもならないほど歪んでいる。
 するとメードは手にした盆でもってさっと顔を隠し、回れ右をして引き戻った。
 しばらくして、厨房から黄色い哄笑が響いた。

 おおよそ犯人の見当はついたが、暴き立てたって面白くもない。
 これも試練だと割り切ってカップを置いた。幸いカップは空になっている。
 するとフローラはカップを見て、「よほどお好きなんですね」と云った。
 誰が好きなものか。こんなものは下魔にでも飲ませた方がいくらかましだ。
 けれどもフローラに好い印象を与えたい私は「大いに旨かったです」と嘘を吐いた。

 お茶騒動はかくの如き波瀾であったが、フローラとの世間話は平穏に進んだ。
 幼い頃に一度会っているばかりでなく、海辺の修道院と云う共通の話題もあって話は大いに進んだ。
 フローラは平穏無事な生活を長らくしていたからか、私の数奇な冒険談に胸を躍らせていた。ことに妖精界の話に大層興味のある様子だ。
 そうしてほんわかとしていると、階段からかつかつと軍靴のような鋭い音が響きわたった。

 見ると、黒髪で癖毛で、非常に派手な格好をした女が大胆に足を見せつけながら階段を下りている。
 するとそのおきゃんな奴にフローラがデボラ姉さん、と声をかけるので驚いた。
 こんな清楚な嬢に、あんな派手な姉がつくものか。
 デボラと呼ばれたその姉は私を見るなり、ふんと鼻を鳴らした。
 格好ばかりでなく実際の態度も高慢そうだ。少し辟易した。

 あんた、まさか十年前のあいつじゃないでしょうね、と覚えている様子だから話が早い。
 君は十年前に泣いていた奴だろうと茶化すと、余計なことを云うんじゃないわよと顔を真っ赤にしている。
 フローラはこのやりとりを大変珍しいものを見るような目で見物していた。
 後で聞いたところによるとこのデボラ嬢は大層気が強く、大抵の男に勝ってしまうんだそうだ。
 しかし私はこのお転婆に特別抗体らしきものでも持っているのか、ついぞ萎縮することはなかった。

 形式的に、君もお茶するかいと誘った。しかしデボラは結構よ。と云って玄関に向かう。
 フローラが暗くならない内に帰ってくるんですよと注意するが、はいはいとぞんざいに答えて行ってしまった。
 好い身分のご令嬢が夜遊びとは少々いただけないが、カジノも劇場もないこの長閑な町で何をすることがあるのだろう。
 見送ったフローラが困ったものだわと嘆息をついて眉をひそめる。
 姉があの様子じゃ妹も外聞が悪くて気の毒だ。

 下魔や光の教団については伏せたが、しかしこの数時間で語れるのもたかが知れていて、半分の内も話せなかった。
 気がつけば日も落ち掛けて、時計の針も地の方を指していた。
 ちなみにデボラはまだ帰っていない。どこで何をしているのだろう。
 退去する時分、フローラは次の話へ未練を残しつつ別れを告げた。
 私もフローラの愛らしい相づちや仕草に思いを馳せて帰った。

 私はフローラの純朴さに心惹かれた。
 同時に、よもやこんな身分ではあのひとへ辿り着くことは到底叶わないだろうと思って悲しくなった。
 船を持ち、塔を建立し、私兵を雇い、豪華な屋敷に住み、綺麗な娘を持つルドマンの眼に、私のような平民がかなうはずもない。
 高嶺の花とは遠くから見る時分には好いものだ。
 彼我の距離感を忘れることはないのだから。

 しかし、こうしてお茶をして妙な具合に接近して、その美貌に心打たれたとき、それがいとも簡単に鉄火の棘を持つ恐ろしい茨を身に纏うことを知る。
 知らなければ苦しまないで済んだろう。知ったからこれほど苦しいんだろう。
 触れられないから、私の胸は痛むんだろう。
 フローラとの邂逅を、少しばかり不幸と感じた。

 屋敷を出ると、ぞろぞろと見知らぬ男たちに取り囲まれた。
 何やら剣呑な雰囲気だから、「なんだ、強盗か」と訊いた。
 すると向こうは「強盗は貴様の方だ」とやり返す。何のことだか分からない。
「私がいつ、何を盗んだ」
「しらばっくれたって無駄だ。貴様がフローラさんとお茶をしていたのをしっかり見たんだからな」
「おや覗きか。君らも趣味が悪いな」
「貴様こそ抜け駆けしてフローラさんを独り占めしようなんざ、いい度胸してるじゃねえか」
「抜け駆け? 私がいつ誰とそんな条約を結んだ」
「知らねえのか。明日になったらフローラさんの婿合戦が始まるんだぜ。それまで町の男はフローラさんに近づいちゃいけねえのさ」
「へえ。そりゃあ知らなかった。何せつい今しがた町に着いたところだからな」
「仕様のない奴だ。帰るぜ。こんな坊主がルドマン様のお眼鏡にかなうはずもあるまい」
 そう吐き捨てて男たちは散り々々になった。

 婿合戦だって? 妙な催し物を開くもんだ。
 どうせ名家の令嬢だからそれなりの身分の男を――それこそ王子や殿下のような身分の奴を適当にあてがうのかと思いきや、どこの馬の骨とも知らない男共をかき集めて篩にかけるとは。
 あのむくつけき男たちから淘汰されて生き残った奴がフローラを娶るんだろうが、なんだかそれはあまりそぐわない感じがした。

 飯と情報収集のために酒場へ寄った。
 何もサラボナへ来たのはフローラと会うためではない。勇者の盾について知るためである。
 席へ着くと、豊かな町だけあってそこここと比べものにならない美味が提供された。
 もっとも先ほどのサヴェヂ・チーに舌をやられたから反動でそう感じただけかも知れない。
 感涙して顔を左右に振ると、「お酒は大人になってから」などとあまりにも遅すぎる忠告の張り紙が目に付いた。
 大人とはいつの時分を云うのだろう。おおよそ十五だろうか。
 私は自分が子供とは思わなかったが、父のような大人にはほど遠いと思った。

 あちこちから話を聞いてみると、どうもルドマンが先の婿合戦の勝者に家宝の盾をくれると云う。
 わざわざ娘と並べるからには、よほど荘厳な盾に違いない。
 そんな高貴なものとなると天空の盾である可能性は極めて高い。
 確認と交渉の用意を兼ねてルドマンの元へ訪れることにした。

 明日になってルドマン邸を訪ねてみると、とんでもない人だかりであった。
 昨日のような物騒な連中もいれば、綺麗な身なりをした貴族らしき者もいる。
 かと思えば南瓜村にでもいそうなぼんやりした田舎者もいる。
 こう玉石混淆だと選定もさぞや疲れるだろうなと思うと、人混みに押されて私の最前の男が体勢を崩す。
 慌てて支えてやると、どうもすみませんと云ってそいつは立ち上がった。
 私と年が変わらないくらいの、さわやかな好青年である。

 名をアンディというらしい。驚いたことに、フローラと幼馴染だと云う。それも数年来遊んでいた仲とか。
 それは定めし有利だろうと云うと、いやあ、僕は家柄が平民だからルドマンさんが相手をしてくれなくて。と頭を掻いている。
 こいつもどうやら棘を指に刺した者らしい。顔には僅かだが、悲壮な諦めが掠めていた。

 アンディがあなたもフローラを、と訊くので、私は曖昧に頷いた。
 そりゃあできることならフローラと結ばれたくもあるが、どうせ私なんかが達成できる生易しい基準は出さないだろう。
 あくまで、盾の動向を探るだけだと心に留めた。
 やがて邸宅の扉が開き、それを合図に男共が波のようにうねり込んだ。
 我々も半ば飲み込まれるようにして中へ入った。

 私とアンディが入る頃には屋敷は既に大入り満員であった。
 巨大な煉瓦でできた暖炉の前には、ルドマンと思しき中年の貴族が座っている。
 十年前とほとんど変わらぬふくよかさである。
 ルドマンが、さて、お揃いになりましたかな、と挨拶をしたその時、応接間の端にある階段からかつかつと甲高い足音が響いた。
 フローラがかような高慢ちきな足音をたてるはずもないので大方見当はついたが、見ると想像通りデボラであった。
 昨日とは意匠が違うが、やはり派手な服を着ている。
 しかし無暗にごてごてしている訳でもなく、統制がとれていて洒落ている。ちょっと見とれてしまった。

 ただそうしたのも一瞬で、また私と結婚したい奴らが来たのねと甲高い声で喚き立てるからやはり辟易した。
 ルドマンはいいや違う、今日はお前でなくってフローラの方だ、邪魔せずに部屋へ戻っていなさいと追い払うように云った。
 すると少しわくわくしていたデボラもふーん。パパも大変ねと興味をなくした様子だ。
 また昼寝でもしてるわと貴族の娘らしくぐうたらな発言をして帰っていった。今日は遊びには出かけないらしい。
 そのとき、ちらりと彼女の視線がこちらを向いた。

 我々大衆の方を向いた、のではない。私の方を向いたんである。
 その一瞬の仕草に射抜かれたのか、周りの男たちが、おい今俺の方を見たぜ。何云ってやがる俺だと途端にざわざわし始める。
 私は苦笑した。あれに惚れるたあ物好きが居たものだ。
 肝を抜く技量もないのに、河豚を食らおうとするようなものだ。

 ルドマンがごほん、と咳払いをして気を取り直した。
 そして、まるで旅順攻勢の伝令を告げるかのような厳かな声で始めた。
「さて。本日こうしてお集まりいただいたのはわが娘フローラの結婚相手を極めるため。
しかし、ただの男にかわいいフローラを嫁にやろうとは思わん。
フローラを娶る男となるには、一つ条件がある。
古い言い伝えによると、この大陸のどこかに二つの不思議な指輪があるらしいのだ。
それらはそれぞれ炎のリング、水のリングと呼ばれ、身につけた者に幸福をもたらすとか。
もしこの二つのリングを手に入れることができたなら、よろこんで結婚を認めよう。
そして、婿となった男には、この家宝の盾を授ける。
是非がんばってくれたまえ」

 ルドマンが皆に掲げて見せたのは、白を基調として緑と金の装飾を凝らした、大変美しい盾であった。
 私がそれを目にしたとき、背負っていた天空の剣が細かく振動した。
 ルドマンも手元の盾が震えているのに気がついて少し怪訝な顔をした。
 間違いない。あれは伝説の勇者が持っていたとされる、天空の盾だ。

 聴衆が色めき立つ中、階段からまたもや足音がした。
 しかし今度は先ほどより幾分温和しめだ。
 観衆が見る先には、美貌の乙女、フローラが慌て気味に階段を降りていた。
 挨拶でもするのかと思えば、そうでない。父に向かって反抗を示したのだ。
「お父様。私は最前から云っている通り、夫となる殿方は自分で極めたいのです」
 悲壮な勢いで叫んだ娘の声はしかし、父の厳粛な態度に気圧された。

「ならん。我が家へ足を踏み入れられるのは危険を顧みず、勇気をもってそれを乗り越えた者に限るのだ」
「そんな、いけませんわ。みなさん聞いて下さい。お父様は炎のリングの居場所を知っています。知っていて、そこへみなさんを向かわせようとしているのですわ。私はそんなむごい真似を看過できません」
「フローラ。黙っていなさい」
「炎のリングは南東の死の火山の最奥部にあります。ご存じの通り、あの山は生きた溶岩があふれるとても危険な場所です。そんな所へ無暗に足を向けて、下手を打てば一体どうなるやら……どうかお願いです。私などのために危険に飛び込むのはやめて下さい」
「もういいフローラ。ほれ、フローラを上へ上げなさい。少し興奮しているようだからゆっくりと休ませてやるんだ」
 脇にいた使用人がフローラの腕をとって階段の上へ連行する。フローラは「お父様……」と呟いて、上階へ消えた。

 ルドマンがごほん、と咳払いをした。
「すまないな。どうも優しい気質が高じて、あんなことを云うのだろう。無論危険なことは知っている。しかし、危険と知っていてそこへ向かう勇気と、奥へたどり着く実力のある者しか私は認めん。溶岩に身を焼き、咽せる火山灰と熱気に身を投じる気概があるならば、南東に行きたまえ。それができぬ者はフローラのことは忘れて、他の人を捜しなさい」
 そう云ってルドマンは会を閉めた。
 聴衆はさっきまでの興奮が一気に冷めきり、消沈した雰囲気に包まれていた。
 邸宅を出ると、彼らは己の怯懦を恥じ、互いの目線を気にするかのようにそれぞれが静かに散って行き、あとは静かな鳥のさえずりが残るばかりであった。

 私はぼうっとして玄関の前に立っていた。すると、隣に先のアンディが立った。
「やれやれ、大変なことになりましたね」
 そう云って頭を掻いている。
「死の火山か。僕なんかが行って無事に帰れるかどうか」
「しかし行かねば、フローラさんは得られないぜ」
「そうなんですよね。いやあ、大変だなあ」
「どうするかね。やっぱりやめにするかい」
 するとアンディは心外そうな顔をした。
「まさか。当然行くに極まってますよ」
 そう云う彼の瞳には、恐怖を上回る決意が見て取れた。

「君は何だってそう、フローラに拘るんだ」
 嫌みではなく、単に好奇心から聞いてみた。
「僕は金や盾はどうでも好いですが、フローラと結婚できるのなら、この命は惜しくありません」
「そうか。それほどまでにフローラを愛しているのだな」
「当然です。だって、結婚は愛する人とするものでしょう」
 これは恋する青年の若い発言ともとれたし、真理を突いた格言ともとれた。

 私は少しく躊躇った。これほど愛にあふれる男になら、フローラを任せられるのではないか。
 しかし同時にやはり譲れないとも思った。フローラはそれこそマリアに次ぐほど素晴らしい女である。
 それに何より、天空の盾が手に入れられるのだ。
 私がどれほど母に飢えているか、ここまでで散々表明してきたはずだ。
 私はそうか。それじゃあ互いに頑張ろうと云ってアンディの肩を叩いた。
 アンディはええ、お互い。と返事をして、去っていった。

 不意に、後ろからにゃあと聞き覚えのある声がした。先生である。
 腕に抱いてやれば、君も中々隅に置けないじゃないかと早速調戯われた。
「次第はお聞きになりましたか」
「しっかり陰から拝聴した。あすこの屋敷の使用人は礼儀を弁えている。猫と人間の間に無用な垣根を置かない」
「どうします。火山ですからかなり危険ですよ」
「構わない。どうせ君らが火山で死んだら私は行く当てがないからな。一蓮托生となるのになんの不都合はないさ」
「分かりました。ゴルキはどうだ」
 懐からピキキーと小さな声がした。

「かざんってのがなにかしらないけど、おもしろそうだからついていくよ」
「興味本位で行くのはお勧めしないが、まあいい。あとはピエールだな」
「ピエール君も行くと云っていた。何しろ主人の君が行って、従者の私が懐手をするわけにもいくまいと気焔を吐いておったよ」
「おや、さいですか。ゲレゲレは……まあ来るでしょうな。それじゃあさっさと行きましょう」
 こうして魔物と猫を連れて火山へ飛び込むことに極めた。
 この時我々は、火山の本当の恐ろしさを知らないでいた。

 南東には山々がこれでもかと云わんばかりに峰を連ね、我々の行く手を阻む。
 無論野外であるから魔物にも襲われる。ルドマンも相当無茶な要求をしたものだ。
 二本足の私はともかく、馬車を引くパトリシアが大分疲弊するので、こまめに休息をとらねばならなかった。
 時折ゲレゲレに馬車を引かせてみたら、力があるのでそれなりに進めた。
 先生は残念ながらどこまでも猫なので戦闘の役には立たない。
 ゴルキも所詮スライムなのであまり前線に出るのは難しい。
 けれどもゴルキの野生の勘と先生の大変な嗅覚、聴力のおかげで魔物の襲撃はほとんどが事前に察知できたから、彼らも陰の功労者である。
 ピエールは回復呪文と剣が振るえる点ですでに一線を画する活躍だから特筆はしない。

 このパーティならば魔王の城だって攻略できるかも知れぬ。
 そうして少しでも驕った鼻っ柱を叩き折るかとばかりに、目の前に死の火山が立ちはだかった。
 入り口からすでに鉄をも溶かさんと沸々と煮えたぎる溶岩があふれている。
 遠い距離からでも感ぜられるその異様な熱気に襲われてたじろんだ。
 ゴルキが誤って触れでもしたら、途端に蒸発してしまう。
 洞窟の中へ入ると、恐ろしいことに足元数尺が溶岩である。
 ゲレゲレの居た洞窟のごとく、足下はよほど注意して歩かないと即席にお陀仏だ。

 しばらく進むと、なんだか見覚えのある格好が岩陰で佇んでいた。アンディである。
 すぐに出かけた我々より先についたのは彼が単身で乗り込んだからだろう。
 道中メタルハンターなどに狩られなかったところを見るとそれなりの実力者とみる。
 やあ、と挨拶をすると、アンディは脂汗を玉のように浮かべて返事をした。
 汗は熱さのせいかと思うと、顔は反対に青い。見ると、足に怪我をしている。
 急いでベホイミをかけてやったが、どうしてこんな所で往生しているのか問いただした。

 何でもここまでの戦闘は半ば薬草の力で押し進んだが、ここにきてメタルスライムを見かけたらしい。
 目の色を変えて戦っている内、薬草が切れたことに気付かず敵の攻撃をまともに受け、このざまとなったとか。
 メタルスライムやはぐれメタルに気を取られて足下を掬われるのは多くの冒険者が踏む轍だが、こいつもその一人になるところであった。

 なぜ回復呪文を覚えていないのかと訊くと、最近は攻撃呪文ばかりに傾倒してすっかり失念していたという。
 メラもこの通りと云って実践してみせるが、下魔や赤シャツのメラミをみた私はそれがどれほどのものか分からなかった。
 すごいでしょうと自慢するから、うん。と云ってやったが、奴さんメラをしまい忘れて次の呪文に取りかかってしまう。
 自然、魔力の制動を失った火球は重力に引っ張られて下に落ちる。
 落ちた先にはアンディの服の裾がある。
 熱気で乾いた服は枯れ草のごとくぱっと燃え上がる。

 アンディはあわわわと不思議な踊りをしながらヒャドを唱えて消火した。
 実力は確かだが、どうも抜けているところがある。
 このまま一人で行かせるのは危険と判断して、一緒に行こうと提案した。
 一人で少々心細かったらしいアンディは一も二もなく了承した。
 隠しておいた魔物諸君を見せると、アンディはうひゃあと飛び上がった。流石に刺激が強かったかしらん。
 しかしピエールとゴルキの友好的な挨拶で気を許し、早くも打ち解けている。
 若いだけあって柔軟な対応である。あるいはのんきなだけかも知れぬ。

 アンディを連れて先へ進むと、誰が設えたのか橋や階段が火山内に拵えてある。
 まさかルドマンが、いやあそんなはずはと思いつつ下へ降りると、火山の中心に近づくだけあって溶岩が頻繁に行く手を阻む。
 そして溶岩ばかりでなく、それに焼かれた空気までもが我々を苦しめた。
 さながら巨大な掘り炬燵である。無論ぬくぬくとできるはずもない。
 人間の如く衣服で体温を調節できないゲレゲレや先生などは大層苦しがっていた。

「皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話だ」
と先生はこんな時でも含蓄のある話をされるから難有い。
ところが「ただ、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入の毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中(うち)質にでも入れたいよ」と云う辺り、存外余裕はなさそうだ。
 それにしても、猫の毛皮はさぞ脱ぐのに難儀するだろうが、ピエールの甲冑などは容易に着脱できそうなものである。
 君も苦しかろう、脱ぎたまえとピエールに云うと、ならんと云ってこれを一喝のもとに拒む。
 脱げんのかと訊くと、死んでも脱がんと強情である。妙な病気があったものだ。

 上のようにただでさえ地獄のような場所であるのに、あろうことか魔物まで出る。
 それもほのおのせんしという雪の女王みたような姿の魔物が大勢でかえんを吹くには参った。
 それも三体も四体も一斉にぶうぶう吹くから回復の手が間に合わない。
 何度かゴルキが液体になりかけていた。
 対照に、足元にスライムを抱えるピエールは平然としている。
 仮にもスライムと名乗る身の上の癖に火炎に抵抗があるとは驚きだ。

 アンディがあれじゃありませんか、と云って火山内の階段を見つける。
 早速そこへ向かおうと足を向けるが、溶岩がそれを妨る。
 ぐるぐるとあちこち回ってみるが、安全に渡れる道が全くない。
 まだ冷め切っていない半溶の地面を辛うじて見つけ、決死の覚悟で渡り切った。
 ゴルキが無事かどうか非常に気を揉んだが、奴め馬車に乗って難を逃れている。
 そんなことならパトリシアに任せて二人と四五匹は馬車で安穏としておればよかった。

 階段を降りると、今までの曲がりくねった、自然のままの洞窟然とした様子から打って変わり、人が整えたのかと疑うほど綺麗に直進する岩の道があった。
 いよいよルドマンの建設が怪しくなってきた。
 娘の婿を極めるだけの行事にこれだけのことをするあたり富豪は発想の規模が違う。
 ただ、我々以外に婿候補が潰えるところを考慮していないのはいささか早計である。
 道を進むと、一際大きな岩が行き止まりにある。
 その上には、ぎらりと燃えるように煌く宝石の、丁寧に嵌め込まれた指輪が鎮座していた。

 炎の名を冠するだけあって非常に美しい。
 溶岩の紅い光に照らされているせいか、その朱は何よりも赤く染め上がっていた。
 指輪を岩から取ると、辺りの気配が急に変わった。
 ゆらゆらと蠢く溶岩の一角がやにわに激しく動き出し、寄せ集まり、あれよあれよと云う間に魔物の形を象った。
 アンディがようがんげんじんだ。と叫ぶが早いか、溶岩の塊は意志をもって我々に襲い掛かった。

 今までの魔物は火炎を吹くぐらいで済んでいたが、こいつらは身格好そのものが溶岩だから手に負えない。
 ただ殴られるだけで大損害を被ってしまう。
 それも一体だけでなく、三体でもって一斉に襲いかかってくるのだ。
 さらに駄目押しと云わんばかりに一行全体にかえんのいきを吹き付けてくるからたまったものではない。
 ここまででしずくを垂らし続けていたゴルキがとうとう青いバブルスライムになってしまった。

 しかしピエールの機敏な判断力が即座に攻撃をベホマに切り替える。
 どうにかゴルキは元の原形を留めた。
 見た目は攻撃偏重の騎士に見えて回復呪文を一通り使え、その上臨機応変に状況を看破できるあたり並みの騎士ではない。
 もしかすると中には小さいおっさんでも入っているのかも知れない。
 だとするとさっき鎧を脱ぐことを拒んでいたのも頷ける。

 敵の頭数と手数に文字通り手を焼いていると、ゴルキが唐突にメダパニを仕掛けた。
 すると向こうはすっかり混乱して同士討ちを始めた。
 溶岩に意志が宿った程度の知能では、呪文で少し攪乱してやるだけで簡単に意識の統合が崩れるんだろう。
 今が絶好の機会である。

 勝機、と叫んで父の剣を振り下ろせば、どうにか一体を元の溶岩の形に返した。
 そうして奴らの本陣に踏み行った時、折悪くも奴らの混乱が解けた。
 しまった。と振り返ったときには、二つの赤い岩漿が波となって私に襲いかかっていた。

 初めに聞こえたのは悲鳴だった。
 目を開けると、私に覆い被さるようにしてローブを羽織った青年が立ちはだかり、押し寄せるマグマから私を守っていた。
 ゲレゲレとゴルキがようがんげんじんを攻撃して追いやり、ピエールがアンディに呪文をかけ続けている。
 私は棒立ちになったアンディを抱えて後ろへ退がった。 
 背中の火傷は酷いが、息は辛うじてあった。

 貴重なヒャド要員が居なくなったことで戦力低下が著しいが、向こうも数が減ったので大いにやりやすくなった。
 いきをためたゲレゲレの会心の一撃で、残る片方を倒した。後は一匹だけだ。
 すると四五対一となって不利と見たのか、奴が逃げる機会を窺い始めた。
 当然アンディの仇であるから逃さぬ。
 イオだのバギだので追い立てて弱らせ、とどめの一撃を脳天にくれてやった。

 そうして振り下ろした剣はしかし、波立つ溶岩にさくりと突き立つだけにとどまった。どうやらうまく逃げおおせたらしい。
 辺りを見渡すが、どこもかしこもラヴァがぐつぐつ煮えたぎっているだけでまるで分からない。
 ぐるぐる首を回していると、どこか胸のざわめきを感じて、後ろを振り返った。
 するとそこには、倒れたアンディに再び襲いかからんとする死に損ないのげんじんの姿があった。

 仲間に呼びかける猶予もない。
 疾風の如く駆け込み、ようがんげんじんとアンディの間に割って入った。
 攻撃を仕掛けたげんじんの腕が私へ襲いかかる。
 煮えたぎる赤い腕を、私は生身の左腕で受け止めた。辺りに肉の焼ける嫌な臭いが漂う。
 感覚は一瞬にして途切れ、痛みが脳髄を駆ける。が、構わなかった。
 残る右腕に握った父の剣を、化け物の口へ鋭く突き込み、退魔の力を体内へ直接叩き込んだ。
 魔物は悲鳴を上げる間もなく、元の赤い液体へ姿を戻した。

 急いでベホイミをかけるが、やはり完全に治癒のできる怪我ではない。
 後ろを振り返ると、目を丸くしたアンディと、急いで駆け寄ってくる仲間の姿があった。
 強敵を倒した達成感と、仲間の内一人も欠けずに済んだ安堵感で胸が一杯になった。
 そうして体力と魔力をすっかり使い果たして疲労極まる私は、その場にどたりと倒れ伏した。



少し休みます

のっけから凡ミスとは、精進が足りませんな……
しかしアンディさん、嫁候補の一人を貰い受けるにしてはちょっと本編での活躍が足りんと思います
もしかすると「こんなのにフローラがやれるか!」という気概を誘引するためかもしれませんが……

 気がつけば、見知らぬ民家のベッドに寝ていた。
 起きあがると、隣のベッドには包帯で雁字搦めになったアンディがいる。
 火傷の箇所が箇所だから、うつ伏せで背中を天に向けている。至極居づらそうだ。
 ふと気付くと私の左腕にも包帯がぐるりと巻かれていた。
 誰がこんな手厚い看護をしてくれたのだろうと思うと、民家の階段から足音が聞こえる。
 見れば我々が火山に赴いた目的である、清楚な青髪の乙女が盆を持って上がってきていた。

「あら。もうお目覚めになりましたの。お怪我のほうはいかがですか」
「ええ、まあ」
 包帯に巻かれて病状が見えないのだからこう答えるほか仕様がない。
 フローラは「包帯をお取り替えしますね」と云って私の腕の包帯を解く。
 修道院で習ったのか、随分慣れた手つきであった。
 痛くありませんか、と云って水晶玉のような目を私の瞳へ真向かいに差し込む。
 私はひどくへどもどしつつ「はい」と云った。
 この様子ではもし結婚できたとしても指一本触れられんだろう。

 火傷の方は幸い大きく爛れずに済んだようで、小さく走るように痕が残っている他は赤く腫れているだけのようだ。
 フローラが「あら、昨日見たときはもっと酷かったのに、もうここまで治ってらしたのね」と驚いている。
 なんのことはない。これくらいのことは茶飯事だ。
「一晩寝れば大抵の傷は治りますよ」と云ってやったら、「そうなんですの」と妙な顔をしている。
 大方フローラは魔物と剣戟を交え、怪我をして宿屋に泊まると云った冒険者様の旅をしたことがないから、若い男の回復力を知らないんだろう。

 フローラが患部に湿布を貼ってくれた。儀礼でもかけたのかすごく効いた。
 アンディなんかは背中全体にそれを貼られるものだから、火傷が痛いのと癒える感覚が痒いのとでうぐぐと妙な呻きをあげていた。
 大変な冒険の後なんですから、ゆっくり療養して行って下さいと云い残して、フローラは去っていった。
 その際見せた爛漫な笑顔で心が暖かくなったが、うつ伏せのアンディがそれを見逃したのは気の毒だった。

 しばらくベッドでのつそつとしていると、アンディが私に声をかけた。
「先だっては助けてくれてありがとうございます」
「なに、ありがとうはこっちの言葉だ。君が私を庇ってくれなかったら、私のそれもなかったんだから」
「けれども僕はただ徒に怪我をしただけで、あなたは怪我を最小限に抑えたばかりか魔物まで退治したじゃありませんか。あなたの方が功績が大きいに極まっています」
「そう無暗に誉めてもらっても困るな。いずれにせよ我々は互いに助け合った仲だ。もう借りも貸しもなし。一件落着。それで好いじゃないか」
「そうなんですが……」
そう云ってアンディは枕に顔を埋めた。何か云いたそうにしている。
 少しして、アンディが「考えたんですが」と切り出した。私は首をそちらへ傾けた。
「フローラのことをあなたに任せようかと思っているんです」

 一瞬彼が何を云っているのか分からなかった。聞き返す前に、アンディは先を続けていた。
「昨日フローラが訪ねてきました。傷ついた僕らの手当をしてくれるというのです。
おそらく優しい気性から責任を感じて看護をしてくれるのでしょう。その思いやりで僕は胸を一杯にしました。
彼女が階下から上がってくる音を耳にしながら、僕は胸の高鳴りをどうしても抑え切れませんでした。
そうして彼女が僕の傍らに来たとき、僕は自分の意志で瞼をあげる勇気を欠きました。
甘えたことに、彼女に起こしてもらおうとさえ思ったのです。

しかし僕のすぐ近くまで来たはずの彼女は、しばらくしてそこを離れてどこかへ行ってしまいました。
僕は驚いて目を開けました。これは勇気ではありません。失望からくる激情の欠片が吹き出たものと見ていいでしょう。
そうして僕の目に飛び込んできたのは、信じられない――あるいは、信じたくなかった、予想できた現実でした。
フローラが、寝ているあなたの額にキスをしたのです。

僕はその時失望こそしたものの、絶望までは至りませんでした。
何しろ死の火山であなたに助けてもらったとき、心の隅でフローラをあなたに任せても好いではないのかとさえ思っていたのですから。
けれども心がそうして冷静な分別を付けていてもなお、体の方はもっと直情的でした。
火傷にも勝る灼熱の感覚が体中を巡り、そして今度は、逆に僕の体を一切凍結でき得るほどに冷え固まりました。

指一つ動かせない私は、フローラがあなたを揺り起こそうとしているのに気がつきました。
やがてあなたが起きる気配がないのを悟った彼女が、諦めてこちらへ向かってくる気配も感じました。
私は慌てて目を閉じました。
この時の僕の考えといったら、誰が聞いてもきっと鼻で笑うでしょう。
眠っている僕の額に、彼女が公平を期してキスをしてくれるのではないかと期待したのです。
ですが僕にとっては残念なことに、期待は外れました。
彼女は寝ている僕になんのアクションも起こさず、ただ丁寧に揺り起こしただけでした。
その時の彼女の手つきが妙に優しかったのを、今でも覚えています。

自然を装って僕は起きあがりました。彼女の手当を受けている間、僕の胸中では今の出来事がとぐろを巻いていました。
彼女に問うかどうか迷いました。
ただ、そうすることは彼女の誰にも見せないはずの深奥のなにがしかを暴き晒すことに繋がるようで躊躇しました。
結果を云えば、僕はついぞ黙っていました。
けれどもその理由は初めとは違いました。自身が傷つくのを恐れるのではなく、彼女が傷つくのを憐れんだためです。

彼女からはっきりとした言葉が出たわけではありません。
しかし彼女があなたを見つめる時の瞳の輝きを見れば、誰だってこの結果に至るに違いありません。
彼女が僕をみる目線は確かに慈愛に満ちていたけれども、それは愛の内でもフィーリアに属するものでした。
対してあなたを見る目は情愛に満ちた熱い眼差しです。
この彼女が被写体によって変える態度の相違が僕らとあなたとの間にあるのです。
僕は彼女が好きですから分かります。彼女はきっとあなたが好きなのです。
あなたの瞳の奥に光る情熱をもって、彼女を愛してあげてください」

 私はアンディの云ったことを全て鵜呑みにはしなかった。
 主観で語られる物語は得てして語り手の思いこみや勘違いが含まれるものだ。
 冒険の興奮や活躍の機会を失った落胆に惑っているだけだろう。
 けれども、彼の語り口には異様な生気が宿っていて、真に迫る勢いがあった。
 もし彼が間違いを犯しているのなら正そう。
 しかし彼が正しければ、私はそれを甘んじて受け入れよう。
 明日になったら、フローラから直接聞いてみることにしよう。

 翌朝になって火傷の治療が終わった。体調の方もすっかり全快だ。
 少々痕が残ったが、男にとってはむしろ勲章のようなものだからこれはこれで構わない。
 しかし気にかかるのは彼女の姉の方で、デボラは見舞いに来ないのかと訊いた。
 するとフローラは訳あり気な顔で一昨日にもう来ましたよと答える。
 その時は私は寝ていたろう。起きた昨日今日は来ないのかと訊くと、だんだん訳を話し始めた。

 何でも一昨日は、フローラが治療を終えた後はずっと私の傍についていたらしい。
 が、私が意識を取り戻す様子を見せた途端さっと逃げるように帰ったんだとか。
 それでは見舞いの意味がなかろうと云うと、きっと彼女は見舞いには往きたいが、あなたと顔を合わせるのが恥ずかしいんでしょうと推察がされた。妙な所で照れる奴だ。
 けれどもフローラに輪をかけて私を心配していたらしいから、存外人間味はある。

 アンディのご両親に礼を云うと、いえいえむしろこちらがとアンディの肉親だけあって謙虚だ。
 そしてフローラさんは好い娘じゃのうと誉める傍ら、デボラに対してはあの娘は蛇じゃと文字通り蛇蝎の如く嫌っている。
 どうもデボラはアンディに対しては凡百の夫に対する如く刺々しい態度を呈していたらしい。
 重傷のアンディに冷たくして軽傷の私を心配するとは道理が顛倒しているが、あのお転婆の心情を解析するのは心理学者でも難儀しそうだから、考えるのは棄した。

 ルドマン邸へ向かう道すがら、フローラに不意打ちをかけてみた。
「フローラさん」
「はい」
 青い髪がこちらを振り返る。朝日に透き通って端々が宝石のように光っている。
「あなたは私のことが好きですか」
 この問いをぶつけられたとき、彼女は例の水晶玉のような瞳をこちらへ向けた。そして、
「あなたの方こそどうですか」
と丁寧に投げ返した。

 私はこの答えに窮した。
 確かに私は以前彼女に恋心を持った。しかしそれはつい数日前のことである。
 ただ一緒になれれば好いと云ったぐらいの軽い羨望で、一生愛し続けこの身を捧げても構わないと断言できるほど熟成された気持ちが確かにあるわけではない。
 無論彼女がそういった重い意味をこの言葉に含めたという証拠もない。
 ただ好意的気に思っているかどうかを気軽に尋ねただけなのかもしれない。
 しかしこうして一度推理が迷宮を彷徨い始めたら止まらない。
 失言一つも許されないと云った緊張感が胸の奥からせり上げて、私の喉をいやと云うほど圧迫した。

 黙りこくる私を見る彼女の瞳が次第に潤んでくる。
 そして涙に光る目をまっすぐに私に向けて、
「私はあなたのことが好きです。あなたは私のことをどうお思いですか」
と再度尋ねた。
 私ははっとした。彼女の口調、そぶり、眼に浮かんだ情愛は、決して生易しいものではなかった。
 ただ一心に相手を思うひたむきな愛の心があった。

 彼女の目に胸を打たれた私は、「無論好きに極まっています。好きでなくて誰があんな火山へ赴きますか」と云った。
 フローラはそれを聞いて安心したのか、ほっと息をついた。
 そして、「好かったわ。……本当に、好かった」と云って私の手を取った。
「海をも恐れぬ優しい人、おかえりなさい」
 私はさらに心を打たれた。彼女はかれこれ十年以上前から私のことを想っていたに違いない。
 そして今、二人は互いを認め合った。
 彼女にとってこれ以上の幸せがあるだろうか。

 屋敷へ入ると、フローラは部屋へ引き下がった。
 彼女の眦に微かに見える光は嬉しさのあまりのものか。
 見送る細い背中には、隠しきれない幸福の兆しがあった。

 ルドマンに会うと、おお君は、さすがだよ君は見込んだ通りだと大将喜色満面だ。
 見込むも何も会ってすらいないじゃないか。まるで軟派だ。
 将来の義子候補に下手な挨拶だなと思ったが、社交辞令だろうから曖昧に頷いておいた。

 まま、座りたまえと勧めるので、何人掛けか知れないがいやに大きなソファに座ると、掛けた尻が大変な勢いで沈み込むので内心大いに焦った。
 座面の裏打ちを忘れたのかと思えば、ただ上等で柔らかいだけのようだ。心持ちは好いが、やりにくくって仕様がない。
 するとルドマンが手を打って下女を呼んだ。メードが見覚えのあるポットでお茶を淹れる。
 少しくひやりとしたが、今度は普通のお茶だから安心した。
 普通と云っても並ではない上等な茶だ。
 思わず一口で飲みきってしまうと、君よほどお茶が好きと見えるねと云われた。
 今度は嘘偽りなくはい、と答えた。

「さて水のリングの件だがね、実はその行方は誰も知らないのだ。
しかし炎のリングが火山にあった以上水のリングも水に縁するところにあるのだろう。例えば滝、とか……
ともかく水に関するところへ赴くのに、船がなければ話にならない。
無論君のような冒険者が船を持っているとは思わないが、炎のリングを手に入れた君には特別に貸してやっても好い。
フローラの婿になればどちらにせよ譲る予定だからその前貸しと思って構わない。
ともかくそれでもって水のリングを探したまえ。船員はつけておくから、気兼ねなく使いたまえ」
 そう云って紙に何やらさらさらとサインをして渡してきた。「マール・デ・ドラゴーン号譲渡書」とある。
 丁寧に丸めて、ありがとうございますと云って邸宅を出た。

 船を自由に使って好いというのは富豪らしく太っ腹だが、いざそこに向かうと何のことはない、川に小さな帆船が浮かべてあるだけである。
 それも橋に邪魔されて外海に出ることができない。とんだ川の中の蛙があったものだ。
 海に出てそのまま持ち逃げをされるのを見越したんだろうが、こう行動範囲が狭いと行く当てがすぐになくなりそうだ。

        八
 
 いざ出発してみると、なんと川には水門があって行く手が遮られている。
 近くの看板には「用無き者無暗に開けるべからず。用あらば北東の山村にて鍵を渡し候」と書かれている。
 おやおやと思った。これではこんな狭い川へ浮かべられた船だって不憫で仕様がない。

 仕方がないから北東にある村へ向かってみると、これが南瓜村に勝るとも劣らない田舎の村である。
 水門の鍵を取りに来ただけだからここの暮らしぶりはどうでも好いが、キラーパンサーに荒らされているわけでもなくそれなりに裕福なようだ。
 町を歩く村民に話しかけるとはい、何ぞなもしとここでも菜飯を頬張っている。

 少し狼狽したが、我慢して、水門の鍵は誰が持ってますかねと訊けば、さあ、村の人間に訊けば宜しゅうがなもしと云う。
 お前は村の人間ではないのか。だったら紛らわしい格好をするな。大体その温い言葉遣いは全体なんのつもりだ。
 思わず口にしそうだったが堪えて、どうも難有うと挨拶もそこそこに立ち去った。
 まあ村長あたりに訊けば大抵分かるだろうから、あんな農民にかけてやる気遣いもない。
 内心でちょっと腹を立てながら村で一番大きい家へ向かった。

 道中、墓の前でやに熱心に念じている若い女が居る。
 その後ろ姿にはどこか見覚えのあるものを感じたけれども、日が落ちて薄暗かったからよく分からなかった。
 村長の家らしき所へ着いて戸を叩くと、顔の青い病人が出てきた。
 下女でも遣わせばよかろうと思ったが、もう田舎者に関わるのは飽き飽きしていたので、水門の鍵を貸してもらいたいんですがねと単簡に済ました。
 すると向こうはぼけっとこちらを見ているだけで何も返事をしない。
 そろそろ厭になってきた。どうもルドマン邸やラインハット城の方が肌に合う気がする。
 辟易して眺め返していると、その男は青かった顔を一挙に紅潮させて、「あんたは、パパスの息子さんじゃないか」と叫んだ。

 こんな山奥の村で父の名を聞くことになろうとは思わなかった。
 はあそうですと間抜けな返答になったが、相手は構わずお前さんが生きていて何よりだと感涙している。
 簡潔に話を聞いてみれば、なんとこの病人はアルカパで宿を経営していたダンカンである。
 海を渡って療養していると聞いたが、まさかこんな辺鄙な村にいようとは。

 初めは興奮していたダンカンも、父の訃報を聞いて残念そうな顔を浮かべた。
 何しろ仲良く風邪を移しあった仲だからその悲しみも相当だろう。
 それでも私と会えたことが余程嬉しいようで、さっきより大分顔色が優れていた。
 中でお茶でもと云うのでありがたく頂戴することにした。その時、背後のドアが無造作に開け放たれた。
 戸口には、墓参していた金髪の女が立っていた。

 我々は互いの顔を見合わせたまま固まった。
 そうして互いの瞳に映る自分さえ認識できるほどまじまじと見つめた後、二人同時に口を開いた。
 それぞれの口からそれぞれの名前が飛び出した。

 ダンカンがいるからビアンカもそうだろうと見当はつけていたが、いざ向かい合ってみるとこれが甚だ美人で一見するとそうであると分からん。
 ビアンカも筋骨の発達した私の様相を見て余程驚いたらしい。
 さっきからじいっと私を眺めている。少々恥ずかしい。
 もっとも彼女らが驚くのも無理はない。サンタローズの興亡を聞けばその住人である私の安否がさぞ心配だったことだろう。
 しかしサンタローズの復興が既に始まっていることを告げると、二人とも安堵した表情を浮かべた。

 ゆっくりして行けとダンカンは云うが、そうもしておれんのですと事情を話した。
 フローラと結婚するために指輪を探していると云ったとき、ビアンカは目を見開いて驚いていた。
「あなたももうそんな歳なのね」
「もうかれこれ十六ちょっとだからな。ビアンカはまだ貰い手はないのか」
「うん。なんだかいまいち実感湧かなくて……」
「またどうして」
 私がこの問いを投げたとき、彼女の顔に一抹の苦渋が見て取れた。
 それと同時に、私に向ける目が一寸変わったのを認めた。私はこの瞳に晒されて一編の驚きを感じた。
 ビアンカが目に湛えたのは、紛れもない非難の色であった。

 あれこれと話す内に日が落ちた。ビアンカが夕飯の用意をしてくれたが、これがすばらしい出来であった。
 サラボナの飯もまずくはなかったが、これはそれに輪を掛けてうまい。天にも昇る味とはまさにこれである。
 飯はこの通り最上であった上に、なんとこの村には温泉まである。
 なるほどただ田舎に引っ込んでいるよりも湯治を併合すればさぞ健康に好かろう。
 未だに完治はしないようだが、このご時世であれだけ動ける辺り少なからず効果はあったのだろう。

 これだけ効能のある温泉であれば入らない方が損だ。案内してもらって宿屋へ赴いた。
 ビアンカは宿屋を通るのが面倒だと云っているが、元来宿と温泉は一繋ぎになるのが命運であるからこれは当然の帰結だろう。
 番台の婆さんに金を払うと、あら、ビアンカちゃんお疲れと馴染みらしい挨拶をする。
 ビアンカもにこりと笑って、おばさんもお疲れさまと云って向かいの湯の方へ消えた。
 昔はお化け退治に率先して行くほどのお転婆だったのに、すっかり愛嬌の好い良い子になっている。
 何だか彼女の知らない部分を見たようで、少しこそばゆい心持ちになった。

 温泉、と云えばその形態であるのは少なくないが、まさかここで出くわすとは思わなかった。
 男湯なら遠慮もあるまいと素っ裸で戸を開けてみれば、タオルを巻いた女性等――無論この中には還暦をとうに越した婆さんも含まれる――彼女等がこちらを一斉に振り向いたには大変困った。
 すわ女湯と間違えたかと引き戻れば、そもそも暖簾に例の「男」「女」の文字がない。真っ白な白地である。どうやら混浴のようだ。
 なぜ脱衣所だけが分けてあるか知れないが、そうならそうと初めに云ってほしい。
 白い腰巻きにして湯へ戻ると、既にビアンカが浸かっていた。

 私はすぐに戸を閉めてまた脱衣所に帰った。
 何も女性等に裸を見られるのが恥ずかしいのではない。ましてや女性の裸を見るのがやましいのでもない。
 単に、ビアンカと鉢合わせるのがどうしても堪えきれなかったのだ。
 結局そのまましばらく何もせずにいて、元の服を着て外へ出た。

 外で待っていたらビアンカが出てきた。
 なぜ混浴だと教えなかったと責めたら、温泉と云えば皆この形態かと思っていたと悪びれない。
 ほとほと世間知らずで困る。
 しかししばらく黙然としていたら、ビアンカが実はと云って打ち明け始めた。

 どうやら彼女もどこか恥ずかしいものを感じて間もなく上がったらしい。おかげで体も洗えずに困ったと云う。
 私は苦笑して、実はこっちも似た境遇だったとあらましを告げた。
 するとビアンカはなあんだ、おかしいのと云ってころころ笑った。
 結局、これじゃあ心持ちが好くないだろうと云うことで交代で入った。
 勇気のない奴と嗤われるかも知れないが、結婚を控えた新郎が下手な真似をしたらどんな目で見られるか分かったものではない。
 これが最善だと自分に言い聞かせた。

 ビアンカの家に帰って寝ていたら、何となく懐かしい香りがした。
 やはり宿の経営をしていただけあって、ベッドメイキングの技術は並大抵ではない。
 朝までぐっすり眠ると、これまでにないほど体調が快復した。
 とことん疲れたときは、ルーラで寄って泊まらせてもらうのも好いかも知れない。
 もっともフローラと結婚した後でここへ寄るのはさぞや気まずいだろうから、やっぱりやめた方がいいだろう。

 起きぬけから、空きっ腹を刺激する好い匂いがする。
 顔を洗って出てみると、ビアンカがエプロンを着込んで料理をしていた。
 家庭的な格好に思わず相好を崩して、似合っているじゃないかと冷かした。
 ビアンカはもう、冗談云わないで待ってなさいといくらか耳を赤くしている。
 待つにしてもやはり手持ち無沙汰なので、ダンカンを見舞ってやった。
 昨日よりは顔色も好さそうだ。どうですかと尋ねてみれば、まあまあだよと弱々しい声が返ってきた。

 私は何とも云えず、ただ大事にと云った。するとダンカンが手招きをして私を呼んだ。
 顔を近づけてみると、ダンカンが密やかに話を始めた。
「これはまだビアンカに云っちゃあいないんだが、実を云うとあの娘は私の子供じゃないんだよ。
昔宿の下に捨ててあるのを拾ってね……だからこそあの娘が不憫で、幸せにしたやりたいと思うんだが、この身体じゃあね。
もし君がもらってくれるのなら、これ以上のことはないと思っていたんだが……
なあ、もし好ければあの哀れな娘に、人並みの幸せをくれてやれないか」

 今度こそ私は声を失った。
 そりゃ、そんな話を聞けばどうしても貰いたいとも思うが、生憎私は婚約をしている。
 ここで手のひらを返してビアンカを選ぶとなれば炎のリングを取りに行った苦労も報われないし、ルドマンに面目は立たないし、第一、フローラを裏切ることにもなる。
 私はそんな不人情なことはできない。
 口を開こうとしたその時、ダンカンが激しく噎せ始めた。それを聞きつけてビアンカが飛んできた。
 断る機会を失った私はそっと部屋を出て扉を閉めた。
 私はこの時ばかりは、自分とビアンカを会わせた天意を恨んだ。

 席へ着くと、のっけから豪華な食事が運ばれてきた。
 相変わらずうまいが、二度と食べる機会がないと思うと胸に鋭い痛みが走った。
 私が黙々と食べていると、ビアンカがお気に召さなかった、と訊いてきた。
 とんでもない。あまりうまいんで言葉が出なかったんだと弁明して、かき込むようにして胃へ放り込んだ。
 そうしてこの味を覚えることのないよう意識から追い出しながら飲み込んだ。

 水門の鍵はダンカンが管理しているらしい。
 病人を動かすのも酷なのでビアンカが代わりについてくれるそうだ。
 船に乗せたら、「こんなものも持ってるのね、すごいわ」と感心した様子だから、「そうだろう」と云って説明は省いた。
 これを見栄と取っては私の沽券に関わる。私はビアンカが失望するのを嫌ってあえて何も云わないでおいたのだ。

 水門を開けたら、もう用事がないなら帰って構わないとビアンカに云った。
 すると私も指輪探しを手伝うと云い出すので驚いた。
 どうせあのルドマンのことだから水のリングだって魔物の巣窟に置いたに極まっている。
 道中魔物が出たら危険だと諭したが、魔物くらいどうってことないわよと剛胆に答える。
 何でも先だって山奥に薬草を採りにゆく時分に魔物の群に襲われたらしいが、メラで鞭に火をつけて一網打尽にしてやったらしい。
 柔軟な戦法にも驚いたが、そんな危険な場所へ単身乗り込む勇気に舌を巻いた。
 確かに戦闘の邪魔になることはなさそうだが、一つ見過ごせない難点があった。

 私はフローラに好きだと公言した立場である。
 それをもってビアンカと仲良くするのは、世間体もそうだが、何より私の精神にとって不都合極まりない。
 できることならここで出会った縁も思いも断ち切って、帰りを待つ者へ誠意を向けたかった。
 そうしてこの胸に燻ぶる何某かを踏み消して、一切忘れ得たかった。

 しかし――

 私はついに、ビアンカの懇願ともとれる悲愴な色をした瞳に貫かれ、同行を許可してしまった。



少し休みます

ドラクエV結婚関連は美しい壮大な人間関係を物語中で引き出しましたが、
現実のプレイヤー間で相当醜悪な論争を巻き起こした要因でもあります
ですからこの手について話したいことが山ほどありますが、ここでは触れないことにします

そしてこの作品があくまでパロディ、茶番だと云うことを忘れなきようお願いいたします

 戦闘に出ると云うから仕方なく後ろの面々を紹介した。
 余程驚くと思っていたが、魔物と戦い馴れている彼女はへーで済ませてしまった。
 しかし尻尾にリボンを巻いたキラーパンサーを見たときは流石にびっくりしたようだ。
 ゲレゲレじゃないの。こんなに大きくなって、とふくよかな胸を遠慮なく猫の顔に押しつける。ゲレゲレはごろごろ喉を鳴らしている。
 するとそこへピエールが慇懃に頭を下げて、貴女のような方と共に旅ができるとは光栄の至り、と手を取る。
 ビアンカは滅多に受けない扱いにどぎまぎして、どうも、とだけ云って終わらせた。
 フローラが同様の扱いを受けたときにどう反応するか気になるところだ。

 ゴルキと対面させると、あらスライムじゃないと嬉しそうな顔をする。
 スライムはやはり女性に人気があるようだ。
「こんにちは、ぼくゴルキ」
「こんにちは。ゴルキ……くんは、スライムレース場からきたのかしら」
「むう。ちがうよ、ぼくはすきでこのひとについていってるんだ」
「へえ、意外と人望あるのね」
「魔物に限っては、どうも天賦の才があるようだ」
その時、頭上からにゃーと云う声がした。

「吾輩は魔物ではないのだがね」
先生が馬車の天蓋から顔を出した。
 ビアンカは喋る魔物には大した反応は見せなかったのに、先生を見たときは嘘でしょ、と大変驚いていた。
「最近は猫も喋るのね」
「いや、先生は特別な事情があってな――ともかく、こいつらは敵じゃないから、間違って攻撃したりしないでくれよ」
「大丈夫よ。……多分」
「おやおや。ちょっと心配だな」
「万が一には我が即座に治療する故気兼ねなく存分に奮いたまえ」
「そう? じゃあ遠慮なく」

 事実遠慮なかった。船上の戦闘中、何度か鞭が飛んできて肝を冷やしたが、ビアンカの巧みなコントロールで間一髪の所で済ませていた。
 当たりこそしていないが、耳元で風切り音がすると心臓に悪いから程々にしていただきたい。
 しかしこう船に乗っていても魔物に襲われると世間一般の航海士などはさぞや苦労するだろう。
 我々のような戦闘集団がそうそういるわけもなし、各地の便が止まってしまうのも頷けた。

 戦闘を終えるとビアンカが手当てをしてくれた。回復呪文で直接癒すわけではないが、それでも暖かみを感じられて嬉しかった。
 ビアンカは手当の際に、何だかパパスさんに似てきたみたいねと感嘆を漏らした。
 私は十年前の皮肉を思い出して、もう父に似ずひ弱な少年は居ないぞと云った。
 ビアンカはそうね、すっかり頼もしくなって、と笑ってから、少し淋し気な笑みを端の方に翳した。

 船を上流に進めると、滝のある大きな湖に出る。
 湖と云うより大きな滝壺が適切かもしれない。それもただの滝でなくて、ルラフェンで虞美人草を探す道中で見かけた、華厳の滝二号である。
 初めに、以前から見せようと思っていた先生に拝見してもらった。
 見識のある先生は「いいじゃないか」と大変ご機嫌な様子だ。
 ビアンカにも見せて、綺麗だろうと云うと、そうね。洞窟がなければもっと綺麗ねと云われた。
 洞窟? と聞き返すとほら、あれと滝の方を指さす。洞窟らしきものは見えない。
 分からない私が矯めつ眇めつしているとあれよ。滝の裏、とけしかけられてようやく見えた。
 確かに滝の裏に隠れるようにして巨大な洞窟が口を開けている。

 船ごと入れる広さがあるので乗り込んでみると、水場にあるだけあってかなり黴臭い。
 しかし暑い時分だから水気を含んだ風が気持ち好い。
 以前はゲレゲレや先生が可哀想だったが、今日は誰も苦しい思いをしない。
 ピエールに鎧が錆びないか心配してやると、我が鎧は新陳代謝せしめる謂わば鱗あるいは外殻故心配に及ばずと自信満々に云う。
 よく分からないが、爪や髪の毛の類とそう変わらないらしい。
 であれば錆びようが溶けようが、しばらくすれば元通りと云うわけだ。便利なもんだ。

 やはりと云うべきか、ここも火山みたように階段や廊下がある。
 まさかわざわざ洞窟を掘ったわけでもあるまいが、この短い距離に火と水の洞窟を見つけるのは流石の見識眼である。
 洞窟は火山と違ってそれなりに安全だが、代わりに魔物が一回り強い。
 ビアンカも一応女であるから火力が少々不足している。
 呪文で凌ぐことがあったが魔力がしょっちゅう尽きるので、時折船に戻って療養した。 
 その内こなれてきてずんずん進めるようになった。

 洞窟を進んでいると、近くでごうと云う大きな音が聞こえるのに気がついた。
 入り口の滝ではなく、別の所で大きな水の流れがあるようだ。
 少しして狭い場所を抜けると、いくらか広いところへたどりついた。
 そこは先の華厳の滝にも負けぬくらい壮大で、美しい滝が自然の中にぴったり収まっていた。
 雄大な景色に我々は足を止めた。するとピエールが句になりそうだと云った。一つやって見ろと調戯い半分に云ってみた。


 水の洞 魔物うなりて 滝流る

 生憎私は無風流だからこれが旨いのかまずいのか分からん。
 それどころか季語があるかも判別つかない。多分滝がそうなんだろうが。
 どうとも云えないから黙っていると、ピエールが「では貴君も一つ」などと云いたげな目線でこちらを見る。
 冗談じゃない。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。
 元奴隷の無頼漢が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
 そう思ったが、ただ無愛想に拒むのも気が引けたので、
「『魔物うなりて』は君らの感動の唸りと、周りの獰猛な連中の呻りでかけてあるんだね。うまいうまい」と適当に誉めてごまかした。

 道なりに進んで行くと洞窟らしい大きな泉を湛えた場所がある。
 ただその水が受け皿を飛び出して地面を水浸しにしているのには参った。
 私やビアンカはざぶざぶ進めるがゴルキやピエールの片割れなんかは歩く――跳ねる度に顔全体が冠水してしまうので可哀想だ。
 ゴルキは最悪持って歩けばよいが、ピエールのものは二周りも大きくて難儀する。
 それどころか上の騎士とスライムを分かとうとすると「無礼であるぞ」とすごい剣突を食らわせてくる。
 鎧と云い中身と云い、スライムナイトと云う種族には謎が多い。

 道中、どこから嗅ぎつけてきたのかフローラの婿候補と出くわした。
 きっと水のリングさえ手に入れれば私と一騎打ちができると算段したんだろうが、魔物の質は死の火山より高いから棺桶になる者が大半を占めていた。
 その中でも生き残る豪傑はちらほら見かけたが、いずれもビアンカを連れる私に白い眼を向けてきた。
 この行事に参加するのは大抵独身の男だから女連れの私が余程珍しいんだろう。
 中には物欲しそうな目つきで見てくる奴がいたが、どうかすると私はその男を恨んだ。

 広場の中頃へ抜けると、ビアンカが突然憤りだした。
 何でもさっきすれ違った男がビアンカの尻を撫で抜けたらしい。
 私は大いに憤慨して、失礼な、何処のどいつだと剣幕を立てたら向こうのあらくれと云うので、真っ向から向かってやった。

 貴様、あいつの尻を触ったそうだな、と胴間声を張り上げるとでかい体がびくりと跳ねる。
 こちらを睨めつけるが、何も云わない。挙動不審に目をぎょろつかせている。
 何も云わないところを見ると黒らしい。世の中には推定無罪と云う言葉があるらしいが、甘っちょろい思想だ。一目見ればそいつの黒白は簡単に決するもんだ。
 こいつは痴漢である。失敬千万である。断りなく女性(にょしょう)の臀部をまさぐるとは、日の本の男児の風上にも置けん奴だ。
 そこに直れ、と天誅を加える気概でもって怒鳴ったら、奴がなにを、じゃあお前はあいつの何なんだ、と逆襲を始めた。

 私はすっかり虚を衝かれた。
 友人、と単簡に云うことはできるが、私と彼女の関係はそれで済まないような気がした。
 私は言葉を失った。そうして何とも云えず狼狽しているうち、あらくれはとんずらをこきやがった。
 追いかけたが、奴めリレミトでさっさと脱出してしまったようだ。どうもすっきりしない体でビアンカの元へ戻った。
 ビアンカはただ難有うと云ってくれたけれども、犯人を逃した私は例には及ばんと謙遜しておいた。
 しかしビアンカはどうしても礼を云いたいようで、私の目をじっと見つめてきた。
 その瞳があんまり綺麗でついこちらも見つめ返してしまったが、すぐにお互いともに目を逸らした。

 進むうちに小さな滝口に着いた。小さいが流れが急だ。
 気をつけろよと注意しようと思ったその時、ビアンカが深い所に足を掬われて体勢を崩した。
 隣にいた私が咄嗟に手を引っ張って事なきを得たが、弾みでビアンカとの距離が急速に縮まった。

 その瞬間は実に短い、僅かな時間であったけれども、我々はその凍った時間の中へ閉じ込められた。
 そうして互いの瞳を見つめあってから、すぐに何ともなかったかのように離れた。
 私は「ここらは深い場所が点々とあるから、気を付けるが好い」と云った。ビアンカは「うん」と単簡に済ませた。
 脳裏にはひたすらに純朴で綺麗な眼の光がちらついて、その度に心臓に電流のようなものが走った。

 水浸しの領域を歩いていると、ピエールが突然ばしゃりと音を立てて水の中に消えた。
 慌てて駆け寄ると、ピエールの居た場所に冠水した小さな階段を見つけた。
 救助のために鼻をつまんでざぶりと飛び込むと、すぐに浅い場所へ落下した。
 冠水しているのに中途で空気があるのは、どうも魔術的な建築を施しているらしい。
 上から流れる水は床に刻まれた放射状に広がる溝に沿って流れている。
 そしてその溝が一所に集まる先には、岩を切り出してできたような無骨な台座があった。

 台座の上には青い宝石を装飾にした美しい指輪が収まっている。
 私は仲間を十分回復させて、辺りに注意を払いながらそれを取った。
 しばらく私と魔物諸君は緊張していたが、階段を上がる頃にはむしろ拍子抜けの体であった。
 さしものルドマンも強力な魔物をけしかけるのはやりすぎと判断したらしい。
 女性を連れている最中でまたようがんげんじんのような恐ろしい奴に出くわしたら、大変なことになるところであった。

 ビアンカはやったわね、これでめでたく結婚ね、と少し淋しそうに祝辞を述べた。
 その時彼女の口元の肉が少し顫えて、何か言葉を紡ぎ出しそうな雰囲気が感ぜられた。
 しかし彼女はそれを隠して、天空の盾があれば勇者に近づけるわね、と云った。
 私は曖昧に頷いて、手にした水のリングを見つめた。
 青い宝石は静謐な輝きを放って私の目を見つめていた。

 人が見つめ合った時、相手の瞳に自分の姿が映るのに気がつくことがある。その時の不思議な感覚をこの時抱いた。
 そうして水のリングに映ゆる己の形を垣間見た時、私は自分の心が水月のように水面に浮かぶのを発見した。
 穏やかな水面に一粒の滴が垂れ落ち、波紋と揺らぎがどこまでも広がる。
 元の青い色はたったそれだけの金色の色水に侵され、混濁して行く。
 心臓に痛むものを感じながらそれを見つめ続けたが、私の心はついぞ落ち着くことを知らなかった。

 帰りの道中、ビアンカは今までの饒舌が嘘のように黙りこくった。
 私も同様にしてだんまりを極め込んでいた。
 ピエールと先生が気を利かして話しかけてくれることがあったが、上の空の体でうん、とかはあ、とかしか云えなかった。
 ビアンカはゴルキと他愛のないお喋りをしていたが、そちらも心ここに在らずと云った風だった。
 それは山奥の村へ戻った後も変わらなかった。

 何度も戦闘と休養を繰り返したせいか、村へ戻る頃には深夜に近い頃合いになっていた。
 家で飯を済ませると、とうとう酒場の騒ぎも収まった。いよいよ田舎らしい静寂が訪れた。
 我々はこの静寂の中にただ二人取り残されていた。

 ベッドへ入ろうか迷った。
 今の心持ちのまま横になっても、安穏と寝られる自信はなかった。
 ビアンカも机に頬杖をついて、蝋燭の火をじっと見つめ続けていた。
 ただ刻々と夜だけが更けていった。

 突然、ビアンカがわあと叫びだした。
 びっくりした私が目をぱちくりさせていると、ビアンカは私の手を取って「温泉に入ろう」とのたまいだした。
 急も急で、前後の繋がりが皆無なので私は困惑するばかりであった。
 ビアンカは呆けた私の手をぐいぐい引いて、宿の温泉に連れ込んだ。
 夜も大分更けている頃合いで、番台の婆さんはもう降りていたが、ビアンカが話を付けて無理矢理開けさせた。かくの次第だから貸し切りである。

 衣服を脱いだ私はしかし、またもや勇気を失った。
 それはフローラに申し訳ないとか世間体がどうとかと云うよりも、ビアンカと裸を見せ合うことに対する躊躇であった。
 けれども戸の向こうから聞こえる湯の云う音に促され、ついに浴場へ顔を出した。

 ビアンカは体にタオルを巻き付けていた。
 それでもかの艶めかしいボディラインは十分観察できるので目の毒とほか云いようがない。
 しばらく二人とも無言のまま湯に浸かっていた。やがてビアンカの方から口を開いた。
「昔、一遍だけ二人でお風呂に入ったことがあるんだけど、覚えてる?」
 私は頭を振った。聞けば三歳の時分であったそうだから、いよいよ覚えていない。
「あの時はあなたもずっと小さくて、弟のような感じだったわ。けれども昨日出会ってからは、全然別の思いが湧き上がってきて、どうしようもなくなった。何というか、頼もしいとか、男らしいとか、素敵だとか、そう云った風な気持ちが飄然と舞い込んできたの。わかる? それは今日旅している間中ずっと残っていてね。……要するに、あなたのことを他の男と同じように考えられなくなったの。ねえ、これって何だと思う?」

 私はこの答をついぞ得られなかった。
 知っていても出す気にならなかった。
 むっつりと黙り込んだまま、向け合った背中からビアンカの体温に思いを馳せた。
 きっと彼女と私は互いに鏡だった。

 湯を上がったら、湯冷めせぬ内に酒をあおった。
 語らいは酒の上でするのが通例である。もっとも私もビアンカも強い方ではないのでちびちびと薄いものを嘗めているだけだった。
 酒場も人の気配はなく、いるのはただ我々二人きりであった。
 音楽も喧噪もない静かな酒宴であったが、我々はこれを大いに喜んだ。
 ぽつぽつと昔話を続け、夜は更に深まって行った。

 ビアンカは近々の事情より昔話をしたがった。また私もそうする方が快かった。
 昔、アルカパで別れ際にキスをしたことを冷かしてやると、あなただって私の肩を抱いたじゃないと反撃をされた。
 覚えはないが、レヌール城で彼女が怯えたときに無意識にそうしていたらしい。
 そうだったかな、とはぐらかすように返事をして、ジョッキに手を伸ばした。するとその手が偶然時を同じくして伸ばした彼女の手と衝突した。
 触れるはずのなかった、二つの手と手が合わさっていた。

 時が止まった。薄暗い酒場の光彩が急速に失われた。味も匂いも一切心から離れた。
 ただ胸の鼓動ばかりが頭に映えた。

 顔を上げ、ビアンカの顔を見た。彼女も同様に私の姿をその眼へ映した。
 稲光が走った。真実が雷光のように私の目の前にまざまざと浮かび上がた。倫理が雷鳴のように繰り返し私の頭を響かせた。
 我々は全く呼吸を止めていた。そうして指先の一点に集中を込めて互いに感じ合った。
 いつか暗い廃城でそうしたように、我々は互いの震えを確認し合った。

 私は彼女の瞳に浮かぶ情合の光を認めた。またそこに、許されぬと知って苦悩する彼女の葛藤も見た。
 きっと彼女も私の揺らぎを見た。我々は互いの瞳を見つめ合い、相手を見、自分を見た。
 そうしてビアンカと感情の共有を果たしたとき、私は再度雷に打たれた。

 脳裏には、眦に涙を浮かべる青髪の乙女が浮かんでいた。

 私は卒然と立ち上がった。もう寝ようと云った。時刻は丑の刻を疾うに回っていた。

 翌朝になって、ビアンカは持ち前の明るさを取り戻した。
 飯はやはりうまかった。今度はゆっくりと味わって、その腕前に舌鼓を打った。
 大いに誉めてやると、ビアンカは頬を染めて謙遜した。本当に照れているようであった。
 ダンカンとビアンカに礼を云って村を出た。
 朝霧は白く船腹をしっとり濡らし、空は抜けるように青かった。

 船に乗って歩み板を上げようとしたとき、陸から女の声が聞こえた。
 見るとビアンカが手を振ってこちらに呼びかけている。
 サラボナに用があるからついでに乗せていってくれないかと訊かれた。
 私は何も云わず彼女の目を見た。
 色のない、静かな感情がそこに押し寄せていた。

 ビアンカを船に乗せてやった。彼女はありがとうと云って私の顔を見た。
 私は礼には及ばないとだけ返して、まるで雲のない綺麗な空を見上げた。
 用があるはずのビアンカは殆ど手ぶらであった。



少し休みます

個人的には、ビアンカの家を速攻で建てたあの村人をクローズアップしたいところです
もしかしたらアンディポジションを得られるかもしれない逸材ですし
ただ、やはりそんなモブに需要があるかと云うと……

        八

 サラボナには消沈した男どもがふらふらと彷徨い歩いていた。
 どうも死の火山や滝裏の洞窟へ挑戦して散っていった惨敗者のようで、腕や足を吊っているものが多々見られた。
 ルドマンも罪なことをお練りになったものだ。も少し安全な場所であれば怪我人もここまで増えなかったろうに。
 お気の毒をしながらルドマン邸へ向かうと、後ろをビアンカがてくてくとついてくる。
 君は何か用事があるんではないのかと訊くと、うんまあと至極曖昧な返事が返ってきた。

 訝しげな目で見つめていると、実は、とだんだん訳を話し始めた。
 なんでも私の結婚が気がかりでつい飛び出してきたんだそうだ。
 昨日も云ったように、あなたのことを弟のように感じていたと、あるいはもっと大事な者にも。
 だからそんな人が結婚すると訊いて、居ても立っても居られなくなったという。

 私は笑った。だったら初めからそう云えば好いのにと。ビアンカも笑った。
 何となく気恥ずかしいから嘘を吐いたんだと云うから、昨日の混浴の方がよっぽど恥ずかしかったろうと調戯うと、あれは違うのよと大慌てで否定する。
 私は久しぶりに快活に笑った。
 その時、後ろから私の名を呼ぶ声がした。
 振り返ったとき、私は背筋に氷柱を突き込まれたような思いがした。

「そちらの方は?」とフローラが尋ねた。私は一寸答えが遅れた。
 ビアンカは動じずにお辞儀をして、「幼馴染みのビアンカです」と丁重に名乗った。
 フローラは目を見開いて、「あら」と云った。彼女はその時妙な顔つきをした。
 妙と云うよりは、厭な顔をするのを懸命に堪えた顔であった。
 きっと将来旦那となるはずの男の傍に余計な女の影がちらついたのを不審に思ったに違いなかった。
 しかしそれも長くは続かなかった。
「私はフローラと申します。今日はお出かけですか」と優しい声色で云った。
 表情はいつもの如く柔らかいものへ戻っていた。

「はい。片手間で恐縮ですが、祝辞を述べにきました」
「それは、私の結婚のことですか」
 この時ビアンカの体の筋肉が一瞬硬直したのを私は認めた。ただそれも次の句を発するまでには解けていた。
「何しろ水のリングを手に入れましたから、彼も晴れてあなたと結ばれることとなりましょう」
「まあ。もう片方の指輪まで見つけてしまったんですか。じゃあ……」
「そうです。彼があなたの結婚相手です」
 ビアンカはそう云って私の腕をつかんでフローラに相対させた。

 私は云うべき言葉が見つからなかった。今まで心の準備を済ませていなかった。
 ただ漫然としてフローラの青い瞳を見つめていると、彼女の頬がぽうと薄赤くなった。
「好かったですわ。私……」
と云って、体の横に垂れ下がった私の手を取った。
「あなたと結婚できたらどれだけ仕合わせだろうと、そればかり考えていましたもの」
 今度は私が頬を染める番であった。
 しばらくそうして手を握り合っていると、フローラが「ではそろそろ父に伝えて参ります」と云って立ち去った。
 私は消えゆく陽炎を見るような心持ちでそれを眺めていた。

 振り返ると、そこには笑顔のビアンカが居た。
 昨日見せた苦悩も、葛藤も、あるはずの嫉妬も、毫も見せていなかった。
「好かったわ。フローラさんてのがどんな人かと心配だったけど、あれほど礼儀正しくて綺麗な人なら安心ね。あなたも好い人見つけたじゃない」と云って私の肩を叩いた。
 そう云う彼女の瞳はしかし、どこか淋しげであった。

 道を歩く商人が私を見るなりいやはや、羨ましいですなとぼやいた。
 何しろあのご令嬢と結ばれるのだから万人の羨望を受けて然るべきである。
 けれども私の心中には複雑に絡まった糸屑の固まりがあった。
 そしてその中心にはビアンカと云う舶来品があった。
 このもつれを解す方法を私は知っていたかもしれなかった。
 しかし、そうすることは私とビアンカの間に掛けられた一縒りの関係を寸断することに他ならなかった。
 私はそれを断行する勇気をついぞ持たなかった。

 商人が去った後、ビアンカが私の名を呼んだ。私は首を回して振り返った。
 続けられた次の句は私にとって全く予想外な、いわば不意討ちにも等しい急激な勢力をもって私の胸を襲った。


「あなたは本当にフローラさんを愛してるの?」

 私はこの問いを、自分の持ちうる最大の驚きをもって迎えた。
 それはあまりに生々しく、暴力的な意味を含んでいた。
 彼女の切先に直面した私は、第一に身を強張らせて動きを止めた。
 そうして固まった私は第二に、自身の心が激しく揺れ動くのを感じた。

 愛しているか。――そうであるとも、違うとも云えた。
 けれどもそれは別の方面に対してははっきりと肯くことができた。
 この二つの心の乖離が私を苦しめた。嘘も吐けず、誤魔化しも弄ぜられない私は喉頭に突きつけられた言葉の刃を撥ねつける術を持たなかった。
 抜けるような空の下でただ粛然と棒立つばかりであった。

 後ろからフローラが私を呼んだ。
「父が待っています。宅(うち)へ来てください」
 私は弾かれたようにして彼女へついて行った。
 後ろから刺さる視線に棘はなく、ただ昏い傍観の眼差しがあるだけだった。

 ルドマンはいつにも増してご機嫌だった。ふくよかな腹を遠慮なく揺らして私の肩を叩いた。
「火のリングを手に入れたときから直感しとった。君こそがフローラと結婚するにふさわしい男だとな。もう式の準備は粗方済ましてあるから、明日になったら早速契りを交わしたまえ」
 わっはっはっはと豪快に笑って祝ってくれた。どうやらこんな私でもかの富豪の目に叶ったようである。
 一先ず安心しながら屋敷を出ると、なにやら人が云い争う声が聞こえた。
 それも少し調子の高い、女同士のものだから珍しく思って覗いてみたら、驚いた。
 フローラとビアンカが差しで向かい合っている。

 慌てて間へ入り込んだら、二人の視線が一斉にこちらを射抜いた。
 よくわからないが責められているような心持ちだ。
 全体どうしたんだと尋ねたら、フローラが静かに語り始めた。
 何でもさっきの私とビアンカの睦まじい様子を見て、フローラは私と彼女が慕い合っている仲だと確信したらしい。
 そうして、私が屋敷に入るのを見計らってビアンカに次第を問い質したという。
 無論ビアンカは悉く否定したものの、フローラは頑としてそうであると極めつけてしまっているらしい。

 君はどうしてそう思う、とフローラに尋ねた。
「先程の二人の間にある視線は尋常の男女間にもたらされるものではありませんでした。私は直感しました。理非に叶っていないと嗤われるかもしれませんが、どうしてもわかるのです。あなた方はきっと互いに愛し合っています」
 彼女は毅然としてこう云い放った。
 私は云うべき言葉を失った。そうしてフローラの青い瞳を見つめた。
 そこに愁いや悲しみはひとかけらもなかった。

 私は絞るようにして声を出した。
「例いそうだったとして、あなたはなぜそれを打ち明ける必要がありますか。黙っていれば私と結婚できるのじゃありませんか」
 フローラは一瞬だけ顔に翳りを見せた。しかしすぐに払って、 
「思い合った者同士の心を顧みずに結婚しようなんて了見はありませんわ」と云った。

 その時、後ろから何者かが近づいてきた。騒ぎを聞いて駆け付けたらしいルドマンである。
 しばらくビアンカの顔を射るように見つめていたが、やがて
「フローラや。もし彼がビアンカさんを選ぶとしても、お前は悔いはないね」と云った。
 フローラは「もちろんですわ」と云った。私は一寸状況が飲み込めなかった。
 呆然とする私に向かって、ルドマンは厳かに告げた。
「明日までに、二人のどちらと結婚するか極めなさい」

 私は少なからず驚いた。それはビアンカも同様だった。
 ビアンカは狼狽して、「私なんかより、ご息女にもらわせれば好いではないですか」とルドマンに訊いた。
 ルドマンはその時、意外にもにやりと笑った。
「実を云うとね。私はこう云った懊悩の果ての恋愛が大の好物なのだよ。見る限り彼はビアンカさんを好いているようだ。またフローラのことも同様。でもってここに大恋愛の極致を見いだすか、あるいは物質的、地位的な観念の下にフローラを選ぶか。これを是非とも見届けたい。もっともフローラも彼が気に入っているようだから、いずれを選んでも愛に事欠くこともなかろう。それこそ、彼の意思によって全てが極まるのだ。その苦悩の決断を私に見せてくれ」
 こう云ってまたもや例の哄笑を響かせながら、ルドマンは帰って行った。
 後には私を想う清楚な若姫と、一途で快活な女君と、選択の権利を手に呆然と立つ若者が取り残された。

 フローラは屋敷へ帰った。ビアンカはルドマンの別邸に泊まることとなった。私は相変わらず町の宿である。
 なぜ将来義子となるやもしれん者を安宿に置いて、赤の他人確定の彼女をわざわざ別邸に泊めてやるのか意図は分からないが、ただで泊まれるのだから素直に喜ぶべきであろう。
 道々で人々が私を垣間見ては、ひそひそと囁きあう。どうやらさっきの話がどこからか漏れたらしい。
 噂とは恐ろしいものだ。ひょっとすると電報よりよっぽど伝送が早い。
 もっともそれも無理はないだろう。何せこの町きってのお嬢様と、ぽっと出の村娘を天秤にかけるような男だ。
 しばらくは人々の好奇の視線からは逃れられんだろう。

 町の若い男なんかはやあ、大変だねと知らない仲のはずをまるで莫逆の友のように振る舞う。
 平生の私ならそういった軽い態度はうざったくて仕様がないはずだったが、今日に限ってはそんな奴らの声が聞いてみたいと思った。
 ビアンカとフローラについて聞いてみれば、やはり大衆の意見と私の見解は概ね一致していた。
 ただ彼らは私とビアンカの仲を知らないので少し軽んじている風潮も見られた。

 ふと思って、お転婆を絵に描いたようなデボラを引き合いに出してみると、みな揃いも揃ってやめておけ、とんでもない、不幸になるなどと不躾極まりない。
 彼女の人望の程が窺えるが、こう云われて逆に興味が湧いてきた。
 人間、やめとけやめとけと云われるだけ却ってやってみたくなるものである。
 屋敷を訪ねてみたが、相変わらず行方の知れないところへ放蕩しているらしい。
 あれだけお洒落で美人なんだから、素行さえ好ければ引く手数多だったろうにと思った。

 日が暮れるにつれ、だんだん気持ちが沈んでいった。
 いよいよ明日になれば、どちらかを悲しませねばならない。
 酒場で夕膳を取っても、ボール紙を噛んでいるようで味がしなかった。
 あるいはビアンカの料理で舌が肥えたのかもしれない。
 風呂を浴びて床についても、私は意識を鎮めることができなかった。

 いっそのこと適当に賽を振ってしまいたかった。
 しかしそう簡単に極めてしまっては彼女らに申し訳が立たないと思った。
 考え通すにしたっていつまでも寝床の中でのつそつとしても心持ちが好くないから、外に出てみることにしてみた。
 布団から跳ね起きて宿の者を呼んで、次第を説明した。
 今思うと、彼もよくも承知したものだ。大抵なら泥棒と間違えられるところだ。

 噴水は憩う者も見る人もいないのに、ご苦労千万にもざあざあと水を循環させている。
 そっと水に触れてみると、冷たさに一寸竦んだ。
 手で掬って頬にかけてみると、頭がせいせいした。
 夜風に吹かれながら町をぶらぶらした。
 幸いなことに、辺りは人も猫もおらず沈思黙考にうってつけの夜だった。

 どこからか窓の開く音がした。見上げてみると、民家から火傷を負ったアンディが顔を出していた。
 視線は遥か空の彼方を見つめ、私の存在には気づいていないようだ。
 私が声をかけてやると、彼は飛び上がらんばかりに驚いてこちらを見つめた。
 そしてさっと首を引っ込めて窓を閉めた。

 しばらくすると階段を駆け下りる音がして、民家の扉が開いた。
 アンディは私の手を取るなりよくやりましたね、それでこそフローラと結ばれる殿方だと大いに喜んでいる。
 大方怪我で寝ていたから事の次第を知らないんだろう。
 順序立てて私の状況を説明してやると、それならもう知っていますと返事が来た。

「私が迷っていることは知っているだろう」
「それはあくまで、ビアンカさんの体裁を繕うためでしょう。あなたはフローラさんを選ぶでしょう」
「いや、分からん。まだ極まらない」
 アンディはかっと目を見開いた。
「どうしてですか」
「君は知らないだろうが、ビアンカもフローラに負けないくらい素敵な人なんだ。きっと私と同じ立場なら君も迷うだろう」
「迷いません。フローラさんを選びます」
「そりゃあ君はフローラさんが好きだから――」
「そればかりじゃありません。フローラさんは本当にあなたのことが好きなんですよ」
 そう云うアンディの目は非常な真剣味を帯びていた。口調に真に迫るものがあった。

「フローラはまだ治りきらない僕の火傷の治療に来てくれます。そしてそのたび、やはりあなたのことを話します。以前していた話題そっちのけで、あなたとの思いでばかり話すんですよ」
 アンディの声は次第に水気を帯びていた。想い人から語られる別の男の話がいかに苦痛だったか、想像するだに痛ましい。
「聞けば十年前、それこそ僕とフローラが出会う前に、一度彼女と出会ったそうですね。それも優しい言葉をかけて彼女の心を奪ったとか。そこまでして、どうして彼女を選ばない非道ができますか」
「その時はなにもその気で云ったんじゃない。第一、十年前の話ならフローラよりビアンカの方が接触は多かった」
「それでも彼女はあなたを愛しているんですよ。そのビアンカさんは彼女ほどにあなたを愛していますか」
「愛している。きっと負けないくらいに愛している。だからこそ迷うんだ」
「それでも、あんまりだ。最近になって会ったのはフローラが先だ。あなたは彼女と結婚するためにあんな所まで行った。それを今更蹴って、彼女を悲しませるなんて、酷いじゃありませんか。酷い。あんまりだ……」

 彼の声はもう嗄れかけていた。そうして声にならない音を喉の奥から必死に出そうとしていた。
 満身創痍の彼の肩を持ってベッドに寝かせてやった。
 眠る彼の目には幾筋もの涙の跡が見て取れた。

 噴水の縁に座って、膝に頭を埋めた。私は今まで大きな思い違いをしていた。
 結婚とは私一人で完結するものではない。
 両人で行う共同作業なのだ。相手の心理を汲み取ってやれねば、伴侶となっても仕合せでいられる保証はない。

 フローラはアンディの云うとおり、私を深く愛しているだろう。
 でなければあの時、あれほど幸せな顔を見せることはないはずだ。
 しかしビアンカが負けているはずもない。彼女は私のために危険な洞窟へ赴き、飯を拵え、あまつさえ風呂にまで入った。また直接言葉で私を意識していることも告げた。
 対してフローラも十年前から想い続けていたらしいから、いよいよ甲乙つけがたい。
 このまま一人頭の中でぐるぐると思案し続けていても成果が得られないような気がした。
 この際、直接彼女らと話を付けてみても好いかもしれない。

 屋敷は当然閉まっていた。先程のアンディのように窓から顔を出すのを期待したが、そうそう起こるべくもない。
 諦めて後ろを振り返ったとき、目の前に影が立ちはだかった。
 見ると、随分と派手な格好をした黒髪の女が立っていた。
「何してんの?」とぞんざいであるので、「貴様こそ女子が無暗に夜更けを出歩くのは頂けんな」と横柄に返した。

「別にどうでもいいでしょ。私の勝手だし」
「私がフローラと結婚すれば私は貴様の義弟となる。義姉がいい年をして方々遊びまわっていると外聞が悪い」
「あら、あなたフローラと結婚するつもりなの?」
「まだ極まったわけではないが……」
「じゃあ猶更あんたに云われたくないわね。あんたが私の親か兄弟ならまだ聞くけど」
「私が貴様の親族なら、それこそ犬猿どころの騒ぎではないな」
「犬猿ですって。違うわ。鯨と小魚よ。勿論私が鯨の方」
「貴様が鯨? ばくだんベビーみたいな頭しているくせに好く云う」
「云ってくれるじゃない。あんたも小魚みたいな栄養満点な顔ぶら下げてると人から笑われるわよ」
「生憎私は背格好は人に馬鹿にされるほどではない」
「いいえ、あなたはきっと小魚よ。それも鯨に飲み干されるような矮小なね」
「何ださっきから。余程小魚が好きと見えるね」
「別に、好きじゃないし」

「それはどうでも好いが、君は好い加減結婚しないのか」
「私に釣り合う男が現れないのよ。仕方ないじゃない」
「君と釣り合うような小魚はこの世にそう多くはない。好い加減なところで腹を据えるべきだろう」
「うるさいわね。じゃあ何よ、あなたが貰ってくれるのかしら!」

 私は口を結んだ。そうしてデボラの顔を真向かいに見つめた。
 デボラは自分の云ったことを反芻して、理解して、ようやく悟ったのか、顔を真っ赤に紅潮させて「ち、違うんだからね、今のは……」とぶつぶつやっている。
 私は腕を伸ばして、量感のある髪に手を置いた。デボラの頭を静かに撫でた。
「せっかく綺麗なんだからそうつんつんしていると勿体ないぞ」
 デボラはぱっと私の手を払って、「余計なお世話よ」と云って屋敷へ上がった。
 彼女は真っ赤になった自分の耳に気がついていないようだった。

 デボラが屋敷の戸を叩くと、メードが待っていました云わんばかりに扉を開けた。
 中は明かりまでついている。余程待ちかねたと見える。
 デボラを中に入れた後、メードが私に気づいた。会釈をして閉めようとする扉に、私は素早く手をかけた。
 怪しまれない内に、好かったらフローラさんに会わせてもらえませんかと云った。
 メードは一瞬不審げな顔をしたが、私の容貌を覚えていてくれたようで、遅うございますから早めに済ましてくださいなと云って入れてくれた。

 ルドマンはまだ起きていた。結婚式の準備で忙しいようだ。
 もし私がビアンカを選んだら無駄になりませんかと訊いたら、いや、君がどちらを選んでも支度をしてやると云われた。
 私は少なからず驚いた。どうして赤の他人の婚儀を受け持つ必要があるのか。

 するとルドマンはわっはっはっはと夜中にも関わらず大声で笑って、
「云ったろう。私は君のような若者が好きなのだ。何しろ君は私の試練を乗り越えた強者だ。むしろ世話をしてやれるこっちが嬉しいくらいだ」と云った。
 私は深々と頭を下げた。正直、今の私の手持ちではまともな式をあげられそうにないと勘定していたところだ。
 今まで金にあまり終着のない私であったが、家庭を持つ以上少なからず意識に置いておくべきかもしれない。

 屋敷は外面だけを見ると二階建てだが、不思議なことに三階まである。
 興味を覚えて昇ってみると、廊下もない、ドアもない、ただ部屋にぽつねんと階段が設えているだけの手の抜いた構造の部屋である。
 構造はともかく、目に付いたのはそこらじゅうに立てかけられた数々の衣装立てであった。
 どれもやはり煌びやかで、派手な色合いをしつつ調和が取れていて生半可の手並みでない。
 不思議な光景に魅了されていると、ちょっと、ここは私の部屋なんだから勝手に入らないでよねと怒号が飛び込んできた。

 目の前には黒髪の女が立っていた。
 遊び疲れて眠たいのか、ピンクの寝間着を着ている。ただ寝間着にしてはちょっと露出が派手である。
 その無防備な姿に思わずたじろいで、済まないと云って引き退がろうとすると、待ちなさいよと肩を掴まれた。
 おずおずと振り返ってみた。もう寝る頃合いだというのに、デボラは化粧を落としていなかった。

「勝手に入った罰金」
 と云って、手を差し出してくる。私は身を震わした。
 目の前には、あの時と変わらぬ悪戯っ気の色をした瞳があった。
 見覚えのある手を取って、甲にキスをした。マニキュアの匂いが鼻をくすぐった。
 しかし黒いお転婆は、以前のように狼狽しなかった。
 代わりにウフフと笑って、それじゃあ足りないわと云って私の顎を指で持ち上げた。
 我々は正面から真向いた。そうしてしばらくの間見つめ合った。

 私は階段を下りた。
 まさに夢のようなひとときであった。現実のものとはとうてい思えなかった。
 ぼんやりと頭が霞んで、しばらく何も考えられなかった。
 まさかあのお転婆があれほど茶目っ気を増していたとは。
 妻持ちの瀬戸際にいる私にキスを――それも子供のするようなものでない、本格的なものを迫るとは、場合によっては訴えられるところだ。
 二階にフローラの部屋があるのを見つけたが、私はしばらく戸を叩けなかった。
 頬に差した赤みが消えるまで、じっと窓の外を見つめ続けていた。

 窓に写る顔から惚けた表情が消えるのを確認したとき、後ろからきい、と軋む音がした。
 振り返ると、先程まで閉まっていたフローラの部屋の扉が開いている。
 部屋の中は既に暗くなっており、主が就寝したことを暗に告げていた。
 少し落胆した。まだ夜も浅いが、お嬢様なのだから寝ないとも限らない。

 扉を閉めようと手をかけたとき、突然部屋の中から突風が吹き出た。
 驚いて中を改めてみると、部屋の中の窓が全くもって開け放されている。
 いくら床を暖めてもこれではたちまち風邪を引いてしまう。
 メードを呼ぼうと思ったが、どうしてか全員退いていた。
 後で聞けば、ルドマンが明日の式のために早めに帰らせたらしい。間の悪いことだ。

 唾を飲んだ。別に泥棒しに入るわけじゃあるまいし、堂々とすれば好いのだが、どうしても心持ちが好くない。
 抜き差し差し足で窓辺へ忍び寄り、そっと窓を閉めた。
 風の音がなくなり、途端に部屋に静寂が訪れた。
 一層気を配って足を運んでいると、ちらと目の端にベッドが垣間見えた。
 すると今まで鎮めていた緊張がにわかに大きくなって私の胸を襲った。
 気がつくと、私の足はドアとは別の方角を向いていた。

 綺麗に整えられた上質なベッドの上には、これまた綺麗に整った顔立ちの美しいご令嬢が寝ていた。
 すうすうと静かな寝息が微かに耳に入った。目の前にある顔はさっきのデボラよりもよっぽど無防備であった。
 その穏やかな顔を見ているうちに背徳感がふつふつと胸の内にわき起こってきた。

 これ以上はいかん、帰れと云う理性の命令はしかし、もっと見てみたいという欲求に負けてしまった。
 腰を屈めて清楚な顔の前へ覗き込んだ。瞼は閉じられているが、そこに納められた青い瞳に思いを馳せた。
 そうしてしばらくフローラの寝顔を見つめ続けていると、不意に開かれた彼女の瞳に私の顔が映った。

 私は後ろに飛び上がっていや、これは、すまないこれはと全霊を込めて平謝った。
 地にひれ伏しているから立ち上がった彼女の顔は見えないが、きっと軽蔑の眼差しに満ちていたに違いない。
 そうして平身低頭の限りを尽くして床に這い蹲っていると、フローラの優しい声が聞こえた。
 顔を上げるとそこには、ただ恥じらいに頬を薄赤くした乙女の容顔があった。

 聞いたところに寄れば、彼女が寝たのはほんの今し方の時分らしい。
 上の階でデボラと私の話し声を聞いて驚いて、ドアも窓も閉てずに急いで床についたとか。
 私が部屋に入ったときはびっくりしたそうだが、窓を閉めてくれたのでほっとしたと云う。
 寝顔を見られたことについてはちょっと恥ずかしいと云っていた。

 正座で話を聞いていた私は再度頭を下げた。女子の部屋に無断で忍び入った真似ばかりは弁解のしようもない。
 腹を切るつもりでいたら、なんと向こうは一切咎めないと云う。
 むしろ狸寝入りで迎えもしなかったのを謝る始末だ。どうも持て余した。
 結局お咎めなしと云うことになった。いくら結婚するかもしれない男だからって、こう放免してしまうのはちょっと甘すぎる気がした。

 私は居住まいを正して、フローラと向き合った。そうして数日前に云った言葉をもう一度彼女へ投げかけた。
「あなたは私のことが好きですか」
 フローラは微笑んだ。おそらく「何を今更」と云った風な手合いだったのだろう。
 何のこともなく、綺麗に云い放った。
「ええ。誰よりも深くお慕い申しております」

 静かに屋敷を退いた。フローラは玄関まで見送ってくれた。
 最後におやすみなさいと挨拶をしあって別れた。
 私は月を仰いで息を吸った。
 風はもう吹いていなかったが、静謐で美しい夜だった。

 邸宅の南にはルドマンの別邸がある。
 ここを管理している下女は「別荘」と呼んでいるが、別荘は遠い避暑地のことを云うのであって、これほど近いものは別邸とか別宅とか云うもんだ。
 おそらく田舎から奉公しに来たんで物の分別がつかんのだろう。
 玄関を叩いてみると、しばらくして不機嫌な顔を隠そうともしない下女が現れ出た。

「ビアンカとちょっと話をしたいんですが」
「居ないよ」
「え? いえ、ルドマン氏からここに居ると聞いてやってきたんです」
「居ないよ」
「ええと、弱ったな。そんなはずはないんだが……」
「よし居たとして、何をする気だい。まさか夜這いじゃなかろうね」
「まさか。結婚前夜にそんな真似しやあしませんよ」
「どうだか。昨今の男どもは油断ならんからねえ」
 一向に応じない。あまり粘っても疑いを濃くするだけだから早々に立ち退いた。

 話せないのでは仕方がない。宿に戻ってもう一度床についた。
 目を閉じているうち、瞼の裏には昼間のフローラの嬉しそうな顔が浮かんでいた。
 きっと結婚して結ばれれば、あれよりずっと好い笑顔を見られるに違いない。
 彼女との未来を妄想していると、あることに気がついた。
 彼女と結婚してもらえるのは、愛と富ばかりでない。

 私は衝撃を感じた。彼女と結婚すればすなわち、天空の盾を手に入れられる。
 ひいては母を見つけるの目的に一層近づく。
 そう、母に――あれほど渇望した母に、一歩近づくことができるのだ。

 私は母の温もりを知らない。優しさも知らない。笑顔も知らない。声も知らない。
 私は母を知らない。

 私の持つ痛みは、母を持つ人間には分からないかもしれない。
 私のような立場に立ってみないと理解できないかもしれない。
 けれども実際、私は烈しく不幸だった。
 母の温もりを毫も知らぬ人生を過ごした痛みは現実であった。
 そして私は血の滲むほど強く唇をかみしめて、ようやくそれに堪え得た。

 だからこそ、母を知るためにここまで奔走し、生き延びてきた。
 地獄のような十年を生き延びられたのも、一概に母のおかげである。
 この生涯は母のためにあるようなものだ。であれば、私が選ぶ道は一つだ。

 私は、フローラと結婚する。



少し休みます

V主人公は母の温もりを知らない人間ですが、現代人にそういった境遇の者があまりいないので共感を得られにくいです
ですがもし、そういった彼の身上と密接にリンクすることができれば、この結婚イベントは遥かに苦渋の選択だと云うことを知るでしょう
改めて堀井氏の技量に感服します

もっともどちらを選んでも結局貰えるというのは、メタ的視点で見れば興冷めな事この上ないですが

http://i.imgur.com/zqI2Qlo.jpg
先原直樹・ゴンベッサ

都道府県SSの痛いコピペ「で、無視...と。」の作者。

2013年、人気ss「涼宮ハルヒの微笑」の作者を詐称し、
売名を目論むも炎上。そのあまりに身勝手なナルシズムに
パー速、2chにヲチを立てられるにいたる。

以来、ヲチに逆恨みを起こし、2017年現在に至るまでヲチスレを毎日監視。
バレバレの自演に明け暮れ、それが原因で騒動の鎮火を遅らせる。

しかし、自分はヲチスレで自演などしていない、別人の仕業だ、
などと、3年以上にわたって稚拙な芝居でスレに降臨し続けてきたが、
とうとう先日ヲチに顔写真を押さえられ、言い訳ができなくなった。

2011年に女子大生を手錠で監禁する事件を起こし、
警察に逮捕されていたことが判明している。

先原直樹・ゴンベッサ まとめwiki
http://www64.atwiki.jp/ranzers/

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