女「ハローハロー。誰かいませんか?どうぞ」 (864)

ザザザ

ガガッ

「…あー」

「あー、あー。只今マイクのテスト中 只今マイクのテスト中」

「…」

ザザザ

「えー、こちらは●●県××町。私の名前は、……」

ザザ

「です。ハロー、ハロー。誰かこの放送を聞いてはいませんか?」

「…聞こえていたら、どうか応答を」

「私は朝の9時から10時、午後2時から3時の間にはここにいます」

「繰り返します。●●…県、××町、…の商店街です」

「ハロー、ハロー。私は元気です。応答どうぞ」

ザザザ

プツン

女「…」

ピピピ ピピピ

女「…3時か」

ピッ

女「…ふー」ノビ

女「…」パラ

“9月6日 ×”

女「よし、っと」パタン

この手帳にも、ずいぶん×が増えた。

女「今日の晩御飯、…なににしようかなー」

私の独り言も、ずいぶん増えた。

女「あるーひー」

女「もりのなーかー」

女「くまさーんにー」

女「であーったー」

ガタ

女「…」カラ

女「消費期限……2日前か」

女「…」ウーン

女「ま、いっか」

女「きょうのごはんはーレトルトカレー」フンフン

商店街の店には、多くのレトルト食品や缶詰がある。

日持ちしないものは、すぐに食べた。

5年経った今でも賞味期限以内の食べ物は、珍しい。

女「…って、もう三日連続カレーだよ」

これが6年、7年、…10年ってなったらどうなるんだろうか。

女「…料理勉強すっか」

それまで生きていられたらの話なんだけども。

女「…」カチ

グツグツ

女「よしよし」

私は、多分恵まれている。

こうやって食べ物を得ることもできる。 自家発電と浄水機能のついた家に住むことができる。

女「あちち」

女「…よし、完成」

まあ、今のところは。

女「……」カチ

ご飯を食べる時は、いつもラジオをつける。

ザザザ

女「…」

ノイズしか聞こえない。5年前から変わらない。

しかし、この音すら消すと、どうしようもなく

女「…カレー飽きた」

寂しくて、たまらない。

女「しゃーぼんだーまーとーんだー」ゴシゴシ

女「やーねまーでーとーんだー」パンパン

女「やーねーまーでーとーんでー」ギュッ

女「こーわれてーきえたー」

女「よし。洗濯完了、っと。お風呂入ろう」

もう何年もシャワーしか浴びてない。

歩けば銭湯があるけど、沸かし方なんて分からないし。

多分、恐ろしく汚いから、行かない。

女「…」ヌギ

女「おう、セクシー」

女「…」

嘘だ。私は痩せてて、少しみっともない体をしている。

胸も、多分平均よりも小さい。

女「栄養不足なのかな」

これも嘘。私のお母さんも、小さかったから、遺伝だ。

女「…」ジャー

女「ふんふん」フキフキ

女「ふんふーーん…」

女「…はあ。涼しいな」

ずっと一人で生きていると、開放的になってしまうらしい。

女「風がすーすーするー」

誰にも見られていないので、パンいちでいることはザラだ。

女「…っくしゅっ」

女(もう秋だもんなー…。いやー、涼しくて結構結構)

女「よっと」パサ

女「…そろそろ衣替えするかなー」

女「…」ピッ

女「1時、か」

女「ちょっと夜更かししすぎたかな。…寝よう」

生活リズムは、変えないようにしているけど

最近は夜更かしするようになった。

寝て起きる作業が、だんだん苦痛になってきた気がするのだ。

女「…よいしょ」ボフ

女「おやすみなさい」

誰もいない空間に向かって挨拶するのも、変えないようにしてる。

何か言っていないと、喉が塞がってしまう気がして。

もう二度と、喋れない気がして。

女「…あ」

女「やば、閉めるの忘れてた」タタタ

女「あぶないあぶない」

シャッターは、かならず降ろして寝る。

野犬が入り込んできたことがあるのだ。

もう、そんな動物の姿すら見られなくなってしまったけど。

女「よし、」

ガシャン

女「今度こそ、マジで。おやすみなさい」


私は一人だ。

女「…」スゥ

「…夜が来て」

「あたりが闇に支配される時」

「月明かりしか見えなくたって」

「恐れることなんてないさ…」

女「…」モゾ

「怖がる必要なんて、どこにもない」

「ただ君が暗闇の中ずっと」

女「…」

女「う、ん?」


「ソー、ダーリンダーリン…」

女「…」ガバッ

「スタンド・バイミー…」

女「え、え?」

女「…ラジ、オ?」



女「違う…」

綺麗な、澄んだ歌声だった。

少女のような、甘く深みのある、それでいてどこか粗い。

女「…な、に?」

手元の音楽プレイヤーを見たけど、違う。

第一私のプレイヤーにこんな歌入ってない。

女「…」

女「あ、…」

窓が開いていた。

少しかけた、白い月が見えた。

女「まさか」

まさかね。

女「…」

「スタンド・バイミー…」

女「!」

空耳じゃ、ない。

女「…っ」バッ

靴も履かずに、飛び出していた。

女「だ、誰かいるの!?」

街灯もない、月明かりだけが頼りの道だ。

女「ねえ、誰?!」

歌声が、聞こえない。

女「…」

女「ねえってば!!」

しんとしている。

女「…やっぱ、…気のせい?」

コツ

女「!」ビク

振り返ると、目の端が何か動く物体を捕らえた。

遠くにある角を曲がっていったようだ。

女「…待って!」

女「ねえ、ちょっと!待ってってば!」タッ

女「はぁ、はぁ」タタタ

コツ コツ

女「止まって!ねえ、誰なの!」

コツ コツ

女「ちょ、…」

女(暗い。全然見えない…。音だけが頼りだ)

女「おーい!!」

女「…っ、はぁ、はぁ」

私の声は届かないのだろうか。

女「…っ」タタ

足音は規則正しく、私を引き離すように進んで、進んで

女「…」

消えた。

女「…嘘」

女「…なによ、もう…!」ダン

女「…」ハァ

女(って、あれ?)

女「…放送局、だ」

女「…」

女「…誰か、いますか?」



女「…はぁ」

女(私の耳も、ついにおかしくなったか)

女「…あほらし」クル

女「帰ろ」

コツ

「ダーリン・ダーリン…」

女「!」バッ

女(やっぱり、いる!)

女「…」キィ

放送局は、頻繁に出入りするので掃除してある。

床に、乾いた土の足跡がついている。

女「…」ゴク

やっぱ、いんじゃねえか。

女「…ちょっと、誰なのっ」

ざっと見渡しても、人影は無い。

ということは、残っているのはスタジオのみ。


女「…」

女(あけ、…るか)キィ

ガチャ

女「…」

女「あれ?」

女(誰も、…いない?)

ギシ

「動くな」

女「!!」

女(え、ちょ、なにこれこの背中にあたってる固いのは)

女(っていうか今声したよね、人だよね、なんで動くな?え?いやいや、動くわ)

「だから動くなって」

女「い、…った!」

「刺すぞ」

女「え、え、…な」

「…人か?」

女「み、見て…分かるでしょ?そうだよ…」

「タッセルクリア」

女「え?」

「タッセルクリア、…感染は?」

女「してない」

「証拠は」

女「首を見たら分かるでしょ」

「…」

私のうなじに、冷たい指が触れた。

「…アザはないな。よし、膝をつけ」

女「な、なんでよ」

「武器を携行していないか調べる」

女「あのねえ!!」

女「武器もなにも、持ってるわけないでしょ!私今シャツ一枚なんだよ!?」

「可能性はある」

女「持ってない!本当に、ない!あるわけない!」

「…」

女「あなたを傷つけるとか、そういう考えがあってここに来たんじゃないんだって」

女「ただ、寝てたら歌が聞こえて。それで、びっくりして」

女「人がいるんだって…無我夢中で飛び出してきたんだって!」

「…そうか」

女「だから、…何も持ってないってば」

「そのようだな」

ピッ

「金属探知機の反応はない。本当に何も持ってないようだな」

女「何時の間にそんな。…だからそう言ってる」

「はだしで、何も持たず走ってきたのか?」

女「そうよ」

「馬鹿かお前は」

女「…」

返す言葉もない。

女「あ、あなた…誰なの」

「お前こそ誰だ」

女「…」

女「私は、女。ここに住んでる」

「ひとりでか?」

女「そうよ」

「何年」

女「あのときからずっと。5年くらい」

「他に人はいないのか、本当に」

女「そうよ…」

「じゃあ、あの放送はお前が?」

女「!」

「2ヶ月くらい前に、ラジオで放送を聞いた。ここに生存者がいると」

女「そ、それ私。私が放送した」

「…そうか」

背中にあたっていた冷たさが、なくなった。

女「…」

「もう動いていい」

女「…」ソッ

恐る恐るふりむくと、

女「…あ」

本当に、本当に久しぶりに見る、“生きた人間”の顔があった。

切れ長の猫みたいな目。長い黒髪。引き結んだ唇。身長は、私より少し低い。

女「…ど、どうも」

「ああ」

多分、女の子だ。

女「え、っと」

「女、といったか」

女「あ、うん」

「俺はリン。隣県から来た」

女「リン。…よ、よろしく」

リン「しかし、どうしてこんな真似をした」

女「は?」

リン「後ろからこそこそついて来たろうが。気づいていたぞ」

女「いや、だからあなたを追いかけて」

リン「2時から3時の間はここにいるんじゃなかったのか?」

女「…いる、けど」

リン「いないじゃないか」ズイ

女「…」

リンが差し出した時計の文字盤には、2時13分と刻まれている。

女「…午前じゃなくて、午後なんだけど」

リン「紛らわしい!!」

リンの目が細められ、鋭い八重歯がむき出しになった。

女「ご、ごめん」

リン「午前午後くらいの区別はつけろ!普通、朝と夜にいるものだと思うだろ!」

女「うん?そ、そうかな。ごめん」

女(あれ?私、午後ってつけてたはずなんだけどなあ)

リン「…ああ、もう。もういい」バン

女「…」

ノイズかなにかで聞こえなかったんだろうか。怒られ損だ。

女「リン、…さん?」

リン「何だ」

女「えっと、隣県から来たのよね」

リン「ああ」

女「生存者は?いた?」

リン「…いたけど、死んだ」

女「…そ、っか」

リン「俺は一人でここまで来た。1年前から、俺は一人で旅している」

女「旅?」

リン「そうだ。生き残りを探して、救助を求める旅」

女「そ、そうなんだ…」

私より若そうなのに、すごい勇気だなぁ。

リン「先日この放送を聴いて、てっきり誰かがここでコミュニティを作って暮らしているものだと思ったんだが」

女「…」

リン「まさかこんな、…こんな女が一人でいるとは」

女(え、睨まれた…?)ガン

リン「それにしても、この商店街はどうなっている?」

女「ん」

リン「…いないだろうが、アレが」

女「ああ。…トウメイ?」

リン「トウメイ?…なんだそれ」

女「あの、目の無い半透明な、ふわふわしたやつでしょ」

リン「…クリアだろ?」

女「…?」

話がかみ合わない。

リン「タッセルクリアに感染して死んだものの成れの果てだ。クリアというだろ、正式名称は」

女「あ、ああ」

女「うん、多分それだ。ごめん、勝手にそう呼んでた」

リン「…」

リンの視線が痛い。すごく、見下されている気がする。

リン「で、そのクリアはここにはいないのか?駅には大勢いたが」

女「うん、ここには一匹もいないよ」

リン「…そうか。どうして」

女「前には2、3匹いたけど、駆除したの」

リン「…お前がか?」

女「うん」

リン「そうか」

女(疑わしそうな顔して…)

トウメイを私が全部駆除したっていうのは、本当だ。

大変だった。多分、人生で一番疲れた。

リン「まあ、…信じがたいが。クリアが寄らない土地も、あるにはある」

リン「こんなに広範囲な事例は初めてだがな」

女「そうなんだ」

リン「お前、ここから一歩も出てないのか?」

女「うん」

リン「…どおりで物知らずなはずだ。合点がいった」

女「…」ガン

リン「まあ、いい。お前の住処はどこだ?案内してくれ」

女「う、うん。分かった」

少し、どきりとした。

私の家に、リンが来る。

リン「何笑っている」

女「あ、ううん。別に」

一人ぼっちの時間が、静かな感動とともに破られようとしていた。

リン「…電気がつくのか」

女「うん。よくわかんないけど、そういう装置がついてるんだ」

リン「…へえ」

女「あと、水も飲めるよ」

リン「ふうん」

女「すごいでしょ」

リン「お前が威張ることではない。ここは恐らく、避難用のシェルターだからな」

女「…はい」

リン「稼動してるのか。こんな田舎なのに…。驚いたな」

女「リンのいたとこは、どうだったの」

リン「こんな設備はなかった」

女「おお、そっか」

リン「まず手入れする人間がいなければ話にならないからな」

女「まあ、ね」

リン「そうか。ここでなら、まあ、外に出なくても生きてはいけるな」

女「うん。すごく住みやすいんだよ、ここ。商店街の中で何でも手に入るもん」

リン「…」

女(あれ、なんでまた睨まれるんだろう)

リン「…」

女「リン、お腹すいてない?」

リン「いらん」

女「そっか。あの、どうぞ座って」

リン「ああ」

リンは、肩に担いでいた大きなバックパックを下ろした。登山用のやつだ。

それから、…腰にさげていた木刀も下ろした。

リン「…で」

女「うん」

リン「色々情報交換が必要だな。この地方がどうなってるか、俺は全く知らないんだから」

女「そうだね」

リン「…話せ」

女「自己紹介ってことだね。私は、女。18歳で、ええと、ここに住んで5年目」

リン「18歳?…見えないな」

女「背が全然伸びなかったんだよね」

リン「いや、まあ。…そういうことじゃないが」

女「リンはいくつ?」

リン「16」

女「あ、そうなんだ。…14くらいかと思った」

リン「…」

女「お互い童顔なのかなー。あはは」

リン「俺は世間話がしたいんじゃない。ここで何が起こったか、どう対応したかを話せと言ってるんだ」

女「あ、は、はい。ごめん」

静かに目を閉じた。

あの日、…あのことを思い出す。

私の脳には、鮮やかに残っている、最後の記憶。

人がいて、家族がいて、友達がいた、色のある記憶だ。



5年前の夏、世界が崩壊した。

“タッセルクリア”

どこかの国の学者が発見した、病気。

感染源は不明。人間だけでなく、あらゆる生物に感染し

物凄い速さで拡大していく。

何故か、その存在は隠されていた。

あとから、某国が実験した生物兵器なんじゃないか、とか。未知のウイルスが研究所からもれたのだ、とか。

憶測が飛び交ったけれど。

真相は全く分からないし、噂する人もなくなった。

文字通り、なくなったのだ。

タッセルクリアは、全ての人間の体内に、平等に入り込み、全てを殺した。

実験だろうが生物兵器だろうが、どうだっていい。

皆、死んだんだから。

その日私は、学校にいた。

外国で未知の病気が発生したということは、前々からニュースで報道されていたけど

ほんのささいなニュースだった。専門家も、問題ない、風土病だ…と言っていた。

全ては嘘だった。

ニュースの一ヵ月後、首都の空港である男性の頭部が爆発した。

爆発、というか。なんというか。少しニュアンスが違うんだけど。

とにかく、頭が青い半透明のとろりとした液状になって、膨らんで

そのまま、クラッカーみたいな音を出して、飛び散ったのだ。

飛び散った綺麗なゼリーは、道行く人々の肌に付着した。

2時間後、皆の頭はクラッカーみたいな音と共に飛び散った。


私は居眠りをしていた。

急に鳴った校内連絡の音声に、びびって顔をあげたのだ。

“避難警報が県から出されました”

焦った校長の声が、寝ぼけた頭に飛び込んできた。

「警報だって」

「首都でパンデミックが」

「でも、ずっと遠いから大丈夫なんじゃない?ここ、田舎だし」

「警報って、具体的にどうしたらいいのよ」

ざわざわ、ざわざわ。

先生が言った。

とりあえず、家に帰って避難準備を整えるように。

ニュースを常につけること。臨機応変に、自治体の指示に従うこと。


私は言われたとおり、家に帰った。

お母さんが真剣な表情でテレビに見入って、

首都に住んでいるお母さんの妹…私のおばさんの名前を呟いた時

ああ、これはただごとじゃないんだ。

そう気づいた。


警報の2日後、悪魔は私のいる町にも到着した。

逃げた人もいる。 逃げれなかった人もいる。

どうだろうが関係ないだろう。 皆、遅かれ早かれ頭を爆発させた。

リン「…そうか。やはり、ここにも」

女「私の家族は、離島にいるおばあちゃんの所へ避難しようとしてたんだけどさ」

女「船も飛行機も、何もかもごちゃごちゃだったじゃない?」

リン「ああ」

女「だから結局、ここから出られなかった」

女「…って、こんなかんじです」

リン「家族はどうした」

女「お父さんは、出張に行ってた。初日は連絡がとれたけど、町にタッセルクリアが来たころには、もう」

女「お母さんは、…もちろん死んだ。私の目の前で」

リン「そうか」

女「…うん」

見慣れたお母さんの、優しい笑顔が歪んで

青い、綺麗な水風船みたいになって

ぱーん

女「…」ブルッ

リン「政府が自衛隊を派遣して救助にあたったんだがな。逆効果だったよな」

リン「港や空港に殺到した人の中に、1人でも患者が混じってれば、皆死ぬ」

女「うん」

リン「…お前は」

女「…」

私は、悪魔に勝ったみたいだった。

お母さんの体液が飛び散って、私の目の中に入った。

ああ、死んだ。

そう思った。

あまりに衝撃的で、お母さんの横たわった体のそばで暫くぼうっとしていた。

それから、お母さんと寄り添って目を閉じた。

お母さんと添い寝をするなんて、小学校低学年以来だった。

お母さんは、温かかった。

タッセルクリアが死体の中をうごめき、お母さんの体を水にして溶かしていくのを

ただ、ぼんやり見ていた。

私は、自分の最後の時であろう二時間を、そうやって過ごした。


目を開けると、夜だった。

あれ?と、自然と言っていた。

水を浴びたのは昼だ。 もう破裂していてもおかしくない

町は恐ろしく静かだった。

避難したか、死んだか。

出て確かめる勇気はなかった。

ただ、私は生きていたのだ。

お母さんの死体は、消えていた。

青い水溜りだけが、そばにあった。

リン「…タッセルクリア」

リン「英国の科学者の名前と、透明、という意味のクリアという単語を合わせた病名」

リン「潜伏型もあるが、その場合は首に赤黒いアザができる」

リン「感染スピードは非常に速く、患者と濃厚接触、または死んだあとの体液を浴びると感染する」

リン「感染した場合、寿命は1~2時間」

リン「頭部が水状になり、破裂する。そうして菌を飛び散らせるんだ」

女「詳しいのね」

リン「政府からチラシが来たろ」

女「…読んでない、かも」

リン「…」

女「そ、そんな時間なかったんだもん」

リン「致死率は100パーセント。死体は菌に犯されて水状になり、消える」

リン「…しかし、感染しても発病しなかった人物も、いる」

女「リンと私みたいなね」

リン「そうみたいだな」

女「リンは、感染しなかったんだよね」

リン「ああ。水は浴びたが、どうもなかった」

女「こんな人が、どれくらいいるんだろう」

リン「さあな。俺は10人ほどに会ったことがあるが」

女「え、そうなの」

リン「…けど、死んだ」

女「…」

リン「タッセルクリアが原因じゃない。病気で死ぬものは、半月で全滅した」

女「…トウメイ」

リン「二次災害、クリア」

リン「…死んだ患者が、ゼリー状の生物となって甦る」

女「…」

そうだ。

あれは悪夢だった。

色々な形をした、幽霊みたいなものが。 あるいは、形すら成してないものが。

漂い、はいずり、歩き、ぴちゃぴちゃと水音を発していた。

女「…あれって、何なの」

リン「知らん」

女「…」

リン「しかし実体がある以上、オカルトなものではないだろうな。あれは、ゾンビみたいなものじゃないか?」

女「そうだね」

リン「俺らを捕食するっていう点でも、同じだしな」

女「あれって、食べてるの?」

リン「俺はそう解釈してる」

女「…私は、実際にトウメイが人を食べるところは見たことないんだ」

リン「だろうな」

女「襲われたことは、あるけど」

リン「何故生き残れたんだ?お前みたいなのが」

女「だから、倒したんだよ」

リン「どうやって」

女「本当だよ。私、商店街にいた数匹は本当に倒したよ」

リン「だから、どうやって」

女「…」

殴った。

できるだけ長い棒状のもので叩くと、トウメイは真っ二つになった。

地面にすいこまれて、消えた。

でも、それだけじゃない。

女「ねえ、リン」

リン「ああ」

女「トウメイを殺したこと、ある?」

リン「ある。何回もある」

女「どうやった?」

リン「そりゃ、物理攻撃だ。叩き斬るのが一番だな。大体一発でしとめられるようにはなった」

女「…そうなんだ」

リン「お前は?違うのか?」

女「あ、う、ううん。そんな感じ。火をつけても消えるんだよ」

リン「知ってる」

女「あ、そ…」

女「リンは、どうして旅してるの」

リン「はあ?」

女「だって、わざわざ外に出るなんて」

リン「逆に、お前はどうして旅をしないんだ?」

女「あ、…危ないから?」

リン「ここにいるほうがよほど危ない。資源もいつか尽きるし、だいたい」

リン「…なにもできないで、ただ死ぬだけじゃないか」

女「…そう、だけど」

リン「まあここにはクリアが寄り付かないっていうのもあるんだろうがな」

リン「普通は、出て行くだろ。俺みたいにさ」

女「…う、…」

意気地なし。

そういわれてる気がした。

女「…」

リン「まあ、お前は女だからか…」

女(…なんだよ。自分だって女の子のくせに)

でも、リンはすごい。それは素直に分かる。

女「…」

リン「まあ、いい」

女「…」

リン「とりあえず、ここは安全なんだな?」

女「うん」

リン「じゃあ、俺は寝る。いいよな?」

女「あ、う、うん」

リン「空いてる部屋は?」

女「あっち」

リン「じゃ、借りる。じゃあな」スタスタ

女「え、あの」

リン「なんだ?」

女「…えーと、いや」

女「…お、おやすみなさい」

リン「…」

リン「ああ。おやすみ」

バタン

女「…」

=次の日

女「…ん」モゾ

女「…ふ、ぁ」

女「…」ムク

女(朝、か)

女「…7時」ムニュ

女(あさ、ごはん…)

女(あれ?…でも、なんか。いい匂い、する?)

ガチャ

「僕らの頭上に広がる空が」

「例えば、崩れ落ちてきたって…」

女「…!?」

女(な、な、)

リン「あ、起きたのか」

女「だ、誰っ!!!?」

リン「は?」

女「…あ!」

リン「なんだ、お前」

女「え、ええと」

リン「寝たら忘れるのか?どういう頭してんだよ」

女「リ、リン」

リン「ああ」

女「夢じゃ、…無かった」

リン「…変な奴だな、お前って」

女「…」ホッ

リン「ところで、…その恰好はどうにかしろ」

女「え?」

リン「どうしてシャツ一枚で寝る?下着が見えている。せめてまともな服を着てから来い」

女「あ」

リン「早くしろ。恥を知れ」

女「あ、うん。…ごめん」ボリボリ

女(いいじゃん、別に…。女同士なんだしさ)

女「…それ、朝ごはん?」

リン「ああ」

女「パン、だ」

リン「そうだな」

女「賞味期限、大丈夫?」

リン「自分で作ったやつだ。お前、まさかレトルトばっかり食ってるのか?」

女「自家製!すごいね…って、え?」

リン「普通、なにか作物を育てたり、収穫したりして食いつなぐだろうが」

女「…」

リン「考えもしなかったか」

女「リン、すごいね。サバイバルマスターってかんじ」

リン「短い付き合いだが分かったぞ。お前は、真症のアホだ」

女「これ、食べていいの?」

リン「勝手にしろ」

女「わーい、いっただきまーすっ」

リン「…何なんだ、本当に…」

女「うまっ。リン、すごい。パン屋さんみたいだよっ」

リン「…」

リン「ここ、シャワーは出るのか」

女「うん。温水で出るよ」

リン「…そうか。借りていいか?」

女「勿論勿論!水浴びばっかりしてたの?」

リン「ああ」

女「じゃ、久々に温かいお湯堪能してきなよ。あ、着替えある?」

リン「いや。洗濯していないから、これだけだ」

女「じゃあ、私が洗濯しといてあげるよ。服も貸すから」

リン「…恩に着る」

女「じゃ、脱衣所に置いておくからね」

リン「ああ」

バタン

女「えーと。シャツと、…ショートパンツでいいかな。あ、下着…」

女「…商店街から取ってきた新品のがあるね。これでいや。サイズ小さいし」

女「…ふふん、リンより私のほうが大きいもんね。久々に優越感」

女「で、洗濯洗濯と」パサ

リンの服は、黒い色が多い。

そういえば、昨日会ったときも黒いパーカーに黒いズボンに、ブーツだった。

女「…好きなのかなー」

ジャブ

女「今日は天気いいし、すぐ乾くね」

バタン

女「あ、干しといたよ」

リン「ああ」

女「サイズ、少し大きいけど平気だよね。これでよかった?」

リン「…」ポイ

パサ

女「ん?」

リン「なんだこれは」

女「何って、ブラとパンツ」

リン「いらん」

女「え!?ま、まさか今、ノーパン!?駄目だよ、女の子なんだから。ブラもつけて!大きさ的に必要なくても!」

リン「ふざけてるのか」

女「え、大真面目…」

リン「…」ギロッ

女(え?え?まさかこういう女物嫌いなのかな?パンツとかもボクサータイプの履いちゃう女子?)

リン「…だ」

女「え?」

リン「だから、」



リン「俺は男だ」



女「」

何を言ってるんだ、この人は。

だって、睫毛長いし、髪も長いし、手足もスラーってしてるし

…悔しいけど、可愛い顔だし。

あと、声だって低いけど、こういう女の子大勢いるじゃない。

一人称は俺だけど、そういう病気なのかなあって納得してるんだけど。


リン「お前の目は、節穴か?」

女「え、え、」

リン「男だろ。どう見ても」

女「…」

リン「…お前」

女「ほんとに、…男?」

リン「確かめるか?」

女「ま、まじで?」

リン「…。これ、小学校のころの学生手帳。ほら、何て書いてる」

女「…キノミヤ・リン。…11歳、男」

リン「読めたな」

女「…」

女「ごめんなさい!!」ズザァ

リン「…チッ」

女「本当に、本当にそういうつもりじゃなかったの!」

リン「…」

女「で、でもさあ。リンだって髪伸ばしてるのがいけないんじゃない」

女「…で、でしょ?」

リン「髪を伸ばそうが切ろうが、俺の勝手だ」

女「…う、うん」

リン「…はぁ」

女「だから、ごめんなさいってば!!」

リン「ここまでの馬鹿とは思わなかった」

女「い、いや!誰だって間違えるでしょ!?まんま女の子だもん」

ヒュッ

女「…あ、」

リン「これ以上言ったら喉掻っ切るぞ」

女「は、はい」

リン「…」カチャ

女(フ、フォークで。…こええ…)ドキドキ

ちょい落ちます!

リン「…」モグモグ

女(怒ってるのかな…)

彼女、…いや、彼の表情は冷たい。 特に何の感情も読み取れなかった。

ただ長い睫毛だけが気だるそうに動いている。

リン「おい」

女「はっ、はいっ」

リン「…ここ、食料の備蓄はどうなってんの」

女「食べ物?…いっぱいあるよー。個人商店行けば」

リン「商店街内か?」

女「うん、勿論」

リン「…」

リン「都市部の大きなスーパーなら、長期期間保存できる食品があるんだがな」

女「あー…。10年以上持つやつ?あれすごいよね。確かに、ここにはないよ」

リン「まあ、いい」カチャ

女「…」

これからどうするんだろう。

そういえば私、何も聞いてないなあ。

女「リ…」

リン「物資を補給したい。案内してくれないか?」

女「お、おお?いいよ。勿論」

怒ってると思ったのに。彼はどこか掴めない。

ガラガラ

リン「…いつもシャッターを閉めてるのか?」

女「うん。閉めとかないと、野犬とか入り込んできたりするんだ」

リン「そうか」

女「まあ、イヌですら最近は見かけないんだけどね」ガタ

リン「ふうん」

女(相槌が適当だ…)

ふと後方の彼に目をやると、手には何故か黒光りする棒が握られていた。

女「…リン、それ、なに?」

リン「は?」

女「い、いや。その棒」

リン「警棒。護身用で抜いてるだけだ。別にお前を襲ったりはしない」

女(いや、そんな物騒な物持ってついてこられてもなあ…)

ここにトウメイはいない。

そう説明したのに信じてくれないのは、彼の用心深さゆえか。それとも、単純に私が信用されてないのか。

女「ここだよ」ガラ

リン「綺麗なもんだな」

女「一応、考えて取ってるし手入れはしてるんだ」

リン「そうか」

リン「貰っていくが、いいか?」

女「うん、勿論だよ」

リンが大きなリュックサクに缶詰やらお米やらを詰め込んでいく様子を、ぼうっと眺める。

女(…リンは、この物資を補給したら出て行くつもりなんだろうか)

女(だろうなあ。旅してるって言ったし…)

女(旅、かあ。一人でなんて大変だな。私には到底できないや)

リン「おい」

女「!あ、はい」

リン「次は電池を補給したい。家電屋は?」

女「あ、こっちだよ」

女(…ふと思ったけどさあ)

女(…私は、どうすべきなの?)

リンを見る。

リン「…」

仏頂面で、恐らく補給リスト?を睨む少年。

女(…ここにいる、のかと思った)

女(というか、それが目的だと、てっきり)

そのまなざしの真剣さから、それはないと今はっきり分かった。

電池、換えの懐中電灯、日用雑貨、タオル、石鹸…

全てを滞りなく補給したリンは、ふむふむと頷いた。

リン「これで最後だ」

女「…洋服屋さん?」

リン「ああ」

女(そろそろ秋だし、衣替えでもするのかな)

リン「…」チラ

女「?…選ばないの?」

リン「それはこっちのセリフだ」

女「は、い?」

リン「お前はさっきから、俺の荷詰めを見ているだけだが、自分の準備はしてるのか?」

女「じゅんび?」

リン「…ああ」

女「何の?」

リンの目が、大きく見開かれた。 黒目がやけに大きくて、子どもみたいな表情になる。

リン「…だから、ここを出る」

女「はあ?」

リン「はあ?」

ここを出る?…はあ?

女「ええと、どういう」

リン「これから寒くなるから、防寒はしっかりしておけ。服は極力、動きやすいパンツスタイルのものな」スタスタ

女「ええ!?」

女「ちょ、ちょっと待ってよ」

リン「…」

冬物のシャツを見ていたリンが、鬱陶しそうに顔を上げた。

女「ええと、私、ここから出るの?」

リン「逆に出ないのか」

淀みない手つきで、必要最低限のものだけカゴに入れていく。

女「で、…」

考えもしなかった。

ここから出る。ひとりぼっちだけど、安全で、工夫すればどれくらいでも生きていけるここを

女「…で、る?」

リン「…」

リンが手を止めて、こちらをじっと見た。

その瞳には、特に何の感情も浮かんでいない。

行くのか?行かないのか? 事実確認だけを伺うような、事務的な光だけが宿っている。

女「…ちょっと」

リン「別に強要はしないが」

女「ごめん、考えさせて」

リン「俺は昼にはここを出る」

女「…」

なんて性急な奴だ。

リン「まあ考えるのもいいが、早めにな。俺はここにいるのは得策ではないと思う」

女「…」

女「…」

リン「必要なものは揃った。もういい」

女「そ、そっか」

結局私は、どの衣類も取らなかった。

リンは、それ以上聞かなかった。

女(…外には、トウメイだっているでしょ)

女(それから、家もないし、野宿だってきっとするだろうし)

危険だ。それに、なにより、…

リン「何してる。早く入れ。閉めれない」

女「あ、…うん」

このぶっきらぼうな異性と、って。ねえ。


家に帰ると、リンは手早く荷造りを済ませた。

少しだけ膨らんだ登山用のリュックサックを背負うと、ちらりとこちらを見た。

リン「…11時半。もう出る」

女「うん」

リン「まあ、元気でやれ」

女「ありがとう」

なんとなく、着いていく。

リン「…何だ?」

女「いや、見送りくらいしようかなと」

リン「いらん」

女「まあ、でも。…いいじゃん」

なんとなく、離れるのが惜しい。

リン「よ、…っと」

ガラ

商店街を抜けると、すぐ駅だ。

リンはそこを目指して歩き、また自分の旅を続けるだろう。

女「…じゃあね、リン。短い付き合いだったけど」

リン「ああ」

女「元気でね」

リン「ああ」

女「…」

リンは振り返らず、シャッターをくぐった。

誰も吸わない、新鮮な外気が流れ込んできた。

錆びた商店街の床に、空間に、アーチに、それから、私の肺の中に。

女「…」

リンは最後に、小さな会釈だけした。

私は、…何だか、これ以上彼の背中を見ていたら、自分が取り返しの着かないことをしてしまったんじゃないか。

…そう思ってしまう気がして

女(…帰ろう)クル

そのときだった。

リン「女」

女「…」

リン「お前は、…平気なのか?こんなところで、一人ぼっちで」

女「…」

思わず振り返った。

しかし彼の姿は見えなかった。 言うだけ言って、満足した。俺は消えるぜ。とでも、言わんばかりに。

女(ひとりぼっちで)

女(…本当だ)

女(ここで、死ぬまで一人?折角、リンが来たのに)

女(こんなチャンスを、みすみす…)

誰でもいいから、傍にいてほしいのに。

そう思ったから、あんな出鱈目な放送までしてたのに。

女「…!」

ガシャン

女「…っ、リ、リン!!」

リン「…」クル

女「…あ、」

リン「なんだ」

女「…っ」

ここから出なくちゃ。

女「…10分で、…準備するからっ」

麻痺した頭でも、分かってる。

このまま一人で生きるのはいや。一人で死ぬのはいや。

女「…だから、…待ってて…」

リン「…」ハァ

リン「…ゆっくりでいい」

リン「防寒具。タオル、懐中電灯、日用雑貨…。あとはどうしても持っていきたいもの。それだけ詰めろ」

リン「どうせ、行く先々で補給はできる」

女「…う、うん!」

リン「行け」

女「分かった!」

修学旅行で使おうと思っていた、大きなボストンバッグを引っ張り出した。

それから、お母さんがくれた肩掛けの鞄も。ちょっと高いやつを。

女「…え、っと」

服と、日用品と、それから

女「…」チャリ

家族写真一枚と、お母さんの気に入っていたネックレスと、お父さんの眼鏡の替えを持っていくことに決めた。

女「…よし」

ガチャ

女「……」

ばいばい、私の町。

女「ばいばい、お母さん。お父さん」

バタン

リン「…」

女「リン!」

リン「…」チラ

女「ごめん、遅くなっ…うわ!」ズシャア

リン「馬鹿か」

女「…ご、ごめん」

リン「焦んなくていいって言っただろ。ほら」グイ

女「…ありがと」

リン「ここには当分戻ってこないけど、いいんだな?」

女「うん」

リン「…そうか。じゃあ、着いて来い。こっちだ」

女「分かった」

久しぶりに真っ向から浴びた太陽は、痛いくらいにまぶしかった。

=駅

女「うわ、…」

なんじゃこりゃ。

リン「お前、本当にひきこもりだったんだな」

女「…お恥ずかしい限りで」

久々に、本当に久々に見た駅は、その、なんというか

女「…自然に帰りつつあるね」

ホームに絡みついたツタ、床の割れ目から生える草、かしいだ電車。

リン「どこもこんなものだ」

女「へ、え…」

リン「足元気をつけろ。またコケるなよ」

女「う。はい」

リン「…この地図見てみろ」

女「うん」

リン「俺は、こっちの山間部から来た。で、ここを経由してまた北上するつもりだ」

女「うん」

リン「それでいいな?」

女「勿論」

リン「結構」

女「リンは、どうやってここまで来たの?」

リン「ん?」

女「歩いて?」

リン「んなわけあるか」

女「まさか、電車で?」

リン「…」

お前馬鹿か。 言われなくても視線は口より多くを語る。

女(でも、わざわざ西口にまわってるけど…。どこ行くのよ)

とうの昔に雑踏の絶えた駅に、再び二人の靴音が響く。

女(…静か。それに、綺麗かもしれない)

リン「…」コツ

女「うわ」ドン

リン「…」ジロ

女「ご、ごめん。だって急に止まるから」

リン「…静かにしろ」

女「え?」

シャキン、と彼の下げた手の中で音がした。

女「…え、な、何?」

リン「だから静かにしろって」

女「いやいや、なんで急に警棒」

リン「…」

空気が、変わった気がした。

女(…寒い)ゾワ

リン「いいか、…俺の後ろを着いて来い。離れるなよ」

女「う、…うん」

警棒を手にしたリンが、さっきよりずっとゆっくりとした歩調で、足を進める。

リン「…」

動く気配すらないエスカレーターを覗き込み、またゆっくり、音を殺して歩く。

女「…ねえ、リン?」

リン「だから、…。黙れ」

女「ご、ごめ」

コツン

リン「…!」バッ

リンがすばやく振り向いた。 彼の束ねていない、肩まである黒髪が、私の頬にかかる。

コツン。

暗い駅のホームのむこうから、音がする。

女「…」

 コツ ピシャ

リン「…くそ。やっぱり、いるか」

この音を、…私は聞いた事がある。

コツ ピシャ

ピシャ ピタ

女「…あ」

線路を横切って、体を揺らしながら、青く鈍く光りながら、

現れたのは

「…」

女「…トウ、メイ」

リン「下がれ!」

それは相変わらず、半透明で青くて、ぷよぷよした質感で。

つるんとした体をしている。 

お腹が以上に大きくて、水を湛えたその中に、白い脂肪の塊のような物が浮かんでいる。

女「…こっち、…来る…」

リン「のろい。…倒せる」
 

トウメイの形は、個体によって全く違う。

私が商店街で会った数匹も、一匹はクモのような足を持ってたり、一匹はただの丸い塊だったり…

このトウメイは、少し崩れた人間のような形だった。

少なくとも、不恰好な二足歩行ができる。

リン「…」

リンが警棒を硬く握り締めた。 手の色が、いつもよりずっと白くなる。

「…ぁ」

ビシャ

リン「…いいか、俺が奴のほうへ走って行って攻撃する。お前は、ここにいろ」

女「…で、でも」

リン「動きが遅いから大丈夫だ。すぐ終わらせる」

「…ぅ、-」

ビシャ

リン「…っ!」タッ

リンの体がしなり、猫のように走り出した。

トウメイは、頭部のようなものを、少し傾けて彼を見る。

女(…遅い)

リンが警棒を振りかざした。

「…ぁああ…」

女「…!」

あぶない、と叫ぶより早く

足は動いていた。

トウメイはリンが警棒を振りかざした瞬間、今までのは一体?という速さで振り向いて

リン「…!」

頭部のようなものが、ぱっくりと二つに割れた。

女「リン!!!」

リンを飲み込もうと、軟体を伸ばして

女「…っ、やめて!」

リン「おま、っ!」

「っ」

ビシャ

リン「な、に…やってんだ!」

リンの見開いた目、大きく開けた口が、ぼやけて見えた。

目の前がやけに青い。

要するに。

「…ぐ、…」

私はトウメイに頭から食われた。

リン「女っ!!」

その瞬間。

目の前の青が、激しく揺らいだ。

女「…」

まただ。

また、聞こえる。

「…す、けて」


「たすけて」

目を閉じる。

トウメイの体は、温かかった。

それこそ生きた人間の体温と、何ら変わらない。

「このこを助けて」

「このこだけでもいいから」

女「…」

リン「…! …!」

リンが何事か大声で叫んで、私を引っ張り出そうと手を伸ばす。

私の手首を掴んだ彼の目が、一瞬、裂けそうなくらい大きくなった。

女(ああ)

「わたしのあかちゃんを」

女(彼にも、聞こえてるだろうか)

彼女の。…トウメイの声が

「…おねがい」

「困ったな」

え?

何を言ってるの。 

あなたが困るんじゃない。一番困るのは私なのに。

「とりあえず、落ち着いてくれ」

落ち着く?なんで?

私のおなかの中には、あなたと私の一部が結びついてできた、新しい命が宿ってるのに?

どう冷静になるっていうの?

「困ったな。…なあ、どうしよう」

それは私が一番聞きたいのに。

責任を取ってくれるって言ったじゃない。だから、私は、あの時…。



「この電話番号は、現在使われておりません」

「この電話番号は、現在使われておりません」



どう、しよう

誰か、誰か助けてよ。

おなかの中では新しい命がぼこぼこ元気に動き回ってる。

今更殺せない。

でも、彼が一向に電話に出てくれない。

彼じゃない、この子の、お父さんが。

誰か

誰か助けてよ。

私一人じゃ、どうしようもできないのよ。

産めないよ。 育てられないよ。

「…おかあ、さん」

お母さん、助けて。

「おかあさん…」


「なんね、キョウコ」

「おかあ、さん。あのね、あのね。…ごめ、…んね」

「どうしたんね」

「私、私、産めない。彼が、私とこの子を捨てたの。ねえ、どうしよう。産めないよぉ…」

「…なーに言ってんの」

え?

「産めないわけないでしょ。なんね、父親がいないと子どもは生まれてきちゃならんのか?」

「そうじゃないよ、けど、けど」

「キョウコ。よく聞きなさい」

「…父親なんて、また新しく探せばよか。あんたとその子を受け入れてくれる男ば、探さんね」

「でも、でも」

「それまでお母さんに頼れば良かがね。なにを心配してるとね」

「…」

おかあさん。

「とりあえず、戻っておいで。栄養つくもん食べさせてやるから」

おかあさん。

「…うん…」

「駅まで迎えに行くが。何時がいい?」

おかあさん。

「…あり、…あり、がとう…」

「…ふふ」

「なーに言ってるの、もう。気をつけて来なさいよ」

「…うん」

ねえ、私のあかちゃん。

あなたは良いお婆ちゃんを持ったよ。

私も頑張るからね。 一緒に、生きて行こうね。

「えー、次はー、××ー。××ー」

がたん ごとん

「…あ」

ぼこん

「今、蹴ったね?」

「…ふふ。元気だねー」

私、決めたよ。

もう迷わないよ。


「きゃあああああああああ!!!」

ぱーん

「…な、なに?」

なに、あの音。

あの人、頭がない。

ちょっと、…なに、これ。

頬っぺたに、水がかかって。

なに

なに、これ


あかちゃん、

せっかく、 いっしょに


おかあさんにも おうえんしてもらったのに


いや

「…あかちゃん」

女「…」

ゆっくり、目を開ける。

「あかちゃん、…守れなかった」

ああ、そうか。

この大きく肥大したお腹は、妊婦の証なんだ。

白い塊は、きっと

「あかちゃん、まもれなかったよ…」

女「ううん」

女「あなたは十分頑張ったよ」

女「辛かったね」

「…」

女「もう、休んでいいんだよ」

「本当に?」

女「うん。赤ちゃんとお母さんとでさ、一緒にゆっくり休みなよ」

「…」

視界が揺らぐ。 水の温度が、ゆっくりゆっくり下がっていく。

「あ」

「ありが、とう」

女「どういたしまして」

トウメイの頭部が、弾けた。

体が投げ出され、しりもちをつく。

女「…った」

リン「女!!」

女「あ、ごめん。大丈夫」

リン「…今の、今の何だよ」

女「…」

トウメイの体が、さらさらした水となって、あふれた。

女「…おやすみ」

後には、小さな水溜りが残った。

リン「…」

女「…リンにも、見えた?」

リン「ああ」

女「…」バサ

女「久しぶりにやったな。…結構疲れるんだ、これ」ゴシゴシ

リン「あの、声と映像は。…まさか、こいつの」

女「うん。生前の、一番強い記憶」

リン「…」

女「妊婦さんだったんだね。かわいそうに」

コツ コツ

リン「…なんで黙ってた」

女「はい?」

リン「さっきのは、…お前のやったことだろ?」

女「ええと、トウメイの記憶を見たこと?」

リン「そうだよ!俺がやつらに触ってもあんな反応はなかった!」

女「やっぱそうなんだ…」

リン「何だよ、さっきのは!?」

女「わ、私に言われても分かんないよ!ただ、触ったらああなるんだもん」

リン「いつもそうか?あんな風に生前の記憶を?」

女「そうだよ。で、終わったらああやって溶けて消えるの」

リン「…信じられん」

女「私だって最初はびっくりしたよ…」

リン「…ますます怪しいな、お前」

女「え!?いやいや、そんな」

リン「でも、まあ。使える」

リン「触れたら即成仏ってわけだ。俺がわざわざ叩ききるまでもないんだな」

女(もしかして、私を盾にしようとしてる?)

女「で、でもね。あれすごく疲れるんだ」

リン「ふうん?」

女「終わったら悲しい気分になるし、頭も痛くなってくる」

リン「…どういうことだ。お前だけ…」

女「分かんない」

リン「…」

リン「まあ、いい。攻撃で殺すよりあっちのほうが寝覚めもいいからな」

女「あ、そうだよ。だから私、そうやってトウメイを倒してた」

リン「便利な能力だな。足手まといにはならなさそうだ」

女「…ど、どうも?」

リンは少し表情を和らげた。

リン「…生前の記憶か」

リン「そういうもの、無いかと思ってた」

女「…そう思っても不思議じゃないよ」

ただうごめき、こちらを飲もうとしてくる物体。

…人の、成れの果てだ。

リン「お前のいた商店街と違って、外は結構クリアでまみれてる」コツ

女「うん」

リン「だから、気をつけろ。避けるのが一番だ」

女「…そうだね」

振り返って、ホームを見る。

あの妊婦が、きっと、お母さんにも赤ちゃんにも会えず死んでいった場所。

女「…」

私は彼女を救えたんだろうか?

リン「おい、行くぞ」

女「…うん」

水溜りが、もれた光を反射して、控えめな光を放っていた。


リン「…よ、っと。よし、いいぞ。クリアはいない」

女「おお、…って、駐車場?」

リン「ああ」チャリ

女「!」

あれ。まさか、あの駐車場に停まってる、綺麗な車は。

リン「荷物後部座席に入れろ。早くな」カチャ

女「ええええええ!?」

リン「うるさい。クリアが来たらどうすんだ」

女「いや、え?く、車?」

リン「何か問題でも?」

…灰色の3部座席まである車。 家族のいる家庭に人気だったやつだ。CMでよく見た。

女「…リンが、運転すんの?」

リン「当たり前だろ」

飄々と言う。

女「めんき…」

免許、といいかけてやめた。この世界に法律などもはや存在しない。

女「…大丈夫なの?」

リン「いやならお前は走って着いてきたっていいんだぞ」

女「う、…」

かなり不安だ。いや、でも車体はぴかぴかだし、無事故ではあるんだろう。

リン「ほら、荷物」

女「…」

バム

リン「助手席に乗れ。シートベルトつけろよ」

女(…スピード狂とかじゃありませんように)

どるん、と長く聞かなかったエンジン音がして、車が微動した。

リン「…じゃ、行くぞ」

女「…」

リン「あのなあ、俺は安全運転なほうだぞ」

女「う、うん」

小さく舌打をして、リンはハンドルを切った。滑らかな振動が、足の下から伝わってくる。

なるほど、…確かにリンの運転は見事なものだった。いや、まだ縁石から離れただけだけど。

リン「…とりあえず、北な。あ、そうだ」

女「ん?」

リンがふとブレーキを踏み、こちらに体を向けた。

リン「これから、よろしく」

白くて長い指を持つ手が、差し出される。

女「…!」

女「よ、よろしく。ふつつかものですがっ」

まともに触れた、リンの手。…他人の手は、予想していた以上に温かかった。

リン「なんだそれ」

ふん、と鼻で笑い、リンは手をひっこめた。そのまま運転を再開する。

女(…ああ)

これから彼と、二人で旅をするんだな。

当たり前のことが今更強く感じられて、思わず下を向いて、それから

…彼にバレないように、私は小さく微笑んだ。

とりあえず出会い編終了です。
お付き合いありがとうございました。
また日を置いて書いていくと思いますので、よろしく!

If the sky that we look upon

Should tumble and fall

Or the mountain

Should crumble to the sea

I won't cry, I won't cry

No, I won't shed a tear

Just as long as you stand

stand by me

Darling darling
Stand by me


Oh stand by me

「ソー・ダーリン ダーリン」

「スタンド・バイ・ミー」

女「…ん」

「スタンド・バイ・ミー…」

女「…」モゾ

歌っているのは誰。

小さくて、甘くて、ふうと吹いたら消えそうな声で歌っているのは、誰。

「ダー、リン。ダーリン…」

女「…ん、う」ゴシ

リン「!」ビク

女「ふわ…」

リン「……」

女(…あれ?CDの音しか聞こえない。…こんな声じゃなかったんだけど)

リン「やっと起きたか」

女「あ、…うん」

どうやら、結構な時間昼寝をしていたようだ。

私の生まれた町を出た後、リンは一度も停まることなく車を走らせた。

閑散とした住宅街や田畑が入り混じる、ちょっとした田舎を過ぎて。

リン「…県庁所在地に入った」

女「おお、そっか」

頭を上げて外を見てみると、遥か遠くに沈まんとしている赤い太陽が見えた。

もう、夕方だ。

女「すごい、ビルがいっぱい」

リン「まさか、…来たことないのか?」

女「そんなわけ無いでしょ!?地元だよ!?」

でも、最後に来たのはいつだったか。

ああ、そうだ。新しい鞄が欲しくて、お母さんと終末に買いにいったんだ。

ブランド店やオシャレなセレクトショップが立ち並ぶモールで、お財布とにらめっこしながら選んで

女「…あのね、このバッグここの大きなショッピングモールで買ったんだ」

鮮やかな茜色の肩掛けバッグ。 この西日と、驚くほど似た色をしている。

リン「へえ」

女「高かったんだよ?2万くらいした」

リン「そんなに…」

リンはバッグを一瞥すると、鼻で笑った。

リン「そんな風には見えないな」

女「そう?シンプルで好きだな。丈夫だし」

女「ねえ、リン」

リン「なんだ」

かつての活気はどこへ行ったのだろうか。

人の気配など微塵もない、赤い街を走る。

女「何処に向かってるの?」

リン「…北」

女「うん、それはもう聞いたけど。…なんで、北?」

リン「行ったことないから」

女「…アテでもあるのかと思った」

リン「現地にいかないと、人間が暮らしてるかどうかは分からないだろ」

女「そうだけどー」

リン「こういう繁華街の近くには、誰かが暮らしてるかもしれないんだ」

女「会ったこと、ある?」

リン「…ああ」

その人たちは、今、どうしてるのかな。

女「…」

睫毛まで赤く染めて、口を結ぶリンに

私は何も言えなかった。

バタン

リン「…よし」ギッ

女「お、停めるの?」

リン「今日はここまでにしておく。暗くなってからの移動は、しないほうが良い」

女「ふうん」

リンが車を停めたのは、広大な駐車場だった。

あれ、ここってまさか

女「…プレミアムモール?」

リン「知ってるのか」

女「うん、ここでバッグ買ったって言わなかったっけ?」

リン「さあ」

私の話は、彼にとっては車内で聞き流す音楽と同レベルらしい。

女「ええと、どうするの?」

リン「とりあえずガソリンを補給する」

女「うん」

駐車場の入り口付近には、ガソリンスタンドが完備されているのだ。

リン「結構走ったからな。そこで待ってろよ、入れるから」

女「はーい」

ガタン

女「…ガソリン、出るの?」

リン「ああ」

女「へえ、…意外だな」

リン「ガソリンスタンドがあり次第、教えてくれ。こまめに補給するに限る」

女「ガソリンないとただの箱だもんね、これ」

リンは慣れた手つきでガソリンを満タンにすると、後部のドアを開けた。

女「車内泊するの?」

リン「山地とかで休むときはそうするけど、今は必要ないだろ」

リン「…モールがあんだから。それとも、車で寝たいのか?」

女「う、ううん」

車内泊かー。

…どうなんだろう。やったことはないけど、異性が近くにいる状態でっていうのは、どうなんだろ。

リン「ほら、荷物取れ」

女「分かった」

リン「必要最低限のものでいいからな」

女「モール探索か。わくわくするな」

リン「馬鹿か。危ないかもしれないんだぞ」

女「平気だよ!プレミアムモールってできて1年くらいしか経ってないし、丈夫だもん」

リン「そういうことじゃなくて」

リンの手には、相変わらず無骨なあの物体が握られていた。…二つも。

リン「これ、持っとけ」

女「え、ええ?」

リン「ええ、じゃないだろ。武器くらい持っとけ」

女「いや、でも」

リン「警棒なら軽いし扱いやすい。ボタンを押せば伸びる。伸ばして、殴る。それだけだ」

女「…わ、分かった」

トウメイを倒すのに、私の方法はいささか回りくどいところがあるだろう。

一定の力をこめれば、女の私でもトウメイは倒せる。

…多分。今のところは、そうだ。

リン「それと、懐中電灯。…あとこれ」

女「…ケータイ?」

リン「俺との機器だけに通信できるよう設定してあるやつだ。前流行っただろ」

女「あー…。子どもと親が連絡するのに使うやつか!」

リン「万一はぐれたりしたら、それで連絡してこい。まあ、まず離れるな。面倒だから」

女「勿論」

リン「…」

自動扉は、勿論開かない。

リン「壊すぞ」

リンが、細い植物の茎みたいな腕を振り上げた。

…パリン!

女「おお」

リン「怪我するなよ」

警棒がすごいのか、リンがすごいのか。ガラスはあっけなく破壊された。

女「…ちょっと暗いね?」

リン「発電設備が落ちてる可能性があるな。誰も手入れしてない」

リン「…でも、節電のために夕方まで電気を落としてる、という可能性もあるな。とにかく、一階から探すぞ」

女「はーい」

薄暗いモールに、二つの光が浮かび上がった。

リン「お前、来たことあるんだから、ある程度案内はできるだろ?」

女「えっ」

大役な気がする。

女「う、うん。できるよ。ええと」

とりあえず地図つきのパンフレットを手に取った。

女「…一階はね、フードコートとか大型のスーパーみたいになってるんだ」

リン「ここに人がいる可能性は少ないな」

女「え、なんで?」

リン「食料補給や、雑貨を取りにくることはあるだろ。けど、住処にするには適さない」

女「…なるほど」

リン「例えば、家具屋とか…。ベッドがある所に人が避難してる可能性は高い」

女「確かに」

リン「あと、シャッターを閉めているところにも注意しろ」

女「リン、頭いいね」

リン「お前がアホなだけだ」

女「…」ガン

リン「とりあえず、ここは後回しにして上の階から探そう」

女「分かった。ええと、二階はファッション関連のお店が多いよ」

リン「まあ、候補だな」

女「3階は雑貨屋さんとか、色々。四階は、シネマとゲームセンターとかかな」

リン「2階から行くか」

女「はい、隊長」

リン「…なんだ、それ」

女「いや、なんか年下なのにめちゃくちゃ頼りになるから」ビシ

リン「なんでもいいが、勝手な行動すんなよ」

女「イエッサー」ビシ

本当、モールは何でもある。

買い物も、ご飯も事足りるし、サロンや写真スタジオ、そうそう、入浴施設なんかもあったりするんだっけ。

リン「シャッターは、…閉まってないな」

女「そうだねー」

当時のまま微動だにしないマネキンや、ディスプレイたち。

タッセルクリアが、シャッターを閉める間もなく拡大した証。

女「…うわ、これ可愛いな」

リン「ショッピングに来たんじゃない」

女「でも、ほら、これっ。学校で人気のブランドなんだよね」

リン「…」

心底興味なさそうなリンを尻目に、私の乙女心に火がついた。

女「今なら取り放題なんだよね!すごくない?あ、この夏物のサンダル、高くて買えなかったんだー」

リン「…」

女「ね、取っていっていい?」

リン「答えなきゃ駄目か」

女「…なんで、却下?」

リン「旅に必要なのは機能的な服だけだ。サンダルなんて足が疲れるし、駄目だ。…荷物になる」

女「…いいじゃん、ちょっとくらいさあ」

リン「だめ。行くぞ」スタスタ

女「うぐ…」

名残惜しいけど、サンダルをマネキンの足元に置いた。

リン「ざっと見た感じ、人の気配は無いがな」

女「大声で聞いてみようよ。おーい、誰かいませんかー?」

リン「…クリアが感知するかもしれないだろ」

女「あ、…そっか」

リン「はあ。もう少し危機感持て」

女「ご、ごめん」

ブースに光を向けては、戻す。向けては、戻す。

華やかな服に目移りする私とは対照的に、リンは機械的に確認を済ませていった。

女「…お?」

リン「なんだ」

ふと、足が止まる。

和装小物のお店だった。かなり高級だが、若い人むけの商品展開もしていた所だ。

女「ここ、入ったことないんだ」

リン「…」カチ

女「着物とか持ってないし、必要ないもんねー」

リン「行くぞ」スタスタ

女(本当、…つっめた)

先を行くリンに反抗して、私は店に足を踏み入れた。

実は結構、興味がある。和装が似合う少女を目指したいと、日本女子なら皆思うはずだ。

女(すご…。色々あるんだな)

木綿のハンカチ、帯止め、浴衣、巾着、下駄…。

本当になんでもある。落ち着いた大人向けのものもあれば、華やかな色合いのものまで。

女「あ」

リン「…なにやってる」

女「うわ、びっくりした!何、リン」

リン「それはこっちの台詞だ。寄り道していいと誰が言った」

女「いいじゃん、ちょっとくらい。それより、見て」シャラ

リン「…なんだそれ」

女「簪だよ、簪!」シャン

リン「…」

女「可愛いなー。このしゃらしゃらした飾りついてるやつとか。夏祭りで着けてみたい」

リン「あのな」

女「リンにはこれが似合いそう」ピト

リン「!」

黒い軸に、牡丹が描かれた丸い飾り板を持つ簪。

彼のきれいな黒髪に刺すと、まるで牡丹を髪にさしているように見える。

リン「ふざけてるのか」

女「リン、髪の毛結んでないし。これで纏めなよ」

リン「女物だろ!」

女「似合ってるって、本当に!」

女「ちょっと刺してみていい?」

リン「やだ。やめろ、触るな」

女「まあまあ」クルクル

リン「おい!!」

女「…お、本当に似合ってるよ!いいじゃん」

リン「ふざけ…」

彼は怒って簪を引き抜こうとしたが、ふと手を止めた。

リン「…確かに、髪がうるさくはないけど」

女「でしょ?纏め方覚えたら簡単だよ。付けなよ」

ふむ、と口に手を当て思案顔になる。

実用性とそのほかを足し算引き算しているようだ。

リン「…確かに少し邪魔になっていたしな」

女「切らないの?」

リン「ああ」

女「ふーん。じゃ、せめてこうしてれば?」

リン「…お前の安に乗るのは気が進まないが、まあ、そうする」

女「おお!」

私は改めて、試着用の簪を引き抜いて新しい商品をリンに差し出した。

女「プレゼント、みたいだね」

リン「金も払ってないのに、偉そうにするなよ」

もう一度、彼の髪をお団子にして簪を挿してあげた。

女「うん、かわいい」

リン「手が出そうになる」

女「なんで!褒めてるんだよ?」

いらん、と彼は無表情でそっぽを向いた。

揺れる牡丹の絵と、リンの黒髪を見つめる。

リン「結局、この階の収穫はナシだな」

リンはマップを片手に、溜息をついた。

女「じゃあ次は3階だね」

リン「ああ」

停まったエスカレーターを上り、3階を捜索する。

しかし家具屋と寝具店、そのほか目ぼしい店を覗いても、人の気配はなかった。

リン「…いないな」

女「そうだね」

少しの間、沈黙が流れる。

女「…でもさ、入れ違いになってる可能性もあるよね?」

リン「これだけ広いとな」

女「だめもとでさ、アナウンスかけてみない?」

リン「アナウンス?」

女「そう。迷子放送とかしてる放送機器使って、私達はどこどこにいますから、来てくださいって放送するの」

リン「…なるほど」

リン「けど、クリアを刺激することになるぞ?」

女「うん、だから一階で待たない?それで危なくなったら逃げる」

リン「…」

リンの足し算引き算が始まる。 求めた解は

リン「試してみる価値は、あるな」

女「でしょ?」

リン「どこで放送してるか、分かるか?」

女「インフォメーションのところだよ。こっちこっち」

リン「なるほど。まあ、難しくはなさそうだ」

女「じゃあ、やってみよう」

リン「少し待ってろ」

リンがリュックから、黒い塊を取り出した。

女「…なに、それ?」

リン「エレクトキューブ」

あ、何か聞いたことあるかも。たしか

リン「この箱の中に電気を溜め込んで、機器と接続する。持ち運べるコンセントみたいなやつだな」

女「へー、便利だね」

リン「待ってろ。繋ぐから」

カチ

女「…どう?」

リンが指先でマイクをつつく。 トッ、とくぐもった音が辺りにこだました。

女「すごい。使えるようになってる!」

リン「お前のいた場所で充電させてもらったからな」

女「何時の間に…。あ、何て放送しようか」

リン「そうだな。…玄関口のイベントやるホール、あるだろ。あそこがいい」

女「じゃあ、そこに来てくださいって放送するね」

リン「…お前が?」

女「え、やりたい。やってみたい」ワクワク

リン「…」

女「もしかして、リンもやりた」

リン「お前でいい、さっさとやれ」

女「…」

深呼吸をして、マイクに口を寄せる。

女「あ」

あ、あ…。 私の声が、がらんどうとなったモールに響く。

女「…ただいまマイクのテスト中」

リン「余計なことするな」

女「はーい。ええと、…ごほん」

余所行きの声を、そっとマイクに吹き込んだ。

女「…ええと、私の名前は女。リンという少年と旅をしています。今日から」

女「生存者を探してここまで来ました。だれか、いませんか?」

女「もしいたら、一階のイベントホールまで来てください。ショーとかやる、舞台とイスが設置された所です」

リン「…」

女「で、いいかな?」

リン「まあ要点は伝えられただろ。切るぞ」

リンがキューブを抜き、放送機材は再び物言わぬガラクタと化した。

女「来るかな」

リン「さあ。人が来るか、青い幽霊が来るか。それとも、何も来ないか」

女「私の声、変じゃなかった?」

リン「普通だ」

そう言うリンの声は、冷たく透き通っていた。

人を待つ間、ホールで夕食をとることにした。なんだかんだで、もう夜だ。

リンが取ってきた冷凍食品を、キューブを使って電子レンジで温める。

女「冷凍食品のチャーハンってさ、美味しいよね」

リン「そうか?」

女「うん。お店と同じ味する」

せっせとスプーンでご飯粒を口に運ぶ私を、冷めた目で見つめるリン。

彼の選んだ食事は、うどんだった。

リン「…」

つるつると機械的に摂取していく。

女「ね、ちょっと交換しない」

リン「行儀が悪い。しない」

女「ケチ」

リン「ガサツ」

…会って2日だが、なんとなくリンの呼吸が分かってきた気がする。

彼は冷たく、どこか事務的だけど、賢い男の子だ。

賢いから、話しやすい。徹底した感情排斥が、逆に心地よく作用しているみたいだ。

食後、コーヒーショップから拝借してきたココアの粉とコーヒー豆で一服した。

女「ミルクがあるともっといいんだけどな」

熱いココアを拭いていると、明らかにリンは私を見下した目をした。

リン「コーヒー飲めないのか」

女「だって、苦いじゃん」

リン「18歳なのに?」

女「焦げたトーストみたいな味するんだもん。酸っぱいし」

リン「苦味をうまみと感じられないのか。貧相な舌だな」

女「…ココアのほうが美味しいもん」

何気ない会話を重ねているが、なんとなく気づきはじめたことがある。

女(…来ないな)

リンもそれを分かっているのだろう。コーヒーを飲む手が、止まりがちだ。

女「…遅いね」

リン「もう少し待とう」

女「…」ズズ

私は膝を抱え、さっき書店で取ってきた雑誌を読むことにした。

リンは、ランプの明かりでなにか書き物をしている。

リン「…」

手帳を閉じ、ふいに立ち上がった。

リン「なあ」

女「ん?」

リン「…ソレイユって店、知ってるか」

女「ソレイユ?」

女「…ええと、あれか。生パスタが有名なイタリアンのお店だ」

リン「ここにあるよな?」

女「うん。あー、懐かしい!3時間待ちの行列とかできてたんだよ」

リン「ふうん」

リンの目が、レストランの並ぶフードエリアに向けられた。

女「どうしてそんなこと、聞くの?」

リン「なんとなく」

女「今はもう、ピザもパスタも食べられないよ」クス

リン「…そうだな。けど」

リン「どこら辺にあった?」

女「…えと、東がわのフードエリアの、おすし屋さんの横。…だから、何で?」

いや、ちょっとな。リンは珍しく目を伏せ、口の中でもみ消すように相槌を打った。

女(…なんでだろ?)

リン「…」

リンはしばらく何か考えるように顔を伏せていた。

リン「トイレ」

女「え」

リン「行ってくるから、ここで待ってろ。すぐ戻る」

言うだけ言うと、リンはさっさと立ち上がった。警棒を手にし、懐中電灯のスイッチを入れる。

女「ちょっと、一人にしないでよ」

リン「お前までここを離れたら都合が悪いだろ」

女「そうだけど」

リン「すぐ戻る」

早口で言うと、リンは歩き出した。 東側のトイレへとはや歩きで向かう。

ゆらゆら揺れていた牡丹と、懐中電灯の明かりが、闇に吸い込まれていった。

女「…もう」

女(一人だと、やっぱ不安だな)

女「…」

気を紛らわすため、再び雑誌に目を通した。

中高生に爆発的人気を誇っていたバンドのボーカルが、白い歯を向けて笑っている。

女(今思えば、そんなに恰好よくないな)

学校で友達と話し合ったもんだ。ボーカルの何々君が一番カッコイイ。

いや、ギターのだれだれ君だよ。 分かってないな、ドラムのなんとか君だよ。

…今思えば、懐かしい、どうでもいい話だ。

女(…来ないかな)

目を閉じて、妄想する。

私はギターを弾くあの人が一番気に入ってた。ふわふわした茶髪の、イヌっぽい童顔の人だ。

そのイヌみたいなギターが、暗闇の中ひょっこり現れて。

それで、やっぱりいた!って、レトリバーを彷彿とさせる笑顔で言う。

嬉しそうに駆け寄って、私の手をとって…



ピシャ

女「!」

女(…いま、…なにか)

聞こえた。


水音だ。

反射的に、警棒に手を伸ばしていた。

ボタンを押し、凶悪な固い素材を露出させる。

女「…」

耳を澄ます。

水音は聞こえない。自分の呼吸の音、痛いくらいに鳴り響く鼓動。

それだけしか、私の耳に


ピシャン

女「…っ」

いる。

確実に、いる。

女(…どう、しよう。リンに、連絡…)

でも、まだ音が遠い。話し声で気づかれたらどうしよう。

女(ラ、ランプ…。消さなきゃ)パチ

怖い。 リンがいないと、こんなにも不安だ。

女(なにやってるの、もうっ…)

そういえばトイレに経ってから15分は経ってるんじゃないか。

いくらなんでも遅すぎる。


ピシャ

パチャ

音が、近づく。

ベンチの下に身を隠した。息をひそめ、音を立てないよう身を固くする。

女(お願い、通り過ぎて)

ピタ ピチャ

ピタ ピチャ

…一匹じゃ、ない?

女(…音が違う。2匹以上、いるんじゃ)

女(…っ)ギュ

リン、お願い。早く。離れるなって言ったの、そっちのくせに。

ピチャ

「…あ」

5,6歩先に、はだしの青い足が見えた。

ふら、ふら、ふら、と。踊るようにこちらへ、一直線に近づいて

女(や、ば)

気づかれた?逃げなきゃ でも、でも

女(…逃げなきゃ!)

私は勢いよくベンチから飛び出した。足で巻こう。トイレまで行って、リンを呼んで

「…あぁ」

女「きゃ、っ!!?」

嘘。

ステージの上には、もう一匹のトウメイがいた。

頭部に空いた穴が、目のように、じ、っとこちらを見つめている。

ピシャ ピシャ

後ろから迫る足音と、のそりと動き出した目の前の敵。

女(…あ)

動けなかった。

触れれば、倒せるだろうか。

でも、全てのトウメイには通じないかもしれない。

なら、殴って殺そうか。

女(うごけ、ない)

心臓の音がうるさくて、眩暈がして、足に力が入らない。

「う、-」

両方が、あと1歩踏み出せば触れられるんじゃないかという距離に、近づいて

動けない。


「…女っ!!」

凛とした少年の怒号と同時に、穴の開いた頭部が弾けた。

ナイフが弧を描いて飛んできたんだ。理解するのに、数秒を要した。

リン「伏せろ!」

言われなくても、伏せていた。足がついに体重を支えることを放棄したのだ。

力強い走りで、床を微かに揺らしながら、リンは敵にむかっていった。

牡丹の花が暗いモールに散るように、見えた。

「ぁあああああああ!」

パン。

軽い音がして、その後にぼたぼたと青い水が床に広がった。

リン「…」

顔をあげると、案の定、彼がいた。

リン「立てるか」

答えを聞く前に、私を引っ張りあげてくれた。

女「ごめ、ん」

リン「何で謝る」

女「動けなかった、の。…助けてくれて、ありがとう」

リン「…」

広がった水をブーツの底で踏みしめ、リンはこちらに一歩近づいた。

リン「いや、お前を置き去りにした俺が悪かった」

頬に冷たいものが触れた。

彼の、指だ。

私の顔についた青い死骸を、少し乱暴に拭う。

リン「俺のミスだ」

女「…」フルフル

リン「…出るか。やっぱり、逆効果だったようだな」

女「ここ、…やっぱり、いない?」

リン「ああ。これだけ待っても、来たのはこいつらだけだしな」

釣られたのだろうか。

私たちに助けを求めて、モールをさ迷う彼らが

放送を聞いて、胸を躍らせて。

リン「行こう。今日はもう、車の中に泊まるべきだな」

てきぱきと片づけをはじめるリンの背中をぼうっと眺めた。

全ての荷物を纏め終わると、リンは手帳を拾い上げて

リン「…」

彼のペンを握る手が、小さく動き、手帳にバツを書き入れた。

ショッピング・モール編終了です。


https://www.youtube.com/watch?v=mZ2fq-f-opE

https://www.youtube.com/watch?v=1udGU8f4mSo

この二つのサントラを聞きつつ見てみてください。

ゲーム「フラジール」なんか特にこのSSにアイデア与えてくれました。

https://www.youtube.com/watch?v=XSuwtlzkel4

今日はここまでにしときます。おやすみー

ショッピングモールの雰囲気を味わいたい方は「ピエリ守山」で検索してね

ねえ、お母さーん

…避難、するの?

「当たり前じゃない。お婆ちゃん家に行くって言ったでしょ」

ふうん

「準備したの?」

まだ

「いい加減にしなさい。教材も荷詰めしなさいって言ったでしょ」

…うん

「あのね、…学校でも教えられたでしょ?本当に危険なのよ」

分かってるよ

「お父さんだって途中で迎えに行かないといけないのよ」

うん

「友達とは、また落ち着いてからいくらでも連絡とれるでしょ。いい加減にしなさい」



「女?」

…だって、…怖いんだもん

「…何言ってるの」

「大丈夫よ。だから早く避難するんじゃない。ほら、泣かないの」

「もう、お姉ちゃんでしょ!大丈夫!しっかりしてごらん」

…う、うん

「じゃあ、はい。早く荷物」

…お母さん?

「何?」

おかあさん、

頭、が

女「…ん」モゾ

女「…ふあ」ムク

優しい朝日に促されて目を開けると、そこには

女「うおっ」

リン「…」

少女のような、寝顔があった。

女(…びっくり、したあ)

昨日のことを思い出す。

ショッピングモールで過ごした、あの時間。

久々に見る華やかなお店のウインドウや、まだ微かに香るコーヒーの匂い。

館内に響いた私のアナウンス。

そして、トウメイ。

女(…疲れ、てるのかな)

リンは小さな寝息を立てていた。 日ごろの堅く冷たい表情が、普通の少年と変わらないものになっている。

髪は解け、座席には黒い艶やかな線が走っていた。

女「…リン」

リン「…」

女「朝だよ、おはよう」

リン「…んん」

女「…朝だよってば」ユサ

リン「!!」バッ

女「うわっ!?」

私の手が肩に触れた瞬間、リンは野生動物のような反応速度で身を引いた。

腰に手が行き、手首には青い筋が浮き出ている。

女「ご、ごめん」

リン「…なんだ、お前か」

溜息をつくと、リンは抜きかけていた折り畳みナイフをポケットに仕舞った。

女(…物騒な)

リン「なんだ、早いな」

女「そうかな?」

リン「まだ6時くらいだぞ」

女「あれ、それ目覚まし時計?」

リン「ああ。6時半にセットしてる」

女「そっか。…えーと、ごめん。まだ眠いんなら」

リン「いい。完全に眠り妨げられたし」

女「あ、…そう」

リン「…ふわ」

リンは猫のようにのびをした。顔にはまだ昨日の疲れが残っているようにも見える。

女(そういえば、昨日はなかなか濃い日だったもんな)

女(私が旅にくっついて、ショッピングモールでは一事件あったし)

女「ねえリン、今日はどうするの」

リン「モールはもう、いいだろ」

女「え?…何で」

リン「何でって、誰もいなかっただろ。クリアもまだ残ってるだろうし、行くメリットはない」

女「そっか」

少し残念な気がする。

リン「顔洗って、飯食って、…さっさと出るか」

女「そうだね」

リン「ガソリンスタンドの中に、スタッフ用の洗面台あったろ。使って来い」

女「はーい」



ザバッ

女「…ぷは」

女「…ふう」キュ

女(ふと思ったんだけど、…私リンと寝たのか)

女(いやいや、表現がおかしいな。ええと、まあ、同じ屋根の下で寝たわけだ)

疲れていたので速攻寝てしまったが、とんでもないことのような気がする。

女「…」

パジャマがわりにしているパーカーをずらし、露出が無いか確認した。

女(…ま、リンに限ってそういうのはないか)

堅そうだし。

女(こういうの、被害妄想っていうのかな)

ドンドン

「おい、まだか。遅い」

女「ご、ごめん!」

ガチャ

リン「顔洗うのに何分かかってるんだ」

女「…色々あったんだよ。着替えとか髪の毛とか」

リン「ふうん」

女「私寝癖すごいし」

リン「どうでもいいな」

リン「…それより」

女「ん?」

リン「そういうダボついた上着は感心しない。どこかに引っかかるかもしれないだろ。あと、靴も」

リンの目線をおい、自分の姿を確認する。

白いチュニックと、ジーンズと、パンプス。

女「動きやすいほうだと思うけど?パンプスも、ヒールはないんだし」

リン「…女っていうのは、どこでも洒落気を出さないと気がすまないのか」

リンは眉根を寄せ、会ってから何度と無く目にした呆れ顔をした。

女(いやいやいや、普通でしょ…?特別オシャレしてるわけじゃないし)

確かにリンの服は機能的だ。簡単に脱ぎ着できて、気温にも合ってる。

(ちなみに今の彼は、無地の黒いパーカーにジーンス、ブーツという隙も色気もない恰好だ)

女「これ、だめですか」

リン「いや、もういい。また着替える時間が勿体無い。どけ」

女「…」

バタン

リンはいつでも効率的な動きをした。

水音が聞こえた一分後、彼は洗面台から出てきた。

女「…あれ、髪は?」

リン「は?」

女「いや、もう簪使わないのかなあって」

リン「…」

ぶすっとしたリン。 白い頬が少し膨らむ。

女「…自分じゃ挿せないの?」

リン「簪が挿せないことが、不都合だとは思わない。だいたい男がするもんじゃない」

女「してあげようか」

リン「いい」スタスタ

女「ちょ、ちょっと待ってよ!折角だし使おうってば」

リン「時間の無駄だ」

女「いや、30秒もかからないから」ガシ

リン「いいって言ってるだろ、離せよ」

女「ほら、貸して。…よいしょ」クル

リン「…あー、もう」

女「はい、完成。ほら、邪魔じゃないでしょ?」

リン「…上手いな」

女「え、ありがとう」

リン「いや、別に褒めてはいない。どうしてこんなどうでもいい技術ばかりあるのか疑問なだけだ」

女「そうですか…」

リン「早く朝飯にしよう。今日も移動するんだからな」スタスタ

女「はいはい…」

朝食は、昨日拝借したビスケットと苺のソース。

ソースのほうは、ある有名な会社が確立した技術で、長期保存が可能らしい。

パックを開けたときにした甘酸っぱい香りに、少し感動してしまった。

女「…美味しい」サク

女「すごいねえ、この会社。味とかも、プロの作ったスイーツみたいだよ」

リン「ソースごときで」フン

女「…リン、何見てるの?」

リン「地図」

女「どこの」

リン「この近辺のに決まってるだろ。馬鹿か」

女「行き先でも決めてるの?」サク

リン「ああ。…」

リンの目線が、地図と手帳を忙しなく行き来する。行き先もちゃんと考えて、効率よく回っているのだろうか?

リンが眉根を寄せて地図とにらめっこしている隙に、手帳に手を伸ばした。

昨日も見ていたし、何が書いているのか、気になって。

リン「…おい」

女「はい」ピタ

リン「人の手帳を触るな」

女「…えー、駄目?」

リンは溜息と共に手帳を拾い上げ、膝の上に移動させた。

女「それ、何を書いてるの」

リン「今後のスケジュールとか、回ったところのデータとか、色々だ」

…なんで見せてくれないのかな。

リン「言っておくが、お前に見せたところで分かりやしない。だから見せる必要もない」

女「し、失礼な」

リン「決めた」パン

女「なにを?」サクサク

リン「今日は、ここに行く」

リンが地図を広げ、指で場所を示した。

女「…山の方面?」

リン「ああ。とにかく北上を続けて、高地へ行く」

女「何で」

リン「タッセルクリアが流行した時、ネットで高地にいると病にかかりやすいというデマが流れた」

女「あ、知ってるよ。あれデマだったんだ」

リン「まあ人と隔離されているという点では都会よりマシだがな。とにかくデマだ」

女「それを信じた人が、残っているかもしれないね?」

リン「そういうことだ」

くるくると地図を丸め、リンは立ち上がった。

リン「…いつまで食べてる。行き先も決まったし、行くぞ」

女「あ、はーい。もう一枚」サク

リン「…はあ」


ブロン

リン「よし、…行くぞ」

女「はーい」

リンがアクセルをゆっくり踏み込んだ。丁寧な迂回をし、駐車場を出る。

ミラーを見た。

巨大な廃墟と化したモールは、ミラーの中でどんどん小さくなっていって。

ついに、街路樹に阻まれて見えなくなった。

女(さよなら)

私はまた一つ、自分のいた場所から遠ざかったのだ。

リン「おい」

流れる町並みをぼんやりと眺めていたら、突然声をかけられた。

女「ん?」

リン「後部座席の下に、クリアファイルがあるだろ。取って」

女「…ええと、これ?」

リン「中に入ってる書類を読め」

女「どうして」

リン「お前は質問が多い。3歳児か」

女「だ、だって」

リン「病のことやクリアに関しての資料がある。お前は一段と危なっかしいから、読んでおけ」

女「…資料」

そんなものが。

確かに私は、トウメイや病に関しての知識が薄い。

女「分かった。知らなきゃいけないもんね」

ファイルの中は結構分厚い。少し眩暈がしたが、自分を鼓舞して資料を開いた。

女(…タッセルクリア症候群について)

資料は全て手書きだった。丸みを帯びた、子どもっぽい筆跡。

女(…リンが?)チラ

リン「どうした。早く読め」

あのマメな少年のことだ。こういう資料も、先のことを見越して作っていたに違いない。

気を取り直し、手元に目を落とした。

タッセルクリア症候群について。

発生源は未だはっきりとはしていないが、恐らく北欧地域の風土病だったとされる。

ある研究では、13世紀前半に猛威をふるったが、その後なぜか急激に衰退したとされている。

書物や絵画など、病気を示唆する内容の資料はあまり残されていないらしい。

治療法なども当時確立されておらず、何故治まったのかは不明。

資料が少ない理由としては、流行った地域が極めて限定的なことが挙げられる。


現在でも、病を防ぐ方法は確立されていない。

タッセルクリアは伝染病であり、飛まつ、接触(濃厚接触、軽度接触両方を含む)などが主な感染源。

感染率はきわめて高く、死体などから出される青い液体に少しでも触れた場合、感染成立となる。

女「…」

女(頭痛くなってきた)クラ

感染した場合、ほぼ100パーセントの人間が死に至る。

感染後個人差はあるが、1~12時間以内に頭部が水風船のように膨れ上がり、破裂。

その際本来あるべき脳組織や血液、骨などはなく、ただ青い液体だけが飛び散る。

つまり、患者は青い液体となる。

死体は頭部を失った後、溶けるように透けていき、例の液体と化す。

そのまま蒸発していくのがほとんど。

しかし、半分以上が「クリア」と呼ばれる二次災害を起こす不可解な生命体となる。

女(…クリア、か)ペラ


「クリア」について

政府の報道からは一切語られなかった、二次災害生物。

恐らくタッセルクリア病患者の、死後の姿(?)

青く透明な、ある程度の粘度を持つ体をしている。

形はさまざまであり、運動機能も違ってきている。

共通するのは、発声器官の有無(目視による、だが)に関わらず、人に似たうめき声のような音を出すこと。

そして、もうひとつ。

女「…」

奴らは人を捕らえ、食べる。

正確には、とりこむ。

一度だけ、被害にあったであろう男性の姿をみたことがある。

彼は足を怪我し、動けないところを取り込まれたようだった。

まずクリアの体が彼に延びていき、全身を覆う。

男性はもがくが、そのたびにクリアは体の形を変え、執拗に纏わりついた。

男性は恐らく、窒息して死に至る。

クリアはそのまま包囲を続け、男性の体は急速に溶かされていく。

そして、数分後には彼を殺したクリアとは微妙に色の違う、新たなクリアができあがるのだ。

女「…リン」

リン「なんだ」

女「クリアの食べる、って。…同じ仲間にしてしまう、ってこと?」

リン「そうだ」

女「…ど、どういうこと、これ。見たことあるの?」

リン「…ああ」

女「男の人が、溶かされて、って。…ほ、ほんと?」

リン「そうだ」

女「…」

リン「とにかく、奴らはあの手この手で体に纏わりついてこようとする。丁度アメーバに似ているんだ」

女「…窒息死、か」

リン「ああ」

女「…辛かったね」

リン「彼は、…だろうな。もがいていた」

女「ううん。その殺された男性もそうだけど、リンも」

リン「…は?」

女「だってリンは、その人のこと助けられなかったんでしょ」

リン「…そうだな」

女「辛かった、よね」

リン「…」

女「目の前で人が死んでいく姿なんて、…」

リン「…変な奴」

女「え?」

リン「普通、何で助けてあげなかったのとか言うだろ。何で可哀相なんだ、俺が」

女「い、いや。だって」

リン「嘘だ」

女「え」

リン「これは人づてに聞いた話だ。俺が見たわけじゃない」

女「な、なんだ。そっか」

リン「お前、騙されやすいな」

女「リアルなんだもん!変な嘘つかないでよ」

リン「ああ」

女(…何考えてるんだか)

ふと、気づく。

リンに纏わりつく、「既に会った生き残り」 の影。

聞きたい。

けど、

リン「…」

聞いたら、駄目な気がして。

女(…色々、あるよね)

私は手元に目を戻すのだ。

クリアは、それほど力があるわけではない。 動きがすばやいものも稀だ。

ただ、一度でも触れると二度と離れない危険性がある。

クリアに触れるのは、死に直結する。

リーチの長い武器や、とび具で処分するのが一番だろう。


クリアの発生場所についてだが、一応テリトリーのようなものはあるようだ。

例えばAビルにいるクリアが、隣のBビルに移ることはない。

大体がAビルの中で、さ迷う。 何か意図があるのだろうか、それは不明だ。

夜は特に注意すること。動きが活発になる場合が多い。


「生き残り」について

タッセルクリアに感染しなかった人物も、ある程度いるようだ。

これまでの旅では数名に出会った。

訳あって一緒に行動することは叶わなかったが、今でも元気にしていることを願うばかりだ。

生き残りは、きっとまだいる。 希望を捨てず、自分に今やれることをやっていくことにする。

女「…なるほど」

リン「目新しい情報はあったか」

女「かなり」

リン「まあ、よく分からないというのがほとんどだ。情報源もなにもないしな」

女「すごいね、リン。よくまとめられてる」

なんというか、この少年の大物さ加減がよく分かる。

同時に、偏屈さも。

リン「…」

女「いや、でも久々に長文読んで頭痛くなっちゃったよ」

リン「待て、二枚目の資料は読んだか?」

女「…まだあんの」

リン「それが大事だ。短いから目を通せ」


「潜伏感染」について

タッセルクリアには、潜伏期間が長い場合もある。

そういった患者には、首元に赤いアザが現れる。

これは既に政府も発表した情報だ。 潜伏期間など、詳しいことは不明だが。


思うに、あのパンデミックから生き残ったとしても、油断はできないのではないだろうか。

病気は発現する機会をうかがっているだけかもしれない。

首もとの確認は、決して怠らないこと。

もし、アザが確認できた場合


女「…続きが、ない」

リン「なあ」

女「ん?」

リン「お前は、どうする。首にアザができたら」

女「…うーん」

リン「自殺でもするか?」

女「分かんない」

リン「…だよな」

リン「誰にも、分からないんだ。だから、そこの行は空けてある」

リン「…多分」

女「対処法とか、治療法はないってことね」

リン「あったら怯えず暮らせるんだけどな」

女「そっか…」

私の首に、いきなり、薔薇を思わせる毒々しい色をしたアザが現れたら。

どうしようか。

女「…」

答えは

女(やっぱり、分からない)

女「ありがとう、リン。かなり参考になったよ」

リン「戻しておけよ」

女「はーい」

リン「理解できたか?」

女「勿論。…なんでわざわざ確認すんのよ」

リン「たまにいるからな。目を通しただけで頭に入ってないやつ」

女「ひどい!ちゃんと覚えたもん」

リン「どうだか」

女「ちょっ…」

車は、いつの間にか市街地を抜けていた。

窓から見える景色に、明らかに緑が多くなる。

女「…うわ」

人間がいなくなった世界でも、植物はたくましく生きている。

リン「窓、開けるか。換気するぞ」カチ

女「ひゃー!マイナスイオン」

爽やかな空気は、瑞々しい「生」を感じさせた。

車は走る。

木々の木漏れ日の間を抜け、切り立った崖を背にし、鉄橋を越えて。

私はリンに命じられ、窓の外に目を凝らし続けた。

流れる木々の間に、人の痕跡は見受けられない。

…やがて、小さなパーキングエリアに車は停まった。

バタン

女「…うー!」ノビー

リン「…」コキ

女「なんか、ごめんね。リンにばっかり運転させて。大変だよね」

リン「別に」

女「…私も教えてもらえば、できるようになるかも」

リン「…」

リンの顔に、陰が差す。

リン「駄目だ」

女「何で?」

リン「お前に運転を任せると、…車が無事で済みそうにない。いい、必要ない」

女「ひどくない!?」

リン「…俺がいるから、いいんだ。運転なんて、俺がする。それでいい」

噛んで含めるように彼は言った。

私に、じゃなく、自分にも言い聞かせるようだった。

女「よ、っと」トン

リン「済んだか」

女「あはは、ごめん。お待たせしました」

トイレがあるって、文明的じゃないかな?

どんなに荒廃した世界でも、人間の尊厳だけは保って生きて行きたい。

リン「じゃ、乗れ」

女「はーい」

日は高く、そろそろお昼だ。腹時計がそう告げている。

リン「ほら」

車内で、カップラーメンを手渡してくれた。何時の間にお湯を注いだのか。

女「ここで食べていいの?」

リン「零すなよ」

女「うん」

そのまま二人で並んで、長期保存のラーメンを啜る。

残った食べかすを、リンは丁寧にビニールに入れて、パーキングのゴミ箱に捨てた。

私は彼の、そういう…なんというか、文明的なところに安心する。

女(捨てたって、誰も回収しに来ないのにな)

それでも、依然そうしたように、する。

リン「行くぞ」

リンは、まだ人間の社会性を捨ててはいない。

女「…あれ」

ふと、気づいた。

女「ねえ、リン」クイ

リン「運転中に触るな」

女「ごめん。…あのさ、もしかしてだけどさ」

リン「ああ」

リンが通るこの山道。ところどころに点在するパーキングエリア。

それに、見覚えがあるのだ。

そう、この道は。

女「…ドリーミィランドの道だ」

リン「ふうん。驚いた」

リンが軽く眼を見張った。一瞬こちらに顔を向け、片頬で笑う。

リン「そうだ。いまからそこに行く」

女「マ、マジか」

ドリーミィランド。 県内では知らない人のいない、大型の遊園地だ。

女「ええと、それはまた、なんで?」

リン「大型の施設はとりあえず調査する。それに、そろそろ車も停めて今夜の寝床を確保したいしな」

女「遊園地、かあ」

そんなところに人なんているのかな

リン「行ってみなきゃ、分からないだろ?」

女「…な、何も言ってないけど」

リン「完全に顔が、“そんなところに生存者はいません”ってかんじだった」

女「え、…嘘」

リン「お前、本当に分かりやすいよな」

女「い、いや!思ってないし」

リン「嘘つけ。疑わしそうな顔してた」

女「あ、あのねえ」

そのとき。

女「…あっ」

風を入れるため半分にあけていた窓の外に、赤い何かが見えた。

女「…観覧車だ!」

そうだ。観覧車。

リン「本当だ」

リンも目を細める。 大きな赤い円が、腕を広げるように空を占拠していた。

遊園地が、近い。

女「なんか、わくわくしてきた!」

リン「モールでも言ってたよな、それ?」

女「だって、遊園地だよ!懐かしいなあ」

リン「子どもだな」

女「リンだってちょっと嬉しそうだよ」

リン「俺は別に」

女「うそだー。だって笑ってる」

リン「この笑みは、お前を馬鹿にしてるから来るんだ」

女「リン!?」

そして、数分後。

バム

女「とうちゃーく!」

リン「うるさい」

私達は、遊園地の駐車場にいた。

錆びたゲートをくぐり、2,3台の車がぽつんと停まる駐車場にたどり着く。

女「やっぱ、車少ないね」

リン「避難警報が出されているのに遊園地に来る馬鹿はいないだろ」

女「誰のかな」

リン「ここのスタッフとかだろ」

女「あ、そっか」

覗き込んでみたが、空っぽ。

葉っぱと土ぼこりが被った車は、恐らくもう動かない。キーだってないし。

女「…よしっ」

荷物を整え、リンと並んで観覧車を見上げる。

リン「行くぞ」

リンが軽く、私の背中を押した。

かつての賑わいが消え去った、恐ろしいほどしんとした遊園地。

それでも、同心に帰った私のはわくわくと上気していた。


二人は、はげたペンキで「welcome」と書かれたゲートをくぐった。

遊園地編、スタートです。
また昼から再開します。
おやすみなさい

ガシャン

女「…おお」

リン「…中々のものだな」

私達を待ち構えていたのは、想像以上に寂しい景色だった。

お客さんも、スタッフも、可愛い着ぐるみも、音楽もない。

ただ、忘れ去られたアトラクションたちが錆びに身を犯され、立っている。

女「動くかな」

リン「動いたとしても乗りたくは無いな」

女「確かに」

リン「お前、ここに来たことは…ある、んだよな。勿論」

女「うん!最後に来たのは、事件のおきる2ヶ月前だよ」

そうそう。親戚の男の子が遊びに来たんで、一緒に行ったんだ。

あのやんちゃ坊主、可愛かったなあ。

今、…どうしてるのかな

リン「おい?」

女「あ。…何でもない。ええと、何処行く?」

リン「そうだな。…とりあえず、マップの順路に従いながら覗いて行くか」

コツ コツ

女「…あっちー」

リン「暑いな」

9月とはいえ、昼の日差しはまだまだ強烈だ。

しかし。

女「あ、メリーゴーラウンドだー!」タッ

リン「おい」

女「見てみて、リン!あっちには空中ブランコもあるんだよー」キャイキャイ

リン「…」

遊べる物じゃないとわかっていても、心は浮き立つのだ。

リン「人がいた痕跡を探せ。遊ぶんじゃなくて」

女「分かってるってばー」

白馬に跨り笑い声をあげる私を、心底鬱陶しそうな目で見るリン。

女「リンはさー」

リン「何だ」

女「遊園地、嫌いなの?」

リン「嫌いとか、好きとか。…そういう特別な感情は、ない」

女「来たこと、あるよね?」

リン「ああ。でも別に、普通だ」

相変わらずリンは乾ききっている。

メリーゴーラウンドや小さなジェットコースターなど、子供向けのアトラクションが並ぶエリアを30分程度で見終わった。

女「…何も無かったね」

リン「ああ」

女「じゃあ、次はこっちのエリア行ってみない?お化け屋敷とか、ミラーハウスとか、ハウス系のやつが多いよ」

リン「屋内、か。誰かいる可能性はあるな」

移動する最中にも、リンは周りへの警戒を怠らない。

一方私は、倒れたポップコーンのワゴンを覗いてみたり、噴水の溜まった水を蹴り上げてみたりと、自由だ。

リン「…ここか?」

女「うん。うわ、本当懐かしい」

カラフルな小屋が立ち並ぶエリア。お化け屋敷なんか、人気すぎて2時間待ちだったこともあるのだ。

リン「とりあえず手前の小屋から順に入っていく。着いて来い」

女「はあい」

リンがまず、“ドッキリハウス”とかかれた小屋に足を踏み入れる。

リン「なんだここ。お化け屋敷か?」

女「ううん。壁とか床に仕掛けがしてあって、音が聞こえたりするんだ。迷路だよ」

リン「ふうん」

女「私ね、ここに入るといつもビビるからあんまり好きじゃなかった」

リン「へえ?」

女「ここの壁とか、ふと手をつくと音が鳴ってさー」ポン

リン「…」

ピンク色のうち壁に、そっと手を触れた瞬間。リンの体が、少し揺れて、…そして

リン「わっ」

女「きゃあああああああああああああああああああ!!?」ビクッ

リン「うるさ」

女「なな、何、何するの!」

驚いてふりむくと、眼を細めたリンが口元に手を当てていた。

女「リ、リン?」

リン「本当に肝が小さいんだな」

もしかして、今、イタズラされたんだろうか。

女「…な、」

あのリンが?

リン「ほら、行くぞ」

しかし彼の目の和やかさは、数秒で消えた。またいつものリンに戻り、すたすたと先を急ぐ。

女(いや、…意外だった)

動悸は冷めないまま、ハウスを出る。 外の眩しい日差しを浴びた瞬間、私の驚きは怒りに変換された。

女「…」

目の前にいるリンを見る。

油断、…している。体重を片足に乗せ、マップに見入っている。

女「…」ソロ

ゆっくり一歩踏み出して、お返しをしてやろうと、口を開け


「…きゃははっ」

女「…え」

リン「ん」

リンが髪を揺らしながら振り向いた。明らかに背中を押そうとしていた私を見て、眉根を寄せる。

リン「何だ」

一歩前に出ながら、訝しげに聞くリン。

女「い、いや。今何か聞こえなかった?」

リン「いや?」

女「きゃはは、って。笑い声みたいなの」

リン「大丈夫か?」

女「ほ、ほんとに聞こえたんだよ!」

リン「…」

私が必死で指差す方向に目をやり、また私の顔へ視線を戻す。

女「…信じてないでしょ」

リン「ああ」

女「うー、本当、なんだけど。いや、でも…」

リン「…あっちか?」

女「うん。お化け屋敷のほう」

リンの表情が、若干強張った。

女「…」

リン「仕掛けの音じゃないか」

女「でも、あのお化け屋敷にあんな笑い声の仕掛け、なかったはずだよ」

そうだ。 屋敷で惨殺されたお嬢様の霊が出る、というテーマのお化け屋敷で。

メインはお嬢様のすすり泣き、恨みつらみという暗い仕上がりなのだ。

女「絶対おかしいよ。見に行こう」

リン「…」

女「生存者かもしれないよ」

リン「空耳、…だろ?」

女「私、耳はいいほうなんだよ!ほら、とにかく行こう」グイ

リン「待て!引っ張るなよっ」

女「…あれ、まさか、リン」

私は彼の袖を放し、口に手を持っていった。にんまりとした笑いが抑えられない。

女「まさかぁ」

リン「…は?」

女「お化け屋敷、ニガテなの?」クス

私がにやにや笑いながら言った、その瞬間。

リン「…っ」

リンの雪を思わせる白く冷たい頬に、朱が散った。

女(え、え?)

リン「何言ってる。…そんなわけ、ないだろ!」

ほんのり赤く染まった顔で、私を睨みつける。

女(恥ずかしがってる?)

リン「誰があんな、…子供だましのアトラクションを」

女「怖くないの?」

リン「だから当たり前だろ!あんな人為的なもの、何も怖くないっ」

女「…そ、そう」

リンは大きく肩で息をした。 怒ってるのか、恥ずかしがっているのか。

とにかく私が彼のプライドに細工をしてしまったのは事実のようだ。

リン「行く。行けばいいんだろ」

普段より少し大きい声で宣言したリンは、私の手を引っ張りお化け屋敷に向かった。

女「ちょ、ちょっ」

つんのめるようにして歩くと、唇を噛み、顔を薄紅にしたリンの、綺麗な横顔が見えた。


足切りの屋敷。

おどろおどろしい血文字で書かれた看板が、少し傾いで、一層雰囲気を掻きたてる。

女「えーと、リンさん?」

リン「…」

リンは依然、ぶすっとしたままだ。

女(あちゃー、怒らせちゃったかな)

どうせ“お前は何を言っているんだ”みたいなクールなまなざしを向けられると思っていたのに。

失言だ。しまった。

女「…ごめん、ね?」

下手に出て、できるだけ申し訳なさそうな声で謝る。

リン「はあ?」

そっけない返事が、つぶてのように飛んできた。

女「い、いや。怒ってる?」

リン「怒ってない。別に」

女「で、でもさ」

リン「いいから、入るぞっ。置いていくからな」

リンは荒々しくアトラクションの扉を開けた。

軋んだ音がする。前は演出の音響でSEが流れたが、この音は本物だ。

女「待って、リンっ」

彼に続いて屋敷に入ると、ひんやりした冷気が体を包み込んだ。

女「うわ、さむ」

リン「…ああ」

リンが懐中電灯をつけた。真っ暗だった辺りに、申し分程度の丸い明かりが浮かぶ。

女「あれ、明かりつけるの」

リン「当たり前だ。俺たちはお化け屋敷の客じゃないんだぞ」

女「あ、…そうでした」

私も倣って明かりをつける。二つ分の明かりが、妙に赤い屋敷の中を照らした。

リン「どこら辺から聞こえたんだ」

女「ええと、…その、分かんない。ただぼんやりとお化け屋敷付近としか」

リン「使えない」

女「すみ…ません」ガン

リンの言葉には、やっぱりいつもより棘がある。いや、刃といっても過言ではない。

リン「誰かいるなら、呼びかければいいだろ」

女「そうだね」

リン「誰かいるのか?」

女「すみませーん、誰かいませんかー」

しーん。

リン「…」

女「…」

結構大きな声を出した。聴こえないはずが無い。

リン「面倒な」

リンは小さく舌打ちをした。どうやら、この薄暗い屋敷を探索しなければいけないらしい。

リン「お前、入ったことあるか」

女「うん」

リン「じゃあ、前行け」

どん、と強めに背中を押される。よろめいてしまった。

女「え、ええ?」

リン「お前、さっきは散々俺をからかったろ。自分は大丈夫という自信があるからだよな?」

女「えと、それは」

リン「生憎俺はこのアトラクションは初体験だ。案内するのはお前しか居ない」

女「え、ええ…」

リン「ほら、行け」

また軽く、リンが私の肩を押した。

女(くそ…)

渋々ではあるが、私は屋敷の中を先導しはじめた。

順路に沿ってしか行けないので、まずは玄関を上がってリビングを模した部屋に入る。

リン「…どういう屋敷なんだ」

リンが呆れて呟いた。

女「えっと、この屋敷は町でも有名な資産家の家なんだけど」

リン「ああ」

女「そこにある日、強盗が入っちゃうの。家で唯一留守番していたお嬢さんが、なんと両足を切り取られた無残な姿で見つかって」

リン「…」

女「お嬢さんの親は、娘の死んだ屋敷を手放し、解体しようとしたの。けれど、解体作業中に事故が頻発。ついにこのまま残ってしまう」

リン「はあ」

女「屋敷からは毎晩毎晩、お嬢さんのすすり泣く声と“足…私の足…”という声が聞こえるんだそうな」

リン「ふうん」

女「…未だ見つからない犯人を、幽霊となったお嬢さんが探しているのかも…」

リン「なるほど」

女「どう?」

リン「くだらない」

女「ひどい!これ、県外からでもお客さんが来るくらい有名なアトラクションだったのに」

リンは溜息混じりにリビングを見渡した。

中綿の散ったソファ、足の折れたテーブル、割れた絵画…。

壁にはおびただしい量の血がついている。

リン「悪趣味だな」

女「そりゃそうでしょ。お化け屋敷なんだもん」

リン「ここには誰もいない。次だ」

犯人が犯行に使ったであろうナイフが流し台にあり、

お嬢さんのすすり泣きが最初に聞こえ始める(はず)…のキッチンを無事抜ける。

リンは「何で凶器が残っているのに犯人の手がかりすらつかめない。それに、こんな小さなナイフじゃ足は切れない」

とかなり現実的な解説をしてくれた。

女「次はお風呂場だよ」

狭い廊下を進む。ここでは後ろから大きな物音がして、焦った客がお風呂場に逃げ込むという仕様になっているのだ。

リン「…」

浴槽には、カーテンが張ってある。黒い影が見える。

リン「…なんだ、これは」

女「ああ、ここに近づくといきなりカーテンが開くの。中にはお嬢さんの足が入ってて、悲鳴がいきなり流れる」

リン「心底くだらない」

女「…開けてみる?」

リン「はあ?」

リンが一瞬目を剥いた。

女「いや、この中になにかあるかも」

リン「不要だ。いい、やめろ」

女「物は試しじゃない」

私は白い、血糊のついたカーテンに手をかけた。 リンがおいっ、と私の肩に手をかけようとする。

しかし、遅かった。

シャッ、と小気味良い音を立て、カーテンは開いて。

女「…あれ?」

リン「は?」

なにも、ない。

リン「…」

リンの湿った、ねめつけの視線が絡みつく。

女「あ、れ?おかしいな。ここにね、靴下はいたままの足が」

リン「…」

女「本当だってば!すごく怖かったから、今でも覚えてるんだもん」

リン「確かか」

女「うん!それに、少し動いてる演出あったんだ。だから据付のタイプだと思う」

怖さも忘れ、がっつり浴槽を覗き込む私の後ろから、リンが顔を近づける。

リン「…本当だ。機材のコードがむき出しになってる」

女「どういうことだろ」

リン「足はどこか別の場所にあるようだな」

女「え、ちょ」

一気に背筋が寒くなった。

リン「…」

女「…」

リン「あのな、オカルトなことを考えるのは構わないが。おそらく修理でもしたんだと思うぞ」

女「ああ、なあんだ。そっか」

私は胸をなでおろした。 廃墟の遊園地内で、足が勝手に動き出す…。なんて、考えたたくもな


「きゃはは…。あはは…」

え。

多分、今までの人生の中で一番早く振り向いた。

私の髪が散り、リンの顔を容赦なく叩く。

リン「うわっ」

リンが飛びのき、私を睨んだ。

リン「おい!何だ、いきなりっ」

女「い、今。…聞こえたでしょ!?」

リン「はあ?何も聞こえない」

女「きゃはは、あははって!子どもみたいな声が!え、嘘!?聞こえたでしょ!?」

私はリンにとびつき、肩を揺さぶった。 このむっつりイタズラ好きが、また私をからかっているのだ。きっとそうだ。

リン「やめ、やめろっ」

女「ねえ、もうそういうのいいから!怖がらせないでよお!」ガクガク

リン「…お前こそっ!適当なことを言ってるんじゃないのか!」

女「き、聞こえたもん!ね、リンもだよね!?」

ここでリンの顔が、病的な青白さに変わっているのに気づいた。

え、ちょっと。

まさか、本当に

リン「…聞こえない。本当だ。お前だけに聞こえてるんだ」

女「…」

リン「…」

リンが猫のように立ち上がった。腰の警棒を抜き、逆の手で私の腕を強く掴む。

リン「…クリアじゃないのか」

女「ク、クリアって、…笑うの?」

リン「…」

沈黙が痛い。 私の聞いた声は、確かに笑っていたのだ。嬉しそうに、愉快そうに。

リン「出よう」

女「賛成」

リンは早足で屋敷内を歩き始めた。

もうどこにも目をくれず、転ばない程度の速さで、すたすたすたすた、と。

女「……」

私はパニックにならないよう必死に口で呼吸をしながら、腕を引くリンの速さについていった。

リン「出口は、どこだ」

女「じゅ、順路を行けば出れる!最後の、お嬢さんの部屋を出てすぐ!」

リンがワスレナグサをあしらった、可愛いお嬢さんの部屋のドアを蹴破った。

洋風のドアは壁に当たり、大きく反動して、

女「…っ、リン!」

私が部屋に入った直後、大きな音を立てて閉まった。

リン「急げ。早く出る」

女「わ、分かってるよ!」

最後の部屋。これが一番の恐怖だ。

部屋の中央には、天蓋つきのベッドがある。ここに、お嬢さんの死体が横たわっているのだ。

つくりものの死体には足が無く、美しい顔をしたお嬢さんが虚空を見つめて横たわっている。

それだけでもう、磨り減った心には十分な恐怖だ。

しかし、難関は、ここではなく

リン「…っ、こっちか!」

女「うん、出口!」

出口に手をかけた瞬間、なのだ。


ぼとり


後ろでやけに重たい音が響いた。

女「…」

リン「…」

リンの手が、ノブを掴んだまま止まる。

ああ、そうだ。これが難関。血まみれの化粧をほどこしたスタッフが、帰ろうとする客を後ろから

リン「…開かない」

そう。開かないのだ。わざと、そうしてある。

スタッフが最大限の恐怖をあたえるまで、ドアは開かない仕組みで。

女「……」

でも、今はそんなスタッフも、機材も、ないわけで。

じゃあ、後ろの、音は。

開かないドアは。

しがみついたリンの背中が、大きく大きく深呼吸を繰り返す。

女「リ…」

声が、かすれる。恥も何も無く、私はみっともなくリンの背中に抱きついた。

リン「…音が、したか」

さっきの音は、彼にも聞こえたようだ。

女「…」

私は頷いた。声は喉に張り付き、出せない。

リン「…」

リンがノブを回す手を止め、体をよじる。

後ろを、見ようと。

リン「…」

女「リン、…や」


もう遅い。

振り返った先にあったものは、


二本の、血まみれの足。

そして。

「きゃぁああはははははっ!!!」

体の透けた、煙のような生物。


子ども。


子どもだ。

女「きゃああああああああああああああああああああああ!!!?」

悲鳴が弾けた瞬間、リンが私を脇に抱えた。

そんな力がどこにあるのか。腰を掴み、ものすごい速さで出口に体当たりした。

バン!!

ドアの抵抗がなくなり、私達は外に投げ出される。

女「ひゃ、っ…!?」

頭から落下しそうになった私を、リンがすばやく受け止めてくれた。

そのまま何秒か、リンの上で固まる。

リンは夏の日のイヌのように、何度も早く呼吸を繰り返していた。

女「な、な、に。今の」

リン「…」

リンは答えない。私をおしのけ、バネのように立ち上がった。

手にした警棒を最大限に伸ばし、仁王立ちで屋敷の中を睨みつける。

私は、…立てなかった。腰が抜けている。

リン「…見たか」

女「み、た」

リン「足があった」

女「…子どもも」

リン「…」

女「…」

流れる沈黙。

リンの顎に汗が集まり、ぽた、と地面に染みを作った。

リン「ここから離れた方がいい」

リンが静かに言った。私は壊れたおもちゃのようにガクガクと何度も頷いた。

リン「立てるか。ほら」

差し伸べられたリンの手を取ろうと、力を振り絞って起き上がる。

「ひゅーひゅー」

その視界のはじに、なにかが。

リン「…」

「お姉ちゃんたち、らぶらぶー」

女「ひ、…」


白い霞のような少年が、街灯の上で足をぶらぶらさせていた。


女「リ、リィイイイイン!!!」

またしても私はリンに抱きつく。細い腰に手を回し、顔をうずめた。

リン「…」

一方、リンは瞳孔さえ開いているものの、鋼の理性を取り戻したようで。

リン「…誰だ、お前」

霞む少年を睨みつけ、言った。

「あはは」

「らぶらぶ。ひゅー」

リン「…クリアか?」

「さあどうでしょう。そのお姉ちゃんとチューしてくれたら教えてあげる」

リン「殺すぞ」

重い一言だった。 およそ子どもにかけているとは思えない、ドスの効いた声。

「あはは、こわーい」

少年は街灯の上に立つと、くすくす笑った。

リン「降りて来い!屋敷で不愉快な演出してたのもお前だな」

リンが吠える。しかし少年は愉快そうに笑うだけだった。

「怒ってる怒ってるぅ」

女「…ち、ちょっと」

ようやく回復した私も、リンの加勢をすることにした。

女「あなた、…誰なの?ねえ、降りてきてよ」

「んふふ」

少年は首を傾けてこちらを見た。 …愛らしい少年だった。

年は、10歳前後か。ぼんやりと透けて、白い。

正確には、露出した肌の部分が白い。 身に着けているセーラータイプのシャツなどには、滲んだ青色が確認できる。

「降りてきてよぅ」

少年はウェーブのかかった髪を揺らしながら、歌うように言った。

私をまねして、からかってる。

女「ちょ…」

「知りたかったら、捕まえてごらんよ」

ふわ、とバレエダンサーのような見事な一回転をすると

「きゃははっ」

少年は煙のように消えた。 

女「…」

リン「…」

しばし、呆然。

女「…今の、何」

リン「分からん」

女「見たこと、ある?」

リン「無い。クリアにしても異常すぎる。ほぼ人間の形をしているし、発声も滑らかだし、意識もある」

リン「第一。…質感だ。クリアだと流動性のある液体質な体をしているが、あいつは違う。煙のようだ」

女「ま、まさかさ、幽霊…なんじゃ」

リン「…」

リンはさっきまで少年のいた街灯を睨み、喉を振るわせた。

リン「…俺はそういう、非科学的なものは信じない」

女「でも、…でもあれ」

リン「とにかく、捕まえるぞ。あいつが何者であれ、一発食らわせないと気がすまない」

女「え!?」

主旨がズレている気がする。

リン「ほら、グズグズするな!行くぞ」

リンは腰を捻って私を振り払い、駆け出した。

女「ちょ、待ってよお!」

まだ少し震える足をいなして、私も彼の揺れる後ろ髪を追いかけた。

…ああ。

特筆すべきだろうか。この半日を。

私達は、あの忌々しい少年(?)を探して、日が沈むまで遊園地を駆け回った。

しかし。

リン「…」

女「…」

夕暮れ時。オレンジ色の日が山の間に沈もうとしている、今。

リン「…疲れた」

女「ね…」

私達は、満身創痍でベンチに伸びている。

リン「くそ、…あいつ。一体何処に」

女「分かんないよ…」

あの少年は、二度と私達の前に姿を現さなかった。

全エリアを駆け回った私達が、今彼を見つけたとしても、…また逃げられるだけだろう。

女「足が痛い…」

リン「だから言っただろ。…そんな歩きづらそうな靴」

女「機能的なほうだってば」

リン「…」

ぐったり。このオノマトペが今世界で一番似合うのは、きっと私達だ。

女「もう、…どうする?リン」

リン「これ以上の活動は危険だ」

リンは額に腕を乗せ、溜息混じりに言った。

女「車まで帰る?」

リン「そうしよう。今のところクリアは確認できていないが、夜に出るかもしれない」

女「…そだね」

よっこらせ、と立ち上がる。

リンは彼らしくなく背を少し丸め、遊園地の階段を下りていった。

女「…明日、どうする?」

リン「探す」

女「だよねえ…」

ゾンビのようなスピードで駐車場に入り、車の座席へと体を投げ出す。

女「あー…」

このまま、永遠に眠れそうな気がした。

リン「…計画を練ろう。このままじゃジリ貧だ」

女「はー、い」

明日の寝坊は、多分確実。

月が昇り、私達は昼と同じようにカップ麺で夕食を済ませた。

お風呂に入りたかったが、生憎こんな所にシャワーなど無く。

女性としての威厳を全て奪われたような気分で、私は駐車場で伸びをした。

リン「はい」

リンが蒸しタオルを投げて寄越す。

リン「これで我慢しろ。風呂は、今日は無理」

女「はーい…」

抵抗する気力も無く、車を挟んで見えないように体を拭いた。

リンがくれた無香の消臭剤だけ、体に降りかける。

女「…ええと、大丈夫?」

リン「なにが」

女「におい」

リン「どうでもいい」

女「あ、そう…」

トイレの水道で髪をがしゃがしゃ洗ってきたリンは、不思議と何の匂いもしなかった。

男の子特有の、あの、汗の匂いもない。 

女「…ねむ」

リン「だな」

計画をたてよう、と提案したリンだが、彼の目の下にはクマが浮き出ていた。

女「…もうさ、休まない?」

リン「…そうだな」

その言葉を待っていたというように、リンは座席に身を投げ出した。

リン「…寝る。おやすみ」

毛布にすっぽりと覆われ、私に背を向ける。

女「おやすみ、リン」

私も毛布を抱え、目を閉じた。

眠りは、一瞬で私の体を飲み込んだ。

目の前が、暗くなる。



「ふふ」

「やっぱりなー」

声が聞こえる。

いたずらっこのような、可愛らしい声が。

「ねえねえ、おねえちゃーん。おーきて」

頬に何かが触れた。 棒のようなもの。 私の頬を、つんつん突付く。

女「…ん、ぅ」

「おーきーてーってば」

女「…!?」ガバッ

「おはよお」

目の前に、あの煙の少年がいた。

女「ひ、…」

「おっと、ちょっと待って。しーだよ。しー」

悲鳴をあげようとした私の口を、温度の無い手が覆う。

「…あの人寝てるから。起こさないでよね」

女「ー、…っ」

「そんなに怖がらないで。ね、大丈夫。なーんにもしなよ」

少年はふわふわした髪を揺らし、にこりと笑った。

女「…な、んで。…ここに?」

「えへへ。…しー。ね、外に出てくれない?」

女「…嫌だ」

「えー。…じゃあ、イタズラするよ」

零れそうな大きな目が、きゅっと細められた。

女「…」

嫌な予感がする。

「いいのかなー?」

女「だ、…駄目。分かった、だから落ち着いて」

「うん。じゃあ、僕の言うこと聞いてくれるよね?」

女「…」コクコク

「静かに車から出て」

女「…」

身長にドアを開け、なるべく静かに閉めた。

悲しいかな、リンは死人のように身を堅くし、泥のような眠りを貪っている。

女(気づけよぅ…)

「はい、よくできました」

少年は嬉しそうに私の腕に絡み付いてきた。

女「…あなた、本当に…。何なの?」

「ふふ」

少年が一歩先へ踏み出し、手招きする。

「ついておいで。一緒に来れたら、教えてあげる」

女「…」

向かう先は、遊園地。

どうしよう。…リンを置いて、一人で?

女「…駄目。危ないよ。知ってるでしょ、透明なアレが出るの」

「お姉ちゃんなら、大丈夫でしょう?」

女「!」

くすくす、くすくす。イタズラっぽい目で笑う少年。

「ほら、置いていっちゃうよ」

女「…」

武器なら、いつでもポケットに忍ばせている。言いつけどおり。

女「…分かった」

私は少年に手をひかれるまま、夜の遊園地へと足を向けた。

「ええと、改めてこんばんは」

少年は遊園地のオブジェの前で、ぺこりと礼をした。

「僕の名前はコマリ。お姉ちゃんは?」

女「…女」

コマリ「ふうん。あの怖い顔したお兄ちゃんは?」

女「彼はリン。一緒に旅をしてるの」

コマリ「へええ」

コマリ、という少年の目がまたきらりと輝いた。

コマリ「かれし?」

女「断じて違います」

コマリ「えー、でもさあ。抱き合ったり一緒に寝たりしてたじゃん。そういうの、コイビトっていうんだよ」

女「…違うの。あれは不可抗力というか、しかたなく」

コマリ「なんだ。つまんないのー」

女(…とんだおませさんだな)

コマリ「ね、女たちって、人間だよね?生きてるの?」

女「そ、そうだよ。当たり前じゃん」

コマリ「…ふうーん。そうなんだー。やっぱりか」

コマリはふわふわと宙を漂い、私を観察した。

コマリ「あの病気に、かからなかったんだね」

女「…うん」

コマリ「そっかー。ラッキーだね」

女「そうかな」

私の髪をなでたり、足を触ったり、無邪気ながらに接してくるコマリ。

彼は、一体。

女「ねえ、コマリ。…あなたは、人間?」

コマリ「えー」

コマリはくすくすと笑った。

コマリ「人間。そうだね、前はそうだったよ」

女「今は、…違うの?」

コマリ「うん。だって僕、死んだもん」

女「…」

じゃあ、じゃあ。やっぱり彼は。

コマリ「僕、…ユウレイってやつなのかも」

女「そ、…う」

コマリ「怖い?」

女「ううん」

コマリの笑みは、太陽に似ていた。最初は戦いたものの、今ではただの子どもに見える。

コマリ「…じゃあ、女。僕の話、聞いてくれない?」

女「話?」

コマリ「うん。ずっとずっと、誰かに言いたかったけど言えなかったことがあるんだ」

女「…いいよ」

コマリ「ほんと?やったあ」

コマリは私の手を取ると、ベンチに座らせた。

コマリ「ええとね、長くなるけどいい?」

女「うん」

コマリ「…えーとね、僕、ママと一緒にここにいたんだ」

コマリの目が伏せられた。そのまま、無邪気さを孕んだ声で語りだす。


コマリの、記憶。

彼にまだ、実体があったころの話だ。

僕ね、あの日ママとここにいたんだ。

ママは、ここのせきにんしゃ、だったんだよ。

だからあの日も、避難するより早くここの「せきゅりてぃー」を、…ええと

…うーん。難しいから、よく分かんない。けど、とにかくお仕事でここにいたの。

え?そうだよ。僕も一緒にいた。

遊園地のてんけん?が終わったら、お爺ちゃん家に避難することになってたの。


お昼なのに、お客さんいなくてね。

社長さんと、ママと、僕と、あと従業員の人が2人くらいしかいなかった。

僕はスタッフルーム、っていうところで、お菓子を食べながらママのお仕事が終わるの待ってたんだ。


あ、鍵、かかってた?

…そっか。


うーん、分かんない。鍵、どこかな?

まあ、いいから聞いて。

それでね

ママが皆とお仕事して、お昼の1時くらいには終わったみたいで。

「コマリー、お待たせ。行こう」

ってママが言ったの。

社長さんが来てね、僕の頭なでて、

「また会おうな、コマリ。落ち着いたら、また皆で焼肉食べに行こう」

って言ってくれた。

社長さんね、うふふ。ママのこと、好きなんだよ。

パパとママがりこんしたときも、ママのこと慰めてくれたの。

僕ね、前のパパ嫌いだったよ。すぐ怒るもん。けど、社長さんがパパだったら、…嬉しいかも。


ええと、それでね。

社長さんと一緒に、駐車場まで行ったの。

車に乗ったんだけど、そこでママが「あ!」って言った。

社長さんとごにょごにょ話してね、それで、僕に

「コマリ、ちょっと忘れ物をしたの。社長さんととりに行くから、待ってて」

僕、うんって返事した。

ママは社長さんと走って、遊園地に戻っていった。


でね、夕方になっても戻ってこなかったの。

僕、ずっと寝てた。

起きたら、辺りが真っ赤になってて。あ、夕方だって思った。

けど、ママも社長さんもいない。

あれー?って思った。

ここにいてって言われたけど、気になったから、車から出たの。


遊園地の中に行くと、しーんとしてた。

ママは多分、スタッフルームにいるんじゃないかって思って、そこまで行ったの。

でもね、鍵、かかってた。

不安だった。

ママー、しゃちょうさーん、どこなのー、って。声を出しながら歩いた。


そしたらね、その、噴水のところ、分かる?

うん、この目の前の。


そこにね、青いふにゃふにゃがいたんだ。


トウメイ?うん、透明だったよ。変な奴だった。


でももっと変なのは、そのトウメイの傍に社長さんの着ていたジャンパーが落ちてたことなんだ。

ジャンパーだけじゃないよ。全部。ズボンも、シャツも、パンツも落ちてた。


いたた。なんで急にぎゅってするの?

…なんでもない? そう?

でも、女の体、ふわふわして温かいし、このまましててもいいよ。

僕、ちょっとびっくりした。

ふわふわは、浮かびながらこっちに来たの。

なんだろう、これ。動物かなあ、って思って。

触ろうと手を伸ばしたの。

そしたら、

「だめ!」

って、いきなり手をつかまれた。

ママだった。

「コマリ、おいで!」

って、ママは僕を抱っこして走った。 頭から血が出てた。

ねえ、ママ、どうしちゃったの?社長さんは?ほかのひとは?


ママ、何も答えなかった。

走って、走って、駐車場まできて、車に乗り込んだ。

青いふわふわが、増えてた。3匹になって、こっちに向かってきてた。

「なんで、どうして」

ママ、泣いてたんだ。

「…なんでなのよ…」

泣かないで、って言った。それで、頭撫でてあげた。

「コマリ、…ごめんね、もう社長さんと焼肉、行けなくなっちゃった」

ママ、目が溶けてなくなりそうなくらい泣いてた。

ねえ、ママ。あれなに?

「…」

こっちに来てるよ

「コマリ。あれに触っちゃ、絶対に駄目。分かった?」

うん。

「大丈夫。ママが守ってあげるから。いい、シートベルトして。行くわよ」

しゃちょうさんたちは?

「…後から、来るのよ」

そっか


で、僕、シートベルトした。そのとき、ママの手に青いお水が着いてるのに気づいたんだ。

拭いてあげようと思って、手を伸ばした。

そしたら

「あ、…あ」

急にね、ちゃぷちゃぷ音がしてきたんだ。

バケツにお水を入れて、かき回したみたいな音。

ママ?

ママのほうを見ようとしたら、


ぱーん、って大きな音がした。


ママの顔、なかった。

冷たい水が、僕の体中にかかった。

ママがぐらって体を倒して、半開きのドアから外に倒れた。

ママ!って叫んだけど、何も言わなかった。

駐車場の上に、ママ、倒れて動かないの。


ママ、ママ、って揺さぶったけど、なんか、変なんだ。

体がね、ぶにょぶにょになっていって。青くなっていって。

それで、…あの青いふわふわしたのになった。

触っちゃ駄目、って、ママが言っていたやつだよ。

僕、ひって叫んでドアを閉めた。

ふわふわ、4匹に増えて、車を取り囲んでた。

怖くて、怖くて、悲しくて、僕、車の中でぼろぼろ泣いた。


夜になっても、泣いた。

ふわふわがいつの間にかどこか行っても、泣いた。


それで、いつの間にか目を閉じてた。

うん。

寝たのかな。

ううん。


死んでた。

目を開けると、僕、ここに立ってたんだ。

体が煙みたいになってた。 そう、ユウレイみたいに。

そこから、ずーっとここにいるんだ。


ずーっと、一人で。

うん。

一人で。

女「…」

コマリ「おしまい」

コマリは言うと、私のお腹にほお擦りをした。

女「…」

言葉が出ない。

コマリは、ここで死んだ。コマリのお母さんも、知人も。

5年もの間、彼はここで、煙の体を繰っていたのだ。

コマリ「ねえ、これどうしよう」

コマリが月明かりに手を透かす。

コマリ「僕、どうなるんだろうね。このままずっと、ここにいるのかな」

女「…」

コマリ「何でか知らないけど、遊園地の駐車場から外にも行けないんだ。寂しかった」

女「…そうなの」

コマリ「…お母さんに会いたい」

女「…」

言葉が、出ない。

自縛霊、の類なのだろうか。

女「ねえ、コマリ」

コマリ「んー?」

女「これから、…どうしたい?」

コマリ「えー?」

コマリ「でも僕、絶対死んじゃってるんだよね」

女「…」

コマリ「だから、ここにいるのは悪いことだよね?テレビで言ってた。ユウレイはジョウブツしなきゃって」

女「…うん」

コマリ「ジョウブツしたら、ママに会える気がするんだ」

女「…」

コマリ「だからね、…もうここからバイバイしたい。もう、ここにいたくない」

コマリの髪をなでる。体と母を失った孤独な、少年の髪を。

女「…ね、コマリ」

コマリ「んー?」

女「私が、手伝ってあげるよ」

コマリ「ジョウブツ?」

女「うん。何か手助けできるかもしれない」

コマリ「本当?」

「待て」

後ろから、機嫌の悪そうな低い声が響いた。

コマリが体を震わせ、振り返る。

女「…リン」

リン「お前な、勝手に行動するな」

ずかずかと大股で歩み寄り、私の腕を掴む。

リン「ガキ。勝手なこと抜かすなよ。俺たちにも予定があるんだ」

コマリ「…」

女「リン!…いいじゃない、可哀相だよ」

リン「甘い。こいつを助けてなにか俺たちにメリットがあるか?」

女「メリットって、そんな」

コマリ「…」

コマリが私の足にしがみつく。昼の強気さはどこへやら、リンを見上げる目は潤んでいる。

リン「…しかも聞いてたろ。ここには最低4匹のクリアがいる」

女「けど」

リン「危険だ」

女「私がなんとかする。だから、協力してあげようよ」

リン「あのなあ」

女「リン!だってこんな、子どもなんだよ?大人気ないよ」

リン「…そうじゃなくて!俺は危険なことに脚を突っ込みたくないんだよ」

女「じゃあ、…リンは車にいれば?私がやるから」

リン「お前もいい加減にしろよ。却下だ」

女「何で!」

リン「俺たちが探しているのは生きている人間だ。幽霊にかまってる暇は無い」

女「つめ、…た!だから、私一人でやるってば」

リン「無理だ。死ぬだけだ」

女「じゃあ、リンもついてきてくれればいいじゃない!」

リン「嫌」

ぎゃあぎゃあと水掛け論を繰り返す私達に、コマリがたじろぐ。

私は何が何でも、彼を助けたいと思った。

女「…とにかく私、彼に協力するから」

リン「却下。いいから来い。もうここを出よう」

女「リン、よくそんな血も涙も無いこと言えるね」

リン「お前こそよくそんな感情論で動けるな」

コマリ「…あ、あの」

火花を散らす私達に、申し訳なさそうにコマリが声をかけた。

コマリ「…リン。あのね、お礼ならするよ」

リン「は?」

コマリがふわりと浮き上がり、リンの耳元に口を寄せる。

リン「…」

何事か、耳打ちした。

リン「…!」

リンの目が見開かれる。

コマリ「…どう?」

リン「本当か」

コマリ「…」コクン

リン「分かった。付き合う。…ただし、今夜だけだ」

女「え」

ど、どういうことだ。

女「コマリ、何を言ったの?」

リン「言うな。ただ、メリットが見つかった」

女「え…?」

リン「行くぞ」

さっきの態度は一体なんだったのか。リンは先頭を切って歩き始めた。

女「ちょ、何なの?本当に」

リン「無駄口はいいからさっさと済ませよう。いいか、今夜だけなんだからな」

女「はあ…?」

すたすた歩くリンの後ろに、コマリが着いて行く。

呆然としていた私も、置いていかれることに気づいて急いで追った。

女「…で、どうするの」

リン「こいつの体を捜す」

女「体、…」

リン「ああ。どこにあるか、分かるか?」

コマリ「駐車場」

ん?…たしかに駐車場に車はあったけど、この小さい少年の姿など、どこにもなかった。

リンが少し考え込む。

リン「…確かか?」

コマリ「…」

コマリの目が泳ぎ、手がふらふらとさ迷った。

女「コマリ、覚えてない?」

コマリ「うん、ごめん。…よく、分からないんだ」

リン「自分の体なのにか」

女「リン」

コマリ「…ごめんね。あのね、ママが死んじゃった所まではよく覚えてるの。けど、…」

女「いいんだよ、気にしないで」

コマリ「…」

リン「といっても、だ。俺たち昼間にあらかた探し回ったしな」

女「確かに」

リン「…アトラクションの中で、見るのが不可能だったって言えば…。観覧車くらいか」

女「そうだね。あの個室を全部見て回るってのは、…」

リン「その鍵のかかってるスタッフルームっていうのは、どうだ」

女「違うよ。だってコマリがお母さんを探してる時にかぎはかかってたんでしょ」

思考が煮詰まる。

リン「…ん」

懐中電灯でマップを照らし、考え込んでいたリンがふと顔を上げた。

リン「…この、小さな敷地は何だ?」

女「え?」

リン「ほら、この、入り口とは魔逆のほうの」

本当だ。駐車場と対になった、何も書いていない四角のエリアがある。

女「…多分、従業員以外立ち入り禁止の区域だった気がする」

リン「そこには行ってないよな?」

女「!そうだよ、確かに」

リン「行こう」

コマリ「うんっ」


広大な遊園地の敷地を横切り、塀のたった最終地点までたどり着く。

白い壁には、「職員用」と書かれたドアがあった。

リン「なるほど。こんな所が」

女「コマリ、覚えてる?」

コマリ「えと、…入り口!ママがいつも通ってた」

女「ああ、職員用の出入り口なんだ…」

リン「…ちっ。やっぱり、鍵が」

女「あー…」

リン「蹴破ってみる」

女「あ、危ないよ?」

リン「問題ない。一発だけ」ブン

ガンッ

リン「…いける。軋んだぞ」

女「マジか!」

コマリ「がんばれ、リン!」

リン「うるさい」ブン

ガン、ガン、とリンの強靭な足から繰り出された蹴りが、壁全体を揺らす。

数回の打撃の後、リンは一番力を込めた蹴りをお見舞いした。

…ガン!!

女「…開いた!」

リン「はあ。…いてぇ」

女「すごいじゃん、リン!ナイスナイス」ユサユサ

リン「…」

げっそりしたリンが、うざそうに私の手を払った。

リン「…暗いな」

中は部屋になっている。暗いが、長机とイスが何脚か目視で確認できた。

女「スタッフルーム?」

リン「いくつかあるうちの一つだな。休憩専用かもしれない」

女「コマリ、おいで」

コマリ「うん」

リンの懐中電灯の光を頼りに、中へ入る。

靴の下でぱきぱきと何かを踏み割るような音が聞こえた。

リン「…これだけか?」

コマリ「ええと、…どうだったかな」

中に目ぼしいものはなかった。流し台、ロッカーと、それからさっきのイスと机のみだ。

リン「職員の更衣室、か」

女「こんな所には、…いないよね?」

一応ロッカーを全て開けて確認したが、勿論全てが空だった。

リン「待て。…もう一つ扉がある」

女「あ、本当だ」

入ってきたほうとは逆の扉。リンが身長に近づき、ノブを回す。

…キィ。

リン「開いてる」

女「…本当?」

リン「俺が先に中を確認するから、合図したら来い」

リンの半身がドアの隙間に消える。

私とコマリは、手を繋いだまま息をつめた。

リン「…おい、駐車場だ」

女「え!」

確かに。隙間から流れ込んできたのは、秋夜の涼しげな風だ。

リン「職員用のか…。なるほど、マップに記載していないわけだ」

大きくドアを開きながら、リンが呟いた。

階段を下りた先に、小さな駐車場入り口が見えた。

女「…ここね」

リン「ああ」

リンが先に行き、金網でできた入り口の扉を開ける。と

リン「…いや。おい、お前ら来るな。…奴らだ」

女「え、…」

心臓がどくん、と脈打った。

リン「…4体もいやがる。…こんな所に集まってたのか」

女「リン。…どうするの」

リン「静かに。…車が3台確認できる。おい、どれがお前の車だ?」

コマリ「…ええと、…小さいやつ」

リン「…。一つは外車、二つは黒と赤の軽自動車。どっちだ」

コマリ「…」

考え込むコマリに、リンはイラついたような視線を送る。

コマリ「…ごめんなさい。分からない…」

リン「…はぁ」

女「リン。…そんな、仕方ないじゃない」

リン「もういい。あいつらがいなくなるまで待つ。それで探せばいいしな」

リンは乱暴に階段に腰を下ろした。コマリは申し訳なさそうに顔を伏せる。

女「リン、トウメイはどこにいるの」

リン「見なくて良い。気づかれたら厄介だ。…駐車場をあてもなくフラついてる」

女「そっか…」

朝が来たら、消えるだろうか。

もし、消えなかったら…?

コマリ「…」モゾ

コマリが身をよじり、私の腕を掴んだ。

女「大丈夫だよ、コマリ。なんとかなるって」

くしゃくしゃと頭を撫でてあげると、コマリは小さく頷いた。

リン「…」

リンはそんな様子を、感情のこもらない目で見つめていた。


何分経っただろうか。

ただぼんやりと、3人階段の最上部に腰掛ける。

欠伸が出た。

リン「…」

そしてリンに睨まれた。

女「…仮眠とっちゃだめ?」

リン「ふざけるな。俺が一番ねむいし疲れてる」

コマリ「二人とも、ごめんね」

女「ううん、いいんだよ」

リン「大体お前が昼間に俺たちをからかわなければ、事は円滑に進んだんだ」

コマリ「…だって。遊んで欲しくて」

リン「くだらない。あれはただ俺たちを馬鹿にしてただけだろ」

女「あー、と。ちょっと、リン。相手は子どもだよ」

リン「知るか。分別の効かない年齢という訳でもないだろ」

女「もう、やめてってば」

コマリ「…」

コマリが薄く桃色に染まった膝を抱えた。

コマリ「…お母さんに、早く会いたい」

リン「…」

リンが首をたれ、忌々しげに溜息をついた。

リン「…ガキが。辛いのは自分ひとりだと思ってる」

女「リン」

リン「俺は。…いや、俺らだって状況は同じだったんだぞ」

女「コマリはまだ、子どもだもん。私達とは全然違うよ」

リン「…」

言ってから、気づいた。5年前、リンは11歳だ。コマリと、そんなに変わらない。

リン「…俺だって親と離れた」

コマリ「…」

リン「女だってそうだろ。…なあ」

女「もう、やめよう」

コマリ「…ぐすっ」

コマリがついに、自分の膝に顔をうずめてしまった。

子どもの空っぽだった心を、“親”というワードが切なくつついたのだ。

女「…コマリ。泣かないで」

リン「泣くな。泣いたってお前の母親は来てはくれない」

女「リンっ」

リン「事実だろ。誰も助けてはくれないんだ。…誰もな」

女「いい加減にして。殴るよ」

ぎゅっと拳を固めると、リンは意外そうに目を瞬かせた。

リン「へえ」

女「…コマリをわざと刺激しないで」

リン「…」

リンは暫く、私の腕にしがみついてすすり泣き始めたコマリを見ていた。

やがて、私の顔に視線を戻す。

リン「会って半日のガキに、よくそこまで感情移入できるな」

女「…」

リン「俺は、…どうとも思わない。残念ながら」

女「リン、…。あなた本当、可哀相だよね。もういい」

私はついにリンに背を向けた。おなかの中に熱い怒りが溜まっていくようだった。

女「コマリ、泣かないで。リンは冷めた人間だからああいうことが言えるんだよ」

コマリの頭をなでながら、優しく言う。

ひっく、ひっくとしゃっくり上げる彼が、可哀相でならなかった。

女(よく感情移入できるな、じゃないわよ)

生きてる人間以外には冷めた態度なんて、どうかしている。

自分の境遇が厳しかったのは、分かる。リンもリンなりに、想像を絶する辛さもあったろう。

…何も聞かせてはくれないけれど。

でも、だからこそ、他人には優しくすべきなんだ。

女「…」ポフポフ

コマリは涙を流し続けた。

リン「…」

リンは秋風に髪をなびかせながら、だんまりを決め込んでいる。

と。

リン「おい」

肩越しに声をかけられた。

女「…」

無視する。

リン「おいって」

リンの手が肩に触れた。

女「何。触んないで冷血人間」

リン「…様子がおかしい」

女「え?」

リン「クリアの動きがおかしい。…集まっている」

女「本当に」

コマリを抱いたまま振り向くと、リンはすでに立ち上がっていた。

リン「…まずいな」

女「リン。…どうなってるの」

リン「こっちに来る」

月が高い。夜明けまでは長い。

私は唾を飲み下した。

リン「…多分そのガキの泣き声を聞きつけたな」

コマリ「…っ」

女「そん、な」

リン「もうバレてる。確実だ」

コマリ「ごめんな、…さい」

リン「謝られても遅いし、何の解決にもならない」

リンがポケットから黒い手袋を取り出し、両手にはめた。

リン「迎え撃つ。お前らは邪魔だから後ろの部屋に入っておけ」

女「…でも」

リン「ぐずぐずするな」

女「4体だよ?リン一人じゃ」

リン「いいから。…さっさとしろ」

唇を引き結んだ。警棒を伸ばして立つリンの背中を、見つめる。

リン「…」

しっしっと、犬でも追い払うように後ろ手を払うリン。

女「私がやる」

背中に声をかけた。

リン「いい」

女「…私だって戦えるよ」

リン「この間だって俺に助けられてた」

女「確かに、トウメイに武器を振るうのは抵抗があるよ。人間だったものだもん。でも」

リン「記憶を読めば助けてやれる、っていうことか?」

はん、とリンが冷たく笑った。

リン「何の正義感なんだ、それ?誰が頼んだ?もうアレは人じゃない。処分するだけだ」

女「でも、何かを伝えたくてさ迷ってるんだよ」

リン「それはお前の主観だ。資料でも読んだだろ。あいつらは、仲間を増やしたいんだ」

リン「お前のお人よしに付き合う義理はない。下がれ」

女「…っ」

胸が痛かった。

リンは、トウメイを障害物としか考えてなくて。

それに、私の事は…

女「信用してないんだね」

リン「…」

女「…ねえ、会って数日だけど、信用してって言うのは、駄目なことかな」

ぴしゃ、と水音がした。

リンはトウメイから目を離さない。

女「…コマリ、部屋に入ってて」

コマリ「でも」

女「大丈夫だから」

リン「ふざけるな、お前も」

バタン

リン「…馬鹿。何がしたいんだ」

女「私もやるって、言ってるの」

リン「いい加減にしろよ。あのな、信用するとかしないとか、そういう問題ですらない」

リン「俺が処理するのが一番現実的で安全だからだ。わざわざお前を危険にさらす意味は無い」

女「でも、私お荷物は嫌だもん」

リンのほうへ近づき、同じ位置に立つ。

リン「最後の警告だ。下がれ」

女「うるさい。リンの馬鹿。友達を助けるのは当たり前でしょ」

リンの口が、開いた。

リン「ともだ、ち?」

女「ん」

トウメイが、金網からにじみ出るようにこちらへ向かってきている。

私は警棒を抜いた。

使わなくても、握っていると安心する。

リン「…」

リンの表情が、ぽかんとしたまま固まっている。

女「何か変なこと、言った?」

リン「…俺とお前は友達なのか?」

女「うん」

リン「いつから」

女「会った時から」

ぴしゃ、 ばしゃ。

トウメイが軟体を伸ばし、階段を登ってくる。

リン「…」

リン「お前さ」

女「うん」

リン「…」

リン「…一緒に、…してくれるのか」

女「うん」

リン「俺のせいでケガするかもしれないぞ。守ってやれないかもしれないぞ」

女「大丈夫。そんなことより、私が何もしないでリンが傷つくほうが嫌だ」

リン「…」

女「私、変かなあ。会って3日のリンに、ここまでするって」

リン「変だ」

ぱしゃ、ぴしゃ。

女「そっか、変か」

女「…でも、リンだって。私を守ってくれたし、危険から遠ざけようとしてくれてるじゃない。会って3日なのに」

彼は、優しいのだ。

リン「…」

青い液状の体が、私達へと手を伸ばす。

リン「…左の1体」

女「え?」

リン「左の1体だけなら、やらせてやる」

女「分かった」

リンが堅く警棒を握り締めた。

リン「3,2,1で突っ込む。いいか」

女「オッケー」

リンの唇が一瞬、戦慄いた。

リン「…3,2」

いち。


リンと私は、同時に地面を蹴った。

リンが目一杯広げた警棒で、右の2体をなぎ倒す。

倒せてはいない。横に傾いだだけだ。

リン「…気をつけろ!固い!」

叫んだが、関係はないのだ。

私に、トウメイの固さや大きさや、速さなんて。

女「…」

ただ、手をふれてやるだけでいい。

細長い形をしたトウメイに向き合い、私はそっと手を伸ばした。

人差し指が青いトウメイの体に触れ、

…言いつけを破ることにはなるが、私は傍にいた大き目のトウメイにも手を触れた。



目の前に、青が広がった。

彼女のことは、出会ったときから好きだった。

まあ、率直に言うとタイプだったのだ。

家計を支えるためにアルバイトを転々とし、ついにここにたどり着いた、彼女。

「実は、5歳になる息子がいまして」

面接の時、はにかむようにして言った。

既婚、か。

それに子持ち。

少しばかり残念だった。

一児の母とは思えないほどの美しさが、彼女にはあった。


それだけじゃない。

彼女の優しさ、仕事に対する熱心さ、子どもへの愛情、

全てを知るたびに、私の心は揺れ動いた。


しかし、揺れるだけだった。彼女には彼女の幸せがある。それで十分だった。

彼女の夫が、彼女と子どもに暴力を振るっていると知ったのは

…いつだったか。

恐らく、彼女を雇ってから半年が経とうとしていたとき。


走ってきたコマリくんを抱きとめたときに、ちらりと見えた彼女の背中。

醜い痣があった。

「ぶつけたんです」

彼女は息子を抱いたまま、ぎこちなく笑った。


「イイジマ社長、ハタノさんのことなんですが」

夏限定の短期で雇っていた女子大生が、言った。

「私ぃ、見ちゃったんですよ。ハタノさんの旦那さん」

詳しく聞くつもりはなかったが、嫌な予感がした。

「…駐車場で、何か揉め事してたんです。車の前で」

「それで、…旦那さん、ハタノさんの頬を二発」

息が止まった。

「…殴ったんですよね。ハタノさん、黙って車に乗り込んで、旦那さんと一緒に帰っちゃいましたけど」

「私、びっくりしすぎて動けなくて。前々から、ハタノさんの体に痣があるの、見てたんですけど」

DVか。

小さな独り言を拾い上げ、女子大生は大きく頷いた。

心根の優しい子だった。化粧は濃すぎるが。

色々な話を聞いて分かった。

彼女はまだ未成年の頃に、5つ年上の男と結婚した。

男は最初こそ真面目に家庭を守っていたが、ある日その仮面がはがれた。

会社でミスをした。

上司に怒られた。

自分は落ち込んで帰ってきているのに、妻は気が利かず、飯は俺の気分好みでない。


殴った。


気持ちよかったのだろうか。

抵抗しない妻を、難癖つけては何度も何度も。


お前、パート先の大学生と親しくしているんだってな。

変えろ。

おい、帰りが遅い。

変えろ。


妻は自分の所有物だという考えが、腐った頭に繁殖していった。

ある日、一度たりとも休まなかった彼女が、3日間の暇を申し出てきた。

「風邪をひいてしまって」

そういう彼女の声は、全くかすれていなかった。

言うべきかどうか、迷った。

自分が彼女の救いになろうなんて、おこがましい。

けど、

けど、俺がやれるのに、やらないのは酷く傲慢な気がした。

下心でも何でも、どうとでも言え。

俺は彼女を救ってやりたい。


電話口で女子大生から聞いた話や、社員の噂を全て伝えた。

彼女は沈黙の後

「…イイジマ、さん」


声がかすれた。

風邪ではない。


「助けて、ください…」


分かった。なんとかしよう。俺を含め、皆が君の味方だ。

俺は大きく、頷いた。




青が、切り替わる。




あ、しまった。

コマリを車に乗せてから、気づいた。

「イイジマさん、事務室の鍵閉めましたっけ」

「あ」

社長の大きな体が一瞬、のけぞる。

「うわあ、忘れてた。ごめん、ハタノさん」

「いえ、急いでかけて来ましょう。マリちゃんたちももう、外に出るだろうし」

「俺も行くよ」

「すみません」


ガチャ。

「よし、これでいい」

「ええと、他にかけ忘れ、ありませんよね?」

「ないない。大丈夫だよ」

「じゃあ、戻りましょうか」

「ああ」


イイジマさんと二人で、暗い廊下を歩く。

「…あのさ」

イイジマさんは、私に話しかけるとき、いつも「あのさ」ではじめる。

「なんですか?」

「…ハタノさんは、離島のお父さんの家に避難するんだったよね」

「そうです」

「いや、本当。参ったよね、このパンデミック」

「まだ実感ないですよね…。私も、ニュースで言われるまで関係ないことだと思ってました」

「折角社員たちとの食事会も企画してたのになあ」

「残念ですね」

「…また治まって、ここに戻ってこれたら。そのときは」

「ええ、飲み明かしましょう」

「…えーと、ハタノさん」

「はい?」

「その、…。前メールで、コマリくんと一緒に行こうって言ってた…」

「ああ、あの焼肉屋さんですか」

「うん。それも、また落ち着いたら行こう」

「はい」

眼鏡の奥で、私の恩人の目が細められた。

恩人、だ。

彼は私を、あの人から救ってくれた。

最近、マリちゃんに言われた。

「ハタノさんってぇ、社長の気持ちに気づいてるんですかぁ?」


気づいてる。

でも、距離を測りかねている。

彼は、成功した部類の企業家であり、私は、バツが一つ付いた子持ちの女。

彼の人生に、私が近づくことで暗い影がさしたらどうしよう。


「ハタノさん」

「はい?」

「その、また会える日を楽しみにしています」

「私もです」

「…コマリくんも、お元気で」

「ええ」

「…」

「ハタノさん」

「はい」

「あの、結婚しませんか?」


うん?

見上げると、私より30センチも背が高い大男がだらだらと汗をかいていた。

「今、何と」

「いえ、結婚しませんかと」

「…今ですか」

「い、いえ。ここにまた戻って来たらです」

「…何でこのタイミングで言うのですか」

「あ、いえ、その」

「…すみません。あの、映画で。…こういうシーンがあったんですよね」

「はあ」

「戻ってきたら、結婚しよう、っていう」

「よくありますね」

「…あこがれてまして」

「…ぶっ」

笑った。

彼の真剣なまなざしと、もうお馬鹿としか言いようの無い臭すぎるタイミング。

「イ、イイジマさん…。あはは…」

「お、おかしいですか」

「はい、おかしいです」

「……す、すみません。空気を読まず」

ああ、彼は私の希望だ。

いつだって救ってくれる。笑わせてくれる。

暗い底にいる私に、リスクを犯すのも構わず網を投げかけてくれるのだ。

どうとでも言え。

周りにどういわれたって、構わない。

私の添い遂げる人は、あの人ではなかった。 この人だ。

「イイジマさん」

「…はい」

もう振られただろうと目の下に隈まで作り始めた彼に、向き直る。

「しましょう」

「え」

「でも、今のプロポーズは聞かなかったことにします」

「え、え」

「またここで会いましょう」

「社員の食事会も、焼肉屋さんも、行きましょう」

「私達が落ち着いて、それからこの国も落ち着いたら」

「…また、プロポーズしてください。しかるべき手順を踏んで」

「ハ、ハタノさん」

そうだ。私たちまだ、付き合ってすらいないというのに。

順序を飛ばしすぎなのだ、この人は。

「もしまたプロポーズしてくれたら、そのときは喜んでお受けします」

「…こんな私でよければ」

イイジマさんが、ぽかんと口を開けた。

「あ、…ありがとう、ございます!」


彼の歓喜の叫びに被せるように、女性の悲鳴が響き渡った。

…。


アイちゃんの頭が破裂した。


イイジマさんの頭が破裂した。


かつて私に結婚を申し込んだ男の残骸が、私を殴りつけた。


眩暈がする。


「ママ?」


ああ、コマリ。


「なに、これ?」



それ、…触っちゃ、だめ。


「コマ、…リ」

「ママ、大丈夫?」

コマリ、大丈夫じゃないよ。

「泣かないで」

泣きたくないよ。

けど、勝手に涙が出るんだよ。

どうして。

どうしてよ。

やっと幸せになれると思ったのに。

私と、コマリと、…彼とで。

何でなのよ。

誰がこんなひどいことを、するの。


コマリ。

せめて、この子だけは。

この子だけは、守らないと。


頭が痛い。

どこかで水音がする。

だんだん大きくなっていく。



違う。

あたまのなかで、おとがする。


「コマリ」

女「…っ!!」ズシャッ

思わず膝をついた。

コマリのお母さんと、それからここの社長。

二人の記憶を受け入れた私の体が、小さく痙攣した。


変な感じだ。 自分が、自分じゃ、ないみたいで。

手足と頭が、妙に痺れて。

リン「…女っ!!」

すぐ横で、破裂音がした。

リンの振るった警棒が、的確に2体の頭部を砕いた。

女「…リン、離れて。破裂するよ」

「ああ、あ」

「ぶじ、で、いて」

イイジマさんと思われるトウメイが、揺らぐ。

女「…大丈夫。またすぐ会える」

パン。

「…コマ、リ」

間髪入れず揺れ始める、コマリの母親のトウメイ。

女「…コマリくんのこと、私が引き受けます。安心して、…さよなら」

「…ママ?」

上から、声がした。

コマリが、セーラーシャツの裾を握り締め、立っている。

「コマ…」

コマリ「…ママ!!」

コマリが、トウメイに駆け寄った。

コマリ「ママ、ママ!!」

掠れる腕を伸ばし、膨張しはじめた液体に抱きつく。

「…あ」

コマリ「ごめんね、ママ。助けて、あげられなくて」

「ううん」

コマリ「…ママ」

コマリ「僕もすぐ、行くからね」

私は静かに立ち上がった。

リンが、そばにいた。

リン「…」

黙って、私の肩を支えた。

「…あのね、ママね」

「イイジマさんの、奥さんになろうと思うんだ」

コマリ「うん」

「いいかな?」

コマリ「うん!」

「…ありがと。コマリ。三人で、」


しあわせになろうね。



パン。


青い水が、コマリの体をすり抜け、散った。

コマリ「…」

女「コマリ」

リン「…」

先に動いたのは、リンだった。

水を手のひらで救い、座り込んだコマリに歩み寄る。

リン「お前の母さん、立派だったな」

コマリ「え、…?」

リン「イイジマさん、だっけ?あの人もいい奴だ。安心しろ、未来は安泰だぞ」

そういいながら、コマリの脇に手を入れ、抱き上げる。

リン「行こう」

女「…うん」

だんだんと色が抜け始めたコマリを、しっかりした腕に抱きしめ。

リンは駐車場に入った。

リン「お前、どこにいるかな」

歌うように、あやすように、リンは車を覗き込んでいく。

コマリ「…」

コマリはもう、喋らなかった。

リン「女」

女「…何」

リン「来てみろ」

手前にあった軽自動車の前で、リンは立ち止まった。

リン「…見つけた」

顎で、助手席を示す。

私は、深呼吸をしてから、ガラスを覗きこんだ。


コマリは、そこにいた。


狭い車の助手席に、膝を抱えて眠る少年。

呼吸は、していない。

リン「開けてくれないか」

頷いて、ドアを開ける。

コマリの体はびくともしなかった。

女「…生きてる、みたい」

リン「…首を見てみろ」

コマリの白いうなじに、薔薇のような痣があった。

女「これ。…」

リン「どういう仕組みかは知らない。けど、…こいつの死体はこのままの形で、残ってる」

そんなことが。

コマリの体からは、お日様のような匂いがした。

たった一部分の腐敗もない、生前そのままの姿。

リン「おい、聞こえるか」

リンが腕の中のコマリを軽く揺さぶった。

リン「お前、いたぞ。こんな所で、一人でずっといたんだな」

コマリ「…うん」

リン「寂しかったな」

コマリ「…うん」

リン「もう、休め」

コマリ「…」

コマリの瞬きが、緩慢になっていく。

コマリ「…リン」

リン「何だ」

コマリ「彼は。…海に行くって、言ってたよ」

リン「ああ」

コマリ「…あのね。…僕だけじゃ、ないんだ」

リン「そうか」

コマリ「ユウレイにね、…なってる、人。僕、知ってる。…黙ってて、ごめん」

リン「構わない」

女「…」

コマリ「女」

女「なに」

コマリ「…ありがと。リンも」

リン「俺はついでか」

コマリは、柔らかく笑った。 目を閉じた。


二度と再開することのない、最後の瞬きを、終えた。

さらり、と

シーツのこすれあうような、綺麗な音がした。

女「あ、…」

リン「…」

全てを終えて眠りについた、煙のコマリが

そして、助手席で眠るコマリが


まるで魔法のように、消えた。


リン「…」

女「…」


空が白み始めている。

朝が来た。


私達の間に、コマリのあの、お日様のような匂いが漂っていた。

女「…」

私は、しばらくその場にたたずんでいた。

ただ、コマリの消えた助手席を見ていた。

リン「おい」

リンが肩を叩く。

女「…ん?」

リン「これ」

リンが、どこで摘んできたのか黄色い花を私に差し出してきた。

女「…コマリに?」

リン「ああ」

可愛らしい花弁を風揺らす花を、2本。

私とリンの手が助手席に置いた。

さようなら、コマリ。

私とリンは、日が昇りきるまで、リンの消えたあとを見つめていた。



そして

車に戻って少しだけ仮眠を取り、私達は遊園地をあとにした。

>>245

リンの消えたあとじゃない…コマリだ…

とにかく遊園地編終了です。お付き合いどうも。

1000いきそうだなあ

女「…」

リン「…」

私達は、無言で山道を走った。

何も言えなかった。

悲しい、とか、寂しいとか、…この感情につく名前が思いつかない。

リンは、どう思っているのだろうか。

彼は今、何を考えて運転をしているのだろうか。

女「…」

その横顔は、いつもより白く見えた。

リン「なあ」

女「あ、…なに?」

リン「お前今、何考えてる」

女「…」

リン「どう思った」

女「分かんない。…悲しい。けど、…良かったなって思う」

リン「良かった?」

女「だってコマリは、もう一人ぼっちじゃないでしょ」

リン「そうだな」

女「…リンは?」

リン「概ねお前と一緒だな」

リン「それより一つ、気になったことがある」

出たよ。

感傷に浸るということを知らないのか、この男の子は。

リン「あいつの遺体についてだ」

女「ああ。…綺麗だったね」

リン「損傷が全く無かった。俺たちが来る1秒前に死んだといわれても驚かない程度に」

女「確かに」

そうだ。コマリ、って呼んだら、あの可愛い声で「はあい」って返事して起きそうなほど。

リン「…首の痣。あれは潜伏感染の証だ」

女「そうだね」

リン「俺は、…それが何か関係してるんじゃないかって思ってる」

女「でも、感染しちゃったら頭が破裂するんじゃないの?」

リン「潜伏感染の例を見たことがあるか?」

女「ない…」

リン「なら、わかんないだろ。ああやって死体が綺麗なまま残るのかもしれない」

女「死体はまあ、百歩譲って分かるとしてさぁ。あの煙みたいな霊体…みたいなのは?」

リン「知らん。分からん」

女「っていうか、こんな話すべきじゃないよね?もっとこう、じーんとすべきじゃない?」

リン「はあ?…いや、もういいだろ」

女「リンって、…切り替え早いよね。あ、悪い意味でだよ」

私が精一杯の毒をこめた言葉に、リンが片頬を歪ませた。

リン「俺はあいつが嫌いだったからな」

女「…そうなの?」

リン「ああいう甘ったれは、苦手だ。いなくなって清々してる」

女「…ふうん」

そういうことにしておこう。

彼がコマリを抱いた時の、あの優しげな声や表情とか。

彼がコマリに手向けた、あの花の美しさとか。

…言ったら、怒るんだろうな。彼は。

リン「何笑ってる」

女「ううん。…リンってさあ、いい人だよね」

リン「はあ?」

女「何でもない」

じろりとこちらを睨んできたリンの視線をかいくぐるように、窓の外に目を向けた。


コマリの今際の言葉どおり、リンは山を下り、海に向かっている。

女「ねえ、リン」

リン「ん」

女「…コマリと何を話してたの?」

リン「は?」

女「いや、いきなりコマリに協力しだしたり、別れ際だって何かこしょこしょ話してたじゃない」

リン「…」

リンがサイドミラーに目を向けた。

リン「たいしたことじゃない」

女「…彼って?」

リン「知らない」

リンがハンドルを切る。私の体は慣性に従い、ゆるく揺れた。

女「生存者?」

リン「…多分」

女「歯切れ悪くない?ねえ、何か秘密にしてるでしょ」

リン「本当に知らない。ただあいつは、生きた人間が海に向かったと言っていたんだ」

女「それが条件だったの」

リン「ああ」

…本当かなあ。

かなり、怪しい気がする。

女(なーんか)

リンは私に、何か隠している気がするのだ。

でも、追求しすぎるのはいけない気がした。

女(ま、…会って一週間も経ってない人に、軽々しく何でも言えない、か)

少し、…いや、なんでもない。

少し停まろう。

正午の少し前、リンが呟いた。

女「ん、どうかした?」

リン「少し休みたい」

確かに。リンの一日は、ほぼ外を走り回るか、運転するかだ。

女「ごめんね、運転ばっかりさせて」

リン「しょうがない。お前にハンドル任せたら生命の危険だからな」

女「返す言葉もないけど…」

リン「涼しくなってきたな」

リンがついに、道路わきに車を停めた。

狭い道だが、対向車などあるはずもないので気にしなくていい。

リン「…なあ、川だぞ」

リンが私の座る助手席の窓を、顎で示した。

女「えっ」

身を乗り出すと、さらさらと音を立てる木の葉の隙間から、清い流れが見えた。

女「ほんとだ!!」

リン「よし、降りよう」

リンが珍しく、瞳に輝きを湛えている。

女「うんっ」

女「つめたーーー!」

ばしゃばしゃと音を立てて浅瀬に入る。

飛び散った水の冷たさは、成る程、もう秋だ。

リン「転ぶなよ」

リンが裾をまくりながら言った。 失礼にもほどがある。

女「大丈夫ですからー。…リンも、ほらっ」

お返しに手を引っ張ると、リンはつんのめりながら川に入った。

リン「うわっ」

女「冷たいでしょ」

リン「いきなり引っ張るな。転ぶだろ」

リンはぎこちなく腰を曲げ、水を掬った。

美しい透明さだった。清水は光を屈折させ、リンの手のひらを爽やかに潤す。

リン「綺麗な川だな」

女「ここ、近くにキャンプ場とかもあったんだよね。もっと上流に行けば、滝もあるよ」

へえ、と呟いたリンに、そろそろと近づく。

冷たい水を掬って、そーっと

リン「おい」

女「げ」

振り返ったリンが、じとりと私を睨んだ。

女「えへへ」

リン「小学生みたいなことをするな」

女「いやー、水っていいよね」

ぱしゃぱしゃと子どものようにはしゃいで跳ね上げる私。

リン「…寒い。もういい」

体を冷やすだけ冷やすと、さっさとタオルで足を拭くリン。

女「水着とかあればなー」

リン「風邪引くだろ、この冷たさじゃ」

女「でもこんな綺麗な川、泳がなきゃ損じゃん」

リン「…川遊びがしたいなら、もっと他に適役なのがあるぞ」

え、と振り向く。

玉石が転がる川瀬に腰を下ろしていたリンが、にやっと笑った。



リン「というわけで、今日の晩飯を取れ」

手渡されたのは、釣竿と網。

女「…こんなのあったんだ」

リン「勿論だ。たまには出来合いの食品以外のものをとらないとな」

女「でも私、釣りしたことない」

リン「知るか。とにかく自分が釣った分だけが食える、というルールの下やる」

暴君かこいつは。

女「と…取れなかったら、分けてく」

リン「やだね」

女「嘘ぉ」

身の丈ほどの釣竿と、網を持ったまま呆然とする。

リンはさっさと場所を吟味しにかかった。

女「ちょ、っとー」

リン「なんだ」

女「やり方がわからないんだけど」

現代っ子め、とでも言いたげな目でリンはこちらを見た。

やれやれとこちらに近づいてくる。

リン「本当にやったことないのか?」

女「うん。全然分かんない」

リンは溜息をつき、釣竿を手に取った。

リン「餌をつける。針で指切るなよ。あと、返しが付いてるから服につけるな」

リン「…で、投げる。糸を張って、魚がかかるまで待つ」

女「魚がかかったら、どうするの?」

リン「引っ張る。終わり」

女「えー?」

リン「えー、じゃない。ほら、さっさと振れ」

女「ま、待ってよ。まだポイント決めてない」

リン「あっそ」

女「…絶対リンよりいっぱい取ってやる」

リン「ふうん」

砂利の上を歩き、魚のいそうなポイントを探す。

上流なので川の流れはそこそこに速い。

女(…いんのかな、魚)

やがて目視じゃ何も確認できないと知った私は、川の中央にある大きな石まで移動した。

女「よ、っと」

ぬるぬるした苔を踏まないよう、慎重に足場を決める。

リン「そこでいいのか」

女「リン、こっちは私のテリトリーだから来ないでよね」

リン「はいはい」

びゅ、と軽い音がして、リンが竿を振った。

女(負けるか)

みようみまねで、私も川の流れに糸を垂らした。

女「…」

糸は流され流され、ぴんと張って止まった。

女(かかるかな)

少しの不安と、大きな期待を胸に、竿を握り締めた。


30分後。

女「…」


1時間後。

女「…」


遠くで静かな水音がした。

振り返ると、リンが何の感動も無く竿を上げ、大きなニジマスをバケツに移していた。

女「…」

唖然としてその様子を見つめる。

リン「…」

リンはもう一度竿に餌をつけ、…そしてちら、とこっちを見た。

女「!」

笑っていた。

目を細め、顎を上げ、どうだといわんばかりに。

女「く、…っ」

悔しい。本気で悔しい。

女(なんでいつもいつも、リンのほうが優秀なのよ)

もう見ない。急いで竿に視線を戻し、その振動に集中する。


しばらくして、また後ろで水音がした。


またまたしばらくして、後ろで水音がした。


またまたまたしばらくして、…


女「やめた!!」

2時間半が経った時、わたしは遂に高らかに宣言した。

岩の上を下り、足音荒く砂利道を歩く。

リン「あれ、やめるのか」

竿を繰りながら、リンが言った。

女「…」

彼の傍らにあるバケツには、瑞々しい色の魚が4匹。

女「私に釣りは向いてないのかも」

リン「だろうな。集中力、根気がいるからな」

女「…っ」

くそう。くそう、くそう。

リン「どうすんだ?このままじゃ晩飯ナシだぞ」

女「黙ってて。あのね、考えはあるんだから」

そう、ある。

女「リンは今4匹ね。…すぐ倍にするから、いいもん」

リン「そんなに取っても食いきれないだろ」

冷静に竿を見つめながら返すリンに、精一杯の抵抗として舌を見せた後、私は服に手をかけた。

上着に着ていたパーカーを脱ぎ、半そでのTシャツだけになる。

リン「…」

靴を脱いで、太ももまでを覆っていたハイソックスを地面に放る。

リン「何する気だ」

リンが静かに聞いた。

女「魚のつかみ取り」

短く返すと、私は川の中に勇ましく入っていった。

リン「馬鹿?」

リンが死んだ表情で首を傾けた。

女「なんでよ!何もかからない棒を持ってるより、こうしたほうが良いに決まってるでしょ!」

リン「…」

女「もう話しかけないで!集中できない」

リン「まあ、なんだ」

リン「…頑張れ」

リンが竿を引き、腰を下ろした。

リン「俺はもう十分取ったし、休むからな」

女「ふうん。勝手にすれば」

リン「…コケるなよ」

そういうと、リンはリュックを枕にして横になった。

女「…」

水面をじっと見つめる。

リンの安らかな寝息は、研ぎ澄まされた神経には入ってこなかった。


ああ、山際に熟れた蜜柑のような日が沈んでいく。

女「…」

開始早々、苔を踏みつけ転倒してしまった私。

その濡れそぼった体を、夕焼けが赤く染めていく。

リン「で」

昼寝から目覚めたリンが、胸元をかきながら言った。

リン「どうなんだ」

女「…」

私は、答えない。

リン「…」

聞いても無駄と判断したのか、リンが私の持つバケツを覗きこんだ。

リン「…」

はあ、と溜息。

リン「大漁だな」

私のバケツには、うっかり川に落としてしまったスニーカーだけが入っていた。

女「…」

何もいえない。

リン「さて。…お前、着替えろ。濡れた服は洗って、ロープにかけておけよ」

リンはぼりぼりと頭をかき、車の方に向かっていった。

女「…」

こいつのバケツ、蹴り倒してやろうかなあ。

…いや、やめた。多分殺されるし、虚しいだけだ。

女「あー…」

私の晩御飯は、ないようだ。


リンが火をおこし、見たことのある黒い箱を上に吊るした。

女「…飯ごう?」

リン「お、知ってるのか」

女「そんなものあったんだ」

リン「ああ。たまに使う」

ふうふうと焚き火を吹いた後、リンは飯ごうに水とお米を入れた。

女「…」

なんとか主食は確保できた、…のか?

しゅわしゅわ、と音がして、細かい泡が飯ごうから吹き出る。

女「…泡出てるよ?」

リン「そのままでいいんだ」

女「ふーん」

リンは少しだけ飯ごうをずらし、何時の間に処理したのか、串刺しの魚を焚き火にかざした。

女「…」

少し、唾を飲む。

女(お、…おいしそう…)

リンはてきぱきと4匹の魚を火にかける。

女「…」

私の恨めしそうな視線を、飄々とかわす。


一時間も経たないうちに、ご飯と焼き魚はできあがった。

日は沈み、穏やかな川のせせらぎと虫の音があたりに響く。

リン「ほら」

リンが茶碗にご飯をよそってくれた。

女「ありがと」

受け取ったが、少し悲しくなった。

女「…すごい。おこげできてる」

リン「上手くできた」

女「じゃ、いただきまーす」

お箸を手に取り、白いご飯を口に運ぼうとした瞬間。

リン「…ん」

横から、何かが差し出された。

女「え」

リン「食え」

香ばしく焼きあがった魚が、こちらに向けられている。

女「え、で、でも。リンがとったやつでしょ」

リン「4匹も食えるか。こどうせこんなことだろうと思って、多めに釣ってたんだよ」

女「…そ、そうなの?」

リン「いらないんなら」

女「いるっ。いりますっ」

頭を下げながら、魚を受け取る。

女「ありがとう、リン!リン様!」

リン「…調子の良い。ま、今度からもう少し辛抱強く待つことだな」

リンが私のほうを見ないようにしているのが、分かった。

…頬が赤いのは、焚き火の光が映っているからか。

リン「いただきます」

女「いただきまーす」

二人同時に、魚にかぶりついた。

ほのかな塩味と、柔らかい身が口いっぱいに広がった。

女「~~~っ」

リン「美味いな」

女「…ふぃんへぃへ」

リン「飲み込んでから言え。行儀が悪い」

女「…んぐ。人生で、一番美味しい魚かも」

リン「言いすぎだろ」

女「本当!すっごく美味しい」

リン「大げさすぎる」

リンの白い歯が、綺麗に身を削いでいく。

私も一生懸命、魚にかぶりついた。

二人無言で、頬張る。

生きてるな。 ふと思った。

女「ねえねえ」

リン「ん?」

女「何か今、すっごく幸せかも」

リン「単純だな。魚ごときで」

そうじゃないんだ。

目の前に温かい火があって、空には宝石のようにちりばめられた星があって、

美味しいご飯があって、川のせせらぎが聞こえて、

リン「…何だよ?」

女「ん、何もー」

こんなにすぐ傍に、彼がいる。

商店街で暮らしていたときは、何だって一人だった。

ご飯を美味しいと、思うことすらなかった。

女「リン」

リン「ん」

焚き火をぼんやりと眺めていたリンが、珍しくこちらに顔を向けた。

女「ありがと」

リン「お前な、そんなに魚ごときで恩を感じなくても」

女「そうじゃない。あのね、私を連れ出してくれてありがとう」

リン「…」

リンが視線をそらした。

眩しい物を見た、というように、片手で目を覆う。

女「本当に、今、生きてるって思える。全部リンのおかげだよ」

リン「…あ、っそ」

女「ありがとう、リン。本当に感謝してる」

リン「…」

ついにリンがそっぽを向いた。

女「私、リンと旅するの、楽しいよ」

リン「分かった、分かったから」

リンの指が、意味も無く砂を掘っている。

もう止めておこうかな。言いたいこと、言えたし。

女「…洗い物してくるね」

私は食器と飯ごうを手にし、立ち上がった。

ついでに久々に水だって浴びたいので、着替えの袋も持つ。

リン「…ん」

女「リンは車に戻ってていいから」

リン「…」

あれ。前に行けない。

女「…リン?」

視線を下に向けると、私のシャツの袖を白い指が捕まえていた。

リン「…」

リンの唇が、震える。

声は、無い。

女「ど、どうかした?」

リン「…」

リンが黙って、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

リン「これ」

再び見えた彼の手は、何かを握り締めていた。

女「え?」

リン「…」

無言で、拳を突き出す。

恐る恐る手を出すと、手のひらの上に柔らかなものが降ってきた。

リン「やる」

口の中で呟くように、リンが言った。そしてすぐそっぽを向いた。

女「…ミサンガ?」

ピンクと黄色の、ふわりとした色合いのブレスレッドが、手の中にあった。

リン「…」

リンが無言で頷く。

女「これ、リンが?」

リン「…」

また頷く。

リン「…簪。選んでもらったから。おかえし」

女「…何時の間に作ったの?」

リン「今日の昼」

何時にもましてぶっきらぼうな口調のリンが、ポケット両手を突っ込んだ。

女「ありがとう。可愛い」

嬉しかった。

人から贈り物を貰うって、こんなに嬉しいことだったんだ。

リン「…行け」

しっしっと、犬を払うように手を振るリン。

私はその眉間に皺を寄せ、心持ち赤くなった顔に、微笑みかけた。

リン「…行けって」

リンの手の動きが、激しくなった。


川で体を洗い、丁寧に拭いたあと、ミサンガをつけた。

腕に巻き、固く結ぶ。

ミサンガが切れるとき、願いが叶うという。

女「…」

願い。

このミサンガが、リンからの小さな贈り物が、

女(…どうか切れませんように)

一生私の手首にあれば、どんなに良いか。

車に戻ると、リンはさっさと毛布に包まって背を向けていた。

女「…リン、つけてみた」

その背中に声をかけると、ぴくりと動いた。

女「どう、見て。似合う?」

リン「…」

もそもそと、こっちに顔を向ける。

女「ほら。似合う?」

手首を顔に近づけると、リンはちらりとミサンガを見て

リン「…普通」

そう言って、目を閉じた。

女「なんじゃそりゃ」

私は少し笑って、自分の毛布を引き寄せた。

軽く体にかけて、横になる。

リン「…」

女「おやすみ、リン」

リン「…おやすみ」

リンは背を向けなかった。

私は、彼と向き合った姿勢のまま目を閉じた。


静かなリンの呼吸が、子守唄のように心地よ、く耳の中に響いていた。

今日はここまでです。
次の投稿は、「海とレストラン」編始まります!

ハローハロー。

海とレストラン編、はじまりです。

女「…ふんふーん」

リンの運転する車は、ゆったりとした速度で山道を下っていく。

曲がりくねった道に気分が悪くなることもない、優しい運転だ。

リン「やけに機嫌が良いんだな」

女「え?」

リン「鼻歌歌ってる」

女「うそ。気づかなかった」

リン「…これか?」

リンがサイドポケットに入れてあるCDを一枚取り出し、私に手渡す。

女「…ん?これって、今流してるやつ?」

そう。

外国人男性の、低く荒い声。

その力強い歌声が、時々リンのきまぐれで車内に流れるのだ。

女「スタンド、…バイミー?」

古いジャケット写真を見て、遠い昔の知識を頼りに英語を読む。

リン「そ。ベン・E・キング。…知らない?」

女「ええと…知らない」

リン「だろうな。大分昔の歌手だし…。同名の映画なんかもあったんだぞ」

女「へー?」

リン「どうせお前なんか、アイドルとかふにゃけたバンドの歌しか聞かなかったんだろ」

女「ま、まあ。だって皆聞いてたし」

女「ふーん…。英語の歌なんだ」

リン「ああ」

女「…」

ふと、思い出す。

あの、夜のことだ。私が彼を見つけた日。

どこからか美しく這い寄ってきた歌声は、この曲調に似ていた。

…英語ではなく、日本語だったけど。

女「リン」

リン「なに」

女「リンって、…歌うまいよね?」

リンが物凄い勢いでこちらを向いた。車体が少し揺れる。

リン「…何で知ってる」

女「え?」

リン「お、お前の前で歌ったことなんて無い」

女「初めてリンとあった日とか、…あと、私が寝てるときとか、歌ってたよ?」

リンの顔色が絶望の青白さへと変わった。

リン「…歌ってない」

うそつけ。

女「歌ってたよー。これの日本語版みたいなやつ」

リン「気のせいだ」

女「すっごく綺麗な歌声だったよ。声の低い女の子みたいな、滑らかで澄んでて…」

リン「黙れ」

女「歌ってよ、リン。私、リンの歌好きだよ」

リン「黙れって!」

女「えー」

リン「気のせいだって言ってるだろ!勘弁してくれ」

そうかなあ、と口の中で呟いてシートに身を沈める。

リンはこれ以上話題を広げないためか、車内のオーディオを切ってしまった。

女「…」

静かな走行音だけが、響く。

私は腕につけたミサンガの、糸が細やかに交差した線、暖かな色合いを観察した。

やがて。

リン「…おい」

寝ていると思ったのだろうか。リンがためらいがちに声をかけてきた。

女「うんー?」

実際、うとうとしかけていた私は頭を上げた。

リン「ほら、外。見てみろ」

リンが窓の外を指で示す。 身を起こして、その方向を見ると。

女「…うわー!!」

目の前には、美しい水と、白亜の砂粒が広がっていた。

「ようこそ  の浜へ」

錆びてかしいだ看板が立っている。

リン「…潮の匂いだな」

女「うんっ」

私達は車を海岸の駐車場に停め、海の湿った空気を吸い込んだ。

女「ねえ、海に行って何するの」

返事は無い。リンは相変わらず地図と手帳の両方とにらめっこしている。

リン「…目ぼしい施設を探してから、計画を立てる」

女「…」

目の前には、こんなに綺麗な砂浜と海があるのに。

女「ん、」

そっとドアを開ける。

むせ返るくらいに濃い、潮の香りが鼻腔になだれこんでくる。

女「…」ウズ

海が、私を呼んでいるのだ!

女「先に行くね!」

そういい捨てると、私はサンダルを脱いで走り出した。

ふかふかのパンケーキみたいな感触と色を持つ砂を踏みしめ、走る。

海だ、海だ、海だ!!

女「うみーーっ!!」

遠い水平線に叫び、私は波打ち際へと足を踏み入れた。

川とはまた違った質感の水が、私の足を濡らして、引いて、濡らして、引いて。

女「リーン!海だよーっ!」

リン「…子どもかーっ」

階段の上からリンの呆れ半分、笑い半分といった声が聞こえた。

女「リンも、おいでよーっ」

リン「はいはい」

リンがリュックを片手に階段を下りてきた。

鋼鉄を思わせる顔にも、なんだか無邪気さが浮かんでる気がする。

海だ。海は凄い。

「生命の母」…そう聞いたことがある。

その滑らかな波の前では、全ての生物は子どもへと還るのだ。

リン「クラゲとかいるんじゃないか」

女「いないよー?」

リン「…冷たいか?」

女「いいから、リンも入ってみなって」

リン「…」

リンがブーツの紐を解き、裸足になった。

少女のような曲線を持つ爪先を、ちょん、と水面にひたす。

リン「…海だな」

女「海だねぇ」

リン「…」

リンが腰をかがめ、水に触れた。

リン「…女ー」

女「ん?」

バシャッ。

女「」

いま、なにが。

顔がつめたい。そして服が湿ってる。

リン「…ぷっ。あはは、…グズだな」

女「…」

リン「凄い顔、してる。…あははっ。マヌケすぎる」

女「こらぁあああああああ!!」

私は全力で水を掬うと、目の前のクソガキに浴びせた。

リン「はいはずれ」

リンは軽いステップで避ける。

女「馬鹿!避けるな!」

リン「だって遅いし」

女「きいいいいいい!!」

ばしゃばしゃと、だだっ広い海に二人の子どもの影が躍る。

母なる海が、そっと微笑した。


女「…はぁ、はぁ、…」

リン「運動不足だな」

女「なん、で…。息一つ切れてないのよ」

結局私は、リンにしぶき一つかけられなかった。

寧ろ逆襲で履いていたスキニージーンズがびしょぬれになってしまった。

女「くそー…」

リン「楽しいな、海」

女「どこが!」

女「水着持って来ればよかったなー」

リン「そうだな」

二人で砂浜に並んで、海を見つめる。

お昼というにもまだ早く、お腹はそこまで空いていない。

ただただ、静かに砕ける波を見る。

リン「…なんか、休んでばっかだな。俺たち」

女「いいじゃん、色々大変だったし」

リン「ん」

女「…きもちいいねー」

穏やかな時間だった。 リンも少し眠たげな、リラックスした目をしていて。

いつもの少し事務的な様子が消え去ったようで、嬉しい。

女「…」

砂浜の上に、立ってみた。

中学校でやったダンスの授業を思い出す。

創作ダンスの振り付けのイメージを、先生がテレビで見せてくれたことがあるのだ。

白いワンピースを着た少女が、砂浜の上を、何かを求めるように踊って。

女「…」

踊って。

女「…あー」

気づけば、私は手足を繰りながら歌っていた。

異国の歌だった。

北欧かどこかの、甘く切ない声を持つ女性シンガーの。

歌詞カードを見ても、外国語の発音は分からなくて。

でも、この胸を満たして全てを攫っていくような旋律を、口に出したくてしょうがなくて。

一生懸命、インターネットで調べて、発音と日本語訳を覚えたのだ。

女「…」

喉を開けて、胸をそらして。

歌った。

リン「…」

リンが静かに体を揺らした。

女「…」

回って、歌って、また回る。

そうして、舞台女優がするみたいに綺麗なお辞儀をした後、私は最後の音をそっと生み出した。

リン「…上手いじゃん」

女「そうかな」

少し照れくさい。

リン「誰の歌?英語とは少し違うようだけど」

女「えーと、…忘れちゃった」

リン「なんだそれ」

女「でも、これ凄く好きな歌だった。今じゃタイトルすら思い出せないけど」

リン「何ていってるの、それ」

女「ええ、と」

眉間をもんで、記憶を呼び起こす。

女「…これねえ、自殺する女性の歌なんだ」

リン「はあ?」

女「一番目は彼女の遺書の内容。二番目は、海に入ったときの歌」

リン「それにしては綺麗なメロディだったな」

女「だって、彼女は怖がってなかったから」

リン「…どういうこと?」

女「全てを受け入れたから」

ざあ、と潮を含んだ風がリンの髪を揺らした。

彼の耳の横に見える牡丹が、頷くように動く。

リン「受け入れる、ね」

女「そう。自分は海から生まれたから、海に帰るのよ。ママの腕の中で、少女のように眠るのよ。…」

そういって、歌は終わる。

美しいピアノの音すら掻き消えたあと、ざあ、と波の音がするのだ。

リン「ふーん」

女「すごいよね、海って」

リン「ああ」

女「…」

リンにも、歌って欲しかった。

女「スタンド、…バイミー?」

リン「やだ」

女「なんでよー。歌ってってば」

リン「断る」

女「けち!」

それでも、私はきづいていた。

私の歌を聴く彼の表情や、リズムをとる指の動き。

女「歌って、リン」

リン「…」

彼だって、この偉大な、たくさんの命を湛える海に捧げたいのだ。

女「…ねえ」

リン「…」

リンが大きく息を吸い込んだ。

空気が、ぴんと張った気がした。


彼の声が潮風を穿った瞬間、私は目を閉じた。

夜が訪れ

あたりが闇に支配される時


月明かりしか見えなくたって


恐れることなんてないさ


怖がる必要なんてどこにもない


ただ君が暗闇の中ずっと


僕の傍にいてくれたら


So, darling darling
Stand by me


Oh stand by me


Oh stand
Stand by me


Stand by me

リンの声は、綺麗だった。

少女の滑らかさと透明さ

そして少年の力強さを兼ね備えた、そんな声だった。


…私は彼の、海の一点をじっと見つめる横顔も、美しいと思った。


リン「…」

リンが最後の「スタンド・バイミー」を終えた。

長い長い息をつき、髪をかきあげる。

女「…リンっ」

私は少し恥ずかしそうに顔を伏せたリンのところへ、駆け寄った。

上手だった。なんだか、泣きそうになっちゃった。

女「やっぱ、うま…」

「ブラボォオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


ん?

リン「…誰だ」

「んもう、二人ともすんごい!すんっっごいわよおおおお!」

女「…」

後ろから、少し荒いがさついた高音が聞こえる。

リンが、腰に手をやりながらすばやく振り向いた。

「もう私感動しちゃった!やばいわよ!マスカラ溶けちゃうっ!」

リン「…あ?」

庇うように差し出されたリンの手を下げ、私も後ろを向く。

女「…あっ」

そこには。

黒いワンピース。白いカーディガン。

海風をはらみ、はたはたと翻っている。

そして、ブラボー、ブラボーという絶叫に合わせて何度も打たれる手のひら。

赤いネイルが、やけに眼に染みる。

…視線を上げる。

「あんたたち、将来が楽しみ!楽しみすぎるわっ」

女「リ、リン」

私は思わずリンの背中に隠れた。

女「…あ、あ、あの人」

透けていた。

コマリのように、白く煙のようにゆらゆらと。

リン「…大丈夫だ」

リンが私の手を握った。

女「…そ、それにさ」

そう。いや、まあ、煙であることに驚いたのではない。初めて見たわけじゃないし。

女「あの、人。…さあ」

あの人、いや、彼女。 

…首に巻いた、赤いスカーフ。筋の浮いた、首。

「いやあー久々にいいもん聞いたわ!」

そうベラベラとつむぐ口には、ピンクの口紅が引いてある。

顔全体に施された、丁寧で上手な化粧、なん、だけど…。

「あら、なぁにその顔」

女「…お、」

リン「男か」

そう。 彼、だ。

遠巻きでも分かるほど、白く透ける不審者の体は、ゴツかった。

足首なんか、ヒールのストラップがはちきれそうに逞しい。

あの肩幅なんて、ふんわりしたワンピースでも隠せないほどだ。

女「…」

遠巻きでも分かるほど、白く透ける不審者の体は、ゴツかった。

足首なんか、ヒールのストラップがはちきれそうに逞しい。

あの肩幅なんて、ふんわりしたワンピースでも隠せないほどだ。

女「…」

はじめてみる種類の人間に唖然としていると、リンが前へ進み出た。

リン「…俺は、リン。こいは女。二人で生き残りを探す旅をしてる」

「あら、ご丁寧に。しっかりしてるのねえ、ぼうや」

リンの眉間に一瞬皺が寄った。

「私の名前は、ミキ。うふふ、そんなに引かないで。見ての通り男だけど」

女「…あ、あのっ」

ミキ、と言う風貌に沿った女性的な名前の彼に、声をかける。

ミキ「あら、なに。お嬢さん」

女「…生きて、ますか」

単刀直入な私の問いに、ミキがくすりと笑った。

ミキ「…いいえ。死んでるわ」

リン「…残念だ」

ミキ「あなたたちは?」

女「生きてます」

ミキ「そお。それは良かったわね。元気ー?」

彼はやけにフランクだ。私は思わず、オネエタレント、と呼ばれた人々のことを思い出していた。

リン「来い。危険はなさそうだ。様子はおかしいが」

リンがようやく腰から手を下ろし、私の手を引いた。

女「う、うん」

引っ張られて、ミキに近づく。

ミキは女優のように足を組み、何も無い宙に浮いていた。

ミキ「んふ、近くで見ると可愛い顔してるのね。二人とも」

リン「やめてくれ」

ミキ「あーら、いいじゃないのよお。リン、…って呼んでもいい?あなた、ドラマに出てた若手俳優に似てるわ」

彼が上げた俳優の名前にリンはぴんとこなかったらしいが、私はああ!と口を押さえた。確かに似てる。

ミキ「さて、お二人はどうしてここに来たのー?」

リン「…山の上の遊園地、分かるか」

ミキ「ああ、結構近くよね。知ってる」

リン「そこのお前と同じ種類の人間から、ここに生き残りが来たという情報をもらった」

ミキ「ええ、ミストが!?」

ミキが目を剥き、頓狂な声をあげた。

女「ミス、ト?」

ミキ「ええ。私みたいに、くたばったのにこうやってフワフワしてる連中を、ミストって呼ぶの」

リン「へえ」

リンの目が、「こいつ使える」というように輝いた。

ミキ「生き残り、生き残りねえ」

ミキがうむ、と腕を組む。

リン「分からないか?」

ミキ「勿論知ってるわ。ダチだもん」

女「え、っ」

女「やっぱり、生きてる人がここに来たの!?」

しかもダチって。

ミキ「うん、来たわよー」

リン「…いつだ」

ミキ「それよりさあ、今世界どうなってるの?私全然知らないんだけどー」

魚のように宙を泳ぎながら、ミキが言う。

リンが髪をかき混ぜ、イラついたように質問を重ねた。

リン「男が来たんだろ。ダチっていうなら、名前も、顔も、分かるだろ。教えてくれ。そいつは、どこに」

ミキ「ねえ、女ー。リンとはどういう関係なの?」

女「あ、あの。えっと」

リン「聞け!!」

ミキがきゃはは、と笑って飛びのいた。

ミキ「カッカしないの、リン。せっかちな男って、いやよ」

リン「だから…」

ミキ「そんなことより、私についていらっしゃいよ。久々のお客さんだし」

女「…どこに?」

ミキがにんまりと、大きな口を裂くようにして笑った。

ミキ「…私の、お店!」

そういって、怖い顔をするリンを避けて私の背中を押す。

つんのめるようにして歩き出した私の後を、リンが思いつめたような溜息と共に追った。

今日はここまでにしておきます

「marine」

ブルーに塗装された木の看板に、白いペンキで書かれた、丸っこい文字。

女「マ、…リン?」

ミキ「そ。ここが、私の店!」

ミキが無い胸を張った。

女「…店、って」

私とリンは、目の前にある可愛らしいコテージ風の建物を仰ぎ見た。

リン「レストラン、か?」

ミキ「そう!ここの海で獲れたお魚とか、山の山菜とかフルーツとか、あと私が育てた鶏の料理が自慢なのっ」

女「え、え。これ、ミキ…さんのお店?」

私は目を丸くして聞き返した。

私のお店に連れて行く、なんて息巻かれた時には、まさか怪しげなパブなんじゃないかと思ったが…。

リン「意外だな、こんな趣味のいい店とは」

リンと珍しく意見が合致した。

ミキ「さ、入って入って~」

ミキが少女のような足取りで白い階段を登り、ドアを開ける。

ちりん、と錆びた年月を感じさせないベルの音がした。

マリン、…海。か。

白と淡い水色を基調とした外装を見回してから、私は促されるまま中に入った。

レストランの中は、しんと冷えていた。

女「…わあ」

リン「どういうことだ」

リンが首を掻く。私は思わずミキを振り返った。

女「…綺麗」

ミキ「あらぁ、そお?」

ミキがにんまりと笑う。そう、綺麗なのだ。

店内には錨をモチーフにした小物、赤や青といった旗

…それから、あれは何て言うのだろう。漁で使うための、ガラス質なボール。

そんな、趣味がよく可愛らしい小物が散りばめられていた。

女「…すごい」

テーブルは、そんなに多くない。4人用のものが5つ

それから、カウンターに一人掛けようのイスが8脚。

リン「綺麗だな」

ミキ「やあだ、そんな褒めないでよう」

リン「劣化のあとがない」

リンが真顔で言い放った。ミキの表情が「ん?」で固まる。

リン「埃も、劣化のあとも、何も無い。そのままだ」

女「そ、そう。私もそれ思った」

ミキ「ちょ、ちょっと!あんたらまさか、内装を褒めてたんじゃなくて、ボロボロになってないって言いたかったの!?」

リン「ああ」

ミキ「きぃいい!!」

リン「誰かが手入れしてるみたいだな。…生存者か」

ミキ「ちょ、待ちなさいよあんたら。そんなのいないってば」

リン「じゃあ誰がこの状態で店を保つんだ」

ミキ「私以外に誰がいんのよ!!」

女「あ、ミキさんが?」

ミキ「そりゃそうでしょ!?借金してやっと持った自分の店だもん、綺麗にしときたいでしょうが!」

リン「几帳面だな。意味も無いのに」

ミキの表情が、少し曇る。

ミキ「…そーね。綺麗にしてたって誰も来やしない」

女「私達が、来たよ」

ミキ「ふふ」

ミキの唇がわれ、白い歯が輝いた。あ、と思った。

彼は化粧で味こそ損なっているが、端正な顔立ちの青年だったのだ。

ミキ「ふたりとも、そこのカウンターにかけなさいよ。お茶いれたげる」

リン「安全か」

ミキ「もち。自家栽培のカモミールだもん」

そういうと、ミキは滑るようにカウンターの奥に消えていった。奥がキッチンのようだ。

女「リン、座らないの?」

私は天井に据え付けられたシャンデリアを見上げるリンに声をかけた。

リン「お前こそ」

リンは海に面したテラスで突っ立っていた私に返した。お互い、ここを調べる気まんまんなようだ。

リン「…ようこそ、小波のレストラン“marine”へ」

リンがレジ横のパンフレットを取り上げていた。走りよって、後ろから覗く。

リン「店主、イトカワ ミキ…。あ、やっぱあいつなんだ」

指で示す先には、満面の笑みでピースサインをするミキの写真があった。

女「28歳、だって。すごいね若いのに」

リン「ああ」

ん、とパンフレットの可愛らしい字体を凝視する。

女「…オーナー兼、シェフ兼、…ボーカル?」

リン「そう書いてあるな」

リンがページをめくった。

「marineでは、美味しいお料理とお酒だけでなく、ささやかな癒しも提供しております」

「毎日午後8時からは、一旦オーダーをストップさせていただき、店主のステージをお楽しみいただけます」

ステージ。

女「…」

リン「お前、今何を考えてる」

透ける布を纏ってポールに絡みつくミキ。

女「…リンは?」

リン「…」

リンはパンフレットをラックに戻すと、テーブル席のほうへ歩きはじめた。

白い板張りの床が、きしきしと音を立てる。

女「…あ」

海を背にした、大きなガラス窓。

その前に、グランドピアノとスタンドマイクが置いてある小さなステージがあった。

リン「歌、か」

女「えー、すごい!」

私は艶々と黒を放つピアノに近づく。滑らかな曲線に、曲がった私の顔が映った。

ミキ「あらあ、見つけた?」

気づくと、後ろにポットを持ったミキがいた。

女「ミキさん、ここで歌ってたの?」

ミキ「そうよぉー。ベップっていう従業員にピアノ弾かせてね」

ミキの目が懐かしそうに細められた。

リン「でも今はそいつもいないや。私、ピアノ弾けないし…。今では意味の無いものね」

女「そうなんだ」

私は少し目で合図を取ってから、ステージにあがった。

ミキが微笑んで私の動作を見守る。

女「…触っていい?」

ミキ「ええ」

女「…」

まだ楽譜も置いたままのピアノを撫ぜ、そっと白い鍵盤に触れる。

ポロ、ン。

学校のピアノとは違う、重厚で威厳に満ちた音が響き渡った。

リン「高そうだな」

リンの意見は現実的だ。私はそっとイスに腰掛けた。

ミキ「え、女ちゃんまさか」

リン「おい?」

すう、と息を吸い込む。

私は姿勢をぴんと正し、両手を鍵盤に置いた。

ぽろん。

私の指が鍵盤の上で跳ねる。

ぽろん、ぽろん。

美しい音を、紡いでいく。

リン「…」

ミキ「…」

最後に優しく鍵盤を叩き、私は息をついた。

女「いやー、気持ちいいね」

リン「…おい」

晴れ晴れとした気持ちでイスから立ち上がった私に、リンのじとっとした視線が絡む。

リン「…なんだ、それ」

女「猫踏んじゃった」

リン「お前ピアノ習ってたの?」

女「ううん」

リン「だろうな!けどな、この流れでそれはないだろ!」

女「え、なんで?駄目なの?猫踏んじゃった」

リン「猫踏んじゃったに罪はねえよ!悪いのはお前だ馬鹿」

ミキ「…ぷっ」

あははははっ、とミキが豪快な笑い声をあげた。

ミキ「オーケーオーケー。私も一瞬ピアノ経験者かと思っちゃった。オチがすごいわね」

女「えーと、ごめん」

ミキ「いいのよお。楽器なんて見たら誰でも触りたくなるもんね」

そういうと、またお腹を抱える。

女「…そんなに笑わなくても」

口を尖らした私の横で、リンが片頬をあげてにやついた。

ミキ「昔はバンドもやってたんだけどねぇ」

かちゃり、と白い陶器のティーカップをおきながらミキが溜息をついた。

ミキ「全然売れなくってさ、やめちゃった」

リン「そんなもんだ」

女「ふーん」

カウンター席のスツールは少し高くて、足がぶらぶらする。

ぼんやりとミキの精悍な横顔を見ていたら、リンが横で足を組みなおした。

リン「…まあ、とにかくあんたの素性は分かった」

ミキ「そお」

リン「俺たちには色々あんたに聞かなきゃいけないことがある。な?」

女「うん」

リン「…あんたは遊園地にいた子どもとも違う。分別がある。だから、教えてくれ…知ってること、全部」

ミキの指が、ティーカップの縁をなぞる。

ミキ「そうね、いいわ。私も話し相手が欲しかったとこだし」

彼の瞳が、カラーコンタクトの奥で輝いた。

ミキ「…何から聞きたい?」

え?

私が生きてる頃の話、って。

あはは、てっきり生存者のこと聞かれるかと思った。

女ちゃん、変わってるわね。…はいはい、リンの質問にはあとから答えるから。順番。

…そうねー。

私は、生前知っての通り、ここのオーナーをしてたわ。

従業員は5人。結構経営はカツカツだったけど、雑誌にも掲載されたりして、忙しい日々だったわ。

あの日。…あの日はね。

私、…病院にいたのよね。

ううん。近くのじゃなくって、大学病院。

…入院してたの。

1ヶ月くらい前から。…喉頭ガン、って分かる?

あ、よく気づいたわね。そう、この喉に巻いてるのも、ここを保護するためなの。

大手術も控えててさー。折角仕事も軌道に乗り始めてたのに、もうサイアクだったわよ。

そんで、ニュースでいきなりパンデミックが起こったこと、知ったの。

病院はもう、パニックよ。

私、そのとき思ったの。

店に帰りたいな、心配だな、って。

私、気づいたらベップ…。あ、従業員のヒョロい坊ちゃんなんだけど。

そいつにメールしてた。

ベップって変な奴でさ、すごく堂々としてるっていうか、何事にも動じないの。

だからニュース見てても、大して動揺もしてなかった。

ベップ、避難する?って聞いたら、

「いやあ、しないっすよ。どうせどこ逃げても一緒だし」

呆れたけど、こいつらしいなあって思った。

私、ベップに迎えに来てくれるよう頼んだ。

そしたらベップ、一言「死ぬかもしれませんよ」って言った。

私、いいよって返した。

最後に店のことやってから死ねるんなら、本望だって。

ベップは、すぐに迎えに来てくれた。

病院はあわただしくて、抜け出すのは簡単だった。

点滴も医者もないし、なんかダルくてベップの補助なけりゃ歩けなかったけど、とにかく店に来た。

…え?

どうして、って

どうしてそこまでして店に帰ったの?って?

…そうね。それは、ええと。…ナイショ。

まあ、とにかく私はフラフラの状態でここに来た。

店は私が入院してから閉じてたけど、綺麗だった。掃除してくれてたの、ベップが。

私は店の中でラジオを聴いてた。夕方まで、そうしてた。

ベップがさ、「オーナーは逃げなくていいんすか」って聞いてきたけど

なんだろう。私、喉を手術して声帯も取って、で、また転移して。

また手術、…。医者はさ、まだ希望はありますって言うのよ。でも、なんとなあく、そろそろかなって思ってたの。

若いとガンの成長も早いって言うしね。

っていうか、…私、もう死んでたも同然だったのかなあ。

店にも出れない、料理も、接客もできない。

それにもう声なんか出ない。歌えない。

…あと、店を閉める前に「かなしいこと」もあってさ。

だから、もう生ける屍状態だったわけ。

でも、店に来た途端、元気になれた気がした。

だから私、もう病院には戻らなくていいやって思った。

ここでもう時間の許す限り過ごして、んで、死のって。

そう紙に書いて伝えると、ベップは一言、ふうんって言った。

夕方になった。

ベップが、ぼそっと言った。

「俺、生まれ変わってもここで働きたいっす」

なんで?って聞くと、

「なんとなく」って。

まるで今から死ぬみたいねって言うと、

「多分、死にます」って…

いつものベップと変わらない、真顔で言ってきたの。

「俺、来る途中に感染者の体液に触っちゃったんす」

「さっきから頭の中で、じゃぶじゃぶ水の音が聞こえるんですよねえ」

ベップ、本当にいつもと変わらなかったのよ。

どうすんのよ、って聞くとさ。

「いや、もう死ぬしかないっしょ。オーナーうける」

いやいや、死ぬって。え、もう?

「頭痛いし、ヤバいっすね」

軽くない、あんた?冗談でしょ?

「俺、病院にオーナーを戻すなら今しかないっすよ。最終確認ですけど、いいんですね?」



「オーナーが一人で帰れるわけないし、多分もう誰も助けてくれないですよ。皆逃げるのに必死だし」

うんまあ、別に帰らなくていいんだけど

「じゃ、俺とオーナーどっちが早く死ぬか賭けつつ、ダベりましょうか」

笑えないわねえ…。あんたこそ病院行きなさいよ。

「もう無理っすよ。皆、死にますよ」

ベップは微笑んでた。

ああ、死ぬのかあって思った。

嫌だな、って思う人もいるでしょうね。でも、皆死ぬんだもん。

しょうがないな。もう、…。

夕方になって、ベップがいきなり席を立った。

「煙草吸ってきます、オーナー」

お前煙草吸わねーじゃん。って、書こうとしたら、さっさと砂浜に下りてっちゃって。


店からダッシュで離れたとこで、いきなり頭が破裂した。

あのね、綺麗だったのよ。

ベップが最後に振り返って、大きい声で

「オーナー、ごめん。お先に」

って映画か。…叫んだのよ。そしたら、あいつの頭が包まれるみたいに青い液状になって。

ぱん、って。

ベップの頭のない体だけが、砂浜に転がってた。

片付けようかなって思ったけど、触ったら感染するだろうし、ベップもやめろって言いそうで、やめた。

夜が来て。

私はずっと座ってた。

何日経ったかな。ベップのクリアがふよふよ店の外を漂ってるの見たときには、もう動けなかった。

私は、死んだ。

で、起きると、こんなになってた。

あれー?って思ったけどすぐ、ああ、これが「ミスト」だって気づいたの。

うん?まさかあんたら、知らない?

ははーん…。私、結構情報通なのよねえ。

前に来た「生存者」に色々教えてもらった知識もあるし。

よっしゃ、じゃあいっちょ教えてあげますか。

…って、女ちゃん、何!泣いてるの、まさか

ベップが良い奴?そ、そうよね。あいついい奴よ。

…リンは何よ。え?違うわよ!!ベップはノンケよ!!そんなんじゃないからっ!

私の好きなタイプは筋肉隆々で頼りがいのある…

喉の奥と鼻の奥がつんとして、目が熱くなる。

ミキ「あーあーあー、鼻水でてるわよ」

ミキが手を伸ばし、私にティッシュを渡してくれた。

リン「ベップ、ってやつのクリアは?」

ミキ「分かんない。あいつ放浪もんだし、どっか行ったんじゃない?」

リン「そうか、…女、うるさい。泣き止め」

女「ごべ、…ん」ズビ

リン「それで、情報通って言ったな」

ミキ「ええ。結構調べたしね、病気のこと」

リン「是非聞きたい」

ミキ「いいわよ!まず、ええと。タッセルクリア症候群は原因不明の…」

リン「そこはいい。常識の範囲内だ。…ミストとかいうやつに、ついてだよ」

ミキ「ああ、オッケー」

女「…ぐしゅっ」

リン「お前、…はあ。もういい」

ミキ「あんたら、感染者の死体が青いゼリーみたいになるってことは知ってるわね?」

女「トウメ…じゃなかった、クリア」

ミキ「そ。二次災害、クリア。けど、もう一個あんのよ」

リン「…ミストか」

ミキ「うん。ミスト…霧ね。これって結構特殊な事例らしいの」

ミキ「潜伏感染者が発症前に何らかの原因で死亡した場合、死後にはクリアにならず、ミストになるのよ」

ずい、と身を乗り出しつつ霞のような体をした彼が息巻いた。

リン「成る程」

リンはささっとノートにペンを走らせて行く。マメなやつだ。

ミキ「ある怪しげなネット掲示板の噂だったんだけどねー。ソースもなかったしぃ。でもマジだったとは」

リン「死体は、…残るんだよな」

ミキ「そう。何故か生前の姿のまま、腐敗もなにもしないの」

リン「…科学的に、納得がいかないな」

女「それを言えばさ、リン。この病気だって科学じゃ説明つかないよ?」

リン「まあな。お前案外柔軟なんだな…」

ミキ「私は、この姿はユウレイみたいなもんなんじゃないかって思ってるけどね」

リン「生前の記憶、形を宿した思念体、…みたいなもんなんじゃないか?」

女「…」

リン「…いや、理解できないならいい。とにかく、これは幽霊ではなく病気の弊害ということがはっきりした」

女「あ、…。コマリの首にも潜伏感染のアザがあったもんね」

リン「ああ」

ミキ「ま、とにかくこうなって5年ちょいね。でも消えるわけでもないし」

女「遊園地で会ったミストの子はね、お母さんのクリアを倒したら消えたの」

ミキ「えっ、マジ」

リン「ああ。母親の死と何か連動があったと考えてる」

ミキ「…そっかあ」

ふむふむとミキが頷く。

ミキ「…噂、なんだけど。クリアは物理攻撃で死ぬじゃない?」

リン「ああ」

ミキ「ミストは、“生前の未練”を叶えてあげると消えるらしいの」

女「まんま、幽霊だよね」

リン「ああ」

ミキ「うーん、ネット情報も馬鹿にできないわね」

女「ミキさんは、何か未練ってある?」

ミキの動きが一瞬止まる。何かを考えるように、数回瞬きをした。

ミキ「色々心当たりありすぎて、一概には言えないわ」

リン「そうか。クリアの死に連動するんなら、女を使えばいいと思ったんだがな」

女「…リン、ミキさんを成仏させる気だったんだ」

ミキ「おっそろしいわね」

リン「したくないのか?」

ミキ「…考えたことなかったわ。でも、このままじゃいけないとは思うけど」

リン「…ミストに関して知っていることは、このくらいか」

ミキ「ええ」

リン「そうか」

リンがペンをかち、と一回ノックした。伏せていた睫毛を、上げる。

リン「一番肝心なことを聞きたい」

ミキ「…」

ミキの笑みが、消えた。

リン「ここに来た男のことだ」

ミキ「…」

リン「知ってること、全て話してくれ。俺には知る権利がある」

私は、とっくに冷めたティーカップを手のひらで包んだ。

空気が、変わった気がした。

ミキ「キノミヤ・リン」

ふいに、グロスで濡れた唇でミキが呟いた。

ミキ「そうでしょう」

リン「…何で、知っている」

ミキ「彼からあなたのことは大方聞いてる」

リン「やっぱり、…あいつだったんだな。話せ、今すぐ」

ミキ「無理よ」

リンの動きが、電源を落としたように止まった。

女(…え、どういうこと?何でミキさんは、リンの苗字を)

それに、さっきから“彼”だの、“あいつ”だの。

リン「ふざけるな!!」

ミキ「ふざけてないわ。約束なんだもの」

何を話しているの?私を置いて。リン、あいつって誰?

リン「何の約束だ!あいつが俺に何も話すなって、言ったのか!」

ミキ「ええ」

リン「そんなはずないだろ!!」

リン、どうしてそんなに怒ってるの。

女「…」

震えるリンの腕に触れようとする。

リン「…っ」

まるで邪魔な羽虫を落とすように、払われた。

リンの目は、目の前のミキしか見ていなかった。

リン「話せ!!」

ミキ「駄目。あなたには彼のことを何も話せない」

リン「生きてたんだろ、ここに来たんだろ、なあ!」

リンがついに、スツールを蹴ってミキの首元へ手を伸ばした。

女「リ、リン!!」

リン「離せっ!」

女「お、落ち着いてっ。どうしたのよっ」

リン「知ってるんだろ!聞いたんだろ!何で俺には教えられない!?」

ミキ「それが彼の望みだからよ」

リン「だから、…そんなわけ、」

ミキ「私も話さないほうがいいと思う。だから、言わない」

リン「…っ」

女「リン、やめて!!」

リンの固いお腹に腕を回し、必死に力を入れる。

荒い息をしていた。今まで見たリンの表情の中で、一番凶暴だった。

ミキ「落ち着きなさいよ」

リン「…くそ、っ」

ミキ「聞いたとおりの子だわ。大事なことの前では、すぐ理性を失う」

リンが、息を呑んだ。

やがて、彼の腕が力なく垂れた。

リン「…会いたいんだ」

私は、

リン「どうしても、会いたい。駄目なのか」

初めてリンの過去を思った。

ミキ「…話せない、わ」

私に一瞬だって触れさせなかった、彼の過去を。

頭の底が、冷たくなった。

女「…」

ミキ「はぁ」

リンはミキの言葉に呆然としたあと、店を出て行った。

私がいくら声をかけても、振り返らなかった。

頑なに、私の侵入を拒んでいた。

女「…あ、の」

ミキ「やっぱねえ。知らなかったのね、あんた」

女「え」

ミキ「さっきから訳わかんなかったでしょ?彼とかあいつとか」

女「う、うん。全然分かんない」

ミキ「教えてないんだ、…ふうん」

女「…」

ミキ「ヤなかんじよねえ」

女「あ、…。誰にでも、話したくないことは、あるから」

ミキ「でも、あいつは全くの素性を伏せたままあんたを旅に連れまわしてんのよ」

ミキさんがリンのひっくり返したカップを、そっと手に取った。

ミキ「…自分の望みを果たすだけの旅、に」

女「…」

リンは言っていた。

生き残りを探す旅、だと。

私は勿論それを信じたし、疑う余地なんかなかった。

でも、実際はこうなのだ。

「リン」は、「彼」を探している。

嘘、と言えるような、言えないような微妙な違い。

私には言わなかった、彼だけの秘め事なのだ。

女「…彼って、誰ですか」

ミキ「リンの知り合い。…それ以上はいえない」

女「…」

小さなしこりが胸にできたようだった。

何で?言えば良いじゃないか。こういう人を探してるんだって。

そうしたら私も協力した。でも、リンは一切の情報開示を拒んだ。

自分の目的を、自分の胸だけに秘めたのだ。

それって、さ。

女「…私に、言いにくいことなの、かな」

胸の中が凝り固まって、冷たいし、苦い。

ミキ「そうなんじゃない?」

女「…」

ミキ「あの子と会って、長いの?」

女「まだ、一週間くらいだけど」

短いからか。何年も旅をしていれば、彼は全てを語ってくれただろうか。

…そうは、思えなかった。どうしても。

女「…」

ミキ「悶々としてる?」

女「かなり」

ミキ「嘘つかれてたんだもんねー」

嘘、というには少し遠い。

話してすらくれなかったんだから。

女「その、彼ってリンにとって大事な人なのかな」

ミキ「あの剣幕と執着具合からして、そうね」

女「…」

リンに対してのモヤモヤは、勿論ある。

けど、

女「ぜ、是非…。教えてもらいたいんですけど」

ミキ「えぇー?女ちゃんまで?」

女「お願いしますっ。だって、リンがどうしても会いたい人なんでしょう?だったら」

ミキ「やだー健気ー」

女「リンに話しづらいんだったら、私にでもいいんで!お願いします」

ミキ「…うーん」

ミキが腕を組んでうむむ、と考え込んだ。

ミキ「いや、まあさ、ダチっていったって一緒にいたの2ヶ月もないのよねえ」

ミキ「そんな奴の約束を律儀に守るってのも、うーん」

女「お願いします」

ミキがほう、と息をついた。

ミキ「…じゃあ、私の言うこと聞いてくれる?」

女「え」

ミキ「お願いがあるの」

なあ、リン

この世界には俺ら以外いなくなったのかな

なあ、リン

俺にはさ、守るべきものがいっぱいあったんだよ

もう、何も無い

だから、リン

お前は後悔しないように生きてくれ

大事な物を、絶対に見失ったりしないでくれ


リン「…」

女「リン」

リン「ん」

女「そんなところにいたんだ」

リン「ああ」

リンは防波堤の上にぼんやりと腰掛けていた。遠く沈んでいく夕日のオレンジが、瞳に燃え移っている。

女「ミキさん、話してくれるかもしれないってさ」

リン「!」

たちまち、瞳の色が黒に戻る。

リン「本当か」

女「ただし、条件付らしいけど。…行く?」

リン「当たり前だ」

ミキ「来たわね坊や」

リン「条件って何だ。早く話せ」

ミキ「まあまあ落ち着いて。女ちゃん、お使いありがと。二人とも座って」

私達はうながされるまま、ミキさんに向かい合って座る。

ミキ「色々考えたんだけど、結局私ってダメなのよねー」

ミキ「友人との約束より、私欲に走っちゃうの。ごめんね」

リン「好都合だ」

ミキ「…個人としては、リンに何も伝えないほうがいいとは思ってる」

リン「前置きは言い。早く」

ミキ「ええと、私には彼から貰った資料があって、その上彼の行き先を知っている」

リン「…」

ミキ「取引よ。彼の行き先と資料、全てあんたに引き渡す。その代り」

女「うん」

ミキ「…私に、歌わせてほしいの」

はあ、とリンが隣で鋭い声を出した。

リン「勝手に歌えよ」

ミキ「せっかち!色々事情があんのよ」

ミキ「私がミストになったとき、生前は出せなかった声が元に戻ってた」

リン「ああ」

ミキ「でもね、どうしても歌だけは歌えないの」

女「どういうこと?」

ミキ「見てて。……」

彼の喉から、たっぷりの空気に若干の雑音を含んだ透明な息が漏れた。

ミキ「今、歌おうとしているの。でも、声が出ない」

リン「嘘つけ」

ミキ「マジよ!!喉が塞がったみたいになるんだもんっ」

リン「知るか。俺たちは医者じゃないし、歌手でもない。お前のスランプは治せない」

ミキ「心当たりがあんのよ。あのね、このステージを綺麗にして、私の衣装も手直しして」

ミキ「生きてた頃みたいに、夜にステージができたら…。聞いてくれる人がいたら…。多分、歌えるの」

女「そうなの?」

ミキ「勘だけど」

リン「ふざけるな」

ミキ「ああーら?ふざけてなんかないわよ?ま、いいけど。やんないんなら」

リン「やる」

ミキ「でしょうね」

リン「じゃあ、さっさとステージを掃除して服を着替えろ。そして歌え。そして情報を渡せ」

ミキ「あのねえ!」

ミキ「あんたらがやんのよ!当たり前でしょ」

女「リン、下手に出ないとやっていけないよ」

リン「…」

ミキ「そうそう、女ちゃんの言うとおりよ。あんたには謙虚さが足りない」

リン「…分かった。でも急ぐ。手伝ってくれるな、女」

女「うん」

リン「とにかく、前のようにすればいいんだろ。やってみる」

ミキ「よし、契約成立ね」

ミキが出した手を、リンは握らなかった。代わりに私が握った。

ミキ「ま、とにかく今日は遅いからゆっくり休みなさいよ」

女「そうだね、リンも運転で疲れたでしょ?」

リン「別に」

ミキ「そこは素直に休みなさいよ!ガキらしくないわねえ」

リン「黙れ」

ミキ「…ねえ女ちゃん、こいつと旅するの苦痛じゃない?」

女「え?ううん」

ミキ「…どえむね」

女「?」

店の奥に、従業員の使っていた休憩所があった。

布団と必要なものを運ぶと、ちょっと居心地のいいホテルみたいになる。

女「すごいねー。スタッフルームにも凝ってるなんて」

リン「ん」

女「…」

ランプの光がリンの顔に陰を作る。リンは、手帳に目を落としていた。

女「リン」

リン「何」

女「…誰を探してるの」

リンが顔を上げた。簪を取った彼の髪が、頬にまばらにかかっている。

リン「知り合いだ」

女「…名前は?その人とどういう関係だったの?」

リン「…」

リンが髪を耳にかけ、私をじっと見る。

リン「言う必要がない」

彼の言葉は静かだった。でも、今までで一番厳しい響きがあった。

女「必要がない、って。…何で?」

リン「今まで黙っていたことは、謝る。けど、お前に言う必要は無い」

女「だから、何で」

リン「関係ないからだ」

カンケイナイカラダ。

女「…」

私は、

女「…そ、っか」

へらりと笑った。

女「ま、色々あるもんねー」

リン「ああ」

女「でも、その人に会いたいんでしょ?…会えると、いいね」

リン「そうだな」

女「私も、…手伝えることあったら、言ってね?」

リン「いや。迷惑がかかるから、お前はそのままでいい」

女「…」

メイワクガカカル。

女「…」

「ふたりともーっ、ご飯できたわよーっ」

リン「だってさ。行くか」

リンは何でもないように立ち上がった。その目の静かさから、私は

女(あー)

女(本気で、言ってるんだな)

絶対に、絶対に

女「…うん。行こう」


リンの本音には触れさせれもらえないのだ、と理解した。

ちょっと落ちます!
二人の関係性にヒビが入ってきたね

リン「なんだこれ」

レストランの一番大きなテーブルに広げられた光景を見て、リンが言葉を漏らした。

…私も概ね、この言葉と同じことを考えていた。

ミキ「何って、ウェルカムディナーよ!どお?」

白いテーブルに所狭しと並べられた、大量の料理。そして、ドリンク。

女「うわ、美味しそうーー!」

すっごくいい匂いだし、盛り付けも完璧だ。

女「これ全部、ミキが作ったの!?」

ミキ「もち」

女「すっごい!!めちゃくちゃ美味しそう!」

丸々一匹のチキンに、大鍋に入ったシーフードのスープ、それから香ばしい匂いのするパン…

リン「待て」

今にも飛び掛らんとする私を、リンの固い腕が制した。

リン「怪しいな。何でこんな新鮮な食材が手に入る」

ミキ「あら、その気になれば釣りでも素潜りでも、魚は手に入るわ」

リン「この鶏は」

ミキ「私がもともと飼ってたやつがね、野生化して裏の山にいっぱいいんのよ。それシメた」

リン「牛乳もあるな。5年前のを使ったのか?」

ミキ「農家の牛が野生化して…以下略よ」

リン「女っ、まだ食べていいとは言ってないだろ!」

女「あだっ」

リンが、ベリーのジャムを掬い取って舐めようとしていた私の腕をはたく。

リン「本当に安全なのか?」

ミキ「信じてよお。私これでも、ちゃんと調理師免許もあるんだから。国家資格よ?」

リンがまるで毒を慎重に審査するように、料理に鼻を近づけた。

女「リン、大丈夫だよー。いい匂いだし、早く食べよう」

リン「お前は警戒心がなさすぎるんだよ」

女「ミキさんにも失礼だよ!もういいから、食べようってば」

リン「…」

リンはやっと安全を確認し終えたのか、席についた。

ミキ「さてさて、今晩はご来店いただきありがとうございます」

嬉しそうに上気した頬で、ミキが微笑んだ。

ミキ「では乾杯しましょう!オレンジジュースでよかったわよね?」

多分自分の手で絞ったのであろう果汁を、丁寧にグラスに注いでくれた。

ミキ「んじゃ、かんぱーい!」

女「かんぱーい!」

かちゃん、と3つのグラスがシャンデリアの光の下でぶつかり合った。

憮然とした表情のリン、子どものようにわくわくとした顔をするミキ。

その対比が面白くて、私はくすっと笑った。

ミキ「さ、食べて食べて。いっぱいあるんだからねっ」

女「はーい!」

リン「どうも」

ミキはせっせと料理をとりわけてくれる。

お母さんみたいだな、と思った瞬間、胸が温かくなった気がした。

ミキ「いやー、久々に接客できると思うと胸が躍るわね」

女「ミキは食べないの?」

ミキ「あ、いらないのよー。飲食は必要ないの」

リン「だろうな」

ミキがついでくれたスープを一口飲む。

女「…」

私は目を見開いた。

舌の上に、長らく忘れていた感動が甦る。

女「…うまっ」

リン「美味しいな」

あのリンも、スプーンを握ったまま素直に頷いた。

ミキ「あらぁ?そう?よく言われるわ」

女「え、すごい!めっちゃ美味しい!プロみたい!!」

ミキ「プロじゃ!!」

私は夢中で手を動かし、ご馳走を摂取していった。

今まで食べていた冷凍食品とか、缶詰とか、そんなものに慣れてしまった舌にとって

ミキの料理は麻薬に近かった。もう、ダメだ。私は二度と保存食品を食べられないかも。

男娼とかエルフ書いてた人かな?別の人ならごめん

>>379 男娼と食人鬼の話書いてた奴です!よく気づいたね

女「し、幸せ…」

震えが出るほど、感動した。

ミキ「女ちゃん、本当に美味しそうに食べるわねー。嬉しい」

リン「単純だからな。子どもっぽいし」

女「そういうリンだって、いつもより食べるスピード速いよ」

リン「普通だ」

ミキ「…」

ミキは頬杖をつき、宝石でも見るみたいに私達を眺めていた。

ふと、目が合った。

ミキ「…いっぱい食べてね」

ミキの微笑みは、美しかった。

女「…うんっ」

私は、自分の頬が少し熱くなるのを感じた。

ん?何でだ?よく分からない、けど。

リン「…」

女「おいしいねー、リン」

リン「ああ」

結局、私は何回も何回もおかわりを繰り返した。

おかわりを要求するたび、ミキが嬉しそうにぎゅっと目を細めて笑う。

リンも、いつもよりたくさん食べていた。

食べ過ぎると体が動きづらくなるから、程ほどにしておけーって言っていたくせに。

女「…はぁ、もう無理」

リン「俺も、ごちそうさま」

お腹が破裂しそうだ。確かに、これじゃあクリアが来ても動けないかも。

苦しいけど、幸せな苦しさだった。

ミキ「いやあ、本当にいっぱい食べたわね。成長期ねー」

リン「どっちも二次性長期は過ぎてる」

ミキ「あら、そうなの?あんたら何歳なの」

リン「俺は16、こいつは18」

ミキ「えええええええええっ!?お、女ちゃんが年上だったのぉ!?」

女「うん」

ミキ「いや、全然見えない…。確かに背は若干女ちゃんのほうが高いけど」

女「ど、どういう意味」

リン「ガキっぽいもんな、お前」

女「リンこそ!…」

リンのガキっぽいところ、を探そうとしたけど、…そんなもの無かった。

女「もう、いい」

ふてくされる私の顔を見て、ミキがのけぞって笑っていた。

女「はー…。楽しかった」

ぼふん、と布団に沈み込む。

ご飯を食べた後は、ミキと一緒にトランプをして遊んだ。

…ババ抜きだったんだけど、私は恐ろしく弱いことが判明した。

リンは真顔でジョーカーへと誘導してくるので、ミキすら勝てていなかった。

リン「つかれた」

リンが横で、シンプルな感想を口にする。

女「私のほうが疲れたもん…。最下位はバツゲームで乾燥唐辛子食べさせられたし」

リン「傑作だったな」

女「まだ舌びりびりするもん」

口を尖らせていると、ドアがノックされた。

ミキ「やっほー。どう、ここ寒くない?」

女「ううん、大丈夫だよー」

ミキ「…おい、待てぃ」

ミキの表情が、布団にあぐらをかく私とリンを見たたまま固まった。

ミキ「…あんたら、二人で寝るの?」

女「え?」

ミキ「どうなのよ、それ」

た し か に 。

麻痺していたのか何なのか、私はリンの隣で眠ることが普通になっていた。

いや、だってリンだし。リンなんてもう、ほら。何も無いでしょ。あるわけないでしょ。

リン「諸事情により、寝るスペースは今まで一緒だった」

ミキ「成る程…」

リン「変な勘ぐりを入れるな。俺はこいつに何もされていない」

女「何で私が“する”側なのよ!逆でしょ!?」

リン「うるさいな…。何か問題でもあるのか、これ。いいだろ」

ミキ「いやいやいやいや、女ちゃん的にどうなのよ!?」

女「え?…あー、ど、どうだろう。今までなんとも思ってなかった」

ミキ「16歳だよ!?16歳の異性とすぐ隣で寝るんだよ?」

女「う、嘘。最初はちょっといいのかなあって思った。けど、リンだし」

リン「ああ、何も起きるはずないだろ」

断言されるのも何だか悲しい気がするけど。

ミキ「はー…。ま、リンならまぁ…」

ミキはやっと納得がいったのか、ふむふむと頷きながらドアを閉めようとした。

ミキ「んじゃ、まあおやすみなさい。でも女ちゃん、気をつけなさいよ。男なんて皆」

ぼふっ。

ミキ「ぎゃっ!?」

リン「消えろ」

リンが枕を投げつけた姿勢のまま鋭く言い放った。

ミキ「ったーい…。乱暴者!!ばぁああか」

ミキは子どものように舌を出すと、荒々しくドアを閉めた。

リン「ったく」

リンは枕を拾い上げ、さっさと自分の領地に戻っていく。

女「…」

リン「うるさい男だなあ、あいつ」

女「い、いや。男っていうか」

リン「さっさと寝るぞ。明かり消していいか」

女「え、あ、」

私は布団の上に座ったまま、固まる。

よく見たら、リンが近い。腕を伸ばせばすぐに体が触れ合うし。

それに、あれだ。リンの力ならどんなに離れていたって、簡単に…

リン「おい」

女「ひゃっ」

リンが長い髪と顔をかたむけながら、私の顔を覗き込んでいた。

リン「どうかしたか」

女「あ、ううん。何でも、何でもない」

リン「ふうん」

リンの髪がさらさらと音を立てる。

パジャマ代わりにしている若干だぼついたYシャツから覗く、雪みたいな首筋とか、鎖骨とか。

とか。

女「…」

私は、大丈夫だろうか。 寝ているとき、何か変なことになっていないだろうか。

リン「何見てんだ」

女「み、見てないよ」

リン「…」

リンが背を向けて、布団にもぐりこむ。女性的な繊細さをもつうなじが、見えた。

何を考えているんだ、私は。今まで何とも思ってなかったじゃないか。リンだぞ、リン。

あの堅物が何かモーションをかけてくるわけないじゃないか、自意識過剰だ。

それに私なんか全然可愛くないし女っぽくないし体つきだってちんちくりんだしそれからそれから

リン「なあ」

女「はいっ!?」

リンがもぞ、と体の向きを変えてこちらを見る。

切れ長の目が、こちらを流し見るみたいに細められた。

リン「気にしてるのか」

女「な、にを」

リン「ミキの話」

女「え、…」

リン「でも、しょうがないだろ?車の中じゃスペースもないし」

女「き、気にしてないよ?」

リン「ふうん。俺もそうだ。気にしたこと無い」

女「う、うん。だろうね」

リン「でもそれは、俺がこういう性格で、男だからだ。異性の気持ちなんか分からん」

リンの目線が、痛い。私は自分の膝を凝視することに決めた。

ああ、そういえば私は何でショートパンツなんか履いてるんだろう。いくらなんでも、女性として…。

リン「…」

ふっ、とすぐ横で空気の漏れる音がした。

笑ったのだ、リンが。

いつもとは雰囲気の違う、なんだか、その、とにかく違う空気を纏った微笑で、私を試してるみたいに。

心臓の音が、耳元で暴れまわる。

リン「…寝ろ」

リンは、電気を消した。

…翌日、ミキの元気な声で起こされた。

目が充血してるわよ、それにクマがある!…とミキに指摘された。

女「…」

顔を洗って鏡を見ると、確かに。

そこには寝不足の私の顔があった。

女(…何だったんだ、あの笑い…)

ミキ「おーんなっ」

女「うわっ!?」

ミキ「ね、朝ごはんに使う卵をとりたいから手伝ってくれない?」

女「う、うん!勿論」

…。

私は鏡の前で、一発頬を叩いた。

女(くだらない考えはよそう。ただでさえリンに鬱陶しがられるんだから)

はい、ナシ。昨日の全部ナシ。忘れよう。

店の外でミキが呼んでいる。リンが傍らで、だるそうに欠伸している。

…あくび?

リン「遅い」

リンのとろんとした目が、眠そうに何度か瞬いた。

女「…」


私は何も見ていない。

一旦切ります

食人鬼の人かな?

>>390
イエス

ミキ「よし、ゲットー」

鶏の巣から、ミキが卵を取る。

産みたての卵がつやつやと朝日を受けて輝いていた。

ミキ「はい、カゴに入れるわね。割らないでよ」

リン「はいはい」

女「…んしょ」ガサ

私はというと、精一杯の背伸びをして栗をもごうとしていた。

落ちたのを拾おうと思ったのだが、虫食いだらけですでに使えなかった。

ミキがモンブランをおやつに作ってくれると言ったのだ。手にイガが刺さろうが、取るしかない。

女「ぐぬ…」

しかし、高い。全然届かない。

太い枝に脚をかけ、精一杯腕を伸ばす。ちりちりと筋が痛み、攣りそうだ。

女「…っ」

リン「何してる」

リンが少し下で、呆れたように声を出した。

女「な、何って。栗を」

リン「下の拾えよ。こういう実のほうが食べごろなんだぞ」

女「…虫に食べられてたり、動物が中身持って行ってるんだ」

リン「ふうん」

リンが目を細めて私を見上げる。と。

女「うわ!!?」

腰に、いきなり温かな違和感を感じた。体が震え、少しバランスを崩す。

女「な、に!」

リン「いや、支えてやろうかと思って」

リンが真顔で返した。腰を見ると、リンの腕が私の腰に添えられていた。

女「い、いい。自分でできる」

リン「できてないだろ」

女「手、離してよ。大丈夫だから」

リン「ふうん」

リンの手が、するりと私の体の上を滑って下ろされた。

顔が、熱い。

リンに腕をつかまれたり、抱えられたり、色々今まで接触はあったはずなのに

今は、なんだか、…どうしてもダメだ。

女「…っ」

伸ばした手に、固い棘が刺さった。

気にせず何個か取り、急いで下に下りる。

女「…カゴに入れていい?」

リン「ん」

ぼとぼと、とリンの持つかごに栗を落とすと、

リン「…手、大丈夫か」

リンの細い指が、私の手を絡め取った。

女「…っ」

思わず、力をこめて引き抜く。

リンはきょとんとした顔でこちらを見た。

女「あ、大丈夫、だから」

リン「そう」

女「…」

目玉焼きとベーコンをトーストに乗せた朝食を済ませた後、ミキがおもむろに口を開いた。

ミキ「さて、ちびっこたち」

リン「その呼び方をするな。二度と」

ミキ「んもう、固いわねー。あのね、早速私のステージの準備をしてほしいのっ」

女「うん」

ミキ「ええと、まず女ちゃんは私の衣装の手直しをして欲しいの」

女「私、お裁縫得意だよ!」

ミキ「良かった。リン、はねー」

ミキが赤い爪をリンに向ける。

リン「…何だ」

ミキ「特別なお願いがあるの。あんた、強い?」

リン「体力に自信はある」

ミキ「だと思った。身のこなしが普通じゃないもん。…それを見込んで、なんだけど」

ミキがリンの耳に口を寄せ、何かこしょこしょと言った。

リンの眉がひそめられる。

リン「何で?」

ミキ「んふ、どうしても」

リン「…必要なことなら、やるが」

ミキ「お願い。よろしくね」

ミキの言葉に、憮然とした表情のままリンが立ち上がった。

リン「ったく、…面倒な」

ミキ「大変だと思うけど、よろしくねー」

リン「ああ」

リンはそのまま、店から出た。

女「…何?リンはなにするの」

ミキ「ないしょ」

女「えー…」

ミキ「まあ、大丈夫よ!心配しないで。女ちゃんはさっさと衣装の手直しをしてよね」

女「うん」

私は余韻を残すように揺れる玄関のベルから、やっと目を離す。

ミキ「それに、リンと離れたほうがいいでしょ?」

ミキが耳元で、小さく囁いた。思わず、身を引く。

女「な、んで」

ミキ「えー。倦怠期っぽかったから」

女「なにそれ!…カップルじゃないんだから」

ミキ「ふふーん」

ミキがふわふわと私の周りを旋回し、勘ぐるような目線を向けてきた。

女「も、もう。やめて」

ミキ「さ、着いてきて」

ミキが私の前を泳いでいく。彼の履くヒールの繊細さに思わず見入る。

私はミキに続いて、スタッフルームの奥まで歩いていった。

ミキ「えっと、ここなんだけど」

女「うん」

白いドアの前で止まったミキは、ふとこちらを振り返った。

女「…?どうかした?」

ミキ「ええ、と。その…。私ね、ここに入れないの」

女「は、い?」

ミキ「見て」

ミキが青い血管の浮いた手を伸ばし、ドアノブに触れた。

いや、…触れてはいない。彼の手は金のノブをすっと通り過ぎた。

女「ええっ!?」

ミキ「このドアだけ、触れないのよー。死んでから一回も入ってない」

女「そんな、急に幽霊的な設定を…」

ミキ「何だかね、こう、この部屋の前では居心地も悪くて」

そういいながら、睫毛を伏せる。少し長い手入れされた爪を、いじっている。

女「…そっか、分かった。じゃあ私一人で行くね」

私はミキの肩にそっと触れたあと、ドアノブに手をかけた。

ミキ「あのね。ここ、私のパウダールームなんだけど。…白いカーテンがかかってる奥に、トルソーがあって」

女「うん」

ミキ「そこに衣装が、かかってるから…。えっと、できれば化粧品も持ってきて」

女「分かった」

ミキ「それと、…」

ミキの少し茶色がかった目が、じっと私を見つめた。

女「…なに?」

ミキ「あのね、…びっくりしないでね」

それだけ言うと、ミキはそっとドアの前から退いた。

女「…?」

私は冷たいノブに手をかける。ぎい、と少し錆びた音がして、ドアが開いた。

中は、しんと冷えていた。

ミキが入れないせいか、中は結構ほこりっぽい。

けれど、可愛らしいドレッサーやたくさんのハンガーにかけられた服を見て、ちょっと心が和んだ。

女「お洒落さんなんだな、ミキ…」

結構きわどい衣装もあって、声を出して笑う。リンに見せたら眉間にシワを寄せそうだ。

女「えーと、…白いカーテンの奥、と」

きしきしと音を立てる床を踏みしめ、歩く。

女「あ、これか」

私はカーテンで仕切ってあるスペースの前で立ち止まった。

ミキはきっとここで着替えていたのだろう。

女「よ、っと」

滑らかなカーテンに手をかけ、

しゃっ。と、開く。


女「…え、」


私は、その姿勢のまま固まった。


女「ミ、キ…?」

そう。

ミキだ。

黒いトルソーにかけられた、マーメイドラインの衣装。

その裾を握って、倒れているあの人影は。

女「…」

ぴくりとも動かず、眠るように目を閉じた、ミキだった。

一歩、後退する。

触れたら、「なに?」といって目をこすりながら起きそうな、

でも、呼吸をしていない、彼。

女「ミ、…キ」

口の中が乾き、鼻の奥がつんとした。

女「…」

でも、ぐっと我慢した。

ミキはこれを忠告してくれたのだな。

女「…ここで、死んだの?」

そっと語りかけると、私の息でドレスが揺れた。

美しい服だった。うっすらと青く透けた生地、全体にかかったラメと、パール。

女「…最後に、これを着たかったのかな」

答えは、ない。

女「借りるね、ミキ」

私は彼の耳にそっとささやくと、服を丁寧にトルソーから外した。

握られた裾も、そっと引き剥がす。

ミキの手は、その形のまま硬直していた。

女「…」

鼻の奥が、つんとした。

女「…取ってきたよ」

ミキ「ありがと」

ミキは廊下に背を預け、うっすらと微笑んで私を迎えた。

ミキ「ごめん。…嫌な物見せちゃって」

女「ううん」

嫌ではなかった。ミキは綺麗だったし、ただ、ただ。

ミキ「私ね、最後の最後にどうしてもあの服を着たかったの。お気に入りだったから」

ミキがあはは、と空笑いしながら頬をかく。

ミキ「…でも、裾に手をかけて引っ張ったとき、限界が来ちゃったんだ」

女「…」

目の前の、天女が着るような淡い美しい衣。

ミキが最後にどうしても欲した、たからもの。

ミキ「だからさ、ほら。引っ張ったからほつれちゃってるでしょ?ここの飾りも取れそうだし」

女「…そだね」

ミキ「女」

女「…」

ミキがふわりと空を滑って、私の目の前に立つ。

ミキ「泣いてるの?」

女「泣いて、ないよ」

私は奥歯をかみ締めて、声が震えないよう精一杯力を入れた。

ミキ「…」

女「泣かないよ、ミキ」

ミキ「…女は優しいのね」

ふわり、とした温かさが頭に注がれた。気づけば、私はミキの胸に抱き寄せられていた。

ミキ「…良い子ねえ、あんた。本当。ありがとう」

女「…」

ミキの手は、透けていて重さも拍動もない。

けど、確かに微かな温かさがあった。

ミキ「よしよし。大丈夫、私はここにいるから。あんなの、ただの抜け殻よ」

女「ミ、キ」

ミキ「んー?」

女「ごめん、ね」

ミキ「え、何を謝ることがあんのよー」

女「だって、だって」

ミキの人生最後のお願いを叶えてあげられてたら、どんなに良かったか。

ミキ「ありがと、女」

ミキの手が、何度も何度も私の髪の上を滑る。

その優しさに、私は、少しだけ顔の力を緩めた。

涙が一粒、頬を転がり落ちた。

「…なにやってる」

ミキ「うおっ」

女「わ、っ!?」

前方から、ぶすっとして機嫌の悪い声が飛んできた。

リン「ふーん。…」

リンは顎を上げて目を細め、抱き合う私達を見た。

ミキ「なによお、もう帰ってきたの?」

リン「バイ・セクシャルって便利なものだな。女性もさぞ油断するだろう」

女「あのう、何を言ってるのリン」

ミキ「やあだ誤解よー。女ちゃんがベソかいてたから慰めてあげた、だ、け」

そう言うと、ミキは一層私をきつく抱きしめた。平たい胸に頬がつく。

リン「…」

リンは一層眉間にシワを寄せた。

女「ちょ、ちょっとミキ。もういいってば」

リン「だそうだ」

ミキ「はーい。恥ずかしがらなくていいのに」

女「そ、そういうことじゃなくて」

私は静かに解かれたミキの逞しい腕を、少し名残惜しい気持ちで眺める。

女「…」

横から、じっとりと絡む視線を感じた。

女「…な、何?」

リン「別に」

リンが髪を揺らしてそっぽを向く。完全に何か誤解をしている。

女「あの、本当に慰めてもらっただけだから」

リン「はいはい」

若干のわだかまりを残したまま、私達はダイニングに移動した。

大きなテーブルに衣装を広げる。

女「あ、本当だ。ここの飾り取れかけてるし、…縫い直さなきゃね」

ミキ「できそう?」

女「余裕よ」

リン「本当にお前がこれを着てたのか?」

ミキ「そうよ!頭にはリボンつけてねー、あと奮発して買ったブラックパールのネックレスもつけてた」

リン「あっそ」

リンは冷たく言い放つと、私に向き直った。

リン「どれくらいでできる?」

女「えーと、半日あれば綺麗にできるよ」

リン「そうか。…ミキ、俺はもう少しかかりそうだ。明日には終わる」

ミキ「あら、そう」

ミキは目を細めて頷いた。

女「…」

リン、何をしてたんだろ。

ミキ「んじゃ、あとは任せるわね。私、おやつの仕込みしてくる」

らららー、と鼻歌混じりにミキはキッチンに消えていった。

女「ねえ、リン」

リン「ん」

女「…ちょっと、外で話さない?」

リンの指がぴくりと動く。 少しの間を置いて、彼は小さく頷いた。

二人で階段に腰かけ、砕けては散り、砕けては散りを繰り返す波を見つめる。

女「…ミキの、体があった」

死体という表現は使えなかった。

リン「そうか」

リンの返答は静かだった。目には、海が映っている。

女「…やっぱ、綺麗だった」

リン「不思議だな」

女「試着室の中に倒れてたの。最後にあのドレス、着たかったって」

リン「その前に力尽きたのか」

女「うん」

リン「そう」

ざざ、ん。と二人の間に海の音が響く。

リン「だから泣いてたんだ」

女「…うん」

リン「お前らしいな」

ふっと片頬でリンは笑った。

女「リンなら、泣かないの?」

リン「ああ」

力強い肯定だった。 予想通りの答えだ。

リン「無く意味が無い。所詮あまり関わりの無い人物だからな」

女「冷たいよ」

リン「お前が感受性豊かなだけだな。いかにも女性ってかんじだけど」

女「…やっぱ、冷たい」

リン「そうか?」

ふと、気になった。

私が死んだら、彼は泣くのだろうか。

女「…」

いや、考えても無駄だ。私は死なないし、…多分。リンは、…。

女「ねえ、リンはどこに行ってたの」

リン「そこらへん」

女「…何で教えてくれないのよ」

リン「なんかあのオカマが話すなって言うんだよ。ってか、俺もよく理解はしてない」

女「オカマ、って。…ねえ、リン。お願い」

リン「…近くの、小さい駅まで行ってた」

女「駅?」

リン「探し物があるんだとよ」

女「…ふうん?」

リン「まあ、そんなとこだ」

女「…あのさ、リン」

私は、この流れでなら聞ける気がした。

「リンの探す人」のことを。 ずっと、知りたかったことを。

女「リンはさ、誰を…」


口を開いた瞬間だった。

私の手に、温かく脈打つものが重ねられた。

女「…、」

目で追うと、リンの白い手が階段の縁を掴む私の手に、重ねられていた。

リン「手が冷たい」

苦情のように、リンが呟く。

女「…な、」

私は急いで手を引き、逃げようとする。

しかしリンはそれほど力を入れている風でもないのに、私の手を逃がさなかった。

リン「急にどうしたんだ」

首を傾けて、私の顔を覗き込む。

女「リ、リンこそ!何で急にこんな」

リン「そうじゃない。何で俺に色々聞きたがる。それに」

それに、と呟く彼の息が顔にかかった。

リンの顔がかなり近くにあることを、初めて理解した。

リン「…避けてる?」

女「そ、そんなことない!!!」

リン「ふうん」

リンの手に力が篭る。私の手首が、ざあざあと音を立てた。

…血が激しく体中を駆け回る。

リン「やっぱり、様子がおかしい」

女「おかしくないよ」

リン「いや、おかしい」

女「リ、…リンこそ、おかしくない?」

リン「はあ?」

女「こ、こんなベタベタ触ったりしなかったし、私に馴れ馴れしくしなかったじゃん」

リン「…」

くす、とリンが笑った。目元が細まり、優しげな色を帯びる。

リン「そりゃ、慣れるだろ。一週間近く一緒にいれば」

女「…」

リン「お前は逆に俺から距離を取りたがってるな」

女「だから、そんなこと」

…否定が弱々しく、掻き消える。

リン「俺が男だから?」

リンの声が少し低くなった。口元は笑ったままだが、目が伏せられている。

女「違う、…そ、そうじゃなくって」

リン「…」

ふいにリンの指が動いた。私の肌の上を這い、爪にたどり着く。

女「あ、あの?」

リン「…」

リンの指先が、そっと私の爪の上を滑る。

リン「避けないで」

小さな声で、彼は言った。

私は手のひらに汗が滲むのを感じた。

リンが顔を上げて、私の目を見つめた。

吸い込まれそうな目だな、と思った。

真っ黒で、真っ暗で、真っ直ぐだ。

女「…避けて、ないってば」

リン「またそう言う」

子どもをとがめる父親のような声音で、私に言ってくる。

女「…」

リンこそ、と言いたかった。

私に自分のことを話すの、避けてるじゃないか。

リン「避けないで欲しい」

また、リンが言った。

断ったらそのまま海に呑まれて消えてしまいそうな、そんなお願いだと思った。

女「…ええと」

私は、結局自分の思いをかき消す。

女「うん、…確かに、避けてるというか。ミキの指摘で若干意識しちゃってた、かも」

リン「だと思った。何度も言ってるだろ、俺はお前をそういう目で見るわけないって」

女「だよねー」

リン「馬鹿だな、お前」

女「じゃあ、その。やめる。ギスギスさせてごめん」

リン「良い、別に。発端はあのゲイだし。後で苦情入れとく」

女「それもどうかと…」

幾分かスッキリした顔で、リンが立ち上がった。

リン「帰るか。何か食わせてもらおう」

女「…うん」

私はリンに手を引かれるまま、立ち上がった。

今日はここまでです。
また期間開くかもだけど、気長に待ってね

ID変わってますが1です
お待たせしました!

…それからというもの。

私達はミキの要望にこたえるため、せっせと働いた。

私は終日窓辺でミキのドレスを縫い、疲れたらミキとお茶なんか飲みながらおしゃべりした。

ミキの話は相変わらず面白く、視点が鋭くて。

ちょっとだけ、色気のある話なんかもした。

ミキが口元を少し曲げて私に「女は彼氏なんかいたことあるのお?」

と聞くたび、私は、なんとなく

いや

なんでもない。


リンは相変わらず朝方にふらりと外に出て行っては、昼に戻り、少し休んでまたどこかへ行った。

たまに、ミキと二人で額を寄せ合わせてこしょこしょと話をしていたりする。

仲間はずれ。とまではいかないけど、まだ少し気になる。

でもきっと、リンは私がしつこく言及したら、また微妙な表情をするのだろう。

そういえば、私達二人は結局また同じ部屋で寝ている。

遠いようで、近いようで、…やっぱり遠い。そんな少年と一緒に、私は眠るのだ。




まあ、そんなこんなでミキの所に身を寄せてから5日が経とうとしていた。

リン「裁縫得意って言ってたよな?」

女「うん」

リン「…半日で終わるとかなんとか、息巻いていたな」

女「まあ、そこは舐めてたかな」

リン「まだかかるのか」

女「うーん、もうちょっとだけ」

リン「…」

女「…」

リン「サボってあのゲイとお喋りばっかりしてるんだろ」

ぎく。

女「し、…てないよ?いや、少しはしてる。針仕事って疲れるし」

リン「…」

女「ちゃんとやってるってば!!」

女「そういうリンだってさ、いつになったら自分の役は終わるの?」

リンはきょとんとして顔をかいた。

リン「まあ、お前次第だな。実はもうあと一手で終わるところまできてる」

女「…なにやってるの?」

リン「だから、秘密」

リン「俺の仕事はゲイがステージに立つ直前に終わるから」

女「ふうん」

本当に一体、こいつは何をやっているのだろうか?

リン「で、俺はいつでも終われるんだけど。お前は?」

女「多分、今日までには」

実はドレスの損傷は、そんなに激しいわけではなかった。

丁寧に修繕のあとが見えないように縫っても、2日で終わる仕事だった。

けど、わざとゆっくりゆっくりやった。

できるだけ、仕事が長引いているように見せかけた。

…幸い、誰にもバレてはいないけど。

リン「今日、か」

女「うん」

リン「じゃあ、舞台の準備もやったほうがいいな」

女「そうだね。ミキにも手伝ってもらおうか」

リン「当たり前だ。大体自分のやるステージなんだし」

ミキ「あら、何か言った?クソ坊主」

リン「…チッ。いるならそう言え、くたばり損ない」

何日か経って、ミキとリンは大分仲良くなったと思う。


いや、冗談だ。

ミキ「え、もう終わりそうなの!?」

女「うん。あとは袖のパールを一個縫って、それで終わりなんだ」

ミキ「リンも?」

リン「ああ」

ミキ「じゃあ、じゃあ今日できるのね!」

ミキはおもちゃを与えられた少年のように目を輝かせた。

きゃっほー、と空中で何度も宙返りをする。

ミキ「じゃあ、私はステージの準備しなきゃ。お化粧道具も出さなきゃ!」

リンが隣で、小さく呻いた。

ミキ「うふふー。早く歌いたいなー」

女「…」

一つだけ、気になっていることがある。

ミキは歌が歌えない、と言っていた。

…いまさらこんなことで、歌えるようになるのだろうか?

ミキ「あー楽しみー」

…歌えなかったとしたら、私達はどうすべきなのか?

女「…」

最後の一針を丁寧に仕上げ、鋏で糸を断つ。

女「…できた」

ちょっとだけ、顔がにやけた。

リン「終わったのか」

女「あ、リン。今終わったよ」

リン「こんな所で作業してたのか。ミキの居る所でやればいいのに」

女「だって、ミキに見られたら楽しみなくなるじゃん」

リン「そういうもんか?…よく分からん」

女「ミキは?」

リン「ああ、舞台の準備とやらで大暴れだ。入るなってよ」

女「ええ…。マジで」

リン「夕方になるまで外で時間潰せだとさ。食事は貰ったから、適当に過ごすぞ」

女「横暴だなーミキ」

リン「自分でやりたいんだろ」

ミキが作ってくれたサンドイッチを、海辺で頬張る。

潮風とスクランブルエッグのバターの香りが、鼻を抜けていった。

女「…ねー」

リン「ん」

女「私達、ちょっと休みすぎたね」

リン「そうだな」

リンが不本意そうに眉にシワを寄せた。本当はもっと早く、目的を達成したかったのかもしれない。

女「…」

特に何の感動もなく、ゴムでも食べているような顔でパンをかじるリン。

女「ねえ」

リン「…なんだよ」

女「ミキが歌えなかったら、どうする?」

リン「…」

リンの咀嚼が止まった。隆起した喉仏が動き、食事をゆっくり飲み下す。

リン「あいつが歌えなくて、俺らに情報を引き渡さなかったら、ってことか」

女「うん」

リン「…」

珍しく、目を泳がせ何事か考えている。

リン「お前はどう思う?」

女「え、私?」

リン「ああ」

女「うー、ん」

どうだろう。

女「ミキが歌えなかったとしたら、また別に手段を考えないといけないよね」

リン「ああ」

女「それまでここで暮らす、ってのもいいんじゃない?」

私は微笑んで、足元の砂を触った。

女「ミキのところにいるの、楽しいじゃん。私は、ここが好きだよ」

リン「…」

リンは私の、ミサンガをはめた手首を見つめていた。

リン「ここにいたいか」

そう聞く声は、低く掠れていた。

女「…リンは?」

リン「俺は、ここにいたいとか、いたくないとか、…そういう考えは無い」

リン「ただ、俺は行かなきゃいけない。だからここには長く居るつもりは無い」

女「そっか」

そういうと思った。

リン「…ミキが歌えなかったら」

リンの手が、私のほうに伸びてきた。

反射的に退こうとしたが、彼は私の手ではなく砂を触っただけだった。

リン「…俺は、怒ると思う」

女「だろうね」

リン「俺はもう、ここにいるのは明日までって決めてる」

女「…そうなの?」

リン「ああ。夜、あいつが歌っても歌わなくても、俺は明日出る」

リン「…情報も、無理矢理でも奪う。何をしても。…絶対、もうここにはいない」


リンの指先が摘んだ砂は、風にさらわれて灰のように飛散した。

海の向こうに、日が沈んでいった。

リンがおもむろに立ち上がり、店を覗き込む。

ミキ「ああ、準備はほぼできてんの。でも入らないで。裏口から、入って。店には入らないで」

リン「はいはい。俺はどうずればいい」

ミキ「最後に、お願いしていい?」

リン「…」

リンが頷き、くるりと私のほうを向いた。

女「どう?」

リン「スタッフルームになら入っていいそうだ。あいつの準備とか、手伝ってやってくれ」

女「了解。リン、は?」

リン「俺は最後にもう一仕事ある」

女「ふーん。…えっと、頑張ってね」

リン「ああ」

ふいに、リンが目を細めた。

私の耳に口を寄せ、消え入りそうな声で囁いた。

リン「…お前、ミキと一緒にいたいか」

女「え、」

リンの体が離れる。 潮風で乱れた髪が顔にかかり、表情は見えない。

リン「どのみち俺は明日行くけど、…お前がミキといたいんなら、ここにいればいい」

女「え、ちょ」

リン「どう思う」

女「…」

どう思う、って。

女「…わたし、は」

リンが俯き加減に、こちらを見ているのが分かる。

私の答えは、それほど考えた訳でもない。悩んだ訳でもない。シンプルだ。

女「リンと行くよ」

リン「…」


風がやんで、リンの白い顔があらわになった。

口を引き結んで、何かに耐えるように私を見ている。

女「リンが私を邪魔だって思うなら、ここにいてもいいけど」

女「でも、…そうじゃないんなら、リンと一緒に行くよ」

リン「…」

リンが少しだけ、口を開く。

リン「あっそ」

女「うん」

リン「じゃあ、行く」

すたすたと浜辺を歩いていくその姿勢は、いつもより少し弾んでいるように見えた。

見えただけだが。

ミキ「す…っごく綺麗!!!」

ドレスを目の前にしたミキは赤い口が裂けそうなほどの声量で叫んだ。

ミキ「買ったときより綺麗になってる!すごいわ女っ。プロみたい!」

女「い、いやそんな」

ミキ「あんた絶対才能あるわよ!何か光すら感じるもんっ」

女「あはは…」

大げさにはしゃぎまわった後、ミキはドレスを手にとって

ミキ「それじゃあ、着替えてくるわねっ。ありがとっ」

女「うん」

はしゃいだミキがまた柔らかい布を破りませんように。


しばらくして、ミキが洗面台の置くから現れた。

ミキ「いやー、入らないかと思ったけど案外イケたわ」

女「…おお!」

前にテレビで見たことがある。タイかどこかで開催された、ニューハーフのコンテスト…

それを思い出して、私は少しにやりとした。

ミキ「似合う?」

女「うん」

興奮したミキの目には、忍び笑いをする私の顔は目に入らないようだった。

丁寧に化粧をし、「これめちゃくちゃ高いのよ」…そういっていた、口紅を塗る。

ミキの形の良い唇の上で、その色は華やかに光っていた。

女「本当に女の子みたいに見えるよ」

ミキ「…うん?まあ、ありがと」

ミキはうきうきとピアスをつけ、ヒールまで念入りに選ぶ。

女「…」

ミキ「どお?」

女「うん、いいんじゃない?色にあってる」

ミキ「でもね、実はネックレスだけが無いの。…どっかになくしちゃったのかな」

女「そうなんだあ」

私は白々しく返事をした。

ミキの倒れたジュエリーボックスの中身に、絡まって使えそうも無いネックレスがあったことは知っている。

それを見て、ミキが悲しそうに頬をゆがめたことも。

ミキ「まあネックレスが絶対必要ってわけではないけど」

女「…こほん」

ミキ「ん?」

女「その、手出して」

ミキ「え、なになにー」

女「いいからっ」

私は心持ち赤くほてった顔で、ミキの手に「それ」を強引に握らせた。

ちゃり、と音がして、ミキの分厚い手のひらの上でそれが転がる。

ミキ「…女、これ」

女「ええと、…不恰好だけど」

私がノロノロと作業を引き延ばしていた理由が、これだ。

ミキ「…すっごく、可愛い!」

海で拾った貝殻と、波で洗われた美しいガラスを繋げたネックレス。

お母さんの趣味の手芸を手伝っているうち、こういうちょっと特殊な技まで身につけていたのだ。

ミキ「え、え、これ買った!?…ってか、どこからか取ってきたの?」

女「ううん、手作り」

ミキ「どぅええええええええええええ!!?」

ミキの絶叫に思わず耳を塞いだ。にやにや笑いが止まらない。

ミキ「え、これ、え!?女が!?嘘ぉ!?」

女「ほんとだよー。海辺でハートの形した貝殻拾って、ガラスと一緒に繋げたの」

ミキ「すんげえええええええええええ!職人じゃないもう!」

女「ど、道具さえあったら誰でも作れるよ」

ミキ「にしてもよ!?何この非凡なデザイン!あんた大人になったら絶対ファッション業界入ったほうがいいわ!」

女「いやもう、無理だけどね…」

照れくさくて、私は何度も頬を掻いた。

ミキ「つけるつける!いやー、嬉しいっ。ありがとう女っ」

私の肩を激しく揺さぶってまくしたてるミキ。

興奮さめやらぬ様子で、細い鎖を首元に回した。

女「どう?」

ミキ「…」

姿見に自分の首元を映し、ミキはしばらく沈黙した。

女「…えっと、ごめん、その。…下手くそで」

ミキ「……女」

女「ん」

ミキ「わ、…私…。こんな、こんな嬉しいこと…」

ぐすっ、とミキが鼻を鳴らした。

女「ちょ、化粧取れるから泣かないで!!」

ミキ「だってえええ女が小粋なことするからあああ」

女「我慢してってば!」

ミキ「わがってるよおおおお」

女「…っ、すっごいかお…」

もう、笑いすぎてお腹が痛い。

必死に涙を零すまいと踏ん張るミキの横で、私は心から笑うことができた。

胸の中が、じわりと温かくて、甘い。


月が出た。

満月なのだと、たった今気づいた。

リンはまだ戻ってこない。

女「…遅いね?」

ミキ「うーん、もうそろそろよ。きっと」

女「何かトラブルがあったんじゃ…」

ミキ「心配性ねー。だいじょぶよ」

女「う、ん」

ミキ「それより、女はもう席につきなさいよ。ねっ」

女「え、いいの?」

ミキ「うん。先に準備して待ってましょう」

ミキに手を引かれるまま、私はレストランに入った。

店内は薄く間接照明がともされ、甘い香りのキャンドルがたかれている。

なんだか「オトナ」な雰囲気に少したじろいだ。

ミキ「さ、ここよ」

ステージの前にはしっかり席が作られていた。

海をバックにした舞台がきちんと見えるよう、小さな白いイスとテーブルが置かれている。

女「…ここに私とリンが座るの?」

ミキ「そ」

女「3脚あるよ?いす…」

くす、とミキが肩を竦めて意味深に笑った。

ミキ「いいのよ」

そういうミキの目に、一瞬不安の色がよぎったような気がした。

女「何を歌うの?」

ミキ「ひみつー」

女「ケチ」

ミキ「うっさいわね」

がたん。

後ろで音がした。次いで、店のスズがちりちりと音を立てる。

女「リンだ」

ミキ「…」

ミキは音もなく立ち上がると、ステージの奥まで飛んでいく。

女「ミキ?」

ミキ「女、迎えにいってきて。私は、…」

長い睫毛が伏せられ、目に陰をつくる。

ミキ「私は、歌い手だから。ここに立ってお客さんを待ってないと、だめでしょ?」

女「あ、それもそうだね」

私は立ち上がり、店のドアに向かう。

女「リン。遅かった、…」

リン「ん」

リンが軽く片手を上げる。

女「リ、リン?」

私は、目を見開いて彼の後ろを見つめた。

リン「…」

女「…なに、それ」



リンの後ろはぼんやりと「青く」光っていた。

リンはきっと気づいていない。

そう一瞬で判断し、私は身を乗り出してそれに触れようとした。

リン「おい落ち着け」

しかしリンのしっかりした胸板に阻まれた。

女「だ、だって!後ろにクリアが!!」

リンの後ろに漂う軟体を指差して喚くと、リンがうるさそうに溜息をついた。

リン「気にするな。害は無い」

女「ないわけないでしょ!?」

リン「ないんだ。俺はこいつに何度も接触してるけど、何もしてこない。そういう奴なんだ」

女「え、え?」

まさかリンの言う仕事って

リン「これを連れて来いって、ミキに頼まれたんだよ」

女「う、…うそ」

リン「本当。俺も最初は意味不明だったが。…いや、今もだけど」

ふわふわ。

青い球形の物体は、3歩ほど後ろからこちらを伺うように漂っている。

女「…ミキが、これを?」

リン「俺は何も聞いてないぞ。とにかく店の裏山に居るこいつを連れて来いって言われただけだ」

女「入れていいのかな」

リン「いいだろ。ほら、どいて」

女「…」

リン「触るなよ。お前が触ったら破裂すんだから」

女「う、うん」

私は極力身を引いて、リンとクリアを通してあげた。

リンの腰辺りをふわふわと浮いて滑るそれは、確かに水音がした。

女「…えっと、ステージ前のイスに座れって、ミキが」

リン「ん」

女「クリアも座らせる、の?」

リン「さあ?」

リンが振り返って球形のクリアを見る。

しかしクリアは、ステージから10歩ほど離れた所で急に動きを止めた。

女「…来ないよ?」

リン「妙だな」

リンが近づき、誘導するようにゆっくりステージへ歩く。

けど、全く動かない。

女「…ええと?」

リン「なんだこいつ」

体内の水の揺れすら止め、じ、と佇む姿は

まるで「もうこれ以上行きたくない」と拒否しているようにも見えた。

女「どうしちゃったのかな」

リン「知ら…」

「お待たせいたしました、皆様」

ふいに、凛として澄んだ声が、店に響き渡った。

女「…ミキ?」

舞台袖の奥に目を凝らそうとしたが、暗くてよく見えない。

「今夜はmarineにご来店いただき、誠にありがとうございます」

「さて、今からmarine自慢の歌のショーが始まります」

リン「…」

「まだお席についていらっしゃらない方は、どうぞお座りください」

「なお、この時間帯のオーダーは一旦ストップさせていただきます。ご了承ください」

女「ねえ、リン」

リン「座ろう。座れって言ってんだし」

女「…うん」

私達は小さなイスに腰掛けた。クリアは相変わらず、ステージから遠い場所で浮いている。

「それでは、始めます」

舞台袖から、こつん、と固いヒールの音がした。

レトロな薄暗い照明に囲まれ、美しい衣装を纏ったミキが現れた。

その顔は微かに上気し、どこか遠い昔を見つめているように思える。

女「…」

私は胸の前でぱち、と手を叩いた。

釣られるようにリンも高い音で手を叩く。

ぱちぱちぱちぱち。

二人分の、小さいけど確かな拍手が店に満ちた。

ミキ「…」

ミキが微笑み、深くお辞儀をした。

そっと顔を上げ、私とリンを優しい目で見つめる。

…そして、視線をずらして、クリアを見た。

ミキ「…」

ミキの唇が微かに開き、

ミキ「…」

しかし何も言わず、閉じた。

ミキはマイクに手をかけた。

しん、とした冷たく神聖なかんじさえする空気が、一瞬震えて。

ミキ「…」

ミキの喉仏が、動く。

何時の間に設定したのだろう。

黒いスピーカーから重厚にうねるジャズ調の伴奏が流れ出した。

ミキが体を傾け、色っぽくマイクに口を寄せる。

そして。


ミキは、歌った。


美しい歌声だった。

はっと息を呑まずにはいられないような、口元を押さえずにはいられないような、美しい声だった。

ミキの低く、柔らかく、威厳に満ちた声が鼓膜を震わせ、体中に染みていく。

女「…」

リン「…」

ミキの口から流れ出す音楽を、私達は何も言えずただ聞きほれた。

長い時間が経ったように感じた。

ミキが最後に甘い吐息をついて歌い終えたとき、私は体が震えた。

ミキ「…ありがとう」

いたずらっぽい笑みで、ミキは呟いた。

私とリンは、さっきよりも数倍大きな拍手で彼を包んであげた。

ミキ「ふふ、どうだった?」

女「すごい。…上手!」

リン「中々だった」

ミキ「んふー。やっぱ歌うのって気持ち良いわね」

ミキは誇らしげに胸を張ると、ちらりとクリアを見た。

ミキ「ありがと、リン。ちゃんと連れてきてくれたのね」

リン「おー」

ミキ「…」

ほつれた髪をそっと耳にかけ、ミキは体をクリアに向ける。

ミキ「…今夜はどうか、楽しんでくださいね」

クリアの体が、微動する。

ミキがまた、今度は軽快な音楽に合わせて歌いだした。

女「…」

そっと後ろを見ると、クリアはミキの声から出る振動に合わせて、

女(…踊ってる?)

そんな風に、見えた。


ミキは飽くことなく、かすれることもなく何曲も歌い上げた。

たまにマイクをこちらに向けて合いの手を要求してくる。

私はくすくす笑って、リンはしかめっつらをしながらも、それに乗ってあげた。

楽しい時間が、音楽と一緒に流れていった。

ミキ「あー…楽しい!」

ミキが酔っ払ったような赤い顔と表情で言う。

ミキ「でも、そろそろ1時間。ショーはラストです」

女「えー」

ミキ「最後に一曲、私のオハコでシメたいと思いますっ」

女「まだ終わらないでー!」

リン「ノリすぎだろ、お前…」

ミキ「最後の歌は、…」

ミキがそっとマイクをスタンドから外す。

そのままするりとステージを下り、微かな風を起こしながら私達の横をすり抜けた。

ミキ「…」

クリアの前で、止まる。

クリアは動かない。

ミキ「あなたに、最後の歌を贈ります」

ミキが微笑んだ。

ピアノの音が、スピーカーから流れ始める。

シンプルな、ピアノだけの伴奏だった。

ミキは目を閉じて、ふわりふわりと踊りながら歌った。

女「…」

リン「あれ」

リンがクリアを指差す。

クリアが、…震えていた。

ぽた、と床から微かな音が響く。

女「…水が」

クリアの体からいくつもの水滴が落ち、床に水玉の模様を作りはじめていた。

リン「泣いてるみたいだな」

リンがぼそりと呟いた。

女「本当だ」

ぽろん、ぽろん、とピアノの伴奏はだんだん緩慢になっていく。

ミキ「…」

最後に大きく息を吸い、長い音をミキは吐き出した。

ぽろん。

歌が、終わった。

ミキ「…」

同時に、ミキが顔を覆った。

ごとりとマイクが大きな音を立てて落ち、雑音が響き渡る。

女「ミキ?」

ミキ「…ー」

ミキの喉から、聞いたこともないような細く、搾り出すような音が漏れる。

泣いていた。

小さく体を震わせ、声を殺しながら、泣いていた。

リン「…」

私とリンは静かに立ち上がり、…けれど何もできず、その光景を見守っていた。

ミキ「…んで」

ミキ「…なんでよお…」

ミキがしゃっくりを上げながら、呟いた。

ミキ「…なんで、…会いに来てくれなかったのよ…」

クリアが、ぽたぽたと雫を落とす。


ミキ「…お父さん…」

ミキが苦しげに言葉を搾り出した。

その瞬間だった。

クリアが今まで微かにしか動かしていなかった体を

女「…あ」

ステージのほうへと滑らしたのは。

リン「…下がれ」

リンが私の腕を引いて、一歩前に出た。

クリアは一直線に私のほうへと向かってくる。

女「…リン、いいよ。大丈夫」

リン「こいつ、…まさか」

女「…」

私はそっと手を伸ばした。

ミキ「…」

ミキが赤い目でその光景を見つめる。

女「ミキ」

ミキ「…やって」

目を閉じて、微笑む。

ミキ「リンから聞いた。あんた、記憶が読めるんでしょ。…やって」

女「…」

私は小さく息をつき、指をクリアの濡れる体に差し込んだ。



視界が、青く歪んだ。

ああ、どうしてだろう。

どうしてあいつにあんな軟弱な名前を与えてしまったのか。

…女の子のようじゃないか。せめて「ミキオ」にしておけばよかった。

だいたい、ヨシコもヨシコだ。

俺が相談したときには、ただ微笑んで

「いいじゃないですか、ミキ。…真っ直ぐとした子どもに育ちますよ」

なんて言うから。

俺もきわめて常識的で、頭の良い女であるヨシコがそういうなら、と

この名前を書類に書いて、役所に出してしまったのだ。

ミキ、だなんて。

冷静に考えれば少し妙だと気づくだろうに。


ヨシコが妊娠初期の頃に行った旅行で見た、「ご神木」。

しめ縄に囲まれて逞しく聳え立つその、がっしりとした体。

「幹」だ。

そんな男に、なってほしかった。

大地をしっかりと踏みしめ、誇り高く聳え立つような、強い男に。

男の子だと分かった時は本当に嬉しかった。

俺は別に、性別がどうであれ関係なく喜ぶだろうが

…男の子は、別格だった。

一緒にサッカーをしよう。野球をしよう。

教養はしっかりしていなければならない。小さいときから俺が教えて、頭の良い男にしよう。

習い事だってさせてやろう。あいつが興味を持つもの、全てを体験させてやるんだ。

けど、俺は厳しいぞ。

三日坊主なんて許さない。しっかりした目標があって、俺を説き伏せるような情熱がなきゃあ、駄目だ。

時には殴ってしまうだろう。大声で怒鳴りつけてしまうだろう。

けどな、ミキ。

お前は巨木だ。どんな大風にだって負けない太い幹を持ってるんだ。

だからヘコたれるな。

親父の叱責なんか、跳ね飛ばして前進するような男になるんだ。

「ミキ」

俺の子だ。

「ミキ、強い男になれ」

俺の大事な大事な、長男坊だ。

俺はミキを一生懸命育てた。

ミキは頭もいいし、体つきだって立派で、…顔はヨシコに似たのか精悍で整っていた。

幼稚園だって良いところに入れた。

小学校は、ヨシコの反対も振り切って受験させた。

野球クラブの活動も勉強も、あいつは抜きん出て優秀だった。

中学校でも生徒会に入って活躍した。

中学校2年生の時に出た弁論大会なんて、なあ。

あんな感動的なスピーチ初めて聞いたんだ。

俺は嬉しいやら誇らしいやらで、保護者席で一人涙を流してしまった。

あいつは高校受験だって、県内一番の進学校に合格した。

自慢だった。

周りはみな、俺の息子を褒めた。羨ましがった。

俺は何時しか、「ミキ」と名づけたことをを悔やまなくなっていた。


…あのときまでは。

「父さん、話があるんだ」

高校3年生の夏だ。

大学受験にむけて着々と成績を伸ばしていたあいつが、急に伸び悩みはじめた。

担任から電話がかかってきて、こういわれた。

「最近、ミキくんの交友関係は把握されていますか?」

「え?ミキのですか。いやあ、部活はもう終わったし、俺の出る幕でもないですし」

「そうですか。…いえ、少し気になることがありまして」

「はあ」

「…××高校の、評判のあまりよくない生徒とつるんでいるようでして」

「はあ?」

××高校、なんて。県内で一番品がなく偏差値も低い高校じゃないか。

そんな人間とどうしてミキがつきあうものか。

「それでですね、一度ミキくんが学校を病欠したとき…」

待て。ミキは学校を休んだことなんて無いぞ。

どういうことなんだ?

「…××高校の生徒と、駅周辺でつるんでいるのを見た、と目撃情報がありまして…」

そんなはず、ないだろう。何を言っているんだこいつは。

「最近なにか、変わったことは?」



ミキにかぎって、そんな。

そんなことが。

「父さん、話があるんだ」

ああ、俺もあったんだミキ。

たくさんの事を言われたんだ。

××高校の生徒と、楽器遊びをしてるとか。

学校をサボってカラオケ、…だかなんだかに行ったとか。

成績もがくんと下がってるだとか。

下卑た女子高生が噂してたのも、聞いた。

「ミキくんって、ゲイらしいよ。だってウチ見たもん。××高校の男と、ラブホ街に入ってたとこ」

はらわたが煮えくり返りそうだった。

でも、ぐっとこらえた。

「父さん、俺な」

だってな、ミキ。お前に限ってそんなことはないだろう?

真面目な顔をして、正座して、唇を引き結んで。

何を話すっていうんだ、ミキ。

「父さん、俺」

「…●●大学には、進学しない」

「××高校のやつらと、バンド組んだんだ。本格的に、音楽がしたい」

「駅前で演奏してたら、音楽会社の人から名刺だって貰ったんだ。きっと売れるって、だから」

ミキ、

「…父さん?」


俺の拳に、初めて息子を渾身の力で殴りつけた痛みが広がった。

ミキの体は簡単に吹き飛んだ。

ヨシコが何事か叫んで俺の腕に縊りついたが、それすら乱暴に振り払った。

「落ち着いて聞いて欲しい」

鼻血を出しながら、ミキは俺を真っ直ぐに見つめた。

ふざけるな、何がバンドだ。

××高校のやつらなんか、勉強も運動もできないからそんな軟派なものに逃げてるだけだ。

そんな適当なやつらに感化されてどうする。

お前には頭も、スポーツもあるのに。

●●大学に入って、勉強して、俺みたいな立派な銀行員になりたいって言ってたじゃないか。

どうして今更折れようとするんだ、ミキ!

お前は固く、どんな力にだって屈しない男なんだろうが!

何で自分から腐ろうとするんだ、ミキ!

「ちゃんと理由があるんだ」

理由?

「…」

まさか、お前

「あの噂、…本当だったのか」

「え?」

「××高校の男子生徒と付き合ってるっていう、噂がたってるんだよ!どうなんだ、ミキ!ええ!?」

「…」

俺が手塩にかけて育てた、立派な巨木。

「…父さん」

「…そうだ。俺、ユキノと付き合ってる。だから、あいつに付いて行って音楽がやりたい」

「あいつの夢、俺が一緒に叶えてやりたい」


折れて、腐ってしまった。

俺は何度も何度も拳を振り下ろし、喉が裂けるまで怒鳴った。

ミキも初めて俺に反抗した。

汚い言葉を吐いて俺を罵り、ユキノとかいう汚らしい男子生徒を庇うような発言をした。

昔からスキだった、昔からこうだった。

ミキが泣きながら叫び、俺は吠えながらその顔面を殴りつける。

ヨシコが悲鳴をあげながら俺を引き剥がそうとしていた。

地獄だった。


俺が怒りのあまり眩暈をおこし、へたりこむまで地獄は続いた。

ヨシコが嗚咽をあげながら、紙くずのように倒れる息子の体を抱きしめていた。


「勝手にしろ」

俺は血と一緒に言葉を吐いた。

「お前はもう、俺の息子なんかじゃない。だから勝手にしろ」


ミキはそれきり、家に帰ってこなかった。

高校にも出席せず、結局卒業も受験もしないまま、消えた。

ミキの部屋にあったものは、全て捨てた。

不愉快で、汚らわしかった。

美しかったヨシコは、この一件でやつれた。

口数も少なくなり、家庭には冷えた空気が流れた。

俺の額にも、前には無かった厳しく深いシワが刻まれた。


全ては、あの日に崩壊したのだ。

何年かたって、俺はもう若くはなくなった。

ある日のことだ。ヨシコが夜中に何ごとか電話で話しているのを見つけた。

相手は若い男のようだった。

浮気、の二文字がちらついたが思い直す。

ヨシコももう、以前のように視線だけで男を溶かすような女ではなくなっていたのだ。

「誰と話をしていた」

単刀直入に聞くと、ヨシコはふ、と笑った。

「ミキ、ですよ」

そういって半ば冷えた茶を飲み干す。

「…」

俺は絶句した。

問い詰めると、ミキがいなくなった日からちゃんと連絡はとっていたそうなのだ。

定期的に会って食事もしていたし、親子仲は健在だといった。

「あなたは、固いんです」

そういうミキの声音には、明らかに俺を非難する響があった。

「ミキが男に興味があるからって、何なんです。音楽がやりたいからって、何なんです」

「あなたは結局、ミキを自分の理想の人形にしたてたかっただけなんですよ」

「ミキはあなたに会いたくないと言っていましたよ。合わせる顔が無いって、…」

「私は、そうは思いません。ミキは努力しましたし、理解されようと必死でした。あなたは、」

ヨシコは一拍置いて、青くなった俺の顔を見つめた。


「あなたは鬼です」

ヨシコは色々なことを語った。

ミキは高校こそ中退したものの、一生懸命バンドを頑張ったのだということ。

CDを出し、ライブもするようになったが、その矢先ユキノが肺をわずらい、解散してしまったこと。

バイトを何件もかけもちし、遂にはホストなどという職に手を出してまで、お金を集めたということ。

新しい夢を見つけた、ということ。

調理師の資格をとり、かつてのメンバー1名と一緒にレストランを開いたのだということ。

そこのステージで、いまも歌っているということ。


俺は、息ができなかった。

何も知らない。 俺はたったひとりの息子のことを、何も知らない。

「ミキは私に、レストランの招待券をくれました」

俺は知らない。

幹は俺の思ったとおりに育たなかった。

しかし、曲がった訳ではなかった。腐ったわけではなかった。

自分の夢を、頑なに通そうとしていた。

俺は、知らなかった。

「…ミキは、あなたに会いたくないでしょうね」

そうだろう。

俺は、

俺は、ミキにしてはならないことをした。

それを、今身をもって知った。

「あなたは酷い人です」

ヨシコははっきりものを言う女だった。

「離婚しようと考えたこともあります。けど、ミキが止めました」

「ミキはあなたのことを恨んではいません。それどころかあなたを心配すらしています」

ヨシコが、かぎ状に曲がった指で俺に招待券を差し出してきた。

「謝りなさい」

「行って、ミキに謝ってきなさい」

俺は、…。

黙って券を見つめることしかできなかった。

ヨシコは溜息をついた。

「どうしようもない人です」

その通りだった。


また、しばらく月日が経った。

俺は招待券を捨てずにとっておいた。

それを見て時折、考えた。

俺はミキに会う資格があるのか?謝る資格があるのか?

…その勇気があるのか?

答えは一向に見つからなかった。

ミキが癌にかかった。

ヨシコが蒼白になった顔で告げたとき、俺は言葉を失った。

「あの子、何も言ってなかったのに」

急に入院するからしばらく連絡できない、と電話があったらしい。

声帯を取る手術をしなければならない、とも言われた。

「もうあの子、歌えないんですね」

ヨシコは疲れた顔に涙を浮かべ、小さく呟いた。


俺は会社に休暇願いを出した。

書斎の引き出しから、すこし曲がった招待券を取り出した。

ヨシコにそれを見せると、少し微笑んだ。

「今更」

「いくじのない人。ミキが言ってくれなければ、あなたなんかとうに見捨ててた」

俺はヨシコに土下座した。

すまない、と何度も詫びて、離婚も申し出た。

「今更」

ヨシコは笑った。

「全てが遅いのねえ、あなたは。…でも」

「行かないよりは、マシだわ。行ってらっしゃい」

愛想がつきた、見捨てようとも思った。

そういった割には優しい手つきで俺にネクタイを結ぶと、ヨシコは俺を送り出してくれた。

…。

結局、

何も間に合わなかった。

俺はレストランに向かう途中、奇妙な光景を見た。

人の頭が爆発する光景だ。


空港で足止めをくった。

あいつの声がなくなるまえに、会って話をしたいのに。

天罰なのだろうか、これは。

小難しい名前の病気が首都で確認され、感染が拡大しているとニュースで見た。

関係ない。

俺は息子に謝らなければいけない。

飛行機を諦め、俺は車で息子のもとに向かった。

道路は逃げ惑う人々で混みあっていた。

俺は、

間に合わなかった。

やっとの思いでレストランにたどり着いたとき。

空っぽの店内を覗き込んだとき。

ならば病院に向かおうと、車に戻ったとき。

俺は頭の中で奇妙な水音を聞いていた。

洗濯機を回すような音だった。最初は小さいその音が、だんだん耐え切れないほど大きくなって。



俺は渋滞した道路の真ん中で、頭を破裂させた。


ミキ。

会うこともできなかった。

本当は知っていた。

あの招待券の名前の欄には、ヨシコじゃなくて俺の名前が書かれていたことも。

分かっていた。

けど、俺は遅すぎた。

お前の気持ちを踏みにじるだけ踏みにじった後、俺は死んだ。

ミキ、俺を



俺を

もういい、と腕をつかまれた。

ミキの赤いネイルが私の肌に食い込んでいた。

ミキ「…」

クリアは、まだ破裂しない。

ミキ「…父さん」

ミキ「本当、…いくじなしなんだから」

クリアが大きな雫をおとす。

ミキ「辛かったし、怒ってたし、悲しかったわよ」

ミキ「けど」

ミキ「…」

ミキ「もう、いいじゃない」

クリアが、膨らみはじめた。

ミキ「私は父さんに会いたくて、券を渡した。時間はかかったけど、父さんは来てくれた。それでいいじゃない」

ミキ「父さんが私を許したように、私も父さんを許した。…それで、いいじゃない」

ミキ「恨んでるか、なんて。…今更聞かないでよ」

ぱしゃ、ぱしゃ、と。

大きな水音をさせながらクリアは緩やかな速度で膨張していく。

ミキ「お父さん」

ミキの声が、幼い響を持った。少年のように、小首を傾げて彼はクリアを覗きこんだ。

ミキ「私の歌、どうだった?」

「、…」

クリアが、水音に混じって言葉を搾り出した。



「じょうず、だ った」

「おまえ、は」

ミキ「…」

水風船のように、膨らんでいく。

「おれの」

ミキ「…」

「おれの、だいじな」

もう、消える。

「大事な息子だ」

ミキ「うん。あなたも、私の大事な父親よ」

ミキが手を伸ばして、クリアに触れた。

逞しい、植物の幹を思わせる腕で父親を掻き抱いた。

ミキ「ありがとう、お父さん」

「…ありがとう、ミキ」



青い水が飛散した。

青い水はすぐに床に染みて、見えなくなった。

ミキ「…」

ミキはだらりと両手を垂れると、鼻を啜った。

女「ミキ」

ミキ「…ありがとうね、二人とも」

リン「ああ」

ミキ「…ダメ親父でさあ、申し訳ない。大変だったでしょう」

リン「いいや」

ミキ「…なあんだ。…来てたんだ」

ミキは小さな笑みを唇に浮かべると、父親が消えていった痕を撫でた。

ミキ「外に、出ない?」

女「え」

ミキ「ちょっと歩こうよ」

ミキは私とリンの腕をとると、滑るように歩き出した。


その手が以前より透けていることに、私は気づいた。

月光が海に反射し、きらきらと輝いている。

静かに波が砕け、あわ立っている。

ミキ「…会えてよかったな」

ミキがぽつりと呟いた。

ミキ「…リンと女のおかげだよ。ありがと」

女「ううん、そんな」

リン「まあそうだな」

女「リン…。謙虚さがない」

ミキ「あはは。…もう、良いコンビだな」

女「…」

私は黙って、ミキの透ける体を見つめる。

ミキ「あのさあ」

女「うん」

ミキ「…あんたらさ、生きてて楽しい?」

リン「はあ?」

ミキ「ぶっちゃけ、どうよ?こんな人っ子一人いないところでさ」

女「この流れでそんなこと聞く?」

ミキ「いいじゃん、どうなの」

リン「…」

女「…」

女「楽しい、よ」

私は正直に言った。

女「勿論楽しくないことだって山ほどあるけど、それでも楽しいよ」

ミキ「そっか、…リンは?」

リン「全然楽しくない。疲れる」

女「ええ…」

リン「…けど、辛くは無い。だから俺は生きる」

ミキ「素直じゃないわねー。女ちゃんといれて楽しいですって言いなさいよ」

リン「はあ!!?」

ミキ「女ちゃん、この天邪鬼は本当はめっちゃ楽しんでるから」

女「へー」

リン「黙れ!!!」

ミキがけらけらと笑った。

笑うたびに体が揺れて、月光を透かしている。

まるで、もう空に上ろうとしているかのように。

ミキ「…あのね、私は二人といれて楽しかったわよ。めちゃくちゃ」

女「あ、嬉しい」

ミキ「…でもね、それ以前は違ったわ。一人ぼっちで辛くて、死にたかった」

リン「…」

もう死んでるだろと言おうとしたリンの足を、踏みつける。

ミキ「でね、結局つきつめて考えるとさ」

ミキ「…自分以外の誰かがいるから、成り立つことなんだよね」

腕を組み、諭すようにミキは言う。

ミキ「だからね、あんたら。一緒にいなさいよ」

リン「ああ」

ミキ「…離れちゃ、だめよ」

ミキが腕を解き、リンを真っ直ぐに見つめた。

ミキ「リン。キノミヤ・リン」

リン「ああ」

ミキ「…あなたの傍には、こんなに可愛くて良い友人がいるんだから」

女「え、」

ミキ「…失くしたものを、もう帰ってこないものを盲目的に求めるのをやめなさい」

リン「…」

リンとミキの視線が、一度もぶれることなくぶつかりあう。

ミキ「今あるものを、大事にしなさい」

リン「…そうする。そうしている」

ミキ「…」

ミキがふう、と息を吐いた。私のほうに向き直る。

ミキ「…女。こいつを見捨てないでね」

女「見捨てる?…」

それは、逆のような気がする。

ミキ「絶対に、二人とも離れちゃだめよ」

ミキ「人は一人ぼっちじゃ生きていけない。心が死ぬんだから」

女「…」

ミキ「リン、そうでしょ?」

リン「…ああ」

ミキ「…。彼の考え、ちゃんと汲んであげてね。お願い」

リン「ああ」

ミキの体が頼りなさげに揺れる。私はたまらず叫んだ。

女「ミキも」

ミキ「え?」

女「…ミキも、一人にしないよ。一緒に旅をしようよ。ね?」

リン「…」

リンは少し俯き、何も言わない。

ミキ「女」

ミキは柔らかく微笑んだ。

ミキ「私は一人ぼっちになんか、ならないよ」

風が吹いた。

ミキの足が、連れ去られるように崩れていくのを、確かに見た。

ミキ「先に行くね、二人とも」

女「ま、」

待って。

そういって手を伸ばそうとした私を、リンが引っ張った。

ミキ「仲良くしなさいよ、せいぜい」

ミキ「希望を捨てないで。あのね、誰かがいたら人っていくらでも頑張れるものなの。だから」

私はリンの細い腕を抱きしめた。

顔をうずめて、踏ん張った。

そうしないと、ミキにすがってしまいそうな気がした。

ミキ「お願い、叶えてくれてありがとう」

さらさらと、星砂のような光を放ってミキが消えていく。

ミキ「ばいばい」

最後ににこりと微笑んだ。

美しい衣装と、私が贈ったネックレスが音もなく砂浜に落ちた。


リンが私の頭に手を回した。

自分の肩にしっかり抱いて、不器用な手つきで撫でた。

私は、

私はもう泣いても大丈夫だって思ったから、遠慮なく声をあげた。


遠くで波音がしていた。

ミキの歌声に、どこか似ていた。

ひとしきり泣いたあと、私は服とネックレスを拾い上げた。

嗚咽をあげながら、リンに手を引かれて店に入る。

リン「…座ってるか?」

女「う、ううん」

リン「そうか」

リンはゆっくりと裏口に回り、ミキの死体があった場所へ歩いた。

女「…」

カーテンをあけると、確かに彼の死体は消えていた。

リン「あ」

トルソーの下に、光る物があった。

リン「鍵、だ」

ミキが身に着けていたものだろうか。

女「…レジ、の下。鍵、かかってる扉あった…」

しゃっくり上げながら言うと、リンはまたも私の手を引きながら店に戻った。


小さな鍵を穴に差し込むと、少し軋んだ音がして開いた。

リン「…」

小さな引き出しに、一冊のファイルがあった。

リン「あったな」

女「うん…」

リン「…」

リンの指が強張り、不安定にファイルを支える。

女「見ないの?」

リン「今は、いい」

リン「…疲れただろ。今日はもう、休もう」

女「…」

小さく頷くと、リンは微笑んだ。


店から私達の私物を出し、車に積みなおした。

空っぽになったような店。ミキの声が無い店。

リン「…消すぞ」

女「待って」

店の電気を落とそうとしたリンを制し、私はステージへと向かった。

ミキが身に着けていたドレスと、ネックレスを丁寧に畳んでステージに置く。

女「…」

リン「楽しかったな」

リンがぽつりと呟いた。

女「うん」

リン「…」

リンがぐるりと店を見渡す。

ミキの姿がないレストランは、死んだ生き物のようにも思えた。

女「…ねえ、リン」

リン「ん?」

女「私と一緒にいてくれる?」

リン「何だ、今更」

女「聞きたくなって。…どう?」

リン「…」

リンは黙って私の手を握った。もう慣れた、自然な動作で私の手を引く。

リン「当たり前だろ」

短く、頼もしい一言を放つと、電気のスイッチに手を伸ばす。

リン「さよなら」

女「…」

ぱちん。

光が消え、波の音だけが暗闇に微かに響いた。

さようなら、と私も口の中で呟いた。

海とレストラン編、終了です。
また今度更新します

世界がウイルス(タッセルクリア)で荒廃した
感染者の半数以上はゾンビ(クリア)化←害あり
感染者の一部は幽霊(ミスト)化←害なし
女とリン(男)は生存者を探して旅している
作者が失踪中

現在時刻: 2015/11/18(水) 18:15:02

立った日: 2015/09/06(日) 12:47:15
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このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年10月02日 (金) 23:24:05   ID: EnvLRZdY

楽しみにしてます!

2 :  SS好きの774さん   2015年11月22日 (日) 21:19:17   ID: Er43jzV9

期待

3 :  SS好きの774さん   2018年08月18日 (土) 08:07:17   ID: JELlkRif

これの続き誰でもいいから書いて欲しい!

4 :  SS好きの774さん   2018年08月25日 (土) 00:17:29   ID: EUO4rOAu

誰でもは流石に…笑

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