怜「うちと一緒に夢の国行かへんか?」 (50)
■プロローグ
やはり怜と共に旅したあの一夜の大冒険は、単なる夢ではなかったのだ!
幾度の挑戦の果て、ついに再び瑰麗な空中の都に足を着けるに至ったのがその証拠。
朱鷺色の大理石も青白い肌をした住人たちも目の前に確かに存在しているし、華麗に彩色された空飛ぶガレー船は先ほど乗ってきたばかりだ。
見晴るかす雲海と、この地においては地下にあたる雲の下より覗く下界の景色の美麗さは、以前に訪れたときとなんら変わっていない。
「やっと、ここまで来れた。やっぱり夢なんかやなかったんや……」感激のあまり涙がほほを伝う。
この事実を今すぐ怜に伝えたい。そう思った。
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■1.幽体離脱
昨晩飲んだココアによるものだろうか。突然の尿意に目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。時計は見なかったがおそらく二時か三時くらいだろう。早く用を済ませて夢の続きを見よう。
「にしても夢の中でまで怜たちと麻雀か。ほんま好きやな」
友人たちの顔を思い浮かべて微笑みながら用を足し、洗面所へ向かう。
手を洗い、顔をあげると鏡面世界の自分と目が合った。
まだ少し意識がぼうっとする。覚醒仕切っていない今眠れば、本当に先ほどの夢の続きが見られるかもしるない。
そんなことをぼんやり考えながら、無意識に友人の名を呟いた。
「怜……」
「呼んだ?」
「――!?」
本当に突然の出来事に夢かと疑う間もなく、驚きに声を上げることすらできなかった。
なんと怜の声が聞こえたかと思えば、鏡にも映っているではないか!
「はーっ、びっくりしたー!」
「ごめんごめん。でも呼んだんは竜華やで」
「呼んだわけやないんやけどな」
「そんなー」
私は落ち着きを取り戻すと、怜に向かって言った。「まだ夜中やし、ちゃんと寝んと明日に響くで」
なぜ私の家に居るのかという疑問が真っ先に出てこないあたり、まだ完全に冷静ではないのかも知れない。
「ちゃんとかどうかはわからんけど、寝とるよ」
怜の言葉の意味を理解しかねた私は首をかしげた。
「つまりな、体は家のベッドで寝とって、魂だけここにおるんや」
「なにそれ怖っ! 幽体離脱ってこと?」
「うちは“体外離脱”って呼んでるけど、面倒やからそれでええわ」
「どうしよ! 怜が死んでまう!」
「死なへん死なへん」怜は取り乱した私をなだめるように言った。
「ごめん取り乱して。でもほんまに大丈夫なんそれ?」
「たまにやるけど本体に異常でたことないし、大丈夫やろ。一巡先を見るほうがしんどいくらいやわ」
「それならええけど……ええんかな?」
「それに、気づいてないみたいやけど、竜華も今離脱してるで」
「なに言うてんの?」私は怜に疑惑の眼差しを向けた。
「うわ、疑いの目。部屋戻ってみたらわかるわ」
言われるがまま部屋に戻り、その戸口を開けた。
なんと驚愕すべきことに、そこには私と瓜二つの人間が私の代わりに眠っているではないか!
いや、わかっているのだ本当は。目の前で眠っているのは私の偽者でも自己像幻視(ドッペルゲンガー)でもなく、紛れもなく私自身だということを。魂の脱け殻となった私の!
一旦ここまで
「わあっ!」
突然、見えない力が働き、私はベッドで眠っている本体へと引き寄せられた。
反射的にそれに抗う。
「なにこれ! 引っ張られる!」
「掴まって竜華!」
そう言って伸ばされた怜の手を掴み、引っ張ってもらう。
部屋から出て戸口を閉めると、本体からの引力は消え失せた。
「はーびっくりした! なんなん今の?」
怜は首を横に降り、わからんと答えてから仮説を唱えた。
魂は本来、体の中にあるもの――と我々は思っている――であるため、自然な状態に戻そうと見えざる力が働くのではとのこと。
「離脱時に引っ張られる感覚は私も経験あるし、よく聞くけど、こういうパターンもあるんやな」怜はなにやら一人で納得している。
「元に戻れるならええことなんちゃうの?」私は聞いてみた。
「そんなもったいない。折角離脱できたんやからもっと楽しもうや。どうせ戻ろう思たらいつでも戻れるんやし」
「それなら安心やけど。――いやそれでも魂が抜けた状態って怖いわ」
「本当に魂が抜けてんのかわからんけどな」
「どういうこと?」
「本当に魂が抜けてるんやのうて、魂が抜ける明晰夢を見てる状態かもしれんいうことや。明晰夢っていうのは意識がはっきりしてる夢のことな」
「――?」私は訳がわからずますます困惑した。
「つまり、ただの夢の可能性もあるってことや」
「なんや。それなら安心やな」
「あくまで可能性の話やけどな。本当に魂が抜けてんのか、ただの夢か、それとも人類には想像的にすら到達不可能な領域に真実があるのか。OBE――Out of body experience(体外離脱体験)――については、米国のロバート・モンロー博士を初めとする超心理学者たちが様々な調査、実験、発表を行ったけど、その人たちの到達点が“真理”やと証明するんは不可能や。失礼やけど全部博士やモンロー研の人たちの集団妄想の可能性もあるしな。集合的無意識による体験やったとしたら人類的にはある意味で真理かもしれんけど……って聞いてる?」
怜の長話に対して意識が明後日の方向に飛んでいたが、呼びかけられたことにより戻ってきた。「ごめん寝てた。いやあ、幽体離脱してても眠れるんやなあ」
「もう。折角わざわざ専門用語並べ立ててどや顔で話してたのに」
「おい」
「まあ話を戻すと、体に戻ろ思たらいつでも戻れるから大丈夫や」
「そか。なら安心やわ。怜のこと信用してるしな」
「嬉しいこと言ってくれるなあ。よっしゃ、先輩として色々教えたるわ」
そうして怜から幽体離脱後の世界のこと、更には壁抜けや空中浮遊など技術的なことを教わった。
「竜華は筋がええな」
「麻雀やってるからな」
「麻雀の話ちゃうわ」
「えへへ。怜の教えかたが上手いんやって。それに楽しいしな」
怜から教わることは、肉体があっては決して体験しえないことであり、かつてないほどの悦楽に浸るのは当然と言えた。
「これからどうするん?」怜による講習を終えたあと私は尋ねた。
「着いてきて。この前おもろいもん見つけてん」
怜に着いていって見たものは、地下へと続く階段だった。
「なにこの階段? どこに続いてんの?」
「降りたことないからわからんけど、恐らく夢の国(ドリームランド)や」
また聞きなれない単語が出てきた。夢の国? 千葉の浦安にあるあの鼠の王国だろうか。
「著作権に厳しい舞浜のテーマパークとちゃうで」
「心を読むな」
「竜華がわかりやすすぎるんや。――人は皆夢を見るやろ? 夢の国って言うのは通常の浅い眠りの中で見るもんやのうて、深い眠りの中で見る夢みたいなもんや、簡単に言うたらな。この階段を下りたところに〈深き眠りの門〉いうのがあって、そこを潜ると夢の国に行けるんや」
「あれ、でも夢って眠りが浅いときしか見れんもんちゃうの? 『レム睡眠』やったっけ?」
「そや。普通の人間には意識を保ったまま深い眠りにつくことはできん。ただし一部それができる人間がおる。それが〈夢見人〉」
「〈夢見人〉……」私は怜の言葉を繰り返した。
「うちは体外離脱者(リダンツァー)こそがその〈夢見人〉やないかと考えとるんや」
「はえ~、世の中は知らんことだらけやなあ。〈夢見人〉って結構いるもんなん?」
「一般的やないし、そんなにはおらんと思うで。有名なんは米国のランドルフ・カーターとか、少し前やと英国のアンリ=ローラン・ド・マリニーがおるな」
「もう一つええ? 夢の国に行けるってことは、やっぱり幽体離脱は夢の一種ってことになるん?」
「そう考えるのが一番わかりやすいな。たださっきも言うたけど、必ずしも真理が人間の想像可能な領域にあるとは限らんで。なにかを証明して誰しもが認めたとしても、宇宙全体からみれば真理とは程遠いもんかもしれん。まあそんなこと言うたら“証明”に意味がなくなってしまうし、学者の存在を否定することになりかねんけどな」
「つまりどうしたらええの?」私は怜の理屈っぽい語りに若干嫌気が差していた。
「自分で決めるんや。想像したり得た情報から、なにを信じるかを。そのためには多くの経験をして知見を広め、深める必要がある。人間は自身の知見の中でしか生きられんのやから。というわけで竜華――」怜は少し照れながら「あんた、うちと一緒に夢の国行かへんか?」と言った。
「どっかで聞いた台詞やな」私も照れた。
正直、怜の言葉を半分も理解できていないだろう。しかし誰かと行動を共にするのに十割の理解など必要ない。相手が親友であればなおのこと。
怜と一緒であれば、いつ如何なるとき、なにをしていても楽しい。
断る理由などなかった。
ここまでだじぇ!
ねる!
■2.夢の国
「ふぅー、緊張したなー!」怜に話しかけたのは、焔の洞窟を後にして更に百段ほど階段を降りたころだった。
「神官に会うなんて初めてやからな。ナシュトさんとカマン=ターさん。立派な顎髭やったなー」
「でもあの二人がおったってことは、この下に夢の国があるってことやんな?」
「せやな。わくわくしてきたで!」
なかなか先が見えてこないことに若干の不安を抱いていたが、怜の確信と喜びに満ちた表情を確認して安心した。
「〈深き眠りの門〉は焔の洞窟を出て七百段降りたとこやから、あと五、六百段ぐらいや」怜が言った。
「うわあ、気が遠くなるなあ」
「話ながらやったらあっという間やって」
「なんかいつもより元気やな怜」
「〈名倉〉やからかな? 体が軽いわ」
「〈なぐら〉ってなんやったっけ?」
「離脱後の世界のことや」
「あー、そやったそやった」
そのような会話で現実では不要であろう知識を蓄えながら階段を降りていく。
会話に夢中になり時間を忘れかけたころ、〈深き眠りの門〉に辿り着き、潜り抜けるに至った。
門を抜けた先は草木が生い茂る森の中であった。魔法の森と呼ぶらしい。
森の奥に進みスカイ河に辿り着くまでの間、ズーグ族の名状しがたい鳴き声を幾度か耳にしたが、姿を見せることはなかった。
「って怖っ! なにズーグ族って!? そんなんおるなら早よ言うてよ!」
「大丈夫大丈夫。ちょっと大きいハムスターみたいなもんや。多分」
「なにそれ可愛い! 逆に会いたいわ」
「猫食べるけどな」
「怖っ!」
「でも夢の国では猫のほうがある意味怖いんやで」
「どういうこと?」
怜はスカイ河の水が流れていく方向を指差した。「この河を下っていくとウルタールっちゅう村に着くんやけどな、その村で猫をいじめたら大変なことになんねん」
「そないなことせんけど……大変なことってなに?」
「例えば猫を殺してしもたら、仲間の猫たちに殺されるかもしれん」
「怖いってさっきから!」
「それに村の掟で、誰も猫を殺したらあかん言うのがあるんや。昔、猫をなぶり殺すんが趣味とか言う、頭いっちゃってる老夫婦がおってな、それでいろいろあって今の掟ができたんやて」
「詳しいなー怜。どこで知ったん?」
「入院中退屈でな。読書ぐらいしかすることないねん」
「ちょっとは麻雀の勉強しい」私は怜のほほをつねった。
「いひゃいりゅうは~!」
あんまり投稿すると書きためがなくなるのでここまで
のんびり行きます
夢の国を探す君の名を誰もが心に刻むまで
それからスカイ河に沿って下ること数刻、ウルタールの地に足を着けた。
出迎えてくれたのは顔立ちの整った子猫二匹。村の入口の両端にそれぞれ座り込み、警戒しているのか興味津々なのか私たちが村に入るさまをじっと見てくる。
その愛くるしさたるや、人間やほかの動物では例えること困難極まりないものであり、猫が地上でもっとも可愛らしい動物であることを証明していた。
村中に猫がいるため二人して数十分ほど可愛さに悶えていたが、このままではらちが明かないと気づき、一旦落ち着いて今後の方針を決めようと喫茶店に入った。
しかしそこは猫の住まう喫茶店で、注文したカモミールティーを一口飲んで落ち着くまでに再び数分ほど悶えた。
「落ち着いたところで、今後の方針を話そか」怜が切り出した。「どこか行ってみたいとこある?」
「そんなん言われても、夢の国になにがあるか知らんしなあ。怜はどこか行きたいとこないの?」
「う~ん、ぶっちゃけ一番来たかったんはウルタールやからなぁ。全部回るんは大変やし……なーなーお兄さん」怜は近くを通りかかった店員を呼び止めた。
「はい、なんでしょうか?」
「うちら覚醒世界から来たんですけど、お薦めの観光スポットとかあります?」
店員は虚空を見上げて少し考えたあと口を開いた。「そうですね、やはりセラニアンでしょうか。雲の上の絶景は我々夢の国住人たちの間でも人気があります。私はまだ行ったことがありませんがね」
「かのクラネス王が治める空中都市ですか! 確かにそこは行ってみたい!」怜は興奮ぎみに言った。
「詳しいですね。夢の国へは何度かいらしたことが?」
「いえ、初めてです。でもこの子、夢の国が好きらしくて色々調べてたみたいで」店員の問いには私が答えた。
「それは嬉しいことを。ぜひ楽しんで行ってください。――そうだ。アタル様に助言をいただくのもよいかもしれません」
「アタル様?」私は怜に疑問の視線を向けた。
「ウルタールで最も知識が豊富な老神官。つまり物知りじいさんや」
「ちょ、怜!」
怜の言葉はわかりやすくて有り難いが、少々失礼ではないだろうか。
私は少し慌てたが、しかし店員は声を殺して笑っていた。
「なんとわかりやすい。確かにアタル様は我々にとってもそのような存在でありますれば」
「そないなこと言うて。あとで知られて怒られても知らんで」怜は店員に冗談を言った。
「問題ありますまい。アタル様は心の広いおかたなれば」
どうやらアタルさんは優しい人らしい。お歳を召した神官と聞いて少々構えたが、杞憂のようだ。
「よーし、アタルに会ったるでー!」
「怜……」
ここまでっす
続きは後日
>>21
封神演義でしたっけ?良い歌ですよね
「誰が物知りじいさんじゃ! 目上のものに対する礼儀をわきまえんか、こわっぱども!」老神官アタルはそう怒鳴って私たちを追い返した。
「お兄さんの嘘つき」怜は小声で一人ごちた。
猫が住まう喫茶店を出たあと、私と怜はここウルタールに住むという老神官アタルを訪ねたのだ。
しかし喫茶店の店員との会話で気が緩んでいたこともあってであろう。アタルとの会話の中で怜は馴れ馴れしくも言葉を崩しすぎたのである。
すっかりへそを曲げた老神官は、固く口を閉ざしてしまった。
「どないしよ怜。アタルさんに助言もらうんは諦める?」
「それでもええっちゃええけど、アタルさんが持ってる『ナコト写本』は一度拝んでみたいなあ。――うん。諦めるんはまだ早いで竜華。酒に酔わせて気をよくさせたろ」
「お酒なんて持ってへんよ」
「ズーグ族から貰いたいとこやけど言葉わからんしなあ」
「だめやん!」
「う~ん……あ、そや!」怜は何事か閃いたらしく、左手の手のひらに右手の握りこぶしを乗せた。「ちょっと起きてくるわ。待っといて」
「え――」
突然、怜の体が半透明になったかと思うと、次の瞬間には消えてしまっていた!
私は何が起きたか理解するのに数秒を要し、理解が追い付いた瞬間叫んだ。「怜!?」
怜はどうなってしまったのか、このあとどうすればいいのか、といったことが頭の中を駆け巡る。
脳が取り乱して体感で十分ほど経ったころ、消えたとき同様、突然目の前に怜が現れた!
「怜!」私は思わず怜に抱きついた。
「わっ! なに、どしたん?」
「急におらんなったら、びっくりするやろ! 心配やし心細いし……」
「あー、すまんすまん。説明しとくべきやったな。これ取りに行っててん」怜は私の頭を片手でなでながら、もう片方の手に持っているものを掲げた。
それは一升瓶だった。ラベルには日本酒特有の力強い字体で『蕃神』と書かれている。
「お酒?」
「そや。おとん秘蔵の日本酒を拝借してきた」
「拝借て……勝手に持ってきて怒られへんの? ていうかどうやって持ってきたん?」
「一旦起きて、このお酒を枕元に置いてもっかい寝た」
「そんなんでええの!?」
「うちも正直ほんまに上手くいくとは思ってへんかったわ。なんでもやってみるもんやな」
「確証もないのにやったん? 持って来られんだけやったらまだしも、もし戻って来られんかったら、うちおいてけぼりやん!」
「それは大丈夫や」
「なんでそう言い切れるん?」
「うちと竜華はずっと一緒や。少しの時間離れたくらいでずっと会えんなんてことあるわけない。そう信じてるし決めてんねん。それは夢の中でも同じや」
私は怜の言葉に一瞬ほうけたあと、羞恥心の奔流を抑えきれず照れ隠しのために再び怜に抱きついた。
「竜華は照れ屋さんやなぁ」
「怜も顔熱いで」
「ううう、うっさいわ!」
ここまでです
続きは後日
その夜――夢の国においての夜――、老神官アタルのもとを再度訪れ、昼間の詫びと称して怜が覚醒世界より持ち込んだ日本酒を振る舞った。
「東洋の酒は馴染み深いものではないが、これはこれで乙な味わいじゃのう!」アタルはすっかり上機嫌なようだ。
「うんうん。うちらはまだ未成年やから飲めへんけど、日本の酒職人さんも中々のもんでしょう」怜が得意気に答えた。
「そうよな。この酒には職人の魂がこもっておる。まこと良い酒を振る舞ってくれた。感謝する」
「いえいえ。これで少しでも日本を好きになってくれたら、うちは嬉しいです」
「うちも同じ思いです」怜の言葉に私も同意した。
「なんと母国思いな若者たちよ。素晴らしい!」アタルは私たちに賛辞を送った。気に入られたようだ。「おぬしらも飲め飲め。ほれ」
「すみません。うちら未成年なんでお酒は……」私は差し出されたおちょことの間に壁を作るよう手を上げ、断ろうとした。
「なあに所詮夢の中。一杯ぐらい構わんじゃろう」
「それもそうやな」
「怜!?」
「おおう、話が分かるのう短髪の娘よ。ほれ」
「どうも」怜は差し出されたおちょこを受け取って口をつけた。
「長髪の娘よ、そなたはどうする?」
「では一杯だけ」仕様がないので一杯だけ付き合うことにした。
おちょこを受け取り口に近づける。強烈な匂いがつんと鼻を刺すが、躊躇して先伸ばしにすると良くないと思い、目をつむって一気にあおった。
途端に喉が焼かれ、思わず息を吐くと口の裏に当たる息が冷たく感じられた。
「竜華!?」
「まさか一気に飲み下すとは! 良い飲みっぷりじゃ!」
そんなことを言われても日本酒の飲み方なんて知らない。一気に飲み下すものだと思っていた。
「大丈夫?」怜が心配して私の顔を覗き込んでくる。可愛い。
怜はなんともないのだろうか? 気になって怜のおちょこを見ると、酒は減っていないように見えた。……しまったその手があったか。
本当に飲む必要などなかったのだ。口をつけるだけで飲まず、酒に弱いふりをすればいい。怜は賢かった。
「ごめん怜、ちょっと休ませて」私は怜の膝の上に頭を置いた。
「まさか竜華を膝枕するときがくるやなんて!」怜はなぜか喜んでいた。
つづく
「ところでアタル様。折り入ってお願いがあるんですけど」アタルの酔いが泥酔手前になったころ、怜が切り出した。
「なんじゃ? なんれも言うがよい」アタルは呂律が回っていなかった。
「ここに、かの『ナコト写本』があると噂に聞いたんですけど、どうにか拝ませてもらえんでしょうか」
「ふむ、『ナコト写本』か。確かにあるな」
「怜、『ナコト写本』ってなに? 本?」私は怜の膝の上に頭を乗せたまま尋ねた。
「そや。ただの本やないで、魔道書や。それも世界で最も古い。――あ、魔道書っていうのは、神や天使、魔王や悪魔、魔法や呪いといった神秘の力……そういう所謂オカルトについて書かれた本のことや。魔術書や魔法書、奥義書なんて呼ばれかたもするな」
「世界一古いって、どれくらい昔に書かれたものなん?」
「古事記や聖書より古くて、人類誕生より前に地球を支配していた種族が書いたものらしいで。あの〈大いなる種族〉が書いたって説もある」
「“あの”って言われても、その種族について初耳やけどな。――『ナコト写本』にはその〈大いなる種族〉のことが書かれてるん?」
「それもやし、〈風に乗りて歩むもの〉イタカや、神々が住まう凍てつく荒野のカダス、外なる神についても言及されてるで」
「――?」私は聞き慣れない単語に困惑するほかなかった。
「要は神様について色々書いてる本っちゅうことや」
「詳しいのう。そこまで知っていればもうよいのれはないか?」アタルが疑問を口にした。
「そういった内容について言及されているっていう情報しかなくて、実際に中身に触れたわけやありません。この目で読んでみたいんです」
「興味本意れ怪異に手をらすものの末路は相場が決まっておる。破滅じゃ」
「うちは怪異に手を出すんやありません。怪異の“知識”に手を出すんです」
「ううん、それもそうか。わかった見せちゃる」アタルは立ち上がって奥へと引っ込んだ。
「ふぅ、あんだけ飲んでまだ冷静なんかとひやひやしたけど、なんとか『ナコト写本』を拝めそうやな」怜が言った。
「普通は見せてくれんもんなん?」
「多分な。あの人、大事な情報は隠すことがあるから」
「なんでそんなにアタルさんに詳しいん?」
「前任者の話を知っとったからな。その人も情報を引き出すために酒を飲ませてん」
「ふーん。でもこういうのはこれっきりにしてな。心が痛むわ」
「そやな。うちもちょっと思っとった。もうせんわ。まあ『ナコト写本』は拝ませてもらうけどな」
その夜はアタルの家に泊めてもらうことになった。
怜はアタルから借りた『ナコト写本』に夢中で中々寝ようとしない。
私も最初は怜の隣から覗き見ていたが、なにが書かれてあるのかさっぱり読めず、怜の解説も退屈だったので先に寝ることにした。
気がつくと廃墟としか呼べない建物の中にいた。辺りに電灯の類はなく、月明かりのみが私の視界を支えている。
私は漠然とこれが夢であることに気づいた。
夢の国で眠っても夢を見るんだ――そんなことをぼんやりと考えていると、なにものかの気配が近づいて来るのを感じた。
恐ろしい気配であったが、私は冷静だった。これは夢。目覚めてしまえばなんということはないのだ。
意識を覚醒させようと試みる。……が、目覚める気配はない。
途端に恐怖が押し寄せてきた。
この夢の牢獄から脱出できない。気配は着実に近づいて来ているというのに。
私はとにかく捕まってはならないと思い、走り出した。
自力で目覚められないなら、目覚めるまで逃げ切るほかない。脇目も振らずに廃墟の中を駆け回った。
しかしいくら逃げても“それ”は追って来る。走る速度を上げても、階段を上り下りしても意味はなかった。見つかることに対する恐怖のため、隠れてやり過ごす勇気もない。
そしてとうとう行き止まりに来てしまった。
少し開けた立方体状の空間。中心には台座があり、その上には金属製の小箱が置かれている。
私は蓋が開け放たれたままのその小箱に近寄り、吸い込まれるように中を覗き見た。
――ほとんど球状の黒い多面体があった。散りばめられた銀箔のようなものが輝いている。
「――あ」
最初、黒水晶や天眼石などに銀箔をまぶした置物かと思った。
しかしこれは、そんな陳腐なものでは決してない。
――これは宇宙だ。
多面体の面一つ一つが、それぞれ別の宇宙を映し出している。
そして銀箔に見えたものは星々の煌めきなのだ。
こんな、現実では認識できないであろうことをすぐに理解できたのは、これが夢の――
目が合った。
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
多面体の一面を通して、三つに裂けた目がこちらを覗いていた。
私が向こう側を覗いていたように、向こう側の人ではない何者かも、私を見ていたのだ。
私が多面体を見たから? それともこの部屋に来る前からずっと……?
私は追われていたことを思い出した。
私を追うものと、この多面体の向こう側から覗くものは関係があるのだろうか。
ひょっとして、この多面体を納める箱の蓋が何らかの理由で開けられたことにより、人ならざるものを呼び出してしまったのではないか。
そこまで考えて初めて、台座の隣に横たわる白骨死体に気づいた。
「ひっ!」
白骨化が進み表情が読み取れない。にも関わらず、この世のものとは思えない怪異に遭遇し、無惨な死を遂げたのだろうと想像させられる。
先ほどの閃きは確信に変わった。やはりこの白骨死体が多面体の箱を開け、化け物の封印を解いてしまったのだ。
化け物の気配はもうすぐそこまで迫っている。急いで蓋を閉めてしまわなければ。
それで化け物が消えてくれるかはわからないが、悩んでいる猶予はない。
そして
私は
蓋を
閉めた――
続きます
「竜華! 竜華!」
怜の呼び声で目が覚めた。部屋は暗く、月明かりのみが怜の顔を照らしている。どうやらまだ夜中のようだ。
「大丈夫? うなされてたけど」怜が心配そうに私の顔を覗き込んで来る。近い。
少々照れてしまい顔の温度が上昇した気がするが、暗いので気づかれてはいないだろう。
「うん。大丈夫。ありがとう」
「ほんまに大丈夫か? 凄いうなされようやったで。どんな夢見てたん?」
「それがな……あれ? どんな夢やったっけ?」
「えー」
「なんでやろ、覚えてへんわ。でもすっごく怖かった!」
「しゃーないなー。竜華が怖い夢見んように、怜ちゃんが一緒に寝たるわ」
「……うん」
「おおう。もっと照れるかと思たのに」
「照れてるで。でもお願いするわ。夢の内容は覚えてへんけど、怖い感覚はまだ残ってんねん」
怜はそうかと呟くと、私の布団にもぞもぞと入り込んで来た。
「竜華の布団ぬくいなあ」
「怜の体もぬくいで」
「……なんかエロいな」
「エロないわ!」
「あはは。――実はな」
「うん?」
「うちが竜華と一緒に寝たかってん」
「なんで? 怜も怖い夢見たん?」
「ううん。知りたくないこと知ってしもて憂鬱やねん」
「知りたくないこと……『ナコト写本』?」
「そや。アタルさんの言ってた通り、興味本意で読むもんやなかったわ」
「なにが書かれてたん?」
「ごめん。言わんとくわ。ほんまに知らんほうがええ内容やし、聞いてもろて心が落ち着くもんでもないしな」
「そか。無理には聞かんけど、言いたくなったら言うんやで」
「うん。ありがとう竜華」
怜はそれ以上話しかけてこなかった。
私も寝直すことにした。怜の温もりを感じながら。
今度は夢を見なかった。
続きます
なかなか先すすまんなあ
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