紬「真夜中のいちご」 (132)
第0話「白熱灯は、寿命が短いらしいよ」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫…」
「埃が入ったのか?」
「うん、大丈夫…」
「あんまり目を擦るのはよくないんだぞ」
「うん、大丈夫…」
「無理するなよ」
「うん、大丈夫…」
ごしごしと目をこすり、ぎゅっぎゅっと強く目を瞑ると少し涙が出た。
埃もいっしょに、流れたかしら。
ぱちぱちと軽く瞬きをして、もう大丈夫なのを確かめるようにして、
瞳を開いた。
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目の前で電灯がぶらぶらと揺れている。
「目薬、いる?」
「ううん。平気。もうとれた」
ちょっと前から、部屋の電球の調子が悪くなってきていた。
そろそろ取り替えなくちゃね、と言いながらしばらくほったらかしだったけれど、
昨日夜帰ってきてスイッチを入れてみると、ついに灯りがつかなくなった。
そうしてやっと重い腰を上げたわたしたちは今日、新しいものを買いに出かけた。
今、その取り替え作業中。わたしはつま先を伸ばしている。
ちょっとお行儀が悪いな、と自覚しながらもコタツの上に足を乗せて。
カバーを外し、電球を掴み、捻りながら取り外す。
役目を終えて古ぼけた電球を手渡し、新しいものを左手に受け取る。
すこし触れた指は、いつものようにちょっと冷たい。
落としたりしないように気をつけながら、カチッとしっかりハマるのを確認してきゅっきゅっとひねって取り付けた。
「ちゃんと付くかな?」
「試してみようか」
スイッチ入れると、時間をおいてオレンジめいた光が輝き、部屋を照らした。
まだお昼頃だったから、それがどれくらい明るさなのか、あまり実感はなかった。
人口の光じゃ 真昼の太陽の光には かなわない
それでもわたしたちの部屋を照らす新しい光が嬉しくて、わたしはひとりで笑った。
大丈夫。もうすぐ日が沈んで夜がくる。
今はなくてもいい灯りも、夜になれば、必要になる。
「オレンジ色の灯りって、なんだか落ち着くよな」
「LEDに比べると寿命も短いし、電気代もかかるらしいけど」
「いいじゃないか、別に」
「また買い替えにいかないといけないよ」
「いいじゃないか、買い換えれば」
「そう」
オレンジ色のやさしい灯り。
ふたりの太陽。
やわやわとわたしたちを照らしている。
この灯りはいつまでわたしたちを照らしてくれるのだろう。
灯りが消えた。
あのひとが、スイッチを切ったのだった。
テーブルの上には旬を過ぎたいちご。
天井を見上げたままだったわたしは、灯りが消えるのといっしょに
そっと瞳を閉じた。
ー第0話 おわりー
第1話「見知らぬ天井」
ゆっくりと目を開いた先には見覚えのない景色が広がっていた。
ああ、そうだ。今日は部室に泊まったんだった、と気がつくまで10秒くらい時間がかかった。
すぅすぅと気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。
時折吹く外の風が、窓をカタカタと鳴らした。
おかしな時間に目が覚めてしまったせいか、ヘンに目が冴えて寝付けない。
だんだんと暗闇に目が慣れてきて、わたしはむくりと起き上がった。
ちょっとだけ散歩でもしようかしら。夜の学校を歩くなんてなかなかできることじゃないし。どうせ寝られないんだから、探検気分で。
寝袋から抜け出して立ち上がろうとしたときだった。
「…ムギ?起きてるのか?」
「……みおちゃん?」
振り向くと澪ちゃんが寝袋ごと上半身だけ起き上がってこっちを見ている。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。わたしもちょっと前から目が覚めちゃってたんだ。
どっか行くのか?」
「アテがあるわけじゃないんだけど…眠れなくて。ちょっと散歩でもしようかなって」
「それならちょっとお願いがあるんだけど…
………ト、トイレに付き合ってほしいんだけど…い、いいかな……」
いいよ、わたしは笑って頷いた。暗闇で笑顔が届いたかどうかわからないけれど。
みんなを起こさないようにそろりそろりと、抜き足差し足、ドロボウのように歩みを進めてようやく扉までたどり着いた。
すぅすぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。みんな変わらず気持ちよさそうに寝てる。
ゆっくり、じっくりと、ノブをひねって扉を開く。
うーん、と唯ちゃんが唸って寝返りを打った。
澪ちゃんがビクッとしてわたしのジャージの裾を引っ張る。
一瞬わたしたちは動きを止めた。
しばらくそのまま止まったまま様子を伺った。
どうやら唯ちゃんが起きた様子はない。また寝息だけが聞こえてくる。
澪ちゃんと目を合わせてお互いにこくんと頷く。
それから開きかけの扉をもう一度引いてふたりが通り抜けられるだけのスペース分だけ開けてから、するっと部室を抜け出した。
ガ
チャ
ン
。
部室の扉を開けたり閉めたりするのに、こんなに気をつかったのなんてはじめて。
ハァ~~~とふたりでため息をついて、顔を見合わせた。
思わず吹き出しそうになるけれど、グッと堪える。
大分暗闇に目が慣れて、相手の表情もきちんとわかる。
澪ちゃんは、たのしそうに笑っていた。
たぶん、わたしの笑顔も、今は伝わってる。はず。
部室を出たからって大きい音を出していいわけじゃない。
声を殺してふたり、笑いあった。
目が慣れたといっても暗い校内。
階段の踊り場には月の光が差し込んでいるけれど、足元はおぼつかない。
わたしはケータイを取り出して懐中電灯代わりにフォトライトをつけた。
「…わぁ」
わたしたちの行く道を照らすちいさなひかり。
澪ちゃんが嬉しさの混じった声を上げた。
光が照らす先を、階段を踏み外さないように気をつけて一段、一段と降りていく。
「なぁ…ムギ」
「なぁに」
「あの…さ。お願いがあるんだけど」
「いいわよ。どうしたの?」
「………手、繋いでもらってもいいか」
「………うん。いいよ」
左側を歩く澪ちゃんの右手を、左手でそっと掴んだ。
澪ちゃんがきゅっとわたしの左手を握り返した。
澪ちゃんの手はいつもみたいにちょっとだけ冷たい。
この手が、すこしでもあったかくなるように、気持ちを込めて手を握る。
澪ちゃんが痛くならないように、でも、
思いだけはいっぱいに。
音楽室のあるのは校舎の3階。トイレがあるのは1階。
怖がりの澪ちゃんじゃなくたって、真っ暗な夜の学校を歩いてそこまでいくのは怖いと思う。
歩くたびにギィギィと音を鳴らす古い校舎の床。
風に揺れる窓の音。
遠くで聞こえる犬の鳴き声。
夜の校舎では普段気にならない些細な音も耳に入る。
なんでもない音のはずなのに、どうしてだろう。
なぜかそれが恐怖を煽る。
澪ちゃんが左手でわたしのジャージの裾を捕まえた。
今までこの子とこんなに密着したことなんて、たぶんなかった。
身体の震えが伝わって来る。
わたしの鼓動は、どうだろうか。
「澪ちゃん」
「…な、なに」
「今日の舞台、よかったよ」
「えっ」
「すっごくかっこよかった。澪ちゃんのロミオ」
「そんなことないよ…」
「そんなことあるよ」
「…ありがと。でもみんなが支えてくれたおかげだから」
「…そうね。クラスみんなで頑張ったもんね」
「…ムギも。ありがとな」
「え?」
「ほら。バイトで特訓してくれたしさ。それにロミジュリの脚本はムギだろ。
舞台が好評だったとしたら、それは脚本がよかったってことじゃないのか」
「…そんなことないよ。わたしなんて大したことしてないから」
「そんなことあるよ」
「…ありがと」
そう言って澪ちゃんは笑った。ちょっとは恐怖が紛れたかな。わたしは安心した。
「まぁ…とにかくうまくいってよかったよ。最初はどうなることかと思ったし」
澪ちゃんは心から安堵したように大きくため息をついてしみじみと言った。
「そうね~。最初は全然ダメだったものね。澪ちゃんもりっちゃんも」
「それは言わない約束だろぉ…」
「ごめんごめん。からかいたかったわけじゃないの。
でも終わってみて思うけど、澪ちゃんとりっちゃんじゃないとあんなにいいお芝居にはならなかったと思うわ」
「そ、そうかな」
「うん、そうそう。ふたりだからこそのロミジュリよ♪」
「まぁ、でも確かに律は意外だったかも。
まさかあんなにジュリエット役をうまくやれるとは思わなかったよ」
「そうかしら。わたしはりっちゃんのジュリエット、ぴったりだと思ってたよ」
「えー…ホントか?」
りっちゃんの話になると途端に声が元気になった。
りっちゃんすごいなぁ。この場にいなくても澪ちゃんのこと、元気にしちゃうんだから。
「ほら、りっちゃんって女の子っぽくてかわいいし」
「ん~、まぁそれはそういうところがないわけじゃないけど…」
「じゃあ澪ちゃんは、りっちゃん以外にジュリエット役が似合う子が他にいたと思うの?」
「う~ん……そうだなぁ…」
「いちごちゃん、なんてどうかな?お姫様みたいだし」
「若王子さんかぁ…若王子さんも似合いそうだけど…」
澪ちゃんはそう言って考え始めた。
もう階段を1階まで降りきっていた。職員室を向かって右に折れる。
「そうだな…やっぱり一人しかいないな」
ようやく口を開いた澪ちゃんは、自分の考えを確認するようにうんうんと頷いて言った。
「わたしたちのクラスなら…」
わたしたちのクラスなら…?
「ムギかな」
…わたし?…わたし?
「うん。だって本物のお嬢様だし。美人だし、上品だし。お姫様みたいで。
ぴったりだと思うぞ」
「…そっか」
「律もそう言ってたろ。きっとみんなそう思ってたよ。
脚本担当じゃなかったら、ムギがジュリエットだったよ」
「…そうかな」
「うん。そうだよ。ゼッタイ」
澪ちゃんは自信満々に頷いた。
「トイレ、着いたよ」
「あ、なんだか早かったな」
「うん…そうだね。わたしここで待ってるから」
「あ、あのさっ…悪いんだけど……」
「ごめんごめん意地悪して。ちゃんと扉の前に立ってるから」
「…あ、ありがと」
…ジュリエット。わたしが、ジュリエット。
「ムギ…どうかした?」
水が流れる音も、扉が開く音も、何一つ聞こえていなかった。
わたしは暗いトイレの天井をじっと見つめたままだったらしい。
声をかけられてようやく気がついた。
「ううん。なんでもない。さ、戻ろっか」
「…うん。ありがと、ムギ」
帰り道は行きよりも怖さが薄れた気がする。
きっと一度通った道だからだ。
「ねぇ澪ちゃん」
「なに」
「ごめん。わたしさっき、嘘ついてたの」
澪ちゃんは黙ったまま、わたしの方を見つめている。
わたしは澪ちゃんを見ないまま喋り続けた。
「本当はね。澪ちゃんとりっちゃんにはロミオとジュリエット、似合わないと思ってたの」
「どうして」
「…ほら。ロミオとジュリエットって、不幸な話でしょ。
澪ちゃんとりっちゃんにはそんな話似合わないよ。
わたし、ふたりが主演になるって決まったとき、台本大幅に変更しなきゃって言ったじゃない。
あれは本当なの。ハッピーエンドにしたかったの」
「それじゃあロミオとジュリエットにならないじゃないか」
「…そうだね。だからふたりにはこの話が似合わないよ。だから…」
「だから…?」
わたしは大きく息を吸い込んだ。
心臓の鼓動が階段を上るテンポを追い越してリズムを刻んでいる。
「わたしがジュリエット役のほうがよかったかも…って」
澪ちゃんが足を止めた。
わたしも慌てて足を止めて、振り向く。
強い目をして澪ちゃんがわたしを見ている。思わずひるんで一歩後ずさってしまう。
「わたしと律が不幸になるのはおかしくて…
わたしとムギなら不幸になってもいいなんて…
そんなバカな話あるわけないだろ」
カタカタカタ…風が吹いて校舎の窓を揺らした。
非常灯が赤く光を放っている。
何も言えないわたしを追い越して、ギィギィと音を鳴らしながら澪ちゃんはひとりで階段を上っていく。
ケータイの光はわたしの足元を照らしていて、
先を行く澪ちゃんがそのまま暗闇に溶けていく。
「待って!」
たまらずに大きな声をあげてしまった。
そうして…二歩三歩前に進んで追いつくと、
さっきまでとは逆に、今度はわたしが左手で澪ちゃんの袖を掴んだ。
「…ゴメン。そんなつもりじゃなかったの。
本当はね。わたしも…舞台に立ちたかったの。あっ、脚本担当に不満があったわけじゃないのよ!そういうわけじゃないんだけど…」
澪ちゃんが振り向いて、袖を掴むわたしの左手を握った。
それから一段、二段と階段を降りてきてわたしの隣に並ぶ。
窓から差し込む月の明かりが明るく照らし出すその姿は、
まるで本物のロミオが演劇の舞台から抜け出してきたみたいで、
もしかして今、わたしは寝ぼけて夢でも見てるんじゃないかと頬をつねりたい気持ちに駆られた。
澪ちゃんはちょっとびっくりするくらいの強い力で、わたしの左手をぎゅっと握った。いつもとは反対に、澪ちゃんの手のひらの熱気が伝わってくる。
「…ムギの手。つめたい」
「…ごめん」
「…あやまることじゃ、ないだろ」
「…澪ちゃんのロミオ見てたら…ジュリエットのりっちゃんがうらやましくて…
澪ちゃん、かっこよかったから。すっごくステキだったから」
「…そんなことないよ」
「そんなこと、あるよ」
澪ちゃんがの唇の端がすこし上がったのがわかって、わたしも同じ顔をつくった。
…よかった。
そうしてふたり、また階段を上っていく。いっしょに。
「明日のライブで…ああもう今日だけど…最後だね」
「最後…だな」
「頑張ろうね」
「頑張ろうな」
「最後…」
「うん。最後」
昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が、ずっと続くと思ってた。
ずっと続けばいいと思ってた。
でもそうはいかないんだよね。
「卒業…したら。ムギは前に言ってた女子大に行くんだよな」
「澪ちゃんは推薦入試なんだよね」
「…」
「…」
「来年の今頃…わたしたちはどこでなにしているんだろ」
「そうね。どこでなにしてるんだろうね」
隣にいたいと思った。
今こうしてるみたいに。
昨日も今日も明日も明後日もそのまた次の日も。
来年も、その次の年も、そのまた次の年も。
ずっと、ずっと。
でもそのために何をどうしたらいいかなんてわたしにはちっともわからなかった。
せめて離れ離れになっちゃう前に、伝えなきゃいけない言葉があるような気がしたけれど、
それさえもちゃんとした形になっていなくて、もやもやと胸の中を渦巻いている。
それに…。
それに…?
言葉に出した途端に全てが壊れてしまうのが怖かった。
もし…。
もしこれがお芝居だったら。
わたしは台本のセリフに乗せて、想いを伝えることができただろうか。
そんなセリフ書けるかしら?脚本担当だけど、自信…ないなぁ。
でも、これはお芝居じゃない。現実だ。
それにお芝居だとしてもわたしはジュリエットじゃない。
……ううん舞台にすら上がれなかった。
舞台の袖から…スポットライトを浴びて輝くふたりをそっと見守るだけ。
ようやく部室の前まで戻ってきた。
「ムギ…ありがとな。助かったよ。ホントに」
「ううん。わたしの方こそ。散歩に付き合ってくれてたのしかったよ」
「じゃあ…もう寝ようか。明日も早いし」
「………そうね」
握り合った手と手が、すっと離れて、澪ちゃんは左手でノブを掴んだ。
ケータイのフォトライトを消して、
ゆっくりと静かに扉を開けて部室に入る。
みんな、さっきまでと変わらずに気持ちよさそうに寝息を立てていた。
梓ちゃんにぴったりと寄り添うようにくっついて、唯ちゃんが眠っている。
自分で自分の気持ちをきちんとわかっていること。
それをちゃんと形に出せること。
それは誰にでも簡単にできることじゃない。
わたしたちは「おやすみなさい」を小声で交わし合い、寝袋に入った。
もしできることなら。
10年とか20年とかたくさん時間が流れてしまっても、
いろんなことがあってふたりが変わってしまっても、
今夜の出来事だけはずっとずっと変わらずに、
ふたりだけの秘密の思い出として、
あなたと語り合えたなら。
それはどんなにしあわせなことだろう。
ううん。
たぶんこの先ずっと、わたしはきっと今日のことを忘れないんだろうな。
あなたが今日のことを忘れてしまっても。
あなたが隣にいなくても。
目を瞑る。
夢の中では……
夢の中では……
わたしはジュリエット。
そう、わたしはジュリエット。
あなたの瞳に、わたしが映る。
情熱を持ったあなたの視線が、わたしを射抜く。
でも。
夢の中でさえ、わたしたちは結ばれることがない。
だって、わたしはジュリエット。
あなたはロミオ。
わたしはジュリエット。
そう、わたしはジュリエット。
…ロミオとジュリエット……だから。
でも、それでもいい。
もう一度目を開くと、夜が少しづつ白み始めていることに気がついた。
もうすぐ、太陽が昇る。
そうなればもう、フォトライトは用済みだ。
ああ、もう寝なくちゃ。
寝ちゃお寝ちゃお…そう、寝ちゃお。
冷たくなっている右手をぎゅっと握りなおす。
そうしてまた、瞳を閉じた。
ー第1話 おわりー
第2話「ストロベリー オンザ パフェ」
全身がぐらぐらと揺れている。
静かな息遣いと、足音。
時折聞こえる車の音。
喧騒。
あれ…わたしどうしたんだろう。
目を開けると黒髪に白い肌の横顔があった。
「あ、起きた?」
「えっ、あれっ、なに?わたし?いま、どこ?」
「あっ!ちょ、そんなに動くと…!」
急に動いたせいで体重が後ろに片寄り、わたしは背中からころげおちてひっくりかえり、続いて澪ちゃんも後ろ向きにわたしの上に倒れこんだ。
「……痛い」
「いたた…あ!ムギ!大丈夫か!頭打ったりしてないか!?」
「え…、あ。うん…大丈夫…澪ちゃんこそ大丈夫?」
「うん…わたしも大丈夫……ムギが柔らかかったから……って、ごめん!
わたしムギを下敷きにしちゃってた!重くなかったか?ごめん!」
「ううん。大丈夫よ。ホントに」
「そっか…ならいいんだけど」
「誰かにぶつからなくてよかったね。結構派手に転んだみたいだし」
「はは…そうだな」
澪ちゃんは立ち上がってジーパンの膝を軽く払うと、わたしに向けて左手を伸ばした。
「ありがと」
差し出された左手を掴み、ぎゅっと引き上げてくれる力に合わせて立ち上がる。
「大丈夫か?まだ気持ち悪かったりしないか?」
「えっと…わたし…」
学生御用達の安いチェーン店のアルコールは、たくさん飲むものじゃない。
今までこんなことは一度もなかったのに。
「珍しいよな。ムギが潰れるなんて」
「ごめんね…迷惑かけて」
「そんな。大したことないよ。わたしだってムギに介抱してもらったこと、あるしな」
「ありがと」
ちっとも気持ち悪くなんかない。
むしろちょっと眠ったおかげですっきりしたくらい。
わたしはゆっくり思い出す。
ああ、そうだ。
5つだったか6つだったか。複数の大学の軽音部同士が集まって行われた飲み会。
くじ引きで決まった席はみんなと離れ離れ。
大学の垣根を越えて初めて会う人たちとの交流はそれなりに楽しかったけれど、中頃には少しダレて、わたしは退屈していた。
みんなの姿を探したけれど、人が多すぎてわからない。
わたしは外の風に当たりたくなって席を立った。
会場を出て、エレベーターのスイッチを押した。
下から上がってくるはずのエレベーターが、なかなかやってこない。
フロアを表示する数字は「1」のままだ。
わたしは待ちきれなくなって、会場に戻ることにした。
入り口から眺めると、わたしが座っていた席に、すでに別の誰かがいるのが見えた。
別のところに目を向けると、唯ちゃんと梓ちゃんが楽しそうにじゃれているのが見えた。
澪ちゃんとりっちゃんはどこに行ったんだろう。
退屈だな。
ふと気がつくとすぐ目の前のテーブルには誰もいない。
ああ、前の方で騒いでるグループがいる。あの人たちの席かしら。
周囲の賑やかさがやけに遠くに聞こえる。
誰もいないなら、わたしが座ってもいいよね。
ついでにこれもいただきます。
1/3くらい残ってるピッチャーを掴んで勢いのまま一気飲みすると、
テーブルにうつぶせになって…記憶はそこで途切れている。
「吐き気とか…ないか?薬買ってこようか?」
「大丈夫…ありがとう。心配しないで」
澪ちゃんが心配そうにわたしの顔をのぞき込んでいる。
わたしが本当に酔いつぶれたと思ってるんだ。
ちょっと寝てたくらいなのに。
「…そういえば唯ちゃんたちは?」
「梓もつぶれちゃってな。唯と律はその介抱。わたしはムギの担当」
「そっか。ごめんね。二次会…行けなくなっちゃったね」
「いいよ。わたし…こういうの苦手だし」
「じゃあむしろ、わたしに感謝してるくらい?」
「…そんな軽口言えるくらいなら、本当にもう大丈夫そうだな」
澪ちゃんは安心したように笑うと、左手でわたしの頭を撫でてくれた。
「…顔はまだ赤いな」
「…気のせいよ」
風が吹いて柳が揺れた。
すぐそこに小さな川が流れている。
歓楽街の賑やかなネオンの光が、川に映ってキラキラと輝いて綺麗。
今、何時なんだろう。
明るく賑やかな街が時間の感覚を麻痺させていた。
「歩けそう?」
「あ、うん」
「もうちょっと行ったところにバス停があるから…行こうか」
ふたり、歩き出した。
わたしはもう、ちっとも気持ち悪くなかったけれど(最初っからね)、
澪ちゃんはたぶんわたしに気を遣ってるんだろう、いつもゆっくりと歩いてくれた。
「ねぇ…澪ちゃん」
「なに」
「あの…ね。お願いがあるんだけど」
「いいよ。どうかした?」
「………手、繋いでもらってもいい…かな」
「………うん。いいよ」
左側を歩く澪ちゃんの右手を、左手でそっと掴んだ。
澪ちゃんがきゅっとわたしの左手を握り返した。
澪ちゃんの手はいつもみたいにちょっとだけ冷たい。
この手が、すこしでもあったかくなるように、気持ちを込めて手を握る。
澪ちゃんが痛くならないように、でも、
思いだけはいっぱいに。
ゆっくりと歩きすぎたせいだろうか。
終バスはとっくになくなっていた。
「…ごめんね。わたしのせいで」
「いいって。気にするなよ。いいじゃないかこういうのも。たまにはさ。
大学生っぽくて」
「タクシーつかまえようか。わたしお金出すから」
「いいっていいって。それよりさ…」
「深夜喫茶にでも入って朝まで時間潰さないか?」
「なにそれ!たのしそう!」
「だよな?なんか大学生っぽいよな?」
「うん!大学生っぽい!ふたりだけの二次会ね!」
「そうだな、ふたりだけの二次会だな」
お酒のせいなのかどうなのか、澪ちゃんは妙にハイテンションで、わたしもなんだかハイテンションで、笑ってはしゃいでバス停を後にした。
キラキラと明るい店内の2階、いちばん端の窓際にわたしたちは座った。
10人くらいの大学生のグループが賑やかだった1階に比べ、2階はしんと静かだった。
「一度こういう喫茶店で徹夜してみたかったんだよ」なんてまるでわたしが言いそうな台詞を言っていた澪ちゃんだけど、
メニュー表を見てちょっと引きつった顔になっていた。
わたしはそれを見て我慢できずに吹き出した。
「わたしがおごろうか?」
たしかにちょっと、高いけどね。
「い、いいよ…。わたしが誘ったんだし…わたしの分はわたしが出す」
こういう変に意地っ張りなところがかわいくて、わたしはずっとニヤニヤしてた。
「…決めた」
「なに頼むの?」
「…アメリカン」
「…チョコバナナパフェ、美味しそうだよ?」
「…ダメだろ。こんな時間に食べちゃ」
「いいじゃない。今日くらい。だって、二次会よ。お酒の代わりだと思えば」
「う~…ムギがそんなこと言うと迷っちゃうじゃないか」
それから澪ちゃんが注文を決めようとするたびにわたしが面白半分に茶々を入れて、
そうするとまた澪ちゃんが迷いだして…
……お店に入ってからかれこれ15分くらい経った頃、店員さんが様子を見にやって来た。
すこしイライラした様子の女性の店員さんに慌てた澪ちゃんがしどろもどろになっていたものだから、
代わったわたしが注文を叫んだ。
「デラックスいちごパフェふたつお願いします!」
……
…………
………………トン。
「わぁ~!おいしそう~~♪」
「……………」
「澪ちゃん、食べないの?」
「…ムギは平気なのか。つぶれた後なのに」
「うん。全然平気」
「…体重」
「……明日からジョギング始めるから」
「……でも」
「澪ちゃん。『据え膳食わぬは男の恥』、よ」
「………男じゃないし」
「そんなこと言ってるといちご食べちゃいますよ!」フンス!
「あっダメ!わたしのいちご!」
澪ちゃんはフォークでいちごを刺してパクリと口に入れると、そのままの勢いでパフェを食べだした。
モグモグ……あぁ~いちごパフェおいしいわぁ~♪しあわせ~🎶
こんなにおいしいパフェを食べるのは初めてかもしれない。
とまらなくなっちゃうわね……⭐︎
…
「…はぁ」
「…ふぅ」
「…おいしかったね」
「…ああ。おいしかった」
「…いちごパフェが止まらなかったね」クス
「…ああ。止まらなかった」クス
「わたし、しあわせー!」パタパタ
「…わたしも。あれ。ムギ、いちご、食べないのか?」
「え、あ、うん。なんだかもったいなくて」
「そっか。なんだかわかる気がするよ」
「いの一番に食べた澪ちゃんには言われたくないな」
「……っ!
そ、それはムギがわたしのいちごをとろうとするから!」
「…フフ。ごめんごめん。冗談よ。そうね。はやく食べなきゃ、
誰かに取られちゃうかもしれないものね」
「…そうだな」
「…」
「…」
広くて華やかな店内。
2階にあがってくる客は相変わらず誰もいなくて、
わたしはお店の経営状況がちょっと心配になった。
追加で何か注文しようかと、わたしはホットコーヒーを頼むことにした。
澪ちゃんはアイスコーヒーを頼んだ。
普段上等な紅茶を飲み慣れているせいか、外で紅茶を飲むとどうしても不満に感じてしまうので、わたしはコーヒーを注文することが多い。
パフェはおいしかったけれどさすがに結構甘くって、どうせなら最初っから飲み物を頼むべきだったかなと後悔した。
お客が少ないわりに、コーヒーが運ばれてくるまでには時間がかかった。
「きっと豆から挽いてるんだよ」と澪ちゃんは言っていたけどどうだろう。
しばらくして運ばれてきたコーヒーは言われてみれば香り高い気がした。
でも、この季節にホットはちょっと熱すぎたかしら、一口だけしか飲めなくて味はよくわからない。
「…」
「…」
「…あのさ」
「…なぁに」
澪ちゃんが左手に持ったストローをぐるぐると回し、
「…今日、ちょっとつらいことがあって」
「…うん」
それにつれて、アイスコーヒーの中身もぐるぐると回り、
「ひとりでいたくなかったんだ」
「…うん」
グラスの中の氷が鳴らすからからという音が店内に響いた。
「でもみんなと一緒なのもつらくて」
「……うん」
ストローを回す手を止めても氷はコーヒーの中を泳ぎ続け、
「……だから帰りたくなかったんだ」
だんだんと動きは緩やかになっていき、
「ムギがいてくれてよかった。ありがと」
「…介抱してくれたひとが、つぶれて介抱されたひとにいう台詞じゃないね」
しばらくして動きを止めた。
「…ハハ。そうだな」
「…フフ。そうよ」
桃色をした澪ちゃんの唇が、ストローに触れた。
本来の目的に立ち返ったストローは、
ちゅうちゅうと吸い上げたアイスコーヒーを澪ちゃんの口に運んでいく。
ミルクも砂糖も入れてないブラックのまんま。
黒い液体がストローを通って、桃色の唇に流れていく。
「…いちご。早く食べないと取られちゃうぞ」
「…いいよ。澪ちゃんにあげる」
「…いい」
「…そう」
「…早く、食べたほうがいいよ」
「…ううん。いいの」
「…早く食べないとダメなんだよ」
「…どうして。いちごは急になくなったりしないわ」
「…なくなるよ」
『…わたしのいちご。もうとられちゃったんだ』
店内には流れているクラシックが、突然大きくなったように聴こえた。
「…ごめん、ムギ。わたし、なんだか眠くなってきちゃった」
からっぽになったグラスの中の氷が、ふちに当たってからんと音を立てる。
「寝ていいよ。どうせ朝までまだ時間はあるんだし」
「ごめんな…。じゃあちょっとだけ」
「……うん。おやすみなさい」
そのまま澪ちゃんはうつ伏せになった。
わたしは冷めてしまっておいしいのかまずいのかよくわからなくなったブラックコーヒーをゆっくりゆっくり飲みながら、窓の外をぼうっと眺めていた。
闇夜のなか、眩しく、煌々と照る月。
釣り針のように細い月は、鋭く光を放ちながら夜空に浮かんでいる。
わぁ。
今夜はこんなにお月さまがきれいだったのね。
さっきまで外を歩いていたのに、そんなこと気づきもしなかった。
月も星も、その美しさは人の心を捉えて離さない。けれど。
月はきっと、澪ちゃんやわたしの心の内なんて知りもしないだろう。
この世界は人の営みや気持ちとは関わりもなく動いているんだと、思う。
流れ星、見れないかなー…って、
期待してみたけれど、あいにくひとつも見つけられない。
しばらくして、店内に流れるジムノペディに混じって寝息が聞こえてきた。
そっと振り向り、澪ちゃんの濡れた頬をハンカチでやさしく拭いた。
それからわたしのグラスに残ったいちごを、澪ちゃんのグラスに移す。
いちごはコトンと音を立てて、グラスの底に落ちていった。
『いちごを だれかに とられちゃうのと
いちごを だれにも たべてもらえないのは
いったい どっちが かなしいかしら』
どっちもおなじよ かなしいわ。
でもきっと、わたしの頬を撫でるひとは誰もいない。
滴は頬を伝い、グラスの底に落ちていく。
店の中の灯りが煌々として、妙に明るくて眩しく感じる。
わたしはうつ伏せになって、小さく細く息を吐きながら、
瞳を閉じた。
ー第2話 おわりー
第3話「サムデイ イン ザ レイン」
瞼を開けば眩しい光と共に透き通ったブルーの青空が…なんてそんなわけはなくて、
むしろさっきよりも勢いを増した雨粒が、激しく窓を打ち付けている。
天気予報では曇りと言っていなかったっけ。
町をゆく人の中には鞄から折りたたみ傘を取り出している人もいたので、
予報が外れたのではなくて、きっとわたしの勘違い。
今日はもともと雨の降る日だったのかもしれない。
わたしは行きがけのコンビニで買ったビニール傘を片手にぶらつかせ、
3ヶ月前に潰れたラーメン屋の軒先で、しばらく雨が止むのを待ち続けた。
潰れる前に一度だけ、梓ちゃんと一緒にこの店に来たことがある。
「やめておきましょうよ。ゼッタイおいしくないですよ」
「いいじゃない。マズイならマズイで話のタネになるんだし♪」
「…無駄ですよ。お金をドブに捨てるようなもんです」
文句を言う梓ちゃんを引っ張って、わたしたちは店に入った。
二次会帰りで時間は0時を回っていたせいか、ガラガラの店内。
床には油がこってりテカテカとまとわりつき、歩くだけで少し不快になる。
女の子ふたりが入ってくることなど滅多にないのだろう、
熊のようなもじゃもじゃの髭が生えた店長の、
こちらをじろじろと眺めていた黒目がちなふたつの瞳を思い出す。
黒々としたスープ。
太いんだか細いんだか、硬いんだか柔らかいんだかわからない麺。
妙にパサついたチャーシューが2枚。
モヤシだけはやたらと載っていてボリュームをごまかそうとしてるのが丸分かりだった。
一杯700円。
うーん………。
梓ちゃんは、【ご自由に】と書かれた瓶から、
これでもか、というくらいニンニクを取り出してラーメンにかけている。
「すみません。生中ひとつ」
「飲むんですか?じゃあわたしも」
こうなったらビールでごまかそう。
それから何杯、飲んだんだっけ?
そういうわけで、この店のラーメンの記憶をビールに書き換えることに成功している。
記憶の中で印象的なのは、所狭しとテーブルに並んだ、星マークの入ったビールジョッキ。
ちなみに最初文句を言っていた梓ちゃんは「意外にイケましたね。今度他のみなさんも誘ってきましょうか」なんて言っていた。
梓ちゃんに出すケーキと紅茶のグレードは、落としてもバレないな。
そう思った。
店を出て、口直しにアイスを買おうとコンビニに寄る。
ガリガリ君の梨味が、そのころのマイブームだった。
梓ちゃんが食べていたのはいちごアイス。
最後に残ったひとつを見つけた梓ちゃんは、嬉しそうに笑った。
それ以来、このラーメン屋には来ていない。
あの後梓ちゃんはふたりでお店に来たりしたのかしら。
目の前を自転車が走って行った。気がつくと雨はおさまっている。
わたしは軒先から出て歩き出した。
スーパーの閉店時間を過ぎた商店街には、人影が見当たらない。
雨が降っていたし、みんなもう、おうちに帰っているんだろう。
どこかしらからか、カレーの匂いが漂ってきた。
お腹がグゥと音を鳴らしそうなのを我慢する。
う~ん…
ラーメンよりはカレーかな。HTTにもカレーの曲はあるけど、ラーメンの曲はないし。
こんど、作ってみようかな。
チャルメラみたいになっちゃったりして。
澪ちゃん、どんな歌詞書くのかな。
ラーメンで恋の歌とか書けるのかしら……。
そもそも書いてくれるかどうかもわかんないけど。
最近、曲作ってないなぁ…。
ビニール傘をくるくる回したり、
地面にトントン打ち付けてリズムをとったり、
メロディ降ってこないかなーって空を見上げたり、
けれどぐるぐると頭の中でエンドレスで流れるチャルメラを追い出すことができなくて、
諦めたわたしはチャルメラのメロディを口ずさみながら歩いた。
雨に濡れた道路わきには店内の灯りが漏れている。
店の外に出された棚には、雨よけの透明なビニールカバー越しに音楽雑誌が並べられているのが見えた。
静かに扉を開けてお店に入る。
予想していた通り、雨の日の本屋には人が少なくて、先客は一人だけ。
ゆっくりとお店を回りながら、またあのラーメン屋のことを思い出していた。
ぼぉんぼぉんぼぉん、と古い時計が鐘を鳴らす。
わたしは昔子どものころに読んだことのある文庫本を見つけると、
棚からすっと取り出して、レジに持って行った。
「…これ。くださいな」
「ありがとうございます…って、ムギ。来てくれたんだな」
「うん。この近くでちょっと用があったから。そのついで」
「そっか。いつも悪いな」
「ううん。本読むの好きだから。澪ちゃん、バイト、何時まで?」
「うん。20時までだからもうあがり。せっかくだから一緒に帰ろう」
「うん。じゃあ、待ってるね」
店の外で澪ちゃんを待とうと扉を開けると、
道路の湿り気が増している。
「あれ。いま雨降ってる?さっきやんだと思ったのに…」
遅れてやってきた澪ちゃんが夜の闇を見て呟いた。
「もしかして澪ちゃん、傘持ってないの?」
「うん…ほら。天気予報では曇りって言ってた気がしたから…」
「あっ、あの、わたしね…」
「ゴメン。ムギ。もうちょっと待っててもらっていい?
わたし、お客さんが忘れてった傘、借りていくことにするよ。
お店に結構、残ってるんだ」
そう言って澪ちゃんは傘を取りにもう一度店の奥に戻って行った。
わたしは黙ったまま、半分くらい開きかけたショルダーバッグのチャックを閉じなおした。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
澪ちゃんが持ってきたのは、可愛らしい水玉模様の傘だった。
よかった。黒くて地味な折りたたみ傘なんか出さなくて。
「かわいいね、それ」
「だろ。でもこれ、壊れてるんだけどな」
確かに骨が一本折れていて、いびつに歪んでいる。
「壊れちゃってるから、店に捨てていったんだよ。たぶん」
「捨てないの?」
「うん…だって柄がかわいいし…なんだか捨てられなくて」
「そっか…じゃあ、せっかくだから修理屋さんに出してみる?」
「そうだな…せっかくだからそうしようかな」
「あのね…じつはわたしも…」
「?」
「傘……壊れちゃってて」
買ってものの5分もしない間に、
突風に煽られて反転したビニール傘。
無理に力を入れて戻したら、骨が何本か折れちゃった。
霧雨の中、暗い夜道をふたりで帰る。
壊れた傘をさしながら。
ビニール袋越しに見上げた夜空は、半透明に濁って見えた。
「ふたりだと恥ずかしくない気がする」
「ホント?人がいないからそんなこと言えるだけじゃないの?」
「…それもそうだな」
「街中で壊れた傘差してたら、ちょっと目立つものね」
突然前が明るくなった。
後ろからきた車のヘッドライトがわたしたちを照らし、
あっという間に追い越して行った。
「…」
「…」
「…車の運転してた人には」
「…見えてただろうね」
「…急に恥ずかしくなってきた」
「…じゃあさ」
わたしは傘をたたむと澪ちゃんのそばに寄って、右腕を掴んだ。
「ム、ムギっ…//」
「相合傘したらどう?
ふたつとも傘が壊れてたら恥ずかしいけど、
ひとつだけなら恥ずかしさも半分よ~♪」
「あ、……うん//」
ぴたりとくっついた右腕から体温が伝わってくる。
でも、もともと霧雨だった雨は、降っているのかどうなのかもわからないくらい。
もう傘は要らないのかもしれない。差さなくたって大して濡れないのかもしれない。
「傘、わたしが持つよ。入れてもらってるし」
「あ、ありがと」
そんな雨の様子なんかちっとも気がつかないフリをして、
左手で受け取った傘を、少し左に傾ける。
「そんなに傾けたら、ムギが濡れちゃうだろ」
「大丈夫よ。だって最近、2kg痩せたのよ~」
「なにーっ!ム、ムギは仲間だと思ったのに……
ってそうじゃなくて!」
「だいじょうぶだいじょうぶ♪
わたし、濡れてないから」
澪ちゃんは雨の様子に気がついていないんだろうか。
少しでも雨に濡れたくないから傘を差してるんだろうか。
何かを期待してしまいそうになる自分と、
期待してそれが失望に変わるのを怖がる自分が、
入れ替わり立ち替わり現れては消えて、
「雨、やんだみたいだな」の一言を聞くのが怖くて、
わたしはとにかく何か喋り続けた気がする。
何を喋ったかはあんまり覚えていない。
寮の近くのコンビニの側まで来たときに、
店を出て行く男性客が傘を差さずそのまま走っていくのを見て、
「雨、やんだみたいだな」
って澪ちゃんは言った。
「そうだね」
とだけ答えて、わたしは掴んでいた澪ちゃんの右腕を離すと、傘を下ろしてたたむ。骨が曲がってたたみにくいけれど、今度は無理に力を入れすぎないように、気をつけて。慎重に。
そのうちに、自分の右肩がしっとりと濡れていることが気がついて、
さっきまでのことは夢じゃなかったんだ、って思った。
左腕には雨に濡れた澪ちゃんの匂いが残ってるみたいで、
鼻をすんすんとさせてみると、ああ、これインクの匂いだ、って気がついた。
「昔もこんなことがなかったっけ?」
閉じた傘を澪ちゃんに手渡して、わたしたちはまた歩き出した。
「そうだっけ?」
「ムギとふたりで雨の日に相合傘して帰ったこと。あったろ。高校の時」
「…ああそういえば。あったね。なつかしいね」
覚えててくれたんだ……。
「あのときのムギ、すっごく濡れてたよな。
あのあと風邪…引かなかったのか?」
「…うん。大丈夫だったよ」
「そういえば、学祭ライブの前日にふたりで夜の学校を歩いたこともあったよな」
「…うん」
「あのときはさ。明日のライブがみんなと演奏する最後かも、って思ってた。
高校を卒業したらみんなと離れ離れになっちゃうんだって思ってた」
わたしもそう思ってたよ。
「学祭ライブが終わってさ。いろいろわたしなりに考えたんだ。
それで思ったんだ。離れたくないって。絶対離れたくないって」
「わたしたちが今こうしていられるのは澪ちゃんのおかげだね。
ありがとう、澪ちゃん」
「…そんなことないよ。きっかけにはなったかもしれないけどさ。
受験勉強を頑張ったのはみんな一緒だろ?」
「…うん。でもね。澪ちゃんがあのとき『みんな一緒の大学へ行きたい』って、言ってくれなかったら…わたしたちは今ここにいなかったと思うの」
わたしには言えなかった。
一緒にいたいなんて。すっごく一緒にいたいと思ってたのに。
わたしが言うと駄々っ子のワガママにしかならないような言葉も、
澪ちゃんが言えばそれはわたしたちを照らす光になった。
月も星も浮かんでいない曇り夜空の帰り道を、街灯が明るく照らしている。
でもその光は、さらにこれから先、わたしたちが進む道も照らしてくれるわけじゃない。
光が届かない道を歩かなくちゃいけないときは、もう近くまできている。
チカチカと切れかかった街灯を見て、最近めっきり調子の悪い部屋の電球のことを思いだした。
「今度こそみんな、離れ離れだね」
「…そうだな。律と唯は就職組だもんな。それにわたしたちも寮は出なくちゃいけないし。
そんなに遠くにいくわけじゃないけど、今までのようにはいかないよな」
「でも放課後ティータイムはずっと放課後だからね」
「それ、意味わかんないから」
「うそ。なんとなくわかるでしょ」
「…まあ、そう…かも。うん。なんとなく、だけど」
反対方向から走ってきた車のヘッドライトが、澪ちゃんの笑顔を照らした。
「澪ちゃんは、将来のこととか考えてる?どんなお仕事したいとか」
「ん。まぁそれなりには」
「へぇ。どんなお仕事?」
「…あくまで希望だけど…本に関係する仕事ができればなって思ってる」
少し恥ずかしそうに、頬を赤らめて俯きながら澪ちゃんは続けた。
「自分で書いたり…自分がいいなと思う本を人に紹介できたり…たくさんの人が素敵な本に出会えるきっかけを作れるような仕事ができたらいいなっ…って」
「…ステキね」
「あっ、みんなにはナイショにしてくれよ!恥ずかしいから…」
「ウフフ。わかったわ。じゃあふたりだけの秘密♪」
「…そうだな」
本屋さんでアルバイトしてること、図書館司書課程を履修してること、たまに自作小説を文芸誌に投稿してること…はみんな知ってるんだけどね。
「…ムギは?」
「……え」
「将来のことだよ。やりたいこととか。つきたい仕事とか」
「……そうね」
「ああ、家の仕事を手伝うのか?もしかしてゆくゆくは社長に…」
「まさか、わたしは社長なんてガラじゃないよ。
まずは親に頼らずにちゃんと自分で生活するところから始めたいな」
「でも兄弟いないんだろ?家のことはどうするんだよ」
「……そうだね。
先のことはわからないけど、いつかは家の仕事を手伝うことになるかもね。
でも年上の従兄弟がいて、そのひとが父の会社の手伝いをしてるから、
絶対にわたしが継がなきゃいけないってわけでもないの」
「…ふぅん、従兄弟かぁ」
「うん」
「…どんなひとなんだ?」
「やさしいひとよ。お兄ちゃんみたいな人。5つ年上なの。昔はよく遊んでもらったわ。
わたしの知らないこといっぱい知ってる人だった。それと…ピアノがとっても上手な人だったの。
わたし、その人を見てピアノをやろうと思ったの。
……今はヨーロッパで働いてるから何年も会ってないけど」
ひさしぶりに彼のことを思い出した。ピアノは続けているだろうか。
「そっか。きっと、素敵なひとなんだろうな」
「さぁ…どうだったかな」
澪ちゃんに言われるまでもなく、家のことは気になっている。
でもまずは一人で生活できるようになりたい。
自分の足でしっかりと立って、自分で考えて進む道を決められるようになりたい。
家のことはそれから。
「引っ越し先は決まった?」
「まだ。いざとなると迷っちゃって。家賃のこともあるし」
「そうよね。わたしもまだ決まってないの。
今度こそ自活するつもりだし。家賃も節約しなくっちゃ」
四年間、こつこつと学費を貯金してきたからね。
「エライなぁムギは。でもあんまり無理するなよ」
「うん、大丈夫」
「そっか。わたしもバイトの量、増やそうかなぁ…」
「じゃあさ…それならいっそ節約も兼ねて………」
『いっしょに住んじゃう?』
頬に冷ややかな感触、
街灯が照らす光の中に、雨粒が見えた。
澪ちゃんはゆっくりと傘を開き、右側に立つわたしのほうに傾けるように差す。
したたかに傘を打ちはじめたささやかな雨粒の音が、耳の奥に響いた。けれど、
『それも、いいかもな』
あなたが言ったひとことを最後に、音がやんだ。
まるでこの壊れかけた傘が、
雨の音も、
お互いの息遣いも、
車のクラクションも、
横断歩道の交通信号機から漏れるとおりゃんせも、
遠くから聞こえていた踏切の警報音も、
なにもかも、
外の世界の音を遮ってしまったかのように。
わたしたちふたり、無言。
ただただ頭の中にはひとつの言葉だけが響いていた。
わたしは目を閉じた。
目を閉じて、音の失われた世界で最後に聞いた言葉を繰り返し、
繰り返し、胸に刻んでいた。
ー第3話 おわりー
第4話「幸福な結末」
大きく息を吸い込んで、
ゆっくりと吐き出していく。
目の前にある空気は、吸っても吐いても何も変わらないように思えるけれど、
吸う息よりも吐く息には二酸化炭素が多くて、酸素が少ない。
でもそのほとんどは窒素だから、大して変わらないといえば大して変わらない。
それでも全く同じではないのよね。
同じように見えてもちょっとづつ中身が変わっている。
たたんたたん、と走り出した電車の音が響く。
目を開き、夜空を見上げた。そうして、
星を見た。
満天の星の群れが、さまざまな色に輝いている。
その中に一つ、赤や緑に光を変えながら、東から西へ走る星があった。
飛行機かしら。
それはわたしの知らない世界へと飛んでいく。
「寒くないか」
「ううん平気」
夜の街はきらきらとかがやいている。
そのひとつひとつの光の中に、人間の営みがある。
見たことも会ったこともない、これからの人生で自分とは袖をすり合わせることすらないかもしれない人たちがこの世界に大勢存在していて、
何かを思い、考え、生活している。
それだけたくさん人間がいるのだから、ひとりくらい今のわたしみたいな気持ちの人がいたっておかしくないのかもね、と想像した。
金曜の夜の駅前を行き交う人はいつもより賑やかで、
見ているとほんのりしあわせな気持になる。
お酒に酔って大きな声で笑いながら歩くおじさんたち。
腕を組んであたたかそうにくっついていてあるく恋人たち。
ギターをかき鳴らして歌う、大学生くらいの男の子。
「おっ、なかなかうまいな」
「…上から目線?」
「ちょ、そんなんじゃない」
「…フフ。ごめん」
人の流れに背を向ける。
繋いだ手と手が離れて、澪ちゃんは右手をポケットに入れた。
わたしは歩道橋の手すりに両肘を乗せて、道路を見下す。
左側に立つ澪ちゃんも同じ方向を向いて、わたしの方を見ずに言った。
「聞いてもらいたいことがあるんだ」
「うん」
道幅の広い道路を、いくつもの車が走り抜けていく。
「引っ越し、来週末に決まったから」
「そう」
「荷物はすぐにまとめる。できるだけ早く」
「そう」
澪ちゃんは顔だけこちらに向けた。
「ごめん。言うのが遅くなって」
「謝ることじゃないよ。
だっていつまでも一緒に住んでるわけにはいかないでしょ。わたしたちもう…」
わたしも顔だけ澪ちゃんの方に向けた。
目と目が合った。
大きく、キリッと力強く、意志のこもった瞳。
すこし潤いを秘めているところにやさしさを感じた。
あの音楽室で、はじめて逢ったときと何も変わってないような瞳。
「…子供じゃないわ。いい大人だもの。青春ごっこはこれで終わり」
わたしがそう言うと、澪ちゃんはすこし怒ったように、顔を背けた。
「…何年になるんだっけ」
「…5年。もうすぐで5年」
「そんなになるのかぁ…」
緩やかな風が長い黒髪を揺らした。
伏した瞳の長い睫毛。
真白い肌。
艶やかかな赤い唇。
唇から漏れる白い息。
澪ちゃんの吐く息のそのほとんども、わたしと同じように窒素なんだろうか。
「わたしも聞いてもらいたいことがあって」
「なに」
「結婚するの」
「……」
「…聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「…そう」
「突然…だな」
「そうでもないよ。最近時々実家に帰ってたのはその話のせい」
「…どんな人、なんだ」
「…従兄弟のお兄ちゃん」
「ヨーロッパにいるっていう…」
「去年、帰ってきてたの。それでそんな話になって」
「……」
「返事、ずっと待ってもらってて…迷ってたんだけど……」
「……」
「おあいこね」
わたしは体ごと澪ちゃんの方に向き直して、
精一杯の笑顔をつくってみせた。
高架橋の上を走る電車が、吸い込まれるように駅に走ってきては、
吐き出されるように去っていく。
その繰り返し。
高架下にはおでんの屋台が出ていて、
時々ふたりで飲みに行った。
いろんなおじさんたちと知り合いになって、おごってもらったこともある。
人見知りの澪ちゃんもアルコールのおかげでちょっとだけ解放的になって、
たのしそうに笑ってた。
「なぁ、ムギ。ムギはさ…」
澪ちゃんは夜空の遠くむこうの方を見るように言う。
「本当のことって、ひとつしかないと思う?」
よくわからないけれど、生きていれば否応もなく選ばなきゃいけない瞬間というものがあるんだと思う。
T字路にぶつかったとき、右に行くのか左に行くのか。
後戻りもできない。前へも進めない。
右?
左?
「わたしは、ひとつじゃ………ないかもしれないって思うんだ」
ああ…その場に立ち止まり続けるというのもひとつの選択肢だ。
「…でもそれじゃ」
振り返った後ろの景色はとても鮮やかで美しく彩られているけれど、
透明な壁に阻まれて、もう後戻りはできない。
「両方ともウソなのかもしれないよ」
「ちがう」
「なにが違うの?」
「…ちがう…ちがうんだ」
「ウソつき」
「ウソなんてついてない」
「ついてたよ。わたしにはわかってた。澪ちゃんはずっとウソついてた」
「なんのことだよ」
「本当のことなんて、話してくれたことなかったじゃない」
「…言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「本当の…ことはね」
澪ちゃんの言う通り、もしかしたら本当のことはひとつじゃないのかもしれない。
けれど、選ばれなかった方は選ばれなかったことをもって本当のことじゃなくなってしまう。
もっと怖いのは、何も選ぶことができず、曖昧な態度を取り続けているうちに、
そのまま全部がウソになってしまうこと。
「今、澪ちゃんがが選ぼうとしてるのが本当のことよ。
選ばなかった方は本当じゃない。ニセモノなの。
本当のことはひとつだけなの。
澪ちゃん、迷っちゃダメよ」
引き止めることで、すべてをウソにしてしまいたくなかった。
時刻は真夜中の真ん中。
星は変わらずに輝いているというのに、
今日が明日に、昨日が今日に、変わった。
眠り込んだ女の子を背におぶって、
白い息を吐きながら駅に向かう男の子。
ドタン、という音ともに男女のちいさな悲鳴が聞こえて振り返る。
わたしたちを追い越す手前で女の子の目が覚めてしまったせいか、
そのままふたり、ひっくり返って転んでいた。
転んだ拍子にこちらの方まで飛んできたのか、
わたしの足元に落ちているケータイを拾い、手渡した。
かわいらしいいちごのストラップがついていた。
ふたりはわたしたちを見て、恥ずかしそうに笑った。
わたしは笑顔をつくって声をかけた。「大丈夫ですか?頭打ったりしてませんか?」。
大丈夫、大丈夫、とリアクションをとると、ふたりはそそくさと駅へ歩いて行った。
「終電、か」
右手につけた時計を見ながら、澪ちゃんが言う。
「いいよ、タクシーで帰るから」
「節約しなくていいのか」
「もう必要ないから」
「…そっか」
星はさっきまでとは何も変わらずに同じ場所で輝いている。
わたしたちが生まれるずっと前から、
わたしたちが死んでもずっと先まで、
星は同じように輝き続ける。
けれども天空は、ひとの目にはわからないくらい少しずつ動き続けていて、
季節の移ろいと共にその姿を変える。
覚えた冬の星座は、春になれば全て変わってしまう。
そして永遠に思える星の命も、いつかは潰える。
澪ちゃんは「じゃあな」と言って左手を上げた。
わたしも「じゃあね」と言って左手を上げた。
わたしは駅に向かって歩き出した澪ちゃんの方を見ずに、
ただ夜空を見上げていた。
遠ざかっていく足音さえも愛おしくて、
だからこそ余計に耳に入れたくなくて、わたしは耳を塞いだ。
「ムギ」
「あれ?どうしたの?電車、間に合わなくなるよ」
「まだ大丈夫だ。あのさ、言い忘れた」
「なぁに」
「えっと………」
「…………」
「…………ごめん。やっぱなんでもない」
「あ、そうだ」
「なに?」
「ジュリエットに…よろしくね」
さみしいなんて呟いて、
あなたに重荷を背負わせたくないわ。
…ちがう。ただ重い女だ、って思われたくないだけのいい子ぶりっ子してるだけ。
本音を隠してやせ我慢して。
そうしてさみしくないフリをして笑顔をつくっているうちに、
荷物は肩の上で重さを増していって、
そしてわたしはつぶされる。
「……ジュリエット、か。うん、言っておく。じゃあ…また」
「さよなら。お元気で、ね」
振り返ってくれないかもしれないことが怖くて、
わたしは澪ちゃんの後ろ姿を見ないようにした。
ロミオはジュリエットの元へ、駆けてゆく。
ああ、ロミオ。
あなたはどうしてロミオなの?
どうしてわたしはジュリエットじゃないの?
目を瞑って、ものがたりを思い描く。
そう、わたしは脚本家。
台本を書かなくちゃ。
もちろん、筋書きはアレンジするわ。
ふたりがちゃんと、しあわせになれるように。
どんな脚本にしようかな。
ステキな演出も考えなくっちゃ。
本番は舞台の袖で、ふたりのこと、見守ってるよ。
……見守ってるよ。
そうしてずっと、
ロミオとジュリエットの幸福な結末に思いを巡らせた。
ー第4話 おわりー
第5話「銀世界旅行」
開いた瞼を、思わずすぐに閉じる。
あまりにも夕日が眩しかったから。
太陽がたった今、赤い雲を残して落ちていこうとしている。
空を紫色に染めながら、きらきらとひかる海の中に落ちていく。
「…綺麗だな」
そういえば、夕日を見るのはいつ以来だろう。
見ようと思えば毎日だって見られるはずなのに。
こんなに美しいものを、見過ごしていたなんて。
宝物は隠されているわけでもなく、身近にあったのに。
案外ちっとも気がつかない。
列車がトンネルに入った。
澪ちゃんがなにか言いかけたように思ったけれど、
列車の走行音がトンネル内に反響し合ってコォォとうるさく鳴り響くせいで、
お互いの声をうまく聞き取れない。
車内の電気が一瞬消えて真っ暗になり、すぐにまた明るくなった。
澪ちゃんが笑っている。
謝罪の車内アナウンスが流れる。
別に謝るようなことでもないのに。
しばらくするとトンネルを抜けた。
トンネルの先、左手に見える海は変わらずにきらきらと輝き、水平線は曖昧なパープルに染まっている。
右手の山には雪が積もっていた。
ふだん滅多に見かけることのないような雪の多さだった。
温泉………かぁ。
「よ、」
改札の前で待っていた澪ちゃんは、それまでと何の変わりもなく顔をほころばせながら、左手を上げた。
何十年も前から待ち合わせしていたみたいに、
あまりにも自然でなんの違和感もなく、そこに立っていた。
「迎えにきた」
わたしたちが暮らしたあの部屋には、もうなにも残っていない。
引き払う前に掃除をしにきただけ。それが終わってわたしは帰る。
あの部屋じゃない、ところに。
「………あたらしい部屋、探さないといけないな」
………。
わたしは答えずに、改札を通り抜けた。
澪ちゃんがそれに続く。
「きょうは寒いなぁ…そうだ、カイロ持ってるんだけど、使うか?」
…いらない。
「お菓子買ってくるけど、何がいい?ポッキーかな…あ、何味がいいかな。今は種類が多いから」
…なんでも、いいよ。
「やっぱりオーソドックスなやつかな?いや、イチゴ味のほうがいいな」
…澪ちゃんの食べたいのにしたら。
「飲み物は?ビールはやめとけよ。…ああミルクティーにしよう。あったかいの」
…。
「ちょっと、これ、聴いてみて。最近見つけたバンド。すごくいいんだ」
…。
澪ちゃんの右手からイヤホンをうけとって、左耳に入れる。
軽快でここちよいミュージックがわたしの身体に流れ込んだ。
けれど、鳴り出した警報機の音にかき消されて曲の良し悪しはあんまりよくわからない。
電車の到着を知らせるアナウンスは、不必要に大きく、怒鳴り散らすように響く。
ゆっくりとしたスピードでホームに進入してくる電車。
電車を待つひとの群れも妙にべっとりとスローモーな動き。
まるで周囲の空気が粘り気を帯びているかのようで、
すべてのものはドロドロとした粘液をかき分けながら動いていた。
ピロンパロンと間の抜けた電子音と共に扉が開く。
澪ちゃんはわたしの肩を抱くようにして、一歩を踏み出した。
軽やかな一歩だった。
昼の電車内は中途半端な混み方をしていた。
「座りなよ」「座っていいよ」…と言うこともなく、わたしたちは壁にもたれて音楽を聴いている。
「…いいだろ。このバンド」
今度はよく、音が聴こえる。
わたしは少しだけ表情を緩めて、こくんと肯いた。
電車から見上げた空は灰色がかっいて、薄白い月が浮かんでいるの見えた。
昼の空にも月は存在する。
ほとんどの人が気がつかないだけで。
ほとんどの人が必要としていないだけで。
昼間の月も光を放っている。
「お、着いた」
10曲目の音楽が終わるタイミングで電車の扉が開いた。
わたしの右側に立っている澪ちゃんが左手でわたしをつかんだ。
「さ、降りよう」
グイ、と。
有無を言わさない強さだ。
電車を降りて呆然とするわたしに、澪ちゃんはチケットを二枚見せた。
「今からの時間ちょうどの特急があるから。
温泉に行くぞ」
それから、
いくつも、いくつものトンネルを抜けて、
列車は走って行った。
トンネルを抜けるたびに、雪の量が増えていく。
電車の扉の隙間から漏れてくるしんと冷えた空気に、北国を感じた。
雪は光に照らされてきらきらと輝いている。
夕日はもうほとんど沈んでしまっていて、
世界の境界線を、夜でも昼でもない曖昧な色に染めながらわたしたちを照らした。
右も左も見たことのない景色だった。
右側に座る澪ちゃんが、左手でぎゅっとわたしの手を握った。
ほんのりと伝わってきた熱は、カイロのせいじゃ、なかったはずだ。
わたしは右手で澪ちゃんのウォークマンを掴むと、
音楽のボリュームを、ちょっとあげた。
ロッケンロールは鳴り止まない。
エンドレスリピート。
気がつけば月が輝きを増している。
窓ガラスがぼんやりとわたしたちの姿を映している。
暗闇の向こう側の澪ちゃんと目が合った。
はぁ~っとガラスに息を吹きかけると、そこだけが白く白く濁った。
その白く濁ったところに文字を書いて、わたしは振り向いた。
澪ちゃんは答えた。
『わたしもだよ。同じ気持ちだ』
特急列車は、
距離も時間も時空も越えて、わたしたちを運ぶ。
窓の外は、無限に広がる宇宙。
ああ、夜がはじまる。
もうすぐすれば、真っ暗な空に白くて大きな月が上って、
月明かりに照らされた夜の海には、白い道ができる。
ふたり、手をつないで夜道を歩いていく。
広く大きな星の上、わたしはどこまでゆけるだろう。
遥か大きな空の下、わたしにできることはなんだろう。
わたしたちが、
ずっとずっと遠くに、今、ここからどんなに離れた場所に行ったって、
どこまでも月は追いかけてきて、わたしたちを照らす。
曇りガラスに書かれた文字は、とっくに消えている。
なにが書かれていたのかは、ふたりだけの秘密。
特急列車は、浮き沈みを繰り返しながら走っていった。
ー第5話 おわりー
第6話「世界の半分を、ください」
腕を組みながら、首をひねり、
うーん…と
考えて、
目を開く。
隅から隅まで、おかしなところがないかどうか、
きれいにデコレーションできていることを確認する。
ん。大丈夫でしょう!ばっちり…バッチリ!ふんす!
この日のために料理の腕前を磨いてきたんだもの…。
形が崩れたりしないように、丁寧にフタをかぶせた。
あ、記念に写真撮っといたほうがいいかな?
ま、いいか。あとで食べるときに撮れば。
澪ちゃん、よろこんでくれるといいな。
たのしみだな、はやくかえってきてくれないかな。わくわく。
主役でもないわたしのほうが緊張して、
そわそわとリビングを行ったり来たりする。
ガチャ、と玄関の扉が開く音が響いて、わたしは跳ねるようにリビングを出た。
「おかえり!おそくまでおつかれさま!きょうも寒かったね。
ごはんは済ませてきたんだよね?お風呂沸いてるよ。それから…」
「ただいま、悪いけど後にしてもらってもいいかな」
持ち帰りの残業、片付けちゃいたいから。
そう言って澪ちゃんは部屋に入っていった。
バタン、と音を立てて、扉が閉まる。
昨日の夜更け過ぎ頃から降り出した雪は日付をまたいで降り続け、
窓の外では今も変わらず、雪が舞っている。
雪化粧が施された街は、まるで知らない世界になってしまったみたい。
そうだ♪
差し入れ、ということにして澪ちゃんのお部屋に持っていっちゃお♪
わたしはおもむろに立ち上がって箱を手に取った。
「はーい、なに」
コンコン、とノックして、澪ちゃんの返事を確認して扉をあけて…………、
…。
………なんで、
………どうして。
肝心なときにこんなことになっちゃうの?
部屋の入り口すぐのところになんで、コードがあるの?
「…盛大に飛んだなぁ」
そう、まるで、放物線を描いたみたいに。
むかしのつまらないコントみたいに。
延長コードは呪いの蛇みたいにわたしの足に巻きついて、
つんのめったわたしの手から離れた小箱は飛んでった。
「…………グスッ」
うぅ……せっかく……せっかく……。
「い……い…ッしょうゲンめい…ヒック……がんばって…ヅく……った…のに……ヒック」
ベッドにはべったりとクリームが飛び散って、
バラバラになったいちごは、あっちこっちに転がっていた。
「………いちご。いっぱいだな」
「イッパイ…たべて……ヒック…ほしかっ…た…から…グス」
マジパンのくまさんとうさぎさん。首が折れちゃった。
「…ありがと」
ごめんね…ごめんね…せっかくのお誕生日なのに……ごめんなさい。
どうしてわたしこうなんだろうね。頑張ってお祝いしたかったのに。
がんばってケーキつくったのに。
いちごいっぱい、のせたのに…。
澪ちゃんがすきそうな、かわいいくまさんとうさぎさんのマジパンもつくったのに…。
きょうのために、とっておきの紅茶の茶葉も用意してたのに…。
澪ちゃんがよろこぶ顔、見たかったのに。
ふたりでお祝いしたかったのに。
美味しいケーキたべて、たのしくお祝いしたかったのに…。
ごめんね……ごめんね……。
わたしなんて………わたしなんて………、
眉毛は太いし、
クセ毛はヒドイし、
グズでノロマでどんくさくて、
最近また1キロ太っちゃったし、
料理はりっちゃんみたいに上手くできなくて…
こんなんじゃ、
ジュリエットに……なれないね。
「……おいしい」
頭からひっくり返ってベッドに落ちたケーキをちぎって、澪ちゃんは呟いた。
「デコレーションが見られなかったのは残念だけど、
このケーキ、すっごくおいしいぞ。
ムギが頑張ってつくってくれたって、わかるよ」
いちごをひょいとつまんで口に入れる。
「…ウソ。
全然ダメだよ、こんなケーキ。ぐちゃぐちゃだもん…」
「いちご、甘くて美味しい。ほら、ムギも」
もぐもぐといちごを食べながら、わたしに向けていちごを差し出す。
わたしはパクッと食いついた。
「それにローソクに火がついてなくてよかったじゃないか。火事になっちゃうぞ?」
「…そんな問題じゃないもん」
「まぁまぁ…」
笑いながらぎゅっと、わたしを抱きしめて、
頭をやさしくなでてくれた。
「よしよし」
「……わたしのこと…きらいになった…?」
「……ないよ、そんなことない」
「……ほんとに?」
「バカ……あたりまえだろ」
「………グスッ」
いつからだろう、澪ちゃんの手のひらがあったかくなったのは。
手のひらだけじゃない。
澪ちゃんぜんぶぜんぶがとってもとってもあったかい。
いまはもう、わたしよりもあったかいかもしれない。
…。
…あったかい。
…。
「…もう寝た?」
「…ううん」
目の前には見覚えのない景色が広がっている。
ベッドが汚れちゃったから、今日は久しぶりにコタツで寝るのです。
なんだかすこし、わくわくする。
わたしの右側で横になっている澪ちゃんが首だけこちらを向けて言った。
「こたつで寝るの…久しぶりだな」
「なんだか学生っぽいよね♪」
「…そうだな。まぁこたつで寝ると疲れがとれなくて、次の日ちょっとしんどいんだけどな」
「………ごめんなさいわたしのせいで……」ションボリ
「あ、ちがうっ、ごめんごめんそう意味じゃなくて…!」アタフタ
静かな夜だった。
豆球がオレンジ色に染めたこの小さな世界に、
チッチッチッ、と時計の針の音がだけが響いている。
「…きょうの澪ちゃん、やさしい」
「いつもやさしいだろ、わたしは」
「フフ…そうね。そうだったね」
変えたばかりの新品の豆球が、揺れている。
「澪ちゃんはさぁ…」
「うん」
「ひまわりだと思ってた」
「うん?どっちかっていうと、律の方がひまわりっぽくないか?」
「ううん。澪ちゃんがひまわり」
りっちゃんは太陽よ。
「わたしがひまわりかぁ…じゃあムギは…」
「月見草ってことにしておこうかしら?」
「なんだよ…それ」
半分をください。
あなたの世界の半分をください。
半分だけで、いいから。
太陽が沈んでしまった後の、世界をください。
全部だなんて、言わない。
陽の光がないときだけで、いいから。
太陽の代わりでいいから。
「今日が終わっちゃう前に、もう一度伝えておかなくちゃ」
「なに?」
「誕生日おめでとう」
「…ありがとう」
夜のひまわりが見つめる先には、なにがあるんだろう。
そこにもし、わたしがいたのなら。
それはとてもしあわせなこと。
ああ。夢見る気持ちでわたしは瞳を閉じた。
瞳を閉じれば、そこはいつも、夜だから。
いつまでもわたしを、わたしのことだけを、みつめてほしい。
ー第6話 おわりー
最終話「春風」
「…もういい?」
「あ、まだ!えーっと…。
よし、OK。もう大丈夫」
合図を受けて瞼を開く。
目の前に転がるふたつのたまご。
「…うーんとね」
「……うん」ドキドキ
「こっち」
たまごに触れないようにして、わたしは左側のたまごを指差した。
「…あたり」
「えへへ」
Vサインをするわたしに、不満そうな澪ちゃん。
「なんでわかるんだよ…」
「…さぁ?なんとなく、かな」
わたし指差したたまごがくるくると勢い良く回転している。
「澪ちゃんが外し過ぎなのよ」
「…呪いにでもかかっているのかな…」
「大げさねぇ…」
「でも36連敗だぞ、フツーそんなことありえるか?どれだけ外してるんだよわたし…」
「まぁまぁ」
気分転換に散歩に出かけることにした。
最近すっかりあたたかくなって、もうコートは必要無い。
花の蕾は膨らみを増して、
真昼の陽光はあたたかく、
桜の季節はもう、すぐそこまで来ている。
「お花見、たのしみだね」
「ああ」
「花見酒、飲みたいねぇ…」
「桜とお酒とどっちがたのしみなんだよ…」
「えへへ…両方!」
「やれやれ…」
公園前通りの横断歩道で赤信号に捕まった。
歩行者横断用の押しボタンを押そうとすると、
小さな女の子がふたり、手をつなぎながら駆けてくる。
「どうぞ、」と言ってわたしはボタンを譲った。
ショートヘアーの女の子と、
ロングヘアーの女の子。
ふたり仲良く、いっしょにボタンを押した。
信号が変わるまで、ふたりはずっと手をつないでいる。
ようやく信号が青に変わった。
ショートヘアーの子が真っ先に走り出そうとして、
ロングヘアーの子が引き止めて、
それからふたりでわたしの方を振り向いて言った。
「ありがとう」
「…どういたしまして」
お辞儀を済ますと、ショートカットの子が一目散に走り出す。
それを追いかけて、もうひとりの子も横断歩道の向こう側へ駆けていく。
太陽に照らされた栗色のショートヘアーがきらめき、
風に吹かれて長い黒髪が揺れる。
ふたりに続いて一歩を踏み出そうとすると、澪ちゃんがわたしの右手をつかんだ。
「こっちの道から行こう」
わたしは黙って頷いた。
そのまま特に会話を交わすこともないまま、
ふたりでのんびりと歩いた。
太陽が、ちょっと眩しい。
街路樹が光を遮ると、なんだかほっとする。
「さっきの子たち…」
「うん」
「幼馴染かしら?」
「…どうだろうな」
「仲がよさそうだったね」
「…そうだな」
彼女たちの姿はもうとっくにどこにもない。
わたしは澪ちゃんの左手をぎゅっと握った。
澪ちゃんがきゅっとわたしの右手を握り返した。
澪ちゃんの手はほんのりとあたたかい。
この手が、このままずっと、あったかいままでありますように、
気持ちを込めて手を握る。
澪ちゃんが痛くならないように、でも、
思いだけはいっぱいに。
「あの、さ。ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
「いいよ、どこ?」
「前から行ってみたかったカフェがあってさ。最近あたらしくできたお店なんだけど」
「いいね。行こう行こう♪ティータイムしましょ♪
あ、わたしも寄りたいところがあって。カフェの帰りに、いいかな?」
電球を買うのを忘れないようにしなきゃ。
昨日切れちゃったんだった。思い出してよかった。
もう一度、信号に捕まって横断歩道で立ち止まった。
見上げた先の花の蕾はもう既に、ほころんでいるものまである。
真昼の陽光はあたたかく、街を行く人たちの装いは軽快だ。
モンシロチョウがひらひらと目の前を飛んでいった。
はちみつ色の午後が過ぎてく。
春は、すぐそこまで来ている。
瞳に映る全部が、輝いて見えた。
はちみつ色の午後が過ぎてく。
そっと、瞳を閉じる。
そこにあるのは、満開の桜。
月の明かりに照らされた真夜中の桜。
風に吹かれた花びらが、きらきらと夜空を舞う。
花咲く空の下、
わたしは瞼を閉じたまま、桜の木にもたれかかる。
ふたりで桜を見に行こう。
今年の桜も。
来年の桜も。
その次の年の桜も。
そのまた次の年の桜だって。
ずっと、ずっと。
必ず見に行こうね。
約束だよ。
ぜったいぜったい、約束よ。
そよ風がやさしく頬を撫でるように流れて、
春の匂いをつれてきた。
いちごを買って帰ろう。
晩ごはんの後に、ふたりで食べよう。
そうだ、帰ったらコタツをしまわなくっちゃ。
目を開いて信号が青になったことを確認すると、
わたしは一歩を踏み出した。
おしまい。
以上です。
フライングですけど澪誕記念のSSでした。(ムギちゃんの語りだけど)
ありがとうございました。
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