人の身なれば剣鬼たること叶わずとかそんな話やってみる(66)


 秋も深まり、日の落ちた林間は肌寒い。
 木々の間を伸びる石段を上がっていくとさらに冷えてくる気がする。
 身体にひんやりとまとわりつく空気が、意識を細く鋭く削り取っていった。

 木の枝の間に見え隠れする空には尖った月。
 ふと振り返ると、赤く焼けた西の地平。

 じっと見た。視線がその果てに届くのを待つようにじっと目を凝らした。
 遠くひらいた距離を越えて、時の壁を越えて、見えるものがある。そんな気がする。
 川の水を踏み散らし駆けていく自分と、並んで走る背の高い――

 日の残滓に目が痛くなった頃、彼は目を行く手に戻した。
 胸の奥、そして左手に下げた刀が妙に重い。


 石段を上りきると古びた社が目に入る。
 周りを密に生えた木々に囲まれ、黒く沈殿した闇に呑まれかけていた。
 見回したが誰もいない。

 あるのは一帯を包む静寂だけ。
 いない。思わず安堵の息が漏れる。
 俯いて目を閉じる。いないのならばそれでいい。

「蚊が出ない季節になったよ」
 するりと滑りこむように聞こえてきた声にはっと顔を上げる。
 社の前に男が立っていた。
「涼しいのはいいことだ」

スレタイの前半はカッコいいのに後半で台無し……


 ひょろりと細長い。そんな印象だけが頭を素通りしていった。
 巨人のような体躯やら隆々たる筋骨やら。そんな噂とははるかに遠い。
 ただ、どこか中空に浮いたような、そんな人離れした雰囲気だけは聞いていた通りだ。
(剣鬼……)
 背筋を寒気が走った。

 男は切れ長の目でゆったりとこちらを眺めていた。
 いや、素通りして、彼の背後を見つめている。
 肩越しに振り向く。先ほども見た赤い地平。

「懐かしい」
 ぽつりと男が呟いた。
「そうだな」
 乾いてはり付いた唇を剥がして答えた。声がかさついた。


 刀を静かに腰に差す。そして言う。
「元気にしてたか清吉」
「うん。まあ」
 男は曖昧に微笑んで鼻をこすった。

「勘ちゃんは? 元気だった?」
 ちっ、その呼び方はやめろっての。勘助は胸中で毒づく。
「見ての通りだ」
 別れがつらくなるじゃねえか。

「そうか、よかったよ」
 勘助の思いを知ってか知らずか清吉は嬉しそうに答える。
 いや、知らないはずはない。その右手には抜き身の白刃があるのだから。

 笑い方は変わってないな。優しく柔らかい、あの頃のまんまだ。
 なら変わったのはなんなのか。それを確かめるまでは死ねそうにない。
 鯉口を切った。


……

 時をさかのぼること五年ほど前。


……

 川の水で顔を洗うと擦った傷にしみた。
 勘助は舌打ちして、そのこぶになった箇所を乱暴にぬぐった。
 ぱっと閃くように強まる痛みに悲鳴が漏れそうになる。
 おおいてえ。
 無理に呑みこんだそれは、喉の奥に引っかかってうめき声に化けた。

「大丈夫?」
 背後からの声に顔を上げる。空は鮮やかな夕焼けに染まっていた。
 稽古を始めたのが昼前だから、もう半日が過ぎたのか。
「たいしたことねえよ」
 言いながら振り返ると、勘助と同じくらいの歳の少年が視界に入った。


 背は高い。勘助が少し見上げる形になる。
 それでも全く威圧感を感じないのは、身の丈に合わない細い体躯とどことなく自信なさげな表情のせいだろうか。
 右手には木刀をぶら下げ、こちらを心配そうに見ている。
「本当に? 痛くない?」

 痛くないわきゃねえだろが。
 思いながらも、ひらひらと手を振る。
「お前は力がないから打たれても痛くない」
「そうか、よかったあ」
 清吉は心底安心したように笑った。馬鹿かこいつ。


 痛いに決まってる。
 最適な剣線で最速の一撃を叩きこまれたのだから痛くない訳がない。
 それでも認めるのは癪だった。

「だけどごめんね勘ちゃん」
「俺は自分で手加減してるんだ。気にすんな」
「そうだね、ありがとう」
 この素直さがなおさら忌々しい。

 最近は清吉に一本を持っていかれることが多くなった。
 彼曰く、なんだか分かってきた、らしい。
 なぁにが分かってきただ。ついこの間まで俺からただの一本も取れなかったくせに。


「剣の先まで意識を通すんだよ」
 と、清吉は言う。
「隅々までいきわたらせて、こう、ぼんやりと見えてくるものがあるんだ。それを掴む」
 そうすると自然と剣が相手に届いているらしい。

 俺とおんなじたかが十四のくせして悟り澄ましたようなことを言うない。
 不機嫌顔で小突くと、清吉は困ったように笑った。
 うん、ごめん。ちょっと嘘ついた、と。

 何が嘘だったのかは今もまだ分からない。
 こちらから訊くのもなんだか悔しい気がしてできなかった。

 ちっ、と舌打ちして顔に残った水を払う。
 脇に置いていた木刀をとりあげた。
「そろそろ帰るか」
「そうだね」


 山を下りる石段からはふもとの町が見える。
 その向こうには赤く染まる地平。
 それを眺めながら下っていくのが二人の日課だった。

「ずいぶんあったかくなってきたよね」
「んー?」
 言われてみれば確かに肌に当たる風が心地よい。
 見回すと草木の間に花やそのつぼみがいくつか目に入る。

「春かあ」
 清吉は何やら夢の中にでもいるように目元を緩ませていた。
「いいねえ、春」

 その頭をぽかりと木刀ではたく。
 あいた、と清吉が顔をしかめた。
「何?」
「なんか腹立たしかったもんだから」
「よく分からないよそれ」


 言っては何だが清吉は頭がゆるい。
 春かあ、などと平気でほざく。
 こんな奴に追いつかれ始めてるのかと思うにつけて、勘助は無性に苛々した。

 とはいえ清吉のこの調子は今に始まったことではない。
 二人は同じ長屋に住んでいるのだが、清吉はたびたびくだらないことで勘助を訪ねてきた。
「勘ちゃん、大変。ちょっと来て」
 何かと思って外に出てみると、清吉が草むらにしゃがんで手招きする。

「なんだよ?」
「かたつむりがね、殻にこもったまま出てこないんだ」
 そして真剣な目で勘助を見つめた。
「死んじゃったのかな?」

 その日まで雨の降らない天気が続いていた。
 だから次の雨天を待っているんだろうというと、清吉は心底安心したようにため息をついた。
「勘ちゃんって物知りだねえ」
 いい加減にしろと何度張り倒しそうになったことか。


 記憶の中で黒い疾風がうなる。
 的確にこちらの木刀をいなし、そのまま視界を埋め尽くす。
 側頭部に激しい痛み。
 舌を巻く流麗な一撃。

(こいつが放ったんじゃなきゃまだ分かるんだけどな)
 階段を横切る白い蝶に歓声を上げる清吉を横目に口を尖らせた。
 納得がいかない。

 だがまあそれは一旦おいておこう。
「そろそろ指南所で"腕試し"があるな」
 蝶を追いかける姿勢に入っていた清吉がぴたりと動きを止める。

「……もうそんな時期だっけ?」
 清吉は顔をしかめて振り返る。
「おう、もうそんな時期だ」
 彼のその表情を見て、少し胸のすく思いがした。


 二人が通う剣術指南場は町の東にある。
 西にある大きなものに比べれば随分小さいが、教え上手な師範がいて弟子は少なくない。
 その指南場では毎年"腕試し"と称して剣術試合を行う。
 弟子を総当たりで戦わせ、稽古の成果を見る場というわけである。

 師範に言わせればこれも鍛錬の場の一つに過ぎず、さらなる精進の足場として云々ということらしい。
 だが勘助たち弟子にしてみれば誰が指南場の一番かを決める大事な行事だ。
 ただ、清吉はそういったものが苦手らしい。

「気が進まないなあ」
 頭をぽりぽりと掻いて、情けない顔で清吉は言う。
「なんでだよ。まるっきり勝てないって訳でもないだろうに」
「それが問題なんだ」


 だってさ、と彼は続ける。
「清吉なんかに負けたーって、泣く子もいるんだもの」
「それは負けた奴の鍛錬不足だろ」
「泣かせちゃうくらいなら勝てなくていいよ」
 きっぱりと言い切った。

 分かってねえの、こいつ。勘助は呆れた。
 どんなに哀れに思おうと、勝ちは勝ち、負けは負けだ。
 強い弱いをはっきりさせるために試合をするのであって、その後のことなんて考えなくてもいいというのに。

「……気が進まないなあ」
 ため息をついて、清吉が階段を下りはじめた。
 今年は泣く奴が多そうだ、と勘助は思った。いや驚く奴の方が多いかもしれない。


 長屋に戻ると勘助は夕餉まで木刀の素振りを行う。
 まだやるんだ、頑張るねえと驚く清吉に、
「勝ちたいからな」
 とだけ答える。もちろん"腕試し"の話だ。

 今年こそ一番になる。勘助はそう決めている。
 自分にはその資格がある、と信じている。
 前の年は茂三の野郎に後れを取ったが、二度も繰り返すつもりはなかった。

 風を切って木刀がうなる。
 回数を重ねてより強く、速く空気をぶち破る。
 汗が噴き出すが疲れは感じない。
 むしろどんどん上達していく自分を見つけて笑い出したい心地になった。
 勝てる。


『剣の先まで意識を通すんだよ』
 そのときふと清吉の言葉が頭をよぎった。
『隅々までいきわたらせて、こう、ぼんやりと見えてくるものが――』

 正直、彼の言っていることはよく分からなかった。
 勘助には見えるものなどない。
 清吉には何かが見えているのだろうか。

 相手の隙か?
 最適な剣の軌道か?
 何にしろ自分には理解できないものなのだろう。
 少し、腹立たしかった。

 夕餉の直前まで、勘助は素振りを続けた。


 "腕試し"は指南場の前で行われる。
 あまり開けた場ではないが、二人が打ち合うには十分な広さではある。
 弟子以外の町人も数人、見物するために広場にいた。

「清吉なんかに負けたあっ」
 さっそく泣きだす声が上がる。
 負かした当人は気まずげな顔で頭を掻いている。

 下がってきた清吉に、勘助は気にするなと声をかけた。
「ありゃわざと負けるのも無理だったって」
「そうだけど……」
 清吉はなんとも歯切れ悪く言うと、勘助の隣に腰を下ろした。

 入れ替わりに立ち上がって前に出ていく少年がいる。
 去年勘助を負かした茂三だ。
 こちらを振り返り不敵に笑うと、前に向き直って木刀を構えた。


 滞りなく試合は進んだ。
 勘助は今のところ全勝。茂三の野郎も同じ。
 清吉は半々といったところだった。

「今年の清吉は頑張ってるな」
 師範が近寄ってきて笑った。
 白髪の混じった頭の小柄な男で、肩書きに似合わず穏やかな雰囲気をまとっている。

「勘ちゃんが稽古つけてくれたんです」
「ほう」
 師範は興味深げに声を漏らす。

「山で一緒に素振りとかやってたんだ」
 自慢げに言う勘助に、それは良い心がけだと師範は微笑んだ。
「今年は茂三に勝てそうかね」
「もちろん!」
 勘助は立ち上がると、茂三の待つ広場の中心へと進んだ。


 開始の声と同時に眼前に迫った木刀を、勘助は危なげなくはじき返した。
 押し戻されて茂三がよろめく。
 その目に浮かんだ驚きを見て、勘助はひそかに満足した。

(今年はちっと違うぞバカ茂)
 心の中で勝ち誇って刀を下段に構える。
 明らかな挑発に、茂三の顔がぴきりとひきつった。

 鋭く二度、頭部を狙って木刀が踊った。
 勘助は後ろに跳んでそれを避ける。
 当然追撃のために茂三は踏み込む。
 さらに後ろに跳ぶ気配だけを残して、勘助は素早く横に身体をさばいた。

 すれ違うように位置がずれた。
 一瞬こちらを見失って茂三が焦るのが手に取るように分かった。
 勝負が決する。一撃を腹に受けて、茂三が地に膝をついた。


 その後残りの試合も消化して、勘助は全勝を果たした。
 清吉とも打ち合ったが問題なく一本を奪って終わった。
 違和感を抱くほどの差し障りのなさだった。

 茂三に勝った満足感はその瞬間に妙なもやもやに化けた。
 師範のねぎらいの言葉も茂三の負け惜しみもほとんど意識の外だった。

「清吉、山行くぞ」
 "腕試し"が終わって、勘助は清吉を呼んだ。
「え? 稽古? でも今日は――」
「いいから!」

 声を荒げると、彼は口をつぐんで大人しく勘助の後に続いた。
 周りはぽかんとそれを見送っていた。


 石段の先。
 いつもの稽古場所である古びた社の前についた勘助は、そのまま立ち止まった。
「勘ちゃん?」
 肩越しに振り向くと、清吉が妙に心細そうにこちらを見ていた。
「あの……どうかした?」

「なんで手加減なんかしたんだ?」
 ゆっくりと、噛みしめるように勘助は言った。
 清吉は何の事だか分からないといった様子で眉をしかめて見せた。
 が、その視線は微妙に勘助からずれて関係のない木の幹を見つめている。

「あまりにも手応えがなさ過ぎたんだ」
 清吉に身体の正面を向ける。
「気づかないだろうとでも思ってたのか? 一緒に稽古してたんだから分かるに決まってんだろうが」


 清吉との間合いは三歩ほど。
 勘助は彼が抗弁しようと口を開きかけたのと同時に、踏み込んで木刀を振り上げた。
 乾いた音が鳴り響いた。

 下方から脇腹を狙った一撃がしっかりと受け止められている。
 手のしびれを感じながら勘助は睨み据えた。
「まさか忘れたわけじゃないよな」
 試合のときと同じ角度、同じ速度のこの攻撃、清吉は受けとめられずにまともにくらっていた。

 尖った視線の先で、清吉は黙りこくっていた。
「なんとか言えよ」
「……ごめん」


「なんで手加減なんてしたんだ」
 先ほどと同じ問いを、勘助は繰り返した。
 言葉を選ぶような間があった。

「ひとつ勘違いしてほしくないのは」
 一呼吸置いて、
「勘ちゃんに手加減してあげようとか思い上がったことは考えなかったってことだ」

 それを聞いてから、勘助は打ちつけたままだった木刀を引いて手元に戻した。
 一歩を退く。
「じゃあなんで」
「分からない」


 分からないこたぁないだろうが。
 苛々しながら勘助は視線の強度を上げた。
「ああそうかよ。なんとなく勝ちを譲ってあげたくなったってかよ」
「そうじゃんなくて」
「俺がそういうのを嫌ってることは知ってるだろうが!」

 気を使って手心を加えるやら八百長に加担するやら。
 曲がったことはどうにも好かない。
 常に真っ直ぐ生きたいと思っているほど清くはないが、嫌いなものは嫌いだ。

「理由を言えよ。言わなきゃこれからずっと口をきかないからな」
 清吉は顔をひっぱたかれたようにはっと表情をひきつらせた。


 沈黙が落ちた。
 清吉は沈痛な顔で俯いた。
 春らしい風が、袴の裾をなびかせて通り過ぎる。

「……技を研ぎ澄まして、最良のものへと限界まで近付く」
 しばらくして清吉は呟いた。
「その方法を知り尽くした上で、さらに自分と向き合うことが求められる」

 勘助はぽかんと口を開けた。
 何の話だ?
「自分でも分からないよ。でもそのまま言葉にするとこうなるんだ」

 顔を上げて、清吉は真っ直ぐ勘助の目を見据えた。
「どうすれば相手を傷つけることができるかぼんやりと見えてきた」
「どうして?」
「分からない。でもだんだん自分がその最良の方法に近付いてるのは分かる」


 剣鬼、という言葉がふと頭に浮かんだ。
 かつて師範が言っていた。
 生まれながらにして剣のなんたるかを体得し、壊す方法を熟知し、それを実際に為す者。

「でも、心が」
「心?」
「そう、心がそれをせき止める」
 だからまだ平気でいられる。清吉はそこで言葉を止めた。

「なんかよくわかんねえけど」
 戸惑いながら、勘助は言葉を選んだ。
「とりあえず、全体ではあれがお前の本気だったってことか?」
 清吉がうなずく。

 勘助は深く息を吸って、それから吐いた。
「ならいいや」
「え?」
「帰ろうぜ」


 清吉の脇を通り過ぎて、石段を踏んだ。
 同時に夕日の光が目を刺した。
 赤く染まる町並みが眼下に広がる。

 美麗な光景ではあった。
 だが、勘助は後ろを遅れて歩く清吉のことが気になって仕方がなかった。
 剣鬼。その言葉が頭に浮かんだ瞬間の寒気が、いまだに背筋を離れない。

見てるよ


……

 もしかしたら清吉は、あそこにいた全員を叩き伏せることができたんじゃないか。
 自分など及びもつかない腕の持ち主になってしまったんじゃないか。
 そして、そのことを薄々感づいていたからこそ自分はあんなに不機嫌になったんじゃないか。

 そんなようなことが最近、勘助の頭いっぱいを陣取ってはなれなかった。
 清吉と打ち合いをするたびに疑惑が確信に変わっていく気がする。
 なんだかわざと手を抜かれているような感じがしてぬぐえない。

 なんで今まで気づかなかったんだろう。
 清吉は打てば勝てる瞬間をわざわざ黙って見送っているようなところがあった。
 それまでは清吉自身がそれを分かっていないのだと思っていた。


 指南場での鍛錬にも身が入らない。
 茂三と打ち合って負かしても特別喜んだ様子を見せない勘助に、周りも様子がおかしいと思ったようだ。
「おい、すかしてんじゃねえぞ」
 茂三が何か言っても、勘助は上の空で、そうだな、としか答えなかった。

「なんなんだよお前」
「そうだな」
「俺をこけにしてんのか」
「そうだな」

 ふざけんのも大概にしろ、とついに我慢ができなくなったらしい彼は、勘助に掴みかかろうとした。
 その時師範が勘助を呼んだ。
「ちょっとこっちに来なさい」


 指南場の奥の間で、師範はまず勘助に訊ねた。
「身体の具合でも悪いか?」
「いえ」
 とだけ勘助は答えた。

「何があったかは知らんがまあいい。呼んだのはそれとは別の用事だ」
「なんです?」
「"腕試し"」
「はい?」

 つい先日終わった行事が一体何だというのだろう。
「この間は見事だった。鍛錬が生きたな」
「はあ」
 試合後にも言われたのと同じような褒め言葉だ。
 目じりにいっぱいのしわを寄せて笑う顔もその時と同じ。

「そこでだ、お前に頼みたいことがある」
「頼みたいこと?」
「西の指南場との"腕試し"だ」


 指南場の板間に戻ると周りの仲間が集まってくる。
「勘助、師範に何言われたんだ?」
「どうせ集中力が足りないとか怒られたんだろ」
 ふん、と鼻を鳴らす茂三に、勘助はにやりと笑いかけた。
「西と試合してこいだと」

 この町には西にも指南場がある。
 大きな指南場で、町人の子供ばかりが通うこちらと違い、武家の者や大人もそこで剣を習っている。
 そういうこともあって西は東を見下しているとかいろいろあるのだが、まあそれはいいとして。
 前々から東西の指南場の交流を増やして、試合なども行なおうじゃないかという動きがあった。

 勘助はその交流試合のため、東の代表として選ばれた、そういうことだった。


「すっげえ!」
 道場の仲間たちは色めきたった。茂三だけはむすっと口を尖らせていたが。

「やったね勘ちゃん」
 にこにこと微笑む清吉に、おう、と威勢よく返す。
 清吉のことでもやもやしていたのが、興奮で吹き飛んでいた。

「叩きのめして泡ふかしてやれ!」
「勘ならやれるって!」
 道場がにわかにうるさくなった。
 勘助はまあ慌てるなよ、と言いながらも悪い気はしていなかった。

 西の奴らはお高くとまっていて気に食わない、という意識が東にはある。
 だが、それでもあちらの方がはるかに格が上であることは誰もが認めていた。
 その西と試合ができるということは名誉なことなのだ。


 当然山での練習にも熱が入った。
 素振りはいつもの倍やった。
 打ち合いは清吉がもうやだあと悲鳴を上げるまで打ちこんだ。
 絶対に勝つ。その気概だけで身体が強くなった気がした。

 西との試合は数日後。
 それまで勘助は一切手を抜かずに鍛錬に没頭した。
 剣鬼。その言葉を思い出すことはなかった。


 日はめぐって、試合当日。

 西の指南場は広かった。
 東の倍ほども大きい。
 その中心に進みでるのにはそれなりの勇気が必要だった。

 木刀を携えて歩む勘助を大勢の人間が見つめている。
 その視線に若干の緊張を覚えながら、彼は相手の目の前で足を止めた。
 礼を交わし、木刀を構える。
 勘助に剣先を向ける西の代表は、それほど歳の離れていない少年だった。

 背は勘助と同じか少し低いくらいだったが、だからといって貧相な体躯というわけではない。
 頑丈そうな広い肩幅が印象的だった。
 くっきりと太い眉に強い眼光。見据えられるだけで戦意が萎えてくるような。


 ふと相手の迫力に呑まれそうになっていることに気づく。
 勘助は鋭く息を吐いて身体に活を入れた。

「始め!」
 開始の合図と共に、勘助はじりじりと間合いを詰め始めた。
 木刀の先が、打ちこめる距離へとゆっくり近づいていく。

 揺れる剣先が、相手の微動だにしない木刀に触れようという瞬間。
「ふっ!」
 勘助はそれを軽く払い、返す勢いで相手の頭を狙った。

 速度は十分。威力も申し分ない。決まれば問題なく一本となっていた。
 そのはずの一撃は、だが軽くいなされて何もない中空を引っ掻いた。


 舌打ちして軽く飛び退く。相手の反撃はなかった。
 できる相手だ、と勘助は息を詰めた。
 構え直して見据える。相手は先ほどと全く変わらない構えでこちらを睨んでいた。

 踏み込んで突く。軽く受け流される。
 横に薙ぐ。一歩の体捌きで避けられる。
 返す一撃で袈裟に斬るが、軽く受け止められて押し返された。

 全く通らない。
 こちらの一打一打を的確に潰してくる。
 打ち込むたびに勘助の胸に焦りが積もった。
 自覚はあったがどうしようもなかった。


 それからさらに数回の交錯。
 肩で息をしている勘助に対し、相手は呼吸を乱してすらいない。
 実力の差は明白だった。
 その場にいた誰もが理解した。この勝負、勘助が負ける。

 それが分かった瞬間、抑えられない衝動が勘助を突き動かした。
 一際大きな気合を上げて上段に振りかぶる。
 勢いのまま踏み込み、振り下ろす。

 相手の姿が消えた。
 そう思った瞬間、頭に衝撃が弾け勘助は意識を失った。


……

 西の指南場の裏手。
 意識を取り戻した勘助は、そこにあった井戸から水を汲んで顔を洗っていた。

 頭に鈍痛が残っている。
 胸の奥もなんだかじくじくと痛む。
 どうにもやりきれなくなって、頭から水をかぶった。

(ちくしょう……)
 弱弱しい声が口から洩れる。
 それでも涙だけは流すまいと歯を食いしばった。
 俯いた顔を伝って、ぽたぽたと水がしたたり落ちていった。

「勘ちゃん」
 背後から清吉の声がした。
「大丈夫?」


「ああ」
 井戸を覗きこむような姿勢のまま勘助は小さく答えた。
 どうしようもない脱力感が身体を包んでいる。
 誰とも話したくない。今の自分を誰かに見られるのはたまらなく嫌だった。

 だがそんな勘助の胸の内も知らず、清吉の声は近付いてくる。
「勘ちゃん」
「来るんじゃねえよ」
 八つ当たり気味につぶやく。
「でも……」

「いいからほっといてくれよ」
 清吉は口をつぐんだようだった。
 だが立ち去る気配はない。
 そのまましばらく沈黙が流れた。


「情けねえ」
 ぽつりと漏らす勘助に清吉が言う。
「勘ちゃんはよくやったよ」

 何の役にも立たない慰めだと思った。
 よくやったのにそれでも全く歯が立たなかったのが問題だというのに。
 ただ、清吉の声は優しかった。
「帰ろう、勘ちゃん」

 もう夕方だった。かなりの時間ここで落ち込んでいたらしい。
 時が過ぎるのにも気づかなかったなんてそれこそ情けないな、と勘助は苦笑いした。
「おう」
 答えて、振り返った。


 と、ちょうどその時、指南場の方から集団が近付いてくるのが見えた。
 西の指南場の弟子たちのようだった。

 稽古をしていたらしい。
 全員の顔に汗が光っている。
 笑い合いながら近付いてきて、こちらに気づいた。

 別に何が起こるでもなかった。
 西の弟子たちはちらりと目配せしあうと、何事もなかったように井戸に近付いて水を汲み始めた。
 脇にどいた勘助は、黙ってそれを見ていた。

「勘ちゃん、行こう」
 不安そうな声で清吉が言う。
「……ああ」

 井戸に背を向けて歩きだした時にそれは聞こえた。
 小さく、それでも確かに聞こえた。
 笑い声。ただ笑うだけではない。見下し、蔑む笑い。


「勘ちゃん!」
 清吉の声では止まれなかった。
 勘助はその制止を聞く前に、振り向いた先にいた少年を殴りとばしていた。

 一瞬だけ沈黙があり、それから罵声が上がる。
 勘助はさらに殴りかかろうとしたが、その前に突きとばされて尻もちをついた。
「東の雑魚が何しやがる!」
「うるせえ人のこと笑いやがって!」

 勘助は立ち上がろうとしたが、再び突きとばされて転倒した。
 顔を上げると、一人が木刀を振りかぶっているのが見えた。
 やられる。
 勘助は目を閉じた。


 後になって勘助は思う。
 この時自分が馬鹿げた喧嘩を売らなければ、その後も清吉と一緒にいられたのだろうか。
 清吉は自分の手の届かないところに行くことはなかったのだろうか。
 もう考えても意味のないことだと知りつつも、勘助は確かに迎えることができたはずの平穏な日々を思わずにはいられない。


 まずくぐもったような衝突音がした。
 それから悲鳴。どさりと人がくずおれる音。

 恐る恐る目を開くと、清吉の背中が見えた。
 木刀を構えて、勘助を守るように静かに立っていた。
 先ほどまでは持っていなかったはずの木刀。

 毒づく声が聞こえ、別の方向から一撃が飛んできた。
 清吉はそれを受けることなく、一振りでその主を叩き伏せた。

 最初の相手から奪ったのか、と勘助は気づいた。
 木刀だ。
 勘助に殴りかかってきたあの一人から、どうやってか分からないが奪い取ったのだ。

 わっと、声が上がった。
 見ると清吉に向かって一斉に木刀が襲いかかるところだった。


 勘助はただ見ていることしかできなかった。
 清吉がすべるように移動し、攻撃をかわし、木刀を叩きこむところを。
 一切無駄な音はしなかった。
 無音に近い中、人が倒れ伏す音だけが続いた。

 しばらくの後、そこに立っているのは清吉だけになった。
 こちらに背を向けているので顔は見えない。
 見たくない、と思った。なぜだか知らないが、振り向かないでくれ、と勘助は願った。

 静寂がしばらくその場を包んだ。
 自分の呼吸の音がよく聞こえた。

「行こう、勘ちゃん」
「あ、ああ」
 清吉は木刀を捨てて歩きだす。
 その背中を追って、勘助は立ち上がった。
 その間清吉は一度も振り向かず、結局どんな表情をしていたのか、ついに見ることはできなかった。


……

 数日後、西の師範が東の指南場を訪ねてきた。

 珍しいことだった。
 全くないわけでもないがだからといってよくあることでもない。
 一体何があったのだと仲間たちは騒いだ。
 なんとなく事情を察していたのは勘助と清吉だけだった。

「やっぱり、あれかな」
「だろうな」
 しばらくして師範が清吉を呼んで、奥の間に連れていった。

 なぜ清吉が? 指南場は稽古どころではなくなっていった。
 勘助だけは黙って奥へ続く戸を見続けていた。


 戻ってきた清吉は特に何も言わなかった。
 仲間たちが口々に清吉に質問を浴びせたが、彼は言葉を濁すばかりだった。
 稽古が終わると、清吉は勘助を呼んだ。
「勘ちゃん。山、行こう」

 社の前。
 ただでさえ木々が光をさえぎるのに加えて曇り空。
 どんよりと暗く、雰囲気もどことなく重い。

 一応木刀は持ってきていたが、稽古をする気はどちらにもないようだった。
 社の前に腰をおろし、清吉が口を開いた。
「西の師範がね。うちに来い、だって」
 勘助は立ったままそれを聞いていた。

 勘助は清吉を見下ろしているが、当の清吉は西の空を見やっていて視線は交わらない。
「この間のことをやったのが清吉だって知られたんだな」
「多分ね」


 西はとにかく腕のある人間を集めている。
 指南場の名を上げるためなら何でもやるのだと聞く。

「行くのか?」
「どうしよう」
 清吉がこちらを見上げる。
 勘助は目をそらした。

「お前はどうしたいんだ?」
 考える間をおいて、清吉は答える。
「……分からない」
 行きたくない、とは言わなかった。
 勘助は胸の奥にちくりと痛みを感じた。

 なんでだよ。
 なんで「分からない」なんだ。


「強くなりたい訳じゃない」
 でも、と清吉は続ける。
「あの時なんとなく分かった。自分にとって東は窮屈なんだって」
 あの時。西の奴らを叩きのめした、あの時だろう。

「窮屈?」
 うめくように、噛みしめるように、訊ねる。
「あの時、とても自由な感じがした。自分がやっと自分になった気がした」
 だから分からないんだ、と彼は結んだ。どうするべきか分からない、と。

 しばらくの沈黙をはさんで勘助は口を開いた。
「好きにしろよ」
「勘ちゃん?」
「気楽にやれるなら西に行っちまえって言ってんだよ」
「勘ちゃん」

 無性にむしゃくしゃした。苛立って仕方なかった。
 清吉を見下ろす。ようやく視線が合った。
「お前なんかどっか遠くに行っちまえ」
 吐き捨てるように言った。


 石段の方に足を踏み出すと、背後で清吉が立ち上がる気配がした。
「勘ちゃん」
 無視して歩いた。清吉は追ってはこなかった。

 そのまま長屋に帰って布団にもぐりこんだ。
 苛立ちはおさまらない。
 その日から清吉とまともに顔を合わせることがなくなったが、胸のむかつき以外何も感じることができなかった。


 清吉が西へ行ってから数ヶ月。
 勘助はぼうっとすることが多くなった。
 ずうっと考え事をしていて、茂三をはじめ仲間たちに気持ち悪がられるようになった。

「剣鬼、っているんですか?」
 ある日ふと師範に訊ねた。この世に剣鬼はいるのかと。
 師範はふむ、と考えてから答えた。
「人の身なれば剣鬼たること叶わず」

「なんですか?」
「人は剣鬼にはなれんということだ」
 師範は口元を緩めて言う。
「剣鬼は人ではないのだから」

 つまり。剣鬼になるには人間をやめねばならぬということか。
 清吉はいつか、そうなってしまうのだろうか。
 勘助は考える。

 清吉が西の指南場で一番の使い手になったという噂は、その数日後に聞こえてきた。
 勘助を負かしたあの少年をも負かしたということだ。

 勘助は考え続ける。
 ひたすらに考え続ける。


 事が起こったのはさらに後だ。
 西の師範が死んだ。正しくは殺された。
 木刀の一撃がそれを為したらしい。
 下手人は、清吉。

 様々な噂が飛び交った。
 師弟の間の確執やら弟子の中に積もった恨みやら指南場の跡取り騒動やら。
 事実がいかなるものか知る者はいなかったが、なんにしろ勘助には分かっていた。

 清吉。
 凍ったように寒々とした心、その中から呼びかける。
 お前、ついに人をやめたんだな。


……

 時は流れて五年後。


……

 夜の闇が迫る中、抜刀しながら勘助は思う。
 あれから淡々と腕を磨いてきた。
 清吉と思しき人斬りの噂を聞きながら、ただただ腕を磨いてきた。
 それでも剣鬼には敵う道理はない。だが、せめて。

 清吉は殺しを生業としながら各地を転々としていたようだ。
 大層な腕利きで、巨人のような体躯やら隆々たる筋骨やら。
 この町に戻ってきたらしいと聞いたのはついこの間のことだ。
 なにか手がかりがあったわけではない。だが確信はあった。
 あいつは、あそこにいる。


 抜いた白刃を右手に進む。
 五歩ほどの間合いをあけて立ち止まる。

 何かを言おうとして、何も言うことがないことに気づく。
 苦いものが胸に広がる。
 何も言えることがない。

 社の前に立つ清吉もそれは同じようだった。
 ただ、気配だけを微妙に変える。
 血の匂いが漂う。そんな気がした。

 風が吹く。瞬間。
「シッ!」
 勘助は走り込んで白刃を突きこんだ。
 避けられた刃を、横薙ぎに振り切る。
 さらに斬撃を重ねる。が、届かない。


 並みの相手ならもう五回は死んでいる。
 が、清吉はそれらすべてを無駄な行為に変えて見せた。

(清吉)
 呼ぶ。
 目の前の剣鬼にではなく、記憶の中の幼馴染に向かって。
(ごめんな、清吉)

 刃と刃が噛み合って悲鳴のような音をたてる。
 はじき返される刀がもう少しで手からもぎ取られそうになる。
 必死で柄を握った。

 戦いに集中しながらも頭の隅では別のことを考えていた。
 西の指南場に呼ばれて、どうするべきか分からないといったあの日。
 自分は止めてやるべきだったのだ。


(ごめんな)
 もう一度だけ詫びて、それから心を閉じた。
 あとは何も考えない。
 自分にできる償いは、終わらせてやることのみだ。

 鋭く息を吐いて踏み込む。
 届かなくても届かせる。
 届くまでやるのだから、いつかは届く。


 生まれながらにして剣のなんたるかを体得し、壊す方法を熟知し、それを実際に為す者。
 それが剣鬼だ。
 剣のなんたるかを知ることは、人の身でも可能だ。壊す方法も同じ。
 だがそれを実行に移すかどうかで人と剣鬼は分かたれる。

 血のにじむような思いをして剣の深奥を会得することはできる。
 だが人は人でしかない。
 殺すことへの恐怖、壊すことへの不安、その他諸々の人として柔らかい部分。
 それは剣を鈍らせる。

 そうして振るわれた剣は、既に深奥から遠い。


 刀が折れた。
 大した手ごたえもなく綺麗に先がなくなった。
 はっとした時には遅かった。
 白刃が閃く。血飛沫が飛ぶ。

 痛みもなく倒れ伏した。
 負けた。
 当然だ。自分は余計なことを考える「人」でしかないのだから。

 だが、せめて。せめて。

 最後に見える光景を求めて顔を上げた。
 黒く沈んだ人影がそびえ立っている。
 それこそ鬼のような姿だ。

 人離れした冷たい表情。
 現実離れした気配。
 胸から突き出す刀の柄。


 刀の柄?
 疑問に思って身体を起こす。
 さらに疑問が生じる。身体が動く?

 血は間違いなく流れている。痛みも酷い。
 だが動けないほどではない。

 剣鬼ががっくりと膝をついた。
 いや、剣鬼ではない。
「清吉……」
 剣鬼などであるものか。

「勘ちゃん……」
 一言呟くと、清吉はそのまま倒れ伏した。


 必死で這い寄って覗きこむ。
 涙で視界が滲むがそれでも必死に目を凝らす。
「お前、剣鬼になんかなってなかったんだな」

 勘助を殺す直前、彼は間違いなく躊躇したのだ。
 その一瞬、無我夢中で突いた勘助の一撃がその心臓を貫いた。
 清吉は変わってなんかなかった。清吉は清吉のままだった。

 もう何も言わない彼の身体を抱いて勘助は泣いた。
 取り戻せない日々を思いながら。
 あの輝かしい日々を惜しみながら。

 人の身なれば剣鬼たること叶わず。

雑だけど終わり。ありがとでした

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