P「俺の」伊織「私の」 (108)
寝付きが悪い日くらいある。
完璧に管理された空調の下、私専用に作られたベッドで横になっても、眠れない時は眠れない。
頭の中で羊を数えても兎を数えても、眠気は一向に来ない。
何度も寝方を変えてみたけど、まるで効果無し。
そのうち、布団に熱が篭り始め、その中にいるのが息苦しくなってきた。
溜息を一つつき、すぐに眠るのを諦める。
私は枕元に置いたシャルルを抱き上げて、そっとベッドを抜け出した。
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カーテンを少し捲ると、白い月が見えた。
雲一つ無い夜空は、明日は晴れだと伝えてきてくれる。
机の上に置いてある携帯電話を取り、画面を月明かりで照らしながら見る。
時刻は十一時を過ぎ。
私は何の逡巡もなく、履歴の一番上の項目を選択して、耳元に電話を当てる。
こんな時間に突然電話をするなんて非常識だけど、この人だけは特別。
窓ガラスに薄く写る自分の姿を確認。
電話だけど、なぜか身なりを気にしてしまう。
うん、大丈夫。
自他共に認める可愛いアイドルがそこに写っていた。
3コール目の音が鳴り終わる前に通話へ切り替わった。
「もしもし、こんな時間にどうしたー?」
遅い時間にかけているけど、普段どおりののんびりした声。
「用が無いなら電話なんてするわけないでしょ」
電話の向こうから、かすかな笑い声が聞こえてきた。
「そうか。じゃあこんな時間にかけてくるくらいに緊急な用事を教えてくれないか?」
緊急。確かに私にとっては緊急な用事。
だから素直に答えることにする。
「私が眠くなるまで、話し相手になりなさい」
私のいつも通りの上から目線の命令。
横柄な態度にも関わらず、プロデューサーはいつも通りに返してきてくれる。
「仰せのままに、伊織お嬢様」
耳にこそばゆい感じを覚え、微笑む自分の姿がガラスに写っていた。
「今日の仕事はどうだった?」
「もちろん完璧よ。もっと大きな仕事でもいいくらい」
「伊織には役不足だったか。じゃあもうちょっと大きいのを取ってこないとな」
そう言って、電話の向こうのプロデューサーは嬉しそうに笑ってくれた。
私がこうして電話をしているのは、特に意味があるわけでも、誰かに言われてやってるわけじゃない。
ただ少し寝付きが悪いから、こうして電話をしているだけ。
プロデューサーの声は、どこか安心する。
寂しいなんて気持ちは全然ないけど、この優しい声はずっと聴いていても飽きない。
だから私は、ここ最近、仕事で会えていないプロデューサーに、ちょっとだけ甘えていた。
「明日は久しぶりに会うわね。何日ぶりかしら?」
「確か四日ぶりくらいかな。なんだ、寂しかったのか?」
相変わらず馬鹿なことを訊いてくる。
四日程度会わなかったくらいで寂しいだなんて。
「なんで私があんたに会えないくらいで、寂しがらないといけないのよ」
「俺は寂しかったんだけどな。傍で伊織がツッコミを入れてくれないと物足りない」
はぁ……ツッコミを入れたくて入れてるわけじゃない。
ボケばっかりのうちのメンツだと、話が進まなくなるから。
「まあ伊織は俺よりやよいだよなぁ。やよい、明日が凄い楽しみだって言ってたぞ」
「やよいと会うのも、本当に久しぶりね」
プロデューサーはこうして電話をしているけど、やよいは会話すらできていない。
まさか、事務所で顔を合わす機会すらないなんて、思いもしなかった。
やよいの仕事はどちらかと言えば、国外や離島が多いから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど。
やよいと会えると思うだけで、今からでも心がドキドキする。
「大丈夫だ。やよいは責任を持って俺が監督するから」
「それ、何度目のセリフよ……」
私はやよいの過去の所業を思い出しながら、小さく溜息をついた。
「ま、明日は久しぶりに会うからな。寂しくなくても、明日は俺に存分に甘えてくれ」
「はぁ……」
少し頭が痛くなる。
窓ガラスに軽く額を押し付けて、熱くなりかけの頭を無理矢理冷やす。
「甘えろってね、私はそんなに子供じゃないわよ」
「え、嫌なのか?」
「当たり前でしょ。あんたに甘えるくらいなら、小鳥に甘えたほうがマシよ」
「なら、俺を小鳥さんと思ってくれ」
「無理無理無理無理。鏡見て言いなさいよね」
ただのプロデューサーと、なぜか私たちと同じくらい人気がある美人事務員。
どっちに甘えたいかなんて、考えるまでもない。
「伊織は冷たいなぁ。もっと俺に優しくしてくれ」
「優しくしてるでしょ。まだ不満だって言うの?」
「いつ優しくされたっけ?」
「えっ」
思いがけない問い掛けに、言葉が詰まる。
いつ優しくしたかしら……。
言われてみると、そんなにことをした記憶はあんまりない。
だけど、こういうのは返事を早くしないと、からかわれる原因になる。
記憶を一瞬で無理矢理掘り起こし、内容については何も考えずに口に出す。
「ほ、ほら、先週くらいに、雪歩の代わりにお茶を淹れてあげたわ」
「……あれが伊織の優しさなのか?」
言ったあとで、自分でもこれはどうだろうと思った。
「ち、違うわよ。えっと、ちょっと急に言われたから思い出せないだけよ」
早口で取り繕うけれど、上手くいかない。
そのうち、向こうから、ふふっと言った小さな笑い声が聞こえてきた。
「冗談だよ。伊織が優しくない日なんて無かったよ」
「なっ!?」
ぽんっと顔が熱くなった気がした。
この、馬鹿プロデューサー!
「さてと、可愛い伊織も堪能したし、時間も時間だからそろそろ寝ようか」
結局からかわれる。悔しい。
電話したのが普段よりも遅かったから、プロデューサーも早めに切り上げたかったのかもしれない。
「目の下に隈なんて作って来られると、伊織の可愛さが上手に伝えられないからな」
「なによ、さっきから褒めてばっかり。気持ち悪いわね」
「俺の深夜のテンションって言ったらこんなもんだよ」
饒舌な口ぶりに、頭を抑える。
「はぁ、やっぱりあんたの相手は疲れるわ……」
「おっと、脱線した。そろそろ寝れそうか?」
「そうね、あんたの相手をして疲れたから、ぐっすりと眠れそうよ」
ちょっとだけ嫌味を篭めてみたけど、プロデューサーは意に介さない様子だった。
「よかった。伊織が安眠できるなら、俺もすぐに寝れそうだ」
さっきまでのお気楽な声とは打って変わって、優しい声。
だから私も、意地と一緒に張っていた肩の力を抜く。
「今日はありがと」
電話の向こうの相手に微笑んでみる。
伝わらないと分かっているからできる、少し恥ずかしい行為。
「どういたしまして。また明日な」
「ええ、また明日」
「おやすみ、伊織」
「おやすみなさい、プロデューサー」
私はそう言って、携帯を耳から離した。
そっと胸に手を当ててみると、少しだけ鼓動が早くなっているのが分かる。
窓ガラスに薄く映る自分の顔も、ほんのりと赤みを帯びていた。
プロデューサーと話すと、不思議と心が暖かくなる。
今までも優しい人とは多く出会ってきたけど、話すだけでこんな気持ちになれるのはプロデューサーだけ。
携帯をテーブルに置き、すっかり熱がなくなったベッドに潜り込む。
眠れる時間は短いけれど、ぐっすりと眠れそうね。
シャルルに軽く口づけをして、あったかな溜息を一つ。
「にひひっ、大好き」
私は大きな安心感に包まれながら瞼を閉じた。
「目的地まで、残り、三キロです」
カーナビの機械的な声で目が覚める。
顔を上げると、前方にはくねくねと曲がりくねった道がある。
その先には大きな砂浜と、青い海が見えた。
「起きたか。おはよう、伊織」
右横からプロデューサーが声をかけてくる。
「ん……おはよう」
私は狭い車内の中で、大きな欠伸と一緒に全身を伸ばした。
目を擦りながらカーナビの時計を見る。
時間は朝九時を少し過ぎたところだった。
そんな時間なのに、太陽の日差しが強く感じる。
空は雲ひとつ無い快晴。
今日の撮影には持って来いの、とても良い天気。
まだ少し眠たい目を覚まそうと、窓を少し開ける。
少し暑い風が潮の匂いを運んできていた。
カーナビが示すとおり、撮影場所の海は近いみたい。
今日の仕事はイメージビデオの撮影。
撮影場所はかなり遠いところにある海。
必然的に早朝から出発することになっていた。
昨日は遅くまで電話をしていたけど、遅刻することなくこうして車に乗ることは出来た。
だけど、身体はより多くの睡眠を求めていたようだった。
久しぶりにやよいと会え、話を弾ませていたけれど、気づいたら今の今まで熟睡していた。
やっぱり毎晩電話をするのは止めた方がいいかもしれない。
……昨日みたいな日はすぐに眠れないんだから、仕方がないわよね。
「ねえ、何か飲むものある?」
喉の渇きを覚えた私は、運転しているプロデューサーに話しかける。
「後ろにいくつか買ってあるから、好きなのを飲んでくれ」
私はシートベルトに引っ張られながらも、ビニールに入ったペットボトルを一本手に取った。
「あんまり良いの買ってないわね……」
「運転中なんだから、あんまり危ないことするなよ」
背後からそんなことを言ってくるけど、したくてしてるわけじゃない。
「だって、こうしないと取れないじゃない」
「やよいに言えばいいじゃないか」
「やよい?」
そういえば、今日はやよいと一緒に来てたんだった。
だけど、その肝心のやよいが後部座席に居ない。
あるのはコンビニで買った食べ物類と、『ひびき在中』と書かれた大きな麻袋が一つ。
「ね、ねぇ……やよいはどこにいるのよ?」
「普通にいるだろ……ん、えっ?あれ?」
プロデューサーはちらりとバックミラーを見て、それから運転中にも関わらず後ろを直接向いた。
「え、え、やよい?やよい!?」
「はーい、なんですかー?」
ベタンっという音が車内に響く。
同時に、フロントガラスの上からやよいの顔が逆さまに出てきた。
予想外の出来事に身体が仰け反る。
「な、なんでそんなところにいるのよ!?」
「あ、伊織ちゃん、おはよー」
「え、お、おはよう……じゃなくて!」
私が挨拶を返すと、やよいの頭に一輪の花が咲いた。
「や、やよい、危ないから中に戻ってくれ!」
プロデューサーは叫ぶように言った。
「はーい!」
頭を引っ込めたやよいは、開いた後部座席の窓からするするっと中に入ってきた。
無事に海に到着すると、すでにスタッフが準備を始めていた。
撮影監督に挨拶をし、用意された水着を受け取り着替える。
「やよい、そっちはもう着替えた?」
「うん、大丈夫だよー」
更衣室から出ると、オレンジのセパレートを来たやよいがいた。
各所に大きなひまわりの飾りもついて、元気なやよいにぴったりな水着に仕上がっていた。
「伊織ちゃんの水着も、とっても可愛いね」
私はスカートにフリルがついた、少し緩めのAライン。
やよいの言うように、少し可愛いすぎる印象があるピンク色の水着だった。
どうしてこれなのかしら。
私なら、もっと大人っぽい水着でも十分似合うのに。
それでも、こうして見事に着こなしているんだから、さすがスーパーアイドルと言ったところね。
「やよいもとっても似合ってるわよ。さ、行きましょ」
「伊織ちゃんこっちだよー」
一足先に砂浜に駆け出したやよいが手招きをしている。
一応カメラの前なので、私もやよいと一緒にはしゃいでみる。
ふりふりと揺れるツーテールを頑張って追いかける。
波打ち際まで辿りつくと、やよいは勢い良く水をぱしゃぱしゃとかけてきた。
「えへへ、気持ちいいね!」
「もう、私も負けてられないんだから」
ぱしゃーんと私も同じくらいの量で応戦する。
波が弾ける音と砂浜を踏みしめる音が心地よく響いていた。
……響く?
「ぷはぁー。生き返るぞー」
撮影が始まって一時間くらい経ったあと、車に残してあった麻袋のことを思い出した。
プロデューサーにそれを伝えると、急いでその麻袋を担いで戻ってきた。
中に入っていたのは、全身汗だくの響。
持っていたお茶を渡したら、あっという間に飲み干した。
「ねえ、なんでこんな袋の中に入ってたのよ?」
答えは知っているけど、とりあえず訊ねてみる。
「自分が聞きたいくらいだぞ。朝起きたらもう袋に詰められてたんだぞ……」
全身から『ガナハー』という擬音が聞こえて来た気がする。
私も昔は同じ境遇だったことを思い出す。
今はもう慣れっこだから、先手を打って逃げることができるけど。
「伊織ちゃーん、一緒に泳ごー!」
響を攫ってきた張本人が、浮き輪を片手に手を振っている。
遠くからでも眩しいくらいの笑顔に、私たちも揃って笑顔の溜息をついた。
響(友情出演)を加え、再開した撮影は順調に……いかなかった。
一つは猛暑のため。
海とは言っても、撮影中、ずっと泳いでいるわけじゃない
熱い砂浜の上で走ったり、寝っ転がったり。
少し撮っては小休止。そして再開と、効率の悪い撮影をしていた。
照らす太陽を久しく憎いと感じてしまう。
沖縄生まれの響も、さすがにこの暑さには参っていたようだった。
響は暑がりだから、沖縄代表と言うのはあんまり適格じゃないのかもしれないけど。
二つ目は、やよいがやたらと物を拾ってくるから。
どちらかというと、こっちが遅延の原因だった。
「伊織ちゃん、ウミガメ拾ったよー」
「産卵中だから邪魔しないであげて」
「伊織ちゃん見て見て、シャチ獲ってきたよー」
「獲らなくていいから」
「伊織ちゃん、ペンギンさんだよー」
「す、水族館から逃げてきたのかしら……?」
「伊織ちゃーん、こんなの拾ったんだけど」
のヮの<よう
「捨ててきて……」
のヮの<な、なにをするきさまらー
疲れた。
紆余曲折あったけど、なんとか漕ぎ着けたお昼の休憩時間。
パラソルの下で太陽から避難しようとすると、やよいに三度ほどおでこを叩かれた。
「伊織ちゃん、私、お昼ご飯獲って来るね!」
やよいはそう言い残し、どこからか持ってきた銛を片手に沖へと泳いで行った。
獲ってそれから調理するのは、お昼休憩という短い時間だと足らないんじゃないかと思った。
だけど、私にやよいは止められない。
止められる人がいたら知りたいくらい。
やよいがクラゲに刺されないように祈ることしか、私にはできなかった。
一方、響はすでにパラソルの下で寝っ転がり、やよいが連れてきた仔ペンギンと遊んでいた。
顔は白と黒。体は灰色の羽毛に覆われている、小さなペンギンだ。
「可愛いなぁ。キミはもう今から自分の家族だから、何でも言ってくれてもいいぞ」
ペンギン目線で話しかける響の頭を、その話し相手がぺちぺちと手(?)で叩いている。
「今やよいがすっごく美味しいのを獲ってきてくれてるから、楽しみにしてほしいぞ」
そう言って響は満面の笑みでペンギンに頬擦りをする。
これ、本当に会話が成立してるのかしら。
「ねえ、響。そのペンギンってこの辺りに棲んでるものなの?」
「そんなわけないぞ。この仔は南極のペンギンだからなっ」
やよい、本当にどっからこの仔拾ってきたのよ……やっぱり水族館よね。
「ちなみに、何て言うペンギンなの?」
「この子はな、とっても偉いペンギンなんだぞっ。伊織、分かるか?」
響がそれを頭に乗せながら、問題を出してくる。
偉いペンギン?
偉い偉い……ナイトペンギンとかクインペンギンとか。
響が知っていそうなレベルの称号を探して行き、答えらしきものにたどり着く。
「……まさか こ う て い?」
「ピンポンだぞ!」
そう言って、夏には似合わない、ふっかふかのペンギンを抱きしめた。
ペンギンの世話って、一人の、それも多忙なアイドルができるものなのかしら。
上野動物園にでも預けたほうが良いような気がする。
楽しそうに遊ぶ響とペンギンを横目で見ていたとき、プロデューサーが両手に飲み物を持ってやってきた。
「ほい、伊織、響」
橙色のジュースの上にアイスが乗っていた。
「伊織のはオレンジフロート、響のはマンゴーフロートだ」
同じ色に見えるけど、中身は私たちの好みに合わせたみたい。
「ありがと。あんたにしては気が利くじゃないの」
汗だくになった器を受け取ると、冷たい雫が腕を伝ってくる。
「プロデューサー、この子と一緒に飲んでもいいか?」
「……その仔の世話は響に一任する」
なんとも放任主義な発言。
プロデューサーとしても、ペンギンをどう扱って良いのか分からないみたい。
水族館に問い合わせをすれば良いのに。
「ありがとだぞ!」
響の満面の笑顔に、プロデューサーはやれやれと言った感じで溜息をついた。
先端が匙になったストローで、アイスの部分を食べる。
猛暑だからか、切り口からアイスがすぐにジュースへと融けだす。
「よいしょっと。昼飯はどうしようか」
隣に座ったプロデューサーが尋ねてくる。
「なんでもいいんだけど……やよいの頑張りを無駄にはできないわよ?」
「そうなんだよ。でもいつ戻ってくるかも分からないんだよなぁ」
二人して沖を眺めるけれど、やよいの姿は全く見えない。
「一応受け入れる用意はしてあるんだが、果たしてどうなることか」
パラソルの外には、見慣れたバーベキューセットが置いてある。
これはやよいのロケには必ず一式が常備されている。
なんでも、やよいの魅力を存分に引き出す小道具だとか。
ただのお料理アイドルとは一線を画するのが、765プロの高槻やよい。
やよいって、一応アイドルよね?
「それにしても暑いな」
私たちは水着だけど、プロデューサーは生真面目にワイシャツ。
胸の辺りが透けて見えるくらい汗をかいている。
「暑すぎるわよ。少しでも雲が出てくれたらいいのに」
パラソルの下から空を見上げる。相変わらず雲の一片すら見当たらない。
あまりに強い直射日光に辟易する。
こればかりはプロデューサーに文句を言っても仕方がない。
だけど、言う相手がいないので、やっぱり矛先はプロデューサー。
「ねぇ、あの太陽どうにかしなさいよ」
「無茶言うなよ……それで何とか凌いでくれ」
私が現在進行形で食べているオレンジフロートを指差す。
「あら、そういえばあんたは食べないの?」
「俺はお茶で十分だよ」
そう言って少しだけお茶が入ったペットボトルを振って見せてくる。
まったく、そんな汗だくで言ったって、何の説得力もないんだから。
「あんたは幸せよ。私のものを分けてあげる」
半分融けてしまったアイスを掬い、プロデューサーの口元へ持っていく。
プロデューサーは特に遠慮することなく、それを食べる。
「いやあ、こりゃ冷たくて良いな」
「もう、欲しいならさっさと言いなさいよ」
「じゃあジュースもくれ」
「はいはい、仕方ないわね」
ストローを渡すと、プロデューサーはそのストロー一本分を飲む。
「ふぅ、暑い日に飲むオレンジジュースは一層美味しく感じるな」
少しで十分だったのか、すぐに容器を私に返してきた。
「我慢しないで、飲みたいなら飲みたいって言えばいいじゃない」
「我侭を言うんじゃなくて、聞くのが俺の仕事だからなぁ」
そう言って、空いた手で私の頭をこれまた遠慮なく撫でてくる。
なんでいつもこうやって勝手に撫でてくるのかしら。
もしかしたら、この行動がプロデューサーの我侭なのかもしれない。
「一応言うけど、私の頭を撫でるなんて、世界一贅沢なことよ?」
「贅沢されるのが嫌なら止めるけど?」
「……ばか」
私は聞こえないように小声で呟き、撫でやすいようにとプロデューサーの方へ身体を近づけた。
と、ここで響が何の前触れも無く、突然立ち上がった。
「じ、自分、泳いでくるぞ……」
パーカーを勢いよく脱ぐと、下に着ていた真っ白なビキニが太陽に晒される。
同時に、体格の割りにやたら大きい胸がぽよんっと揺れた。
「う~ん、でかい。」
プロデューサーの手を思い切り抓って響を見る。
「どうしたのよ、急に」
「ここはもう熱すぎて我慢できないんだぞ……」
身体全体を大げさに揺さぶり、ご自慢の胸をアピールしてくる。
私より背がちっちゃいくせに、なんで胸だけはこんなにでかいのよ。
目の前でこの差を見せ付けられると、少しは千早の気持ちも分かるわね……。
「響、まだそれ残ってるぞ?」
プロデューサーがマンゴーフロートのことを訊くと、響はそれを一気に飲み干した。
「うがー、頭がキンキンするぞー」
「そんなに慌てて飲まなくても。欲しいからって取ったりしないぞ?」
そう言ってプロデューサーは私のジュースをひょいっと取って一口飲む。
「ちょっと、私が飲んでるところなんだから返しなさいよ!」
「すまんすまん。つい欲しくなってな」
「だから、そういうのは先に私の許可を取ってからやりなさいよ!」
ジュースを持った逆の手でプロデューサーの頬をもう一度抓った。
そうこうしていると、響はペンギンを抱っこして急いで海へと走って行った。
「自分、熱すぎてもう耐えられないんだぞ!」
こう言い残して。
どうしてあんなに慌ててるのかしら。
ひょっとして、やよいと一緒に泳ぎたいのかもね。
「ははは、響は相変わらずだな」
「ああやって変に慌ててるから、余計に熱くなるのよ」
私はプロデューサーに撫でられながら、アイスが溶けたオレンジジュースをストローで飲んだ。
「撮影、あとどれくらい残ってるの?」
「んー予定だとあと二時間分くらい。ちょっと押してるから更にかかるかも」
プロデューサーは左腕にはめた時計を見ながら時間の計算をしている。
表情からして、あまり進捗はよくないようだった。
「え、そんなにもあるの?」
「まあな。編集して、いいところばかりを集めるから、多いほうがいいんだ」
「それはわかるけど……」
あと二時間もこの炎天下で撮影。気が滅入りそうな思いだ。
「編集するのは小鳥さんだからな。本業じゃないから多めに撮っておきたい」
「なんでよりによって編集が小鳥なのよ……」
「できるのが小鳥さんしかいないんだよ。外注すると経費がな」
普段、善からぬ妄想をしては鼻血を吹いている小鳥。
なんだか変な編集をされそうで怖い。
最終チェックには私も参加しようと、溜息交じりでそう考えた。
「俺も確認するから、あんまり変な映像にはさせない。安心してくれ」
私の不安げな顔を見たのか、プロデューサーがそう声をかけてくれる。
「プロデューサー……」
恥ずかしくて、ちょっとだけ肩を竦める。
時々だけど、こうやって頼りになってくれるのが嬉しい。
ゆっくりと頭をプロデューサーの方へ傾けようとしたところ、急に撫でていた手が止まった。
不思議に思って顔を上げると、プロデューサーは不自然に何かを覗き込むような目をしていた。
それに、なぜか鼻の下が伸びている。
視線の先は私の顔よりも下。ちょうど胸の辺りだった。
私が肩を竦めたせいか、元々緩かった胸元が更に緩くなっていた。
「……ねえ、プロデューサー?」
私は頬が引き攣るのを我慢しながら笑顔で訊ねる。
「ん、どうした?」
「そこからはどんな景色が見えるのかしら?」
「げ」
私の営業スマイルを見て、プロデューサーは自分の所業を気付かれたと理解したらしい。
噴出すその大量の汗は、本当に暑さのせいかしら。
「ミエテナイヨ」
ご丁寧に片言で説明してくれる。
こ、この……!
「変態!ド変態!der変態!変態大人!EL変態!The Hentai!de変態!」
「ご、ごめん!ちゃ、ちゃんとカットするから!!」
「見るなーー!」
私は胸を両手で押さえながら、プロデューサーを本気で足蹴にした。
「申し訳ございません、伊織様」
砂浜で土下座をするプロデューサーを見下ろしているが、まだ怒りは治まらない。
スタッフの目がある手前、頭を足でぐりぐりできないのが悔しい。
「見えてるなら、さっさと言いなさいよ!」
「だって……」
「だって、何よ?」
言葉に詰まったのか、何かを言い淀んでいる。
「何よ?」
「怒らないか?」
「ええ」
「男なら黙って見るだろ、普通」
なんともまあ開き直った発言だこと。
「警察が良い?それともうちで始末してほしい?」
「誠に申し訳ございませんでしたーっ」
プロデューサーは、穴を掘ったその中に頭を入れる、スーパー土下座を披露した。
焼尽の風が吹く中での撮影が終わり、私たちはヘトヘトになりながら車に乗る。
「伊織、まだ怒ってるのか?」
プロデューサーが運転席から恐る恐る質問してくる。
あれからというもの、私は不自然なくらいに胸元を気にしてしまい、監督からダメ出しを何度も受けた。
せめて水着を変えてくれれば良いのに、代えはないという驚きの回答。
ならどうして響のはあるのよ、と言いたかった。
結局、終始ぎこちなさが拭えなかったので、私としてはこの仕事は大失敗。
だから私は、不機嫌丸出しで助手席に座っていた。
「あんたねぇ、自分のしたこと分かって言ってるの?」
「ごめんって……」
直接見るのが嫌なので、窓に映ったプロデューサーを間接的に見ている。
「普通、自分の担当アイドルにあんなことする?」
「け、決してやましい気持ちでやったわけじゃなくてな……」
プロデューサーは運転しながら肩を竦めている。
「じゃあ何であんなことしたのよ?」
「なんというか、男としての性というかなんというか……」
「つまり、私に欲情したってことでいいのよね?」
「……返す言葉もございません」
「最っ低……」
強く軽蔑したことを知らしめるため、わざとらしく溜息をついた。
中途半端だけど眠いのでおやすみなさい
乙
乙ー
ぷちますみたいな所も入ってるのかな?
はぁ……こといおりSS書きたかったけど時間が無かった。
「なあ伊織、そろそろプロデューサーのこと許してあげたら?」
ペンギンを肩に乗せた響が後ろから言ってくる。
このペンギン、水族館から逃げ出したものじゃなく、本当に野生のペンギンだった。
近くの水族館に電話をして訊ねてみたけれど、いずれも無関係。
やよい、本当にどっから拾ってきたのかしら。
「伊織ちゃん、プロデューサーも謝ってるんだから、ね?」
ぺちん。
運転席と助手席の間から顔を出したやよいが、心配そうに私を見てくる叩いてくる。
だけど、私だってそう簡単に引けない。
「私はこの変態に胸を見られたのよ?そんなことされて、黙ってられないわよ」
「でも、恋人同士で喧嘩するなんて、やっぱりだめかなーって」
「恋人同士……?いきなり何の話?」
「あれ、伊織ちゃんとプロデューサーって、両想いじゃないの?」
「はい?」
私とプロデューサーが両想い?
そんなことあるわけないじゃない。
確かにそんな夢は何度も見たことあるけれど、夢は夢。
鈍感にはなまるが付いたレベルのプロデューサーが、私の気持ちに気付くはずが無い。
プロデューサーは確かに私のことは好きだと思う。
ただ、それはみんな一律に、平等に好きってこと。
そんなの含めたら、私だって誰とでも両想い。
私のことなんて、ただのつっこみ要因にくらいしか思ってないんだから。
「どこをどう見たら、こんなド変態プロデューサーと私が両想いなのよ……」
暗い気持ちでやよいを見ると、やよいと一緒に響まで溜息をついた。
「伊織ちゃーん……」
「伊織は相変わらずだなぁ……」
揃って私を呆れた目で見てくる。
ついでにやよいの頭の上に咲いた植物が私に牙を剥いていた。
「な、何よ、二人して。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「べっつにー。なぁ、やよいー」
「はいですー」
なんだか馬鹿にされている気がする。
片想いをして、更にこんな目に合うなんて。
それに、やよいはともかくとして、響がニヤニヤしているのはすごく腹が立つ。
ちらりと横目でプロデューサーを見る。
さっきまで肩を竦めていたはずなのに、プロデューサーは笑いで肩を震わせていた。
「二人とも、俺の伊織をあんまりいじめないでくれよ」
プロデューサーは苦笑いをしている。
「でも伊織ばっかりプロデューサーに甘えるなんて、ちょっとずるいんだぞ」
響が身を乗り出してまで訴えてくる。
ペンギンが肩の上で、バランスを取ろうと必死でふらふらしている。
「響さん、プロデューサーは伊織ちゃんのだからダメですー」
「伊織はプロデューサーをずっと独占してるんだぞ。やよいはいいのか?」
「伊織ちゃん、とっても甘えん坊さんだから、仕方が無いかなーって」
え、何で私ってこんなに責められてるの?
好き勝手なことを言う二人のテンションに、正直ついていけてない自分がいる。
「わかったわかった。今度沖縄料理の美味しい店に連れてってやるから。それでいいだろ?」
「プロデューサー、嬉しいぞ。せっかくだから伊織も来るか?」
「なんでわざわざ私を引き合いに出すのよ……」
溜息交じりに呟くと、プロデューサーも同じように溜息をついた。
「まったく。うちのアイドルはみんなして甘えん坊だな」
私は肩をがっくりと落とし、プロデューサーは肩をすぼめた。
「なんかもう疲れたわ……」
さっきまで怒っていたのに、もうそんな気力なんてどこかに行ってしまった。
ドアの窓枠で肘枕をする。
何よさっきから。私が甘えん坊とか、プロデューサーを好きだとか。
私は今までそんなこと、一度たりとも公言したことないのに。
だけど、二人はそんな私の心を見透かしているように言ってくる。
「まったくもう……」
いつもならまっすぐと見れるのに、変に恥ずかしくなってプロデューサーの顔が見れない。
おずおずと、さっきみたいに窓越しにプロデューサーを見ると、なぜか目が合った。
「こ、こっち見てないで、ちゃんと前向いて運転しなさいよ」
いろいろと疲れた私は、迫力の無い悪態で赤くなった顔を隠した。
「なあ、伊織」
しばらくして、後部座席の二人が静かになったところでプロデューサーが囁いてきた。
「……何よ」
「今日はごめんな」
不意にかけられた優しい口調に、思わず笑顔が零れた。
プロデューサーは私の注意を受けてか、正面を向いたまま話しかけているけど、とても穏やかな表情だった。
ずるい。
こんな顔をされたら、怒ってる私が一方的に悪いみたい。
「はぁ……もういいわよ。犬に噛まれたと思って、忘れるから」
私は大きく息を吐いて、暗くなった外を見る。
車内の光が反射した窓には、すっきりとした笑顔の自分が映っていた。
「そうか、ありがとな」
返事代わりに小さく微笑むと、プロデューサーは嬉しそうに笑った。
「だから、あんたもさっさと忘れなさい。いい、絶対よ?」
「勿体無い気がするけど、伊織のお願いだもんな」
「元はと言えば、あんたの下心のせいでしょ?」
軽く右手でプロデューサーの左頬をつねる。
「そうだったな、ごめんごめん」
ハンドルから左手を放し、プロデューサーはそっと私の右手に触れてきた。
「ちょっと、気安く触らないでよ」
「いいじゃないか、仲直り記念ってことで」
「何の記念よ何の。元はと言えばあんたが」
「また話をぶり返さないでくれよ」
「やっぱり許すのやめようかしら?」
「お、おいおい。折角仲直りできたんだから、な?」
「にひひっ。嘘よ、嘘」
「やよい、自分、もうここに居たくないぞ……」
後ろからまた響が唐突に妙なことを言い出した。
「え、どうしたんですかー?」
やよいが不思議そうに響の顔を覗き込むのがバックミラーに映っている。
「なんというか、居たたまれないというか、すごく走り出したい気分だぞ……がなはー」
身体がうずうずするのか、小刻みに身体を震わせている。
「あ、次の響チャレンジに向けて練習ですね!」
やよいが何かを思いついたのか、満開の花を咲かせた。
そして空調がちゃんと効いてるのに、窓を全開にするやよい。
「え、やよい、ちょ……なにするんだ……うわー!?」
「いってらっしゃーい!」
「へっ?」
つい間抜けな声が出てしまった。
叫び声を聞いて慌ててを後ろを振り返ると、響が窓から投げ出される瞬間だった。
口が瞬間的に大きく開き、唖然とする。
「響さん、頑張ってくださーい」
やよいは窓から身を乗り出し、笑顔で響を見送る。
響は転ぶこともなく、放り出されたところで上手に体勢を立て直していた。
「す、すごいわね……」
やよいもやよいだけど、走っている車から投げ出されたのに、平然と立っている響。
「……響はダンスやってるからな」
それ、何の理由にもなってないわよ。
なぜか車を停めないプロデューサーと顔を合わせ、一緒に溜息をついた。
やよいと仔ペンギンをやよいの家へと送り届ける。
車から降りると、一人と一羽は揃って元気良くお辞儀をした。
「プロデューサー、今日はありがとうございましたー」
「また明日ね、やよい」
「明日は昼からレッスンだから、忘れずにな」
「はーい!」
やよいとその肩に乗った仔ペンギンが揃って両手を振ってくる。
あまりの可愛さに私も自然と手を振ってしまう。
「やよいは可愛いなぁ」
「当たり前でしょ。何今更そんなこと言ってるのよ」
のほほんとした光景が見えなくなるまで、私は手を振り続けた。
細道から幹線道路に出ると、帰宅ラッシュよろしくどの車線も混んでいた。
前に見える信号は青なのに、ちっとも動かない。
「うーん、結構混んでるなぁ」
「そんなに焦ったって早くならないわよ?」
「ごめんな。伊織だって結構疲れてるのに」
「べ、別にあんたのせいってわけじゃないんだし……」
特に画策したわけでもないのに、珍しく二人きりになれた。
混んでいるとは言え、このままだと一時間もすれば家に着く。
もう少しくらい一緒にいたい。
そんな思いから、ちらりとプロデューサーに目線を一瞬だけ送ってみる。
すると、私の言いたいことを察してくれたのか、プロデューサーは小さく笑った。
「あーそういや、事務所に忘れ物したんだった。先にそっち寄ってもいいか?」
「仕事が終わってから忘れ物に気が付くなんて、あんたも案外ドジなのね」
「甘えん坊よりはマシだろ?」
「どっちもどっちよ」
「だな」
外から見ると、もう事務所の明かりは消えていた。
小鳥と律子はすでに帰った後のようだった。
「足元気をつけてな」
暗くなったビルの中で、プロデューサーに手を引かれながら階段を上がる。
「あら、その声はプロデューサーさんですか?」
階段の上から小鳥の声が聞こえてきた。
どうやら今帰るところだったみたい。
「はい、お疲れ様です。小鳥さんは今お帰りでしたか」
「あら伊織ちゃんも……うふふ、はい、そうです」
小鳥は私とプロデューサーの顔を見比べる。
「プロデューサーさん、戸締りはお願いしますね」
小鳥は手に持った鍵をドアノブに差し込むと、カチャリと音を立てて玄関を開いた。
「一応言っておきますけど、ここは事務所ですからね」
「あなたが言いますか、それを」
よく分からない注意をしてくる。
いくら私でも、小鳥が想像しているようなことはしない。
「まあ……善処します」
ぷ、プロデューサーはするつもりなのかしら……。
小鳥は私の頭を一撫でしたあと「いっぱい優しくしてもらってね」と小さく残して帰って行った。
余計なお世話よ。
中に入ると、プロデューサーはすぐさま玄関の鍵を締めた。
「え、ちょっと……」
「小鳥さんが戻って来そうな気がしてな。鍵は持ってるけど、開ける時に音が鳴るし、念のため」
そう言いながら、周囲の植木鉢やポスターの裏を覗いたり捲ったりする。
確かにプロデューサーの言うとおり、小鳥が戻ってきて私たちをこっそりと撮影する可能性は大いにある。
プロデューサー、小鳥をあんまり信じていないのかしら。
いえ、ある意味信じているのかもしれないわね。
でもこれとは別に、一つの不安も湧き上がってきた。
もしプロデューサーに襲われたら、完全に逃げられない。
そんなことするはずが無いと分かっているけど、それでも本能的に怖いと思えた。
「伊織」
「な、なに?」
急に名前を呼ばれ、びくっと身体が震える。
プロデューサーはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「襲っちゃうぞー」
両手を顔のところまで挙げ、がおーと言わんばかりのポーズをする。
前言撤回。この馬鹿に人を襲う勇気なんてあるわけない。
少しでも変に不安がったのが馬鹿馬鹿しくなる。
「はぁ……殴っても良い?」
頭を抑えながら溜息を一つ。
「殴るのなら座ってからにしようか」
プロデューサーは手を上げたまま肩をすくめた。
エアコンをつけて美希がいつも占領しているソファへ座る。
久しぶりにゆっくりとプロデューサーと二人だけになれた。
二人きりになれたのなんて、それこそ三週間ぶりくらいかも。
嬉しい。
さっきまで本気でプロデューサーに怒っていたのが自分でも信じられないわね。
「伊織、お待たせ」
目の前のテーブルに二つのコップが置かれる。
二つともオレンジジュースが入っていた。
そのままプロデューサーは、私の隣へ腕が触れ合うくらいのところへ座った。
コップを手に取り、一口分を含む。
いつも通りの百パーセントのオレンジジュースだった。
「伊織は本当にオレンジジュースが好きだな」
「世界で一番美味しいんだから、当たり前でしょ」
わざわざ全国からいろんなオレンジジュース取り寄せ、飲み比べたんだから。
「これ、てっきり愛媛産かと思ったんだが、そうじゃないんだな」
プロデューサーも私自慢のオレンジジュースを飲みながら言う。
「香川も愛媛も似たようなところでしょ」
「五色台オレンジパークって書いてたんだが……伊織にとっては天国のようなところだな」
プロデューサーの御託を聞き流しながらオレンジジュースを楽しむ。
美味しいと思う反面、不満もある。
「ね、ねえ、そっち行ってもいい?」
テーブルにコップを戻し、仕方なくおねだりをしてみる。
「しょうがないなぁ」
プロデューサーは一息をついたあと、コップをテーブルに置いて私の特等席を空けてくれた。
私は腰を浮かして少しだけ身体を横へ移動させる。
「伊織は好きだな、俺の膝の上」
「仕方ないでしょ。ここがあんたに一番近いんだから」
プロデューサーの胸に私の背中をぴったりと合わせる。
どんなに暑くても、どんなに寒くても、ここが一番快適。
プロデューサーはそんな私を頭を撫でたり抱きしめたりとやりたい放題してくる。
だけど、そんなことは全然気にならない。
一番幸せな気持ちになれる場所。それがここだから。
「今日は久しぶりに暑かったな。俺はちょっと焼けた気がするよ」
振り返って見ると、プロデューサーの鼻の皮が剥けていた。
「顔全体が真っ赤よ。日焼け止めは塗ってなかったの?」
「焼けるなんて思いもしなかったし、そもそも俺は塗った事ないしなぁ」
とてもアイドル事務所のプロデューサーとは思えない発言。
こんな顔をして営業に出られると、こっちが迷惑。
「ちょっと待ってて」
私はポーチからチューブ型の軟膏を取り出す。
「染みるかも知れないけどじっとしてなさいよ」
少しきつい体勢だけど、小さく振り返る。
ちょこんっと一塗り分だけ指の上に付け、プロデューサーの鼻に押し当てる。
一撫で二撫でぬりぬりぬりぬり。
「これ結構効くんだから。明日には良くなってると思うわ」
「へぇ。帰りにでも薬局で買おうかな」
「別に買う必要性なんてないでしょ」
「え、なんで?」
「必要になったら、私がちゃんと塗ってあげるわ」
言葉に出した後で、凄く恥ずかしいことを言ったことを自覚する。
プロデューサーもそれに気付いたみたいで、私を抱きしめる腕に力が入ったのを感じた。
「えと、別にそういう意味じゃなくて……」
「毎日お願いしてもいいか?」
「……毎日塗ってたら、私の分が無くなるでしょ」
軟膏を塗り終えた指をピンっと弾き、鼻先に当てた。
「そういやさ、撮影の後、ちゃんとシャワー浴びたか?」
「ええ、もちろんだけど?」
プロデューサーが髪を指で梳いてくると、ところどころで引っかかった。
「ほら、ちゃんと海水が落ちていないみたいだぞ。ちょっと潮っぽい匂いもするし」
「ちょっと、あんまり匂い嗅がないでよね」
「こんな綺麗な髪を目の前にして、匂いを堪能しないという選択肢なんて存在しない」
相変わらず変態発言を自信満々に言ってくる。
貶されているわけじゃないから、怒るに怒れない。
「あんただって、そんなくんくん嗅がれたら嫌でしょ?」
「いや、別に。いくらでも嗅いでくれて問題ない」
くんくん。
「汗臭っ……」
「俺はシャワー浴びてないからな……」
離れようかと考える。だけど、今離れると次の機会がいつになるかなんて分からない。
ここは我慢の一手しか無いわね……。
「あ、しまった」
「どうしたの?」
「響のこと忘れてた」
ああ、そう言えば響を置いてきたんだった。
道の駅で休憩している時にタクシーを呼んだから、私の中では完結した話になっていた。
「私がちゃんとタクシー手配してるから安心して」
「あらら、そうだったのか。そりゃ一安心」
何とも興味なさそうに言う。
響、あんたは泣いていいわ。
「あんたねぇ、心配するくらいなら置いて帰らないでよ」
「だってなぁ……」
また変な言い訳をしそう。
「やよい怖ぇんだもん……」
理解できるけど、納得しちゃダメな理由。
「やよいを化け物みたいに言うのやめなさいよ」
「伊織だって知ってるだろ。時折出てくるあの凄い低音の声、怖いんだよ……」
やよいに質問した時、たまに返ってくる脅しのような声。
前に私がやよいの頭に咲いている植物について質問したときの返答がこれだった。
『……訊きたい?』
いつも元気なやよいからは考えられないほどの暗く冷たい声。
顔は笑ってる分、そのギャップが異様だった。
頭の中で響き渡るこのセリフは、いつ思い出しても冷や汗もの。
私の時はなぜか包丁片手に言われたものだから、それはそれは怖かった。
「……し、仕方ないわね」
心の中で響に謝りながらそう呟いた。
明日で終わる予定です
今日だった
乙
やよいマジ天・・・使?
天使だって、怒ることあるから...
ぷちますが半分反映されてるのなww
プロデューサーと他愛の無い話をしながら、その優しい手つきを堪能する。
「にひひっ」
「しかし……伊織は甘えん坊さんだな」
私を撫でくりまわすプロデューサーがそんなことを言う。
「別にいいでしょ、少しくらい。どうせ他のみんなもしてるんだし」
プロデューサーがみんなをこんな風に扱ってるのは知っている。
だから私もこうやって甘えられるんだけど。
「他のみんなってなぁ。これだけ甘えてくるのなんて、伊織しかいないぞ?」
「えっ?」
思わず頭を上げて眉をひそめる。
「嘘言わないでよ。みんなにもしてるじゃな……い?」
「あのなぁ、十四人も甘えてきたらそれこそ仕事にならんだろう。伊織だけで手一杯だ」
「な、何よ!それじゃあ私が一番甘えてるみたいじゃない」
「みたい、じゃなくて甘えてるんだよ。それこそ、亜美や真美よりも比較にならない位にな」
でちょーん。
目が飛び出る程の事実を突きつけられ、呆然とする。
「そんな衝撃を受けなくても。てっきり自覚してるもんだと思ってたんだが」
恥ずかしい。
絶対みんなプロデューサーに、極限まで甘えているものだと考えていたのに。
これじゃあ私の威厳なんて、撲滅されて木っ端みじんの後、綺麗に一掃されたレベル。
こんなことが知れたら、私がどれだけ威張ったとしても、すぐにこの話題で鎮圧されてしまうだろう。
今日は家で塩まきをして、厄落としを先行して行ったほうがいいかもしれない。
私がそんなことを考えていたところ、鼻をちょんっと押された。
「そんなに真剣に考えなくてもいいじゃないか。みんなそういう伊織も可愛くて好きって言ってたぞ」
「そういう問題じゃないわよ……」
みんな言ってた……ってことは、もうすでに知られてるってことね。
とほほ。こうなったらいっそのこと、この会社を……
なんて不穏なことを考えていると、上からゴンっと大きな錘が圧し掛かった。
どうやらプロデューサーが、私の頭に自分のそれを置いてきたようだ。
「……重いんだけど?」
「伊織が悪いことを考えないように、ちょっと抑え付けとかないとな」
「私を何だと思ってるのよ……」
図星なだけに、それ以上は何も言えなかった。
私の頭が塞がってしまったので、手持ち豚さんになったプロデューサー。
今度は私の手で遊び始める。
まるで人形扱いだけど、今の私には逆らう気力が出てこない。
「伊織とこうしてると不思議な感じがするんだよなぁ」
「不思議?」
「伊織が甘えてくれるのってさ、俺だけのような気がするんだ」
気がするもなにも、プロデューサー以外に甘えたことなんてない。
「もしかしたら、伊織って俺のこと好きだったりする?」
自然を装った馬鹿な質問。
好きでも無い人に甘えるほど、私の頭はお花畑じゃない。
好き、と言いたい。大好きと伝えたい。
だけど、こんな状況でも、本当に二人きりでも正直になれないのが私。
「……嫌いだったら、こんなことしてないわ」
結局、いつものように曖昧にしか返せなかった。
曖昧な答えは受け取る側によって解釈が違ってしまうのはよくあること。
「くくっ……くっ……ぷっ……」
私が素直じゃない返事をした直後から、プロデューサーの身体が震えていた。
笑ってる……明らかに笑ってる。
「俺もとうとう伊織にそこまで言わせることができたか。感無量だ」
怒ろうかと思ったけど、どうも可笑しくて笑っているわけじゃなさそう。
「どういう意味?」
「始めの頃は、俺がプロデューサーってだけで、驚くほど卑下されたからなぁ」
プロデューサーは私の指を一本一本撫でながら話始めた。
「まさか中学生に、出会って早々、馬鹿だの変態だのと、ボコボコに言われるとは当時の俺は思ってなかった」
今もあまり変わってない気がするんだけど、それはそれでいいみたいね。
「いきなりのことすぎて、あの時は俺もどうしようかと思った。正直、すぐにでも辞めようと思ったくらいだ」
「わ、悪かったわよ。私だって、昔はあんたのこと信用し切れてなかったんだから」
「それが分かってたから何とか踏みとどまれた。でも絶対、この我侭娘だけは手懐けてやろうって思った」
手懐けるって……もう言いたい放題ね。
「仕事は我武者羅に取った。少しくらい泣き言を言うだろうってくらいに大量に」
「酷い仕事も結構あったわね。全身きぐるみの中に入れって言われた時はさすがにどうかと思ったわ」
「レッスンだって厳しくした。すぐに音を上げるだろうってくらいに厳しく」
「え、あんな間抜けなレッスンで厳しくしてたつもりだったの?」
「オーディションだってどんどん受けさせた」
「ええ、登録してさえいれば受けられたものもいっぱいあったわね」
一つ一つ反論していく度に、プロデューサーの眉も少しずつ釣りあがった。
「……こほん。まあ俺なりに、打倒伊織!って策を練ったりしてたんだが、ふとある時思ったんだ」
「どうせ碌でもないことでしょ?」
息を吸い、大きな溜息をつく準備をする。
「何で俺ってこんなに伊織に夢中なんだろうって」
プロデューサーの真剣な言葉に耳が傾いた。
「ずっと伊織のことを朝から晩まで考えて。他のレッスンしてる時も伊織のこと考えて」
プロデューサーが握る手が急に強くなる。
「なんでかなーと思ってたところ、やよいに指摘されて分かった。あ、俺って伊織のこと好きなんだって」
「うぐっ……けほっけほっ」
溜めきった息を吐こうとしたら、喉につまった。
「……こほっ、い、いきなり変なこと言わないでよ!」
私の文句を余所に、プロデューサーは続ける。
「しょうがないだろ。気付いちゃったんだから。時折、膝の上に乗ってきてくれたのも原因の一つだったし」
そう言えば、私がプロデューサーの膝の上に乗るようになってから、急に撫でる回数が増えたような。
「伊織がそのオレンジジュースを俺に初めてくれた時、認めてくれたんだなって実感が持てた」
私もその辺りからプロデューサーのことが気になって仕方が無かったんだけど。
「そこからは早かった。伊織を見れば見るほど、俺自身が全部持っていかれるくらい好きになった」
「な、なに恥ずか……言って……」
「で……さっきの伊織の言葉を聴けて、やっと俺も確信が持てた」
私は慌てて身体を横に向ける。
真後ろにあって、ずっと見えなかったプロデューサーの顔がやっと見えた。
きっと日焼けのせいだけじゃないんだろう。
「やよいの言ってた通り、ずっと両想いだったんだな」
プロデューサーの顔は真っ赤だった。
『あれ、伊織ちゃんとプロデューサーって、両想いじゃないの?』
やよいに言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
やよいのばか。
プロデューサーが私を好きって知ってるなら、教えてくれても良かったのに。
てっきり、響と一緒に私をからかってるだけかと思ったじゃない。
明日はちゃんと今までの分も含めて、いっぱいお返ししないとね。
でも、その前に……
「俺が伊織を好きって言うのはやっぱり犯罪かな?」
私の返事を待っている人に、頑張って応えてあげないと。
「……ううん。だって、私もあんたのこと……その……好きだから」
やっと伝えられた。
ずっと心の中にあった大きなわだかまりが無くなった気がする。
ほっと、微笑みと一緒に溜息が出た。
こんな幸せな溜息をついたのは初めて。
私はきっと、このプロデューサーが、本当に好きなんだろう。
暖かく見つめてくるその人に微笑んでみる。
「伊織、いいか?」
何を、だなんて言わなくても分かる。
「初めてなんだから、優しくしなさいよ」
私は小さく頷いて、そっと瞳を閉じた。
プロデューサーの大きな手が髪を撫で、頬に触れた。
私は自分の初めてを捧げるため、顔を上向きにする。
目を瞑ってはいるけど、だんだんとプロデューサーの顔が近づいてくるのが分かった。
もう少し。あと少し。
心の高鳴りを抑えながら、私はプロデューサーを待つ。
「伊織、好きだよ」
柔らかい感触が額から伝わってきた。
「……どこにしてるのよ?」
目を開けると、そこにはプロデューサーの喉仏が大きく動いていた。
「え、おでこだけど?」
「……なんで?」
「えっ。伊織の場合、普通おでこじゃないの?」
力任せにプロデューサーの身体を思い切り突き飛ばす。
「ちょっと!ちゃんと私が準備してあげてるんだから、口にするのが当然でしょ!」
「ば、馬鹿言うな!俺はずっと、伊織のおでこにキスをしたくてしたくて、今まで我慢してきたんだぞ!」
「なっ!?」
悪びれた様子なんて一切無い、純粋な暴言だった。
し、信じられない。さっきまでの私の胸の高鳴りはなんだったのか。
「なによそれ!初めてって言ったでしょ!額にキスなんて、美希から呆れるほどされてるわよ!」
「知ってる」
ぶちっ。
「わざとやってんでしょぉぉぉぁぁぁ!!」
私はビル中に響く程の声を上げ、全力でプロデューサーに往復ビンタをお見舞いした。
「はぁ、はぁ……」
しばらくして、自分の手が痛くなってきたので叩くのをやめる。
さっきまで良い雰囲気だったのが、もう台無し。
折角、私の気持ちを伝えることができて、幸せ一杯だったのに。
つい手が出てしまったけれど、後悔なんて全然していない。
むしろ、少しはプロデューサーこそ後悔してほしい。
これから先も、こうやって悪ふざけをされるのは困る。
プロデューサーの事だから、結婚式の誓いのキスですら額にしてきそう。
それだけは絶対に避けないと。
両頬を真っ赤にしたプロデューサーを見る。
日焼けした鼻と相まって、ちょっと危ない感じがする。
ちょっとやりすぎたかも知れないと考える。
だけど、へらへら笑ってるから痛く無かったんだろう。
叩いた私の方が痛いくらい。
右手を見ると、叩いた痕が赤みとなってしっかりと残っていた。
「そんなに俺なんかを叩くからだよ」
その手をプロデューサーが両手で取る。
左手を添え、右手で擦ってくれる。
自分を叩いた手なのに、こそばゆいくらい優しく。
「なら、叩かれるようなことしないでよね」
「伊織に叩かれるのは全部俺だけの特権だ。誰にも譲らないし放棄だってしないさ」
「変態!」
「ご褒美です」
どうしようも無いわね、これ。
「しかしまあ本気で叩いたんだな。伊織の可愛い手が真っ赤だ」
「あんたがふざけたことしなかったら赤くもならなかったのよ」
「俺が馬鹿しても、ちゃんと受け止めてくれるのは伊織くらいだからな」
だから私にばかり悪ふざけを仕掛けてくるんだろうか。
どうして私ばっかりと考えていたことがあったけど、こういう背景があったみたいね。
「律子にしなさいよ。気持ちよく叱ってくれるわよ?」
「律子の説教は確信突きすぎて反論できないから、心が凹んじゃうんだよね」
案外そう言うのには弱いのね……。
「じゃあ私もこれからはそうしようかしら」
「伊織は大丈夫だ」
自信満々に即答してくる。
やっぱり私のことが好きだから……?
「どうして?」
「凸ちゃんだから」
叩くのが面倒なのでとりあえず睨んでみた。
「これ以上怒らせないでよね……はぁ」
やっぱり溜息が出る。
どうせ言ったって無駄だけど、言うだけ言っておく。
「そりゃ無理な相談だ」
これからもプロデューサーは私を怒らせる気満々らしい。
今日はやけに挑発的だけど、どうしたのかしら。
「このスーパーアイドルの私が言ってるのよ?」
「そんなの関係なく無理だ」
「どうして?」
プロデューサーは撫でていた右手を急に引っ張った。
途端にバランスを崩し、吸い込まれるようにしてプロデューサーの胸元に飛び込む。
「伊織は、俺の……だからな」
プロデューサーから再び抱きしめられ、私は言葉を失う。
時折背中をぽんぽんと叩いて、まるで赤子をあやすようにしてくれる。
頭から湯気が出そうだけど、頑張って平静を保ちながら顔を上げる。
「ねぇ……俺の、なに?」
プロデューサーにとっての私。
一人のアイドルなのか。一人の女性なのか。それとも、一人の恋人なのか。
聞こえなかったところに入る言葉、それがどうしても聴きたい。
「怒ってる伊織もアイドルの伊織も甘えん坊な伊織も、全部俺のかな」
「その続きは何って訊いてるのよ。ちゃんと答えて」
「だから、伊織は『俺の』なんだよ」
少しだけ考えて、やっと意味が分かった。
「……ばか」
「『もの』扱いはしたくないし、したら怒るだろうからな。だから、伊織は『俺の』」
いつの間にか、私はプロデューサーのになっていたみたい。
真っ赤な鼻に腫れた頬。
外見は散々になっているけど、プロデューサーらしい言葉だった。
私に対してこんなことを言うなんて、それこそ死刑になったっておかしくない。
だけど……自信満々に私の所有権を主張するんだから、きっと私はプロデューサーの、なんだろう。
この私を自分のと言い張るだなんて、底なしの馬鹿なんだから。
でも、こんなプロデューサーをもうどうしようもなく好きになってしまった私も、きっと大馬鹿者に違いない。
私の大馬鹿っぷりに免じて、特別に死刑じゃなくて終身刑にしようかしら。
ここまで私の心を掴んでしまったプロデューサー。
一生私の傍にいないと、許さないんだから。
「わ……私があんたのって言う証拠なんて、どこにあるのよ?」
「証拠、そんなに欲しいのか?」
「当たり前でしょ。ちゃんと印をつけとかないと、所有権を主張したって無意味よ?」
プロデューサーは私の我侭に溜息をつく。
だけど、私だってできる我慢とできない我慢くらいある。
「一生に一度だけの、伊織の大切なもの、俺にくれるか?」
「……あげるも何も、私はあんたの、でしょ?」
にひひっと笑いながらプロデューサーを見る。
プロデューサーは正反対に、きょとんっとした目をしている。
「そ、そうだったそうだった」
肯定されたのが意外だったのか、プロデューサーは戸惑い気味。
だけど、きちんと想いは伝わったようだった。
「さっきは狙いが少し上に行きすぎちゃったから、今度は外さないようにしないとな」
私に顔を近づけ、ぴたりと額と額をくっつける。
「今度やったらどうなるか、わかってるわよね?」
「やってもやらなくても、伊織は俺の」
そう言って、プロデューサーは唇を自分のそれと重ねた。
――――――――――
――――――――
――――――
「本当に送らなくていいのか?」
「良いって言ってるでしょ。何回言えば気が済むのよ」
プロデューサーにビルの外まで見送ってもらう。
車で家まで送ると言うプロデューサーの申し出は断った。
春香ほど遠い家でもないし、新堂にも来てもらっているところだし。
それに、プロデューサーはこれからまだ仕事をする気満々だった。
「あんたも、ちゃんと疲れたら休むこと。大事な身体なんだから」
「はいはい。俺が体壊したら、伊織が寂しくて泣いちゃうもんな」
「毎回毎回一言余計なのよ」
赤みが少し治まって来ていた鼻を摘んで空気の流れを遮断する。
「ふごふご」
プロデューサーは豚のような声を出した。
「そういや、今日も電話してきてくれるのか?」
ここのところ毎日のようにしていた夜の電話。
自分の気持ちをプロデューサーに伝えたくて、でも伝えられなかった昔の私の姿。
寂しがり屋だと思われても仕方が無い行動よね。
「あら、プロデューサーはそんなに私の電話が待ち遠しかったのかしら?」
「そうだけど?」
あっけらかんと言うプロデューサーに虚を突かれる。
「ば、馬鹿!真顔でそんな返事しないでよ!」
「なんだ、してくれないのか?今晩から寂しくなるなぁ」
はぁ……プロデューサーには勝てないわね。
論破されてるわけじゃないのに、どうしても掌で転がされてる感じしかしない。
「あ、あんたが寂しいって言うのなら、べ、別に毎晩してあげてもいいんだから」
「寂しい。いおりんの声が聴けない夜なんて考えられない」
「すればいいんでしょ、すれば」
「うっうー、いおりん殿が電話してくれるなら寂しい夜でもなんくるないですぅ」
混ざった人数分だけプロデューサーを叩いた。
ビルから数歩歩いたところで足を止め、プロデューサー見上げる。
「ここでいいわ。今日はありがと」
「俺の方こそありがとな。伊織と……その、できて嬉しかった」
事務所の中ならともかく、道端でなに恥ずかしいこと言ってるのよ、この馬鹿。
「ちょっと、誰かに聞かれたらどうするのよ」
「すまん。でもさ、俺と伊織って、一応恋人同士……でいいんだよな?」
「そ、そうだけど……あんまりはっきりと言わないでよ。恥ずかしいじゃない」
「……だな。中学生と恋人同士なんて知られたら、マジで逮捕されかねん」
意味深な言葉。キスだけで逮捕されるなんて、ホント変な世の中。
「大丈夫よ。その時は、水瀬財閥が全力であんたを守るから」
「勘弁してくれ。こんな小さい女の子に守られるような男にはならないよ」
ぽんぽんと私の頭を軽く叩いてくる。
恋人同士になったとは言え、私とプロデューサーの関係はあまり変わりそうになかった。
だから、恋人なりの我侭を言ってみることにした。
「ねえ、今度の休み、あんたの家に行っても良いかしら?」
プロデューサーはなんともむず痒い表情をする。
きっと、恋人と仕事、どちらを取るか天秤にかけているんだろう。
「……ま、まずいだろ。伊織はこれからトップアイドルになるんだからさ」
ま、プロデューサーの判断としては当然よね。
「じゃあ、代わりに私の家はどう?プロデューサーが私の家に来るのなら問題ないでしょ?」
本当はこっちが目的。一度は譲歩するのが交渉の常套手段。
「それならいいかな。仕事でも訪ねることがあるから、いくらでも言い訳はできるし」
「にひひっ。今度のオフが楽しみよ」
ちゃんと私がプロデューサーのって、パパに説明してもらわないとね。
もちろん、どんな風に説得してくれるのか、全部事細かに記録するんだから。
「あのさ、伊織……」
プロデューサーが何か言いかけたとき、私の携帯電話が震えた。
あまりのタイミングの良さに、プロデューサーは口をつぐむ
仕方なく電話を取り出すと、画面には我那覇響の文字が。
「……もしもし」
「うう、伊織、助かったぞー」
響の何とも脱力したような声。こっちも脱力したくなる。
「自分、お金とか全然持ってなかったから、伊織がタクシー呼んでくれてすごく助かったぞ」
「そう」
「突然窓から突き落とされるなんて、思いも寄らなかったぞ」
「ええ」
「でも、突き落とす時も笑顔のやよいは可愛いなっ」
「そうね」
「ペンギー子はやよいが連れて帰ってるのか?」
「ええ」
「よーし、明日自分が迎えに行くから、ちゃんとパーティの準備するぞー」
「頑張って」
「あ、そうだ。折角だから伊織にペンギンのこと教えてあげるぞ」
「えー」
そっけなく返事をするけど、響はそれを感じ取る気配は無い。
少しは空気読みなさいよ。
もう切ってしまおうかと考えるけど、響の受けた処遇を思うとそれもし辛い。
プロデューサーと一緒にいるって言うとあとが面倒だからそれも言えないし。
助けてやよいーと、心の中で思ってみるけど、響のペンギントークは止まらない。
その時、突然バタンと、扉が勢いよく開かれるような音が聞こえた。
「響さん、こんばんはー」
あれ、この声って……?
「あれ、こんな時間にどうしたんだ?」
「響さん、この仔がおうちに帰りたいって言ってるんです」
「うう、やっぱり寂しいんだなぁ。自分もちょっぴり寂しいけど、その仔の幸せが一番だぞ」
「それじゃあ響さん、出発しますよー」
「え、でもその仔ってすっごく遠いところに棲んでるだぞ?」
「……響さんって冷たいんですね」
「い、行くから!だから、そんな低い声で喋らないでほしいぞ」
「うっうー、しゅっぱーつ!」
「あら~」
ぷつっ。ここで電話が切れた。
「……な、なんだったのかしら?」
僅かながらホラーなにおいがする。
「響、ちゃんとに戻ってきたみたいだな。すぐに旅立ってしまったみたいだけど」
「……無事だといいんだけど」
響の話し相手、私の大好きな女の子の声に似てたんだけど、きっと気のせいよね。
少し前に家へ送って行ったばかりだもの。
私は関わりたくないので、携帯のボタンを長押しして電源を切る。
プロデューサーと顔を見合わせ、互いに微妙な笑顔をする。
響には悪いんだけど、ホラーはごめんだし、今はプロデューサー優先。
ふと、プロデューサーから視線を外すと、その先には見慣れた車が停まっていた。
どうやら新堂が着いたみたいだ。
プロデューサーもそれに気付き、溜息をついた。
「さっき、何て言おうとしたの?」
「いいよ、大したことじゃないから」
私はプロデューサーをじっと見つめた。
「伊織、新堂さんが待ってるぞ」
「そう」
「明日は早いんだからさ」
「だから?」
「伊織……」
「さっきの続き、聴かせなさいよ」
きっとそれは明日へ繋がる言葉。
いつもしている有り触れた挨拶だけど、今の私にはそれがとても大切に思えた。
プロデューサーは私を引き寄せ、強く抱きしめてくれた。
「伊織、また明日な」
私だけじゃなく、プロデューサーも私と離れるのが惜しいみたい。
だから私もそれに応えるように、プロデューサーを抱き締め返す。
「あんたも、とんだ寂しがり屋ね」
「一人暮らしの男なんて、こんなもんだよ」
くすりと胸の中で笑う。
私とプロデューサーは、なんだかんだで似たもの同士なのかもしれない。
だったら、プロデューサーが甘えてきた時くらい、立場を逆転させてもいいと思った。
「……ほら、したいことあるんでしょ」
「えっ……い、いいのか?」
プロデューサーはおずおずと聞いてくる。
どうやら私に心を読まれたのが意外だったみたい。
「特別よ。だって、寂しがり屋なあんたは……私の、なんだから」
「参ったな……でも折角だから甘えようか」
プロデューサーは腕を少し緩める。
「早くしてよね。新堂が待ってるんだから」
「そうだな……じゃあ」
プロデューサーは私の額を一撫でする。
「おやすみ、俺の伊織」
「おやすみなさい、私のプロデューサー」
大好きな人からの口づけに、私は頬を赤く染めた。
おわり
これまた変な設定で書いてすいません。
響好きの方、相変わらず不幸にして申し訳ない。
乙
ペンギーゴかな?
ペンギンの名前消したと思ってたんだけど……毎度粗ばっかりです。
一応仮の名前として、ロックマンX?のペンギーゴからとりました。
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