双葉杏「コーヒーが飲みたい」 (22)
雪の降る夜、街を一人歩く。
辺りには誰もいなくて、静かで、世界には杏しかいないような気分になった。
店の明かりは灯ってるから、実際そんなことはないんだけど。
マフラーで覆っていた口を曝け出し、はぁっと息を吐く。息は白く染まり、天に昇って消えていく。
両手を口の前に持っていき、もう一度息を吐いた。寒さで凍えた手は息くらいでは癒えない。
手のひらを擦って空を見る。空ではキリストの誕生日を祝うように、爛々と星が輝いていた。
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どこかの文学者のせいで月が綺麗と言い難くなったけど、なんで星じゃなくて月なんだろう。
星じゃダメだったのかな。
「いや、あれ俗説だっけ」
星が綺麗だと、センチになってガラでもない事を考えてしまう。
凍えた両手を頬に押し当てる。ひやりとした感触が、頭の中を少しだけクリアにする。
ぽてぽてと歩いていくと、ふわりと、なんだか凄くいい匂いがした。
匂いの方へ顔を向けた。
それは小さな喫茶店。そこから香るコーヒーの匂い。
普段なら気付かないような廃れた、でもなんだか吸い込まれるような落ち着きがある店だった。
窓からは明かりが漏れ、入り口には「OPEN」と立札が掛かっている。
コーヒーなんて好きじゃないし、いつもなら入る気はしない。だけどその店から香るコーヒーの匂いが
凄く心地よくて、思わず店の扉を開いてしまった。
内装は煉瓦造りで、大きな書棚が並んでいる。クラシックが静かに流れ、客層もそこそこ年配の
落ち着いた人が多い。まさにアンティークといった感じの喫茶店だ。文香ちゃんが好きそう、なんて思った。
カウンター席に座り、マフラーを外す。
上着を脱ぎ、椅子に引っ掛ける。
メニューを眺めていると、マスターがお冷を出してくれた。
「ご注文は?」
マスターが尋ねる。
「これで」
メニューを指差す。
選んだのは杏だけど、内心結構驚いていた。
指差したのは砂糖もミルクもないブラックコーヒー。
そもそもそんなに好きじゃないコーヒーの、一番良さが分からない拷問みたいな苦味の塊。
飲んでる人はカッコつけたいだけ、そう今でも思ってる。
だけど、その時は、ブラックコーヒーを飲みたかったんだ。
注文を聞いたマスターが戻っていく。
ふと正面を見ると窓があり、反射した杏の顔が映っていた。
寒さで両頬と鼻が赤い。マフラーのせいで髪に変な癖がついている。
でもそれより、目元が変に赤かった。
杏、泣いてた?そういえば、喉の奥も少し痛い気がする。
変にセンチなのも、何か泣いてたからなのかな。
なんで泣いてたんだっけ。
「お待たせしました」
マスターがカップを杏の前に置く。
コーヒーから漂う香りは、やっぱり心地良くて、暖かくて、辛い事を忘れさせてくれる。
取っ手を使わず、カップを両手で掴んだ。
凍えた両手が溶けていくように、じんわりと温かさが広がっていく。
カップを鼻先に近付け、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。
美味しそう。心からそう思う。
カップを口元に運び、小さく口を開ける。
カップを傾け、その美味しそうな、真っ黒な液体を、口に、注ぐ、瞬間───
───目が覚めた。
「………」
おかしなところはいくつかあった。
街に誰もいないクリスマスイブなんてありえない。
泣いていた理由を覚えていないなんてありえない。
そして何より、杏がブラックコーヒーを頼むなんてありえない。
だけど、だけどさぁ…
「せめて一口飲んでから覚めてよぅ…」
ぽすっと布団を叩く。
あのブラックコーヒーは本当に美味しそうだった。
立ち上る湯気すらも優しかった。
あれだったら飲めたかも。それで好きになって、現実のブラックコーヒーだって飲めるようになったかも。
そう思うと悔しくて、もう一度布団を叩いた。
12月24日、クリスマスイブ。そしてオフ。
寒空の中笑顔とプレゼントを振りまいているサンタさんに感謝して
二度寝しようかと思ったけど、なんとなくそんな気分になれなかった。
布団の上で上半身を起こしたまましばらくボーっとする。
ボーっとしていると、嫌な事が頭に浮かぶ。
頭を振って何か楽しい事を考えようとしたら、さっきの夢を思い出した。
「コーヒーが飲みたい」
ぽつりとそう呟くと、重いはずの腰が苦労もなく上がった。
部屋は暖房が効いているけど、布団を出るとそれでも時々体が震える。
そそくさと身支度を始める。洗面所でお湯を顔に叩きつけ、いやに多い目やにを洗い流す。
化粧は……いいや。めんどくさいし、鏡を見たくない。
着ぶくれするほど着込んでコートを羽織る。
フードに頭を包んで、マフラーで口元を覆った。
準備は出来た。冬っていいよね。着込むだけで変装代わりになるし。
「きらりに見られたら怒られるだろうなぁ」
そんな事を考えながら、家を出た。
「さっぶ」
防寒はしっかりしてきたけど、それでも寒いものは寒い。
マフラーを口に押し当て、大きく息を吐く。
こんなに寒いのに、何で人は外に出るんだろう。
自然に逆らわず素直に冬眠してる野生動物の方がよっぽど賢いよ。
ふと空を見上げる。空模様は悪い。昼過ぎだっていうのに日没みたいに薄暗い。
一雨くるかも。でも寒いし雪になるのかな。
雨は昼過ぎに雪へと変わるだろう…なんて雑な替え歌を考えたりして、駅前にあった喫茶店へ歩いた。
街はやっぱりクリスマス一色だ。
電飾が巻き付いたツリーが自己主張激しく光ってるし、
女のサンタがティッシュを配ってる。ミニスカで。うへー、寒いのにご苦労様。
後は言うまでもなく、辺り一面見渡す限りのカップル、カップル。
いいねいいね、今日一日で少子化問題をずばーんと解決してくれたまえ。
「はぁ」
溜息が漏れる。何をやっているんだろう、そう思えて仕方がない。
こんな寒い日にコーヒーを飲むためだけに外出して、それでクリスマスオーラを浴びて
気分を沈めて……バカだな。
ひたすら歩き続けていると、やっと目的の喫茶店が見えてきた。
学生に人気なお洒落な喫茶店。入った事はないけど、うちの事務所の人も
行っていたって話を聞いた事がある。
そう、学生に人気な…
学生に、人気な……
「杏の、バカ……」
店内は学生カップルでいっぱいだった。
店の前まで並んでいる。さて、どうしよう。
こんなカップルばかりの店内で一人で飲むのは流石に嫌だ。
じゃあ持ち帰る?行列に並んで。カップルに挟まれて数十分待つ?
遠目から店を眺め、大きくため息をつく。
「帰ろう」
そう呟き、踵を返した。
来た道を戻っていると、ふと、ちょっとした疑問が頭に浮かんだ。
そもそもなんでコーヒーが飲みたくなったんだろう。
それはもちろん、夢に見たコーヒーが凄く美味しそうだったからだ。
だけど、じゃあ何で夢にコーヒーを見たんだろう。
理由なんてないかもしれないけど、何かずっと引っかかっていた。
コーヒー、コーヒー、ブラックコーヒー。
湯気が立ち上って、優しくて、辛い事を忘れさせてくれて……
あったかくて、安心して、大きくて……
「あ」と口から声が漏れた。
そっか、プロデューサーだ。
プロデューサーがいつも飲んでいたんだ。
「よく飲めるね」なんて茶化しながら、なんとなく美味しそうだなって、
ちょっとだけ思ってたんだ。
なんだ、まーたプロデューサーか。
まったく、いつもいつも…夢にまで出てきて、もう……
鼻を啜る。寒くて鼻水が出てきた。
ティッシュで鼻をかむ。
ひゅるると風が吹いた。
思わず体を縮こまらせる。寒すぎて涙が出てきた。
寒いからだ。全部、寒いからだ。
もう一枚ティッシュを取り出し、涙を拭い、マフラーをしっかりと巻く。
はぁっと息を吐く。口を覆うマフラーで少しだけ口元が暖かくなったけど、
それくらいで寒さは癒えない。
もう一度息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
気付けば雪が降っていた。
通行人が、来るホワイトクリスマスに声を出して喜んでいる。
恋人と手を繋ぎながら、喜んでいる。
「いいなあ」
そう小さく呟いた。
辺りはかなり暗くなってきている。
喫茶店に歩き、戻っているだけだけなのに。
冬だからか、天気が悪いからか、そもそも家を出た時間がそこそこ遅かったのか。
時計を持っていないから時間も分からない。どうでもいいけど。
街を歩くカップルは数を増している。暗くなると増殖する特性でもあるのかな。
楽しそうに話し合う姿が目に付く。
でもどこを見てもそんな光景ばかりだから、俯いて端っこを歩いた。
そうして人のいないところを無意識に歩くうちに、路地裏に入りこんでいた。
雪の降るクリスマスイブ。
なんて言ったら聞こえはいいけど。
水気の多い雪が冷たくて気持ち悪いし、乾燥してて欠伸したら口の端が切れたし、
思っているよりろくでもない。
暗い路地裏。周囲の喧騒から近いけど、なんだか遠い。
ちらほらと人が通るけど、一人の人が多い。
杏みたいに押し出されたクチかな。
通行人を横目で見て歩き続ける。
そういえば、今朝夢で見た場所も同じような路地裏だったな。
夢の中の杏は雪の気持ち悪さなんて考えてもなかったけど。
そんな事を考えていた時、視界に映ったものを見て思わず立ち止まった。
初めて見たけど、見たことある店。
小さくて廃れていて、「OPEN」と立札が掛かっていて、コーヒーの良い匂いが漂っている。
今朝、夢で見たのと全く同じ喫茶店。
店内から客の笑い声が聞こえる。ちゃんと営業してるな。立札掛かってるから当たり前だけど。
扉を見つめ、生唾を飲み込む。入ろうか、入るまいか、ちょっとだけ考え──
意を決し、扉を開けた。
内装は煉瓦造り…の壁紙が貼ってある。
並んでいる大きな書棚には、ギャンブル漫画がぎっちりと詰まっている。
流行りの曲が騒がしく流れ、客層はそこそこ年配の人が多く煙草の臭いが漂っていた。
緊張で肩肘を張っていたけど、拍子抜けして溜息をついてしまった。
マスターに案内されるがまま、カウンター席に座ってマフラーを外した。
上着を脱いで、椅子に引っ掛け、置いてあったメニューを眺める。
せめて自分で合わせられるところは夢の通りにしよう、なんてちょっとした悪あがき。
まあ夢なんて見てなくても同じ事をしただろうけど。
今日は疲れたな。ちょっと歩いただけだけど、寒いってだけで本当に堪える。
お冷を出しに来たマスターにコーヒーを注文した。砂糖もミルクも断った。
注文を受けて戻るマスターを見送りながら、そういえばと正面を見ると、やはり窓があった。
窓には反射して杏の顔が映っている。
寒さで両頬と鼻が赤い。マフラーのせいで髪に変な癖がついている。
そして、目元が変に赤い。
夢で見たよりずっと酷いな、これでずっと歩いてたのか、なんて冷静に思う。
なんにせよもう疲れた。
泣いていたのは寒さのせいじゃなくて、
プロデューサーが──
「お待たせしました」
マスターがカップを杏の前に置く。
やっぱり香りは心地よくて暖かい。両手を使ってカップを掴むと、
凍えていた両手が溶けていくみたいだ。
カップを鼻先に近付け、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。
美味しそう。心からそう思う。
一応カップを置いて、頬を抓ってみた。
痛い。絶対夢じゃない。
……よし。
もう一度カップを掴む。
カップを口元に運ぶ。小さく口を開ける。
カップを傾けて、その美味しそうな真っ黒な液体を、口に注いだ。
コーヒーは凄く熱くて、舌を少し火傷した。
そして、強烈な苦味が口の中に充満し、思わず顔を歪ませてしまった。
なんだか予想通りすぎて笑いが出る。
「やっぱり全然美味しくないじゃん」
今日何度目か分からない溜息をつき、窓を眺める。
くたびれた子供が一人、ブラックコーヒーを飲んで顔を顰めている。
残った苦い汁をどう消費しようか考えていると、トントンと肩を叩かれた。
振り返ってみると、マスターだった。
「ああ、いえ、マズかったわけじゃ…」
さっきの独り言を聞かれていたかもと思って慌てて両手を振って弁明したら、
マスターは杏の席にアイスクリームを置いた。
「へ?杏、頼んでなんか…」
困惑する杏を見て僅かに笑い、マスターが答える。
「あちらのお客様からです」
マスターが隣の席を指す。
隣の席にいた人には、見覚えがあった。
その人を見るとなんだかあったかくなって、安心していくのが分かる。
そのニヤけ面を浮かべた人が、誰かという事を認識した瞬間…
「は、え、はぁぁぁぁぁぁ!??」
思わず、思わず大きな声が出た。
「何で?何でプロデューサーがここに!?」
「そりゃあお前のプロデューサーだからな」
「答えになってない!ああ、もう…」
「落ち着けよ。酷い顔してるぞ」
ハッとして窓を見る。泣き腫らした、よくもこんな顔でウロウロ出来たなってくらい酷い顔。
好きな人なんかには絶対見せたく、な……
「ちょ…見るなぁぁぁぁぁ!!!」
大声を上げて顔を背ける。
年配の客やマスターが、微笑ましそうに見つめていた。
「なんでブラックコーヒーなんて飲もうと思ったんだよ」
隣に座ったプロデューサーが尋ねる。
「何だっていいでしょ」
ぶっきらぼうに顔を背けたまま答える。
「ふぅん……よっ」
プロデューサーはさっきのアイスクリームをコーヒーの中に突っ込んだ。
「ちょっ何やってんのさ!」
「いいからいいから、飲んでみろって」
急に表れて、辱めて、本当に自由でバカで、
何でこんな人を…そう思いつつ、言われる通りカップに口をつける自分がいる。
「あれ、美味しい」
「だろ?」
コーヒーの刺すような苦味がアイスクリームのまろやかさで緩和されている。
それどころかこの苦味がちょうどいいアクセントになっていて……なんというか、凄い美味しい。
コーヒーの良さが少しだけ分かった気がする。
「でもこれってコーヒーって言うの?」
「さあ。何でもいいんじゃないか?」
「まあ、美味しいからいいか」
プロデューサーの適当な返事に、なんだか安心する。
何もなかったかのように笑う彼を見て、こういう所が好きになったんだと思い出した。
そして、自分も似たようなものだと気付くと、笑ってしまった。
外では雪の勢いが増している。夜更けには積もっているかもしれない。
店を出た時には、星や月ではなく、一面の銀世界が祝福するように出来上がっているのかもしれない。
「プロデューサー」
「ん?」
何を祝福するんだろう。
まあキリストの誕生日なんだろうけど、杏の中でだけはこう思わせてもらおう。
「メリークリスマス」
杏とプロデューサーに、祝福がありますように。
おわり
>>1
雪が降ってるのに星が見えるのおかしくないですか?
晴れてても雨は降るからそういうことやで
夢やし(適当)
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