最上静香の「う」_三杯目_ (33)


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 立春を過ぎ、梅の花も咲き始めた頃、今季最強と謳われる寒波が都心に襲いかかった。

夜半から降り始めた雪は、夜明け後も積もり残っている。交通機関も地下鉄以外は止まり、都内は大荒れの様である。静香はアイドルだが、今日は仕事がない。この日ばかりは幸運にも、と言うべきかもしれない。自宅で安閑と過ごせる自らの立場に最上静香は安堵したものの、この大雪にもかかわらず事務所や仕事先へ向かわなければならないアイドル仲間、そしてプロデューサーのことを不憫に思った。


 学校も休校となり、出された課題もすでに終えていた静香は、手持ち無沙汰な様子で自宅のリビングにて寛いでいた。しばらく読書をして過ごしていると、母が出掛けてくると彼女に声を掛けた。昼間も戻れないから、何か適当に昼ご飯を済ませて頂戴、とのことである。さてどうしたものかと静香は当惑したが、こうした寒日にはうどんであると脳裡にひらめいた。そうだ、昼はうどんを食べに行こうではないか。

 静香はうどんをこよなく愛する十四歳の少女である。


 正午を少しばかり過ぎてから、静香は読んでいた文庫を閉じ、出掛ける準備をし始めた。目当てのうどん屋は自宅から十分とかからないとはいえ、寒気厳しい今日の冬空を軽装で耐えるのは流石に無謀である。静香はマフラーを巻き、膝元まで覆うロング・コートを着て、それからノルディック柄のニット帽を頭に乗せた。手袋も忘れていない。

 玄関のドアを開けると、凍てついたような空気が静香の頬を刺した。そして、庭先に広がる一面の白銀たる世界を目の当たりにして、静香は思わず目を輝かせた。いまだ誰も庭へ足を踏み入れていないのか足跡は無く、まるで無垢である。静香は足跡を付けたい衝動に駆られたが、うどんを早く食べたいという気持ちが勝った。足跡を残したり、雪だるまを作るのは、帰ってからのお楽しみである。


 静香は通りに出た。住宅街の中の小道である。自動車が通ったせいか道の中心はアスファルトがうっすらと見えるが、脇の歩道には雪が五センチほど積もっている。雪道に足を踏み入れると――歩道の雪は殆ど足跡に覆われていたが、静香は敢えていまだ踏み荒らされていない部分をわざわざ歩こうとしている――ざくりと足裏に伝わる小気味良い感触と共に、レイン・ブーツが雪の中へあっさりと沈んだ。空は鉛色の雲に覆われているが、雪は降っていない。また、風は吹いていないお陰で、厳冬の凛とした空気が際立っている。雪が周りの音を吸い取っているせいか、普段は聞こえる住宅街の喧噪がない。家々に置かれたエアコンの室外機の唸る音だけが耳に残る。


 うどん屋へと静香は向かう。馳せ参じたい気持ちはあるが、雪道はペンギンのごとく歩くべしという金言に従い、小股で歩みを進める。これは友人木下ひなたの教えである。家々の屋根は雪で白く覆われ、玄関や塀には、子供達が作ったのであろう、大小の雪だるまが佇んでいる姿がちらほらと見られる。

 ここまで降り積もったということは、夜中にもしんしんと降り続けたからであろう。しかし、滅多に降らぬ都心の大雪は風景を一変させた。小さな頃から通り慣れた道にもかかわらず、静香はまるで初めてやって来た街のように錯覚した。その光景は曇天と相俟って、モーリス=ド・ヴラマンクの絵画さながらである。


 住宅街を抜け大通りまで出ると、目的のうどん屋が姿を現した。静香も予想していた通り、不慣れな雪の進軍ゆえ普段よりも時間を要した。ゆえに到着の喜びはひとしおである。静香は吶喊したい衝動に駆られたが、流石に耐えた。万全を期した防寒対策も、今日の寒さには敵わず、静香の手先は冷え切ってジンとしている。だが、この寒さがうどんの美味さを一層引き立てるのだと彼女は密かに笑った。

 うどん屋の戸のガラスは、店内の熱気と外の冷気が反応して白く曇っている。店に入ると女将がカウンター越しに顔を覗かせた。女将が静香を認めると、女将は明るく静香を迎え、静香に席をあてがった。静香は小さい頃からこの店の顔馴染みである。


 正午は過ぎて十二時三〇分。書き入れ時にもかかわらず、客の入りはまばらである。普段では行列に並ぶのを覚悟するのだが、この深雪ゆえ客足が遠のいたのであろうか。ともあれ、この凛冽たる冬の街に繰り出しうどんを食らう物好きこそ、真の「うどん人(びと)」と呼ぶべきである。うどん人には静香のアイドルの肩書きなぞ関係ない。先ほど静香が入店したときも、彼らうどん人は静香に一瞥くれただけだった。何者も特別視しないその姿勢こそ、うどん人の素晴らしき所なのだと彼女は思う。無論、静香もその一人なのだが。


 さて、女将がお冷を置きにやって来た。

「静香ちゃん、何にする?」

 お品書きを手にしていた静香は、少し悩み、注文した。

「梅しぐれうどんをください」

 そして、稲荷も一皿頼んだ。


 冬に食べるうどんと言えば、何を想像するだろうか。真っ先に想起するのは鍋焼きうどんだろう。厨房のコンロの中で小鍋を熱しながらうどんと具材を入れ、卓上でもぐらぐらと煮えるそれを熱い熱いと苦しみながら食べるのは、マゾヒズムに満ちた幸福の時間である。鍋焼きも捨て難いが、静香はそれを選ばなかった。決して天邪鬼だからではない。今日食すべきは梅しぐれうどんだと、静香は直感したのである。時雨どころか雪深く、梅は実も結ばぬ今日は季節に似合わぬかもしれない。しかし、寒の戻りとはいえ梅は花開き始めた。そして、しぐれはみぞれとも、雪見とも呼ばれる代物である。このうどんを食べると体がよく暖まることを、何より静香は知っている。


 静香はふと店内を見渡した。厨房では店主の親父が麺をぱらぱらと手際よく大釜に放り込み、先程注文を取りに来た女将もコンロの前で調理をしている。十幾つのカウンター席しかない狭い店内には、静香を除くと五人のうどん人たる客――みな見覚えのある顔だから常連だろう――がうどんに没頭している。大釜の湯気が店内に充満する。厨房にある小さな換気扇が湯気を吐き出すべくガラガラと音を立てて回っている。L字型をしたカウンターの角に置かれたテレビでは、昼の情報番組が流れている。番組では、静香が所属する芸能事務所の同僚であり、友人である春日未来が出演している。うどんが来るまでの間、静香はテレビを眺めて待った。ところで、静香は自宅を出る前に、春日未来が出演するからとこの番組を録画している。


「はい。梅しぐれと稲荷ね」

 女将が丼と小皿を持ってやって来た。うどんをたっぷりと入れた砥部焼の丼は、如何にも重たいぞと主張するように音を立てて置かれた。稲荷を乗せた小皿は益子であろうか。ともかく、静香待望の時は来た。それだけである。


 梅干しとしぐれ――すなわち、おろし大根――を乗せたうどんは時折見られる。しかし、この店の梅しぐれうどんは工夫を施している。うどん麺は変わらないが、出汁を雪平に取り熱したのち、溶き卵を入れてかき玉にする。それから麺を入れた丼に、かき玉にした出汁をかけ、大根おろしをたっぷりと乗せる。最後に梅干しと、葱と蒲鉾、そして天ぷらを一つ乗せると、このうどん屋独自の梅しぐれが出来上がる。

 かき玉とおろし大根により、うどん出汁からは透明感が失われ、丼内は全体がぼやけた淡黄色に覆われる。中央の真赤に漬かった梅干は朝霧の中を現れた太陽のように、そして、二枚の蒲鉾はまるで港から出帆したばかりの小船のように出汁の海に浮かんでいる。これは、印象派の巨匠クロード=モネが描いた初期の傑作『印象・日の出』を、丼の中で表現しているのかもしれないと静香は悟った。


 静香は流れるように唐辛子を振りかけた。「あっ」と小瓶を持つ手を止めた。梅しぐれに唐辛子は合わぬだろうと、振りかけるつもりはなかったのである。しかし、うどんには唐辛子をかけるという行為は静香の習慣となり、機械的に彼女の身体は勝手に動いていた。うっかりさんである。だが、入れてしまったものは仕様がない。唐辛子は一振りしただけだが、それでは辛さがどっち付かずとなり、うどんの持つ味も中途半端になりかねない。静香は仕方なく、全体の味が破綻しないよう、注意を払い唐辛子を振りかけた。


 そして静香は手を合わせ、「いただきます」と呟いた。小さなお玉の形をした木製の匙で、白濁とした出汁を一口啜る。昆布と鰹節を見事な配分で合わせた出汁である。そして、おろし大根と玉子は出汁の中で調和する。おろし大根は雪のようにふわふわとしているが、口に含めばほろほろと解け、その様には儚さすら覚えてしまう。おろし大根だけではよく見かけるしぐれうどんだが、この店では溶き玉子を混ぜている。火加減を見極めて出汁に流し入れた玉子にはダマがない。これにより出汁に滑らかさが生まれるのだ。さらに、玉子の優しい旨味が出汁の旨味を補強し、まろやかな味わいとなる。その柔らかな旨味を唐辛子が引き締める。なるほど、唐辛子の辛味も悪くない。静香は満足げに頷いた。まだ梅干しは崩さない。始めのうちは微かに漂う梅の香りを楽しみたい。途中で崩し、風味に変化を付けるのが静香の流儀である。


 丼から麺を引き上げる。中太の麺は、絹のように白く光沢を帯びている。手打ちながら麺が均等の太さなのは、店主の几帳面な性格と熟練した技術の証左である。程よくコシを残した麺が、静香の口内で踊る。美味しいと静香は心の中で呟き、頬を緩めた。天ぷらはの具は南瓜である。しっとりとした食感で甘味があり、口に含む度にほっと安意する。

 次に稲荷へ箸を伸ばす。じっくりと炊かれた油揚げは、甘さと醤油の風味を染み込ませている。中に詰めた酢飯の塩梅の絶妙であり、油揚げの甘辛さと見事に調和している。


 丼へと目線を戻す。麺を三口、四口と啜り、それから静香は梅干しを崩し始めた。梅干を匙に乗せ、箸を使って器用に割く。それから細かくなるように崩し出汁に浸すと、梅肉が溶け出してゆく。ぼんやりとした淡黄色の世界に鮮紅色が入り混じる。丼の中の均衡が崩れ、色彩の輪郭はさらに失われる。静香の眼前では、晩年モネがジヴェルニーの邸宅で描いた『バラの並木道』の作品群を想起させる光景が広がった。この光景こそ、この店の梅しぐれに隠された意味である。絵心豊かな静香ゆえに見出すことのできた境地といえるだろう。


 梅干しを崩すと味はどう変化するか。沸き上がる蒸気からは梅の香りが弥濃く感じられる。静香は引き上げた麺を口の中へ滑り込ませた。梅の酸い香りが主張を強め、酸味が舌を刺激する。強い酸味だが嫌な味ではない。この店の梅しぐれうどんには、酸い梅干しが不可欠である。生半可な酸味では、味が曖昧模糊となりかねない。出汁の優しい味わいを乱すような酸味こそ、このうどんの美味さを引き立たせる。

 出汁を啜る。梅干しの風味が矢張りまず飛び込んでくるが、玉子とおろし大根入りの出汁が酸味を優しく包む。そして唐辛子の刺激が後を追う。静香は驚いた。最後の唐辛子の一撃こそ、この梅しぐれの美味さを極限まで引き出しているのではないか。酸味と旨味と、そして辛味。混沌とした調和がそこに在る。グロチックと、エロテスクとセセーションを包含した一杯だ!


 梅しぐれは一種の創作うどんである。こうした変わり種のうどんを自ら頼むなど、かけうどんこそ至上のうどんであると妄信していた過去の静香では決して考えなかっただろう。出汁の澄み切った美しさを、かき玉やおろし大根は蹂躙し、出汁の味を濁らせると決めつけたであろう。しかし、静香は気付いた。うどん職人は、うどんの更なる美味さを常に希求しており、創作うどんは、彼らによる不断の努力が結晶した芸術作品なのだ。そして、彼らの芸術に対し、我々は真摯に向き合わなければならない。静香はそう誓ったのである。

 きっかけは、以前、福岡で食したどんちゃんであった。その一杯は、静香に根付いた既成概念を粉砕した。透き通った出汁のうどんこそ最も美しく美味いのだと、うどんの限界に対し勝手にも線を引いていたのである。静香は己の浅墓さに恥じたが、恥を忍んで学んでこそ成長するものである。静香は見事、自らの限界を超克した。




※もがみんはうどんを食べているだけです※




 静香は一気呵成にうどんを食べた。麺を、そして出汁を啜り、稲荷を頬張る。また出汁を啜り、天ぷらをかじり、かまぼこを口に放り込む。梅干しの種を口に含み、顔を顰める。その一連の動作は流麗である。うどんに向かう彼女の姿勢、所作の美しさを、小さな頃から彼女にうどんを供している店主はよく知っている。厨房での作業の傍ら、ちらりと静香を見遣った店主は、真摯にうどんに向き合う彼女の姿を見て、口角を上げた。静香の成長は日進月歩である。

 静香は丼を持ち上げた。厚手の器は重く、相撲の賜杯を思わせる。しかし、静香は最後の一滴まで飲み干し、そっと丼を卓上に置いた。砥部らしいコバルトブルーの唐草模様が、丼の内側に広がっていた。





 ああ、美味かった。





 静香は柏手を打った。それは本能から呼び出された行動であった。静香は改めて真摯に向き合った梅しぐれうどんの味に、そして粗忽にも振り掛けてしまった唐辛子による意外な調和に感動し、打ち震えた。梅干しの酸味と唐辛子の刺激は、複雑ながら爽やかな余韻として静香に残っていた。実に見事な一杯であった。


 そして、静香はもう一つ自らの体に生じた変化に驚いた。暑い。襟を持ち上げてぱたぱたと風を送りたくなるほど、体の芯まで温まっている。確かに、静香が梅しぐれうどんを食べたのは、今日が厳しい冬の日であるからだ。このうどんを食べると体が温まることを静香は知っている。丁度、おろし大根を大量に乗せるみぞれ鍋を食べることで体が温まるのと同じ要領である。しかし、この体の温もりは普段以上である。何故か? 唐辛子である。真に安易だが、唐辛子の辛味成分が、身体を温める作用に相乗効果を生み出したのだ。


 静香はうっかりさんであった。しかし、怪我の功名かな、その粗相はうどんの味を更に引き出し、魅力を高めたのであった。静香は感動し、興奮を覚えた。その興奮もまた、彼女の身体の火照りを高めているのだろう。

 静香は手を合わせた。供された一杯に感謝し、それから立ち上がった。女将と会計を済ませ、「ご馳走様でした」と告げた。女将は笑みをこぼし頷いた。うどん人もうどんと相対しながら、心なしか笑みを浮かべているようだった。


 防寒具を身に着け、静香は外に出た。刺すような寒気が依然として街を包んでいる。しかし、梅しぐれを食べ、興奮さめやらぬ静香の体は冷えない。静香が通りを歩き始めると、雲の切れ間から太陽が顔を覗き始めた。陽光は白雪に反射し、街は的皪と輝く姿を見せた。

 この太陽は残雪を溶かすだろうか。天気予報は夕方になると再び雪が降ると告げている。今日のような積雪となれば、明日も交通機関が乱れるだろう。明日は静香もアイドルの仕事がある。どのようにして事務所へ向かおうか、いや、果たして事務所へ向かうことが出来るのであろうか。

 だが、今はそうした心配を忘れ、暫くうどんの感動に酔いしれたい。明日のことは自宅へ戻ってから考えようではないか。庭で雪だるまを作っているうちに、何かしら解決策が生まれるかもしれない。

 静香は感動に浸りながら、白銀の帰路についた。


おわり

......つづく?


過去作はこちらです。
最上静香の「う」
最上静香の「う」【ミリマスSS】 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1484490831/)
最上静香の「う」_二杯目_
最上静香の「う」_二杯目_ - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1494082798/)

こちらもよかったらどうぞ。
最上静香「あれは・・・うどん職人!?」藤原肇「違います!!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1396941747




暖冬とは言いますが、寒い季節になりましたね。
うどんを食べて温まりましょう。

もがみん毎回凄い感想のセンスだ、乙です

最上静香(14)Vo/Fa
http://i.imgur.com/9bmfY7U.jpg
http://i.imgur.com/BbPBaZa.jpg

ぴてぃ「あーころころ」(乙。大変、感動できる饂飩のお話ありがとうございました)

梅おろしって夏向きっぽいイメージだった乙

うどん職人の人だったかーってこの感想どっかでも書いたような
おつ

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