おじさん「長富蓮実…?」 (37)

 


青春をアイドルに捧げた輝かしき80年代の思い出は、墓場まで大切にとっておこうと決めていた。


 

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高校時代はアイドルたちと共に生きたと言って差し支えなかろう。
金などなく、レコードを買い集めたりコンサートを頻繁に見に行くなど満足に叶いはしなかったものの、
新聞のテレビ欄を毎日穴の開くまでチェックを重ね、彼女らが出演する番組は全てビデオテープに記録し、ラジオもことごとくカセットに録音してあった。
テレビで見る彼女らはまことに凜々しく、麗しく、見ている間は息も止まった。
歌声は儚く、美しく、聴いている間は時間を忘れることができた。

写真集が出るとなれば、発売日の放課後に本屋へ走り、同じ趣味の友人たちと金を出し合い、公園で隅々まで眺めた。
暗くなれば街灯の下に移って尚も読み続けた。帰りが遅くなって親に叱られても気に留めなかった。
誰の家に保管するかで言い争いもした。
私の実家は狭く隠し場所がなかったので、いつも保管場所になる金持ちの友人が心底恨めしかった。
見かねた友人が、付録のポスターだけを私にくれたりもした。
笑ったままの彼女たちはいつ見ても、現実にこんな女の子が本当にいるのかと、信じられない気持ちにさせてくれた。
天井を眺めるたび彼女らに会える気がして、狭くて散らかった自宅も居心地がとても良かった。

周りからはろくに恋人もできない寂しい青春に映ったかも知れないが、
それでも私の人生は彼女たちのおかげで輝いていた。

 
大学に入って多少金の融通が利くようになると、私はアルバイトで稼いだ金をほとんどコンサートの遠征費に費やした。

地方でのコンサートに行くと、現地での出会いというのも自然と増える。
何度も同じ場所で出くわせば、そのつもりがなくともお互いを認識し、やがて同志の盃を交わすようになるものだ。
年齢も本名も知らぬ間柄だが、同じ少女を追いかけるもの同士の結束は固く、
いずれその仲間はどんどんと増えていった。
普段は滅多に会えぬその同志たちとは、文通や電話でアイドルたちの活躍について何度も語り合った。

私の生活はますますアイドル一色だった。
オタクだと言われても否定はしない、認めよう。
それでも私なりの、輝かしい80年代の思い出だ。

そんな気持ちは、いつの間に忘れてしまったのだろう。

大学を出て、会社勤めを始め、より金が貯まった頃には時間がなくなり、日々の仕事に追われてだんだんと熱は冷めていった。
毎回遠征していた地方のコンサートも一回おき、半年おき、一年おきと、少しずつ足が遠のいていってしまった。

当然、地方の同志たちとの交流も日に日になくなっていく。

のちの妻と出会い、結婚し、娘が産まれ……生活がどんどん私の中で大きくなっていき、気がつけば昔の趣味の記憶は彼方に置き去りにしてしまっていた。
それに合わせるかのように、かつて私が熱狂的なまでにその姿を追い続けていたアイドルたちはいつの間にかステージを降り、
ミュージシャンに転身するもの、芸能界でタレントとしてのセカンドキャリアを積むもの、引退して普通の生活を送るもの、
時には十数年ぶりにTVに出たかと思えばワイドショーでのスキャンダルだったりと、
その姿も時を経てすっかり変わり果ててしまった。

私の愛したアイドルは、私が流行から離れた隙に消え去ってしまったのだ。

 
しかしそれが時間の流れというもの、時代の移り変わりというもの。
人間生きていれば、いくつかの大事にしたいものを天秤にかけて、どれと共に歩むか選ばなければいけないというものだ。

私は最終的に仕事と家族を選んだ。
あれから何年も何十年も歳を重ねた私はイマドキの芸能人───俳優にも、芸人にも、そしてアイドルにもとくに興味を示さなくなった。
五十路へのカウントダウンもとうに始まり、中間管理職としての板挟みの苦痛を金曜夜の冷えたビールで癒やしながら、
愛は冷め情と安心感と義務によってあのときの永遠の誓いを渋々守っている家内に、
近頃距離を感じつつある高校生の一人娘から疎まれる日々。

休日の楽しみは部屋にこもって本を読みふけるか、
ごくたまに会社の仲間と連れ立って未だ扱い慣れないゴルフクラブと格闘し、
日焼けと翌々日からの筋肉痛に耐えること。

今の私は生きがいもない、世間擦れしてしまっただけの名もなき親父だ。

青春とは終わったと思ったときに終わるもの、というらしいが、
私の青春は大人になった私自身に見捨てられ、だんだんと現実に傾いていったその天秤にぶら下がったまま、
ゆっくりゆっくりと死んでいったのだ。



二度を息を吹き返すこともないと思っていた。

 
──────

ある日部下が持ち込んで来た芸能雑誌が、デスクの上に開き伏せられているのが目に入った。
最後にこういう類いに目を通したのは、何年前だろうか。

「スンマセン、関係のないものを持ち込んじゃって」

と部下はばつの悪そうにしていたが、なに、仕事さえしてくれれば何の問題もない。

「ちょっと見ていいかね」

と尋ねると、意外そうな顔をされた。
仕事場での私は流行り物にとんと疎い堅物にしか映っていないだろうから、無理もあるまい。

【話題の女性アイドル特集・346プロダクション編】と銘打って、見開きに何人もの若い女の子たちが映っている。
ほう、最近の流行には疎いが、近頃はこういう子たちが人気なのか。
ぱらぱらと頁をめくっていった率直な感想として、「面白いな」の一言が浮かんだ。
何かが滑稽だったわけでは断じてなく、みなそれぞれ個性が強いようにうかがえる。
年相応に着飾った若い女性たちは、確かにそのあたりでは見かけないような美人揃いだ。
私の知っているアイドルはほとんどが10代の中学生や高校生からデビューしていた記憶があるが、
最近はそうでもないらしく、20代後半でもこうやって第一線で活躍している人は多いらしい。
印字とにらめっこしていると隣で部下がそんなようなことを口にしていた。

改めて、私の若い頃とはずいぶん様変わりしたものだと思わされる。

 
「部長がこういうのお好きとは、知りませんでした」
「あ、いや、そういうわけではないんだが。たまには見ておかないと、娘とも話が合わんのでな」

なぜ私が部下の言葉に動揺しなければならないのか。
確かに好きだったさ。だが今は違う。

───この子たちも確かに可愛いが、何かこう、「華」がないんだよな───

我ながら、過去を持ち上げすぎる老いぼれの仲間入りか、と笑ってしまう。

「なるほど。ありがとう」
「もう見終わられたんですか?」
「君の雑誌だ、あまり占有されるのも気分が良くないだろう。さあ、返すよ……」

雑誌を差し出しながらふと、特集の一番最後の頁の、端の写真のさらに端に小さく映る少女に目が留まる。



どくん、と心臓が跳ねた。

 
「……部長?」
「すまない、もう少しだけ見せてくれないか」

今のはいったい何だ?
小さく掲載されたその部分をもう一度よく見てみる。

……うむ、小さくてよく分からん。老眼鏡をとってこなければ。

小走りでデスクワーク用の眼鏡を取りに戻り、不可解な現象を見たかのごとく立ち尽くす部下をよそ目にもう一度、その写真をにらんだ。
小さな写真でも分かるような大きな花柄をあしらった白いワンピースは、私から見ても今風のファッションではないのが分かるほどで、しかしそれがたまらなく似合っている。
同じ柄のカチューシャが、ふわりとまいたミディアムヘヤを飾っていた。

こんな女の子がまだいたなんて……?

彼女一人だけがまったく別の時代の写真からこの頁に貼り付けられているかのような、
そんな少し浮いたオーラがインクの集まりであってもよく分かる。
私はその間ずっと、奇妙な動悸に襲われた。

齢五十に迫る今の私には確かにこれは動悸でしかないが、若いころの表現に言い換えるとするならこれは「胸の高鳴り」だ。
私のような老いぼれに片足を突っ込んだくたびれた男が、胸の高鳴りとは背中のかゆくなる思いではあるが。

何が言いたいかというと、こんな衝撃は学生時代、TVで初めて“あの子”を見かけたとき以来だった。
そのたたずまい、服装、髪、丸みのある小さな顔、優しくもキリッとした瞳。

根拠もないままに、その姿は、かつて私が熱狂した伝説のアイドルたちにどこか似ていると思った。

 
「この子……」
「どの子ですか?」

私の目線を辿った部下が同じくその少女を見つけた。

「……あー、まだCDデビューしていない子みたいですね。その一枚は候補生の集合写真みたいです」

小さな写真の下部の、さらに小さな説明文を目で追いかける。

『346プロダクションは未来のスターの育成にも力を入れている。候補生も実力派揃いだ(右上から、工藤忍(16)・関裕美(14)・小日向美穂(17)左下から藤原肇(16)・今井加奈(16)・……)』

そうして彼女の名前を最後に見つけた。
彼女はエネルギッシュな笑顔あふれる面々の中、しとやかな笑みでこちらを見ているようだった。



私は長富蓮実という少女と、初めて出会った。

 
──────

帰宅後、食事と風呂もそぞろに私は自室へ閉じこもった。
奇妙に映ったかも知れないが、どうせ妻と娘のことだ、さして気にも留めていないだろう。
むしろ普段はTVを占拠している親父がいなくなってくれて居間での心地も良いと思っているかも知れない。

パソコンを起動し、記憶力の衰えた脳の片隅にベタリと貼り付けておいた名前をそっくり打ち込む。

「長、富、蓮、実……と」

カタカタとうるさくキーボードを叩き、カチッ、と大げさにクリックする。
これも中年の性、悪い癖だとよく言われるがついやってしまう。

……驚いた。これといった情報がほとんどない。

唯一見つけたのは、346プロダクションの公式サイトにある所属アイドル紹介欄。
昼間見た雑誌の写真と全く同じものが、頁の一番下に貼り付けられていた。
使い回しとは……これほどまでか。確かにデビュー前の候補生とは聞いたが、それでも芸能界の人間なのだろうに。

「うん、どうしたものかな」

機械に詳しいわけでもないので、気になったものをインターネットで調べてみるのが私には精一杯だ。
つまるところ、早速、詰まったのだ。

試しに部下の持っていた雑誌を買ってみようか?
───否、どうせ先ほど見た写真以外の情報はあるまい。

流行りのアイドルに多少は詳しい娘に聞いてみようか?
───そんな話題を振ればきっと気味悪がられる。

他に誰か、そのあたりの事情に詳しそうな人間はいないだろうか?

「……仕方ない」

しばらく悩んだ挙句、今度はスマートフォンを取り出し、連絡先を指でツツと探っていく。

「番号、変わっていないといいが」

“旧友”に尋ねてみることにした。

 
パソコンの静かなファン音とかすかなコール音だけが自室に響く中、果たして電話はつながった。

『……もしもし?』
「……お久しぶりですな。覚えておられるだろうか」

『もしや…………【隊長殿】でありますか!?』

訝しげな声が歓喜交じりのそれへと変わった。
やめてくれ。急に大声を上げるものだから耳がキンとする。

「あのなぁ……その呼び方はよしてくれないか」
『いやはや、お久しぶりですなぁ! まさか隊長殿から連絡をいただけるとは。最後にお会いしたのはいつでしたかね? 4年前のアキナオフでありましたか?』
「いや、それは5年前だったな」
『せっかく連絡先を交換したといいますのに、隊長殿は薄情なお方ですなぁ、全く』

電話主は、私が若いころから世話になっているいわゆるオタク仲間だ。本名など知らぬ。
35年前からの長い長い知り合いだというのに、会うのは数年おき、電話やメールでのやりとりもなく、運良くイベントで一緒になれば語り合う程度の仲。
島根県住み、歳が私より二つだけ下という以外の個人情報は持っていない。

それでも彼は私の友人の一人だった。
初めて遠征したイヨちゃんの地方コンサートで出会い、意気投合しその夜に飲み明かした記憶はまだまだ鮮明である。
学生時代、私をアイドルオタクの沼へ本格的に引きずり込んだのは紛れもなく彼に違いない。

あの頃に知り合った同志の中で唯一、現在も連絡を取り合うことのある人物。

「……すまなかったよ、“ウイングワッキー殿”」
『おほっ、その名で呼んでいただけるのもずいぶんと───』
「本題に入ってもよろしいか!?」

少々声を荒げてしまったことを反省し、私はコホンと咳をしてから改めて切り出した。

 
「あるアイドルの女の子なんだが……君なら知っているかなと思ってな」
『意外ですな、隊長殿はイマドキの子らには興味ないと思っておりましたが……』
「そうだったんだが、ちょっと気になったんだ」

不思議だ、今の自分がこれほど素直に「気になるアイドルがいる」などと漏らせるとは思っていなかった。

「折り入って頼むよ」
「了解です。 なんという子ですかな?」
「長富蓮実」
「ふむ……」

少刻、待ちぼうけ。
電話の向こうからはウイングワッキー氏の呼吸音しか聞こえない。

「あの……調べられそうか?」
「今調べておりますよー。どうやら公式にはプロフィール以外の情報もなさそうなので」
「私もそこまでは分かったのだが」
「……お、どうやらSNSでは少しだけ話題になっているようですぞ」
「SNSって……ついったーとかか?」
「隊長殿、やっておられぬか」

そういえば、その辺は今まで興味もわかなかったし、触ったことなど一度もなかった。
そういうツールで繋がるような友人などもいない。

 
「Twitterでしたら、イベントなどに参加された方の呟きなども見られますのでもっと細かい情報を仕入れられますよ。
 僕もやっておりますので、是非隊長殿も始めてみては?フォローして差し上げますぞ」

どうやらワッキー氏は私などよりよほど詳しいらしい。
ここは彼に従ってみることにした。

「詳しいな。 一応聞いておくが、まだ追っかけを続けているのか?」
「僕は常に推しがいますから。 今は若林智香ちゃんに首ったけであります……」
「そうか、分かった」

何だか彼の長く語りそうなスイッチが入る気がしたので、話をいったん切っておく。

「この際だ。やってみよう」
「さすが隊長殿!」
「隊長はもう辞めてくれ。 そもそも私は何の隊長などにもなったことはない」
「僕にとってはこれまでもこれからもあなたは隊長ですぞ」
「はいはい……で、ツイッターってどのサイトだ?」
「……あなたはあなたで、その微妙なズレ具合、昔から変わっていませんなぁ」

彼の意味するところをいまいち汲みかねたが、そのまま私たちはしばらく久しぶりの交流を楽しんだ。

 
──────

ワッキー氏の協力もあって、私は長富蓮実についていくつか新しい情報を仕入れることができた。
あれからツイッターに登録し、投稿されている情報の欠片を広い集めて回ったのだ。

長富蓮実──16歳、島根県出身。趣味は古着屋巡りとボウリング(ここまでは公式プロフィールでも少し触れられていた)。
母親の影響からか昭和のアイドルが大好きで、好きな歌もほとんどが80年代のいわゆる“懐メロ”というやつらしい。

あの写真で見たときの雰囲気から、なんとなく古めかしくて懐かしい感じだという印象を抱いたのは間違いではなかった。


「今時、面白い子なのだな」

今時を知らない私が言うのも可笑しな話である。

『ますます興味が湧きましたか?』
「うむ……」

素直に認めたくはないものの、自然と肯定の相槌を打つ。

 
『ではここで隊長殿に朗報があります』
「何かな?」
『先ほど発見した情報なのですが、実はハスミン、今度の―――』
「ハスミン?」

妙なあだ名をつけるのは得意なのだろうか?

『ええ、一部ではそう呼ばれているそうですぞ』
「そうなのか……というか、もう既にファンがいるのか?」
『というよりも、これは公式の愛称とも言えますな。 たった今公式Twitterアカウントから告知がありまして』
「なにかね?」
『今度の土曜日、近く秋葉原でイベントがあるそうで。 来るらしいですよ、ハスミン』
「………………そ、そうなのか」

30分ほどあれば行けるな、と瞬時に計算してしまってから我に返る。

「……まだ行くとは誰も言っていない」
『行きましょうとも言っておりませんぞ?』
「…………」
「冗談ですよぉ。 実は私たぁまたまその日東京に行く用事がありまして。 イベント、行こうかと思っておるんです」
「そうなのか?」
『お目当ては違いますがね。 若林智香ちゃんも……ふふっ……参加するのですよ!』

ワッキー氏は電話越しに息を荒げた。

 
『隊長殿も、せっかくですしハスミンに会いに行ってみましょうよ。 それに我々にも積もる話というものがありましょう』
「そういうものかな……」

ため息を漏らしながら後ろに体を反らして大きく伸ばした。
キィ、と椅子を鳴かせたあと、しばし考えこむ振りをする。

「仕方ない…………土曜日、秋葉原か。分かった、行こう」
『そう来なくては! では、13時に電気街口で会いましょうぞ』
「もうそこまで決めていたのか……」

天の邪鬼を悟られていないことをぼんやり願いながら、その日の通話を終えた。

 
──────

土曜日の13時5分前、電気街口の柱にもたれ掛かったまま私はワッキー氏の到着を待っていた。
秋葉原は移り変わりが激しすぎて、都内住みの私ですら何度来ても慣れない。
4月の半ばにもかかわらず快晴の青空からじんわりと暑さが襲う。

「……お、隊長殿ですかな?」
「……やあ、久しぶりだね」
「お久しぶりであります」

あまりオフで「隊長」と呼ばれたくはないが、彼は私をそう呼ぶ以外に知らないし、
私も今さら新たな呼び名を決めるつもりはない。今後はスルーする。

「もう汗ばんでるじゃないか……何してきたんだ?」
「会場の下見ですよ。 それと、昼飯に激辛の麻婆豆腐を食べましたので、それのせいです」
「……そうか」
「さあゆっくりしている暇はありませんぞ。 今ならいい席を確保できます、行きましょう!」

“積もる話”とやらもそこそこに、ワッキー氏は急ぎ足で恰幅のいい体をずんずん運ばせる。

「おいおい……イベントは一時間後だろう?」
「一時間しかありませんぞ!」
「ちょっと待ってくれよ……全く」

数年ぶりの再会の余韻に浸る暇もなく、私は人混みに消えては現れる彼を必死に追いかけた。

 
──────

わざわざ早い時間に来て席取りに励む輩は我々だけだと思っていたが、そうでもなかった。
家電量販店のイベントスペースにたどり着いた頃にはすでに20人ほどが列をなしていた。

「あちゃー、出遅れましたか……」
「しかし、なぜこんなに人がいるんだ? 彼女はまだデビュー前のはずだろう。 こんなにファンがいるとも思えない」
「訳があるのですよ。 今回はハスミンと智香ちゃんは付き添い、コンパニオン、バックダンサー。 要するに単なるおまけです」
「おまけとはまた随分な言い草だ」
「今しがた貴方も、『こんなにファンがいるとも思えない』と……」
「……失言だった」

事実に変わりなくとも、我ながら期待を寄せるアイドルに対する感想ではなかったなと、少し反省する。

「まぁ仕方ありません。今日の主役はあの子らですから」

ワッキー氏が目で扇いだ先を追いかける。
通路の上を跨ぐようにかけられた垂れ幕には、

【トライアドプリムス:「Trinity Field」 リリース記念販促イベント】

と大きく書かれていた。

 
「なるほど」
「この3人はさすがにご存知ですかな?」
「ああ、娘がファンらしい」

と、妻がよく言っていた。 私もグループの名前くらいしか分からない。
娘が時々聴いていたCDはこの子達のものなのかな、と今さらながらに推測した。

「流石の人気ですよ、この3人は」
「確かに、テレビでも一度見たことがあるな」
「まさか今になってこんなファンに近い場所でイベントを行ってくれるなんて……いやはや、思ってもみませんでした」

ワッキー氏も私を差し置いて、イベントへの期待を膨らませているようだ。

話をしている間にも我々の後ろに30人、40人と次々に続いていく。
そのうち待機列は遂に向こうの突き当たりで右の角へ消えた。もはやどこまで並んでいるのかも分からない。
30分ほどした後、係員がやって来てイベントスペースへの案内を始めた。
ワッキー氏があらかじめ入手しておいてくれた整理券を一枚受け取り、
後ろから押され気味になりながらも少しずつ前へ進んでいく。

座席スペースに到達してからは静かなる戦争であった。
前列中央は瞬く間に埋まり、その後も少しでも眺めのよい席で見物したい人々が押し合い圧し合いになっている。

 
「隊長殿、こっち!こっち!」

どうすればよいかも分からぬ私を、ワッキー氏が遠くから手招きしていた。

「すまない、見失った」
「なんのなんの」

申し訳なさげに数人を横切り、彼のもとへたどり着いた。最前列の右端というなかなか悪くない場所にようやく落ち着く。

「端にいれば、智香ちゃんかハスミンのどちらかが間近で見られますぞ!」

なるほど。なかなか冴えている。



イベント開始が近づくにつれ、もしも目の前に来るのが長富蓮実のほうだったらと想像しては何度か背筋を伸ばした。
……笑うな、ワッキー。

 
──────

『……神谷さんはこの曲、歌ってみてどうでしたか? レコーディングの時の感想をお聞かせください』
『えっ、あ、あたし!? なんで! 何も聞いてないぞ!』
『奈緒、本番中』
『凛! こんなの段取りになかったじゃないか! 騙したな!!』
『早く喋ってよ~』
『くそ、加蓮まで……!!』

コントのようなトークに会場も沸く。
何も知らない私でも、何となくメンバー内の関係性が察せられる。
テレビで見かけたときはクールな印象だった3人だが、よくよく考えれば娘と同年代、箸が転んでも笑い出す年頃だ。
存外に愉快なトリオなのかもしれない。

マイクを持った3人とは対照的に、両端の二人──長富蓮実と若林智香は、CDジャケットの画像を拡大した胴体ほどもある巨大なパネルを抱え、
一言も話さず、ニコニコと愛想を振りまいてはたまに観客へ手を振るのみであった。

彼女らもせっかくアイドルなのに体を隠して仕事をするなど勿体ないなと率直に思うが、それがこの世界の厳しさなのだろう。
アイドルの卵とはしばしばダイヤの原石とも表現されるが、少なくとも今日の二人は路傍の石であり、
主役たるトライアドプリムスよりも目立つことは決して許されないのだ。
自分達よりも遥かに出世した同世代の仲間を脇から黙って眺めるのはさぞ歯がゆいに違いない。
だがそれでも与えられた任務を全うし、笑顔を保たなければならない。少なくとも今日はそれが彼女らの仕事だから。

私は改めてステージの右端──自分の席の目の前に立っている方の脇役アイドル──若林智香に目をやった。
残念、と言えば目の前の若林智香にも、目をキラキラさせてその若林智香に小さく手を振っている隣のワッキー氏にも失礼になるだろうか。
彼女が快活で可愛らしいアイドルなのはその通りだった。

大きなパネルで顔以外のほとんどが隠れていても、緊張感とこの場を楽しんでいそうなワクワクの両方が、表情から読み取れる。
オレンジの長いポニーテールは観客へニコリと笑いかけるたび、嬉しそうにぴょこんと小さく跳ねていた。

 
対してステージの左端―――私からはトライアドプリムスの神谷奈緒に隠れてほとんど見えない―――私の位置から一番遠くにいたのが長富蓮実だった。
どうやらあちらは緊張が勝っているらしい。柔らかな笑顔こそ保っているものの、体は微動だにしていない。

しかし写真でみた時の古めかしく懐かしいオーラは実際に見るとひとしおで、私は年甲斐もなくドキドキしてしまっていた。
否、これはだの動悸だろうか。彼女を遠くから眺めながら、長らく味わった事のない心持ちにしばし浸っていた。
「向こうばかり見ていないでほら、主役は3人ですぞ」と脇を小突かれるまでは。

目は長富蓮実をしばしばとらえながらもしばらく3人のトークを楽しんでいると、時計を見つつ司会が口を開く。

“さてそれでは、メンバーの皆さんの制作裏話なんかも聞けたところで……ここでトライアドプリムスの皆さんに、新曲『Trinity Field』を披露していただきましょう!
 お三方、準備のほう、よろしくお願いします”

すると、ステージに立っていた3人と両脇の2人は一旦ステージ袖に引っ込む。
しばらく待ったところで、イベントスペースの照明が落とされた。

 
──────

“では皆さん、名残惜しいのですが……そろそろお時間ということで、今回の販促イベントはこれにて終了とさせていただきます”

観客席から拍手が湧き起こった。

“このあとは皆さんお持ちの整理券を引き替えといたしまして、握手会へとそのまま続けていきます。
 整理券一枚お持ちいただければメンバー全員と順番に握手していただけます。どうぞご参加下さい!”

ワイワイと騒ぐ観客席に手を振りながら、トライアドプリムスの3人は次の場所へと移動していく。

「……トークショー、ライブイベントから続けざまに握手会か。なかなかハードだな」
「このファンサービスの良さも、人気の理由ですよ」

続々と席を立ち始めた大勢のファンたちを係員が迅速に案内し、スムーズに列を作らせていく。手際が非常に良い。
イベントへの慣れとスタッフの統制が浸透しているのだなと感心していた折、
ガヤガヤとうるさいステージ前の人だかりの向こう側に、裏へと消えようとする長富蓮実と若林智香の二人が見えた。
そして一瞬袖から出てきた、どうやらマネージャーらしき男の姿も目に入る。彼女らと男はそのまま奥へと姿を消していった。

「隊長殿、握手会参加されないのですか?」
「……並んでいてくれ」
「あれっ? どちらへ? 隊長殿!?」

ワッキー氏の言葉を振り切り、私は二人を袖へ見送った若い係員の元へ向かった。

 
「あの……」
「あっ、すみません。 握手会の列は向こうが最後尾で……」
「いえ。違うんです、その……脇にいた2人とは……握手はできないのでしょうか」

『おまけ出演の長富蓮実が気になってやって来た私のような妙トンチキのために、彼女と握手をさせろ』などとは到底言えず。

「…………あー、いえ、今日はトライアドプリムスのイベントでして……先ほどの二人はメンバーではなく……えーっと……」

我ながらスタッフを困らせる面倒な奴だなと、冷静になって申し訳なさがこみ上げてくる。
やはり結構です、失礼しました、とこちらから言う前に、若い係員は「確認してきます」と小走りであちらへ走っていった。

しばらくして戻ってきた係員は、さきほど見かけた男を連れていた。
白髪、というよりグレーの髪色の、私より少し歳上と見受けられる初老の男だった。

まずいことを言ったかな……

神妙な面持ちでこちらを見つめたままつかつかと歩いてくるその男は、こちらに来るやいなや投げつけるように話し始めた。

 
「長富の担当の者です」
「……はい」
「申し訳ないのですが、今回はトライアドプリムスのイベントでして。 メンバーの3人だけが握手会の対象です」

初老の男―――やはりマネージャーなのだろう―――の言葉には何となく怒りを含んでいるように思えた。
確かに今の私のような、面倒くさい要望を通そうとする中年など、年頃のアイドルの女の子にはストレスでしかないのかも知れない。
私自身も事を荒立てたくないし、本当に長富蓮実と握手をさせてくれるとは思ってもいないので、ここはおとなしく引き下がることにする。

「いや、失礼しました。ただあの二人が……特に、左端にいた女の子がとても……気になったもので」
「…………長富が?」

マネージャーは意外そうな声を上げた。

 
「ツイッターで彼女のことを知って……昔ながらの女の子で今時珍しいなと、興味を抱いたもので……それだけなのです」
「お気持ちはありがたくいただきます。それでも、今日のところは会わせて差し上げることはできません。ご了承いただきたい」

気恥ずかしさもあったが、マネージャーが私より歳上に見えたのもあり、気づけば正直に話してしまった。
ただこちらに悪意がないのが伝わったのか、マネージャーの表情もどこか穏やかになっている。

「あと……ファンがいて下さったこと、長富にも伝えておきます」

とにかく今日は、トライアドプリムスのほうをよろしくお願いします―――
それだけ口にして、マネージャーは去って行った。

「ファンか……」

知り合いに誘われるがままやって来ただけの、古くさいアイドルオタク崩れでしかないくたびれた中年の私が、
再び胸を張ってアイドルのファンですと名乗るのはなんだか後ろめたい。
それでも今日、結局面と向かって会うことの叶わなかった長富蓮実が、
いずれ自分自身の握手会などを開けるよう、アイドルとして成功して欲しいと遠慮がちに応援し始めていることも事実だった。

マネージャーの姿が見えなくなってから、ようやく我に返った私はいそいそと握手会の列に並び直すことにした。

 
――――――

「あなたが思いつきで突拍子もなくあんな事をするなど予想してもいませんでした」
「……私もだ」

我ながらなぜあんな莫迦なことをしてしまったのかと、量販店からの帰りの道中うなだれっぱなした。
反対にワッキー氏は満足感に充ちた足取りで私の一歩先を軽やかに歩いていく。

「でもそれだけ、ハスミンにお熱ということでしょう? きっとその思いは本人にも伝わりますぞ。 いつかね」
「その前に、イベント出禁になったりはしないだろうか……」
「存外小心者ですな。 そんなことでは出禁になどなりませんよ」
「そういうものか? 昔はもっと厳しかった気がするなぁ……」

そのように今昔を比べて考えてみるたび、先ほど会った長富蓮実のことがやはり気にかかった。
もっとも『会った』とも言いがたい。顔をまじまじと見つめたのもほんの数秒で、目に焼き付けようと決めていた彼女の像もいまや夢うつつである。
喋ってすらいなかったので声も聞いていないし、バックダンサーとして参加したといっても……
正直、ステージは暗くてスポットライトは主役の3人にしか当たらなかったものだから……

言ってしまえば私は結局、長富蓮実をほとんど知ることすら叶わなかったということだ。

 
けれども一つだけ言えるのは、たった一目見ただけの長富蓮実という存在は、
三十数年来の青春の興奮、その一片だけでも蘇らせてくれたということ。

主観に塗れた決め付けかもしれないが、思い出がフラッシュバックする瞬間というものはそういう理屈を超越したものが作用しているのだろう。

だがもし彼女が本当に懐かしのアイドルの再来だったとして───
平成も終わろうとしているこの時代で、この先大成することは叶うのだろうかと。
流行り廃りの激しい芸能界、あの頃の私の憧れだった存在は、今の世でどのように評価されるのかなどと。

「どう思う?」
「その心配はありませんよと、私は胸を張ってお答えしますぞ」
「なぜ」
「あなたがその証拠ですよ」

なぜ、ともう一度素っ頓狂に訊き返す。

「だって、イマドキの流行にはついてゆけん! としばしば言っておられましたでしょうに、それでもそんな隊長殿を惹きつけ、イベントに足を向けさせ、今こうやって彼女のことを考えさせているのは紛れもなくハスミンの力ですぞ」

むむ、そうはっきり言われるとまだ気恥ずかしい。

 
「ハスミンだって立派にイマドキの子ですよ。 それでもアイドルからしばらく離れていたあなたがファンになった───これだけで十分な成果でしょう」

本人が知らずとも、とワッキー氏が付け加えた折、ふと若いころを思い出してみた。
読まれたか分からない何通ものファンレターも、音響と親衛隊たちのコールにかき消されたであろうコンサートでの声援も、
必死になって彼女たちへの思いを届けようとしていた情熱は、
いずれ「これだけ大勢のファンに囲まれていれば、自分が伝えなくても……」という想いから、年月と共に萎んでいったのだと今になって振り返る。

「だから、我々のような……いえ、あなたのようなお人が! ……応援してさしあげませんとな」
「……何度も言うが、まだファンになったというわけでは」
「またまたぁ。 どうせ時間の問題ですぞ」
「そうかも知れんが、あまりにブランクがありすぎてな」
「馬鹿真面目と言うんですよ、それを。 ブランクなど関係ありません」

あの時分との違いは、いまや清純派などいないということ。
───否、いたとして、きっと世間からはすでに過去の遺物として捉えられているのかもしれない。
そんな中現れた彼女自身が、自らのアイドル像にどれだけの思いを込めているのか。

“もっともっと知りたい
 もっともっと、彼女のことを”

なんとなく頭に浮かんだフレーズが、また私の青い記憶をくすぐる。
私のような親父にとって、そんなものを思い出させてくれるということが、彼女がどんなアイドルなのかを示す最大の根拠だ。
これだけはなぜか自信をもってそう言い切れる気がした。

 
 
──────


ワッキー氏と軽い夕食を済ませたのち、宿へ向かうということで二人で秋葉原駅へ戻る。

「ホテルの最寄は東京駅なのですが。一緒に行かれますか?」
「いや、ちょっとお茶の水まで足を伸ばそうと思う」
「……ほほう」

ワッキー氏はニヤリとしてみせた。

「まあ、なんの用事かは聞かないでおきます」
「なんだその含み笑いは」

悪態こそついてみるが、今日ばかりは彼に感謝せねばなるまい。

「……頑張ってみるよ」
「なにを頑張るというのです?」
「何でもない」

日が沈みかけると昼間の暑さなどどこへやら、風はすっかり心地いい。

 
「では、私はこの辺で。 またお会いしましょうぞ!」

大げさにブンブンと手を振るワッキー氏に苦笑いすら浮かべながら、遠慮がちに手を振り返す。
彼は秋葉原駅の改札口を入ってすぐ、人ごみに紛れて見えなくなった。

しばらくその場に立ち尽くしていたが、気持ちを切り替えて足を反対方向へ向ける。
この涼しさなら電車でなくても快適だろう。

昔よく通っていたレコード店は、今も変わらぬ品揃えで出迎えてくれるだろうか。
もう一度長富蓮実に会えるその日までに、往年のヒットソングを今一度復習してみるのも悪くない。
中年のくだらないプライドを忘れて、純粋にアイドルを支えようと必死になっていたあのときの感情を少しでも取り戻せればという思いで、万世橋に向かって南に歩いていく。

その時に胸を張って、彼女に「ファンです」と名乗れるように。

【終わり】

こうやってはすみんのファンになっていく人はきっと多いんじゃないかと思うんですよね
おじさんの気持ちになるですよ

以前書いた別のはすみんSSもよければどうぞ
長富蓮実「ザ・ラストガール」
長富蓮実「ザ・ラストガール」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1544796224/)

お付き合いありがとう

面白かったよ、乙


よかった

乙乙。
読後感が爽やかで良い。

乙でした
>>31のSS書いた人だったのか。こちらも面白かったな

その後事務所でトップに立っているウサ耳の人を見た時は、どんな気持ちになったんだろうw

ワッキーも長いな
もう8年くらいSS読んでる気がする

乙、すごく良かった
すごく良かったせいで逆に重箱の隅が気になってしまった

五十路へのカウントダウンもとうに始まりとあるけど
おじさん50過ぎてないと色々計算が合わないとか
携帯電話もネットもなかった時代、連絡取り合う関係の知り合い同士で
本名知らないのはちょっと考えにくいとか
(そういうのが一般的になるのはSPEEDとかモー娘。の時代)

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