有栖川夏葉「とっておきの唄」 (13)
かたかたとキーボードを叩く音が、二人分。いま、事務所に響くのはそれだけだった。
一つは残業中の私の担当プロデューサーのもので、もう一つは私のものだ。
彼が取り組んでいるのは明後日に必要な資料らしいのだが、明日は久々のお休みのようで、曰く「休日を平穏に過ごすために必要な犠牲」とのことだった。
対する私はというと、大学で来週が提出日となっているレポートを仕上げる作業を、事務所のパソコンを借りて行っていた。もちろん期限は来週であるし、今日完成させる必要はあまりないのだけれど、そこはそれ、可愛らしい口実と考えて欲しい。
などと誰に宛てたわけでもない謎の言い訳を脳内で繰り返し、モニターから視線を外して、プロデューサーの方を見やる。
すると、どういう偶然か二枚のモニター越しに目が合ってしまった。
声が「あ」と重なる。
言い表しようのない気恥ずかしさが込み上げてくるのを抑えながら、努めて平静を装い「……あら、もうプロデューサーの方は終わったの?」と訊ねてみる。
「え、あっ、ああ。うん、もう少し」
どうやらプロデューサーも目が合うのは予想外であったようで、若干しどろもどろになっているのがなんともおかしい。
「ええと、それで。夏葉の方は?」
「私? 私は……そうね。もう終わるわよ」
逆に訊かれ、返事に窮してしまう。
なぜなら先述のとおり、私にとってこのレポートはそれほど差し迫ったものではないからだ。
「そうか。戸締りとか、消灯とか、そういうのはやっておくから夏葉が終わったタイミングで帰っていいんだからな」
私も、もう少しだと言うべきだったかしら。
なんて、自身の回答に後悔をしつつ、ここまで粘っておいて帰れるものか、とも思う。
「せっかくだしプロデューサーが終わるまで一緒にいるわよ。それとも、アナタには私がそんな薄情な女に見える?」
「まさか。夏葉くらい気遣いのできる素敵な女の子はそうそういないよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。だったら気遣いのできる女の本領を見せてあげる」
「……つまり?」
「コーヒー、淹れてあげるから待っていて」
席を立ち、翻って給湯室に向かう。
背中に届くキーボードを叩く音が心なしか跳ねている気がするのは、私の思い込みだろうか。
まあ、思い込みだろう。
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コーヒーメーカーにフィルターと粉をセットして、ボタンを押す。
しばらく待つと砂時計のようにゆったりとした速度でデカンタ目掛けてコーヒーが落ちてくるのをぼんやりと眺めた。
やがて、デカンタがコーヒーでいっぱいになると、戸棚からマグカップとタンブラーを取り出して、注ぎ入れる。マグカップは私ので、タンブラーはプロデューサーのだ。
この場で全て飲み切れる量ではないし、かといって捨てるのも勿体ないと考えた結果、プロデューサーには余った分を持って帰ってもらおう、と考えたのだった。
両手にタンブラーとマグカップを持って、プロデューサーのデスクへと戻る。
彼も私がやってきたことに気が付いて、モニターから私へと視線を移してくれる。
「ブラック、でよかったのよね」
「うん、ありがとう。タンブラーで持ってきてくれたんだ」
「だって、マグカップで飲み切るには多過ぎるもの」
「夏葉は持って帰らなくていいの?」
「ええ。それに私、家では紅茶の方が飲むのよ」
「へぇ。高い茶葉使ってそうだなぁ」
「ニルギリ、ウバ、キーマン他にもたくさんあるわよ? 有栖川の家ではおやつの時間によく出てね……ってこれ、実家の味ってやつなのかしら」
「さぁ、どうなんだろう。それにしても高貴な実家の味だなぁ」
「でも昔はうんと甘くして飲んでいたのよ? お砂糖とミルクを入れて」
「あはは、そこはちゃんと子供らしいんだ」
「当たり前じゃない。アナタはそういう実家の味みたいなもの、ないの?」
「うーん、俺のは普通と言うか面白みがないと思うぞ。なんせ俺の実家でお茶と言ったら麦茶だからなぁ」
「ふふ、樹里も同じことを言っていたわ」
「へぇ。あ、でも、そっか。西城さんはスポーツやってたと聞いてるから、麦茶は愛飲してただろうな」
「そうね。事務所にも常備されているから最近は私もよく飲むけれど、暑い外から帰って来たときに出てくる麦茶は何とも言い難い幸福感があるのよね」
「それそれ。汗だくで帰ってきて、冷たーくしてある麦茶を飲むと、夏だなーって感じで」
「そういうのも夏ならではよね」
「なー。今飲んでるのはあっついコーヒーだけど」
「不満なら返却してくれていいのよ?」
「ちょっ、こぼれる、こぼれるってば。コーヒーが良いです! 嬉しい!」
「冗談よ」
「冗談ならもうちょっと手心を加えて」
「何事にも手を抜かないのが私、有栖川夏葉よ」
「はいはい」
「はいはい、って。アナタいまめんどくさくなったでしょう」
「なってないなってない。夏葉の淹れてくれたコーヒー、世界一おいしいよ」
「インスタントのコーヒーが世界一だなんて……。今度ちゃんとした豆から挽いたものを用意するわ」
「誇張表現ってご存知?」
「うふふ、少しからかっただけよ」
「照れ隠し?」
「何を言ってるのかしら?」
「世界一って言われてちょっと照れたでしょ」
「そんなわけないじゃない。だって、当然だもの」
「じゃあ、夏葉は世界一かわいい」
「……そのにやにや顔でこっちを見るの、今すぐやめて頂戴」
彼の額を人差し指で強めに弾く。
すると彼は「いてぇ」というなんとも間抜けな声を上げて、作業に戻るのだった。
腹正しいことに、にやけ顔はそのままである。
おそらく最後の確認なのだろう。
モニターを注視している彼の姿をぼんやりと見るともなく眺める。
しばらく観察するうちに、資料の確認が一頁終わるごとに渡したタンブラーに口を付けるという、一定の法則が見つかってきて、なんだか楽しくなってきた。
そんな矢先、彼が「よし」と声を上げた。
「終わったの?」
「ああ。丁度な」
「ねえ、資料が一枚確認し終わるたびにコーヒー、飲んでいたでしょう?」
「よく観察してるなぁ」
「当たりね?」
「うん。夏葉の観察眼はすごい。流石、ユニットメンバーの子らのトレーニングメニューを管理したり、ライブのための計画を立てたりしてるだけあるな」
「あら。私の観察眼って案外限定的なのよ?」
「というと?」
「私、興味のないものはそんなに深く観察しないもの」
「…………さっきの仕返し?」
「ふふ。さぁ、どうかしら。……でも案外照れ顔を見るのも悪くないってわかったわ」
「そのにやにや顔でこっちを見るの、今すぐやめてくれ」
なんていう他愛もないばかなやりとりのあとで、どちらともなく「帰ろうか」となり、帰り支度に勤しむ。
私は借りていたパソコンの電源を切るのと、洗い物だ。
使用したマグカップやらコーヒーデカンタやらを洗うべく、再び給湯室へとやってくる。
彼が消灯をして回っているのだろう。
届いていた廊下の明かりがなくなって、おそらく事務所で点いているのは私の頭上にある二本の蛍光灯のみとなる。
なんだかスポットライトみたいだな、とどうでもいいことを考えながら洗い物を終える私なのだった。
「ごめんな。洗い物させちゃって」
「私が用意したくて用意して、その後始末をしただけよ」
「そっか。ありがとう」
「ふふ、そっちのが嬉しいわね」
「そっち?」
「ごめん、よりもっていうこと」
「あー。なるほど」
「次からは最初からそっちでお願いしたいわね」
「善処します。……じゃあ、帰るか」
彼は事務所の鍵を指にかけて、くるくる遊ばせ、言う。
少し名残惜しい気もしたが、明日の休日を楽しみにしている人間をこれ以上引きとめるのも申し訳がないため「ええ」と返す。
揃って事務所を出ると、肌にまとわりつくようなむわっとした風が私たちを襲った。
「うわ。ヤな空気だなぁ」
「蒸し暑いわよね」
「ホントに。日本の夏って感じ」
「アナタは夏、嫌い? それとも好き?」
「うーん、どうだろう。好きなところもたくさんあるけど」
「暑いのは嫌い、ってところかしら」
「そんなとこだ」
「暑いから夏なのに」
「まぁ、そうなんだけど。夏葉は夏と言えば何を連想する?」
「夏と言えば、有栖川夏葉の季節?」
「それは夏葉がよくやってるコールアンドレスポンスだろ」
「うふふ、バレたわね」
「そりゃバレるよ」
「真面目に答えると……そうね。お祭り、花火、スイカ、蝉の声、ひまわり、麦わら帽子、入道雲、それから……海かしら」
「いかにも夏! って感じのラインナップだ」
「プロデューサーはどう?」
「俺は……そうだなぁ。やっぱり一番に出てくるのは海かなぁ」
「海、良いわよね」
「広いし?」
「ええ」
「青いし?」
「そうね」
「水がいっぱいあるもんな」
「無理してまで海で話を広げようとしないでいいわよ?」
「いや、うん。なんか話してたら海行きたくなってきたなぁ、と思って」
「なら最初からそう言えばいいじゃない」
「だって、海に誘ってるみたいになるだろ」
「なればいいでしょう」
「いいの?」
「別に構わないわよ?」
「え、そういうもん?」
「普通がどうとか、よくわからないけれど、そういうものじゃないかしら」
「じゃあ、海行きたいなぁ」
「海、良いわよね」
「この流れさっきと一緒じゃん」
「ふふ、冗談よ」
「急に突き放してきたからびっくりしたよ」
「アナタ、明日休みなのよね?」
「うん」
「もう予定は何か入れているの?」
「いや、入れてないけど。強いて言えば」
「強いて言わなくていいわよ」
「なんで?」
「だってその予定は却下だもの」
「え、なんで」
「私と海に行く以上に重要な予定がアナタにあるなら別だけど」
「そんな予定ないなぁ」
「なら、問題ないわよね」
「えっ。うん、じゃあ、その、はい」
「決まりね。明日はよろしくお願いするわ」
「こちらこそ。あっ、カトレアも連れておいでよ」
「カトレアも?」
「うん。せっかくだしさ」
「アナタの運転で行くのよね?」
「そのつもりだけど」
「犬を連れて……それも大型犬を連れて海に車で行くっていうことがどういうことか、わかってるのかしら?」
「砂まみれ、泥まみれ、毛まみれ。おっきいバスタオルがカトレア用に二枚は必要だよな」
「……ふふ。理解してるのならいいわ。でも後で文句を言っても知らないわよ?」
「そんな心配しなくても大丈夫だって」
「……じゃあ、カトレアも連れて行くわね」
「うん。楽しみにしてる」
「あ、そうだ。最近、一眼を買ってさ」
「これからはカメラマンまでやるつもり?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。私物として持っていて損はないと思ってさ。ほら、オフショットとか、より綺麗に撮れるし」
「明日はお仕事で海に行くわけじゃないでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
「私もアナタも、行きたくて行くんだから」
「それもそうだ。プライベートまで仕事のこと考えてちゃダメか」
「わかればいいのよ」
「じゃあ、こうしよう。夏葉がオフにわざわざ俺と遊んでくれる記念を写真に残すために、カメラを持って行く」
「その言い分ならダメとは言えないわね」
「だろ」
「でもそれなら、そういう動機で持って行くカメラで撮った写真がお仕事に使われるなんてこと、あったらいけないわよね」
「…………そう、なる? のか?」
「なるのよ。明日、多数決してもいいわよ」
「一対一じゃん」
「こっちにはカトレアがいるのを忘れたの?」
「初めから勝ち目のない戦いだった」
「もちろん、今回に限った話じゃないわよ?」
「業務時間外というか、プライベートで俺が撮った夏葉の写真は原則非公開ってことか?」
「当然でしょう」
「じゃあこれからはオフで夏葉とカメラを持って会う度に、ちょっとずつ非公開のアルバムが増えていくわけだ」
「ふふ、いいわね。それ。私にもアプリか何かで見られるようにしてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、二人の魔法のアルバムね」
「魔法?」
「だってそうしたら、いっぱいになることはないじゃない。現実のアルバムと違って」
「あー、そういう。……それに、文字通り“重く”なるもんな」
「そうね。いつか、うんと重くなるのを楽しみにしてるわ」
「数年後……いや、一年後でも。きっと最初の一枚と、そのときの最新の一枚は、状況とか、色々違ってるんだろうなぁ」
「そうかしら?」
彼が「えっ」と声を上げてる間に、スマートフォンを操作してカメラを起動する。
すかさずインカメラに変更して、鍛え上げた自撮りの技術を如何なく発揮し、ぱしゃりとシャッターを切った。
満面の笑みの私と、不意を突かれた表情の彼。
その一瞬が切り取られ画面に映されたのを見て、私は確信めいたものを感じていた。
そして、脳内で先程の彼の言葉に反論をするのであった。
きっと、この最初の一枚から変わらないこともたくさんあると思うわよ、と。
終わりです。
ありがとうございました。
おつおつ
とっても良かった!夏葉SSは最高だぜ!
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