春を売る、そして恋を知る (28)
高層ビルが並ぶ街並みの中で、一際高いタワーの上層階。そこに私の住処がある。
政治家や官僚、実業家に時には裏稼業の人たちも。俗に言う『ステータス』を持つ男たちに抱かれるのが、私の仕事だ。生まれた時から、それは宿命づけられていた。
私の上で、汗をかきながら腰を振っているのが今晩の客。この時間を過ごすためだけに、彼は一般人が一年かけて働くような額を支払っているらしい。一般人とかかわることがないから、あまり実感はわかない。
「気持ち良い……んっ……」
ウィスパーボイスで言葉を漏らし、足を彼の腰に絡ませる。こういう演技はオーナーに躾けられた。12で母を亡くした私を、彼は父親代わりのように育ててくれた。感謝しつつも、そのおかげで私はいよいよここから抜け出すことができなくなったわけだけど。
間もなく、男は果てた。汗で濡れた体をそのまま私の体に重ねてきて、不快感を隠すために演技のため息をついた。
今日の仕事もこれで終わりだ。お疲れ様、私。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1566136159
男を部屋から送り、しばらくするとオーナーが部屋にやって来た。
四十路を超えているはずなのに、見た目はそれよりも十は若い。すらっと伸びた手足にグレーのスーツが様になっている。テレビに映れば、俳優と思われても不思議ではない。
「お疲れ様、まどか。今日もいい仕事だったらしいね」
満足気に私かけた声色は、出来のいい娘に話しかけるものなのか、それともよく躾けられたペットに向けたものなのか分からない。
返事をしない私に「反抗期なのかなぁ」とわざとらしく肩をすくめて見せた。
生まれた時から彼の下で過ごしているが、私は彼の名前も知らない。このビルの支配人であること、表向きの顔は実業家であること、そしてろくでもない人間であるということ。それ以上のことを私は知らない。名前すら。
彼は私の名前を知っているのに、決して名前を呼ぼうとはしない。『まどか』と彼が付けた名前で、まるで所有物であることを言い聞かせるかのように呼び続ける。
「何か用?」
「つれないなぁ、せっかくの家族団らんでもと思ったんだけど」
拗ねた振りで、彼は舌打ちして見せた。
私には父親がいない。いないというより、誰か分からないということが正しいのかもしれない。私と同じ仕事をしていた母親は、誰の子かもしれぬ私を孕んでしまった。父親が分からないままに私はこの世に生まれてきて、そしてそれからずっと、このビルで育ってきた。
だから、このビルのオーナーである彼が父親というのも強ち間違いでないのかもしれない。母親の後を継がせると、小学校を出るころ(とはいえ、私は学校に通ってはいなかったのだけど。母が亡くなったタイミングでもあった)に私を働かせ始めた彼が真っ当な人間だとは思えないけれど、少なくとも私も真っ当な人間ではないのだろうし。
そんな彼が「家族」という言葉を使ってくると、少し耳を傾けてしまう自分が自分でも嫌いだ。
「まどかの好きな、チーズタルトを用意したんだ。良かったら、お茶でもしないかい?」
時計の針が指さすのは日付の変更後だというのに、この時間にそんな提案をしてくるなんて。抜け目ないようで、こういうちょっと不思議な面がある。
だから私は彼を憎めない。憎めきれない。
「……いいよ」
私をこの部屋に閉じ込めた男と家族であるということに。母親の跡を継がせると決めた男と一緒に暮らしているということに。
全てのことが赦せない。
その筈なのに、受け容れてしまっている自分が、抗おうとしない自分が、一番赦せない。
外の世界に焦がれることが無駄だと分かっていて、最初から何もしていないことを自分が一番理解している。それなのに、オーナーのせいにするのが一番楽だから、私はオーナーを憎むことで自分への苛立ちを今日も誤魔化す。
……それでも、悔しいことにチーズタルトは絶品だったわけだけど。
きたい
きたい その2
タルトを食べ終えると、彼はそれが当然のように私をベッドに誘った。その日一番の『仕事』をしたと評価した子を、一日の最後に彼は抱く。
これが『家族団らん』なんて、鼻で笑ってしまう。
ユズさんはこの行為を心待ちにしていると言っていたけれど、私はどうしても好きになれなかった。私に本当の家族はいないと、改めて伝えられているようで。
オーナーの行為はいつも決まった流れで、それを守っていれば乱暴に扱われることも、不機嫌になることもない。まるで仕事のルーティーンであるかのように、彼は私を抱く。
愛情は無い。それでも、私はそれを拒むことができない。
彼に不必要だと判断されたら、私はどこに行けばいいのだろう。学校に通ったことはなかったから、同世代の知り合いなんて一人もいない。私が知っていると言えるのは、オーナーと、私と似たような境遇だったユズさんだけだ。二人ともこのビルの住人で、外のことなんて何もない。
虚しくなるだけの行為であっても、私は彼に求められるために抱かれる。そのために生きている。
薄皮越しに、彼が満足したのを感じた。
昨日の最後の仕事のせいか、翌朝は目が覚めるのが遅かった。既に時計の針は11時を回っていて、太陽の光が布団から出るように急かしてくる。
欠伸をしながら身支度をしていると、ドアホンが鳴った。ユズさんが「おはよう、お姫様」とモニター越しに挨拶をしていて、それを確認した私はドアを開場して彼女を招き入れた。
「おはよう、ユズさん」
ファンデーションを塗りながら彼女に挨拶をすると「まだ十代の小娘がお化粧なんかしちゃって」と茶化された。そういう彼女だってまだ二十歳になりたてだというのに、既にかなり大人びたメイクを纏っている。
「今起きたんでしょ? ブランチしようよ」
昨日といい、今日といい、よく食事に誘われるものだ。しかし、オーナーに誘われるのとユズさんに誘われるのでは、嬉しさはかなり変わってくるのだけど。
手に持っていたランチボックスの中には、お手製のサンドイッチが入っていたらしい。それを開けて、テーブルに広げると、彼女は勝手知ったる我が家のように私の食器棚を漁ってティファニーのティーカップを二つテーブルに並べた。
彼女が甲斐甲斐しく食事の準備をしてくれている間に、私もメイクを終了させた。よし、と満足をしてメイクボックスの箱を閉じると、ユズさんから「ナイスタイミング!」と声をかけられた。
「さ、食べましょ」
今日のサンドイッチはたまごサンドとBLTという定番のものだった。私たちの部屋にはそれぞれキッチンも備えられているけれど、自炊をしている人たちがどれほどいるのかは分からない。私だって、ユズさんがこうしてお茶を淹れてくれる以外にはキッチンを使ったことがない。
手料理を作ってくれる唯一の存在で、オーナーが父親代わりならユズさんは母親代わりみたいなものだ……と以前話したら、「私はそんな歳じゃない!」と怒られたものだ。
「うん、美味しい」
「でしょう! レタスはね、私が育てたのよ」
話を聞くと、どうやら室内の水耕栽培で育てたらしい。お客さんを招き入れる部屋でよくもまぁ、と思いはすれど、それは口にせずに素直な感想だけを口にした。
「やっぱり、ユズさんの料理が一番だね。優しい味がする」
「そんなこと言ったって、レタスしか出ないよ?」
あはははは、と笑いながら食事を進めていくとあっという間にランチボックスは空になった。外出のできない私たちの楽しみは、ほぼ全てが食になっていると言っても過言ではない。
「ご馳走様でした」
二人で手を合わせると、ユズさんがわざとらしくため息をついた。
「華の十代に、若い美女の二人の楽しみが食べることだけなんてね……」
「良いじゃん、私はユズさんの料理食べてるときが一番幸せだよ?」
「嬉しいこと言ってくれるじゃなーい!」
オーバーリアクションで私の両肩をつかんで揺らしてきた。危ない、お茶こぼれるからね。
ひとしきりそれをやってしまうと、満足したのか「そうじゃなくて!」と話を転換させる。
「私たちだよ? 麗しい美女だよ? なのに恋の話の一つや二つ……あっても良いじゃない」
「ユズさんはオーナーのこと、好きなんでしょ?」
物好きだな、というのが率直な意見ではあるけれど口にはしない。
以前、オーナーに抱かれた後に自棄になったのか、酔っぱらったユズさんが夜中に私の部屋に押しかけてきたことがあった。
「私以外の女だって、まどかだって抱いているのを知ってるのに」
「でもやっぱり抱かれて幸せだった」
「オーナーからするとただの性欲処理でしかないのにね」
「それで幸せに感じる私って何なの」
「辛い」
酒臭い息で、そんな言葉を漏らしてきた。
辛いなら止めれば良いのにと言ってしまったら、「恋ってそういうもんじゃないでしょう!」と強く窘められてしまった。それ以来、彼女の恋愛には口出しをしないということを心に誓っている。
「好きだけどぉ、何かもっとこう……純粋にキュンキュンしたいっていうかさぁ」
「オーナーとは違うの?」
「オーナーには何ていうか……好きだけど辛い、でもやめられない! っていう感じかな。ほら、太るって分かってても夜中に甘いもの食べたくなっちゃう感じっていうか」
昨夜を思い出すような喩えに少し焦りつつも、それには納得してしまった。ダメだと分かったうえで、それでもやめられないらしい。とはいえ、それを人に対して抱くことが恋愛感情であるというのなら、やはり私にはそれが欠けているらしい。
「まどかはさ、良い人いないの?」
「いるわけないじゃない。会う男の人、みんなお客さんだよ」
「でも中には俳優だったり青年実業家だったり、若くてかっこいい人もいるでしょ?」
そういう人たちもゼロというわけではない。テレビで見たことのある人が、お客さんになたこともある。ただ、この仕事で会ってしまうとそれ以上の関係性にはならない。なり得ない。
最初がゴールになっているからかもしれない。お金を払ってセックスをするために会っているのであれば、あちらもこちらも好意を抱こうが抱くまいがやることは同じだ。
「無いね。お客さんとは絶対に、そういうことにはならない」
それに、恋ってどんな感情か分からないもん。
かっこいい、優しい、いい人。それだけでは恋になり得ないなら、何を以て恋になるのだろうか。
「恋ってよく、わかんない」
そう漏らす私に、ユズさんは「ま、そのうちいい人が見つかれば分かるよ」と慰めるように言った。
「ユズさんにとって、オーナーは『良い人』なの?」
うーん、と悩む振りを見せて、オーナーは口を開いた。
「いい人……『良い人』ではないかな。自分の商品に手を出すし。平気で他の男に抱かせるし」
ならばなぜオーナーをと口を開きそうになったところで、ユズさんは言葉を続けた。
「でもね、私にとって『好い人』ではあるの。善人ではなくても、私は彼が好い」
感覚なんだけどね、と恥ずかしそうに付け足された。
その感覚が分からない私にとっては遠い世界のような話だ。
「いつかまどかにもそういう人ができるよ」
ユズさんはそう言うけれど、こんな生活の私に「好い人」が見つかるとは思えない。恋を知る機会は、私には一生無いのかもしれない。
ユズさんはそう言ったけれど、そんな人に出会える気配はどこにもない。
それからも連日連夜、見知らぬ男に抱かれる、抱かれる。お互いに恋慕や愛情なんてものはない。欲を満たすために、仕事を果たすために裸になって絡み合う。
会う度に「可愛いね」「綺麗だね」と声をかけられるのも、私からのサービス向上を期待してのものでしかない。私はどうやら綺麗らしく、他の女の子より優先して男を回される。そして、そんな男達はこぞって私の容姿を賞賛する。ハルさんの方がよっぽど美人だと思うのに。
新しい客でも、何度も見た顔であっても、私のやるべきことは変わらない。彼らの欲とプライドを満たしてあげることだけだ。どんな相手でもそれは変わらない。美醜も年齢も資産も。
「はー、これまたえらい別嬪さんで」
ドアを開けて対面した今日の客も、今まで何度も聞いたような言葉を最初に口にした。
まだ若く、私と同世代か、少し上くらいの見た目だ。オーダーメイドであることが一目で分かるようにフィットしたウィンドウペーンのジャケットが、育ちの良さを主張していた。
「こんばんは、まどかです」
部屋に招き入れて、私は彼に微笑みかけた。
>>14
ハルさん→ユズさん
の間違いです。。
彼が部屋に入ると、私はいつも通り腕を組もうと彼の横に並ぶ。そっと彼の袖に触れた。
「あ……いや、そういうのじゃなくて」
そういうのじゃない、というのがどういうのじゃないのか分からないけれど、腕を組みたくはないらしい。
彼の希望を察して、私はそのまま並んで彼をソファに案内する。
「おかけになってお待ち下さい。あ、お飲み物はどうされます?」
お客さんにしては珍しく、彼はビールを求めた。アルコールが入ると感度が悪くなる、イキづらくなる、キスするときに酒臭いと申し訳ない。理由は人それぞれだけど、少数派であることは間違いない。
「はい、少々お待ち下さい」
応えて、冷蔵庫から一本ビールを出した。プルタブを開けて彼に差し出す。
「未成年じゃないの? 部屋にビールがあるなんて不良少女じゃん」
と彼は笑った。私の年齢十代としか公表していないはずなんだけど、顔つきか何かで察されたのだろうか。
そこには反応をしないように努めて、「どうぞ」と口をつけるように勧めた。
彼はそれを受け取って口に含むと、結構な量を一度に飲み干した。酔っ払ってしまうのではと私が心配してしまうくらいには、勢いよく。
ぷはぁ、とまるで演技のようにわざとらしく息を漏らして、彼は缶をテーブルの上に置いた。
そのタイミングで、私は彼の前に跪く。
「失礼します」
一声かけて、ベルトのバックルに手を伸ばしたところだった。
「あ、いやいやだからそういうのじゃなくて」
またも制止されてしまった。
「え、しないんですか?」
ここで脱がせて即尺、というのがルールだとオーナーからは教え込まれている。それに、彼にそれをするなという指示も、特にない。
戸惑った表情で彼の顔を見上げると、「とりあえず、隣に座ってもらおうか」と声を掛けられた。
舐められるより先に、キスをしたかったのかな?
隣に座って彼に顔を近づけると、「いや近い近い、キスしちゃうからやめてくれ」と戯けられてしまった。
「え、お客さん? ですよね?」
「そうだよ。アイアム、ユアゲスト。私は、あなたの、お客さんです」
わざとふざけた素振りで彼は言った。
「それじゃなんで嫌がるの?」
ここがどこかを知らないはずがないのに。東京で、いや日本で最高の娼館と称されている中の、更に上層階に住む私。お金を払えば抱ける私をそうしたいと願っても、叶えられない人の方が多いともオーナーには教えられた。
なのに、私の目の前にいる男は、自ら私に会いに来て、なのに手を出そうとはしてこない。
「逆に聞くけど、セックスしたいの?」
名前も知らない彼にそれを問われて、私は答えに詰まってしまった。
決して行為は嫌いではない。気持ちいいこともあるし、私を大切に扱ってくれる。
だけども、特別それを今求めているか言われても、そういうわけではない。
お腹が空いていないのに、目の前にタルトを出されても食べられないのと同じだ。
仕事だから、自分に必要が無くても義務でしてしまうもの。
それが私にとって、この部屋での行為の全てだった。
「したいわけじゃ……ないけど」
「じゃ、良いじゃん」
そして彼は再びビールの缶を手に取り、ぐっと煽って飲み進めた。どこか無理をしているように見えてしまうのは気のせいだろうか。
「えーと……まどかちゃん、は、何、えーと、好きなこととか趣味とかあんの?」
やたらと途切れ途切れな言葉を不審に思って彼の顔を見ると、もう真っ赤になっていた。酔っ払ってしまうには早すぎる気もする。お酒に弱いのであれば、ビールなんて飲まなければ良かったのに。
自分の趣味を改めて考えてみると、これだということが特に思いつかない。そもそも、ビルの外のことを知らなさすぎる。化粧品はユズさんに教えてもらったもの、服は買っても見せる相手がいないし出かけられない、携帯やスマートフォンは不要だと持たせてもらえない。
要約すると、趣味らしい趣味は思いつかなかった。
「趣味……うーん……」
「無いなら何かさ、こう、あの、好きなこととか、好きなものとか」
好きな人、であればユズさんとすぐに答えられるのに。たまにユズさんと見る映画やドラマは面白いけれど、見ているときよりも感想を話し合っている時の方が好きだし。
好きなこと、好きなものと考えていると、不意に言葉が漏れた。
「……タルト」
「は?」
訝しげに、彼は疑問を投げ返した。
「エッグタルトが好きなんです。甘いやつ」
「なるほどタルト……どんなのが好きとかあるの?」
奉仕をしようとした時よりも嬉しそうに、彼は問いを重ねてきた。
タルトについてなら、いくらでも語ることができる。理想の生地感、甘さ、フルーツタルトなら何が良いか。
ユズさんじゃないけれど、私にとっての楽しみはそれくらいなのだ。
「へぇ……勉強になった。ありがとう」
「初めてこんなにタルトについて説明したよ」
お客さん相手に、ついため口になってしまう程には熱中していたらしい。慌てて言葉を付け足した。
「いえ、すみません」
「何が?」
今度は彼が戸惑った。説明をすると、「いいよため口で。敬語の方が嫌だ」と求められた。
それからも、彼は私に色んなことを聞いてきた。休みの日は何をしているのか、本を読むのは好きか、どんな映画をよく見るのか。自分でも理解していないことを訪ねられると、私が結論を出せるまで彼は黙って待ってくれた。
彼自身のことは何も話さず、ただ私のことを知りたがった。
他のお客さんとも、もちろん行為以外に会話もする。でもその内容は殆どが自慢や愚痴と、彼ら自身に関わることで、私のことを知りたがる人はあまりいなかった。
結局、彼は私に指一本触れることがないまま、時間を迎えようとしている。
「本当にしないの?」
脱ぐ気配すらなく、ただ私の話を聞く彼に、心配になって問うてみた。
たぶん、してもしなくても彼がオーナーに支払うお金は変わらない。そしてそれは、間違いなく高価であるはずなのだ。
そのうちの一部が私のお給料になるというのであれば、私も彼を満足させたうえで対価を受け取りたい。
「うん、話してる方が楽しいし」
私の最後の足掻きもそんな風に返されると、もう抵抗をすることはできなかった。
結局、彼をドアの向こうに案内するまで、私と彼は触れあうことがなかった。
「楽しかったよ」
「こちらこそ楽しかったです。えーと……」
見送りにまで来て、彼は自分の名前を名乗ってすらいなかったことを思い出したらしい。
「ハル。ハルって呼んで」
「うん、ハルさんだね。ありがとう、ハルさん」
本当なら、ここで別れを惜しむキスが正しい手順なんだけど。求められてないような気がして、小さく手を振った。
それに応じて手を振り返す彼は何だか可愛くて、少し素の笑顔が零れてしまった。
今日の更新はここまでです。
本格的に話を動かしていきます。
あつおつ
「珍しい人だね」
翌朝、起きて早々にユズさんの部屋を訪ねて報告をした。
「まどかを見て手を出さないなんて、不能なんじゃないの」
「そんな感じでもなかったけど」
彼女にお客さんに抱かれなかったことがあるかと尋ねると、返事はノーだった。
「だって、エッチするためにお金払って来てるわけでしょ? それで、ブスが来て萎えたとかなら分かるけど、あんたを見て耐えられるなんて男じゃないよ」
私が男だったら部屋に入るなり襲ってるわ、と彼女は笑った。
「ありがと。私も男だったらきっとそうだよ」
「うそ、両思い? 禁断の恋?」
おふざけモードに入ったので、そこからは反応しないように心がけた。ノってしまうと、キスでは済まないかもしれない。
「何、気になるの? その人」
「気になるっていうか……うーん」
何と言えば誤解が無く伝わるだろうか。彼女の言うところの気になるは、きっと異性として。
でも、私の抱いているそれは、そうじゃない気がする。そもそも、一度会っただけで異性を意識するなんてあるのだろうか。
「そういうのじゃ、ない」
「本当に?」
意地悪そうに、楽しそうに笑いながら、ユズさんは私に確認してきた。
「でも、また会えたら良いなとは思ってるでしょ?」
「それは……うん」
少なくとも、昨日の去り際に伝えた「楽しかった」は私の本心で。だから、彼に会いたいという気持ちは嘘じゃない。
それを耳にしたユズさんが嬉しそうに「初恋に期待だね」なんて言うもんだから、優しく頭を叩いてやった。いーっだっ。
>>23
ありがとうございます。
コメント頂けるのが一番執筆意欲に繋がります……!
ユズさんに煽られはしても、一度来たお客さんにまた会えるとは限らない。
彼が来てくれたら良いな、とは思いつつも、少なくともそれは近い未来だとは思っていなかった。お金だってバカにならないだろうし。
だから、一週間後に彼が来たときは驚いた。
「や、お久しぶり」
初めて会ったときと同じ、軽薄な笑みでハルさんは扉の向こうから現れた。
「こんばんは。久しぶり……かな?」
首をかしげると「可愛すぎか~」とネタのように笑われた。
「いやいや……あ、中にどうぞ」
また、手を繋いでも良いかなと悩みながら彼を眺めていると、その手には紙袋があって。
「お荷物、お持ちしますね」
と、それをこちらに渡すように手を伸ばした。
「あ、これ、まどかちゃんに持って来たんだ。一緒に食べようよ」
そう言って、幾分大きな紙袋を渡された。袋の中を覗いてみると、小さな紙箱がいくつか入っていたけれど、重さはあまりない。
「これって……」
期待する目で彼を見ると、頬を掻いて照れ臭そうに言った。
「うん、タルトなんだけどさ。どこのが良いか分からないし、秘書の子たちにおすすめを聞いて手当たり次第」
「やったー! ありがとう!」
やっぱり、やっぱり!
タルトがいっぱいということも嬉しいけれど、彼が私のことを覚えてくれていたことが何より嬉しい。
「あ、おかけになってお待ちください! お飲み物は? ビールですか?」
「や、タルト食べるし……コーヒーある?」
「はーい! ホットですか? アイスですか?」
ユズさんが持ってきてくれたコーヒーメーカーのスイッチを入れて、豆を見ながら彼に問う。
「アイスで。ていうかすごいね、本格的だ」
彼はソファに腰掛けることなく、こちらに近づいて来て私の様子を眺める。ミルで豆を挽くところを見て、彼は感嘆していた。
「ペットボトルとか缶コーヒーじゃないんだ」
「ここ、どこだと思ってます?」
そこんじょそこらの風俗店じゃないんですよ、とは言えなかった。ここ以外のことは知らないけれど、ここじゃみんなそうしていると聞く。ここで飲むコーヒーは、もしかしたら日本で一番高いコーヒーかもしれない。
「コーヒー屋さんなの?」
「それ、どこまで本気で言ってます?」
相変わらず、今日も行為をするつもりはないのだろうか。別に、それ自体は嫌いじゃないから求められても構わないのに。
「冗談だよ。でも、コーヒー楽しみだな。こんな可愛い子に淹れてもらうの、初めてだから」
「いれるのはコーヒーだけで良いんですか?」
冗談めいた口調で彼に下ネタを投げかけると、飄々とした口調のままに返された。
「うーん、あとはミルクもお願いしようかな」
「あはは、かしこまりました」
何とも掴めない人だ。グラスに氷を入れて、コーヒーを注ぐ。淹れたての香ばしい匂いがグラスから漂ってくる。
「お待たせしました」
店員さんを気取った言葉でカップを彼の前に置いて、私は隣に腰掛ける。
「何か変」
「えっ?」
「いや、ほら、普通こういう時って向き合って座らない?」
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません