渋谷凛「しゅわしゅわ」 (15)



室外機が巻き上げる、むわりとした風を足で浴びる。
通常であれば心地良いとは言い難いそれも、今はなんだか特別な気がした。

車を回してくるから待っていて、と担当のプロデューサーが出て行ったのが数分前。
蚊にさされちゃうから中にいるように、とも言われていたが、私はそれを無視して夜空を眺めていた。

ふー、と息を吐いて、両手をめいっぱい伸ばす。
バンザイの恰好になって「んー」と声を漏らせば、全身に漂っている疲労をようやく自覚する。

「終わっちゃったな」

誰に宛てたわけでもない言葉は夜に溶けて消えていく。

今日は私の、アイドル渋谷凛の、初めての単独ライブだった。
イベントの出演者の一人でも、誰かの前座でもない、来てくれたお客さんは全部、私を見るために来ている、私だけのためのライブ。記念すべきその一回目が、ついさっき、終わった。
全力で歌って、踊って。
たどたどしくはあったかもしれないけれど、ステージの上からファンの人たちに声を投げて、ファンの人たちもそれに応えてくれて。

夢のような数時間だった。

あの瞬間をもう一度。
次はもっと上手く歌おう。
もっと上手く踊ろう。
もっと上手く話そう。
もっと、もっと。

気付けば、そんなことばかりを考えている私がいて、笑ってしまう。

ああ、私。
アイドルに夢中になっちゃったんだ。

こんなこと、私の担当のプロデューサーであるあの男に伝えようものなら「今更?」と小ばかにしたような笑みが飛んでくること請け合いだけれど、どうしてか今はあの顔が恋しかった。


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その想いが通じたのかどうか、視界の端でセダンがゆるやかに停まる。
私はそれに駆け寄り、飛び込むようにして助手席へと座った。

車内は既に冷房が効いていて、ひんやりとした空気が火照った体に心地良い。

「待ってて、って言ったのに」

「だって」

「まぁ、わかるけどね。落ち着かなかったんでしょ」

「……やっぱり、そういうものなの?」

「どうだろう。……でも、俺はまだどきどきしてる」

「私は、なんて言えばいいんだろ。次はこうしたい、だとか、次までにこうなろう、だとか。……そういうことばっか浮かんでくるんだよね」

「……良い、成長をしてるね。凛は」

「そうなのかな。でも、プロデューサーにこれだけは言わないと、ってことがあって」

「うん」

「いつもありがとう。私、愛想ないから、あんまり伝わらないかもしれないけど……プロデューサーには感謝してるよ」

気恥ずかしくなってくるせいでだんだんと尻すぼみになってしまう言葉をなんとか最後まで言い切って「…………ってこと、なんだけど」と付け加える。

プロデューサーは何も言わないまま、車の速度を緩めてハザードランプを点灯させたのちに、完全に停車させた。

「……え、何?」

何が何だかわからず、ひたすらうろたえる私をよそにプロデューサーは何やらぼそりと呟いて、俯く。

よく見れば、ぽたりぽたりと膝に水滴を落としていることがわかった。

「え、泣いてるの?」

私の問いかけに、プロデューサーはずびずびと鼻をすすりながら「…………泣いてない」と返す。

「泣いてるでしょ」

「大人をからかったら、だめなんだからな」

「大人なんだから、お礼言われたくらいで泣かないでよ」

「…………。いや、本当にそうだな。ごめん。感極まっちゃって」

「……うん。でも、何がそんなに嬉しかったの?」

「凛をスカウトして、アイドルになってもらって、ここまで来て、それって、どうなんだろうなぁ、みたいな。そういうこと、どうしても考えちゃって」

「結構、しつこくスカウトしたのに?」

「そうなんだよ。勝手だよなぁ」

「うん。勝手だと思う。でもね」

「?」

「私は私で、その勝手に感謝してるし、嫌いじゃないからね」

鞄からポケットティッシュを取り出して、プロデューサーに手渡す。
彼はそれを受け取って、ずびーっと間抜けな音を立てて鼻水を拭った。


「……何ともカッコつかないけど、今日は初ライブお疲れ様」

泣いたせいで少し目が赤いプロデューサーは急に襟を正して、私にそう言う。

「うん。プロデューサーこそ、お疲れ様。私が初めてなら、プロデューサーだってそうでしょ? いろいろ準備とか、さ」

「……まぁ、それはそうだけど。主役は凛で、一番頑張ったのも凛で、一番お疲れなのも凛だと思うから」

「そうかな」

「そういうことにしといて」

「じゃあ、そういうことにしとく」

「……それで、何かお祝いができたらいいんだけど」

プロデューサーは言って、車に備え付けられているデジタル時計を見やる。
時刻は午後十時前で、彼が言い淀んだ理由が察せられた。

「深夜徘徊、になっちゃうもんね」

「そう。……なんだよなぁ。残念だけど」

「あ。じゃあさ、コンビニくらいならまだ行く時間あるんじゃない?」

「コンビニなんかでいいの?」

「何でお祝いするか、よりも今日お祝いして欲しいかな。私は」

窓の外、少し歩いた先にあるコンビニエンスストアを視線で示し「ちょうど、あるし」と言う。
プロデューサーも「ちょうど、あるな」と返してきて、私たちは目を見合わせる。

どちらが先か、ぷっと噴き出してひとしきり笑ったあとで、車を降りた。

「なんか、締まらないな」

「どうして?」

「だって、担当アイドルの……凛の初めての単独ライブのお祝いが、コンビニって」

まだお祝いがコンビニであることに申し訳なさを感じているのか、この期に及んでぶつくさと言っている彼の言葉を無視して、大きく踏み出しローファーを鳴らす。

「いいでしょ、別に。私は結構こういうの、好きだよ」


一足先にコンビニへと入れば、軽快な電子音が私を迎える。

さて、お祝いとは言ったものの何を買って、何をしたらお祝いらしくなるのだろうか。
肝心な部分がすっかり頭から抜けていたことに今更になって気付く。
お菓子のコーナーを物色しつつ、そんなふうに頭を悩ませていたところ、追いついてきたプロデューサーが隣にやってきた。

「お祝いって、何したらいいんだろうな」

どうやら彼も同じことを考えていたらしい。

「それ、私も考えてた」

どうにも、この男といると思考が後回しになってしまうことが多い気がする。
考える前に動いて、動いた後でさぁどうしよう、と一緒に頭を悩ませるのだ。

思えば、出会いからしてそうだった。
勢いで私をスカウトした彼と、何度か断りはしたが、最後は押しに負けてアイドルになった私。
案外似た者どうしなのかもしれない。

「凛はお祝いと言えば、何を思い浮かべる?」

言われて、少し考え込む。私にとって馴染みのあるお祝いと言えば誕生日が一番に思い浮かんだ。
そして、誕生日のお祝いにつきものなのはケーキだろうか。なので「ケーキ、かな?」と思ったままを口にする。

「プロデューサーは?」

「うーん。……乾杯?」

「それ。やりたいかも」

「洒落たシェリーグラスなんて、置いてないと思うけど」

腕を組んで、「んー」と唸りながら歩き出すプロデューサーの背を追う。
やってきたのは雑貨のコーナーで、彼は少し照れくさそうに「これ、とか」と言って紙コップを軽く掲げた。

「ふふ、いいね。紙コップ」

「二個でいいんだけどな」

彼は指で紙コップをつつく。
つついた部分にはでかでかと百個入りの記載があった。

「いいよ、百個で。二人で使えば五十回だし、さ」

「それもそうだな。あと四十九回。あと四十九回かぁ」

「どれくらいでなくなるかな」

「すぐだよ」

噛み締めるように彼は言って、さらに「すぐ」と繰り返す。そうなればいいな、と思った。

「炭酸、飲めたっけ」

たくさんの飲み物が陳列されている冷蔵庫の戸を開けて、彼が私に訊ねる。
それに私は「うん」と返したあとで「炭酸にするの?」と続けた。

「お祝いって、シャンパンだったりするだろ」

「そうなんだ」

「あー、経験ないかな。でもほらクリスマスにシャンメリーっていうの飲んだことない?」

「あ。あるかも」

「そういう感じでさ。なんでか知らないけど、お祝いにはつきものなんだよ。しゅわしゅわが」

「しゅわしゅわ」

どこか子供じみた表現がおかしくて、思わず反復してしまう。

「あれ、俺なんか変なこと言った?」

「ううん。いいと思うよ。しゅわしゅわ」

その語感が謎につぼに入ってしまった私は、くすくす笑いながら冷蔵庫から手近なペットボトルを引き抜いて、戸を閉じる。

「まっくろしゅわしゅわだ」

「コーラって言いなよ」

ばかみたいな会話をしながら、商品をレジに持って行き、お会計を済ませる。
コーラと紙コップをこんな時間に買うスーツ姿の男と、女子高生。
つくづく妙な取り合わせだ。


店員さんの気だるげな「ありがとうございましたー」を背中で聞いて、コンビニを出る。
すると、すぐにプロデューサーは袋から紙コップとコーラを出して、お店の駐車場の車止めに腰かける。

「みっともないよ、プロデューサー」

「でも、コップに注がないと」

「ここで乾杯するの?」

「だって、すぐ紙コップ捨てられるし」

「せめて立ちなよ。ほら、スーツのお尻のとこ、白いよ」

「え、払って」

「嫌」

べぇと舌を出して「けち」とこぼすプロデューサーを無視して、紙コップの包装を開けて二つだけ取り出す。
残りは再びレジ袋に戻して、取り出した二つのうち一つを彼に押し付ける。

「はい」

「ん」

プロデューサーは紙コップを咥えて、両手でキャップを開ける。ぷしゅーと音がして、ペットボトルの中のコーラはぽこぽこ泡を浮かばせていた。

「はい。凛から」

言って、彼は私の紙コップに向けてペットボトルを傾ける。
みるみるうちに紙コップの中にコーラが注がれていき、半分を過ぎたあたりで茶色い泡が勢いよく浮かんできて、あわや溢してしまいそうになった。

「わ」

「あー! 乾杯前に飲んだ!」

「プロデューサーが勢いよく注ぐからでしょ?」

「コーラはこうなるもんだって」

「じゃあ、諦めて手をべたべたにしろ、ってこと?」

「…………。じゃあ凛がやってみてよ」

話を逸らすべく、プロデューサーはぐいとペットボトルを押し付けてくる。子供っぽい人だ。
だが、いいだろう。
綺麗に注ぎ切って、いっそうばかにしてやる。
そんな心持ちでペットボトルを受け取り、プロデューサーが手に持つ紙コップめがけて傾ける。
彼の紙コップも先程と同じく、みるみるうちにコーラでいっぱいになって、次いで茶色の泡が勢いよく浮かんでくる。

「おわ」

やってしまった。
そう思った時には既に遅く、溢してしまう寸前で彼が口をつけた。

「あ、乾杯前に飲んだ」

負け惜しみではあるが、先程の彼の言葉をおうむ返ししてみる。

「凛が勢いよく注ぐからでしょ」

「コーラはこうなるものなんだってば」

視線がぶつかって、数秒の無言が訪れる。
ややあって、プロデュサーが自身のふとももをばちんばちん叩いて声を上げて笑うのを皮切りに、私も笑った。


「ばかみたいだね。私たち」

「ばか二人、仲良くしような」

「それはプロデューサー次第かな。私はプロデューサーよりはおばかじゃないつもりだし」

「捨てられないように頑張るかー」

「……それじゃあ、えっと」

「君の瞳に?」

「初めての単独ライブを祝して、でしょ」

「そっちか」

「……はぁ」

「ため息ついてる割には、楽しそうだな」

「これがあと四十九回もあると思ったら憂鬱でさ」

この数が多いのか、少ないのか。
それはよくわからないけれど、なんとなく、彼が言ったとおり五十回目はすぐに来てしまうのだろうな、なんて根拠もなく確信している私がいた。

「それじゃあ」

彼がごほん、とわざとらしい咳払いをして、紙コップを掲げる。

「凛の初めての単独ライブを、アイドル渋谷凛伝説の幕開けを祝して! そして、これからの益々の活躍を祈念して!」

「声、大きいから」

「乾杯!」

「……もう。はい、乾杯」

こつん、と紙コップ同士をぶつけて、コーラを一息に飲み干す。

コーラなんて、いつぶりになるだろうか。
そんな久々のコーラは想像以上に炭酸が強くて、ちょっぴり涙目になって自然に「あー」と声が漏れる。

刺激が強くて、甘酸っぱい。

「さぁ、あと四十九回!」

プロデューサーは手の中の紙コップをくしゃりと握りつぶし、ごみ箱に放る。
それに倣って私も同じように私もくしゃりと紙コップをつぶして捨てた。

そして、ぐるぐる肩を回しながら車の方へ戻っていく彼の後ろ姿を、私も追いかける。





どこからともなく吹いた風は、私の守りが薄い部分を的確に通り抜けて、たまらず私はマフラーへ首を引っ込める。

「さぶ……」

反射的に出た一言は、白い息を伴って、空へと立ち昇っていく。
出入口にいる警備員の人からの「お疲れ様です」に同じく私も「お疲れ様です」を返し、スタジオ前のロータリーへと進み出る。

そこには既に見慣れたセダンが停まっていて、運転席にはこれまた見慣れた顔が座っている。

「お疲れ」

「お迎え、別によかったのに」

「今日は来ないと、だろ」

「え、どうして?」

「ラジオとは言え、初の冠番組だし……なぁ?」

「ああ、そっか」

ここまで言われて、ようやくはたと気が付く。
この男は、プロデューサーは例のお祝いをするためにわざわざ迎えに来たのだ。

「久しぶりだよね。そういえば」

「言われてみたら、そうかもなぁ。やっぱ、回を重ねるごとにハードルがどうしても上がっちゃって」

初めの頃は何かにつけて、お祝いをしていたものだったが、ラジオ番組への出演もテレビ出演もライブも、慣れてくればお仕事の一つでしかなく、取り立ててお祝いすることも少なくなってしまっていた。

私のお仕事が増えて、有名になればなるほど、プロデューサーも私も忙しくなってきて、時間を共にできることも減ってしまったのも大きいだろう。

しかし、忙しいさなかにあっても、彼がこんなふうにして続けてくれているおかげで、私とプロデューサーの間のちょっぴりおばかなお祝いは続いていた。


「よし。到着」

車を走らせ始めて数分ののちに、私たちはコンビニに辿り着く。
それを受けて私は正面のダッシュボードを開いて、いつかに購入した紙コップを取り出した。

「なんだかんだ、もうあと六つしかないんだね」

「うわ、ほんとだ」

「なくなったらどうするの?」

「考えてなかったなぁ。まぁ、でもさ」

「うん」

「どうせ、また何か別のお祝いをしてるんじゃないかな」

「そんな気はするよね」

二人してからから笑って、車を降りる。

揃ってお店に入り、迷いなくコーラを手にしてレジへ。
お会計を済ませればすぐに外へと出て、もうプロデューサーがぷしゅりと音を立ててキャップを開けていた。

「はい」

「ん」

こぽこぽと一定のリズムで注がれ、浮かび上がる茶色の泡はぴたりと溢れる寸前で止まる。

「もう注ぐの、失敗しなくなったよね」

「そりゃあ、四十回以上やってたら感覚掴むだろ」

それもそっか、と短く返しながら、ペットボトルを受け取る。
同じように私も彼の紙コップへとコーラを注いで、準備は完了だ。

「こんな寒いのに、何やってんだろなぁ。俺たち」

「それは言いっこなし。っていうか、これ始めたのプロデューサーだからね」

「そうだっけ」

「そうだよ」

まぁなんでもいいや、とプロデューサーが口角を上げて、紙コップを掲げる。
彼が「凛の初めての冠番組を祝して!」と高らかに言ったあとで「乾杯」と声が重なった。

こつん、と控えめに紙コップをぶつけ合って、口をつける。
お決まりのように、私たちは一息に飲み干して紙コップを握りつぶした。

「あー」

強烈な炭酸の刺激に、たまらず声が漏れる。
ゴミ箱へめがけて放った紙コップは外れてしまい、こつんと地面へと転がった。


「下手くそー」

「風のせいだって」

「風なんて吹いてたか?」

プロデューサーは私を茶化しながらも、私が入れ損じた紙コップを拾って、ごみ箱に入れようとしてくれる。

そんなときだった。

目の前をすぅ、と黒いセダンが通って緩やかに停まり、助手席の窓が開く。
窓から覗いていたのは無骨な一眼のカメラで。

あ。

そう思ったときにはもう遅く、ぱしゃりとシャッターが切られていて、次の瞬間には黒いセダンは走り去っていってしまった。

「プロデューサー、今の、もしかして」

「あー。うん、そうだな。やられた」

「…………ごめん」

ふぅ、とプロデューサーは軽く息を吐いて、顎に手を当てて考え込むような素振りを見せる。

「いや、俺が不用心だった。それに、これはある意味喜んでいいと思う」

「……なんで?」

「こんなつまらない写真でもネタになるくらい、凛が有名になったってことでしょ」

「……それは、そうかもしれないけど」

「大丈夫だよ。今みたいな写真なら、せいぜいが週刊誌のちょっとした記事程度だろうし…………あ」

何か思い当ったのか、プロデューサーが言葉を止める。

「何? 何か思いついたの?」

「うん。ちょっと、悪いこと」

「…………よくわかんないけど、それよりもさっき撮られた写真はいいの? 怒られちゃったり……するでしょ?」

「あー。まぁそれは、なんとかできると思うよ。っていうか、する」

「……プロデューサーがそう言うなら、信じるけどさ」

そうは言っても、やはり気にしてしまう。
派手なスキャンダルではないのかもしれないけれど、悪意を持って記事を書かれてしまうのは、怖い。


「さて、盛り下がっちゃったし……もっかい乾杯しよう!」

心配する私に反して、彼はけろりとしてそんなことを言う。

「もう紙コップあと四つしかないのに?」

「四つしかないから、だ」

たまに、プロデューサーはわけのわからないことを言う。

理由を訊ねたい思いはあるが、どうせはぐらされることも、もうわかっているので諦めて私はそれに従った。

先程と同じようにして、お互いの新しい紙コップにコーラを注ぐ。

「よし。じゃあ、初パパラッチ記念!」

「……嬉しくないんだけど」

不安でいっぱいの私をよそに楽しそうなプロデューサーは、悠々と二杯目のコーラを飲み干し、紙コップを放り捨てる。
少し遅れて私も飲み干して、今度は二の轍を踏まぬように、丁寧にごみ箱へと紙コップを捨てた。

「まぁ、任しといて。こういうときのために、プロデューサーって存在がいるんだから」

完全に不安を消すことはできないが、この男がそう言うからには何かしらの策を講じる予定なのだろう。

今はただ、その成功を祈ることしか私にはできなかった。





パパラッチ事件から一週間と少し空いたある日、久々のオフをもらえた私は自宅で穏やかな時間を過ごしていた。

そんな平穏を破ったのは一件の着信で、電話の主は私のプロデューサーからだった。

『オフなのに電話してごめん。今大丈夫だった?』

「うん。大丈夫だけど、何かあったの?」

『一週間前くらいに、パパラッチされた事件あっただろ』

どきりと心臓が跳ねる。

やはり何か問題があったのだろうか。

私は彼の問いかけに「うん」と返し、続く言葉を待つ。

『やっぱり、週刊誌のあれだったんだけど』

「……うん」

『先手、打てそうなんだよね』

言ってる意味がわからず「え?」と間の抜けた声が出てしまう。
そんな私をよそに、彼は何故か盛り上がっていて『そんなわけで、申し訳ないんだけど、今から事務所、来れるかなぁ』と早口で言うのだった。






詳細を聞く前に電話が終わり、仕方なく出かける準備をして家を出る。

それが三十分ほど前のことで、私はわけがわからないまま事務所の前までやってきていた。

ちらりと覗いた事務所の駐車場には見慣れない車がいくつか停まっていて、何事かと考える。
結局、理由は見当たらず事務所に入り、廊下を抜けてプロデューサーのデスクを目指す。
彼は期待通り、自身のデスクにいて、私に気付くなり喜色を露わに近付いてきた。

「……来たけど、何かあったの? 見慣れない車もたくさん停まってたし」

「ああ、気付いた?」

「うん」

「これから、ちょっとしたインタビューを受けて欲しくて……あ、もう取材陣の方たちは応接室に控えてもらってるんだけどね」

私のあずかり知らぬところで何やら事態が動いていたらしく、その説明を手短にプロデューサーから受ける。

先週に撮られてしまったあの写真は、期待通りと言うべきか否か、やはり週刊誌に載せられてしまうのは決まっているようで、発売は明日とのことだった。

対する私のプロデューサーはこの事態を見越して、先週から根回しやら何やらのために方々を駆け回っていて、対抗策を遂に用意できたらしい。
そして、その作戦がなんともばかみたいで、思わず私は「本気?」と訊いてしまった。

「本気も本気。それだけで、これは終わる話だし、十分勝ち目がある」

真剣な目つきで彼が言うものだから、私もそういうものか、と納得させられてしまった。


その作戦とは、こうだ。

まず応接に控えてくれている多くの取材陣の前で、明日の週刊誌に自身の写真が載ってしまうことを打ち明ける。
次いで、これまでに行ってきた、例の乾杯の儀式を披露する。それだけらしかった。

「……まぁ、やるだけやってみるけど」

「うん。あとは凛にかかってる」

「私任せの作戦だよね。ほんと」

「大丈夫。コーラ飲んで、あーって言ってる凛は、無敵だから」

「なにそれ」

「めちゃくちゃかわいいってこと」

はい、とプロデューサーが手渡してきたのはいつもの紙コップとペットボトルで、ペットボトルの方はラベルが剥がされ、キャップが無地のものに差し替えられている。

プロデューサーの「頑張って」の声を背中で聞いて、私は応接室へと向かった。




応接室に入るなり、無数のカメラからのフラッシュが私を迎える。

ぺこり、と簡単な会釈をして、用意されている机に向かい、さらに再度一礼をした後に腰かけた。

「ええ、と」

歯切れ悪く口を開けば、取材陣の人たちは前のめりになって私を真剣に見る。

「……どこまで、聞いてますか?」

まず何から話したものか、と悩んだ末に、私はそう訊ねてみる。
そうすると、取材陣の一人から「重大な発表がある、とだけ」と返ってきたので、あとでプロデューサーの足を踏もう、と思った。

「……重大、と言えば重大になるのかな。ええ、と。実は、この前、写真、撮られちゃって」

少しのどよめきが起こる。

「ああ、写真って言っても大したものではないんですけど」

私は笑顔を作って、事の経緯を一から説明する。
初めてのライブのこと、そのあとに連れて行ってもらったコンビニのこと、これまでのいろいろな乾杯のこと。

すべてを包み隠さず話せば、エピソードひとつひとつを取材陣の人たちは面白そうに聞いてくれた。

「……というわけで、この前が四十九回目だったんですけど」

撮られることを意識して、恥ずかしそうな顔を作る。
撮られるとわかっていれば、こちら主導で動かせる。

「それで、撮られちゃって。どんな写真が出るかはわからないんですが、私からはそんな感じです」

わざと言い終わったふりをして、そのあとで「あ、それと」と付け加える。

「一度実演してみたら、とも言われて……」

ここでようやく持ち込んだ紙コップとコーラを取り出して、注ぐ。

それを私はいつもと同じように一気に飲み干して、いつもよりは少し控えめに握りつぶしてみる。

「あー」

強めの炭酸に思わず涙になって、声が漏れるのは演技ではなかった。

取材陣の人たちからのフラッシュを一身に浴びながら、思う。

いや、本当にこれでいいのだろうか、と。





そんな、わけのわからない取材から一晩明けて、私は事務所の休憩室で、プロデューサーと一緒にテレビを眺めていた。

「来るぞ」

プロデューサーは心底面白そうに、言う。

お昼のワイドショーで、何が来るというのか。
頭にはてなマークを浮かべながら、ぼうっとテレビを見ていれば、画面上には昨日の私の姿が大きく映っていた。

「え、これ」

慌てて隣のプロデューサーを振り返る。

プロデューサーはどこから取り出したのか、なぜかコーラと紙コップを持っていて、なみなみと注いでいた。

「え」

再び画面を見る。
所々省略されてはいたけれど、私が昨日行った説明が流れて、次いで司会の人が「ここから! ここからですよ!」と声を張り上げる。

またしても私が大きく映される。
画面の中の私が紙コップにコーラを注いで、持つ。

なぜかプロデューサーも手に紙コップを持って、画面の中の私が飲むのに合わせて「五十回目を祝して!」と言った。

「え?」
「乾杯!」

これ以上ないくらいおいしそうに、プロデューサーはコーラを飲み干して「あー」と漏らす。

テレビの映像は、既にワイドショーのスタジオに戻っていて、さっきの私の姿に対して出演者の人たちが様々なコメントをしていた。

「僕もね、何度か共演したことあるんですけど、クールが売りのかっこいい凛ちゃん、ってイメージが強かっただけにインパクトあるなぁ」

あるタレントさんがそうコメントして、そのあとで司会の人が「そんな今を時めくアイドル、渋谷凛ちゃんのかわいらしい一面が話題です」と締めくくり、番組はコマーシャルへと移るのだった。

「よし!」

勝ち誇った顔で同じ紙コップへ二杯目を注ぐプロデューサーを見て、ようやく私は全てを理解する。

「ずるい」

「凛は五十回目のコップ、もう使っちゃっただろ」

「じゃあそれでいいよ」

プロデューサーの前のコップを奪って、一息に飲み干してやる。




甘酸っぱさと強い刺激が喉を駆け抜けて、私は「あー」と声を漏らす。




おわり

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