彼は普通の人でした (23)

休日のこの路線は何でこんなに人が多いのでしょう。握手会に向かう電車には、人がいっぱい乗っていました。

まだ早い時間だし、一人分くらい空いていないかと思っていたのですが、現実はそう甘くありません。

ぎゅうぎゅう詰めになっている車内で、私はこれからの握手会に思いを馳せていました。

あの人、今日も来てくれるかな。でも××さんは攻撃的な態度だから、回数少ないと良いな。

結局、アイドルだってただの人間です。好きな人もいれば、嫌いな人だっています。

ファンの人は基本的には好きですが、やっぱり好きになれない態度を取られると、こちらだって会いたくなくなるものです。

そんなことを考えていた罰でしょうか、私のお尻に何かが触れました。いや、何かとは言いますまい、人の手が意識的に、そこに触れ始めました。

慣れてしまったという言い方はしたくないのですが、またか、くらいのものです。しばらく我慢をすれば、この人もきっと解放してくれるでしょう。

早く降りろ、もしくは着け。

そう思えば思うほど、時間は流れなくなってしまうものです。相対性理論とはこういうことなのでしょうか。

痴漢の魔の手はスカートの上からでは飽き足らず、下着に直接触れようとしてきました。

気持ちが悪い。

さすがにこれには私も声をあげたくなりました。しかし、私は握手会に向かうアイドルなのです。ここで変な注目を浴びるのは、色んな意味で避けたいところです。

次の駅についても、顔も見えない彼は降りようとはしませんでした。

「降りまーす」

車両奥遠くから聞こえてきて、人波をかき分けてその声の主が私の横を通り過ぎた瞬間でした。

「おい、何だ、やめろ」

私のすぐ後ろに立っていたおじさんも、その彼に手を引かれていました。

「何だ、おい、やめんか。私はここで降りるつもりはないぞ」

「ちょっとお話したいことがありまして」

そうやってまごまごしながらも、彼はおじさんの手を引っ張って出てしまいました。

ちょうど人の多い駅だったことが幸いしたのか、車掌さんたちもそれに気づくことはなく、電車は二人をホームに置いたままドアを閉めました。

動き出す電車からホームの彼と目が合い、微笑まれたように感じたのは私の気のせいでしょうか。

彼は勇敢な人でした。とても、勇敢な人でした。

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握手会場には、続々とメンバーが集合してきました。

「おはようございます」

「おはよう」

事務的な挨拶が飛び交う中で、みんなそれぞれ握手に向けて準備を進めます。

メイクを整える子、髪を整える子、各部によって服を着替える子、色んな子がいます。

「ミズキ、何か嬉しそうじゃん」

「分かりますか?」

声をかけてくれたのはグループでも一番人気のサヤちゃんでした。

黒髪ミディアムのサラサラな髪からは清楚なイメージが漂っていて、ファッションも男性が好きそうなマキシ丈のワンピース。

私が男の人だったら、きっとサヤちゃんみたいな人を好きになっていたと思います。

痴漢をされたこと自体は不快でたまらなかったのですが、彼は救ってくれた彼は良い人でした。

救い方も、非常にスマートだったと思います。私のことを思ってくれたのかはわかりませんが、あそこで私が拘束されてしまうと握手会には間に合いませんでしたから。

一方で、彼は大丈夫だったのかなという不安もあります。言い逃れされたら、痴漢を証明することができたのかは甚だ疑問です。

「で、何があったの?」

一部始終を話してみました。

「災難だったわね。大丈夫?」

「私は大丈夫ですけど、その人が大丈夫かなって心配で」

「優しいのね。でもきっと、大丈夫よ。王子様だったら」

ふふふ、とサヤちゃんは笑いました。

王子様、なんて言い方に私は赤面しながら首を横に振ってみせます。決して、そんなのではありません。

ただ、少し勇敢な、少し良い人だなぁと思っただけです。

その様子を面白そうに見つめてた彼女は、立ち上がって口を開きました。

「さ、そろそろ行きましょ。その彼が出してくれた勇気を、私たちはファンにお返ししなきゃね」

そうなのです。私たちは、ファンの人たちを幸せにするのが仕事です。

「ミズキちゃんに会えて嬉しいな」

そう言ってくれる人たちのおかげで、私たちは頑張れるのです。

長時間立ちっぱなしで、汗やら体臭やら制汗剤やらの匂いが入り混じった空間にいられるのも、ファンのみんなが来てくれるから。

自分用のブースに入ると、既に並んでくれてるお客さんがちらちら見えてきました。

いつも来てくれるあの人だ。あ、久しぶりに見る人もいるな。

「おはようございます」

ファンの人を剥がしてくれるスタッフさんに挨拶をします。ストップウォッチを片手に、彼は目を合わせてくれました。

「おはようござい……」

一瞬、時が止まりました。彼はそう、あの電車の彼だったのです。

気まずそうに視線を微妙に逸らしつつ、最後まで言葉を続けます。

「ます……」

何という偶然でしょう。少女漫画だと、この後恋に落ちたりしそうな展開です。

基本的に、スタッフからタレントへの声かけは禁止されています。それを許すと、ファンがスタッフに応募しまくるからです。

とはいえ、私から感謝の念を伝えるくらいなら許されるでしょう。

「その節は、ありがとうございました」

サービスで、ちょっと微笑んで見せました。アイドルの笑顔は商品なので、これはかなりのご褒美だと言えるでしょう。

彼は照れたように顔を伏せつつも、頭をぺこりと下げてくれました。年相応に可愛らしい態度です。

なんて、お姉さんぶってはいますが私とそう歳が離れているとも思えません。一歳か二歳か、もしかしたら同級生。

それ以上の言葉を交わすこともなく、握手会が始まりました。彼も私も、お仕事の時間です。

「ミズキちゃん! 今日鍵開けできたよ~」

鍵開けとは、その日の握手を最初にすることです。そのために、握手列ができるのを今か今かと待ち構えている人が大勢いるのです。

それができたからといって、何か特典があったりするわけではないのですが。私を推しているという気持ちに繋がる証明、なのでしょうか。

「ありがとうございます~! おはよう! 今日も来てくれたんですね」

いつも来てくれるこの方は、ずっと前から私のことを応援してくれていました。

私たちのグループは、私たち自身ですら今何人いるのか正確には把握してません。その中で、CDシングルを歌えるメンバーは極々一部です。

幸運にも、私はそのシングルを歌えるメンバーには入っているのですが、それにも並々ならぬ競争を勝ち抜いてのことです。しかも、勝ち抜いたとはいえ、サヤちゃんみたいにフロントの目立つ立ち位置ではないのです。端っこで、ひっそりとサビでハモるくらいの立ち位置なのです。

そんな私が、カップリングを歌えるかどうかというような時期から推してくれてたのが、この方なのです。ひろたん、という名を私たちに対しては名乗っています。

「勿論! ミズキちゃんに会えるのが、俺の生きがいだから」

「ありがとうございます~!」

人の生きがいになるほど、立派なことが出来ているのかは分からないのですが。

そう言われて嫌な気持ちになる人は、アイドルには向いていないでしょう。

スタッフのお兄さん……何か呼びづらいですね、電車さんが、肩に手を置いて「お時間でーす」と声をかけました。

握手会一枚で、私と話せるのは基本的に10秒前後。1分6000円。1時間なら36万円。下手な学習塾よりよっぽどぼったくりだと思いますが、私たちはそれがお仕事なのです。

「また来るね!」

「はーい、待ってます」

その中でも、ひろたんは何度も何度も回ってくれます。一日の握手会で、彼は何度も何度も私の前に現れます。

どうやって確保しているのかと疑問に思うほど、彼は私に時間とお金を費やしてくれています。

それに後ろめたさを感じはしないものの、申し訳なさは感じます。

私がアイドル出なければ、このグループにいなければ、私にそんなにお金をかける意味があるのでしょうか。私にそんなに時間を費やす意味があるのでしょうか。

例えば、私がこのグループにいない一回の女子大生で、握手会を開いたら何人が私に今ほど熱をあげてくれるのでしょうか。

つまり、私自身には大した価値がないのです。「アイドルグループ所属」という肩書が、私を少し輝かせてくれているだけなのです。

今まで卒業していった、サヤちゃんみたいな人気メンバーたちも、芸能活動を続けています。それでも、所属していたころと同じくらいの規模で働けている人は、一部とも言えない一握りの人たちだけです。

私だって、御多分には洩れないでしょう。

卒業した先のことを今は考えていませんが、少なくとも今のファンが皆そのまま続けてくれるとは思っていません。

だから、私は今の私に会いに来てくれる彼らを大事にしたいなと思うのです。

握手会に来てくれる人たちが『今の私でないと好きでいてくれない人』だとしたら、今の私が彼らを大切にするのは当然のことではないでしょうか。

好きでいてくれる人に、進んで嫌われたいと思う人はそうそういないはずです。

「ミズキちゃん今日も可愛いね」

「新曲良かったよ」

「この間の歌番組、MCキレてたね」

私のこと、私の仕事内容を話してくれる人たち。

「最近仕事で嫌なことがあったんだ」

「もうすぐ部活の大会なんで、応援してもらえませんか?」

「俺、何歳に見える?」

自分のことを話してくれる人たち。

皆、私に話したくて来てくれる人たちです。たまに女の子も来てくれます。

「めっちゃ可愛い……! 大好きです!」

なんて同性にストレートで言ってもらえるのは、今の仕事をしている特権かもしれません。

握手会は六部構成で、人気のないメンバーは全部に出るわけではないのですが、私は選抜メンバーということもあり六部全てで握手をさせてもらってます。

忙しい部だと、あっという間に時間は過ぎます。一部は大体一時間で、休憩をはさんで朝から夜まで続くのです。アイドルというのは、握手をするにも体力勝負な仕事とは、実際にそれを始めるまで知りもしませんでした。

とはいえ、全ての部が売り切れているわけではないので、暇な時間だってもちろんあります。

一部は鍵開けを狙う人たちがいっぱいいて完売していたから結構忙しく、頭をフル回転させながら接します。

この人は今日二週目だ、この人は前回初めて来てくれた人だ、この人は一日に一度来たら二度目はない。

効率よく、ファンを放さないように考えながらもしっかりと皆の目を見つめます。それだけで喜んでくれるのなら、私はいくらだって視線を送りましょう。

幸いにも一部のチケットは完売していたので、一時間ずっと忙しいままでした。

最後の方との握手を終えると、私は頭を下げて「お疲れ様でーす」と言い残してブースを去ります。電車さんに視線をチラッと向けると、お疲れ様ですと返してくれました。

握手を終えたメンバーと合流して、控室に向かいます。道中、「××さん、私のところに来てくれたよ。浮気性だね」だったり、「○○くん、今日も鍵開けだった~。凄すぎて逆に引く」だったり、雑談をしていたのですが、やはり皆いい感想だけではないものです。

「またあのオタク来たよ、本当キモいから」「出禁にしなよ」といった、汚い感想が出てくる子もいます。

お客様は神様だ、とは到底思えないような接し方をしてくる人もいるものです。もしくは、人と人なので、どうしても合わない人だっているでしょう。

彼女たちの気持ちを否定することもできないとは思います。私だって、来ないでほしいなと思う人がいないわけじゃないのです。

「ほら、またアイナたち言ってるよ。人気あるからって、調子乗ってるよね」

彼女達は選抜メンバー常連です。それに、センターとは言いませんが良いポジションで、ソロパートだっていつも用意されています。

テレビの露出が多かったり、雑誌に載るような子たちからすると、握手会はただの肉体労働にしか思えないようです。

そっちに出た方が、より多くの人の目に映って、より多くの人にちやほやされるから。

私みたいな半端なメンバーからすると、そんなことは恐れ多くて口にするのも憚られるのですが、彼女たちはそれを隠す気にはならないようです。

「今度、○○くんと合コン開くんだ」

「え~、私も誘ってよ」

○○くんは、今人気の若手俳優です。この間アイナちゃんがバラエティーに出た時に、確か一緒に出ていた気がします。

私たちは表向き『彼氏はいません、所属期間は恋愛はしません』ということになっています。勿論、アイナちゃんたちのように、みんながみんな潔白なわけではないのですが。

年頃の綺麗な少女たちが寄ってたかって、恋愛もするななんて難しいことでしょう。命短し恋せよ乙女、とはよく言ったものです。

私だって、良い相手がいるならば恋愛をしたいとは思います。とはいえ、このグループにいてそれがバレてしまうなら、私は今までにアイドル生活で培ってきた全てを失ってしまうでしょう。

ファンの失望。グループの脱退。信用の失墜。

ああ、考えるだけでも恐ろしい。それならば、恋愛をするのはまだ先、未来で構いません。私がよぼよぼに枯れる頃に、だれか引き取ってくれる優しさを見せてくれればいいのですが。

「どうだった、ミズキのところには誰が来たの?」

「うーん、いつも通りかな。ひろたんが来てくれたよ」

「出た、ミズキトップオタ。凄いよねぇ、色んな意味で」

色んな意味で、には皮肉が込められていることにも十分気が付いています。

面白いのでどうかエタりませんように

あんなに推してくれる人がいていいね、ちょっと怖くない、娘でもおかしくない年の子に対して気持ち悪いよね。

そういう、色んな意味。

その中には妬みだったり羨望だったり同情だったり、色んな感情が飴細工のように繊細に絡みついているのです。

私たちは、そのお互いの脆いものを壊さぬように付き合っていかねばならぬのです。それも、数えきれぬほどの数の女子と。

「〇〇ちゃんだって、いつも△△さんが来てくれてるじゃない」

彼女の握手に欠かさずに来てる、イケメンな彼の名前をあげて返します。私に来てくれるのはおじさんだけど、あなたはイケメン。

そういう些細なことでプライドを保ってあげるのが、このグループで学んだ処世術の一つです。

少し照れた感じで、「そうなの~今日も一部だけで5ループもしちゃって。大丈夫なのかしら」なんてニヤけています。

うん、こういう子は分かりやすくて良いですね。

そんな雑談が終わるのもあっという間で、すぐに二部はやってきます。引き続き、お仕事です。

電車さんとそれぞれお疲れ様ですと声を掛け合って、無言で握手が始まるのを待ちます。

いつもなのですが、私はこの時間が非常に苦手です。

握手会だと緊張したファンの方が黙っちゃうことがあるので、私は常に話を振れるように準備をしているのです。するとどういうことか、日常生活でも沈黙が苦手になってしまったのです。

一度、耐えられずに剥がしのバイトさんに話を振ったことがあります。初めての経験だったのか、彼もそれに返してくれました。果たして、その部が終わる頃には、SNSで剥がしさんも私も叩かれていました。

それ以来、さすかの私もこのブースの中では挨拶と最低限の会話しかしなくなりました。その分、握手会中に話せるようにと。

二部でもやはり、ひろたんは何度も来てくれました。他にも一部で来てくれた顔が何人かと、以前にお見かけした人たちです。

私は握手会で着替えたりはしませんが、ファンの方の中にはループする中で着替えてくる人もいます。

「あれ、着替えました? さすがオシャレですね~」

一々、こうやって触れてあげないと彼らは満足しないのです。自分の変化に気がついてくれ、自分の存在を認知してくれているというアピールなのでしょうか。

そう言うと、満更でもない顔で彼らは去って行くのです。

握手会に来てくれるようなファンの方に対しては、突然変異のごとく記憶力が上がります。学校の勉強にこれを活かせなかったのは必死さが足りなかったということでしょうか。

二部が終わって三部が始まり、三部が終わって四部が始まり、その繰り返しです。そして見かける人たちも二部でも見かけた人、三部でも見かけた人と繰り返すのです。

そして五部が始まります。いよいよ後半戦といった感じで、ファンの方たちも一日中会場にいた疲れが見える人が多くなった気がします。

ひろたんは相も変わらずループしてくれています。今日だけで、何度顔を合わせたか数えられないくらいです。下手な親戚に一生で会うより、回数で言えば多いのかもしれません。

電車さんも剥がし作業に慣れてきたようで、スムーズに事を進めていきます。相手に粘らせ過ぎず、苛立たせもせず、かつ規定時間で合図をするというのは実は難しいものなのですが、彼はしっかりとその良きところで声をかけているようです。

「10枚でーす」

そんな中、ブースの入り口付近に立っているスタッフから声があがりました。

握手券というのは複数枚を同時に出せば、その分一回当たりの接触時間を長くできるのです。10枚出せば、一回の握手で約10倍の時間を話せるということです。

現れたのは。

……うっ、タケシタです。彼はいつも高圧的に、説教をするかのように私に話を投げてきます。

「久しぶりだな」

「お久しぶりです」

いくら嫌な相手でも、これが私の仕事なのです。彼がここで使ってくれた10枚分の握手代が、巡りに巡って私のお給料になるのです。

そう思うと、作り笑顔だってお手の物です。アイドルは表情筋を自在に操ってナンボなのです。

「この間の歌番組、音外してただろ。ほら、××に出てたとき。レッスン足りないんじゃないの?」

ほらきた。実際、あの歌は口パクなんですが。そんなことを本人から暴露するわけにもいかなくて、反省したふりをします。しゅんとした表情で「すみません、練習不足で……」と深刻そうに。

「お前、いつもそうじゃん」

いつもそうなのはタケシタの方こそなのですが。口が裂けてもそんなことは言えません。

そして五部が始まります。いよいよ後半戦といった感じで、ファンの方たちも一日中会場にいた疲れが見える人が多くなった気がします。

ひろたんは相も変わらずループしてくれています。今日だけで、何度顔を合わせたか数えられないくらいです。下手な親戚に一生で会うより、回数で言えば多いのかもしれません。

電車さんも剥がし作業に慣れてきたようで、スムーズに事を進めていきます。相手に粘らせ過ぎず、苛立たせもせず、かつ規定時間で合図をするというのは実は難しいものなのですが、彼はしっかりとその良きところで声をかけているようです。

「10枚でーす」

そんな中、ブースの入り口付近に立っているスタッフから声があがりました。

握手券というのは複数枚を同時に出せば、その分一回当たりの接触時間を長くできるのです。10枚出せば、一回の握手で約10倍の時間を話せるということです。

現れたのは。

……うっ、タケシタです。彼はいつも高圧的に、説教をするかのように私に話を投げてきます。

「久しぶりだな」

「お久しぶりです」

いくら嫌な相手でも、これが私の仕事なのです。彼がここで使ってくれた10枚分の握手代が、巡りに巡って私のお給料になるのです。

そう思うと、作り笑顔だってお手の物です。アイドルは表情筋を自在に操ってナンボなのです。

「この間の歌番組、音外してただろ。ほら、××に出てたとき。レッスン足りないんじゃないの?」

ほらきた。実際、あの歌は口パクなんですが。そんなことを本人から暴露するわけにもいかなくて、反省したふりをします。しゅんとした表情で「すみません、練習不足で……」と深刻そうに。

「お前、いつもそうじゃん」

いつもそうなのはタケシタの方こそなのですが。口が裂けてもそんなことは言えません。

強い口調で、彼は私に言い詰めます。

彼は私と似たような立ち位置の子を推していて、だから被っている私のことが邪魔なのでしょう。私と握手をしに来てくれるのは、私のファンだけとは限りません。

「他の子達はみんなできてるのに、お前だけ音外して恥ずかしく無いのか?」

そもそも私にはソロパートが無いので、生歌で外したいたとしてもそれに気が付けるほど耳が肥えているとは思えません。それでも「すみません」と謝るのも、私の仕事なんです。

謝るためにアイドルを始めたわけじゃなかったんですが。

「いつまでも選抜メンバーでいられると思って調子に乗るなよ」

そんなこと、言われなくても私が一番分かってます。なぜタケシタに言われないとならないのでしょうか。

運営の方向性なのです。私たちは結局アイドル。パフォーマーではないのです。

歌をいくら頑張っても上手い人はもっといて、ダンスだって同じく。容姿だってモデルさんが並んでしまうと霞んでしまいます。

半端な能力をいかに可愛く見せられるか。それがアイドルなのです。

とはいえ、それをお客さんに向かって主張することなんて、どうしてできましょうか。

あんたなんかに言われたくない。私の邪魔をするより、自分の推しを応援すればいいじゃない。

そんな文句を言いたくても、それを言ったが最後。私のアイドル人生は終わりを迎えます。

だから私は謝るしかありません。すみません、すみません。心にもない謝罪を、言葉ではいくらでも繰り返します。

早く時間が過ぎてくれないでしょうか。私に十枚分、一万円も使ってまで文句を言いたいことがあるのでしょうか。それよりは好きな子に会いに行った方が、よっぽど有意義だと思うのに。

「お時間でーす」

電車さんが声を出して、タケシタの肩を叩きます。それなのに、彼は剥がれようとはしません。

「今に見てろ、お前なんか選抜落ちさせてやるからな」

そんなこと、できるはずもないのに。

「そうならないように、頑張ります」

作り笑いの困った笑みで、タケシタを見つめ返します。笑顔でいることが、アイドルの私の最大の武器だから。私の武器で、彼を殺すしかないのだから。

舌打ちをして、彼はそのまま出て行きました。電車さんも立ち位置に戻って、次のファンを待ち構えます。私も同じく、新たな武器を身にまとい、次の方を出迎えます。

いつも通りです。これが私の、日常。

握手会が終わると、私たちはバスにのって大きな駅まで移動します。

帰りは外でファンに待ち構えられていると自宅が特定されてしまうからです。何とも半端なセキュリティだとは思いますが。

バスを降りると、何人かのメンバーは「ご飯行く?」「これから遊びに行かない?」なんて話しています。

「ミズキ、ご飯行こうよー」

「ごめん、明日一限あるから」

そうです、私は大学生でもあります。今のご時世、アイドルをやっているだけでは先が怖いものでして。小心者の私は、決して良くはない頭を使って勉強をして、どうにか大学に入ることができたのです。

「そっかー、じゃあまたね」

彼女たちも、一応学生ではあるはずなのですが。アイドルとして忙しい以上に、彼女たちは遊びで単位を落としているようです。

とはいえ、それを責める気持ちもありません。私の大学にだってそうう人はいっぱいいます。ストレートで卒業して、就職さえできればいいと思っている大学生なんて、いくらでもいるでしょう。

彼女達だって、私だって、普通の女の子なのです。

普通でない生き方を覚悟して入った世界なんて、そんな重々しい話はどこにもありません。

クラスで可愛いともてはやされて、ちょっといい気になって興味本位で応募して、たまたま合格してしまった。

本当に、それだけなんです。

なのに、周りの人たちは私を特別扱いしてくれます。

「やっぱりミズキちゃんは可愛いね!」「アイドルは違うなぁ」「大学も通って大変だね」

そんなことありません。大変なことなんて、無い。

周りが可愛がってくれて、普通のバイトよりちょっと大変な思いをするだけで、普通のバイトの何倍もお給料を貰っています。

いや、大変なのかもしれないけど、少なくとも私は大変だなんて思ったことはありません。それはつまり、アイドルに向いてたということなら嬉しいのですが。

翌朝、大学で授業が始まるのを待ちます。

一限の授業は八時五十分からで、私はいつも五分前に教室に着くように意識します。

よく知らない子たちにひそひそと噂されるのも嫌だし、遅れて行って不真面目だという印象も持たせたくないから。

「おはよう」

「あ、おはー」

同じ学部のまどかちゃんです。数少ない、大学でできたお友達。知り合って早々に「アイドルってことはさ、俳優と知り合ったりする? 合コン開いてよ」なんて厚かましくお願いしてきたのは彼女くらいですが、そのストレートさは嫌いじゃありませんでした。

私がアイドルであることを知ったうえでこそこそ近づいてくるような人よりは、いっそそうやって堂々と振ってくれた方が気が楽というものです。

「昨日の握手会、どうだった?」

「んー、嫌な人がまた来た。でも大丈夫、いつも通りだよ」

嫌な人、とはタケシタのことです。名前はあげませんが、それくらいなら彼女は笑って聞き流してくれます。

「そっか。ま、アンタには私が○○くんと合コンするまでアイドル続けてもらうからね」

○○くん……ああ、聞き覚えがあると思えば、アイナちゃんが合コンをすると話していた俳優でした。

さすがにそれを私から教えることはできないので、「私なんかじゃ無理」とだけ伝えておきます。

「はいはい……あ、これ、この間の分ね」

渡してくれたのは私が出られなかった授業をまとめたルーズリーフです。お仕事で出席できない分は、こうやって彼女がまとめてくれます。

チャラチャラしてそうで、勉強はしっかりするギャップも、まどかちゃんの良いところではないでしょうか。ギャップ萌え。

まだ続いてます?

受け取ったルーズリーフをファイルにしまい、彼女にお礼を言います。

「私がもっと売れたら、○○くんを紹介するね」

これくらいなら、言っても許されるでしょう。同じ業界の私からしても、彼は遠い世界の住人なのです。夢物語の相手なのです。

「ま、期待せずに期待しとく」

何とも現代っ子っぽい言葉です。いつか、合コンでなくとも、本当にお礼をしなきゃと思います。彼女のおかげで両立できているのは自覚しているのです。

教授が入室し、講義が始まりました。人より休んじゃう機会が多い分、出られる授業は真面目にノートを取ります。適当に受けてると、ネットに何を書かれるか分かりませんしね。

まどかちゃんも、ちゃらちゃらした見た目とは裏腹に、しっかりノートを取っています。

他の学生は、机の下でゲームをしたり、小声で雑談したり。勉強が学生の仕事だなんて、大学生には通用しません。いかに楽しく過ごし、楽に単位を取るか。それが大学生という生き物の本望なのです。

ほら、あそこにいる人だって、コソコソとスマホを弄ってます。

……ん、何だか見覚えのある後ろ姿の気がします。この講義を取るようになって一か月とはいえ、100名近く受講している講義で見覚えのある人ができるというのは、中々珍しい気がします。余程目立つ人ならまだしも、彼はそういう風には見えません。

野暮ったく伸ばしたような髪は傷んでいるのか少し茶色を帯びていて、サーマルを一枚でさらっと着ているのはオシャレなのか、面倒くさがりなのか。

背中と後頭部だけじゃ、どんな人なのか判断するのは難しいです。

うーん、どんな人なのでしょう。交友範囲が広いまどかちゃんに、後で聞いてみましょう。

チャイムが鳴る10分前に、教授は講義を終えました。2限は空きコマだから、お昼休みを含めると結構な空き時間があります。

ノートを片づけながら、私はまどかちゃんに尋ねます。

「ね、あの人。何て人か分かる?」

サークルにも部活にも入ってない私にとって、大学内で男性の知り合いは同じ学部の数名や、外国語の講義でペアを組んだ人くらいしかいないのです。

しかし、彼はそのどちらにも属していないのです。だとすると、彼は一体。

荷物をまとめた彼が立ち上がり、リュックを背負うところに視線を向けます。

「あ……」

「何、オトコ? だめよ、学内スキャンダルは」

まどかちゃんは茶化すように言ってきますが、私は気が付いてしまったのです。電車さんだ。彼は紛れもない、昨日とってもお世話になった電車さんなのです。

「どれどれ……あー、コバじゃん、コバヤシ。コバがどうかした?」

「ん、ちょっとね」

「何それ気になる」

そうですよね、普段男性のことを気にすることもない私がそんなことを急に聞いたら気になりますよね。

私のお仕事は夕方からだし、私も彼女も揃って今日の授業はこれで終わりです。たった一コマのために出てくるなんて、我ながら健気な学生です。ほろり。

ブランチで学内のカフェに入り、コーヒーを飲みながら昨日の経緯を説明します。

「へぇー。そんじゃコバが昨日はボディーガードくんだったんだ」

「ボディーガードって。まあ、似たようなものだけどさ」

まどかちゃんは楽しそうにニヤニヤしながら、私に問いかけます。

「何、助けられてドキッとしちゃった?」

「そんなに安い恋愛感情はありません」

というか、男性を好きになったことってどれほどあったでしょうか。アイドルを始めてからは自制してたし、その前も小学生の初恋、みたいなもので止まっています。

華の女子校生はアイドルに費やしていてそれどころではなかったし、男性と付き合ったこともありません。

今時珍しい処女性を貫いているアイドルなんです、私って。処女厨の皆さん、どうぞ私を推してください。

「冗談だって。でもコバ、私もそんなに詳しいわけじゃないんだよね。悪いやつじゃないとは聞くけど」

そりゃ、痴漢から救ってくれるくらいなんだから、悪人ではないことくらいは分かりますけど。

「何ていうか、特に目立たないんだよ。チャラチャラしすぎてるわけでも、ダサすぎるわけでも、痛すぎるわけでもなく。えーっと……」

頭のデータベースで検索しながら話してくれているようですが、中々これだという項目がヒットしないようで唸っています。

「とりあえず現役だから私たちと同い年。うーん……他に紹介できること……」

「ううん、もう十分だよ。ありがとう」

どんな人だろう、と思ってただけでしたし。『俺、アイドルを痴漢から救ったんだぜー!』というようなタイプでも無いようです。それならそれで良し。

うちみたいなマンモス大学だと、私のことを知らない学生ももちろんいっぱいいます。多少売れてるアイドルの端の方なんてそんなものです。

きっと彼もそういう人たちの一部だったのでしょう。派遣のバイトで、たまたま同じ大学の人に当たってしまっただけ。

「少女漫画だったら、ここから恋が始まるところよ?」

「まどかちゃん、私をクビにしたいの?」

茶化しにはおちゃらけで対抗するとしましょう。「ばれなきゃ良いんだって」と他人事のように言うと、彼女は残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干しました。

戻ってー

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