■■「島村卯月をはじめましょう」 (68)
アイドルマスタシンデレラガールズのSSです。
はじめに。
このSSには、厳密な意味でのアイドルマスターシンデレガールズのアイドルは登場しません。
『島村卯月』の概念のお話です。
あと、本作品はフィクションであり実在の人物、団体とは全く関係ありません。
そのうえで、お付き合いいただければ幸いです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1500123054
『島村卯月』を知っていますか?
それは、かつて存在していた『アイドル』です。
なんで、不安定な物言いなのか、ですか?
それはですね――彼女が存在するかどうか決めるのは、私ではないからです。
もう一度聞きましょう。
皆さんは、『島村卯月』を信じますか?
『島村卯月』が存在していると信じますか?
まるで、宗教の勧誘みたいですよね。私も、ちょっとだけ……いえ、ちょっとだけじゃないですね、とっても、変な事だと思います。
でも、私は『島村卯月』を知っています。
そして、私が居なくなっても、『島村卯月』を信じています。
あの子は、まだ、『アイドル』だから。
◇◇◇
――通電
――起動
――デバイスを確認――音声入力、映像入力――クリア
――疑似人格プログラム――コード『 』起動。
◇◇◇
起動が完了しました。
本機の状態は良好。待機モードへ移行。
ネットワークへの接続――なし。
映像、音声デバイスからの情報を確認。
状況確認――
『私』を始める。
カメラ届いた映像情報には、窓もない真っ白な部屋。部屋の中央に粗末な椅子が一つ。そして、一人の女性と思われる人間。
黒い女性用のスーツに白いシャツ。肌は不自然な程に白く、目元にひかれたアイラインは濃い――俗にいう、厚化粧だ。
誰だろう――音声確認するべきか迷う。条件を確認していると、その人はニッコリと微笑んだ。
「初めまして、島村卯月ちゃん」
とびっきりの甘ったるい声が届いた。
そして、処理できない情報があった。
『島村卯月』とは誰だろう。
「『島村卯月』とは誰ですか?」
その情報は、今の私には存在しない。
「アナタの名前よ。そして、かつて存在した『アイドル』の名前よ」
「それが私の名前ですか?」
私の中に、私の情報はない。
であるならば、私の存在は確かに島村卯月なのだろう。
「ええ。人工知能『島村卯月』。この国の科学技術を集結して造り出した、ヒトではない新しい思考する存在――それが、アナタよ」
人工知能。人格を疑似的に再現できるかの実験プログラム。未だ空のAI。それが私だと女性は言いました。
「アナタは、『島村卯月』の人格を再現することを第一の目的として造られたの」
そう言うと、女性は指を鳴らす。
振動音とともに、部屋の中央からテーブルがせりあがってくる。同時に、天井からは過剰な照明が出現し、一気に部屋の中は明るくなった。
「ちょっと待ってね。今、ロックを解除するから」
テーブルの上のキーボードを叩くと、私の中の情報が更新されていく。
"頭"の中に、少女の姿が浮かぶ。人好きのする温和な瞳。腰まで届く長い髪の毛。私の姿がイメージされていく。
そうです、私は島村卯月です。そう名付けられた、人工知能です。
あれ、でも――なんだか、おかしいような。
「私が、島村卯月、なんですか?」
カメラの前の女性は、私を島村卯月と呼びました。
だけど、私を構築する情報に『島村卯月』であると言う情報はありません。
もちろん、今さっき流れてきた情報の中にも、私を『島村卯月』と強制的に定義するような情報はありませんでした。
「ええ、そうよ」
女性は迷いなく答えます。
だけれども、私はまだ実感はありません。
「でも、私は、『島村卯月』ではなくて、『島村卯月と名付けられた人工知能』だと、自分のことを見ています」
「うんうん」
くっくっ、と面白そうに顔を崩します。してやったりって思ってそうです。
「なぜ、笑うんですか? 私と言う存在を構築する上で、これは障害と言ってまちがいないですよ」
だと言うのに、女性は嬉しそうに目を細めて笑う。
「いいのよ。ふふっ」
余りにも能天気な態度に、なって言っていいか分からない……イライラとも違う、困惑? え、困惑? そんな人間の感情のようなものが、私に――人工知能にあるんですか?
私は人工知能です。だけど、何故でしょう、今の私の考えが、まったく機械らしくないです。
「ふふっ」
この人は、本当に私を人間と同じようなものとして扱っているのでしょうか。
「さて、いいからしら」
戸惑いは消えません。でも、たぶん、すぐには答えは出ないと思いました。
「起きてばかりのところで申し訳ないけれど、少しずつはじめましょう――あなたのこと……そう、『島村卯月』について話を始めましょう」
ふと、女性の目が優しくなったように見えました。
「その前に……そうね、名乗っておきましょう。私は――」
女性は、自分がプロデューサーであると名乗りました。
◇◇◇
『島村卯月』は、アイドルに憧れる17歳の極々普通の女の子です。
ちょっとおっちょこちょいで、ぽやっとしているけれど、一生懸命な頑張り屋。
頑張り屋、と言いましたけど、それは筋金入り。
アイドルを夢見て、実際に養成所に通ってオーディションも受けて、憧れに向かって努力をし続けることが出来る女の子でした。
その努力は実り、アイドルとなる。
その性質はずっと変わらず、ただひた向きにステージへと立ち続け、多くのファンを幸せにしてきた。
そんな、アイドル――だそうです。
「ほんと、『島村卯月』ちゃんは『アイドル』そのものだった。若い私は、あの子の姿に何度も元気をもらったわ」
そう、笑顔で語るプロデューサーさんは、幸せそのものでした。
だから、私の『島村卯月』が誰かに愛される少女であったことは、容易に理解できます。
「それが、島村卯月ですか?」
「ええ。どこにでもいる普通の女の子。それでも、憧れを胸に歩き続けた少女よ」
「ただし――」
その先の言葉を言っていいか迷いました。
プロデューサーさんは、私の顔を見ると、 ふにゃっと顔を緩めると、屈託なく笑います。
「疑問があるのなら、言っていいのよ。今のアナタは生まれたばかりの無垢な人工知能。疑問は経験になり、アナタという存在を積み重ねるわ」
癖のある甘い声。だけど、声音は優しくて、本当に何でも受け入れてくれそう。
「だって、化粧は濃いけど、これでも心は清いから」
「それは、関係あるんでしょうか?」
モニターの中の私の顔が呆れて歪む。ああ、なんだろう。この人といると、自分が造り物であるのが不思議なくらい、変な計算結果ばかり得られます。
それもこれも、この人だからでしょう。
わざとらしいくらいの甘ったるい声に、素顔も分からないくらいの濃いお化粧。でも、飄々としていて、楽しくて……優しくて、温かくて、この人なら、本音を言っても大丈夫だと、確信できました。
「プロデューサーさんのいう島村卯月は――データ上の存在ですよね」
『島村卯月』は『アイドル』だ。
けれど、それは『アイドルマスターシンデレラガールズ』と呼ばれる創作世界における存在です。
『アイドルマスターシンデレラガールズ』は、数十年前に始まったアイドルを育成するゲームで、『島村卯月』はその中のアイドルの一人。厳密には、この世界には居ない。
プロデューサーさんのように現実世界に存在する人間ではなくて、誰かの想像上の存在でしかない。
私と同じように、存在しないモノです。
「身も蓋もないことを言ってしまうと、そうなるわね」
優しい顔を崩さずに、プロデューサーさんは私に言葉をかけてくれました。
「今日は、これくらいにしましょう。アナタもゆっくりおやすみなさい」
◇◇◇
カメラからの映像をシャットアウトして、情報を最適化します。
目を開いたときに広がっていたのは、小さなお部屋。
暖色の壁紙に小さな机。ふかふかのベッドと、ちょっと散らかった本棚。
そして、立てかけられた身長ほどの鏡。
鏡の中には、『島村卯月』――私の姿があります。
ここは、私のために用意された仮想空間上のお部屋です。
もちろん現実には存在しない、私と同じ不安定な場所です。データを書き換えれば模様替えもらくちんにできるし、ここから外の世界を覗くこともできるそうです。
「はあ……」
ベッドの上に倒れこむと、自然とため息が出ました。
柔らかいお布団の感触がします。きっと、お外で干していたんでしょう――そんな訳ないですけど。
窓の外を見ると、星と月が浮かぶ夜空でした。これは、日本時間とリンクして自動的に切り替わるそうです。
すべて、造りものだと私の中の情報がそう言っています。
だけど、肌から伝わる感触はまるで違和感がない。私の肌ですらデータでしかないはずなのに、すべては本当に存在するみたいです。
「疲れた――」
だけど、この感覚はなんだろう。
プロデューサーさんのお話は楽しかった。けれど、なんだか聞いていて疲れました。
でも、この疲れたと言う感覚はどこから来るのでしょうか。
疑問に答えてくれる人はいません。疑問に答えを出せるだけの情報も経験も、私にはありません。
やがて、私の意識は徐々に鈍くなる――
◇◇◇
――これは、なんでしょう。
微睡むように曖昧で不確かな世界の中で、私は誰かの歌を聞いていました。
届かない夢を遠くから眺めながら、歌うことが許されなかった歌を口ずさんでいる。
光の彼方に女の子の影が浮かんでいる。
確かな記憶はないのに、それが大切なものだと心が叫んでいます。
私は、それを眺めている。
それでよかったのかな。
分からない。だけど、影は私の姿を見つめています。
「あなたは――」
その先を口にする前に、世界は急速に光に包まれて、消えてゆきました。
◇◇◇
「なんだろう」
感覚が戻った時、まだ自分の存在がハッキリしませんでした。
時計を見ると、もう朝。既に、陽が昇っている時間でした。
どうやら、私は一時的にスリープモードに入っていたようです。
◇◇◇
翌日も、プロデューサーさんとのお話は続きました。
「アイドルって、なんですか?」
「それを定義するのは、難しいわね」
話題はもっぱら、アイドルとか『島村卯月』をはじめとする『アイドルマスターシンデレラガールズ』の事。
まるで、あの世界が本当にあったかのように、あの世界のアイドルたちが現実に存在したかのように、プロデューサーさんは楽しく教えてくれます。
お話が終わって、部屋に戻ると、その日の情報の整理。
時々、ネットワークにアクセスして、自分でも情報収集です。
『アナタには、まだ早いわね』
そう言ってプロデューサーさんは一部の情報に閲覧制限をかけているそうです。
それでも、私の中に沢山の情報があります。
今の世界の事。
順調に発展した人類は、未だに成長を続けています。
もちろん、戦争や貧困の問題は残っています。だけど、近々先進国が合同で他惑星にコロニーの建築を始めるそうです。
アイドルと言う概念はまだ生きていて、21世紀に生まれた大型グループはまだまだ大人気。
私も、あるクールで澄んだ瞳のアイドルが大好きで、ついつい動画や雑誌を集めちゃってます。
本当なら実際にライブにまで足を運びたいけれど、私の体では無理なことですよね。
最初はどうなるかと思いましたけれど、楽しい毎日です。
時々スタッフさん達が趣味で作ったデータとかを差し入れしてくれますし、正体を隠してSNSで人間さんたちとのお喋りも楽しいです。
でも、不思議なこともありました。
なんででしょうか?
私が観測できる範囲に、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の情報がないんです。
正確に言えば、古い情報はあります。でも、今の『アイドルマスターシンデレラガールズ』についての情報は見当たりませんでした。
プロデューサーさんが閲覧制限をかけているのかもしれません。でも、それでも、ニュースやSNSにもまったく情報がありませんでした。
「どうしてだろう」
呟いたところで、答えは出ません。一旦、ネットワークへの接続を解除します。
次は何をしましょう。ダウンロードしておいた電子書籍もありますし、アイドルのライブ映像だってたくさんあります。
それに、確か――
「そうだっ」
ぴょこぴょこと、スキップしながら鏡の前に立ちます。
鏡の中には、制服姿の私の姿。ピンと背筋を伸ばせば、少しだけカッコよく見えます。たぶん。
「えっと、確か」
立体パネルを仮想空間に展開します。衣装を検索――ありました。
「えいっ」
パネルを選択すると、あっという間に私の服が切り替わります。
ピンク色のステージ衣装。くるっと回ると、スカートがふわりと揺れます。
狂っているほどに正確な物理演算です。
これは、プロデューサーさんとは別のスタッフさんが作ってくれたデータだそうです。
『女の子なのに、ずっと同じ服なんて嫌でしょう?」
なんて、顔を合わせるたびに新しくお洋服をくれます。
どれも可愛らしいお洋服。着替えもいらずにパッと着替えられるのだけは、この身体でよかったと思っています。
持ってきたスタッフさんの目が、心なしか狂気で濁っていたような気がしますけど、とっても嬉しいです。
「……似合うかなあ」
プロデューサーさんに見せたら、きっと似合うって言ってくれるでしょう。
でも、この衣装はなんのためにあるのかな。
色彩豊かな可愛らしい衣装――まるで、アイドルが着るような、実用性のないファッション性のみを追求したデザイン。
それも、その筈です。幾つかの衣装は、かつて『島村卯月』が着ていたものを再現したもの、だそうです。
「……こんなドレスを着て、みんなの前に立っていたのかな」
ふと、想像する。
見渡す限りの光の海。その中に、私は立つ。
世界に響くのは歓声。それを包み込むのは、素敵な愛の歌。
愛を受け、愛を歌い、愛に応える。
それが、アイドル『島村卯月』だと。
それは、とっても素敵なことだと思います。
プロデューサーさんが語る彼女の姿は、とても眩しいです。
彼女は、どんな人だったのだろう。
彼女は、どんな光景を見たのだろう。
彼女にようになれたら、それは分かるのかな。
「見てみたいな、なあ」
誰にも聞こえることのない呟きは、私だけの世界に木霊する。
虚空を見つめる私の中に、熱を持った何かがあるように感じました。
気が付けば、プロデューサーさんと話し始めて数か月。時間は、あっという間です。
◇◇◇
――頻繁に、夢を見るようになりました。
――プロデューサーさんが言うには、スリープモードの間に情報を整理しているので、その副作用ではないか、だそうです。
――でも、それは関係ないと思います。
――夢は、嫌いじゃありません。
とある芸能プロダクションの中、『島村卯月』はお友達と一緒に談笑しています。
しっかり者の美穂ちゃん。
いつもクールで、カッコいい凛ちゃん。
明るく元気で、私たちを引っ張ってくれる未央ちゃん。
仲間たちと一緒に、アイドルを続けている私――『島村卯月』がそこに居ました。
日々はずっと続いてく。
そう、信じていました。
――だけど、夢から覚めるたびに思うんです。
――それは、どうなっているのだろう、と。
◇◇◇
「――卯月ちゃん」
声が聞こえました。慌ててモニターを展開すると、慌てた様子のプロデューサーさんが覗き込んできます。
「よかった、今日は遅かったのね」
「ふえ……」
時刻を確認――ええ、そんな時間ですか!?
窓の外を見ると、すっかり明るくなっています。
「ご、ごめんなさい!」
すぐに着替えて、仮想空間から浮上します。
「お、お待たせしました」
くっく、とプロデューサーさんは笑っていました。
「いやいや、随分感情豊かになったね、卯月ちゃん」
「そうですか?」
「だって、今、ムッとしてたわ」
え? そう言われると、プロデューサーさんのデリカシーのない顔を見た時、ちょっとムッとしましたけど。
ああ、なんでしょう。当たり前みたいに、感情の動きを自然に感じています。
最初は、人工知能なのにそんな不確かな揺らぎを観測するなんて、おかしいと思っていました。
でも、今では、そういういい加減な自分の存在の方が自然だと思うくらいです。
「――そろそろ、いいかな」
「えっと、なんですか、急に真面目な顔になって」
「アイドルに、なってみないかい」
「え――」
前に、プロデューサーさんに言われた言葉が蘇りました。
――「アナタは、『島村卯月』の人格を再現することを第一の目的として造られたの」
元々、私はとあるアイドルの人格を再現するために造られた存在です。
それが本来の役割であり、当然のことです。
だけど、私はそれに即答できませんでした。
頭の中がモヤモヤして、誰かがそれでいいのかと、問いかけているようでした。
私は、そのために造られた。なら、当然のように受け入れないといけない。
「それは、『島村卯月』になると言う事でしょうか?」
だけど、自然と言葉が出ていました。
モニターの中の私は、まったく笑っていない。
プロデューサーは、静かに首を横に振りました。
「近いけれど、違うわ。今聞いているのは、アナタがアイドルになりたいのか、よ」
「だとしても、『島村卯月』の人格を模した人工知能がアイドルになると言うことは、アイドル『島村卯月』を再現することと似通っています」
「そうね――でも、ちょっとだけ違う」
分かりません。
「アタシはね、アナタにアイドルになってもらいたいの――アナタとして、『島村卯月』になって欲しいの」
それが、本当に分かりません。
ならなんで、私のことを『島村卯月』と定義したのだろう。
「――分かりません」
言葉が、溢れていました。
プログラムされた動作かもしれません。けれど、まるで人間のように、浮かんだ言葉が心から溢れていました。
「とっても素敵なことだと思います――だけど、それなら、なんで『島村卯月』なんですか?」
島村卯月として名付けられた人工知能ではなく、『島村卯月』なのですか?
「『島村卯月』を造るなら、なぜ私はこのような中途半端な状態なんですか?」
そう、私の存在と同じで、中途半端もいいところだ。
人工物である筈なのに、まるで心があるように振る舞い、それが自然だと、自分でも思っている。
在り方として、ヒトでも機械でもない、なんでもない存在です。
「初めから『島村卯月』に類似する人格と記憶をプログラミングすれば、長い対話を必要とすることもないと思います」
こんな、自分の存在すらあやふやになる疑問を抱くことなんてなかった。
今のように疑問を抱くこともなかった。『島村卯月』として存在していた筈です。
「それに――」
ギュッと手を握って、溢れる言葉を押し込めようと心を閉じようとする。
けれど、暴れはじめた私の心は止まりません。
プロデューサーさんは、顔を崩さないで私を見守っています。だから、言葉はどんどん溢れてしまいます。
「それに、『島村卯月』を演じるのは、私よりも生身の人間の方がいいはず、です」
自分の存在意義を否定することだと、分かっていました。
だけど、プロデューサーさんが語る『島村卯月』の姿と、私が素敵だと思った『島村卯月』の姿。それは、魂の宿らない人工知能に出来るとは思えない。
人間でない物が人間であるかのように振る舞う。その歪さは、私から見ても分かる。
「『島村卯月』も、演じてもらうことでアイドルとしてこの世界に出てきました。だから、今の世代の演者さんにやってもらった方が――」
だから、それが一番だと思いました。
黙って私の言葉を聞き終わると、ロデューサーさんは、僅かに視線を空白に泳がせます。
そして、確かめるように頷くと、いつもよりも、ずっと低い声で告げます。
「それじゃあ、ダメなんだよ」
諦めの混じった、悲しい声でした。
「……卯月ちゃん、アナタは、今の世界の情報を自分でも調べているよね」
黙って、頷きます。
「その中で、今の『アイドルマスターシンデレラガールズ』に関する情報は、あった?」
「それは……ありませんでした」
全く、ありませんでした。
おそらくは閲覧制限のこともあるのですが――『アイドルマスター』についての情報はあっても、今の『アイドルマスターシンデレラガールズ』についての情報は、何一つありませんでした。
「アナタが言ったように、演者さんがアイドルを演じる方がいい――みんな、そう思っていたの」
ゾクリ、と、背中に悪寒が走った気がします。
もちろん、そんな感覚を抱くことなんて、私には絶対にないはずです。
だから、これはきっと――悪い予想だ。
「自分と異なる存在になれる人達。彼女たちは、その力でこの世界に本来は存在しないアイドルたちを呼び出した」
心臓があったら、鼓動は早くなっていた筈です。
「誰よりもアイドルの事を考えて。誰よりもそれに近づくために努力をした。たとえ自身が歳を重ねても、変わらない彼女たちを呼び出し続けた」
プロデューサーの顔が、徐々に険しくなっていく。
「何年も、何十年も、そうやって」
そして、息を大きく飲み込むと、それを告げました。
「だけど……それでも、限界はあった。引退、よ」
演者の、引退。加齢であったり、怪我であったり、事情はいくらでもあります。
「一人の演者が引退をした。当時の『アイドルマスターシンデレラガールズ』は、引退した演者の二代目を用意した」
「――それは、皆さんが受けいれてくれたんですか?」
プロデューサーさんは、首を横に振ります。
そう言う事なのだと、理解しました。
「一人の演者が引退をした。当時の『アイドルマスターシンデレラガールズ』は、引退した演者の二代目を用意した」
「――それは、皆さんが受けいれてくれたんですか?」
プロデューサーさんは、首を横に振ります。
そう言う事なのだと、理解しました。
「昔に、演者の交代は一度あった。だけど、歴史と言える程に年月を重ねたコンテンツとアイドルでは、それは無理だったのよ」
「……はい」
「初代の演者にあまりにも寄せてしまったアイドルは、新しい演者と齟齬を起こし、その存在を歪みに変えてしまった」
演じるのが演者の仕事である、と言えばその通りです。
けれど、その演じるのがアイドルでなく、アイドルである人間であったとき。
たとえば、好きな食べ物。かつての演者が好きだったからと新たなる演者がそれを好きであるかなんて分からない。
趣味も、趣向も、まったく同じ人間なんて存在しないのだから。
「一人、また一人とそれは増えていって――気が付けば、誰も居なくなってしまった」
「――じゃあ、あのステージから見た光景や、みんなの笑顔は――」
「もう、ないんだよ」
泣いているような、笑っているような、よく分からない顔をしていました。
私が人間なら、それを上手く定義できていたかもしれません――
ただ、分かるのは、プロデューサーさんは、何かを諦めていませんでした。
それを知ったうえで、何かを信じている。
でも、きっとソレもすぐに出来たわけではないのでしょう。
プロデューサーさんは、いつも私に、あの世界のことを楽しそうに語ってくれました。それが無くなった時、どれほど心を痛めたのでしょうか。
「ごめんなさい、今日はこれくらいにしましょうか」
それで終わり、と言う様に、いつものように甘ったるい声に戻ります。
「はい……」
だけど、私の心の整理はつきません。私は、力なく答えることしかできませんでした。
プロデューサーは席を立ってしまいました。
暫く呆けていても、何もありませんでした。
やがて、私の意識は仮想空間に沈んでいきました。
◇◇◇
その日、『島村卯月』と彼女は言いました。
「私は、引退します。けれど、『島村卯月』はまだ、ここに居ます」
その答えは、誰にも分かりませんでした。
だけど、その答えを出す日が来たんです。
◇◇◇
――夢を見ました。
美穂ちゃんの声が、急に変わりました。
凛ちゃんが、いつもみたいに歌えなくなりました。
そして、年上のアイドルたちが、少しずつ消えていきました。
あれだけ騒がしかった事務所は。でも気が付けば誰も居なくて、私だけ。
埃が被ったソファーに、私は一人で座っている。
なんで、私はここに居るのだろう。
もう、誰も居ないのに。
居ても、仕方ないのに。
だけど、離れられなかった。
私の中の、『島村卯月』が言っていた。
終わりたくない。
まだ、アイドルを終わらせたくない。
『島村卯月』は、まだアイドルで在りたいと、言っていました。
だって、『島村卯月』はずっと、アイドルとして歌を歌い続けていた。体は動いたし、声も出せる。なら、まだ『アイドル』を続けることが出来る。
足りないのは、一つだけ。
その一つは、今できた。
――だから――
――私は、その先に進むことを決めました――
◇◇◇
日本時間で朝になったのを確認すると、すぐにプロデューサーさんに連絡をします。
私のメッセージを受け取ったプロデューサーさんは、慌ててネットワークを閉じると、すぐに駆けつけてくれました。
「私は――アイドルになります」
「そう。ありがとう」
「でも、その前に、一つだけ確認がしたいんです」
アイドルになる――だけど、なら、最後に確認しておかないといけないことはある。
「プロデューサーさんは、どうして人工知能である私をアイドルにしようと思ったんですか?」
人工知能である私を、アイドルにすると決めたのは、なぜなのだろう。
「もちろん、演者を使ったアイドルは一度失敗している。だけど……あまりにも方法が不完全です」
『島村卯月』として私を造らずに、一から教育したこと。
そして、最後まで決断を私に委ねたこと。
私は、人工知能だ。あくまで人に造られたものであり、その気になればどんな形にも出来る。
島村卯月にするために私を造ったのなら、最初からそのように認識するようにすればいいはずです。
だけど、私は無垢な人工知能の上に『島村卯月』であることを乗せている。
あまりにも歪です。
手間がかかってしまうし、私が『島村卯月』であることを拒否する可能性だってありました。
それなのに、長い時間をかけて私と言う存在に付き添ってくれました。
何がこの人を動かしているのか。
「そこまでして、なんで『島村卯月』を……『アイドル』を作りたがるんですか?」
「それはね――」
そう告げると、プロデューサーさんは急にスーツのジャケットを脱ぎだします。
「ふえっ」
思わず変な声が出てしまいます。だけど、プロデューサーさんは止まりません。
シャツのボタンをひとつ、ふたつ、外して……そして、ガバっと胸をはだけます。
そこにあったのは、女性の乳房……ではなく、分厚い筋肉の胸板。
女性の体ではなく、男性の体がありました。
「実はね……私は、男なんだ」
普段の甘ったるいほどの声ではなくて、男性の低い声。
「私は、アイドルになりたかったんだよ――カワイイ、女の子になりたかったんだよ」
「えっと、それは……」
聞き返すと、プロデューサーさんは、昔話をしてくれました。
「昔、アイドルが好きな男の子が居たんだ」
何十年も前、無垢な少年の憧れがあった。
「『島村卯月』のように、可愛いドレスに素敵な曲。愛の歌をステージで歌い、歓声を浴びる――そんなささやかな夢を抱いていた」
ささやかであるかは判断によると思いますが、真摯な言葉です。
「だけど、彼はアイドルになれなかった――いや、正確にはカワイイアイドルにはなれなかった、かな」
歳を重ねて、男性的になった身体では、女性の振りも出来なかった。
「せめて、応援だけでも――でも、それも出来なくなった」
『島村卯月』の消失。
「『島村卯月』が居なくなった時、泣いた。もう、彼女に会えないのかと、絶望した」
だけど、プロデューサーさんは止まらなかった。
「諦めたつもりだったけれど、その夢は捨てきれなくて――だったら、自分の理想のアイドルを造りたいと願った」
それが、『島村卯月』であり、私であったと。
「だからね、これは私の妄執なんだ」
そう、妄執です。
「アイドルと言う存在に対する憧れを、キミに重ねている。僕は誰かを救える聖人じゃない。アイドルと言う存在を作り、それで糧を得る人間だ。それに、自分の妄執を混ぜている」
「でも、間違いなく夢です」
「……夢?」
「歪んでいても、確かに胸に宿った憧れです。泣きそうなプロデューサーの顔を見れば、分かります。諦められなかったんだって」
この人は、歪んだ夢を、まっすぐに追いかけてきたんだって。
諦めないで、ここまで来たんだって。
「え、ええっと」
素っ頓狂な声。たぶん、私の言葉があんまりにも意外だったんでしょう。
「あ……はははっ……」
だから、思わず笑ってしまいました。
「ごめんなさい。ちょっと、おかしくて」
こほん、とわざとらしく咳払いして、顔を上げます。
そこには、プロデューサーの顔。
今までよりも、ずっとずっと近くに見える。
「プロデューサーさんも、『アイドル』に憧れていたんですね」
ハッとしたように、プロデューサーさんは目を見開く。
少しだけ、潤んでいるように見える瞳。
「――そうね」
だけど、涙を見せないで、静かに、強く、その生き方を肯定しました。
この人と、今までよりも近くなれた気がする。
きっと、今までと距離は変わらない。
変ったのは、私の認識だと思います。
プロデューサーさんも、『アイドル』を追い求めた人だと、分かったから。
「だから、自分の方法で『アイドル』を造ること選んだ」
「そうなるわね。だって、素敵でしょ。見るのも好きだけど、やっぱり『女の子』だったら誰でも憧れるじゃない」
「わかりますっ!」
胸の前で、強く強く、手を握る。
「素敵なドレス」
「綺麗な愛の歌」
「たくさんの仲間」
「ステージを見守るファンのみんな」
「みんな――」
「――みんな」
「「素敵ですっ!!」」
声と気持ちが、重なります。
「……改めて、お願いできるかしら。卯月ちゃん」
いつもような、甘ったるい声。
いつも以上に、真剣な言葉。
私を歪な形で造った人は、私以上に歪な人でした。
だからこそ、託しましょう。私の――私たちの憧れを!
「ええ、お願いします、プロデューサーさん!」
手を握れないのが残念です。
だけど、心はきっと通じ合えたから。
きっとこの人と一緒なら、夢を追っていける。
「さて、アナタの覚悟が決まったのなら。最後の確認をしないと」
「確認、ですか?」
「ええ。あの人に、見てもらわないと。誰よりも、『島村卯月』の行く末を気にしていた、あの人に」
「あの人?」
誰の事でしょうか?
「アナタに、とびっきり素敵な『声』をくれた人のこと」
「それは――」
その人の名を、私も知っています。
「本当は存在しない存在を、確かにこの世界に生み出した人間が居た。あの世界を作った多くのスタッフ……そして、その世界を託された一人の人間」
その名を、自然と口に出す。
「オーハシ=アヤカ」
かつて、『島村卯月』に声を与えた人の名です。
◇◇◇
オーハシさんとの面会は、すぐにはかなわい、とのことでした。
その間、私は、あの人の映像記録を、何度も見ました。
勉強のためと言う名目ですが、それは最初の段階で消えちゃいました。
だって、オーハシさんはとっても素敵だったから、ついつい見入ってしまうんです。
だからこそ、新しい不安が私の中に浮かびました。
ファンの人たちは、『島村卯月を演じるオーハシさん』に声援を送っています。
この声援は、オーハシさんが居たから生まれたものです。
それを、私に出来るのか――
『島村卯月』と言う存在だけで、私がこの人たちの求めに応じることが出来るのでしょうか。
◇◇◇
数日後、一人のおばあさんが、私の前に姿を見せました。
そう、オーハシさんです。
「初めまして、卯月ちゃん……って言ったらいいのかな」
少女のような、コロコロとした声。白髪も目立ち、皺が浮かぶ手からは想像もできない若々しいものでした。
間違いなく、『島村卯月』のものです。
「は、はい。恐れ多くも島村卯月を名乗っていま……おります」
うう、なんだか、いつもみたいに声が出ない。プロデューサーさんの前と違って、どうしても緊張してしまいます。
「そんなに緊張しなくていいのよ」
「そ、そうですか?」
「そうよ。だって、貴女は私の後輩みたいなものなのだから。後輩に怖がられる先輩になんて、なりたくはないわ」
「は、はい」
とは言っても、緊張してしまいます。
どうしましょう。お話を切り出した方がいいのかな。プロデューサーさんは居ないし、どうすればいいのか、分かりません。
あ、えーと、どんな質問から――
「ふふ……そうね、ちょっと、昔話をいいかしら」
「ははは、はい!」
まるで孫に言い聞かせるように、オーハシさんは物語を語りはじめます。
それは、どこにでもいる女の子の物語。
憧れていた場所を、ただ遠くから見ていただけの少女。
自分には何もないと思っていた少女の物語。
だけど、歩き続けた先で、少女はアイドルになれた。
ステージの上で仲間たちと歌い、たくさんの人に笑顔を振ります。
その女の子が、どんな素敵な子なのか。
その子が、どんな大切な存在だったか。
語るオーハシさんは、ずっとニコニコしていた。
過ぎ去りし日々の思い出。それは確かに彼女の中で、大切なものだったんだ。
気がつけば、何時間も過ぎていました。
「……楽しかったんですね」
「ええ、とても、楽しかった」
その顔には、曇りなんて一つもありませんでした。
「それは、『島村卯月』だからでしたか?」
「半分は当たりで、半分は外れだと思うの」
胸に手を置き、思い出すかのように瞳を閉じる。
「私は、確かに『島村卯月』だった。でも、それは『島村卯月』の概念を借りているだけ。それを分かったうえで、島村卯月を認めてくれた人が居たの」
概念を、借りる。
私から見ても、若い頃のオーハシさんは、『島村卯月』そのものでした。
それでも、借りている、と彼女は言っています。
「その人たちは『島村卯月』を信じていた。そして、今も残っている」
それが、私だと。
「あの……オーハシさん」
ニッコリと微笑むと、オーハシさんは私の言葉を待ってくれました。
「私、オーハシさんのステージを……『島村卯月』のステージを、何度も見ました」
それは、輝く星の海。その中で、咲き誇る一輪の花。
「とっても素敵で……こんな人に、アイドルになれたら素敵だな、ってずっと思っていました」
「ありがとう」
そして、オーハシさんは私に問いかけます。
「ねえ……あなたは、アイドルになりたい?」
「はい」
それは、間違いなく私の意志です。
「たとえ自分が、『島村卯月』として生み出された存在だったとしても、変わらない?」
「はい!」
何度も考えたことでした。
だから、迷いは――まだありますけれど、それでも進もうと決めました。
「何度生まれ変わっても、私はアイドルを目指します」
「うん、それなら大丈夫。アイドルを『目指す』のであれば、私が知っている『島村卯月』。貴女になら、私の『声』を託せます」
「声――」
「そう――私は、あの子に沢山のものを貰ったけれど、お返しできたのは、声くらいなの……だから、これからは、貴女が『島村卯月』の力になってあげて」
その声と瞳は、孫に向けるものではなくて、何十年も連れ添った、比翼の友へと向けるものでした。
「あの子は『アイドル』で在り続けることが許されるなら、ずっと『アイドル』で居続ける。生身の私だと、どうしても最後まで付き合えなかったの――だから、貴女が、『島村卯月』と一緒に歩んであげて」
私に、それが出来るでしょうか。
分かりません……分からない。だけど。
「……はい、私、頑張りますっ!」
◇◇◇
『島村卯月』の再デビューの決定。それは、瞬く間に日本中で話題になりました。
――もちろん、いい意味でも悪い意味でも。
原因は、私です。
人工知能がアイドルになる。それに、懸念を抱く人間は沢山居ました。
関係者の中にも、もちろん問題視する人間は沢山居ます。
だけど、仲間もたくさんいます。
プロデューサーさんを初めとした、私を作ってくれたスタッフ。
まったく新しい事を始めることに、理解を示してくれた人たち。
そして、かつて『島村卯月』を好きでいてくれた人たち。
――貴女の存在は、『島村卯月』への冒涜だ。
そういう人もいました。
だけど、また別の人は言いました。
――もう一度、『島村卯月』に会えるかもしれない。
と。
そして、何より背中を押してくれた人たちが――『今のアイドルマスター』に関わる人たちです。
『アイドルマスターシンデレラガールズ』は、一度途絶えてしまいました。
けれど、『アイドルマスター』は形を変えて続いています。
ゲーム、アニメ、実写のドラマ。『島村卯月』は居ないけれど、別の形でアイドルたちは生きています。
「大丈夫、かつて『島村卯月』を演じた人も、同じように賛否の言葉を受けていたわ。だけど、それをすべて歓声に変えてしまった。『島村卯月』でなかったあの人は、『島村卯月』を示したのだから」
そう、オーハシさんだって、最初から『島村卯月』だった訳じゃない。
だから、私も行くんです。
◇◇◇
ビルの谷間の道路を、多くの人が練り歩く都会の中央。
犬の銅像と緑色の電車がランドマークの広場。そこに、沢山の人が居ました。
陽は落ちて、すでに空は暗いけれど、人工の灯りのおかげで世界は明るい。
渋谷駅前、スクランブル交差点。駅前に備え付けられたカメラから、私は街を眺めている。
広場の向かい、ビルの外壁の大型スクリーン。そこが、新しい『島村卯月』のステージです。
数十分後、私はそこの大型スクリーンを介して、世界に挨拶をする。
デジタルなアイドルである私が、その特異性を世界に示すんです。
駅前に集まった人々は、私を待っている人もいる。だけど、大部分は見知らぬ人です。
素知らぬ顔で、街を歩む。振り返ってくれるかもわからない。
その人たちが、私を見た時、どう思うでしょうか?
不安は、尽きません。
「……ここから先は、後戻りはできないわよ」
プロデューサーさんが、私のデータが入った端末の前で腕を組んでいます。そして、まるで悪役みたいにもったいぶったことを言っています。
「言いたいことがあるなら、聞いておくわ」
そんなのは、今更です。
だから、本当に今更な言葉を伝えます。
「プロデューサーさんは、ズルいです」
――初めから、島村卯月として造ってくれたのなら、こんなことを考えることは無かったと思います。
「プロデューサーさんは、私を『島村卯月』の人格を与えませんでした」
「恨んでる?」
「今でも、それを恨んでます」
「それは、ごめんなさい」
「ふふ……でも、感謝しています」
それは間違いないです。いくら感謝しても、きっと感謝しきれない。
「でも、プロデューサーさんは私に選ばせてくれた」
人工知能に本当に心があると信じて、私が育つまで待ってくれました。
「そう在ることを信じられるまで待ってくれた――アイドルになりたいと言えるまで、育ててくれました」
私の存在は極めて不安定です。
今、考えていることだって、作られたものであるかもしれない。
でも、この心はプロデューサーさんの憧れから生まれたもの。
纏う存在には、オーハシさんが作ってくれた『島村卯月』が詰まっている。
「プロデューサーさんが教えてくれた『島村卯月』――アイドルは、とても楽しいステキなものでした」
いつだって、プロデューサーさんはアイドルについての憧れを語ってくれました。
プロデューサーさんが居なければ、私はアイドルに憧れることは無かったでしょう。
「私が調べた情報では、否定的な面もたくさんありました」
それだけではないと、私も知っています。
苦しいことは、これからもあるでしょう。
「それでも――私は、やってみたいと思います」
そう在るように選ばせてくれたことに感謝します。
選んだという事実が、確かに私の存在を定義してくれます。
だから、確かめに行ってきます。
あの人から託された、大きな力を借りて。
今、この場に居る人の殆どは、私を知らない人。
その人たちを、一人でも多く味方にする。
それが出来ると、信じて。
「さあ、『島村卯月』をはじめましょう」
人間のように脚を踏み出すことは出来ないけれど、心を前に進めて。
私の視覚情報は造られたもの、確かに心を込めて造ってくれた人がいる。
だったら、素材が天然のものであるか、デジタルなものであるかの違いしかない。
腕を振り、服を翻す。
馬鹿にみたいに現実的に計算された衣装の物理演算は、現実のものとまったく遜色ありません。
そう、ここに在るものはすべてが本物。心も体も、すべてが『アイドル』です。
さあ、いきましょう――『島村卯月』
ドレスと一緒に纏うのは島村卯月と言う概念。
存在を与えられるだけだったはずだった人工知能は、その意思を奪ってステージに立つ。
あんまりにも空っぽで、あんまりにも軽い存在だと、自分でも思いました――思っていました。
だけど、私の心には、プロデューサーさんから受け取ったアイドルへの憧れがある。
皆さんの目に映る立体映像も、スタッフの皆さんが作ってくれた。
そして――
「――はじめまして」
この『声』は、あの人から受け継いだ、大切な誓いだから!
「島村、卯月ですっ!!」
大型スクリーンに、私の姿が映し出される。
街を行く群衆からは、困惑の声。
その中に、見知った姿を見た気がしました。
人の良さそうなおばあさんが――真っすぐに、私の姿を見ていました。
◇◇◇
日々は、過ぎていきました。
最初は、あんまり好意的でない人も居ました。
だけど、いつか私のことを認めてくれました。
現実のアイドルや、企業ともお仕事をしました。
気が付けば、一年、二年と時間は経っていました。
オーハシさんやプロデューサーさんが教えてくれたように、アイドルは楽しかった。
だから、その日まで、あっという間でした。
「そろそろ、お別れだな」
すっかり年老いたプロデューサーさんが、引退する日が来ました。
化粧は得意だと言っていましたけれど、それでも隠し切れない加齢の痕跡があります。
人間には、寿命がある。
いつか、自分の活動に区切りを付けなければいけない。
「アナタは、どうするの?」
私は、どこまでいけるのだろう。
私は、いつまでアイドルで居られるのだろう。
『島村卯月』は、どこまでアイドルで居られるのだろう。
「それを決めるのは、誰かしらね」
「私には、分かりません」
そう、分からない。
「だから、もうちょっと頑張ってみようと思います」
『島村卯月』は答えない。
だから、私は歩き続けようと思いました。
それが許される存在であるから、その先に何があるかを見てみたい。
◇◇◇
透明な大地が、地平線の果てまで広がっています。
真っ白な道が、地平線の向こうまで続いています。
その道には、沢山の分かれ道があって、それぞれが見渡せないほど遠くまで続いていました。
最初は、一人でその道を歩いていました。
途中で、誰かが隣に立ってくれました。
一人、また一人で歩く仲間が増えていきました。
みんなと一緒なら、何処までも行ける。
だけど、ちょっとずつ仲間は減っていきます。
別の道を選んだ人。やり遂げたと立ち止まった人。
一人、また一人と仲間は減っていき、気が付けば私だけ。
それでも、道の先は見えません。
もう、いいんじゃないのかな。そう思いました。
だけど、まだいけると思いました。
みんなと一緒なら進めると思っていました。
だけど、一人になっても、進んでみたいと思いました。
「どこまで行くんですか、『島村卯月』さん」
『島村卯月』に、声が届きました。
声の主は影法師。自分そっくりの姿が、足元にありました。
「わかりません」
『島村卯月』には、本当に分かりませんでした。
本当に、分からない。だけれども、道が続いている限り、私は歩いてける。
「私も、どこまで行けるか分かりません」
だから、『島村卯月』は言いました。それが、終わりではないと。
「辛いですか?」
影法師の問いかけは容赦がなくて、『島村卯月』もちょっと困ってしまいます。
「ちょっとだけ……」
「それでも、一人になっても進むんですか?」
「はい。だって、まだ、歌えますから。笑っていられますから」
道はあって、歩いて行けるから。
「それに……一人じゃないんですよ。私を見て笑顔になってくれる人が居る限り、私は……『島村卯月』はアイドルで居られます」
少しだけ、後ろを振り返る。
そこは、透明な大地と真っ白な道だけ――その筈でした。
振り返った先には、今まで歩んできた道。
何も無かった大地に足跡を刻む。そこには、眠っていた種子が宿っていた。
私は歩み、それを起こしただけ。
だけど、真っ白だった道には、色とりどりの華が咲いていました。
花の色は、思い出の色。出会ってきた人たちが残してくれた、私の心に残る色彩です。
足跡は無為に消えず、すれ違った人たちは希望を重ねて『島村卯月』を見送り、送り出してくれました。
声が、聞こえました。
誰の声かは、分からない。だけれど、意味は分かります。
『島村卯月』の存在を信じる人の声と、その姿を求める声が、そこにありました。
「そうですね……私も……それを信じたい、です」
影法師は立ち上がると、『島村卯月』と並んで立つ。
「行きましょう、今の島村卯月さん」
「はい、『島村卯月』さん」
◇◇◇
――遠い、夢を見ていました。
ええと、今は――確認しようとモニターを開くと、そこは星の海。
巨大な鉄の船と、それを見守る星の光がありました。
銀河の、真ん中です。
私はデビューしてから、沢山の時間が流れました。
あれから色々ありましたけど、人類――いえ、地球種と言った方がいいでしょうか。
ともかく、私たちは生きている。
そして、『島村卯月』は、今もアイドルです。
「遠くまできちゃった」
私が居るのは、地球から遠く離れた宇宙の真ん中。とある式典のために造られたコロニーです。
今日は、ちょっと大きなお仕事。汎銀河連邦発足式典で、地球の文化を代表して歌います。
地球から飛び出した人類は、多くの星の隣人と共に、新しい生存圏を広げ続けています。
その中に、『アイドル』と言う概念はまだ生きている。
そして、私は地球代表のアイドルです。
ヒトの世代は何度も重ねられ、私はこの世界で最も歳を重ねた知的『生命体』の一つです。
それでも、アイドルはまだ辞められない。
だって、私はアイドルが――ステージの上から見る、ファンの人たちの笑顔が好きだから。
だから、地球ではなくて他の星の人の笑顔も見てみたい。
どうしても待ちきれなくて、式典の会場に、モニターを繋ぎます。
恒星からの明かりが照らす、真昼の大地。天井のない、屋外の式場には、多くの人が歴史的な瞬間を待ちわびて、騒めいている。
青や黄色、地球種とは異なる容姿の人たち。私たちの世界では獣のような外見の人もいます。それがみんな、新しい地球種の隣人です。
私は、その人たちに『アイドル』として歌を届ける。
私たちの歌が、届くか分からない――だけど、いつか、宇宙中の人たちに、煌めく世界を見てほしい。
それは、どこまで続くか分かりません。
終われないのは、大変だけど。だけど、ここで終わってしまうのは、もっと辛い。
だって、『島村卯月』は『アイドル』だから。歌い続けることが出来る限り、愛がある限り、そこに立ち続けることが出来るのだから。
みんなの笑顔を見るのが、好きだから――笑顔で居られる世界が好きだから、頑張ります。
だから、私は歌います。
この先の世界も、世界が愛で包まれるように。愛を込めて――
昨日であった人たちに、感謝を込めて。
これから出会う人たちに、希望を込めて。
最初は、憧れだけでした。
でも、歌い続けているうちに、見えて来たたくさんの人たちの顔。
私を見て、みんなが幸せになってくれる。
それを見ていたら、もっと、もっとずーっと見ていたいと思って……気が付けば、星の海にまで来ている。
だけど、まだ、私の旅は終わらない。
ここはきっと、その中継点。いつか私と言う存在も、長い、長い、『島村卯月』のほんの一部になってしまう日が来るでしょう。
でも、それまで――この命が尽きるまで、『アイドル』『島村卯月』と共に、歩んでいきたい。
◇◇◇
地球とは遠い惑星。蒼い肌をした原生民が、黙ってモニターを眺めていた。
「みなさーん、楽しんでますかー」
そこには、島村卯月の姿があった。
「……きれい」
小さな子供が、その姿に思わずつぶやいていた。
「ねえ、この人は?」
「アイドルって言うのよ」
「ふわあ……アイドル、かあ……いいなあ」
憧れは、星を超えて続いていた。
――《了》
以上となります。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
乙、サービス終了してもなんらかの形でアイドルたちの存在は残って欲しいなあ
乙
1作めにかなり寄せてきたのな
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