記憶をつくる物語 (77)

気が付くと、目の前は石灰でまみれていた。

床から天井に至るまで白化粧がほどこされ、本来の色を失っている。

物体同士は互いを区別するための境界を失い同化する。

僕の身体もそうだった。

フード付きの保護服にゴーグル、マスク、そしてポリエチレンの手袋を装備していたのだが、全てこの部屋にいるうちに白く染まった。

僕もまた、この部屋の一部になったのだ。

でも、ゴーグルの奥の僕は、僕のままだった。

燃えるように熱い液体を延々と湛えていた。

その液体はいずれ器からこぼれて、僕に色を与えるだろう。

僕はこの石灰の世界から、分離し孤独になる。

それは残酷なことのように思えた。

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ガチャと、どこかで扉が開く音がした。

ぎぃ、ぎぃと床が軋み、音が近づいてくる。

そして、この部屋に異物が侵入してきた。

異物は僕と同じ格好をしていたが、それから放たれる生気が僕を圧倒し、この世界から神秘性を奪う。

それがひどく、鬱陶しかった。

「お兄ちゃん、もう出ようよ。この部屋にいたら、体に悪いよ」

お兄ちゃん、ああそうだ。僕はこいつの兄だった。

「いいんだ。放っておいてくれ」

「よくない。先週からずっと同じこと言ってるじゃん」

五月蠅い異物だと思う。本当に僕の妹なのだろうかと、疑いたくなる。

「どこにいようが僕の勝手だ」

「勝手が許されるのは子どもの間だよ。もう私達は大人なんだから、自由はないんだよ。知らなかったの?」

「僕は大人になった覚えはないよ、まだ学生だ」

異物は床を覆っていた石灰を蹴散らしながら、僕に近づいてくる。

「そうかもね。だからお兄ちゃんを大人にするためにわたしは来たんだ」

「余計な御世話だ。お前なんかピーターパンに殺されてしまえ」

「確かにピーターパンから見れば、私は子供を誑かせる悪役かもしれない。

でも、わたしが殺されたって夢の世界に住むことは、できないんだよ」

異物が僕の隣にちょこんと座ると、その姿は意外と小さく感じられた。

「だって、こどもだった私たちを守ってくれたパパは、もういないんだから」

その呪文は、僕の思考をかき乱すことに成功した。

いない、いない。なんでだよ。

いなければ、おかしいじゃないか。

この家で僕、妹、父さんの三人でずっと暮してきたんだから。

「いないってどういうことだよ」

異物はしばらく黙りこんだ。その代り、僕の手を痛いくらいにつねった。

「いたいじゃないか」

「目は覚めた?」

「なんのことだ」

異物は両手をひらひらと振って呆れたような仕草をした

「あのね、お兄ちゃんは現実逃避してるの?それとも私を傷つけて楽しんでるのかどっち?」

「どっちでもないよ、純粋に分からないんだ」

「ふぅんそうなんだ、可哀そうだね」

だけど、言葉とは裏腹に異物はどこか喜んでいるようだった。

「じゃあさ、これから二人でパパを探しにいくのはどうかな」

「待て、さっきまではお父さんについて何か知っている風だったじゃないか」

「え、なんのこと?」

「そうやってしらばっくれるということはなにか言いたくない理由でもあるのか」

「うん、だから今は乗っかってよ」

「おい、いくらなんでもそれは」

「……お兄ちゃんはわたしを許してくれないの?」

「それは時と場合による」

「そこは全部ゆるしてほしいな。それでもお兄ちゃんなのかなこの人は」

「おまえの兄に対する理想像はどうなっているんだ。あとさっきから言質をとろうとするな」

「ちぇっ、気付いてたか。ならこの件は後回しにして、ひとまずこんな部屋からはおさらばしよ。ほらっさっさと歩く」

異物に手を引っ張られるようにして、僕は石灰の世界から引きはがされた。

いつの間にかゴーグルの奥の僕は泣くのを止めていた。

滑稽なことに、泣いていた理由を忘れてしまったのだ。

良い雰囲気だ

いいね
ヘンゼルとグレーテルとか、チルチルとミチルとかで
暗い感じ

まず部屋から出た僕を出迎えたのは色の洪水だった。

フローリングの茶色と窓から射し込む夕焼けの赤みがかかった黄土色が混ぜ合わさって

僕の中に流れ込んでくる。

一瞬で脳の許容容量を超えた僕は力なくその場に崩れ落ちた。

「うわっ、どうしたの」

さっと視界が暗くなった。異物、いや妹の遊子(ゆず)が前にいるのだろう。

「いや、ごめん。目が眩んだんだ」

「あっ、ほんとうだ。久しぶりにきれいな夕陽だね。」

遊子は感心したように声を上ずらせた。

「ねぇ見てよ、お兄ちゃん。もうこんな景色一生見られないかもよ」

遊子は僕の肩に手を乗せた。

しかし、今の僕にはあの光景は刺激が強すぎる。

「悪いけど、カーテンを閉めてくれないか」

「うーん、このまま落ち着くまで休んでくれても、わたしはいいんだよ?」

遊子は言外に要請を拒否する旨を僕に伝えた。

そして、僕の手に何か柔らかくて、暖かいものが触れた。

「お兄ちゃんが見えないなら、代わりにそれをわたしが見るよ。だめかな?」

否定する理由はなかった。その夕陽が素晴らしいなら、なおさらだ。

「いいよ。後でその夕陽、教えてくれよ」

「うん、美化200%で教えてあげる」

「ありのままでいいから」

「嘘の方が、綺麗だよね」

その達観した言葉は、僕の背中をぞくりとさせた。

とても、妹の言葉だとは思えなかった。

うむ

けっきょく、僕は遊子から夕陽のことを聞くことはなかった。

というのは、僕の目が思った以上に早く回復したからだ。

そして、遊子が絶賛した夕陽は、思ったほど綺麗ではなかった。

肝心の夕陽の前に白くて薄い霧がかかり、輪郭すら曖昧なものになっていたのだ。

遊子は、どうして綺麗だと思ったのだろう。

小さな疑問は螺旋を巻きながら、僕のぽんこつ記憶装置に吸い込まれて、二度と出てこなかった。



陽が半分沈んだところで満足したらしい遊子は、廊下の突き当たりにある扉を開き、僕を居間へと誘った。

そこにはテーブルと2脚の椅子があった。

逆にいえば、それ以外はなかった。

遊子曰く、邪魔なものはすべて処分したのだという。

僕は文句を言おうとしたのだが、何がそこにあったのか思い出せなかったので、

ただマスクをもごもごと動かした。

遊子はその様子を見て、お兄ちゃんは忘れっぽいんだねと、にやりと笑った。

僕も、乾いた笑い声をあげた。

この家が遊子の手中にあることを、僕は悟ったのだ。

遊子は僕を椅子に座らせてから、隣り合うように座った。

そして、僕を下から覗き込んだ。

遊子のゴーグルは黒色で、その奥までは見えない。

「お父さんのこと、知りたい?」

「ああ、僕はその為にあの空間から出てきたんだ。今更、内緒にするのはなしだ」

「なら、条件があるんだけど」

「条件?」

遊子はいそいそと手袋を脱ぐと保護服に手を突っ込み、やがて遊子の掌に収まるサイズの銀色のケースがあらわれた。

ケースの中には数十の白い錠剤が詰められていた。

そのうちの一つを取り出し、僕に見せた。

長楕円形の何の変哲もない、錠剤。

だけど、僕の記憶がざわつくのを感じた。

なにかは思い出せないけれど、それから嫌な気配がした。

「これを飲んでくれるなら、話してもいいよ」

「なんだよ、これ」

「お兄ちゃんを助けてくれるお薬だよ」

「病気にかかった覚えはないんだけど」

「ううん、お兄ちゃんは気付いてないだけ。お兄ちゃんの病気は確実に進行してる。遊子を信じてよ」

遊子は僕にそれを近づけていく。

反対に、僕は椅子ごと遠ざかった。

木と木が擦れ合う、悲鳴がした。

怪しいなあ

「やめろ、僕にそんなものは必要ない」

遊子の手を振り払って、僕は立ち上がった。

「僕の記憶がないことをいいことに、悪ふざけをするな。そんなに楽しいか?」

遊子は弱々しく首を振って、否定した。

「ちがうよ。わたしはただ、お兄ちゃんの為に、しただけだもん」

遊子は、僕が無知であることが悪いのだと、暗に指摘していた。

それは真であり、ゆえに僕を苛立たせる。

傷ついた自尊心が、敵を打ち倒せと、雄たけびをあげた。

「なら遊子は、僕の為に、その得体のしれない薬を飲ませようとしているのか。

はっきり言って、大迷惑だな。

僕がどんな大病だろうと、その病気と薬について、知る権利ぐらいはあるはずだ。

だけど遊子はお父さんのことを餌にして、それを隠そうとしている。

それでも信じろだって?無理だな。お前が僕を信用していないんだから、仕方ないだろう」

惨めな告白を受けても、遊子は僕を見上げたまま、何も答えない。

それがまた、子どもの僕には許せなかった。

遊子との対立がいよいよ決定的なものになりそ

うになったとき、驚くべきことを遊子は行っ

た。

私を信用できないのは、仕方がない。

ならば、この薬だけでも信じてほしい。

そう言って、遊子はマスクを外し、見せつける

ように例の薬を、口の中へ放り込んだのだ。

それから遊子はコップに水を汲み、ゆっくりと

それを嚥下した。

あっけにとられていた僕を見て、彼女は僅かに

口角を歪ませた。
「これすごく苦い。呑まないほうが身のためだ

ね」

「な、なら吐けよ。なにも遊子が呑む必要はな

いんだ」

「あは、優しいお兄ちゃんだー。でも、私は嘘

つきなので、本当は苦くなんて、ないのでした

ゴホッ」

遊子なりのジョークらしかった。

この妹、ドグラマグラかはたまた了子か…乙

ふむ

「本当は苦いんだな」

「何を言っているのか、な?わたしはぜんぜん……よゆう、だ」

妙に強がるわりには顔色は真っ青である。

これは、まずいのかもしれない。

「いいよ、分かった。遊子が正直者だってことは分かった。ひとまず、トイレへ行って来たら?」

「くぅぅ、悔しいけれど、今回はこれくらいにしといてあげる。次は覚えていなよっ!」

典型的な悪役のような捨て台詞を残して、遊子は走り去った。

僕は、トイレの扉が閉まる音を確認してから、そっと溜息をついた。




今の遊子は、人が動物の真似をしたときに似た、痛々しさを感じさせた。

人であるならば自分より劣った動物の真似をするのは、屈辱にちがいない。

だが、人は観客を満足させるためには、自身が愚かな動物の皮を被るのが一番の方法だと気づいているから、それを行うのだ。

一方、観客は、その動物の滑稽さを笑えばいい。

ただ、決してその皮を剥ごうとしてはいけない。

彼らの心を一度知ってしまえば、もう二度と同じように笑えないだろう。



しかして僕は、遊子から感じる薄気味悪いものを振り払うため、なるべく自然に笑ったつもりだが、果たして上手くいっただろうか。

それを遊子に気づかれなかっただろうか。

まるで分からない。僕は読心術者ではないし

肝心の遊子は、僕の記憶の中の彼女から乖離しつつある。

記憶の中にいるお父さんと妹に会いたい。

願いはそれだけなのに、叶いそうもなかった。

うむむ

数分後、遊子はすっかり回復したようすで、僕と再会した。

「大丈夫そうだな」

「うん。それで……飲む?」

「いいや」

遊子は落胆の表情を浮かべ、大きく息を吐いた。

「なら、いいよ。飲まなくていい」

「急にどうしたんだよ。さっきまでは、何が何でも飲ませようとしていたのに」

「それでも、飲みたくないんでしょう?無理強いはしないよ」

遊子は僕の背中に回って、両腕を僕の首に絡めた。

「今はこれで、いいよ」

フードからこぼれた遊子の髪がふわりと僕の肩にかかり、なにか熱いものが背中に当たった。

「ゆ、遊子?」

「ひとりに、しないで。私のお兄ちゃん、なんでしょう」

その言葉は鎖のような不快な音をたてて、その硬さと冷たさで

僕を締め付け、凍えさせた。

僕が記憶を失っている間、遊子に何かあったのだろうか。

僕に言い知れぬ不安を残して、遊子の時間は止まる。

いつかは動き出すだろうけれど、それがいつになるか、予想できなかった。

それでも、遊子を待とう。

どこか壊れてしまった彼女を待とう。

今は遠くなってしまった記憶の中の遊子に、出会うために。

ううむ、すれ違い

夕陽が完全に沈んだのにあわせて、遊子の拘束は解けた。

振り向くと、遊子はゴーグルを外し、右手の甲で目を擦っていた。

白くて細い腕と、それに対比をなすように、瞼のあたりが赤く腫れている。

それを見るだけで、胃袋が重く沈んだ。

「大丈夫、か」

「……うん。ちょっと、思い出しちゃった」

なにを、とは問えなかった。

もし、それを今訊ねれば彼女はより傷つけてしまう。

かといって、他にかける言葉も見つからない。

手持無沙汰気味に立ちつくした僕に、遊子はぽつりと告げた。

「お兄ちゃん。パパは、しんだんだ」

頭の芯から、急速に冷えていく。

言葉を理解することを、脳が拒否した。

「二週間前に、あの病気のせいで、しんだんだ」

目の前で言葉が揺れて、僕をかく乱する。

しんだ。お父さんが。病気で。

意味が、分からない。

「何を言っているんだ」

僕の声はしわがれ、威嚇するような口調になっていた。

だけど、それを直す余裕はなかった。

「幾らなんでも、それはない。もし、もしそうだとしても、忘れるわけがない」

「ううん。辛い記憶ほど、忘れたくなるんだよ。とくにお兄ちゃんの場合はそう。

目の前で、パパは死んだんだもん。忘れて、よかったんだよ」

遊子は慰めるように、言った。だけど、僕は逆に涙を流しながら、叫んだ。

「訳が分からない。遊子の言っている意味がまったく分からない!」

「お兄ちゃん、一回落ち着いて…きゃっ!」遊子が僕に近づこうとする。だけど、僕が机を思いっきり叩いたのを見て、悲鳴をあげた。

「僕は落ち着いているよ!だけどお父さんが死ぬわけがない!

お前だって分かってるはずだろ!?」

僕の言葉は虚ろに響く。

「わたしがお兄ちゃんの立場だったら、信じられないと思う。だから、話を聞いておねがい!」

それでも遊子は、涙ながらに懇願した。

僕はそこでやっと、冷静になった。

そして、僕は予感した。

遊子を壊したのは、たぶん、僕だ。

おおう

鈍い痛みを訴えかけてくる右手と遊子のしゃっくりあげるような呼吸が、僕の気性を現していた。

臆病なくせに親しい者には牙を剥く。まるで、内弁慶な子どものようだ。

そして、ゴーグルの奥の僕は、また泣いていた。

いっそこのまま、ゴーグルの奥で過ごせたらと思う。

レンズの向こうの世界を覗いて、羨ましいと思いつつ

唯、自分の境遇を嘆きながら、自分を変えようともせずに生きてゆくのだ。

それなら、きっと誰も近づかないし、傷つかない。

自分の不幸で、周囲の人間がしあわせになるならば、僕はそれを選択すべきじゃないか?

頭の中で様々な感情が渦巻いて、僕は黙り込んだ。

「お兄ちゃん、ありがとう」

遊子は肩を震わせながら、とつぜん言った。

一瞬、なにを感謝されたのか分からなかったが、僕が落ち着いたと遊子が判断したらしい。

こんなこと、礼を言うことのほどでもない。

それに比べて、僕はなんだろう?

自分の逃げ道ばかりを探して、相手のことを何も考えていない。

こんなの言い訳ができないくらい、僕がわるいじゃないか。

そこで初めて僕は、遊子にあやまりたいと思うことができた。

ああくそっ、口に力が入らない。

僕は身体全体から力を絞りだすように言う。

「ゆず。脅かして、ごめん」

自分の心臓の鼓動がどくっどくっと耳元で鳴る。

そして

「――――いいよ。こちらこそ、ごめんね」

遊子の言葉は慈雨のようにひび割れた心へ沁みて、その傷を塞いでくれた。

読んで下さった方、ありがとうございます
そして突然ですが質問があります

人生は一度きりだから思った通りに生きたいと、思いますか?

その答えが一番真実に近いと思うので、エンドはその如何で決めます

ほう、分岐点か

ではイエスで

そうね


「うん、それじゃあまず、この病気から話そうか」

「いいのか」

「お兄ちゃんの猜疑心をこれ以上深めても、いいことないもん」

「うっ…それは、そうだ」

「こんなことなら、秘密にするんじゃなかったよ」

遊子がいじけたように顔を反らした。それは悪戯を咎められた子どものようで

なんだか懐かしく感じられた。

「話を遮ってわるかった。どうか続けてくれ」

遊子は、静かに頷いて、口火を切った。




始めに事の発端となった病。つまり、パパにとりついた、悪性新生物について話そうか。

……いつ聞いても、嫌な名前だよね。

新生物なんて言われたらさ、まるで生きているみたいに感じられる。

でも、それはある意味で正しいんだよ。

奴らは生きた細胞なんだ。

パパの一部であり、パパを殺したやつでもあるんだ。あぁ、気が狂いそう。

もっと具体的に話すとね、『新生物』は脳からの命令を受け付けず、自律して、高速増殖するようになった異常細胞のことだよ。

彼らは栄養分を他の細胞よりも遥かに多く消費して、細胞分裂を繰り返して肥大化するにしたがって

他の臓器や組織が圧迫され、浸潤され、壊れてゆく。

そして、それに宿主が耐え切れなくなったとき、彼らも一緒に死ぬんだ。

めちゃくちゃだよ。

道理も、論理もない。

奴らは増えることだけを目的に生きて、それが原因で滅んでいくんだ。

どうして神様はこんな生き物を、生み出したんだろうね。

癌か

こう説明されると、すごい不条理だな

まぁ、癌に限らず生き物はデッドエンドしかないからな、宇宙ってスゲー全体主義、心がかき乱されるな

それを僕に尋ねたときの、遊子の瞳は湖に沈んだ泥のように濁っていた。

彼女は、僕に答えを聞く気はないようだ。

だから、これは自問自答なのだろう。恐らくは何十回も通った、絶望の一本道なのだ。



もし答えがあるとすれば、人間という丸々と太った豚を屠殺するためだと私は思うな。

つい最近までは、周りの人間はこの生き物に憑りつかれた人を見ると、決まって言ったんだ。

彼の生活習慣が悪かっただとか、かかったものは仕方ない、今を後悔しないように生きろって。

どうして、そういうふうに思えたのだろう?

所詮、他人事だからかな。それとも、治ることが絶望的だって分かったつもりでいたのかな。

だけど、そんな曖昧な意識で自分だけはかからないだろうという甘い幻想を抱いていた楽観主義者は、今ひどい目に遭っているよ。

どうしてか、わかる?

WHOが、ありとあらゆる人が悪性新生物に憑りつかれてるって発表したんだよ。

最高に不幸で、嬉しいニュースだったよ。

遊子は冬の海よりも冷えた微笑をたたえて、おぞましい言葉を吐いた。

こわい

それは僕の良心を麻痺させてゆく。



病気のせいで満足に働けないパパを、容赦なく解雇した連中も

パパが土下座までして、死んだあと私たちをすこしでも見守るようにお願いをしたのを、すげなく拒否した親戚の奴らも

パパを助けられなかった無能な医者共も

ただ養われているだけで何もできなかった私たちも

みんな、パパと同じになれた。

細胞を冒される焼けつくような苦しみも、目前に迫った死への恐怖も、共有できるんだよ。

最高の罰じゃない?

あはは、お兄ちゃん大丈夫だよ。

私だって、最初は怖かったけど、今は怖くない。

お兄ちゃんがいてくれるなら、怖くない。

もしお兄ちゃんが怖いなら、私がつきっきりで慰めてあげる。

眠れない夜は、本を読んであげるし、添い寝だってする。

でもお兄ちゃんも、私を慰めてほしいな。

この一週間、ずっと一人で頑張ってきたんだ。

外、出歩くのすごく怖かったのを我慢して、スーパーへ食料を買いに行ったり、

隣町にある病院まで、行ったんだよ。

ねえ、無理にとは言わないけど、褒めて。

自慢の妹だって、言って。

私って単純だから、それだけで感動しちゃうし、もっと頑張れると思う。

それから昔みたいに、馬鹿みたいな話で、笑い合って、頭をからっぽにして過ごせばいい。

生活保護だってでるはずだし、例え貧乏でも構わない。一人じゃないもん。

それで呼吸するのも苦しくなったら、一緒に死んじゃおう。

死んだあとは、天国でパパとママと今度こそ4人で暮らすんだ。

私は、それがいいな。ううん、それじゃないと、だめ。



お兄ちゃんも……それでいい?

「よくない」

手垢のついた答えであっても、僕はそう言わざるをおえなかった。

「遊子、どんなに大人ぶったってお前は、僕と同じ子供だよ。

感情に流されやすくて、すぐ深刻に考えたがる。

それでいて罰を受ければ、しあわせになれると信じてる。そんなのは遊子の好きな本の中の世界だけだ」

遊子は眼光鋭く、僕を睨み付けた。だが、こんなのは慣れっこだ。

なぜなら遊子とは、数えきれないほど喧嘩したはずの仲なのだから。

「遊子はまるで人を憎んでいるように言うけどな、お前はただお父さんに同情しているだけだ。

そして救えなかった自分が許せなくて、許す方法が見つからなくて、身に降りかかった不幸を罰だと思い込んでる。

だけど、遊子のせいじゃないんだ。もちろん会社の人たちのせいでもないし、お医者さんのせいでもない。

お父さんが、不運だったんだ。

……それに、もしお父さんがその人たちを憎んでいたとしても、遊子にも憎んでほしいとは思わないよ、きっとな」

死者への同情を憎悪の理由にするにはまず、死者の人格を否定しなければならない。

遊子にそれができるとは、思いたくなかった。

遊子は目線を切り、吐き捨てるように言った。

「お兄ちゃんがそう思えるのは記憶がないからだよ。もしあったら、そんなこと絶対言えない」

急所をつかれた気がして、一瞬息が詰まった。

たしかに僕の中で記憶というものは、風のように透明で、掴むことすら困難になりつつあった。

それが存在することは、時折感じられるのみだ。

もしかしたら、僕は以前の自分とは全く異なった中身になっているのかもしれない。

だとしたら今の僕は、誰なのだろう。

自我の証明って難しいね

古い日記をよむとコイツおれか?と思う
下手すると三日前のぐらいでも思う乙乙

もし自分の存在が過去の搾りかすにすぎないのだとしたら

あるいは生まれたばかりの赤ん坊のように過去を持たないのだとしたら

そこに価値を与えてくれる人はいるのだろうか。

目の前の少女に尋ねれば、即座に答えてくれるだろうと淡い期待を抱きつつ、それを裏切られたときを想像するだけで吐き気がした。

だから僕は遊子を信じないことにした。

裏切られる恐怖に比べたら、裏切ることすら優しいと感じられて、

そのことに罪悪感をほとんど覚えなかった。



それから、遊子と僕は形だけの和解をした。

というのは、これからの生活に向けて話し合わなければならない事案が山ほどあることを互いに了解していたからである。

ただ僕は、遊子の言うことには悲観的な見方をしていた。

僕は働ける年齢に達しているが、二人分の生活費を賄うには不十分だ。

だからって生活保護を受けることが、そんな簡単なのだろうか。

遊子は児童養護施設に送られ、僕は高校を中退して働かなければならない事態だって起こり得るのでは?

その後、遊子と僕の会話は平行線をたどった。

何を話しても想像なのだから、仕方のないことだ。

だから僕は、明日学校へ行ってみようと思う。

あの先生ならば、なにかを教えてくれる気がした。

あの友人ならば、励ましてくれる気がした。

僕はお父さんのかわりを探しているのかもしれない。

見つかるわけもないのに。

うむ

呼吸が、くるしい。・

暗やみで意識が覚醒した僕が、最初に思ったことだった。

鼻の中になにかを詰められているのか、うまく息を吸い込めないのだ。

動悸が激しくなり、僕は焦り始めた。

闇雲に手を動かすが、空を切るばかりでなにも捕えられない・。

しぬ、しぬ、しぬ。

僕は助けを呼ぼうと大声を叫んだが、何も聞こえない。

あ、あああ。

目の前が白と黒に交互に点滅し始めた。

点滅する間隔はどんどん狭くなり、いろをいろだと分からなくなった。

それから一泊置いて、急に目の前が広がった

同時に冷たい空気が、身体の中へ入ってきた。

なんとか、今日も布団を跳ね除けることに成功したようだ。

僕は目をばちっと無理やり開けて、現実に戻ってきたことを確認した。

深呼吸をすること、三回。心臓の強い鼓動が徐々に収まっていくのを感じた。

朝、布団に殺されかける人間はこの世界にどれほどいるのだろうかと、僕は疑問に思った。

最悪の気分で寝間着から制服へと着替えた僕は、階下に気配がないことを確認してから足音を忍ばせて玄関へ向かった。

そして、靴を履こうと身を屈めたとき、背後から声を掛けられた。

「どこへ行くの、迷子のお兄ちゃん」

僕はたまらず飛び上がって、後ろにあった何かと衝突した。ごんっという鈍い音とぎゃっという悲鳴がした。

「あっ、ごめん」顔を両手で押さえうずくまった遊子を見て、僕は素直に謝った。

「……こっちに来て」

命ぜられるままに遊子の前に立つと、遊子の頭が急に大きくなって僕の顎と衝突した。

あぐっという先ほどと同一人物の悲鳴が響いた。

今度は頭をかかえてうずくまった遊子を見て、さっきよりも痛そうだと、僕は同情した

読んでくださった方、ありがとうございます
これで全体の1/4がおわりました
大体の目安にしてください

おお、まだ序盤か
一旦乙

「どうして頭突きなんて自爆技を使ったんだ」

「同じ方法でやり返さないと、むかつくもん!」

遊子は憎々しげに僕の顎のあたりを睨んだ。

まさか、今度は顎でやり返す気か。

「お兄ちゃん、屈んでよ」

「遊子が顎を痛めるから嫌だ。それにもう学校へ行く時刻だから付き合えないよ」

「……むかつく、学校なんて潰れたらいいのに」

「誰だって一度はそう思うもんだ。でも、行かなきゃ大切ななにかを見落とすという強迫観念に囚われた生徒は行くより他ないんだ」

「ふん、遊子はとっくのとうに解放されたよ。お兄ちゃんもさっさと自由になってね」

「ん……ちょっと待て、お前学校へ行ってないのか」

「あっ」。

遊子はいかにもしまったという表情を浮かべて、肩にかかった髪を指でいじりだした。

「で、でもしようがなかったんだよ。

お兄ちゃんずっとあの部屋で閉じこもっていたから、ね?一人にしておくわけにもいかないしさ」

「でも今日からはいけるだろう」

「私には主婦としての仕事があるんだよ」

「代わるから、気にしないで行ってくれよ」

遊子は黙ってその場から脱兎のごとく逃げ去った。

そして、どこかの扉が勢いよく閉まる音がした。

妹が、不登校になった。

僕はその事実をどこか遠い世界の事件のように実感できないでいた。

人のことを言える立場ではない…

遊子のことは一旦、後回しにすることにした。

僕の背中にかけられた負荷がどんどん大きくなるのを感じる。

心が曲がってゆくのを止められない。

今の僕は、今のままでいられるだろうか。



心を置き去りに、身体だけが人気のない通学路を一人歩きしていた。

さらに述べるなら、今の自分から取って代わり、昔の自分が身体の主導権を握ったのだ。

今の僕は学校位置をほとんど思い出せない。

身体に刻まれた記憶だけが頼りだった。

どこかで見た交差点を渡り、なぜだか不安になる薄暗いトンネルを潜り抜けて、僕は糸で引っ張られるように進む。

足を動かすのがけだるく感じられるようになってからすぐ、僕はようやく人通りのある道路へ出た。

さっと辺りを見回すと、通行人は灰白色と赤色の大きなアーチを目指して歩いていることに気が付いた。

目をこらすと、アーチにはゴシックで宵やみ商店街と書かれていることに気が付いた。

そして、アーチの下には、『よいやみッ!』というロゴの入ったはっぴを着たお兄さんがにこやかに微笑んでいる。

しかし、彼の腰で黒色の警棒が揺れていることが初印象を負の方向に振り切れさせていた。

それでも、通りがかる人はそれを気にする様子はない。まるで当たり前であるかのように、彼の目の前を通り過ぎてゆく。

彼の放つ不穏な雰囲気は、自分だけが感じているのだろうか。

今まで軽快だった足取りが急に重くなった。

うむ

よいやみ…だと

遅くなってすいません。週末に投稿する予定です

良かった、エタっていなかったか

この雰囲気大好きなんだ

やった

遠回りすべきだとよほど思ったが、そのために見知らぬ道を通るのはいかにも心細い。

逡巡しているうちに、次々と周りの通行人は僕を追い抜いてゆく。

立ち止まっているのは、一人だけだった。

酸っぱい焦燥感が胃の底から湧き上がってくる。

僕がおかしいのか。

狂人は、自分が狂人だと気づけない。その意味が分かった気がした。

僕は全身の感覚が尖らせながら、アーチに向かう人に混じった。

その男と目線を合わさないように、目線の先は幾何学模様を描く地面に固定する。

一歩、一歩。顔の筋肉が緊張で強張るのが分かった。

僕の時間の流れは、たった数メートル先に立つあの男によってせき止められていた。

あそこさえ抜ければ、いいんだ。

ぐっと握りこぶしをつくり、その男の傍をさっと通り抜けようとしたとき、視界の端で

男が今まで微笑をたたえていた口を歪ませたのが見えた。

「おはよう。学校へ行くなんて、偉いなぁ」

ぎょっとした僕は思わず振り返り、その男の顔を凝視してしまった。

男は、わずかに首を傾げて、苦笑した。

それは人間らしい仕草なのに、先の言葉と反発しあって、いっそう気味悪く感じられた。

「君みたいな子は少ないから、声を掛けてしまった。悪かったね」

この男は、何を言っているんだ。

だがそれ口にする前に、それに便乗するように買い物袋を手に持ったおばさんが、男に寄って、言った。

「本当よ。うちの子なんて、家から出たくないの一点張りなのよ。羨ましいわぁ」

男は慰めるように声音を弱めた。

「仕方ないですよ、子どもには残酷な話でしょう」

男は僕に興味を失ったようで、そのおばさんと話し始めた。

数秒もしないうちに、僕はその場から逃げ出した。

周りから奇異の目で見られているのが分かった。

前方で僕に気づいた人たちがさっと避けて、道を作るのが分かった。

どこかで、自転車が急ブレーキをしたのか、甲高い金属音が聞こえた。

どこかで、唸るような怒声が聞こえた。

でも、僕は止まれなかった。

記憶にあったはずの世界とは、なにかが大きく変わっていた。

僕の周りだけじゃない。

この街の人間も、もしかすると、日本中が。

もしかすると僕は、甘く見ていたのかもしれない。

この世界は、思った以上に、終わっている。

不気味やなあ…

学校に向かって、しっぽに火のついた鼠の如く走った。

景色がぐんぐんと後ろに流れて、からだが地面から伝わる衝撃で浮き上がって、そして沈む。

僕はそのせいで視界が歪んでいるのだと、思っていた。

だが、自分の通っていた学校をようやく見つけ、立ち止まったとき、歪みはひどくなった。

学校はひっそりと静まり返っていて、廃墟のようだ。

建物中央に高々と掲げられた時計は午前8時を示している。

通常なら、まぎれもなく登校時間だ。

だが、肝心の登校する生徒は、一人もいない。

僕は唇をきつくかみしめた。

このまま帰ろうか。誰もいないなら行ってもしかたがない。

それに、真実に打ちのめされたくはない。

だが、足は根でも生えたように動かなかった。

たぶん、からだは無意識に分かっているのだ。

ここで立ち去ることは、自分を大切にしたいということ。

逆に言えば、家族への想いを自分で裏切るということだ。

相談できる先生がいない可能性が高いから、校内は確かめなかった。

僕は果たして、遊子に言えるのか。

真実の問いが脳内のどこかに隠れている遊子との記憶を揺さぶった。

遊子、お前は僕にとって、どんな相手なんだ。どうでもいい奴なのか。

思索の波紋が無数に広がり、ひっかかるものがないかを探る。

幾度かそれが繰り返されると、記憶の断片がその姿を現した。

遊子には、ひとつ悪い癖があった。抵抗もなく嘘をつき、それを貫くのだ。

最も印象に残ったのは今よりも彼女が一回り小さいとき、公園で転んで擦りむいたときだ。

遊子はスカートの端を押さえて、健気に隠していた。

ご飯を食べる時も、テレビを見る時もそうだ。

それでも痛むのか、消毒薬を探しては、家中をふらふらと歩き回っていた。

不審に思った父さんから、その理由を尋ねられても曖昧な返事を返すばかり。

その分愛想を良くするから、諍いにもならない。

そのせいで、怪我に気づいたのは赤い血がスカートに染み込んでからだ。

父さんは怒ったけど、遊子はそれがなぜか分かっていなかった。

『なおったからもう怒らないで。パパ』

ただ、そう笑って、痛々しい脚を見せるのだった。

あの癖は治ったのだろうか。今の僕には分からない。

だが、分かったこともある。

僕は遊子の兄として、彼女を見守りたい。

遊子が傷ついたことに気づきたい。

気付くと、足にかかっていた呪縛はとけていた。

玄関に備えつけられた下駄箱へと自然と歩み始めた。

うむ

玄関に入ると、埃っぽい空気が喉をつまらせた。

掃除は、行われていないみたいだ。

そして、本来上履きが入っている下駄箱には空きが目立ち、下履きは一つとして見当たらなかった。

僕は、自分の上履きの正確な位置を思い出せなかったので、その付近にあった自分とサイズの合うものを選んだ。

もし、元の持ち主が登校すればまずいことになりそうだが、その可能性はとても低いと思った。

僕は、青白いリノリウムの廊下を早歩きで進んだ。

足音が反響し、誰かが歩いているような錯覚を覚える。

だが、振り返っても幽霊すらおらず、通り過ぎてゆく教室の中は薄暗かった。

目的地に着くと、完全な沈黙が辺りを包んだ。

僕が所属しているらしい教室は、他とまったく同じようにして、その機能を失っていた。

そして、引き戸に手をかけ、軽く力をいれた。

ウンともスンとも言わない。

窓も鍵がかかっており、侵入者を許さない鉄壁の構えだ。

それから格闘すること数分、侵入することを断念した僕はドアを背に座り込んだ。

「ここはもう、学校じゃないかも」

僕の反抗的な呟きは、唇から生まれた瞬間、散り散りになって消えた。

ヒロイン格一人登場します
気性を控えめか、積極的かどうかお選び下さい
選ばれなかった方は男性になります


娘の世界観に積極的ってあうかなあ?

妹がわりと積極的だから、逆に控えめで!

今となってはその存在を証明できるのは、一人しかいない。

結局その言葉は生涯でたった一人にしか伝えられなかった。

また、当人は、数秒後には忘れているだろう。

即ちその言葉がまったく無意味であったということだ。

僕は訳もわからず悲しくなった。



それが悲しみから憂鬱へと変質してしまった頃、僕はおもむろに立ち上がった。

この場所にいても、状況が改善されないのは明らかだった。

だからもう一つの可能性にして本命を行き当たることにした。

つまり、職員室だ。

もし、そこにも鍵がかかっていたら、諦めるよりほかないだろう。

それから僕は独りで、遊子との生活を考えなければならない。

なんて絶望的な響きだろうか。

くじけそうになる脚を叱咤しながら、僕は廊下を這うように前進する。

だからだろう、あの優しくて退廃的な旋律に気づくのが遅れたのは。

職員室までもう半分まで来たところで、それは空気の流れにのって鼓膜を微かに震わせた。

僕は思わず足を止めて辺りを見回した。

そして、一枚だけ開けられた窓を発見した。

窓の前に立つと、あの旋律が流れ込んでいるのがはっきりと分かった。

窓から身を乗り出さんばかりに顔を突き出し、目を走らせると、雑草が自由奔放に生い茂る中庭の向こうで、戸が開かれた教室を見つけた。

その奥には、黒色のグランドピアノが設置されておりそれと向き合うように制服姿の生徒が座っているのが分かった。

間違いない。あそこで誰かが弾いているんだ。

それだけで僕の心は沸き立った。

来たか!

ごめんなさい週末投稿します

あい待ってます

その場所に発生した強力な引力が、僕を引き寄せようとするのを感じる。

僕は、あの生徒に尋ねたい。

この学校にはなぜ他の生徒がいないのか。

どうしてそれを周りの人間が容認しているのか。

そして、なぜ学校へやってきて、ピアノを弾くのか。

その教室へと目的を変更した僕を責める人はいなかった。

ゴムの擦れる高い靴音が響き、旋律が遠くなる。

気付けば、息切れした状態で目的の教室へ辿りついていた。

その教室の扉に手をかけたところで、この中の人物が奏でる曲がまだ続いていることに気が付いた。

今すぐ開けるべきか、一瞬逡巡したが好奇心には勝てない。

僕は、立て付けの悪い扉を引きずるように引っ張った。

物と物がこすれ合うことによる、耳障りな雑音が辺りに響き渡った。

曲は止まり、代わりに小さな悲鳴が聞こえた。

声の主を求めて見回すと、ピアノの前の席に座っていた女の子が

今まで鍵盤を叩いていたはずの手を引っ込めたところだった。

彼女の瞳には狼狽の色が色濃くあった。

しかし、綺麗に切りそろえられた前髪と些か幼さが残る愛らしい顔立ちが、それすら好ましいものにしていた。

そしてなにより、校内に生徒がいた事実に感動が、僕の胸を満たした。

まるで迷子になった子供が自分の家を見つけたときのような、心からの安堵である。

おっと、いつまでもこうしてはいられない。

彼女から話を聞けるだけの信頼を得るために、僕は経緯を話す必要があることを悟った。

僕は、彼女にむかって、小さく頭を下げた。

「突然開けて、ごめん。僕は、その、しばらくぶりにこの学校へ来たんだ。

でも学校の様子が変で、そう、誰もいないんだ。それで人を探していてそうしたら曲が聞こえて……ここに来たんだ」

緊張のせいか、口が上手く回らない。

彼女は長い睫毛をしばたかせながら値踏みするようにを僕をじっと見つめた。

そうして、笑いもせず、彼女はその桃色の唇を開いた

「それが、どうしたの」

「できたら、どうしてこんなふうになったのか。教えてくれると助かる。

事情がまったく分からなくて、困っているんだ」

彼女は、小さく首を振った。

「いや」

はっきりと拒否された。できないわけではなく、ただしたくない。

僕は彼女の目に適わなかったようだ。

だが、ここでははいそうですかと引き下がるわけにはいかない。

「それなら、この学校で君以外の生徒や先生の居場所を知っているかい」

「知らない」

「なら君はどうして、ここでピアノを?」

「知らない」

まったく取り付く島もない。彼女は相当なひねくれ者か、本当に知らないのかのどちらかだろう。

ならばせめてもの礼儀だ、名前だけでも聞いてここを立ち去ろう。

「えっと、僕の名前は、芦屋っていうんだけど、君の名前は…」

「……あっ!」

「えっ?」

「……」

まさかのここで反応あり。

僕の名前を知っていたのだろうか。

改めて記憶を失う前の自分をいくばくか思いやれど、ないものはなかった。

そうしてる間、彼女は何も言わずに、教室から飛び出してしまった。

整えられた髪を振り乱しながら、それはもう、僕から逃げるように。

一人取り残された僕は、呆然と突っ立っていた。

控えめヒロイン来た!
好感度、低そうだけど

「記憶を失う前の僕は、いったいどういう人物だったんだろう。

学校一の嫌われ者?考えたくはないけど、虐められていた可能性もある……。

考え始めるとなんだか、憂鬱だ」

僕はナメクジの如く、ぬめっとした独りごとを引きながら職員室へ向かうことにした。

あの少女のことが、頭から離れなかった。

彼女は、僕の顔を知らなかったようだった。

だけど、名前を聞いて、彼女は僕の前から立ち去った。

それが彼女だけならまだいいが、他の生徒もそうだと考えると胸がむかむかしてくる。

ひとつ幸いだったのは、僕が他の生徒をそう覚えていないことだ。

会えば彼らのことを思い出すだろうけれど、今は暗闇に沈んだままだ。

いっそ、このまま思い出さないほうが楽だろう。

しかし、同時に疑問も浮かび上がってきた。

なぜここまで記憶がないのだ?

遊子によればショックで記憶を失ってしまったという話だけれど、お父さんの事だけじゃなくてこの学校にまで至る道のりや、生徒の顔すら忘れている。

それは、あり得ることなのか?

分からない。記憶がなければ、知識がなければ、予想すらできない。

どんな質問もそこで止まる。

それを乗り越えるにはどうしても、協力者が必要だった。

職員室を前に立った、僕は下を向いて浅く息を吐いた。

ここが僕の本命であり、最期の頼みの綱だ。

僕は一気に力をこめて、扉を勢いよく開いた。

バァンという破裂音で、体がびくりと震えた。

そして、中にいた人物も驚いたようで、一斉に僕の方へ振り向いた。

そこに立っていたのは、先ほどの逃げたはずの女子生徒と白衣を着た初老の男性だった。

彼女の表情には緊張が走り、口を真一文字に結んでいる。

それと対照的に、男性は僕を見て微笑んで、言った。

「おはよう、芦屋。今日は久しぶりに嬉しい日だな」

そうだ、僕はこの先生に会いに来たんだ。

「善(ぜん)先生、で、よかったですよね」

「担任の名前を忘れるとはとんだおっちょこちょいだな。

芦屋にしては珍しい」

「……良かった」

僕の両肩に載っていた負担が急に取り除かれた感覚が、僕を支配した。

「先生がいて、良かったです」

「私も芦屋がきて、よかった。お前に渡す資料が山ほどある」

「は、はい。それとできたら、相談したいことがあるんです。それに聞きたいことも」

「それは構わない。私も時間を持て余しているくらいだ。ところで、愛山、お前も自己紹介ぐらいはしたらどうだ」

愛山と呼ばれた女子生徒は恨みがましく先生を睨んだが、先生は気にもかけてないようだ。

先生の気持ちを変えるのを諦めた彼女は俯きながら、聞き取るのが精一杯なほどの小さな声で言った。

「2-2の愛山です」

「だ、そうだ。ほら、芦屋」

「は、はぁ。2-3の芦屋です」

「……。」

「……。」

「お前たちは、なぜそんなに警戒しあっているんだ?」

「別にしてません。それより、早退するので、あとはお二人でどうぞ」

彼女はそう言って、足早に立ち去った。

先生が止める間もない、いや止めようとしていないから当然か。

「芦屋、お前も罪つくりな男だなぁ」彼女が出ていったのを見送ってから、先生は呆れた声で僕に語り掛けた。

「そんなに僕は、嫌われてますか……」

「いや、どちらかとえば、恐れているようだ。

具体的に言うといじめっ子と話すときの不安げな子供を思い出したよ」

「僕をそんな男だと、思いますか」

「それはお前か、愛山がよく知っていることだな」

「実は……それについても、お話しがあって」」

「ほう、ひとまず、そこの椅子に座って、三回深呼吸しなさい。

それから、ゆっくりと息を吐いてから話をしてみるといい」

おお、突破口ぽい反応

先生に言われた通り僕は深呼吸をして、ぐちゃぐちゃに絡み合った糸をほどいていくように今自身を取り巻く環境を話し始めた。

それは大きく分けて3つである。記憶の喪失と家族の変化。そして、今までの僕の認識と、周りの環境とのずれ。

話しているうちに、こらえきれないものが胸を強く衝いた。

いったい何度泣くつもりなのだと、僕は自分を叱咤することで

幾度かつっかえたが、無事に説明し終えた。

先生はその間、黙ってあごをさすっていた。ただ、眉間に刻まれた皺は、ますます深くなった。そして、重苦しい声で僕に尋ねた。

「芦屋、今話したことは家族以外の人間にも話したか?」

「いえ」

「不幸中の幸い、かもしれないな。

わたしから見て、芦屋の置かれた状況はひどく奇妙だ。

これからは慎重に話す相手を選ぶのだ。いいかね?」

「はぁ」

「うむ。急に言われても納得できないのは道理だ。

ならば、芦屋の持った疑問を一つずつ解決していく前に、今この学校いや、この世界に起きつつある事態について触れようか」

「お願いします」

先生は、隣の席に据えられた椅子に座るように手ぶりで示した。

花柄のクッションが座の上に置かれていて、どう見ても善先生のモノではない。

いくらか躊躇した様子の僕を見て、先生は小さく首を振った。

「その先生はもう辞職をだされたよ。もう、限界だそうだ」

「限界……?」

「『自分の死をはっきりと感じたとき、働く理由を見つけられませんでした』彼女はそう言ったよ」

先生は、静かに、はっきりと告げた。

そこに自身の意思を入り込ませないように。

事実だけを。

お、きたきた
ドグラ・マグラっぽいこの雰囲気大好きだよ

やっぱり世界ごと変になってるのか…

先生は、僕が座るのを見届けてから口を切った。

「ここに来る途中で芦屋が小耳にはさんだ通り

まず、この学校は今、ほとんどその機能を失ってしまった。

私や愛山を除けば、教えるべき教師も、学ぶべき生徒もいない。

ここはただの、巨大な箱。中身は無気力で溢れかえっている。

すべて、あの忌々しい、癌のせいだ。」

先生は、初めてそこで、表情を醜く歪めた。

おそらくは、激しい怒りと深い嫌悪が込められた言葉だった。

僕は、先生がひどく傷ついていることに、今更気づいた。

先生になにがあったのか、恐ろしくて聞けないが。

そんな僕の胸の中に憎き相手がひそんでいると思ったのだろうか、

先生は僕をにらみつけるようにして、苦々しく言った。

「元来、三人に一人の計算で、人が癌によって死んでいたと知っていたら、私はなにかをしていただろうか?

いいや、しなかった。

なぜなら、癌を罹患する年齢が高いと知っていたし、どうにもならない恐怖だとほうっておいただろう」

先生は、そこでいったん口を閉じ、僕の肩に手を乗せた。

ミイラのように乾燥したそれは、羽毛のように軽くて、なぜだか哀れに思えた。

「すまない。だが、すべてだ。

世界で最も優れた医療機関が癌の急速な『低年齢化』に気づいたのは、ほんの一か月前だ。

世界でほぼ同時期に発生したそれは、これまで繁栄してきた人類と

いう樹を枯れさせつつある。そして、それを防ぐ手段は、いままで見つかっていない」

「癌の低年齢化ということは、僕も、そうなのですか」

先生は、痛みに耐えるように声を絞り出した。

「おそらくは、そうだ。芦屋の妹が薬を差し出したのは、きっとそのためだろう」

僕は、癌だった。この事実が、頭を麻痺させてしまう。

父親が、癌で死に。僕も癌。

これでは、まるで呪いではないか。逃れることはできない。

先生は僕の肩に乗せた手に力を込め、僕を軽く揺さぶった。

「芦屋、気をしっかり持て。お前は、『弱い人間』になったらだめだ。

芦屋の家族を守れるのは、芦屋しかいないんだぞ」

だけど、だけど、僕は知ってしまった。

僕は癌だ。

お父さんと同じ癌だ。

お父さんは、どんなふうに死んだっけ。

これは怖い

読んでくださった方、ありがとうございます
駆け足になると思いますが、今週でおわります
何事も締めなければだめですね

今追いついた
この雰囲気凄い好きだ

待ってる

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