――初めて意識が覚醒するその瞬間を、感触を、感覚を、彼女はその身と心で実感した。
彼女は、ゆっくりとまぶたを開いた。
それまで瞼で守られていた彼女の瞳を得体の知れない液体が余すことなく覆っていく。
瞳を液体に晒した事で生じた刺すような痛みを感じながら彼女はひたすら耐え続ける。
それは数秒、あるいは数分、もしかしたら数時間に及ぶかもしれない。
目に走る刺激に慣れると、彼女は目の前の光景をうつろなその眼に焼き付けた。
液体で満たされた、ガラスの子宮。
それは彼女が最初に目にした光景であり。彼女が最初に存在した場所でもあった。
彼女は次に水分を吸いすぎてわずかに膨れた唇を開いた。
口の中に半透明の液体が押し流される。が、それも一瞬だ。
彼女は何事も無かったかのように口を開き続けた。
その表情に動揺や苦しみのそれはまったく表れない。
なぜなら彼女の胃と肺はすでに液体で満たされていたからだ。
何事も無かったかのように、ではなく、本当に、何事も無かったのだ。
呼吸がしたい。
酸素が欲しい。
気持ちが悪い。
彼女はまるで機械仕掛けの玩具のように、ガクガクと顎を揺らして唇を閉じる。
鼻に溜まった水を出しながら、彼女はぼんやりと、うつろな眼でガラスを見つめる。
ガラスに映し出された、一糸纏わぬ少女の姿を眺める。
――誰だろう、と。
それは純粋な興味であり疑問だ。
ガラスの子宮の中には娯楽も暇潰しも在りはしない。
ただただ液体に身を浸し続けることしか出来はしない。
だから彼女は自然に興味と疑問を抱いた。
正面のガラスに映る少女へ興味の視線を注ぎ、好奇の心からその正体を探ろうとした。
そして気付く。
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――この子は、わたしだ。
意識、暗転。
次に視界が光で覆われる。
「……んぁ」
彼女は目を覚ました。
見慣れない天井が視界に映る。
遠近感覚が曖昧な寝起きの彼女には、天井がすぐそばにあるように感じられた。
「んっ……」
彼女は手を伸ばした。
人の温もりがたっぷりと残っている布団から両腕がするりと抜け出る。
天井との距離が腕の長さの分だけ縮まる。具体的には七十センチ弱。
けれどもその手は届かない。彼女はそこで初めて、自分が寝惚けている事に気付いた。
「ふぁ……っと」
彼女は体を起こした。
まだ霞がかった意識を覚醒させようと乱暴に頭を振る。
振りすぎて酔って少女は目を回す。回復するまで目を閉じて待つ。
なんとか意識を完全に覚醒させる。そして少女はすぐ右手前を見やる。
「んー……」
短い髪の女の子が立っている。
彼女は緩んだ頬を引き締め、けれどももういちど緩めて、その女の子に微笑んだ。
「おはよーカオル」
女の子――カオルはその微笑に満面の笑みで応え、挨拶を反す。
「おはよ、かずみ。よく眠れた?」
彼女――かずみは、元気良く頷いた。
「うん。すっごい眠れた」
「そいつは良かった。もしかして起こしちゃったか?」
「そんなことないよ? たまたまタイミングが重なっただけ。快眠できたよー」
「ふーん……昨日の今日のでまだ疲れてると思ったけど、そうでもないみたいだな」
ほっと肩を下ろすと、カオルはベッドに腰を下ろした。
彼女の体重分だけ土台が軋み、キィ、と音が鳴る。
シーツや掛け布団は綺麗だけれど、ベッド自体は相当古いのかもしれない。
かずみは目には見えない歴史の重みを感じる一方で、そこで寝ている自分の身に少しだけ危機感を覚えた。
とはいえ、すぐに壊れるようなことは無いだろう。
「……ねぇ、カオル」
彼女の名を呼ぶと、彼女は優しげな瞳をかずみに向けて首を傾げた。
「どした? もしかしてあたしのこと、思い出したか?」
質問には答えずに、かずみはじっと彼女の事を観察した。
肩にかからない程度で揃えられたショートの髪。
ぱっちりと開かれた橙色に見えなくもない瞳。
引き締まった体躯と、女の子らしいしなやかさ。
染みや傷や荒れた箇所が一つもないきれいな肌。
そんなカオルの姿を自分の記憶と照らし合わせ、
――憶えていない。
愕然と俯き、トーンを下げた静かな声で告白する。
「……ごめんね。やっぱり思い出せないや」
なんだ、そんなことかと目の前の少女は肩をすくめて見せた。
「気にするなよ。あたしはそんなこと気にしてないからさ」
「でも……」
「そのうち思い出すかもしれないだろ。それにほら、あたしとの思い出なんてまたいくらでも作れば良いんだから」
カオルはかずみの頭に手を乗せた。
彼女の繊細な指先が、かずみを労わるように“ベリーショート”の黒髪をさらさらと梳いていく。
手のひらからじんわりと伝わる人肌の熱が彼女の心をほぐし、どうしようもないほどの温もりを与える。
――カオルの指、柔らかいな。
さら、さら。
髪を梳かれ頭を撫でられる感触を受けてかずみは心地良さそうに笑った。
窓から差し込む日差しとカオルの思いやりに包まれながらかずみは目を閉じる。
温かくて、気持ち良い。いつまでもこうしていたい。
そんな我侭で贅沢な事を考える自分に呆れてかずみはふたたび笑みを浮かべた。
カオルの顔も、声も。
一緒にいた事すらも、今の自分は憶えてはいないけれど。
こうしている今でさえ何の懐かしみも感慨も湧かないけれど。
それでもきっと“過去”の自分は今と同じように彼女と接し、
彼女もまた同じように受け入れてくれていたのだろう。
そう思うと、どうしても心が安らいでしまって。
覚醒した意識が浅いまどろみの中で漂うような曖昧な感覚に浸り続けた。
いつまでそうしていただろうか。
ぼんやりと揺らぎ、安寧の中を彷徨い、たゆたっていた意識が覚醒していく。
かずみは気付いた。先ほどまで耳に届いていた歌、小鳥のさえずりが途切れたことに。
次いで、さらに気付く。
自分の左頬に、なにやら柔らかい感触が伝わってきている、と。
「……あれ?」
「よっ、おはよう。二度目だな」
右耳から拾った声を聴いて、ようやく自分の姿勢に気付いた。
いつの間にか、ベッドに腰掛けたカオルの太腿に頭を預けていたらしい。
撫でられている内につい気持ち良くなり、そのまま本格的に二度目を始めてしまったのかもしれない。
慌てて頭を起こし、その事を謝罪すると、
「気にすんなよ。あたしとかずみは友達だろ?」
との言葉を受けた。
妙に気負うのも失礼だと割り切って受け止める。
カオルの笑みがどこか喜ばしげだったのも大きい。
安心すると、かずみは腹の辺りがうごめきだしたのに気付いた。
今にも飛び出しそうにその中身を弛ませ、身震いする竜のごとく叫ぶ音はまさに、
―――ぐうううぅぅぅぅ
腹の虫だった。
羞恥に頬を赤く染めてシーツを手繰り寄せていると、カオルが大いに笑った。
そして懐かしい物を見るような目でかずみを見る。
懐かしい目? ――違う、とかずみは思う。
それはきっと、別の何かを秘めている目だ。
それが分かるのに、それの正体がかずみには分からなかった。
この曖昧な推察をあえて言葉にして表現するならば、それは遠い目だ。
真っ直ぐに物事を見据えながらも、しかしその本質はその遥か後方を見るような目。
かずみがその正体を見抜こうと思考を重ねていると、
「朝ごはん、作るか?」
カオルからそんな提案を受けた。
断る理由は何一つない。腹の虫が鳴っているということは自分が空腹状態にあるという証左に他ならないのだから。
かずみが頷くと、彼女は微笑を浮かべて立ち上がった。
あっ、と思ってしまう。
恐らくカオルは朝食を作りにいこうとしているのだろう。
それ自体は平気だ。ただ、一人で行ってしまおうとしているのが少しだけ寂しい。
思いを口に出せずに俯いていると、視界の中に手が飛び込んできた。
驚いて顔を上げると、そこにはカオルがいて、
「ほら、かずみ」
「え?」
「一緒に作りに行こうぜ」
嬉しい言葉に、かずみは表情を綻ばした。
そして差し伸べられた手を取り思うのは、
――次からは、と。
● ● ●
見慣れぬ台所で、見慣れぬ調理器具を使い、見慣れぬ調味料を使った結果。
完成したチャーハン――否、作品を前にして、かずみとカオルは後じさりした。
「こ、これは……」
「食べ、も……食べ物?」
なぜか疑問系で言葉を発してしまい、思わず天を仰ぎたくなる衝動を抑える。
そして口にする前から渋そうな表情を浮かべるカオルと共に料理をまじまじと観察した。
見た目は決して悪くない。
丸くお椀状に盛られたそれは食事処などで出されそうなほどに美しく形が整われている。
ただし色合いはというと、小麦色通り越して真っ黒に片足を突っ込みかけていた。
例えるならば、そう。ひっくり返したフライパン。
ならば香りはどうかと嗅いでみれば、これも決して悪くはない。
香りが鼻腔に吸い込まれてからほんの数秒程度ならば、香ばしい香りに表情を綻ばせているところだろう。
しかし数秒を越えるとどうだ。香ばしいを通り越してむせ返るような匂いが直撃して、かずみたちは実際にむせた。
こういった罰ゲーム用の料理だと考えれば完成度は高いと言えよう。
「……だ、大事なのは味だろ!?」
「いやぁこれはさすがに……」
「記憶を失う前のかずみは料理が得意だったからな、大丈夫……大丈夫!」
カオルはまるで自分に言い聞かせるように叫んでスプーンを炒飯に突っ込んだ。
そして焦げ茶色ではなく焦げ色の米を掬い上げ、ぷるぷると震わしながら――
ぱくり。
なんとか料理を口にしたものの、カオルは微動だにしなかった。
もしかすると――これは奇跡が起こったパターン、つまり味はイケる、というパターンなのだろうか。
鼻を抓みたくなる欲求をなんとか抑えながら、かずみは恐る恐る彼女の顔を覗き見る。
しかし、かずみが密かに抱いていた期待とは裏腹に、彼女は眉間に皺を寄せていた。
頬が不規則に引き攣り、いかにも苦しげな表情をしている。
「……」
「……」
沈黙が、そっと降りる。
誰が悪いわけではないというのに――原因は料理を作った自分だが――妙に気まずい。
記憶を失う前のかずみ、つまり過去の自分と比べるとやはり今の自分はかなり劣っているのだろう。
過去の自分を信じて厚い壁に特攻したカオルに敬意を表し、自動処理型のダストボックスを差し出す
「カオル、ぺって、していいよ?」
「……いや、いいよ」
ごっくん、と飲み込む音が嫌というほどに耳に残る。
居心地の悪さがどうにも胸を締め付ける。
だからかずみは大仰に頭を下げ、
「ごめんねカオル! あたしまだ色んな記憶が戻ってないみたいだし、うん、これは捨てておくから!」
さらに盛り付けられた炒飯を捨てようとするも、カオルは首を横に振ってそれを制した。
「いいよ、あたしが食べる」
「で、でも!」
「なぁかずみ。良いこと教えておいてあげるよ」
カオルはどこか遠くを見つめるような寂しい目をして息を吐いた。
それは自分と同じ少女と呼べる年齢の人間が持つ瞳にしては、あまりにも達観している。
牧カオル。過去のかずみと行動を共にしていた魔法少女。
その本質は、記憶を持たないかずみには把握しようもないほどに深いのかもしれない。
カオルは言った。
「食べ物を粗末に扱うやつは悪人なんだ。パンを踏んだ娘は地獄に落ちるんだよ――うおおお!」
「わ、わわ!? カオル!?」
叫ぶや否や、カオルは黒焦げの炒飯を口の中に押し込み始めた。
その様子が明らかに無理をしているようにしか見えなくて、
おかしいやら嬉しいやら、心配するやらで、かずみは涙を浮かべて笑いながらカオルの肩に手を置いた
良かった、と、そう思う。
カオルがいなかったら、わたしはきっとダメだったろうから。
つい昨日のことを思い出して、かずみはふたたび笑った。
そしてカオルの手元に水が注がれたグラスを差し出し、一息吐く。
この勢いなら食べ終わるのにそう時間は掛からないだろう。が、復活するのにはかなりの時間を要するに違いない
朝食は食べ損なってしまったけれど、昼にその分食べればいいのだ。
だから、かずみは昨日の出来事を思い返すことにした。
記憶を失い、街を彷徨っていたかずみが。
かつての親友を自称する、カオルと出会うまでの顛末を。
投下途中だろうけどこれだけ言っとく。
かずみss来たあああああああああああ!!!!!期待!!!
投下終了。
以下注意書き
このスレにはまどか☆マギカおよびおりこ☆マギカの登場人物は基本的には登場しません。
かずみ☆マギカの登場人物も全員登場するわけではありません。
自己解釈に基づいた設定が多数含まれています。
またこのスレはとあるスレのセルフ外伝スレです。
更新はそちらを優先するので加速度的に更新頻度は下がっていきます。
以上注意書き
janestyの末尾整形死ねよ本当もういい加減にしろ、あ、レスは大歓迎です。
失礼しました。更新は現在未定です。
ついにかずみSSが来たか…
期待大。楽しみに待ってるよ
乙
よしきた
スレタイ直訳でコネクトからルミナスか
はてさて
まどかSSだと気がつかなかったわ乙
赤リボンの人かな
乙でした
最初に感じたのは、うすら寒さだった。
次に覚えたのが、心の中にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような寂しく心細い感覚だ。
現象を喩えるならそれは欠落であり紛失であり何よりも喪失に近く。
状態を喩えるならそれは空白であり空疎であり何よりも空虚に近い。
歩く。
ひたすら歩く。
喪い空っぽに成った心のままに彷徨い歩く。
焦燥感に煽られた寒々しい心と身体に鞭を打ち、失くした物を捜し歩く。
誰が悪いというのだ。誰が。何が。どうしてだ?
考えるまでもない――
ならば、どうすべきか。
考えるまでもない――
失ったものは取り戻さなければならない。
街灯に照らされた道をただひたすらに歩き進み周囲を睥睨。
そして乾いた地面を踏みにじり、目的を達成する為に必要な手段を見付け出す。
手段を行使して目的を達成する。
しなければならない。
心に空いた穴を埋めるために行動しなければならない。
そして私は、そっと手を伸ばした。
● ● ●
遡ること、およそ十時間。
かずみは質素ながらも落ち着いた雰囲気のあるカフェに居た。
飾り気の無い椅子に腰を下ろし、同じく飾り気の無い頑丈なテーブルに置かれた物に目を落としている。
ロシア料理の一つである、ビーフストロガノフだ。サワークリームがきれいに掛けられている。
その香りたるや、まさに絶品。それどころか空きっ腹のかずみにとってはもはや毒に等しい。
かずみは視線をそのままにして向かいの席に座る男性に尋ねた。
「食べていいの?」
「……」
無言で頷く男性。
それを視界の隅で確認したかずみは、まるで檻から放たれた猟犬のような勢いでスプーンに手を伸ばした。
そして料理に突き入れ、掬い、口に運んで、咀嚼する。
とろとろに煮込まれたビーフストロガノフのコクのある味が口内に広がっていく。
えも言えぬ幸福を率直に表現するならば、
「わっおいし! 超ウマ、ていうかウマーイ!」
「……静かに食べろ」
「ごめんなさっ――ウマっ! ほんとおいしいどうしようこれやだもー!」
「……」
こめかみを押さえる男性を前に、かずみは思う。
万民が唸る芸術品を前にして感動を覚えた人間が感嘆の声を上げるのは極々自然なことだ。
ならばその芸術品と同等の域に達した料理を食した人間がその感想を逐一声に出してしまうのも、
きっと、自然なことのはず?
そして、かずみはあっという間に皿に盛られたビーフストロガノフを平らげて見せた。
胃に収められたビーフストロガノフとコーヒーは大変満足の行く味だった。
どうやらコーヒーには豆の段階でバターを馴染ませているらしく、バターの味とまろみが微かに伝わってきていた。
だからと言ってコーヒーの香りや味が負けるわけではなく、きっと豆を厳選しているか、絶妙な塩梅なのだろう。
わけあって身体を冷やしていたかずみはそれらを摂取したことで身も心も温まった。
そして充足感から来る眠気が意識を支配しようと間髪空けずにひそかにうごめき始める。
それに気付きながら、満ち足りるということは素晴らしいとかずみは考え、男性に礼を言った。
「ご馳走様! とってもおいしかったよ、お兄さん! それでね、えっとね」
「……」
男性はマグカップに注がれたコーヒーを口にしながら目を細めた。
そして右手で皿を指し示し、
「御飯つぶ」
「え? あっごめんねいま食べるから、んー」
文字通り皿を舐め回す。
御飯つぶを一粒残らず胃に送り込むと、かずみは若干どころかかなりドン引きしている男性を見た。
何かを言おうと口を開き、どのように口に出せばいいのかで悩む。
うーんと唸り、とりあえず一番気になっていることを尋ねてみた。
「どうしてお料理ご馳走してくれたの? それに服まで、どうして?」
「……夜の十時に素っ裸で歩いている子供を見かけたら、保護するのは当然だ」
「あ、それもそうだね」
あっさりと疑問解消
すると今度は男性が尋ねてきた。
「……お前はどうしてあんな時間に素っ裸でいたんだ? 名前は?」
当然の疑問だろうとかずみは思った。
そういった質問や追及が来る可能性は簡単に予想できるものだ。
それゆえにかずみはその手の質問が成されることをあらかじめ考慮していた。
けれども実際に追求されてしまえば、どう説明したら良いものかと悩んでしまうのもまた事実。
「それなんだけどね」
考えても答えは出なかった。
自分の身に起こった現象を複雑かつ正確に説明するには、自分の"記憶"はあまりにもその総量が少なすぎる。
だからと言って目の前の男性に嘘を吐くのは躊躇われた。
下心無しに自分を心配してくれる優しい人に隠し事をするのは、きっと自分が取る行動として相応しくない。
何しろ彼は自分にとって"初めて尽くしの人"なのだから。
「言いたくないなら言わなくていいぞ」
「え?」
真摯な態度を取られてかずみはやや呆気にとられた。
自分が答えに悩んでいたのを別の理由か何かで言いたくないのだと勘違いしてしまったようだ。
かずみはさらに考えを募らせた。
そしてかずみは考え抜いた末に、一呼吸して酸素を取り込み、呟くように口にした。
「わたしの名前はかずみ。たぶん記憶喪失かも」
返答の変わりに、長い沈黙がやって来た。
目の前の男性はかずみの言葉を信じるべきか否かで悩んでいるように見える。
しかし、一笑に付すつもりはないのだろう。
新しく注いだコーヒーを手に取ってはいるが真剣な眼差しはかずみに向けられたままだった。
悪態を吐かれてもおかしくはないと思っていたので、かずみは心の中でひそかに微笑んだ。
すると男性も肩を下ろして諦めたように一息吐いた。
もしかすると表情に出てしまっていたのかもしれない。気をつけなければと考えていると、
「俺の名前は立花」
代わりに男性が名乗った。
とりあえず互いに自己紹介を済ませた形になる。
「じゃあ立花さんって呼んでいい?」
尋ねると、立花はこくりと頷いて二杯目のコーヒーを啜った。
「名前以外の記憶を失った状態で、夜の街を、素っ裸で、空きっ腹で、歩いていた。これでいいか」
「うん、そうだよ! ……はっ、もしかしてこれって事件!?」
「もしかしなくても事件だ。しかし、営業時間外で助かったな」
「やっぱりここって立花さんのお店なの?」
「……微妙に違うが、そうなる。とりあえず警察に連絡するか」
立花はコーヒーを飲み終えると、席を立った。電話をしに行くのだろう。
かずみはカウンターの奥に向かって足を進める彼の背中を見詰め、呟く。
「ごめんね立花さん。迷惑掛けちゃって」
立花は右足を前に出した状態で足を止めると数秒間その場に立ち尽くした。
やがて踵を戻し、先ほどまでとなんら変わらない仏頂面のまま言葉を返す。
「気にするな」
「えーでもー」
「人として当然のことをするだけだ?」
「どうして疑問系なの?」
「いや、そうじゃない。あれだ」
彼は眉をひそめたまま右手で何かを指し示した。
不思議に思い、かずみは首だけを動かしてその視線を追ってみる。
視線の先にあるのは、質素な店の入り口だ。
いや、違う。それだけじゃない。
その向こうに肩を上下させている短い髪の女の子が立っていた。
彼女はガラス戸に手を当て、何かを訴えるように口を動かしている。
声を張り上げているのかと思ったがあのガラス戸はそれほど厚くない。
ということは近所迷惑を考慮して声を上げずに何かを伝えようとしているのだろうか。
「……かずみの知り合いか?」
その疑問に、かずみは首を左右に振ることで応えた。
● ● ●
「まったくもう、心配したんだぞぉかずみ!」
「う、うん……」
見知らぬ女の子に手を引かれながら、かずみは夜の街を歩いていた。
どうやら彼女は記憶を失う前の自分と交友関係にあったらしい。
立花が鍵を外して店に招き入れると、彼女はかずみと並んで写っている写真を見せ付けた。
そして強引にかずみを連れ出したのだ。
季節的にはもう春のはずだが、やはり夜は冷える。
薄いTシャツ一枚だからか妙に肌寒いのを我慢して俯いていると、
「寒いか?」
女の子が心配そうに顔を覗き込んでくる。
かずみは心臓がドキリと弾むのを自覚し、思わず顔を赤らめた。
深い意味は無い。妙な意味も無い。ただ記憶を失ってからこっち、会う人会う人に心配されているなと思っただけだ。
自分は幸せ者かもしれない。
鼓動が収まる頃合を見計らってかずみは首を左右へと振った。
「ううん、だいじょうぶだよ。えっと……」
「カオル。牧カオルだよ。やっぱ憶えてない?」
「うん……」
期待に応えられなかったことで相手をがっかりさせてしまう気がした。
ところがカオルは安堵したように肩を下ろして左手を挙げた。
気にする必要は無いと言外に告げているのだ。
街灯の光を浴びながらかずみの手を引く彼女の背は非常に心強くかずみの目に映った。
街頭の光と光の間で、カオルが不機嫌そうに言った。
山吹色の瞳がすぐ目の前に広がる暗がりを凝視している。
それを見て、かずみは違和感に気付いた。
二人は今、街灯が放つ光と光の間に居る。
光と光の間は2メートル弱。
寝転んで腕を伸ばせば届くほどにわずかな距離。
二人が今居るのはちょうど中心点に近い場所だ。
それはすぐ後ろと目の前に光があるということを意味している。
にもかかわらず、目の前には暗がりが広がっている。
暗がりはずっと向こうまで続いているように見えた。
先ほどまではなかった靄のような暗がりが揺らいでいるからだ。
これは一体――
「――ずみ、かずみ!」
「え? あ、うん!」
自分を呼ぶ声を受けて意識を現実に引き戻された。
気付けばカオルは、左手を暗がりに向けるようにしながら注意深く腰を落としていた。
「かずみ、あたしから離れるなよ」
「う、うん!」
真剣な声音に押されるように頷くと、それを見たカオルが走り出した。
左手を引っ張られながらかずみもそれに続いて走り出し、暗がりの中に身体を突っ込ませる。
>>27
失礼、こちらです
「あたしはかずみと二人で暮らしてるんだよ」
「二人で? 子供なのに?」
「かずみの家とあたしの家はあたしたちが赤ん坊の頃の付き合いでさ。
二人とも両親は海外勤務であたしもかずみも帰国子女なんだ。だから二人暮らし」
「ふぅーむなるほどなるほど、なるほどー」
「ほんとに分かってんのかー?」
「もももちろんだよ!? わたしとカオルは仲良しだったんだよね?」
「そうそう。それだけ分かってれば十分だよ!」
「じゃあだいじょうぶだね!」
「オッケー!」
投げやりでいい加減な言葉を交わしながらも、かずみの心はあまり晴れない。
二人は仲が良かった。――だからこそより一層申し訳ない思いが強くなってしまうからだ。
年頃の少女が二人で暮らすだけでも心細いというのにその片割れが記憶喪失だ。
生活だって不便になるだろう。思い出話に花を咲かせることも出来なくなる。
それは半身を引き裂かれたに等しい。
せめて気を紛らわせるような何かがあれば少しは違うのかもしれない。
だが、そう上手くは行かないだろう。
カオルに手を引かれたまま、かずみは暗く後ろ向きな思考をどんどんと積もらせていくと。
「……あーあ、厄介なのに見つかったな」
「え?」
街頭の光と光の間で、カオルが不機嫌そうに言った。
山吹色の瞳がすぐ目の前に広がる暗がりを凝視している。
それを見て、かずみは違和感に気付いた。
二人は今、街灯が放つ光と光の間に居る。
光と光の間は2メートル弱。
寝転んで腕を伸ばせば届くほどにわずかな距離。
二人が今居るのはちょうど中心点に近い場所だ。
それはすぐ後ろと目の前に光があるということを意味している。
にもかかわらず、目の前には暗がりが広がっている。
暗がりはずっと向こうまで続いているように見えた。
先ほどまではなかった靄のような暗がりが揺らいでいるからだ。
これは一体――
「――ずみ、かずみ!」
「え? あ、うん!」
自分を呼ぶ声を受けて意識を現実に引き戻された。
気付けばカオルは、左手を暗がりに向けるようにしながら注意深く腰を落としていた。
「かずみ、あたしから離れるなよ」
「う、うん!」
真剣な声音に押されるように頷くと、それを見たカオルが走り出した。
左手を引っ張られながらかずみもそれに続いて走り出し、暗がりの中に身体を突っ込ませる。
瞬間、言葉に出来ない異様な感覚が全身を包み込んだ。
それはぬるいお湯の中に身体を投げ出すのに似ているかもしれない。
と言っても、かずみにはお湯に身体を投げ出した記憶はない。
脳に残る知識としての記憶と脳から失われた物語としての記憶が生み出す矛盾だ。
ゆえに、先ほどの思考はぬるま湯に全身を投げ出せばきっとこのような感覚を得るのだろうという推測でしかない。
そんなことを考えている内に、二人は暗がりから抜け出た。
そして目の前に広がる不思議な光景にかずみは目を奪われた。
「なに、これ……」
「あたしたちの敵が棲んでる結界の中だよ」
そこは光と闇が各地に点在するだけの何も無い空間だった。
何も無い? ――違う。それは正しくない。
二人の目の前には、巨大な"ナニカ"があった。
喩えるならば、それは巨大な金平糖に良く似ていた。
巨大な金平糖のような"ナニカ"は巨大な腕を何本も生やして闇の中に聳え立っている。
よく観察してみると、巨大な腕の二本を足のように下に向けている。
どことなく女性的なフォルムながら、しかしその一方で男性的な印象も受ける。
かずみが戸惑っていると、カオルが口を開いた。
「簡単に説明するけどあたしたちはあれを倒す魔法少女だ」
「ごめん複雑に説明して」
「複雑に説明するとあたしたちは悪をぶっ飛ばす魔法少女だ」
「なにも分からないままだよそれ!?」
すうっと深呼吸。
「つまり、わたしたちは正義の味方であれは悪の怪物ってこと?」
「イエス! かずみは物分りが良いな!」
「ふふん、それほどでもないよ!」
やりとりの後、カオルの姿が光に包まれた。
色は山吹色。周囲に点在する無機質な白い光と比べると太陽の輝きに見えなくもない。
やがて光は途切れ、代わりに面妖な衣装に身を包んだカオルの姿が現れる。
「これが魔法少女の戦闘用ドレス。そんでこれが――」
手に取るのは、魔法使いが扱うような杖だ。
「魔法少女の武器だ。そして――」
白と黒の空間内を、カオルは駆け出した。
巨大な"ナニカ"が大きな手のひらを構えて彼女を押し潰そうとしてくる。
危ない、と声を上げる間もなくカオルが巨大な手のひらに押し潰された。
「カオル!?」
「あたしなら平気だよ!」
自信に満ち溢れた声が頭上からした。
かずみは震える足を叩いて落ち着かせながら上を見る。
頭上では、一度目の跳躍を終えて足を伸ばしきった姿勢のまま宙に留まるカオルが居た。
その表情には余裕から来る笑みが浮かび、彼女は大胆不敵に両手を広げている。
「ジャンプで回避!? すごい……!」
それに気付いた"ナニカ"がふたたび手のひらを、しかし今度は宙へ向けて構えた。
カオルはそれを見ても笑顔を崩すことなくその場で屈むように膝を折り曲げ、両手を後ろに引く。
そしてそのまま両の手のひらを自分の後頭部へ向けて押し出した。
両手が輝き、同時に空間が叩かれ、反動でカオルの身体が震える。
異常に気付いた"ナニカ"が手のひらをカオルに向けて発射するが、
「カピターノ・ポテンザ!!」
それよりも早く、カオルの身体が空中で加速した。
同時にカオルは右足を突き出し、飛び蹴りの姿勢のまま突き進んで"ナニカ"の手のひらと衝突する。
"ナニカ"の腕を突き出す速度+質量がカオルに襲い掛かり、
カオルの位置エネルギー+質量+加速分のダメージと山吹色の光が"ナニカ"に圧し掛かった。
そのとき、白と黒の世界に光が満ちた。
続いて何かが砕けるような破砕音が鳴り響く。
そして音に遅れてやってきた衝撃波が風と共にかずみの身体をわずかに押し退けようと吹き荒れる。
目を開くべきか耐えるべきか。かずみは逡巡した後、左手で顔を庇うようにして目を開いた。
目の前では、"ナニカ"の手のひらを貫通したカオルの足裏がそのまま身体を貫いていた。
"ナニカ"の身体を貫通したカオルは上手く地面に転がり込むと勢いを殺して受身を取り、
「……これにて、一件落着――ってね」
言葉と共に"ナニカ"が爆発した。
白と黒の空間に巨大な山吹色の炎が立ち上る。
それはさながら二色の世界に訪れた太陽のようだった。
常識外の光景に目を奪われたままかずみは息を吐き出した。
「すごいよカオル! かっこいー!!」
「まっ、伊達に魔法少女やってないからね。かずみにも出来るよ」
さらりと言ってのけるカオルにかずみはふたたび驚嘆の声を浴びせた。
これは知識としての記憶にも無い常識外の出来事だ。
しかし、常識外と言っても理解不能というわけではない。
理解出来る。
あれはそういうものなのだと本能が自分に囁いているのだ。
記憶ではなく、心が憶えているのだろうか。
カオルと共に戦っていた経験が脳からは失われていても心には刻まれているのかもしれない。
ロマンチックな話だ。しかし有り得ないわけではないはずだ。
かずみはふと、カオルの言葉を思い出した。
『簡単に説明するけどあたしたちはあれを倒す魔法少女だ』
あたしたちは、とはかずみと彼女のことを指しているに違いない。
ということはかずみもまた彼女のように非現実的な力を行使することが可能という意味だ。
カオルのように戦う自分を想像してみるも、残念ながらそちらは上手く想像出来なかった。
生半可な知識が自分の想像を邪魔しているのかもしれない。どうしてこちらの知識は失われたままなのだろうか
かずみは代わりに、別のことを思い出した。
――せめて気を紛らわせるような何かがあれば"という考え。
それに、魔法少女としての活動は当てはまるかもしれない。
「かずみ?」
ハッと息を呑む。
目的を失った思考がスピンして脇道に逸れてしまっていた。
「ねえカオル、さっきのはなんなの?」
カオルは逡巡した素振りを見せた。
答えに窮して、なにやら口ごもっているのだ。
同じ魔法少女――らしい――なのだから口ごもる必要性は無いはずだが。
そうこうしている間に辺りの景色がぐらぐらと揺れて変化し始めた。
不思議な世界は瞬く間に一点に収束して薄れ、元通りの街道に戻ってしまう。
カンッ、と音が鳴る。カオルの足元に宝石のような物が落ちた音だ。
カオルは眉をひそめたままそれを拾い、かずみの質問に答えた。
「さっきのは魔女だよ」
「魔女?」
「少なくとも、あたしらはそう呼んでる」
「じゃあその宝石は?」
「……グリーフシードだよ」
それを足で蹴り上げて胸の前に運ぶとさっと右手を出して握り締めた。
カオルの身体が山吹色の光に覆われて元通りの姿になる。
「細かい話は明日にして、とにかく帰ろう、かずみ」
「え? あ、うん」
そして何事も無かったかのようにカオルは歩き出した。
機嫌が悪そうに見えるのは、果たして自分の気のせいなのだろうか。
● ● ●
「すっご~~~~~い!!」
角を曲がるとそこは豪邸だった。
これはかの有名な作品である雪国のパロディ作品である"豪邸"の一文だ。
他にも"女湯"や"夢の国"や"異世界"などの多彩なパロディ作品も存在するが、それはさておいて。
「……かずみー? あんたいますごいどうでもいい妄想働かせてなかったか?」
「そ、そんなことないヨォ?」
図星を突かれてしまったせいか変な声が出た。
いやしかし、今必要なのは欠けた記憶が齎す重圧と精神的疲労を和らげるための心の安寧だ。
安寧を齎すのは軽快なユーモア。
ユーモアはどうでもいい妄想から生まれる。
妄想、イズ、ユーモア、イコール、安寧。
漢字二文字で始まり漢字二文字で終わるのがポイントだ。
「でも信じられない! こんな大きなお家に二人だけで住んでたなんて」
「事実は小説よりも奇なりってね」
会話をしながら家に足を踏み入れる。
ただいまと言うべきかお邪魔しますと言うべきかで悩んだのは内緒だ。
結果を述べると、かずみはそれらの言葉を口にするよりも先に驚きの声を上げてしまった。
「中も広~~い! 本がぎっしり! トロフィーとかメダルもずらり! すごいすごいよカオル!」
「だろぉ? さてかずみ、あんたの部屋はどこでしょー?」
「むむむ……!」
意地悪だとは思わない。
カオルはカオルなりに普段のように接しているだけなのだと分かっているからだ。
特別扱いしないことでかずみの心を傷付けないようにしている。
その思いやりがかずみには嬉しかった。
あらためて思う。自分は幸せ者だ。
記憶を失い、ふらふらと夜の街を歩いていたとき。
かずみは間違いなく絶望していた。
何にも縋ることが出来ず、何かを呪いたくなるような気持ちだった。
辛いと、心の底から思っていた。
何も憶えていない心細さに涙を流しそうになりもした。
だが、それは違った。
立花やカオルのような人と出会ってそれが良く分かった。だから、
「むっ、奥の部屋がわたしを呼んでいる!」
「なんだそりゃ」
カオルの思いやりに応えるように、かずみは"かずみ"を演じてみようと思った。
複雑ではある。心配もしている。
記憶を失ったかずみの本質と"記憶の有るかずみ"の本質はおそらく違うだろう。
どこまで上手くやれるかは分からない。
しかし、それが今の自分に出来る精一杯の恩返しだ。
密かな決意と共に、かずみは部屋の扉を開けた――
投下終了。
以下どうでもいいこと
次回あのキャラが登場
投下ミスして焦りましたすいません
レスありがとうございます頑張ります
以上どうでもいいこと
>>あのキャラ
眼鏡か、ドジっこか、どっちだ? 乙!
乙。
乙
渇いている。
空っぽゆえにだ。
満たせば潤うが何を満たせばいいのかが分からない。
静まり返った室内でただ欲するのは渇きを満たす何物かだ。
それは心が疼くほどに甘く身が蕩けるほどに温かい物のはずだった。
それを手に入れることで自分の存在意義を見出せるのだと信じて疑わないけれど。
それが手元に無い以上は本当にそうなのかどうかという確信など持てるはずも無いのだ。
心を静めて深呼吸しなければ。
そうは思ってもすぐには切り替えられないのが世の常であり人の常でもある。
そして浮かべた思考の致命的な欠陥部分である"人の常"に気付いて自虐的な微笑を作る。
おかしいとは思わない。
慣れてしまっているのだから。
深い溜息を吐いて右手を伸ばす。
そして私は、そっと手を引いた。
● ● ●
紅茶の本質は香りにある。
香りの良い紅茶は人の心を静め、荒れた神経を安らぎへと誘う。
同じカフェイン系の飲料であり興奮作用のあるコーヒーと違って紅茶には鎮静作用があるのだ。
それゆえに紅茶を愛飲する者の中には味は二の次、三の次だと論ずるものも少なくはない。
ミルクや砂糖を入れるなど言語道断。
そのままの紅茶を味わえという考えだ。
「でもそれはそれ、これはこれなのが世の常人の常だよねー」
かずみは引いた右手の中のカップに視線を落とした。
わずかに波打つきれいな紅の湖面を眺めつつ、スプーン三杯分の砂糖を落とし込む。
砂糖は紅い液体の中でぐずぐずと崩れ、その粒子を液体に絡ませていった。
濁り始めた紅い湖面を叩き割るようにミルクを流し込む。
さらに匙でかき混ぜると、紅色の湖面は瞬く間に香色へと色を変えてしまった。
満足そうに口元を緩め、かずみは紅茶に口を付ける。
「んーっあまい! 紅茶は甘いのが基本だよね!」
「こらこら、香りを楽しめよ香りを」
苦笑混じりに言うカオルはというと、カップに一杯にも満たない砂糖を落としただけだ。
その砂糖もかずみが使用した物とは違い別個の小さな容器に収められた物だ。
「カオルは平気なの?」
「あたしは苦めが好きだからね。コーヒーも飲めるクチだよ」
「わたしだって飲めるもーん、紅茶は甘目が好きなだけだもーん」
「はいはい。これが終わったら魔法のお勉強だぞー」
「はーい」
記憶を喪ってから、すでに三日が経過している。
かずみはカオルから魔法少女に必要な知識を教わりながら生活を共にしていた。
カオルの教え方は非常に上手だ。
かずみが何に困り、何を知りたがっているのかを的確に見抜いて助言するのだ。
魔法におけるイメージの重要性やその理論、基礎応用、諸々を知り尽くしているかのように。
けれども、まだかずみは一度たりとも魔法を使用したことがない。
カオルに禁止されているためだ。
しかしながら、カオルの見立てでは既にかずみの力は並の魔法少女よりも強いらしい。
それを鵜呑みにするわけではなかったが、かずみはひとまず素直に喜ぶことにした。
カオルの教え上手は日常面においても変わることはなかった。
不安だった生活面でのあれこれも難なく解消してくれたのだ。
結果だけを述べるのであれば、かずみは自分ですら驚くほどにあっさりと生活に馴染めてしまった。
その教えの良さを不思議に思わないでもなかったが、それだけ想ってくれていることの表れだとするならば。
感謝してもし足りないと、かずみは心の奥で思った。
「いやしかし、たまには紅茶も悪くないね」
「カオルは緑茶派? コーヒー派?」
「どっちかというとコーヒーかなぁ。緑茶も悪くないんだけどさあ」
「そうなの?」
「明日の朝食に出してやるよ。あれはあれで心が落ち着くから」
「ほんと? ありがと! 実は熱い緑茶も飲んでみたかったんだー!」
二人が紅茶を飲みながら談笑していると、
「っと……いま魔女の気配がしたような」
つい漏れてしまったような、カオルの呟き。
空気の読めない"間女"に腹を立てているような声だ。
しかし機嫌を損ねるカオルとは別に、かずみはチャンス到来とほくそ笑む。
なにせ魔法の使い方を教わっても使用厳禁扱いだ。
手が届くところに絶対に面白い玩具があるが、それを使ってはならない。
ただし玩具の説明書だけは読んでもいいと許可されているようなものだ。
かずみの心の内にある種の欲求不満がないと言えばそれは嘘になる。
もちろん、それだけが理由ではない。
カオルには返しても返しきれないほどの恩がある。
炊事選択を手伝う程度ではとてもじゃないが恩返しをした気分にはなれない。
ならばどうするべきか。
魔法少女にとっての恩返し。
それは共に戦うことのはずだ。
期待をにじませた声で尋ねる。
「ねえねえカオル! わたしが戦ってもいい!?」
「ダメ。かずみにゃまだ早いよ」
即答だった。
まるで役立たずの烙印を押されたまま取り次いでもらえない子供のようだ。
かずみは反論したい衝動に駆られてカオルの顔を凝視する。
しかし、それ以上は何も言えなかった。
カオルの顔には厄介者を扱うような色がなかった。
ただ純粋に誰かを心配するそれのみが存在していただけだ。
その顔を真正面から見据えて文句を言うほど、かずみは恩知らずではない。
「かずみはここで待ってな。あたしが様子見てくるからさ」
「あ……うん」
「グリーフシード引っさげて戻ってきてやるから心配するなよ」
「うん。いってらっしゃい、カオル!」
「行ってきます!」
頼もしい台詞と共にカオルは部屋を飛び出していく。
凛と張られた背筋を見送りながら、かずみは思う。
わたしって、役立たずさん?
……どーなんだろ?
一人ぼっちになった空間でかずみは目を閉じた。
時刻は午後三時十三分。車の通る音も子供の遊ぶ声もしない。
二人の少女が暮らす邸宅が閑静な住宅街の端っこに位置しているためだ。
耳が痛いほどの静寂をお茶請け代わりに味わうように、かずみは紅茶をそっと口にする。
「……静かだなあ」
だからというわけではないが、なんとなく耳元に手を寄せてみる。
室内の空気の流れが感じ取れるだけで、それ以上の収穫は得られそうにも無い。
諦めて手を離そうとすると、
――リン ・ ・ ・
左耳のピアスから、心地の良い鈴の音が鳴り響いた。
このピアスは記憶を失い一糸纏わぬ姿で歩いていた頃から唯一身に着けていた物だ。
カオルが言うには、これが自分の"ソウルジェム"なのだという。
ソウルジェムとは平たく言ってしまえば物質化された魂だ。
魔法少女の要でもあり、切っても切れない"縁"で結ばれた関係にある。
ソウルジェムが失われる時、魔法少女もまた失われる――とかなんとか。
とはいえかずみには難しいことがあまりよく分からない。
人間としての知識は人並み程度には残っているが、
魔法少女としての知識は残念ながら欠片も残ってはいないかったためだ。
だからこそカオルは急ピッチでかずみのために勉強を教えてくれるのだろう。
ゆえに、かずみは深いことは考えないようにしていた。
静寂と鈴の音を堪能しながら紅茶を飲んでひたすら心を落ち着ける。
「あーっ」
そこで香色の液体が底を尽きてしまった。
思わず白くつややかな陶器を睨めど紅茶は戻る気配なし。当然だが。
ふと考える。
たまには苦い紅茶も飲んでみたいと。
なにせ紅茶の本質は香りにあるのだ。
砂糖少なめでミルクを足さない紅茶に慣れれば、カオルとの話題も広がるに違いない。
かずみは右を見て、左を見た。
そして誰もいないことを確認するとカオルのカップに手をつけた。
綺麗な紅い液体をゆっくりと口元へ運び――
「うぇっ――にがっ! なにこれ苦ぁ~い!」
痺れるような苦さが舌を走った。
咄嗟に飲み下し、カップをテーブルに置き直してティッシュで口元を拭う。
想像を絶するような苦味だった。紅茶とはかくも苦い飲み物だったのかと真剣に震える。
……ううん?
強い違和感がする。
どうして紅茶がこうも苦いのだろうか。
少なくともかずみの記憶にあるストレートティーはこれほど苦くない。
それこそコーヒーや緑茶と比べても比較的飲みやすい分類に当たるはずだった。
もちろん香りが受け付けないという人も多いために一言で切り捨てることは出来ないが。
そもそも砂糖が落とされてこの苦さというのも妙な話だ。
砂糖ではなく塩だったという可能性は、ないだろう。塩なら塩辛くなるはずだ。
苦めが好きなカオルが調節したと見るべきなのだろうか。
引っかかるような疑問が妙に不安を煽り、かずみは無意識のうちに服の襟を握り締めていた。
いけないなと自分でも思う。
自分はこういった些細な異変や違和感に動揺しすぎている。
葉が落ちれば悲しみ、風が強ければ気を落とし、雲が多ければ憂鬱になり。
自分らしくない。記憶を失う前のかずみはもっと元気であったに違いない。
けれども、それはそれではないだろうか。
カオルだって、彼女が以前のかずみと違う点があったところで気にしてはいない。
むしろ今あるありのままのかずみを受け入れてくれている。
わたしはわたしなんだから、深く考えちゃ、ダメだよね?
「邪魔するわよ」
「ふぇ?」
静寂が満ち満ちていた室内に聞き知らぬ声が落とされた。
かずみが咄嗟に身構え振り向くよりも早く、声はさらに続けて落とされた。
「あら?」
拍子抜けしたような声色だ。
かずみは身構え、声のした方――二階の窓へ振り向き終えると、声の主をまじまじと見つめた。
声の主は真っ白な修道服に身を包み込んだ少女だった。
角ばったフレームの眼鏡。その奥に隠れた藍よりも青に近い冷たい瞳。同じ色の肩を越す髪。
聡明さと冷静さが滲み出る相貌と、そしてなによりもその表情の奥に潜む深淵さに、かずみは心を奪われた。
窓枠に腰を掛けたまま、修道女は言った。
「その姿は……かずみよね?」
「へ? わたしはかずみだよ。あなたはえっとー」
慎重に言葉を選び、告げる。
「わたしのお友達……なのかな? ごめんなさい、わたし記憶を失くしちゃってて」
「記憶が無いの?」
「うん。わたしもよく分かんないんだけどね」
そう、と修道女が目を細める。
その拍子に青い瞳がかすかに揺れるのをかずみは見た。
内包する複雑な感情に心が揺れるように、瞳もまた揺れているのだろうか。
「カオルは……いないようね」
「うん、魔女を探しに行くって」
「魔女? ふうん」
彼女はいったい、誰なのだろう。
そんなかずみの胸中を察したように修道女はくすりと笑って姿勢を正した。
「私は御崎海香。かずみとカオルとは旧知の仲にあった魔法少女なのだけど、覚えてないかしら」
御崎海香。憶えてはいない――いや。
「そういえば本棚にあった本の作者がそんな名前だったような……」
「それ書いたの私よ」
「ほんと!? そうなの!?」
「ええ、すごいでしょう?」
「すごいすごい! すっごく面白いよあれ!」
「どういたしまして」
皮肉そうに笑う少女、海香の眼差しはどこか遠くへと向けられていた。
どこか寂しそうなそれを見た瞬間、奇妙なことにかずみの胸中を既視感がよぎった。
既視感とは過去に累積した経験と現在進行形で重ねつつある経験が似通っているときに起こるものだ。
そして経験とはすなわち記憶である。
かずみに残された記憶はまだ三日分しかない。あくまで手が届く範囲での話だが。
かずみに残る記憶はこの三日間が全てではなく、忘却の底に伏したまま戻らぬ記憶も存在している。
少なくとも自分ではそう考えている。
消えてしまうよりはそちらの方が救いがあるというものだろう。
ではこの既視感は戻らぬ記憶と今見た映像と引っかかっているのか。
そう思ったのも束の間、かずみはそれが誤りであることに気付くと、ふたたび海香の眼差しをよく観察した。
この果てしないほどの既視感。
それは戻らぬ記憶に起因するのではなく、この三日間の記憶に因るものだ。
「かずみ。私と一緒に来てもらえないかしら」
「え……?」
「私と一緒に来てもらえないかしら、と言ったの」
唐突な提案だった。
もしも彼女の言葉が事実であった場合、
つまりカオルとかつてのかずみが旧知の仲であるならば断る理由はないように思える。
だがかずみは記憶を失った身であり、そして今この場にカオルはいない。
真実は分からないまま。海香の言葉が虚偽である可能性は拭い切れないのだ。
海香に付いて行けば結果的にカオルへの不義理になる可能性だって十分ありうる。
かずみが戸惑い、返答に窮していると、
―――その刹那の間を蹴破るように、文字通り、扉が蹴り破られた。
「そいつの言葉を聞くな、かずみ」
「ええ!?」
物々しい音と共に転がり込んできたのはカオルだった。
先ほど家を飛び出したときとは違い、戦闘用のドレスに身を包んでいる。
彼女は杖を手にしたまま右足を鋼鉄で固め、注意深く身体を斜に構えた。
「どういうつもりかしら、カオル」
「どういうつもりなんだ、海香」
一触即発の雰囲気だ。
目には見えない怒気と緊迫した空気が織り交ざり、
二人の身体から迸る魔力が壁となってぶつかり合っているのが感じ取れる。
二人がいがみ合う理由はおそらく自分の存在にある。
かずみはそれに気付き、そして現状の不安定さを考えて静かに戦慄した。
魔法少女同士が、互いに力を向け合うなんて。
火花すら生じかねない空気の中で先に動いたのは、海香の方だった。
彼女は溜息を吐いて窓枠の外へ半身を投げ出し、冷めた目でかずみとカオルを睥睨する。
「やめておくわ。近接闘術系のあなたと戦って私が勝てるとも思えないし」
どこか冷たく突き放すような物言いだった。
「っ――なあ海香」
「何かしら、裏切り者の牧カオル? 考え直す気にでもなったの?」
「分かってくれよ。あたしはもう嫌なんだ」
「……」
裏切り者? 考え直す?
話が見えない。痒いところに手が届かない。
かずみは素直に疑問を口にすべきか、それとも仲裁をすべきかで悩み、
「また来るわ。その時はジュゥべえも連れてね。でないとあなた、"潰れる"し"乗らない"でしょうから」
「ジュゥべえって……まだ完成してないだろ?」
「すぐに完成するわ。それから――"ミチルもどき"と戯れるのは、ほどほどにしておきなさい」
「海香、あんたなぁっ!!」
カオルの怒号が鳴り響くのに合わせて、海香は姿を消した。
あまりにも突然な事態に、かずみは最後まで何もすることが出来なかった。
その代わりに一つ分かったことがある。
かずみの胸中をよぎったあのとてつもない既視感の原因だ。
海香の、あの遠くを見るような眼差し。
あれはカオルがときおり自分に対してみせる眼差しによく似ていたのだ。
あの眼差しは自分を通した誰かに向けられている。
たぶん、きっと、記憶を失う前のわたしに対して向けられてるんだ―――
投下終了。
以下どうでもいいこと
友なのか
敵なのか
縁なのかとにかく分からんしかし重いなこれはい
以上どうでもいいこと
乙
こうなると他の面子も気になるな
これは乙じゃなくて海香さんの眉間のシワうんたら
一本の苗木があるとする。
それを育てるために何もかもを投げ打ったとしよう。
投げ打ったものは具体的には血と汗と涙と時間と人生と、他色々。
時が経ち、苗木は立派な根を張り陽光を受けてきらめく枝葉を風に揺らしている。
大地には幹の影が差していて、大樹と呼ぶに相応しい姿を誇り、あとは果実が実るのを待つばかりだ。
そんな樹を根こそぎ奪われたとき、人は何を思うのだろうか。
憤り、悲しみに明け暮れ、絶望を抱いて打ちひしがれるだけなのだろうか。
答えは否である。
人は大事なものを奪われたとき、なによりもまず先に行動をする。
大地を踏みしめ、草の根を掻き分け、茂みを探し回り、辺りを見渡す。
それは大事なものであればあるほどに必死に、より懸命に行動をする。
その過程で、さらに大事なものを失ってしまった。
どうすればいいのか?
何がいけなかったのか?
考えど考えど答えは出ない。
その場における最善策を出すしかない。
場当たり的な対応しか出来ない己を呪いながら行動をする。
そして私は、それを解き放った。
● ● ●
『ちゃお! かずみ!』
朝、散歩をしていたら妖精を拾った。
現状を的確に一言で表現するならばこれしかないだろう。
テーブルの上に居座るそれを凝視しながら、かずみは眉をひそめた。
かずみは至って冷静だ。正常な判断も出来ると自負している。自分はまともな人間だと信じている。
普通の人間と違う点などそれこそ数えるほどしかない。
一つ目は記憶が無いこと。二つ目は魔法少女であること。
「ああでも、魔法少女って人間とは違うのかな」
『かずみ! かずみ! そこって一番重要じゃねえか?』
「うんうんそうだよね!」
聴こえる無邪気な声に思わず同意して頭が痛くなる。
普通の人間と違う点に三つ目を加えよう。
三つ目は妖精が見えること。妖精と話せること。妖精を拾ってしまったこと。
厳密に数えれば五つになるがこれは妖精という括りで一まとめにしておこう。
かずみは内心で満足すると、あらためて妖精をまじまじと見つめ観察した。
「あなた、名前は?」
『オイラの名前はジュゥべえ! 魔法少女の相棒(パートナー)、つまり妖精だぜ』
ジュゥべえ――海香という魔法少女が口にしたことのある名前――は猫の姿をしていた。
体と耳は黒の毛で、首元から頭までは白の毛で覆われている。
それだけなら珍しい毛色の猫で済むのだが、妖精が妖精と表現するにたる所以は別にあった。
首元を覆うように膨らむ、まるで縛り付ける首輪のような白い体毛から二本の触手が生えているのだ。
触手と言ってもおどろおどろしい触手ではなく、どこか愛嬌のある三本指の形の触手だ。
そして触手はまるで意思を持った第三の両足――もしくは両手――のように蠢いていた。
その中ほどの辺りには触手を通した金色のリングが支えも無しに浮いている。
糸で吊られているわけでもローターで浮遊しているわけでもない。
ただ初めからそうであったように、悠然と触手を通したまま浮いているのだ。
もちろんそれだけで妖精だと判断したわけではない。
この触手とて街に出て金を掛ければ再現するのは不可能というわけでもない。
が、かずみが妖精と表現した理由は何よりもまず、
「でも作り物にしては出来すぎだよねえ」
『かずみ! かずみ! 本人を前に作り物扱いってかなりひどくね?』
このように人語を介せるからであった。
「まあ仮に妖精だったとして、だからどうなのって思っちゃうんだけど」
『ひでえ……オイラちょっと自信無くしちまう……』
「ごめんごめん」
人間のようにしょげるジュゥべえを見てかずみは安堵の笑みを浮かべた。
心の中を占めるのは、ますます楽しくなるであろうこれから先の生活への期待感だった。
かずみは友達が少ない。正確に述べるなら知人すらも少ない。
カオルと立花、あと近所を散歩していて仲良くなった老婆。それによく分からない魔法少女、海香。
それくらいだ。
経験としての記憶が少ないかずみにとって、
知らない誰かと知り合いになるというのは心が弾むほどに嬉しいイベントだった。
たとえそれが妖精だったとしても、だ。
「ねえ、それでジュゥべえはどんな魔法が出来るの?」
『え?』
「ひらけ! ごまあぶらー油! とか出来ちゃうの?」
『わかんねえ。でもたぶんそれ無理だぜ』
分かりやすく肩を落とし、かずみは頬を膨らませた。
肩透かしを食らった気分だ。魔法の妖精なのに魔法が使えないのは詐欺だろう。
ぶーぶーとケチ付けていると、ジュゥべえは面倒くさそうに首を振った。
『実はオイラ、記憶が無いんだ』
「……記憶喪失なの? わたしのことは覚えてたよね?」
『そこがオイラも不思議でさ。かずみのことだけはよく覚えてたんだぜ』
にわかに信じがたい話だった。
記憶喪失の魔法少女と記憶喪失の妖精。
偶然にしては出来すぎている。もはや作為的とすら言える。
しかも記憶が戻ったと言うことはかずみと行動を共にしていたということになる。
「ね、ねえジュゥべえ? わたしってどんな子だった?」
『うーん、良いやつだったと思うぜ。よくわかんねえけど、いつも一緒に居た気がする』
「そっか。いつも一緒に……」
残念ながら、そのような記憶をかずみは持ち合わせていなかった。
そして過去の記憶が戻る気配は一向に無く手の打ちようも無い。
だがもしもジュゥべえの言葉が真実であるとするならばこれは大きな進展が望めるかもしれない。
かずみが記憶を失った原因とジュゥべえが記憶を失った原因とが重なっているかもしれないからだ。
そしてかずみと違ってジュゥべえは記憶が回復する見込みがある。
濃い霧によって一寸先すら見えない状況下で、しかしかずみはカオルと再会した。
カオルは親切だが記憶喪失に関しては関係を持っていないらしく、何の手掛かりも掴めていない。
そしてそのまま二人で肩を寄せ合い蹲っているところに、ジュゥべえという光明が差したのだ。
カオルがジュゥべえのことを知っているのかは分からないが、それでも話は大きく動く。
上手く行けば――忘却の海の底に封印されているであろう記憶を解き放つことが出来るかもしれない。
試してみる価値はある。
それからジュゥべえと意味も無く戯れていると、玄関の方から物音がした。
きっと見回りに出ていたカオルが帰ってきたのだろう。ジュゥべえを床に下ろして、かずみは考える。
カオルとはあれ以来――海香が家を訪れた日から――どうにも接し辛くなってしまっている。
普段どおりの会話はするのだが、妙に壁があるように思えてしまうのだ。
おそらくカオルは何か厄介事を抱えているに違いない。
それに巻き込まないようにと気を遣ってくれているのだ。
嘘を吐かない、吐きたくないからこそ、壁を作り、遠ざかってしまう。
心優しい彼女の気遣いに嬉しく思う反面、それは同時に重荷となってかずみの心に圧し掛かる。
一方的に気遣われるのは嫌だ。
そう思ってしまうのは、果たして自分が強欲だからだろうか。
友達だからこそ歩幅を合わせたい。
そう願ってしまうのは、果たして自分が傲慢だからだろうか。
葛藤を抱くかずみをよそに、戸が開かれた。
そこには満面の笑みを浮かべたカオルがいた。
「お帰りカオル。遅かったねー」
「わるいわるい、かずみに会わせたいやつがいてさ。ちょっと遅れちゃったんだ」
「会わせたい人? だれだれ?」
「ふふーん、実はな……あれ、かずみ。その指の傷どうしたんだよ」
「……へ?」
正直に白状すれば、緊張した。
やましいことがあるわけではない。
理由を話せば苦笑い半分照れ笑い半分の反応が返ってくることくらいは容易に想像出来る。
だからこそ『今は』隠し通しておきたい、かずみは心の中で思う。
叶うならばとっておきのサプライズと共に打ち明かしたい。
それがカオルへの最大の恩返しになると信じているからこそだ。
かずみは曖昧に笑ってみせた。
他者からすれば変な表情を浮かべているように見えたかもしれないが、
しかし嘘を吐かずに隠し通すための最善策はこれより他に無かった。
「ん、ちょっとね。ねえカオル、それで会わせたい人って誰なの?」
変な表情はカオルが抱えていた案件と上手く相乗効果を発揮したらしい。
カオルも首を傾げただけで深く追求はせず、嬉々とした表情を浮かべて言った。
「人っていうかさ……魔法の妖精がいるって言ったら信じるか?」
信じるも何も、いま足元に居る。
不思議に思いながら、かずみは頷いた。
それを見たカオルは満足気に両手を前に出すと、何かを抱え上げるポーズをして見せた。
「っじゃじゃーん! 魔法の妖精、キュゥべえだ!」
「わーすごーい!」
……あれ?
「……なんかかずみ、あんまり驚いてないね。……どうしたんだ?」
「えっと、そのキュゥべえはどこにいるの?」
沈黙が芽生え、気まずい雰囲気になっていく。
何かを抱え上げるポーズをしたままのカオルを見上げて、疑問に思うことがあった。
カオルは一体、何がしたいのだろう。
何かのジェスチャーなのだろうか。それともパントマイム?
まさか『アホの子には見えない魔法の妖精』などではなかろうか。
もしそうならばこちらにも相応の対処法があるというものだ。
ところがカオルは心底不思議そうにしていて、良からぬ企みを水面下で進めているようにはとても見えない。
「……見えてないのか?」
あまりにも素直で率直な疑問をぶつけられてかずみは返答を躊躇った。
しかし嘘を返せばそれは不義理だ。ゆえにかずみはありのままの事実を述べた。
「わたしには見えてないよ。それとね、キュゥべえじゃなくてジュゥべえなら知ってるし見えてるんだけど」
『ちゃお! オイラはジュゥべえ! カオル……だっけ? よろしくな!』
一拍。
「ジュゥべえ!?」
突然カオルが耳をつんざくような大声を上げた。
その顔は驚きと困惑に満ち満ちている。眉根は険しく皺を刻まれて瞳はゆらゆらと揺れていた。
わなわなと震える口元から溢れ出る言葉はやはり疑問の音を孕んでいた。
「……なんで、ジュゥべえがここに?」
「うん、それがこの子も記憶喪失みたいで分からないんだって」
「記憶喪失? いやそれ以前にキュゥべえが見えてないって……そんな、でも……」
「カオル?」
かぶりを振り理解できないと眉根を寄せるカオルは見るからに狼狽している。
だがしかし、彼女にとっては不理解であっても自分には理解に通じる。
つまりジュゥべえの存在は彼女が抱える案件と何か繋がりがあるということだ。
不安が胸を過ぎるのを自覚しながら、かずみはさらに尋ねた。
「あの、カオル? キュゥべえのことなんだけど」
「どう思う?」
「へ? うーんと、どう思うって言われても」
「箱庭計画……あたしは記憶を保持したままなんだからそれはないだろ。じゃあ何でだ?」
かずみの返答を無視してカオルは独り言を――会話を続けた。
それを目撃する至って、かずみはようやく気付く。
いま目の前にいるのはカオルだけではないのだ。
おそらくは彼女がさきほど口にしたキュゥべえが彼女には見えていて、
そのキュゥべえの言葉もまた彼女には届いているのだ。
自分には見えず、聴こえずとも、彼女は違う。
言葉に出来ないじれったさが静かに心の中で膨れ上がる。
他者との違いがこうも胸をくすぶるとは思いもしなかった。
「ねえカオル! いったいなにが――」
「悪いかずみ。ちょっと出てくる」
返事をする暇など無かった。
カオルは床を蹴って身を弾き、弾丸のような勢いで家を飛び出てしまう。
ようやく喉から声が漏れたときにはもうカオルの姿はそこになかった。
しんとした部屋に取り残されたかずみとジュゥべえ。
二人はどちらともなく顔を見合わせ、首を傾げるしかなかった。
カオルの心の中でいったいどのような推理が繰り広げられたというのか。
推察するにも材料が少なすぎてあまり意味があるようには思えない。
はうっと深い溜息と共にかずみは肩を落とした。
以前から感じていた心と心の距離感。
自分のことを想い、だからこそ連れ回そうとしないカオルの気遣いが生ずる垣根。
それを取り払いたいと、心底思ってしまう。
海香という少女と、このジュゥべえとが何らかの糸で結ばれた関係なのはすでに百も承知だ。
そしてかずみの記憶喪失に連なる糸もそこにあるに違いない。
そのことをカオルに相談したかった。
彼女の笑い声を聞きながら、本当のことを話してもらいたかった。
けれども――彼女はこちらの声に応えてはくれない。
何も話さぬことで決着とし、全てをその身に抱えて突っ走ってしまう。
カオルには感謝している。しかし、そのままではかずみは彼女を信頼出来なくなってしまう。
この場は思考を停止することで全ての問題を先送りにするしかなくなってしまうのだ。
それでもなお思考を走らせれば、行き着く先は不可解なカオルの言動に対する疑問の山。
疑問はすぐに不信へと変わってしまう。
そんなのは嫌だ――かずみは思う。
信じられないのは嫌だ、と。
それゆえに、かずみは思考を停止した。
ジュゥべえを抱え、なにをするでもなくただ呆然とその場に居続けるだけ。
それが不信を消す最良の手段だからだ。
結果的に言えば、二人はただ時間を潰すことしか出来なかった。
―――ぐうぅ
時間を潰した結果、腹の虫の音が響いた。
春の陽気な暖かさすら寒く思えてしまう静けさの中でそれはあまりにも激しい主張となった。
腕の中にいるジュゥべえのニヤニヤしたいやらしい目付きを煩わしく思いながら、
壁に掛けられた真新しい時計に目を向けた。
短針はすでに3時を回っていた。
そういえば、昼食がまだだった。
「ホントはカオルと食べたかったんだけど……」
『どうすんだ?』
「うーん……立花さんのカフェに行ってみよっか?」
『タチバナさん』
疎外感と憂鬱な心を癒すにはあそこが最適だろう。
カオルとの関係も可能であれば相談してみたい。
彼ならきっと的確な助言が下せるに違いないと、根拠の無い理由を胸にかずみは家を出た。
――消しきったはずの不信の種火が心の中で育っていたことを、かずみはまだ知らない。
投下終了。
以下どうでもいいこと
見えないのは
見ようとしないからか
見る資格がないからかしかし遅くなりましたすいません
以上どうでもいいこと
乙ー
乙
原作では出来なかったが、べえさん同士では会話できるんだろうか
現在更新準備中。もうしばし掛かる模様
プラスの側の思考を持つということは、マイナスの側の思考の存在を肯定していることになる。
すなわち幸せな者は必ず不幸になり、希望は必ず絶望へと転化する。
おかしな話だが、現実に存在している確かな不文律だ。
人は身に余る幸せになってはならず、希望を認識してもならない。
それが考え抜いた末に辿り着いた結論であるとするならば、自身の行いは全て無駄であったということだ。
行いと呼ぶにはあまりにも重く、災いと言うにはあまりにも純粋で。
あえて言葉にするのであれば、それは業。
誰もが業を背負って生きている。
生きていれば、必ず死に至る。
無茶苦茶な不文律。
度し難い現実。
それでも自身の心から湧き出る欲望は抑えられない。
抑える術を知らないし、抑える気も最初から無い。
全てやり直せばいいのだ。
何もかも元通り。
だから私は、もう振り返らない。
● ● ●
かずみはレパ・マチュカの戸を開くと、店内をぐるりと見渡した。
レパ・マチュカとは立花が勤めている食事処――実質喫茶店――の名称だ。
最近になって知ったことだが、レパ・マチュカはあすなろ市でもかなり評判の高い喫茶店らしい。
店の看板メニューであるイチゴリゾットが特に評判で、それを目当てに県外から訪れる人も少なくないそうだ。
『すっからかんだなー』
ジュゥべえの言葉にかずみは頷いた。
評判の高いレパ・マチュパの現在の客数は、たったの一人。
彼女以外には誰もいないのである。
時刻は午後三時過ぎ。ピークは過ぎたものの、二人や三人はいてもおかしくない時間帯だ。
時間潰しの者や営業周りのサラリーマン、学校帰りの学生、その他諸々……候補を挙げれば切りがない。
不審に思いながらもカウンター席に着いて一息吐いていると、すぐに立花が顔を出した。
疲れているというよりは呆れている表情を浮かべている彼に会釈を送ると、彼は苦笑して頷いた。
「よく来たな。今日は決行日だから来ないと思っていた」
「えへへ、ちょっと予定が変わっちゃって。ところで今日、なんだかお客さん少なくない?」
「それがな」
痛いところを突かれたのか、彼は苦虫を噛み潰したように苦しげな顔をする。
基本的にクールな立花がこうも負の感情を発露するのはとても珍しい。
かずみの思考がシーソーのように好奇心と心配の境界線を行ったり来たりする。
それに気づいたのか、彼は肩をすくめてかずみの頭に手のひらを乗せた。
ぴょんと突き出た髪が強制的に寝かしつけられる。むず痒い感覚がじわじわと伝わってきた。
それだけならば非難の声を上げてしまえばいいのだが、それだけではなかった。
彼の大きな手のひらから伝わる、じんわりとした温もりが心地良いのだ。
カオルと同じだ――
かずみがくすぐったそうに身震いする。
それに気づいた立花は手を離して言った。
「子供は気にするな。それで、どうする。食事か」
「うーんっとね……」
この店を訪れた目的は食事だ。その問いかけを否定する理由は見当たらない。
しかし、現在店にいる客はかずみ一人。この状況を逃すのは惜しい。
今ならばもう一つの目的を達成することも不可能ではないはずだ。
かずみは期待を込めた上目遣いの瞳で立花を見上げる。
「あれ、お願いできるかな?」
「またか」
「ダメ?」
「……客もいないからな。特別だぞ」
やれやれと呆れながらも、口にする言葉はどこか優しく温かい。
それはかずみが予想していたリアクション通りのもので、だからこそかずみは複雑な気持ちになる。
お人好しな彼に甘えてしまう自分が嫌になるというわけではないが、それでも心苦しくならないわけではないのだ。
「ありがと、立花さん。今度なにかお礼するね!」
「期待しないで待っておこう」
「そこは期待しててよー」
そこでやっと、彼は微笑と呼べる笑みを浮かべて頷いた。
● ● ●
「はっ、んっ……」
「んっ……どう?」
「そうだな……」
「やっぱり、ダメ?」
「……いや、これなら合格だろう」
「ぃいやったああぁーっ!」
ビーフストロガノフが盛られた二つの皿を前にして、かずみは歓声を上げて立ち上がった。
そのまま笑顔でガッツポーズ。小躍りしそうな気分を抑えきれず身体全体を使ってリズムを取り始める。
それを眺める立花もまた嬉しそうに目を細めていた。
「この短い期間でずいぶんと上達したな」
「ふふーん、そりゃあたくさん作ったから! 立花さんにもたくさん教えてもらったし!」
――先のお願いの内容。それは立花にかずみの料理の特訓に付き合って貰うことだった。
残念ながらかずみに料理の才能は無いらしく、あまり上達する速度が速いとは言えない。
失敗に失敗を重ね、基本に忠実、反復練習を繰り返すしかかずみには選べなかった。
その途中で包丁で指を切ることや手が荒れることも少なからずあったが……
それらを厭わずに、かずみは隙を見つけては特訓を続けていた。
そうまでしてでも料理の腕を上達させたい理由が、かずみにはあったのだ。
「……サプライズの決行が遅れたのは、かえって運が良かったかもしれないな」
「うん、でも余計に緊張しちゃいそうかも」
「うまく行くといいな。恩返し」
激励の言葉を受けて、かずみは精一杯の笑顔を彼に返した。
かずみが特訓をする理由。それが恩返しだった。
恩返しの相手はカオルだ。そちらの理由はわざわざ言葉にする必要もないだろう。
カオルが外出中かつ店が混んでいない時間帯を狙って店に通うのは大変苦労した。
カオルに気づかれてしまってはサプライズもなにもあったものではないからだ。
かずみは達成感を得ると共に、どっと押し寄せる疲労感に押し潰されるように椅子に座り直した。
「でもなんだかへろへろかも……」
「無理もないだろう。……コーヒーを淹れてこよう」
「ありがとー立花さぁん」
間延びした返事をしながら、かずみはカウンターに体を倒した。
そして、それまでかずみのそばで沈黙を保っていたジュゥべえの頭を撫でる。
なんとも言えない奇妙な触り心地を堪能しながら、かずみは厨房の方へ視線を向けた。
立花の姿が見えないのを確認し、かずみはそれとなくジュゥべえの方に皿を近づける。
「……今のうちに食べていいよー」
『ほんとか! じゃあありがたくいただくぜ!』
即座にビーフストロガノフへ飛び掛るジュゥべえ。
その姿は犬や猫のようなペットというよりもどこか人間の子供に近い。
あまりにも無邪気でだからこそ愛くるしい妖精を、かずみはずっと見守っていたくなる。
正直に告白すれば、かずみはジュゥべえのことを他人とは思えなかった。
外見どころか種族がまるで違うのは百も承知だ。しかし、それでもだ。
血を分けて生まれた兄妹とまでは言わないが、それ相応の親しみを感じられる。
もちろんかずみに兄や弟などいないし、仮にいたとしてもその記憶を持っていない以上は錯覚でしかない。
それでも、なのだ。初めて目にしたときから、ジュゥべえはかけがえのない存在に思えてならなかった。
おそらくはかずみとジュゥべえが覚えていないだけなのだろう。
二人の間には、忘れ去られた過去には、何か深い関わりがあったに違いない。
そう思うと過去の記憶が欲しくなるが、如何せん手に入らないものはしょうがない。
諦めるわけではない。が、今は無いものねだりはやめて、現実に目を向けなければ。
『ゲェーップ……うまかったぜ、かずみ!』
「ジュゥべえ、ちょっと行儀悪いかも」
ジュゥべえはあっという間にビーフストロガノフを食べ終えてしまった。
満腹そうに目を細めて毛づくろいをする彼から目を離し、かずみは一息吐く。
料理は上達した。それは実感した。才能ではないが、努力は実った。
問題はいつカオルに切り出すかだ。タイミングは重要だろう。それに盛り上げ方も大事だ。
そしてカオルとの間にある見えない溝を埋めたい。
そこでかずみはこの場所を訪れたもう一つの理由を思い出した。
● ● ●
「カオルといるのが気まずい?」
「気まずいっていうのとはちょっと違うかも……でもなんだろ、ぎくしゃくしてるんだ」
かずみの言葉に立花は首を傾げた。不可解という言葉が顔に張り付いている。
彼はコーヒーを口にしながら難しげに眉にしわを寄せて沈黙した。
真剣に悩まれてしまい、かずみは逆に困惑してしまう。
無愛想だが気の良い優しい彼にこの相談をしたのは失敗だったかもしれない。
これで彼に必要以上の負担を強いてしまうのはかずみの本心ではないからだ。
「立花さん? そこまで真剣に考えなくてもへーきだよ?」
返事はない。
ゆえにかずみは押し黙るしかなかった。
数十秒の沈黙の後、立花はやはり不可解そうに首を傾げて言った。
「嘘を吐いているわけじゃないんだろう?」
言葉の意味を考える。
確かにカオルは嘘を吐いているわけじゃない。
ただ厄介ごとを抱えてそれを隠し通そうとしているだけだ。
かずみが頷くことで肯定の意を示すと、立花はしわを戻してさらに続けた。
「だったらこれでおあいこ様だな」
「おあいこ?」
頷き、立花はビーフストロガノフの皿を指で示す。
それでようやくかずみは彼の言いたいことを理解した。
自分も隠し事をしている。だからこれでおあいこ様だと。そういうことだ。
「どれだけ仲が良くても、他人に言えないことは誰にだってある」
「立花さんも?」
「ああ。カオルは嘘は吐いていないんだろう。なら待ってやればいい。
嘘を吐かないのはかずみ相手に嘘は吐きたくないと思っている証拠だ。良い子じゃないか」
嘘を吐きたくない――良い言葉だ。
カオルは嘘を吐かずに何かを隠し通そうとしている。
たとえそれでかずみに不信感を持たせてしまおうともだ。
それはひとえにかずみを思いやる心から来ている。
そんなことは分かっている。知っている。嬉しい。ありがたい。
しかしかずみにはその思いやりが重たい。こちらから駆け出して彼女の手を取りたいと思ってしまう。
それでも、
「辛くても待つしかない。本当にカオルが苦しくなったときには、必ずお前を頼るはずだ」
立花は待てと言った。
嘘を吐かないカオルのことを信じて待ち続けろと。
彼女が自らかずみに打ち明けるのを待て――と。
「それでもカオルがお前を頼ろうとしなかったら、そのときは手を取ってやればいい」
……まるで恋する乙女のようだ。
自宅にあった初恋はミルキーウェイという古い小説を思い出して、かずみはくすりと笑みをこぼした。
それを見た立花もかすかに笑ってコーヒーを口にする。
待つ身は辛いが、彼の言葉を信じてみよう。
かずみはそう決断して、彼が注いでくれたコーヒーを口に運ぶ。
砂糖とミルクのおかげか、ほんのり甘くまろやかな味が口いっぱいに広がってゆく。
それでもコーヒーの風味はしっかりと残っている。温かくておいしい。
そのまま穏やかに流れる優しい時間に身を委ねていたときだ。
すぐ後ろの方で何かがごとっとぶつかる音がした。
あわてて後ろを振り返ってみると、壁に立てかけてあった絵画が床に落ちていた。
「妙だな。あの絵が急に落ちたことなんてないんだが」
「ええっ、なんだかそれ怖い……」
『ユーレイの仕業かよ!?』
突拍子もない事を言うジュゥべえの頭を指で小突いてやる。
その間に立花は絵画の方へ近づき、訝しげに様子を見ていた。
どうやら絵画が落ちてきたことがよっぽど不思議らしい。
好奇心に駆られて、かずみは床にしゃがみこんでいる彼の背中越しに彼の手元へ視線を注ぐ。
そしてそこにあるものを見て――なるほど、確かに不思議だと、かずみも思った。
立花と同じようにしゃがみこみ、彼が手にする絵画の背をまじまじと見つめる。
絵画の背には、一冊の本が張り付いてあった.。
絵画が固定されていたおかげか埃は被っていないものの、かなり古そうに見える。
「それ、立花さんの?」
「いや。……何か書いてあるな」
ぺりっと音を立てて本を剥がすと、その本のタイトルらしき文字が見つかった。
その本のタイトルにはかわいらしい文字でこう書かれてある。
『 D i a r i o
M ・ K
EPISODIO DUE 』
投下終了
以下どうでもいいこと
待てど暮らせど
どうにもならないときは
どうするべきかすいませんすいません次から更新ペース上がりますまだ落とさないで
以上どうでもいいこと
お疲れさま。待ってるよ
生きてたか
次からは定期的に生存報告頼む
気長に待ってる
おつ
Diarioってことはあれか
5月16日
今日はみんなで観光旅行!
行き先はなんとあの見滝原市!
フッコーシエンのためにたくさんおみやげ買っちゃうよ!
カオルが木刀買いたがってたけど売ってるのかな?
海香はやっぱり本がお目当てなんだって
見滝原に着いたらあのイタリア語のお姉さんと出会っちゃった!
お姉さんの名前は巴マミっていうんだって
しかも杏子もそこにいたんだ!
偶然の再会って重なるものなんだねー
お話しようとしたら敵が現れたからそのまま戦うことになったんだ
わたしたちもたくさん強くなったと思ったんだけど……
マミさんにはまだまだ敵わないなって実感した
杏子もあのときよりもずっと強くなっててちょっとショック
この日はホテルに泊まったよ
そしてみんなで枕投げ!優勝者は……
じゃじゃん!ニコでした!枕ミサイルはずるーい
あとわたしのピアスがどこかにいっちゃって大忙し!
みんなのおかげですぐに見つかったけどちょっと反省しなきゃね
5月17日
旅行二日目
マミさんたちに案内されて見滝原観光
風車がたくさんある! なに考えて作ったんだろ?
学校がすごい大きい! ほんとに中学校?
見るたびに屋上がハデになってる気がしてコワイ
マミさんに聞いたらTV用とBD用と劇場版用って言われた
なんだろ???
お昼ごはんは喫茶店
いつものお店と比べるとちょっぴりランクダウン?
いやいやそれでもおいしかったよ
里美が窓の外にいる黒猫に夢中でかわいかった
それから壊れた建物や慰霊碑を見て回った
もしもわたしたちがあのときここにいたらと思ってしまう
サキが仕方ないさって励ましてくれたけど
でも……
マミさんがわたしたちのことを聞きたがっていたのでいろいろお話した
しきりに感心されちゃった
もしかしたらわたしたちみたいなチームを作るかもだって
杏子は反対みたいだけどどうなるんだろ?
そしたらわたしたちがチームとしては先輩さん?
なんだか照れちゃう
この日はホテルに戻ったらみんなすぐにぐっすり zZZ
● ● ●
――これらはレパ・マチュカに隠されていた本の内容だ。
内容からも読み取れるようにこの本は日記帳と見てまず間違いない。
読めない部分もあったがおそらく時間の経過による劣化か単純に文字が汚いせいだろう。
かわいいけれどそこまで崩れていない丸文字によって綴られている日記帳。
魔法少女たちが遊んで笑って仲良くしながら誰かを助ける希望に満ち満ちた記憶の塊。
読んでいるだけで幸せになれてしまう、不思議な過去の記録の海。
胸が、痛い。
知らず知らずのうちに少女は目を細め、その黒髪を震わせた。
瞳の奥でなにかがあわただしく揺れ動いている。
ぎりっ、と静かに鳴るのは彼女が歯軋りした音だった。
かずみは頭を振って思考を整理した。
そしてハードカバーの日記帳を閉じてその表紙に刻まれた文字を指でそっとなぞって声に出してみる。
「Diario M ・ K EPISODIO DUE……」
「イタリア語だな」
「そうなの?」
「ああ。……知らなかったのか? きれいな発音だから知ってるのかと思っていたが」
日本語に直すと『M・Kの日記帳 二章目』になるのだと彼は説明した。
二章目なのだから一章目もあるのかもしれないが、店を調べてみてもそれらしいものは見当たらない。
そもそもこれがどうしてこの店にあるのかすら分からない以上は仕方が無いかもしれない。
とはいえ問題はそこではなくこの日記帳の中身だ。
「カオルと海香の名前がある……」
かずみの唯一無二の親友とその親友といがみ合っていた少女の名前だ。
日記帳をあらためて開き内容に目を通していくと彼女らはとても仲が良いことが窺い知れる。
今でこそ敵対関係にあるが昔は違ったのだろう。
彼女達の間で何かが起きたのだ。仲を違えるきっかけになった何かが。
ページをぱらぱらとめくるとそのあの『キュゥべえ』の名前が見つかった。
ジュゥべえではなくキュゥべえ。カオルが紹介すると言っていたあのキュゥべえだ。
日記帳には筆者と戯れるキュゥべえの存在が記されている。
かずみには見えなくとも、やはりキュゥべえは確かに存在していたのだ。
それだけならまだ平然としていられる――そう心の中でかずみは思う。
だがこの日記帳の筆者の正体が自分の推測通りの人物であった場合は違う。
この日記帳の筆者。
彼女はおそらく、いやきっと。
心の声が推測を言葉という形で表現しようとする。
しかし推測が言葉に形成されるよりも速く。
向かいの席に座っていた立花が口を開いた。
その口からこぼれた言葉はかずみが心の中でつむごうとした言葉とほとんと同じ内容だった。
「これの筆者はお前じゃないのか」
「――っ」
分かってはいたけれど。
覚悟はしていたけれど。
胸が詰まって息苦しくて。
べつに悲しいわけではないのだ――と、かずみは誰に言い訳するでもなく心の声で言った。
仮に筆者がかずみ自身だった場合、これは記憶を取り戻す貴重な手がかりとなる。
だから悲しくなんてない。
むしろ嬉しい限りだ。
幸せになれるだろう。
胸のつかえもとれるはずだ。
だからかずみは悩まないように笑顔を作り、立花に向かって微笑んだ。
「立花さんもそう思うよね? わたしも同じこと考えてたんだ!」
筆者がかずみ自身だという考えにいたる理由はいくつかあった。
一つは語調。気分の良いときのかずみに似ていなくもない。
もう一つはカオルと親友だということ。カオルに親友がたくさんいれば話は違うが今回は無視する。
そしてもう一つが魔法少女であるということ。
これがかずみがこの筆者が自分であると思う一番の理由だ。
しかし立花はなぜ筆者がかずみだと推測したのだろうか。
魔法少女に関する文面はとっさに手で隠しながら読み進めたし、彼は魔法少女のことは何一つ知らないはずだった。
とすると語調とカオルとの接点だけでそうだと確信したことになる。
不思議に思い、首を傾げる。
すると立花は眉間にしわを寄せて指をかずみへと向けた。
その指先が示すのは――ピアス。
ハッと日記帳へ視線を戻し、最初に読んだページを開く。
確かにピアスについて触れられていた。
「その歳でピアスを身につける子供はあまりいない」
「うぇっ!? そんな理由なの!?」
『タチバナのが一枚上手だなーこりゃ』
ジュゥべえ、ちょっとうるさい。
「どうして日記帳がうちの店にあるのかは分からんが……良い機会じゃないか」
「え? なになにどういうこと?」
唐突な言葉に呆気に取られるかずみを尻目に立花は日記帳を指差した。
「それを持って帰れば話題だって出来るだろう」
立花は普段と同じ無愛想な顔のまま言った。
注視しなければ分かりづらいがその口元はかすかに緩んでいる。
「思い出話でもすればぎくしゃくした関係も修繕できるんじゃないか」
少女がその言葉の意味を理解するのには多少の時間を要した。
そして彼女がそれを理解したときその表情は呆けていたそれから喜色に満ちたものへと変わっている。
喜びを噛み締めるようにはにかむ彼女を見て立花は満足そうにコーヒーに手を付ける。
「うん……うん! できるかも!」
「そうだろう?」
「ナイスアイディア! 立花さんってひょっとしてすごい人?」
「いや」
口の端を引きつらせる彼を見てかずみは笑った。
「それよりも、いいのか?」
立花に促されて時計を見ると、時計の短針はすでに五の辺りを指していた。
相変わらず客はかずみしかいないが、さすがにこれ以上長居するのは彼に失礼だ。
客は来なくとも彼には仕込みや準備の時間が必要なのだから。
かずみは立花に振り向くと申し訳無さそうに手を合わせて頭を下げた。
「今日はごめんね立花さん、こんなにたくさんお話しちゃって」
「気にするな。頑張れ」
「うん! ありがと立花さん! ちゃおっ!」
『ぐうぇっ!?』
かずみは今日一番の華やぐような笑顔を浮かべると日記帳を掴みジュゥべえを手際よく肩に乗せて駆け出した。
先ほどまではどうにも曇り空のように複雑な心境だったが、今はとても晴れやかな気分だった。
日記帳の謎はいくつか気にならなくもないけれど、それも含めてカオルとの話題の種にすれば良い。
はやくカオルに会いたい。
心からそう思えた。
● ● ●
「たっだいまぁー!」
いつもと同じ明るい力強さのある声を聞いてかずみはほっと息を吐いた。
カオルは家にかずみがいないとすぐに心配するきらいがある。
そしてかずみが帰宅したのはちょうど2分前。
カオルに心配を掛けずに済んでほっとする反面、ギリギリセーフだったせいで冷や冷やする。
かずみはカオルがリビングに来るまでの間に日記帳を懐に隠すようにしまいこんだ。
カオルが来たら日記帳をじゃじゃんと見せて、それから料理をしよう。
おいしいごはんを食べながら、これまでのことを語ってもらって、これからのことを一緒に語るのだ。
少女はこらえきれない喜びをふっと笑みをこぼすことで表現した。
目尻は下がり、口元は緩み、肩を揺らしてリズムを刻むその様子はまるでご馳走を前にした子供のようですらある。
壁時計の針が進む音をBGMに心地良さそうな表情を浮かべてかずみはカオルの到着を待った。
「やっほー、かずみ! 待たせちゃったかー?」
そしてカオルが部屋に入ってきた。
彼女は肩を自分の手で揉みながら心底疲れたような表情を浮かべていた。
「ううんそんなことないよ、おかえりカオル! なんだかお疲れさん?」
「そこで魔女と戦っちゃってさー」
「ほんと!? ケガとかしてない? ダイジョーブ?」
「ゼンゼン平気、かずみは心配性だなぁ」
「ほんとぉ? それならいいけど」
よし、切り出そう。
かずみ視点では絶妙なタイミングで口を開く。
「……そうだ、さっきレパ・マチュカでね」
「かずみ」
ところがカオルはかずみの言葉を遮るように言った。
その表情は強張っていて眼差しは真剣そのものだ。
「……実はさ」
――辛くても待つしかない。本当にカオルが苦しくなったときには、必ずお前を頼るはずだ
面倒見の良いシェフの言葉を思い出す。
予想よりもちょっと早かったけれど。
相談した意味がないような気もするけれど。
それでも待った甲斐は確かにあったのかもしれない。
かずみは続くカオルの言葉を、彼女同様に真剣な面持ちで待った。
そして彼女は両手を顔の前で叩き合わせ、がばっと勢い良く頭を下げて――
「さっき話したこと、全部嘘だったんだ!!」
「……え?」
目の前にいる少女が何を言っているのか分からない。
そんな風に目を丸くして口を開いたままかずみはぽかんと固まり続ける。
「キュゥべえなんていなかったんだよ」
「いないの?」
ああ、と大きく息を吸い込み、
「ほんとはジュゥべえを紹介するつもりだったんだ。
でもジュゥべえのやつとハグレちゃってさあ。
そんで家に戻ったらかずみと一緒にいただろ?
なんだか恥ずかしくなってつい嘘吐いちゃったんだ。
だからキュゥべえってのは咄嗟にあたしがでっちあげた架空の妖精なんだ、ごめんなさい!」
まるで用意していたかのように並べられていく言葉を受けて少女は難しい表情を作った。
実際、いまの台詞はあらかじめカオルが用意していたものなのだろう。
彼女の言い分が事実であればカオルはかずみに嘘を吐いてしまい相当困っていたはずだ。
だからカオルの言葉が事実であれば何も不思議なことではない。
『でもオイラ、カオルと一緒にいた記憶なんてないぜ?』
「かずみと同じで記憶がちょっと飛んでるんだよ。なんとかしてやらないとな」
『ふーん、じゃあ素直に白状したカオルって良いやつなんだな』
「いやいや、でも嘘吐いたことに変わりはないからな。ゴメンよ二人とも」
嘘を吐いたと打ち明けてくれたのだ、カオルは。
親友に嘘を吐いたままでいたくないという彼女の想いのなんと清く正しいことか。
それが真実であるならばカオルという親友を持てたことをかずみは一生の誇りに思うだろう。
「そっか。キュゥべえなんていなかったんだ」
「もちろん、キュゥべえなんていなかったんだよ。……かずみ?」
自分の反応を窺うような控え目な声に気づいてかずみは笑顔を作った。
無理に笑顔を作るのはもう慣れてしまったから。
完璧な笑顔を作れたはずだ。
今度も。
「へーきへーき、わたしは気にしてないよ? むしろこっちがごめんね!」
「そっか良かった……よし、それじゃあ今日は外食でもするか!」
「ええー?」
「わだかまりも無くなったことだし、たまには良いだろ? なんでも注文して良いぞー!」
「ホント? それじゃあわたし何頼もうかな? そうだ、わたしちょっと着替えてくるね!」
悩む素振りを見せて首を揺らしながらかずみは席を立った。
古めかしいハードカバーの日記帳をしっかりと隠し持ったまま。
両手の絆創膏――料理の特訓の証――をカオルに見えないようにしたまま。
椅子に座ってジュゥべえとじゃれあいながらくつろいでいるカオルを背中越しに見つめて。
部屋を出て、扉が閉まろうとする直前。
カオルに届かないような微かな声で、
「ウソツキ」
そっと、呟いた。
投下終了
以下どうでもいいこと
嘘が不信を呼んで
不信が疑心に成って
存在しない鬼を作ってしまうみたいな。このスレのかずみ暗すぎる……どうでもいいけど日記のミッライーンは狙ってます
以上どうでもいいこと
乙
このかずみ何者なんだろ
乙
どうやって生まれたのか気になるところ
そろそろ危ない
まだかな
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません