男「俺はショタを好きにならない」 (202)

口の中に鉄の味が広がった。
不快なそれで目覚めると、タカシは嘆息しつつ起き上がり渋々とベッドから降りた。
時刻は午前五時。目覚めるにはまだ早い時刻であったが
一度目覚めてしまったものは仕方がない、再び眠ることもかなわぬだろう、と
タカシは疲労が色濃く残る体を引きずりながら隣室の脱衣場へと向かった。
漸くたどり着いたそこで歯を磨き、そして確認するまでもない今日一日のスケジュールを
確認した。
どうせ毎日同じことに繰り返しだ。
会議、会議、会議、パーティ、帰宅。
パーティは毎日ではないが、そこが接待に変わるだけの話である。
会議、会議、会議、接待、帰宅。
一見すれば楽をしているとも取られかねないそのスケジュールを、
タカシは毎日精神をすり減らしながらこなしていた。
どれもが不快で面倒で、そして窮屈。
タカシが自身の役目について抱く感想はそれに尽きた。
それでも仕方ないと腹をくくることもタカシには難しく、かと言って、
こんな仕事をしたくないと駄々をこねることも『いい大人が恥ずかしい』と
指摘されるような気がして、影でこっそりと愚痴ることもタカシにはできなかった。
行き場のないストレスは、日々タカシの中で膨れていく。
曽祖父も、祖父も、父も、姉も、よくこれほどまでの重圧に耐えられたものだ、と考える。
曽祖父の代から続くアンドロイドの老舗企業は、今や日本シェアナンバーワンの
冠を被るまでに至り、その若きCEOとなれば気苦労が耐えぬのも道理であろう。

タカシの姉が高速道路からの転落事故で急逝したのはおよそ一年前のこと。
それまでは経営に全くのノータッチで居たタカシに降って湧いたのは、
企業の社長の席と、それから――、
「タカシお兄ちゃん」
脱衣場へと音もなく現れたのは、年端も行かぬ少年であった。
小さい背、それから生意気な目。服装はまだパジャマで、彼が起きぬけであることを
示していた。
歯を磨く手が止まる。この顔を見たくなかった。
その言葉を飲み込んで、「お前はまだ寝てればいいだろ」と返す。
少年は首を振るうと『大丈夫だよ』と言う。
「起きるよ。いつもこれくらいの時間にミユキは起きてた」
そう、降って湧いたのは社長の席と、この得体の知れぬ少年の面倒を見るという、
非常に厄介な役目だった。

口の中の鉄臭さはどうにも消えそうにない。
原因は唇を噛み締めることだと判っていたが、それは大人になっても
未だ止めることができずに居る悪癖のひとつなのだ。
治せたら悪『癖』だなんて呼ばれないだろう。
子供の頃から幾度注意されてもそれはなりを潜めることがなく、
寧ろ厄介な出来事やストレスを溜め込めば、いつのまにか表面化する。
――みっともないからやめなさい。
そう何度大人たちに指摘されただろう。あの苦い顔を思い出せば自然と歯は唇の奥へと
引っ込むが、一人の時間が訪れる都度、それはこっそりと姿を現した。

お、新作か

「タカシさん、郵便物です」
「ああ……」
郵便受けに溜め込んだ郵便物を、秘書の男が出発前に引っ張り出して置いてくれたようだ。
後ろ手で差し出されたそれを受け取ると、タカシは確認を繰り返しながら不要なものと
そうでないものを選り分けていった。
政治家の写真が載った物、友人の子供が生まれたという知らせ――、
それから脅迫文の載った便箋。
レターカッターを鞄から取り出し封を切ると、タカシは中身を確認した。
「『今すぐ子供型アンドロイドの販売と開発を中止せよ』、ねぇ」
近頃何通か届いている手紙だ。この手のものはいくらでもある。それこそ曽祖父の代から
あるものだから、タカシも既に慣れっこで、それを破いて捨てる程度の余裕はあった。
「どうしたました?」
手紙をちぎって屑篭に放り込んだタカシに、秘書がバックミラー越しに視線を投げた。
「なんでもない」
「それなら別にいいですが。それよりタカシさん、今日のご予定ですが」
「把握している」
秘書の言葉を遮り手中に収まったタブレットで一応の確認をすれば、
移動時間以外に碌な休憩がないことを再確認するに至り、思わず溜息が漏れた。
如何せん忙しすぎる。
だからたまの休みの旅行中に事故などを起こすのだ、とあの世へと旅立った姉へと悪態を吐く。
どうにもならないことであるとは自覚はしている。
それでも一年前まで全くの別企業で一般人に紛れて平社員をしていたタカシにとって、
この目の回るような忙しさは未体験のものであった。
恨み言のひとつや二つは言いたくなるというものだろう。
居眠り運転のひとつやふたつはしたくなる。
姉は運転手を雇いたがらなかったが、これでは雇わざるを得ないだろう。

「……判りました。ご予定はまぁさておき、ショウタさんのことですが、」
「お前までアイツに『さん』をつける必要はないよ。つけ上がらせるだけだ」
「はぁ……、ではショウタ君のことですが、また家庭教師を首になさったようですよ」
新しい教師の手配は如何しますか、と尋ねられ、まだ朝のうちだと言うのにも関わらず、
本日数度目となる溜息をタカシは盛大に吐き出していた。

ショウタは所謂奴隷であった。
姉がどんな風にショウタを扱っていたのかは知りたくもなかったが、
タカシのもとへと到着し、その晩には腰のまたがろうとしたことを思えば
性的な目的で購入されたことはほぼ間違いがないのだろう。
我が姉ながら、なんともグロテスクな発想であるとタカシは吐き気を堪えながら考えた。
自社製品にはセクサロイドもあるのだから、それらを一体二体、いや好きなだけ
買って3Pでも5Pでも好きなように変態プレイを楽しめばいいのだ。
なにもわざわざ、生身の子供をそんな目的で買う必要はないはずだ。
『なにをやっている!!』
戦慄く腕を振り上げ、眠る自分の腰へとまたがった少年を張り倒したのは
半年前のこと。初対面の日だ。
今の今までどうしていたのか、
姉の遺産が片付く頃に、税理士が困惑顔でつれてきたのがショウタであった。
姉には夫があった。子供は居なかったが、幸せな家庭を築いているとばかり思っていた
タカシにとって、今や中流階級以上の嗜みとなった奴隷を『飼っている』と言う事実には
ただただ困惑し、そして吐き気をもよおした。
愛玩用の人間。その存在にタカシの一族は断固反対していていたし、だからこそ
アンドロイドの開発・製造・販売を代々生業としていたはずだ。

『いったいなにがどうなっている』
その言葉に税理士は言葉に時折詰まりつつも、ショウタが愛玩用奴隷であること、
性的に仕込まれていること、女を抱くことも男を抱くことも、
そして抱かれることも知っていると懇切丁寧に説明していった。
「そんなことを聞きたいわけじゃなかったんだがな」
「はい?」
「――なんでもない。それよりもうすぐ行われる新型アンドロイドの発表についてだが……」
「はい」
疲れている。だが極力家に帰りたくはないのは、ショウタが居たからだ。
あの子供の皮を被った大人のような顔は、性体験からくるものなのだろうか。
いや、今はショウタのことは忘れよう。
そう決意すると、タカシは秘書に差し出されたコーヒーを飲み干し、両頬を叩き気を引き締めた


一日は長い。全てのスケジュールをこなすには、気力も体力も必要だ。
ショウタのことを考えている場合ではないのだ。
「ここでいいよ」
「ですが」
正面玄関からタカシが入ることは少ない。大抵は地下の駐車場から社屋へと入っていくのだが、
今日はそういう気分ではなかったのだ。
「大丈夫だから」
はぁ、承服しかねるような返事をする秘書を遮り、扉を開け道路へと降り立った。
眩しい朝日の中伸びををする。
よし、と頷くと、タカシはまだ人もまばらな通りを歩き、社屋へと入っていったのだった。

姉とは仲のいい姉弟であった。たったの一歳離れで、姉が男勝りであったこともあり
子供の頃は夜遅くなるまで外で遊びまわったものだ。
帰宅時間が遅いと『ばあや』によく怒られたのもいい思い出である。
姉のことは何でも知っていたし、姉もタカシの一番の理解者であったはずだ。
それが年を追うごとに互いの共通点が減っていき、言葉を交わす機会も次第になくなり
気づけば一年に一度あうかどうかという間柄となっていた。
姉には夫がいたし、それも仕方がないことであると考えていた。
転機が訪れたのはタカシが社会人三年目の春のことだ。
姉がこともあろうか『子供型アンドロイドの開発に乗り出した』と世界に向けて
発表をした頃のことだった。
タカシはそれに反対した。単なる子供型ならば問題はなかったが、
彼女はあろうことか、それにもセックス機能を搭載すると言い出したのだ。
タカシはそれを問題視し、姉と言い合いになった。
いや、今にして思えばあの喧嘩は、タカシが一方的に怒り狂うだけのもので、
喧嘩にすらなっていなかっただろう。
まともでない。そう言い募るタカシを、姉は『馬鹿ねぇ』と歯牙にもかけず嘲笑った。
『いいじゃない、実際の子供が傷つくよりは何倍もマシでしょ?』
姉は涼しい顔でそう言い放ったのだ。
しかし世間は姉のその意見にはなかなか賛同しなかった。
倫理的なものが問題となり、子供タイプのアンドロイドに対する世間の反発は非常に強く、
販売開始までに随分と時間を要したように思える。
しかし、それでも彼らのような年齢層の子らの性的被害を減らすことも可能だという
訴えがなんとか受け入れられ、そして小さな『彼ら』は間もなくすると出荷されるに至ったのだ

奴隷はアンドロイドよりもその歴史は深い。
奴隷はどこにでもいたし、その年齢も様々であったが、みな一様に若かった。
欲望を満たしてくれる存在はもう既にこの世にあったのだ。
それでも不況の為か、人口減少のためか、世界は殺伐としていて少年少女の性的暴行被害は
悪化の一途と辿っていた。
奴隷が居ても性的被害が耐えぬのは、全ての人が奴隷を持てるほどの財力があるわけでは
ないためなのだろう。毎年そんな悲惨なニュースが何件もあった。
それにいち早く気づいた姉は子供型アンドロイドの開発を自社の開発部に打診した。
『奴隷に比べれば、アンドロイドはちょっと経済的でしょ? 全ての人に所有のチャンスや
希望がないわけでない価格よ』
姉は開発部に言ったものと同じものであろう台詞をタカシに言ったのだ。
話ならないと家を飛び出したタカシは捨て台詞に『そんな仕事上手く行くわけがないだろ!』と

叫んだが、その言葉は見事に打ち破られることとなる。
彼らの販売とともに社の売り上げは二倍に伸びた。
おまけに奴隷は高いばかりだと少しだ業界全体が落ち込み、
奴隷でない一般の少年少女たち暴行される事件も減少したとのデータも上がった。
タカシの完全なる敗北であった。
それでも、とタカシは思う。今の会社はタカシの思うのと違った方向に走り始めていた。
吐き気があふれ出しそうになった口を押さえ、何度唇を噛んだことだろう。
吐き気の原因は実に判りやすいものだ。
実の姉がそんな下卑たものの開発に非常に乗り気であったこと、
発案者がそもそも姉であったこと。
それから――、
『私男の子大好きなのよね』と言う衝撃の告白をしたことにある。
嬉しそうに笑う彼女の顔が忘れられない。

面白い

>>3
わたしです長いですごめんねです
>>9
ありがとう(´・ω・`)

『たくさん居るのよ、ロリコンとかショタコンって』
異質な性癖をさも当たり前のことのように語ることができる彼女の神経が信じられなかった。
聖人のような尤もらしい理由を掲げつつ、しかし彼女は自分の為に子供型アンドロイドを
開発したのだ。
それがタカシはなによりも許せなかった。


その日のパーティでは、政治家が山のように参加していた。
ナントカと言う政治家の七十歳の誕生日なのだそうで、タカシは固めた髪を乱したい衝動に
駆られながらなんとか不器用な笑顔を作っていた。
「そうですか、また新しいものが販売されますか」
恰幅のいい男は奴隷と思しき女性の腰をいやらしく抱きながら頬を緩めていった。
「ええ、先生の為でしたらオリジナルフェイスも承りますので、是非」
美味いとも思えぬ酒を煽りながら、やに下がった顔を敬意を持って接するのは至難の業だ。
「それで君、相談だが、子供型だが、顔の改造が可能ならば体のほうはどうだね」
下卑た笑顔に顔が引きつりそうになる。
タカシはなんとか笑顔のまま「ええ、勿論です」と返事をすれば、政治家は満足したように
数回頷いた。
子供型でも胸を大きくしたいだとか、括れが欲しいだとかそんな要求であろう。
「具体的には、どのような形に?」
タカシが尋ねると、政治家はウォホンと妙な咳払いののち、言いづらそうにタカシの耳とへと
唇を近づけた。
牛肉の脂で濡れた唇が気味悪かったが、なんとか我慢する。
「そ、そのだな、ふたなりと言うやつに改造できるのかね」
「……は?」
タカシは一瞬白くなりかけた思考を追い払い、慌てて笑顔を作り直す。
ふたなりとはなんだっただろう、と頭の中で記憶の辞書を引き、
男のあれと女のあれが同時に存在する体のことだと思い出す。
「え、え」言葉に詰まりながら、なんとか「可能です。大丈夫です。秘密裏に作らせます」と
返事したのだった。

「そうか。それならまた今度君を夕食に招こう」
満足した様子の彼の後姿を見送り、人の嗜好とは実に様々だとタカシは疲れ果てた頭で考える。
彼の脇にぴったりとくっつく女性が恨みがましい目でタカシを見た。
なるほど、彼女はいわゆる「ふたなり」なのであろう。
タカシがその特殊なアンドロイドを作り上げれば、彼女はお払い箱になるかもしれない。
もう要らぬと言われた彼女はどうなるのだろうか。
そんなことを一瞬考え、しかしタカシは、自分には関係のないことだとその思考を振り切ったの

だった。

奴隷は非常にありふれていて、上流層には広く所有されていた。
今日のパーティにも多くの奴隷が参加していた。
美しく着飾られ、男も女も、そして子供もいた。
どんな目的で彼らを飼うかの、タカシは考えたくもなかった。
彼らを所有することは一種のステータスとなっていて、どの家にも見目麗しい彼らが存在する。
性的にあれこれするも殺すも思いのまま、彼らは上流階級の、お上品とは言いがたい趣味の為に
存在しているのだ。
彼らはみな奴隷のブリードを生業にする家系の出身で、
子は売り物と言い切る親自身の手によって犬猫よりも安く売り払われる。
それはもう何百年も続く習慣で止めようがなく、行政も口出しできぬほどに人々の生活へと
根付いていた。
つまりはこれは合法なのである。
ブリーダーは奴隷の親本人であったり、はたまた祖父母が子の世代に産ませていたりと様々だ。
ブリーダーは子を奴隷として売るためだけに胎内で育み、そして生まれたその日には
再び子を孕むようせっせと行為に及ぶ。異常極まりないその蛮行はもう誰にも止められない。
五歳か、十歳か、或いは十五歳か。彼らは十八歳では『行く遅れ』と呼ばれるために、
なんとか低年齢で売ろうと『セール』まで催され、日曜の市場は奴隷商で埋め尽くされるほどだ。

とにかく彼らの子供――、奴隷は早々に売りさばかれ、肉親の情に浸る間もなく、
薄汚れた紙幣の二、三百枚でいとも容易く金持ちの家へと売られていくのだ。
しかし引き取られたときは美しい娘奴隷もいつまでも美しいままではいない。
成長、老化、そして智恵をつけ主人に反発するようになる場合もままある。
それらを食い止めることはいかな科学でも難しい。
そんな奴隷の世界を打ち壊すよにして出てきたのがアンドロイドは革新的であったはずだ。
奴隷のデメリットの一切を放棄した存在は、奴隷の生産販売を生業とするものにとっては
恐ろしい存在であったに違いない。
各方面からの反発も当然のことながらあったが、紆余曲折を経て、それでもアンドロイドたちは
広く浸透し続け結局は市民権を得るに至った。
そしてついに満を持して発売されたのがミニマムバージョンの子供型アンドロイドだ。
飛ぶようにしてアンドロイドは売れ、そして会社は当時の二倍となった。
世間はみなロリコンとショタコンなのではないかとタカシが勘ぐりたくなるほどに、
商品は売れたのだ。
タカシはそれでも姉の思考が理解できなかった。
販売されるより前の試作品をベッドへと引きずりこんでいた彼女。
それだけでは飽き足らず、後々明らかになったのは奴隷の飼育。
今でも姉を思うと、タカシは叫びだしそうになる。

姉の遺影を仏壇に確認すると、タカシは息を吐き出した。
「きっと報いでも受けたんだろう」
一日の仕事を終え漸く帰宅したタカシは、深夜過ぎのキッチンで誰に聞かせるでもなく呟いた。
誰が報いを受けたのか、タカシは自分の言葉だというのに判断しかねていた。
姉か、それともタカシか。こんなに忙しいのはなにかの報いだろかと考え、
いやそもそも忙しくしているのは自分自身に他ならないと考え直す。
髪を乱し鏡を覗き込めば、幾分か頬のこけた自分の姿がそこにあった。
今日も忙しい日だった。時刻は既に深夜二時を回っており、
悪夢に悩ませられることがないのなら、ギリギリ四時間は眠れるだろうと踏んでいた。
悪夢のほかにも敵はいる。
――ショウタだ。
ショウタには前科がある。タカシの寝込みを襲ったことは数知れない。
尻に突っ込むには至らなかったが、気づけば口で奉仕されたいたことは幾度もあった。
されればそれなりに勃つ。タカシも男なのだから仕方がない。
しかしそれでも、相手がショウタだと気づけば勃起した自分のナニにまで嫌悪感を覚えて
一日を気分悪く過ごすしかなくなるのだ。
何度やめろと言っただろう。なんど体を跳ね飛ばしたことか判らない。

ベッドに入ったのは、結局深夜三時を過ぎたころだった。
元より浅い眠りは、深夜の「お兄ちゃん」と言うからかいを含んだ声に揺さぶられ、
うとうととした寝入りばなは台無しにされた。
「……少しでも俺の体に触って見ろ、ケツを叩くぞ」
大柄なタカシの体の上に寝そべり、ショウタはくふくふと笑っていた。
妖艶に、誘うように。
「ひっどいの。どうせ追い出せないくせに。それに、追い出したらタカシお兄ちゃん
逮捕されるよ?」

ショウタはタカシのスウェットのパンツに細い指を引っ掛けた。
「やめろ」
手を握り締めれば、ショウタは「痛い」と言うものの、相変わらずニヤニヤと笑うだけで
体の上から退くような素振りは一切見せない。
奴隷愛護法さえなければ、さっさと屋敷から追い出しているところだ。
奴隷は殺すも生かすも主人次第であったが、それでも「野良」が増えれば風紀が乱れるとかで、
「放し飼い」や「放流」は禁止されている。
元より人権を踏みにじり、手酷い扱いも容認しているくせに、意味の判らない法律である。
アンドロイドの普及とともに、奴隷の価格も安くなってきている。もっと広まれば、
奴隷の需要もなくなりそのうち姿を消すことだろう。苦しいのは今だけだ、とタカシは考えた。
「とにかくどけ。俺はホモじゃない」
目の上に腕を当て、ショウタの顔を遮る。
とてつもなく疲れている今、ショウタの顔など見たくなかったのだ。
何故毎日部屋に侵入してくるのか判らない。普通ならば心も折れそうなものであったが、
一体彼は何故タカシを襲いに来るのだろう。一体、何故。
「僕じゃ勃たないってわけでもないくせに」
「――お前が舐めるからだろ」
薄闇の中、ショウタが赤い舌を覗かせ、唇を舐めている。淫猥な顔は男を誘う時のそれだ。
奴隷として仕込まれ今に至り、ショウタのアイデンティティが築かれたのなら
これも致し方ないのかもしれない。それでも、タカシにはショウタのその様子がひどく
不気味に見えたし、気持ち悪く見えた。
「とにかくどけ」
「やーだー」
「殴られたいのか?」
「それもいや」
ショウタはタカシのTシャツの下にあどけないひんやりとした手を忍び込ませ、
「何で駄目なの?」と問う。「僕、ミユキも満足させてやったし、
尻も結構気持ちいいみたいだよ? 尻が駄目なら舐めてもいいよ」
赤い舌。それがヘビの舌のようにちろちろと揺れた。

するすると言葉が出てくるね

タカシが絶句していると、ショウタは自身のパジャマを脱ぎに掛かった。
柔らかそうな指がボタンのひとつひとつを外していく。
カーテンを閉め忘れた室内で、月明かりも手伝い、ベッドサイドの照明に照らされた体が
はっきりと浮かび上がった。
柔らかそうな腹、そして淡い色の胸。ショウタは誘うように自分の乳首を親指で捏ねて見せた。
「おにいちゃん……」
そのまま体を折りたたみ、タカシの耳元で囁く。耳朶を舐め甘噛みし、「ねぇ、しようよ」と
誘ってくる。
よく仕込まれている態度がとても少年のものとは思えず、タカシはこみ上げる吐き気を
なんとか堪え、今度こそショウタを突き飛ばした。
「いったい!」と言う言葉とともに鈍い音が響く。

フローリングに打ち付けたのは尻か頭か、そんなことを気にしてやることもできないまま、
タカシは「この部屋から出て行け!」と叫んでいた。
この屋敷から、と叫ばなかったのはせめてもの恩情だ。
姉のところでどのような扱いを受けたかは知ったことではなかった。
そんなことよりも、タカシはとにかくこの気持ちの悪い生き物に触れられたくはなかったのだ。
タカシは床へと降り立つと、無様に転がったままのショウタの髪を引っつかんだ。
「いって、痛いって! ちょっと!! 離して!! タカシお兄ちゃん!」
乱れた服装もそのままに、髪を掴んだ手は離さずに無言のまま廊下へ向かう。
ショウタの声に駆けつけた警備用アンドロイドが『どうしましたか』と
焦った顔を作って尋ねるのが滑稽だった。
機械の癖に、まるで人そのものだ。皮膚も、髪も、動きも滑らかで、まるでそれは
人間そのものである。人間のフェイク。
ここまで精巧な人形があるのに、何故姉はわざわざこんな薄汚れた子供を雇ったのだろう。
意味が判らない。姉にあるのは懐かしさよりも嫌悪感だ。
それはいい思い出の全てを打ち消すくらいの強烈なもので、怒りのベクトルは
今はもう亡き姉ではなく、目の前に事象として存在するショウタにむけられる。

またクソssかと思いきや

タカシは床へと転がったショウタの腹を踏みつけ、「二度と俺の部屋へ入るな!」とがなった。
床のショウタとタカシの間で、アンドロイドが困惑顔のまま視線を彷徨わせる。
『処理をしましょうか?』
尋ねるアンドロイドに首を振り、「地下の座敷牢に入れておけ。飯も一日三回出せ」と
命じれば、機械は実直に己の仕事をこなし、叫ぶショウタを有無を言わせず抱え上げて
地下へと進むべく長く暗い廊下を歩いていった。
やがて訪れた静寂に、タカシは息を吐くと転がった。
部屋に戻るのも面倒だ。腰や背中に硬い床が当たるのも構わず、タカシはその場に寝そべり
朝が来るのを待ったのだ。

翌日、タカシはショウタの様子を窺うこともせずに出勤し、
朝一番の新型アンドロイドの発表はインターネットを介して行われた。
インターネットは今や見て・聞いて・触れて・そして匂いを感じるまでに発展しており、
五感センサーも最大限に利用したユーザーがその発表に詰め掛けた。
同じ時間にモニタの前に何万と言う人間が居るというのは、なんとも奇妙な話だ。
なれぬCEOとしての仕事をなんとかこなして袖に引っ込むと、タカシは首にまとわりつく
ネクタイを緩め、そして秘書に渡された緑茶を飲み干した。
「お疲れ様でした」
「ああ」
完璧なプレゼンができたはずだ。
この発表後に株価は暫く上がり、その後突如急落するだろう。
それは当然のことなので気にすることはないのだが、それでもなんとなく
右肩下がりの歪な山を描くグラフを見ると、不安が募るのだ。
雇われの身でいた期間が長すぎるのだろう。市場の動きに素人よろしく一喜一憂するあたり、
タカシは確実にCEOには向いていない。

昨日お前の為にスレをたてたのに……来てくれなかったじゃないか……
ないか……

>>17
リアルタイムじゃないからだよー
遅いのはサル回避のため
>>19
長くてごめんね

「一段落つきましたし、これから一週間ほどは十五時以降に自由な時間が設けられると思います


そうか、と返事をするもなにひとつ嬉しくない。
いっそ過労死してしまいたいと思えるほどに、タカシは切羽詰っていた。
早くショウタをどうにかしてしまいたい。
だが、どうにかするといってもどうしたらいいというのだ。
タカシはこれと言っていい案も思い浮かばないまま、黒塗りの車に乗り込んだのだった。

鉄格子の向こうで、ショウタは椅子に乗り足をぶらつかせたままタカシを見た。
「おっかえりー」
反省した様子はない。地下と言っても半地下状態の部屋だから、天井の辺りに設けた窓からは
風の入れ替えも行われているしベッドもテレビもあり、快適なものだったのだろう。
『反省の様子はありませんでした』と様子を監視していたアンドロイドは滑らかな
発音でそう告げると、『殺害の心得も私にはあります』と物騒に、しかし親切心でもって
そう尋ねてきた。
これだから機械は苦手なのだ。
教えられた以上に自分の思考を発展させることができぬその存在が、愚かしい。
結局機械は人間にはなれず、だからこそ奴隷にも需要があるのだろう。
機械の弱点を改善できない自分にもタカシは腹が立つ。
「ショウタ」
なんとか怒りを腹の奥へと押しやり、タカシは穏やかな声でショウタを呼んだ。
格子の外にしゃがみこむと、ショウタはなんの警戒心もなく近寄ってくる。
同じように目線をあわせるべくショウタはしゃがみこみ、タカシの目を覗き込んだ。
「なに? キスしてくれる?」
「しない」
「じゃあ」
「なんもしない。お前を奴隷愛護センターに連れて行く」
奥の手だ、と言わんばかりに告げると、流石のショウタの顔も固まった。

>>21
昨日は寝たり起きたりしていた
お熱があったのだ!!

書くの何回目か覚えてる?
しばらく見てないから何回か見逃してるかも…

「どういう場所だか知っているな?」
尋ねてもショウタは頷くことさえしなかった。
センターは、愛護とは名ばかりで、そこは要は処分場だ。
一週間の猶予を持って「次の飼い主」を探すがそのチャンスが潰えれば彼らは
殺処分されるのだ。
手垢のついた奴隷を好む人間はいない。彼らの大半は、合法的に殺されるのだ。
多くは年老いて美しさを失った奴隷、だが稀に飼い主によって身体欠損を負わせられた上に
捨てられる者や、飽きの為に捨てられる者も居た。
「嫌だ……!」
ショウタが突然声を上げた。
「僕嫌だよ! センターだけは、センターだけはやめて! お願い!」
噂ではセンターはガスで静かに死ねるという話もあるが、彼らが恐れているのは
痛みのない死そのものではなく、飼い主に「要らぬ」と手放されることだった。
染み付いた奴隷根性は彼らのアイデンティティそのもので、
飼い主に手放されることは身を切るよりも辛いことのようだ。
人間として最下層に居るにもかかわらず、それでも彼らなりの『奴隷としてのプライド』が
あるのだろう。
ショウタは鉄格子を力いっぱい掴み「嫌だ! 絶対に嫌だよ!」と叫んでいる。
考え込むような顔でショウタを見ていると、彼の困惑した顔は更に困惑を深め、
そしてついには泣き出すのだった。
丸い頬を涙が伝い、鼻水もこぼれる。妖艶に誘うその顔よりもはるかに子供っぽくて、
たかが表情のだけのこととは言え、タカシはショウタにも普通らしさが残っていたことに
少なからずホッとしていたのだった。
「お願い、センターだけは嫌! お願い!!」
嫌だ、お願い、嫌だ。
ひとしきり叫んだショウタの目には、絶望が宿っている。
タカシがなにも言わず、黙したままにショウタを見つめていたことが、
余計に彼の恐怖心を煽ったに違いない。
これで反省しただろうか。
タカシは鉄格子の中に手を伸ばし、頭を撫でてやった。

>>26
全然覚えておらんですハイ

「お前が憎いわけではない」
唐突に言うと、ショウタはぼんやりと疲労の濃い瞳のままでタカシを見上げた。
「姉が酷い扱いをしたと思う。だけど俺はお前を抱かない」
ショウタはそこまで告げられると、俯いた。
きっと主に尽くすことは、半ば彼らの『本能』なのだろう。それを押さえ込むのが
理性なのだろうが、もう何年も奴隷として生きて生きた者にそれを改めろと言っても
難しい話に違いない。
それでも、とタカシは思う。
タカシにはショウタを抱くことができない。セクシャリティはストレートで、
性において混沌としたこの時代においても、男と寝たことは一度もなかった。
相手は女。それも、恋愛関係を結んだ女性に限定されていた。
基本的に男には欲情しない性質なのだろう。同性婚が認められて久しい世においても、
タカシは頑なに『正しさ』を守ろうとしていた。
元々ゲイでもないのに男と遊ぶということ、奴隷を飼うということ、それらは
人の道を大きく外れる行為のような気がして、それがタカシには恐ろしかったのだ。
おそらく、勃たぬわけではない。だが、それはタカシにとっては正しくないことだった。
「お前がどんなに俺に抱かれたいと思っても、俺はお前を抱かない」
かつてタカシは、アンドロイドが世に普及し始めた頃に、手酷い苛めを受けた。
原因はアンドロイドそのもので、それらにセックス機能がついていることが問題だった。
その手の『いやらしい道具』を扱う企業の社長を親族に持つということは、
同世代の子供の親にしてみれば『セックストイを扱う企業の子供』と同義であったのだ。
子供はなんでもストレートに言う。親に吹き込まれたのであろう鏃のようにとがった暴言は、
幼いタカシの心をズタズタにした。

――いやらしい、汚い、気持ち悪い。
アンドロイドは性交渉の為だけの存在とはいえないが、それでも下位機種も含めた
全ての『彼ら』にその機能が搭載されていることが問題だったのだろう。
奴隷を飼っている家も多かったというのに、それについては言及されず、
『機械相手に興奮するド変態の為の企業』とされたのがどれほど悔しく、そして恐ろしかったか
タカシは今でも覚えている。
だからこそタカシは、正しく生きていたかったのだ。
その『ケ』もないのに、同性に抱かれることも、抱くこともタカシにとっては間違ったこと、
さらに奴隷を飼うことも同じようなことだったのだ。
それなのに。
それを知っていたくせに、何故姉は奴隷など飼ったのだろう。
成人ならまだしも、ショウタは子供だ。
ぺたりと床に座り込んだショウタをタカシは見遣り、そして眉間を揉んだ。
「俺の寝込みを襲うことは、お前の習い性なのかもしれない。だが俺はお前を
抱きたくないんだ。俺を襲わないと約束するのなら、愛護センターには連れて行かない」
ショウタは言葉を詰まらせ、答えかねるという様子で指先を弄っている。
そうまでしてタカシに抱かれることに固執する彼は、痛々しい。
洗脳の域に達している性分は、タカシには理解しかねるものである。
強固に犯されたがることと自身の命を天秤にかけるなど、どう考えても異常だろう。
たっぷり十分は待っただろうか。
ショウタがおずおずと口を開き「判った」と返事した。
「判ったというとは、もう俺の腰にまたがったりしない、ということへの了承と見なしていいか?」
確認の為に尋ねれば、ショウタは「うん」と頷いた。
「――それならいい。ここからも出してやる」
傍らにいるアンドロイドに指示を出し、牢を開けさせる。
キィ、と耳障りな音を立てて牢の扉が開かれたが、それでもショウタは
そこに留まったままだった。

「早く出ろ」
指示を出されたところで漸く遠慮がちにそろそろと牢を這い出て、それからショウタは
心底困ったという様子で「じゃあ僕はなにしたらいいの?」と尋ねた。
なんとも頭の悪そうな子供だ。セックスしか教えられなかったらこうなるのも仕方がないだろう。
いっそ哀れな子供に哀れみを覚えつつ、タカシは「なにもしなくていい」と答えた。
それこそが奴隷にとっては苦痛と判っていてのことだ。
案の定、ショウタは眉根を寄せて首を軽く傾げて見せたのだった。
「だから」タカシは帰宅途中に考えた案をショウタに話そうと決意した。「だから、勉強をしろ。
賢くなったら、お前を俺の子供にしてもいい」
「え……?」
頬が少し腫れているのは、昨夜張り飛ばした所為だろうか。そんなことを思いながら、
タカシは丸い頬に手を添えた。
「勉強をたくさんしろ。賢くなれ。奴隷の中でも養親縁組し、人間として社会進出した
者もいるのは知っているだろう。お前もそうなれ。それがお前の新しい役目だ」
特例として認められる場合に限ったが、それでもタカシが――、大企業のCEOである
タカシの口ぞえがあり、更にショウタの社会的な貢献が認められれば奴隷のカーストを
脱出することも夢ではないはずだ。
「賢くなれ。それ以外でお前をこの家に置いておく方法はない。今日からは奴隷として
扱わないぞ」
そう告げると、ショウタは確かに首を縦に振ったのだった。

毎日朝九時から数時間に分けてショウタには家庭教師がつけられることが決まった。
集中力が足りないのには困ったものだが、成績は概ね良好、いい傾向だとタカシは
安堵した。
「そういうわけですから、あとは時間さえこなせばなんとかなると思いますよ」
全教科を教育可能な教師に言われ、タカシは「わかりました」と返事する。

「飲み込みが悪いわけではないんですけど」
奴隷出身だというこの教師とショウタの相性はなかなかいいようだ。
如何せん集中力がなさ過ぎる、と教師は苦笑し、それから明日の予定を伝えて言った。
はいはいと返事をしながら、タカシはそわそわとした。
教師の苦笑の奥に「教育などしてもどうせ夜は好き勝手に弄り倒しているんだろ」という
侮蔑があるのではないかと、被害妄想染みた恐怖を覚え、タカシは話を手短に切り上げると
早々に「ではまた明日もお願いします」と教師を追い出したのだった。
教師が帰ると、タカシは漸く落ち着いた。
――集中力の欠如。なにか心配や集中できない理由あるのだろうか。
それは少し話し合わなくてはならないな、とタカシは考えた。
新作発表から少しの間は遅くても二一時には帰宅が実現している今こそ
話し合いのチャンスかもしれない。
成績良好。それはいいことだ。
ただ問題はいくつかあるのだ。
きつく叱った所為か、家庭教師を誘うことは流石にないが、
時折部屋を覗けば自慰に耽っているショウタの姿を目撃し気まずい思いをしたことが
幾度かあったのだ。
そしてそれは今日もそれは行われていたのだ。
「あ……ん……」
隙間が開いた扉から濡れた声が響いた。
タカシは足をピタリと止め、声を掛けようと開いた口を静かに閉じる。
椅子の上、ショウタが下半身だけをむき出しに仰け反っていた。
尻を正面に向けるという奇妙な姿勢のまま、ショウタはどこから手に入れたのか、
性具を使って後ろを自らいじめ倒し、そして気持ちよさそうに喘いでいた。
その様は一般的な少年の自慰方法とは大きくことなり、タカシは困惑をする。

部屋の外にまで漏れる「ぁあん」と言う甘やかな声にタカシは言葉を失い、
そして手足の温度はさっと冷えていった。
急に湧き出す冷や汗を、タカシは無意識にパンツで拭う。
高いスーツだということも忘れて、何度も何度も手を拭った。
出入りする道具はツヤツヤと濡れて、そして尻穴は卑猥にうねうねと動き、
まるでそこが最初からそのためにあつらえた場所のようだったのだ。
そして、喘ぎの隙間に漏れる声に、タカシは頭を抱えたくなる。
「おにいちゃん……、タカシお兄ちゃん……ぁあ……」
奇妙に動く色鮮やかなそれは、ショウタの中に入っては出てを繰り返し、そして
ショウタを快感に導いている。
「あっ……駄目……駄目ぇっ……ぁあ、ああ、あん……!」
放出は早くて、ショウタは射精すると、はぁはぁと息を切らして脱力した。
甘く溶け切った声に、タカシは恐怖を抱いた。
手の冷えは酷くなるばかりだ。口に溜まったつばを嚥下し、
タカシは音を立てぬように足早に彼の自室から去ったのだった。

「お帰り」
ショウタは何事もなかったかのように衣類を整え、そして食卓に現れた。
衣類の乱れは一切ない。帰宅に気づかなかったというショウタは、あの生々しい空気を
捨て去り、まるで『普通の少年』のような顔でタカシに笑いかけた。
「今日はなに?」
尋ねる彼に、ビーフシチューをよそいながら「これ」とだけ返事した。
アンドロイド手製のシチューが夕食とは味気ないが、それは仕方がない。
「シチューか、やった」とショウタは言うと、自分の分の皿に盛られたそれを受け取った。
すれ違いざまに香るのは、ボディソープの香り。短時間で手早くシャワーだけ
浴びたのだろうか。
そう想像をめぐらせ、タカシは頭を振った。

「――なに?」
「いや、なんでもない」
席に着くと、ショウタはいきなり皿にスプーンを突っ込んだ。
「おい」
「え?」
口を開け、もうあとはスプーンを口に入れるだけと言う姿勢のショウタを、
タカシは軽く小突いた。
「え、じゃない。挨拶」
「あ、そうだ」
スプーンを置くと、ショウタは手を合わせてから「いただきます」と言った。
こんな基本的なことから教えなくてはいけないとは、先が思いやられる。
「別に夕食を待っている必要はない」
食べつつも言うと、ショウタは首を傾げた。
「別に待ってるわけじゃないよー。僕、授業が終わるのが八時半くらいだから
どうしても被っちゃうんだ。タカシお兄ちゃん、自分で僕のスケジュール決めてるくせに」
ショウタは意味が判らない、という顔で眉を寄せている。
「そうか」
そういえばそうだった、と思い出す。如何せん疲れすぎているかもしれない。
「あ、シチュー美味しい」
アンドロイドって何でもできるんだなぁ、とショウタは感心したようにいい、
シチューを啜った。
そのマナー違反を注意することもできないほどにタカシは疲れているのかもしれない。
さっさと食事を終えたショウタは「じゃあね」と言って自室へと引っ込んだのだった。
長い休みを取りたい。ふとそう思い、それは不可能だろうという結論に至れば、
タカシは疲れた体を椅子に大きく沈みこませて、凝り固まった左肩を
揉み解すしかなかったのだった。

入浴中の襲来は突然だった。
体を洗い終えた湯船に使っていたタカシの元へ、全裸のショウタが現れた。
「おい……!」
注意しようと口を開くと、ショウタが「なに?」と他意のない返事を返す。
どうやら本当に『そういう』意味ではなさそうな雰囲気に、タカシは口を噤んだ。
なにかあることを想像した自分こそが恥ずかしかったのだ。
ショウタはカエルの形をしたスポンジをあわ立てて、体を洗っている。
変な鼻歌は、タカシが耳にしたことがないもので、調子の外れたその歌が元よりそうであるのか
ショウタが音痴であるが故なのかは判然としない。
「おにいちゃーん」
「あぁ?」
不機嫌に返事をすると、椅子に座したままのショウタが振り返り「背中洗って」と言った。
カエル型のスポンジでは背中が届かないようだ。
「いつもどうやって洗ってたんだ」
尋ねると、「アンドロイドが洗ってくれた」と答える。
「あれ、気になるの?」とニヤニヤと笑いながら問うショウタからスポンジをひったくると、
泡立てたそれで、その小さな背中を洗ってやる。
ふと視線を落とすと、ショウタの尻の割れ目の少し上、そこに小指の爪ほどの大きさの
英数字が横に並んでいることを確認した。これが奴隷の証拠そのもので、登録番号だ。
本当にこの子供は奴隷なのだ、と思い知らされ、頭が重くなった。
――なんの為のアンドロイドだ。一体彼らがなにをしたというのだ。
奴隷業を生業としている者たちにとっては見当違いも甚だしい同情を祖父と父はしていた。
『タカシ、お前は正しい人間になれ』
父は姉とタカシにしきりにそう言って聞かせ、それは奴隷に対しても通ずるものであった。
美しい奴隷を連れ歩く友人を、父は影では詰っていた。
父は愛人も奴隷も持たず、潔白な人生を送り人生に幕を閉じた。

『正しくありなさい』
父はその言葉をしみこませるようにして幾度も幾度もタカシに言って聞かせた。
そもそもは曽祖父が奴隷制度に強く反発をしていたのだと聞く。
聞くところによれば、曽祖父は奴隷制度の反対、奴隷解放活動家を強く説く
活動家の一人であったらしい。祖父も父もそうだ。
そんな家系に生まれ育てば反奴隷制をタカシが称えるようになるのも至極当然のことであろう。
彼らは奴隷制度を憎み、反対し、そして今現在の奴隷についてその異常性を唱えていた。
同じくして育った姉のミユキも当然のように反奴隷制支持者と思い込んでいたタカシは、
それについて彼女と議論する場さえ設けたことがなかったのだ。
まさに青天の霹靂。姉の別の顔には驚くやらショックを受けるやら、
はたまた憎しみを覚えるやらでタカシはもうどうしたらいいか判らなかった。
「ちょっとお兄ちゃん、痛い!」
ショウタの声にはっとして、スポンジを動かす手を止めた。
「洗いすぎだよ」
痛い痛いと言うショウタに「悪い」と一言謝りスポンジを手渡す。
「……終わったぞ」
「まって、ケンコーコツのあたりは痒いの。そこ掻いて」
ショウタが振り返ってそう主張する。
髪の毛がぺたりと額に張り付き、顔がいつもよりも幼く見る。
「どっちだ」
「右。痒い痒い早くー!」
体をもぞもぞと動かしながら言うショウタに、タカシは一旦は手渡したスポンジを
再度手に取りそこを擦ってやる。
「違う、もっと右」
「ぁあ? これくらいか?」
「あ、うん、そこ。あー気持ちいー」
ふーと声を出すショウタにおかしくなる。
その態度に「おっさんか」と突っ込めばショウタは「まぁすぐそうなるだろうねぇ」と
子供らしくない顔で言ったのだった。

ショウタが椅子から立ち上がる。目の前にズイッと丸い尻が向けられて、
タカシが「おい」と言えばショウタは反省した様子もなく湯船に浸かった。
「ここんちのお風呂おっきいね」
「姉貴んち風呂だって広いだろ」
一度だけ泊まったミユキの家は、この屋敷と遜色ないほどになにもかもが大きかった。
いや、もしかしたらここ以上に豪奢であったはずだ。なにを言っているのかと思えば、
ショウタは「そうでもないよ」と返事した。
「僕はいつもシャワーだけだったから。ほら、庭にプールあるじゃん、あそこのシャワー」
「は?」
ショウタの言っていることが判らずに、タカシは困惑した。
確かに庭にはプールに入る前に浴びるためのシャワーがあったはずだが、
それを一年中使っていたわけじゃないだろう。なにを言っているのだ? と
怪訝な顔を続けていれば、ショウタはそれがどこのシャワーであるのかを詳細に告げはじめた。
「だからさ、庭の、」
「だから、そうじゃなくて、それって庭のシャワーだろ? なんで風呂使わないんだ?」
「え、だって僕奴隷だし」
さも当たり前のように言うショウタに、タカシは自分の考えをまとめようと
与えられた情報を具に観察するが、それはどう考えても碌でもない結果しか生まず、
タカシはもう一度「なんで風呂を使わないんだ?」と尋ねた。
「だから、俺奴隷だし。主人と同じ風呂に入るわけにはいかないでしょ」
「――ミユキは。姉貴はなんて?」
「エッチする前に『外のシャワーを浴びてきなさい』って言うからそうしてたんだけど……?」
なにか悪いことを言っただろうか、と言う顔をしたショウタにタカシは頭が痛くなる。
「――冬は? あそこのシャワー、お湯でたか?」
「プールのシャワーだよ、でるわけないじゃん」

まさか、と思ったが、そのまさかであったようだ。
タカシは詳細に聞き出したミユキの愚行に眩暈を覚えた。
ミユキはショウタを本当に『奴隷』として扱っていたのだ。
ただ単に性的な目的のために連れてきただけでなく、その役目も果たさせるくせに
本当に必要な時には構い、そうでないときは邪魔者にし、さらには自分と同じ浴室を
使うことを厭ったということだ。
部屋は当然なかったようだ。この家のようにミユキの邸宅にも地下牢が設けられていたため、
ショウタはそこで生活をしていたとのこと。ミユキの死後暫くしてから発見されたのは、
アンドロイドがミユキに命じられたままに日々ショウタの世話をしていたから、
ということらしい。
一度インプットされた内容を時間通りに遂行するアンドロイドの機能が変な方向で
裏目に出たということだ。
「ねー僕もう出るけど」
のぼせちゃう、というショウタは尻も前も隠さずに湯から出た。
赤く染まった体は茹蛸のようだが、よくよく見ると体のいたるところに小さな擦り傷が
あるのが確認できる。
「ショウタ」
思わず立ち上がり腕を掴むと、ショウタは「わ」と言う小さな声を上げて体を揺らめかせた。
「え、」
タカシも思わずそう声を上げ、ふらりと力の抜けたショウタの体を受け止めたのだった。
胸に尻の感触が当たり、小さな濡れたからだがすっぽりとタカシの腕に落ちてくる。
なんだ、と思ったときにはもう濡れたショウタがそこにいて、
それから気分が悪そうだ、と言うことに気づくのには更に時間が掛かった。
「ショウタ?」
「のぼせた、みたい」
力を抜いたショウタはくたりとタカシに凭れかかる。
「おい、大丈夫か」
ショウタは首を振りそれから「無理そう」と自己申告をする。

慌てて湯船から飛び出ると、タカシはショウタを抱えて脱衣場に向かった。
取り敢えずは下着とスウェットだけは履き、ショウタの頭には濡れタオルを載せる。
むき出しになっている下半身にはバスタオルをかけ、それからつんのめりつつも
脱衣場の扉をなんとか開いた。
「ちょっと待っていろ。水持ってくる」
「……うん」
キッチンへ向かい冷蔵庫に眠るミネラルウォーターを引っつかむ。
そのまま駆け足で脱衣場に向かうと、ショウタは依然、気分の悪さも露に目を瞑っていた。
「水、飲めるか」
頷く彼の口にミネラルウォーターを注いでやると、彼は勢いよくペットボトルの半量を開けた。
「大丈夫か?」
ショウタは首を左右に振る。
「少し待ってろ」
うん、とショウタが小さく頷いた。
換気扇程度では温度は下がらない。タカシはショウタを抱え、彼の自室に向かった。
部屋は整っている。散らかされた形跡もなく、部屋の隅に置かれた学習机には
ノートや本がそろえて置かれている。
テキストの横に添え物のように置かれていたリモコンを操作し冷房をかける。
暫くするとショウタは気持ちがよさそうに「ふぅ」と言った。
「お兄ちゃん、ごめんなさい……」
「謝る必要はない。暫くそうしていろ」
「うん……」
冷房が聞き始めた室内で、ショウタがゆっくりと体を反転させた。
「ショウタ……?」
様子を窺うと、どうやら眠ってしまったようだった。

寝た子を起こすのも躊躇われて、タカシはどうしたものかと考える。
最低でも下着ははかせてやるべきだろうか。
脱衣所に戻りショウタが用意した衣類の一式を持って戻ってくると、ショウタは
尻と背中を丸出しにして眠っていた。家に閉じ込められている奴隷はみな一様に色白だ。
中には飼い主の好みに合わせて日焼けしている奴隷もいるものの、
ショウタはその中には含まれなかったようで色白だった。
なにか悪いことをしてしまったような気がして、タカシは無表情を保ったまま
黙々と作業を進めた。
白い腹が規則的に動き続ける。呼吸によって隆起したりへこんだりを繰り返す腹から
何故か目が離せず、しかしタカシは黙々と作業した。
バスタオルを剥ぎ取り、幼児にするように足に下着を通す。尻を持ち上げなんとか
下着をはかせると、汗がにじみ出た。
アンドロイドを呼べばよかったと今さら気づき、タカシは苦笑する。
あとは腹にタオルをかけてやればいいだろう。
熱の引いた皮膚に鳥肌が立っているのを認め、気温を調節してから横に避けておいた
タオルケットを広げた。
「……お兄ちゃん……?」
不意に目覚めたショウタが声を掛ける。
「――いいからそのまま寝てろ」
自身の腹に渦巻く悪事を見咎められたような気持ちが拭い去れず、
タカシは窓の外を向いたまま尋ねた。
「……うん……」
ショウタがふわりと笑い、そして甘えたような声で返事をする。
瞬間的に背筋が寒くなったのは、夕方のショウタの痴態を思い出したからだろう。
タカシは口早に「もう今夜は寝ろ。寒かったらパジャマを着ろよ」と告げ
ショウタの「判った」という返事を待たずに部屋を出る。

ばつが悪いと感じる必要などなにもないのに、妙な話である。
タカシは慌てて自室へ向かい、その日はタオルケットを被って眠りに落ちた。

新作のアンドロイドを発表し、二ヶ月が経った。
その日の会議はアンドロイドの中古販売問題に始終しており、
タカシはもう二時間は渋面している。
アンドロイドの社を介さない中古販売が原因で、性病が蔓延しているとの報告を受けたのだ。
原因はセックス機能は未使用と虚偽の申告が成されたアンドロイドが、
社を通さずに不正にリセットさせられ、新品のような顔で格安で販売されたことにある。
人々に好まれるよう髪や目の色、肌の色もバリエーション豊かなアンドロイドは、
管理にも製造にも金が掛かる。少しでも安く買おうと安易に激安販売に走ったユーザーが
性病や、もっと重篤な健康被害に至った例も報告されている。
「中古買取業者はもう星の数ほど居ます」
一人の男が言い、そして早急に対策をすべきと言う至極当然の意見を尤もらしく発表していた。
そんなことは馬鹿でも判るだろう。
しかし星の数は言いすぎではないか。
そうタカシは考えるが、管理が行き届かないことを考えればある意味
言いすぎということはないのかもしれない。
ネット通販が主で、店舗を持たない業者もカウントすればその数は膨大だろう。
参ったな、とタカシは考えた。
「リセットボタンは今どこにある?」
そんなことさえ把握していなのか、と言う視線に晒されながらもタカシは尋ねた。
「修理しやすいよう、腹にあります。ちょうど人間で言うところの臍の辺りですね。
まず人工皮膚を剥いで、その下にある金属板を外すとすぐの部分にあります」
立ち上がって説明を始めた社員にタカシは頷いた。
自社開発の人工皮膚は、本物の皮膚そのものの質感で、ユーザーの評判は上々だった。

しかしユーザーが喜ぶのは質感だけの話で、その機能性については評判と言う評判も
碌に聞かない。特に気にする機会がないのだから当然なのかもしれない。
機能性について絶賛するのは中古業者くらいなのではないかとタカシは考えた。
「皮膚をひとつ前のバージョンに戻してみてはどうだろうか」
「え?」
その場に居た全員が「なにを言い出すのだ」と言う顔をした。
人工皮膚は高い。リセットボタンを押そうにも、一度切開したものはもう使えなくなり
全身の皮膚を総入れ替えする必要があるのだ。
そこで開発されたのが、三代前の製品から使っている改良バージョンの人工皮膚だ。
こちらは切り取っても、暫くの間切断面同士を触れ合わせておけば
自然と癒着することが最大の特徴なのだ。
修理のことを考え改良したのだが、とタカシは唸る。
「そもそもうちの商品はあまり壊れない。壊れたとしても外的なものが多く、
メカニック部分が壊れることは少ないだろう。保障も手厚く行っている。
正規ユーザーには年会費二万円で五年ごとのメンテナンスを行っているだろう。
修理に至っても年会費さえ払っていれば、大抵の不具合は無料で直せる。
だったらいっそのこと、皮膚を以前のものへと戻してみてはどうだろう」
皮膚の改良は修理の為に行われた。質感は全く同じであったのだが、
修理のしやすさを考え本物の皮膚同様に『癒着』するように改良したのが
問題だったのではないか。
以前の皮膚は癒着しなかった。つまり、リセットボタンを押すには皮膚の全てを
アンドロイドから剥ぎ取っていたのである。
高価な皮膚はアンドロイドの全体価格の約1/3を占めている。
中古の癖に皮膚は総入れ替え、プラス本体代が中古なりに掛かり、
さらには会員登録もできぬとなると、新品を買うよりは少しだけ安い、と言う
旨みの薄い商品になるのだ。中古業者にもユーザーにも有り難味は少ない。
「なるほど」と誰かが言った。
思えば旧式の人工皮膚を用いていた時分には、中古販売などの問題は全くなかったのだ。
その方向で調節することが決まり、会議はお開きとなった。

「帰宅されますか?」
秘書に尋ねられ、タカシは首を振った。
「いや、衣類を買う」
「いつもの店でよろしいですか?」
「いや」どこを指定したらいいものか考え「ティーンの衣類を扱う店へ」と言うと
何故か秘書は嬉しそうに笑い「はい」と返事をしたのだった。
道は空いていた。平日の昼間となれば、学生も社会人もまだ居るべき場所にいるのだろう。
混雑をするのはこの一時間後ほどか。
窓の外を眺めていると、ふと背丈の小さい子供の腕を引く男が目に留まる。
男は無理やり子供の腕を引き、乱暴に扱っている。
子供がなにやら抵抗をして見せていることから、子供はアンドロイドでも奴隷でもないと
窺い知れた。こんな風に街に出るたび、奴隷なのかアンドロイドなのかを確めるのは
もうクセになっていた。
我ながら病的と思うが、その確認は止められなかった。
「あ」
子供が倒れ、頭に被っていた帽子が地面にゆっくりと落ちる。
男に突き飛ばされた子供は思い切り倒れ、そして動かなくなった。
男が何事か呼びかけ、そして子供が起き上がる。
いただけない姿だ、とタカシは眉間にシワをよせ考えた。これは正しくないことだ、と。
大人による子供への暴力は増加の一途を辿っていると聞く。
荒んだ世界では仕方がないことなのかもしれないが、これはどうにかしたい問題だと
タカシは考えた。
「タカシさん、着きましたよ」
「……ああ」
気になる話題ではあるものの、他人にまで気を使っている暇はないとタカシは車から降り立った。

ショウタの体に合う衣類を何点か吟味し、今日は帰宅する旨を伝えると車は間もなくして
到着した。いつもよりだいぶ早い帰宅であるが、ショウタは授業中のはずだ。
となれば久しぶりに家でゆったり過ごすことも可能だろう。
アンドロイドに出迎えられ、スーツと鞄を手渡すと、彼は夕食について尋ねてくる。
「いつもどおりの時間でいい」
伝えるやいなや、音も立てずにアンドロイドは引っ込んでいく。
ショウタの自室は二階にある。衣類の詰まったショップバッグを片手に階段を上る。
天窓から降り注ぐ日はオレンジ色で、こんな色の空をここから見たのはいつぶりだろうかと
考えた。
会社を継いでから一度もなかったような気さえした。
本当は継ぐつもりなどなかったのだが、とタカシは呟いた。
一応それらしい大学は出ていたものの、それでもタカシの前職は営業だ。
そんな彼が何故社を継ぐに至ったかと言えば、
時代錯誤にも『血』を重視した老人たちがいたからなのである。
できればずっと前の会社に居たかった。
そんなことを考えながら会談を上っていくと、「まだだよ!」と言う声が聞こえてきた。
その声は明らかにショウタのもので、タカシは階段を上る足をピタリと止めた。
「こっちにだって都合があるの! そんなにガミガミ言われても、僕だって大変なんだよ!」
「ショウタ。でももう考えないと」
「うるさい! そっちは指示出すだけでいいかもしんないけどね、僕だって……」
「なにしてるんだ?」
扉を開け問いかけると、ショウタと教師が対峙していた。
タカシの呼びかけに二人は言葉を詰まらせ、ショウタはショウタで「別に」とそっぽ向く。
「ショウタがなにか我侭を?」
「いえ、授業方針で揉めまして」
教師は困り顔で言う。ショウタを不貞腐れた顔で椅子に座ると、タカシのほうを振り返らなかった。

授業方針を巡っての対立――、そんな風には見えなかった。
「ショウタ――、ショウタ」
タカシの二度にわたる呼びかけに、ショウタは振り返り、そして嫌々と言う風に「なに」と
受け答えをする。不機嫌極まりないといった様子に、タカシは何と尋ねるべきかと思いを
巡らせ、そして結局「なにがあったんだ」と至って平凡な問いを投げたのだ。
「なんでもないよ……僕がこれやりたくないって不貞腐れただけ」
ショウタが見せたのは、算数の問題集だった。それは確かに気が滅入るほどの分厚さで、
ショウタでなくとも嫌気が差すというものだろう。
だが、とタカシは考える。本当にそんなことでショウタは赤の他人に噛み付くような
子供だろうか。この半年で判ったことだが、ショウタは自分の奴隷としての仕事には
積極的であったが、それ以外に消極的中の消極的、超消極的であったのだ。
やれと言われれば興味がなくともそれなりにやる。そのショウタが、と疑問を抱いた。
奴隷として扱わないというタカシの宣言のあとには厚かましさもそれなりに見せてはいたが、
それが教師に対してまで発動されるとは思いがたかった。
「ショウタ」
もう一度呼びかけるが、ショウタは「うん」と曖昧な返事を残すのみで今度は決してタカシを
振り返ろうとしなかった。
授業時間はまだ大分残っているが、タカシは教師に「今日はここまでということで」と
無理やり仕事を切り上げさる方向で話をつけた。
料金は変わらないのだから文句を言われる筋合いはないだろう。
「すみません、勝手に切り上げさせて」
それでも玄関まで送り届ける道すがら、一応形だけはと謝罪した。
彼は「いいえ」と穏やかに言うと「私もまだ上手く授業ができないのでその所為で
ショウタ君も腹を立てているのでしょう」と苦笑した。
タカシは教師を何気ない風を装って観察した。
この苦笑を教師はよく浮かべる。感情を押し隠し、本当の自分を消して見せないようにと
振舞っているようで、見れば見るほど胡散臭く思えてしまうのが不思議だ。

「それでは、また明日お伺いしますので」
「ああ、はい」
「さよなら」
重い扉を閉じ教師が去っていく。
二人の間で何があったのだろう。
本当に授業方針を巡っての対立なのだろうか。それよりもっと深刻は話をしているような
そんな雰囲気であったと、タカシは数分前の出来事を頭で反芻した。
タカシの入室とともに会話は途切れたが、二人の会話はただの教師と生徒ではなく
もっと近しい関係のように思えた。
「お兄ちゃん」
いつのまにか上階から降りてきたショウタがそこにいた。
上から下まで観察し、服装の乱れがないことを観察する。
「なに? 僕どこか変?」
「……いや、なんでもない。服を買ってきたから、洗濯してもらってから着ろ」
手に握り締めていたショップバッグは紙袋で、持ち手の部分が湿っていた。
それを気にした様子もなくショウタは受け取ると「ありがとう」と礼を言い上階へと
駆け上っていったのだった。

ショウタはタカシと風呂に入りたがる。
その日の夕食を終えると、タカシの入浴中にショウタも入ってきた。
同性であることを思うと「入るな」と注意するのも奇妙な気がして
タカシは追い出すこともできぬまま湯船に使っていた。
機嫌よさそうにあの調子っ外れの鼻歌を歌い、ショウタは背中をタカシに洗わせる。
細い背中は子供っぽいとは言いがたい。
洗い終わると当然のように人の足の間に座り、背中はタカシの胸へと預ける。
自然、ショウタの背面とタカシの胸部が密着した形になり、タカシはなにも悪くないのに
後ろ暗い気持ちを抱いたのだ。

タカシが動くたび、彼の背中が胸部や腹部を擦っていく。
「お兄ちゃん」
振り返るとショウタはなにが楽しいのかくすくすと笑ってみせる。
「……なんだ」
「なんでもない」
ショウタのつむじは綺麗に巻いている。短い髪が少しだけ伸び、後姿からは女か男か
いまひとつ判然としない姿となっていた。
頭をかき回してやり「そろそろ髪を切るか?」と尋ねればショウタは「どっちでもいいー」と
間延びした返事をした。
初めて一緒に入浴した際に学んだのは、ショウタがあまり温度の高い湯が
得意ではないということだった。以後は真夏でも四十度に設定していた温度は
今では常に三十七度に設定されている。
「授業はどうだ?」
「ふつー」
ショウタは教師との諍いには全く触れずに返答した。
「先生と上手くやっているか」
「やってるんじゃない? 今日は喧嘩したけど」
「ドリルのことでか?」
「うん」
湯船に放り込んだアヒルのオモチャをグアグアと鳴かせ、ショウタは答える。
「算数は嫌いか」
「ふつー」
やっぱりショウタは振り返ることなく答えたのだった。
「僕もう出る」
「ああ」
ざばりと湯を跳ねさせながらショウタは湯から勢いよく飛び出していく。

※ごめん私怨してもらえると助かる※
尻も体も隠さずに、あれほどまでにタカシを執拗に誘ってきたにも関わらずその素振りも
今はなかった。
やはりあれは奴隷としての義務感だったのだろうか。
タカシは考え、自分も湯から上がることにした。
脱衣場では既に下着を身につけたショウタが、
先日設置されたばかりの小型冷蔵庫から取り出した水を飲んでいた。
腰に手を当て、「ぷはー」と言う様が幼く可愛らしいとさえ思える。
「頭ちゃんと拭けよ」
「うん」
タカシも下着を身につけつつふと脱衣籠を見れば、自分のTシャツが二枚あることに気づいた。
ボトムと間違えて持ってきてしまったのだろうかと考え籠を探るが、黒色のスウェットは
しっかりと用意されている。その代わりにショウタの衣類が見当たらない。
「おい、これ俺のだぞ」
「え? ああ、うん。着ちゃ駄目?」
「俺のをか? 大きいだろ」
「大きいけど下を履かなくていいから涼しくていいのー」
駄目なら着ないけど、と言いつつもショウタはもうそのTシャツを身につけに掛かっている。
頭を通してすとんと落ちれば、ショウタの体はTシャツに覆われ、ワンピースでも
きているかのような姿になった。
あざとい。ふとそう思い、なにをあざとく思う必要があるのだろうかとタカシは自問する。
ショウタがタカシを誘っているのなら兎も角、その様子も消えうせた今ではそんなことを
思い必要はないはずだ。
「じゃあ僕もうねるから。おやすみなさい」
頭をぺこんと下げ、ショウタは脱衣場を後にした。
「なんだあれ……」
なにが『なんだあれ』なのかは自分でも判らなかったが、タカシはそう言うことで
自分の疑問や不審な考えを頭の奥へと押しやったのだった。

その日の帰宅は幾分か遅くなった。と言っても時刻は二十三時で、繁忙期に比べれば
その忙しさは『屁でもない』程度のものであった。
帰宅もできぬほどに忙しい時期を経験したタカシは、社にシャワールームと仮眠室を設けさせた。
できれば使いたくはないその場所であったが、今日はその忙しさから
それらを使わざるを得ない――、そう思っていたものの、仕事は予想外に速く終わったため
帰宅の途に就いたのはおよそ三十分前のことだ。
外泊する旨を電話で伝えてあるから、ショウタはおそらくもう眠っていることだろう。
屋敷の前で車を降り鍵を開ける。一人暮らしが長かったため「ただいま」と口にする習慣は
タカシにはない。それでもショウタが起きてしまわないようにと気を使い、タカシは
ドアノブを捻ったまま扉を閉じた。
コツさえ掴めば鍵も音を立てずに閉めることができるのだ。
凝り固まった肩を揉み解しながら靴を脱ぎ捨てる。廊下も階段も、間接照明がほの白く
光るだけで薄暗く歩きづらい。自宅だというのに不便なことだ。
そのまま自室に向かうべく階段を上ると、人感センサーが反応して照明の光量が増える。
眩しさに目を眇めながら、疲労の溜まった足を無理やり持ち上げ階段を上った。
階段も残すところあと三段。二階の自室ももう目前と言うところで、タカシは歩みを止めた。
なにやら物音がしたような気がしたのだ。
続いて呻くような声。
怪訝に思い、そして暫くののちにショウタのいつもの自慰行為だろうかと思いあたり
タカシは気まずい思いを抱えた。
気づかなかったフリをして自室に早いところ引っ込んでしまおう――、そう考えタカシが
残りの階段を上ろうとしたその時だった。
かすかに聞こえてくる呻き声に交じって、「ショウタ」と言う男の声が聞こえてきたのだ。

誰かが屋敷にいる。それも、ショウタ以外の誰かが。
タカシは殊更気を使いながら階段を上り終え、それから自室とは反対方向の
突き当たりに位置するショウタの自室を目指した。
程なくして辿りついたそこを目の前に、タカシは立ち尽くす。
扉を開けたくはない、中でなにが行われているのかは知りたくない。だが開けたい。
相反する気持ちが同時に押し寄せ、タカシは二度三度、ノブに触れては離すという
無意味な作業を繰り返した。
聞こえてくるのは、男が「ショウタ」と呼ぶ声となにかが軋む音。
なんの音かなど、考えるまでもないだろう。ベッドだ。
ショウタの声も同じように、時折ではあるが「あ」だとか「ん」と聞こえる。
タカシはいつの間にか冷え切った指先でノブに再び触れると、ゆっくりとそれを捻った。
まず、男の背中が見えた。カーテンが閉められた室内は暗かったが、ベッドサイドの
ランプが光源となり、おぼろげに男の背中を輪郭だけ浮かび上がらせている。
それから、尻。そして足。その合間から細い足が生えていて、タカシはそれを見つけると
頭に血が上るのを感じた。
「なにをしている!」
喉からせり上がる吐き気を堪え、タカシはあらん限りの怒声を吐き出す。
びくりと動きを止めた男が指の一本も動かす間さえ与えず
タカシはつかつかとベッドに近づき、男の肩に触れた。汗で滑った皮膚が不快だ。
しかしそれにも怯まずに、肩に食い込むほどに力を入れた掌を自分の側に向けて引いた。
「ぁあ!」
まだ繋がっていたのだろう、男の体が離れると同時にショウタは悲鳴のような声をあげた。
男はベッドから転がり落ちそのまま起き上がらなかったが、相手が誰であるのか
確認する必要はないだろう。あの教師だ。

「お前も何をしているんだ、ショウタ!」
ベッドに伏せていたショウタが起き上がる。尻を隠すようにして起き上がると
くしゃくしゃに丸まっていたタオルケットを手繰り寄せ、息をついた。
「……見たまんまだよ、お兄ちゃん」
――お前こそ無粋なことを言うな。
そう言いたげな顔に向かって掌を張る。
乾いた音がして、ショウタの体がベッドの隅へと飛んでいく。
「俺の屋敷でこんなことをすることは許さない!」
「いったぁ……」
ショウタは叩かれた頬を押さえ、そしてゆっくりと起き上がる。
タオルの下の足は胡坐をかき、その姿にはふてぶてしさがにじみ出ていた。
不快。ただただ不愉快だった。
「貴方も何をしているんだ!」
床に転がった男を蹴り上げる。
鈍い音がすると男は呻き声を上げ、そして丸まった。
ショウタの家庭教師として雇った男が、まさか子供の誘いに応じるような野獣だったとは。
こみ上げる腹立たしさと不快感を堪えようとタカシは奥歯に力を入れて歯を食いしばった。
「なんの為に貴方を雇ったと思っている!」
「おにいちゃん」
「お前は黙っていろ!」
何様のつもりだと床に蹲った男を思いつく限りの言葉で罵倒し続けるが、その合間合間で
ショウタが「おにいちゃーん」とのんびりとした声で呼びかけることに苛立ちが募る。
「おにいちゃんってばぁ」
「なんだ!」
「怒っているところ悪いけど、その人、先生じゃないよ」
ショウタの言葉にハッとする。

ではこれは誰だというのだ。
「よく見てみたら?」
よいしょ、と掛け声を上げ、ショウタは重い照明器具をタカシに差し出した。
コードレスのそれをタカシは受け取り、そしてその男の顔を照らし出した。
男は蹲ったままで顔を見せない。
タカシは男の体を足蹴にし「手を退けろ」と『命令』した。
「――お前……」
タカシは今度こそ言葉を失った。
男は、アンドロイドだった。
最も長く家に置いているアンドロイドだ。家事全般もこなす優秀なそれ。
機械だ。自らの会社で作り上げているアンドロイドであった。
アンドロイドは『申し訳なさそうな顔』でタカシを見上げ、そして黙している。
「誰が……」
言葉が上手く発せない。傍らでタオルを体に巻きつけ悠然と微笑むショウタのことなど
頭から吹き飛ぶ。
「誰が奴隷を犯せと命令した! お前は誰の所有物だ!!」
手にした照明器具を振り上げ、アンドロイドの頭部めがけて落下させる。
痛覚のないアンドロイドは痛みを訴えることもなく、主人のタカシの命に背くことさえなく、
ただ黙ってその暴力を受け入れていた。
照明器具が完全に破壊されてしまうと、今度は手近にあったチェアを掴んで何度もその
機械でできた頭を殴りつける。
「なんのためにお前がいる! 俺はお前にショウタを犯せと一言でも言ったか!!」
『いいえ……いいえ……』
音声が言い訳もせずに質問に淡々と答える。タカシの怒りを汲み取ったアンドロイドは決して
言い訳も抵抗もせず、ただ不気味に『いいえ』と答え続け、そして陥没する頭から飛び散る
機械油やパーツを拾い集めるようにして手を動かしている。

「ふざけるな! 何故命令されていないことをした!」
怒りに燃え滾る脳ではまともな思考は望めない。
タカシは怒りの全てを吐き出すかのように、アンドロイドの頭部を攻撃し続けそして破壊した。
十分か二十分か、或いはそれ以上か。タカシの怒りを受け止め続けたアンドロイドは、
痙攣のような動きを見せ、それを最後に完全に動かなくなった。
足元が濡れる気持ち悪さも相まって、タカシの怒りはなおも収まらない。
まるで血液だ。タカシの足元、いや、飛び散り体全体を汚したそれは、
まるで残虐な殺人鬼のような風体にタカシを仕立て上げていた。
タカシはショウタに向き直ると「説明しろ」と言う。
「悪いことなの?」
しかしショウタはタカシの蛮行を目にしても恐れることもなく、
何故タカシが怒り狂っているのかが本気で判らぬという風に首を傾げて尋ね返した。
「エッチするのって、悪いことなの?」
「お前……!」
パシッと再び叩きつけると乾いた音がし、ショウタは床へと転がった。
体に巻きつけたタオルケットが剥がれ落ち、ショウタの体全体が露になった。
柔らかそうな腹に、下腹部、ショウタが転がれば丸い臀部がタカシの目の前に晒された。
頭を打ち付けたのか、ショウタは暫く床へと転がり起き上がらなかった。
「お前はまだ子供だ!」
震える声で、漸くそれだけを唯一の尤もらしい理由として告げれば、
ショウタは体を起こしおかしそうに笑って見せた。
「この国では奴隷が認められているのに? 大人も子供も奴隷ならエッチくらいしてるじゃん。
ホーリツではそれが許可されているのになんで駄目なの?」
「俺はお前が奴隷のように振舞うことを許さないといったはずだ!」
「それって僕の自由を制限してるよね? 結局奴隷として僕を押しつぶしているじゃん」

「な……」
「僕はエッチ好きだよ。気持ちいいもん。僕がなにも知らない奴隷ならするなって言われたら
しないだろうけど、僕はこの世で一番気持ちいいことを知ってる。我慢できるはずないよ」
薄闇の中、ショウタは立ち上がるとタオルケットを放り出した。
「タカシおにいちゃんはケッペキショーだね。ミユキおねえちゃんは気持ちいいことが
大好きだったよ。お兄ちゃんは神経質すぎる」
女の子みたいだね。
ショウタは侮蔑するようにタカシに言った。
哀れみ、侮蔑、そして嘲笑。そんなもので固められたような表情をすぐさま消し去ると、
ショウタは子供っぽい笑みを浮かべてタカシに抱きついた。
「ねぇ、お兄ちゃんは自分を認められないだけだよ」
細い腕がタカシの腰に回された。それからショウタはうっとりした顔で胸へと顔をうずめ、
それからYシャツの上からタカシの皮膚を噛んだ。
甘いようなむずがゆいような刺激が広がる。
それが恐ろしくて、タカシはショウタの体を引きが剥がした。
「やめろ!」
「どうして? 少し噛んだだけじゃん。僕はおにいちゃんに甘えただけだよ?」
それの何がいけないの、と言われれば、タカシは返答に窮するしかない。
ショウタの噛んだ胸のすぐ下の肉がうずく。もっと噛まれたいような、そんなむず痒さが
あった。この刺激はなんだというのだろう。刺激を求めて熟れる皮膚を、
ほんの少しの唾液で濡れたYシャツの上から激しく擦る。
「つまらないね、タカシお兄ちゃん。お兄ちゃんは全然正しくないよ。
おまけに嘘吐きだね。僕のほうがマシじゃない?」
「な、なにを……」
微笑を浮かべるショウタにタカシは後ずさった。
不気味な笑顔がただ恐ろしかった。
さっきまでの勢いはどうしたの、とショウタは言う。
「お兄ちゃんはね、男の子が好きなんだよ。僕みたいな男の子がね」

「やめろ、」
「じゃあなんでいつも僕の裸から目を逸らしたの? そのケがないひとはあんな顔しないよ?」
「やめろ」
「いっつも僕の体を見てた。舐めるようにして、じぃって見てたでしょ」
ショウタはタカシの手首を持ち、それから自分の胸へと掌を押し付けさせた。
「認めたら? ほら、柔らかくて気持ちいいでしょ?」
「やめろ、やめてくれ……!」
掌に触れた肌が熱かった。いや、熱いのはタカシの手かもしれない。
タカシは正しくなどない。正しいフリが好きなだけだと、そんなの昔から判っていた。
『私男の子大好きなのよね。たくさん居るのよ、ロリコンとかショタコンって』
涼やかな姉の声が甦る。その後彼女は何と言っただろうか。彼女はあられもない
格好をしたアンドロイドの頭を撫でながらなんと言っていただろうか。
姉は情事の後は隠すことはしなかった。わざわざタカシが見ることを前提として
自室に招いたのだ。それから、それから何と言っただろう。
そうだ、こう言ったのだ。
『あんたもそうでしょ、タカシ』
現状、ショウタを拒否できずに――、いや、ショウタの体に飢えている自分を認めれば
それはまさしく事実であったのだと思い知る。
正しくありたかった。正しいことだけがタカシのアイデンティティだったのだ。
「お兄ちゃん」
囁くように、誘うように言ったショウタの顔が、気づけば目の前にあった。
タカシはいつのまにか尻餅をつき、フローリングの上へとへたり込んでいたのだ。
手足には力が入らない。
潤んだ二つの目がタカシを見つめ、「いいんだよ?」と誘いをかける。
――食われる。食い尽くされる。
タカシはショウタの目を、密着する肌を感じながら咄嗟にそう考えていた。

混乱の渦に飲み込まれ、気づけば小さな獣にタカシは食いつかれている。
正しい人生がどこかに飛んでいきそうな予感に、タカシはただ破瓜に怯える生娘のように怯え震えた。
なおもショウタは「ねぇ」と誘い、そしてタカシのネクタイを巧みに抜取ると、
露出した喉に歯を立てられた。体が刺激に竦むのを抑えられない。
タカシははっきりと恐怖している。目の前のショウタが恐ろしいのだ。
――いや、違う。
自問したどり着いたのは、それが人任せにした恐怖であるという結論だ。
違う、とタカシはその汚泥にまみれたような恐怖を払いのけた。
恐ろしいのは、自分自身だ。ショウタの言うとおりに『男の子が好き』なのかもしれない
そんな異常な自分が恐ろしいのだ。
タカシはショウタの行いを忌避した。異常なまでに、遠ざけようとした。
男が男を抱き、女が女と行為を楽しむ。そんなことがありふれた世界で、タカシはショウタを
忌避し続けた。
正しくあれと言われ育ったためだ。だからこそだ。
そう思っていた。
「激しい拒否はね、好きの裏返しなんだよ」
ショウタは囁くような声音で言った。
「よくさ、ホモ嫌いの人が蓋を空ければホモだった、って話を聞くでしょ」
そんな話は、確かに聞いたことがあった。
だが自分は、自分だけは断じて違うのだとタカシは思っていた。そのはずだった。
ショウタは身を寄せ、濡れそぼった性器をはだけさせられたタカシの腹へと擦りつけて見せた。
「もしもお兄ちゃんが『正しいフリ』を続けないなら、僕が無理やりお兄ちゃんに
襲いかかってことにすればいいよ」
ショウタは慣れた仕草で抜き取ったネクタイを用いてタカシの両手を拘束した。
「なにを……」
よく聞いて、とショウタは囁く。

「僕が全部悪いってことにしていいんだよ?」
耳朶を甘噛みされ下腹部を撫でられると頭の芯がぼうっとしてきて何も考えられなくなる。
「僕に襲われたってことにすればいいよ。ね?」
だから気持ちいいことをしようよと言うと、ショウタはタカシのパンツのジッパーを外しに掛か

った。
にこりと微笑むその顔は、子供っぽく可愛らしいのに、タカシはそれを微塵も愛らしいとは
思えなかったのだった。

正しくありたかった。
正しくあれと言われずっとそう生きてきた。そうしないと、子供の頃に「いやらしい」と
言われ苛められた自分が真実の姿であったかのような気がして、どうしても許せなかったのだ。
正しくあれと父は言った。
その父が時折タカシの体を妙な手つきで触ったことを、タカシは忘れていない。
気のせいではなかったのかもしれない。
これは遺伝なんだろうか。
タカシは自問し、きっと狂った家系に生まれたのだから仕方がない、と人の所為にすることで
楽になる道を見つけると少しだけ気持ちが落ち着いた。
「おにちゃん……!」
ショウタが叫ぶ。
初めて女を抱いたのはいつだっただろうか、とタカシを目の前の異常な光景を見つつ
考えていた。
十三歳だった気もするし、十五歳だった気もする。
記憶が曖昧なのは、然して好いてもいない人間が相手であったからであろう。
印象に残っているのはたった二つの感情だ。
親にバレやしないかという恐怖と、こんなものかと言う呆気なさ。
本当に、この二つだけなのだ。
周りが初体験を済ませる中で、タカシは商売女に筆おろしをしてもらったのかもしれないし、
同級生や先輩と済ませてしまったのかもしれない。

※長くてごめんね!!まだ続く(´・ω・`)※
世界は混沌としていて、性に対しておおらか過ぎるほどにおおらかな世の中で、
しかもアンドロイドで練習、その後実践へ、と言う人間も多い世の中であれば
明確にどの時期が初の体験であったのかを思い出せずにいる人間も少なくはないだろう。
ショウタはいつだったのだろう。
そんなことを考え、それは自身に何の関係もないことだと結論を出せば、タカシはもう
ぬめる内部の心地よさを体全体で感じるよりほかはなかった。
それでも頭は実に冷静だった。分離された意識だけがそこに取り残されたような奇妙な感覚。
体はしっかりと反応しているのに、混乱を極めた頭は考えることを早速放棄しており、
喘ぎ乱れるショウタはただの事象としてそこにあるようにしか見えなかった。
自分の上で激しく動く体を、規則的に動くようプログラミングされたアンドロイドのようだと
冷え切った感想を抱く。それ以上の感情はないし、心は興奮していなかった。
こんなものか。やはり初体験の時のようにそう思ったのだ。
ただおかしなことに、体だけはその『穴』を楽しんでいた。
タカシの体はショウタをただの穴だと考えているようだ。分離された意識はやはり
そんな風に無責任な感情を抱いていたのだ。
「ぁ……! あ、おにちゃん、おにいちゃん……!」
粘膜が蠢きタカシを啜っていく。卑猥な音が響くと、それにも感じるのかショウタは更に
高く泣きじゃくるような声でタカシを呼ぶ。
「あ、あ、ぁん……!」
聞きようによっては女のものにも聞こえるそれはひっきりなしに喘ぎを繰り返し、
そして時折「もっと」と叫ぶように言い、そして足を使って必死で体を上下さている。
理性が焼ききれたように快楽だけを追求するショウタには、たとえ今話しかけたところで
タカシの声など聞こえないだろう。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!」
ふいにショウタの手が伸ばされ、タカシの両手首を拘束するネクタイに触れた。
もう何で濡れているのか判らないくらいに汚れたそれを時間をかけてもどかしそうに解くと、
ショウタはその指を口許に持ってきて舐め噛んだ。

「おい……」
「ぁあ、あ、これ、これで、触って……」
切ないような声を出しながら、ショウタの乳首へと指を導かれる。
「触って……触って……!! ぁん……! あ、あ、あ! 気持ちいい……!」
押さえつけられた場所で、ゆっくりとこね回せば、ショウタはビクビクと痙攣する。
「もっと……もっと触って……!」
言われたとおりに触っていけば、ショウタは喘ぎの合間に「いく、いく」と切なげに泣き、
そうこうしているうちに卑猥な穴は収縮を繰り返し、そして彼は果てたのだった。
小さな体がタカシの胸へとぺたりとくっ付く。
汗に濡れた体をタカシは払いのける気にもならなかった。
十分ほどがたったころだろうか、ショウタはむくりと起き上がり、呻き声を上げながら
タカシを体から抜き出すと、タカシの首に抱きついた。

「あーすっきりした」
ショウタはタカシの首に鼻先を埋めると、時折甘えるようにして首に噛み付いた。
子供らしい仕草は、本当に子供が大人に甘える程度のもので、情事の色が抜け落ちたそれに
タカシは面食らう。
「お兄ちゃんは?」
からからとした明るい声で告げられ、返答に窮する。
「あーいいや、僕が襲ったんだから、お兄ちゃんはキモチイイもなにもないよね」
手近にあったタオルを引っつかんで汗を拭き取ると、ショウタは熱い熱いといいながら
クーラーの温度を下げ、それが終わると再びタカシの体の上へと乗った。
「もう秋だねーちょっと涼しくなったよねぇ、最近」
なにも答えることができない。出すものを出して冷静になれば、冷えた頭はどんどんと
まずい思考へと引きずられていく。
まず後悔。それから誰に対するものか判らない謝罪。
ぐちゃぐちゃと混濁した思考は何ひついつもの自分へと引き戻してくれる助けにならず、
タカシは力任せに頭をかきむしった。

>>1
これって全部書き上げるまでにどれくらいかかったの?

「お兄ちゃん、後悔している?」
その問いに答えてやることもできない。
ショウタを押しのけ起き上がると、深い穴に落とされたような絶望感で体も心も満たされる。
指先が冷え、唐突に「もう戻れないのだ」と悟ると、今すぐ自殺してしまいたいような気持ちで
頭が満たされた。
完全に人の所為にできるほど無責任にはなれない。それがタカシの性分で、そもそも「正しいこ

と」に反する行為であるためだ。
一体なにが起こったのかを頭の中で反芻する。
タカシは間違いなく選んだのだ。ショウタと体を繋ぐことを。
タカシはゲイではない。ただきっとおそらく、非力で小さな存在に非人道的な行いを
するのを好いているのだ。それはきっとショウタでなくてもいい。ショウタのような
奴隷であれば、誰でもいいのだ。性欲だけが先行されたこの行いは正しくもないし、
清潔でもない。それがどうしても許せなかった。
腹の底では判っていた。見ないようにしていただけなのだ。
その事実を確認すると、どうしようもない気持ち頭がおかしくなりそうだった。
正しくあろうと生きて来たはずなのに。一体どこでどう間違えたのだろう。
「お兄ちゃん」
聞きたくなかった。なにも。ショウタの呼吸ひとつさえ、耳に入れたくなかった。
タカシは今負けたのだ。不純な存在に成り果てた。正しさと言うアイデンティティを
なくしたのだ。
「お兄ちゃん」
いいんだよ、とショウタが言う。
自分の所為だというと、ショウタは慰めるように頭を抱いてきた。
「大丈夫だよ」
大丈夫なはずがない。
例えば自分が元よりそのような性質であったのなら、なんの罪悪感も持たない。
例えばショウタに少しでも恋情を抱いていたのなら。

>>90 暇な時間を見て四日
だがタカシは違う。
ただ、小さい体にしか興味がないのだ。それがいけない。それが許せないのだ。
「おにいちゃん」
ショウタが呼んだ。しかしタカシはやはり何ひとつ答える気は起きず、
自分の殻に閉じこもることを選んだのだ。

アンドロイドの目は義眼と同じものを用いられている。
端的に言えば高性能のカメラであるそれは、本物の眼球と遜色のない見てくれであった。
それでもタカシはあの目が恐ろしかった。
タカシの祖父は加齢性の病の為、右目の視力を失った。
それを補うように義眼をつけたが、それはまるで元から彼のものであったように
しっくりと納まり、なんの違和感も抱かなかった。
しかしその彼を傍らで介護するアンドロイドのあの目。
タカシはその不安定さに恐ろしくなったものだった。
何が恐ろしかったのか未だに判らない。
ショウタの目もアンドロイドのそれとよく似ているような気がしてならないのだ。
「水飲むー?」
素っ裸で歩き回るショウタに眉根を寄せながら「いい」と言えば、ショウタは「ふぅん」と
返し、そして甘えるようにぺったりと体を密着させる。
なんだかんだと言ってあれ以後も幾度となくショウタと体を重ねている。
ずるいことをしていると判っている。すべてがショウタの主導で行われ、
結局のところタカシは『襲われている』と言う状況に身を置くことによって、自身の罪を
ないものとして扱おうとしているのだ。
そんな自分に嫌になる。
手元のタブレットを弄りながら、明日の予定を確認する。また会議だ。判子押しもなかなかだが
自社製品に対する専門的知識を碌に持ち合わせてもいないタカシは、技術者や自分より
はるか年上の社員が一堂に会する会議を何よりも苦手としていた。
「なにしてんの?」
「仕事」

ぬるい体を押し付けるショウタにはもう情事の淫猥さが微塵もない。
素肌の上を転がるショウタの肌がさらさらと心地よく、タカシはその健全な空気に、
自身の内に沈む汚泥が全て流されていくような錯覚を覚えた。
そんなはずはないと判っているにも関わらず、だ。
「それゲームできる?」
「できる」
遊ぶか、と渡せばショウタは屈託のない顔でその薄平らな機械を手に取った。
数年前まではキーボードや画面がバーチャル映像で宙に浮かぶタイプのタブレットが主流であっ

たが
あまりの使いづらさに近頃はとんと見かけなくなった。
機械は進化している。アンドロイドも。アンドロイドが子供を産む時代も来るかもしれない。
そんな恐ろしい未来に、タカシは身震いした。土壌や種がなくとも保育器としてアンドロイドを
扱うことは可能と言えば可能だ。人類は一体どこへ向かうのだろうか。
「お兄ちゃん?」ショウタが顔を覗きこんでいた。「どうしたの?」
「……なんでもない。シャワー浴びて来い」
「うん。お兄ちゃんは?」
「俺は後でいい」
「一緒に入ろうよ」
「……いや、一人で入れ」
二、三度突っぱねれば、暫くはベッドに佇んでいたショウタも諦めたようで「つまんなーい」と
言いながらベッドを後にした。

「僕もそれ欲しい」
翌朝の朝食の時間、コーヒーを飲みながらタブレットを弄くるタカシに、身を乗り出すようにして
ショウタが言った。

じゃなかったらパソコンが欲しい。
ショウタは突然にそう強請ったのだ。
ショウタはタカシに肉体意外を求めてくることはなかったため、タカシはしばし考えたあと
「いいよ」と返事した。答えなど最初から決まっていたが、考える素振りはなんとなく必要な
気がしたのだ。
「やった」ショウタは嬉しそうに微笑み、そしてトーストにかぶりついた。
普通の少年のような物欲を彼が抱くことそのものが珍しく、あまりにも健全な物欲を抱く彼は
実に『普通』に見えた。然すればその物欲は叶えなくてはならないだろう。
「タブレット? パソコン? どっちが欲しい?」
「どっちが持ち運びが楽? 家の中で移動して使いたい」
「どっちも楽だが嵩張らないのはタブレット」
「じゃあそっちで。あ、パソコンとかテレビから中身移動できる?」
「できる」
「よかった。居間のパソコンに入っている本読みたいから」
「どこのメーカーのがいい?」
尋ねられれば、ショウタは「え」と言ったきり首を傾げた。
なにを迷っているのだろうか。欲しいメーカーがひとつに絞れないのか、そうでないなら
どれが最も機能的であるのか判らないのか。
なにか進言しようと口を開きかけたとき、ショウタは「メーカーは知らないから、
お兄ちゃんのオススメのものでいいや」と告げた。
そうだ、ショウタは元々奴隷なのだ。奴隷に娯楽らしい娯楽があるわけもなく、家電メーカーの
名前やその特徴について知るわけがない。
彼の出自を思い出すと、途端にコーヒーが飲み込めなくなる。
なるほど、罪の意識を感じているわけか、と至極冷静に考える自分がタカシは奇妙であった。
「そうか」
返事をしたのち、ただの苦いお湯と化したコーヒーを無理やり飲み込む。

ショウタを好きなただの男だったらどれほど楽だろうか。
自分をどれほど容易く許せただろうか。
そこまで考え、なるほど、自分に酔っているのか、と言う思考に至りタカシは唇を噛み締めた。
『あんたもそうでしょ?』
ミユキの声が頭に響く。彼女の言葉はなにも間違っては居なかった。
タカシは愛情を抱かなくとも、歪んだ性癖を他者にぶつけることができるそんな人間なのだ。
近頃タカシは漸く認めた。認めたというか客観的になった。
楽には感じない。アイデンティティの崩壊を感じているし、いざ行為に及ぼうとしても
もう一人の自分が必死に止めることもあった。
それでも結局はショウタを貪るのだから世話はない。
歪みは日に日に酷くなっている。タカシは「ご馳走様」と言うと、カップだけを片付け
家を出たのであった。

アンドロイドの新作は年に一度発表される。
ついこの間新作の発売が為されたばかりだが、プロジェクトチームは既に次回作に向けて
開発をスタートさせていた。
次回の目玉はやはり子供型アンドロイドになりそうだ。大人型はもう既に完成型と言っても
差支えがない出来栄えであるので、変更点と言ったら容貌に絞られてしまうのも致し方がないだ

ろう。
性能も質感も、殆ど開発部任せである。こんなてきとうな仕事ぶりでいいのだろうかと思うが、
しかし開発部はその方が逆にありがたいようだった。
しかしタカシはただひとつ、その容姿のデザインにだけは注文を出した。
これは曽祖父の代から代わらぬ決まり事なのである。タカシもそれに倣い、それとなく
注文を出している。
――もっと柔らかく、もっと男性的に、骨格はもう少し華奢なほうがいいだろう。
そんなタカシの感覚だけを告げる要望でも、開発部は上手い具合に纏め上げ、
思ったような風体にアンドロイドを仕上げてくるので不思議なものである。

今回も納得のデザインへと仕上げてくれた開発部にタカシは概ね満足していた。
報告後には好きに進めよと書類にサインをすれば、新作についてはあとは完成を待つばかりだ。
どんなものになるのか楽しみではあるが、困ったことに差ほど大きな期待や感心は抱けなかった。
困ったものだ、とタカシは考える。
子供のアンドロイドについても大した興味はない。
やはりタカシの歪んだ性癖は、生身の人間にのみ発揮されるもののようだった。
それでも、一応は資料に目を通す。
「AIか……」
誰も居ない部屋でぽつりと呟いた。
次回作の子供型のAIは、学習機能を大幅にダウンする予定であるようだ。
出荷状態で子供型の設定年齢は見た目より幼く設定されている。ユーザーの育む喜びを
考慮したものであったが、それでも彼らは商品に満足しなかったようだ。
いわく、学習スピードが速すぎるのだと言う。
賢すぎるのが問題のようだった。
あまりにも幼く設定すれば、ロボットの三原則を覆しユーザーに危険が及ばないとも限らない。
その手の事故を回避できるギリギリの年齢まで思考を幼くしたものの、
やはり事故の発生が恐ろしくて、それを補うように学習スピードを上げてしまったのだ。
事故回避を目的とした設定は多くのユーザーに不満を齎したようだ。
上手く行かない、と溜息を落とす。
株価は安定した。それでもいつ下落するかわからない。
ひとつのミスが致命的な結果を生むこともあるだろう。
それにショウタ。
タカシは今頃は家で学習をしているであろう彼の顔を思い浮かべた。
万が一、万が一ショウタとの関係が世間に知れることとなったらどうなるのだろう。
おそらく大した反発は生まない。

子供の保護に熱心は市民団体も奴隷についてはなにも言わないことが暗黙のルールとなっていたし、
例えばタカシが同性愛者であるとの報道がされたとしても、同性婚が認められた世の中では
逆に報道機関側が叩かれることだろう。
おまけにショウタは奴隷だ。
少数を異端視するのはもう数千年続くこの国の性質で、奴隷と言う存在が大っぴらに
認められているからにはタカシを悪であると論じることこそが異端であるとされる確率が高い。
ではなにを恐れているのだろう。
「そういう自分を表に出すこと、か……」
つまりは人に知られることが恐ろしいのだ。他人がどうとも思わなくても、それでも人に
自分の一番嫌な部分を知られたくはないのだ。
阿呆ではないか、と思う。
初めてショウタと関係を持ったとき、逃げようと思えばいくらでも逃げられた。
それをしなかったのは、単純に性欲に負けたからだ。
そんな自分を知られたくない、認めたくないというのは、まるで子供の我侭だ。
馬鹿の極みだ。タカシは自嘲しながら椅子を回転させたのだった。

タカシが見繕ってきたタブレットを、ショウタはことのほか気に入ったようだ。
ベッドの上でも弄り倒している。
時折機能についてあれこれ尋ねてくるショウタにひとつひとつ教えていく。
まるで償いをするように、タカシはショウタを丁寧に扱った。
馬鹿げたことをしているという自覚はあった。
「じゃあパソコンの中の映画を入れる時は?」
「そん時はケーブルを繋がないと駄目だ。タブレットからパソコンに送るときは
無線で大丈夫」
「へぇ、便利だね。ゲーム買っていい?」
「好きにしろ」
「やった。音楽は?」
「動画でも音楽でもゲームでも好きなものを好きなように買え」

わかった、と返事するショウタがベッドの上をコロコロと転がりながら画面を覗き続ける。
素っ裸のままベッドの上でする会話ではないだろう。
相容れない雰囲気にタカシはおかしくなってふと笑った。
「……なに?」
ショウタが首を傾げた。
「なんでもない。風呂、入るぞ」
「うん」
ショウタをタオルで包んでタカシはそのまま運んでやる。
きゃっきゃと子供のように、甘えるようにはしゃぐショウタに少しだけ眉根を寄せた。
近頃タカシは、意識的にショウタに甘く接している。
それを彼がどう捉えているか定かではないが、そこに愛情があると勘違いさせるのは
おそらく後々妙な軋轢を生むことだろう。
「ショウタ」
「うーん?」
小脇に抱えられたまま「なぁに」と可愛らしく返事するショウタに言葉が詰まる。
「……新しいタオル買ったからそれ使え」
「え、本当?」
「伸ばすとイルカの形になるやつだ」
「なにそれ可愛い!」
一際大きな声を上げると、ショウタは喜びを全身で表すように暴れた。
「落とすぞ」
「落ちないもーん」
子供っぽいものをショウタは好む。奴隷は飼われて初めて贅沢が許されるようだ。
彼が子供時代に親から与えられたのはお作法のみで、だからかタカシの与えるものは
なんでも喜んで受け取った。
風呂場に着くと例のタオルを受け取り、ショウタは子供っぽくぴょんぴょんと飛び上がった。
「ねぇ、なんで買ってくれたの?」
「別に。お前専用のタオルも必要だろ」

「ふぅん。今度自分で選びたい」
「いいよ」
軟化したタカシの態度に何を思っているだろう。
あまり期待をしないでもらえたらありがたい、とタカシは考えていた。
イルカ、イルカ、イルカ。
ショウタが素っ頓狂な声で歌う。彼はもしかしたら音痴なのでないか、と気づくと、
腹の奥が少しだけ暖かくなった。
それがどんな情であるのかは、確定的ではないが、
ひとりの男が好いた相手に向けるそれではないことだけは確かであるとタカシは考えていた。

新型アンドロイドの開発から早くも半年がたった。
AI、機能改善、容姿の全てが煮詰まり、そろそろプロトタイプを作るかどうか、と言う段階で
問題が発生した。
デジタルモノの発表に敏感なA誌に、新型アンドロイドの情報がリークされたのだ。
出所は判然としない。リークされたと言ってもそれはもかなり初期段階のものだったため、
社の損失は少ないし大問題と言うほどのものではない。
それでもタカシの胃はしくしくと痛み不調を訴えていた。
「どこから漏れた」
「調査中です」
きびきびとした秘書の返事に、タカシは頷いてみせる。
こういうトラブルが起こると、近頃は決まって胃が痛む。体質が変わったのか、それとも
ストレスが大きくなったのか――、おそらくその両方であろうとタカシは思考をまとめた。
「早急に漏洩元を見つけるように」
「はい」
秘書が去った室内で、父や祖父が生きていたのならもう少しやりやすかったに違いないと
栓ないことばかりを考える。
タカシは経営者に向かない。それに早々に気づいていた父は、だからこそミユキを後継者として
育てていたのであろう。タカシはこの椅子に座るべき人間ではないはずだ。

血などクソくらえだ。
いや、そんなことより情報漏えいが問題だ。
今回は大した情報漏れでなかったために事無きを得たが、これが完成も間近の商品の
極秘情報であったのなら様々な方面に余波が及び新作の発表も危うかったに違いない。
主に情報を握っているのは各開発部で、それ以外の部署では大まかな概要のみを知る程度で
新しく開発された技術や独自の技術を用いているAIの『中身』については知りようもないはず

だ。
修理部門についても彼らは『何』をどんな理由で治しているのもよく知らないはずであったし、
となると漏洩が可能なのは開発部となるはずであるが――、そこからの漏洩も
あまり考えられないだろう。たかが雑誌だ、もらえる報酬など限られている。
自分の首をかけてまでリークする意味があるとは思えなかった。
同事業の別企業へとリークされたのならばまだ判るのだが。
タカシは眉間を親指と人差し指で揉み解しながら深い溜息を吐いた。
姉は、父は、祖父はこんな問題が起きた時、どのように対応をしていたのだろうか。
つくづく自分は無能であると感じられ、タカシは落ち込むと同時にそんな自分に
嫌気が差したのだった。
ますます自分を嫌いになっていくことばかりだ、とタカシはひとりごちた。

帰りはいつもどおり、秘書の運転する車で自宅に向かっていた。
道路は渋滞で進まない。近頃整備され始めた空の道も、いまだ利用者が制限されており、
主には救急車などの緊急車両や政治家のためのもので、一般人がスカイカーを手にする日は
まだまだ遠そうだ。
「空はいつ飛べるようになるんだろうな」
「十年後には一般にも、とニュースでやっていましたから、もう少しですよ」
「子供のスケボーは空を飛んでいるが」
「あれは高さが二十センチまでって制限されてますからね。あれって意味があるんでしょうか?」
「ないだろうなぁ」

近頃は空飛ぶスケボーに乗る子供も減ってきた。高さも二十センチ、おまけに別段便利とは
言えないために徐々に利用者が減ったのだろう。発売された当時は大ブームで、老いも若いも
我先にと購入をしていたものであったが。そういえばタカシも持っていたと子供時代の
自分を振り返った。
「最近もB社が新作を出したらしいが売れ行きがよくないようだな」
「その点わが社は安心ですね」
暢気に言う秘書にタカシは苦笑した。渋滞をやっと抜けた。
「なんだ、工事中だったのか」
窓の外、大音量で地面を掘削するアンドロイドたちを見遣り、タカシは呟いた。
自社製品ではない工業用のアンドロイドがせっせと作業を繰り返した。
大通りが込み合う時間にまで工事とは何を考えているのだろう。
どうせアンドロイドにやらせているのだから昼夜問わず空いている時間にすればいいものを。
「工業用のアンドロイドって、AIはどうなっているんですか?
やっぱり自発思考はしないのですか?」
「いや、そうとも限らないよ。自分で考えなくてはならない面もあるから、
完全に削除することはできな、」
車が突然大きく揺れた。
タカシは言葉を続けることができず、頭を強か打ちつけた。
痛いと思う間もなく、今度は体が飛び、車の中でまるでボールのように左右前後に
体が揺すられ転がる。後部座席から前部へと飛んだタカシは、運転席に座る秘書が
頭から血を流して目を瞑っているのを確認した。
それから間もなくして、体中を柔らかい物質に包まれ、それは徐々に硬化し定反発枕のような
感触へと変化した。
対ショックバルーンが飛び出したのだろう。
車内のありとあらゆる場所から噴射された対ショックバルーンに押しつぶされるような形で
ホールドされる。

呼吸器官はなんとか確保されていたが、それでも肺を押されるような感覚がして苦しかった。
それから間もなくして車が転がった感覚があり、上下の感覚がなくなり
自分が上を向いているのか下を向いているのかさえ判然としなくなる。
ああ、事故に遭っているのだ、と突然の突然の出来事に対処しきれずにいた脳がやっと判断する。
しかしだからと言ってどうすることもできない。
車に何かがぶつかるような激しい振動がし、再び数回転がる。
車外から悲鳴が聞こえた。
暫くすると漸く回転が止まり、するとクラクションが激しい音を立てて鳴り始めた。
腕が痛む。足も。しかし幸いにも動けぬほどではないようだ。
「事故だ!」
誰かが叫んでいる。きっと通行人の誰かであろう。
「救急車! 早く呼んで!」
ざわつく声、それから悲鳴。
「早くしろ!」
男が叫ぶ。その声がクラクションとともに耳に響き酷く不愉快であった。
事故にあった。だが何故事故になどあったのだろう。
タカシはそう考えつつも、救急車のサイレンを聞くより先に意識を失ったのだった。

意識を取り戻した時、壁に掛かった時計は三時を指していた。それが深夜の三時なのか
それとも昼間の賛辞なのかは、暗い室内では判断のしようがなかった。
ナースコールをするべきだろうかと思案していると扉がひとりでに開き、女性が入ってきた。
「あら」
看護師がいい、それから慌てた様子で部屋を出て行く。
話しかけようと口を開くが言葉が出なかった。首をめぐらせ自身の様子を確めると、
指先にはシールタイプのボタン状のものが張られており、
これでタカシの様子をモニタリングしているようであった。
室内はタカシひとりで、誰もいない。

事故に遭ったことは覚えているが、それ以後の記憶は全くなく、つまり自分はそれからずっと
眠り続けていたのだろうと推測をした。
「気づかれましたか」
再び扉が開くと、中年の男性が入ってきた。スクラブを着ていることから医者であると判断ができる。
「ご気分は?」
「……まり……」
「ああ、声が出しにくいのですね。ちょっと待ってください。君、水を」
言われた看護師が病人用の水差しに水分を注ぎ、それをタカシの口許に当てた。
冷たい水が喉を流れるていくのが心地よかった。
それを飲み干し人心地つくと、先ほどよりは喉の乾燥が気にならなくなる。
「どこか痛みますか?」
「いいえ……大丈夫です」
それより、と思う。頭から血を流していた秘書の容態が気になった。
「秘書、彼は……」
「大丈夫ですよ。別室にいらっしゃいます。元気ですよ。貴方より一日早く目を覚まされました」
「……一日?」
「はい、五日眠っておられましたから」
一週間弱の間を眠って過ごしていたということだ。命に別状はなかったが、頭を強く打った為か
なかなか目覚めなかったのだと医師は言う。
「事故の原因はどうも爆発物がお車に仕掛けられていたようですよ」
もうすぐ警察も来るようですから、と医師は告げた。
「爆発物……?」
掠れた声でなんとか告げれば、医師は「詳しいお話は警察のほうからお願いします」と言い残し
部屋を出て行った。扉が開く瞬間、室外に警察の制服を身につけた屈強な男が仁王立ちしている
ことにタカシは気づいた。
護衛をしているのかもしれない。
医師が言ったとおり、間もなくして三人組の刑事が到着した。

と言っても彼らはみな背広姿で、一見するとサラリーマンのようであり、
言われなければそうと判らない風体であった。
「災難でしたね」
一番年を取った男が気遣うように言う。
「あの大企業のCEOでいらっしゃるとのことですか、様々な線で捜査を進めています」
恨みを買うことも少なくはないでしょ、と断定するような形で尋ねられればでタカシの方も
「そうですね」と反論することなく頷くより外はない。
「失礼ですが、奴隷制度には反対されていらっしゃいますか? お爺様やお父様も
奴隷制度反対の活動をされていたと窺っていますが」
――一応は。
以前のタカシであればそんな風に難なく頷き肯定を示すこともできたのであろうが、
今現在自宅にショウタを『飼っている』状態であれば、そうすることもできなかった。
「集会などに参加したことはありません」
嘘を吐かない程度に事実だけを告げれば、刑事はふむふむと頷き警察のシンボルである
旭日章が背面にあつらえられたタブレットになにやら書き込む。
それから窺うようにしてタカシの顔を見つめ、「近頃なにかトラブルはありましたか?」と
遠慮がちに告げたのだった。
「……といいますと?」
「プライベートでも会社でも。なんでもいいです、些細なことでも仰ってください」
「ああ、デジモノの専門誌のA誌に弊社の商品がリークされまして、情報漏えいについて
内部調査を行っている最中です」
「そうですか……実はですね、おたくの会社にこんなものが届いているんですよ」
事故後に調査の為に社内を捜査したという刑事は、部下になにやら命令し、A4サイズの
茶封筒を鞄から取り出させた。
「……なんですか」
「ああ、起き上がらなくても結構ですよ」
「いえ、大丈夫です」
ベッドをリクライニングさせて体を起こし、その茶封筒を受けとる。

こんな状況下で出されるものなど、中身は知れているだろう。
まだ力の入らぬ指先で、なんとかそれを開け中身を見れば、内容は所謂脅迫文であった。
なんとも古典的なもので、雑誌から切り抜いたような文字が貼り付けられていた。
あまりに陳腐で笑いそうになる。ここに警察官が居なかったのなら、タカシは確実に
噴出していたことだろう。
――子供型アンドロイドの販売、開発を今すぐ中止せよ。さもなくば命はない。
そんな内容であった。
これは昔からよくあるものだ。趣向は変えてあったが、この間自宅に届いたものと
同じ送り主からの手紙であろう。
そう告げようとしたとき、しかし刑事は神妙な顔で口を開いたのだ。
「通常、競争関係にあるライバル社の仕業と考えるのでしょうが、
そうであったのなら逆に、こんなに単純に要求を書き記したりはしないでしょう。
対立社を装った、あなたとプライベートで何某かの関係があるものの仕業ではないかと
こちらでは考えているんですが」
心当たりは本当にないのかと問われ、タカシが力なく首を横に振れば
刑事はあきらめたようにして頷いた。
「なんか思い出したことがありましたらご連絡をいただけますか?」
「……はい」
その返事を聞くや否や、彼らは部屋を出て行った。
室内は再び静寂に包まれ、タカシはほっと息を吐いた。
おそらく脅迫文と爆発は別方面からのものだろう。脅迫など昔からあるし、
一々相手にしていては気疲れをしてしまう。
しかし、とタカシは考える。
爆発物を仕掛けられたその事実にタカシは困惑を隠せない。
そこまで恨みを買うような行いをした覚えはなかったし、そもそもタカシは浅く広くが信条で、
必要以上に他人と関わることをよしとしない主義だった。縁が途切れぬようにはするが、
それについても積極的とは言いがたかいほどだ。そこまで強く憎しみを抱かれるほどに
自分が他人と接触しているとは思えなかったのだ。

「なんなんだ……」
腕を額に当て考える。一体なにが起こっている。
不安に胸が苦しくなった。
車に細工をされていたということは、自宅にまで何かされる可能性はないだろうか。
「……ショウタ……」
ふと思い出したのは、家でタカシを待っているであろうショウタの存在だ。
奴隷は主人の外出許可がなければ敷地外へとでることはかなわない。
アンドロイドは先日タカシが壊してしまったし、となると彼は一人きりで自宅にいることになる。
食事は食べているだろうか、一人で大丈夫だろうか。
そもそも、あの家にいては危険なのではないか。
目覚めたばかりとは言え、ショウタのことが全く念頭になかったのだ。
気になりだすと止まらないのはタカシの性質だ。
タカシはベッドから降り立ち――、降り立とうと試みたところで足に力が入らず
床へと無様にへたり込んだが、そのまま這って入り口へと近づく。
自動で開け放たれた扉のその向こうで、護衛の男二人がぎょっとした顔をしてタカシの傍に
しゃがみこむ。
「大丈夫ですか!?」
「家に、帰りたいのですが」

無理を言って何とか帰宅した。
タクシーに乗るまではずっと護衛がついており、警備を配置するという警察の申し出も
「その話はまた後日」と振り切りタカシは家路を急いだ。
どうやら足が立たぬのは一時的なものであったようで、タクシーに乗り込む頃には
おぼつかないなりになんとか歩けるようにはなっていた。鉄製の門扉を押し開け、
やっとのことで自宅にたどり着き玄関を開けた。
「お兄ちゃん!」
果たしてショウタは無事であった。ただし泣いていたのか、顔はぐずぐずで、
涙で汚れていた。

「お兄ちゃん、大丈夫? じ、事故に、交通事故に遭ったって、」
「大丈夫じゃないが、お前を迎えに来た」
抱きついて離れないショウタの顔を無理やり持ち上げ、ゆっくりと話す。
ショウタは案の定「なんで?」と言う顔をしタカシを見つめている。
子供に判りやすく説明するにはなんと言ったらいいだろうか。爆発物を仕掛けられたという
事実は些か衝撃的ではないだろうか。そんなことを考えつつ、タカシは一先ず
「ニュースは見たか?」と尋ねた。
「み、みた。見たよ。事故って言われていて」どうやら世間では交通事故として
発表されているようだった。「でも、でもなんか全然連絡はいんなし、
もしかしたら、もしかしたらって……」
言っている間にも不安が増したのだろう、高ぶった感情を抑えきれないようで、
ショウタはボロボロと涙を零した。
散々迷った挙句、タカシは「事故じゃないんだ」となるべく明るく告げた。
「……なに?」
ショウタはどういう意味だという顔をし、それからタカシに再びくっ付くと、
鼻を胸に押し合えてタカシの匂いをかぐようにしてから「どういうこと?」と尋ねた。
「誰かに爆発物を仕掛けられたようだ」
火薬の量も少なかったらしく、幸い死に至るほどではなかったようだ。
そう告げれば、ショウタはタカシを抱く腕に一層力を込めて抱きついた。
「ショウタ」
ここは危険だから場所を移そうと告げるより前に、ショウタは「お兄ちゃん」と尋ねた。
「……なんだ?」
「怖い」
一言告げたきり、ショウタは震えだす。
お兄ちゃんが居なくなるのが、怖い。
ショウタはタカシの体にくっ付いたまま、怖い怖いと繰り返すのだ。
思えばショウタは一度主人を亡くしている。タカシまでをも失えば、次の主人を探すことは
困難であろう。そうなると行き先は例の愛護センターだ。恐怖に彼が震えるのも無理はない。

「……大丈夫だ」
「なにが大丈夫なの。もしかしたらお兄ちゃんは死んでいたかもしれない」
細い腕が力いっぱいタカシの胴体を締め上げ、その痛みにタカシは少しだけ呻いた。
「大丈夫だ」
「だから、大丈夫じゃない。もし死んでいたら……」
「死んでない」
「――いつ死ぬか判らない……」
初めて身内の死を体験した子供のように、ショウタはタカシから離れたがらない。
――人は死んだらどうなるの。
タカシも子供の頃、そんな風に尋ねてそのあまりにも悲しい答えに眠れなくなったことがある。
『馬鹿ね、知らないの? 死んだらなにもないの。そこで終わり』
馬鹿正直に言う姉を母が小突いたのが昨日のことのように思えるが、姉はもう居ない。
そして両親も。人の命とは儚いものなのだ。
「ショウタ……」
「お兄ちゃん、エッチしたい」
バッと顔を上げたショウタが切実な目で訴える。
「駄目だ」
ショウタが今タカシの体を欲しがるのは性欲からではない。ただ不安を埋めるために
体を繋げたがっているだけなのだ。
「……駄目?」
「駄目だ」
頭を撫でてやろうかと右手を持ち上げかけ、しかしそうしないまま、タカシは手を下ろす。
「……判った」
判ったと返事をするも、ショウタは離れない。ぎゅっとくっ付き、そしてタカシの匂いを
確めるように、何度も何度も呼吸を繰り返していた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
薄暗い玄関で何をやっているのだろうか。

アンドロイドも居らぬ屋敷は電気がつけられることもない。
その薄暗い空間でショウタに抱きつかれたまま、タカシはじっとそこに立っている。
屋敷の中は涼しくて、そして静かだ。
世界から遮断されたような空間で、ショウタは「好き」と告げた。
「お兄ちゃん、好き……」
奴隷の思慕か、それとも恋情か。はたまた錯覚と言う線もある。
「ショウタ……」
「だってお兄ちゃんだけが特別なんだ。あんまり居ないよ、奴隷に教育をしようとする人なんて」
それは元々はタカシの身を守るためのもので、そもそもはショウタの為ではない。
「あのな」
「好きなんだ。奴隷に冷たいシャワーを浴びさせたりすることを心苦しく思う人なんて居ない。
一緒に食事をしようと思う人なんて、居ない」
好き、好きとショウタは繰り返した。
「名前もね、あんまり呼んだりしないのが普通って知っていた?」
「それは……」
単に便宜上の問題だ。おい、だとかお前、と呼ぶのはタカシの性に会わないだけの話で、
タカシはショウタが思うような高尚な人間ではないのだ。
誤解させ、期待させている。
タカシは困惑のまま「それには応えらない」と告げると、ショウタは眉根を寄せた。
「俺はお前の面倒を見る。お前のことは嫌いじゃない」
だがそれは、男が誰かを愛する感情ではなかった。
「性欲はある。悪いな。お前の体は好きだが、きっとそれは愛情ではない」
「……うん」
「歪んでいて悪い。俺はたぶん、セクシャリティはストレートだ。愛していると感じるのは、
それは女に対していた」
「……僕が女だったら好きになった?」

「それは判らない。好きには種類がたくさんある。飼い犬に向ける好き、食べ物の好き、
兄弟に向ける好き、それから、」
「僕への好きは、たぶん犬に対する好きと同じだね」
「それは……」
違うとは言えなかった。
ショウタに向ける感情は細分化されている。体に向けるのは単純に性欲と結びついていて、
ショウタそのものに向けるそれは、タカシ自身が思うより熱量の少ない感情であった。
そうだ、きっとペットに対する情と同じなのだ。
タカシは、ショウタを愛せない。ペット以上の感情を抱くことはない。
「どうしても、好きになってくれない?」
奴隷の分際で。
そんな風に罵れるほどにまでは、タカシは腐っていなかった。
タカシはまともであるのだから、そんなことを言うはずがない。
「ああ」
「どうしても好きになれない?」
「そうだな……」
どうしても、そういう風には愛してやれない。タカシはまともで、ゲイでもないのだから。
「そっか」
そっか、とショウタは諦めの声で何度か言った。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「え?」
臀部に痛みを感じたのは、その謝罪からすぐだった。
かなり強烈な、なにかに突き刺されるような痛みを感じ、それから視界の揺らぎを感じた。
「ごめんね、でも好きだったんだ」
ショウタは微笑んでいた。
全く近頃はなにが起こったのか判らないことだらけだ。
タカシはそう考えながら暗転する世界を見つめたのだった。

子供の頃の夢を見ていた。
夢だと自覚したのは、その端々に日常とは異なる歪みを見つけたからだ。
まず自分の体が小さい。
手も足も短く、履いているスニーカーも昔ねだって買ってもらったものだった。
『どうして? 仲良かったじゃない、あの子と』
こちらもやはり子供サイズのミユキが、首を傾げて心底不思議そうに尋ね返した。
『だって……』
タカシは言葉に詰まり、しゃがんだまま俯いた。
夕方の公園はもう薄暗くて、街頭の下でなければ姉の顔をよくみることも難しかっただろう。
『なにがおかしいの、そのお友達の』
『だってアンドロイドのことをママって呼ぶんだもん』
それはタカシの幼稚園のお友達のことだった。その友達には母親が居らず、そんな彼の為に
父親が女性型のアンドロイドを購入したのだという。
知り合いのよしみで、特別に容姿を彼の母親に似せて作ったもののようで、その友達は
アンドロイドに甚く懐いていた。
それはとても異常な姿に見え、タカシは彼を軽蔑したのだった。
『なにがおかしいの?』
『だってあいつら機械だよ? おかしいよ……』
姉はしばし考えたあと、『ばっかねぇ、あんたって』と言ったのだ。
『常識なんて人それぞれじゃん。お爺様やお父様の言ったことばかりきにしているから
お友達をなくすんだよ』
『なにそれ』
馬鹿で嫌になっちゃう。
姉はそう言って、タカシの頭を小突いたのだった。

意識が浮上し、かび臭さに頭痛が走った。
僅かに入る月明かりとその匂いで、自分が地下牢につれて来られているのだと気づく。
喉が渇いた。思えば病院から出てから、なにも飲んでいないのだ。

身を起こそうと腕に力を入れれば、臀部が痛む。左の腰の少し下、そこがずきずきと痛み、
タカシは呻きつつそのまま冷たい床に沈みこんだ。
床が冷えている。夏の終わり、そこに身をつけているだけで指先の骨までがしんと
冷えていくような気がした。
「……ショウタ?」
呼ぶが返事はない。
その代わりと言ってはなんだが、誰かが怒鳴る声がかすかにではあるが地下牢にまで届く。
片方はショウタの声、もう片方は……、判然としない。どこかで聞いたことがあるような声だが
その声の主をタカシは思いだせずにいた。
耳を済ませてもその会話の内容までは汲み取れなかった。
「ショウタ!」
声がコンクリの壁に反響する。わんわんという自分の声が木霊し、そして沈黙が生まれる。
「ショウタ!!」
何度かそれを繰り返すが、返答はなかった。
怒鳴り声は続いていた。その合間合間に様子を見て叫ぶが、応答はない。
むなしく床に転がる声は、誰に拾われることもないままで、仕舞にはタカシは疲れきって
床へ突っ伏するしかなくなる。思えば病み上がりなのだ。体力が持つはずはない。
時間の感覚はない。
怒鳴り声はもう十分も続いているような気もするし、もっと長いような気もする。
長い間続いているそれに諦めにも似た感情を抱き、タカシは状況を整理しようと重たい
頭を振った。
まず周囲を見渡す。ここは間違いなく自宅の地下牢だ。
そして自分は何かの薬剤をショウタに打たれたのだろう。
迂闊だった、と舌打ちをする。彼に心を許したことではなく、このような暴挙に彼が
出ると想像できなかったことに、である。
それにしても尻が冷たい。近くにチェアが放られていたが、それをわざわざ起こして
座りなおす気力もなかった。

こんな状況下でもうとうととしてしまうのは疲れの為だろうか。
タカシは重い瞼を数度開閉させ、眠りに落ちた――、と感じるたその夢現の瞬間、
タカシの鼓膜を揺さぶったのは、ショウタの声だった。
「だから僕に任せてよ! もう、しつこいってば!!」
憤慨したような、癇癪を超したような声が響き、そしてリズミカルな足音が降り注ぐ。
闇の中姿を現したのは、間違いなくショウタで、しかしその着衣は大きく乱れていた。
「ショウタ……?」
「あれ、お兄ちゃん起きたんだ」
「お前、なんのつもりだ」
牢の前でショウタはしゃがみこみ、そこに転がるタカシに視線を合わせた。
闇に慣れた目でショウタを見れば、彼の口許には大きな青あざがあることに気づく。
「……それ、どうした」
「ああ、これね。殴られた」
誰に。
そう告げるより先に、もう一人、誰かが階段を下る音がした。かつんかつんと金属にも似た
音を立て、階段を下る。
一体誰がこの屋敷に居るというだろう。
タカシは目を凝らして正体を探った。
「ショウタ」
声は男のものだった。どこかで聞いたことのあるその声は、しかし馴染みのないもので、
タカシは相手が誰なのか探ろうと、自身の頭に眠る人物ファイルを叩き起こそうと
必死になった。しかし思い出せない。
「早くしろ、ショウタ」
「うるさい! 僕の好きにしてもいいって話にさっきなったじゃん! 口挟まないでよ」
不機嫌も露にショウタは言うとその声とは相反する態度でタカシの顔を覗きこんだ。
「痛いところとかない?」
「尻が痛い」
「ああごめんね、あれ注射針が太いから……気分は?」

いいはずがない。タカシは口を一文字に引き結び不快であると示してみせる。
沈黙が生まれ、その間ショウタは困ったような憂い顔でタカシを見つめるだけだった。
先に折れたのはタカシだ。
「一体どういうつもりだ」
幾分か平生よりも低い声で尋ねれば、ショウタは一言「ごめんね」と言ったきり再び黙す。
これでは埒が明かない。タカシは水を向けるつもりで「何故俺を監禁する」と再び質問をすれば、
ショウタは考え込むような顔したのち、「仕方がないんだ」とぽつりと言った。
「なにがどう仕方がないんだ」
「お兄ちゃんが悪いんだよ。ちゃんと僕らは言った」
「……なんの話だ」
タカシが格子の向こうへと手を伸ばせば、ショウタはそれを避けるようにして身を仰け反らせた。
「触んないで。揺らぐから」
「なにが」
「気持ちが。お兄ちゃんに酷いことをしたくなくなる」
「ショウタ」
「貴方は黙っていて」
不意にショウタの背後から声を掛けた男に、彼はきつい声で制止を入れた。
「僕たちは奴隷だ」
知っている。今さらなんだというのだろうか。
喉元まででかかったその言葉を飲み込むと、タカシは目玉だけで周囲を窺った。
男の姿は相変わらず見えない。俯いたままのショウタからは表情も読み取れず、
結局判ったのは自分が監禁されているという事実を再確認するだけに留まった。
「何のために俺をここに閉じ込める」
「……お兄ちゃん、僕のこと好きにならないの?」
ほんの少し前に話した内容を彼は唐突に蒸し返した。
その話はもう決着がついたはずである。なんだというのだ、と聞き分けのないショウタに
苛立ちが募った。顔を俯かせているのも気に食わない。一体何故こんな扱いを受けているのだろう。

「その話は終わったはずだ」
「僕のことを好きになってくれたらここから出られるかもよ」
「お前はそれで満足なのか」
「いいよー別に。一緒に二人きりで暮そうよ。僕を好きなフリだけしてくれればいいよ」
「そんな形だけのものにこだわって何になる。早くここから出せ」
「いーやー」
「ショウタ……」
聞き分けのないことをいうな、と言いかけるタカシの言葉を遮るようにして、ショウタは
「ねぇ、お兄ちゃん会社を辞めない?」と尋ねた。
「……は?」
唐突な言葉に、タカシはわけが判らなくなる。
「お兄ちゃんさー、割と優秀だよね。ミユキが死んだから会社は駄目になると思ったのに、
全然平気なんだもの」
ショウタは「ねぇ、会社を辞めよう?」と続けた。
「……そんなことできるわけがないだろ」
タカシの肩には何千と言う社員が乗っている。それを簡単に捨てることなどできるわけがない。
いや、そもそもショウタを好く好かないの話が何故会社を辞めるという話に繋がるのだろう。
「お兄ちゃんが会社辞めてさー、あの会社が潰れちゃえばいいんだ」
「なにを言っている」
「僕さ、お兄ちゃんのことを殺したくなかったんだよね。だからみんなに我侭言ったの」
「ショウタ、何の話だ」
少しずつ提示されるヒントに、タカシは少しずつ何かが判り始めていた。
だがそれを考えたくはなかった。
「ミユキが死ねばいいって話だったのに、お兄ちゃんフツーに会社継いでるんだもん。
しかもなんか会社、ちょっとだけどギョーセキがよくなっているって言うし」
僕には難しくてよくわかんないけどね、とショウタは微笑み言った。

なにを言っているんだ、と告げたかった。
だがタカシはもう判っていた。尋ねるまでもないのだ。
「――お前、俺を殺すつもりだったのか?」
「そうだよー。僕、お兄ちゃんを殺さなきゃいけなかったの。でも好きになっちゃったからさ」
だから仕方ないよね、とショウタはこともなげに告げた。
「奴隷としては、アンドロイドなんてものがいっぱいいたら困るの。リークとかいっぱいすれば
会社のヒョーバン? っていうのが落ちるってきったんだけど、そんなに効果ないみたいだし」
「ショウタ、喋りすぎだ」
ショウタの背後の男が制するように言った。
「うるさい! 今お兄ちゃんと話しているの、黙ってて!!」
馬鹿、と暴言を吐くと、ショウタは愛らしい笑みを浮かべてタカシを見つめた。
「ねぇ。会社辞めて僕とケッコンして?」
「俺は男とは結婚しない」
なぜならば、タカシはゲイではなく、そうだというのに男と婚姻関係を繋ぐことは
まともでないことだからだ。
「お前が望むなら一緒にいる」
「嫌だよ。それだけじゃ嫌。タカシお兄ちゃんを誰にも渡したくない」
「結婚の予定は暫くはない」
特定の相手と言うのも多忙が過ぎて今の所は居ないのだ。
「それでもいつかは結婚して子供も作る」
「そうかもしれないな」
「やっぱり僕の飼い主でいてくれても、僕のものではない」
「当たり前だ。お前のことを好きにはならない。そう言っただろ」
こんなに聞き分けのない子供であっただろうか。タカシは考え、いや最初から
ショウタはタカシに対して積極的で真っ直ぐに情を向けてきたのだと思い出す。
それ以外は知らないような顔で――、実際に知らなかったのだろうが、
あれは性欲を満たすためだけのものではなかったのか、とタカシは嘆息した。

「奴隷は飼われれば色んなものをもらえるって聞いたんだけどなぁ……」
「限度がある。もう一度言う。俺はお前のことを好きにならない」
酷いことを言っているのだろう。お前の体だけしか好きではない。
どんな酷いことをする男よりも残酷な言葉を放っている。
それでも、好きでもない相手に好きと告げることは、タカシの中で最後に残った砦なのだ。
それだけが、タカシの中で『まともな部分』であるのだ。
だから、ショウタの願いには答えることはどう足掻いてもできぬのだ。
「そっか……」
じゃあいいや、とショウタは言う。
「僕のものにならないなら、もういいよ」
「ショウタ?」
「もういいよ。お願い」
鉄格子からパッと手を離すと、ショウタは背後に居る男に向き直った。
「今ならお兄ちゃん、碌に逃げられないと思うから」
「なにをするつもりだ」
妙な風向きだ。自分の身に危機が迫っていることを感じ取り、タカシは立ち上がった。
牢の中はそれなりの広さがある。上階へと去ろうとするショウタの後姿に手を伸ばすが届かない。
ショウタは伸ばされるその手を避けるようにして振り返り、にこりと微笑む。
「お兄ちゃんは知らなくていいよ」
「なにをする……」
「楽しみだなぁ」
「おい、」
「後悔するかもしれないけど、でも僕もう決めたから。一生お兄ちゃんのこと大事にするよ」
ショウタの目は闇色に染まっていた。もう感情が読み取れそうにない。
こんな顔をショウタが取ったことはあっただろうか。あったような気もするし、なかったような気もする。
結局、タカシはショウタの体しか見ていなかったし、心に触れようと歩みよったこともなかったのだ。
楽しみだなぁ、とショウタはもう一度言った。

「きっとお兄ちゃんは僕に感謝するよ」
「なにを……」
男が南京錠を外し、牢の中に入ってきた。
男の拳が少し血で汚れていて、この手がショウタの顔を殴ったのだと判るがそれについて
なんの感情も湧かなかった。
便利な道具。ショウタのことをそう思っていたのだ。
「俺は、俺は奴隷を飼っている他の人間と違うところなんて一つもない」
男がタカシを追い詰めるようにして部屋の隅へと進んでくる。
足がおぼつかないのは打たれた薬の力が残っているからだろうか。
「違うよ。お兄ちゃんはそれでも丁寧に扱ってくれたもの」
「なに?」
「奴隷だからって射精を無理やり止めさせたりしないでしょ。ほっそい糸であそこをくくったり
しないでしょ」
「そんなこと、するわけ……」
「ミユキはできるよ。僕は奴隷だから、そういう扱いをして当然って思っているんだ。
ていうか、そういうのって割と普通のプレイみたいだね。
奴隷を相手にするときにはね。でもお兄ちゃんは最終的に僕のソンゲンっていうの?
そういうのを踏みにじったりしなかったもの。
オシッコを僕に飲ませたりしようと思わないでしょ?」
みんなそういうの、普通にやるみたいだから。
ショウタはこともなげに言う。幼い子供が昨日の晩御飯を思い出そうとするような、
そんな仕草でいうとことがなんともやりきれない。
「そんな顔をしないで。だから好きなんだ」
「ショウタ……!」
「ごめんね、時間切れ。先生、お願い」
ショウタの言葉で、今牢の中にいる男が彼の家庭教師であると漸くタカシは気づいた。
白い肌に、穏やかそうな顔は、よく見たらその人であった。回答を突きつけられても
いまひとつ確信に欠けていたのは、彼がいつも家を訪れるのとは異なる服装だったからに違いない。

いつもはベストにシャツ、ネクタイと言う今時教師でもなかなかしないような格好であったが、
今日の彼は割烹着のようなものを身につけていた。
それが俗に言うところの術衣――、医者が手術中に身につけるあれだ、であると気づくのには
やはり暫くの時間が掛かった。
「なにを」
「すぐに終わる」
狭い空間で逃げ惑い、しかし逃げ切れずにタカシは体を押さえ込まれると、腕に無理やり注射を
施された。普通の注射ではない。針の天辺には細いチューブがついてて、注射器本体は
男の手の中にあった。
「な、なんだそれは」
「大丈夫だ」
タカシは怯え、彼の手を振り払おうと試みるが、徐々に意識は朦朧としてなにもできなくなる。
宙を彷徨う腕はやがて力をなくす。全身どこもかしこもが重ったるくて動かすのも億劫だ。
「安心しろ。あんたはきっとショウタに感謝する」
ショウタの言った言葉を補うようにして言われた言葉を素直に聞き入れられるわけがない。
そう思うが体に力は入らず、タカシは深い眠りについのだった。

『別に好きに生きればいいと思うの』
姉は夏の暑い日、ソーダをストローで吸い上げたのちにそう言った。
『私は好きに生きるわ。私の人生だもの。欲しい物は欲しいって言うし、
手に入りそうにないものでも得られるように努力するわ』
彼女が近頃手に入れたのは、犬だ。老犬で、先は長くないようだ。
足元でスンスンと鼻を鳴らしながら、寝ているのか起きているのか判然としない犬を
見遣り、タカシはあきれ返って姉をひとにらみした。
『そんな犬、どうするんだよ』
『可愛がるに決まっているでしょ。どうしてもこの子が欲しかったの』
『それ、ミユキの友達んちの犬だろ』
面長で毛艶の悪い犬を姉がどうしてわざざわ友達の家から奪うようにして持ち帰ったのか
判らなかった。それでは泥棒ではないか。

そんな老犬をわざわざ盗まなくても、他にいい犬はたくさんいるはずだ。
『この子、お庭にいたの』
『それが?』
『最近あの子んちに来た犬はお屋敷に入れてもらっているのに、この子は外。
それっておかしくない?』
可愛がっているはずがないでしょ。だから持って帰ってきてもいいのよ、と言うと
ミユキは犬の頭をなでた。
彼女の独断と偏見で可愛がられていないと断定された犬は、今やこの家の一番過ごしやすい部屋

に専用のベッドが置かれ、そこを陣取る形で生活していた。
確かに手厚く保護されて入るが、しかしそれがこの犬の幸せなんだろうか。
素直にそう口にすると、ミユキは『幸せならあーんな不細工な顔してないはずよ』と
自信満々に答えて見せた。
『この子賢いのよ。ここが嫌ならきっと帰るわ。だって、昔も私が勝手に連れ出したんだもの。
だけどこの子、帰って行ってしまったの。でも今は帰らない』
老犬と言っても、足腰が立たぬほどではない。
ミユキが『お部屋に帰りましょ』と言えば千切れんばかりに尾を振ってすっくと彼は立ち上がった。
『ね、私が常識的にしていたら、もしかしたらこの子は寂しく死んでいたかもしれないわ』
常識なんてどうでもいいのよ。
ブラッシングもまともにされていなかったノミだらけの犬を家に持ち帰ってのはミユキで、
亡くなるまでのひと月、彼女は犬を大層可愛がっていた。
時として常識を蹴散らすのも必要なのだと、彼女はしきりに言った。
それはタカシの常識とは決して相容れないものであったが、しかし少しだけ彼女を羨ましく
思っていたのも事実であるのだ。
ミユキはタカシにできないことをする。良くも悪くも。
勇ましい姉が少しだけ恋しかった。

タカシが恐れていたのは、まともでない自分だ。
体だけを好いているショウタを抱くことは、大いにその『まとも』からはずれる行為だ。

タカシはゲイではない。ただ、性に関して歪んでいるだけなのだ。そこに愛情はない。
ショウタを抱くことは、常識的な選択ではない。
だからこそタカシはショウタに『襲われている』という体を貫いていたのだ。
自分が道から外れぬように。
「おきたー?」
ベッドの上にいることは判った。それも自室だ。
顔を覗き込んだショウタは、タカシが視線を彷徨わせるのを嬉しそうに見ていた。
「ショウタ、近寄るな」
男――、教師に言われ、ショウタは口を突き出しむくれた。
「いいじゃん、もう終わってんでしょ」
「抗生物質もいれなくてはならない。どけ」
言われるなり男はタカシの腹を探り注射を打った。
痛みに呻けば、男は小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、乱暴にタカシの腹へ絆創膏を貼り付けた。
「本当ならあんたなんて殺しちまっても構わなかったんだがな。いいぞ、ショウタ」
ぞんざいな口調は、あの家庭教師と重なる要因がない。彼の素はこちらなのかもしれないが、
タカシはその違いに少しばかり面食らった。
男が去っていく。傍らのショウタと二人きりでいたら気が滅入ることは確実だ。
タカシは手を伸ばし、男の服を掴もうとした。
とこが、腕が少しも持ち上がらない。重いわけではない。ただ、腕が持ち上がらないのだ。
――なんだ?
タカシは思わず自分の腕の状態を確めようと視線を腕に移し、しかしすぐにその違和感に
首を捻った。
「お兄ちゃん」
ショウタが嬉しそうな顔で近づいてきた。
「大丈夫だよ、僕がずっと一緒にいるから」
なにを言われているのか判らず、タカシは不調を訴えようと口を開くもしかし男は止まることなく
部屋から出て行く。
「おい、待て、腕が」

腕。腕だけではない。反動を用いて体を起こそうにも、妙に座りが悪くて、それもかなわない。
腕だけではない、よくよく確認すれば体全体――、主に四肢が痛んだ。
「なんだ……」
「お兄ちゃん可愛いね」
「なに、寄るな、ショウタ」
手を振り上げようにも体が動かない。明らかな不調にタカシは怯えていた。
「あれ、気づいてないんだ」
かわいそうに、とショウタは言う。それから、でも可愛い、と。
なにを言われているのかが判らなかった。
「しょうがないな。まぁいいや、僕がずっと一緒に居るって言ったもんね。ちょっと待って」
ショウタはタブレットをポケットから取り出すと、背面のカメラの横に着いたライトを点灯させ
懐中電灯代わりにした。
「なに、」
「これでよく見えるかな」
ショウタがタカシの腕に向け、そのライトを当てた。
右肩。そこには肩があった。当然だ。だがその先が、まるでそう、オモチャの人形の腕を
取り外したかのように『なにもなかった』のだ。あるはずの腕の膨らみがない。
筋肉の厚みがない。肉がない。
――いや、骨すらない。
「な、なんだ、これ」
「取っちゃった」
ショウタはタブレットをパンツに突っ込むと、ニコニコとした可愛らしい笑顔のままタカシを見た。
「え……?」
「だからね、取っちゃったの。ミユキおねえちゃんみたいに殺しちゃうのは勿体ないから、
お兄ちゃんのことを僕が飼う事にしたの」
「――なに? ショウタ?」
まだ気づかないの、とショウタは哀れみの視線を向けた。
それから大丈夫だからね、と言うと、タカシの足に掛けられていたバスタオルを剥ぎ取って見せた。

「ほら、見て」
タカシはパジャマを履いていた。上は元より着ては居ない。
下だけ履かされていたのだが、しかしそれは臍の下、骨盤と大たい骨の境目辺りで
膨らみが消失をしていたのだ。
「なに……?」
タカシは思わず髪をかき回そうと左手を頭に向かって伸ばした。
いや、伸ばそうとしたが、いくら待っても髪は乱れることがなく、指先の感触が皮膚へ
到達することもなかった。
なにが起きた、とタカシはゆっくり視線を右肩に移すが、しかしその先もやはり消失をしており
徐々に物事がりかできると強烈な吐き気に襲われた。
気持ち悪さにベッドへ倒れこむ。
頭を強か打ちつけたのは、手が体を少しも支えなかった為だ。
いや、差さえられるはずがないのだ。
タカシには、腕も、足もなかった。全てが切り取られていたのだ。
闇を切り裂くような叫び声を、タカシは上げた。

『続いてのニュースです。アンドロイドにシェアナンバーワンを占める……』
「お兄ちゃん、ご飯だよー」
ショウタが日当たりのいい部屋に踊るような動きで侵入してきた。
タカシはショウタを振り返らず、ぼんやりとテレビの男性アナウンサーが読み上げる
その内容を聞いていた。
『これで事実上の破綻となりました』
曽祖父の代から続く社が消えてなくなったのだ、と言うニュースは頭にストレートに入ってきた


悲しいとも悔しいともそんな感情は少しも生まれなかった。
『二年前にCEOである……』
「お兄ちゃん、テレビばっかり見てないでこっち向いてよー」
ショウタはテレビを遮るようにして立つと、ショウタの両頬を包み込み、「めっ」と
叱るように言った。

視界はショウタに遮られ、しかし耳だけはニュースを聞いていた。
『……タカシ氏の失踪から一年後、相次ぐ技術者の自殺や失踪から急な業績悪化が起こり』
「今日はねー、おなかの調子が悪いおにいちゃんの為にリゾットにしたよー」
『爆発事件の後、警察は事故と事件の両面で氏の失踪を調査していましたが、』
「もーテレビ消すからねぇ」
駄目でしょ、と怒った風に言うショウタがテレビに向かって「電源」と言えば、
テレビはぷつんと音を立て消えた。

無駄なことをしたものだ、とタカシは考える。
社を倒産させたところで、また別の会社が技術者を雇い入れ、或いは社外秘であった
技術をどうにか盗み出し、また新たな高性能のアンドロイドを作り上げるだけだ。
そうなったらなったで、彼らはまた新たに脅迫文を作り、そして技術者やCEOを殺害するのだろう

か。
「馬鹿だ」
タカシが米粒の付着した口で言えば、ショウタはそんな言葉は聞こえなかったような顔で
そこに唇で吸い付き汚れを取って見せた。
「美味しいですかー?」
ショウタが尋ねるが、タカシは答えない。
「うんうん美味しいね、よかった」
会話は成り立たぬ。それでもショウタは嬉しそうに「僕のお兄ちゃん」と囁き、時として
無理やりモノを奮い立たせタカシの腰にまたがり、そして一人で勝手に「好きだよ」と
愛を囁くのだ。
狂ってる。しかし言葉で抵抗や罵詈雑言を浴びせる気力も剥ぎ取られたタカシは、
もっと狂っていっているのかもしれない。
常識やまともでいることにこだわらず、例えば嘘を吐いたとしら、少なくとも
ショウタは幸せに生きられこんな暴挙にはでなかっただろうか。

タカシは知っていた。姉が本当は友達と犬を交換したことを。
既に興味をなくされ庭の隅に追いやられていたあの犬と、祖父に買ってもらった子犬と
彼女は交換したのだ。
だが彼女は犬に嘘を吐いた。交換ではなく、貴方を誘拐したのだ、と。
それくらい欲しかったのだと犬に思わせるためだけに彼女は嘘を吐いた。
その嘘はきっと犬を幸せにしたことだろう。彼女はそれくらいの愛情が犬にはあった。
犬は愛でるもの。奴隷は虐げ楽しむもの。彼女の常識はそんな形で完結されていて、
それ以上の発展はなく、だからこそ自身の常識にしたがって犬を幸せにし、ショウタを
奴隷として手酷く扱ったのだ。
嘘と本当が入り混じった世界で、彼女は教えられた『まとも』ではなく自分の『まとも』を
作り上げ、選び、そして生きた。
タカシも嘘を吐くべきだっただろうか。教えられた『まとも』ではなく、
それが多少意に沿わぬものでも自分自身の『まとも』定義づけ生きていけば、
少しは楽しい人生が歩めただろうか。
こんな姿になることなく、時々ショウタと体を繋いで、そんな日々を生き抜き、
会社が潰れてもひっそりとすることで自由に生きることができたのかもしれない。
「アンドロイドなんて早くこの世からなくなればいいのに」ショウタは
楽しげに言った。「なくなれば、奴隷の価値がまた上がるね」
「そんなに上手く行くものか……」
アンドロイドを製造する会社はまだ他にもあるはずだ。
「するよー。ジッサイ、お兄ちゃんの会社が倒産してから奴隷の価値、また戻ったもの」
よかったーといい、ショウタはベッドに這い登るとタカシの腰へと抱きついた。
タカシはそんな彼を見るのも嫌で、目を逸らした。
ショウタはそんなタカシの素振りにも気づかず、抱きついた腰に頬を摺り寄せた。
伸びやかな腕で腰に巻きつかれ、華奢な足はバタ足をするように上下に動かされた。
「お兄ちゃん、奴隷にお世話される気分はどう?」
タカシはなにも答えない。

タカシが殺されなかったのはショウタの存在があったからだと彼の奴隷仲間は言う。
みな主人に仕える、真面目な奴隷のようだった。彼らはまだ幼いショウタを時折訪れては
主人に貰った物品を彼に渡したり、タカシの隠し資産を使って食事を買ってきたりする。
「介護用アンドロイドだけは取っておけばよかった、なんていうお友達が居るけれど、
そんなの必要ないよね。全部僕が面倒見るもの。それに、そんなものがあったら
僕のソンザイカチがなくなっちゃうじゃんねぇ」
へーんなの、とショウタは言うと、嬉しそうな顔をしてベッドのリクライニングを倒した。
「お兄ちゃん、可愛い」
ショウタの幼い手がボトムを引っつかみ、そしてタカシの下半身を露出させた。
「ずーっと僕がお兄ちゃんのお世話をするんだぁ」
大好きだよ。
そんな如何にも嘘っぽい、まともでない言葉を囁くと、ショウタはタカシの衣類を
剥ぎ取りの掛かったのだ。
嫌だ、やめろ。
そんな言葉を吐く気力も、もうタカシにはなかったのだった。
――奴隷にお世話される気分はどう?
ショウタの言葉を頭で反芻する。
「最悪だ……」
そう、最悪だ。嘘をつくべきだったのだ、タカシは。
最悪。
抵抗する術も思いつかぬタカシは、そのまま目を閉じたのだった。
永遠に死んでいたい。
そう思いながら。
<終>

長すぎたゴメンね
紫煙ありがとうございました

ほんとうはこの後が見たかった

このぐらい進歩した世界なら人工的に腕とか足とか作れそうだけど
もうさせてもらえないのかな…

いい意味でvipらしくないssでよかった。
重厚な雰囲気を地の文でちゃんと出せててすごい
>>1

>>170
ラブラブにはなりえない二人だからなぁ

>>173
ショウタはそんなに優しい子じゃありません!

お互い自分勝手に自分のことが一番大好きなんです

おつ

すごいよかった

>>174
ありがとう
本当は萌え要素だけ詰め込んだ可愛い系ショタのSS大好きだけど
その才能がないのだ

ショウタの容姿で全てが決まる

男の娘ものでハッピーエンド?なのが有ったな


クスリやってる女装少年が主人公に犯されるけど、最終的には
海外行って性転換して結婚して幸せになる奴

>>178
ありがとう

>>181
おにいちゃんがその気になる程度の容姿と考えていただければよろしいかと

>>182
男の娘は難しい
女でいいのではと言う気持ちになってくる

>>179
小説としてストーリーを成り立たせつつエロを自然に挿入するのは簡単にできることではない
才能あると思うよ。ガンバレ!

少年と言うか、年下の可愛さってのは
特に男の子の方が感じやすい気がする

女の子は小さくても、、、あれだな

>>187
ありがとうねー実はエロが苦手ですがこれないと今回は繋がらないんだよね

>>189
女は生まれたときから女
あれはある意味特殊
なにも教わらずにも女は勝手に女になる

他にも色々書いてるんです?

>>192
ショウタ ミユキ タカシ
を登場人物としていくつか
ググれば過去ログがでるかもしれない
短かったり長かったり みんな人物設定ちがうけど

本当はお兄さんとロリの組み合わせも好きだ
どうめきと小羽とか

男の娘なら女の子の方がいいのかなるほど
地獄少女と百目とか好きだな

最近のショタだとヨナきゅんが好きだ

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