■理系代表作家、支倉凍砂先生の確率論 (通称:サイコロポエム、サイポエ)
サイコロを一度しか降れなければ
一の目が出る確率は
その目がでるか出ないかの二分の一である
たくさんの回数を降れてこそ
さいころのそれぞれの出る目は六分の一なのである
だとするならば
どうして人はこれほどまでにたくさんの可能性を未来に見るのであろうか
人はある瞬間を一度しか生きられない
ある場面である判断を下せるのは人生においてただ一度である
人生は様々なサイコロをただ一度だけ降る行為を繰り返すことの積み重ねである
だとするならば
そこに可能性を見ることなど馬鹿げた事なのだ
無限の可能性などない
この世に迷う事などない
あなたはただ
出来る事を力の限りにすれば良いのである
Q.目が出るか出ないかの二つだとしたら2分の1。これは詭弁である。これはものの見方の問題であって、「確率・統計」という学問の視点ではない。
A.サイコロを振るという行為にたいし純粋物理学的に厳密に言えば,『全く同じようにサイコロを2度振る事は出来ない』というのは明白な事。
物質と言うモノが常に周りの物からの影響を受けている事から,物質の配置状況が変わればある物質の受ける影響も変わるわけで,
純粋に完璧に全く同じ状況でサイコロと言う物は2度ふれません(人の記憶も物質の配置によることをお忘れなく)。
逆に純粋に完璧に全く同じ状況でサイコロを振りつづける事が出きれば,物理法則に従いそのさいころは常に同じ目を出すはずです。
よって,『その』サイコロは現実に1度しか振れない訳で,1度しかできない事の統計を作る事は不可能なので,サイコロと言う物の一の
目が出る確率は出るかでないかの二分の一なのです。
馬鹿「1/6」
クソ馬鹿「1/2」
闇遊戯「1/7」
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