有栖川夏葉「ピンヒール・レトリーバー」 (12)


「どうかしら」

訊ねるまでもなく、答えはわかっている。
そのような表情で、有栖川夏葉は左手を腰に当て、もう一方の手で夕焼けみたいな髪を宙へ躍らせる。

ともすれば自意識過剰であるようにも思えてしまうその出で立ちがこれ以上なく様になっていて、俺は流石だなぁ、と頬を緩ませた。

次いで彼女の胸元へ視線を移す。
宝石がワンポイントで入ったネックレス。
シンプルだが、高級であるとすぐにわかる上品なデザインのそれは見覚えがあった。
では、これではない。

順番にハンドバッグ、腕時計と確認する。
それらもまた、見たことがあるもので、俺は「はて」と手で顎の輪郭をなぞる。
その動作に伴って視線がやや下がり、彼女の靴が視界に収まった。

目測だが、十センチはあろうかというピンヒール。
黒を基調とした配色にスパンコールが散りばめられていて、さながら満天の星空のようなそれには、見覚えがなかった。おそらくこれ、だろう。

しかし、これを履いてコインパーキングからここまで来たというのだろうか。
そうなのだろうな、と思う。

半分呆れつつも、こういうところが彼女の愛らしい部分であるな、と彼女の顔へと再び視線を移した。

「かわいいデザインだけど、大変だっただろ。この辺りは坂道も多いし」
「もう。そういうことが聞きたいんじゃないのに」

言って、夏葉は眉を下げる。
困ったような表情になりながらも口角が上がっているのを見て、正解であったらしいことに俺は安堵する。

「私はどうかしら、って訊いたのよ」
「似合ってるよ。この世のピンヒールは夏葉のためにあると言っていい」

アイドル衣装の彼女へ賛辞を届けることに関しては、もはや慣れたものだが、平時に面と向かって褒めるのは相手が掛け値なしの美人であることも相まって、照れが入る。
そういった経緯からの軽口だが、夏葉はそれを好ましく思ったようで「ふふ!」と笑っていた。


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「っていうか、夜に届けるって言っただろ」

退勤時に忘れないように、と玄関口へと置いておいた紙袋を持ち上げて、俺は息を吐く。
中には届ける約束になっていた彼女が出演するテレビ番組の資料が入っている。

「だって、一刻も早く見せたかったんだもの」
「わからないでもないけどさ」
「あら、アナタにもあるのね。そういうとき」
「あるよ。例えば、腕時計を新調したタイミングとか、誰かに見せたい、みたいなのは誰にでもあるものじゃないかなぁ」
「ええ、そうね」
「その“誰か”が、夏葉にとって俺だったのは嬉しい限りだけど」

一拍置いて、何と窘めたものかと言葉を探していると、夏葉が「『せっかくのオフなんだから大事にしてくれ』でしょう?」と俺が飲み込んだ言葉を口にした。

「わかってるなら」
「わかってるから、来たのよ」

にっ、と笑う彼女に雲の切れ間から西日が差して、思わず眩しさに俺は目を細める。
それを受けて夏葉も背後を振り返って「もう陽が沈むわね」と呟いた。


「そうだな。俺もそろそろ、帰ろうと思ってたとこで」
「……アナタ、また休日出勤してたわね?」
「失言だった。忘れてくれ」

もう、と怒ったふうに口を尖らせて夏葉は腰に手を当てる。
今更言い聞かせたところで、この件に関しては俺が夏葉の忠告を聞くわけがないと彼女も知っているのか、どう言うべきか悩んでいるようだった。

ので、俺は「『せっかくのオフなんだから大事にして頂戴』だろ」と言ってみる。

「いいえ。違うわ!」
「あれ、違ったか」
「ええ。『これからカトレアの散歩に行くところだったの、暇なら付き合って頂戴』よ!」

靴を見せに来た最初と同様に、自信たっぷりなポーズを決めて、夏葉が高らかに言う。
それを見て、やはり様になっていると俺は思うのだった。




カトレアとは、夏葉の家族である犬を指す。
日々のブラッシングや定期的なシャンプーを物語る、金色の毛がふさふさとしたゴールデンレトリバーで、盲導犬などになる犬種だけあって、夏葉のカトレアも例外でなく賢い。

しゃんとした立ち振る舞いで夏葉の側面へぴたりと付いて、ふわふわの尻尾を左右に揺らしている散歩姿はさながら絵画のようだと思うほどだった。
そのカトレアを待たせているから、と紙袋を手にして「下にいるわね」と去っていった夏葉を追いかけるべく、俺はパソコンの電源を落とす。

そうして事務所の戸締りを済ませて、玄関口で革靴のつま先を数度ずつ鳴らす。
面倒でも靴べらを使った方がいいわよ、という幻聴が聞こえた気がして視線を上げるが、そこには誰もいない。

どうにも夏葉と出会ってからというもの、私生活の背筋が伸びるようになったなぁ、と苦笑しつつ俺は階段を駆け下りた。

「そんなに急がなくても、置いて行ったりしないわよ?」

くすくすと笑う夏葉と、ぶんぶん尻尾を振っているカトレアが俺を迎えてくれる。
すぐさまそこへ駆け寄って、軽くかがむ。
久しぶり、と短く挨拶をして両手を広げれば、カトレアがぐりぐりと額を押し付け体重をかけてきた。

その名状しがたい幸福感に満ちたもこもこの重みを堪能しきったあとで、俺は立ち上がる。


「リード、任せてもいいかしら」
「やっぱりここまで来るの大変だったんだろ」

先ほどは強がっていたが、ピンヒールで大型犬の散歩はやはりというかなんというか厳しいものがあるのだろう。
例えカトレアがいくら賢いと言えども何かに興味を惹かれれば、そのほうへ夏葉よりも先んじてしまうこともある。
運動靴であればその程度の勢いには対応できるが、ピンヒールではそれも難しい。

夏葉がコインパーキングから事務所に来るまでの少しの苦労を思って、俺はついつい噴き出してしまう。

「あ。笑ったわね?」
「いや、ばかにする意図はないんだ。ただ」
「ただ?」
「どうにも、そのヒールでカトレアとここまで来た夏葉を想像したら、なぁ」
「やっぱり、ばかにしているんじゃない」
「してないよ。想像して、かわいいと思ったんだ」

今度は褒める、というよりも純粋な感想であったためか、夏葉の顔を見て言うことができた。
だが、それがどうにも夏葉には良くなかったようで、俺にカトレアのリードを手渡すと「とにかく、お願いね」と先へ歩いて行ってしまう。

もちろん、ピンヒールを履いている彼女に追いつくのは容易い。
すぐに俺とカトレアは彼女の隣に並んでしまう。
それが面白くないのか、夏葉は「スニーカーだったら、こうはいかないわよ」とよくわからないことを言っていた。
なら最初からスニーカーで来たらいい、とは言わない。


その後、切り出すべき話題があまり思い当たらなかったために、俺は「どこに停めたの」と彼女の車の所在を訊ねてみた。

「駅前の交差点のところよ」
「あそこ、高いだろ」
「いいのよ。私のためだもの」

夏葉のため、というのはどういうことだろうか。
カトレアのため、というのであれば理解できるが、今日に関しては彼女にとって得になることはあまりないのではないか。
そう考えて、そのまま夏葉に問いかける寸前で、やめた。

視線を落としたアスファルトの上には一足早い夜空が軽快な音を鳴らしている。

「星空が跳ねてるみたいだ」
「詩的な褒め方をしてくれるわね」
「でも、本当にそう見えるよ。なぁカトレア」

 少し格好をつけすぎた、と恥ずかしくなり、たまらず俺はカトレアに声を投げて、逃げ道を作る。
賢くて優しいカトレアは「ばう」と短く声を返してくれた。


「ふふ、カトレアもそう思ってくれているのね」

今度もカトレアが「わふ」と肯定を示し、ご主人様である夏葉の隣へ寄って行く。
続いて、流れるような動きで夏葉の足元でびしりとおすわりの姿勢で静止した。

そのカトレアの視線の先には、見慣れた夏葉の車がある。

「いつも思うけど、どの車かわかるのすごいよな」
「でしょう? カトレアは賢いのよ!」

言って、夏葉がハンドバッグからキーケースを取り出してドアロックを解除する。
彼女が助手席のドアを開けるのと同時にカトレアがぴょん、と前足だけ車内へと身を乗り入れ、座席の下から何かを引っ張り出した。

「ふふ、気が利くわね」

カトレアがくわえていたのは、一足のランニングシューズだった。
これがあればご主人様は自分と歩くのに苦労しない、とでも考えての行動だろうか。

「流石はレトリーバー」
「元来、そういう意味だったのよね」
「レトリーブ、で“取ってくる”だったか」
「ええ。その名に恥じない働きよ。カトレア!」


ご主人様に褒められたからか、カトレアはぶんぶん尻尾を振って「ばう」と嬉し気な声を上げる。
そんなカトレアの頭をぐりぐり撫でたあとで、夏葉は足を車外へ投げ出す形で助手席に腰掛けて俺を見る。

「見納めだけれど」
「なんだ、もう見せてくれないのか」
「そうは言ってないでしょう」
「じゃあ、またゆっくり見せてくれ」
「だったら、これが似合う素敵なレストランの予約を取ってくれるかしら」
「善処するけど、夏葉の御眼鏡に適うかどうか」
「別に、どこだって気にしないったら」

ランニングシューズに履き替えて、身軽になった夏葉は軽やかに地面へ降り立ち、ぴょこぴょこ跳ねている。

「予約、よろしく頼むわね」
「もちろん。ちゃんと“取ってくる”よ」
「アナタも立派なレトリーバー、ね」
「俺はずっと夏葉のレトリーバーだろ」
「どういうこと?」
「ほら、仕事を“取ってくる”」
「そう言われてみれば、そうね」
「だろ。レトリーブすることに関しては、カトレアにも負けない」

夏葉ではなく、カトレアを見てそう言ってみる。
すると、カトレアはそれが気に障ったのか「そんなわけがあるか」とでも言うかのように、再び助手席に身を乗り入れて、先ほどまで夏葉が履いていたピンヒールをくわえていた。



「ピンヒール・レトリーバー」

 俺がぼそりと呟いたその一言がつぼに入ったらしく、夏葉は笑い転げている。


おわり

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