【モバマス】 木村夏樹「道とん堀には人生がある」 (57)


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※独自設定あり。今回も地の文です。そして毎度ながら冗長です、ご了承下さい。



「プロデューサーさん、ちょっと相談があるんだけどさ――」


 とある芸能事務所、そこに所属する一人のアイドル――木村夏樹は、彼女を担当するプロデューサーへ遠慮がちに切り出した。


 ロックなアイドルを信条・コンセプトとし今を駆け抜ける夏樹。
 純粋、清廉、無垢で可愛らしい……そのような従来のアイドルイメージとは対極にある彼女であるが、そんな形にとらわれない「かっこいいアイドル」は社会に鮮烈な印象を刻み込み、今や男性はもとより、同性である女性からの支持も厚い。


 前髪をたくし上げ、いわゆるリーゼントのような髪型をしていることも相まって、夏樹というアイドルは今や若者の憧れであり、一種のアイコンになっている。


 そんな彼女であるが、いつもの明朗快活な性格は鳴りを潜め、何やら葛藤の中にいるような面持ちであった。


「……相談? どうした?」


 初夏の太陽は眩しく、高い空には雲ひとつない。事務所のクーラーが冷気を吐き出す音、それだけが響いている。


「スケジュールのことで相談があってさ」
「何だ、そんなことか」


 いつもらしくない夏樹を見て、何を切り出されるのか――そのように身構えていたプロデューサーであったが、何気ない相談であったことに安堵のため息を漏らす。


「……スケジュールか。休みが欲しいとか?」


 地道な下積みを経てアイドルとしてデビューし、デビュー間もなく注目を集め忙しい日々を送ってきた数年間。駆け足のように過ぎる目まぐるしい時間はようやく落ち着き、これからの戦略を再構築する時期に入っていた。


 プロデューサーにとってはこれまでの労をねぎらう意味も込めて、スケジュールに余裕を持たせようと思っていたところであった。


「いや、その逆っていうか……」


 ところが、彼女から返ってきたのはその逆。意表を突かれる。


「……え?」
「いや、もっと仕事を入れて欲しいんだ」

 まさかの提案に呆然とするプロデューサー。
 まさか、俺のやり方に不満があるのでは――彼の脳裏に一抹の不安が過ぎる。




「夏樹……、もし俺のやり方に不満があったら言ってくれ」


 プロデューサーとしては夏樹というアイドルを売り出す為に、彼女と共に誠心誠意で実直に取り組んできたつもりであった。プロデューサーとアイドルという関係ではあるが、単なるビジネスライクな関係ではなく戦友のような絆をお互いに築いてきたと感じていたのである。


 そんな中での夏樹の発言は、彼の心に不安の影を落とす。


「あー、いや……! 不満とかあるわけじゃないんだ! プロデューサーさんには感謝してもしきれないと思ってるし……」


 しかし、どうやらプロデューサーに不満があるわけではないらしい。
 彼女は自身が持ち得る最大限の表現をもって全力でそれを否定した。


「じゃあ、どういうことなんだ……?」
「それは……」


 歯切りは悪く、口ごもる夏樹。


「お前は今まで本当によくやってくれたし、一旦落ち着いて方向性を練り直そうと思ってたから……。もしかして、それはいらんお節介だったか?」
「いや、それについても異論はないよ。アタシもそう思ってた。道がないと車は走れない――」
「じゃあ……」

 そこまで言って、今度はプロデューサーが口ごもる。
 彼女の意図がはっきりしない……。


「来月アタマの土日、今のところフリーだろ?」
「……ああ、そうだな」
「そこに、何でもいいから仕事を入れて欲しいんだ」


 何でもいいから――およそこれまでの夏樹らしくない、そんな言葉であった。
 彼女はプロデューサーの仕事についてもよく分かっている。内容は問わないとはいえ、簡単に仕事が取れるわけじゃないし、舞い込んでこないことも熟知しているはずなのだ。
 いつもの彼女なら、彼の苦労を知っている彼女なら、こんなことは決して口にしない。


 それに、来月分のスケジュールも大方のところは既に決まっていたのである……。


「……それは、どうして?」


 その問いに対し、夏樹は俯く。
 本当に、らしくない。


「ほら、いわゆるバーターってやつとかさ……!」
「バーターか……。今のところ出演依頼は来てないし、そもそも誰とバーターさせるんだ?」


 バーター。売れっ子を出演させる代わりに、売り出し中の新人もどこかで起用してもらう、そのような取り引きを表す業界用語であるが、今や一つの地位を確立させつつある彼女には該当しない。
 つまり、夏樹はバーターされる側ではない。プロデューサーの疑問はもっともである。


「お前は、今やバーター出演する人間じゃないし、そのような依頼も今のところはないけど……」
「いや、アタシだってまだまだ新人だし、もっと色んな分野にチャレンジしたいんだ……!  ほら、バラエティ系とかさ!」
「バラエティなら、既にレギュラーポジションの番組もあるし、新しい依頼も受けてるし……」
「他にも、何かあるだろ……?」


 どこか切羽詰まった様子を感じ取るプロデューサー。
 一見すると志が高く仕事熱心なようにも見えるが、今の彼女は、言うなれば明日の生活もままならないその日暮らしのような、そんな焦燥を纏っている。

 共に歩んだ絆が、「これは違う」という警告を彼に告げていた。






「――夏樹、らしくないぞ?」
「……!!」


 その一言は、簡潔ながら夏樹の最深部に突き刺さる。


「確かに、この業界に保証はない。必死になる気持ちも分かる。だけど、『道がなきゃ車は走れない』だろ? 道がなくても走れる車はあるが、少なくとも冷静さを欠いた今のお前じゃオフロードは無理だ」
「……」
「夏樹、何をそんなに焦っているんだ?」


 当初の安堵は緊張へと激変し、雲行きが怪しくなるのを彼は如実に察知する。


「――とにかく、お願いだ! まだ期間はあるし考えといてくれ!」


 プロデューサーの問いには答えず、彼女は一方的にそう言い残し、そして事務所を飛び出していった……。





 ヘヴンズドア――そんな名前のロックバンドがある。


 メンバーは全員今を生きる若い女アイドルで、昨今流行している「バックバンド付きアイドル」ではなく、正真正銘自分たちで演奏し、歌うガールズバンドだ。


 総勢六名という、一つのバンドにしては比較的大所帯な人数構成。
 それに加えギター三名・ベースギター一名・ドラムス一名・ボーカル一名というトリプルギター体制で、曲によってはそれぞれ全員がボーカルパートを担当するような異質な特徴を持つ。
 演奏技術にも秀でていて、男性のそれにも引けを取らない。今までのガールズバンドのイメージを覆すような力強さ、美しさを併せ持つ。そんな集団だ。


「……それじゃ、始めるか」


 某日、とある芸能事務所。
 そのビルの会議室にヘヴンズドアのメンバーがいた。
 メンバー……それだけじゃなく、メンバーとなるアイドルをプロデュースする各プロデューサー数名と、それからこの芸能事務所をとりまとめる社長も出席していた。


「単刀直入に言いまぁす。新曲やりたい?」


 会議、そんな厳粛な場面にはとても似つかわしくない陽気な語調。しかしそれを言い放ったのは社長その人である。
 ヘヴンズドアを結成させたのも彼の主導によるもので、社長を軸とした事務所総出のプロジェクト、プロデューサーの垣根を超えた合同企画がこのバンドなのであった。


 乱立する芸能・アイドル事務所。アイドル戦国時代と呼ばれる昨今の業界では、熾烈な生存競争が行われている。
 この事務所はそんな世界を生き残っている一つであるが、それでも最大手の一大事務所から見れば獅子と猫くらいの実力差がある。


 その為、さらなる生き残りをかけて編み出されたのがこのバンドであった。


 アイドルのような存在がバンドを組む――それ自体は今や珍しくもない。しかし現役アイドル六人構成という大所帯、全員が一定の技巧を持ち、そして音楽 ジャンルがゴリゴリのロック・パンク・メタル・エモ・エレクトロニカなどの要素を持つバンドはアイドル史上類を見ないような、そんな稀有な存在だ。


 所属アイドルにロックを漂わせる者が多い――そんな軽いノリで立ち上がった計画は現実味を帯び、楽器経験者・バンド経験者もいることから結成が実現した。


 秘密裏に結成され、特訓を積み、そうして表舞台に殴り込みをかけた彼女たちヘヴンズドアは、今や日本を代表するガールズロックバンドになりつつある。




「新曲……マジ!? テンション爆上がりじゃん!」


 社長の提案に歓喜の声を上げたのは、ベースギターを担当するアイドル、藤本里奈。
 どこかおちゃらけた、いわゆる「いまどきギャル」な風貌の彼女であるが、バンドでは堅実に演奏をこなす。派手な外見とは裏腹に、バンドを底で支える影の実力者だ。


「遂に来たね!」


 里奈に続いて声を上げる、ギター担当の原田美世。
 トリプルギターの中、主にリズムギターのパートを担当する彼女。リズムギターはサイドギターとも呼ばれるように、主に演奏のリズムを整える実直な役割であるが、美世のチューニングにかかればどんな難曲でも見事に調和されてしまう。


「最近ソロ活が多かったし、久しぶりに暴れたい気分だったし、ナイスなタイミングだね……!」


 そう言って静かに闘志を燃やすのは、同じくギター担当の松永涼。
 リズムギター、それからリードギターのパートもこなす技巧派で、バンド経験者でもある。
 元のバンドではボーカルを担当していたため歌唱力も抜群であり、彼女をメインボーカルとする楽曲も存在するなど、その存在感をありありと見せつけている。


「新曲……! やるに決まってんだろ!!」


 そして、ドラムスの向井拓海が情熱的に呼応する。
 元ヤンという異質な背景を持つアイドルであるが、義理人情に厚く一種の正義を貫くような熱い心を持っている。

 それは彼女が叩くドラムにも見事に現れていて、激しい曲ではより情熱的に、メロディアスな曲では哀愁が漂うように美しく演奏してみせる。
 スタミナも十分であり、男性でも消耗が激しいツーバスドラムも鮮やかに扱うことができる。

 バンドの核となるドラム。その重い役割を一身に背負う強さは、メンバーの心の拠り所。そんな存在だ。


「新曲……。やった……!」


 四人の声の後、控えめに拳を握るのはボーカルの多田李衣菜。
 メンバーの中でも特に華奢な印象を受ける小柄な彼女であるが、それとは対照的にどこまでも通る明瞭な歌声を持ち、重厚感のある楽器隊の演奏に負けることはない。

 明瞭でいて、爽やかで、そして可愛らしく華やかな歌声――それだけ聞くとロックとは相反するものだが、そのギャップがうまく調和し、また新たなロックシーンを生み出している。

 海外進出にも目を向ける社長の戦略により、楽曲のいくつかは英詞だけのものが存在するが、李衣菜はそれに臆することもなく歌い上げる。彼女はネイティヴスピーカーでもないし、英語に堪能なわけでもない。それでも自然に歌い上げることができるのは、並々ならぬ努力の賜物と言えるだろう。


「……さて、リーダーはどう思う?」


 五人がそれぞれ声を上げた後、僅かな沈黙が訪れる。
 その沈黙を割いて社長が声をかけた先には――


「……新曲。いいと思う」


 ボソッと、呟くように声を漏らした夏樹。

 ヘヴンズドアのリーダーであり、ギター担当。主にリードギターとしてソロパートを務める。そのテクニックは圧巻の一言で、彼女のギターソロは観客を魅了し陶酔させる。

 演奏、ビジュアル共に圧倒的カリスマ力を持ち、バンドの顔になっている夏樹。何かと個性・癖が強いメンバーをうまく纏め、牽引することで直実に前進してきた。
 彼女もバンド経験があり、場数も踏んでいるので頼もしい存在である。

 他の五人にとっても、夏樹がリーダーであることには何の疑いもない。情熱を持ち、しかし冷静に客観視もできるその性格は生粋のリーダー気質とも言える。

 そんな彼女なら、「よし、いっちょやってみるか!」と気前よく応えたことであろう。いつもの彼女なら。


「……夏樹」


 夏樹の後方に座っていたプロデューサーが、不安げな表情で声をかける。


「あ、悪い悪い……! いいんじゃないか? やろうぜ!」
「よし。じゃあ決まりねー」


 どこか上の空な彼女を見て一瞬怪訝な面持ちになった社長であるが、持ち直した夏樹を見届けて、そうして事を進行させていく……。

 以後、何もなかったかのように振舞っていた彼女だが、その異変に戦友たちが気付かないはずもない。

 不安の種は、次第に芽吹きつつあった――


「――やっぱり、ここにいたんだね」


 会議の翌日、事務所ビルの屋上にある喫煙スペースで小休止していたプロデューサー。タバコを取り出しオイルライターで火をつけようとしたその時、後方から声をかけられる。


「……涼か」


 彼の元へ一人でやってきたのは、ヘヴンズドアのメンバーであるアイドル、松永涼であった。


「どうした?」


 火をつけようとしたその手を止め、ライターをポケットへ。


「いや、アタシに構わず吸ってくれ」
「お前がよくても俺がダメだ」
「いいから。アタシは気にしない」
「……後でお前のプロデューサーからなんか言われても知らんぞ」
「ふふっ、あの人はアンタの後輩でしょ?」
「そういうの、今はパワハラって言われるんだぞ?」


 彼女は別のプロデューサーにプロデュースされている立場であるが、夏樹とは親しい間柄で、その為彼とも親交がある。


「それじゃ、お言葉に甘えて……」


 再びライターを取り出し、今度こそ火をつけるプロデューサー。
 彼が紫煙を吐いたのを見届けて、涼はゆっくりとした口調で話し出す。


「単刀直入に聞くけど――夏樹となんかあった?」


 やっぱりか――彼は今一度煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。


「質問に質問で返してすまないが、そっちは特に何もないんだな?」
「……ということは、アンタとも何かあったってわけじゃないんだね」
「ああ……」


 二人はお互いにお互いの意図を感じ取っていた。つまり、夏樹の様子がおかしい原因を探っていたのだ。


「最近、あんな様子でしょ? 夏樹のヤツ……」
「そうだな。俺としてもどうしたものかと悩んでたところだ」
「アタシたちもなんとかできないかって話してたところでさ」
「迷惑かけてすまんな」
「何でアンタが謝るのさ」
「いや……」
「分かるよ。夏樹のヤツは自分のイメージを壊したくないから、だからああ見えて実は人一倍神経質な人間なんだ。それほど努力家ってことでもあるけど――ともかく、あいつのことだし『何でもない、大丈夫だ』の一辺倒なんでしょ?」
「そうだな……。本当にプライベートなことなら、こちらとしてもできるだけそっとしておきたい。あいつから助けを求めて来ない限りはな。だけど……」
「そうだね。これは明らかにおかしいってやつだ」


 そこまで言って、二人は押し黙る。
 夕どき……。沈みゆく日が涼の長い茶髪を照らし、それは金色に輝く。
 そして彼女が無意識に髪をかきあげると、金色は乱反射するようにゆらゆらと揺らめき、眩い光を放った。


 そんな光景を横目で見て、プロデューサーはタバコの灰を落とす。





「……もしや追っかけに悩まされてるとか、ストーカー被害にあってるとか?」
「アンタ、まさかそれ冗談でしょ?」
「いや、そういうもんってなかなか言い出しづらいだろ?」
「だけど、アンタになら夏樹は絶対に言うでしょ。まずアンタに」
「そうか……。そうだな……」
「……夏樹はアンタのこと信頼してるし、好きだから」
「……」
「だから、余計に言い出しづらいのかもしれない」
「それは、お前らバンドメンバーでも同じだと思うが」
「……そうかもしれないね」


 手探りの会話は、大通りの喧騒にかき消される。
 プロデューサーとの間で問題を起こしたわけでもなく、バンドメンバーとの間でも同様。では、その原因は一体どこにあるのか。


「何か、兆候みたいなもんが分かってればな……」
「兆候?」
「ああ。ああなってしまったのには絶対原因がある。その原因へと繋がるヒントがあればいいんだが……」
「――ねえ、アンタと一緒にいる時の夏樹、どんな感じ?」
「どういう意味だ?」
「スマホとか、頻繁に見てたりしない?」
「そうだな……空き時間はたいていギターいじってるか、バンドのスコアとか雑誌読んでるか、あとは台本とか進行の確認してるかだな」
「なるほどね」
「寮では違うのか?」


 事務所お抱えの寮が存在し、そこに住んでいる者も多い。一人暮らしと比べて家賃など諸費用が安いため、上京したばかりの新人や若いアイドルはたいていそこで暮らすことを希望する傾向にある。

 ある程度稼げるようになり余裕が出ると独立し一人暮らしするのが一般的だが、彼女たちバンドメンバーは居心地の面であえてそうせずに留まっている形だ。


「そう、問題はそこなんだ」


 涼はそう言ってプロデューサーの方へ向き直る。


「アンタが言った通り、夏樹は寮でもそんな感じ――ただ、最近はスマホをやたら見てる」
「つまり、どういうことだ……?」
「アンタにも話してるかは分からないけど、ずっと前にね、向こうからチラッと聞いたんだ」
「……?」
「夏樹、アイツ実家との仲が結構悪いみたい」
「……」


 プロデューサーはその言葉に衝撃を受けるが、短くなったタバコを一つ吸って平静を取り戻す。そしてそれを灰皿へ捨てた。


「その様子だと、プロデューサーのアンタには話してなかったみたいだね」
「……ああ」


 彼はどこか気まずいような表情で、手持ち無沙汰になった腕を組んで虚空を眺めた。


「それは知らなかった……」


 ただ、その真実を聞かされて、プロデューサーは過去のとある記憶を思い返す。


(あいつ、プロフィールの緊急連絡先、あとは契約書の類に兄の名前を書いてたな……)


 事務所に所属するタレントとして、プロフィールや契約書への記載が当然必要になる。
 この場合のプロフィールというのは外のメディアに向けたそれではなく、事務所内の人間へ向けたもので、いわゆる学籍簿のようなものだ。

 夏樹はそこの緊急連絡先の欄に兄の名前と電話番号を書いていた――続柄の項目には母でも父でもなく、兄の文字が書かれていたのだ。
 契約書などの保証人の欄にも、同様に兄の名前が記載されていた。

 両親が健在であるならば、一般的にはそのどちらかの名前を書くはずだ。ということは、もし彼女の言うことが本当ならば両親と折り合いが悪く、兄だけが味方になってくれている、そういう可能性がある――彼は一人、胸の内でそのような憶測を巡らせる。




「二本目、吸ってもいいよ」
「……?」


 プロデューサーが一人黙考していると、涼が優しい口調で声をかける。


「まだ時間、あるんだよね?」


 そう言われて、彼は腕時計を見る。


「……そうだな」
「ちょっとだけ話したいことがあるからさ、二本目吸って適当に聞いてて」
「適当はダメだろ」


 僅かに微笑を浮かべながら、プロデューサーは二本目のタバコにゆっくりと火をつける。
 彼がちょうど煙を吐いたタイミングで、涼はおもむろに語り出した。


「実はアタシも両親と仲が悪かったんだ――今はまあ普通って感じまで直ったんだけど。いわゆるお嬢様って感じが嫌だった。それだけさ」
「……」
「それで夏樹、あいつもアタシと似てるんだよ」
「あいつの実家も、そういう感じなのか?」
「それは分からない――あいつと初めて会ったのは、まだアタシたちがこの業界に入る前だった」
「……」
「アタシほら、バンドやってただろ?」
「そうだな」
「それで、バンドメンバーと一緒にシェアハウスで暮らしてたんだ……」


――まあ、あの時は楽しかったよ。でも、次第にみんなの心は離れていったんだ。別にそれを恨んじゃいない。
 カートコバーンが自身のヒット曲である『ティーンスピリット』を嫌っていたように、アタシたちが表現したいものと、大衆が求めるものが違っていた。よくある「音楽性の違い」ってやつさ。


 それで、アタシたちのバンドは解散した。解散したけど、音楽仲間としてシェアハウスには住み続けた。
……そんな時、あいつが転がり込んで来たんだ。夏樹が。


 アタシのバンド仲間の一人があいつの先輩らしくて、そのツテを頼って来たって話だった。


 どうやら夏樹も地元を飛び出して来たらしくてさ。似た者同士のアタシたちはすぐに仲良くなった。
 そうやって暮らしていく中で、あいつがボソッと話してくれたんだ。そういうことを。


 まるでイージーライダーみたいなもんさ。夢というバイクから転がり落ちて、後はそのバイクだけがノロノロとハイウェイを走り続ける。
 あの時の夏樹もそんな感じだった……。
 それからは、死んだ街から飛び出したアタシが先にアイドルになって、そしてここへ来た。


 まさか、同じ事務所でアイドルとして再会するとは夢にも思ってなかったけどさ――すっかりと夕日が暮れた空を仰いで、涼は一人語った。


「そうだったのか……」
「ここだけの話だけどね」
「分かってる。つまり、そんなこんながあってあいつは実家を飛び出して来た。それで今になって何かが起きて実家から連絡が来ている。そういう可能性があるってことか?」
「そうだね。何か悩んだような顔でスマホをしきりに眺めていたのは、つまりそういうことかもしれない」
「そうか……。話してくれてありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとね」


 まあ、それを知っていながら何もしてやれないアタシもアタシなんだけどね――彼女はそう付け加えて自嘲気味に笑った。本当は夏樹本人と同じくらい思い悩んでいるはずなのに、歯痒い想いを苦笑いで表現することしかできない。そんな印象を受ける。



「なるほど、分かった。それじゃ……」
「――おい、ちょっといいか?」


 ある程度全容が掴めたプロデューサーは、話を纏めにかかる……が、そこで新たな声が。


「やっぱり、みんな考えてることは同じなのさ」


 一人、涼が呟いた。


「涼、抜けがけはずりぃぞ」
「そんなんじゃないよ、拓海――大体のことは話したよ。プロデューサーも分からないって」


 新たに現れたのは、同じくバンドメンバーであるアイドルの向井拓海。


「ねープロデューサー、なんとかならないのかなー」


 そして、藤本里奈。


「あたしたちにも、できることないかな?」


 と、原田美世が続く。


「その……。私も、私たちも、何もできないのが悔しいんです……!」


 夏樹とは同期で、彼女と共にユニットを組んで活動してきた多田李衣菜。彼女もまた、歯痒い想いを抱えて駆けつけた。


「みんな考えてることは同じ。ホントは夏樹本人に言いたいことは沢山ある……。何かしてあげたいって思ってる。だけど、あいつが余計に傷ついてしまうのが怖いんだ。あいつに任せっきりだったアタシたちにも責任がある。今まであいつが一人で引っ張ってくれたから……。だから、今度はアタシたちが……」


 皆の想いを、涼が代弁する。


「なんてゆーかさ、傷つけることを理由にして、傷つくことから逃げてるってゆーかさ……。ほんと、情けないよねー……」


 いつもは調子のいい里奈も、自身の不甲斐なさに打ちひしがれて肩を窄ませる。


「……だから、私たちにもできることがあれば、何でもやります!」


 李衣菜はそう言って、一歩前に出た。


「……」


 皆の想いを受けて、プロデューサーはかける言葉に迷い一人逡巡する。


「やっぱりアタシが直接、ストレートに聞いてやるよ! グズグズしてる場合じゃねぇ、それが一番だ!」


 しびれを切らした拓海が、背を向けて屋上の扉へ向かおうとした。


「――待て、拓海」


 しかし、プロデューサーがそれを制止する。


「分かった。まずは俺がなんとかしてみる。だからお前たちは、今はあいつをフォローしてやってくれないか? それとなくあいつに話してみる」
「そう言われてもよ……、何もしないわけにも……」
「大丈夫だ。お前たちは何もできないわけじゃない。お前たちの役割は、あいつに何かあったとき、その時に全力で守ってやることだ」
「……」
「だから、今は俺に任せてくれ。お前たちの力が必要になったら声をかける」

 そして、彼は強く宣言する。その声には覚悟の色が窺える。

「……ありがとね」

 すっかりと夜の帳が下りて暗くなった屋上。小さな屋上灯がほのかに照らす中、涼のその言葉だけが静かに響いていた。



(さて、どうしたものか……)


 翌日、事務所にて。昨日高らかに宣言したのはいいものの、具体的な方法が思いつかないプロデューサー。
 複数のプロデューサーが事務作業を行う事務室には、今は彼の姿のみで他は出払っている。
 正午前。夕方のワイドショーに告知のため生出演することになっている夏樹が、そこにいるのは当然といった雰囲気を纏って彼の隣に座っている。


「どうしたんだ? プロデューサーさん」
「……」


 休憩スペースやタレントの待機室や応接スペースでもなく、夏樹は事務所へ来ると当たり前のように彼の隣に座る。他のプロデューサーやアイドルがいようがそれは変わらず、今や日常の風景となっていた。


「夏樹、俺は仕事中なんだ。後は分かるだろ?」
「何だよ、いつものことだろ?」


 襟ぐりの広いTシャツ、その下にはチラリと顔を覗かせるタンクトップ。大腿部を露出したショートパンツ、オールスターの真っ赤なハイカットスニーカー。夏を先取りしたような出で立ちの彼女。
 そんな彼女はいつものように飄々と、そして華やかとした態度でそこにいる。


「プロデューサーさん、疲れてるのか?」


 お前のことでな――とはもちろん言えないプロデューサーは、ただ黙って自分の手元に集中しようと視線を落とす。


「何とか言えよー、おらおらー」
「お前な、暇があるなら今日の進行でも確認しとけ」
「完璧。もう頭に入ってるよ」
「じゃあ他のことしてろ」
「何か今日冷たいな、プロデューサーさん。やっぱ疲れてるだろ」
「お前、俺の身にもなってみろ」
「……?」
「お前がそのベストポジションを見つけてから、俺が他のプロデューサーに何て言われてるか――」
「どういうこと?」
「そこは察してくれないか」
「ハハッ、アタシは全然構わないけどねっ!」
「……だめだこりゃ」


 いつもと変わらない……。だが、その一方で彼は違和感を覚えていた。





(いつもなら、こんな風にくっついてこない)


 いつも通りの快活な木村夏樹、それを演じている――プロデューサーはそんな違和感を覚える。


(自身の悩みから逃げるように、俺に甘えているような)


 もしかするとここがチャンスなのかもしれないと、彼は一つ覚悟を決めた。
 チャンス……夏樹から全てを聞き出す為の。


「――失礼します。プロデューサーさん、お電話が入ってます」


 彼女に勝負をしかけようとした矢先、事務員である千川ちひろが扉から顔を覗かせる。


「……分かりました。そちらへ向かいます」


 内線で取り次ぐことはせず、わざわざ電話口へと促すちひろ。その意図を察したプロデューサーは重い腰を上げる。


「仕事、入ったのか?」
「分からん。いたずらするなよ」
「ハハッ、大人しく待ってるよ。いつまでも」


 夏樹に釘を刺し、彼は部屋を出た。


「お待たせ致しました。お電話代わりました――」


 どこか嫌な予感のような胸騒ぎを覚えながら、プロデューサーは常套句をもって電話口に立つ。


「あの、いつも夏樹がお世話になっております。夏樹の母です」


 ちひろの配慮の意味を今ここで改めて思い知った彼は、平静を乱さないように努め、会話に集中する。


「……分かりました。ご連絡ありがとうございます。はい、それでは、本人にも伝えておきますので」


 一通りのやり取りを済ませ、プロデューサーはゆっくりと受話器を置く。
 天井を仰ぎ見た彼は、静かに息を吐いた。


「あの、プロデューサーさん……」


 ちひろが心配そうに声をかける。


「大丈夫です」


 食い気味に応えたプロデューサー。


「ちょっと、一服してきます」
「あ、はい……!」


 そうして、屋上へ向かう。
 ポケットを弄りながら、彼は一人これからの展開について考えを巡らせた。





「珍しいね、プロデューサーさん。そっちから誘うなんてさ」
「お前、最近浮かない顔してただろ? さあ、行くぞ」


 そして時は流れ――翌月の金曜日。夏樹が「仕事を入れて欲しい」と言っていた休日、その前日の夜であった。


「泊まる準備、ちゃんとしてきたか?」
「もちろんだよ。なんかこういうの、ちょっとドキドキしてる。キャラじゃないよな、アタシの……」


 寮の前に止まる一台のセダン。その傍に立つプロデューサーは、寮から出てきた夏樹を迎えて助手席へとエスコートする。


「サンキュー。それじゃ失礼するよ」


 彼女が乗車したのを見届けて、プロデューサーは運転席へ。


「……」


 夏樹から見えないように、寮の入り口にこっそり立つ涼と、彼女を始めとするバンドメンバーたち。
 プロデューサーはそれに気付き、無言で首肯してから車に乗った。


(これは夏樹を傷つけることになるかもしれない。だが、避けては通れない道だ)


 覚悟を決めて、彼は車のキーを回す。


「……それにしても、わざわざ仕事終わってすぐに出発するなんて、そんなに急ぐ必要もなかったんじゃないか?」
「休日を満喫するためだ」
「本当は仕事したかったんだけどさ。まあ、たまにはこういうのもいいか」


 助手席でくつろぐ彼女を一瞥し、プロデューサーはこれからの行程について思案する。


(やっぱり、その方法しかないよな。よし、それでいこう)


 過ぎ去る景色と共に、彼の脳裏ではとある記憶が再生される。


(夏樹を頼んだよ、プロデューサー)


 夏樹の母から電話があったあの日。それを経て、プロデューサーは決心する。
 そしてそれら事の顛末を社長へ伝え、バンドメンバーにも伝え、彼女たちと共にある作戦を練った。

 そうして練り上がった作戦を実行に移したのがこの夜である。
 仕事は入れられなかったが、気分転換に小旅行にでも行こう――彼は夏樹にそう言って、なんとか誘い出すことに成功した。作戦は次のステップへ。

 やがて、彼が運転する車は首都高へ入る。





「それで、どこへ行こうって言うんだい?  高速にまで乗っちゃってさ」
「……着いてからのお楽しみってやつだ」
「なるほど、それじゃ野暮なことは聞かないさ。アンタと一緒なら、別にどこだっていい……」


 このまま、どこまでも行ってしまいたいな――そんな、吐息混じりの呟きを受けたプロデューサーは、一人罪悪感に苛まれていた。
 チラリと横に目を配るが、前髪を下ろしたオフスタイルの夏樹、彼女の表情は窺い知れない。


(俺は、お前の好意を……いや、お前の期待を踏みにじる行為をする)


 そんな懺悔は、今は届くことはない。
 セダンの走行音が、ただ漠然と鳴り響くだけであった。





「……とりあえず、着いたぞ」


 約二時間弱、高速を乗り継いで到着したのは茨城県。
 一般道に下り、最終的にたどり着いたのはとあるビジネスホテルだった。


「ここは……」
「個人的に海が見たくなった」
「海なら東京や神奈川にもあるだろ?」


 茨城県、それは夏樹の地元である。
 何かを察したように、彼女は怪訝な面持ちでプロデューサーの横顔を見つめた。


「お前が生まれ育った場所の景色が見たかった――嫌だったか?」
「いや、別に嫌ではないけどさ……」
「ビジネスホテルですまないが、今夜はここで我慢してくれ」


 部屋はとってあると付け加え、プロデューサーは車を降りる。


「……何で別々にしたんだ?」


 そして、チェックインを済ませ部屋へ向かう二人。
 彼が別々の部屋を確保したことにどこか不満げな夏樹。


「別々にするのは当たり前だろ」
「冗談だよ冗談」
「腹減ってるか?」
「サービスエリアで済ませただろ?」
「近くにコンビニがあるから、まあなんかあったらそこを使うといい。じゃあ、俺はここだから――」
「あ、ちょっと……!」


 会話を遮り、プロデューサーは部屋へ入室した。

 やがて、夜も深くなる……。


「プロデューサーさん、いるか?」


 就寝前、どこか落ち着かない様子の夏樹。シャワーを浴びて心境をリセットしようとしたが、出発前に寮で済ませたことを思い出す。そうして居ても立っても居られない手持ち無沙汰な時間にしびれを切らし、プロデューサーの部屋へ向かったのだった。


「プロデューサーさん?」


 ノックするが、反応はない。
 施錠はカードキー式となっており、扉を閉めると自動で施錠されるシステムなので、ドアノブを捻っても当然開くことはない。
 プロデューサー本人がカードキーをかざさない限り、その扉は開かないのである。


「プロデューサーさん」
「……どうした」


 半ば諦めかけながらも、最後に声をかけた夏樹。最後の最後で施錠が解かれる。
 扉から顔を覗かせる彼は、どこか寝ぼけたような雰囲気をしていた。


「その、ごめん……。寝てただろ?」


 Tシャツとハーフパンツ、寝間着姿のプロデューサー。


「そうだな、寝てた」
「あのさ、中に入れてくれないか?」
「あー……」

 キャミソールとショートパンツ姿の夏樹。こちらも同様に寝間着姿だ。長い肢体が大胆にも露出し、それを見た彼は部屋内を振り返ることで視線を逸らす。

「別にいいけど、俺は寝るぞ。運転で疲れてる」
「それでもいいよ。なんか眠れなくてさ……」

 数秒の沈黙の後、渋々ながらそれを許可したプロデューサーは彼女を招き入れた。



「じゃあ、お休み……」
「まったく……。粋じゃないね、アンタは……」


 テーブルには350ミリリットルの缶ビール。いつの間に調達したのだろうか、つまみも無しに飲み干した跡があった。


「ビール、一つで足りるのかい?」
「疲れたからな、酔いも早い。充分だ」


 まるで安眠剤代わりとでもいうような言い方で答える彼は、すぐさまベッドに入り丸くなる。


「……」


 彼女に背を向け横になるプロデューサー。想定外の来客に、先刻までとは打って変わってなかなか寝付けない。


「……寝たのか?」
「寝た」
「ふふっ、寝てないじゃないか」


 彼の背中越しでクスリと笑う夏樹。
 いつの間に彼女はベッドに腰を下ろしていた。


「プロデューサーさん、『海が見たい』なんてホントは嘘だったんだろ?」
「……」
「なんとなく察したよ」


 目的地は着いてからの~とは言っても、小さな子供でもなければ騙し通せるわけもない。
 ここは彼女の地元。車のカーナビ情報や、過ぎゆく景色や、標識などのヒントは沢山ある。
 そして――本来彼女が避けたかったとある事柄がこの休日に存在していた。この地元に。


「策士だね、アンタは」
「……」


 プロデューサーとしても、もちろん騙し通せるわけがないことは理解していた。地元に来た時点で全てを察するだろうと、それも想定内だった。
 しかし夏樹を車に乗せることができた時点で、作戦は成功していたのである。


「アタシの負けだよ、プロデューサーさん」




 彼女は何かを悟ったように、一人呟く。そしてどこか諦めも混ざったような声音で、ゆっくりと語っていった。


「このまま『ノッキンオンヘブンズドア』みたいに、『イージーライダー』みたいに、どこまでも行ってしまいたかった……」


――奥田民生とか流してさ。ブルーハーツでもいいか。まあとにかく、どこまでも行ってしまいたかった。
 でも、ヘブンズドアにしてもイージーライダーにしても、最後は死んじまうんだ。見たことあるか? あの結末どう思う? アタシは最高にロックだと思う。あんな人生、送ってみたい。


 だけど、彼らは逃げていたわけじゃない。答えを求めていたんだって思う。
 対するアタシは、今のアタシは逃げているだけ。乗り越えなくちゃいけない現実から逃げているだけ。


 分かってるさ。でも、アタシはそれを到底許すことができないんだ。
 時間が癒してくれるとは言うけど、まだアタシにとってそれは鈍い痛みのままで。


 なあ、いつかの夏フェスで歌った曲を覚えているかい?
 アンタも好きなグリーンデイ。アンタが教えてくれたグリーンデイの『Wake me up when September ends』を歌ったよな。


 なんであれを選んだか分かるか?
……つまり、あれがアタシの心境だったんだ。
 夏が来てあっという間に過ぎ去ってしまうように、世の中も、人々も、記憶も何もかも変わっていってしまう。


 でも、アタシだけは忘れたくなかった。だから、あの会場のみんなにも知って欲しかった。あの人が生きていた記憶を。
 そうすれば、みんなの中であの人は生き続けることができる。


 そう思ったのさ――


「プロデューサーさん……」


 ゆっくりと語る夏樹は、次第に嗚咽交じりの吐息を漏らす。


「夏樹」


 既に眠りに入っていたように見えたプロデューサーだが、彼女の異常を察して体を起こし、そして……。


「すまなかったな」
「何でアンタが謝るんだよ……」


 ベッドに座る夏樹を、後ろからそっと抱き寄せる。


「もういいんだ。大丈夫、俺はここにいるから」
「プロデューサーさん……」
「今夜は、余計なことは考えずここで眠れ」
「……ありがとう」


 これまで見せたことのない、涙を浮かべる彼女を抱き締めて、プロデューサーは夏樹をベッドの中へと導いた。


「プロデューサーさん……」


 赤子をあやすように、胸元に引き寄せて彼女を寝かしつけるプロデューサー。


「……」


 やがて、規則的な寝息を胸元で感じた彼は、それに誘われるように目を閉じた。






「どうもすみません、いつも娘がお世話になっております……」


 翌日のこと。
 プロデューサーは夏樹を乗せて彼女の実家へとやってきた。
 全てを察したような夏樹は半ば諦観したような面持ちで何も言わず、ただ玄関先に立ち尽くす。

 海岸線に近い場所に位置する彼女の実家。広い敷地には昔ながらの二階建てと、後から建てたらしい現代風の二階建てが並んでいる。奥には作業小屋も見られ、田舎の二世帯住宅といった様相である。

 また、敷地の入り口横にはシャッターが閉めきった、古ぼけた建物があった。ガレージが併設されているようなそれには、色あせた文字で「木村モータース」とあった。

 古いほうの二階建てを尋ねると、夏樹の母が現れる。
 梅雨の気配が近づきつつあったが、依然として快晴の空。土曜日のことであった。


「さあ、上がっていって下さい――」


 夏樹の母に促されるまま、プロデューサーと夏樹は玄関を跨いで家へ入る。
 成り行きで茶の間へと通され、二人はこたつテーブルの前に並んで腰を下ろした。

 夏樹の母が台所でせわしなく動いているのを眺めながら、プロデューサーは回想に耽る。


……プロデューサーと、それからバンドメンバーが立てた作戦は、夏樹を彼女の実家へ連れてくることであった。そうするために、彼女を誘い出すことであった。


 発端は夏樹の母からの電話。
 電話の内容は、要約すれば「プロデューサーの力添えでなんとか彼女を実家へ連れて来て欲しい」というもので、実家と夏樹の折り合いが悪いのはどうやら真実であったらしい。


「わざわざ遠いところから、ありがとうございます」
「いえいえ……。こちらこそお世話になっております」


 お茶と茶菓子をお盆に載せて、夏樹の母が茶の間へ戻って来る。


「……」


 プロデューサーの傍ら、当の夏樹は何も言わず、それから始まった世間話や近況報告といった会話の中でも「あー」とか「おう」と上っ面な返事を寄越すのみであった。


「プロデューサーさん、狭い家ですけど、良かったら今日は泊まっていって下さい」


 会話もやがて途切れ途切れになると、夏樹の母がポツリと切り出した。


「いえ……! さすがにそれは……!」
「いいんですよ、いつもお世話になっておりますし、ささやかながらおもてなしさせていただこうと思ってたんです」


 夏樹を実家に連れて来ることは叶ったわけだが、その後については白紙だったプロデューサー。彼女を置いて一人帰るわけにもいかず、結局のところ渋々ながらその提案に甘えることになった。





「――それでは、乾杯!」


 あっという間に時間は流れ、畳の大広間で宴会が催される。
 隣の二階建てに住んでいるらしい長男夫婦とその子供、両親と祖母が加わってささやかな宴会が開かれた。


 どこか手持ち無沙汰なプロデューサーであったが、その気まずさを拭い去るように手元のビールを煽った。
 そうすると隣に座る長男、夏樹の兄や父が続けざまにビールをお酌する。


 次第に互いの緊張は解れ、会話に花が咲く……。
 話題はプロデューサーという職業のこと、アイドルや芸能界、そして夏樹の活躍についてで、彼女の名前が要所要所で挙がる度に、家族は皆どこか誇らしげな表情であった。
 対する夏樹は、長テーブルの端でどこか気恥ずかしいように俯いていたが、そんな彼女もまたどこか嬉しそうな色を覗かせている。


(本当に、折り合いが悪いのか?)


 ほろ酔いの中、プロデューサーは端っこの夏樹を横目で見て、そんな風に考えた。


(確かに、どこか気まずそうではある。しかし、本当に家族と仲が悪いなら少なくともこの場にいようとしないだろう)


 それでは、一体どうして自分の力を借りてまで夏樹をここへ連れて来させたのか――やがて宴会もお開きとなり、庭で一人タバコをふかしながら、プロデューサーはその答えを探していた。





 彼の違和感、その答えは翌日にあった。


「すみません、手伝っていただいて……」
「いえ、お気になさらず」


 翌日、木村家の朝は早かった。
 大広間を幾度となく往来する家族の面々。座布団を並べたり、テーブルを運んだり、皆一様に何か作業をしている。黒い礼服を身に纏った夏樹も、皆と同様にただ黙々と作業を進めていた。

 礼服――そう、今日は木村家の祖父の年忌法要その日であった。いわゆる法事である。

 プロデューサーも今日がその日ということは以前の電話口で知らされていた。この法要があるため、「なんとか夏樹を呼び戻して欲しい」とのことであったのだ。

 七回忌ということらしく、法要も近しい親族のみを招き自宅でしめやかに執り行うようだ。

 プロデューサーに関しては、何のゆかりもない彼が参列しても良いかというと、それはそれで非常識というものであろう。

 ただ、一宿一飯の恩義があるし、夏樹と関係がある手前何もしないわけにもいかない。彼はそう思って、一応のところ準備を整え、こうして会場の準備も手伝っていた。

 そうして一通りの設営が済み、彼は香典やお供え物を母にそっと手渡す。
 そこまでするなら法要にも参列すれば……と思うだろうが、前述のような事情もあり、また、準備が終わったからと言って手ぶらで帰るわけにもいかない、そんな彼の配慮であった。


「こればかりは、申し訳ありませんが……」


 しかし、さすがに香典を受け取ることはできないと言われ、そうして木村家を後にすることとなった。


「本当に、色々とご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました……」


 やがて、どこかはっきりとしないモヤモヤを抱えたまま、プロデューサーは木村家を出る。

 夏樹は最後、「アタシのことは大丈夫だよ。ありがとな、プロデューサーさん」と言って彼を送り出したが、その表情はまだ曇っていて、彼はそれが気がかりでならなかった。


(あいつが実家に帰りたくなかったのは、法事に出たくなかったから……?)


 木村家を出たプロデューサーは適当に時間を潰し、やがてロードサイドのファミレスにたどり着く。
 タバコを吸いながら一人考えを巡らせるが、結局答えは出なかった。






 いつの間にか正午を周り、午後はゆっくりと過ぎていく……。


「プロデューサーさんすみません! 夏樹が……!」


 そんな時であった。
 夏樹の母から電話が入り、彼は急いで席を立つ……。






「……こんなところにいたのか」


 夏樹の母から緊急の電話を受けたプロデューサー。どうやら夏樹は何かトラブルを起こし実家を飛び出したらしい。
 法事で立て込んでいる母や家族を捜索に出す訳にもいかず、「私が探してきます」と断りを入れてファミレスを出た彼は、実家からほど近い海岸線の空きスペースに車を止めた。

 海岸線を行くと小規模な砂浜が姿を現し、その砂浜へと続くコンクリートの階段には、道路を背にして座る女が。さらにその近くには、どこか懐かしい原付バイク、空色のカブが止まっていた。


「プロデューサーさん、わざわざ戻ってきたのかい?」
「……おかげさまでな」


 階段に座っている夏樹。プロデューサーに背を向けたまま小声で呟いた。


「いいバイクだよな、カブ」
「だろ? アタシが好きなバイクの一つさ」


 あえて追求はせずに、彼は夏樹の隣に腰を下ろした。


「どのみち決着はつけなくちゃならなかった。だから、プロデューサーさんにはホントに感謝してる」
「……」
「でも、やっぱりダメだったよ……」


 寄せては返す波。それをただぼーっと眺める彼女は、やがてひとりでに語り出す。


「アタシはじーさんが好きだった。ロックなじーさんでさ、あの家族を一人で纏めてた。何が起きても動じない、最後には快活に笑ってるような人だった」


――でも、そんなじーさんが死んで何もかも変わっちまった。
 ただ事務的に、悲しむ暇もなく過ぎていく慌ただしい時間……。
 みんな死んだじーさんの存在はどうでもよくて、じーさんがいない世界に生きてる。

 どうでもいいんだ。あいつらがじーさんの存在を忘れたように、アタシだって「遺産」とか「相続」とか「土地」とか、そんな話はもうウンザリなんだ。
 でも見てみろ、じーさんが死んでもうしばらく経つのに、奴らはどこからともなく集まってきては金の話ばかり。

 これ以上じーさんから貪りとってどうするつもりだ? 忘れたんじゃなかったのか?

 だからアタシは、こんな街に戻ってきたくはなかったんだ。

 だからごめんよ、プロデューサーさん。あんたを巻き込んで、迷惑かけて……。
 きっとアタシはあの家族にとってお荷物以外の何者でもないんだ。現に、こうして誰一人としてアタシを追ってこなかった。

 ホントにごめんな――夏樹はそう言って足元の小石を掴み、砂浜めがけて放り投げた。


「……だから、飛び出してきたのか?」
「そうさ。『金の亡者どもはさっさと失せやがれ』って捨て台詞吐いて出てきたよ。アタシはあの親戚の奴らが大嫌いなんだ」


 彼女が実家に帰りたくなかったのは、この法事の際に「亡者」が集まって来るから……。だから、どんな理由をつけても回避したかったのだ。
 仕事を無理矢理入れようとしたのも、つまりはそのような理由があってのことだった。





「親戚の話は置いておいて……。少なくとも家族はお前を『お荷物』とは思っていないと思うぞ」
「……!」


 プロデューサーの言葉にハッとした夏樹。思わず隣の彼に向き直る。
 今度はプロデューサーが海を眺めながら、静かに語っていった……。
 いつの間にタバコをふかし、ただ漠然と彼方を見つめて。


「あのバイク、じーさんの愛車だったんだろ? 昨日、色々と話を聞いたよ」
「……」


――もうぶっ壊れてもおかしくないのに、ああして今も動いてる。じーさんが亡くなって「木村モータース」も廃業して、それでもわざわざ違う整備屋に頼んでメンテナンスしてもらってるんだってな。
 それはきっと、家族もじーさんの形見を失いたくなかった。つまり、家族もじーさんを忘れてなんかいないんだ。

 そして、そんなじーさんの血を色濃く受け継いだお前がかわいくて、お前が帰ってきたらいつでも乗り回せるように、ああしてバイクを万全な状態に保っているんだ。

 芸能活動にしたってそうだ。最初両親は反対してたそうだな。それで、お前はこんな地元に嫌気が差してて。色んな要因が絡んで地元を飛び出した。
 でも兄貴だけじゃなく、実は両親も、家族全員もお前を応援してる。

 そうじゃなかったら、きっと昨日みたいな団欒なんて生まれない。
 そうじゃなかったら、お前の応援グッズや、お前のCDや、お前が出た雑誌を茶の間に飾ったりなんてしてないし、出演したテレビの録画をわざわざディスクに焼いたりしてない。

 だからそうだな。きっと、家族全員が言いたいことを言えなかったんだ。
 言いたくて、でも言ってしまえば壊れてしまうんじゃないかと思って、だから言えなかった。


 全ては、些細なすれ違いだったんだ――ゆっくりと語った彼は、虚空へ向けて煙をぼうっと吐き出した。






「……こんな街、『死んだ街』だと思ってたよ」
「Jesus of suburbiaか?」
「ああ。思えばそれもあんたが教えてくれた曲だったね」
「……死んだ街、死んだような奴らが蔓延る街」
「道路の外にぽつんとあるような寂れた街」
「標識はデタラメでどこにも辿り着けない」
「クソったれの街、そこにいるガキどもはみんな行き場もなく、だけど誰一人そんなことは気にしない」
「――だけど、そんな街でもお前のホームだ」
「そうさ。どいつもこいつもクソったれだと思ってた。アタシらのバンドを勝手に抜け出して人気バンドに移っていった奴が言ったんだ、『バンド辞めて人が変わったみたい』ってさ」
「――生きていたって息ができなきゃ死んでいるのと同じ」
「だからアタシは逃げ出した。謝るつもりなんてないよ」
「……クソったれってやつだ」
「ああ、何もかも『クソったれ』さ!」


 歌詞のフレーズも用いて想いをのせる。
 世界に捨て台詞を吐いた夏樹は、プロデューサーは、やがて互いに笑い合った。
 やがて笑い疲れて、彼女は隣の男にもたれかかる。


「逃げてもいいさ。いくらだって逃げろ」
「……」
「だけど、自分の人生からは逃げるなよ――夏樹」
「……ああ」


 プロデューサーの肩に頭を預けながら、夏樹はただ一言で応答する。
 今までとは違い、その一言には確かな強さが窺えた。





「夏樹、本当にごめんなさい……!」


 そうして夏樹は、そしてプロデューサーは彼女の実家へ戻る。
 親戚一同も帰ってまっさらになった庭には家族が総出で立っていた。


「夏樹一人に全てを背負わせていた……」


 と、父。


「だけどもうあなた一人にはさせないから。私たちも言いたいこと、全部言ってきた……」


 と、母。


「これからは、みんなで生きていこう。じいさんが生きてた頃みたいに」


 と、兄。


「アタシも、一人で勘違いして迷惑かけた……。もう子供みたいに一人で反抗したりしないから……」


 夏樹も続いて、どこか恥ずかしそうに言葉を漏らす。


(きっと、皆思っていることは同じだった)


 だけど一人で抱え込んで、言えなくて。そうして鬱憤だけが溜まってすれ違った――和解の輪を外から見届けるプロデューサーは、ふとそんな風に思ったのだった。


 なんとも言えぬ生温かい静寂の中、蛙の声が控えめに彼らを祝福しているようだった。





 初夏の眩しい太陽は次第に傾き、沈んでいく。

 一悶着はあったものの、いわゆる妥協点のようなとりあえずの着地点には収まり、問題は終息を迎えた。

 やがて二人は改めて仏壇に線香を供え、そうして木村家を出た。

 夏樹自身も明日月曜から再び仕事が始まる。


「……これで、良かったのか?」


 プロデューサーが運転するセダンは、夕暮れの海岸線をただひたすら走っていた。


「ああ。これで良かったんだ」


 海、地平線の彼方へ沈む太陽を眺めながら、助手席の夏樹はボソッと呟いた。


「まだ全てが解決したわけじゃないけど、今はこれでいい……そう思う」


 高速道路へと向かう車は、やがて市街地へ入る。


「なんか、色々あって腹減ったな」
「……確かに、そうだね」
「じゃあ、高速入る前にどっか行くか」


 プロデューサーはそう言って、その視線を前方や左右へせわしなく動かす。
 そんな彼の視線を追うように、夏樹もまたキョロキョロと外を眺めた。






「あ……」
「どうした夏樹――お、お好み焼きか!」


 そうしてしばしの探索ののち、彼女の視線はとある店で止まった。


「お、懐かしいなーここ」
「プロデューサーさん、知ってるのか?」
「もちろんよ――あ、そういえば確かめたいことが思い浮かんだんだが」
「どういうこと?」
「なあ、ここで飯にしないか?」
「……別に、アタシは構わないけど?」


 確かめたいこと――プロデューサーの言葉の真意を探る夏樹であったが、その答えにたどり着く前に、車は店の駐車場へ入り、そして彼はささっと駐車を済ませる。


「久しぶりだなー、『道とん堀』は」


 そうして、車を出て店へ向かう二人。
 プロデューサーはどういうわけか、少し気分が高揚しているようにも見える。
 そんな彼の横顔を見て夏樹は首を傾げるが、しかしその足取りは対照的に軽やかだった。






「プロデューサーさん、急にテンション下がり過ぎだろ……」
「だってさ、『ぽんぽこ!』って言わなかったんだぞ、『いらっしゃいませ、ぽんぽこぽーん!』って!」
「あぁ、あれか……。いや、あの掛け声はやらない店もあるって噂を聞いたけど」
「くっ……! 俺の思い出が……」
「まさか、『確かめたいこと』ってそのことだったのか?」
「……ああ」
「くくっ……! あはは……! それだけのために!?」
「何がおかしい!」
「プロデューサーさん……! あんたって人は……くくっ!」


 道とん堀――ほぼ全国に展開する鉄板焼きのチェーン店。
 東京生まれの道とん堀は、今や日本最大のお好み焼きチェーンとして人々から親しまれている。海外にも進出し、その勢いは目覚ましい。

 なんともめでたい、縁起が良いタヌキの置物に迎えられ店に入ると、出迎えた店員が威勢良く快活に「いらっしゃいませ、ぽんぽこぽーん!」と呼びかけ、他の店員がそれに続く。ただの店ではない。エンターテイメント性も兼ね備えた楽しい店だ。

 鉄板焼きコミュニケーションとでも言おうか、鉄板を囲んで楽しんで欲しいという姿勢を感じられる、鉄板アミューズメントパークがこの店である。


「……昔、俺が行った店ではぽんぽこコールしてくれたんだけどな」


 が、店舗によっては『ぽんぽこぽーん』の掛け声はしない所もあるらしく、二人が入った店舗もどうやらその一つだったらしい。

 小上がりの座敷、フローリングの上には鉄板が埋め込まれたテーブルが置かれ、それが等間隔で並んでいる。

 座って寛ぐことができる店内で、入店一番腰を下ろしたプロデューサーは、例の掛け声がなかったことに拍子抜けした様子で、どこか面白くない顔をしている。


「まあ、よく考えてみなよ。毎回毎回『ぽんぽこぽーん』なんて言わされる店員の気持ちをさ」
「でも、それが楽しみな奴もいるんだよ……!」
「ぷっ」
「笑うな!」
「ぷはっ……! プロデューサーさんって、意外と子供っぽいんだね!」
「ぽんぽこ……ぽんぽこ……」


 ぽんぽこレスな彼は、まるで危ない薬の中毒者が新しいそれを求めるが如く、「ぽんぽこ、ぽんぽこ……」とひたすら呟いている。

 あまりにもぽんぽこと呟くものだから、対する夏樹はそんな彼の顔と愛くるしいタヌキの姿が重なって、続けざまに吹き出してしまった。





「……元気になったな、夏樹」


 そして、不意にそんなことを言う。


「よし! こうなったら食べ放題頼むぞ!」
「えぇ!? 食べ過ぎたら運転危ないだろ!?」
「逆だ! 食べないと運転できないからな!」
「……どうなっても知らないよ、アタシは」
「すいませーん!」


 プロデューサーが不意に見せた優しさを前に、夏樹は胸の高鳴りを覚える。
 聞こえないふりをして、わざと呆れてみせた。


「お待たせしましたー」
「この『道とん堀コース』を二人分と、それから飲み放題のドリンクバーを二つお願いします!」
「かしこまりましたー! ご新規のご注文頂きましたー、ぽんぽこぽーん!」
「……!!」


 注文を済ませると、予想だにしなかった「ぽんぽこぽーん」が店内に響き渡る。


「ぽ、ぽんぽこぽーん!」
「プロデューサーさん、恥ずかしいからやめてくれ」
「……ほらな、願えば叶うんだ」


 したり顔のプロデューサーに呆れ返る夏樹だが、同時にそんな彼を愛おしく思う彼女であった。


「よし、やっていくか!」
「お、プロデューサーさんが焼いてくれるのか?」
「任せろ」


 やがて注文の品が届けられ、食べ放題の時間が始まる。
 この店は自分たちで焼いて、作って食べるシステムであり、昨今流行りのDIYといった様相である。
 そんな鉄板DIYは人によっては面倒だと思われるが、自分で作る楽しみがあり、そこから生まれるコミュニケーションもあって、まさに鉄板アミューズメントと言えるだろう。


「まずはお好み焼きから……」


 最初二人が頼んだのは、「ソウル」と「スジ牛」というお好み焼きと、「もち明太子チーズ」というもんじゃ焼き。
 定められたメニューの範囲であれば、どれも食べ放題なのがこのコースである。





 プロデューサーはまずお好み焼き二種の容器、その中身を木製スプーンでかき混ぜる。


「確かこうだったよな……」
「そうそう。お好み焼きは最初かき混ぜて、それから鉄板に移して丸型に成型するって感じだったね」


 記憶を頼りに作業を進めるプロデューサーと、卓上にある油差しの容器を手にとって、鉄板に油を注ぐ夏樹。それから彼女はコテを取って、注いだ油をまんべんなく鉄板に馴染ませる。

 その連携はさながら阿吽の呼吸であり、彼らが築いてきた絆はこんな場面でも形になっていた。


「よし、こうしてっと……」


 かくして、キムチ・天かす・紅生姜・刻みネギ・豚バラ肉・卵などで構成される「ソウル」と、牛スジ肉・天かす・紅生姜・刻みネギ・卵などで構成される「スジ牛」がかき混ぜられ、渾然一体となったそれが二つ、鉄板の上に並ぶ。


「こんなもんか?」
「もうちょっと広げた方が火が入りやすいんじゃないか?」
「そうだな……よしっ」
「……うん、いい感じ!」


 鉄板上の共同作業を経て、焼き上がるまでの手持ち無沙汰な時間がやってくる。
 早くひっくり返したい衝動に駆られるが、焼き上がりを待つのもまた一興。鉄板焼きの醍醐味というものである。


「……そろそろ、いくか?」
「おっ、頼んだよ」


 やがて鉄板上の丸型はしんなりとして、具材が焼けるいい匂いが二人の鼻腔をくすぐる。

 頃合いを察知したプロデューサーは、コテを両手に持って身構えた。


「待て、こうしよう――これは俺がひっくり返すから、もう一つは夏樹に任せる」
「お、勝負でもするかい?」
「――俺の勝ちだ!」


 一瞬の静寂、固唾を呑む夏樹……。
 刹那、威勢良く丸型をひっくり返したプロデューサー。


「あはっ、プロデューサーのへたくそ!」
「……うぬぅ」


 が、その気迫は虚しくも空回り。大失敗という程でもないが、ひっくり返った丸型は鉄板の端に飛び、その形を僅かに歪ませて、具材も微かに飛び散っている。






「意外と不器用なんだね!」


 それを見た夏樹はいたずらに微笑んでみせる。少女のような無邪気な笑顔だ。
 完璧だと思っていたパートナーの意外な弱点を発見し、彼女は自身の庇護欲が沸き立つような不思議な感情を覚えた。


「くそ、次は夏樹の番だ」
「任せてくれ」


 プロデューサーは飛び散った具材を本体に戻しなんとか整えて、それから夏樹にコテを手渡した。


「――ふふ、パーフェクトだね!」
「う、うぬぅ……」
「アタシの勝ち! 罰としてドリンク持ってこい!」
「う、うぬはなに飲むの?」
「コーラを頼む!」
「ぽんぽこぽーん」


 対照的に夏樹は形そのまま、一つの崩れさえ起こさず完璧にひっくり返した。
 滑らかな焼き面は程よく焦げ目がつき、茶色と黒のコントラストはバランス良く美しい。教科書通りの、まさにパーフェクトな出来栄えである。

 大敗を喫したプロデューサーは、彼女の言う通りに罰ゲームを実行した。


「さてと……」


 そして、両面が焼き上がった頃合いを見て、二人はそれぞれのお好み焼きにソースを塗り、マヨネーズをかけ、青海苔をまぶし、そして鰹節を散らして完成。


「見ろ、俺の愛がこもった『ソウル』を!」
「プロデューサーさん、男がやるもんじゃないよ……それは」


 マヨネーズがハート形にかかったお好み焼き、「ソウル」を見て、夏樹は頭を抱える。
 これではまるで女子高生のお好み焼きパーティーではないか。だったら自分も「Rock」だとか描いておけばよかった――マヨネーズが格子状にかけられた自身のそれと見比べて、彼女はそんな風に思った。


(女子高生のお好み焼きパーティーか……)


 その光景を前に、いつかの思い出が夏樹の脳裏をよぎる。
 それは以前に組んでいたバンド、そのバンド仲間と、この道とん堀で同じ様に鉄板を囲んで、団欒していた記憶であった。


「ほら、冷めないうちにいただこうぜ」


 四等分になったお好み焼き、二枚ずつ取り皿に盛られ、それが夏樹へと差し出される。
 それで彼女は我に返り、箸を取った。


「「いただきます」」


 小声で呟いて、二人はお好み焼きを口へ運ぶ……。





「……はあ、ビールが欲しい」


 思わずそう漏らしてしまうプロデューサー。
 お好み焼き、「ソウル」。なぜソウルというネーミングなのかは不明であるが、恐らく具材であるキムチが関係しているのかもしれない。キムチといえば韓国、そんな韓国の首都はソウル――安直ではあるがこんな風に。

 ソウルを味わうプロデューサー。

 程よく焼き上がったお好み焼きのふわふわ感と、キムチの子気味良いシャキシャキ感がなんとも新鮮であり、そこへ豚バラ肉の旨味が加わる。
 香ばしく焼けたソースの風味と、キムチの辛み、そしてマヨネーズの酸味・甘味、それらが口の中に蔓延し、ジュワリと溶けていく……。

 豚キムチとマヨネーズソースの邂逅は、口の中で必然となる。運命のマリアージュ、約束された美味のヴァージンロード。それは胃という教会まで緩やかに続く。至福の時間。


(そう、確かこんな味だったよな――美味しい)


 対する夏樹は、「スジ牛」を味わう。

 ゴロゴロとたっぷり含まれた牛スジ肉はそれだけで食べ応え充分なのに、そこにお好み焼きという粉物の生地が加わることで、さらなる満足感が付与される。
 牛スジ肉は噛めば噛むほどギュギュッと旨味を醸し出すし、それの食感と生地の柔らかさ、その対比が面白く、口の中でしゃっきりポンと踊るようだ。

 そこにソースのしょっぱさ・香ばしさ、マヨネーズの酸味甘味がやってきて、これはもう味覚の大渋滞。幸福の暴力、幸福の拷問である。

 美人は三日で飽きるというが、美味は一生飽きない。
 この幸せさえあれば、美人などいらない――結婚式は既に口の中で完結している。

 そのような錯覚に陥ってしまう。


「「あ……」」


 気づけば、あっという間にお好み焼き二種をまっさらに平らげてしまった二人。


「よし、もんじゃを作りつつ、次のお好み焼きを頼むか」
「そうだなー……」


 待つのも一興……とは言うが、耐えきれず次の一手を速攻でしかける彼ら。





 プロデューサーが油を引き、もんじゃの具材を鉄板へ移す。
 もち明太子チーズもんじゃ――スライス餅・明太子・刻みチーズ・刻みネギ・天かす・紅生姜などを具材とするもんじゃ焼きである。

 鉄板へ移した具材、まだ固い餅は一旦横へ置き、先に他の具材をコテでカチャカチャと刻んでいく。
 ある程度細かく刻んだら、その具材でドーナツ状の土手を作る。もんじゃの具材が入っていた容器、そこに残った出汁を土手の真ん中空きスペースへ注ぐ。土手から溢れないように、適量を注いだら少し放置。

 その間に夏樹はお好み焼きの注文を済ませ、空いたグラスを両手に持ってドリンクバーへ。

 それを見送ったプロデューサーは、鉄板上で柔らかくなったスライス餅を何度か刻み、細かいブロックに分ける。
 そして土手と出汁をごちゃ混ぜにして、ここで餅も投入。全てを更に混ぜ、刻む、刻む、刻む……。
 原型が完全になくなったら、再び土手を形成し、残った少量の出汁を全て注ぐ。

 やがて一度目の放置より短い時間で、すぐに土手を崩して混ぜる。溶けたドロドロの物体をダメ押しとばかりに何度か刻んで、そしてこねくり回し、コテで鉄板上に広げる。

 コテにこびりついたドロドロ状の物体をこそぎ落とし、そうしてプロデューサーは息を吐いた。

 これでもんじゃ焼きの完成である。


「まあ、時間は限られているが、焦らずいこうぜ」
「ああ、小休止ってやつだな」


 言葉はいらない。それぞれがそれぞれの仕事をこなし、完成を待つ。
 ドロドロの物体はマグマのようにボコボコと泡を立てては破裂を繰り返す。


「よし、いただくか」


 あまりゆっくりし過ぎても焦げてしまうのがもんじゃである。


「お、いい感じに焦げてるね……。見れば分かる、これ絶対うまいやつだ」


 とは言っても、適度に焦げたもんじゃはこれもまた格別だ。というか、これがもんじゃ焼きの至高と言っても違いないだろう。


「んー、んまひ……!」


 明太子が溶けたそれはピンク色をして、一見するとまさしくマグマのようだが、それをもんじゃ用のコテですくうと、餅とチーズが入っていることもあり、ずーっと糸を引くように伸びる。

 鮮やかなピンクと黒い焦げ。そんな禍々しい物体を口へ運ぶ夏樹。

 熱々のそれは口の中に不思議な感触をもたらし、ねっとりとまとわりつくようなネバネバ感がやって来たかと思えば、サクサクとした香ばしい焦げの食感もやって来て、それが交互に繰り返された後にジワリと溶けて消えていく……。

 また、時折溶け残った餅がその存在をアピールするかのようにモチモチと主張し、そんな餅の甘味にチーズの滑らかさが加わって、クリーミーなシェークのように流れていく。

 メインとなる味は明太子であるが、その粒々した感じも残っていて舌触りがよい。
 明太子のしょっぱさ・辛さをチーズが和らげ、そこに餅が甘味を加えてクリーミーにさせる。更に焦げのサクサク感のアクセントと香ばしさもあって、美味しいだけではなく、楽しい料理だ。

 禍々しいビジュアルにある意味似つかわしい、悪魔的な美味さ。
 カオスを溶かしたような、快楽と堕落が均等に混ざり合ったかのような、禁断の美味である。







「よし、じゃんじゃんいこうぜ!」
「……ああ!」


 もんじゃ焼きといえば小さいコテでちびちび食べるイメージだが、癖になる味に二人の手は無意識に伸び、あっという間に完食。
 鉄板上にはもんじゃがあった燃えかすのみが残り、しかしそれもプロデューサーが油とコテを駆使して綺麗に掃除する。

 まっさらになった鉄板。


「夏樹チョイスに任せたが、これは何だっけ?」
「お好み焼きの『定番ミックス』と『豚辛チーズ』、それから『ネギ塩カルビもんじゃ』だな」
「よっしゃ、お好み焼きからいくか!」
「オッケー! アタシが混ぜるぜー」
「ぽんぽこ!」


 そして、鉄板上にお好み焼きの中身が二つ並べられ、第二回戦が始まった。

 鉄板をじっと見つめ、今か今かと焼き上がりを待つ二人は、まるで幼い少年少女のように何の穢れもない。

 繁盛する店の喧騒と、立ち上る煙。
 白くぼやけた世界は、まるで誰かの脳裏に浮かぶいつかの日々。

 そんな幻想に誘われ童心に返った二人は、今日を忘れただこの瞬間を謳歌する。







「あー食った食った!」
「満腹で寝るなよ、プロデューサーさん」
「大丈夫だ、任せとけ」


 宴は刹那的に。無慈悲にも告げられる終了の合図。
 夢は覚め、現実に舞い戻った二人。食べ放題のラストオーダー、デザートをもって締めくくり、店を出た。

 そうしてまた車は走る――彼らの帰る場所へ。

 高速道路。単調な景色がただぼんやりと過ぎ去っていく……。


「いやー、道とん堀行ったの久しぶりだな」
「アタシも」
「あそこ、一品一品は何気に高いからさ、休日の部活終わりに何人かで金出し合ってよく行ったわ」
「分かる。一人だとどうしてもかかっちゃうけど、複数で行くとちょうどいいんだよなぁー」
「懐かしいわぁ……」
「……そうだなー」


 色々あったが、まるでそんなことはなかったかのように、夏樹はハンドルを握るプロデューサーの横顔を見つめる。


「夏樹、眠いか?」
「いや、別に大丈夫だけど?」
「色々あったもんな。俺に構わず寝てもいいぞ?」
「まあ、眠くなったらそうさせてもらうよ」


 そういうふとした優しさって、ほんとズルい――夏樹はそう思ったが、早くなる鼓動を悟られないように冷静を装う。

 彼の言う通り、確かに眠気がジワジワと滲んでいた彼女であったが、プロデューサーの横顔と、そして柔らかな声に平静をかき乱され、眠気は飛び目は冴えてしまうのだった。


「なんか、不思議な感じだ」
「……?」


 車の走行音が響く、心地よい静寂の中。
 その時間の音色に合わせるように、夏樹はゆっくりと話し出す。






「夢の中にいるみたいだ……。色々あったけどほんとにサンキューな、プロデューサーさん」
「どういたしまして。まあ、俺はなんもしてないけどな」
「……今になって思い出したんだ。地元にいた時の思い出」
「……?」
「家族のこと、学校のこと、バンドのこと……。いいことばかりでもなかったけど、悪いことばかりでもない」
「……ああ」
「死んだ街だと思ってたよ――でも違う、死んでいたのはアタシの方だったのさ。アタシがどうなろうと、あそこは何も変わらない。変わったのはアタシの方。どんなことがあっても、あそこはアタシのホームだったんだ」
「ああ、そうだな……」


 前を向いたまま、夏樹はそう語る。
 過去を背負い、それと共に歩んで行く決意が彼女の瞳に浮かんでいた。


「プロデューサーさん、眠くないか?」
「……眠くなってきた」
「おい、マジかよ……!」
「冗談だよ」
「ったく、本気にするからやめてくれ――そうだ、ステレオかけるか!」


 何故か少し気恥ずかしくなって、夏樹はそれを誤魔化すようにカーナビの端末を操作する。


「ステレオに音楽とか入れてる?」
「おう。SDカード入れてるから、その中の曲でいいなら流すか?」
「そうだね、居眠り運転なんてされたらたまったもんじゃないしな」
「……そんじゃ、次のサービスエリアで一服するかー」
「ああ、そうだね……っと」


 慣れない手つきで端末を操作する夏樹。


「……夏樹、そこはラジオだぞ」
「あ、すまん」


 SDカードの音楽を再生しようとした折、間違ってラジオを流してしまう彼女。


「えーと……」


 四苦八苦して、遂にプロデューサーの手が伸びようとしていた。


「あ、ちょっと待ってくれ!」
「……?」


 その時、砂嵐のノイズが次第に晴れ、音声が入る。
 どこの局の放送かは不明であるが、慣れ親しんだ声が車内に響いた。


『……人気アイドルでもあり、話題沸騰中のガールズバンド、ヘヴンズドアのボーカルでもある多田李衣菜さんとお送りしている今回のおとラジですが、いやー、アイドルの裏話からバンドの裏話まで、貴重なお話をありがとうございますー』


 それは、夏樹にとってアイドル・バンド仲間である多田李衣菜が出演した録音放送であった。


『……それでは毎度お馴染み、ゲストがおすすめする曲を流しちゃうコーナーです! 李衣菜さんのおすすめ曲、楽しみですねぇー! それでは李衣菜さん、曲紹介をお願いします!』

『任せて下さい! はい、この曲は私の大切な人、バンド仲間が教えてくれた曲です!  歌詞はどこか切ない感じなんですけど、懐かしいような優しさもあって。そして最終的には前に歩く力をくれる、そんなハートフルでロックな曲です! 聴いて下さい、1106(いちいちぜろろく)!』






――拝啓 新しい生活に慣れてきたところでしょうか? 心配なことは沢山ありますが そっちに海はありますか?


「ったく、だりーの奴め」


 それは、誰かにとってとても大切な思い出の曲。
 音は記憶と直結する。流れた瞬間、夏樹の脳裏に様々な場面が投影され、鮮やかに駆け巡る。


「昔ながらのお菓子が好きで いつもの席縁側へ」


 気付くと、無意識のうちに彼女は歌っている。


「陽が差すタバコの煙さえも 鮮明に覚えている Ah」


 プロデューサーも連られて口ずさむ。


「子守唄はトントン船の音 沖に向かう 晴れの日も雨の日も曇りの日も」


 海岸線。祖父が運転するカブの荷台に乗る夏樹。大きな背中と大きな海……。
 いつしか彼女はギターを持ち、縁側で弾き語りの練習をしている。そんな夏樹の横でタバコをふかしながら、静かに晩酌をする祖父。


「声が聞きたくなって あなたの真似をして笑った」
「四時四十九分 ありふれた景色が変わった Ah」


 病魔に侵されながらも懸命に生きた祖父。そんな祖父がバイクをいじっている、その背中……。


「弱音一つ吐かず 海へと向かう 平気なふりに何度助けられただろう」
「遠く驚くほどに遠く 旅立つあなた遥か彼方 ねぇ 思うように歌えばいいと 思い通りにならない日を」


 そう教えてくれたね、あんたは――夏樹の頬を涙が伝う。


『……ありがとうございました! お送りしたのは、WANIMAで、1106でしたー!』


 思い出は巡り、彼女は涙を拭う。


(じーさん、あんたは永遠に生き続けるよ。誰かの歌と、誰かの思い出の中で)


 過ぎ去っていく景色の中、夏樹はゆっくりと目を閉じ、惜別の想いを噛み締めた……。





「夏樹……!」


 寮の前にセダンが止まる。
 日付が変わる前、プロデューサーと夏樹は都内へと帰還を果たした。

 ずっと待っていたのか、プロデューサーからの連絡を受け出迎える涼。そして仲間たち。


「その、プロデューサーさんから聞いたよ――心配かけてほんとにごめんな」


 夏樹はそう言って頭を下げる。


「アタシたちのことは気にすんな……。もう、大丈夫なのか?」
「ああ、全て解決した……! だからもう何の問題もないぜ」


 快活に笑う彼女を見て、仲間たちは安堵のため息を漏らした。


「なつきちぃー……!」


 安心して飛びつく李衣菜。


「だりー、ごめんな」
「……なつきち、なんか煙臭い?」
「あ……」
「アンタ、もしかしてアタシたちの心配をよそに、焼肉でも食ってたんじゃないだろうね……?」
「いや、それは違う! お好み焼きだ!」
「……」


 しまった――夏樹はそう思うが、時既に遅し。





「プロデュウウウウサアアアアア……!」


 怒髪天を衝く……。拓海は拳をパキパキと鳴らし、夏樹の背後にいるであろうプロデューサーへ怒りを向ける。


「ち、違うんだ! アタシが誘っただけだしプロデューサーさんに責任は――」
「あれ……。あいつどこ行ったァ!?」


 気付けばプロデューサーと彼のセダンが跡形もなく消えている。


「そういえば、『煙臭い』の辺りから忍び足で退散して行ったみたいだよ……?」


 と、美世。


「凄まじい逃げ足だったねー。やばたにえんのすし太郎って感じー?」


 と、里奈。


「ったく、アイツ後でぎったんぎたんのめためたにしてやる……!」


 拓海の怒りが静かに響き、やがて皆は笑い合う。
 しばし再会の余韻に浸り、その後そろそろと寮へ戻った……。


(東京にも、こんな夜空が広がっていたんだな)


 寮に入る前、夏樹は一人夜空を仰ぐ。

 今まではがむしゃらに前を向いて走ってきた。しかし、上を見ればいつもと変わらず夜空が広がって星が出ている。そんな変わらない景色に、彼女は誰かの顔を浮かべ、そして優しく微笑んだ。





「――今日はほんとにありがとな!」


 それは、ある夏のライブ会場。屋外のステージ。
 毎年開催されている真夏の野外ロックフェス。著名なフェスの一舞台に彼女たちヘヴンズドアはいた。


「あっという間に最後になっちゃったけど、最後までフェスを楽しんでくれ!」


 広大な特設会場を埋め尽くす人、人、人……。そんな会場に響き渡る夏樹の声。

 夕刻、オレンジ色の眩しい西日が会場に降り注ぐ。


「それじゃ最後の曲、いっていいか!?」


 その声に観客が呼応する。


「聞こえねーぞ!」


 本日一番の盛り上がりを前に、夏樹は観客を煽り立てて更にボルテージを上げさせる。


「よっしゃ、まだまだフェスは続くぜ! みんな、飛んで、暴れて、跳ねて、飲んで、燃え上がろうぜ! 李衣菜よろしく!」
「オッケー! いきましょーか! 新曲!」


 新曲、そのコールで会場は爆発的な歓喜に包まれた。


「みんな今日はありがとう! 最後は新曲でお別れです! 聴いて下さい、『Slip of the lip』!レッツゴー!」


 李衣菜の号令を受けかき鳴らされるギター。夏樹のソロギターに始まり、涼と美世のリズムギター、そして里奈のベースと拓海のドラムが続く。

 その音に応えるように、観客から叫びや手拍子が生まれ、ステージ前に暴徒のように押し寄せる。

 すし詰め状態。早くもモッシュピット、台風の目が形成されつつあった。

 そして、李衣菜の歌声が突き抜ける――





「Tonight I'm freezing inside Looking up at you floating afar Let's go back to the shore over there The sky painted in deep black(凍りついた夜 遠くに浮かぶ君を見上げる あの岸に戻ろう 漆黒に彩られた空)」

「At the end of today I become unbound burning empty feelings(今日の終わりに激しい空虚から解放されるんだ)」

「Don't be stuck on just one idea Take your mind off of the past(あれに囚われるな 過去なんて置いてゆけ)」


 揉みくちゃになる観客。彼女たちの音が観客の魂を呼び覚まし、会場は最大風速に包まれる。


「Don't you remember you've broken my heart We've come to the end so Let's go to the start(傷つけたことなんて忘れちまったんだろ? 何もかも終わるからまた始めよう)」


 彼女たちの想いが楽器に、歌声に宿り、それは音になって吹き荒れる。
 誰にも邪魔はさせない――そんな意志を強く感じる。


「Rain wipes off your dry tears Just try to find something I'm lost so far and I can't hold my breath Take it all away(乾いちまったお前の涙を雨が拭う 何かを見つけようともがいているだけ 今はまだ見失ってて身動きがとれない 奪い去ってくれ)」


 ステージ前はぐちゃぐちゃに入り乱れ、遂にラストを迎える。


「This is where I belong even if I can't find it So can I creep inside you? And take it to heart when I say(居場所がなくとも ここがアタシの居場所 お前の心に寄り添っていいか? 真剣に考えといてくれ)」


 バラバラに入り乱れた観客が再結集し、ラストサビの大合唱が始まった。


「This is where I belong even if I can't find it(居場所がなくとも ここがアタシの居場所)」


「This is where I belong even if I can't find it(居場所がなくとも ここはアタシの居場所)」


「This is where I belong even if I can't find it(居場所がなくとも これはアタシの居場所)」


「This is where I belong even if I can't find it(居場所がなくとも ここがアタシらの居場所)」






 声が、歓喜の声が怒号のように舞い上がり、そして盛大な拍手の波に変わった。


「今日はほんとにありがとう! ヘヴンズドアでしたぁ! 最後まで楽しんでね!」


 李衣菜の声を最後に、余韻の拍手がいつまでもいつまでも続く……。


「……っしゃあ!」


 舞台袖に引き上げるバンドメンバー。思い思いにハイタッチを交わす。
 夏樹の叫びは全て出し切ったことを表していた。

 皆一様にやりきった表情で待機場所へ戻っていく……。

 例え居場所がなくとも、この場所が、この瞬間が彼女たちの生きる場所であった。

 ステージから吹き抜ける熱波が、彼女たちの再スタートを力強く応援していた……。






 彼女たちのライブは大成功に終わり、また新たな日々が始まる。


「なあプロデューサー」


 事務所、いつものようにそこには夏樹の姿がある。


「どうした」
「今夜バンドメンバーと道とん堀に行くんだけど、どう?」
「今夜はぽんぽこれないな」
「なんだよ、ぽんぽこれないって。えー、ノリ悪いな」
「仕事です。たまには仲間と楽しんでこい」


 実家の問題も完全に片付いたらしく、彼女にとっての障壁はもう存在しない。


「そーいや、『よかったらまた実家にいらして下さい』だってさ。ほんとにありがとな、プロデューサーさん」
「ああ、実家から連絡あったよ――そうだな、また一段落したら伺ってみるかねー」
「ああ。アタシもたまには顔出さないとな」


 顔を出さないと――以前の夏樹はもういない。あの場所は彼女の帰りを歓迎してくれる唯一のホーム。


「……プロデューサーさん」
「……?」


 帰る場所があるから、道があるから、居場所があるから、夏樹はまた走り続ける。





「思い通りにならなくても、思い通りに歌ってやる――今はそう思えるよ。そしていつか言ってやるんだ、『クソッたれ』ってさ!」


 そう言って彼女は気持ちよく笑う。
 決して投げやりではない、夏樹らしい前向きな言葉。

 プロデューサーはそんな彼女を見て、ただ優しく微笑む。

 ロックと書いて、木村夏樹と読む――やがてその女はこの世界に金字塔を打ち立てるだろう。
 だから、願わくばその塔の礎に自分もなりたいと、プロデューサーはただそれだけを祈っていた。


 やがて届いた一通のメッセージ――そこに添付されたお好み焼きの画像。マヨネーズで描かれた「Rock」という文字が、大きなハートマークに囲まれていた。












以上です、ありがとうございました。今回も冗長で失礼しました!

徹夜で投下するとかロックすぎるだろ
面白かったぞ乙

>>48
ありがとうございます!

そろそろアホ・バカ・ギャグ系に戻そうかなとも思っていますが……。

ともかく、次があれば次回もよろしくお願いします!

大阪人だけどお好み焼きチェーンは
「ぼてぢゅう」と「千房」と「ゆかり」と「鶴橋風月」しか知らん
あとねぎ焼きの「やまもと」
(たこ焼きメインの店除く、「たこ八」とか
広島の徳川は名前だけ知ってる
道頓堀ってのは初めて聴いた

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