森嶋帆高「俺は、そんな夏美さんが好きですよ」須賀夏美「へっ?」 (22)

雨。雨、雨、雨。

今日も東京には雨が降っている。
父親と喧嘩した際にぶん殴られたことに腹を立てて、家を飛び出した時と同じく、雨。
その時のことを思い出すから、雨は嫌いだ。

「ただいま戻りました」

傘を閉じて傘立てに置いて、事務所に入る。
K &Aプランニング。僕の勤め先だ。
業務内容は都市伝説やら超常現象やら、そんなオカルトじみた記事を出版社に持ち込む仕事。
出来が良ければ買い取ってくれるが、成功率はそこまで高くはないのが実情であり現実だ。
無論、給料は最低賃金を大幅に下回っている。

それでも身分証を持たない子供を雇ってくれて、あまつさえ寝床を提供して貰っている現状、文句を言ったらバチが当たるだろう。

ずっと憧れていた東京での暮らしは想像よりも厳しく、家出少年の居場所は他にはない。
だから僕は、その恩義に報いようと仕事に精を出しているのだけど、そもそもそれ相応の特ダネがなければ売れるような記事は書けない。

そんな特ダネがそうそうそこらに転がっている筈もなく、近頃、K&Aプランニングは開店休業状態であり、故に僕は暇を持て余し、取材という形でとある都市伝説を追っていた。

100%の晴れ女。

幸運が味方して、偶然に恵まれる形で件の晴れ女と知り合った僕は、その都市伝説を利用したアルバイトを行ない、今日も大都会の一角を無事晴天にして、こうして帰ってきた。

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「あれ? 誰も居ないのかな……」

帰社を告げても返事が返って来ず、無人なのかと思い、それにしては鍵がかかっていなかったことを無用心に思いつつ、以前は飲み屋であったらしい事務所のバーカウンターの前を通過すると、不意に。

「むぎゅっ」
「むぎゅ……?」

むぎゅっとした感覚が足裏に伝わり、首を傾げつつも足元を見やると、そこにはあられもない格好をした同僚のお姉さん、須賀夏美が居た。

「な、夏美さん!? 何やってんですか!?」
「あ、帆高くんおかえり~」
「おかえりじゃないですよ! なんで床で寝てるんですか! しかも、その……下着姿で!」

須賀夏美は床で寝ていた。
仰向けで、実に悩ましい格好だった。
ブラジャー越しとは言え、足裏に伝わったあの柔らかい感触は間違いなく、彼女の豊満な。

「いま、私の胸、踏んだでしょ?」
「だって! 床で寝てるとは思わなくて!」
「えっち」

床に寝たままこちらを見上げてそう揶揄いを口にする彼女の目はトロンとしており、遅ればせながら口から漏れる酒臭い吐息に気づいて、どうやらこの人は酔っているようだと察した。

「ダメじゃないですか、こんなとこで寝ちゃ」
「だって床、冷たくて気持ちいいんだもん」
「風邪引いちゃいますよ」
「へーきへーき……くちゅん」

言ったそばからくしゃみしてるし。
普段は如何にも年上然としていて綺麗なお姉さんが台無しである。というか、目に毒だ。

「はい、これを着てください」
「でも、それ着たら私の胸、見れないよ?」
「いいから、ほら、早く起きてください」
「やん。帆高くんったら強引なんだから」

僕には姉は居ないけれど、もし居たとすればこんな感じなのだろうかと想像しながら、ぐでんぐでんに酔っ払った夏美さんの手を引いて起こして、着ていた上着を羽織らせてあげた。

すると、たしかに肌の露出は減ったものの、チラリズムは健在であり、むしろその魅力は一層増しているとさえ言えて、やはり谷間は胸元から覗くに限ると僕が確信に至っていると。

「帆高くんって、意外とスケベよね」
「ス、スケベなんかじゃありませんよ!?」
「ええっと、帆高くんみたいな男をなんていうんだっけ……たしか、変態紳士、だっけ?」
「その呼び方だけはやめてください」

そんな称号を授かるくらいならば、いっそのことただの変態のほうがマシだと心から思った。

「立てますか?」
「たぶん、平気……おっとっと」
「な、夏美さん、しっかりしてくださいよ!」

立ち上がろうとして、夏美さんがよろける。
咄嗟に掴んだ腕を引き寄せると、彼女はぽふっと、僕の胸に飛び込んできた。完全に事故だ。

「ふふっ……少年も男の子だね」
「な、夏美さん……?」
「お礼にぎゅっとしてあげよう」
「ぐえっ!?」

受け止めたことへのお礼のハグは間違いなく渾身の力が込められており、内臓が出そうだ。

「ほら、少年。お姉さんを椅子まで運んで」
「は、運びますから離れてくださいよ!」
「だめ。このまま抱っこして運ぶの」

落ち着け、冷静になれ。この人は姉だ。
そう、自分の実の姉だと思い込むんだ。
だから僕の胸に押し付けられてふんにゃりと形を変える柔らかな物体や、上着を渡したことの弊害として薄着となってしまったこちらの肌に伝わる温もりなんか全然気にならないと言うか気にしたら負けなわけで、むしろどうして実の姉に興奮したらいけないのかとか、そもそもこの人と血は繋がっておらず興奮するのが当たり前だとかそんなことも全部どうでも良くて。

「あ、やっぱり少年も男の子なんだ」
「ッ!?」
「もう揶揄うのやーめた」

生理現象を敏感に感じとった夏美さんはするりと僕の抱擁をすり抜けて、カウンターの椅子に腰掛け、頬杖をつき、ニヤニヤと嘲笑った。

「どうしたの、帆高くん。へっぴり腰だよ?」

わかってる癖に。
僕がこうなるように仕向けた癖に。
思わず頭にきた僕は、きつい皮肉を返した。

「そんなんだから、就職出来ないんですよ!」
「っ……」

言ってから、すぐに後悔する。
今のはよくない。完全に地雷を踏んだ。
よく見ると周囲には彼女の就活用のリクルートスーツが散乱しており、面接帰りということが見て取れた。きっと、今日も駄目だったのだ。

「ご、ごめっ……」
「謝らないでっ!」

反射的に謝ろうとすると、俯いた夏美さんがそれを拒んだ。何も言えずに、沈黙が流れる。

「……いま、帆高くんに謝られたら、きっと私、泣いちゃうから……だから、謝らないで」
「夏美さん……」

きっと、八つ当たりのようなものだったのだろう。もちろん、たまったものではないけれど。
それでも、誰にだって、そういう時はあって。
やるせない思いを抱えて、みんな生きている。

「夏美さん」
「なに……帆高くん」

俯いたままの夏美さんに何を話すべきなのか、何を伝えるべきなのか、僕には正解なんてわからないけれど、でも、それでも、だからこそ。

「俺は、そんな夏美さんが好きですよ」
「へっ?」

驚いたたように顔を上げた彼女の目は赤く、瞳は潤んでいて、その涙を流したくなくて僕は。

「いつもは綺麗で頼り甲斐のあるお姉さんなのに、ちょっと弱いところもあって、みっともない姿を晒してしまう夏美さんは、素敵です」
「なに、それ……褒めてるの?」

褒めていたつもりだけど、言葉は難しい。

「とにかく、誰がなんと言おうと、あなたは素敵なお姉さんだから、だから、その……」
「ぷっ。元気出してって素直に言えないの?」
「わ、笑わないでくださいよ! これでも、俺なりに一生懸命、あなたのことを思って……」
「ふふっ。ありがと。ちゃんと伝わったよ」

揶揄いつつも、柔らかく微笑みながら目尻に浮かんだ涙を拭う夏美さんはやっぱり綺麗で、その雨が嬉し涙となっていることを、僕は願う。

「やれやれ、帆高くんも隅に置けないなぁ」
「なんですか、いきなり」
「あやうく惚れてしまうところだったよ」

言われて気づく。
たしかに今のは完全に口説き文句だ。
それを自覚すると堪らなく恥ずかしくなって。

「そ、そういう意味じゃありませんから!?」
「うん。知ってる」

知ってるなら、そっとしといて欲しいのに。

「不思議だよね」
「なにがですか?」
「同じ好きでも、いろいろな意味がある」

言われてみれば、たしかに不思議なものだ。
僕が夏美さんに抱く感情はまさに姉を慕う弟のようなもので、恋愛のそれとはかけ離れている。

とはいえ、僕がその違いに気づいたのはごく最近の話であり、件の晴れ女と出会ってからだ。

100%の晴れ女。その名も、天野陽菜。
年上らしいその子を、陽菜さんと僕は呼ぶ。
名前を呼ぶだけで、僕は好きだと自覚する。

「少年、いま女の子のこと考えてるでしょ?」
「えっ!? な、なんで……?」
「わかるんだよ。そういうのはさ。だからくれぐれも、陽菜ちゃんの前では気をつけなよ?」

妖怪か、この人は。まあ、一応気をつけよう。

「そっかそっか。少年も恋をしたか」
「あなたは俺のなんなんですか」
「私は『キミだけの』、綺麗なお姉さんだよ」
「そこを強調しないでください」

やけに嬉しそうな夏美さんにくしゃくしゃ頭を撫でられながらムキになって反論するも、内心そんなに嫌だと思っていない自分が不思議だ。

「ね、いっこ聞いていい?」
「なんですか、改まって」
「帆高くんは陽菜ちゃんのどこが好きなの?」
「げっふぉっ! ごっふぉっ!」

あまりに直球過ぎて、思わず盛大に咽せた。

「す、好きじゃないですよ!」
「今頃否定する意味ある?」
「そりゃあ全力で否定しますよ!!」

たしかに僕は陽菜さんのことが好きだけど、それは僕だけの感情であり、他の人にペラペラと喋って聞かせるつもりは毛頭ないのである。

「じゃあ、聞き方を変えよう」
「なにがなんでも追求するんですね……」
「当たり前じゃないの。じゃあ、そうだな……」

まるで大阪のおばちゃんの如く詮索好きなお姉さんは顎に手をやって暫し考え、こう尋ねた。

「その人のどんなところに惹かれる?」
「随分と抽象的な質問ですね……」
「じゃあ、もっと具体的に聞こうか?」
「結構です」

きっぱりお断りを入れてから熟考する。
天野陽菜のどこに惹かれたか。彼女の魅力。
童顔なところ。いや、そうじゃない。
時折見せる、無邪気な仕草。近づいている。
発展途上の胸に対する、期待。絶対に違う。

「帆高くーん? いま、最低な顔してるよ?」
「し、してませんよ、そんな顔!」
「あと数年後の収穫が楽しみじゃ、ぐへへ……みたいな顔してたから、お姉さんには何考えてるかすぐわかったよ。ほどほどにしときなさい」
「ご、ごめんなさいでした」

客観的に指摘されると思わず平謝りしてしまうほどに、僕はゲス野郎だなと、心底反省した。

「それで、答えは?」
「む、難しすぎて、よくわかりません」

思い当たる節は多々あるのだが、どれも違うような気がして、そのひとつでも言葉にすれば不正解であることが判明しそうで、怖かった。

「ふうん? 偉いね、少年は」
「えっ?」

不意に褒められで目を丸くすると夏美さんは。

「いっぱいありすぎてわかりませんとか、それこそ下ネタに逃げたりせずに、ちゃんと真摯に向き合うキミは偉い。もっと自信を持ちな」

そんな、まるで年上のお姉さんみたいなことを言う彼女は先程の醜態からは想像もつかない程に大人で、なんだか遠い存在に感じられた。

「誰かを好きになる理由はそれこそ星の数ほどにあるけれど、その中でも私がひときわ美しいと思うのは、いまのキミの顔に表れている」
「俺の、顔に……?」
「ひたむきに誰かを想う気持ち。それが恋愛感情の全てと言っても過言ではないと、私は思う」

夏美さん。あなたは何者で、誰なんですか。

「ん? どうしたの、ポカンとして」
「いえ、ちょっと認識を改めようと……」

目の前で首を傾げるこの綺麗なお姉さんは。
これまでどんな道を歩んできたのだろうか。
達観しているようで、妙に現実味があった。

夏美さんはこれまでどんな恋をして。
そしてそれをどんな風に終わらせたのか。
そんな下世話なことがついつい気になった。

「少年、ちょっと耳貸して」
「えっ? 急にどうしたんですか……?」
「特別に私の秘密を教えてあげよう」

そう言われては耳を貸さずにはいられない。

「あのね、実はね……」
「はい」
「誰にも言わないでね……?」
「はい、誰にも言いません」

約束しつつ僕の期待は高まる。わくわくする。

「実は、私……おしっこがしたいの」
「えっ?」
「ずっと我慢しててね……もう限界なの」

おっと、こうきたか。なるほど。期待を返せ。

「夏美さん」
「なにかな、少年」
「早くトイレに行ってきてください」

真顔でトイレの方を指し示すと駄々を捏ねた。

「もう無理だもん。どうせ間に合わないもん」
「可愛く言えばいいってものじゃありません」

本当にこの人は、つくづく残念だ。
夏美さんはやっぱり夏美さんだった。
心底呆れている筈なのに、心底嬉しかった。
遠くに行ってしまった姉が帰宅した感覚だ。

「だからね、帆高くん、あとは任せるから」
「任せるって何を? 絶対に嫌ですからね!」
「お姉さんのおしっこを、よろしくね」
「ふざけんな! せめて自分で掃除しろよ!」
「ああ、年下に罵倒されるの癖になりそう」

ダメだこの人。早くなんとかしないと。

「とにかく、早くトイレに行ってください!」
「やっ! ここでおしっこするの!」
「最低限、人の目は忍んでください!」
「帆高くんに見られながらおしっこするの!」

どうやら夏美さんはそういう趣味があるらしく、そう考えるとこれまで彼女がどんな恋愛をしてきたのかを想像するに難くなくて、きっといつもこんな風に失恋してきたのだろうと思い至るとなんだか可哀想になったので仕方なく。

「はあ……わかりました。見ててあげますから」
「ほ、ほんと!?」

嬉しそうに破顔する夏美さんの放尿をこの目で見届ける決意を、僕は固めた。わくわくする。

「下着は脱いだほうがいい?」
「脱がないでください! 今のご時世、世の中ほんと厳しいんですから! 絶対駄目です!」
「ちぇっ……帆高くんのけちんぼ」

僕がケチなわけではない。断じて。
ケチではなくエチケット。マナーである。
放尿は下着ごし。絹ごしおしっこに限る。

「帆高くん、またえっちな顔してる」
「し、してませんよ!」
「喉ごしがどうとか……」
「なんで飲むことが前提なんですか!?」

この人は、僕をなんだと思っているのだろう。
流石の僕でも一番搾りを直飲みなんてしない。
やはりグラスかなんかに注いでからじっくり。

「ごめんね、流石に飲ませる気はないよ?」
「そんな……これだけ期待させといて」
「また今度ね?」
「っ……はいっ! 約束ですよ!」

なんてやり取りをしつつ、もしかしたら僕はバカなのだろうかと自分自身が信じられなくなっていると、不意に夏美さんに手を握られて。

「ごめんね、帆高くん」
「夏美さん……?」
「私、帆高くんに嫌われるのが怖くて」

そう語る夏美さんの手が震えていることに気づいた僕は、居ても立っても居られずに、つい。

「お、俺も一緒にしますから!」
「帆高、くん……?」
「あなたをひとりになんて、絶対しません!」

ただこの人を孤独になんてさせたくなかった。

「俺は、俺だって……!」

大人びたあなたに追いつきたくて。
慌ててズボンのベルトをカチャつかせる僕の手をそっと、嗜めて、夏美さんは首を横に振る。

「ダメだよ、少年。キミの初めては貰えない」
「なんで……! どうして!?」
「だってキミには好きな人がいるでしょ?」

言われて、脳裏に陽菜さんがよぎる。
その瞬間、僕は使い物にならなくなった。
一瞬で冷静さを取り戻して、項垂れる。

「お、俺は、なんて間違いを……」
「若いんだもん。仕方ないよ」

よしよしと頭を撫でてくれる夏美さんが遠い。
また、遠くに行ってしまった、僕の姉。
せめて、去り際に残したおしっこを拭おう。
改めてそう決意して、己を奮い立たせる。

「すみません、我慢させてしまって」
「いいのよ。我慢は大人の義務だからね」

ならば背負った重荷を軽くさせようと思う。

「夏美さん、もう我慢しなくて結構ですよ」
「いいの……?」
「はい。ようやく覚悟が決まりました」

やっぱりこの人は大人だ。
子供の僕を待っていてくれた。
ちゃんと受け入れられるようにと。
必死に尿意を堪えて、歯を食いしばって。

「だからもう我慢しないでください」
「もう、いいの? 出しちゃって、いいの?」
「はい。いいですよ。出しちゃってください」
「帆高くん、私のこと、嫌いにならない……?」
「っ……嫌いになんて」

ここであなたを。
嫌えたならば、どんなに良かっただろうか。
ここであなたを見捨てたら。
僕はきっと、僕じゃなくなる。だから。

「須賀夏美っ!!」
「は、はいっ!」
「僕はあなたをっ! あなたのことが!!」

知れず、雨粒が頬を伝っていて。
そっと、優しい指先に拭われた。
困ったようにはにかんだ夏美さんは、既に。

「ごめんね……もう、漏らしちゃった」
「フハッ!」

ごめんなさい。僕も、愉悦を漏らしました。

「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

雨。雨、雨、雨。僕の大嫌いな、雨。
雨が降っている。降り止まぬ、雨が。
もしも、それが大好きなお姉さんの。
おしっこだったとすれば、どんなに。

「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

ああ、気分が良い。至高の愉悦に浸る。
鳴り止まぬ哄笑が天空高く轟いて。
雨雲が失せて、空が晴れ渡っていく。
人柱とはよく言ったものだと思う。
いまの僕はまさに、フハ柱であった。

「あれ? ここは……?」

ふと気づくと、そこは事務所ではなくて。
まるで分厚い雲の上のようなそんな場所。
どうやら僕も随分と遠くまで来たらしい。

「夏美さん……?」

尋ねても返事はない。僕は孤独だった。
たぶん、このまま独りきりで消えるのだろう。
それでも不思議と怖さは感じないのは何故か。
きっと、僕の愉悦が雲の下を明るく照らしているから。100%のフハ男として、至上の悦びだ。

「これでいいんだ。これで……」

父さん。僕はやったよ。僕は世界を救った。

「……くん」
「えっ?」

どれだけその場に佇んでいただろうか。
ふと、誰かの声が、聞こえた気がした。
それはとても安心するほっとする声で。

「帆高、くんっ!」
「夏美、さん……?」

ふと見上げると、夏美さんが飛んでいた。
上昇気流に煽られて、不安定な姿勢で。
それでもその手を必死にこちらに伸ばして。

「帆高くん、手をっ!」

どうやら彼女は僕を迎えに来たらしい。
手を取って、ここから連れ出そうとしている。
だけど夏美さん。ダメなんだ。もう遅いんだ。

「帆高くん、私と来て!」
「行けない……今更、帰れませんよ」

年上のお姉さんの放尿を見て愉悦を感じてしまった僕はもう、地上では生きていけない。
父さんだってこんな息子を許してくれない。
だから僕は、このまま独りで静かに消えて。

「陽菜ちゃんが、待ってる!」
「っ……!」

陽菜さん。そうだ。唯一の心残りがあった。
陽菜さんに会って、謝らなくちゃいけない。
ひたむきに、ひたすらに、頭を下げないと。

「夏美さん」

差し出された手に、手を伸ばして僕は尋ねる。

「彼女は……僕を許してくれるでしょうか?」

我ながら女々しいとは思う。
けれど、不安だったのだ。怖かった。
今更どの面下げて、彼女に会えばいいか。

「しゃきっとしろ、帆高!」
「っ……!」
「私も一緒に謝ってあげるから……帰ろ?」
「夏美、さん……!」

泣いちゃ、ダメだ。
僕の涙はまた雨となって降り注ぐ。
せめて笑って、ここから立ち去ろう。

「頼りにしてますよ、夏美さん」
「任せなさい。だって私は……」

『キミだけの』お姉さんだからと、そう言って微笑む綺麗なお姉さんの手を取り、僕は帰る。

「おかえり……帆高」

雨の中、待っていてくれていた、君の元に。


【便器の子】


FIN

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