有栖川夏葉「ここぞで開け!」 (13)
彼女は片手に持ったグラスを、手首を軸にくるくる回す。
それに伴って、氷がからんからんと小気味の良い音を立てる様は、どこか楽器のようだった。
「なんて言うんだっけ。夏っちゃんのお付きの人。いつもスーツの」
「プロデューサーのこと?」
「そうそれ。たまにお迎えに来てるの見るけどさ」
「ええ」
「何て言うかこう、善人! って感じだよね」
言って、彼女はわざとらしく背筋をぴしりと伸ばし前髪を七対三の割合で分ける。
「ふふ。そんな髪型してたかしら」
「これはウチの善人イメージ」
「けれど、確かに善人で間違いないわね。それも、筋金入りの」
「夏っちゃんと上手くやってんだもんね」
「どういう意味かしら?」
「あはは。冗談だって」
「……でも、そうね。アナタが言わんとしていることもわかるの」
軽く呟いて、体を前方にやや傾ける。
ストローに軽く口をつければ、ほんのり甘いアイスコーヒーの味と香りが広がった。
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「きっと初対面の私って、とっつきにくいと思うのよ」
「んー。そうかなぁ。ウチは平気だったけど」
「アナタは誰に対しても物怖じしないじゃない」
「そうかも」
「で、ね。そんな私ともコミュニケーションを取るのを諦めないで、一つ一つ向き合ってくれたのだから、それって……すごいことなのよね」
私の話を聞いているのか、いないのか。
彼女は机上にある豆菓子の入った袋を雑に開けて、一つを取り出して宙へ放る。
ふんわりとした軌道を描いた豆菓子は重力に従って落下し、見事に彼女の口へと着地した。
「つまり、さ」
「?」
「夏っちゃんは、そんだけ尽くしたくなるくらい良い女ってことよ」
ばりぼりと豆菓子を噛み砕きながら言う彼女を、私は「お行儀、悪いわよ」と窘める。
「それに、そんな話だったかしら」
「そういう話だって。誰かに良くされる人っていうのは、誰かにとって良い人なんだよ」
普段はお道化ているようでいて、たまにこういうことを言うから侮れない。
事実として、大学生となってからしばらく経つが、彼女の哲学には何度か救われてきた。
「第一さぁ。プロデューサーって言うからには、プロデュースする人なわけでしょ? アイドル有栖川夏葉を」
「ええ」
「夏っちゃんの送り迎えなんて、本来の業務じゃあないんじゃないの」
指摘されて、はっとする。
何でもないことのように思っていたけれど、言われてみればそうだった。
「帰り、家まで送ってくれる……とかさぁ、寝坊しかけたときに朝ごはん買って迎えに来てくれるとかさぁ。そんなん仕事じゃないと思うよ。芸能事務所がどういう感じで勤怠管理してんのかは知んないけど」
彼女は手元のスティックシュガーを持ち、その先を私に向け一言一言を刺すように、言う。
全部そのとおりだ。
「……と、まぁ。柄にもなく真面目に喋ってみました。なんか悩んでるように見えたし」
本当に恥ずかしいのか、ちろりと舌を出して彼女は照れたように笑う。
私はただただ「……そうね」と返すばかりだった。
「ちなみに、どうして私が悩んでるってわかったの?」
「あれ、自覚ない?」
「?」
「夏っちゃんさぁ、結構顔に出るよ? 寂しいときしゅん、って顔するの」
「…………本当に?」
「マジだって。そんでさっき、しゅんってしてたから何か寂しいことでもあるのかな、って」
「敵わないわね」
「洞察力、高めです」
「じゃあ、聞いてもらえるかしら」
「解決してあげられるかはわかんないよ。全知全能じゃないからね」
「ええ。全知全能だったら第二外国語の単位、落としそうにならないもの」
「まーだ、それでイジる?」
「ふふ。冗談よ」
「冗談で古傷抉んないで」
彼女は過去に、履修していた第二外国語の期末考査の際に、辞書の持ち込みが許可されていることをすっかりと忘れ、筆記具のみで挑み、単位を勝ち取っている。
私はこのエピソードこそ彼女の能力の高さを物語っていると思うのだけれど、彼女としてはかなり肝を冷やした思い出であるようで、このように苦い顔をする。
「今日も持ってるよ。戒め」
言って彼女は鞄から、文庫本ほどのサイズではあるものの確かな厚みのある辞書を取り出す。
曰く、戒めのために卒業まで持ち歩くのだとか。
「それで、話が逸れたけどさ。なんなの、悩んでること」
「大したことじゃないのよ?」
「いーから」
「何から話せばいいのかしら……。ええ、と。さっき私のプロデューサーが送り迎えしてくれる、っていう話があったでしょう?」
「うん」
「プロデューサーはそんなふうなのに、私がオフやお仕事終わりで時間を使って会いに行くと、全然嬉しくなさそうなのよ」
「えー。それはないでしょ」
「それを思うと、どうにも……さっきアナタが言ったとおり寂しく思えてしまうのよね」
私が言い終わると、彼女は腕を組んで「んー」と唸る。
当事者ではない彼女にこんな話をするのもおかしなものだと自分で思うが、彼女なら何らかの答えを出してくれるのではないか、と少し期待もしてしまう。
「夏っちゃんのプロデューサーさんは迷惑そうな感じなの」
「迷惑……迷惑なのかしら。よくこう言うのよね」
「なんて?」
「自分の時間を大切にしてくれ、って」
「…………あー」
「何かわかったの?」
「んー、まぁ。なんとなく?」
「教えてもらえるかしら」
「いや、これは……うん。言葉の代わりに」
彼女は意味深な言葉を口にして、先程の辞書と筆箱を取り出す。そして、何やら辞書をぱらぱらとめくり、どこかへと蛍光ペンを引いた。
脈絡なくそんなことを始めるので、私はわけがわからずただ茫然とその様を眺めていると、彼女はポストイットをそのページへ挟み込んだのちに、ようやく辞書をぱたりと閉じた。
「これを進呈します」
「……戒め、ではなかったの?」
受け取った辞書はずしりとした重く、厚紙で作られているカバーには油性ペンによってでかでかと『ここぞで開け!』と書き込まれていた。
「……ここぞで開け」
「そう! ここぞで開け!」
「ここぞ、っていうのはどういうときになるの?」
「それはもう、夏っちゃんが寂しいなー、を一番感じた瞬間だよ」
何もかもが謎だらけだったけれど、彼女が突拍子もないことをし出すのは今日に始まったことではないので、大人しく受け取ることにした。
「ここぞで開いた後は、返してね。ウチの戒めだから」
「ここぞ、ってそんなにすぐ来るものなのかしら」
「来るよ。たぶんね。今日もお仕事でしょ? 夏っちゃん」
「ええ」
ちらりと時計を見やる。
今日は撮影のお仕事が入っていた。
もうそろそろ、スタジオへと向かってもいい頃合いだ。
「時間、そろそろでしょ。行っていいよ。ウチはもうちょいのんびりしてから帰るから」
その言葉に甘えるべく、伝票を手に立ち上がろうとしたところ、私の手よりも早く彼女の手が伝票を掠めた。
「ちょっと」
「今日はウチが奢ったげる。だから、また今度奢ってよ。これなら文句ないでしょ?」
「……」
「もちろん、夏っちゃんが友達との約束を無下にしちゃうような薄情な女なら話は別なんだけど」
「まさか」
このまま押し問答を続けても無駄だと悟った私は、諦めて胸を張る。
「私ほど、友達想いな人間もそうはいないわよ?」
〇
撮影のお仕事は想定していたよりも長引いて、夕食を食べるに適した時間からも、朝食を摂るのに適した時間よりも遠い、中途半端な暗闇へ私は放り出される。
遅くなる、とは聞かされていたけれど、ここまでとは。
鞄から携帯電話を取り出して、電源を入れる。
メッセージを送受信するアプリケーションである、チェインの通知がいくつか出ているのを認め、真っ先に開いた。
期待したとおり、ではないけれど、プロデューサーからのものもあった。
そこにはいつもと変わらないねぎらいの言葉と、いつもと違って一枚の写真が添付されていた。
「え」
驚きのあまり思わず、声が漏れてしまう。
なぜならその写真には、私の愛犬であるカトレアがプロデューサーの車に乗って、愉快そうにしている姿が写っていたからだ。
カトレアは寮のユニットメンバーが預かってくれるはずではなかったか。
そう思って、今度は私の所属するユニット、放課後クライマックスガールズのチェイングループを開く。
数時間前に、我らがリーダーである果穂から『夏葉さんのプロデューサーさんの車にぴょーんって乗って降りなくなっちゃいました!』と写真が送られていて、補足のように樹里が『果穂はちゃんとアタシと凛世とチョコで家まで送ってったから安心しろー』と書き込んでいる。
なんとも楽しそうな夕飯時の一幕を想像して、笑みがこぼれる。
できればその瞬間を共に楽しみたかったけれど、お仕事があったのだからこればかりは仕方がない。
送られてきていた二枚の写真を保存して、ぼうっと眺める。
すると、私はあることに気が付いた。
もしかしなくても、カトレアをプロデューサーに預かってもらってしまっている。
慌てて電話をプロデューサーへとかけようにも、時間が時間だ。
迷惑になりかねない。
しばらく逡巡したのちに、メッセージのみ残そうとぽちぽちとまずはカトレアを預かってもらってしまったことを謝り、次いでお礼を打ち込む。
その瞬間、私のメッセージの隣に『既読』の表示がついた。
まだ起きていたのか、と呆れが半分。
もう半分は嬉しかった。
何て返ってくるだろうか。
画面をじっと見つめて待っていると、なんだか焦れてくる。
起きていることがわかったのだから、電話をしてみてもいいだろうか。
少し迷ったあとで、意を決し電話を発信する。
しかし、電話は繋がることなく、相手が通話中である表示が出た。
これは、もしかして。
間髪入れずにもう一度発信すると、今度は正常にコール音が鳴り、すぐに彼が取った。
『同じタイミングで電話したっぽいね』
照れたような声で彼が開口一番、言う。
それを聞いて私も「みたいね」と笑った。
『お疲れ様。……にしても、押したなぁ』
「今は放クラ唯一の午後十時以降も働けるアイドルだもの。これくらいどうってことないわよ」
『頼もしい限りだよ』
「そんなことより、ごめんなさい。カトレアが迷惑かけてない?」
『迷惑も何も、ずっとお利口だよ。今はうちのソファで寝てる』
「もう。図々しいわね……」
『あはは。気にしなくていいよ』
「それに、アナタ明日はお休みなのに……」
『気にしなくていいよ。何なら、夕方くらいまでカトレアは預かるから』
「そこまでしてもらうわけにはいかないわ」
『まぁ、夏葉が起きたタイミングで電話してくれたらいいよ。そしたら、カトレア連れて、行くからさ。今日は学校からの撮影で、疲れただろうしゆっくり休んで』
私に有無を言わせぬ勢いでプロデューサーは告げて『それじゃあ』と電話を切ろうとする。
私は慌てて「待って」と遮るが、続ける言葉は何も考えていなかった。
『どうしたの』
「アナタ、明日はお休みなのよね」
『そうだけど』
「私も明日、オフなの」
『……知ってる』
「だから、明日はお昼過ぎにカトレアを送ってきてもらったら、そのまま私とショッピングでもどうかしら?」
このまま世話になりっぱなしでは、どうにも居心地が悪い。
だから、なんとかお返しができないかと考えた結果が、ショッピングで何かプレゼントすること、だった。
『夏葉』
しかし、期待に反して彼の声のトーンは一段落ちて、短く私の名前を呼ぶ。
『前にも言ったと思うけど、自分の時間を大事にしてほしい』
またか、と思った。
彼は自分の時間を私のために惜しみもなく使うくせに、私がそうしようとすると決まって彼は私を諫める。
しょんぼりとしてしまい、疲労もあってかため息がこぼれそうになるのを抑えるだけで精いっぱいだった。
そんなとき、ふと友人の言葉がフラッシュバックする。
――ここぞで開け!
プロデューサーに「少し待って」と言い、鞄を漁る。
そして私は、例の文庫本ほどのサイズの外国語の辞書を取り出した。
カバーを外しポストイットが挟まれているページを、ぱかりと開く。
そこには、ある単語に印がされていて、すぐ隣の例文とその和訳にマーカーが引いてあった。
その例文の和訳は至ってシンプルで「友達になる」とある。
なるほど、と思った。
「プロデューサー?」
『ん』
「私とアナタは、アイドルとプロデューサーよね?」
『ああ。そうだね』
「でも、私思うの」
『何を』
「私とアナタ、結構良い友達になれるんじゃないかしら」
『…………』
しばらくの間、沈黙が訪れて、そののちに彼は『そう来たか』と呟いた。
「これなら文句はないでしょう? アナタが友達の誘いを無下にするほど薄情な男だと言うならば話は別なのだけれど」
『まさか』
吹っ切れたのか、彼は軽やかに言い切る。
『俺ほど、友達想いの人間もそうはいない』
おわり
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