不幸病にかかった。余命半年、初めて好きな人ができた。 (89)

油蝉が、窓の外の大きな桜の木で鳴いている。医者がカルテと僕の顔を何度か往復させると、静かにその病名を伝えた。

「不幸病」

不幸であることだけではない。人生に無気力で、何も目的もなく、幸せというものを感じることができなかった。

「そう落ち込むことはありません。幸せに感じれないのは、心が病にかかっているからです」

僕は医者のその言葉を、ただ黙って聞いていた。

「……ですが、この病には今、真っ当な治療法が確立されていません。となると、やはり対処療法ということになります」

「長ったらしい話は結構です。僕の余命はあとどのくらいなのですか?」

「…………半年、持てばいいでしょう」

半年



馬鹿らしい、と思った。実に馬鹿らしい。
17年棒に振った人生が突然、あと半年しか生きられないと言われた瞬間に、悔いへと変わるのが分かった。そして、馬鹿らしい、と心の中で吐き捨てた。

「とりあえず、幸福増進剤の注射と、思考洗浄、あとは不適切なマスメディアとの接触を避けてください」

そう言われると、僕は診察室を後にした。


制服のまま、僕は診療所の席に座った。地面についた染みを眺めて、そして笑った。目から涙が出た。嬉し涙だった。おそらく周りから見れば、不幸の病を知らされて、さぞ絶望しているのだろう、と思われることだろう。現に、僕の横にいるひとりの老人が、静かにハンカチを差し出した。あえて無視をして、そのまま下を向いていた。

支払いを終えたら、まっすぐ、僕は学校へと向かった。到着するまでには、僕がこの病気にかかったことがすぐに知れ渡るだろう。

不幸病は、実に恐ろしい病気だ。
人の心が、うまく物事を整理できなくなって、そしてある日、それが突然自らへの攻撃へ変貌する。幸せを認識できなくなり、覆い隠せないほどの絶望感とともに、膨らむ。そして、必ず自殺をする。

致死率100%。治療法は存在しない。

それが、この病が鬱と違う理由だった。
心の病でありながら、100%死ぬ。
この病気が学会で公認されてすぐ、政府は幸福増進委員会なるものを設置した。

国民が幸せでいること。幸せと感じることを使命とし、監視をしていた。かれらは、社会不適合者の収容所送りと、不幸病患者の回復を仕事としている。回復、と言っても、半ば実験に近いような、拷問によく似た洗脳だった。

社会は、仮初めの幸せに染まった。
無論、犯罪者の取り締まりが強化されたことも大きい。しかし何より、不幸になった人間たちを「幸福」にして社会復帰させることで、全てはうまくいっているように見えていたのである。

誰もが幸せだと感じ、幸せであることを望む世界。理想郷が実現した、とまで言われるようになっていた。





僕は、そんな社会のことを、心の底から憎むようになっていた。

玄関で立ち止まり、時計を見た。12時を少し過ぎていた。インターフォン越しに、学校に到着したことを告げる。

「2-8 北見 誠治。今着きました」

扉がカチリ、と音を立ててゆっくりと開く。靴を脱ぎ、校舎の中へ入る。下駄箱の中は相変わらず汚い。他の人のところは綺麗だが、僕には、自分の靴箱だけが汚く見えた。不幸病の典型的な疾患の一つだ。上履きを履き、教室へと向かう。


クラスメイトたちは、似たような顔で、大げさに心配して見せていた。「大丈夫か?」「かわいそうに」「どうして北見くんが…」

教師が一つ声をかけると、クラスにまた静寂が戻る。化学の公式を覚えるごとに、皆妙に嬉しそうだった。先生の話も、窓の外から見える景色も。教室の隅に植えられた花瓶の花も。



どれも僕の視界を除けば、の話であるが。


それからの話は、割愛しよう。機会があればまた書こう。僕の日常は、たしかに「不幸病」という言葉によって全て説明がつくようになったが、それ以外に面白いことは何もなかった。ただ、病気になって、死が近づいてくる、実感のないカウントダウンだった。


一ヶ月も経つと、夏休み一週間前のソワソワとした空気が学校を覆っている。


楽しそうな風景をよそに、手元で回していた万年筆の先からほんの少しインクが飛んだ。隣の席のショートカットの女子の髪の毛にそれがついた。彼女は僕のことを睨みつけたが、すぐに笑顔でそれを拭き取った。「大丈夫だよ」

不気味だ、と思った。

だがそれは、僕の心の中の感情でしかない。病によって生み出された、意味のない乾燥した感情だ。

そしてそんな些細な出来事がいくつか続くと、僕は田舎町に行かねばならなくなるのだった。




書き溜まったら、また更新します。
寝落ちしてたら明日の朝にでも。

都市部から車で3時間ほどの場所だ。
大きな湖と、矢野山という、標高1000メートルくらいの山に囲まれた、村落。

そこが僕の生まれ故郷だった。

窓の外では、田畑で仕事をする村人たち、野鳥を追っている野良猫。虫かごと網を持って隊列を組んだ小学生たちが意気揚々と山へ向かっていく。そんな風景があった。

実家に着くと、祖父も祖母も、僕の病気のことをひどく心配していた。ただ、返す言葉もなく、聞きながら生返事を返すので精一杯だった。

冷蔵庫から麦茶取り出し、カップ一杯のそれを一口で飲み干すと、僕は黙って外へ出た。蒸し暑いのは分かりきっていたが、それ以上に病気だと言われるのが嫌だったからだ。

行くあてが無いわけでは無かった。
小学校時代の知り合いの家に挨拶に行くことだって考えた。だが、こんな暑い中、長い距離歩く気にはならない。最終的に、家から徒歩20分くらいの場所にある図書館で時間を潰すことにした。日はまだまだ高く、幸いにも、それだけの時間を潰せるだけの本がそこにあったからだ。

小さい時から、あまり外の世界に関心を持たない性格だった。それこそ、「不幸病」なんて言葉ができる前なら、あまり取りざたされないような、その辺にある石ころみたいな人間だった。なにかをしたり、されたりすることに関心がなかった。当然、そんな性格の人間にまともな友達なんてできるはずもなかった。

だから、本に熱中していた。
本を読んでいる間は、他の全てを受容する必要がないのが、何より嬉しかった。風景も人間も、その本の世界にだけ集中すればいいのだ。だから、僕にとってそれはとても楽なことだった。

今回の場合も、僕は図書館で適当に本を3、4冊選んで、読書スペースの机の上にそれを重ねた。文字を追いはじめると、次第に周囲から物が消えていくような感覚になった。一人だけの静寂。本をめくる乾いた音だけが、それが本の世界であると気づかせてくれる唯一のものだった。

どれくらい経っただろう。天窓から差していた日の光はすっかり沈んでいた。結局、2冊目の7割くらいのところで、僕は切り上げた。

本を元の場所に返す作業は、我ながらすっかり慣れていた。昔、ここの司書になりたいと思っていた時があるくらいだ。どの棚にどの本があるのか、大体の検討はついていた。

これを繰り返す日々。
それで十分だ、と思っていた。

最後の本をしまい終えて、立ち去ろうとした。すると、

「誠治……くん?」

不意に後ろから名前を呼ぶのが聞こえた。

誰の声だろう、と頭の中を巡らせるが心当たりがない。その声は女性らしかったのだが、僕が女性と話すということはほとんど無かったからだった。逆にいうと、話したことのある女子たちのどの声とも、その声は違って聞こえていたのである。

顔を見せたくなかったが、僕はとうとう諦めてそちらを振り返り、声の主を見た。

ワンピース姿の、本を抱えた一人の少女。首からフィルムカメラと思しきものをぶら下げている。

あぁ、と僕は思い出した。あんな古めかしいものを持っているのは彼女しかいない。

「……久しぶり、由美だよ。覚えてるかな?」

そうだ。秋野由美。中学時代のクラスメイト。

僕は箱の中のそれを全部土の中に捨て切った。こんなものが、美しいと感じていたのか。そう自分に問うと、ぼんやりとした暗闇から、声にならない返事が届くような気がした。僕はそれを丁寧に埋めた。カナブン、クワガタ、アゲハチョウ、それらはもう殆ど土と変わりなかった。だからそれを土にした。僕はそこに墓標を立てることなどもしなかった。この大きな木が、墓標であり、彼らの新しい身体なのだ。

森を出る木にはなれなかったので、そこで昼食をとることにした。自分で握ったおにぎりを頬張りながら、額を流れる汗を拭った。森をじっと眺めると、向こうの方に一匹のカラスが飛んでいくのがわかった。都会と違う、自然のカラス。口に咥えていたのは、どこかで拾ったのだろうビンのフタのようなものだった。

その姿を目で追っていると、ちょうどカラスが止まった木の殆ど真下で、双眼鏡を片手に一心に文字を綴る男がいるのを見つけた。バードウォッチングをするにしては、随分と軽装だったし、何より見ているのがカラスであると言うことが僕の興味を引いた。

おにぎりの残りを口の中に押し込むと、僕は立ち上がって彼のいる方へ向かった。一度道を外れると、森の中は倒れた枝や低木のおかげで歩きづらかった。

「カラスを見ているんですか?」

僕は、殆ど無意識の自然体でそう聞いた。男はびっくりしたかのように、僕のことを見て体を震わせた。2.3呼吸おいて、彼はようやく「ちょっとした研究です」と返答した。

「カラスなら、都会とかの方がよっぽどいますよ。巣を観察するのも、都会の中のちょっとした公園に行けばすぐに見つかります」
「まぁ、確かにそうなんだけど」

カラスがその枝で二、三度泣いたのを聞くと、ずっと遠くから、別の一羽の鳴き声が聞こえた。

「ここの方が、彼の言葉が、よく聞こえるだろう」


彼は何かを手元のメモ帳に書き込んだ。僕はその鉛筆が綴った言葉のことをはっきりと覚えている。

エサ ドコダ

エサ キタ アル テキ コナイ



「へぇ、カラスが喋ることが分かるんですか?」
「まぁね」男は僕の方を自慢げに見た。髭の濃い、中年くらいの男だった。鼻が大きく、その上にかけているメガネが小さすぎるくらいに思えてしまう。

「彼は孤独なんだ。あぁ見えて、実はかなりの変わり者でね。仲間と飯を食うよりも一人で秘密のコレクションを集めることぐらいしか、楽しみがないのさ」

例のカラスを見上げたとき、不意にそれが自分をじっと見つめていたような気がした。

「でも、エサの場所を聞いたりしてましたよね」
「これは本能的な会話だよ。彼はそんなこと求めちゃいない。現に、聞いたけど向こうに飛んでいかないだろう?」

カラスはじっと地上の僕らを眺めていた。警戒している、というより、ただ見つめている、の方が正しいかもしれない。

ふと、いつもの学校にいる僕のことが頭の中によぎる。ただ、座って、興味なく外を見つめて、何を考えようともしない。そんな自分の姿がうっすらと目に浮かんだ。

「意思のない生き物は、生き物と言えるんでしょうか?」

僕は自分の口から漏れ出た言葉を、とっさに塞ぐように手で覆った。いつもの癖だった。どうでもいいような、ありきたりなことを疑う。意思のない生き物。僕は生き物なのだろうか?

侮蔑と疑いの視線を受けたくなかった僕は、すみません、と言ってその場から立ち去ろうとした。しかし、数秒後に、その男は僕の肩をポンとたたいて

「……面白いことを言うね」

まったく、予想外のセリフだった。

「生きる意思っていうのは、僕らの最も自由な部分だ。どんな生き物にもある。回帰的な意味では、生きるために生きる、って感じだけど」

男は僕が思った疑問に素直に答えた。

「でも、それがないからと言って生きてないとは言わない。昔は、こういう思考を持った人間のことを「青春」なんて、カッコつけて呼んだもんだよ」
「青春……ですか」

僕はその言葉を、本の中でしか見たことがなかった。そういう本の中の青春というのは、決まって恋愛や、友情、努力とか勝利とか、そういうもので煌びやかに光っていた。そして、僕にとってはあまりに眩しすぎた。

だが、この男は今、僕にまったく違う「青春」を定義したのであった。

「不幸病なんてのが、今じゃ巷で言われてるけど、あの病気はきっと、そういう青春を知らない人間達が作ったものなんだよ。そういう心を知らない人間が、形ばかりの幸せのために作った、幸福の代償さ」

男はニヤリと僕の方を見て笑った。僕は、その男の笑顔を見て、自然と顔が笑っていたことに気がついた。?がつりかけたのである。僕は笑うことはエネルギーを浪費すると考えたことがあったが、この笑いにはそういうものを感じる暇がなかった。

「よかったら、ここにおいで。僕の研究室があるんだ」

男は、僕の服の胸ポケットの部分に一枚の名刺を差し込んだ。先ほどまでは林に同化していて気づかなかったのだが、そこに一台のオフロードバイクがあることにも気がついた。男はその座席下の収納部に持ってきた双眼鏡などの道具をしまった。水筒を取り出し、一口に飲み干す。

僕は名刺の文字に目を落とした。



思索研究所 「森の家」所長
高村 悠次郎(たかむら ゆうじろう)



「その名刺を、インターホンのカメラに見せてくれ。すぐに扉を開けさせるよ」

僕はその名刺に書かれた住所を見て驚いた。たしかここには、肝試しで来たことのある大きな洋館が建っていたはずだ。ここから歩いて2.30分、といった具合だろうか。

「あの……ここって……」
「聞きたいことは沢山あるだろうけど、とりあえずおいで。君みたいな人が他にも沢山いるから、そこで話そう」

僕はさらに驚いた。僕みたいな人が、他に沢山いるというのか? その言葉がますます興味を引いているのが分かった。

「それじゃぁ、またね。北見くん」
「えっ……ちょっと」

僕が止めるのよりも早く、オフロードバイクはフルスピードで山道を走り去っていった。背中がやがて見えなくなって、僕は自分がすっかり興奮していたことに気がついた。

とりあえず、涼しい場所に戻ってから考えよう。

僕は森の中を早足で帰った。
何故だかいつもより、足取りが軽く感じられた。

とりあえず、第1章? 的な部分は投稿し終えました。また書き溜まったら更新しますね。

下手な文章でお見苦しい点ばかりですみません。
それでも応援してくれる方がいて、とても励みになります。

話題性があるかどうかは別ですが、ここに掲載先のまとめサイト等のURLを貼っていただければ拡散して貰って構いません。

完結できるように頑張りますので、今後とも応援よろしくお願いします。

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