【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」 (361)




※注意事項※

・アイドルマスターミリオンライブのSS
・エロ無し
・名ありのモブが出ます
・pixivにあげたものと内容は同じです。
・バッドエンド




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1602231218






【潜移暗化】 せんい・あんか

環境や他人から影響を受けて、
いつの間にか自分の性質や考え方が変化していること。

「潜(ひそ)かに移(うつ)り 暗(あん)に化(か)す」




第0章 プロローグ あたしにはなんにもなかった





あたし、アイドルになるよ。



そう決めたのは14歳の頃だった。
765プロの社長に地元の北海道で直々にスカウトされて、
あたしはアイドルになることを決意した。






だからなのか、何をやっても最初から上手く出来る
なんてことはなくて失敗ばかりが積み重なる。

それで落ち込んでいる時に、
あたしのことを担当してくれている
プロデューサーはいつも決まって言う。


「まだまだこれからだ。頑張っていこう」

「今回は相手が悪かったな。
 でも大丈夫、ひなたはきっとみんなの目に止まる存在になるよ」


あたしはプロデューサーが困らないように、笑顔を作ってみせた。




たぶん、ぎこちない笑顔で言ってたんだと思う。

「次はあたしも頑張るよ」

レッスンを繰り返し、オーディションを受けては落ちて。
またレッスンをして、オーディションを受ける。

そして、落ちる。


所属する765プロのアイドルの仲間もみんな良い子ばかりだった。

誰も彼も優しくて、
あたしのお喋りのテンポは
みんなよりもゆっくりだったのだけど、
誰も嫌な顔しないで聴いてくれた。



奈緒さん、エミリーさんは
特にあたしにもよくしてくれていたと思う。


「なんでも言うてくれてええからな!
 困ったことがあったら言うてや。
 プロデューサーがなんやアホなこと言うてるんなら
 私に言えばええわ。どつき倒したるわ」

「次も一緒に練習しましょう。
 日々の積み重ねが大事だと思います」



その優しさがあたしの心にすーっと染みていって、
それで腐らせていったのかもしれない。

いや、優しさに、ただ甘えていただけなんだ。

こんなあたしにも
「東京に行って売れっ子アイドルになるんだ」
っていう野心があった。

燃えたぎるその情熱は
この優しい優しいぬるま湯に浸かることで
あっという間になくなっていった。

みんながいるから。
みんなと一緒ならきっと大丈夫。




「みんな東京に出てきた3人だからね」



そう、あたしも言っていた。
でも現実は違った。


奈緒さんにはダブルエースとい
う佐竹美奈子さんとのユニットがあった。

エミリーさんには白石紬さん、天空橋朋花さんとの
和風ロックなユニットがあった。




……あたしにはなんにもなかった。








第1章  あたしでごめんね





「うん……今回はたまたま、ね」


今日は朝から事務所に顔を出すとプロデューサーにすぐに呼ばれた。
プロデューサーの座る机に向かう。

プロデューサーはガサガサと机の上に
束になって置いてある書類の中から紙を一枚引っ張り出す。

あたしがプロデューサーの横に立つと同時に、その紙を渡した。




紙には「ミニステージ 群馬デパート」と書かれている。
何分繋いで欲しいとか、
この商品を紹介して欲しいとか書いてある。


「プロデューサー、これわざわざ取ってきてくれたんだね。ありがとう」

「いや……ああ、うん。そうだよ」

プロデューサーは目の前のパソコンから目を離さない。
文字を一生懸命に打っては消してを繰り返している。

立ち上がってるのはメールソフトだから、
誰かにメールを送っているんだろうか。

誰宛にメールを送っているのかは分からない。



「そっかぁ。それで、これは……あ、明日だべか」

いつのお仕事なんだい、
と聞こうとして紙に目を通して居た時に見つけてしまった。
開催日が明日かぁ。

「こりゃあ、偉いことだわ」

「ああ、いよいよヤキが回って出演者には
 高額を払うと言ってきたんだ。

 その代わり、デパートの中にポニーを
 連れ込んで乗馬体験もする、と。

 色々考えた結果、生きた動物との相性は響よりも
 ひなたの方がこっちは向いてるかなって思ったんだ。

 まあ響は今日、大阪の方のイベントから戻ってくるばかりだから。
 連日遠出ってのは避けたいって、響の担当とのやり取りであったし」



経験不足のあたしよりも
先輩アイドルの我那覇響さんが出ていった方が
イベントは確実に成功するだろうなぁと分かっていた。

特に準備期間があまりないお仕事は。

ガタガタとパソコンのキーボードを打つその指には
いくつも絆創膏が貼ってある。

なんの怪我だろう。
そういえば最近頑張って自炊をするとか
言っていたかもしれない。
慣れない包丁とかで怪我しているんだろうなぁ。



「それだけなんだけど、良く見ておいてくれ。
 明日朝一で出て会場入って打ち合わせだ」

プロデューサーはよくオーディションでダメだった時に言っていた。

「まあ、その……なんだ。
 あんな紙ペラ一枚で済まされる
 仕事の内容なんてロクなもんじゃないんだよ」


あたしの手には紙が一枚。


小さな文字でぎっしり内容が書き込まれている。
その上プロデューサーの手書きの文字で書き込みもある。

紙の脇には我那覇響、菊地真、伊吹翼、島原エレナ
と上から順番に書いてあり、
名前を消すように大きくバツが書かれていて、
最後に木下ひなたに丸が付けられてあった。



この”総当りで書き出されている”アイドルの名前は
全て同じ事務所のアイドル。
みんなとってもいい子でダンスが上手な子が多い。


この子たちにバツが付いてるのはなんでなんだろう。

あたしはもしかしたら、最後の候補の一人だったのかもしれない。

これは上からの候補の順番だったのかもしれない。

ううん。違うよ。

大丈夫。

やれば出来る。



メールを打ち終わったのか、
プロデューサーは立ち上がり、
紙一枚を見つめる私を見て言う。


「大丈夫。明日頑張ろうな」

そう言って、あたしの頭をポンポンと撫でる。
大きな手が温かい。

プロデューサーはそのまま、事務所を出ていってしまった。

たぶん片手にタバコを持っていたので、
屋上にタバコを吸いに行ったんだろう。





次の日。

眠そうな目で事務所に来たあたしを
プロデューサーはスーツを着て迎え出てくれた。

事務所は既に温かい。
何分、いや何時間前から事務所に来ていたのだろう。


「早いねぇ。おはようございます」

「準備がいいなら行くぞ。大丈夫か?」

「うん! 行こう」



あたしはプロデューサーの運転するワゴンに乗り込む。

助手席に座ると広い車内を振り返る。

誰かの忘れ物か、
置いたままにしているだけか分からないビニールの傘が
座席の足下にある。

芳香剤の放つ独特の異臭が苦手なあたしは
プロデューサーがシートベルトを締めるのに、
目を離した隙にこちらに風が来ないようエアコンの口をずらす。



エンジンがかかる頃にあたしはシートベルトを
締めてプロデューサーに「お願いします」と挨拶をする。

プロデューサーは「うん」とも聞き取れない
曖昧な返事だけして車は発進した。


しばらくするとプロデューサーも身体が起きてきたのか、
よく喋るようになってきた。
それに釣られてあたしもプロデューサーと喋っていく。



「今日行くところは群馬の中じゃまだ都会の方で……」

「そういえばこの前の、奈緒さんは面白かったねえ。
 プロデューサー見た? ああ、現場に居たんだっけ……
 面白かったなぁ~」

「今日行く会場って行ったことある?
 そうか。俺もないんだ実は……」

「小鳥さんや美咲さんにお土産を買う時間とかあるんだろうか」

「ちょっとタバコ休憩挟んでもいいか」

「あたし飲み物買ってくるよ。何がいい?」

「うわ、これほんとに道あってんのか?
 ナビの通り来たけど」

「あ、あれじゃないかな?」



2人きりのまるで小旅行のような時間は
ものの1時間ちょっとで終わってしまった。

車から降りるとぐーっと伸びる。
廻りには何もなくて、背の高い木ばかりが見える。

デパートは商業施設が1階から5階まである。
6階から8階、屋上は駐車場になっているが、
その7階に駐めた。

なので伸びたところで、
深呼吸したところで田舎の新鮮な空気は
さほど感じられずに居た。





プロデューサーとすぐに関係者入り口から受付を済ます。
入館証を首から下げて中を進む。

廊下を進んで会議室のようなところまで行ってから
打ち合わせをするのだろうな、と思っていた。


でも、現実はもっと非情だった。


「あー! きたきた! 765プロさん! ですよね! ね?」


廊下の向こうからパタパタと
早足でこちらに来たのは小太りのおじさんだった。


着ていたワイシャツは汗ばんでいる。
ぴっちり七三分けした髪は固められてテカテカしてるし、
作った笑顔がそのまま固まって顔を形成しているようだった。

プロデューサーの肩を押すように
廊下の壁の方に向かってヒソヒソ声で話し出す。

ただ、おじさんの声は大きいので
その輪に入れないあたしにもちゃんと聞こえていた。



「いや、いやね!
 申~~~し訳ございませんのだけども。
 急遽、ご当地アイドルちゃんが決まっちゃってね」

「はっ?」

「あのね、申し訳ないんだけども、
 今回の765さんはちょっとコレで」

コレと言いながら胸元に両人差し指でバツを作る。
プロデューサーも一瞬だけあたしの方を見る。



「いやちょっと待ってくださいよ」

「ごめんね! じゃあもうその子と
 打ち合わせ行かなくちゃだからさ! いやほんと!」


プロデューサーの脇を抜けるように
行こうとする小太りのおじさんを
プロデューサーはスッと立ち回って止める。

顔は焦りというよりほぼ怒りに近い。
どこか喉の奥に鉄砲の引き金を隠しながら、
語気を抑えるように話す。



「ちょ、ちょっと待ってくださいよ松田さん。
 朝イチの打ち合わせでって昨日約束したんですよ?
 そんな急に言われても……」


松田さんと呼ばれるおじさんは
プロデューサーの勢いに後ずさりしながら目をそらし、
そらした先に居たあたしとも一瞬目が逢った。


「いや、んーまあー。
 ね、そう言われても僕だって上から言われちゃってるんだよ。

 ご当地の子を使えば給付金が県からでるんだとかって来てて、
 店長も本部の人たちもすっかりその気で。

 いや参っちゃうよね。分かるよお宅の気持ちは。
 でも僕じゃどうにもできなくて」



「ひなたは今日のために、来ているんですよ。
 動物の扱いだって彼女は北海道の
 農家出身なので問題ないですし」


プロデューサーはあたしの背中を抱くように
引き寄せてから松田さんの前に突き出した。

あたしもなんとかプロデューサーの役に立たねば
という思いで一生懸命にプロデューサーの話に相槌をうつ。


「あの、あたし頑張ります!
 お手伝いでもいいんで、大丈夫ですよ!」


しかし、松田さんは目をあわしてはくれなかった。
それどころか、あたしのことを脇に避けて
またプロデューサーと壁に向かって
ヒソヒソ話をするように肩を組む。

でもやっぱり声は大きいから聞こえるんだ。


「やっぱり無理だよ。今度何か用意するから。
 頼むよ、ここは引いてくださいよ。
 ねっ。あのね、うちも最初は響ちゃんでって言ってたでしょ?
 すんなり響ちゃん来てればお手伝いはさせたかもしれないけど」

「代理でも構わないって言ったじゃないですか。
 それに”響には”そんなことさせられません。
 でもひなたなら手伝いだってやらしてくださいよ」



「いやぁ……。いやだめだめ。
 無理だよ。ごめん。ほんともう行かなくちゃ。また頼むよっ!
 ああ、車で来てるなら入館手続きしたところで
 精算無しに出来るから、松田から言われたって
 言ってやってもらって! それじゃ、ごめんね~」

「あっ……」


廊下をパタパタと早足で行ってしまった松田さん。

プロデューサーの追いかけようと伸ばした手は
だんだんと下に下がっていく。

だらんと下まで来て、そこで止まった。


あたしは何も声をかけることができなかった。

店内放送で
「松田さん松田さん、至急会議室まで」
と放送されると、廊下の突き当たり曲がった見えないところで
松田さんのさっきの調子で
「あ~もう、はいはい行きます行きます」
と騒ぎ立てるのが聞こえた。


プロデューサーはゆっくり振り返り、
あたしの方なんて見向きもしないで歩き出した。

すれ違い際にぼそっと「もう行こう」とだけ言うのが聞こえる。



プロデューサーの背中はとても小さくて、
さっき見えた顔は申し訳無さと怒りと後悔と恥が入り混じった
複雑な顔をしていた。

あたしはそのプロデューサーの感情を
どれも和らげてあげることはできなかった。

ただ、後ろを一緒にとぼとぼとついて行くだけだった。


そのままプロデューサーとあたしは車に乗り帰ることになった。

というか、あたしはプロデューサーについて行くだけで、
車に乗った段階で「ああ、本当に帰るんだ」ということを知った。



帰りの車は2人とも何も喋らなかった。

ラジオから流れるアナウンサーや
パーソナリティの高いテンション、
そして紹介されるよく分からないけどぐっすり眠れそうな布団。

それから窓からは快晴の空。
雲一つない青空を、
どうしてこんな重たい気持ちで走り抜けているのか。


誰もなにも喋らない。

行きの車内はあんなに楽しそうに話していたのに。
それが嘘のようだった。

本当に嘘なら良かったなぁ。



パーキングエリアには黙って入っていった。

ようやく一言だけプロデューサーは
「少し休憩しよう」
と言い鞄から財布とタバコを持って車から降りる。

あたしも一緒に織りてお手洗いを済ましておく。


車に戻るのはなんだか気まずくて、
でも戻らないとどこに行ったのかプロデューサーは心配するだろう。

ちょっとだけ、パーキングエリアにあるお土産コーナーを
何も買わずに一周してから車に戻る。

戻ろうとした時、飲みきったコーヒーの缶を
叩きつけるようにゴミ箱に捨てるプロデューサーの姿を見てしまった。

少し遠くにいたから咄嗟に近づく足が止まってしまった。



それからプロデューサーが
スマホをポケットから出したあたりで、近くに行く。


「プロデューサー……?」

「ん、ああ……」


たぶん、今LINE送ろうとしたんだって言おうとしただと思う。
けど近くにあたしが居たことでさっきの行動を見られたのかも
と勘づいたのか、それ以降は何も言わなかった。

プロデューサーとあたしは車に乗り込む。
扉を閉める音がさっきとそんなに変わらないはずなのに、
八つ当たりのように大きな音に聞こえる。



エンジンの音と揺れる車内。

やかましいラジオは布団の紹介をもうとっくに終えていた。
次のコーナーでは視聴者から貰ったお便りに
何か色々ケチを付けている。

チラリと景色を見るフリしてプロデューサーの顔を見る。
運転に集中している、フリをしているんだろうな。

今本当ならこの時間、何をしていたのだろう。

あたしはあの瞬間、何を言えば採用されたのだろう。

ぐるぐると考えては沈んでいく。



ナビが無機質に「東京都に入りました」と告げる。
時刻は11時だった。



「プロデューサー……あのね」

「……」

「あたしでごめんね……」

「……俺こそ、ごめん」






プロデューサーは、何に謝ったんだろう。

仕事が無くなったこと?
あたしなんかをこんな所に引っ張ってきたこと?
それとも、あたしを最後に選ぶための補欠扱いしていたこと?

隣に座っているのに2人の間がどんどん離れていく気がする。
それと比例するようにラジオの笑い声は増えていく。


もし、あたしじゃなくて、
響さんだったら帰らされていたのは、
急に出てきたご当地アイドルなのかな。

そこらのお手伝いならあたしにも出来る……のかな。
響さんにはさせられないような雑用もあたしならやらされるのかな。

そうかぁ……。

あたしは雑用をやらせたって
何やらせたって別に構わないのかな。

そっか……。



遠くに見える看板や山をただ見つめていた。
緑色が目に映る。

何も考えたくなかった。



ラジオから女性の声で

「もうやだぁ~! 何考えてるんですかねぇーもう」

という笑い声が聞こえる。


車はただ、すいている高速道路を走り抜けるだけだった。




第2章 遊びでやってんじゃねえんだよ






「今回は強敵揃いだから気を抜くなよ」



そう、プロデューサーはあたしに言った。

今更そう言われてもあたしは練習してきた実力を発揮するだけだよね……。

あたしは「分かった……!」と力強く答えることしか出来なかった。


たぶん緊張のせいもある。
オーディションの順番を待機する楽屋がいつも以上に暗く感じる。

今更、こんな何回と受けたようなオーディションで
緊張してどうするんだろうって自分でも思う。
でも、今日は違う。

あたしが北海道の田舎で見ていた
テレビにも出ていた大森さんが審査で来ている。

ようやくあたしもここまで来たんだ。



「ひなた? 緊張してるのか?」

「うん、だってあたしの憧れだった
 アイドルの一人があたしを審査するんだよ……。
 これはすごいことだよ」

「そうか……! 緊張していることを
 自分で理解しているのは良いことだし、
 この緊張感をベテランになってくると忘れてくるからなぁ。
 よく覚えておくといいよ」


プロデューサーは自分の言葉に酔っていた。
それからタバコを吸いにどこかへ消えた。

あたしは目の前の次の順番は
いつなのだろうと緊張するばかりで、
練習したことが頭からポロポロと抜け落ちるような感覚に襲われる。


今日、行われるのは全国区で放送される
新人アイドルオーディションの番組。

番組は半年に一回の
番組再編成時期に行われる特番として人気がある。

今回、特別に審査員でいる大森さんは
かつてこの番組から産まれ、
一躍大人気となったアイドルの一人だった。

だからこそ、
アイドルとして売れるための登竜門として、
この番組に賭けているアイドルは多い。

もちろんあたしだってそうだ。



いてもたってもいられなくなり
今日披露する予定の曲の振り付けを確認し直す。

振り付けはやればやるほど、
頭にも身体にも入っているのに、
目の前に広がる審査の冷たい目を想像すると肝が冷える。

待機の楽屋では同じように緊張している人と、
終わって結果待ちの人が居る。

結果待ちの人はある意味肩の荷が一つ降りたように
安心しているから直ぐに分かる。

もしくは、明らかな失敗をして、
どうせここに居ても無駄だ、
と帰り支度を青い顔で始める子もいる。


そんな中で。

「間違いなく、私で決まりね!」

そう楽屋中に聞こえる声で言っていたのは
2つのお下げが特徴的な青みがかった髪の女の子だった。

ひらひらの綺羅びやかな衣装がまた目立っていた。

その子の隣にいるメガネの、
高身長だけど背筋の曲がった女性マネージャーから
乱暴にタオルと水を奪い取っていた。

誰もがその自信過剰な態度に一瞥をくれるが、
その後はみんな自分のことに集中するように背を向けていた。

あたしも自分のことをやらないと、
と思った瞬間、その女の子と目があってしまった。

嫌そうな顔で舌打ちをされたのが聞こえる。
そうだよね、ジロジロ見られるのは誰だっていやだもんね。



「次、13番」

待機の楽屋を扉を半分だけ開けてスタッフが呼びに来る。
あたしの番だ。

プロデューサーはタバコ吸いに行ってて居ない。

一人でも行かなくちゃ……。


「はい、765プロの木下ひなたです」

「それじゃあこちらに」



スタッフが開けてくれている扉の方に早足で歩く。

途中で誰かの足がひゅっと出てきて、引っ掛けてくる。

あたしはそれに躓くも、ギリギリで踏みとどまり、
転ぶことはなんとかせずに、
そのままスタッフと部屋を出ることができた。

背後からはさっき聞いた舌打ちと同じ音が聞こえた。
でも、あたしは気が付かないフリをして廊下に出る。

寒い冷え切った廊下を歩き一つの部屋の前に来る。

部屋の前には「選考会場」と書かれた紙が
セロテープで付けられている。


あたしは大きくノックをして入っていく。


「失礼します!」


長テーブルに5人ほど座っている。
一番真ん中に大森さんが座っていた。

本物だ。
オーラが周りのスタッフと全然違う。


あたしが大きな声で入っても
雑談を続ける4人の審査員。

一番右の30代くらいの男性は
あたしに気が付いていたので、
あたしはその人に笑顔で挨拶をする。


部屋に入り真ん中まで歩いていくところで
ようやく大森さんは
「ほら次の子来てるから、ふふ」
と雑談を辞めて座り直す面々。

右から30代くらいの若い金髪の男性。
60代くらいの太った男性。
真ん中には大森さん。
50代くらいのメガネの男性。
そして一番左に40代くらいの坊主頭の男性が座っていた。



「765プロダクションの木下ひなたです。よろしくお願いします」


元気な挨拶と綺麗なお辞儀は予定通り。
用意した音源を渡す。

それから、音源データの入ったディスクを受け取った
金髪の男性が薄いノートパソコンをパタパタ触っていく。

あたしはその間、準備に入る。
広い会議室の真ん中に立つ。

靴紐を確認する。ほどけてない。
キツすぎもしない。


「あなた、出身は北海道なのね」

「へ?」


唐突に大森さんから話しかけられ、
あたしは素っ頓狂な声を出してしまう。


「はい! 北海道出身です」

「いつ頃出てきたの?」

「えっと、14歳の時です」

「へえ、今は……16歳。若いわねえ、見えないわ」



大森さんはあたしの資料を見ている。
胸元にかけてある老眼鏡をして、
資料とあたしを交互に見始めた。

眉間によるシワがあたしの緊張を加速させる。


「じゃあ……結構東京来てからは長いのよね。
 その、訛りは直さなかったの?」

「えっと、何度か直そうと思ったんだけども、
 中々直らなくて……お恥ずかしい話です」

「ううん、いいじゃない。方言女子、素敵よ」



大森さんは老眼鏡を外して真っ直ぐ鋭い目であたしに言う。
そうか……そうやって受け入れられていないのかと思っていたけど、
あたしはこのままで良かったんだ。



「準備出来ました。それじゃあ木下さん、お願いします」

「はい……! 曲はりんごのマーチです」







──1時間後。





あたしの前には面接の人たちがまた立っていた。


「合格よ、木下さん!
 このあとの本番もよろしくね!」

「ありがとうございます、大森さん」


目の前に立つ大森さんがあたしに言う。

期待しているわ。と言わんばかりに
あたしの肩をボンと強く叩いた。



出演準備を始める頃、
スマホにプロデューサーからのラインで「急用で先に戻る」とだけあった。

そっか。
あたしのことばかり構っていられないもんね。
大変だよプロデューサーは。
あたしは合格したことをプロデューサーに報告しようとする。


「どうしてなの……! なんで……!」


楽屋中に響き渡る声が聞こえる。

声の方を見ると、あたしに足をかけたあのお下げの女の子だった。


ぎゅっと衣装のスカートの裾を掴み、
猫背になった彼女のマネージャーさんに
丸めた台本か何かを叩きつけた。

マネージャーさんは「まあまあ」みたいになだめるようにして、
彼女の叩きつけた勢いでバラバラになった台本を拾い出した。

まるで中世の貴族と奴隷のようだ。
それから、彼女はそれでもまだ不満なようで、
何か聞いたことのない言葉で、
屈んだマネージャーさん頭上から怒鳴り散らしている。


「あんた何とかしてきなさいよ!」

「そう言われても、これはオーディションなんで……」

「そんなの関係ないわよ! あたしが一番でしょ!?
 こんな所にいる田舎臭い連中より!」


何も怒りをぶつけるものがなくなった彼女は
とうとう子供みたいに地団駄を踏み出した。

そして、最後には「うわああああん!」と大きな声で泣き出したのだ。


あたしはこういうの、
他の現場のオーディションでも見たことがなかった。

他のアイドルと言うと我関せずというか、
鬱陶しそうな視線をチラリと向けるだけだった。
そうだよね。

悔しいのは、ここに居るアイドルの女の子は
みんな悔しい思いをしているのに、
この子1人だけがこんなワガママを言って喚いて言い訳がない。

いや、多分みんな心の中では同じように泣いているんだと思う。
ましてや、ここで泣いていたって
「じゃあ貴方可哀想だからやっぱり合格!」
なんてことにはならない。

というか、そんなことあったら暴動が起きそう。


お下げ髪の女の子は、
帰ろうと腕を引こうとするマネージャーさんの手を叩き、
そのついでに殴る蹴る。

マネージャーさんのかけていたメガネがついに
カランと床に投げ出されたのを見て、
あたしはとうとう我慢が出来なくなる。


「あのね、マネージャーさん
 痛がってると思うからやめてあげな。ね?」

拾い上げたメガネを
マネージャーさんに渡しながらあたしは言った。

あたしはその女の子の視線の鋭さにぞっとした。
なんて冷たい目をしているんだろう。
怖い人だなぁ。



「なによ! 合格したって言われてたの聞いたんだから!
 あたしを笑いに来たの!? そうなんでしょ!
 ハッ! どうせあたしはおちこぼれよ……!」


おちこぼれ……。
その子は最後だけ少し俯きながらそう話していた。
いつの間にか周りにはあたしとこの子達だけになっていた。

おちこぼれだと自分を否定するこの子の、
さっきまでの自信はどこへ行ったのだろう。

今はただ、泣きわめく子供だった。
多分、本当の年齢も14歳くらいなのだろう。

世間知らずで何も知らない、
世界の中心に自分が居ると思いこんでいる時代だろうな。



「あのね、今日はたまたま落ちたんだよ。
あたしは貴方のパフォーマンスを見ていないんだけどね。
きっとすごく良かったと思うよ」


火に油を注ぐ。
言葉を言い終えた瞬間に「しまった!」と思うが、遅い。

お下げ髪のその子は更に顔を真っ赤に燃やしながらあたしに詰め寄った。


「あんたに何が分かるのよ!」




あたしは……この時、どんな顔をしていたのだろう。
同情とか、この子みたいな怒りを持っていたわけでもない。
何も……。

何も感じていなかった。
言葉が、耳を通り抜ける。

お下げ髪の女の子は何かを言っている。

意識を集中させる。
この子は今何を言ったのだろう。

「あんたにお願いがあるの……!」





──数時間後。





あたしは事務所に居た。

もう時刻は夕方の18時を回っていた。

ぼーっと、さっきまでの時のことを考えている。
カチコチと言う事務所にある掛け時計の音が響く。


誰も居ないはずの事務所だったのに、
いつの間にかプロデューサーと奈緒さんが帰ってきていた。

バタバタと階段を駆け上がる音、
勢いよく扉を開ける音が部屋の入り口の方で聞こえる。


「ひなた!? ひなた!? 大丈夫か??」

「ひなた!? どないしたんや!」

「へ?」

2人とも血相変えて、あたしの目をのぞき込んでくる。
大丈夫だよ、何もおかしな所なんて無いよ。

奈緒さんが青ざめた顔であたしに聞いてきた。


「こんなとこで何してんねん!!
 オーディション合格したんちゃうんか!!?」

「へ? ああ、うん……。断っちゃったんだ……」

「ひなた、俺が出ていったあと、何があったんだ?
 嫌なことされたのか??」


二人があたしの肩を掴む。
あたしは痛いからそれを振りほどいた。

あたしは数時間前のことを話した。


お下げ髪の女の子はあたしに言った。


「これであたしは最後なんだ。
 もうチャンスがここでしかなかった!
 あたしは……事務所との約束で今月いっぱいで
 オーディションに合格できないようじゃ、退所するしかないって。

 だからあたしはこのオーディションを最後の賭けにしていた!

 それなのに、よりにもよって最後の枠をあんたに奪われた!
 あたしのアイドルとしての活動はもうこれで終わりよ!
 笑いたければ笑うがいいわ!」


大粒の涙を流している。




あたしは何度も受けて落ちたオーディションだったと思う。
でも、別に今日が最後のチャンスという訳じゃない。

番組の収録はこのあとすぐに行われる。
あたしは気がつけば動き出していた。
大森さんの元へ。

まだ廊下で立ち話をしている大森さんを見つける。


「あ、あの……申し訳ないんだけども、今日はあたし帰ります」

「へ!?」

今度は大森さんが素っ頓狂な声を出すのだった。
あたしは頭を下げる。

「きゅ、急に体調不良で……
 ちょっとこのあと数時間の番組収録はちょっと難しいので
 ……ご、ごめんなさい」

そう言ってあたしは逃げるようにその場をあとにした。

正直あたしは自分が合格になるなんて思ってなかったし、
これがいつも通りでいいんだ。

廊下の角まで来て、隠れるように大森さんの背中を見る。


困ったようにその場をキョロキョロする大森さんは、
ついにその場で座り込んで動かなくなっている
お下げ髪のあの子に声をかけた。

よし、作戦成功! あの子は最後にアイドルを諦めることなく、
ここでもう一度チャンスを掴むことが出来た。

そしたらいつかあたしと同じ舞台で共演なんてこともあるかもしれない。
あの子は自信過剰でいるけれど、
きっとそれに見合った実力がある女の子なんだと思う。


大森さんを見たオーラ程ではなかったけれど、
あの子には確かにそのオーラが備わっているのを感じた。

こんなところで、才能のある女の子が夢を諦めるなんて勿体無い。
プロデューサーもそう言っていたことがあった。



「ひなたはまだまだこれからだから。
こんな所で立ち止まったり夢を諦めることなんて無いんだ」







──奈緒さんは目を見開いて椅子に座るあたしを見下ろしていた。
それはまるで何か信じられないものを見るような目だった。



「だから譲ってきたんか……」



事務所には3人しか居ないのに、凍ったような空気が流れる。

プロデューサーは近くにあった
別の社員のデスクの椅子を引っ張りだしそこに座った。


大きく、長いため息をつくと頭を抱えた。
2人の出す空気にあたしは戸惑っていた。

きっと春香さんだったらあの場面でも
同じことをしたと思うんだけど、
あれ……おかしいなぁ……。


「何してくれてんだよ……」

プロデューサーは言う。



奈緒さんは青かった顔をだんだんと赤く、
燃えるように真っ赤な顔をあたしに向けて言った。


「ひなた、ちょっと歯ぁ食いしばりや」


パァン! 


という空砲みたいな乾いた音が事務所に響くと同時に
あたしの頬にジワっと痛みが広がる。

あたしは何が起きたのか分からなかった。
痛む頬を抑え、目の前を振り切った奈緒さんの手を見て
ようやく引っ叩かれたのを理解した。





「何してんねん! そんなん譲る必要一個もあらへんねん!!
 遊びでやってんちゃうぞ!」

「で、でもね……。あのお下げのアイドルの子、
 これが最後のチャンスだって泣いてて……」


奈緒さんは更に眉間にシワを寄せる。
そして、スマホをポケットから取り出すとサササっと何か操作をしたあと、
画面をあたしに突き出して見せた。


「こいつやろそれ! このお下げの!」



奈緒さんが見せてくれたスマホの画面には、
あたしが譲ったアイドルがいた。


「そう、この子、この子だよ……」

「そいつなぁ……!! 常習犯や!!!」

「え……」


奈緒さんは涙を流していた。
怒りの感情が爆発したんだろうか、
涙を流しながらあたしに言った。



「私が受けた別のオーディションでもおったわ!
 ワンワン泣いて叫んで、近づいたやつに片っ端から
 突っかかって言いたい放題言って、
 合格者から席を譲り受けるんや……。

 私はそのやり口ずっと横目で見とったからよう知ってんねん。
 そいつ、譲り受けた途端に泣くのやめて
 マネージャーとヘラヘラ笑っとったわ!」

「そ、そんな……」

「チャンスがあると思ったのか、ひなた」


動揺するあたしに向かってプロデューサーが口を開く。


「……あたしにはまだチャンスがあるからって。
 今回は譲ってやってもいいってそう思ったのか?

 あるわけねえだろ!! そんな奴に!!
 さっきも奈緒が言ってくれたよな?

 遊びでやってんじゃねえんだぞ!

 スタッフになんて言って出てきたんだよ!?
 何も言ってねえのか!?」


「ううん、急な体調不良でって……」



「おい、いいか? どんな理由にしろ。
 体調不良ぐらいだったら多少待ってくれるんだよ。
 お待たせして申し訳ございませんで頭下げりゃ済むんだよ……。
 でもドタキャンして帰ってきちまったら話がちげえよ。

 スタッフにどう思われてると思ってんだ?
 木下ひなたはせっかく合格になった番組を
 蹴って帰った無礼な奴なんだよ!

 誰もお前のことを、夢を諦めそうになった少女を
 救った英雄になんて思わねえんだよ!!!

 もう今更電話したところで収録が始まってるんだ。
 取り返せねえよ今回のことは。
 そのアイドルに抗議したところですっとぼけるだけで
 俺たちに取り合うこともねえよ」


「で、でも……あ、あのね。
 もし春香さんなら同じように手を差し伸べたかなって思って」




「お前は春香じゃねえだろうが!


 わかるか? 春香は売れてるんだよ。
 この違いが分かるか?
 売れてないお前と、売れてる春香がやるのとじゃ
 全く状況も意味も変わってくるんだよ。

 天海春香っていうアイドルはなぁ、
 そういう自分の立ち位置を正確に把握して動くんだよ。
 だからあいつはセンターに立っているんだ!!」


「あかんわ。プロデューサー、私少し外の空気吸ってっくるわ。
 ひなた、……叩いてごめん」

奈緒さんはあたしのことを全く見ずに
事務所を出て行ってしまった。

悪意のあるバタンという事務所の扉の音がとても怖かった。



「局のスタッフたちだけじゃねえ。
 うちの連中にもこのことはいずれ知れ渡る。
 そうなればお前は急に番組をすっぽかした危険人物扱いだ。
 真相は俺たちが今聞いたが、もう確かめようもない。
 俺も……着いていれば良かった……。

 俺がついてさえいれば……」



何を間違えたんだろう。
でもあんな風に演技する女の子だったととても思えないんだけど。

ぐちゃぐちゃの感情が溢れ出てきた。

自業自得のあたしには声を出して泣くことなんて許されず、
あたしはただ、声を押し殺していた。

大粒の涙は、今更になって
取り返しの付かないことをしたことを自覚させる。


どうして、気がつかなかったのだろう。
どうして、あの時……。
どうして、プロデューサーは……。


「俺も……最後まで見届けなかったのが悪かったな……。
 ひなた、怒鳴ってごめん。俺か……。悪いのは。
 そうだよな。ごめんな、ひなた。
 俺が最後まで付いていればこんなことには……くそ……」


プロデューサーはあたしを見て、黙って立ち上がり、
自分の机に置いてあったタバコを引っ掴むと、
事務所を出て行った。






──数日後、21時頃の遅いご飯の時間だった。




テレビで放送されたあの番組では、
その子はとても元気で、いい笑顔で歌を披露していた。

そのパフォーマンスは
……言っちゃあ悪いけど、”普通”だった。

ダンスが甘いとか音がずれてるとか、
そりゃああれだけ泣き叫んでたら声もかすれてるとか。

そんな粗探しばかりするようになった自分が居て、
それを自覚した瞬間にテレビを別のチャンネルに切り替えた。



……何を食べても味がしなかった。

物を口に運び、噛み、飲み込む作業をするだけだった。

実家から送られてきたお米は
綺麗な艶を出して輝いているのに、
いつもと同じ炊き方をしているのに、味はしなかった。


味はしなかった。








第3章 おめえ、帰れ





「ひなた」

「ん? ああ、婆ちゃん」

「そろそろもうお昼だから」



「そっか。うん。今行くよ」

「今日はいい天気だねえ。
 こっからだったら函館の方まで見えるかもしんねえな」

「あはは……。そんなの無理だべさ」



一面に広がる緑の景色。

北海道の大地に広がる青空の下で、畑仕事に勤しむ私。
真っ赤な林檎の果実をケースに入れていくのを一旦辞める。


あたしは今、爺ちゃんと婆ちゃんの家に居候している。



婆ちゃんはとても優しくて、いつもニコニコしている。
でも、特に何か趣味がある理由ではないらしい。
昔はコーラスとかやっていたって聞いたことがあるけれど。
いつの間にか辞めてしまっていたらしい。

お母さんに聞いた所、

「段々と集まりが悪くなって、
空中分解したんでしょう。ほら、もう歳だから」

と冷たく言い放った。



爺ちゃんはいつも眉間にシワが寄っていて
険しい顔をしているけれど、怒っている訳じゃない。

爺ちゃんは婆ちゃんと逆に自由奔放にしている。

家事は女の仕事だ、
と言わんばかりに自分は農家の仕事ばかり。

そして、それ以外の少し空いた時間でやるのが趣味のカメラだった。
花や風景、それか自分の育てた果物を撮影する。



爺ちゃんに一度カメラを教えてもらったことがある。
それはあたしがアイドルをしているという話をした時だ。

何かを勘違いしたのか、撮る方だと思ったのか、
熱心に教えてきてくれた。

「いいか。このシャッター速度はこれくらいにしておけ。イソ感度はこれくらいだ」

そうやって熱心に教えてくれたけど、
結局あまり理解出来なかった。

でも、5、6台ある一眼レフのカメラは
どれも譲ってはくれなかった。
まあ、高いもんね。


あたしは家に一度戻る。

婆ちゃんの家は古い日本家屋だ。
開けるとガラガラと鳴る二重の引き戸の玄関。

木で出来た下駄箱に、その上には木彫りの熊が乗っている。
昔、小さい頃、これが怖くて泣いていたらしい。
今も怖い顔をしているクマだなぁと思うことはあるけれど。
さすがに泣くことはない。

木張りの、歩くとギシギシ言う廊下、
リビングに行くと、テーブルには作業着のまま、
椅子に座って麦茶を飲んでいる爺ちゃんがいる。

爺ちゃんの目線の先は、テレビに映る高校野球、
甲子園大会の中継だった。


爺ちゃんはこの夏の時期になると、
必ず甲子園を見ている。

カメラの次くらいに、たぶん好きだと思う。
だから一度詳しいのかと思って、この高校は強いの?
とか聞いたことがあるが、
「さあ? 分かんね」と言っていた。

その割には熱心に見ているのは一体なんだったのか、
それは今でも分からない。


そのことについて、プロデューサーとも話したことがあったなぁ。

確か、プロデューサーは

「若い子が一生懸命なところが見たいんだよ。
野球は知っているし、上手い下手が分かるから、
見てるだけなのに、あれが駄目これが駄目みたいに言わないか?」

と言っていた。

確かに爺ちゃんは
片方のチームがホームランを打つと
「ああ!」とか言っているが、
点差を埋めるヒットが出れば
同じように「ああ!」と言う。

どちらかを応援しているわけじゃないんだ。



婆ちゃんがそんな爺ちゃんを尻目に
ザルに入れた素麺を持ってくる。

私はそれを見て、器を食器棚から、
麺つゆを冷蔵庫から出して、
私と爺ちゃん婆ちゃんの前に配る。

婆ちゃんはお礼を言ったが、
爺ちゃんは「ん」だけ言った。

婆ちゃんと私の「いただきます」の声に反応して
遅れながらも「いただきます」を言いながら食べる爺ちゃん。


昼食には、扇風機がガーガー言いながら首を振る音。
テレビの騒音。弱い冷房。
これらの音が響く以外には会話は殆どなかった。



壁にかけていた時計が、
12時の合図を告げるのに、大げさな鐘の音を流す。

ちゅるちゅると素麺を食べていく。
美味しいなぁ。冷たくて、喉にすっと通っていく。


甲子園の中継に制服衣装を着た若いアイドルが映る。

甲子園の様子を視聴者に伝えようと、
詳しくもないだろう野球の用語を使いながら、喋っている。

爺ちゃんはそれを見ても何も言わない。
若い女の子を前に鼻の下を伸ばすことなんて無かった。

たぶん、婆ちゃんに白い目で見られるのが怖いんだろうなぁ。



爺ちゃんはテレビから全く目を逸らさずに言った。

「ひなたは、こういうのやらんのか」

爺ちゃんの言葉は
あたしに疑問を投げかけるというような感じではなかった。

その淡々とした詰問は、質問とは違って、
語尾に「?」がつくような優しい言い方をしていなかった。

まるで、なんで俺の孫がそこに居ないんだ? と。
居るのは当たり前だろう? と言わんばかりの言い方だった。


あたしが出遅れて、「う、うん」と言い切る前に
婆ちゃんがフォローに入る。


「ひなたは今、お休み中なんだよねえ?」

「うん……。そうなんだ。あはは」


婆ちゃんの言い方はとてもキツい言い方で、
「そんな余計なことを聞くな」と暗に言っている。

爺ちゃんはバツが悪そうに
あたしのことをチラっと見て「そうか」と言う。


……お休み中。
あたしは今、事務所に頼み込んで、
休業ということにしてもらっている。

別に何かがあった訳じゃない。
あたしには……。

あたしには、何も無かった。
ただ、それだけのことが分かっただけなんだ。



そのことに気がついた時、憧れだった自分のいる世界が。


「どうして自分がいるのだろう」

「どうして自分みたいな人間がここにいるのだろう」

「誰があたしを見ているのだろう」

「あたしは誰に、何を届けたいのだろう」

「あたしは……このあと、何を伝えられるようになるのだろう」

「あたしは、何を届けられる人になるのだろう」

「あたしは……誰なんだろう」


分からない。


毎晩、夢を見る。
それも同じ夢。

素敵な衣装を着て、ステージに立って、
マイクを持ってセンターに立つ。


そして、流れる曲は知らない曲。


誰もあたしのことを気にも止めない。
あたしだけが真ん中でただ、おろおろしている。
知らない曲を知っているフリして一生懸命に踊る。


そうして、大失敗を引き起こして、あたしは目が覚める。
思い切り転んで膝から先があらぬ方向に曲がったり。
誰かとぶつかってしまって怪我をさせたり。
突拍子もなく誰かがステージ上で爆発してしまうこともあった。
色々なパターンであたしはそのステージで失敗をする。


あたしは、プロデューサーに、少し休みをください。
という話をした時に言われた言葉を思い出す。


「……そうか」


スケジュールを書くための手帳は半月以上、白だった。


レッスンの日付は、月水金。
そんなことはもう決まっているので書かなくなってしまった。

だから、白いスケジュール帳で何も無いということは、
本当はないのだけど。
そのレッスン以外は何もなかった。


だから、あたしはプロデューサーに「もう休ませて欲しい」と言った。


プロデューサーは、机に向かったまま、
画面から目を逸らさない。
爺ちゃんと同じだ。



でも、爺ちゃんの方がまだましだった。
爺ちゃんは、なんというか。
まだ会話というか、意識のベクトルが
あたしに向いているのが感じられる。

でも、プロデューサーは……。

あたしはプロデューサーに言われたこの一言をずっと、
頭の中で再生していた。
本当は続きがあったんじゃないか。

本当は何か違うことを言おうとして、
飲み込んだ言葉なんじゃないのか。


「……そうか。どうしてなんだ」

「……そうか。残念だよ」

「……そうか。もしかして、妊娠でもしたのか」


違うなぁ。そうじゃない。

あたしはプロデューサーに何を言ってもらいたかったんだろう。
何を期待していたんだろう。


「携帯は繋がるように一応してるから」

「ああ」

「北海道の爺ちゃんと婆ちゃんの家に帰る……から」

「ああ」


それだけ話をすると、あたしはその場を去ろうとした。

そして、プロデューサーは
慌てたようにあたしを呼び止めて言った。


でも、この瞬間にあたしは
自分が何か引き止められる言葉を
言ってもらうことを期待していたのが分かる。

こんなに心の中に花が咲くような、
気分になったのはいつ頃だっただろうか。



「ひなた、今、プリンターで出した。
 紙、そういう書類だから書いて提出しておいてくれ」

「……はい」


あたしの中にぱぁっと咲いた花は、
一瞬でぐしゃっとしなびれて真っ黒になって、
枯れ、花弁をボロボロと落とした。


あたしは、サーッと書いて、
それをプロデューサーの机に置いておいた。

プロデューサーはその頃には、もう机には居なくて、
開けっ放しのカバンの中にはタバコが見当たらなかったので、
屋上にタバコを吸いに行ったんだろう。



あたしはそのまま、
誰に、何を言うでもなく、事務所を出ていった。

階段を降りて事務所を出ても。
電車に乗るときも。

誰もあたしには気が付かない。
マスクも帽子も必要ない。
あたしレベルの芸能人が変装だなんて。



それからあたしは、
両親を飛ばして、婆ちゃんと爺ちゃんに連絡した。

婆ちゃんはあたしの心境を深く理解している、
ということは、多分ないんだと思う。
難しいことは分からないんだと思う。


「ん、じゃあしばらくこっちに居てくれるんだね」


と言ってくれた。
あたしはアパートのワンルームの
ガスや水道を止めたり、
色んな手配を済ませてから北海道に戻ることにした。


東京を出る前日の夜。
あたしは、何もしないでベッドの上に居た。

自分をまるごと抱えるように膝を抱いて、
部屋の何もない虚空を見ている。

感情が湧いてこない。

薄暗い部屋に、何も音がしない。
かすかに聞こえる、外の車の音や、バイクの騒音。



そうやって、無の空間に
自分を落とし込んで一晩を過ごした。

気がつくと朝になっていた。
不思議と眠くはならなかった。





そして、北海道に来て、もう一ヶ月が経つ。





爺ちゃんは最初、とても喜んでくれた。

「東京はどうだ?」とか
「松平健には会ったか?」とか
そんなことをあたしに聞いてきた。

婆ちゃんがそんなあたしのことを
「しばらくはここに居るから」と説明すると、
「そうかそうか」と言った。

それは多分「いつまでも好きなように居たらいい」
という意味が込められた気がする言い方だった。



婆ちゃんは何も言わなかった。
最初に連絡をした時と同じように説明したので
分かったような分かっていないような感じだった。

でも、そんな爺ちゃんだったけれど。

一週間も経つ頃には
「ひなたはいつまで居るんだ?」
とか言うようになって、
あたしはそれに対して、ただ苦笑いをするだけだった。

それで、爺ちゃんは
シュンとした顔をするあたしを見て
「ああ、しまった」みたいな顔を一瞬するのだけど、
3日くらいしたら忘れてしまうのだった。

あたしに同じ質問をしてしまし、
それが婆ちゃんに見つかると咎められるのだった。
本当はあたしも分かっているんだ。



いつまでも、ここで甘えていてはいけない。
どこかで自立しなおさないといけない。




──そのまま、一ヶ月が経過していた。




素麺を食べ終わったあたしは、
流しに持っていき、自分の食べた分の食器を洗う。

後から爺ちゃんも持ってきて、
爺ちゃんは流しの横、あたしのちょうど少し隣に置く。

無言の圧力を感じる。
爺ちゃんは古い人だから、
家事は女の人がやるもんだって、
普通に思っている。

それと同じで「働かざる者食うべからず」
という気持ちもあるらしい。



だからあたしは爺ちゃんや婆ちゃんの
お仕事も手伝うことにしている。

近くの農家は爺ちゃん婆ちゃんと
同じ年齢の人たちが多く居て、
あたしが爺ちゃんたちと一緒に居ると
「いいねえ~」と羨む声をあげる。

その度にかぶっていた麦わら帽子を深く、
ぎゅっとかぶり直す。



こんな所でテレビに出ていたころがバレようもんなら、
あっという間に噂がそこら中に広がって、村から浮いてしまう。

なんだか今は、アイドルとかテレビとか
そういう世界とは無関係の所で、
無関係のあたしで居たかった。

自分が求めていたものなのに。
今はそれを切り離したくて仕方ない。



あたしはまたテーブルに座り、
野球を見始める爺ちゃんの横を通り抜けて、
自分の部屋として空けて貰った部屋に行く。

スマホを手に取るまで、あたしは何も考えなかった。
無意識に近い。

充電器に差しっぱなしだったスマホを手に取り、LINEを見る。
あたしが送ったメッセージはあるけど、
誰も返事などしてきていなかった。

あんまりあたしが発言しないグループの
画期的なやり取りは見える。

添付画像に、楽屋で撮影された自撮りが目に入る。
可愛いなぁ。


スマホで、自分を撮影してみる。
暗がりの部屋で撮った陰のある自分の写真は、
保存しないですぐ消した。

あたし、こんな顔だったっけ。


スマホで適当なネットニュースを見る。
くだらない、どうでもいいニュースの
リンク先の別のニュース、
そのリンク先にある別のニュース。

誰が誰と付き合っていた。
浮気現場発見。
問題発言に謝罪。

どうでもいいなぁ……。


どうでもいい、と思いながら、
色々見て回って、お昼の休みを全部使ってしまう。

爺ちゃんは13時まではお昼休憩としているし、
婆ちゃんもそうしているから、あたしもそうしている。

最後にチラッと見たニュースは
「ダブルエース、改名後はJus-2-Mintに決定!」だった。

スマホを鞄の近くに置く。

「そっか~変わったんだ」

そう口に出して言ってみる。

言ってみたら余計に浮き彫りになってしまった。
あたしが、どうでもいいと思っていることが。



その日の夜。

日が落ちる頃には片づけやら道具の手入れやらが終わる。
あたしはいつもと同じようそれを終えた後、家に戻る。

家で晩ご飯を食べる。
漬け物と、揚げ物。
それに白いお米。

キラキラ光る白いお米が、
爺ちゃんと婆ちゃんに比べると、
おかしなくらい山盛りになっている。

あたしはそれを見て、
心の中で「またか」と思ってしまった。


「婆ちゃん、あたしこんなにいらないよ」

「遠慮しないで食べればいいよ」

「そうじゃなくてね。
 こんなに多い量は食べられないよ。
 爺ちゃんと婆ちゃんと同じくらいでいいんだよ」


婆ちゃんは申しわけなさそうにする。
爺ちゃんはそれに対して何も言わない。


重たい空気の中で、テレビの音が聞こえる。
どこかで聞いたとこのある声だった。

「じゃあ多かったら残してもいいからね」

「うん……」

そう言われて、あたしはいつも食べてしまう。

この生活を続けていたら、本当に太ってしまうなぁ。
昼間に動いているとは言え……。

それに、やっぱりあたしは居候だし、
遠慮するなと言われても無理だ。



流石に一ヶ月も一緒に過ごしてきた祖父母との会話は、
ハッキリ言ってしまえば退屈なソレだった。

何度もした会話、何度も聞かれた質問。

あたしのことを本当に好きで居てくれているのは分かる。

これが老いであり、仕方のないことだということも理解している。
でも、今のあたしにはそれらを受け入れる度量はなかった。


いつもなら可愛らしいなぁ
とか思っていたはずなのに。
どうしちゃったんだろう。

ご飯のあと、
既に婆ちゃんが沸かしてあるお風呂に入る。
湯船は熱くもなくヌルい。

あんまり熱いお湯にしと、
婆ちゃんや爺ちゃんが逆上せてしまっても困る。

あたしはせめてシャワーだけでも熱いお湯に変えて、身体を洗う。



ここにあるシャンプーは
市販のものでリンスもあるけれど、
あたしの髪の毛はどんどん潤いを無くしていく。

頭から降り注ぐ熱いシャワーの雨の下で、
大きなため息が出てしまう。

違う。
良くないよ、こんなの。
でもどうしたら変われるか、
昔のようにキラキラした自分に戻れるのか分からない。

爺ちゃんや婆ちゃんにだって
このまま甘えている訳にもいかない。


あたしはシャワーの温度を
元に戻してからお風呂から上がる。

リビングの方では爺ちゃんが足の爪を切っていた。

その横を素通りして寝室に行こうとした時、
爺ちゃんが声をかけてきた。


「ひなた。ひなたはもうテレビには出ないのか?」


……。

またか。


「……ううん。今は少しばかり休憩してるんだ。
 だから、しばらくは出ないっていうだけだよ」

「ひなたの歌ってる所、また見てえなぁ……」


それが爺ちゃんが何のつもりで言った言葉なのか
あたしには分からなかった。

励ましているの? 

それとも失望しているの?

残念に思っているの?

ただ、自分の孫がテレビに出ているのが嬉しいだけなのに、
どうしてあたしはこんなことを思うようになってしまったのだろう。

自分で自分に嫌気がする。




「あたしも……本当は戻りたいんだけどね」

「なあ、ひなた」


パチ、パチ、と爪を切りながら、
爺ちゃんは言う。


「おめえ、帰れ」


それはハッキリとした口調だった。
命令だった。



「え」

と情けないことを漏らすあたしに
爺ちゃんはもう一度言う。

「東京に帰れ」

この時、
あたしの中にビリッと電気が走り、背筋が伸びる。

北海道の夜の虫の音が聞こえる中で、
あたしは小さく「……ハイ」と返事をした。



「まだ、やり残したことがあんだろ?
 俺には細かいことは分かんねえけど。
 もう一回見せてくれよ、テレビでさ」


あたしは、なんて自分がチョロいんだろうと思った。

なんでこんなに、
誰かが必要としてくれているのに
気が付かなかったのだろう。

こんな簡単な言葉で、
あたしは背中を押されている。
もう一度頑張ろうかなと思えている。

ただ、不安が無いと言えば嘘になる。
不安だらけで、どうしようもないくらいに押しつぶされそうだ。
でも、戦わなくちゃいけない。
自分はもう一度ステージに戻らないといけない。


あたしは、小さくなった爺ちゃんの背中に向かって、
不安を抱えたままの「うん」とも「うーん」とも捉えられる生返事を返す。

でも、気がつけば、あたしはもう東京に帰る気で居た。
東京に帰ったらやらなくちゃいけないことは山程ある。

まずはプロデューサーに連絡をしないと、
もう一度戻りたいと連絡をしないと。

もう一度やり直しをさせて欲しいと言わないと。

もう一度みんなの期待に答えないと。



失った信用や期待を取り戻すのは本当に難しい。

それは一ヶ月間、自分が暇つぶしに見ていた
立て続けに起こる芸能人の不祥事のニュースで思い知っている。

世間の目は易易と罪を背負った者を許しはしない。

それはあたしのことを見放した事務所のみんなもそうだ。
だからあたしは人一倍これから努力する必要がある。


そして、爺ちゃんは……
なんて不器用な人なんだろう。

”全部の足の爪が深爪になっていた”……。






第4章  私ね、今度、引退するんだ





何日も何日も続くレッスンに、
あたしは何一つ文句を言わなかった。

元々レッスンに文句を言うことはなかったけれど、
でも口に出さなくても不満が募っていくことがあった。

どうして、あたしばかり……。
そういう傲慢さがみんなには伝わっていたんだ。

あたしは爺ちゃん譲りの不器用で、
そんなこと言える義理じゃない。
だから自分の力でなんとか這い上がるしかない。


でも、復帰後のレッスンは本当に厳しかった。
肉体も精神も、悲鳴をあげていた。

自分からトレーナーに
厳しくお願いしますと申し出たせいもあるけれど。

週に6日のレッスン。
一日に午前午後で別のレッスンを入れることもあった。

午前中は個人のレッスン、トレーニング、
それから午後は若いアイドルや
勢いのある年下のアイドルたちに混じってのレッスンをする。

私よりも勢いのある子たちのやる気や体力は
本当に底なしで、あたしは付いていくのに必死だった。


初日はそれこそ

「誰この人?」
「ああ、なんか病んでて休業してた……」
「なんでこの人帰って来たの?」

という痛々しい視線が向けられていた。

実際に踊って見せてみても
その視線の痛さは変わらない。

むしろ強まるくらいだ。

「本当になんでこの人来たの?」

そういう会話も実際に聞こえてくるくらい
あたしの動きは何もかもがダメダメだった。


足がもつれるなんてことは常にあった。
隣の人にぶつかる。転ぶ。
その度に、刺さるような視線と、気まずい空気。
年下の女の子たちに気を使われる、息苦しさ。

歌を歌っても音程が外れる。
分からなくなる。
そんなことが多かった。



でも、絶対に挫けなかった。
挫ける、という感情を
今度はどこかへ忘れたかのように、
あたしは何もかものレッスンにがむしゃらに挑んだ。

それでもあたしは一人ぼっちだった。
ただ、目標のために前へ突き進んでいた。



目標っていうのは
もう一度テレビでライブをすること。

とにかく、まずは曲をもらえる程度のレベルになること。

そのためにはまずは、
信用、信頼をもう一度取り戻さないといけない。

爺ちゃんのために。



それを自分へ言い聞かせて、
レッスンに取り組む。

その思いを、アイドルをもう一度やり直すための言い訳にしていた。

そして、その言い訳を燃料にエンジンに火を付ける。
まだまだ燃え続ける、あたしのエンジン。
もう一度やり直すんだ。


そうやってレッスンを繰り返しながら、
あたしにもう一度チャンスが舞い降りる時をジッと待った。
そして、その時はやっと来た。





それは、あたしはもう19歳にもなる頃の冬だった。





週6で入れていたレッスンも3日まで減らして、
その合間にあたしはバイトも始めた。

基礎はもう勘も取り戻してきたし、
もっと他のことにも時間を割かないと、
ということを同じようにレッスンを受けている、
あたしよりも年下の大人びた女の子を見て学んだ。

自分で雑誌を買ってファッションの勉強もした。
色んなYouTubeの動画を漁ってメイクの勉強もした。

髪の毛も少し伸ばした。
髪の毛のセットの仕方も動画で勉強をした。



動画の中の人は、あたしなんかよりも
メイクのことが好きで、
一生懸命で、流行にも敏感だった。

あたしも負けないように、
自分に似合ったものを
幾つか手札として持っておくべきだと考えて
日夜、色々なメイクを試している。


昔、事務所で誰かにメイクをしてもらったことがある。
その時のあたしはなんだか別人のようで、
キラキラと輝いて見えた。

でも、今のあたしはそんな風に
同じようにメイクをしたとしても、
キラキラと輝いていなくて、
どこかくすんでいる。



雑誌の中には、
先に羽ばたいていった
同僚だったアイドルたちが載っている。

その雑誌に使われている写真は、
素直に「可愛い……」とため息が出るくらいのものだった。

どこの雑誌を見ても
あの頃一緒に頑張っていた誰かが居る。

テレビを見ても、
あの頃一緒に頑張っていたライバルたちが居る。



そして、その誰もが、
もうあたしの味方ではない。

この事務所にももう未練もないし、
どこか別の事務所に移って
やり直すという方が早いのかもしれない。


この頃になるとあたしが
段々と仕事を覚えていったバイト先の方が
なんだか求められている気がしてきて、楽しかった。

日々の癒やしにもなっていた。
そのバイト先は、ドッグカフェ。



小さい犬達が所狭しと暴れまわり、
それを操りながら接客をしている。

あたしは子犬たちにすごく懐かれてしまった。
特別何かをしたわけじゃないのに。

バイト先にはあたしと同じ年齢の女の子が一人いる。
彼女の名前は桃山エリカさん。

あたしとは似ても似つかないくらい可愛い女の子だ。
特徴的な優しくニコニコした顔がとても接客向きだと思っている。

ウェーブのかかった髪は
肩ぐらいまであるけれど、短く後ろで束ねている。



「おはよう桃山さん」

「あ、木下さんおはよう。
 あ、今日はチークいい感じだね」

「本当? 上手に出来たかな?」


桃山さんは「うんうん」と
自分のことのように嬉しそうに喜んでいる。

その姿を見てあたしも嬉しくなってくる。
彼女は、唯一の今のあたしの味方だ。



あたしと桃山さんは
桃山さんの方が少しだけ
このバイト先では先輩になる。

でも、同い年だということを知ると、
あたしにも気をつかないでいいと言ってくれた。

そこから桃山さんが人懐っこいおかげで
あたしはすぐに彼女と打ち解ける事ができた。



桃山さんにはバイトの休憩中も、
仕事の最中も色んな話をしたり、
色んな相談に乗ってもらったりした。

あたしも代わりに彼女の相談に一生懸命答えた。
それが良い方向に向かうこともあったし、
悪い方向に行くこともあった。

でも、それで喧嘩をする程、
桃山さんはあたしには
強く当たったりそういうことはしない。

最初のうちは、それはもしかしたら、
あたし自身に期待をしていないのかもしれない、
とそう考えたこともあった。



北海道を出て、
765プロという事務所に入ってきて、
初めて出来たアイドル以外のお友達が彼女だった。

人当たりの良い彼女は
お客さんからも人気だし、
犬達にも好かれていた。

彼女が歩けばその後ろを
歩いて付いてくる子が何匹も居る。



「すごいね、みんなにも人気だし、
 お客さんからの信頼もあるなんて。
 あたし何度言われたか分かんないよ。
 桃山さん今日はいないのって」

「そんなことないよ。
 木下さんもすごくお客さんから人気あるんだよ?」


そう言いながら桃山さんはニコニコしていた。
それでいて、謙虚なんだ。
あたしも見習わないと。



「そういえば、この前木下さんのこと
 すごく可愛くなったって、店長言ってたよ」

「ええ……本当に?」


可愛くなった、というのは、
自分が前まではあまり可愛くなかったのか、
なんて意地悪なことを考える前に、
あたしはそれを聞いて素直に喜ぶことにした。

だって、それは自分が可愛くなろうとか、
綺麗になろうとか、そういう思いでやっている
日々のあれやこれが認められているということだから。

この調子で頑張っていかなくちゃ。



「うん、それに、木下さん。
 方言も少なくなってきたよね」

「あ、ほんとに? そっちの方が嬉しいかなぁ」

「そうなの? どうして?」

「だって、いつまでも東京にいるのに、
 北海道の方言が抜けないのってなんだかちょっと……」



桃山さんはいつもこの話をすると
「方言女子って羨ましいと思うんだけど」と言う。

彼女は東京出身の女の子なので、
特に方言がないから羨ましいのだそうだ。

あたしはというと、
そういう「方言を喋る、田舎出身の女の子」である
というキャラクターに甘えていたんだと思う。

私みたいなテンポの遅い喋り方は
中々矯正することができないでいるけれど、
「方言女子」であり、「テンポの遅い喋り方をする女の子」
というカードで守りに入っていたところが、
どこかであったんだと思う。



以前、憧れていた大森さんという
今も活躍する方に直接
「方言女子は良い」
みたいに褒められことで
付け上がっていたんだろう。

同じように田舎の出身の女の子であっても、
バリバリ動けるような子はたくさんいるし、
あたしはそういうのを見てみぬフリをしてきたんだと反省した。



だからあたしは、
今まで持っていた「田舎のおばあちゃんっ娘」とか
「方言を喋る子」とか
「テンポの遅い喋り方をする女の子」というのを
卒業することに決めた。

いつまでも自分がそのポジションに
居座ったままやり過ごせる程、
この業界は甘くはないんだと思う。



そんな他愛の無い雑談をしていると、
奥からブラシを抱えた店長が出てくる。

30代も超えたあたりの店長は
おっとりとしたへの字に曲がった目と
垂れた眉が特徴の背が高い、
というかひょろ長い男性だ。


多分765プロに居たプロデューサーが
身長170センチあるって言ってたから、
たぶんそれよりも大きいんだと思う。

この店長は、今あたしが目指しているものとは
全くの正反対の位置にいる人だった。



いや、たぶん前のあたしに似て、
すごくおっとりとした人だったからこそ、
自分がこう見えているというのを
客観視させてくれた人だった。


「私の”おっとり”ってもしかして、
 いつの間にか人を傷つけたり、
 イライラさせたりしていて、癒せないのかも」

そう思いながら、
あたしは自分自身を見直すことが出来た。

そんな風に店長を見ているのがバレたら
嫌われてしまうかもしれない。

それは嫌だな。



そう、嫌われてしまうかもしれない、
という心配の仕方も増えてきた。
誰かに嫌われる怖さをどこかで知ったから。

でも、これはいつかプロデューサーが
言っていたけれど

「誰にでも好かれるなんてのは不可能だから。
 そういう自分を攻撃してくる何かから
 心を守る方法を身につける必要がある」

そう言っていた。



今なら分かる。
若いあたしはそれが分からなくて
人の悪意を考えてしまっていた。

それで、ずぶずぶと抜け出せない沼に沈んでいった。


「どうしたんだい? 怖い顔をしているよ」


店長はあたしの顔を覗き込む。
反射的に身体を引いてしまう。



「な、なんでもないべさ。あっ」

思わず、これも反射的に、
昔の言葉遣いが出てしまう。恥ずかしい。

顔が赤くなるのが分かる。

あたしは犬たちにブラッシングする店長の背中を
見ながら店の奥にあるバックヤードに入っていく。

そのあたしを追いかけるように、桃山さんが入ってくる。


「木下さん~。顔真っ赤」

「あ、もう」



桃山さんはいつものニコニコ笑顔ではなく、
ニヤッとした笑みを浮かべていた。

そんなんじゃないのに。
桃山さんがからかってくるのも別に嫌な気はしない。

桃山さんはそれだけ言うと、
バックヤードから去っていった。

何しに来たんだろうか……。

店内を覗くと、
同じように店長をからかっている桃山さんの姿があった。



ああ見えて色恋の話が好きなのかな。

本人に浮いた話はあまり無さそうに感じるけれど、
でもきっとモテるんだろうなぁ。

今度聞いてみようかな。

さっき、からかわれている時、
店長はどんな顔をしていたんだろう。



その時、一本の電話がかかってきた。
それは待ちに待った
プロデューサーからの電話だった。


「もしもし、ひなたか?」

「はい」

「今、大丈夫か?」


そう聞いてくるプロデューサーの方が、
まるで風邪でも引いてるかのような声だった。


あたしは「はい」と答える。



この店の店長にも桃山さんにも
あたしがどういう経緯のある人物なのかは話してある。

だからもしも、こういう仕事の電話が入ったら、
電話には出るからと伝えている。


プロデューサーは言う。


「次回のライブ、幕張でやるライブがあるんだけど、
 半年後の夏のライブだけど、出るか……?」

「はい、出させてください」





即答した。もう迷わない。

あたしは電話越しでも真剣な顔で答えた。

ふとバックヤードの扉の方を見ると、
団子のように頭を重ねて、
こちらを覗く店長と桃山さんが居た。

店内をほったらかして何をしているんだか……。
でも、2人にはぐっと親指を立ててみせる。

2人ともぱあっと笑顔になるのが分かる。


「そうか、分かった……。
 それじゃあ、来週の火曜18時に事務所来てくれ。
 打ち合わせしようと思う」

「はい」



ここからだ。
あたしが逆転していくのは。


電話を終え、
バックヤードから戻ると桃山さんが
早速あたしの方へニコニコの笑顔でやってくる。

顔にもう言いたいことが書いてある……。


「あたし、ライブ出るの決まったよ」

「やったね!」


桃山さんは手のひらを上に向けてあたしの前に出す。
あたしはその手のひらを
ぐっと溜めたあとに振りかぶり、パンっと叩いた。


「うん!」



音に何匹もの犬がこちらを振り向いてしまった。
あたしと桃山さんは「ふふふ」と笑った。

店長にはこの時のことを
閉店間際に「あれはだめだよ」と、
やんわり怒られた。

でも、店長はそのあとに
「おめでとう」と頭を優しく撫でてくれた。

その手が大きくて暖かい。



その日の閉店間際。

桃山さんも居る前で店長には、
あたしがこれから忙しくなって、
中々シフト入れないということを事前に伝えた。

当然のように店長はそれを承諾してくれた。


一匹のダックスフントが
あたしの膝の辺りであたしに飛びついている。
まるでお祝いしてくれてるみたいだ。

さっき、みんなをケージに入れたと思ったのに。
お祝いしに出てきたのかな。



翌週の火曜。18時。

あたしは約束通りの時間に事務所にやってきた。

北海道に逃げて、帰ってきてからは
何回か来ている事務所では、
前の仲間ともすれ違うことがある。

だけど、あたしからは決して話しかけたりなんてしなかった。

別に嫌な訳ではないし、
話しかけてくる子にはちゃんと対応する。

きっとあたしなんかに話しかけられても迷惑だろう。
反応に困っている顔は見たくない。

……という言い訳で
本当はあたしの方が気まずくて避けている。



名前も知らないいつの間にか入社した事務員の方が、
名前を覚えていてくれたみたいで、
あたしは応接室に案内される。

プロデューサーはまだ来ていないみたいだった。

応接室に案内され、
シンとした部屋の中に居ると、
隣か、もう一つ隣くらいの部屋から聞こえる
男女混じった談笑の声が聞こえる。

男性の声はプロデューサーではないみたいだ。
会話の内容までは聞こえないけど、
楽しそうな打ち合わせ風景だろうなあ、と思う。


さっきの事務員の方がお茶を運んできてくれる。

机に置く際にその人が
「少々お待ち下さいね」と優しい口調で言う。
目は笑っていなかったけれど。

あたしは堪らずにその人に
「プロデューサーは今日は……?」と聞く。

暗に「今どこにいますか?」と聞いたつもりだった。

でも、事務員さんは頭を下げるだけだった。

その頭の下げ方と申し訳無さそうにする顔は
「今呼んで来るから大人しくここで待っていて」
というのを暗に示していた。



あたしは大人しく待つことにしたが、
10分以上経ったあとにプロデューサーは
何も言わずに入ってきた。

「おう」とも「ああ、居たか」とも、
ましてや「遅れてごめん」なんてことも言わずに。

対面のソファに座ると、
ファイリングも何もしていないプリント用紙を
目の前に置き始めながら言う。



「これが言っていた幕張でのライブ概要だ。
 事務所の設立10周年記念のライブなんだ。
 新人の一人が、急遽映画の出演に決まってな。
 その撮影とかでレッスンの日程が取れないから、出演を断念したんだ」


プロデューサーはそう、
わざわざ言う必要のない情報をあえて言った。

たぶん、この人のことだから、
こういう背景を説明しないと気がすまない質なのだろう。
だから、あたしの気持ちとかは二の次になる。



まるで、あたしに「代わりだから」と言いたいようだ。

「まあ、そういうことで、新人の代わりなんだけどな」

言った。

少し年月が経ったせいで、
このプロデューサーも礼節というのが欠如したのだろうか。

この薄汚い芸能界に染まっていったのだろうか。
それとも毎日吸い続けているタバコが原因か。

部屋に入ってきた時にプンと臭ったタバコの匂いで、
タバコを吸ってて遅れたのか、と理由が分かった。
あたしはあえてそれを追求したりはしない。



今すぐにでも、
さっき事務員さんが淹れて持ってきてくれた
熱いお茶を顔にかけてもいいんだ、と思ったけれど。

そうだった。
もう10分くらい経ってるから、
とっくにお茶は冷めているんだ。
あたしはお茶をかけることを取りやめた。


「それで、二枚目が、全体のスケジュール。
 合わせ、合同レッスンの日付。リハまで。何か問題は?」

「いえ、無いです」

「じゃあ、セトリと音源。それからダンスの映像。データがこれで一式」



プロデューサーは机の脇に避けていたCDを三枚差し出す。

あたしはそれを受け取る。
三枚のCDの表面は白で何も書いていない。

これじゃあどれがどれのデータが入っているか分からない。

まあ、ここでどれがどれですか、
なんて聞いたところで、帰って自分で調べてくれ
と言われるのが関の山。

それじゃあまずは帰って
データの表面にどれがどれかを書くことから始めないと。



と、ここであたしは気になることを聞いてみた。


「あの、レッスンの日付……これ少なくないですか?」

「ああ、全員がそうなんだ。
 今回はレッスンの時間が取れる人が
 少ないこともあるからこうして各自にデータを渡しているんだ。
 他の人は、ドラマにテレビ、ラジオの仕事も立て込んでいるから」


……まるであたしには何もない、みたいな言い方だった。

でも、じゃああたしにはレッスンを入れてくれてもいいのに。
それくらいバイト先のみんなだって分かってくれる。



「それじゃあ分からないところはあとは、
 追ってメールでもLINEでもいいから聞いてくれ。
 一応そこに書いてあることで全部だから。

 それじゃあ。お疲れ。
 わざわざ来てくれて待たせたのに悪いな、これだけで」


さっと立ち上がるとそのまま出ていってしまった。
忙しそうなのは本当なようだ。

しかし、メールでもLINEでも聞いてくれなんて、
よくそんな嘘が平気でつけるものだ。

どうせ返信なんてくれない癖に。



あたしが書類をカバンに入れて
事務所を出ていく時もそのプロデューサーは、
パソコンの前で一人作業に集中しているようだった。

あたしとの打ち合わせは
タバコ休憩よりも大事なことではないようだ。

次のレッスンは1週間後、
そのあとは2週間も間が空く。

バイトもしないと家賃が払えないし、困ったなぁ。


翌日。

そんなことを思いながら
レッスンが始まる前に、
あたしは動画と音声のファイルに名前を付けた。

パソコンを扱うのもだいぶ慣れてきた。
まだまだ難しいソフトが入れられないし、
ウイルスとかも怖いから
なるべくオフラインのまま使っている作業用の道具になっている。

それから、自宅でまずは音声で歌よりもまず踊りに取りかかった。
動画の再生と停止を繰り返し押しながら、一つずつ覚えていく。
この作業は楽しい。
黙々と身体に覚えていってもらう。



パソコンをいじくり回す内に0.5倍速なるものを見つけ、
速度を変更することを覚えた。

これで何度も押していた再生停止ボタンは押さなくてよくなる。

ゆっくりの画面の動きとシンクロさせるように同じように動く。
10回20回繰り返し、等倍に戻し、また10回20回繰り返し踊る。

フローリングに汗の水溜まりの出来損ないみたいなのが出来ていた。
あたしはそれを踏んで滑って転びそうになる。

そして、ようやく自分が熱中して
やり過ぎていたことに気が付くのだった。



時計を見るとバイトに行く時間になっていた。

あたしはシャワーをばーっと浴びて、
汗を流すとタオルで乱暴に水気を拭いた。
タオルは洗濯機に放り込んだ。

あたしは、そのまま荷物を一気にまとめて、家を飛び出す。

冬の風が顔にも目にも染みる。
走るなかで、頭の中で曲を流す。

街の街道をステージに見立てて、走り抜ける。
街灯はあたしを照らすスポットライトなんだ。



駅まで猛ダッシュしたせいで、
電車内は今度は逆に暑くなっていた。

そのせいで少し汗をかいてしまった。
今から風邪なんて引かないようにしないと。

ドッグカフェに着くと、店長も桃山さんも
慌ただしく何かの準備していた。
なんだろう? お客さんのイベントかな?


「木下さん! 改めておめでとう~」



バックヤードでエプロンを付けているところに、
コンビニで買ったであろうチョコレートケーキを
桃山さんが運でくる。

ケーキの容器の蓋にはセロテープで
メッセージカードがくっついている。

店長の達筆な文字で
「アイドル木下ひなたの育った店!」と書かれている。

「アイドルの親友!桃山!」と店長の文字がデカいせいで
こっちは小さく書かれている。
この場所は、こんなにも温かいんだ。


「ちょっと、お化粧直してもいいですか」

「うん、ダイジョブ。今日はお客さんも居ないし」

  

来た時にバタバタしていたのは、
あたしのためだったんだ。
別にいいのに……。

でも、全然嫌な気はしないや。
嬉しいって、こういう感じだったなぁ。そういえば。

お店でレジ打ちをしている時に、奥から2人の声が聞こえてくる。




「大成功でしたね」

「うん。喜んでくれて良かったよ。
 それもこれも、エリカさんが提案してくれたおかげだね」

「え~、そんなことないですよ~」

チクリ。
あれ? なんだろう今の感情の動きは。
2人が仲良くしているから?
 いや、それはいつもの光景だよね。

でも、なんだか、いつもよりも二人が
イチャイチャというか……ベタベタしてる気がする。

あたしはなるべく考えないように、満面の笑みで接客対応をする。
足元に来る、一匹のチワワをこれでもかというくらいに撫で回し甘やかす。



「ああ、木下さん。今日も暇だねえ」

バックヤードから出てきた店長が
コロコロ転がすタイプの
粘着カーペットクリーナーを両手に持って出てくる。

それをあたしは一つ受け取りながら言う。

「店長がそれ言ったらマズいと思いますよ」

「ははは、そうだねえ。そうだ。レッスンとかで忙しくなりそう?」



あたしは「うーん」と言いながら、
毛だらけの店長の肩、背中をコロコロしだす。

店長の肩を掴んで回す。
店長はされるがままに正面を振り向き、
身体の前をコロコロされていく。

ひょろ長い店長は身体まで薄いから、
力強く押すとそのまま後ろによろけてしまう。


「なんだかレッスンの時間自体があまりないみたいで。
 だから逆に空いた時間はシフトは増やせそうです」

「へえ! そうなんだ。まあ、休憩中、
 裏で邪魔にならないように踊るとかなら全然いいから。
 僕もエリカちゃんもサポートするよ」

チクリ。
あ、そうか。「木下さん」と「エリカちゃん」なんだ。
このモヤモヤの正体はこれかぁ。


確かにあたしは、
なんとなく桃山さんのことを最初に
桃山さんと呼んでいたせいで、
仲良くなってきてからもそれが抜け出せないんだ。

でも、別にこんな名前の呼び方で
モヤモヤする必要なんて無いのに。
なんでだろう。


……。

いや、本当は気がついているんだ。
たぶん、あたしはこのひょろ長い
店長のことが好きなんだ。……たぶん。


惚れた腫れたの色恋沙汰なんて、
今まで経験したことなかったし、
ドラマで見ても、映画で見ても

「そっかぁ、素敵なお話だなぁ」

なんてことしか思わなかったのに。
いざ、自分に降りかかるとこんなにも辛いんだ。



しかも、きっとあたしの方には振り向いてもらえない
──たぶん、店長は桃山さんの方が好き──
ということが分かっているのに。


自分でも嫌になる。
告白し、玉砕するでもないのに、
諦めようとも出来ずにいる。

あたしはただ、この思いを抱えたまま
ずるずる引きずって歩こうという覚悟を、既にしている。



目の前から店長もお客さんも居なくなると、
小さく頭を振って雑念をかき消す。

どうして、好きになったのかなんて、
理由が特に思いつかないのがなんとも言えない。

でも、本当にいい人だからこそ、
嫌いになんてなりきることは出来ない。

まあ、人を好きになるって、
きっとそういうものなんだと思う。
というのは何となくだけど分かる。

いや、理由なんか要らないし、
理由なんて結局探しても無い、
って昔事務所で誰かが言っていたかも。



ああ、いけない。
また考えてしまう。

あたしはまた少し頭を振る。

でも、結局この日は、
あまり仕事に集中が出来ないままだった。

大きなミスをしたり、
そういうのは無かったから良かったけど。



モヤモヤを抱えたまま、
あたしは自主練とレッスンに挑むこととなった。


久しぶりに会う765プロシアターのメンバーもいれば、
あたしが知らないような女の子まで入り乱れる
大所帯のレッスンになっていた。

どれだけの女の子がステージに立つライブになるのだろう。



そして、あたしはどれだけ期待されていた
女の子の穴埋めをしなければいけないのだろうか。

いや、たぶんその穴埋めのポジションには、
今の有力な子がそのポジションに付くんだろう。

それで、連鎖的に繰り上げされていって、
あたしは結局隅っこになる。

そんなのは分かっている。



それでも、ステージに立つ、ということを、
このレッスンの休憩中に談笑している女の子たちの中の
誰よりも、大事に思っているのはあたしだと強く思う。

勿論、古くから知っているメンバー達は、
そういうまるで昔のあたしのような慢心を抱えている子は居ない。



あたしは、あえて顔なじみの女の子たちとは
あまり話さないようにしていた。

空気を察したのか、レッスンを重ねていくごとに、
話しかけれる回数は減っていく。

そして、当然あたしのことを知らない、
あたしも知らない子には無駄に話しかけたりはしない。

振り付けの中で
隣の女の子と向かい合って手を合わせて、
みたいな振りがある時は、ちゃんと話をする。

話、と言うか、確認作業と言うべきだろうか。
事務的な内容だった。



知っているメンバーには、横山奈緒も、エミリーも居た。


そして、ライブのセンターを飾るのは田中琴葉。
そのサイドには所恵美、島原エレナが両脇を固めている。


他にもレッスンに来ている、知っているメンバーはたくさん居る。
みんな、今度のライブに出る子たちだ。



テレビでも見かける子達が多い中で、
特に田中琴葉は連日のドラマに
出演していたりもするし、大忙しなはず。

現に初回のレッスンは不在だった。


それなのに、初めてレッスンに顔を出して、
全体で合わせた時、
まるで最初のレッスンから居たかのような仕上がりだった。

いや、そんな生易しいものじゃなかった。

まるで、完成形をすでに知っているかのようだった。



あたしはそれを端っこで見た時、
ただ、唇を噛むだけだった。

そして、
もし自分があの立場だったら出来ているだろうか、
という情けない妄想に蝕まれる。

まだ、
まだ足りないのだろうか。
遅れた分の負債もう支払い終わったと思っていた。

でも、まだ足りない。

足りないものはなんだ……。



あたしは、寝る時間を削って、自主練に励んだ。


だけど、そうじゃなかった。
そういうことじゃなかった。



ある時、
田中琴葉と二人になる時があったので
思い切って聞いてみることにした。

それは5月だというのに、
一足早い梅雨の湿気と湿度で蒸し暑い、
最悪の雨の日だった。


どうして、田中琴葉にあって、自分に無い。
そんな誰も答えを教えてくれない
あるなしクイズを強いられていた。
気が滅入る。



一人で強がっていても仕方ない。
情けなくても泥臭くても、頼れるものには頼って
自分の力になるものは何でも吸収しようと思っていた。

それに、面倒見のいい田中琴葉のことだから、
こういう質問をした時に、
無下にはできないことをあたしは知っている。

家から電車に乗って、
レッスンスタジオに向かう時に
降りたホームでばったりと出くわした時のこと。

一つ隣のドアから降りてきた田中琴葉とバッチリ目があった。


帽子を目深に被って、マスクもしているのに、
目があった時、にっこりと微笑みながら小さく手を降ってきた。

あたしもそれに応えるように小さく手を降った。

「今日もレッスン頑張ろうね」

「うん。ありがとう。ドラマ、面白いね」

「あー、見てくれてるんだ。ありがとう」

「うん、すごく面白いと思う」



演技の勉強も必要かと思って
たまたま見たドラマに、
途中からレギュラーとして追加されたのが田中琴葉だった。

内容的にはかなり強引な加入だったので、
テコ入れというか、事務所のゴリ押しというのが透けて見えた。

あたしは、田中琴葉の反応を見て、
なんだかまるで

「メインどころではない出演ドラマを褒めてくる嫌味な奴」

になっていないか心配になる。



駅の階段を二人並んで降りていく。
階段の照明は私の側だけ、
チカチカと消えかかっている。

「レッスン、あんまり来れないのに、ダンスも歌も完璧ですごいね」

「本当? ありがとう」

まるで、嫌味のような
あたしの薄っぺらい褒め言葉に
ニコリと笑う田中琴葉に、
何故か自分が傷ついている。

もう少し言い方はなかったのか。馬鹿者め。
妄想の自分が、自分の頭をポカリと殴る。



「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」


そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。

あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。

いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。



「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」


そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。

あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。

いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。



「あたしも、琴葉ちゃんの表現力にずっと惹かれてて……。
 センターに立っていて、本当に輝いて見えるんだよね。
 どういう気持ちで、踊ったり歌ったりしてるの?」


改札を出ると、外は雨が降っていた。

田中琴葉は「うーん」と言いながらピンクの折りたたみ傘を取り出す。
あたしは、 手に持っていたビニール傘を差す。

雨が降るのは、気圧とか湿度の感じで、
朝の段階には何となく分かっていた。



少し歩いたあと、田中琴葉は静かに言った。


「私ね、今度、引退するんだ」

「……」

あたしは何も返せなかった。

「そうなんだ」「どうして?」とも聞けずに、
次の田中琴葉の言葉を待つ。



「これはまだ秘密なんだけれど、
 実はプロポーズをされていて……。
 それを受けようと思うの」


田中琴葉は、
昔シアターで一緒に居た頃は、
18歳で、それでも大人びた真面目な学級委員みたいな子だった。

あたしが今は19歳だから、
この子も、今は23歳……。
早い気はするけれど、そういうものなのだろうか。

プロポーズをされている。
つまり、付き合っている彼が居て、その彼にされたんだ。
それで、結婚をするからアイドルを引退。



これが、あの真面目だった18歳の女の子が選んだ、
アイドルのゴールなんだろうか。

それとも、元から出会いのために始めたアイドルなのだろうか。
いや、それは彼女の性格を考えると無いか。

よっぽど、この人と結ばれたい、
と心惹かれる異性と出会って、
素敵な恋をしていたんだろう。


あたしは、この時、ザーザーと雨が降る中で、
雷に打たれたように合点がいく。

そうか。
やっと、分かった。



のうのうと今まで生きていたあたしと、
この田中琴葉は違う。

色んなものを吸収して、
取り入れて、たくさんの経験を積んできたんだ。

親友2人に恵まれて、
ドラマみたいな素敵な恋をして、
たくさんの感情を動かしてきたんだ。


この人とあたしは、
人生経験の厚みがまるで違う……。

恋か……。



夜景の素敵なレストランで食事はしたのだろうか。

深夜の高速道路をドライブしたのだろうか。

雨の日は一日中、家でDVDを見たりしたのだろうか。

どこでファーストキスを終えたのだろうか。

それはどんなシチュエーションだったのだろうか。



「ひなたちゃん?」

「……。……すごいね、おめでとう!」



あたしは気がついたら足が止まっていた。

振り向いた田中琴葉に、
呼びかけられて、
誤魔化すように絞り出した
お祝いの言葉を発する。

下衆の勘繰りが伝わってないことを願う。


風が吹いて、雨が顔にかかる。
まるで、あたしの枯れた涙が
空から飛んできたみたいだ。



この日、あたしは、
死んだ魚のような目で、
レッスンに打ち込んだ。



どうやったら追いつけるんだ、
こんな、アイドルの素質しかないバケモノに。

あたしがやっとの思いでスタート地点に戻ってこれたというのに。
それが今、ゴールを決めようとしている。

この、真面目すぎる委員長みたいなアイドルが選んだ、ゴールを。

そのゴールは、きっと正しくて、
きっと美しく、きっと素敵で、
誰もが羨む、最高のゴールラインなんだろうなぁ……。



そして、この日、
レッスンで上手く行かない箇所が積み重なり、
あたしは人生で初めて「ちくしょう」と声を荒げた。








第5章 誰か助けて





田中琴葉のパフォーマンスの秘訣を知ってから、数ヶ月が過ぎた。
悶々とする日々が続く。

幕張で開催されるという、
あたしが久しぶりに出演するライブまで、あと一週間。


今日は7月4日。
あたしの20回目の誕生日だ。



もう、すっかり夏になってしまった。
いくら田舎の出身だからって、エアコン無しじゃ
このコンクリートジャングルは生きていけない。

昼頃にバイト先のドッグカフェに入ると、
店長がレジのカウンターで、半目で船を漕いでいた。

店内には誰もお客さんは居なかった。
いいのだろうか、これで。
それにしても、寝顔、面白いな。



あたしは何も考えずに、
すーっとスマホに手を伸ばし、
店長の顔をアップで写真に収める。

思わず「ふふ」と声が出てしまう。
バックヤードから桃山さんが出てくる。

「あ、見てみて」

あたしは桃山さんを呼び止め、今撮った写真を見せる。

桃山さんはそれを見ると「ぷっ」と吹き出すが、
目の前にいる店長を起こさないように、口を抑える。

それから桃山さんも同じようにスマホを構えて、写真を撮った。

あたしは桃山さんの横を抜け、
バックヤードでエプロンを付けようと支度をする。



あ、そうだ。

あと一週間でライブだけど、
二人は来れるようになったのかな。

あたしは、一応二人に予定は聞いていた。

ただ……あたしは誰かを招待する、
とか招待席が用意できるようなアイドルじゃないので、
二人には自力でチケットを取ってもらうように頭を下げた。


二人はあたしの事情は知っているので
「まあ、仕方ないよね」と納得して、

「取れるように頑張ってWEB先行申し込み頑張るよ!」

と言っていた。


「桃山さん、ライブの予定だけど」

「えっ!? 何!?」

あたしが、バックヤードから顔を出すと、バッと直立する桃山さん。
桃山さんは店長の顔を覗き込むようにしていたけど。




今、何をしていたの……?



「あ、ライブ一週間後なんだけど、……どうだった?」

「あー、あー、うん。
 えっと、あ、そうだ。店長取れてたっけ……」



あたしは不自然に動揺する桃山さんのことを考えるのを
一旦保留にして、桃山さんが店長が起こすのを待つ。



それから寝ぼけた調子の店長を、
二人で盛大に責め立てるのだった。

不用心だし、営業中にたるんでいるとか。


まあ、責め立てる、というか二人して

「何やってるんですか~もう~」

というような、からかう感じだった。



「え? ライブ? ああ、そうだ。取れたんだよそれが」

「ええ!? 本当ですか!?」

「店長張り切っちゃって」

そっか。店長、頑張ってチケット取ってくれたんだ。
胸の奥が少し暖かくなる。



でも、あたしは、その会話の中でもずっと、
さっきのは何だったのだろう。

本当は何をしていたのだろう。
そういうのが気になって仕方なかった。

そのあとは、
元々あった二人に対しての
モヤモヤした感情を引きずりながら、
仕事に没頭しようとするが、
まあ、元々そこまで人が出入りするような店ではないので、
暇な時は異常なくらい暇になる。

タイミング悪く、今日はそういう日だった。



そう思う必要なんて何もないのに、
あたしは今日が暇であることがタイミングが悪いと思ってしまった。

暇であればあるほど、
余計なことを考えることが多い。

予約で来るお客さんも居れば
飛び込みで来るお客さんもいるけれど、
今日はそういう人たちは居ない。

ため息が出てしまう。
最近、また増えてきたなぁ。



まあ、こんな猛暑の中に、
生きた動物と触れ合おうという奇特な人はそうそういない。

なんて言ったって生きている動物たちは
それなりに体温があるから、囲まれると暑い。

店内は冷房も効かせているけれど、
それでも暑いものは暑い。

それに動物たちは考えることが
分からない時がある。
特に小さくて若い子犬の時ほど。



時間を持て余したあたしは
客が居ないのを良いことに、
子犬たちと戯れている。

わざと、店長と桃山さんから距離を置いている。

二人はそんなあたしのことなどつゆ知らず。
あたしが出るライブの楽曲の予習をしているようで
二人で鼻歌を歌ったり、コールを入れたり、覚えたりしている。

その姿は本当に自由だなぁ、
とも、仕事をしなよ、とも思う。

まあ、子犬たちと戯れている
あたしが言えることではないから黙っているけれど。



店長はあたしの思いも知らず、
関係なく、あたしの方にも来る。


「この曲ってやるかなぁ?」

「答えられないですよ」

「やっぱり?」


その二言三言のやり取りのあとに、
店長は「だめだった~」と戻っていく。



桃山さんとどういうやり取りをしているのかは
分からないけれど、悪口じゃないのはなんとなく分かる。

二人がヘラヘラ笑い合って
冗談を言い合っている様子も、
別にあたしのことを馬鹿にしている笑い方ではない。

あたしはそういうのは、なんとなく気がつくようになっていた。
そして、たいていそういうのは当たっている。

なんというか、微笑ましい感じだった。



あたしは、子犬と戯れるのをやめて、
バックヤードで振り付けの確認をする。

音楽はBluetoothのイヤホンを使っているから、
覗きに来る店長や桃山さんに
どの曲を踊っているのか分からないようにしている。

二人には最大限にライブを楽しんでもらいたいから、
こんなところでネタバレなんて無い方が良い。



「木下さん、今度のライブはね、
 このあたりなんだけど、どんな感じに見えるかな?」


そう言いながら、
店長は幕張のイベントホールの座席表を見せてくる。

この辺だと、確かステージは逆側だから、
かなり遠くになりそうだなぁ。

大きなモニターはあるにしても、
実際はあたしは端っこだし、
メインどころではないので、
大きなモニターに映し出されることもとても少ないだろう。


「ここだと、……うーん」



あたしは、遠いし、
見えづらいというのは分かった上で渋い反応をする。

店長はそれを聞くと「ちょっと遠そうだよね」と言う。
あたしもそれに対して「うん」と、
独り言のように呟く。


「店長は他のアーティストさんとかで
 ライブに行く時は望遠鏡とか持っていったりするんですか?」

「いや、しないね。あ、もしかして、
そういうの買っておいたほうがいいのかな?」

「もしかしたら、買っておいた方がいいかもしれないですよ。
 それに、結構見える位置だとしても
 買っておいて損はないと思いますよ」



店長は「そっかぁ」と呟く。
そういうのは店長よりも
若い桃山さんの方が詳しいかもしれない。


「桃山さんに聞いてみたらどうですか?」

「そっか。あとで聞いてみるよ。
 今、ちょっと用事を頼んで、
 郵便局まで行ってきてもらってるんだ」

「そうですか」

と言い切ったあとに、
二人きりになってしまったことを知る。

そして、ぽっぽっと身体が熱くなっていくのが分かる。




──あたしのこの気持ちを伝えるのは今なのだろうか。


ふと、急にそんなことを思ってしまった。

いい加減、このモヤモヤを晴らしたい。
でも、きっとフラれることは分かっている。

フラれたとしても、
このあとのあたしと店長の関係性とか、
気まずさとか、そういうのどうするんだろう。

色んなものを壊す覚悟で、
この思いを告白するのだろうか。

それは、あまりにもリスクがある。



あたしは少なくとも、
この3人の関係性というのは好きでいる。

ただ、誤算があるとしたら、
あたし自身も店長のことを好きであるということ。


それに、そういう一人の女性としての恋を抱く前に、
あたしはアイドルとして売り出していかないといけないんだ。
少し時間が経ってしまったせいで忘れかけていたけれど。



こんな生半可な覚悟じゃ、
他の真剣なアイドルにまた置いていかれてしまう。

恋は盲目だと言うけれど、
それが急に冷めてしまった。

まるで自分が何故ここに居るのかすら
分からないくらいに、
目が覚める感覚に襲われる。

アイドルの仕事だって、
恋愛禁止とは765プロは言わないまでにしても
「バレるなよ」という暗黙のルールが強いられているのは分かる。

何人かそれで消えていったというのを風の噂で聞いている。



あたしはファンを裏切ることになるのだろうか。
人を好きになることが、
誰かを裏切ることになるのか。

じゃあ、あのプロポーズされて
浮かれポンチになった、
あの真面目だったアイドルはどうなんだ。

あたしはこんなにうじうじ悩んでいて、
恋愛だか何だか分からない
このやり場の無い感情の群れに
頭を抱えているのに。

そう思うと腸が煮えくり返るようだった。



でも、こんなことを考えるのも、
全部この店長とかいう人間に
目が行ってしまうのが原因なんだろう。

だから、あたしは、
半ば嫌がらせのつもりで言ってやった。

店長に八つ当たりするような言い方で、
自分の尻も蹴飛ばす。


「店長、桃山さんのこと好きですよね」



あたしはついに切り込んだ。

自らの腹を切り捌くというのは
こういう気分なのだろうか。

体の中の臓物が
あちこちにねじれる感覚がする。


「て、何を……いやいや。
 僕もう結構おじさんなんだよ」

「でも、見てたら分かりますよ」



この店長の反応は”クロ”だった。
そう思った瞬間に、
誰かがあたしの頭上から
脳天目掛けてタライを落としたような気がした。

ガーンとぶつかって、
ぐわんぐわんと頭の中を響かせてシンとする。


「まあ、良い子だとは思うけれどね」

「あたし、次のライブが終わるタイミングで、
 ここ、辞めようと思います」

「えっ?」



時間にしてほんの5秒くらいだろうけれど、
あたしにはこの一瞬の沈黙が、
世界の時間ごと止めたかのように感じた。

嗚呼、言ってしまった。

もう後悔し始めている。
告白したいことはそんなことではなかったけれど。

こんな辞めるなんて計画は
自分の中には全く無かったのに、
言ってしまった。


「そうなのかい?
 もうそんなに忙しくなってきているの?」


店長は少し焦ったように言う。

辞めようと思う。というのは、
今この瞬間に決めた。

でも、あたしはここでの居心地の良いバイト生活を
気に入りすぎてしまった。

だから、あたしはこの場所に甘えるようになってしまっている。



きっと、アイドルの方が駄目だった時、
ずるずるとこの居場所に引きずられるようになる。

だから、逃げ場所を断ち切るんだ。


「だから、あたしが居なくなっても……
 桃山さんのことよろしくお願いしますね」

「……うん。分かったよ」



店長はいつもの、
ほわほわした雰囲気のままだが、
キリッとした目つきになり、言う。

あたしはその顔が
少し滑稽に見えて笑ってしまった。

店長は「どうして笑うんだい」と言うが、
すぐに一緒になって笑っていた。

  
そこに桃山さんが戻ってくる。

あたしと店長は「え? なになに?」と聞かれても、
「何でもないよ」と答えるだけだった。

その仲間はずれ感に、
桃山さんが拗ねる前にあたしは自分がバイトを辞めるということを伝えた。

桃山さんは当然のように
「じゃあ、お別れ会しないとね!」
と、そう言った。



その日の休憩時間に、
あたしのところにやってきた桃山さんがコソコソと言う。

半笑いの顔で聞いてくるので、
何をからかってくるのか、
と少しだけ身構えてしまう。


「ねえ、さっき、店長とほんとはどんな話してたの?」

「え? ああ、えっと、本当にあたしが辞めるんですって話だよ」

「そうなの? 木下さん、店長に告白でもしたのかと思った」



あたしは、休憩時間のために
買っていたお水を吹き出しそうになる。


「げほげほっ、ち、しないよ。どうして!?」

「だって、好きでしょ?」


あれ、何か違和感がある。

でもその違和感には気が付かないフリをして、
あたしはオウム返しのように聞き返す。



「桃山さんこそ、店長のこと好きでしょ?」

「え、あたし? 無い無い。
 人としては好きだけど、
 同い年だったらお友達って感じだと思うよ」


そう言いながら、ヘラヘラと否定するように手を振る。

あれ……。
何か色んな余計なことをしてしまったかもしれない。

どうしよう。

自分が勝手に抱えたショックを隠すのに、
あたしは絞り出すように必要のない嘘をついた。



「そっか。あたしも……同じだよ。
 人としてすごく尊敬する。
 あんなに優しい大人もそう居ないもの」


あたしはまた自分で言った言葉が何かに跳ね返り、
自分に突き刺さる感覚を覚える。

桃山さんは「なにそれ」と笑ってみせた。
あたしの吐いた嘘を見透かしているようだった。


「でも、寂しくなるなぁ……ずっと一緒だったもんね」

「うん、……そうだよね。
 あたし、桃山さんとは本当に……その」

「ん?」

「友達になれたなって思う」


言えた。

こんな気持ち、
本当は迷惑かもしれないということは分かっていた。
でも、確認したくて、言ってしまった。



「うん、ありがとう!」


桃山さんは笑うだけで「私も」とは言ってくれなかった。


でも、もうこのバイトは辞めてしまうんだ。
どうでもいい。

きっと多くを求めすぎているんだと思う。
だから別にいいんだ。

別にいい、そう自分に言い聞かせる。



桃山さんは休憩時間でもないのに、
近くにある椅子に座る。

そして、ため息まじりに言う。

「そっか……。私もやめよっかなぁ」

あたしは分かっているのに、聞いてしまった。


「辞める?」

「ここ」

このバイト先を、桃山さんも辞めると、そう言い出した。



……。

続けた方が良いなんて、
死んでも言えなかった。
自分の方が先に辞めて行く癖に。


あたしはどうしようもなく、
「そっかぁ」と情けない声を出した。

苦し紛れに「帰ってきた時、
2人が居ないと寂しいよ」と言ってみた。

しかし、桃山さんはあたしの膝のあたりを
ペチンと柔く叩き、ピシャリと言った。



「帰ってくるなんて言わない」

「……はいっ」

あたしは反射的に答えてしまう。
ここは、私と店長の愛の巣になるのだから、
帰ってくるなとか、そういうことを言ってるのかと一瞬だけ勘ぐる。

桃山さんはいつものニコニコした表情から一変して、
怒っていた。



「木下さん、ここに戻ってきたり
 出来ないように辞めるんでしょう?」


ドキッとした。

違う。ギクリ、とした。
バレていたんだ。

この場所からも逃げようとしていることも
きっとバレているんだろうな。

そんなに顔に出やすいのかなぁ。
もっと演技の勉強をしないとダメかな。



しかし、あたしが辞めて、
桃山さんが辞めてしまったら
このお店はどうなるんだろう。

別に他にもバイトの人は
居るから大丈夫だと思うけど、
特に良くシフト入れていた桃山さんが
辞めるというのが心配だ。



でも、店長のことを顔覗き込んで何かしていたよね。
あれはなんだったんだろう。

ただの、勘違い……? 
それとも、桃山さんも自分の感情に
蓋をするように嘘を付いてる?

まあ……それは、この店に遊びに来れば分かることか。


「おーい、木下さーん、ちょっといいかなぁ?」

店内の方から店長の呼ぶ声がする。



あたしは、桃山さんの方に
「あたし、頑張るよ」と言ってから、
そっちに向かう。
桃山さんは笑顔で頷くだけだった。



その日、帰り道、
夏の夜の下を一人歩いて帰る。


あと、数回のバイトが残っているけれど、
あの場所にあたしはもう帰らないんだ。



これで良かった。

悔いもあるし、
もしかしたらあのまま店長に
自分の思いを打ち明けていれば
自体は大きく変わったのだろうか。

もし、あの時、
桃山さんが辞めると言うのを止めていたら、
何か変わっていたのか。

結構シフト入ってる桃山さんが辞めてしまったら、
お店はどうなるのだろうか。

お店がなくなる、
ということは無いとは思うけど、心配だ。



でも、そんな心配はするけれど、
店長は結局、あたしのことなんて好きじゃなかった。

いや、きっとLIKEでは居てくれてる。
LOVEには決してならないだけということ。

これだけはハッキリと分かった。
やっとモヤモヤが晴れるのかな。



そう考えた時に、
またあたしは気がついてしまう。

暗い夜道の街頭の灯りに照らされながら。
あたし、また一人ぼっちになるのか。

でも、今度のこれは
自分で選んだことだから良いんだ。

何度もそう自分に言い聞かせながら、
とぼとぼと家に向かって歩いていく。


「あ、……誕生日」


今日一日のことを
振り返っていて思い出した。

バイトに行く時には、
もしかしたら桃山さんが
何かサプライズを用意しているかもしれない、
とか考えていた。

でも、別によく考えたら、
桃山さんはあたしの誕生日を知っていたのだろうか。

知らないとしたら、何も悪くないし、
知っていたとしても、
こんな祝って欲しい感じを丸出しにした
厚かましい人を祝いたくなんてないだろう。


そうだ。あたし、もう20歳なんだ。
お酒だって買えるぞ。

自宅付近のコンビニに寄って、
スイーツのコーナーを見る。

空っぽの棚に、
ちょこんと一個だけ生クリームの乗ったプリンがあった。

あたしはそれを手に取り、
そして、お酒コーナーで
ほろ酔いのカルピスサワーをレジに持っていく。



深夜のダルそうな若いお兄さんは
あたしのことをチラリと睨むように見ると、
無愛想に金額を伝えてくる。

あたしはさっと千円札を出し、払い終える。

化粧や髪型の研究とか重ねた成果は出ているのだろうか。
と疑わしくなるくらい、店員のお兄さんはあたしを見てくる。

商品を袋詰され、
受け取るとあたしは足早にコンビニを出る。



そのまま、速歩きで自宅まで駆け込んだ。
真っ暗の部屋は蒸し暑く、
すぐにエアコンを付ける。
服を脱いで、シャワーを浴びる。


初めてお酒を買った。
それだけでウキウキだった。



火照った身体で、
お待ちかねの初めてのお酒。
先にプリンを開ける。


そして、カルピスサワーを開ける。
プシッと炭酸の弾ける音がする。

ふわっと香る甘い香りを前に、
クラクラする。



「いただきます」

カルピスサワーを一口。
……。

普通にペットボトルで売ってる
お酒じゃないものと味が変わらない。

と思うのも束の間、
身体がどんどん熱くなる。


ほぅっ、と息を付くと、顔も熱いのが分かる。

それからあたしは、
プリンを一口食べた。甘い。

なんて甘いんだろう。
美味しいなぁ。

美味しいなぁ。

「あ、そうだった」


プラスチックの小さなスプーンを
マイク代わりにする。
今日のことが思い出される。

「ハッピバースデートゥーユー」


店長はあたしのことなんて好きじゃなかった。
フラレずに済んだ。
良かったじゃないか。



「ハッピバースデートゥーユー……」


もう店には戻れない。
あたしが自分でそうしたんだから。


「ハッピバースデーディア……あたし~」



店長のこと、好きだったんだなぁ……。

でも、この思いは叶うことはない。

まだ少しだけバイト出る日は残されているけど、
あたしは叶わない想いを抱いて、
叶わない恋をする店長を
応援する振りをしないといけないのか。

それはしんどいなぁ。



「ハッピバースデー……トゥーユー……」

一人暮らしの小さな部屋に、
あたしの震える声が響く。

目の前にある液晶テレビは、
つけないから真っ黒で、
その画面が反射させてあたしを映し出す。


一人ぼっちで、
初めて買ったジュースみたいな
お酒でいい気分になっちゃって、
小さいプリン一個で幸せになっている。



飛んだ大馬鹿野郎だ。
なんだこいつは。

たった一人で何をやってるんだ。

自分のせいだけど、
誰も悪くないけれど。
また、あたしは一人になる……。



20歳になる最初の夜に、
あたしは耐えきれなくて涙を流した。
もう、心が折れそうだ。

辞めたい。

帰りたい。

そう言えればどんなに楽だろうか。

誰にそれを言えばいいのだろうか。

辞めてどうするのだろうか。

どこへ帰るのか。



涙が止まらない。
本当はもう要らないのに、
もったいないからもう一口、プリンを食べる。




「甘……っ」


あたしは、プリンを一気に口の中に流し込む。
ほろ酔いをガッと掴んで
いっきに喉の奥に通す。


あたしは一人ぼっちの部屋で泣いた。
何が悲しくて泣いているのかなんて分からない。

膝を抱えても涙を流しても、
部屋に響くだけで、
何も起きなかった。




「誰か助けて……」




第6章 もうアイドルは諦めようよ






「はい、オッケーです」


ついに明日に本番を控えるライブ。
入念な会場リハが行われていた。

この頃には、田中琴葉の引退ライブでもあることが判明し、
世間は大騒ぎになっていた。


チケットの倍率は跳ね上がり、
転売の価格は高騰。

ネットのあちこちで憶測にすぎない議論が飛び交う。
それに乗っかる形でマスコミは
あらぬ噂を垂れ流し、
世間はまたもそれに奔走する。


しかし、そこは田中琴葉、
そういった出どころの不明な噂はすぐに消滅する。
真相はライブで実際に語られるだろう、
ということだけが、ファンたちの頼りの綱だった。



そして、その一方で出演するメンバーたちは、
彼女の最後のステージになるのだから、
間違いやミスは万死に値する! 
と言い出しかねない程の熱量があった。

現場はビリビリと緊張感が走る。
一つのミスも許されない。

誰もが好きだった彼女に華を持たせるんだ。
その全員の意気込みで、
圧倒的な苦しみを産み出しながら、
本番は迫ってくる。




これまで、心が何度も折れながら、
喰らいついていったあたしは
その熱量にやられることなく済んでいる。

だけど、あたしよりも若い女の子達は、
前々からいる765プロのアイドル達の
熱意について行けずに弱音を吐く姿が見えてきている。


「ほら、立って。大丈夫だから」


そう若い子に話しかけるのは所恵美だった。



親友の田中琴葉がメインとなるライブで
最も気合が入っていたアイドルの一人である。

優しく声をかけているように見えるけれど、
彼女の本質はそこではない。

自信を亡くしたり、
戦意を失いかけた女の子たちを一人で呼び出し、
個別に話をする。

そうやって話しかけられた女の子たちは戻って来ると、
全員が洗脳されたかのようにキビキビ動き出す。



キビキビ動き出すところにやって来るのが
もう一人の親友である島原エレナだった。

緊張に圧迫される女の子たちを
ほぐしに行くのが彼女の役目であり、
飴と鞭が上手いこと完成するのである。

それが洗脳を加速させるのだが……。


本当に洗脳しているのか、
それとも脅しているのか。
一体どんな話をされたのかはあたしは知らない。

何にせよ、この会場リハが行われる頃には
「鬼の副長」と噂される程だった。
誰もが彼女の顔色を伺う。



当然あたしはそんなことしない。

何故ならこのライブは、
あたしにとって復帰の最大のチャンスであり、
田中琴葉の引退ライブだとかいう
どうでもいいこととは関係がない。


「ひなたはやっぱりすごいね」


あたしは帰り支度をしようと楽屋に戻ろうとしていた時、
鬼の副長こと所恵美に会場の廊下で話しかけられる。

ギクリとする。
今すぐここから逃げ出したいくらいだ。



元々彼女とは、ノリが違うというか、
彼女のテンションには
どうにもついて行けないところがある。

学校内のクラスカーストで言っても、
あたしと所恵美のポジションは明確に差があると言える。

しかし、すごいね、
の意味が分からず素直に聞くことにした。



「なにが?」

あたしは「しまった」と思う。

何せ、話しかけないで欲しいという感情が
語気にまるまる乗ってしまうような強い言い方になってしまった。

これではまるで喧嘩腰に見えるだろう。

しかし、所恵美はそんなことはどうでも良さそうに、
ただあたしの質問に答える。

あたしのような格下の喧嘩は
買わないと言わんばかりの余裕だった。



「やっぱり昔から知ってるメンバーって
 どこか根っこが違うっていうか。
 ひなたも同じように凄い根っこがあるっていうか。

 あんまり上手く言えないけれど、
 ひなたには自信を持って、ステージを任せられるよ」

「……そっか」


あたしはそれだけ言うと、
その場から逃げるようにして去ろうとした。



ステージを任せられる? 

あたしはその言葉を鼻で笑う前に立ち去らないと。
端っこしか空いていなかったのに、良く言うよ。

まあ、最も、そんなステージの立ち位置なんてものは
所恵美が決めているという訳ではないというのは分かっているが。




それ以上、あたしは所恵美と
話をすることなんて何も無いと思った。

それともこのタイミングで
そんな風に話しかけてきたのは、
あるいは逆のことを意味しているのだろうか。



明日は大事なライブなのだから、失敗するなよ。
昔からアイドルやってるんだもんね。
そうそう失敗なんかしないでしょ?




そういう心根が聞こえて来る気がして、耐えられない。

あたしは所恵美に背を向けて歩こうと振り返ると、
目の前にはプロデューサーが居た。

まるであたしの行く道を塞ぐように立っている。


「……お疲れさまです」

「ああ、お疲れ」



今度は苛立ちや、
負の感情が乗らないように制御できた。

と思ったが、プロデューサーはあたしのカバンを持っていた。

無言でそのカバンを渡されたあたしは、
まず財布の中身をチェックした。
別に何も減ってはいなかった。




「電話が鳴ってたっぽいんだが。ずっと。
 何度も鳴ってたから緊急じゃないのか?」

「電話……?」

あたしは、カバンの中にあるスマホを探し出す。



あれ、どこにやったんだろう。おかしいな。
こうやって急いで取り出そうとする時ほど、
スマホは出てこなくなるの、なんなんだろう。



「明日はライブ本番なのに大丈夫なのか」


緊張感漂う現場の空気に押されたのか、
苛立った声色を見せるプロデューサーは、
横でカバンをひっくり返す勢いで漁るあたしの背後からカバンを覗いてくる。

それを所恵美が首根っこ掴んで

「こらこら、女子のカバンを覗かないの」

と辞めさせている。

その後も腕組みをした指先は
トントンと腕を落ち着き無く叩いている。


そうこうしている間に、
3人が立ち往生している廊下に着信音が響く。

あたしはその音と、
スマホが出すヴァイブレーションの振動で、
すぐにカバンの脇のポケットに入れたことを思い出し、
スマホを取り出す。

画面には「お母さん」と書かれていた。
背筋が凍るような嫌な予感がする。



お婆ちゃん娘だったあたしは、
お母さんとは殆ど連絡を取ったりしない。

本当に緊急の時にしか、連絡を寄越さない。


その緊急具合は例えば、──家族に何かがあった時。


前は、どうだったっけ。
何があったかは忘れたけれど、
祖父母に任せっきりの母親が
あたしのことを呼び出す、
というだけでただ事ではないのだけは分かる。



あたしは、所恵美とプロデューサーに
背を向けて電話に出る。

「もしもし……?」

「あ、やっと出た! ちょっと、今大丈夫?」



母の声は、どこか焦っている様子で、
やっぱり何か緊急のことがあったんじゃないかと思う。

あたしは「うん」と言いながら、
チラリと背後の二人の方を見る。

二人共、心配そうに、……は見ていない。


その目は、どちらかというと

「何かトラブル?」

「これ以上トラブルは起こさないでくれよ」

「明日が本番なんだぞ?」

という目だった。


二人の様子を伺うあたしを見て、
プロデューサーは口をへの字にひん曲げながら
「ふん……」とため息にも似たイライラが見える鼻息を漏らす。

その二人から目を逸らす時、
電話の向こう側の母は言った。






「お爺ちゃん、倒れたの。
 お医者さんが言うには、もう長くないって」


「……」








あたしは声が出なかった。
思考が追いつかない。
目の前が真っ白になっていく。

あたしが爺ちゃんと婆ちゃんの家に居た頃は
それほど前ではないはずなのに。

あの頃はすごく元気にやっていたと思っていたけど。

それが、もう長くない……?



何かの冗談ならそう言ってほしい。
今のあたしにはそんな冗談を受け止めるほど、
広い心を持っていない。

しかし、長くないと言われても、
……ふと背後の視線に気がつく。

トラブルを嫌うプロデューサーの
厄介そうな視線が痛い。

あたしは鬱陶しがるように、
少し強い口調で言う。



「な、んで……今それを言うの……?」

「あんたがいつまで経っても電話も出ないし、
 連絡をよこさないからでしょう!?」


母の怒気が強い言い方に、
思わずスマホから耳を離してします。

恐る恐る耳に戻し、母に聞く。



「爺ちゃんは、どうなるの」

「だから、長くないんだってば。
 ねえ、帰ってこれない?」

「あたし! 今すぐには帰れないよ!?」


話の通じない母にイライラする。

あたしは嫌な予感がしたので、
先手を打って、話を遮るようにして言う。



「あたし、明日は大事なライブなの!
 これを逃したらあたしはもう、戻ってこれない!」


どうか。
どうか言わないで欲しい。


「何言ってんの!?
 お爺ちゃん死んじゃうかもしれないんだよ!?
 あんた最後に会えるかもしれない
 っていうチャンスがあるのに、どうするの!?

 アイドルのこと、また頑張ってるのは知ってるけれど、
 また頑張り直せばいいじゃない!?」


そんなことは分かっている。
だから言わないで欲しかった。



心配事やキレたり感情が爆発すると
おっかないくらいヒステリーを起こす母の癖は変わっておらず、
矢継ぎ早に何か言ってくる。

話の聞かない母にイラつくあたしは、
スマホを地面に叩きつけないよう必死だった。


「聞いてるの? ねえ!
 お爺ちゃんにはもう一生会えないかもしれないんだよ!?」

「聞いてるよ……」



爺ちゃんには感謝してる。

でも、……だってあたしは
爺ちゃんのために頑張ってきたのに。

死んじゃえば、
この頑張りを認めてくれる人は誰が残っているの!?



でも、爺ちゃんは言ってた。
また、テレビで見たいって。

そのために、このライブは絶対に欠かせない。

何よりも、背後にいるプロデューサーとの間には、
ドタキャンでの重く苦しい思い出がある。


絶対に、絶対にここで帰る理由にはいかない。




「お母さん、爺ちゃんに電話繋いでよ」

「は!? 意識もないのに、 どうやって……。
 今、集中治療室に入ってるからそんなこと出来ない」


そんなに重症なのか……。
それならそうと早く言って欲しい。

電話も出れない、せめて受話器越しにでも
声をかけられたりでも出来れば良かったのに。


母は言う。

「あんた帰っておいでよ」



その言葉はさっきとは全く違い、
とても優しい言い方をしていたのに、
あたしの胸に突き刺さる。

ズキズキと胸が痛む。
頭も痛い。
吐き気さえしてきた。


「もう、アイドルだって良いじゃない」


何が良いものか。
ここまでやっと戻ってこれたんだ。

今更そんな母親面して、
心配なんてしないで欲しい。
そんな風に言わないで。



どれだけの思いでやってきたか。
どれだけ苦しんできたのか。

その間もあなたは何もしなかった。
してくれるなんて思わなかったから
あたしも助けは求めなかった。

「もう、その……。アイドルも辞めて帰っておいでよ」



「やめてよっ!!」



会場廊下に響くあたしの声に、機材を運ぶスタッフさんや、
待ちかねて談笑を始めたプロデューサーと所恵美をも振り返らせた。

でももうそんなの関係ない。




もう……。

もうたくさんだ。

もううんざりなんだ。


どいつもこいつも、
あたしの邪魔ばかりする。


何がいけないの。
どうして、こんなに障害ばかりあるの。




「あんたは充分やったのは知ってるよ。
 でも結果が出てないじゃないか。
 ね? もうアイドルは諦めようよ……?」 


「そんな風に言わないで。
 あたし、帰れないよ。帰らないから。

 爺ちゃんと約束したんだ。
 また、あたしがテレビに出ているところが見たいって。
 そのために、必要なんだよ。

 爺ちゃんには会えないけど、
 あたしは、あたしのやるべきことをやる」





「やるべきことって、
 あんたがやるべきことは帰ってきて、
 お爺ちゃんを励ましてあげることでしょう!?

 あんなにひなたこと好きだったのに、
 あんたも好きだったじゃない。お爺ちゃんのこと」


「そうだよ。だから、帰れないんだよ。
 このままじゃ。ごめんね、お母さん」




母親はまだ何か言っていたが、
それを無視してあたしは

「久しぶりに声が聞けて、元気そうで良かった」

とそれだけ言い、電話を切った。


ふー、と大きく深呼吸をする。
背後から2人が近づいて来るのが分かる。



黙って振り返ると、所恵美は
心配そうな顔をしてこちらを見ている。

対してプロデューサーは
面倒そうな顔で、
「トラブルは御免だ」という顔で
こっちを見下ろしている。


「ひなた、大丈夫?
 何かあったの? お母さん?」

「うん……。大丈夫」



あたしはそれ以上は答えなかった。
しかし、プロデューサーはゆっくりと口を開く。


「何があったかは分からないけど、
 そんな不安定な調子でライブに出られても困るからな。
 明日はベストコンディションで行けるんだよな?」


うるさい。
ぐちゃぐちゃの感情が爆発しそうだ。



もう少し言い方は無いのだろうか。
空気を読めとか、そういうことじゃない。

ただの心配をするという言葉一つ投げかけることができないのか。

どうしてたったそれだけのことが出来ないのか。

どうして、あたしにはしてくれないのだろうか。

どうしてそれを隣の所恵美は
何も聞いてないような顔で
突っ立っていられるのだろうか。



これも神様があたしに与えた試練だって言うのだろうか。
冗談じゃない。もうたくさんだ。


「顔色も悪いし、今からキャンセルするなら、間に合わせるぞ」


うるさい黙れ。
所恵美の前で仕事のできる風を装ったって無駄だ。
何が間に合わせるだ。

顔に面倒ごとを起こすなって
イライラしているのが出ているじゃないか。



「まあ、幸いひなたは端だし、
 欠けてもギリギリなんとか……」



「出るよ!  うるさいんだよ、さっきから! 出るよ!」



嗚呼、もう抑えられない。
もう我慢できない。耐えられない。

自分の中で巨大な何かが決壊したのが分かる。
こんなもの八つ当たりにすぎない。

そんなことは分かってる。
でも、もう駄目なんだ。



所恵美も、プロデューサーも目を丸くしている。
あたしは自分の顔が真っ赤になるのが分かる。

2人はキョトンとした顔で、
何怒ってるんだろうみたいな顔をする。
その顔が余計にあたしをイライラさせた。




「キャンセルなんてしない!

 あたしはステージに立つ!

 全部、全部やるから!! もう構わないで!」





「ひなた……!」

あたしは、所恵美の声も無視して、その場を去った。



ぐるぐると定まらない感情が巡る。
……爺ちゃんがただ心配だ。

あんなことを言ってしまって、
そのあとのプロデューサーの対応が心配だ。

あたしはまた
「急にキレる、使いづらい危ないアイドル」
という新しいレッテルが貼られるのだろうか。



久しぶりに話をした所恵美は
あたしのことをどう思うのだろうか。

変わってしまった……、と思うだろう。
それも悪い方に変わってしまったと。

母はどう思ったのだろうか。
愛娘から突き放される感覚はどうだったのだろうか。



会場を忙しなく動くスタッフ達の目も気にしないで、
あたしは会場の廊下を早足で歩く。

色んな人があたしの様子を見て、振り返る。

また電話がかかってきた。
母親からだ。
あたしは電話には出ない。



ここから……あたしはもう一度、
やり直すんだ。もう一度……。

こんなところで立ち止まる訳にはいかない。

ライブに出演して、しっかりやっている所を
もう一度お客さんやファンの方、スタッフの方、
関係各所にも見てもらって。

もう大丈夫なんだと思ってもらって、
もう一度テレビでも使ってもらうんだ。



最初はラジオからでもいい。
でももう明日のライブで
あたしがちゃんと出来るというところ披露しないと、
次のチャンスはいつになるのか分からない。


こんなところで、こんな
爺ちゃんが死んでしまうかもしれないことで、
立ち止まる訳には……。

あたしは最低だ。



分かっている。
でも、ここしか無いんだ。
次は無いんだ。

廊下の向こう側から
出演者のアイドル達が
群れをなしてこっちの方に
歩いてくるのが遠目にでも分かる。

あたしはそれを避けるため、
用のないトイレに逃げ込む。

みんなが過ぎ去るのを待つ。
何もしないのは誰かが入ってきた時に
怪しまれるので、綺麗な手を洗っていた。


何度も石鹸をつけては流す。
泡立てて、爪の間も指の間も洗う。

まるで、誰かを殺した返り血を落とす、殺人犯のようだ。

今だったら、誰を殺してしまいたいだろうか。
あの子か、あの人か、それともあの子か。

いいや、違う。

あたしだ。

鏡に映るあたしと目が合う。


「……なんて顔してんだろう」




もう一度ステージに立って……。

あたしは、もう一度……。

もう……。




「もう、いいか……」




ポキン。


あたしの中で、
何かが折れる音がハッキリと聞こえた。


「……は、ははは……。あははは……」



鏡に映るあたしは、
泣いていた。






あたしが20歳の時に開催された、
田中琴葉が引退を宣言したライブ。


あたしは、ステージに立ち、
自分のやるべきことをやった。
ミスは無かった。……はず。

あのライブはどちらにしろ、
主役は田中琴葉なのだから、
目立ったところで、
結局会場のヴィジョンに映し出されるのは
田中琴葉だと決まっている。


だから、脇役に徹して会場を彩る背景の一つとなった。



涙に惜しむファン、出演メンバー、
そして感謝の言葉を述べる主役。

あたしはそれを端で見ていた。

泣く振りをすれば良かったのかもしれない。
みんなが拍手をしている中で
あたしは棒立ちすることしか出来なかった。

それとも、このモヤモヤを爆発させて、
ライブを無茶苦茶にしてやれば良かったかもしれない。


生憎、その後に賠償問題にまで
発展する可能性があることを
考えることが出来たあたしは、行動に移せないでいた。



ライブは無事に成功した。
そう言っていいと思う。

集合写真に写ったあたしは、
死んだような目で写真に写り込んでいた。

のちにSNSにあげられた写真を見て、
自分の小さな姿に、「別に写らなくても良かったなぁ」と思った。


ライブ終わり、スマホを見ると、
電話の着信が48件。
ショートメッセージが9件。
留守番履歴が8件。

これらがいっきに現れて、
重苦しい気分のあたしを更にどん底に落とす。

スマホを開いているのも嫌になる。



その後、家に帰る途中で、
またかかってきた電話に出る。


夏の夜空の下で、
あたしは、この世に存在する
ありとあらゆる罵詈雑言を受けた。





でも、笑えてきた。



可笑しくて仕方なかった。



夜道を、電話片手ににやにやしながら歩く。




電話が終わる頃合いに、
自宅にたどり着いた。

真っ暗な自宅に帰ると、
我に返り、なんてバチ当たりなんだ、と泣いた。


「通夜には来い」と言われ、
その後日、仕方なく行ったが、
やっぱりそこでも色んなことを言われた。


説教の最中に、何度この場を逃げ出そうか。
この空気を壊してやろうか。

そういうことばかり考えながら、下を向いていた。

そして、やっぱりあたしは、
行動には移せないでいた。






──半年後、木下ひなた20歳の冬。





「ひなた、これ、爺ちゃんのなんだけどね。ひなたにって」

「これ? ええ……婆ちゃん、
 これ爺ちゃんのカメラじゃない?」

「たくさんあって。
 でも誰も使い方、分かんないんだよね」



爺ちゃんと婆ちゃんの家に来たのは、
夏のライブから半年後だった。

すっかり雪景色となった北海道の大地で、
お墓参りに行った帰りだった。


婆ちゃんは元気にあたしのことを迎え入れてくれた。

「またここにしばらく住んでもいいんだよ」

なんて婆ちゃんは言ったけれど、
あたしはそれを断った。



婆ちゃんが部屋の奥から引っ張り出してきた、
爺ちゃんのカメラを弄っていくが、
何せ説明書も無いので、どうやって扱うのかが分からない。

スマホで型番を調べて、
説明書のPDFをダウンロードするけれど、
説明書があまりにもページ数が多くて
どこから見たらいいかすら、分からない。

まずは、ボタンが何なのか知ることから始めるか。
カメラの付属品がゴロゴロ出てくる。



交換用のレンズ。三脚。シャッターの遠隔のボタン。
レンズフィルター。ケーブル各種。

婆ちゃんはあたしに言った。


「爺ちゃんね、そのカメラはひなたに
 受け継ごうと思ってたんだよ。そう言ってた」

「……」

あたしは何も言えなかった。

「そうなんだ」とも言えずにいた。
婆ちゃんは優しい口調で言った。



「もらってあげてくれないかな?
 爺ちゃんね、ひなたは、東京に行って、アイドルになって、
 いろんなきれいなものを見るんだろうから、
 立派なカメラが必要だろう。って、そう言ってたよ。
 いつか俺が教えてやるんだって」

「……そっか。うん、婆ちゃんがいいなら、あたしが貰うよ」


婆ちゃんはそんなあたしを見て言った。


「あ、もしかして犬の写真とか撮るのかい?」

「え? ああ、ドッグカフェの?」



犬の写真……というので
一瞬なんのことか分からなかったけれど、
親族に犬を飼っている人は誰もいない。

お隣の家には飼い犬がいることはいるけれど、
畑があるせいで何キロも先にある。

だからすぐに自分が働いていたドッグカフェのことだと分かった。
でも、あたしは淡々と婆ちゃんに同じ説明をした。
もう何度かした説明を。


「ううん。あそこはもう辞めちゃったんだ」



婆ちゃんの家に行く前、
一週間くらい前だったが、
ふらっと立ち寄ったことがある。

あたしが辞めて、
たったの半年だったが、
あたしはその事実を言う。


「それに今はもう、あそこ閉店しちゃったし」

「そっか。お昼用意するからちょと待っててね」

「ううん、いいよ。ちょっと……コレ、練習したら帰るからさ」



あたしはそれから
一旦、写真を実際に撮ってみることにした。

なんてことない、
テーブルに置いてた婆ちゃんの湯呑を撮影する。
バシッという派手はシャッター音。

カメラの液晶には撮影したものが
すぐに確認出来るように映し出されるが、
画面に出てきたのは白っちゃけた湯呑だった。



あたしはそれを削除する。
色々いじって撮影する。
確認して削除。

5回くらい撮影を繰り返したところで、
結局オートモードを発見して撮影した。

うん、綺麗に湯呑が撮れた。
分からない内はこれでいいじゃないか。

綺麗に湯呑が撮れたからなんだって言うんだ。



あたしは、さっき見つけた三脚を引っ張り出して、組み立てる。

カメラをセットして、レンズを覗いて、位置を確認する。
その場所に入るようにカメラの前に移動する。

タイマーにセットし忘れたのを思い出し、
カメラの方に戻ってきてセットし直す。

今度は、上手く作動したようで、
急ぎ足で、カメラの前に移動する。




情けない、だらけたピースサインをちょっとしてみる。
バシッという派手なシャッター音が響く。

カメラの方に戻り出来栄えを見てみると、
そこに写っていたのは、
やっぱり情けない半目の20歳にもなる女だった。



あたしは今度は、
三脚をそのまま持ち出して、外に出る。
外はどんよりとした分厚い雲が空を覆っている。


雪が積もった畑の前まで来て、三脚を立てる。

多少良くなった手際で、
もう一度タイマーをセットし、
駆け足でレンズの前へ走る。

ポーズを決めるも、なんか違和感を覚え、
結局さっきと同じダサいピースサインを一人でする。

シャッター音がかすかに聞こえ、カメラに戻っていく。



真っ白な背景に、あたしが写っていた。

誰も居ない、一人ぼっちの集合写真のような、
画面の中途半端なところにあたしは立って居た。

あのライブ終わりに撮った集合写真も、
同じような顔をしていた。

今は確かに誰もいなくて楽しくもないから、
別にこんな顔をしていても仕方ないと思うけれど。

寒い中、もう一度カメラの設定方法をスマホで調べてみる。
あーでもないこーでもない、
と一人でやっている内に、
スマホの画面に水滴が落ちた。



……。

一滴、また一滴。
これは涙ではない。
それに水でもない。

雪だ。

もたもたしているうちに
降ってきてしまったのか。



もう一度タイマーをあわせる。

雪が舞い散る中、あたしはまた駆け足でカメラの前に行く。
段々と雪の結晶も大きくなっていくのが分かる。

手のひらを空に向けて見る。

手に、雪が落ちては消えていく。


「……はは」



あの時、どう言い返せば、
あたしはショッピングモールでの
お仕事が出来ていたのだろうか。

あのプロデューサーが
名前を書き出していたその順番とバツ印と丸の意味、
あれはなんだったんだろうか。

あの時、何も問題なく
オーディション番組に出演するには
どうしたら良かったのだろう。


色んな後悔が、色んな感情がまた押し寄せてくる。





「……ははは」



「……あはは」



「あはははははは……!」



遠くにぼんやり佇む、一眼レフカメラから、
バシッというシャッター音がかすかに聞こえた気がした。







第7章 エピローグ たぶんみんなには……






「そして、ロコは25歳の時に、 万博に呼ばれ、
 そのパビリオンのデザインを任されるようになります」

「へえ~!」

「それから、30歳の頃には巨匠と呼ばれ、
 あらゆる建造物のデザイン、アートを世の中に残していきます」



「じゃあゆくゆくは太陽の塔みたいなのを作るわけだ」

「そうなんです! まさに全人類ロコナイズ計画です」

「いや~。最も恐ろしい計画が出てきましたね~」



「わははは!」




「なんでですか~! 素晴らしい計画だと思いませんか!?」

「……。ほら、もうメンバーもシーンってなっちゃってるじゃん」



都内のスタジオで収録が行われている。


スタジオの右側に765プロの新生アイドルグループ、
ミリオンスターズのメンバー達がひな壇に座っている。


その反対にはMCとしてお笑い芸人が座っている。
何年か前に漫才の王者を決める賞レースに出場し
大きく爪痕を残し、それからテレビには
連日引っ張りだこになった、中堅芸人である。




この日の収録は3本撮り。
今はその3本目に入っている。

MCもメンバーも少し疲れが見えるどころか、
アドレナリンが出てきて、
どんどん調子の出てくるメンバーがたくさんいる。


そして、この日の収録は
自分の未来を語る「妄想将来トーク」という内容だった。



事前にアンケートで記載した内容を、
番組スタッフが巨大なパネルにし、
指名されたメンバーが前に出て、説明をしていく。


所々隠された「めくり」をめくって、
MCがツッコミを入れたり、
その隠された内容を
メンバーが当てようとして、笑いが起きる。




「さて、50歳でロコはあるものを作ります。
 なんだと思いますか!?」

「え~、なんだろう。誰か分かる人いる?
 あ、横山分かる?」


ひな壇からピシッと腕を伸ばす横山奈緒が指名される。


「はい! ロコのことなんで、
 これは、島を作りますね」

「島!?」



「もう建物とかアートとか飽き足らず、
 まるまる一個、島です」

「一個て……。すごいですねえ。
 さあ、じゃあこれはなんでしょう?」

「奈緒さん実に惜しいです!
 これはですね……よいしょ、じゃじゃん! ”人”です」



スタジオ内にはメンバーたちの悲鳴があがる。
思わずMCも立ち上がり声を張る。


「禁忌に触れるなァ!
 これは、妊娠とかそういうことじゃないんだよね!?
 みちこのことだから」

「ロコです。あ、これはそうですね。
 ちょっと50歳では中々高齢出産になってしまうので、
 人造人間です」



MCが勝手に呼び出して気に入っている仇名に
ロコは素早くも律儀に訂正する。

その辺りで「妄想将来トーク」、
ロコというアイドルのターンは終了した。

MCがまとめに入る。

「いや、最も恐ろしいことを計画している人が出ましたね~」

「あんな怖いこと考えてる奴、そうそういないですけどね!」





MCはひな壇に座るメンバーの顔をぐるりと一周見渡していく。
今のロコのターンの感想をメンバーに振っていく。

「志保沢はどうだったよ今の」

「ええ、……あの、良いと思います。ロコさんらしくて」

「ほんとかッ!? あんな怖いこと書いてんだぞ!?
 人間を造るとか……。ここにも怖いヤツがいたなぁ」

「ほら、北沢クンはああいうところあるから」

「とんでもないアイドルグループだぞコイツら……」



「わははは!」



スタジオ内にまた大きな笑い声があふれる。



「さて、じゃあ次の方行ってみましょうか?」

「みんな本当に色々書いてましてね。
 次ねえ~。どれもこれも捨てがたいんですけどね~」


「……ふふ」


「どうした? ん? 木下、何かあったか?」

「木下クンのもねえ~、面白かったんですけれどね」



「いや、ふふ、ううん。
 なんでもないべさ……ふふふ。
 ごめんなさい。ふふ」


「どうしたんでしょうね。
 自分で書いた奴思い出して
 可笑しくなっちゃったんでしょうかねえ」

「怖いですね、木下クン。
 ツボにハマると抜け出せないのはあるけど、
 急にハマりましたからね」


「ふふ……あははは……!

 いやごめんなさい。うふふ、自分で、はは、書いたのと
 違う新しい妄想将来を思いついちゃって……クク、あはは!」




「ははは、めちゃめちゃウケてんじゃん。
 大丈夫か~? 一回収録止めるか~?」

「どうしたんだい木下クン、
 そんなに自分で考えた妄想将来が
 面白くなっちゃったのかい?
 ちょっとどんなの思いついちゃったんだい、教えておくれよ。
 このままじゃ我々も怖いからさ」



「あははっは、ははは!」

「あははは……いや、えへへ、あはは……。……はぁ」






「いや、たぶんみんなには……」






「…………」








「理解できないべさ……」







END



お疲れさまです。
以上になります。
お目汚し失礼いたしました。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom