大崎甘奈「恩返し」 (19)


それは、よく晴れた日のことだった。
稲穂が風に吹かれて、金色の海が波打っていて、あとの視界にあるものと言えば、空に浮かぶ薄く伸びた雲ぐらい。

美しくのどかな景色に心を奪われながら、視線を隣に泳がせる。

そこには、額に脂汗を浮かばせているプロデューサーさんがいて、甘奈はごくりと唾を飲んだ。

しきりに「なんで」だとか「どうして」だとか、そのような言葉を繰り返すプロデューサーさんの隣を、甘奈は黙って歩くしかなかった。

もう、かれこれ数時間、この状況が続いている。

視線を正面に移す。
まっすぐに伸びたあぜ道には看板や柵などの一切の人工物はなく、地平の先まで続いている。
後ろを振り返っても同様で、左右は地平の先まで田んぼだけ。

前に進むしかない。

何もわからないままに、プロデューサーさんとそう決めて歩き出してから、ずっとこうだった。
引き返したほうがいいとも思えるけれど、既に数時間歩いている上に間もなく陽も落ちる。
道が続いている以上は進むほかなさそうだった。そういう結論をプロデューサーさんが出した。

「甘奈。足、痛くないか……?」

苦虫を噛みつぶしたような顔で、プロデューサーさんが甘奈を見る。
彼の問いかけに「うん、大丈夫だよ。それにしても、スニーカーで来てよかったよー」といつもどおりを返す。

それが却ってよくなかったのかもしれない。
プロデューサーさんは、甘奈の足を一瞥して、いっそう顔を青白くさせて「そうか」と呟くのだった。

甘奈、何かおかしなこと言ったのかな。

変なプロデューサーさん。

確かに、状況はおかしなことになっちゃってるけど、プロデューサーさんだっているし、甘奈はあんまり不安じゃないのに。
どうしてあんなに慌ててるんだろう。

そのようなことを考えながら、プロデューサーさんの歩調に合わせて、甘奈はただただ足を無心で動かす。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1605456088


それから、どれくらい経ったときだったか。
不意に、鈴を転がすような心地の良い声が前方からして、甘奈は視線を上げる。

にゃー。

声の正体は、つやつやした毛並みの黒猫だった。

にゃー。

「プロデューサーさん! 見て!」
「…………甘奈?」
「猫だよ!」




それは、薄気味の悪い夕焼けだった。
昨日までの日没時刻は、まだまだ先だったはずだ。
なのに既に太陽は落ちていて、べっとりと付着した血のように赤黒い空がただただ広がっていた。

正面には、どこまでも続いているかのように思える、地平の先まで伸びたこれまた赤黒い道。
後方も同様だ。

ちょうど、富士山を下山する際の道がこのような色だった、と意味のないことを思い出しかけた頭を振って、視線を左右に移す。
そこには今にも崩れそうなアスファルトの壁がどこまでもあって目視できる範囲内には終わりは見えない。
その閉塞感たるや、尋常のものではなかった。

そのような状況にありながらも、隣を歩く可憐な少女。
芸能プロダクションに務める俺が担当しているアイドル、大崎甘奈はいつもと変わらない調子どころか、寧ろ楽しそうだった。

それがいっそう薄気味の悪さを色濃くさせて、俺は発狂する一歩手前まで来ていた。

もう、かれこれ数時間、この状況が続いている。

俺たちの間に会話がなくなってからどれくらい経っただろうか。
甘奈は依然として明るい調子で俺が何か言えばあれこれと返してくれている。

数時間歩いているにもかかわらず、だ。

一切の疲れを感じさせない甘奈の足を覆っている靴。
ピンクのかわいらしいそれは、左右非対称にヒールが折れていて、たくさんあったはずの装飾は既に剥がれ、土や泥にまみれて見るも無残な有様となっている。

こんな靴で、長時間悪路を歩いて靴擦れを起こさないはずがない。

けれども、甘奈の表情が苦痛に歪むこともなければ、彼女の歩行速度が落ちることもなかった。

それが、どうしたっておかしい。

「甘奈。足、痛くないか……?」

歩みを止め、甘奈の顔を覗き込んでおそるおそる訊いてみる。

「うん、大丈夫だよ。それにしても、スニーカーで来てよかったよー」

さぁっと自分の血の気が引いていくのがわかった。

どう見ても、彼女が履いている靴はスニーカーなどではない。
ではないのだけれど、甘奈が冗談を言っているようにはとても見えなかった。

ここで、甘奈の両肩を掴んで揺すり、正気を疑えたらどれほど良かっただろうか、と思う。

しかし、情けなくも俺は重々しく「そうか」と呟くことしかできなかった。


そして、次の瞬間に甘奈は喜色を露わにし「プロデューサーさん! 見て!」と叫んで、前方を指で示す。

彼女の指の先には、変わらず何もない赤黒い道が続いているだけなのだが、どうにもそうではないらしい、と俺は悟る。

「……甘奈?」
「猫だよ!」

矢のように飛び出していく甘奈に一瞬驚いて、すぐに我に返って追いかける。

追いかけるが、一向に距離が縮まらなかった。

体力では甘奈が勝る可能性はあるが、瞬発力や単距離での速度なら男の俺と甘奈では、俺に分がある。
そのはずだ。

だが、甘奈はぐんぐん遠のいていき、やがて見えなくなった。

頭の中では、甘奈の最後の言葉が耳鳴りのように反響している。




「ご案内。ご案内」

「ご案内。ご案内」

祭囃子みたいに、甘奈の前を先行してくれている黒猫がそう繰り返す。

すると、一匹、また一匹と言ったふうに田んぼの中から別の猫がやってきて、黒猫と同じように「ご案内。ご案内」と繰り返していた。

やがて、前も後ろも視界の限りの道が猫で埋め尽くされる。

その非現実的な光景に思わず笑ってしまいながら「すごいねー」と、甘奈は隣を見る。

そこには誰もいない。

甘奈は、誰に話しかけようとしていたんだっけ。

自分で自分が不思議で首をかしげる。
それを受けて、甘奈の前にいた黒猫が「どうかなさいましたか」と柔らかなほほえみを浮かべてこちらを振り向いた。

「んーん。なんでもないよ」
「それは重畳。もうすぐ到着いたしますので、もうしばらくのご辛抱を」
「はーい!」

黒猫の言葉どおり、すぐに景色が変わって気付けば甘奈は漆塗りの立派な門を潜っていた。
表札には『龍造寺』とある。

「立派なお屋敷だねー」
「ええ、ええ。そうですとも、そうですとも」

黒猫がうんうん頷いて、それに同調するようにたくさんの猫たちも「そうですとも、そうですとも」と繰り返す。

そして最後に「龍造寺様のお屋敷ですから」と数千、ともすれば数万の声が重なった。


黒猫の案内に従い、玄関から入り靴を脱いで揃える。
板張りの廊下をてくてく歩いて、様々な部屋を通過していったあと、お屋敷の最奥でひときわ立派なふすまが甘奈を迎えてくれる。

甘奈が近づいただけで、襖はすーっと自動的に開いて広々とした畳のお部屋が視界いっぱいに広がった。

今まで見た中で一番というくらい立派で大きな机が、お座敷を二分していて、両端に一つずつの計二つだけある椅子の一つに、ふさふさした毛の猫が座っている。

お部屋が広すぎるせいで、縮尺がわかりにくいがどう見てもその猫は甘奈の身長よりも大きそうだった。

「よくぞ! よくぞいらっしゃいました!」

天を衝くような、お腹の底に響くような重くて低い声がびりびりと甘奈の鼓膜を揺らす。
それに甘奈は「あはは。お邪魔します」と返した。

「今回、お招きしたのは他でもございませぬ!」

どん、と音がして次の瞬間その大きな猫はくるくると軽やかに宙返りをして、甘奈の眼前に着地し、擦り付けるようにおでこを畳に伏した。

「この度は、同胞が世話になった! ゆえに、感謝申し上げる!」

わっはっはっは、と大猫は笑う。七本もある尻尾は不規則にゆらゆらしていた。

「同胞?」
「以前、大崎様は寒さに震える幼子の命を救ってくださいましたでしょう!」

言われて、ようやく思い当たる。
公園で見つけて、甘奈が事務所に連れて帰ってきてしまったあの子。
最後には里親さんを見つけることができたあの子猫だ。

「えー。そんなそんな、甘奈こそあの子にはたくさん良い思い出もらったし、甘奈が直接何かできたわけじゃないから……」
「やはり! 大崎様は素敵なお方だ! 大したお構いもできませんが、どうぞごゆるりと過ごしていただければ! お望みのお部屋を用意させましょう!」
「えー。なんか悪いよー」
「皆の者! 大崎様を桜の間にお連れしろ! 夕餉にはお望みの物をお出ししろ!」

にゃー。

お屋敷のあちらこちらからそんな声が響いてきて、またしても黒猫が甘奈の前を「さぁ、こちらへ」と先行する。

まさか、こんなことになるなんて。

人助けならぬ猫助けはしてみるものだ、と思った。




甘奈を見失ってから、数分。
あれだけ歩いても辿り着くことができなかった“終わり”は唐突に現れる。

道が一枚のドアで隔てられていた。

そのドアは俺のよく知るドアで、幾度となく潜ったことのあるものだった。
そう、283プロダクションの玄関ドアだ。

全身の緊張が解け、安堵によるため息を俺はそっと吐き出す。

ここまで、この一本道だった。

であるならば、甘奈はこの先にいるはずだ。
そう思って、俺はドアノブに手をかける。
施錠されている、などということはなくそのまま引けばすんなりと開いた。

今朝にここを通って事務所を出たばかりだが、何年も会えていなかった友人と再会した時のような懐かしさを覚え、俺は玄関を潜る。
一歩を踏み出せばそこはもう、俺のよく知る事務所だった。

帰って来れた。

再びとなる心の底からの安堵の息を漏らし、俺は靴と靴下とを雑に脱ぎ散らかすと、そのまま廊下の床へと倒れ込んだ。

「……疲れた」

正真正銘の本音だった。
足はぷくぷくと張り、足の裏がじんじんと痛む。
喉も乾いたし、腹も減った。
まさに極限状態と言えた。

だが、そこで寝入らなかったのは気掛かりがあったおかげだろう。
甘奈の顔が脳裏をよぎり、俺は慌てて跳び起きる。

そうだ。
甘奈は、どうなったんだ。

ひたり、ひたりと素足で廊下を進み事務所の中へと入る
。壁に備え付けられた時計を見やれば、既に日付が変わっていた。

「誰もいるはず、ないか。……甘奈は、帰った……よな」

そこで限界が来た俺はソファへと倒れ込み、意識を手放す。




「それはとれたてぴちぴちのサンマですにゃん」

「それは自慢のシメサバですにゃん」

「カツオはお塩で召し上がってくださいませにゃん」

語尾が特徴的な、コック帽をかぶった斑模様の猫が机の上にずらりと並んでいる料理を一つ一つ説明してくれる。

そのほとんどがお魚料理なのは、やっぱり猫ゆえなのかな。
などと考えながら、一つを手でつまんで口へと運ぶ。

あれ? 甘奈、ご飯を食べるときには何か使っていたと思うけど、気のせいかな。

まぁいっか。
おいしいし!

ひとくち食べればほっぺが落ちるほどのおいしさで、次第に手が止まらなくなった。

料理長が説明してくれたものを口へと運び、次の説明を聞く。
その説明が終われば、説明があった料理を食べ、また次の説明。

そんなふうにして、全ての料理を食べ終える頃には、お腹もいっぱいになってきて甘奈は幸せな心地で満たされていた。

ばりばりと爪を畳で研いで、大きく伸びをする。
そして「甘奈、お昼寝するね!」と龍造寺様に言って、甘奈は丸くなった。

「ええ、ええ。それがいいでしょう。好きな時に食べ、好きな時に寝る! それこそが我らですからな!」

意識の外で遠く、わっはっはという声が聞こえる。




翌朝、俺は窓から差し込んだ陽の光で目を覚ます。
ゆっくりゆっくり回り始めた頭で、昨日の出来事を反芻する。

そうだ。
俺は、帰って来て、それで。

それで。

甘奈はどうなった?

一晩寝たことで疲れが取れたことにより、今度は別の不安が浮上する。
甘奈は、本当に無事に帰って来れたのだろうか。

電話をするにはまだ時間的には早いか?

そう思って、壁の時計を見る。

表示されている時刻は、まだ深夜一時だった。

そんなはずはない。
そんなはずはないのだ、と俺は慌てて立ち上がる。

だって、確かに俺は陽の光で目を覚ましたはずで。

半狂乱になりながら、窓を開け放ち身を乗り出して外を見る。
そこには赤黒い景色が広がっていた。

まだ、終わっていない。

棒切れにでもなってしまったかのように言うことを聞かない足に鞭を打ち俺は立ち上がる。

あの玄関を潜れば、もう一度あそこに行ける。

たぶん、いや絶対。
甘奈はまだ、あそこにいる。

そんな、根拠のない確信があった。




お日様によってぽかぽかに温められた岩の上に、ひょいと跳び乗り、甘奈はそこに腰を下ろす。

右前足をぺろり、と二度舐めて身だしなみを整えたあとで、のどかな龍造寺様の立派なお庭を眺めて、甘奈は目を細める。

幸せだなぁ。

「わっはっは。大崎様はここでの生活にも随分慣れたご様子!」
「うんー! ここ、めっちゃ楽しいよー」
「そうでしょう! そうでしょう! 心行くまで我が屋敷で寛がれるといい!」
「お言葉に甘えます!」
「わっはっは! 今日のお昼はニジマスを焼かせましょう」
「それ最高! 頭から丸かじり、だね!」
「大崎様もわかって参りましたな!」

満足そうに、龍造寺様は首を振って、立派なおひげを撫でている。
そのようにして、しばらく心地の良い沈黙が流れた後で、龍造寺様は眉間に皺を寄せて「む」と言った。

「どうしたの?」
「人間の侵入者、のようですな」
「えー! めっちゃ一大事! 甘奈、何かお手伝いすることある?」
「いえいえ。我が家来たちは優秀ですからな。人間に後れを取ることはありますまい」

わっはっは、と声を響かせながら龍造寺様はお屋敷の中へ入っていく。

まぁ、龍造寺様が言うなら、そうなんだよね。

などと甘奈は短絡的に考え、ぽかぽかの岩の上で丸くなる。
くああ、と欠伸を数度したあと、甘奈はもう意識を手放している。




事務所の玄関ドアを開けると、その先は見たこともないほど立派な漆塗りの門だった。
表札のような板には、がりがりとひっかいたような傷が無数につけられている。

直後、感じたのは背筋が凍るような敵意だった。

見られている。

何に、かはわからない。
だが、何かに見られている。
気味が悪いといった感情とは別個の、純粋な恐怖を感じながらも、俺は「ここまで来て引き返せるか」と自身を鼓舞して踏み出す。

それが合図であるかのように、屋敷の四方八方から「にゃー」という声が響いた。

猫?

そこでようやく俺は、気が付く。

――プロデューサーさん! 見て! 猫だよ!

行く手を阻むように、毛を逆立ててこちらを威嚇している夥しい数の猫を睨む。

「甘奈を返せ」




「■■! ■■■■!」

まっくろな人間がこちらを威嚇していた。

龍造寺様は大丈夫って言ってたのに、なんで、よりによって甘奈のとこに来るの。

恐怖で身動きが取れなくなっていると、瞬く間に人間は甘奈のところまでやってきて、甘奈を掴み上げる。

やだ。

やだ。


しかし、ぎゅっと目を瞑って何をされてしまうのかと震えていたが、何もされず優しく抱きかかえられ何度も何度も撫でられる。

「■■……、■■■?」

何を言われているのかはわからない。

でも、その手の温もりは何故だか懐かしい感じがして、甘奈は安心した。


ああ、そっか。
このまっくろは、スーツって言うんだっけ。

どこで得た知識なのか、自然とそれが思い出せて、そこから芋づる式に記憶が呼び起こされる。

「………………プロデューサーさん!」

甘奈の喉から押し出された声は、にゃーとは響かずに確かにそう発音できた。

「甘奈! やっぱり甘奈だよな」

今度は、プロデューサーさんの言葉も理解できて、気付けば甘奈はプロデューサーさんの手の中から離れ、二本の足で歩いている。

「……よかった。ほんとに、よかった」
「ごめん。プロデューサーさん、甘奈……」
「いや、細かい話は後にしよう。まずはここを無事に出てから」
「……うん」

プロデューサーさんに手を握られ、引かれる。
屋敷中にいるはずの、数千匹の猫たちは不思議と甘奈とプロデューサーさんを襲うことはなかった。

ほどなくして、甘奈とプロデューサーさんは立派な漆塗りの門の前にやってくる。

門の先に、甘奈がここへ来た時にはなかったはずのドアが設置されていて、そのドアは甘奈のよく知るドアだった。
そう、283プロダクションの玄関ドアだ。

「帰ろう。甘奈」

慈しむような、柔らかな音が甘奈の耳に降り立って、ふんわり心を撫でてくれる。

プロデューサーさん、甘奈の順番に玄関ドアを潜る。
その最後の刹那ほどの間に、甘奈は「にゃー!」という野太い声を聞いた。




どうしてか、それが「またのお運びを!」という意味だと、甘奈にはわかった。


終わり。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom