二宮飛鳥「ヒジュラ」 (17)


 父に手を引かれて、記憶の中の少女は都会の夜を歩いている。それがいつだったのか、それが何処だったのかすらわからない。
 ひとつだけ確かなのは、その手を離すだけで生きていけなくなるほどボクは幼いということ。

 排ガスの匂い、ネオンサイン、壁の落書き、すれ違う人々──そのどれもが恐ろしく、そこに留まればいつかこの存在は融け出してそれらと混ざり合うだろう。
 それはどうしようもなく残酷で、醜悪で、キュッと父の手を握りなおした。

 街は融け合っている。そいつらは誰も認め合わないのに、いつもひとつになってボクを脅かしていた。


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「志希ちゃんは飽きたので失踪しまーす」

 アイドルとはなんだろう。ボクは、二宮飛鳥は、そんなことを考えている。
 どうしてアイドルなんて呼ばれるものになったのか。偶像? まったく、理解し難いな。こんな誤作動の寄せ集めみたいなのがアイドルというんだからね。

 そしてもうひとつ気になることがある。失踪とはなんだ? それは残された者たちの言葉じゃないのか。何を以って失踪と定義するんだい? そう問えば、キミはこう言う。

「さあ?」

 そうだな、その意味はいつも違うとか言うんだろう? さっきもそうやって煙にまいていたじゃないか。
 いや、そもそも意味なんてないのか……ああ、だからその失踪とやらについて行こうと思った。明日はキミのライブだ。もちろんボクもメンバーとしてレッスンしなくちゃいけない。
 それなのにいつもこうして衝動に突き動かされる。人間というものは果たして厄介なものだね。

「飛鳥ちゃん、エモーションこそ人間の根源だよ!」

「やれやれ。簡単そうに言ってくれるなよ、天才娘」

 この感情は度し難い。それはよく知っているつもりだ。あの頃から根底は何も変わらない。


 いつの間にか、ボクにとって知らない場所などなくなった。もちろん地球の隅々まで何もかも知り尽くしているわけではないが、言うならばボクたちはその術を身につけてしまった。

 なにも科学の進歩だとか、そういう小難しい話をしたいんじゃない。それは自我意識のゆえに、それを知ることができるという話だ。
「知ろう」と意志することができる。もはやこの身体は偶然の産物ではなく、ある日に靄を抜けた瞬間からボクはボクになった。ボクはボクを意志するようになった。

 幼い頃のようにもう街の中で迷うことはない。父の手も必要ない。ただ孤独だけは癒えずに……むしろ父の手を離してしまったがために、或いは無知の恐怖を克服することと引き換えに、ボクたちは冷たい孤独を手に入れてしまった。

 そこまで考えて、かつてのあの街は永遠の傷を舐め合う者たちの集まりだったのだと思い至り、ゾッとした。
 弱く凡庸なボクはすぐその一員になってしまいそうだから。
 弱さよ、惨めさよ、その手を引っ込めてくれないか。これ以上ボクのことを誘いださないでくれ。
 


「ヘイ、タクシー!」

 キミはそう言って陽気に乗り込んだ。行き先を尋ねられると「オススメで~」と言った。勘弁してくれ、ここは寿司屋か何かか?

「山田さんと向かう恐怖のミステリーツアー! ぱちぱちー」

「確かに彼は山田さんのようだが、そんな客があるか。運転手さん、こいつの言うことは無視してください」

「ちょっと飛鳥ちゃんそれじゃ失踪になんないよ? 失踪は『どこかに行っちゃった』の。向かう先が決まってるのは移動か旅じゃない?」

「そうは言っても電車に乗るのだって歩くのだって一定の判断は働くだろう」

「なにそれ、テツガク? 志希ちゃんそういうのつまんないしどうでもいいからさ~、にゃはは! まあ確かにある程度は自分の意志が働くかもよ? だーかーら、山田さんに任せるときも必要ってわけ。ああ! 山田さんのいない人生の、なんとつまらぬことか!」

「そういうわけのわからないのはフレデリカとやってくれ。まったく。それで、どうするんだ?」

「んー、やっぱタクシーやーめた」

「は? いやちょっと待ってくれ! さすがにそれは迷惑すぎる」

「だって飛鳥ちゃんが~」

「わかった、キミの言う通りにしよう。というか、山田さんの言う通りにしよう……それでいいんだな?」

「そうだねー。正直乗り気じゃなかったんだけど、まあ飛鳥ちゃんがそこまで言うならしょーがないか」

「コイツめ……」


 山田さんは初老の男性で、優しい笑顔を浮かべながらボクたちを連れ出してくれた。
 料金の限度を決めた方がいいんじゃないかと志希に提案すると、二万円くらいでとだけ言ってそれきりひと言も口を利かなくなった。
 まったく、何を考えているのか。

「志希ちゃん、なーんにも考えてませーん」

「心を読むな。キミはそんな芸当までできるのか?」

「なんとなくだよーん。でもさ、人間の脳ってミラーニューロンで繋がってるの。飛鳥ちゃんが山田さんを警戒してるのはさ、山田さんがあたしたちからの評価を気にしてるのがうつってるのかもしれないよ。人間ってそうやって牽制し合ってるんだって」

「あまり失礼な発言はするんじゃない」それだけ言って今度はボクが考え込んだ。志希は鼻歌を歌っている。

 気づけば、ボクはボクが意図しないところへ向かっていた。
 思い返せば、志希といるといつもこういう気持ちを抱いていた。だからついて行く。

 あの暗い街を思い出すような、それでいてどこか懐かしくて、心はどうしようもなく何かを求めている。
 ボクは弱くて、無知で、キュッと胸が締め付けられた。志希、キミといるからだ。


 どれくらい走ったのだろう。メーターはぐんぐん上がって一万円を通り過ぎていた。
 山田さんは優しそうな人だが、金銭面では容赦がないらしい。まあそれが客の要望なんだ、彼にはどうしようもないか。

 正直に言うと少し不安だった。だから志希に何度か確認した。本当に払えるんだろうな? 小声で尋ねると、「大丈夫大丈夫」だと。まったく信用できないね。まあいざとなればプロデューサーに頼るしかない。

「そんな飛鳥ちゃんにはこれを貸してあげよう! じゃーん、アイマスク! これでもうメーター見えないでしょ? 数字に囚われるなんて飛鳥ちゃんらしくないよねー」

「そんなもの頼んだ覚えはない! だいたいなんでこんなもの持ち歩いてるんだ? 本当は旅行好きなんだろ」

「んーん、これプロデューサーの。ロケバスで使ってたの貰った。最近まで匂いつきだったんだけどもう賞味期限切れでね~、だから飛鳥ちゃんにあげる」

「いらないよ」

「いいからいいから。これをプロデューサーだと思って」

「余計につけにくいだろ」

「にゃはは。まあ疲れてそうだし寝ててもいいよ? お姉ちゃんが起こしてあげるから」

「はぁ。つければいいんだな?」

 それをつけると、どちらかと言えば志希の匂いがした。
 また真っ暗になって少しの戸惑いを覚える。

 ボクは何処まで来たのだろう。教えてくれ、誰か、誰か。


 運転席の真後ろで、右側の景色を感じるために窓を開けたかった。
 手探りで開けた窓からはまだ排ガスの匂いがして嫌気がさす。

 ああ、いつ着くんだ? 何処に着くんだ?
 何処にも向かっていないのに、終わりなんてあるわけがない。永遠は永遠に続いていく。アイドルたちは、それが恐ろしくないのか。

 ボクは怖かった。本当は何も理解っちゃいない。ここが何処かも、何処へ向かっているのかも知らない。
 靄から抜け出しボクがボクになった瞬間から、その思い上がりが始まっていた。

 志希、キミはまだ靄の中にいるのかい?
 無邪気なのか、それとも。いつも常識から外れようとする。誰のものでもないな、キミは。

 でもそうだとすれば《一ノ瀬志希》自身さえ本当はキミのものじゃないのかもしれない。ああ、そういうことだったのか──

 少し微睡んでいると、ボクの左手に志希の手が触れた。キミは右手ではなくて左手を重ねていた。きっと身体をひねりそうしているのだろう。

 ボクはキミの視線を感じていながら寝たふりを続ける。まあ、バレているのかもしれないが。

 随分遠くまで来た。まさか山登りする羽目になるとはね。
 すっかり日も落ちて、空には普段見れないほどの星が広がっていた。足下では木の根が地を割って、その真下にはたっぷりと水を飲んだ土があって、それらが清涼な空気を生み出している。
 それくらい、ボクにだってわかるさ。

 名も知らぬ山の中腹へ、導いたのは誰だろう。一ノ瀬志希か、或いはボクの知らない《二宮飛鳥》か──まあ、たまにはこういうのも悪くない。

「星がよく見えるね~」

「星を見に来たのかい?」

「んーん。別に。ただこの山が目についた時からなんとなく登りたいなーって思ってて、いつの間にか夜になっちゃってたってゆー」

「星か……そういえば星座になるだとか歌っていたな。ああいう夢物語に対してはつい斜に構えたくなるんだが、職業柄そうもいかなくてね」

「あたしたちアイドルだもんね」

「彼らは、本当にそんな風に思っているのだろうか。星を見るようにボクたちを見ているのだろうか」

「見てると思うよ?」

「どうしてそう断言できる?」

「簡単なことだよ。人間は知らないものを理解しようと努力する。それが叶わないとき、拒絶したり崇めたりする。そして名前をつけて安心する。あたしたちの頭の中で飛び交ってるアレコレも、例えば召命だとかβ-エンドルフィンだとか……宗教的か科学的かで命名が違っても経験としては同じものだよね。だから星座が古代の呪いの類いだとしても、今あたしたちの身に起こってることと大差ないってわけ」


「人間は何千年経っても進歩も調和もないというわけかい?」

「むしろ退化してるかもねー。なんでも知った気になって、何処にでも行ける。本当はずっとパパのところにいた方がよかったのかも。ママの言う通り、ママの希望になればよかったのかな」

「でもそうもいかないんだろう? 感情がすべてなキミにとっては。ボクにはとても恐ろしいものに思えるけどね……感情なんてものは度し難いシロモノさ」

「へぇ。じゃあじゃあ、感情って合理的なものだと思う? 非合理的なものだと思う?」

「ははっ。合理的なわけあるかい? 愚問だね。こいつほど非合理で理不尽なものもないさ」

「ぶっぶー! ざんねーん。感情は合理機能なんだよ」

「なぜそう言える。キミが合理的なやつだと思ったことはないが……」

「うん、あたしという現象は非合理かもしれない。でも感情っていうのは判断するシステムなのだー。例えば……飛鳥ちゃんは蘭子ちゃんのこと好きでしょ?」

「ああ……友人として好ましい存在だよ」

「じゃあもし蘭子ちゃんが法を犯しちゃったらどうする?」

「社会的には許されないだろうが、ボクは彼女の事情を知ろうと努めるだろうね。愉快犯的に悪に堕ちる人間だとは思えない」

「イグザクトリィ! つまり二宮飛鳥は神崎蘭子を好ましい存在としてカテゴライズしたでしょ? その上で合理的規律を破った者に味方する……それがエモーション! 感情だよ。飛鳥ちゃんは感情という名のシステムに従って判断できる。だから感情は合理的なものなのだ」

「合理的規律を破るって言ったじゃないか。そこは矛盾しないのかい?」

「それは非個人に由来する規律。論理的な矛盾を排す法の束でしかない。でもあたしたちは矛盾を許して先に進むことができる。それは個人に由来する別のルール! だからあたしはあたしのもの。感情とは、『矛盾するあたし』を許せる、人間だけに与えられた機能である──copyright by SHIKIちゃん。にゃはは!」


「『あたし』──つまりキミ、志希は、一ノ瀬志希という現象を合理的に制御できる感情体というわけかい?」

「制御できてるかはわかんないしー、その必要もないね。ただ愛してあげるの。それは即ち身体性のポエジー。あたしがあたしを愛してあげる。時よ止まれ、お前は美しい……そう言ってあげる」

「ファウストか……ボクから見れば一ノ瀬志希は悪魔のようなやつだけどね」

「そうなんだー。でも誰だって出会うんじゃない? あたしも最初は感情なんて信じてなかったし、そんなものは生理学的に解明できるシナプスでしかない。人間が反応でしかないって報されたら虚しくなるよね。世界はなんのために存在するのか~って、あたしも人並みに考えてみたよ? テツガクしたの! でもなーんにも解決しなくて、もうあたしは出来損ないの連鎖反応でしかないんだって諦めてフラフラしてたら、悪魔に出会った」

「メフィストフェレスが、感情を教えてくれたというのか? そこまで君を連れて行ってくれたと」

「うん、そうだねー」

「ならキミの魂はもうじき喰われるな。地獄行きさ。そういう契約だったろう?」

「にゃははは! そうだ、そうだったね! あたしのエモーションも明日まで。うん、あたしはみんなを愛してる。あたしがある瞬間に対して『時よ止まれ、お前は美しい』と言ったなら、もうキミはあたしを縛り上げてもいい……メフィストフェレス、キミとそういう契約をした!」


 ボクたちは登ったところから反対方面へ下山し、そこで海を見出した。志希は気づいていたという。
 森林の柔らかい香りに紛れて、雄大な潮の薫りが彼女の嗅覚を刺激していた。ボクは目の前に来るまでそれに気づかなかった。

 海辺には旅館があり、ボクたちはそこに泊まることにした。
 考えてみれば志希もボクも未成年で補導されてもおかしくなかったが、旅館を経営する老夫婦は何も聞かずに受け入れてくれた。

 志希は金だけはあるらしく、ポケットからぐしゃぐしゃの一万円札を何枚か取り出しいい部屋に泊めてくれ、食事も豪華で食べきれないほどの料理が運ばれた。

 恐らく老夫婦の計らいでいくつかサービスがあったのだろう。次々出てくる海の幸に志希の興味も幾らか続いていたし、珍しいと思えるほど好意に甘えていた。
 機嫌がいいじゃないかと尋ねると、志希は満足気にいつもの笑いを零した。


 夜深い露天風呂は貸し切り状態で、志希はタオルも纏わず駆け出しボクもそれに従った。
 浴場の岩に腰掛け脚だけ浸からせると、やはりと言うべきか……キミの脚は大人しくない。

「パラケルススのメルジーネよ! ばしゃばしゃー!」

「やめろ、熱いだろう」

「飛鳥ちゃんはパラケルスス知ってる?」

「錬金術師だろう?」

「そうそう。前に錬金術師のコスチュームで撮影したの、あれは楽しかったにゃ~」

「もはや蘭子と区別がつかないな」

「んー、蘭子ちゃんは素材だよね。ああいうのはアレゴリーって言うの。あたしたちは術師でしょ?」

「キミの口から素材というと物騒だ。まったく、蘭子だけは玩具にしてくれるなよ」

「約束できない!」

「偉そうに言うな」

「だって~、あたしが蘭子ちゃんのこと気になり出すかもしれないよね? 蘭子ちゃんの緑青が真のプリマ・マテリアになるかもしれないよね?  錬金術師曰く、我らが金は卑賎なる金にあらず。やがて我らが真正なる黄金に変ずるは、かの緑色なるが故なり……と!」


「日本語で頼むよ、天才娘。何を言ってるかさっぱりわからない」

「んー、正直あたしも何言ってるかわかんないんだよね。多分、錬金術師たちは黄金を作ろうとしてたんじゃないってゆー。それはあたしも同じ」

「そもそもキミが本気で錬金術の実験に傾倒していたことに驚きを隠せないが」

「にゃはは! 喩え話だよーん。まあでもあたしがするケミカルの実験だって似たようなことでしょー? ファジーな反応を求めてるの。あたしが欲しいのは一定の解じゃない。もっと何か曖昧なもの、あたしみたいに曖昧なもの。矛盾だらけの人間が、角張った答えに心を寄せられると思う?」

「はは。確かに、奏さんに怒られそうな話だな。わかった気になるな……ということか」

「あの時は奏ちゃんが素材だったんだけどね~。怒られちゃった、志希ちゃんションボリー」

「そういうことだったのか……タチが悪いなキミは」

「錬金術師曰く、曖昧なることを説明するに、一層曖昧なることを以って……それがあたしのポリシー! 曖昧なる奏ちゃんを説明するに、一層曖昧なる志希ちゃんを以ってして!」

「それは是非やめてくれ。また怒られる」

「これは愛、志希ちゃんの愛なのだー!」


 早朝に目を覚ますと、隣で寝ていたはずの志希の姿がなかった。
 一瞬狼狽えて、昨日露天風呂で愛を歌った姿を思い出しそんなはずはないと思い直したが、彼女のつかみどころのなさにまた少し不安になった。

 やれやれ、何処へ行ってしまったのか。とりあえず旅館の人に尋ねよう。そうして起き上がると、ボクの服が畳んである横に彼女の服がまだ散らかっていた。
 なんだ、浴衣のまま散歩でもしてるのか?

 部屋のある三階から四角く区切られた中庭を見渡すとそこに志希を見出した。
 キミがこんなにも簡単に見つかることがあるかい?
 朝の独特な光輝に照らされて、少し感傷的になった。

 一ノ瀬志希は、今日のライブを少しでも気に留めているのだろうか。
 ボクはそんなことをキミの内側に入り込んで考えた。
 曖昧なキミの心を、ボクの曖昧さで埋めたりする。その輪郭線いっぱいにボクを満たす。
 それで何もわかるわけがないが、優しい気持ちになれたことは確かだと……そう白状しよう。


 幼い頃の名も知らぬ場所の記憶が、ふっと薫るように立ち込める。
 キミのお陰で、何処か知らないところへ、ボクの意志なく辿り着いた。
 少なくとも今この瞬間だけは、ボクたちは彼らの規律から脱落している。

 キミは顔を上げてボクを見出す。
 無邪気に笑うその姿を見て、ひとときだけ言葉を捨てた。

 硝子を隔てて、ボクたちは笑い合おう。



  Ende.


終わりです。

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