優子「希美、部活やめるってさ」 (15)


「ねえ。夏紀はさ、これまで吹部を辞めたいって本気で思ったこと、あったりする?」

「……なにそれ、どういうこと?」

二年生の夏。あがた祭りの名物でもある神輿担ぎが始まるまでのあいだ、見慣れた街並みの家々の灯りが消えた頃、
暗闇がすっぽりと街を覆いつくした時間の中で、私はどこか感傷的な気分に浸っていた。

不機嫌そうに口を尖らせる夏紀を無視して、私は言葉を続ける。

「私はさ、結構あったよ。何度も思った、こんな部活続けてても意味ないって。ぜったい辞めてやるって。たぶん、本気で考えてた」

その気持ちは、南中で吹奏楽をやっていたときの私なのか、それとも北宇治で“あんな”連中に心の底から嫌気がさしていたときの私なのか、それは今の自分にも分からなかった。

だけど、その時の感情はきっと、本物で。私はそれを否定する気など、ひとつもなかった。



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「もしかして、まだ気にしてるの? 去年のこと」

頭の後ろで手を組んだ夏紀は、すごく乾いた声でさらりと私の心を覗き込んだような問いかけをする。
私は何も言わず、すこしはなれた場所でちかちかと光る屋台の灯りを見つめていた。

「べつに。私はそんなこと、思ったことはないよ。もっとも、そう思えるほど何かに打ち込んだ経験もこれまで一回もなかったし」

だから、逆にそういうのちょっと憧れる。夏樹は冗談を欠片も感じさせない声で、そうこたえた。

「だけど、珍しいじゃん。優子がそんな話するの」

「まあね。なんだかふと思い出しちゃってさ。でも、もう忘れて。……ほんと、なんでこんな話アンタにしちゃったんだろ」

「なーんだ。てっきり、あの優子先輩も、オーディションを前にしてついに怖気づいたかと思った」

誰が怖気づいたって? と眉間に皺を寄せる私に、夏紀はいつもの笑顔を浮かべながら、ひとりでお腹を抱えていた。


それからしばらくして、北宇治高校吹奏楽部は全国大会という舞台に華々しく出場を決めることになる。

そこにたどり着くまでにあった、たくさんの物語の数々は、今は置いておこうと思う。

これからするのは、そんな茹だるような熱い夏がはじまる、ほんのすこしまえの話なのだから。


 ◇


「中学校でトランペットパートを担当してました、一年生の吉川優子です!」

「ああ、うん。吉川さんね、これからよろしくー」

パートの振り分けが終わり、二年生と三年生の先輩に挨拶を元気よく済ませた私は、まず一発目の肩透かしを受けることになる。

北宇治高校は過去には吹奏楽コンクールで全国大会の出場も果たす強豪校とは聞いていたけれど、顧問が代わったことでその姿は見る影も無くなり、今では地区大会で銅賞をもらうような弱小校に成り下がっていた。

入部前までは内心その事実に半信半疑ではいたものの、部内全体に纏わりつく怠惰な空気を、私は自らの肌でたしかに感じていた。

「それでさ。今日、部活終わってからどこ行く?」

配属してすぐに始まった一年生の自己紹介が終わると、どこからともなく名前も知らない三年生のひとりが口を開いた。

ふと気が付けば、それに加わるように既に自分たちの会話が始まっていて、
所在の行き場を失った私を含めた一年生は、手持無沙汰のまま、机の上にお菓子を広げだした先輩たちを、籠の外に放り出された文鳥のように、ただぼんやりと眺めていた。


「優子、ペットパートの方はどうだった?」

今日の練習が終わり、マウスピースを水道で洗っていた私に、誰かが軽快に肩を叩く。
振り返ると、そこには銀色のフルートを片手に爽やかな笑顔を向ける、希美の姿があった。

私はため息混じりに視線を落とすと、指先で金属のふちを優しくなぞり上げる。

「……んー、想像以上。フルートは?」

「たぶん、そっちと同じ。愛想笑いしすぎて頬が痛くなっちゃった」

内緒話に声をひそめあげ、私たちはくすりと顔を見合わせて笑う。
こんな陰口を先輩たちに聞かれでもしたら、入部直後から目をつけられてしまうに違いない。

「中学の頃のスパルタ時代と比べると、なんか気が抜けちゃうよね。まあ、私的にはこっちはこっちで楽しいけど」

私はその意見に賛同することはしない。ただ相槌をうつように、うん、とこたえるだけだ。


一年に一回、私たちは、全日本吹奏楽コンクールと呼ばれる大会に出場する権利が与えられている。
京都府では、京都府大会がまずはじめに行われ、そこで勝ち上がれば、次に関西大会、そして最後には全国大会という順番で進んでいく。

私たちは、日々の練習を積み重ねながら、自分の技術をみがき、これらのコンクールに向かって、集団となって立ち向かうということになる。

だけど、私たちは、常に“空気”という目には見えない何かで縛られている。
吹奏楽部員にとって、これだけは時として、ひとりの力ではどうしようもないくらい大きな壁となって立ちはだかる。

ひとたび、集団としての足場が崩れ去れば、あとは引きずられるようにして、だいじに守ってきたはずの何もかもが無残に壊れはじめる。

今の北宇治は、すでにそうなってしまった跡だけが、ひどく歪んだかたちで残っていた。


「でもさ、希美の中では変わってないのよね」

「ん? なにが?」

希美はいつもの調子で目を少しばかり見開くと、洗い場に立ち尽くす私からの言葉を待つ。
頭のリボンを右手でいじりながら、やはり恥ずかしげもなく私はその期待に応える。

「全国、行くんでしょ? 北宇治でさ」

「ふふ。もちろん!」

目じりを下げた希美は、同じパートの同級生に名前を呼ばれると、私にそそくさと手を振って、そのまま教室の中へと入っていった。

私はその姿をちいさく見送ると、水に濡らされて、きらきらと輝く自分のマウスピースをまじまじと眺める。


「……全国、か」

たった一年ばかりの記憶が、もう既に遠く昔のことに思えた。
南中の全員で一丸となって挑んだコンクール。その晴れ舞台で、私たちの団体は、銀色に光る不名誉な称号を得た。

努力が報われないことなんて、普通に過ごしていれば、きっと誰しもが経験することで。
私だって頭では何度も自分にそう言い聞かせてはきたけれど、だけど、そうはいっても心の奥底にはいつだって割り切れない感情が沸々と過去の凄惨な記憶を思い起こさせる。

私たちは、あの日、負けたのだ。
コンクールという魔物に立ち向かい、それで、あっけなく負けてしまったんだ。

そのことを誰よりも悔しがっていたのは、部長を務めていた希美だった。

だからこそ、希美は、この部活で、この北宇治高校吹奏楽部で、今度こそ全国大会に行こうと考えている。

私も、その気持ちは同じだった。あの夢の舞台に立って、自分自身のトランペットを鳴らしたいと、本気でそう思っていた。


「あの、優子ちゃん。ちょっといいかな」

ぼんやりと水面を眺めていた私の肩を、再び誰かが叩く。
はい? と振り返ると、そこには金色のトランペットを携えた二年生の先輩が、こちらの様子を伺うように立ち尽くしていた。

その桃色に光るおおきな瞳は、目の前のわたしを見据えたまま、ただただ申し訳なさそうに揺れている。

「あっ、ごめんね。とつぜん下の名前で呼んじゃって。すこし、馴れ馴れしすぎたかな」

「ああ、いえ、それはぜんぜん大丈夫ですけど。えーっと、その、」

私が言葉を詰まらせていると、その先輩は何かに気付いたかのように、ぱんと両手で手を鳴らすと、そのまま私に向けて丁寧に会釈をした。

「そう言えばまだ自己紹介がまだだったよね。私は、二年生の中世古香織です。優子ちゃんとおなじで、トランペットを吹いてます。これからよろしくね」


「中世古先輩、ですか」

「ふふ。優子ちゃんも、私のこと、下の名前で呼んでくれるとうれしいな」

そう言って香織先輩は屈託ない笑顔を私に向けた。その裏表を感じさせない天使のような微笑みに私はくらりと頭が遠くなりそうになる。

さっきまでは三年生のあまりに横暴な態度に腹を立てていたせいで他の二年生の先輩に目を配るほどの余裕がなかったけれど、同じパートにこれほどまでに綺麗な先輩がいてくれることに、私は少なからず興奮していた。

香織先輩。その耽美な響きに、まだ出会って間もないはずの私は、思わず酔いしれそうになった。


「それで、あの、私に何か用事ですか?」

ようやく絞り出した私の声に反応するように、香織先輩はすこしだけ眉をさげる。その表情はどこか、困っているようにも思えた。

「さっきはごめんね。一年生が来てくれたばっかりだったのに、あんな風に邪険に扱っちゃって」

本当はみんなで仲良くできればいいんだけどね。香織先輩はまるで自分が悪いことをしてしまったかのような口ぶりで頭を下げていた。

「そんな! 香織先輩はなにもしてないじゃないですか、むしろ悪いのは――」

「優子ちゃん、」

優しく咎める香織先輩の声に、はっと顔をあげる。
分かっていたはずなのに、いつの間にかこの場では言ってはいけないことを口走りそうになっていた。

そんな私にやっぱり香織先輩はやわらかい笑みをこぼした。


「そう言えば、さっきフルートの一年生と話していたみたいだけど」

「希美のことですか?」

私が尋ねると、香織先輩はちいさく首を縦に振った。

「同じ学校だったんですよ。傘木希美って名前で、中学では部長やってました。南中から吹奏楽をやってた子、他にもたくさんいますよ。ほら、あっちでオーボエを吹いてる子も、そうです」

私は教室の向こうでひとり音を鳴らす女の子を指さし、あの子は鎧塚みぞれって言います。と付け加えた。

「ふふ、そうなんだ。今年は頼もしい後輩がたくさん入ってくれて嬉しいな」

そうして、しばらくの間、香織先輩と話していると、ふと後ろから香織先輩を呼ぶ声が聞こえてきた。
それが三年生の先輩であることを私が知るよりも先に、香織先輩はこちらを気にするように「ごめんね、」とちいさく手を振り、名前を呼ばれた方へと足早に駆けて行った。

私は、そんな香織先輩の姿が消えて見えなくなるまで、振り返した手をとめることはなかった。

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響けユーフォニアムから、二年生組の過去話になります。
(なので今回は久美子たちは話にでてきません)
また、アレな表現もあるので、苦手な人は注意してください。
ゆっくり更新していきます。

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