これは稀代の女難に見舞われた、ある一人の男の話である。
===1.
事の始まりは午前のこと。連勤の疲れが出て来たのか、
はたまた日頃の無精が祟ったか、もしくはそれぞれどちらもか。
兎にも角にもP氏は不覚のうちに接触事故を起こしたのだ。
「明日は待ちに待ってた休みだ」とか、
「早く家に帰って眠りたいな」なんてことに意識をやってたせいもあるのだろう。
前方不注意怪我一生。
とにかく注意力が散漫になっていたことを否定することなどはできやすまい。
不幸にも事故現場となってしまったのはいつもの如く765プロ劇場。
P氏が資料を詰めた大きくて重たい段ボール箱を抱えて階段を上っていた時の出来事だ。
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「や、やっぱり少し無茶だったか……?」
口から不安がこぼれ落ちる。
なにせ彼の視界は二段重ねの段ボールによって
見事に遮られていたのだからそれも当然のことだろう。
普通に前に進もうにも、そのままでは行く先すらまともに確認ができない状態だ。
そうしてそんな有様だったからこそ、
P氏は階段を駆け下りて来た一人の少女に気づくのがついつい遅れてしまったのだ。
分かった時にはもう手遅れ。ぶつかる衝撃、響く悲鳴。
踊り場に乗せばかりの彼の足は宙に浮かび、
持っていた荷物は放り投げるようにして後ろへと。
……P氏の運命は定まった。
まず、このまま階段を転がり落ちるのは間違いない。
この先に待ち受けるのはカタい、カタい、廊下である。
叩きつけられれば恐らく凄く痛いだろう。
いくらやせ我慢が特技のP氏でもこれには泣いてしまうかもしれない。
いや、泣いてしまうに決まっている。
大の大人が痛みに涙するのは随分と格好悪いことだ。
だが、そう悟った瞬間に氏は驚くほど冷静になっていた。
荷物のことは諦めよう。
俺が怪我をするのも仕方がない。
けれどもだ。
抱えていた荷物の代わりに飛び込んで来た相手を傷つけるのだけはよくないな、と。
大体ここは劇場だし、相手は女の子なのだし、
そうなると十中八九この少女は、P氏の知り合いであるアイドルの誰かということに。
骨折なんてされちゃ"コト"だ。
そう思ったP氏は自分をクッションにするためにその子の体を抱きしめると――そのまま下へ一直線。
一足先に落下していた段ボールから飛び出しているファイルや書類、
広告といった紙の山の上へと背中から落ちて行ったというワケだ。
結果、医者から下った診断は『ぎっくり腰』。
もし紙の束の上に落ちて無かったらもっと酷いことになっていた可能性もあったと言うのだから、
数日のあいだ腰に痛みを覚えるだけで済んだのは不幸中の幸いだと言える。
なにより彼にぶつかって来た少女の方はかすり傷一つ無かったと聞き、
また顛末を知った社長からも
「まぁ明日だけと言わず二、三日はそのまま家で休みたまえ。腰痛を甘く見ちゃあイカン。
かくいう私もいい歳だ、とても他人事には聞こえなくてねぇ」
なんて有難い言葉を貰い、P氏も一先ず安堵のため息をついたのだ。
……しかし、労災は下りず有給も認められなかった。
「む、う。それでも、腰が痛むっていうのは想像以上にしんどいな……」
そうして、今はその日の午後である。
P氏は自宅のベッドの上で独りごちた。
そりゃあ彼だって仕事中は早く帰って眠りたいと思ってはいた。
が、早退してもやることが無い。
いや、正確にはやろうと思っても何もできない。
立ち上がることも屈むことも、まして歩くことすらままならぬ。
P氏は唸った。理由は単純、腰が痛んでしようがない。
例えるならばその痛みは、高圧の電流が体中を駆け巡るかのような。
だが、これではまるで恋である。
生憎とP氏はぎっくり腰に恋慕の情は抱いていない。
もしくは切り分けられた脊髄を、力任せに背骨ごと叩き出されるような。
こちらも何かに例えるなら、ダルマ落としのダルマになったような気分。
少しでも腰を動かすたび、彼を支えるドーナツ体は容赦なくハンマーによって弾き飛ばされていくのだった。
つまりはそれほどの痛みが襲うのである。
この辛さは身をもって経験してみなければ読者諸氏にも分からぬだろう。
それは人類が二足歩行を始めた時から逃れられないカルマでもある。
ピン! と伸びた背筋を得るために我らは永遠に解決されない腰への負担を
生まれながらにして強いられながら生きるのだ。
どのような動作にもたえず付きまとう腰痛は確実に人間をダメにする。
ダメになってしまった人間は次第にダメ人間へと変貌する。
つまるところベッドに寝ころんだが最後、かれこれ二時間近くは
横になったままのP氏は名実ともに堂々たるダメ人間だと言えるハズだ。
まず、間違いなく。
こういう時、他者からの手助けを期待できない一人暮らしというのは辛い。
炊事、洗濯、部屋掃除。P氏は持ち帰った資料の整理だってしなくてはならなかった。
メールのチェックだってある。録り溜めたテレビ番組を消化する必要だってあった。
彼が休みの間にやらなければならないことは山とあるが、
その為には痛みをおしてでも腰を動かす必要もまたあったのだ。
けれども少しでも動けば腰が痛む。
痛いのは嫌だ。痛むのが嫌だから動きたくない。
結果、P氏はベッドの上から何処へも動くことができないし動かない。
立派なダメ人間の誕生だ。
今となってはリモコンを取りに起きることすら億劫で、チャンネルを変えることのできない
つけっぱなしのテレビは毒にも薬にもならぬ相撲の取組を安部屋の中に流していた。
おのれ、天下のNHK。
次にP氏はやるかたのない気分で手元のスマホに目を向けた。
それまで二時間近くものあいだ彼とネットの海をクラゲのように漂っていた相棒の充電は残り少なくなっている。
心許ない。充電器はどこか? あった、部屋の隅に存在するコンセントに刺さったままである。
しかしベッドから充電器までの間には千里と言わぬ隔たりが。
これが体調も万全な普段の氏ならば軽やかなステップでその距離を大股のうちに渡っただろう。
だが今は腰が物を言わぬのだ。
僅かにでも体重を支えたが最後、ガラス細工のように繊細な腰骨は無惨にも砕け散ってしまうことが予想できた。
すなわちこの選択は心にとっての生か死か。
一時の悦楽を貪るために地獄の激痛に立ち向かうか、それとも安静と無為無聊による倦怠な時を重ねるのか。
今、平成の諸葛孔明もかくやと自称するP氏の判断力が試される。
「だったら俺は、こうするしかない」
長い熟考を経てついに、彼は決断し実行した。
スマホの電源を落としたなら自分の枕元へとポイ。
ワイドインチに映し出された汗だく力士たちに背を見せると、
この世の不都合から目を背けるように二つの瞳を閉じたのである。
それはこの場で取れる第三の選択。ふて寝、夢の世界へと。人、この行為を問題を先送りにすると言う。
そうして厄介事に背を向けた場合、往々にして別の厄介事が舞い込んでくるのも世の常だ。
残念ながらP氏もその御多分には漏れていないことが、その直後の出来事で理解できる。
鳴ったのだ。何が? インターホン。
一般ご家庭の玄関先には必ずついている呼び鈴が、
電子の音色がピンポンピンポンと視覚を遮断したP氏に「出ろっ!」と容赦なく急き立てる。
「居留守だ!」そう判断した氏の素早さは確かに諸葛孔明じみていた。
が、相手はその策を看破しているかの如く執拗にチャイムで責め立てる。
ピンポンピンポン、ピポピポピンポン。ピンポン、ピポン、ピピッピッピンポン――もはや嫌がらせ以外のなにものでもない。
あまつさえ相手は時間と共に簡単なリズムさえも刻みだした。
楽器となったチャイムによってマンションの廊下は大興奮のダンスフロア。
高まるグルーブにオーディエンスも熱狂する。
だがこのままでは近隣の皆様にもご迷惑だ。
騒音の発生源にされてしまえば大家さんからもお叱りを受けることは必至。
……ここは嫌でも動くしか道はあるまい。追い出されるのはマジ勘弁。
そう結論したP氏は無意識に体を揺らしながらベッドの上よりずり落ちた。
なるべく腰を庇いながら玄関までの匍匐前進。
辛い。脂汗が彼の額を流れ落ちる。
だが先ほどからゴキゲンなビートを刻む騒音馬鹿に罵声の一つも浴びせてやらねばP氏の気持ちは収まらぬ。
否、罵声を浴びせるという行為を前進の為の糧として、ススメ! P氏。
靴箱に手をかけ立ち上がれ! 怒りに震えるその拳を、
空気の読めないアホンダラの顔面に思い切りお見舞いしてやるのだ!!
「はい、どちらさんで?」
怒りを押し殺した声音。左手で扉を開けると同時にP氏は右の拳を握りしめた。
今、どんな高慢ちきの鼻っ柱さえへし折る五本のツワモノが合体する。
人呼んで彼らはオユビレンジャー。
後はその場の勢いに任せて相手を殴りつけてやるだけである――が、振りかぶられたその拳は、
アホンダラ怪人の頬をぶつことなく緩やかに開かれ解散した。
なぜならそこに立っていたのは、チャイムを鳴らし続けていたアホンダラ怪人の正体は。
「あ、やっと出て来たプロデューサー! もぉ、もぉ、もぉ! 部屋で倒れてるのかと思ったよ~!」
ほんの数時間前にP氏が階段で受け止めた少女、高坂海美だったのである。
===
とりあえずここまで
仮の話、高坂海美を知らぬ者はアイドル事務所765プロを知らない者である。
もしくは芸能人という生き物に対しての興味を露ほど持たない変わり者、
でなければP氏の圧倒的プロデュース不足、職務怠慢の動かぬ証と言えるだろう。
そんな氏に代わってあえてこちらで補足すれば、各々お手元の検索端末に『高坂海美』と打って検索。
可愛らしい彼女の容姿がハッキリと確認できたならば話を先へと進めよう。
余談だが、ファンクラブの会員は無休で随時募集中だ。
さて、この天真爛漫と猪突猛進を足して二で割った性格をした少女は出迎えたP氏へ詰め寄るなり
「私ね、今日のお仕事が終わったから劇場からここまで急いで来たの!
だってプロデューサーが私のせいで腰を痛めたって話を聞いたから、とにかくプロデューサーに直接会って謝らなくちゃって!!」
「む、う」
「それとね、ぎっくり腰だっけ? 聞いた話じゃ立ってられない程痛いって……あれ?
でもプロデューサー普通に立ってるよね。もしかして腰を怪我したのって勘違い?」
「いや、そんなことは……。今だって中々しんどくって」
「わっ!? 確かによく見たら結構汗かいてる……。プロデューサー、しんどいなら横になって無いと――って、あぁっ!?
もしかして私が来たから無理させた? だったらホントに、ごめんねっ!」
と、海美は会話に地の文を差し込む余裕すら与えず捲し立てるとそのままP氏の家まで押し入った。
その熟練の押し売りセールスだって舌を巻く手際の鮮やかさは夏の嵐のようでもある。
もしくは強制スクロール。家の中という画面端に押し切られてしまったP氏の目に、
陣中に討ち入る猪武者の幻影が小柄な少女に被って見えたのも恐らく気のせいの類ではないだろう。
そうこうするうちにあっさりと侵入を果たした海美は玄関において靴を脱ぐと。
「じゃあプロデューサー、ベッド行こっ!」
「なに!?」
「横にならなきゃ! ベッドどこ? ソファでなんて寝かせないよ?」
言って、P氏の腕をとったのである。
ここで聡明なる読者諸氏は恐らく覚えておられようが、彼はぎっくり腰を絶賛患い中なのだ。
そんな人間を勢いよく引っ張ってしまえばどうなるか? 答えは手を引く海美だって時間をかければ導き出せる。
が、海美は理解していようがしていまいが「分かった?」と訊かれれば「わかった!」と返してしまう少女だった。
「ま、待て! そんなに強く引っ張ると――」
制止の声は虚しく響く。P氏の腰には激痛が響く。
無理して立っていた彼の膝は間接の曲がる方向へ素直に折れるとそのまま廊下とキスをした。
ついでに崩れ落ちた彼に引っ張られる形で尻もちをついた海美の体は見事にP氏の腰の上へ落ちた。
形容し難い悲鳴が辺りの空気を震わせる。後に氏はこの時を振り返りこう笑う。
「不覚にも、あの時ダルマ落としが決着した」と。
そうして膝から伝わる衝撃と腰に伸し掛かる重量感、
迸る痛みは快感の山野を駆け抜けるとP氏の脳裏に色鮮やかな花をつけた。
眼前に広がる花畑の傍には清らかな川も流れており、数隻の渡し船が岸から岸へ行き来している。
P氏が耳を澄ませばどこからか心安らぐ鳥の声も。
そんなのどかとも呼べる風景の中、心地よい風に吹かれるままぽつねんと佇んでいると
彼に気がついた船着き場の船頭が面倒くさげに振り返った。
「あによ、兄ちゃんまァた来たんかい」
この船頭の記憶が正しければ、目の前の男は今年に入ってから早くも四度目となる訪問である。
青白く痩せた不健康な肌、額に角を生やした一つ目の船頭は咥えていた煙管の灰を落とし。
「今度はあに? 踏み台の刑け?」
「いえ、本日は桃子関係では無く勢い余った不慮の事故です」
「ほォうかい。兄ちゃんはよくよく死に目に縁があんなァ」
薄紫に晴れ渡る空を見上げるとカカカと笑って膝をうった。
ここは地獄に数ある渡し口、川流れ三途の桃源渡りは四九八区。
ほんの二か月ほど前にはP氏がアイドルたちを連れて慰問ライブに訪れたあの世とこの世の境である。
が、今回は仕事で来てはいない。P氏の魂だけが迷い込んだと表現するのが正しかろう。
彼は気の良い船頭から現世帰りの札を受け取ると、
恐らくは人の世で生死の狭間を彷徨っているであろう己の肉体を思い浮かべて額にお札を張り付けた。
船頭も別れは今よとにこやかに片手を振っている。
「モーモコ様にもよろすくなァ~」
これぞまさしく地獄の沙汰もファン次第。
札付きP氏が船頭に頭を下げたのと彼の意識が戻ったことを海美が確認したのは殆ど同時のことであった。
開眼、今、触れんばかりに近づけられていた唇僅かに三センチ。
この世の物ならざる奇声と共に気絶したP氏を緊張した面持ちで覗き込んでいた海美だったが、
彼女は唐突な氏の覚醒に戸惑い驚き頬を赤らめると慌てた素振りで顔を離す――皆様は人工呼吸をご存知か?
詳しくは人が外的ないし内的要因によって意識不明となった時、
自力では困難となった呼吸を周囲の人間が補助する行為のことである。
この場合意識を失ったのはもちろん我らがP氏であり、手助けすべきは居合わせた海美の役目だった。
尊い命の輝きが、蝋燭に揺れるともし火が、P氏が意識を失う外的要因となった少女のその手に握られる。
彼が三途参りをしている頃、海美は一人P氏の体を揺すり、叩き、声をかけ抱き着き心音を聞いた後に呼吸の有無を確認した。
「……息、してない!」
海美は青ざめながら呟いたが、真実を語ればこれは真っ赤な嘘になる。
息を吸い、吐き、吸い、吐き、例え意識は失えど、生命活動を維持する為に氏は規則的な呼吸を続けていた。
にも関わらず海美は己を謀った。なぜか? 答えは人工呼吸をするためだ。
……ここで甚だ唐突と思われるが、読者諸氏の理解を深めるためにも正しい人工呼吸の手順を今一度おさらいするとしよう。
まず初めに意識不明となった病人を用意してもらいたい。
人数は一人で十分だが、寂しければもう一人分余計に準備して頂いても結構だ。
次に病人をなるべく床のような広いスペースに寝かせると、声かけ等を行い反応の有無を確かめる作業があるが省略。
相手の呼吸の有無には関係なく「人工呼吸が必要だ!」とアナタが判断したならば素早く決意を固めよう。
無事に気道の確保が完了すれば、晴れて人工呼吸の出番である。
だが待った。焦りは禁物。
ここで気をつけないといけないのは、仮にアナタがこれまでの人生において異性との接触機会が極めて少ない人であろうとも、
自分と相手の身分の違いが世間的に著しく離れた立場でも、三親等が相手でも、アイドルとプロデューサーという関係であったとしても
「人命救助はなにより優先される事柄である!」という大義名分を振りかざすことを忘れてしまっては問題だ。
これは人工呼吸という健全な救助活動の流れにおいて決して無視できない要素、
すなわち男女がそのやわやわとした唇同士を重ねる瞬間だけを切り取っては
「不衛生だ」「動機が不純」「医療に対する冒涜だ」などと見当違いな反論を声高らかに主張する輩がこの世に蔓延るためなのだが、
今、改めて講習を受けている読者諸氏の中には人工呼吸を単なるお破廉恥行為であるなどと
認識している者が誰一人としていないハズだろうとこちらは自負して締めくくる。
現に受講済みの海美はれっきとした"医療行為"としてP氏の隣にしゃがんだのだ。
氏が着用しているシャツを講習通りに手早くめくり、露わになった胸に自身の頬を添えたのも
おでことおでこを合わせる要領で体温を測定しようとしたからであり、
決して地肌に伝わる温もりや、耳をうつ鼓動の音にぽぉっと心浮つく為ではない。
……が、海美も実際の救助は素人だ。知識はあっても経験は無い。
日頃から訓練を受けている救命士とは比べるまでもない一般人。
そんな彼女が、である。
予期せぬアクシデントからP氏の気絶したこの状況の中で冷静さを欠いていたとしても一体誰が責められよう!
"たまたま"呼吸していることを見逃して、"偶然"にも二人きりの状態、
"動揺"から最寄りの病院や知人に連絡を取るという選択を頭の中から抹消した彼女が確信を持って選んだのは。
「やっぱり人工呼吸するしかないね……!」
緊張から口に溜まった唾を飲み込む。実に健全。前述したことからも理解できるようにマウス・トゥ・マウスはキスではない。
キスではないから咎められない。いや、そもそもは人命救助を目的とするれっきとした医療行為であるのだから、
実行に移す際に誰かに咎められるというそれ自体が既にどこかおかしい。
つまり実際に不健全なのは実は世の中の方であり、海美がこれから起こそうとしている全ての行動は『人命救助』という大義名分のもとに健全だ。
だから彼女が寝ているP氏の唇を奪う――もとい人工呼吸を試そうとするのはこの場合極めて正しい判断で、
もう僅かに三センチで唇と唇がこっつんこしてしまう直前にP氏が意識を取り戻したのは海美にとって悔しい誤算だった。
===
とりあえずここまで。
訂正。音読のリズムを保つため
>>8
○ピンポンピンポン、ピポピポピンポン。ピンポン、ピポン、ピピッピッピンポーン! ――もはや嫌がらせ以外のなにものでもない。
×ピンポンピンポン、ピポピポピンポン。ピンポン、ピポン、ピピッピッピンポン――もはや嫌がらせ以外のなにものでもない。
>>17
○彼女は唐突な氏の覚醒に戸惑い驚き頬を赤らめると慌てた素振りで顔を離す――ところで皆様は人工呼吸をご存知か?
×彼女は唐突な氏の覚醒に戸惑い驚き頬を赤らめると慌てた素振りで顔を離す――皆様は人工呼吸をご存知か?
>>18
○今、改めて講習を受けている読者諸氏の中には、人工呼吸を単なるお破廉恥行為などと認識している者が誰一人としていないハズであろうとこちらは自負して締めくくる。
×今、改めて講習を受けている読者諸氏の中には人工呼吸を単なるお破廉恥行為であるなどと認識している者が誰一人としていないハズだろうとこちらは自負して締めくくる。
訂正漏れ
>>19
○もう僅かに三センチで唇と唇がこっつんこしてしまう直前にP氏が意識を取り戻したのは海美にとって大変悔しい誤算だった。
×もう僅かに三センチで唇と唇がこっつんこしてしまう直前にP氏が意識を取り戻したのは海美にとって悔しい誤算だった。
===2.
ではそんな誤算繋がりでもう少し二人の関係を掘り下げよう。
熱心な読者諸氏の中には早くもこちらに勧誘されるがまま高坂海美について検索し、
そのファンクラブに入った行動力溢るる御仁もいらっしゃることだと考える。
だが同時にこうも思ったハズ。
「我らファンに支持され輝くアイドルが、例えプロデューサーであろうと氏のように見事なダメ人間、
ひいては男の影を身近にチラつかせていて良いものか?」と。
俊明なる皆々様がこの事に疑問を抱くのはもっともだ。だからこそ尚更説明せねばなるまい。
結論から述べてしまえば驚くなかれ良いのである。許されている。P氏が一人の男として乙女を集めた秘密の園、
また今回の海美のように彼女たちと二人きりの空間に存在してもなお目こぼしされるその理由(わけ)とは!
……あれは既に過ぎ去りし去年のこと、皆様もかの有名な水瀬財閥の名前は耳にしたことがあるだろう。
『つまようじからロケットまで』、拠点を日本に置きながら、
グローバルな商売で富を生み出す多国籍企業水瀬グループの"あの"水瀬だ。
さて現在、水瀬家当主には聡明な三人の子供がいる。
うち二人は男児、一人は女児。
その一人娘は名を伊織といい、千年に一度の美貌を持って生まれた少女であるのだが、
なんとも命知らずなことか! 昨年、彼女を誘拐しようと画策した不届き者が出たのである。
いや、実際に誘拐事件も起こされた。伊織嬢が失踪するとすぐさま全国津々浦々を舞台とし、
グループが有する私設警備会社『水瀬・セキュリティ・システム』通称『MSS』による大規模な犯人探しも行われた。
そうして昼夜を問わず繰り広げられた大捕り物は連日連夜のニュースとなって日本中、
どころか世界中にセンセーショナルな話題を振りまいた事は庶民の記憶にも新しい。
だがしかし、人々が真に驚愕するのは事件が終息を迎えた後である。
国民的な愛らしさを有する伊織嬢をかどわかし、後世に残る一大誘拐劇の幕を上げ、
なおかつ怒涛の追跡を逃れ続けるという前代未聞の鬼ごっこを引き起こした犯人はあらゆる角度から見て平凡な男であったからだ。
むしろ犯人としてカメラの前にしょっ引かれた彼の姿は気弱な青年そのもので、
長い逃亡生活によって憔悴しきったその顔は、まるで猟師に耳を掴まれたウサギ同様哀し気な感情を浮かべていた。
察しの良い諸賢におかれてはもうお気づきのことだと思われるが、
この事件における驚愕の犯人こそ何を隠そうP氏だった。
当時、既に765プロダクションの一社員であったこの男は純真な伊織嬢を言葉巧みに誘引し、
彼女の身の安全と引き換えに水瀬家当主と一対一の面談を要求したのである。
だが一部のゴシップ雑誌はこの事件に、
『これぞ女難! 猫かぶり高飛車娘の奸計にかかった哀れな男のその末路』
などという大変信憑性の無い見出しをつけた記事を書いたりしたようだ。
……ちなみにこれは余談だが、この記事が載った雑誌は既に入手困難となっている。
出版元の会社も程なくして倒産したことによりバックナンバーは全て消失。
大手の図書館や出版倉庫などからも不思議と雑誌の姿は消え、
記事の載っているその号には、現在高額なプレミアがついていたりするとかしないとか。
閑話休題、ここからは事件後のP氏の処遇について語ろう。
これがアイドルと二人きりでも彼が世間に見逃されている理由となる。
件の誘拐騒動でメディアを一躍賑やかし、時の人へと成り上がりを果たしたP氏だが、
やはり彼ほどの梟雄であるからこそ厳格な法の裁きから逃れることはできなかった。
ハズであった。しかしどっこい彼は無罪放免、その身一つで鬱蒼としたコンクリートジャングルに放された。
なぜか? 答えは"宦官"という並んだ二つの漢字に託される。
仔細は後程語るとして、自身が手掛けるアイドル以上に己を売ったこの男。
大衆の間に高まり過ぎた名声もあり速やかに収監されると思われたが、
なんと誘拐された水瀬伊織自身が「彼は無罪」と世論に対して訴えた。
「私、水瀬伊織は氏に誘拐されたなどとは思っていません。とんでもないことです。
ここまで事態を大事にしたのはお父様の早とちりのせいであり、旅行中、彼は私に対してとても紳士な方でした」
会見場。多数のカメラを前にして、騒動の被害者たる伊織嬢は
ふるると肩を震わせながらも毅然とメディアに答えたもの。
曰く、反抗期を迎えた少女が"たまたま知り合った"親切な青年の手を借りて、
気ままな家出旅行をしていただけだと言うのである。
「そうしてこれ以上の質問に関しては、今後一切彼に代わって水瀬家が直接承りますが……如何かしら?」
それは圧倒的な権力を前にメディアが屈した瞬間だ。報道ではよくあることである。
事が終わって気がつけば、この刺激的な令嬢誘拐事件はあり触れた家出に変わっていた。
家出であるなら事件ではない。犯人でないなら裁けない。
おまけに危ない家庭の問題に、首を突っ込む野暮は多数の意味でも居やしない。
かくしてP氏は解放され、財産、友人、家族の縁。
失った物は限りないが、幸いなことに765プロは世間からの信用を全く無くした彼を以前と変わらず受け入れた。
……しかし街を歩けば指をさされ、その影が見えれば噂され、
いわれなき食い逃げの罪すらなすりつけられる日々を送るうちに氏は自分の立場を把握する。
これが受けるべきバチであり咎なのだと。
もはやP氏の周りは監視社会、水瀬家の恩情による庇護なくしてはプライベートタイムすらままならぬ。
そんな状態であるからして、現765プロ会長(当時はまだ社長であったが)高木順一郎は氏に一つの盟約を結ばせる。
彼は水瀬家当主とは旧知の仲の人物で、P氏の良き理解者兼上司でもあった。
ここで宦官という言葉再び。
読者諸氏は知っておられるか? かつて中国を中心として広まった一風変わった風習を。
宦官、それは後宮と呼ばれる王族が住まう場において仕事をしていた男の役人のことである。
ひどくざっくりとした説明になってしまうことを予めご容赦願いたいが、後宮という場所は基本的には男子禁制。
日本的には大奥と言えばイメージもしやすいことだろう。
そのような場所で竿持ちが働くワケなのだ。
考えればこのようなシチュエーションに置かれた男女の間に不義が交わされることは阿呆でも想像できる話であり、
彼らは女性関係の不祥事を起こさぬよう、事前にアレを切り落として職務に当たったと伝えられる。
そうしてこの場合の後宮とは言うまでもなく765プロのことであり、
宦官候補の役人はP氏、女性とはアイドル達であった。
その中には偶然にも件の家出少女水瀬伊織も含まれる。
とはいえ現代日本では個人にそこまでの規律を求めること、まして徹底させるのは難しい。
出処不明の怪しい団体が人権問題云々と提訴でもすれば一大事。
強制は不可、されど己を律する手段としてならばどうであろう?
例えばそう、未だに世間より後ろ指さされる人物が、
信用を取り戻すためのステップ1として贖罪の機会を請うた場合。
こうしてP氏は宣言した。
「私めはこれより公明正大な宦官となりより一層の社会貢献を目指す所存。
所属アイドルを不幸にし、ファンの皆々様方の信頼を裏切る真似など致しませぬ。
また万一宣誓破りしは、速やかにこの愚息とも別れを告げようぞ!」
と、まぁかようなことを氏は自身の尊厳回復の為、
起死回生の一計を案じた順一郎による指示のもと、
水瀬グループがスポンサーとなって始まった765プロ独占の新番組、
「生っすか!? サンデー」初回放送の冒頭において全国のお茶の間の皆様に堂々宣誓したのである。
この道化もかくやな実に見事な踊りぶり。
無論、発表については同席したアイドル達も重々承知のうえであり、
彼女たちもまたそのような関係を迫られた時点で氏を告発、断罪すると誓い、
これを事務所全体における刎頸の交わりとして性別を超えた結束の固さを世間に知らしめることとなったのだ。
つまるところ熱した鉄は熱いうちに打て、ゴシップも冷めぬうちにこそ価値がある。
社運を賭けた新番組として企画されていた765プロダクションの「生っすか!?」は、
計らずも氏がもたらした話題性に乗る形で破竹のスタートを切ったのである。
またこちらも余談ではあるが、この回は異例の緊急再放送まで行われる高視聴率を叩き出し、
新進気鋭を地で行く勢いをもってして人気番組への仲間入りをも果たし得た。
――長い前置きは今終わり、P氏と海美の側へと話の筋を戻そうではないか。
業界一の赤裸々事務所、765プロに所属するアイドル達は皆彼が立てた誓いを知っている。
これは現在二つの抑止を担っており、一つは氏が抑えられぬ劣情から見目麗しい彼女たちへ蛮行に及ぶを阻止すること。
もう一つは年頃な彼女らが"はしか"のような勘違いからP氏へ恋着するのを防ぐことだ。
===
とりあえずここまで。説明パートもこれで終わり、次回からようやくイチャイチャさせられます。
後、26の方に尋ねられましたが押忍にゃんSSは書いてないです。
なにやら人違いをさせてしまったようで申し訳ございません。
事実、P氏に対する欲望の抑止は予想以上の効果を出す。
やせ我慢は大得意だと日頃から吹聴している彼である。
アイドルが意味なく肌を晒そうと、一時の衝動に身を任せ、押し倒すなどといった野生を理性で押さえ込む事は、
金払いの渋いスポンサーをだまくらかすより遥かに容易であると言えた。
その仮説を決定的とした出来事が、ファンとの水着交流会で起きてしまった豊川風花のポロリ事件。
765プロ随一のバストサイズを誇る女性のポロリ。
突然のハプニングに参加していたファンたちは当然の如く歓喜した。
が、風花の最も傍にいたP氏だけは、能面のような表情を一切崩さず事態の収拾に当たったのだ。
人は言った。「彼は男が惜しいのだ」と。
いつぞやの宦官宣言が効果的に働いていたという証拠である。
だがしかし、生粋のヤセガマンサーではないアイドル達はどうだろうか?
基本的に出会いは少ないこの職場。恋愛沙汰は公然のタブー。
文字通り恋に恋するお年頃でもある純真無垢な彼女たちが、平時長い時間を共に過ごす異性、
P氏に対して信頼以上の感情を持つのは自然な流れであると言えよう。
第一だ。既に彼ら彼女らが頼り頼られの関係性を構築しているのは事実であり……とはいえ、
そこから相手を異性として意識するにはもう一段、段階を踏まえなくてはならないのが愛と恋愛の常でもある。
そこに来て今回の階段落下騒ぎ。
生まれて初めて力一杯異性に抱きしめられた乙女海美は、
あの瞬間(とき)よりP氏に対する恋心の芽生えを急速に認識し始めた。
諸氏らは吊り橋効果という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
運悪く彼女は悪い魔法にかかったのだ。
恐れていた麻疹が発症した。
「すわ外道プロデューサー許すまじ!」と義憤に駆られるファンの方々は今すぐ二本の蝋燭を頭に巻き、
P氏の身の不幸を願って金づちを振るうもまた一興。
釘を一寸ずつ幹に打ち込むたび彼の背には悪寒が走り、
腰と玉袋には原因不明の痛みがズキズキと襲いかかるはずだ――そう、例えばこのように。
===3.
「ねっ、プロデューサー気持ちいい?」
「あ、ああ……。気持ちいいよ」
海美の囁きにP氏が応え、ベッドはギシギシ音を立てる。
今、少女は未知なる充足感に酔っていた。
己の動きに合わせて大の男が涎を垂らして悦ぶ姿、
相手を手玉に取っている感覚は麻薬のような魅力を持つ。
「ん……こうすると、どう? ちょっとキツいのもイイでしょ」
「う、あ……はぁ、う、海美……!」
「ふふっ、だらしない声出しちゃって。……激しくするよ? それ! それ! それぇっ!!」
「ま、待てっ、あ、ぐあっ!? くっ、うぅ――!!」
部屋を満たすは歓喜の声、満足気な海美が額に流れる汗を拭う。
その左右十本の指だけにとどまらず、手の平、甲、肘まで使った巧みな彼女のマッサージは、
P氏の体に突如として訪れた激痛をたちまちのうちに和らげ気持ちは天へと昇らせた。
あの衝撃の臨死体験から復活を果たしたその直後、
原因不明の腰痛(及び股間痛)に悶える氏は頼れる海美に肩を貸されなんとかベッドに辿り着いた。
その後、彼は「腰、痛くて辛いよね? ……遠慮しないで、私が優しく揉んであげるっ!」
と意気込む海美に流されるまま腰を揉み揉み揉まれており。
「――ハイ、終わりっ! 良かったでしょ?」
「うん……全くかたじけない。随分腰も楽になった……気がする」
感謝の言葉を述べられて、海美は照れ臭そうに頬を掻いた。
ちなみに水を差すようだが、発症直後の腰痛をマッサージでほぐすのは余りよろしくないらしい。
何事もケースバイケースだと思われるが、
基本的には炎症が治まるまでは患部を冷やし、姿勢は安静。
湿布でも貼って大人しくしているのが実際のところは良いのだとか。
「えへへ~。それじゃあ他のことも私がやったげるから、プロデューサーはゆっくり横になって休んでてね!」
そう言って彼女は立ち上がり、P氏は急速に青ざめた。
なぜなら現在時刻は午後六時。
海美がこの家を訪れてかれこれ三十分は経過している。
既に日も傾き、これからは年頃の娘なら自宅に帰っているのが相応しい時間となるだろう。
そんなP氏にとっては「もう六時」、だが海美にとっては「まだ六時」。
「ま、待つんだ海美。そろそろ時間も遅くなる、家に帰らなくちゃ……。
一応謝罪も聞いたのだし、俺の方なら十分助けてもらったから」
「でもプロデューサー家事もできないんでしょ?
お腹も空いて来る頃だし、ご飯ぐらいは代わりに作らせてっ☆」
「しかし海美! 君の料理の腕前は――」
「大丈夫大丈夫まーかせて! これも乗り込んだ船ってやつだし、ねっ!」
生憎と乗せた覚えは無いのだけれど――P氏が反論する間もなく船は港を離れていき、
密航者海美は勝手知ったる家の中を改めてぐるりと見回した。
実のところ、海美が氏の自宅にお邪魔するのは今回が初めてではない。
と、言うよりもP氏の所には普段から、
「仕事についての相談がある」といった名目でちょくちょくとアイドル達が顔を見せた。
また、訪れる者の中にはここぞとばかりに日頃のお世話の恩返し、
P氏の役に立ちたいと情熱を燃やす娘もいる。
「お部屋、少し荒れてますね。手伝いますから片付けましょう」
「普段は出来合いばかりですか? ダメですよ、ご飯は出来立てを沢山食べなくっちゃ!」
「よし、今日の飲み屋はココに決定! 愚痴ならお姉さんにトコトン吐き出しなさい♪」
そうしてあれよあれよと流されるまま、氏の自宅は事務所にとっての寄合所のような存在に。
今ではアイドル達の私物も増え、食器棚にはそれぞれが使う専用のコップまで置かれているという始末だった。
これをP氏に対する信頼と友情、ひいては敬慕の証と捉えるか、
周りの恋敵へ対する僅かばかりのけん制と考えるかは見る者次第の任せ事。
……今、心新たに生まれ変わった海美は自信をもってこう答える。
「今までの私はお子ちゃまで、駆け引きの"か"の字も知らない阿呆でした」
まだ小さく頼りないとはいえ、海美が灯した恋の種火に照らし出される室内には女の影がちらほらと。
浮かび上がって来る違和感、次第に炙り出されていく不自然。
その一端に触れてみるだけでも、来客用のスリッパ群に圧迫されている玄関に、洗面台には歯ブラシがずらり。
食器棚には先にも述べたコップ類の他にも麺棒を始めとしたお菓子作りの道具一式に使い込まれたたこ焼き器。
本棚には多種多様なジャンルの本が絵本と混ざってごっそりと、
冷蔵庫の中にはお酒やつまみがぎっちりと。
部屋の隅ではアロマが焚かれ、ベランダを使用したガーデンには野菜が栽培されており、
テレビ周辺にはアイドル物のDVDとゲーム機が複数のコントローラーと一緒に収納されているではないか。
こうなってくると棚に並べて飾られた、別段怪しいところの見受けられないイルカやサメのぬいぐるみでさえ、
恋に目覚めたうみみアイを通せば誰かしらの主張が透けて見える如何わしい代物へと早変わり。
「ねえプロデューサー。この辺に私用のルームランナー置いても良い!?」
開口一番、P氏の前へと戻るなり海美は焦った様子で提案した。
が、当然のようにこの申し出は彼に却下され。
「じゃあダンベル! ハンドグリップは? 私も女子力のカケラを残したいのっ!!」
「じょ、女子力とは形で残せる物なのか……?」
「多分、きっと、残せるはず……? とにかく! 私も何かプロデューサーの家に置きたいよっ!」
全くもって要領を得ない話である。P氏は頭を抱え途方に暮れた。
第一彼女は先ほどまで、自らの手料理を振る舞おうと無駄に息巻いていたというのにだ。
ものの数分と経たぬうちに今度は室内運動器具を置こうなどと――
ただこれは、考えようによっては有り難い話だと言えなくもない。
なにせ海美は日々「練習してる!」と言い張るが、
彼女のこしらえる"料理"の出来栄えは常々試食者のコメントを詰まらせてきたような代物だ。
本日もそんなシェフうみみが自慢の腕を振るったところで結果を予想するは容易い。
恐らく惨劇の食卓は免れまい。
ならば財布は多少痛めようと、胃袋がはちきれんばかりに膨らもうと、
ここは味の確実な中華料理屋にデリバリーを頼むが最良策。
「分かった。海美、認めようじゃないか。……ダンベルだったら置いても良い」
「ホントにいいの? やったーっ!」
「ただし! 認める代わりに家に帰れ。料理の方も出前を取るから大丈夫だ」
勝った。完璧な作戦である。P氏は海美に気取られぬよう細心の注意でほくそ笑んだ。
相手の提案を一つ飲み、代わりにこちらの案をも通させる。
おまけに氏はどさくさに紛れて二つの要求を通したのだ。
これを勝利と言わずしてなんと呼ぼう?
伊達に駆け引きの修羅場はくぐっていない。
小娘相手に負ける気はしない。
現に海美は「分かった!」と快く返事をし。
「じゃあ一回、プロデューサーに言われた通りダンベル取りに家に帰るね。ついでに買い出しも済ませて戻るから!」
待て、どうしてそんな流れになる? たまらず首を捻った氏には悪いが、
言語は周波数が合わねば意味はない。理解できなければ負けも無い。
「……ん?」と間抜けに訊き返すP氏に少女は笑顔で答えると、
目についたスケッチブックに何やらサラサラと書き始めた。
「だって冷蔵庫の中お酒と変なのしかないんだもん。お米は炊いてあったから……
キチンとした材料を揃えてきて、美味しいおかず作っちゃうね!」
――さて、それからしばらく経ってのことである。
P氏の自宅、玄関前に二人の少女がやって来た。
彼女たちはそれぞれ扉に貼りだされた奇怪な文書に目を通すと。
「なんじゃこりゃ? "留守です。湯治のため二、三日温泉に浸かりに行って来ます"?」
「何って奈緒ちゃん書き置きだよ。プロデューサーさんが温泉に行きましたよっていう」
「いやいやいや、それは誰が見たって分かる話やろ?」
「だね」
「私がココで言いたいのはな、美奈子。なんでプロデューサーさんは
わざわざこんな貼り紙を玄関に貼っとるんかってトコやないの」
おまけにその貼り紙はスケッチブックのページにクレヨンで書かれた物である。
横山奈緒と佐竹美奈子。
流石に大勢で押しかけるのは迷惑だろうということで、厳正なる話し合いとあみだくじの結果、
事務所のメンバーを代表してお見舞いに訪れたこの二人は、なんとも腑に落ちないといった様子で互いに顔を見合わせる。
「大体、私らより先に来とる海美はドコ行ったん? あの子怪我させてしもた張本人やから言うて、
早や抜けしてまでプロデューサーさんに謝りに行ったはずやのに」
「そう言えわれてみればそうだよね。貼り紙を見て帰ったとか」
「私らに連絡の一つも寄こさんと? ……それか最寄りの温泉に押しかけて、プロデューサーさん探してたりしてな」
冗談めかして言う奈緒だが、ここで「まさか!」と気軽に笑い飛ばせないのが
二人の知る高坂海美という少女だった。スマホを取り出し美奈子が言う。
「じゃ、電話してみよっか」
「どっちに?」
「まずはプロデューサーさんからじゃない?
もしかするとコレ、無駄な来訪者はお断りって意味かも知れないし」
すると奈緒も揃いの携帯を取り出して。
「せやったら、私は海美に電話するわ。……一応チャイムも押しとこか」
ピン、ポーン! フロアに音楽が戻って来た。
だがオーディエンスは既に解散、いくらコールを呼び掛けてもレスポンスは一向に戻って来ず。
「う~ん……プロデューサーさん、電源入れて無いのかな?」
「海美もや、うんともすんとも出てくれへん」
「家も、中で誰かが動いた気配はないし」
「普通に考えれば留守やろうけど……怪しい」
奈緒が表情を曇らせ考え込む。
自分たちの置かれた現状に疑問を持っている顔であった
「臭う、臭うで。こりゃ事件の匂いがプンプンや」
「事件?」
「せやろ! プロデューサーさんは電話に出ん。海美の方にも繋がらん。
こりゃあ二人して何処かにしけこんどる可能性も無きにしもあらずのパターンで――」
「あー……。温泉に行こうとしてたところに、海美ちゃんが丁度やって来てそのままついてっちゃったとか?」
「それや! 海美の押しの強さとあの人のヘタレ具合から察するに、その可能性はアリアリやな。……ええ勘しとるで、美奈子!」
ポンと手を打つ奈緒だったが、美奈子は素直に頷けない。
なぜならP氏は腰を痛めているハズである。
治りかけならいざ知らず、まだ腰が痛むであろう初日に無理して遠出などするだろうか?
そのことを奈緒に訊いてみると、彼女は「むむむ」と唸ってこう答えた。
「なら可能性としては居留守やな。私らと顔を合わせられへん二人が声を殺して家の中に」
「待って待って。どうして私たちと顔を合わせれないとかなっちゃうの?
プロデューサーさんはともかく、海美ちゃんは私たちが来るの知ってるのに」
「そりゃ、なんか後ろめたい事でもあるんとちゃう?
人に知られたらマズいような何かが私らのおらん間に巻き起こって――」
その時だ。二人の脳裏にある種の仮説が浮かび上がる。
居場所を隠すあからさまな貼り紙、つかない連絡、男女二人が行方知れず……。
たちまち美奈子の顔からは余裕が消え、
奈緒もあたふたと取り乱しながら辺りをキョロキョロ見回した。
「どっ、どないしよう美奈子!? もしも、もしもの話やけどあの二人が……!!」
「お、おおお落ち着いて奈緒ちゃん! まだそうだと決まったワケじゃないよ!」
「でもでも、私ら確認する術持ってへんし……」
「それを今考えてるんじゃない! どうしよう? こういう時はまず警察に――」
「警察はダメ! 大事にしたらアカン真実もあるねんで!?」
「じゃあ一体どうやって探すつもり!?」
美奈子が叫び、奈緒が呻く。
二人はちょっとしたパニックだ。
そのうちこの世の終わりのような顔をした奈緒が観念するようにこう言った。
「あああ~、嫌や~。こうしてる間にも二人でタイとか行ってたらどないしよう……」
すると美奈子は大げさに驚いて。
「ちょ、ちょっと待って奈緒ちゃん。わざわざタイまで行くってどういうこと?」
「どういうって……。ほな、モロッコかな? 流石にアメリカとかは何かちゃうし」
何やら会話が噛み合わない。
そう感じた美奈子は訝しみながらこう続けた。
「ねえ奈緒ちゃん。私たちプロデューサーさんと海美ちゃんがどうしてるかって話をしてるよね?」
「せやで。美奈子もあの人の宦官宣言は知ってるやろ?」
言って、奈緒が拳を握る。
「日頃から誘惑の多い劇場で健気に頑張るプロデューサーさん!
その貞操をあの人に目をかけて貰ってる私らが守ってあげんでどないするん!」
「そうだよ、それは分かってるよ! だから二人で一緒に来れるよう、あみだくじに細工をしたのもこのためで……。
って、違う違う! 今日はそういう危険無いハズでしょ? 相手があの海美ちゃんだもん」
「せやから焦ってるんやないの。……海美は安全やと思ってたんやけどな~。見通しがちっと甘かったね」
だがここで美奈子は大げさに一度ため息をつくと。
「え~……っと。つまりその、奈緒ちゃんはさ、二人ができちゃってるかもって話してる?」
「へっ? そのケジメをしっかりつけるために、タイくんだりまで手術受けに行ったゆー話をしとったやろ?」
「違うよ! 全然噛み合ってない! 私はプロデューサーさんに怪我をさせちゃった海美ちゃんが、
どっちが悪いとかの責任の取り合いで刺しつ刺されつの大惨事に――で、逃亡したり、心中したり」
「怖っ!? なんや美奈子のその仮説は! ドロドロドラマとちゃうねんで!?」
「だ、だって~……。海美ちゃん性格のいい真っ直ぐな子だから、逆に思い詰めるとそれぐらいやりかねないかもって心配に……」
なんともはや、彼女はとんでもない想像をしていたものだ――
奈緒は思わず額を押さえると、芝居がかった仕草で嘆息した。
それと同時に、自分たちが随分と長い間ここに居たことにも気づく。
チャイムは押したというのにだ。
未だ扉は閉ざされたままであり、人が出て来る気配もやはりない。
手術や心中の可能性は限りなくゼロに近いとして、
コンビニにでも行っていると考えるのが現実的な解答だろう。
それでも奈緒は手詰まりに陥った刑事のようにガシガシと頭を掻きむしると。
「でもな~、居留守の線も捨てきれんし。こうなったら出るまでチャイムを連打して――」
「ダメだよ奈緒ちゃんそんなことしちゃ! ご近所さんにも迷惑でしょ」
「せやけど美奈子~。合鍵持っとったりせえへんの?」
「どうして持ってるなんて思うかなぁ」
呆れたように美奈子は言い、少しの間考えてから彼女は奈緒にこう返した。
「……けど、いつまでもこうしてばかりいられないし、一度ウチのお店に帰ろっか。
もしかすると、プロデューサーさんから出前の注文がかかるかも」
「……海美はどうするん? 連絡つかへんけど」
「それもウチに来てたりしないかな? 電話に出ないのだって、
移動中で気づいてないだけだとか。……ほら! そろそろお腹も減る頃だし」
「せやのうても、向こうも私ら探して美奈子の店に、か。……ありうる」
結局、悪い方にばかり考えていてもしかたないという美奈子の意見を受けた奈緒は、
己の食欲とも審議した結果、この場を一旦引き上げることにしたのだった。
「そういや私もお腹空いて来たな~……。サービスあるん?」「勿論だよ!」と、
遠ざかっていく二人の会話を鉄の扉越しに訊いていた、
死にかけている男の存在にはとうとう最後まで気づかずに――。
===
とりあえずここまで。
訂正
前回更新分、「貼り紙」ではなく「張り紙」です。
「ダメだ、行くな、待ってくれ!」
そう願うだけで時間を止めてしまえると言うのならば、世界はもっと平和であり、
人はバスや電車に乗り遅れる悲劇を二度とは繰り返さぬだろう。
時を支配する超能力。誰もが欲するそのパワー。
だが実際のところは現実味にやや欠けている。
事実、P氏が伸ばしたその右手は、思わず漏らした呟きは、
彼の周囲にたゆたう時間の流れを止めてしまうなどできなかった。
とはいえ、後一息の所までは来ていたのだ。
チャイムが鳴り、ベッドから降り、ままならぬ体は這って進んだよ玄関へ。
その地で新聞受けの隙間より、そよ風が耳に運んだ嬉しいニュースの一報は。
「この声、美奈子と奈緒じゃないか!」
佐竹が来た! 美奈子が来たっ!! ついでに奈緒もいるようだが、
この時のP氏の気持ちは劣勢の戦況に援軍を迎えた兵卒の如く躍っていた。
しかしながら現実は彼に非情でもある。
満を持して登場した佐竹・横山飛行隊はP氏の頭上を素通りし、颯爽と現れ出でた鉄の鳥は、
無情にもそのシルエットを徐々に彼方へと遠ざけ明後日の空へと飛んで行く。
待ってくれ! 友軍はココだ! どうか見捨てて行かないで!!
……けれども声は届くことなく、腰痛が起こす爆音で彼の願いは掻き消された。
そも、全ては海美が施したマッサージ。
その荒々しい揉み手によって、腰の炎症が活性化したのが敗因と言って差し支えない。
やはりやせ我慢に魅入られた男である。顔は笑って腰で泣く。
痛みを堪えて紡いだ「気持ちいい」は少女の笑顔を引き出したが、
その腰は悪化の一途を辿り巡って流れ着いた先は泥犂。
戦う前から負けていた。もはや若くして介護を必要とするその身である。
ベッドに戻れば通信機(スマホ)だってありはするが、事ここに至っては進むも地獄退くも地獄。
ああ、薄れゆく意識の中、海美と交わした会話が蘇る。
「見て、留守にしてますの張り紙だよ! コレを玄関に貼っておけば、
私がいない間に誰かが来ても無理に呼び出したりはしないはずっ♪」
そう言って、書き上げたばかりのペラ紙を掲げる彼女の顔は自信に満ちていた。
満面の笑み、してやったりの笑み、上手いこと言ったつもりの笑みでもある。
なるほど確かに言う通り、スケッチブックから破り取られたその紙には
クレヨンを使って"留守です"とデカデカ書いてある。
この清々しいまでのお知らせを、その目にしてなお誰がチャイムなど押すだろうか?
実に理に適っている作戦だ。提示した海美にとっても目から鱗のと言った所。
だがP氏は半魚人でもなく、落とすべき鱗も持っていない。
「……海美、君ってやつは本当に――」
「ナイスアイディアでしょ? ふふっ、偉い?」
「大バカ者、こんな物で人が化かされるか」
褒められたがりにピシャリ一喝。
P氏は用済みとばかりに放り出されたスケッチブックを手に取ると。
「まず筆跡が乙女乙女し過ぎている。次にいつまで留守かも抜けている。
こういう物は数日家を空けておくと書けば真実味だってグッと増す!」
などと上から目線でのたまって、たちまちのうちに見本を書き上げ渡したのだ。
正に救い用の無い阿呆である。
先の見えない馬鹿でもある。
この張り紙が仕事をしたせいで、時が過ぎた今美奈子たちは引き上げ己は這いずり待つのは天の助けばかり。
もはやふて寝すらできない孤独なP氏。……それからどれほど経っただろう?
いまだに彼はまんじりともせず冷たい廊下に伏せていた。
こうなってしまってはもう物を考えるのも億劫で、腰の痛まぬように背(せな)を丸め、
四肢を投げ出し転がる様は嵐の後、浜辺に打ち上げられたクラゲとさして変わらない。
沖から波がよせぬ限り決して海には戻れぬのだ。
そう、海。母なる海。人は、命は、生命は、いつしかその穏やかな自然の揺りかごに還るもの……。
「プロデューサー、たっだいま~……って、うわぁっ!!?」
そうして今、タイミングよく戻って来た海美がP氏のことを救い出した。
家の中で行き倒れていた彼の体を起こしながら、
恐らくは効果があったであろう張り紙作戦の結果に少女は一人感心する。
――極論、それは恋する少女のワガママだ。なるべくならば二人きりと心が求める欲望だ。
その為に策を巡らすは常勝の為の一手であり、これに対して「卑怯だ!」などと野次を飛ばすはお門違い。
なぜなら真剣勝負の恋愛では、「好きな人を独り占めしたい!」と欲張ることこそ許されてしかるべき乙女の美学であるのだから。
===4.
そもそもの話、高坂海美は女としての魅力が弱い。
有り体に言えば「女子力が足りない」と一等思っているのが海美自身で、
それは彼女を本格的な恋愛から遠ざけてきた一つの遠因でもあった。
特に同年代の少女たちと比べて自分は数段見劣りする……と、本人は今でも悩んでいる。
なぜならば、彼女は生まれてこのかた一つ所にジッとしていた覚えがないからだ。
赤子の頃から寝返りをうてば這いずり出し、喋るより先に歩き出した。
常に体を動かしているのが大好きで、体育の授業をなにより好む子供であり、
男子と混ざって遊び倒しては泥だらけになって帰宅する典型的な元気娘。
案の定座学の成績は悪かったが、明朗快活な彼女の周りには自然と多くの友が集い、
学校での生活は楽しいものだったようである。
とはいえ本格的なスカートデビューを果たしたのが中学に進学してからと言うのだから、
当時の彼女がどれほどお転婆だったのかは推して知るべしと言ったところ。
それでも休み時間になれば相変わらずの騒々しさで校舎や校庭を走り回り、華麗にスカートもひるがえす。
その無自覚なチラリズムは純朴なる思春期男子に悶々とした気持ちを植え付け、
計らずも彼らの性の目覚めを促進したりするのだった。
こうなると学友女子一同も黙ってはいない。とうとう海美も年貢納め。
今までは「子供だから」で済まされていた多くの無作法を矯正する時期が来たのである。
まずは恥じらいを持ちなさいと彼女はとみに注意された。
座る時にはスカートの端までちゃんと押さえ、
余計な布の露出機会を減らすようにも指導された。
異性への気軽なボディタッチ、男子と混ざって球技遊び、野郎共もひしめく夏の蒸し暑い教室で、
無防備に胸元を扇ごうものならたちまちのうちに孟母三遷。
甘えを許さぬ女子たちは、男共の放つ野獣のような眼光から海美を守ろうと必死なのだ。
「海美、よーく聞いて覚えときな」
「女の子が持つ落ち着きや恥じらい、そこから出て来るちょっとした仕草」
「可愛い髪型にすることも、流行の服を着こなすのも」
「相手をドキッとさせるコト。これ、全て女子力なの!」
「いい? 女子力は女の戦闘力」
「女子力を常に磨いておけば、どんな敵でもイチコロだよ?」
「それにね、女子力がある女の子は男子に対して最強だから」
「女の子相手でも効果あるよ? どんな時でも一番強い」
「そういう諸々含めたのが、女子力の高い女なワケっ!!」
……と言った有難い助言の数々は、
海美が面倒見の良いクラスメイト達から賜ったアドバイスを一部抜粋したものだ。
ご覧の通り、およそ「女子力とは?」と首を傾げたくなるワードが散見されるのはこれが苦肉の策であり、
彼女たちがどうにか海美の興味を引きつつ「羞恥心」だの「忍耐力」だの「お淑やかさ」だのを叩き込もうかと頭を捻った証である。
また、初めこそ「女子力なんて別にいいよ。面倒!」と乗り気でなかった海美にしても、
事あるごとにその魅力を説かれるにつれて意識の改革が進んでいく。
「強い・デカい・早い」を好む男児的嗜好の子うみみから、
「可愛い・綺麗・お洒落」の三本柱を中心とした第二次性徴うみみへと。
ではその甲斐あってどうなったか?
結果を話すためにもここで登場人物を一人増やそう。
彼女は海美の実の姉だ。この時点で人生の先輩でもあるお姉さんは、
妹にとって手本となる対象の一人であり、同時に慕うべき存在でもあった。
そんな姉がある日のことだ。宿題をしていた手を止めると、
卓上鏡をむつかしい顔で覗き込む海美に話しかけた。
「海美ちゃん、最近なんだか変わったね」
この姉妹、元気ハツラツな妹に対して姉は随分と物静か。
大人びた落ち着きのあるお姉さんと、子供じみている落ち着きのないその妹。
小さな頃より目を離すと、すぐにでも行方をくらます妹を持てば
このようなしっかり者の姉ができる――そんな見本のようにバランスの取れた姉妹だった。
その姉がいつもの優しい調子ではなく、少なからずの驚きを含んだ口調で尋ねたのだ。
すぐさま「えっ?」と訊き返した海美だったが、"変わった"と言われてパッと思い当たる節も無い。
だかしかし、姉はキョトンとする妹の顔をまじまじと見つめ返したのち。
「うん、変わった。成長した。海美ちゃんってば随分女の子らしくなってるよ」
それは最近になって成長著しい自分の体つきのことか?
それとも姉の真似をして伸ばしている髪がようやく腰まで届いたことだろうか?
眉をひそめ、考えだし、答えを求める海美の姿に姉はくすくす笑い出した。
「もー! お姉ちゃん何がおかしいの~?」
海美が頬を膨らませ抗議すると、こしらえたばかりの三つ編みが動きに合わせてバッと揺れる。
つい最近になって姉に作り方を教わったばかりの髪の束は、編み慣れていないせいかまだまだ粗さが残る出来。
しかしながら、それは姉から見ると明らかなお洒落への目覚めだった。
中学に入ってからは多少の落ち着きすら身に着け始め、これまではとんと興味も示さなかった
ファッション雑誌をこっそりとチェックする妹の姿も何度も目撃していたのだ。
「好きな人でもできたのかな?」
からかうような姉の発言に、愛らしい妹はただただ頬を赤く染めた。
当時は柄にもないことをしているという照れ隠しの反応だったのだが、
恋を理解した今ならば、彼女は真なる意味で真っ赤になれるに違いない。
とりあえずここまで。
===5.
さて、その確認を取る為にも舞台をP氏のマンションへと戻そう。
時刻はまもなく午後八時。
もはやベッドと同化せんばかりに打ちのめされている彼の鼻が、
室内に広がるスパイシーな香りに反応する。
見よ、匂いを辿ればテーブル上に出来立てほやほや手料理が。
炊飯器から米をよそい、形の崩れた具材たっぷりオムレツを乗せ、海美特製のエビチリソースをかけたなら。
「お待ちどうさまプロデューサー! 美奈子先生直伝の、スペシャルエビチリ天津飯だよっ!」
そう言って海美は美奈子盛りされたお皿をP氏の鼻先に突き出した。
すぐに旨そうな匂いが彼の食欲を刺激する。見た目もそれほど悪くはない。
ピリ辛だって嫌いじゃない。おまけに目の前の少女は銀のスプーンで一口分を掬い取ると。
「あっ、無理に起き上がらなくても大丈夫。私が食べさせてあげるから!
……ふーっ、ふーっ……冷めたかな? はい、あーん!」
立ちのぼる湯気を優しい吐息で吹き飛ばし、照れるP氏に口を開けるよう催促した。
断る理由は無い。むしろ断っても無理やり突っ込まれそうなので断れないと言うべきか。
……氏は、乙女の涙にも弱いのである。
だがなにも、涙を流す可能性があったのは海美一人だけではなかったのだ。
男は度胸。差し出されるままパクっと一口食べた瞬間、P氏は思わず落涙する。
これは一体何事か? 蜂にでも刺されたようにまたまた腰が痛んだのか? 思ったより料理が熱かった?
違う。ならば献身的な海美の介護に感激の証で流したか?
もぐもぐもぐと咀嚼しながらP氏は海美と目を合わせた。
案の定、この不憫な少女は不安げな面持ちで味の感想を求めている。
「……海美、海美。一つ訊きたい。このエビチリ天津飯なのだが」
「な、なに? ……何でも聞いて!」
「君、味見はちゃんとしたかい?」
「した! エビチリスッゴク赤いよね!」
「オムレツの方も味見したかい?」
「した! ほんのちょこっとだけ……ううん、結構だいぶ、焦げてるよね……!」
「……いやいや海美。見た目は問題にしていない。
むしろこうまで不格好だからこそ、一生懸命に仕上げようとした努力も分かって好評価」
「ホントに!? うれしーっ!」
「ただね、海美。そう無邪気に喜ぶより先に、俺は教えて欲しいんだよ。
君がキチンとこのエビチリ天津飯の味見をしたのかどうかをだ」
そう、不憫な海美には是非ともそこを訊きたいのだ。
もう少し詳しく尋ねるなら、一体全体どうやれば餅のような食感のオムレツを焼き上げることが可能であり、
炎のように赤いぷりぷりのエビを落雁の如く甘くして……にも関わらず、ソースは鬼のように辛いまま仕上げられるのかということを。
そうして、そんな魔界料理を完成させた海美から返って来た答えは。
途端に顔を赤らめて、もじもじと口にした呟くようなその答えは。
「え、えぇっとぉ……味見だったらちゃんとしたよ?
卵がちょっともちゃもちゃして、エビチリの味もちぐはぐしてたけど……」
P氏は未だ飲み込むタイミングを計りかねている
餅オムレツをもぐもぐさせながら「そうだろうそうだろう」と頷いた。
どうやら自覚はあったようだ。失敗することは悪くない。
反省点が見つかったならば経験は次回に活かせば良い。
それが素直にできるのが海美の持つ美徳の一つであり、
今回の犠牲となったオムレツとエビチリへの最低限の手向けと言える。
「ただ目立って悪いのはそれぐらいで、後は十分食べられる出来じゃないか」
ようやく口の中を空にできたP氏がエビ天の味について述べた。
大分やせ我慢をしたうえに言葉を選んだものだったが、
この感想を受けた海美はすぐさま彼に詰め寄ると。
「じゃあ、それって美味しいってこと?」
「まぁ……嫌いではない味だ」
彼女が嬉しげに尋ねるものだから、氏としてもそう返すしか道はあるまい。
だがその直後、料理の腕を褒められた喜びの余り大興奮した海美によって、
彼は開いていた口を超物理的手段で塞がれた。
「うぅぅ~~~! 嬉しいよー! プロデューサーっ!!」
唇に押しつけられたぷりぷりの感触に一瞬呼吸ができなくなる。
その原因である海美は衝動のまま次なる喜びを彼に求め、
P氏も彼女にされるがまま全てを悟って受け入れた。
現在時刻は午後八時半。窓の外はすっかり暗くなっており、
室内はいつの間にやら夜戦という表現が実に相応しい戦場だ。
二人っきりの密室で、互いの体、心の温度が時間と共にヒートアップ。
そのうち「もっともっと!」と海美は昂り、彼女の熱に当てられたP氏も
「こうなりゃヤケだ!」と徹底抗戦の構えを見せるようにまでなっていた。
両者の激突、再び。それから一合二合と重ねる度に、
氏は自らの体が石のように固まって行くのをハッキリ感じることになる。
結果、男らしく真っ向からぶつかってくる氏の対応に我慢もきかなくなってしまった海美は。
「ねえプロデューサー、ホントのホントに嫌いじゃない?」
「嫌いじゃない、嫌いじゃないぞ!」
「私のために無理して言ってるんじゃなくて?」
「海美にはこの顔が無理をしてる顔に見えるのか!?」
「ううん、見えないっ!」
「だったら俺を信じてくれ!」
「なら、私信じるから! プロデューサーのこと信じるから!」
「海美……!」
「だからお願い! 嫌いじゃないなら好きって言って!」
「んなっ!?」
「その方が私嬉しいもん! 私、好きって言われたいよ!!
プロデューサーのその口から、大好きだって言って欲しいっ!!」
もはや彼女の心は汗まみれ。恋する乙女以外の何者でもない恍惚としきった表情で、
どうにかP氏の口より「好き」の単語を引き出そうとする大興奮の灼熱うみみ。
その様は愛の女神すら裸足で逃げ出し嫉妬の悪魔さえ匙を投げだす熱っぷり。
今こそ情熱猪突恋進撃! どストレートなLOVEを求む声に浮かされるままP氏は噴き出る汗を物ともせず。
「好きだっ!」
「ホント!?」
「嘘じゃない、ホントだ! 好きだー!」
「もっと言って、もっと言ってっ!」
「ああもう何度でも言ってやるさ! 好きだ! 好きだとも!
大好きだよ!! これほど愛しく思ったのも初めてだ!!」
「プロデューサーっ!! 私、私……今が人生の中でいっちばん嬉しい瞬間だよーっ!!」
嬉し涙と興奮で海美の目と顔はもう真っ赤っかだ。
プロデューサーの顔も汗をダラダラ真っ赤っか。
二人のバカ騒ぎが狭い室内に反響する。振動で窓がガタガタ揺れる。
そうして、喜びの感情を爆発させるように海美が氏の顔を思いきり抱き締めた時であった。
閃光。一瞬のうちに世界が光りで包まれる。
同時に起きた耳鳴りによって音という音も失われると、
P氏と海美が感じるのは互いの肌を通して伝わる熱のみに。
一体何が起こったのか?
幸せの絶頂を突破して高まり過ぎた海美の精神力が異界への道を開いたのか!?
否! 全ては現実に起きた出来事であり、海美も地上人として召喚されたりはしなかった。
どちらかと言えば彼女たちに起きたのはその逆だ。
次第にぼやけていた感覚が戻って来る。次いで眩んだ視界に捉えたのは複数の怪しい人影と、
部屋の入り口に仁王立ちする偉そうな少女の姿だった。
その少女はP氏たちに向かって二度、三度と不愉快そうに口をパクパクさせ、
周りの大人たちになにやら身振り手振りで指示を出すと。
「……で? アンタたち一体なにしてんの?」
時間と共に機能を取り戻し始めた聴覚がこれまた機嫌の悪さを隠そうともしない彼女の声音を拾った時、
P氏たち二人はようやく自分たちの置かれた状況を理解できた。
寝耳に水の……どころではない。就寝していたベッドごと、
冬の日本海に放り込まれたかのような言葉を失くす衝撃だ。
そうして自分たちを睨みつける立腹少女――誰あろう、
水瀬伊織の後ろからひょっこりと姿を現したのは奈緒と美奈子の二人である。
「あ~……こんばんわ、お邪魔してます」
奈緒が申し訳なさそうにそう言って、顔の前で謝るように手の平を立てる。
「ビックリさせたんじゃないですか? でもでも私らの方も余裕なくて……。
あのぅ――まさかとは思いますけどプロデューサーさん、海美と一線超えたりなんてことは」
「し、してませんよね? お二人の声、廊下にまで聞こえてましたけど」
そう言う彼女たちはどちらも不安に心配、
そして僅かばかりの好奇心を含んだ表情で伊織の隣に立っている。
さらには物々しい服装をした四、五人のガードマンが驚きの余り咄嗟に互いを庇い合った
――要するに、抱きしめ合っているのである――P氏と海美を囲んでいた。
これで二人が裸なら、間違いなく「イタしていた」と判断するべき状況だ。
室内をぐるりと見回して、伊織がうんざりするように口を開く。
「美奈子が相談してきたの。アンタたち二人が揃っていなくなってるって」
するとP氏は驚き顔のまま彼女を見上げ。
「そ、それでMSSを使ったのか? 民家に突入させたのか!?」
「悪い? ウチの警備会社なんだもの。私のマンションで何か事件が起きて無いか、
調べるのに使ったって誰にも文句は言わせないわ」
素朴な疑問をズバリ一蹴。
いつまで経っても海美と連絡がつかないことに焦り始めた美奈子たちは、
こういう事態が起きた時、一番頼りになる伊織に協力を要請したのだった。
連絡を受けてからの伊織の行動は実に素早い。すぐさまMSSを動員すると最寄りの温泉を全てチェック。
だがどこにもP氏の姿が無いことや、美奈子たちの話から二人と一緒にマンションへ。
部屋の前まで来たところでなにやら怪しげなやり取りを耳にすると、
躊躇なく扉を開けさせ"たまたま"持っていた護身用のフラッシュバンを室内に放り込んだというワケだ。
「……相変わらずなんて無茶苦茶する娘だ」
伊織から一通りの説明を受けたP氏が頭を抱えて唸り出す。
「アンタにだけは言われたくない。……で? もう一度聞くけどホントにここでなにしてたの?」
「何してたって……そんなの見れば分かるだろう」
「あら、私が決めつけちゃっていいワケね? だったらすぐさま飛行機を手配するわ」
そう言って意地悪そうに伊織が笑うと、横に控えていた美奈子と奈緒が「ひぇっ」と声を揃えて怯えだした。
「プロデューサーさん、ここは絶対ボケたりしちゃダメです!」
「何してたって聞かれてナニしてたなんてアホなこと言わんといてくださいよ!?」
「阿呆はお前たちの方だ! ……俺はただ、晩飯を海美と食べていただけだって」
すると伊織は叱られているということでしおらしくなってる海美に視線をやり、「そうなの?」と彼女に問いかけた。
一瞬びくりと肩を震わせて、海美が無言のまま小さく頷く。
さらにはP氏も彼女が手に持つお皿とスプーンを指さして。
「ほら、この皿が一応の証拠だよ」
例の美奈子盛りされていたエビ天は、今やお店の並サイズ程の量までP氏に食べられ減っていた。
美奈子がしょんぼりしている海美に言う。
「それ、私がこの前教えてあげた」
「……うん。先生みたいに上手に作れなかったけど。
それでもプロデューサーは美味しいって……味も好みの味だって」
「あー……。その好き好き言うとったんが外まで聞こえて来たワケか」
奈緒は合点がいったと手を打った。伊織は「呆れて物が言えないわ」と矛盾した台詞を口にした。
ただ一人、美奈子が海美の傍に寄り添うようにしゃがみ込むと。
「これ、私も一口貰っていい?」
「えっ?」
「見た目、私と練習した時よりだいぶ良いよ。多分だけど、あれから何度か一人で作ったりした?」
「……うん」
「やっぱり! だから私、味の方も随分変わってるって思うんだけど……海美ちゃん、確かめてみてもいいかな?」
美奈子が優しく尋ねると、海美は持っていたスプーンを彼女に手渡した。
そうして周囲の注目が集まる中、美奈子は掬ったエビ天を口に入れ。
「うん、うん……ふむふむ、へぇ……」
もぐもぐもぐと咀嚼して、時間をかけて飲み込むと見つめる海美に言ったのだ。
「……なるほど。これだけ美味しい料理なら、プロデューサーさんに独り占めしてもらいたくなるのもしょうがないね」
その一言こそが決め手になった。伊織がパンと両手を打ち鳴らし、
「撤収、解散、お疲れ様。このバカにはもう少しだけ話があるけども、今日のところはこれで終了」
ぞろぞろと退出して行くガードマン。その様子を間抜けに眺めるままのP氏。
海美は美奈子と奈緒の二人に挟まれて座っている。
「食感はだいぶ個性的やけど、味はホンマに悪くないね」
「でしょ? しかもプロデューサーさんが好きな味だって言うんだよ。……私もこの味出したいなぁ」
スプーンをはみはみ感想を言い、奈緒はしょげかえってる海美の額を「元気だしや」と軽くデコピンした。
彼女が"らしくなく"消沈しているその理由を年上の二人は分かっており、だからこそ奈緒たちはこう言うのだ。
「海美、張り紙の件はコレに免じて許したる。美奈子がおったら料理は作ってしまうもんな。
……私だって自信作のたこ焼きを食べて貰おう思ったら、海美とおんなじことやったかもしれへん」
「でも落ち着いたところで連絡の一つは欲しかったかな。すっごく心配したんだよ?」
そんな二人に、海美は心の底から申し訳ないと感じていた。
その為「ごめん、二人とも……。本当にごめんなさいっ!」と、ただただ謝罪の気持ちを言葉にする。
「せやから謝らんでもええよって。人間、たまにはそんな気持ちの日もあるよ」
「第一、皆で決めてる一線はちゃんと守ってるし。
何かの事件に巻き込まれたとかでも無かったし……むしろ私、ホッとしちゃった!」
そうして美奈子は明るく笑い、奈緒も同じように笑い出した。
だが笑顔で笑い合い許し合う少女たちのすぐ傍では、
暗く淀んだ水溜まりよりも景気の悪い顔をした男が無理やり正座させられてもいるのである。
「ところでプロデューサー。ここの契約をする時に私は確かに言ったわよね?
絶対に家の中でアイドルと二人きりにはなるなって」
「……はい」
「で、それを覚えててこのザマなの?」
「いや、帰ってもらおうとは思ったんだ。でも無理やりってのも可哀想で――」
「だからそういうところが馬鹿だって毎回言ってるんじゃないの! 再三注意してるように何かあってからじゃ遅いのよ?
やっぱりアンタはケダモノだって、お父様が判断すれば私のアイドル人生も終わっちゃうの!」
「……事務所、辞めなくちゃいけなくなるもんな。――ホントにごめん。
悪かった。伊織が心配してるように、すぐにでも連絡しておくべきだったよ」
自分の思っていた反応とは違う、意外にも殊勝な態度を見せたP氏に伊織も言葉を詰まらせる。
だがこれで下手に出るワケにはいかなかった。
なにせ彼女の方はP氏の上に立ち続ける主人であると、氏は生涯の下僕であると兎に誓った仲なのだ。
「そ、そうよ! 初めから私に相談すればよかったの。
……そうすればアンタの居場所を探してる間、馬鹿みたいにそわそわすることも無かったのに」
「えっ?」
「なんでもっ! と、とにかくアンタはこの伊織ちゃんに心ぱ――じゃなくて迷惑かけたワケなんだから。
契約違反でココを追い出されたくなかったら、お詫びとして週末の清掃作業を手伝いなさい」
ご主人伊織の命令にP氏がサッと青ざめる。
週末の清掃作業とは彼が住んでいるマンション周りの掃除全般を言うのだが、
自身の記憶が正しければ実施されるのは明日の朝。
当然、P氏は心の中で憤慨した。
腰を痛めている状態の人間になんてことを命令するのだと!
だが伊織は「そうそう」と芝居がかった調子で何かを思い出すように指を振り。
「だけどアンタ、腰を痛めたって言ってたっけ。……若い私には
全然関係無いから知らないけど、聞くところによると結構シンドイって言うじゃない」
「あ、ああ! そうだ。実はそうなんだ伊織! 今だってほら、この通り治療の為に横になって――」
「でも寝てばっかりって言うのもかえって治りが遅くなるそうよ。
今はね、動かして治すのが主流なの。新堂だって言ってたわ」
そうして「にひひ♪」と笑った少女の瞳は悪戯心に溢れていた。
これは逃れようのない決定事項。
また、P氏が無事に明日の昼を迎えられるかどうかは定かでなく――。
「あ……あの、いおりん!」
だからこそ海美は二人の間に割って入った。
「それ、私にも手伝わせて? ……っていうか手伝いたい!
だってプロデューサーが腰を痛めたのも、そうやって掃除することになるのも全部私のせいなんだし」
「……ダメよ。海美には悪いけど」
ところがだ。伊織はその申し出をいとも冷たくあしらった。
だがすぐさま「なんで!?」と返した海美には断られた理由が分からない。
……そう目で訴える彼女に伊織がやれやれと嘆息する。
「別にこれがプロデューサーへの罰ってワケじゃないからよ。
あくまで私からのお願いであって、自分の罪悪感を誤魔化すための贖罪には使ってなんて欲しくない」
しかし、伊織の説明はかえって海美を混乱させた。……贖罪の意味が皆目分からなかったのだ。
その事に伊織が気づけたのも、海美がチラチラと美奈子に視線をやったからである。
「……アンタねぇ」
まるで予想外の反応を前に伊織は脱力したように肩を落とすと。
「いいこと? つまり私が海美に言いたいのは」
「う、うん! いおりんが私に言いたいのは……?」
「そんな切羽詰まったような顔で自分を貶めることは無いってことよ。
このバカに怪我をさせただとかなんだとか、手伝いたいならそういうのは一切言わなくてもいいの」
言って、手間のかかる子供を見るように今度はやれやれと肩をすくめた。
「アンタ、今回怪我をさせた相手がプロデューサーだからそこまで意地になってるんでしょ?
これが見ず知らずの赤の他人だったらどうなのよ? ここまで熱を入れて謝ることができるワケ?」
「い、いおりん、それは……」
「できないでしょ? 即答。……だから軽々しく"自分のせいで"なんて口にしないでって言ってるの。
人にはそれぞれの身の丈ってものが……あるんだから」
伊織の陰を含んだ物言いによって僅かな沈黙が訪れる。
P氏たちも二人に口は出さず、しばらく自分でも考えた後で海美がおずおず口を開いた。
「なら、要するにただ手伝いたいってことだけを言えばいいの?」
そうして伊織を見つめる眼差しは、どこまでも真っ直ぐ前を向いている。
……先に根負けしたのは伊織だった。
彼女が「まぁ……そうね。もうそれでいいわ」と出された答えに頷くと、
海美の方も「じゃ、私も掃除手伝いたい!」とシンプルな意志を言葉にする。
すると二人の会話を聞いていた美奈子も手を上げて。
「なら私も。みんなでやればすぐ終わるだろうし……ね? 奈緒ちゃん」
「へっ!? あ、それ私も数に入ってたんや?」
結局、急に話を振られて驚いた奈緒も掃除を手伝うことになった。
その場の流れだったとはいえ、三人もの助力を取り付けられたP氏が
「ありがとう、ありがとう!」と彼女たちに頭を下げる中、一人面白くないのは伊織である。
本来の彼女の予定では、汗だくでひぃひぃ掃除をするP氏の姿を眺めてしばしの退屈を満たした後、
冷たい飲み物の一つでも差し入れて彼に恩を売る計画でもあったのだ。
そうでなくても「一人では無理だ!」とP氏が泣きついてくるならば、
少なからず作業を手伝うのも別にやぶさかではないと考えて――。
「……いおりん! ねっ、聞いてくれる?」
考えていた伊織だったのだが、突然声をかけられた彼女は少々びっくりしながらも「な、何よ?」と海美に訊き返した。
「別にそんな……大きな声出さなくても聞こえてるわよ。で、なに?」
「あのね、良かったらいおりんも一緒に掃除しない? 四人より五人の方がきっと早く片付くって言うし、
終わったらそのままみんなで美奈子先生のご飯にしようって」
ねているのは海美だけじゃない。美奈子も、奈緒も、そしてP氏も伊織の返事を待っていた。
そんな四人の視線から逃れるように「し、仕方ないわね」と、伊織が照れ臭そうにそっぽを向く。
……だがそのうち全員と向き合うと、この場を収めるためにもコホンと大きな咳払いをしてから締めくくった。
「また今日みたいに暴走されてもたまんないし、お目付け役は必要でしょ?
……全く、プロデューサーもアンタも世話が焼けてしょうがないんだから!」
===
さて――P氏が腰を痛めたことにより始まった小さな騒動はこれで閉幕。
これを女難と見るか僥倖と見るかは受け取る者の心持ち次第。
それでは、最後までご覧いただき真にありがとうございました。
>>85訂正
○尋ねているのは海美だけじゃない。美奈子も、奈緒も、そしてP氏も伊織の返事を待っていた。
× ねているのは海美だけじゃない。美奈子も、奈緒も、そしてP氏も伊織の返事を待っていた。
羨ましい、乙です
>>9
高坂海美(16)Da/Pr
http://i.imgur.com/mUXI7vq.jpg
http://i.imgur.com/cuDRFvG.jpg
>>49
横山奈緒(17)Da/Pr
http://i.imgur.com/p8MwLq9.jpg
http://i.imgur.com/uyLqr0V.jpg
佐竹美奈子(18)Da/Pr
http://i.imgur.com/IvjaW1Y.jpg
http://i.imgur.com/3jWPs9K.jpg
>>76
水瀬伊織(15)Vo/Fa
http://i.imgur.com/XacpF2d.jpg
http://i.imgur.com/Yut9h0v.jpg
あれ本当にあの世行ってたのか……
http://i.imgur.com/SIfKAyv.jpg
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