彼は普通の人でした (23)

休日のこの路線は何でこんなに人が多いのでしょう。握手会に向かう電車には、人がいっぱい乗っていました。

まだ早い時間だし、一人分くらい空いていないかと思っていたのですが、現実はそう甘くありません。

ぎゅうぎゅう詰めになっている車内で、私はこれからの握手会に思いを馳せていました。

あの人、今日も来てくれるかな。でも××さんは攻撃的な態度だから、回数少ないと良いな。

結局、アイドルだってただの人間です。好きな人もいれば、嫌いな人だっています。

ファンの人は基本的には好きですが、やっぱり好きになれない態度を取られると、こちらだって会いたくなくなるものです。

そんなことを考えていた罰でしょうか、私のお尻に何かが触れました。いや、何かとは言いますまい、人の手が意識的に、そこに触れ始めました。

慣れてしまったという言い方はしたくないのですが、またか、くらいのものです。しばらく我慢をすれば、この人もきっと解放してくれるでしょう。

早く降りろ、もしくは着け。

そう思えば思うほど、時間は流れなくなってしまうものです。相対性理論とはこういうことなのでしょうか。

痴漢の魔の手はスカートの上からでは飽き足らず、下着に直接触れようとしてきました。

気持ちが悪い。

さすがにこれには私も声をあげたくなりました。しかし、私は握手会に向かうアイドルなのです。ここで変な注目を浴びるのは、色んな意味で避けたいところです。

次の駅についても、顔も見えない彼は降りようとはしませんでした。

「降りまーす」

車両奥遠くから聞こえてきて、人波をかき分けてその声の主が私の横を通り過ぎた瞬間でした。

「おい、何だ、やめろ」

私のすぐ後ろに立っていたおじさんも、その彼に手を引かれていました。

「何だ、おい、やめんか。私はここで降りるつもりはないぞ」

「ちょっとお話したいことがありまして」

そうやってまごまごしながらも、彼はおじさんの手を引っ張って出てしまいました。

ちょうど人の多い駅だったことが幸いしたのか、車掌さんたちもそれに気づくことはなく、電車は二人をホームに置いたままドアを閉めました。

動き出す電車からホームの彼と目が合い、微笑まれたように感じたのは私の気のせいでしょうか。

彼は勇敢な人でした。とても、勇敢な人でした。

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握手会場には、続々とメンバーが集合してきました。

「おはようございます」

「おはよう」

事務的な挨拶が飛び交う中で、みんなそれぞれ握手に向けて準備を進めます。

メイクを整える子、髪を整える子、各部によって服を着替える子、色んな子がいます。

「ミズキ、何か嬉しそうじゃん」

「分かりますか?」

声をかけてくれたのはグループでも一番人気のサヤちゃんでした。

黒髪ミディアムのサラサラな髪からは清楚なイメージが漂っていて、ファッションも男性が好きそうなマキシ丈のワンピース。

私が男の人だったら、きっとサヤちゃんみたいな人を好きになっていたと思います。

痴漢をされたこと自体は不快でたまらなかったのですが、彼は救ってくれた彼は良い人でした。

救い方も、非常にスマートだったと思います。私のことを思ってくれたのかはわかりませんが、あそこで私が拘束されてしまうと握手会には間に合いませんでしたから。

一方で、彼は大丈夫だったのかなという不安もあります。言い逃れされたら、痴漢を証明することができたのかは甚だ疑問です。

「で、何があったの?」

一部始終を話してみました。

「災難だったわね。大丈夫?」

「私は大丈夫ですけど、その人が大丈夫かなって心配で」

「優しいのね。でもきっと、大丈夫よ。王子様だったら」

ふふふ、とサヤちゃんは笑いました。

王子様、なんて言い方に私は赤面しながら首を横に振ってみせます。決して、そんなのではありません。

ただ、少し勇敢な、少し良い人だなぁと思っただけです。

その様子を面白そうに見つめてた彼女は、立ち上がって口を開きました。

「さ、そろそろ行きましょ。その彼が出してくれた勇気を、私たちはファンにお返ししなきゃね」

なんて、お姉さんぶってはいますが私とそう歳が離れているとも思えません。一歳か二歳か、もしかしたら同級生。

それ以上の言葉を交わすこともなく、握手会が始まりました。彼も私も、お仕事の時間です。

「ミズキちゃん! 今日鍵開けできたよ~」

鍵開けとは、その日の握手を最初にすることです。そのために、握手列ができるのを今か今かと待ち構えている人が大勢いるのです。

それができたからといって、何か特典があったりするわけではないのですが。私を推しているという気持ちに繋がる証明、なのでしょうか。

「ありがとうございます~! おはよう! 今日も来てくれたんですね」

いつも来てくれるこの方は、ずっと前から私のことを応援してくれていました。

私たちのグループは、私たち自身ですら今何人いるのか正確には把握してません。その中で、CDシングルを歌えるメンバーは極々一部です。

幸運にも、私はそのシングルを歌えるメンバーには入っているのですが、それにも並々ならぬ競争を勝ち抜いてのことです。しかも、勝ち抜いたとはいえ、サヤちゃんみたいにフロントの目立つ立ち位置ではないのです。端っこで、ひっそりとサビでハモるくらいの立ち位置なのです。

そんな私が、カップリングを歌えるかどうかというような時期から推してくれてたのが、この方なのです。ひろたん、という名を私たちに対しては名乗っています。

「勿論! ミズキちゃんに会えるのが、俺の生きがいだから」

「ありがとうございます~!」

人の生きがいになるほど、立派なことが出来ているのかは分からないのですが。

そう言われて嫌な気持ちになる人は、アイドルには向いていないでしょう。

スタッフのお兄さん……何か呼びづらいですね、電車さんが、肩に手を置いて「お時間でーす」と声をかけました。

握手会一枚で、私と話せるのは基本的に10秒前後。1分6000円。1時間なら36万円。下手な学習塾よりよっぽどぼったくりだと思いますが、私たちはそれがお仕事なのです。

「また来るね!」

「はーい、待ってます」

その中でも、ひろたんは何度も何度も回ってくれます。一日の握手会で、彼は何度も何度も私の前に現れます。

どうやって確保しているのかと疑問に思うほど、彼は私に時間とお金を費やしてくれています。

それに後ろめたさを感じはしないものの、申し訳なさは感じます。

私がアイドル出なければ、このグループにいなければ、私にそんなにお金をかける意味があるのでしょうか。私にそんなに時間を費やす意味があるのでしょうか。

例えば、私がこのグループにいない一回の女子大生で、握手会を開いたら何人が私に今ほど熱をあげてくれるのでしょうか。

つまり、私自身には大した価値がないのです。「アイドルグループ所属」という肩書が、私を少し輝かせてくれているだけなのです。

今まで卒業していった、サヤちゃんみたいな人気メンバーたちも、芸能活動を続けています。それでも、所属していたころと同じくらいの規模で働けている人は、一部とも言えない一握りの人たちだけです。

私だって、御多分には洩れないでしょう。

卒業した先のことを今は考えていませんが、少なくとも今のファンが皆そのまま続けてくれるとは思っていません。

だから、私は今の私に会いに来てくれる彼らを大事にしたいなと思うのです。

握手会に来てくれる人たちが『今の私でないと好きでいてくれない人』だとしたら、今の私が彼らを大切にするのは当然のことではないでしょうか。

好きでいてくれる人に、進んで嫌われたいと思う人はそうそういないはずです。

「ミズキちゃん今日も可愛いね」

「新曲良かったよ」

「この間の歌番組、MCキレてたね」

私のこと、私の仕事内容を話してくれる人たち。

「最近仕事で嫌なことがあったんだ」

「もうすぐ部活の大会なんで、応援してもらえませんか?」

「俺、何歳に見える?」

自分のことを話してくれる人たち。

皆、私に話したくて来てくれる人たちです。たまに女の子も来てくれます。

「めっちゃ可愛い……! 大好きです!」

なんて同性にストレートで言ってもらえるのは、今の仕事をしている特権かもしれません。

握手会は六部構成で、人気のないメンバーは全部に出るわけではないのですが、私は選抜メンバーということもあり六部全てで握手をさせてもらってます。

忙しい部だと、あっという間に時間は過ぎます。一部は大体一時間で、休憩をはさんで朝から夜まで続くのです。アイドルというのは、握手をするにも体力勝負な仕事とは、実際にそれを始めるまで知りもしませんでした。

とはいえ、全ての部が売り切れているわけではないので、暇な時間だってもちろんあります。

一部は鍵開けを狙う人たちがいっぱいいて完売していたから結構忙しく、頭をフル回転させながら接します。

この人は今日二週目だ、この人は前回初めて来てくれた人だ、この人は一日に一度来たら二度目はない。

効率よく、ファンを放さないように考えながらもしっかりと皆の目を見つめます。それだけで喜んでくれるのなら、私はいくらだって視線を送りましょう。

幸いにも一部のチケットは完売していたので、一時間ずっと忙しいままでした。

最後の方との握手を終えると、私は頭を下げて「お疲れ様でーす」と言い残してブースを去ります。電車さんに視線をチラッと向けると、お疲れ様ですと返してくれました。

握手を終えたメンバーと合流して、控室に向かいます。道中、「××さん、私のところに来てくれたよ。浮気性だね」だったり、「○○くん、今日も鍵開けだった~。凄すぎて逆に引く」だったり、雑談をしていたのですが、やはり皆いい感想だけではないものです。

「またあのオタク来たよ、本当キモいから」「出禁にしなよ」といった、汚い感想が出てくる子もいます。

お客様は神様だ、とは到底思えないような接し方をしてくる人もいるものです。もしくは、人と人なので、どうしても合わない人だっているでしょう。

彼女たちの気持ちを否定することもできないとは思います。私だって、来ないでほしいなと思う人がいないわけじゃないのです。

「ほら、またアイナたち言ってるよ。人気あるからって、調子乗ってるよね」

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