【デレマスSS】監察医の白坂さん【R- 18G】 (63)

(デレマスのアイドルを登場人物に使っているだけでデレマス要素は)ないです
(独自設定、残酷な描写が)ありますあります

 晩秋の朝のやわらかな陽光が、監察医の白坂小梅の青白く生気のない肌をじんわりとあたためていく。
仄暗い現代社会を生きる人間にとって
 日光浴は大切である。一日一時間の日光浴で、セロトニンの分泌量を増やすことができ、うつ病の防止に大いに効果がある。研修生の龍崎薫が日々取り組んでいる「白坂小梅健康促進キャンペーン」の一環で、朝の日光浴タイムが設けられデスクのブラインドは上げられていた。
 ぽかぽかとした血液が頭に上ってきて、かたかたと検案書を作成する小梅の集中力をじわじわと奪っていく。これはいけないとキーボードの横にある煙草とライターを取ろうとすると、薫の手がむんずと煙草とライターをつかんでいった。

「い、一本ぐらい吸わせてよ…」

「ダメです。お仕事中は禁煙って決めたじゃないですか」

「あのね、お、お仕事が多くてストレスが溜まってるの…これじゃお仕事にならないよ…ね、一本だけお願い…」

 容赦なく小梅の嘆願を切り捨てる薫になおも縋りつく小梅。

「ダメです。煙草吸う方がストレス溜まるって科学的に証明されてるじゃないですか。これで我慢してください」
 そう言って薫が小梅に手渡したのはココアシガレット。

「…わかった」
 震える手でココアシガレットを一本つまみ、バリボリとかじる小梅。数か月前に受けた健康診断は残酷にも小梅の不健康を立証し、薫を医者としての使命感に燃え上がらせてしまった。お前は監察医を目指しているんじゃないのかと突っ込んでやりたいのはナイショだ。
 甘ったるくなった口の中をコーヒーで洗い、二本目のココアシガレットをかじろうとした時、デスクの上にある電話が鳴った。

「は、はい…白坂です…」

『白坂先生、ヒゲクマさんからお電話です』

 受付の服部瞳子の柔らかい声が告げるのは、気だるげな気分を吹き飛ばす名前。ヒゲクマは新宿区警察署所属の刑事、熊田浩一のニックネームだ。

「あ、つ、繋いでください…」

『おう、先生かい?朝っぱらからすまねぇんだけどよ。今日、検案頼めるかい?死体は一体で、損壊ありだ』

「ちょ、ちょっと待ってね…。か、薫ちゃん…今日は台って空いてるかな…?」

「はーい!ちょっと待ってくださいねー!」

 薫がパソコンの予約システムを起動して解剖台の予約を調べる。

「先生!1台が16時から空いてまー!」

「あ、ありがと…。ヒゲクマさん、16時からできるよ…」

『おお、そうか!16時だな!ありがとうよ!』

 電話のスピーカーが音割れするほどの大声でヒゲクマは礼を言って電話を切った。

「か、薫ちゃん…今日の16時から持込検案ね…」

「あーあ、今日もですか。新宿署からの持込、今月だけでもう10件ですよねぇ」

「しょ、しょうがないよ…新宿署の署長さんがウチを頼りにしてくれてるんだもん…」

 平成25年に施行された死因・身元調査法により新法解剖が運用されるようになってから、捜査のスピードを速めるために監察医務院が解剖を行うケースが増えている。
 裁判所が命じる司法解剖は被害者遺族の了承を得ないと行えないが、新法解剖は警察署長の権限で行うことができ、被害者遺族の了承も不要なため、死因の特定が速やかにできて初動捜査の方針を固めることができる。警察からしたらいいことずくめの制度だ。監察医からしたら死ぬほど忙しくなるので糞以下の制度だというのに。ファッキュー内閣府。

「そ、それに持込班の私たちはまだマシだよ…市原先生は現場班だから昼でも夜でも現場に駆り出されて、今月は奥さんとお子さんに会っていないって嘆いてたよ…」

「とりあえず、残ってる検案書大急ぎで仕上げないと…先生、なんですかその手は?」

 小梅は薫に向かって無言で手を差し出している。

「先生、ダメですよ。お仕事中は禁煙だって決めたじゃないですか」

「じゃあ今日は深夜残業コース、だね…ふふふ…知ってる?ここって深夜にお仕事してると、誰かにじーっと見られているような気がしたり、誰もいないはずの廊下から、足音がしたりするんだよ…」

「そ、そんなのただのウワサです!」

「じゃあ…今夜は、そのウワサが本当か確かめようね…」

「………煙草吸って、気合入れてきてください」

 怖がりの薫は小梅に煙草を明け渡す選択肢を選ぶしかなかった。

「あ、ありがと…」

「あっ!一本だけですよ!一本だけ!」

「わ、わかってるよ…じゃ吸ってくるね…」

 薫はウキウキと喫煙所に小走りで向かう小梅を見送りながらため息を吐いた。そして薫も解剖の準備をするためにパタパタと部屋を出て行った。

「おーっす。今日もよろしく頼むぜ」

 きっかり15時にヒゲクマはやってきた。新宿警察署の警部補である熊田浩一は恰幅のいい体と髭の生えたふてぶてしい面構えとクマのようにつぶらな可愛い瞳から、ヒゲクマの愛称で呼ばれている。

「こ、こんにちは…準備できてるよ…」

「お疲れ様です!」

「いつもすまねえなぁ。ほい、これ差し入れな」

「叙々苑の焼肉弁当だー!ありがとうございます!」

「わぁ…♪ありがとうございます…」

 焼肉は小梅と薫の大好物だ。人におごってもらう焼肉に勝る食べ物はないとは小梅の持論だ。

「ここんとこ連続で検案頼んじまったからな。肉でも食ってお馬力つけてちょうだいよ」

「じゃ、解剖が終わったら食べましょうね先生!」

「そ、そうだね…」

「あれ?薫ちゃん、解剖の後は何も食べられないんじゃなかったか」

 薫は監察医を目指しているが、死体に対して耐性がない。解剖の途中でバケツにげえげえと吐くのがいつものお約束だ。

「最近、吐いた後でもちゃんと食べられるようになりました。成長ですよ!成長!」
 どうだと言わんばかりと誇らしげに報告する薫。

「薫ちゃん、それ成長したって言えねえ」

「ちゃんとご飯食べられるからいーんですー。それよりも最近、新宿からの持込が多くないですか?先週もやりましたよ」

「あー…一ノ瀬先生がウチの署長に信用されてねえからなぁ…」

「一ノ瀬先生?」

「ウチの管轄にある東京女子医科大学の法医学教室にいるスゴ腕、いやスゴ鼻の先生だ」

「い、一ノ瀬さんは確かにスゴ鼻だね…」

「スゴ鼻って言葉、初めて聞きますよ…どんな人なんですか?」

「一ノ瀬先生はそりゃあもうすげえ鼻の持ち主でよ。何と死体の匂いを嗅いで死亡時刻から死因までビタリと当てちまう」

「匂いで?!」

 信じられないと訝しげにヒゲクマを見つめる薫。薫が持ち合わせている監察医の常識と知識ではとても信じられないのも無理はない。

「頭を鈍器で殴られた死体が来れば殴った凶器の匂いを嗅ぎとって言い当てちまうし、毒殺された死体の肌の匂いを嗅いで薬品を言い当てちまう。ありゃ人間じゃねえな。うん、妖怪だ妖怪」

「よ、妖怪ですか…」

「ま、そんなスゴ鼻の妖怪も東京地検の二宮検察官とタッグを組んで、難事件の数々を解決してるんだぜ。去年あった赤い洗面器殺人事件とか」

「えっ!あの事件、スゴ鼻の妖怪が解決したんですか?!」

「そ、そうだよ…い、一ノ瀬先生は変わった事件を解決してるよね…」

「しかも、あの先生気まぐれでよ。興味が湧いた死体しか解剖しねえ。しかも失踪癖持ちで、二宮検察官じゃなきゃ居場所が見つけらんねえから、ウチが解剖を頼もうにも連絡がつきゃしねえ。おかげでウチの署長からは嫌われてるって訳だな」

「い、一ノ瀬先生はメスいらずだから…死体をキレイにお返しできてうらやましいよね…」

「確かにそれはうらやましいですね。この間もご遺族の方からクレーム来ちゃいましたもんね…」

「ま、それでも俺は白坂先生がいいけどな!人間味があるからよ!」

 ヒゲクマがバシリと小梅の背中を叩く。

「も、もう痛いでしょ…」

「ウハハ!イテエってことは生きてる証拠だよ!」

「あはは!確かに!」

 ヒゲクマと薫の笑い声に交じってドアがノックされる音が聞こえ、ガチャリとドアが開きパンツスーツの女が入ってきた。

「ちわーっす。ヒゲクマさん、死体の搬入できたっすよ」

「おう、向井。ありがとうな」

 部屋に入ってきた乱暴な口調の女の名前は向井拓海という。ヒゲクマと同じく、新宿警察署に所属する刑事だ。

「…あれ?」

 拓海は部屋に入るなり、鼻をひくつかせて小梅に近づいていく。

「おい、薫。白坂センセから煙草の匂いがすんぞ」

「………ここにもスゴ鼻がいましたね」

「向井は鼻が利くからな」

「あの妖怪と一緒にすんじゃねー!アタシは立派な人間だ!」

 ガルル!と吠えるように叫ぶ拓海は人間というより、犬だなと小梅は思った。☆

「薫!白坂センセを禁煙させるんじゃなかったのかよ!」

「ご、ごめんなさい!今日は仕事がたくさんあるからどうしてもって先生が」

「あのなあ、ウチの署長から言われてんだぞ?『白坂先生は体が細く、食も細く、声もか細い!白坂先生に倒れられたら新宿警察署の一大事!熊田君と向井君で先生の健康面をサポートするように!』…ってよ」

「ウハハハハ!おい今のモノマネ、今年の忘年会でやれよ!絶対にウケるぜ!」

「嫌っすよ!給料減らされちまいます!」

「拓海さん、新宿警察署のために先生をもっと健康にしなきゃいけませんね!」

「そうだなー………お、次はあれだ!スムージーで健康になってもらうか!」

「も、もう…!私の健康より、もっと大事なことあるでしょ…!」

 盛り上がる薫と拓海を見て、今度はどんな苦行を課せられるのかと小梅はゲンナリとする。話題をそらさなければ何をされるかわかったもんじゃない。

「お、そうだな。先生、今日の死体はちょっとハードだ。顔面をぐちゃぐちゃに潰された女で、右腕が切断されてる。これが現場写真な」

「ふうん…あ、こ、ここってお風呂屋さん…?」

「正解。借り手がつかなくて空きテナントになってた元ソープランドだ。発見者は近所のホームレスのジイサンで、あんまりに寒かったから中で寝ようと侵入したら見つけちまったらしい。しかも、現場から逃げる犯人の足音まで聞いてるってんだからお手柄だ。音がしたって所からしっかりとゲソ痕も取れたしよ」

「えーと、じゃあ犯人はもう見つかってるんですか?」

 薫は現場写真を見まいと窓の方を見ながら質問をする。

「いいや、見つかってねえ。あの辺はスキマって呼ばれててな、雑居ビルの隙間に監視カメラのない道、上海小吃の辺りみたいな感じの道がうじゃうじゃとある。あの辺を知ってる奴は監視カメラに映らずに逃げちまう」

「目撃情報もジイサン以外にねえし、身元もわかんねえ。歯もほとんどペンチで抜かれて砕かれてたンすよ。ったく、歯型の照合もできやしねえ!」

「は、歯をペンチで…うぇー…」

 薫は自分の歯がそうされたような感覚がしておぞ気がしたのか、口に手をあてて顔をしかめた。

「って訳だから、しっかりと解剖頼むぜ先生。向井、お前は解剖の間に現場で聞き込みしてきてくれ」

「う、うん…任せて…!」

「うっす、了解です」

「先生!準備できましたよ!」

 解剖室の薄暗く、どこか湿っぽい空気に薫の元気な声が響き渡る。死が充満しているこの部屋で、薫だけが生きている。そんな風に小梅は思った。

「う、うん…ありがとう…」

「薫ちゃん、吐きたかったら素直に言ってくれよな。バケツは俺が持っておくから」

「ヒゲクマさん、今日はお昼も少なめにしたし、おやつも食べていないから我慢できるので大丈夫です!それに…うん、嫌な感じの臭いはしないので大丈夫です。…たぶん」

 鼻をすんすんとして、臭いを確認する薫。薫曰く、見た目のグロさは慣れれば大丈夫だが、臭いのきつい死体だと本能的に吐き気がくるらしい。

「うーん…おじさん、とっても心配だなぁ…薫ちゃん、見た目のきっつい死体でも吐くからなぁ…」

 ヒゲクマはバケツを抱えて、心配そうに薫を見つめる。薫は死体を見るのが吐くほど嫌なのに、監察医を目指そうとする意志が人一倍強い。

「か、薫ちゃん…無理はしないでね…」

「もう!大丈夫ですってば!」

「じゃ、じゃあやろっか………始めます」

 小梅の凛とした声が解剖の始まりを告げた。
 小梅が合掌し、薫とヒゲクマも続いて合掌する。
 数十秒の合掌が終わり、薫が死体袋のマジックテープを開けると、潰れた顔がでろりと現れた。薫の手がびくりと一瞬止まるが、ぎゅっと手に力を込めて死体を袋から出していく。死後硬直が始まっている死体を袋から出すのはちょっと大変だ。
 死体の右腕は肘から先が切断されていて、別の袋に分けられていた。全身に暴行されたのか痣がいくつかあるが、死にたてで腐っていない。死体愛好家の小梅が好きな状態の死体だ。腐った死体は映画の中だけで十分だ。

「身長は172cm…女性…か、顔の全体に損壊…右前腕部が切断されてるね…全身に拳大の痣あり…首に索条痕があるから直接的な死因はこれかな…痕の形は…電気コードかな…生活反応はなし…硬直の具合からして…死後20時間だね…」

「はい」

「20時間てぇと、死亡推定時刻は昨日の夜の10時前後か。んで、死因は首を絞められたことによる絞殺だな」

「そ、そうだね…それと歯は…中切歯から第一小臼歯まで抜かれているね…第二小臼歯から第二大臼歯はペンチみたいな物で砕かれてるね…」

「…はい」

 黙々と記録をしていく薫だが、やはり歯の部分になると辛いのか反応が鈍る。

「か、薫ちゃん…この人が受けた傷を想像するよりも、記録をきちんと取らないとこの人がどうやって殺されたのかどうか判らないでしょ…身元だって分からないし、ちゃんと私たちで調べないと、この人は家に帰ることもできないんだよ…」

「す、すみません!」

 小梅は死体愛好家である前に監察医だ。被害者の利益を第一に解剖を行うのが信条である。被害者の死因を明らかにし、身元を割り出す手がかりを見つけ、犯人を追い詰める証拠を探し出し、被害者の無念を晴らさなければならない。

「じゃ、じゃあ続けよっか…か、顔の損壊だけど…うーんと…潰したって、感じじゃないね…削り取った感じ…こ、これって電動のグラインダーでやったのかな…」

「電動グラインダー?…成程、確かに合理的だな。肉も骨ごと削れるし、身元を手早く分からなくしちまおうってんなら悪くない選択だな」

「傷の表面に、ディスクの粉がたくさん付いてるね…科捜研で鑑定してもらおうね…」

「おう、にしてもヒデェことしやがるなぁ。全身ボコボコじゃねえか」

「う、うん…殴られてあばら骨も何本か折れてるみたい…あとで切開して確かめようね…」

「はい」

「そ、それと首の索条痕だけど、吉川線がないね…縛られてたのかな…?うーん…あ、あった…親指の根本にきつく締め付けられた跡があるね…結束バンドで拘束されたまま首を絞められたのかな…」

「………先生」

「な、なあに…?」

「吐きます」

 薫はそう言うと、ヒゲクマからバケツをひったくり、部屋の隅へと駆け出してげえげえと吐き、口を拭い、新しいマスクを着けて解剖台に戻ってきた。

「すみません、お騒がせしました。先生、続けてください」

 顔色は青く、息も絶え絶えだが、薫の目には必ずこの解剖をやり遂げるという強い意志が宿っていた。

「うん…頑張ろうね、薫ちゃん…」

「はい!」

 死と向き合うことはとても辛く、その死が凄惨であれば目を背けたくなる。だが、監察医である以上その死から目を背けてはいけない。向き合うことに耐えきれず吐くことがあっても、絶対に目を背けようとしない薫には監察医の素質がある。少なくとも、自分よりは真っ当な監察医になれると小梅は思う。吐き癖は直してほしいけど。

「じゃあ次は切開に移るよ…まずは胸部から…」

その瞬間、小梅の耳に声がぞわりと入り込んできた。

『この事を漫画に…』

 その声はぐちゃぐちゃになって形もない唇から、確かに漏れ出た。

「この事を漫画にねぇ…」

 そうポツリとつぶやいて、ヒゲクマはヘミングウェイ・カクテルをちびりと飲む。ヒゲクマの恰幅のいい図体と細いシャンパングラスはあまりにもアンバランスで小梅はくすりと笑ってしまった。

「なんだい先生、こちとら頭を悩ませてるってのに」

「ご、ごめんね…悩んでる時のヒゲクマさんってか、かわいいからついね…」

 身元不明の死体の解剖を終えて、小梅とヒゲクマは行きつけのパティスリーバーに来ていた。カウンターに座る二人の前には、ヘミングウェイ・カクテルが2杯とアップルパイが1ホール。一切れは小梅ので、あとはヒゲクマの分だ。

「おいおい…そこはしかめっ面で怖いとか言ってくれよ。俺はコワモテなのが売りなんだぜ」

「カ、カワイイのはカワイイんだからいいの…!」

 ヒゲクマは照れ臭いのか、返事もせずにアップルパイを手でつかみガブリとやった。

「うーむ………うめぇ!マスター、今年もいいリンゴ使ってんな」

「ほ、ほんと…?じゃあ私も…」

 小梅もヒゲクマに続いてアップルパイをフォークで切り分けてパクリと食べる。

「んー…♪リ、リンゴがどっさりでおいしいね…」

 そして、小梅とヒゲクマはヘミングウェイ・カクテルをぐびりと飲む。ヘミングウェイ・カクテルはアブサンとシャンパンで作るカクテルだ。アブサンの強烈な風味がシャンパンの炭酸でぐわっと口の中で広がるが、そこへアップルパイを放り込むと。

「うめぇ…」

「おいしい…もう、死んでもいいぐらい…」

 これがもうたまらなく、うまい。退廃的な飲み方であるが、アブサンのおかげで健康になれる。節度さえ守れば。

「あはは…『午後の死』を飲んで死んだら、ヘミングウェイも大喜びじゃないでスかね」

 不意に、小梅の隣から声がした。声の主は、髪が少しぼさっとしている眼鏡をかけた女性だった。

「おお!アンタもヘミングウェイが好きか!」

「い、いやアタシは漫画のネタのためにカクテル調べてたら、たまたま知って、その短編を読んだだけでスけど…」

「ご、『午後の死』…?」

「ヘミングウェイ・カクテルの別名だ。ヘミングウェイの作品に同じ名前の短編があってな。そもそもこのカクテルは、かのヘミングウェイが考案したんだぜ。ちなみに、オリジナルのレシピはアブサンじゃなくて黒色火薬を使う」

「それはまた物騒でスね」

「ひ、ヒゲクマさんはヘミングウェイが好きだよね…」

「おうよ!ヘミングウェイこそ男の中の男よ!徹頭徹尾、男らしさに拘るあのスタイルが最高じゃあねえか!俺もああなりてえもんだ!」

「…あの、ヘミングウェイって確か」

「しーっ…」

 小梅は女性の方をちらりと見て、いたずらに笑いながら口に人差し指をあてる仕草をした。誰にでも秘密はある。小梅にも、ヒゲクマにも。

「ね、ねえ…さっき漫画のネタって言ってたよね…もしかして、漫画家さん…?」

「あ、はい、そうでス。といってもまだデビューしたことないんでスけど…同人作家といった方がいいっスね」

「へえ…」

「どんな漫画を描くんだい?」

「魔法少女とかファンタジー系の漫画を描いてまス。こんな感じの絵柄で」

 女性はそう言って自分のスマホを操作して、画像を二人に見せる。とてもかわいらしい女の子が、魔法のステッキでモンスターをボコボコにしている絵だ。

「これは魔法少女フルボッコちゃんって言うんでスけど」

「わぁ…♪いい…!いい…!」

 趣味に合ったのか、小梅は興奮気味だ。

「ほぉーいい腕してるじゃねぇの」

「あ、ありがとうございまス。…あの、こんなこと失礼を承知で頼みたいんでスが」

「ん、なんだい?」

「お二人をスケッチさせてもらっても良いでスか?今、描こうとしている作品のイメージにお二人がピッタリなんでス!どうかひとつ!」

 怒られるのを覚悟しているのか、女性はわざわざ席から立ってぺこりと頭を下げて頼み込む。

「おお、いいぜ」

「い、いいですよ…」

「えっ!ほ、ほんとに?………あ、ありがとうございまス!」

 あまりにもあっさりとした返事に、女性は困惑しながらも礼をする。
「いいっていいって!断ったら土下座までされそうなオーラが出てたものなあ」

「う、うん…」

「あはは…じ、実はキャラクター像が全然浮かばなくって、どうにかなりそうだったんでス。お酒でも飲めばなにかアイデアが湧くかなってココにきて正解っスね」

 そう言いながら、女性は小さなスケッチブックと鉛筆を何本か取り出す。

「あ、ゴメンナサイ、自己紹介がまだっスね。アタシは荒木比奈っていいまス」

「あ…し、白坂小梅と言います…小梅でいいよ…」

 ふかぶかと頭を下げて小梅が自己紹介をする。

「俺は熊田。ヒゲクマでいいぜ」

 ヒゲクマはニカッと笑って自己紹介をした。

「じゃあ早速始めさせてもらいまスね。えーと、小梅さんから」

「こ、こわーく描いてね…」

「いや先生はカワイイだろ」

「先生?」

「あ、いけね」

「え、えっと私は公務員で…か、監察医をしています…」

 小梅は堂々と自らが監察医であることを告げた。

「監察医!?」

「は、はい…」

 驚くのも無理はないとヒゲクマは思う。なにせ小梅は身長142cmで体重は34kgとぱっと見は子供にしか見えない。そのうえ髪は金髪、耳にはこれでもかとピアスがどっさり。タトゥーショップの店員ならともかく、これで監察医とは思わないだろう。

「信じらんねえだろうが、マジで先生は監察医だぜ。東京監察医務院に勤めてんだ」

「はぁ…世の中って広いモンでスね…」

 比奈はまだ信じられないという顔をしながらも、さらさらと鉛筆は動かして小梅の顔を描いていく。10分もしない内にスケッチは書き上がり、小梅の耳についているピアス、髪型、目のそれぞれのアップのスケッチも余白に描き加えられていた。

「ほぉー…見事なもんだ。あんた、写実画家の才能もあるんだな」

 比奈の後ろからスケッチをする様子を見ていたヒゲクマは唸って感心していた。

「あはは…バイトだけじゃ食っていけないんで、路上で似顔絵も描いていまスからね」

「か、描けた…?も、もう動いていい…?」

 10分間律儀にじっとしていた小梅の関節からはギギギと音がしそうだった。

「あ、もう大丈夫でス。長い時間じっとさせちゃってスミマセン」

「よ、よかった…」

 小梅は安堵の表情を見せ、灰皿に放置されていた火が消えかけの煙草をくわえて吸い、ぷかりと煙を吐いた。

 比奈はその様子をじっと見つめ、何かを思案しているようだった。

「この人なら、助けてもらえるかも…」

 よほど思い詰めているのか、ぽつりと言葉を漏らすほどに。

「あ、あの…助けてってどういう…?」

「へ?あ、ええと…」

「な、なにを助けて欲しいの…?」

「ウハハ!健康相談ならやめとけ、この先生は不健康に関しちゃプロだからよ!」

 そう言って、ヒゲクマはヘミングウェイ・カクテルをグビリと煽る。

「も、もう…!私だってお、お医者さんなんだからアドバイスぐらいはで、できるよ…!」

「説得力ないでスね…」

「だな」

 唇を尖らせて抗議する小梅だが、まったくもって説得力はない。

「えーとでスね。アタシの友達に山咲ハナヨっていう漫画家いまして…」

「山咲ハナヨ?『路地裏の子供たち』の山咲ハナヨか!?」

「知ってるの…?」

「おお、虐待されてる子供とか、育児放置されている子供がテーマの漫画でよ。描写がもの凄く生々しいんだよ。冷や飯にマヨネーズかけて食うとか、公園で遊んでた子供たちの携帯ゲーム機を盗んで、親と一緒に中古屋に売りにいくとか」

「へえ…」

「短期集中連載の漫画だったけれどよ。単行本が飛ぶように売れて、ミニシアター系だけど映画にもなったんだ。確か3年前だったよな」

「そうでス。よくご存じでスね…」

「ま、職業柄な。次回作も楽しみにしてるって伝えてくれよ」

「はい、そう伝えたいのは山々なんでスが…実は、ハナヨちゃん、その次回作でとっても悩んでて…」

 比奈は複雑そうな面持ちでそう答える。

「次回作の構想が全く浮かばないそうなんでス。あたしや他の同人仲間も、そのうちプレッシャーに負けて失踪してしまうんじゃないかって心配で…」

 鉛筆をぎゅっと握りしめて、話す比奈はまるで自分のことを話しているようにも見えた。作家特有の悩みだというのが、小梅にもそれとなく感じられた。

「ハナヨちゃんが描く漫画はテーマがその、特殊といいまスか…社会派で、あたしはファンタジー系の漫画、他の仲間もオタク向けなジャンルなんで情報提供のツテもなくて、できることといったら気晴らしに飲みに連れてってあげるぐらいで…」

「うん…うん…」

 小梅は、比奈の手を優しく包み、静かに相槌をうちながら話を聞く。

「…実は『路地裏の子供たち』はハナヨちゃんが子供の頃に経験したことが基に描かれていた漫画なんでス」

「なるほどな、どおりで妙に生々しい訳だ。…結構、キツイ人生送ってた訳ね」

「はい…ハナヨちゃん、作品を描き上げた後の打ち上げ会で「私、空っぽになっちゃったよ」って言ってたんでス…生活自体は印税やイラストレーターの仕事を細々として何とか食いつないでいるんでスけど、ハナヨちゃんに何とか漫画家として再起して欲しくって。白坂先生、どうかハナヨちゃんの力になってくれませんか!」

 比奈は、自身の時よりもさらに深く頭を下げていた。

「あ、あのね…私、監察医だから守秘義務があって被害者の方の事はあんまり話せないの…。で、でもね、お仕事の仕組みとか、よくある死因とか珍しい死因をお話することはできるよ…。そんな形でいいなら、お手伝いできるけど…」

 そう言って、小梅はメモ帳に自身の携帯の番号を書いてページを破り、比奈に差し出した。

「あ…ありがとうございまス!」

「良かったなぁ、先生なら面白い話をわんさか知ってるからよ。安心していいぜ」

 そう言って、バシリと比奈の肩を叩くヒゲクマ。

「はい!それじゃあ、あたしからの前金がわりといっちゃなんでスが、お二人に一杯おごらせてくださいっス」

「おいおい、ここはパティスリーバーだぜ?おごるなら酒じゃなくて、スイーツだ!」

「そ、そうだね…ここ、お酒よりもお菓子の方が安いもんね…」

「ス、スミマセン…ここは初めて来たもんでスから…なんか、オススメありまス?」

「ふーむ…そうだな、この店のオススメといやあカンノ―リだな」

「カンノ―リ?」

「シ、シチリアのお菓子でね…筒みたいにした生地を揚げて、その中にリコッタチーズのクリームをたっぷり詰めるの…」

「ここのマスターは本場シチリアにいって作り方を盗んできたんだ。絶品だぜ」

「はえー…じゃあそれで」

「おう、マスター!この姉ちゃんのおごりでカンノ―リ3つな!」

「あ、あ…それとイェーガーのストレートのダブル…」

「俺は山崎のロックを」

「あたしは…ヘミングウェイ・カクテルをお願いしまス。あ、それと次はヒゲクマさんのスケッチをさせてください」

「おう、男前に描いてくれよな!」

「はいっス!」

 小梅はポーズをきめるヒゲクマの邪魔にならないように、比奈の後ろに移動して、比奈の耳元で小さく囁いた。

「か、かわいく描いてあげてね…」

「あはは…じゃあ両方で」

 さらさらと描かれていく男前のヒゲクマと、デフォルメされたかわいいヒゲクマを見ながら、小梅はグラスに残っていたヘミングウェイ・カクテルをぐびりと飲み干し、煙草を吸ってぷかりと煙を吐いた。

今日はここまでっス

 それから三日経ち、小梅が喫煙所で煙草を吸っている時だった。今日は薫が休みなので、心置きなく煙草を吸い、良い心地でぼんやりと午後の落陽を浴びていると胸ポケットのスマホがぶるりと震えた。薫にバレたかと思い、慌てて画面を確認すると登録のない番号が表示されていた。小梅は不審に思ったが、とりあえず出てみることにした。

「も、もしもし…?」

『あ…こ、小梅さんでスか…?比奈でス、荒木比奈でス!』

「こ、こんにちは…ど、どうしたの…?」

『あの、その、それが…』

 電話の向こうの比奈はよっぽど慌てているのか、気が動転しているのか、声がうまく出せないようだ。

「ま、まず、落ち着こうね…深呼吸して…」

『は、はい………スイマセン、落ち着きました』

「で…どうしたの…?」

『えと、この前バーで話したハナヨちゃんのことなんでスけど。あの後、何度か電話しても出てくれなくて、それで今日様子を見に部屋まで来たら玄関が開いていて、中に入ったら誰もいなくて、一日待ってたんでスけど帰ってこなくて…』

「何か置手紙とかあった…?部屋とか荒らされてない…?」

『そういったのは特に…洗濯物とか干しっぱなしだったんでコンビニに行ってるのかなって思ってたんでスけど…』

「洗濯物が干しっぱなし…?」

『はい…どうしよう、ハナヨちゃんとうとう思い詰めて…』

「わ、わかった…今からそっちに行くから、場所教えてくれるかな…?」

『はい、えーとここは歌舞伎町のライオンズマンションの307室でスね』

「え…あそこなの…」

『えっ、な、なんかあるんでスか!?ここ!?』

 歌舞伎町のライオンズマンションといえば、闇金の事務所や半グレの溜まり場になっているとヒゲクマに聞いたことがあった。そんな場所に住むのはよっぽどの好き者だろう。

「だ、大丈夫だと思うけど…戸締りはしっかりしておいてね…」

『は、はい!』

 電話を切り、煙草を深く吸ってぷかりと煙を吐いてから、小梅は別の相手に電話をかける。

『はいよ、もしもし?先生、どうかしたか』

「も、もしもし…ヒゲクマさん、今から外に出られる…?なんか、さわがしいね…」

 電話の相手はヒゲクマ、ちょうど警察署にいるのか、拓海が韓国語で叫んでいるのが小さく聞こえた。なにやら取り込み中のようだ。

『向井が引っ張ってきた不良外人が暴れててな…お、ヘッドロック決めやがった!たった今、ヒマになったぞ』

「え、えっとね…この間、バーで会った比奈さんから電話があってね…」

 小梅は、今しがた比奈と電話で話した内容をヒゲクマに伝えた。

『…確かにそりゃあ怪しい。あのマンションってのもそうだが、失踪する奴は洗濯物なんか干しっぱなしにしねぇな。身辺整理をして、自分がいなくなってもいいようにするモンだ』

「うん…それに、連絡が取れなくなったのが3日前って…」

『いや、まだわかんないだろ!とにかく、比奈ちゃんを一人きりにさせるわけにもいかねえ。とりあえず俺も向かうから現地でな』

「わ、わかった…」

 小梅は電話を切ると、デスクに戻り白衣を脱いでモッズコートを着て部屋を出た。小梅の体格でモッズコートを着ると、ロングジャンパーを着ている小学生のように見える。その上、袖はダボダボだが小梅はこの感じがとても大好きだ。
 廊下を足早に歩きながら、思案する。悪い予感が当たれば、あの部屋にいるのはあまり宜しくない。早くヒゲクマと合流して連れ出さなければ。

「あら、白坂先生お出かけですか?」

 受付の前を通ろうとした時、受付の服部瞳子から声をかけられた。マズイ、下手に答えると薫にチクられてしまう。

「え、えっと…ヒゲクマさんに呼び出しされたからちょっと歌舞伎町まで…」

「…先生、カルボナートの洋梨タルトでいいですよ」

 瞳子からしれっと口止め料を要求された。

「もう…!サボりじゃないってば…」

「うふふ…冗談です。もう夕方ですから、風邪ひかないようにしてくださいね」

「は、はい…じゃ、いってきます」

 正面玄関の自動ドアが開くと、外の冷気がひゅうと入り込んできた。今日の晩酌は熱燗と塩辛にしようと、小梅は思った。

 それから40分後、小梅の姿は歌舞伎町のライオンズマンションの前にあった。エントランスホールに入ろうとした時、小梅の肩がガシリとつかまれた。ばっと振り向くと、そこにはヒゲクマがいた。

「よう先生、待ってたよ」

「お、おどかさないでよ…」

「んふふふふ…いや、先生があんまりにも必死そうだったからついな」

「もう…は、はやく行こうよ…」

「はいよ」

 二人はエレベーターに乗り、3階で降りて307号室のインターホンのチャイムをヒゲクマが鳴らした。やや間をおいてから応答があった。

『…ハイ、どなたでスか?』

「俺だ、ヒゲクマだ。白坂先生もいる」

 ドアの向こうでバタバタと音がして玄関のドアが勢いよく開き、泣きそうな顔の比奈が飛び出してきた。比奈は小梅とヒゲクマの顔を見ると、安堵の表情に変わり小梅に抱き付いた。

「お、お待ちしてましたっス!」

「よ、よかった…無事で…」

「あ、アタシ不安で…っていうか、安否確認される程ここヤバいんでスか!?」

 小梅は何も答えず比奈の頭をよしよしとなでた。

「騒ぐな騒ぐな、目立っちまう。とりあえず中に入ろうや」

「あ、ハイ。どうぞっスって言ってもアタシの家じゃないでスけど」

 3人は中に入り、小梅と比奈はリビングのソファーに座り、ヒゲクマは食卓から椅子を持ってきてどかりと座った。

「さてと、話聞く前に言っておかないといけねえ事がいくつかあるよなあ。白坂先生が監察医なのは前にバーで話したけど、俺の事はまだだったよな」

「ハイ、あのヒゲクマさんってもしかしてヤクザの方でスか…?」

「良いねぇ~、ほら先生、俺はやっぱりコワモテだってことだよ」

「きょ、去年、事件現場の聞き込みしてたら…ふ、不審人物扱いされて、重要参考人になりかけたのは誰だっけ…?」

「先生、それは言わない約束よ…。えーとな、俺は新宿警察署の捜査一課に所属してる刑事だ。こんな面してるけどな」

「ええっ!?け、刑事さんなんでスか!?あ、あの!大変失礼な事を!」

「んっふっふっ…まあ、気にすんな。それよりも、その山咲ハナヨさんの件なんだけど事情を聴いて事件性があれば対応させてもらうから」

「わかりましたっス」

 事務的な様だが、冷静に話を聞き出すには聞き手側がまず落ち着かなければいけない。感情的になっては聞き漏らしてしまうことがあるからだ。

「一応先生から聞いてるのは、「山咲ハナヨと3日前から連絡が取れない」「様子を見に来たら玄関にカギがかかっていなくて、洗濯物が干しっぱなし」この2点に間違いはないんだな」

「ハイ、間違いないでス」

「そんじゃ、次は失踪する理由に心当たりはあるかい?」

「………バーでも話しましたけど、ハナヨちゃん、作品の事で思い悩んでいました。きっと、それを苦にして逃げ出したんじゃないかって最初は思いました」

「ん?最初はってことは違うのか」

「ハイ…ハナヨちゃんの漫画ってとにかく現実的なんでス。登場人物が話すセリフも、現実に誰かが言った言葉なんでスよ。自分の悩みや境遇を他人に話して、そのやり取りを録音したり、地下鉄やスターバックスで周囲の会話を録音したり、とにかく生の言葉をかき集めてそれを組み替えてセリフにしたり、展開に考えたりしていくんでス。そんなハナヨちゃんが何も言わずに失踪するわけがないんでス。失踪するって話せば、山のようにネタが取れる訳でスから」

「ふーむ、転んでもタダじゃすまない人って訳ね…」

 唸りながら、ヒゲクマは「3日前から連絡が取れない」という点が妙に引っかかっていた。比奈の話からすると、山咲ハナヨは失踪するタマじゃない。連絡が取れなくなったタイミングと廃ソープランドで見つかった死体の死亡時刻、そして何より、小梅が聞いた「遺言」だ。
 小梅は死体から「遺言」を聞くことができる。どの死体からも聞けるわけではないが、とりわけ殺されて無念を抱えた死体からはよく聞けるのだという。その内容によっては、死因の解明にも役に立つし、事件捜査にも役立つ。これだけなら便利そうな特技だが、ひとつのデメリットがある。「遺言」は死の間際にそれを聞いていた人間に伝えなければならない。
 伝えないと耳にこびり付いて離れないというのだから、たまったものではないだろう。
 小梅曰く、「遺言」は死体が話す真実だという。そうなると、死体の身元は恐らく山咲ハナヨだ。だが裏付けが足りない、そもそも山咲ハナヨがああなる理由が見つからない。

「比奈ちゃん、今の話を聞いて、俺もこいつは失踪じゃあないと思うな。とりあえず警察に捜索願を出してもらえるかい?」

「わ、わかりました。…あの、捜索願って家族以外の人も出せるモンなんでスか?」

「それは大丈夫だ。捜索願は家族以外でも提出はできる。ま、受理されるかは警察署次第だけどな」

「はえー…知らなかったっス」

「あ、あと…山咲さんの顔写真とか…声がわかる物があったら探しやすいよね…」

「お、そうだな。比奈ちゃん、そういうのあるかい?」

「えーと、確かアタシのスマホに…あ、ありました。先月にハナヨちゃんと居酒屋で飲んでた時の動画です」

「み、見せてもらえるかな…」

「どうぞっス」

 比奈が差し出したスマホには赤ら顔で話す女性が映っていた。

『あのねー、比奈ちゃんの漫画には現実味が足らないのよ。だから展開もオチも甘ったるくなって…』

 その声は間違いなく、今まさに小梅の耳元で囁かれている「遺言」の声だった。


『この事を漫画にしなきゃ…絶対に…』


今日はここまでっス

 翌日、小梅の姿は新宿警察署にあった。死体検案書を届けに行くという名目で、薫を何とか納得させて抜け出してきた小梅は、刑事課がある4階の休憩スペースのベンチで、遅い昼食のカロリーメイトをモソモソと食べている。その隣で、拓海は顔をしかめてスマホを耳にあてている。

「だめだ出ねえ!センセ、ホントスンマセン!わざわざ来てもらったってのに、ヒゲクマさんドコに行っちまったんだか…」

 頭を下げて謝る拓海を見て、小梅の心が罪悪感でチクリと痛む。

「んぐ…だ、大丈夫…今日は暇だし、のんびり待ってるから…」

「でも、応接室じゃなくていいンすか?寒いっすよ」

「そ、そんな大した要件じゃないから…」

「はあ…そンならいいすけど。あ、そうだ!給湯室でコーヒー入れてきますわ!」

「あ、ありがとうございます…」

 立ち上がって、刑事課の給湯室に歩いていく拓海を見送りながらスマホで時間を見ると、14時過ぎを表示していた。ヒゲクマはまだ来ない。小梅は横に置いたリュックからPLAYBOYを取り出すと、パラパラと暇つぶしに読みだした。
 小梅はグラビア写真を眺めながら、もしかしたらヒゲクマは来ないかもしれないと思った。ヒゲクマは「任意」で連れてくると言っていた。任意同行は相手にゴネられればそこまで、強制力はない。組対に居た頃は相手を半殺しにしてでも連れてきたんだがなあとヒゲクマがぼやいてたのを思い出して、小梅はモソモソと口を動かしながらくすりと笑った。

 小梅が次のカロリーメイトを口に運ぼうとした時、エレベーターの扉が開く音がした。ちらりと見ると、ボンッと突き出た腹がエレベーターから出てきた。小梅はカロリーメイトをパクリと一口に食べて立ち上がり、モサリモサリと食べながらエレベーターに向かって歩き出した。エレベータから出てきたヒゲクマに続き、風采の上がらないどこかのっぺりとした中年男、そして妙に目つきが鋭いがきっちりとネクタイを締めあげた男。おそらく真ん中の中年男が権田で、後ろの男は二課の刑事だろう。
 ヒゲクマは小梅の方をちらっと見て、目配せをした。小梅は口の中を飲み下し、中年男にふらりと近づき、ぼそりと「遺言」を呟いた。

『この事を漫画にしなきゃ…絶対に…』

 小梅は、足を止めてちらりと振り返る。権田は何も聞こえなかったかのように歩いている。小梅はもう一度、ぼそりと呟く。だが、権田は何の反応も示さない。ハズレだったかと小梅がため息を吐こうとした時、耳元はざわつきだした。

『この事を』『この』『漫画』『この』『画』『絶対イ絶対ゼッタ絶対』『小梅さんどうして』『ボクを』『しなきゃしなきゃしなきゃしなきゃ』『ころ』『こここのののkkっここ』

 耳にこびりついた「遺言」が溢れ、小梅の耳に流れ込み、頭の中で反響していく。小梅の視界はぐらつき、立っていられない。ぼやける視界の中、刑事課の入り口からコーヒーを持って出てきた拓海が、コーヒーを落としてこちらに向かって走ってくるのが見える。何かを叫んでいるようだが、音が全く聞こえない。拓海に抱きとめられ、小梅は拓海のきれいなキューティクルのかかったロングヘア―のやわらかな感触を顔に感じながら意識を手放した。

 小梅が目を覚ますと、体はベッドに横たわっていた。周りを見渡すと、どうやら仮眠室の一室らしい事が分かる。妙に汗臭く、カビたような饐えた匂い、監察医務院のベッドと同じ匂いがするベッドにどこか懐かしい感覚を小梅は感じていた。小梅はベッドから出て布団を綺麗に直し、脇に置かれていた自分の荷物を手に取り部屋を出た。
 ふらふらとした足取りで部屋を出ると、見覚えのある廊下、新宿警察署の廊下に出た。どうやら、警察署の仮眠室で自分は寝ていたらしい。まずはヒゲクマと会わなければ、壁に手をついて歩きだした時、小梅の前に人影が立ちはだかった。

「もう起きて大丈夫なンすか?」

 視線を上げると、拓海がしかめっ面でこちらを睨んでいた。

「あ…た、拓海さん…」

「とりあえずそこのベンチに座りましょうや。まーだ、ふらふらじゃないすか」

「う、うん…」

 拓海は小梅の肩に手を回し、支えながらゆっくりと小梅の歩幅に合わせて歩き、自販機の横にあるベンチに小梅を座らせた。

「白坂センセ、何飲みます?」

 自販機に小銭を入れながら拓海が聞く。

「え、えっと…じゃあコーラで…」

「あいっす」

 ガコンと自販機から音がふたつして、拓海はペットボトルのコーラと缶コーヒーを取出し口から出した。

「どぞっす」

「あ、ありがとうございます…」

 小梅は、ぷしりとコーラの蓋をあけて一口飲んだ。強烈な炭酸がふわふわしていた意識をしゃっきりとさせてくれる。

「あ、あの…もしかして拓海さんが運んでくれたの…?」

「そうすよ、廊下で失神したセンセをアタシが仮眠室に運んだンす」

「か、重ね重ねのお世話をかけました…」

 小梅は深々と頭を下げる。お礼はきちんとするのが小梅の主義だ。

「そんな…謝るのはアタシらの方すよ。センセには、めちゃくちゃな量の解剖をお願いしてるってのに、体調面のサポートが不十分でした!本当にスンマセン!あと、おんぶして分かったンすけど、センセってもんのスゲー軽いっすよね。飯ちゃんと食ってます?」

「え、えっとね…お昼に食べてたカロリーメイトが最初のご飯だよ…」

「もっと飯食ってくださいよ!ただでさえ監察医の仕事は激務なんすから、食って体力つけてもらわないと…ま、そういうアタシもロクなもん食ってないんすけどね。今日の昼だってカップ焼きそばだったし」

「あはは…ヒゲクマさんに怒られちゃうね…肉食えー!って…」

「肉こそパワー!が信条のヒトっすからねー………そうだ、センセ今日はなんかうまいもン食いに行かないすか?」

「い、いいね…元気がでるもの食べにいこうよ…」

「うっし決まりだ!何にすっかなー。肉もいいけどもっと元気がでそうな…」

「せっかくだし、色んなもの食べたいな…普段食べられないようなものとか…」

「………ならイイトコあるすよ!何でも食えて、珍しいモンも食える店が」

「わぁ…楽しみ…!」

「俺も行くぞ」

 不意に横から野太い声が飛び込んできた。

「あ…ヒゲクマさん…」

「よう、お目覚めだな。とりあえず大事ないみたいでよかったよ」

「ご、ご心配をおかけしました…」

「よせよせ!悪いのは俺だ!体調良くないのに呼びつけたりして悪かった」

「そうですよねー。お詫びに何か美味しいもの食べさせてもらわないといけませんよねー」

 ヒゲクマの後ろから、ひょっこりと顔をのぞかせた薫が意地悪そうな笑顔で言う。

「か、薫ちゃんも来てたんだ…」

「拓海さんから、先生が倒れたって連絡がいただいたのでお迎えに来ちゃいました」

「か、重ね重ねご心配を…」

「ホントですよ!先生ったらいつまでたっても帰ってこないから、また阿佐ヶ谷へケバブでも食いに行ってるのかと思ってたらこれですもん」

「まーまー、落ち着けよ薫。一眠りして、センセも元気になったみたいだしよ。あとはウマいモン食って忘れよーぜ」

「そ、そうだよ…ついでにお酒も飲んでパーッと騒いで楽しもうよ…ヒゲクマさんのオゴリで…」

「はーい!」

「俺かよ!いいけどな!」

「あざーす!」

「ね、ねえ拓海さん…これから行くところってどんな美味しいものがあるの…?」

「へへへ…ここっすよ。ここ!紅焼猪脳(ホンザオズーナォ)が食えるトコっす」

 拓海はこめかみの辺りをトントンと指で叩く。

「ほんざおずーなぉ?」

 薫はよくわかっていないようだが、ヒゲクマはこれからどこに行くのか分かったのかニヤリと笑い、目を細めた。

「や、やったぁ…!」

 紅焼猪脳のとろけそうな味を想像した小梅のお腹から、ぐぐうと音が鳴った。

今日はここまでっス

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