ムーディ勝山に受け流されたものたちが暮らしている街 (94)


チャラチャッチャッチャラッチャー……
チャラチャッチャッチャラッチャー……

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 ***


「この街には慣れましたか?」

 喫茶店のマスターの問いかけに対して、
 それなりに、と私は答える。

「ただ、なんとなくですが、
 とても居心地はいいですね」

「そうでしょうとも」
 マスターは朗らかに笑う。
「ここは良い街です。
 私が言うんだから、間違いありませんよ」


「良い街ですか」

「そう、良い街です。
 この街の住民には皆、ある種の共有認識がある。
 だから連帯感というか、仲間意識というか、
 そういった感覚をお互いに持ち合わせているんですね」

「共有認識?」

「つまり、"我々は受け流されたものたちである"ということです」

 そうですか、と私はコーヒーを啜る。


「あなたも受け流されてきたんでしょう?」

「おそらくは。
 ただ、よく覚えてはいないのです。
 私がどうしてこの街に辿り着いたのか」

「ああ、そうだったんですか。
 そういった人も珍しくはありません。
 一説によると、受け流された衝撃で
 記憶を失ってしまうのだとか」

「記憶を失うほどの衝撃を与える受け流しって、
 それはもはや受け流し失敗ではないのか」

「さあ、私は受け流しの専門家ではないので」

「記憶を失っている私が言うのもなんですが、
 受け流しの専門家なぞ聞いたこともない」

 マスターとカウンター越しの会話を楽しみながら、
 私はサンドイッチとコーヒーを平らげる。


「ご馳走さま」
 私は席を立つ。
「マスター、お会計をお願いします」

「5UP(受け流しポイント)です」

 私は5回ほど何かを右から左へ受け流すような動作を取る。
 後ろから吹き出すような声が聞こえる。
 振り向くと、私以外に唯一この喫茶店にいた、
 どうやら常連らしい女性が口を抑えて笑っている。

「なんですか、それ?」と彼女は可笑しそうに私に問う。

「UP(受け流しポイント)です。
 常識も貨幣も通用しないこの街では、
 何かを受け流す動作をすることが貨幣の代替として
 使用されていると、初めてこの店に来たときに教わりました。
 ですよね、マスター」

「あれは嘘です」

 私はマスターのこめかみを殴る。

***

 私を発見したのは、この街の村長だった。

 彼によると、私は道のど真ん中で、
 呆けたように立ち尽くしていたらしい。
 らしいというのは、彼に話しかけられて
 はっと気を取り直す以前の記憶を、
 私がすっかり失っているためであった。

 そんな私に、村長はこの街の成り立ちについて語ってくれた。

「この街のあらゆるものは、
 ムーディ勝山が受け流したもので作られている。
 人も、家も、道も、食料も、形あるものは全部。
 あるいは空気や、電気。時間や、夢。
 そんな目に見えない、形のないものですら、
 ムーディ勝山が受け流したものかもしれないんだ」

「ムーディ勝山……
 いったい、何者なのです」

「はっきりと知るものは誰もいない。
 しかし一つだけ言い伝えられていることがある。
 彼は、それはそれはムーディな人物なのであると」

「その言い伝え、価値あります?」


 そんな暴言を吐いた私に対して、しかし
 村長は当面の住みか、古いアパートの一室まで用意してくれた。

「何から何まで、恩に着ます」

「なに、気にすることはない。
 村長として当然のことさ」

「ところで、どうして街なのに村長なのですか?」

「最初は到底街と呼べない、寂しい場所だったんだ。
 村と名乗るのもおこがましいくらいにね。
 僕は昔からここに住んでいてね……
 訳も分からず受け流されてきたものたちの
 世話をするのが、僕の日課だったよ。

 少しずつ、少しずつ受け流されてくるものが増え、
 次第に村は発展して、一つの大きな街となった。
 それでも、昔の名残で僕は村長と呼ばれている。
 そういうことだよ」

「なるほど、あなたは意外と偉大な人物だったのですね」

「君は随分失礼な言い方をするね」


 六畳一間の和室の中には、
 意外なことに家具が一通りそろっていた。
 どれもこれも使い古しのものに見える。
 彼らも、受け流されてここに辿り着いたのだろう。

「しかし、そのムーディ勝山という人物」
 気になりますね、と座布団の上に座した私は、首を傾げる。

「そうかい?」
 村長は畳の上に寝転がり、
 肘をついて愉快そうにこちらを見ている。

「気になりませんか?
 何から何まで意味不明だ。
 右から来たものを左に受け流す。
 右とはなにか。左とはなにか。
 右からくるものとはいったいなにか。
 そもそも、なぜムーディ勝山はそれを受け流すのか。
 一切が謎に包まれている」

「そうだね、確かに不思議だ。
 しかし、それは失った君の記憶よりも気になるものなのかい?
 君、自分の名前すらまだわからないんだろう?
 記憶を失ったら、まずはそれを取り戻したいと思うのが先じゃないのかい」

「それは……」
 私は言葉に詰まる。


「少し気になっただけだ、無理に答えなくても良いよ。
 まあとにかく、ムーディ勝山に関しては、
 もう"そういうもの"として捉えてしまっても
 この街で生きていくには差し支えない」

「当たり前のことだと思え、ということでしょうか?」

「そうだね。
 太陽が沈めば夜が来るように、
 雲が西から東に流れるように、
 波が絶えず打ち寄せるように」

「ムーディ勝山は右から左へ受け流す」

 そういうこと、と村長は笑う。
 陽気な人だ。
 出会ってからずっと彼は笑い続けている。

 さて、と言って村長が立ち上がる。
「ここらでお暇するとするよ。
 困ったことがあったら何でも言いなさい。
 あと、腹が減ったら適当な店に行ってご飯を作ってもらいなさい。
 ここではお金は要らないから」

「分かりました。
 村長に会いたいときはどこへ行けば?」

「なあに、この街で暮らしていれば、
 きっと嫌でもすれ違うさ。
 思い出したら聞かせてくれよ。
 君の名前を」

 そう言い残して村長は玄関をくぐる。
 閉まった扉を眺めながら、私は考える。

 私は、どうして失った記憶のことよりも、
 ムーディ勝山の方が気にかかるのだろうか?

 自分の名前すらわからないこの状況においては、
 何を置いても記憶を取り戻すことが先決であると考え、
 自分の正体に至る手がかりを探し求めるのが自然なのかもしれない。

 しかし、私は自分の記憶がないことについて、
 微塵も不安感を抱いていない。
 それどころか、それはどうでもいいことだとすら感じている。

 それはつまり、
「ムーディ勝山の謎を探ることが、
 自分の記憶を取り戻すことにつながると、
 何故か私は直観している」

 腹の虫が鳴る。
 考え事はここまでだ。
 一先ずは、食事にあずかろう。
 散歩がてらご飯処を探しに、私は出掛ける。

 喫茶店のマスターにUP(受け流しポイント)を教わるのは
 この後すぐのことである。


 ***

 曖昧な街だ。
 それがここで暫くを過ごした私の印象だ。
 この街は捉えどころがなく、不確かで、ぼやけている。

 私の住むアパートは大通りに面している。
 大通りは緩やかな坂となっており、
 登れば先に挙げた喫茶店や広い公園、大型スーパー、図書館があり、
 左に進めばレンタルビデオ屋や本屋、美容室、歯医者、学校などがある。

 そういった普段よく向かう場所、目に留まりやすい場所、以外の箇所。
 言うなれば、街の細部が、曖昧になっているのだ。
 
「それがあなたの調査結果ですか?」
 すっかり行きつけになった喫茶店のマスターは、
 興味なさげに皿洗いを続けている。


「そうだな、それが調査によって
 明らかとなったことだ」

「あなたのそれが"調査"なら、
 散歩が趣味の老人たちは今頃みな名探偵ですよ」

「ぬぐぅ」
 返す言葉がない。
 確かに調査とは名ばかりで、
 私は連日連夜暇を持て余して
 街を徘徊しているのみである。
 
 まずはここからと図書館に訪れてはみたのだが、
 私の望むこの街の歴史書やムーディ勝山の正体に迫る学術論文などは一切なく、
 ただ中古書籍が乱雑に書棚に収まっているだけであった。

 とりあえずと星新一の「地球から来た男」を借り、
 私の調査は手がかりを失う。

「しかし、そうは思わないか?
 例えば、街路樹の種類。
 路地に入った時の家の並び。
 遠くに見える工場の煙突の数。
 夕方に影を指す山の配置。
 そういった細かい点が、
 少しずつ変わっていっている気がするのだ」

「そうは言っても、そんな細かいところなんて覚えていませんよ」
 ねえ、とマスターは店の片隅の、例の常連客に話をふる。

 読んでいた文庫本からちらりと顔を挙げ、
 どーでもいいですよ、と彼女は言って顔を戻す。

「単純にあなたの覚え違いでは?」

 そこなんだよ、と私は勢い込んで机を叩く。

「覚えていられないのだ、"細部"を。
 例えば喫茶店の窓から見える景色。
 確かにあの位置に理容店のサインポールが立っており、
 そこから左側に見えるエアコンの室外機の上にはサボテンが並んでいたような気がする。
 しかし、それだけなのだ。
 この窓から目を離せば、すぐにどんな景色だったのか、ぼやけてしまう。
 記憶に残されるのはぼんやりとしたサインポールやサボテンだけだ。

 だいいち、人にしたってそうだ。
 数日に一回すれ違っているはずの村長、
 私は彼がどんな顔をしていたのか、全く思い出せないのだ」

「確かに、村長の顔って印象薄いですね。
 私もよく思い出せません」

「だろう?
 つまり、細部を覚えていられない、
 この曖昧さが、この街の特徴なのだと言えるのではないだろうか?」

「記憶のない人がそう言っても……」

 私は机に倒れ伏す。
 私の記憶力に関しては、確かに私も信用できない。

 


「まあ、気長になさってくださいよ」
 皿洗いを終えたマスターは、サイフォンに点火し、
 コーヒーカップに湯を入れた
「コーヒーを淹れるようにゆっくりと。
 そうすればいずれ手がかりの方から転がり込んでくることでしょう」

「そんなものかね」

「そんなものですよ。
 私が言うのだから間違いありません」

 マスターは湯を捨て、温まったカップにコーヒーを注ぎ、
 それを啜って美味そうに嘆息した。

「気落ちした私にコーヒーサービスとかでは?」

「道楽でやってるだけの店にそんな気の利いたものはありませんよ」

 ***

 ふと見かけた居酒屋に立ち寄ってみる。
 名前は「居酒屋 ワイルド」。
 これに関してはもはや何も言うまい。

 席について、とりあえずのビールと、
 肴を何品か注文する。
 ほどなくして一品目の豚の角煮が運ばれてくる。

「下茹でして余分な灰汁と油を取り除いた
 豚バラ肉ブロックを一口サイズにカットして、
 軽く焼き目を付けた後に酒、醤油、みりんでたれを作り、、
 みじん切りにしたショウガで香りをつけ、
 付け合わせとして玉ねぎを加えたあと、
 トロトロになるまで何時間も煮込み続けてやったぜ~」

「細やかですね」


 ちびちび酒を楽しんでいると、
 テーブルについた別の集団から声がかかる。

「おいそこのアンちゃん!
 一人で飲んでると寂しいだろ、こっちこいよ!」

 振り向くと、男性一人に女性二人のグループがいる。
 私に声をかけたのは、緑色の奇抜な紙をした女性のようだ。
 怖い。

 おっかなびっくりそのテーブルに着き、
 となりの男性に声をかける。

「すみません、お邪魔ではありませんか」

「ラスタピーヤ」

「それでは遠慮なくご一緒させていただきます」

 話してみると、いかつい外見の女性も、
 その隣に座っている年配の女性も、
 隣の海パン野郎も、なかなか気さくで話が弾む。

 私は途中で切り出してみる。

「右から左へ受け流す、っていったい何なんですかね」

「知らねえよ、そんなもん」とはいかつい女性。
「アタイは何も受け流すことなんかなかったからな。
 全部真っ向勝負でやってきたんだ」

「それは、一つの祈りのようなものなのかもしれません」と年配の女性。
「具体的に何が右から左へ来るのか、それは私のあずかり知るところではありません。
 しかし、私は思うのです。
 右からくるものを左に受け流すことを待っている人。
 彼は受け流すというう行為に専念しています。
 それは一見ただ待ち続けるだけの受動的な姿勢に見えますが、
 しかし受け流すという行為の性質上、
 彼はいつでも右からくるものに対して備えていなければならない。
 いつくるやとも知れぬ、右からくるもの。、
 それが訪れるタイミングを、彼は思い続けている。
 この真摯なる思いが、祈りでなくてなんでありましょうか」

「姉さん、キャラ付け忘れてるよ」

「あっ、えー、ホップステップタイミングゥ~」

「貴重なご意見です」と私は礼を述べる。

「ところであなたはどう思います?」

「ラスタピーヤ」

「ありがとうございます」


 二次会に行こうぜ、といかつい女性が言うので、
 言われるがままに私も彼女についていく。

 「ここだ」と案内された先は、
 怪しげなネオンが光るスナック。

 嫌な予感がしながらも、とりあえず
 扉を開けて中を覗いてみる。

 カウンターの中で、ボンデージ姿の女性が
 鞭を引っ張り「ア”---ッ」と叫んでいる。

「急用を思い出したのでここで失礼します」

「そうはいかないよ」と襟首をつかまれて
 店の中へと引きずり込まれる。

 それからのことはよく覚えていない。
 あくる朝、自室で目を覚ました私は、
 体に走るみみずばれと、何か大切なものを失くしたような
 喪失感だけを昨夜の名残として携えていた。

 ***

 その日私は、劇場を見つける。
 ふらりと入ってみる。
 使われた形跡のないその劇場は、
 カビと埃の匂いが空気中に充満している。

 小さな、古い劇場だ。
 観客席を全て埋めたとしても、
 その数は100をようやく超える程度のものだろう。

 それでも、舞台の上に立って、
 人でいっぱいになった席を前にすれば、
 さぞや気持ちが満たされることであろうな、
 と私は思う。


 私は中央あたりの席に座って、
 舞台を眺めてみる。
 当然だが、何も始まらない。
 それでも私は、しばしの間、座り続けている。

 使われなくなった劇場は、まるで戦場跡のようだ。
 舞台と、観客席と。
 かつてここで繰り広げられたであろう、
 死に物狂いのパフォーマンス。
 それらは微かな痕跡を残すのみで、
 今ではただ静寂だけがこの場を支配している。

 私は少しうとうとしてしまい、
 誰かの声で目を覚ます。

 私の視界に、舞台の上に立つ、
 おぼろげな二人の姿が見える。

 私は目をこすり、改めて舞台に目を凝らす。
 そこには誰もいない。
 わずか数瞬の間に、舞台の上にいたものたちの姿は
 幻のように掻き消えてしまっている。

 それでも、微睡の中で、私は確かに聞いた。
 名乗りをあげる、彼らの声を。


「どうも~、○○○で~す」


 ***

 ここは穏やかな街だ。

 なにかを学ぶ必要もない。
 あくせく働く必要もない。
 ここでは緩やかに時間が流れ、
 この街に住むものたちは、
 だけど次第に、押し流されていく。

 左へ。左へ、と。

 この街にあるのは、記憶の残滓だ。
 私はそう確信する。

 かつては誰もが知っていたものたち。
 それらが忘れさられそうになって、
 「忘れられたくない」と挙げた悲鳴が、
 あやふやな面影となって、この街に辿り着く。

 ムーディ勝山に受け流されたものたちが暮らしている街。
 この街は記憶の墓場で、
 この街に住む住民たちは、記憶の亡霊だ。

 この街はきっと、記憶の流れが行きついた先にある。

 世間にいる、いわゆる一般人。
 彼らが毎日毎日水みたいに
 吸収しては忘れていく、その記憶の流れの先に、
 まるで漂着物が流れつく浜辺のように、
 この街が存在している。

 だからこの街の住民たちは
 みんなある種の共通認識を有している。
 私たちは受け流されたものたちなのだと。
 私たちは忘れられたものたちなのだと。

 しかし、私は。

 そうだ。
 私は望んで、この街に来たのだった。
 

 ***

「この街には慣れましたか?」

 喫茶店のマスターの問いかけに対して、
 それなりに、と私は答える。

「でも、もう行かなきゃ」

 私はカウンターを立つ。

「優しい街だった。穏やかな街だった。
 居心地の良い街だった。
 だけど、ここに留まることは、
 そのまま時間の流れに飲み込まれることを意味する。
 それでは駄目なんだ。
 私はそれを許せないんだ」

 私は絞り出すような声で言う。

「今から私のすることは、
 きっとこの街を破壊することに等しいのだと思う。
 許してもらえるとは思わない。
 だが、自分の意思を変えるつもりはない。
 初めから、私はそのつもりでこの街に来たのだから」

「あなたの信じる道を行きなさい」とマスターは言う。
「それがきっと、一番、間違いない」

「どーでもいいですよ」と常連の女性が言う。

「いきなりでてきてごめーん、まことにすいまめーん」と細身の男性が言う。
 全くだ。お前誰だ。いつからそこにいた。

 
 私は喫茶店を出る。
 もう二度と、戻ることはない。



 ***

「さて、村長。
 初日の宿題を果たしにきましたよ」

 街の中心部にある、小さな公園。
 そこにあるベンチに彼と私は腰掛けている。

「思い出したら名前を教える。
 それがあなたとの約束だった」

「待ちくたびれたよ」と村長が言う。
「周りの登場人物を見てみなよ。
 こんなにヒント旺盛なのにさ」

「そこに少々ひっかかってしまってまして」
 私は照れ隠しに頭を掻く。

「始めは、私自身がムーディ勝山なのだと
 思ったんですよ」

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