グリーンイグアナが家にやってきたのは、私が小学三年生の頃でした。
鮮やかなライトグリーンの体はそこらにいるトカゲと大きさが変わらず、パパは私の手のひらに彼を乗せてくれました。
イグアナをこんな間近で見るのは生まれて初めてで、私は息を詰めて彼を見守っていました。
彼は大きな目をくりくりと動かして、周囲を見回していました。
そうしていると、ふと目が合いました。
彼はそのまま動きを止めて、私の目を覗き込むように見つめてきました。
呼吸のたびに彼のお腹が膨らむのが手のひらに伝わります。
それがなんだかおかしくって思わず笑顔になってしまって、私は彼を顔のすぐそばに近寄せました。
「これからよろしくお願いします~♪」
喉の下を指で撫でながら、私はそう言いました。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1505486304
彼に「ヒョウくん」という名前をつけたのも私でした。
イグアナは頭のいい動物で、ヒョウくんもその例外ではなく、やがて名前を呼ぶとこちらを振り向いてくれるようになりました。
私はすっかりヒョウくんのことが好きになって、毎日熱心にお世話しました。
リビングの壁に設置されたガラス張りの温室を開き、餌をやり、水を取り替え、掃除もしっかりとしました。
たまには温室から出して一緒にお風呂に入ったり日向ぼっこしたりもしました。
ヒョウくんは短期間に脱皮を繰り返し、すくすく成長していきました。
手のひらには乗せられないサイズになると、じゃれ合うときは肩に乗せるようになりました。
「そのうち、小春の身長も越えちゃうかもですね~」
そんなことを言っていたのを思い出します。
そのように成長著しいヒョウくんでしたが、ある日事件が起きました。
それは私が小学五年生のときのことでした。
突然ヒョウくんが凶暴になったのです。
ガラスの壁に繰り返し頭をぶつけ、ここから出せって訴えてきます。
ヒョウくんは「はつじょうき」に入ったからちょっと不安定になってるんだよ、とママが教えてくれましたが、その頃の私にはうまく理解できませんでした。
そんな勢いでガラスにぶつかったら絶対痛いのに。
ガンッ!ガンッ!という音が立つたびに自分のことのように胸が痛くなって。
ケースの中に呼びかけてみてもヒョウくんの目は剣呑なままで、おとなしくなってくれません。
パパがそっとしておいてあげようって言うので私はケースから離れたのですが……。
お夕飯を食べているときでした。
リビングの方からガッシャーーン!というガラスの破れる音。
私は反射的に立ち上がって温室の方へ急ぎました。
床に散乱されているガラスの破片。
割れた壁からはヒョウくんが抜け出していました。
出てくるときに切ったのか、体のあちこちに切り傷ができて血が流れています。
思わず息を呑んで、私はヒョウくんを押さえにかかりました。
ヒョウくんは必死に抵抗し、私の腕の中でじたばたと暴れました。
「ヒョウくん、怖くないから」「大丈夫ですよ、落ち着いて」
そう繰り返すのに、ヒョウくんは全然聞いてくれません。
いつもはすぐ言うことを聞いてくれるのに。
流血したヒョウくんが暴れ回るから私の服も血だらけになってしまいます。
もうどうしたらいいか、私の頭はパニック寸前になっていました。
そんなときでした。
ヒョウくんが腕を振り回したかと思うと、
私の首に鋭い痛みが走りました。
ママの悲鳴が上がります。
ぱたぱたっ。
床に飛び散る赤い斑点。
じく、じく、と首が痛み、血が流れていることに気が付きました。
腕から力が抜けて、ヒョウくんを床に落としてしまいます。
腕だけじゃなく、足からも、それから肩からも、力が抜けていきます。
体を支えている力が煙みたいに消えてしまい、
まるで糸を切られた操り人形のように、
私は床にへたり込みました。
頭が真っ白になっていました。
なんでこんなことが起きているのか。
どんなときでも仲が良かったのに、どうして今日になって、突然。
心が凍り付いていく。それに伴って体も冷たくなっていく。
無機物のように温度をなくした頬に、温かい感触が滑っていくのを感じます。
ぱたぱたっ。
顔の輪郭に沿い、あごの先から床に落ちます。
私は泣いていたのでした。
頭では何も考えていないのに、勝手に涙がとめどなくあふれて。
後でパパたちから聞いたところによると、
その光景があまりにも異様で自分たちも動けなかったのだと言います。
私の顔は正面を向いたまま能面のように表情を静止させ、それなのに目からは涙が湧き水のようにあふれてくる。
目はどこを見ているかもわからない、心がどこにあるのかもわからない。
茫然自失というより、魂が抜き取られてしまったかのような、
そんな状態だったのだといいます。
しかしながら。
――ぺろっ。
そんな感覚で、私の体は徐々に温度を取り戻したのでした。
気づくと、脱力しきった私の腕を登って、ヒョウくんが首の傷を舐めていました。
「ヒョウくん……」
そして私の頬に顔を近づけ、
涙の跡も舐めてくれました。
ぺろぺろぺろっ。
そのこそばゆさで、私の顔は表情を取り戻して、
「あんまりペロペロしたらくすぐったいですよ~」
ヒョウくんを抱きしめて、その背中を撫でました。
ふと思いついて、
「うふふっ、ヒョウくんペロペロです~♪」
私もヒョウくんをペロペロしました。
驚くことにヒョウくんはそのときからおとなしくなって、それから一切発情期の不安定さは見られなくなりました。
温室は修理され、私の傷もやがて癒えて、みんな元通りになりました。
いや、それ以上でした。
あのとき、ヒョウくんが私の血や涙を舐めてくれたあの日から、私と彼はこれまで以上に心が通じ合うようになっていました。
ヒョウくんがお腹を空かせているタイミングや日向ぼっこしたいタイミングがなんとなくわかるのです。
逆にヒョウくんは私の体調が悪かったりするとおとなしくなりました。私が元気なときは逆に温室の壁を足でバシバシ叩いて遊ぶのをせがんできました。
一心同体――とまではいかないにしろ、それに近い間柄に私たちはなっていました。
何がどう作用してそんなふうになったのかは今でもわかりませんが、そのときの私はただ嬉しくて、ヒョウくんとの何気ない日々を楽しく過ごしていました。
小学六年生になった春のことでした。
ぽかぽか陽気の日曜日、私はヒョウくんを抱っこして近くの公園へ出かけました。
この公園は桜がたくさん植えられ、お花見の絶好のスポットとなっていました。
そのためこの近くに来るのは初めてという人もいて、ヒョウくんを見て驚く人も見受けられました。
とはいえ私はあまり気にせず、桜の花びらを乗せた風の中を歩いていました。
すると、
「ねえ、君!」
背後から声をかけられ、振り向くと、スーツ姿の男の人が立っていました。
さっき通り過ぎた桜の下でお花見をやっていたグループのひとりでした。
彼は慣れない仕草で内ポケットから名刺を取り出すと、それを私に差し出しました。
「君、アイドルに興味はない?」
それが、私とプロデューサーさんとの出会いでした。
「アイドル……ですかぁ~?」
「うん、そう。テレビの中で踊ったり歌ったりしてる子たちのこと。君、テレビは見る?」
「そこそこです~」
「うん、えっと、そうだな。わかんないこともあるだろうし資料を――って、今は持ってないんだった。
あ、それとお父さんとお母さんにも伝えてもらわないと……いや、それより先に本人の意思が……」
一人で慌てだしたので何だかおかしくなって、私はふふっと笑みを漏らしちゃいました。
「アイドルになれば~かわいいお洋服とか、着せてもらえるんですよね~?」
「うん、もちろん」
「小春、みんなに愛されるお姫様みたいなアイドルになれますかぁ~?」
それを聞くとプロデューサーさんはおもむろにしゃがみこみ、私に視線を合わせました。
そして、情熱的な目をきらきら輝かせながらこう言いました。
「絶対になれる。というか、俺がそうしてみせる」
「だから俺に」
「君をプロデュースさせてください」
私は顔をほころばせて、うなずきました。
そうして私、古賀小春はアイドルになったのです。
実はプロデューサーさんも就職したての新人さんだったらしく、私たちは二人三脚でアイドルの道を歩いていくことになりました。
もちろんそこにはヒョウくんもいました。
宣材写真はヒョウくんを抱っこする私の姿になりましたし、アイドルになるための基礎レッスンにもいつもヒョウくんは一緒にいてくれました。
プロデューサーさんにもなついて、一緒にかわいがりもしました(ペロペロはどうしてか遠慮していましたけど……)。
ただ、これから暑くなっていくにつれてヒョウくんとは一緒にいられなくなるだろうと私は覚悟していました。
ヒョウくんは寒いところが苦手なのでクーラーをきかせる季節になると屋内には置いておけないのです。
わがままを言えば事務所にも温室があればいいんですが。
そんな悩みを察したのか、ある日プロデューサーさんは私に声をかけてくれました。
素直にそのことを言うと、ちょっと思案した後で彼は言いました。
「じゃあ、デビューしたらご褒美で作ってあげるよ」
私はすごく驚いてしまいました。
簡単に言いますけど温室は設置も維持もすごくお金がかかるものなんです。
でもプロデューサーさんは私を安心させるように笑ってみせました。
趣味が仕事で、お給料は正直余っているんだと。
それよりも小春に気持ちよくアイドルをしてもらいたい。
「ヒョウくんも俺たちの大切な仲間だしな」
そう言ってくれるプロデューサーさんに、私は思わず抱きついてしまいました。
その日から私はより熱心にレッスンに励むようになりました。
かわいいお姫様になるために。
プロデューサーさんの望むアイドルになるために。
そして、ヒョウくんとこれからもずっと一緒にいるために。
時はあっという間に過ぎ、デビューライブの日になりました。
ハートマークを並べたようなかわいいピンクのティアラをかぶり、
リボンがいっぱいあしらわれたふわっふわのドレスを身にまとい、
白いファーがついた臙脂色のマントを羽織って襟元の大きなリボンで留めました。
「小春、そろそろだよ」
舞台袖。いよいよ出番という直前に、私はプロデューサーさんの方を振り向きました。
ヒョウくんはおとなしくプロデューサーさんに抱っこされて、衣装に包まれた私をじっと見つめています。
「ヒョウくん。小春のデビュー、見守っててくださいね~」
顔を近づけると頬を舐めてくれたので、私もペロペロを返しました。
「プロデューサーさんも」
「もちろん。がんばれ」
「じゃあ、行ってきますね~」
私はスポットライトが眩しいステージの方へ向き直り、
アイドルとしての一歩を踏み出しました。
デビューライブは大成功、だったそうです。
舞台から見る景色があまりにもきれいで、あまりにも楽しくて、自分ではあまり覚えていないのですが。
舞台袖で迎えてくれたプロデューサーさんの笑顔がそれを物語っていました。
そして約束通り、プロデューサーさんは事務所にヒョウくん用の温室を作ってくれました。
これでクーラーがきいている夏もヒョウくんと一緒にいられます。
アイドルのお仕事も楽しくて、友達もいっぱいできました。
たとえ厳しいレッスンが待っていても事務所に来るのが幸せだと感じていたほどです。
プロデューサーさんは魔法使いのようで、お仕事を持ってくるたびに私をお姫様に変身させてくれました。
かわいい衣装をもらい、楽しいお仕事をもらい、いっぱい褒めてもらいました。
もちろんそこにはヒョウくんがいつも一緒にいて、時にはお芝居で共演したりもしました。
サインはヒョウくんのイラストを添えたものに決めました。
ヒョウくんとプロデューサーさんと私。三人の仲は時間が経つにつれより親密になっていきました。
六月。
私は結婚式場でのお仕事をすることになりました。
女の子が憧れる素敵なウェディングドレスを着ての撮影です。
結婚式は女の子がキラキラ輝くお姫様になれる一生に一度のイベント。
こうしてウェディングドレスを着ちゃったので一度ではなくなってしまいましたが……何はともあれ、またひとつ夢が叶えられたのでした。
「プロデューサーさんどうですか~? 小春、お姫様になれてますかぁ~?」
プロデューサーさんに全部見てもらうためにくるっと一回転。
「うん。とってもかわいい」
「……えへへ~」
そう褒めてくれるから、嬉しくなってもっと張り切っちゃいました。
撮影は大成功に終わり、カメラマンや式場のスタッフさんからの大喜びしてくれました。
私はとっても幸せで、そのふわふわした優しい気持ちに包まれながら言いました。
「小春は、ずっとプロデューサーさんとヒョウくんと三人でいたいです~」
事務所に帰ってくると、そのことを美優さんに話しました。
美優さんも同じく式場でのお仕事があって、お互いの写真を見せあっていたのです。
そのときまでは和気藹々と、互いの恰好を素敵だとかかわいいだとか褒め合っていたのですが……。
「…………」
私は小首をかしげました。
一瞬だけ、
ほんの一瞬だけ、美優さんの表情がこわばったのです。
それはすぐ消えたのですが、それでも彼女の表情には消えない色が残っていました。
儚さ。切なさ。淋しさ。
そして、何かを懐かしむような……
大切な何かを思い出しているような、そんな色。
美優さんはヴィンテージもののワインを味わうみたいに静かに瞑目し、
しばらくして元通りの笑顔を浮かべ、「素敵な夢ね」と言いました。
でもさっきまでの表情は私の記憶から消えることはなく、
心の奥深くに強く刻み込まれました。
時は加速度を増して流れていきました。
一年ずつ私は大人になって、ヒョウくんもどんどん大きくなっていきました。
私が高校生になる頃には2メートル近くになっていて、もう抱っこするのも一苦労。
体色からは鮮やかさが抜けてきましたが、渋い色合いになってかっこいい。
宣材写真は一年ごとに更新されましたが、毎年ヒョウくんと一緒だったのでまるで彼の成長記録みたいになっていました。
アイドルとしての私は年々活躍の場を広げ、
歌はもちろんドラマ・映画・舞台など女優としても活動するようになりました。
私自身はあまり変わったという意識はなく、子供の頃みたいにぽわんぽわんしていたのですが、
プロデューサーさんはそんな私をしっかりと支えてくれました。
そして大学を卒業した春。23歳の誕生日。
私は、アイドルを卒業することを発表しました。
理由は……プロデューサーさんと結婚することになったからです。
これまでずっと私を支え、導いてくれたプロデューサーさん。
高校生になったあたりから異性として気になっていたのですが、
まさか彼も同じ気持ちだとは思いもよりませんでした。
20歳を越えたころ告白され、結婚を前提としたお付き合いを経て、
私はアイドルを卒業することに決めたのでした。
プロデューサーさんは散々「現代の光源氏」だのなんだのと言われたそうですが……。
でも、私を小さい頃から見続けてくれたファンの人たちはむしろ祝福を贈ってくれました。
最後の握手会。
涙を流しながら「おめでとう」って何度も言ってくれる人がたくさんいて。
私もつられて涙ぐんじゃいました。
そうして、みんなから見送られて私はお嫁さんになって。
結婚式で、彼の隣で私はウェディングドレスを着ました。
「ずっとプロデューサーさんとヒョウくんと三人でいたい」
そんな、遠い昔の夢が叶った瞬間でした。
プロデューサーさんは私をお姫様に変身させる魔法使いでありながら、私を迎えに来てくれる王子様でもあったのです。
新婚旅行にはヒョウくんは連れていけませんでした。
フランスのパリに行ったのですが、さすがに飛行機に乗せるのは無理だと断念したのです。
その代わりと言ってはなんですが、プロデューサーさんは新居に立派な温室を作ってくれました。
リビングに設置されたものだけではなく、一戸建ての家に隣接する大きなハウスも一緒です。
ハウスの中には木がいっぱい植えられていて、ヒョウくんも気に入ったようでした。
もう2メートル近くにもなりますから、広々としたハウスでのびのび遊んでくれるのを期待していました。
けれど。
この頃のヒョウくんは木に留まったままじっとしていることが多くなりました。
もともとのんびりした性格の動物ですから不思議ではない、のですが。
木の枝に留まって日向ぼっこして、目をつむって……。
そのまま、じっと動かずに……。
その年の秋でした。
柔らかくなってきた陽射しの下で、
ヒョウくんは動かなくなっていました。
温かいハウスの中で、
無機物のように冷たくなって。
穏やかにまどろんでいるだけのようにしか見えないのに。
呼びかけても、撫でても、ペロペロしても、
反応が返ってくることはなく、
その目が開かれることはありませんでした。
昔、美優さん一瞬だけ見せたあの表情が脳裏に蘇りました。
弟のように思っていたゴールデンレトリバーを亡くしたことがあると聞きます。
彼女の表情や、愁いを帯びた目。
その意味はわかっていました。
私ももう子供じゃないから。
いずれ、こういう日は来るんだって。
だから、だから、
だから、
――ぎゅっ。
背中からプロデューサーさんに抱きしめられて、私は我に返りました。
彼の体がとても熱い。
いや、私が冷たくなっていたのです。
まるであの日……ヒョウくんが温室を破った日のときのように。
心も体も、凍り付こうとしていました。
それをプロデューサーさんの温もりが融かしてくれました。
それと同時に、私は押し寄せてくる激情に耐えられなくて、
「うわああああああああああん……!!」
生まれて初めて、声を上げて泣きました。
いつも私の言うことを聞いてくれたヒョウくん。
でも、ずっと三人で一緒にいるという望みは果たされませんでした。
もう動かないヒョウくんを掻き抱き、私は泣き続けました。
熱い涙がとめどなく溢れて、
ヒョウくんの体を濡らしますが、
彼が目を覚ますことはありません。
ヒョウくん、今までありがとう。
私とずっと一緒にいてくれて。ずっと見守ってくれて。
ヒョウくんは私を守ってくれる騎士様でした。
彼の亡骸を抱きながら、
冷たい額に、私はキスをしました。
おわり
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません