役人「君と世界に花束を」【ガルパンSS】  (63)

・劇場版ノベライズの辻に関する設定はほぼ無視しています

・官僚機構・法案成立に関する記述には多数の捏造と間違いと不足を含みます

・モブキャラクターが複数登場します


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<九月>
 大学選抜チームとの戦いに勝利した大洗女子学園戦車道チームの凱旋に、大洗町の沿道が歓迎する地元住民やファンで大いに盛り上がっていたころ。それとは対照的に盛り下がりも盛り下がり、陰鬱で暗い雰囲気に満たされていた空間があった。

文科省庁舎内、大会議室。大勢の険しい顔をした幹部クラスの官僚たちがずらりとコの字に席を並べている。その中心に立たされ、青い顔でこめかみから冷や汗を垂らしているのが、七三分けにメガネ、ダークスーツ姿のいかにもお役人然とした風貌の男、辻廉太学園艦教育局局長である。

「で、君が絶対勝てると言うからなんとかいう列車砲だかなんだかまで無理に補助予算をつけて通したというのに、その結果がこれかね、辻君?」

 人事を統括する官房長が、スチールデスクに置かれた試合結果のレポートをいらいらと指先で叩いた。

「い、いえ、カールは列車砲ではなくて、自走臼砲といいまして……」

「そんなことはどうでもいい!」

「ひぃっ!?」

 事務官トップの事務次官にばんっ! とデスクを勢いよく叩かれ、辻は部屋の真ん中で直立不動のまま飛び上がった。

「これで学園艦統廃合プランは白紙からやり直しだぞ!それどころか連盟や学園艦関係者に警戒心を植え付けた分むしろマイナスからのスタートじゃないかね!一体どう責任を取るつもりだね、君ぃ!」

「そ、それはでございますね……お、大洗に限らずとも生徒数減少や財政難でCランク評価の学園艦はいくつもございますので、コアラの森なり、ヨーグルトなり、その辺りを1つ2つ潰せば全体の帳尻は合わせられるかと……」

 辻は無意識にハンカチで汗を拭き拭き、どうにかその場をしのごうとするが……

「君は馬鹿か」

「は、はいっ……!?」

 議員選出十数回の文教族の大物、恰幅と押し出しの良さを誇る文科省大臣に一言で切り捨てられた。

「首根っこを押さえられているんだよ我々は。分からんのかね」

「首根っこ……ですか?」

 意味が分からず首を捻る辻に、いらだたしげに官房長が口を挟む。

「誓約書だよ誓約書! 大洗の生徒会長に君がまんまと書かされたアレだ」

「誓約書……しかしあれはあくまで大洗に限っての取り決めでございまして、それ以外の高校の廃校とは何の関連も無いと思いますが……」

「認識が甘いっ」

 大臣の派閥力と引きで就任した若手与党議員の副大臣がわめいた。

「もう大洗に限った話じゃ済まないんだよ。我々官公庁が民間人の学生を相手に賭け試合のような取引を交わしたあげく、ご丁寧にも署名入りの証拠を戦車道連盟と大洗学園側に押さえられているんだよ? これを明るみに出されたら我々は大ダメージだ。メディアが大喜びで叩きにくるぞ!」

「……!」

 辻の顔が反射的に青ざめる。

「辻君、君は廃校に同意しなければ関係者の就職斡旋はしないと言ったらしいじゃないか。あれもまずいよ、非常にまずい」

「オープントップのカールを無理な解釈で持ち込んだのにも関係各所からクレームが来とるし」

「法的にはグレーゾーンでもメディアから見れば叩き放題だしな」

「戦車道連盟も学園側も今のところ沈黙しているのが救いだが……」

「むしろ、これ以上うちが強引な手にでるなら黙っていないぞ、という無言の圧力でしょう」

「……ではどうする?」

「ここはやはり」

「責任者の首を差し出して手打ちにしてもらうしかあるまい」

「……」

「……」

「……」

 じろり、と全ての視線が集中し、辻はへなへなとその場で崩れかけた。

「ひぃっ……首って……わ、私ですか? そんな……!」

「学園艦教育局長は学園艦に関する全ての政策の総責任者だ。他に誰がいるというのかね」

 あまりにもあからさまな、とかげのしっぽ切り。

(あ、あんまりだ! 私は国やあんたたちの意向や命令で動いただけなのに!)

 そう叫べるものなら叫びたかったが、衝撃と動揺のあまり声にはならなかった。

「まあお待ちください」

 ところがそんな辻に助け舟を出す者が現れたのである。

「辻局長は文科省では数少ない、戦車道に詳しい高級幹部です。このまま辞めさせるのでは人材を無為にすることになりますよ。責任を取っての異動は仕方ないとしてもね」

 掘りの深い顔立ちに、浅黒い肌。浅黒い肌にオールバックの髪、長身を包むスーツはイタリアクラシコの超高級ブランド。吊るしのダブルに冴えない七三分けの辻とは対照的な、いかにもやり手のエリートキャリア的外見であった。

「君は?」

「Sと申します」

 辻のピンチに口を挟んだ男は辻と同期の文科省官僚であった。優雅に一礼し、先を続ける。

「それに彼を罷免するということは、彼の方針を支持した我々自身の責任をも認めたことになりますが、よろしいのですか?」

「「うぐっ……」」

 その場に居た全員が怯んだのが伝わって来た。

「し、しかし廃校案は失敗でした、だけでは引き下がれんぞ。さんざん予算を使って動いておいて、中央が認めんだろう。国民に対しても説明のしようがない。何か次の手を打たなければ……!」

「策ならあります」

 焦って言い募る官房長に、Sは自信ありげな笑みを見せた。

◇◇◇

Sの提示した案は意外なものだった。

 プロリーグ設立や世界大会開催で世界の注目が集まる中、CV33やら八九式やらチハやら、日本の高校戦車道の戦車は貧弱すぎて見栄えが悪い。そこでアメリカと戦時中のレンドリース法に近い契約を結ぶ。旧式で性能の劣る戦車は全て廃車にして、全てシャーマンやチャーフィー、パーシングに入れ替えるというのである。

 大胆過ぎるプランには当然異論も出たが、Sの恐らく入念に準備したと思われる説明と爽やかな弁舌の前にやがて感心したような沈黙に取って代わり、気圧されたように辻の処分はとりあえず保留ということで散会となった。
 
「要は、損して得とれってことだ」

 場所は変わって神楽坂のバー。Sは満足げな表情でロックの水割りを呷りつつ、辻に説明していた。会合の時とはうってかわってぞんざいな口調なのは、同期の辻しかこの場にいないからであろう。

「おまえが失敗したのは、廃校案にこだわり過ぎて反発を招いたからだ。たしかに学園艦を1隻潰せば数百億のカネが浮くが、そのカネが直接文科省の懐に入るわけじゃない。だったらもっと上手い方向に生かそうというのが俺の発想だよ。戦車貸与で日本からカネがアメリカに流れれば、向こうは貿易赤字の解消に向けて動いてるってポーズができる。日本側も格安で体裁を整えられる。通った予算は当然うちの、文科省の取り分だ。三方丸く収まる、ウィンウィンってやつさ」

「そんな強引な話がそんなにうまく進むと思うのか?」

「思うね。アメリカの通商部高官とはコネがあるしもう話は付けてある。あちらは大乗り気だよ。今の大統領はそういう派手なポーズが大好きだし、鋼鉄と車両を輸出できるってイメージが作れれば支持率にも反響が見込めるからな。日本の与党筋にも話は通ってる。FTA交渉を前にアメリカの顔色を伺いたいタイミングだったからな、スムースだったよ」

「しかし……」

 思ったより着実に裏で話は進んでいたようだ。外務省重鎮の父親を持つSは文科省では異色の国際派として通っており、欧米各国とのコネと交渉に強かった。ただのブラフではないだろう。辻はなぜだかその事実に焦燥を覚えながら、なおも反論を試みる。

「今の戦車を軒並みシャーマンに入れ替えたんじゃ、各校の個性が無くなってしまうだろう」

「個性? そんなものが必要か?」

 辻の疑問を、Sはあっさりと切り捨てる。

「今の戦車道は野球でいったら使うバットがチームによって金属だったりプラスチックだったりする、みたいな状況じゃないのか。むしろスポーツとしての公正を期すなら試合の道具は統一すべきだろ。そしてお互い、純粋に戦術と技術だけを競うってわけだ」

「……」

 確かに一理ある。あるのだが……

「まあ百歩譲ってチハだのCV33だのをありだとしてもな。ポルシェ・ティーガー。あれは無しだろ」

「ポルシェティーガーの主砲と装甲は無視できないスペックのはずだが」
「だが欠陥戦車の代名詞だ。まずアレを廃車だな。あんなのが運用されてたら諸外国の物笑いの種になるぞ、おたくの国じゃ普通のティーガーが用意できないからあんなのを使ってるんですか? ってな」

「生徒たちは今保有してる戦車に愛着を持ってるだろうし同意しないんじゃないか?」

「そんなものは関係ないね。廃校にしますって通知には文句も言えるだろうが、ダメ戦車をまともな新品に変えてやるんだ、文句のつけようがないだろ」

 今更おまえがそれを言うのか?という目でじろりと眺められ、辻はたじろいだ。

 廃校通知を出した後、明らかに不自然な紛失届けが大洗から提出されたのは事実だ。サンダースが保管・移動に協力したらしいこともわかっている。どうせ全てが決着するまでのことと放置していたのだが、彼女たちがあそこまで積極的に動くのには戦車への愛情があるからだろう、ということが今なら何となく理解できる。しかしそれを目の前のこの男に並べ立てても意味はないだろう。

「廃車というが、いくら試合用に改造した車体でも元は兵器だぞ。どう処分するつもりだ」

「ここだけの話だが、中国と既に話はつけてある。あちらさんで無料で引き取ってくれるそうだ」

「中国が? プロリーグ設立するって話は本当だったのか」

「ああ。戦車競技では後進国だが、日本へのライバル心からだろうな。カネもマンパワーも潤沢だし、動き出せば早い」

「プライドの高いあの国で、日本のお古なんかを使う気になるか?」

「まさか」

 Sは手を振って笑った。

「練習用の的にするんだとよ。ポルシェティーガーあたりはさぞかし壊しがいがありそうだよな」

◇◇◇

 飯田橋駅で別れる前。辻は気になっていたことを尋ねた。

「今日、何故俺を助けたんだ」

「何でだと思う?おまえなら答えは分かっているはずだ」

 霞ヶ関における同期とは、限られたポストを巡って蹴落としあうライバルのことを指す。この男がただの善意で辻に助け船を出すはずがなかった。そもそも辻とSは元から反りが合わず、お世辞にも仲がいいとはいえない関係であった。

「どうせ裏があるんだろう」

「当たり前だ。いいか、俺はおまえの後任で学園艦教育局局長になる。おまえは外局のスポーツ庁行きだ。そこで俺のプランのサポートをしてもらいたいのさ。といっても具体的に何かしろってわけじゃない。レンドリース関連の法案政令が通るのを承認してくれりゃあいい。前教育局長様がお墨付きを与えてくれれば話が通りやすいってわけだ」

「ほう……」

 聞いていて全く快い話ではなかった。この男は自分を格下の駒として扱おうとしている。

「首の皮一枚繋げてやった俺に、せいぜい感謝しろよ。慰謝料の支払いもまだ残ってるんだろ」

「養育費だ」

 渋面になって訂正する辻に鼻先で笑いを浴びせ、Sは改札へと消えていった。

<十月>

 文科省外局・スポーツ庁審議官。それが辻に新たに与えられた役職であった。

 形式的には一応、今までのポストとほぼ同格。とはいえ、出世レースの最終段階たる幹部クラスの人間が本庁から外局に飛ばされるという人事の意味は、あまりにも周囲の人間にとって明白に過ぎた。

「辻さんも、とうとう年貢の納め時らしいぞ」

「統廃合の件では相当強引な真似をしたっていうからな……」

「あの人も落ち目か……」

 などという陰口がちらちらと聞こえてくる。総合職の若手キャリア組が自分から距離を置きはじめたのを態度のそこかしこに感じる。本省よりもスポーツ関連の法案に特化した分、アスリートたちと心理的な距離が近いらしい一般職のノンキャリからはあからさまに冷たい視線を浴びせられる。早くも寒々しい秋風の訪れを感じる心境の辻であった。


◇◇◇

「──お父さん! お父さん、聞いてる?」

「……え?」

「もうっ、進学はどうなってるんだって聞いたのはお父さんでしょ?」

「あ、ああ──すまない」

 陽光に目を細めながら、辻は居住まいを正した。

 ここは越谷のアウトレット・モール。外郭のフードスペースの一角だ。

 目の前には意志の強そうな瞳をした自分の長女。最近その母親と面立ちが似てきた気がする。

 今日は休日。数少ない貴重な娘との面会日だ。いい加減仕事の問題は心から締め出さなくては。

「……お父さん、なんかちょっと痩せた?」

「そうかな……?」

 辻はややだぶついたポロシャツを引っ張り、中年太りとは無縁のままできている腹を見下ろした。

 入省してからこれまでずっと激務の毎日だった。庁舎に泊まり込んで夕食は真夜中にカップラーメンなどという日も珍しくなかった。幹部クラスになってからはさすがに泊まり込みは減ったが、3年前に離婚して以来、更に食生活が荒れているという自覚はあった。

 離婚原因は生活リズムの不一致と、父親としての子育てへの非協力。高級官僚にありがちな理由であった。

 だが今回の辻の体重減少の原因は食生活のせいではない。

(自分は負けた。角谷杏にも、Sにも)

 官僚の生きる意味。一言で言えばそれは出世のため、である。霞が関の官僚たちはほとんど例外なく、出世に全てを賭けて日々を送っている。

 課長クラスまでは横並びだが、そこから先は弱肉強食。いかにしてライバルを蹴落とすかが全てで、省庁トップの事務次官に辿りつけるのは同期のうち一人だけ。他は全員ドロップアウト組として、霞が関から去っていく。

 学園艦統廃合で致命的なミスを犯した辻が、この先の人事で日の目を見ることはもはやあり得ない。閑職の独立行政法人にでも出向できればまだ御の字で、天下りが厳しく帰省されつつある昨今の情勢では今後路頭に迷う可能性すらあった。

(どうすればいいというんだ……これから、俺は)

「──を受験しようと思うの」

「……へっ?」

 ここで聞くことになるとは思っていなかった聞きなれた単語が耳に届き、辻は物思いからいきなり呼び覚まされた。

「ど、どこを受ける、だって?」

「だからぁ」

 娘はちょっと照れたように横を向いて頬を掻いて告げた。

「大洗女子学園」

「……」

 ずるり、と辻の顔からメガネが半分ずり落ちた。

「なんでまた……そんなところを?」

「なんでってまぁ、公立だから入学金安いし」

(うっ……)

 もちろん養育費は毎月決められた金額を振り込んでいる。だが世間一般に想像されているほど国家公務員の給料は高くはなく、反比例するように学園艦の学費は高騰していく傾向にあった。到底子供らしいとはいえない娘の気遣いだが、正直サンダースや聖グロリアーナが志望でなくて助かった。

「それにね、学園艦一般開放のオリエンテーションに行ったときにね」

 まさか自分の父親がその学校の廃校問題に関わっていたとは知らない娘は、身を乗り出しながら目を輝かせて続ける。


◇◇◇

 青い海と青い空に囲まれた、海に浮かぶ学園艦。そのスケールは辻の娘の想像を遥かに超えるものであった。

 人口も施設の規模も多様さももはや都市と呼ぶのに相応しく、今通っている陸の中学校とはまるで別世界だ。しかし、のんびりと見物している余裕はなかった。

 学校見学という名目で訪れた女子中学生たちの大半のお目当ては、戦車道クラス。長年のブランクと圧倒的な戦力差というハンデを背負いながら本年度全国優勝と大学選抜に勝利した名将、西住みほ率いる栄光のチームである。

 機を見るに敏な前生徒会長により開催された行進演習(という名のパレード)に瞳を期待に輝かせた少女たちが殺到する。そのあまりの人いきれに閉口した辻の娘は、人混みを避けて歩くうちにいつの間にか、ふらふらと演習場の外れの格納庫へと迷い込んでいた。


(あれ? この戦車──)

 少女の目の前に現れたのは、メタリックグレーの巨大な鋼鉄の塊。よく見ればその表面は無数のキズと凹みに覆われている。

「ポルシェティーガー? なんでこんなところに……」

「修理中なんだよね」

 今演習場で大歓声に迎えられているパレードに参加していないことをいぶかる彼女の上から、声が降って来た。

「ひゃっ!? ご、ごめんなさい! 人がいるなんて思わなくて……」

 思わず仰け反った彼女に、ハッチの上から人懐っこそうなそばかすを頬に浮かべた少女が顔を覗かせた。

「いいのいいの。はじめまして、学校見学の子だよね?」

 私は自動車部2年のツチヤっていうんだ、と名乗りながら、少女は戦車から滑り降りてきた。もとは鮮やかなオレンジだっただろうツナギは至るところがススで汚れている。

「それにしても、見ただけでポルシェティーガーってよく分かったね。戦車道詳しいの?」

「いえ、その……ネットの動画で、見て……」

 特に戦車道に詳しいわけではない。特徴的なアニマルプリントで判別できただけなので、ちょっと気まずかった。

「あーそうなんだ」

「あの、それより……! 修理中って……?」

 ぎゅっと拳を握り締めながら問い掛けると、ツチヤは苦笑して頭を掻いた。

「実はさー、この間の大学選抜との試合でモーターが焼けついちゃってね。だから残念だけどパレードもお預け」

「えっ……直りそうなんですか?」

「それがね……」

 こつんと車体の装甲を拳で突いて、ツナギの少女は肩を落とす。

「コイルだけの問題だと思ってたんだけど、なんせ年代物のモーターでしょ?全体的にガタが来ちゃってさぁ……なのに自作は禁止されちゃうし」

 一から巨大なモーターを自作するのは学園艦内の設備だけでは困難だが、外部の工場に発注すればそれ自体は可能であった。ところが発注をかけようとした矢先、文科省からストップがかかったのである。

 もともと戦車道の規定では、オリジナルの部品が調達不能で再現困難な場合は、「連盟が認める範囲で」改造することが許可されていた。ところがこの「認める範囲」というのが曲者で、明文化されていない以上広くも狭くも解釈自由なのである。そしてアメリカ戦車の一括レンドリースに向けて動き出した学園艦教育局の新局長の主導のもと、その他の国の戦車の導入・維持を妨害する形で規制が厳しくなっていたのであった。

 それでもそれなりの数が生産された戦車ならまだ使いまわしのパーツの流通も期待できようが、ポルシェティーガーではそうもいかない。いくら優れた整備技術で名高い大洗の自動車部とはいえ、オリジナルパーツが手に入らないうえに改造まで禁止されては手も足も出なかった。おかげで試合後1ヶ月以上が経過した今も、レストアは完了しないままになっているというわけである。

「先輩たちが居れば、まだなんとかなりそうな気もするんだけどね……」

 とツチヤ。もちろん霞が関での人事交代や官僚と政治家たちの思惑などは知る由もない。

「あの、自動車部って……」

「うん、本当は4人いるんだけどね~……」

 自動車部の3年生たちは2学期に入って、ガレージから足が遠のいていた。受験や就職を控え、部活動なら引退の時期だけに、仕方のないことではあったが。

──もう、潮時なのかなあ。

「えっ?」

 続いて聞こえた力ない呟きに、うつむきかけていた辻の娘は、思わず顔を上げた。

「レオポンも今まで頑張ってくれたけど……ね。もう私一人じゃ正直、他の戦車の面倒みるだけでも精一杯だし……」

「じゃあ、ポルシェティーガーはこのまま、ってこと、ですか……?」

「そろそろ休ませてって言いたいのかもな、って気もしてるんだ」

「……」

 薄暗いガレージに納まった戦車は、その巨体に似合わず、何だか心細そうに見えた。

「シャーマンとか、アメリカの戦車が高校戦車道用にレンタルされるって噂もあるし……」

 他の新しい戦車がやってきてお役ごめんになったら、この子はずっと、暗い倉庫の中で過ごすのだろうか?

「あの……待って。待って下さいっ!」

 そんなイメージが頭の中に浮かんだとたん、思わず大声を上げていた。ツチヤが目を丸くするのがわかる。それでも、勝手に言葉が口をついて出た。初対面の、それも先輩相手に何を言ってるの?と冷静な自分が心の中で諫めるが、それでも止まらない。

「私、本当にただの部外者で……こんなこという資格ないってわかってるんですけど。それでも……それでも、諦めないでほしいです!」

「試合のとき、格好良かったです!隊長の戦車を守って戦ってたとき。この子も先輩たちも、すごくすごく格好良かったです!」

 ツチヤは無言で、でもまっすぐ見つめ返しながら聞いていた。

「だから、その……また見せてほしいです。諦めないで、最後まで戦うところ……!」

 初めはとぎれとぎれに震え気味だった声は、いつしか堰を切ったように早口に、熱の入ったものになっていった。

 もともとはぜんぜん戦車道になんか興味なかった。興奮した友達がやたらと勧めるから、付き合いのつもりで動画をクリックしただけだった。なのに、いつの間にか完全に引き込まれていた。隊長車同士の決闘の場を守って踏ん張る、ポルシェティーガーとクルーたちの姿に。至近距離で囲まれて一斉砲火を浴び、ぼろぼろになりながらも一歩も退かない姿に。

(ナイトみたい)

 我ながら乙女すぎる例えだとは思ったけれど、この傷だらけの鉄の塊が、本気で甲冑を纏った騎士のように見えたのだ。お姫様を──Ⅳ号を、命がけで守る騎士に。

「あははは、そっかそっか。ナイトは良かったね!」

「す、すみません! 私勝手にいろんな事言っちゃって」

 我に返って恐縮する少女の頭に、軍手を外したツチヤの手がぽんと置かれた。

「ツチヤさん・・・?」

「私こそごめん。何か弱気なこと言っちゃって。ありがとね──なんか、元気出た」

 見上げると、ツチヤは再び柔らかな笑みを浮かべていた。

「頑張るよ、私。自分の不安を勝手にこいつに押し付けてたけど……先輩がいなくたって、パーツが無くたって、こんな可愛いファンがいるんだもんね。レオポンだってまたいいとこ見せたいって思ってるはずだよ」

「じゃ、じゃあ……!」

「もう諦めないよ。私も、それからレオポンも。だからさ、えっと──」

 ──君にも一つ、お願いしていいかな。

 ツチヤは真剣な目で、少女の手を取った。

◇◇◇

「ということで大洗に行くことにしたんだ」

「へ? 何がということで、なんだ?」

 肝心な最後の部分を飛ばされて目を白黒させる辻に、娘はもどかしそうに言った。

「だからー、あのツチヤさんに、大洗女子学園のレオポンチームのホープでもある名メカニックのツチヤさんにだよ? 両手取られて”君の力が必要なんだ”とか熱烈に勧誘されちゃったらさ、行くしかないでしょこれ! きゃーもう言わせないでよお父さん!」

「痛い痛い、照れ隠しに全力で肩を殴ってくるのは止めてくれ……! 何がなんだかわからないんだが……つまり、戦車道チームの整備員が足りないからスカウトされたということか?」

「うん♪」

 娘の、どうやら妄想のフィルターを何重も通しているらしい夢見るような瞳を前に、辻は肩をさすりながら渋い顔をした。

「しかしおまえ、戦車道なんて今までやったことはもちろん見たことだってほとんど無いんだろう?いきなり高校から始めるっていったって」

「関係ないよ、そんなの」

 娘の口調が急に大人びたものになって、辻を知らず知らずのうちに身構えさせる。

「やりたいからやるの。戦車に乗れなくたっていい。ツチヤさんの助手の、そのまた助手ぐらいしかできなくたっていい。私はあの大洗に行って、ポルシェティーガーの力になってあげるの! 止めたって無駄だからね」

 この目。このむやみにやたらと力強い、一歩も引かない意思を前面に押し出した目。どこかで見たことがある。

 そうだ。以前は自分のオフィスだった、学園艦教育局長室だ。

『大学強化チームに勝てば、廃校は撤回していただけるんですね?』

 角谷杏の、あの鋼のような輝きと強靭さを秘めた瞳。あれと同じだ。

◇◇◇

 阿佐ヶ谷の1LDKのマンションに帰り着いた辻の携帯が鳴る。画面に表示されたのは元妻の名前だった。

「あの子は無事に帰ってるから」

 開口一番乾いた声で告げられた。もはや完全に没交渉となった辻と元妻の間柄では、緊急時ぐらいしか連絡する用事が無くなってしまっている。そこを慮って先手を打ってきたのだろう。さすが頭だけは良い女だ、と辻は苦々しく思う。

「でも泣いてるのよ」

「泣いてる? 泣いてるってどういうことだ」

 頭は良くても、いつも言葉が足りない。それが不和の原因の一つでもあった。

「あなたと会うといつもよ。部屋に閉じこもって出てこないの」

「なんで……」

はぁ、というわざとらしいため息。

「あの子だけは父親っ子だったから。あなたと会うたびに昔が思い出されて辛いんでしょ」

「……」

 ちなみに辻には娘の上に息子がいるが、受験勉強で忙しいという理由で面会を拒否されていた。大学受験はまだ1年半先なのだが。

「だから、もう会わないでほしいの」

「何だと!? 君にそんな要求をする権利まではないはずだ」

「そうよ。だから、これはただのお願い。あの子は受験を控えてるの。月に1回あなたに会うたびに落ち込んでたら受かるものも受からないわ」

「……」

「そろそろ父親離れしないと、あの子の成長を妨げるだけよ。子供のためを思うなら、わかってください。お願いします」

 声高に言い立てられたなら、まだ反発もできただろう。それが疲弊したようなかさついた声で懇願されては、さすがの辻も声がなかった。

「……。考えておこう」

「良かったわ。それじゃ」

 向こうも緊張していたのだろう、電話越しの声から少し険が抜けるのがわかった。

「ちょっと待ってくれ!」

「何よ?」

「あ……ええと……」

 電話を切られる前にと必死で呼びかけたものの、続く言葉までは考えていなかった。

「その……もし受かったら、合格祝いぐらいは送ってもいいかな」

「それはいいけれど……珍しいわね。あなたがそんなことを言うの」

「……」

 否定はできなかった。辻にも自分が生粋の仕事人間だという自覚はある。誕生日も運動会も学芸会も、子供たちのほとんどの行事は妻任せ。辻はそれこそATM以上でも以下でもない働きしかしてこなかった。

(さすがに今更過ぎる、か……)

「スイートピー」

「え?」

「贈るなら花束がいいと思うわ。あの子、スイートピーが好きだから」

「そうだったのか?」

「──呆れた。本当に何も覚えていないのね」

 柔らかくなりかけた口調を再び尖らせて、電話は切られた。

<十一月>

 文科省全体会議。略して省議は、通常月1回、省内関係各所の局長以上の幹部クラスを集めて行われ、主要な方針が討議される。

 外局に異動になった辻も、出席する立場には変わりない。前と違うのは、座る位置だ。

「米国との折衝は最終のツメに入っておりまして──」

 ”あがり”である事務次官にもっとも近い重要ポストと言われる学園艦教育局長の席から熱弁をふるうのは、今や辻の後継となったSの役目である。

「レンドリースの対象車種の選定につきましては先方の──」

 外局の、それも部署付きでないポストに追いやられた辻にとっては、末席でただぼんやりと発言を聞いているだけの空虚な時間である。むしろ余計な口を挟まず省の方針を追認するのが、現時点の辻に課せられた唯一の役割といえた。無言の空気を読み取るのは、官僚にとって必須の能力である。

 それなのに。

「で、最初の導入対象はどの高校にするつもりなんだね?」

「大洗でいこうと思います。あそこは戦車が貧弱で不揃いですし、なんといっても公立ですから影響下に置きやすい」

「しかしあれだけいろいろあった相手じゃないかね。余計な刺激をすることになりゃせんかな」

「なに、廃校を突き付けるんじゃなく、優秀な戦車を格安で貸してやろうというんです、文句があろうと表立っては言えんでしょう。それに優勝校の大洗が従えば、必然的に他の高校も足並みを揃えざるを得なくなる。最初のモデル構築としてはベストだと考えます」

 副大臣とSのやり取りが、やけに鮮明に辻の耳に入ってきた。

 廃校のセリフの部分で周囲からの意味ありげな視線が集まった気がしたが、辻の意識を引きつけたのは大洗という言葉だった。

「改造規定を強化しましたので、一部車両はもう稼働不能状態です。廃車扱いで中国に下げ渡させれば、こちらの提案を呑まざるを得んでしょう」

(……)

 不意に、ポルシェティーガーが嘲りとともに無数の砲弾を受けて砕け散る光景が脳裏に浮かんだ。

『大洗に行くことにしたの』

 憧れと未来への希望に満ちた声。

『私はあの大洗に行って、ポルシェティーガーの力になってあげるの!』

 鋼のように強い意志を秘めた瞳。

「スイートピー……」

 思い出した。

 娘がまだ小学校低学年の頃、バレエを習いたいと言い出して通わせたことがあった。

 発表会の日、例によって辻は仕事のはずだったのが、時間が空いたので見に行ったことがある。手ぶらで行くのも気が引けたので、街角で見かけた花屋で花束を買って、幕の最後に渡したのだ。たまたま目についたから店員に頼んだその花が、スイートピーだった。

 受け取るときはお父さん、来たんだ?なんて生意気そうに言っていたが、それから長い事大事そうにリビングの花瓶に飾られていたっけ……

「ではこの方針で進めるということで。よろしいですな?」

 官房長の声に我に返る。

 このまま話が進むのを黙って見ていれば、ポルシェティーガーは異国の地で砲撃の的にされた後屑鉄になる。娘とメカニックの少女が希望を託した戦車は、アメリカから押し付けられた一律ダークグリーンの車輛に取って代わられる。

 ──それでいいのか?

 自分はダメな父親だ。娘の好きな花と、その訳すら知らなかった、父親失格の男だ。

 仕事一筋を言い訳にしてきたが、その仕事ですらミスを犯して左遷された省内のお荷物だ。もはや生きる意味すら見失いかけている、ポルシェティーガーと同じ、ロートルのポンコツだ。

 でも。だからこそ。

 だからこそせめて、娘の夢ぐらいは守ってやりたい。

 もう会うことはできなくても、彼女の門出を祝う花束ぐらいは、贈ってやりたい。

 今更失うものなんて、大して残ってすらいないじゃないか──

「待ってください!」

 気が付くと辻は立ち上がっていた。

 ぎょっとしたような周囲の視線が集中する。

「本当に、それが高校生の──彼女たちの教育に有益といえるのでしょうか?」

 これは私情だ。自分は国益でなく、家族のために発言している。

「欠陥戦車だといわれようと、弱小だといわれようと、何一つ切り捨てることなく戦う。そんな彼女たちの姿勢を否定することにはなりませんか?」

 大洗廃校の急先鋒だった自分に言う資格なんてないことぐらい解っている。

「内閣筋はアメリカとの関係を最優先課題においているのでしょうが、我々が──日本の教育を守るために在る文科省が、そこに何のプロテストもせず乗っていいのでしょうか?」

 こんなものは甘ちゃんの建前だ。非情な霞が関の論理に通用するはずがない。

「もう一度考え直すべきです。我々が、文科省が存在するためのアイデンティティと意義を──」

 Sが射るような目を向け、居並ぶ幹部たちの表情が一気に険しくなる。

 それでも、もう辻は怯まなかった。今更怯むわけにはいかなかった。

 首を縦にも横にも振らずナナメに躱し、飲みこめないような不条理も黙って飲み下す。そこに居たのはそんな不文律から逸脱してしまった、もはや官僚失格の男であった。

◇◇◇

 会議で辻が投げかけた疑問は、まさにのれんに腕押しの結果で終わった。
 
 額に汗を浮かべた官房長に、「まあまあ、辻君の意見もわかるけど、この件については持ち帰りってことで今日は……ね?」と取りなされて省議は終了。大会議室の空気は氷点下。こんな最悪な雰囲気の省議は入省以来だととあるベテラン幹部は語ったという。

 そして会議終了後。

「おまえは気でも違ったのか!?」

 廊下で、胸倉を掴みかねない勢いのSに詰め寄られた。 

「別に、私は思ったことを言っただけだ」

 ずれかけたメガネのフレームを押し上げて戻す。

「それがあり得ないといってるんだ! 何が文科省のアイデンティティだ、妄想も大概にしろ!」

「妄想か……」

 いつの間にこの国では理想論が妄想と疎んじられるようになったのだろうか。壁際に押しやられたまま、辻はそんなことをぼんやりと考える。

「いいか辻、冷静な判断ができるおまえならわかってるはずだと思うが、念のために言ってやる。こいつは小さな一歩だが、大きな構想の中の一歩なんだぞ。おまえ、戦車道試合規則の補遺を覚えてるか?」

「もちろんだ」

 日本戦車道連盟の戦車道試合規則の6.補遺では、『連盟が認可した競技試合により発生した、競技区画内での建造物、路画等の原状回復においては日本戦車道連盟がこれを補遺するものとする。』とある。

「じゃあそれのおかげでどれだけ莫大なカネが動くかもわかってるよな」

 保障によって動く巨大な金額を日本戦車道連盟の予算のみで補てんすることは当然不可能であるため、実際には複数の保険会社との契約を統括する独立行政法人が組織内に組み込まれている。要するに、表立って予算を付けると国民の支持が得られず、関わった政治家が次の選挙で当選できない。よってカネのルートを分りにくくするために間接的に国家予算を投入してカネを動かす、というややこしい仕組みであった。

「戦車道なんて落ち目のスポーツがこれまで続いてこれたのはこのカネのおかげだ。こんなネタは他にはない。このでかい資金の流れが今まで国交省に握られて来たんだぞ。悔しいと思わないのか、おまえは?」

 Sは口角泡を飛ばす勢いでまくし立てた。

「俺はアメリカを巻き込んでこの案件をでかく育てて、戦車道マネーを文科省の手に引き戻す。そうなれば予算規模は一気に2倍、3倍だ。文科省を三流官庁なんて揶揄する奴らも排除できる」

 旧文部省が三流と呼ばれ始めた経緯は明らかではないが、取り扱うカネと政策の規模の小ささが一因であることは間違いないであろう。目先の業務を無難にこなすことだけに集中してきた辻にはそれほどこだわりはなかったが、国際派と言われて他省間との折衝の多かったSにとっては、内心忸怩たるものをずっと抱えて来ていたのだろう。辻よりもマクロな視点を持った脱官僚的な思考の持ち主とさえ言えるかもしれなかった。

「おまえがどんな妄想論をぶとうと勝手だが、この流れは絶対に邪魔させんぞ」

 Sは辻の鼻先に指を突きつけた。

「それから官房長から、官房長室にすぐに出頭するようにというお達しだ。せいぜい急いで行くんだな、辻審議官」

◇◇◇

 人事を掌握するトップの官房長がオブラートに包んだ表現でねちねちと言い聞かせたのは、要は無駄な差し出口を叩くなという一点であった。これまでの実績を評価して庁内においてやっているのに、これ以上おいたが過ぎるようなら辞めてもらう、もちろん天下りのあっせんはなしだ──

 突如として発揮した熱意が上層部に感銘を与えたということも残念ながら特になく、単なる自爆。ただただ辻の経歴に更なる汚点を上塗りしたに過ぎない結果に終わった。

 普通だったら、またこれまでの辻廉太であったら、この時点で意気消沈し全てのやる気を無くしていただろう。ところが厄介なことに、この一度胸に灯ってしまった炎はこの程度の冷や水では鎮火してくれないのであった。

 辻は名義だけの閑職に追いやられたのを良い事に、猛然たる作業を開始した。一応個室を与えられてはいたのだが、物置同然の小さな部屋でPCもコピー機もない窓際扱いであったので、空いている会議室を借りた。大量の資料を持ち込み、使われていない端末をスタンドアローンで稼働させ、膨大な作業に挑む。

 あくまで徹底抗戦するつもりであった。Sのプランが法案として形を成し、正式に国会を通過してしまえば、娘の小さな夢は完全に潰される。それに対抗する手段は一つ。生徒たちの手から戦車を奪い取ろうという目論見を禁じる法案を先に作成して通過させてしまうことだけだ。

 さまざまな点で無謀としか言いようのない試みであった。たった数行の条文であっても、その作成には潤沢な知識と作業量、そして入念な根回しが必要とされる。数十人の専門知識を持ったスタッフがボトムアップで練り上げ、全ての関連部署の目を通しながら上のポストの承認を得ていくのが本来の形なのである。それをもはや若くない辻が一人で、昔取った杵柄で強行しようとしても、竹槍で爆撃機を落とそうとするが如き愚挙にも思われた。

<十二月>

「だいぶお疲れのようですなぁ、辻さん」

 粘り強く取り組んではいるものの、何度も作業上の壁に突き当たり、秘かに省外の関連部署や専門家を訪問しての根回し活動も何ら実を結ぶことのない日々。 深夜、終電も過ぎた時間帯。一人の部屋に帰る気にもなれず、コップ半杯の安酒でおでん屋のカウンターに突っ伏していたとき、横に座ったのは聞き慣れた声であった。

「児玉さん……」

 おでんの湯気に曇ったレンズ越しに、和装の老人がカンカン帽に手をやって挨拶するのが見えた。

「噂には聞いておりますよ。文科省の会議で大見得を切ったとか」

 私にも一杯、と店の親爺に注文しながら、戦車道連盟理事長は物馴れた所作で隣に腰掛ける。

「お見苦しいところをお見せして……何を今さらと思っておられるでしょう。笑ってください」

 辻は身を起こし、弱々しい笑みを浮かべた。

「何をおっしゃる。私はお役人の仕事については素人だが、本気で仕事に取り組んでいる男を嗤ったりするような者がおりますか」

「本気……そうなんでしょうか」

 あまりにも空回り、無意味、空虚に思える作業と折衝ばかりが続く毎日。

 しかもその動機は、娘の小さな夢を守りたいという私情から出たものなのだ。

 Sの一見暴力的にみえるプランの方が、国益には適っているのではないか。官僚として正しい姿なのではないか。

 そう思えばこの道を進み続けることにすら迷いを覚えてしまう。

 酒の勢いと児玉の不思議と人をリラックスさせる雰囲気も手伝ってか、いつの間にか辻は今の自分の悩みをあらいざらいぶちまけてしまっていた。

 もちろん民間人にこんな話をしたことが表ざたになればただではすまないが、児玉はあくまで柔らかい表情でそれを受け止めていた。

「ふむ……なるほど。確かにお疲れになるわけですな」

「教えてください。私はこの道を進んでもいいものでしょうか。何が正しくて何が間違っているのかも、今の私には判断できないんです」

 辻は神父に告解する懺悔者のように訴えた。

「まさしく戦車道なり、ですな」

「は?」

 重々しい頷きと共によくわからない言葉が返ってきて、辻は首を傾げた。

「道なき道を行く。どんな悪路でも、流れる溶岩の上でも、川が道を遮っても己の道を突き進む。それが正しいかどうかなんて、後ろからやいのやいのと言う者には勝手に言わせておけばよろしい」

 児玉は好々爺の笑みを浮かべた。

「辻さんは辻さんのしたいようにすればいいんですよ。今のあなたは疲れているが、それだけ本気で闘っている証拠です。むしろ以前のあなたよりも人間らしく見えますがな」

「……」

「このままがんがん突き進みなさい。パンツァー・フォー!」

「うっぷ!」

 勢いよく背中を叩かれて、辻はコップ酒をこぼしかける。

 変に照れくさい笑みが込み上げてきた。これも目の前の老人の人徳ゆえだろうか。

「しかし児玉さんも変な人ですねぇ。普通私みたいな人間と交わったりはしないものでしょう、元々敵同士みたいなもんなんですから」

「ふむ……」

 児玉は考えるように、口元に拳を当てた。

「辻さん。あんたはなぜわしが、男なのに戦車道連盟の理事長をしとるのか、不思議には思いませんかな」

「ああ、そういえば……」

 児玉の貫禄と、普段交流のある教育分野の専門家や重鎮には男性が多いことからあまり違和感がなかったが、もともと戦車道は女性だけのための競技なのであった。

「それはですな、戦車道がスポーツではなくて、武道だからです」

「……?」

 この男は自分に、何か重要なことを示唆しようとしている。そう予感した辻は、そっと背筋を伸ばして座り直した。

「敵の戦車を撃滅して戦争ごっこに勝利することが、戦車道の目的ではない。戦車を通じて、血の通わぬ戦車をまるで自分の手足や相棒のように親しんで慈しみ、仕合いを通して敵味方区別な友諠を重ね、心技体を向上させる。それこそが本当の目的なのです」

 児玉は威厳のある口調で続ける。

「でも女性たちは、彼女たちは戦車に乗れば本能的に闘争者になってしまう。もとは戦争に由来する武芸なのだから当然ですな。熱くなる彼女たちの魂を冷ますことなく、穏やかに本来の目的を見失うことなく戦車道を守る。そのために敢えて、”戦車に乗れない”男である私が、理事長として仕切らせていただいておるのです」

 この人物は、”男なのに”戦車道連盟の長を名乗っている訳ではなかった。”男だからこそ”長を名乗っているのだった。

「まあ、そうは言っても苦労ばかりの毎日ですがね。戦車に乗る女性たちは何かとほれ、怖い人が多いですからな、重々ご存知だと思うが。わっはっは……それに比べればあなたなんて、むしろ同じ立場として親しみを覚えるぐらい」

「確かに。角谷杏は怖かった」

 児玉の冗談口を遮るように辻はつぶやいた。あの鋼の眼光には何故だか抗えないものがあった。娘の瞳の中にも、その片鱗を見た。彼女たちの魂の中には、自分たち男を圧倒する何かが根付いているのだろうか?

「でも……悪くはないと、今では思えます。あのように自分を貫き通す力が、私は欲しい」

「あなたもついにこっち側に来ましたなぁ。心強い援軍を得た想いです」

 感慨深げに児玉は頷いた。戦う女性を補佐する男として、陰ながら支える力として、辻を認めたのであろう。

「それならなおさら、辻さんを一人を戦わせるわけにはいきませんな。このわしも微力ながらお力になりましょう。少々腹案があるのだが、お聞きいただけますかな?」

「腹案……ですか?」

 児玉は好々爺から古狸へと変質した、悪賢さを覗かせる笑みを浮かべていた。

「ここはひとつ、超信地旋回といくのはどうです?」

 確かにその出来事が転回点だったのかもしれない。
 
 辻はついに腹を括った。自分の道に思い悩むことなく、目的が私情であろうと構うことなく、開き直って全力で動き始めた。

 児玉から教えられた、戦車道の本質に触れたことも大きかった。関連部署と折衝するとき、外部の専門家に面会するとき、持論を推し進める説得力が違った。

 もっとも専門知識や絶対的なマンパワーの不足は克服の難しいところであり、法案作成の作業は遅々として進んでいなかったある日。

 折衝から帰って来た辻を会議室で迎えたのは、次々とプリントを吐き出すコピー機と鳴り響くタイプ音、そして作業する多数の人員たちであった。

「君達、勝手に入ってもらっては困るよ……!」

 別にKeep Outのテープを貼っていたわけでもないのに、辻は動揺してそう口走ってしまっていた。そもそも会議室は庁内共用のものであり、辻が勝手に連続で占有し続けることの方が間違っているのだが。

 そんな辻に返って来たのは、その場にいた全員の起立と、深々とした礼であった。その態度や表情に明らかな尊敬と労りの表情を認めて、却って辻は混乱する。文科省の幹部となって辣腕を振るい、昇進の道を登り始めてからというもの、一度たりとも向けられたことなどなかった表情だったからだ。

「な……何だねこれは、一体?」

 よく見れば、辻から距離を取っていたはずの若手キャリアや辻に冷たい目を向けていたはずのノンキャリまで、スポーツ庁内の戦車道関連部署の人間が全員勢ぞろいしていた。



「審議官。我々にもお手伝いさせてください」

「本来法案作成の実務は我々が行う業務のはず。審議官は承認と監督、対外折衝をお願いします」

「来年の国会の法案提出に間に合うよう、急ピッチで作業を進めますから」

 次々と声が掛かる。辻は茫然とプリンタから吐き出された書類を手に取った。分厚いそれには、辻が求めて届かなかった豊富な知識と膨大な作業、そして多角的な検討と洗練の結果からなる、いくつもの法案の試案が詳細に記されていた。

 辻が行っていた作業がバレたことについては別に驚くことではない。霞が関で噂が伝わるのは早いから、省議で辻が謀反的な発言をしたことも、非公式にとはいえSのプランに逆らう形で活動していることも水面下では知られていても当然だ。

「いや……でもしかしなんで……」

 辻は頭を振る。

「というより君達、本当にわかっているのかね? この事案に関わるという事は、省全体の方針に逆らうという事なんだよ? この事が公になればこの場にいる全員処分されかねないぞ……っ?」

「「……」」

 まったくぶれることのない視線が一斉に向けられて、辻は続く言葉を飲み込んだ。ここにいる人間たちはそのリスクを承知で、ここにいる。

 本気で闘う気なのだ。それは辻の考えに共鳴して、とか辻を守るため、とかではないだろう。

 彼らも戦車道に関わる人間として、直接戦車に触れずとも、選手たちと言葉は交わさずとも、どこかで戦車道の目指すべき目的を、その魂をかすかながらも感じ取っていたのだろう。だから自分たちのキャリアや立場を危険に晒してまで動く決意を下したのだ。

 官僚は国家に仕える犬だ。権力という鎖に縛られた犬だ。でもその犬たちにだって誇りがある。自分の力を使い尽くしたいという誇りが。政治家の欲や上層部の体裁や自分の人事考課を上げるためでなく、国家国民のために働き、仕えたいという誇りが。

 若き官僚たちが向ける眼差しを見つめながら、辻は不意に、自分の若い頃を思い出していた。誇りある犬だったころの自分だ。三流省庁と蔑まれていた文科省の扉をあえて叩き、この国の教育を良くするのだと燃えていたころの自分だ。Sも含めた周りの若手キャリアと連日、徹夜で身を惜しむことなく働き、酒の席では熱くも青臭い教育論を戦わせていた時の自分だ。

 ……まだこんな、真っ直ぐな目をしていたころの自分だ。

 辻は眼鏡のフレームを押し上げた。目の端に滲みかけた涙を隠すためであった。
 
 私は辻廉太。この霞が関という伏魔殿を泳ぎ渡り、あがり寸前のポストまで手をかけた男だ。辣腕を振るい、ときには強引と非難されても分厚い面の皮で弾き返してきた男だ。

 ここで人間的な弱さに堕してしまっては、Sには勝てない。省内上層部と政治家たち、他国の通商部まで味方につけたあの男の勢いには勝てない。だから辻は、あえて冷酷な声音を作った。

「……それが分かっているなら、各自好きにしたまえ。だが言っておくが、この件に関する全ての差配は私が下す。勝手な暴走は許さないからそのつもりでいたまえ」

「「はいっ」」

 全員が再び深々と頭を下げて、作業に戻る。その丁寧な所作には依然として尊敬の心根が垣間見えていた。一見人間味の感じられない発言の裏には、全ての責任は辻が取るという意味があるのだということを、全員が理解していたからである。

<一月>

 法案作成とはたかだか数行の内容であっても膨大な作業を必要とする、巨大事業である。数カ月、時には数年をかけてやっと一つの条文が出来上がることも珍しくない。ところがどっこい、本気になった官僚の集団の優秀さと作業能力というのも凄まじいものがある。なんと本当に数週間の間であらゆる内容から文言まで穴なく磨き上げられた文書が完成した。

概要は、高校、大学を含めた各チームの保有する戦車についての、改造基準を含めた維持の大幅緩和に各チームの特色に合わせた戦力強化への補助。特色としては各校のチームが現行保有する戦車の保護条項を含むことが上げられる。改造、パーツの転用など運用可能を目指してあらゆる手段を講じるよう努力すること、選手代表者の同意なく破棄することの禁止が謳われている。
 
法案の文書はできた。だがもちろんこれで終わりではない。むしろこれからが困難な道のりといえた。

 内閣提出法案というのはまず当該省庁の承認を得て内閣へと提出される。承認というのは下の階層から上の役職へと、順次判を押されながら上がっていく。つまり文科省出自の法案に最終承認を与えるのは事務次官であり、大臣であり、省としての方針がSのプランで固められてしまっている現状で辻たちの法案に判が押されるはずもないのであった。

◇◇◇

「しかし例外があるはずです」

 スポーツ庁の長官室で辻は粘り強く訴えていた。

「スポーツ関連に限った法案では、長官の承認だけで内閣法制局の審査に付すことができる。それが不文律でしたね?」

「それは、そうだけどねぇ、審議官……」

 深紅のスカーフがトレードマークのスポーツ庁長官は困ったように眉を寄せた。

 確かに辻が言っていることは間違っていない。元は東京オリンピック招致に端を発し、あまりにスポーツ庁で発する法令が増加したために音を上げた文科省本省がそのように定めたのである。ではあるがそれはあくまで小さな規模の政令省令に限っての話であり、辻が今提出しようとしている法案を通せば反旗を翻したとみなされてもしかたのない危険な行為であると言えた。

 長官は渋った。元アスリートで民間登用。文科省本省の大臣と違い、与党とのつながりが薄い彼女なら説得しやすいと踏んだ辻であったが、分はさほど良くなかった。

「あなたの言っていることもわかるのよ。でもあまりに無謀というか……もうちょっと穏便で可能性のある道を選んだ方がいいんじゃないかしら」

「無謀は分かっています。霞が関のルールに丸ごと違反していることも承知しています。それでも彼女たちの戦車道を守るためにはここで退いてはいけないと考えます」

「あなた本当に”あの”辻さん?」

 長官は目を丸くしていた。

「あなたはてっきり戦車道が嫌いなんだと思っていたけれど……」

「嫌いですよ。あんなやかましくて野蛮な競技」

 辻の眼鏡のレンズがキラリと光った。

「ですがそれ以上に譲れないものがあるのです。まあそれは私的な案件なんですが……あなたにもあるでしょう、長官?」

「む……」

 たじろぐ隙も与えずに辻は畳みかけた。

「ここであなたが英断を下してさえくだされば……このちょっとした冒険が成功すれば、あなたは後輩たちの道を守った英雄になります。過去の名選手から、現在の英雄にね。当然、次の選挙でも……」

「それで私の虚栄心をくすぐったつもり? お上手ねとは言えないわよ。……でもねぇ」

 ため息をついた長官は、印鑑を取り上げた。

「私こういうのに弱いのよね。やっぱり根が体育会系だからかしら」

 学生・社会人リーグでいくつものトロフィーを獲得したかつての名戦車長は、迷いを振り切るようにポンと書類に承認印を押した。

◇◇◇

「はぁ……どう思う? これで良かったのかしら」

 辻が礼をして出て行ったあと、スポーツ庁長官は隣室に控えていた人物を呼び出した。

「グッジョブベリーナイスです、長官。いえ、先輩とお呼びすべきところでしょうか」

「それはもうやめて頂戴。私は辻さんと心中する気なんて無いんだから。今日だってあなたにアレを見せられなかったら、判を押したりしなかったわ」

「それは何よりです。ウチの隊の広報部も頑張って作ったかいがあったと思うでしょう。それより根回しの件もよろしくお願いします」

「……やっぱり早まったかしらね」

「そうでもないと思います。こう見えても長年戦いの世界に携わってきましたから、勝負に勝つ人間は目を見れば分かります。彼は勝ちますよ」

「その予測、どれぐらい当てになるの?」

「もちろん120%です。狙った的は外しません」

 額を押さえて本格的な溜息をつく長官をよそに、一等陸尉の階級章を付けた女性自衛官はにっこりと笑うと、スマホを取り出した。

「蝶野です。例の生産だけど、始めてもらって構わないわ」

<二月>

ラッシュアワーよりやや早い時間帯、寒々しい冬空の下。JR有楽町駅近くの路上で、スーツの上にねずみ色のコート姿の辻は人ごみに紛れるように佇んでいた。

目の前の東京国際フォーラムには、緊張した面持ちの女子中学生たちが白い息を吐きながら吸い込まれていく。

全国高校入学試験。志望する学園艦にかかわらず全国で一律に開催される試験会場の一つであった。辻の視線の先には、揺れる短めのポニーテール。かつての幼げな編み下げだったときと比べて、ずいぶんと背が高くなった。跳ねるようだった足取りも、いつの間にか年齢相応の落ち着きを備え始めているようにみえる。

 辻は声は掛けなかった。ただ後ろ姿を見守るのみである。それが元妻との約束だから、というだけではない。

受験が無事に終わっても、おそらくもうほとんど会う機会はないだろう。辻はそう直感していた。官僚世界の歯車として無為な走りを続けているうちに、自分はすっかり人間性を摩耗してしまった。学園艦に関わる人間の職を人質にして、本来支えるはずの生徒たちに脅迫まがいの強制を仕掛けるほどに。

 大洗に無事合格すれば、辻の所業はやがて娘の知るところとなるだろう。そうすれば母親との約束などと関係なく、彼女との関係は完全に断絶する。今は旧姓を名乗っているからいじめに逢う危険は無さそうなのが唯一の救いだった。

 だから辻が最後にできるのはせいぜいこう、小さく呟くことぐらいである。

「……頑張れ。こんなことで償いになるかはわからないけど、父さんも頑張るから」
 
辻は踵を返し、駅へと向かった。娘同様、その父にもこれから大きな試練が待ち構えているのである。

◇◇◇

 さて大多数の人が、法律というのは国会で審議・承認されて成立するとお考えではないだろうか。それは確かに建前としては間違っていないのだが、日本のような議員内閣制における内閣提出法律案の実質上の承認・審議を担当するのは国会ではない。その過程は複雑で官僚や政治家以外の人間には理解困難な面が多いが、実質最終的な法案成立への承認が下されるのは内閣における閣議決定である。閣議で重要法案を国会に提出すると決定された時点で、党議拘束がかかる。与党多数でない『ねじれ国会』状態でない限り、その時点で大抵雌雄は決したのも同然なのである。

 本日は辻がスポーツ庁を経由して提出した法案の是非を決する閣議の予定が組まれていた。閣議自体は閣僚しか出席できないが、当然ながら文科省大臣を含めほとんどが戦車道の現状について豊富な知識を有しているわけではなく、事前に担当者がレク(チャー)を行う。

当然本件の担当者は辻廉太スポーツ庁審議官であった。

◇◇◇

「よう辻。ずいぶんやってくれたじゃないか。まさかこんな展開になるとはな」

 閣議室前の控室で待機している辻に声を掛けてきたのは、アルマーニのスーツにロレックスの時計の気障ったらしい男、Sである。

「ああ。正直言って俺も驚いているんだ」

 辻は無感動に答えた。

「俺も焼きが回ったもんだ、敵に塩を送っちまうとはな」

 そう言いながらもSの浅黒い顔には余裕の笑みが浮かんでいた。

「しかし大したもんだよおまえ。今おまえが省内でなんて呼ばれてるか知ってるか?」

 辻の肩を人差し指で押しながらにやりと笑う。

「さあね。興味ないな」

「文科省のドン・キホーテだってよ。出世したもんじゃないか、ははは」

 構わずSは言い募って、尖った笑い声を上げた。

「ふぅん」

 辻は原作を読んだことが無いのでドン・キホーテについては詳しい知識がない。せいぜい頭のおかしくなった老人が騎士ごっこをしてロバにまたがり、風車と戦ったり村のおかみさんを崇め奉ったりする話だという程度の認識だ。

「ずいぶん無駄なあがきをしたもんだな。内閣法制局を通過しただけでも大したもんだといっておくか」

 一転してSは冷たい目を向ける。

「おまえなりに省外に味方をつけようと努力してたみたいだが、そんなもん屁みたいなもんだ。おまえがどんな理想論を唱えようが、アメリカとついでに中国の機嫌が取れるんなら与党の連中はこぞって尻尾を振るよ。高校生のガキのスポーツ道具のラインナップがどうなろうと関心無いのさ」

 Sは辻から離した指を振りかざした。

「いいか、はっきり言っておいてやる。おまえらスポーツ庁がせこせこ作った法案は全部無駄だ。ゴミクズだ。与党も野党も財界も外務省も全部俺のプランに乗ってる。今更おまえがどれだけ演説ぶとうと負け犬の遠吠えだよ。風車に突っ込んでいくドン・キホーテそのものだ」

(確かに)

 ひょろひょろの体格の自分がバカでかい風車に竹槍で挑む場面を想像して、辻はむしろおかしくなりさえしていた。まさに今の自分を表す状況そのものじゃないか、と。

「知ってるか?ドン・キホーテの最期を。教えてやるよ。さんざんバカにされてからかわれた後、旅先で死ぬんだよ。しかも正気に戻って、元のただの田舎貴族として、自分のバカな行いを後悔しながらな」

 Sの勢いはますますエスカレートする。最初余裕のように見えたのは多少ポーズも入っていたのかもしれない。

「断言してやる。おまえもドン・キホーテと同じだ。居間から正気に戻って後悔したところでもう遅いぞ。今日おまえが叩き潰されるのを見届けたら、満を持して俺の法案を通す。おまえと一緒にスポーツ庁で関わった連中も全員処分して霞が関から追い払ってから、だがな!」

「話は終わりか、S」

 わずかに息を切らすSに、辻はレンズで目の奥の表情を隠したまま相対していた。

「では俺の意見を言っておく。ドン・キホーテは不幸だったかもしれんが、後悔はしていなかったと思うぞ」

「……何を、言っている?」

 挙を衝かれたSにそれ以上の答えは与えられなかった。所定の時間になり、係官が呼びに現れたからだ。

「閣議レク始まります。お入りください」

◇◇◇

「確かに、戦車道をスポーツとしてとらえた場合、双方の車両数や車両性能を揃えた方が校正だという意見には一理あります。取り回しの利きやすいアメリカ戦車の方が生徒学生の教育面では向いているという意見も大筋は間違っておりません。しかし」

 閣僚たちとそれを補佐する官僚たちの前で、辻は最後のレクを行っていた。

 Sは教育局長として同席はしているものの、何も言わないというか、言えない。形式上は文科省の承認を得て提出された法案なので、それに反論を唱えては文科省の体面が保てず大臣の顔に泥を塗ることになるからだ。

 それに反論などする必要もなかった。

「戦車道はあくまで武道です。その目的は、関わる者の心技体を高めるためにある。友人を、ライバルを、無機物である戦車ですらも慈しみ愛することにある。それを無碍に奪って政治の都合で押し付けては、教育のためにあるべき道が失われてしまいます」

 こんなおためごかしの甘ちゃん理論が永田町や霞が関で通用するはずもない。ここに並ぶ閣僚たちには全て言質を取ってある。後は辻が無残に叩き潰される無様な姿を鑑賞するだけだ。

「我が国の戦車道で運用される戦車はスペック表では確かに諸外国に劣ります。しかし戦車道とはスペックを比較するためにあるのではない。むしろその文化をこそ、世界大会に向けて日本が発信していくべき本質ではないでしょうか」

「……」

 ここまで来て、Sはようやく異常に気付いた。閣僚はもちろん、周囲に控えた弁舌で鳴らした官僚連中までみんな、水を打ったように静まり返っている。一部の連中などふむふむと辻の論説にうなずいたりしているではないか。

(……バカな! 何故だ、何故動かない! 早くそいつを叩き潰せ!)

 血走った視線を根回ししたはずの総理大臣に向けると、何故か気まずそうに顔を逸らされた。

(な……!?)

「もちろん廃校の件を除いても今まではあまりに各校の自主努力に負担を強い過ぎました。これからは行うべき補助は行い、各校の特徴や個性を伸ばす形での運用を──」

(まさか海千山千の政治家や官僚たちが辻のご高説に感銘を受けて密約を翻した、とでもいうのか? まさかまさかまさか、そんなバカなことが──)

「──以上になります。ご清聴ありがとうございました」

 ついに一言も反論もないまま、レクが終了してしまった。ぱらぱらと遠慮がちな拍手まで上がる。

「ではこの件はそういうことで──」

 司会の官房長官が次の案件へ移行しようと締めの言葉を発するに至り、Sはようやく事態を悟った。何の異論もなく予備審査のレクが終了したということは、事実上この後の閣議での承認が決定されたということであり、つまりは辻たちの法律が成立することがほぼ確定されたというのと同義なのだった。そしてこの各校の戦車を保護する条項を含んだ法律が成立するということは、それに反する内容のS側の法案は今後審議に掛けることすら、もはや不可能。

 この瞬間、Sの敗北が正式に確定したのだ。

◇◇◇

「待て!──待て、辻ぃ!!」

 大役をどうにかこなし終え、さすがに疲労した辻が廊下へと退出すると、必死の表情のSが追いすがって来た。

「どういうことだ! おまえ、何をした! 汚い手を使いやがったな!?」

「言いがかりはよしていただきたいね」

 辻が立ち止まると、目を血走らせたSが詰め寄ってきた。浅黒かった顔は既に蒼白になっている。

「一体何をどうしたら、あそこから事態がここまでひっくり返るっていうんだ! 説明しろぉ! おまえは本当に一体、何をしたんだよ!?」

「誓って言うが私は何もしていない」

 辻はしごく真面目に返答し、ちょうどお昼のワイドショーが流れる廊下のテレビモニタを指さした。

「したのは彼女たちだよ」

 モニタには、青空と緑の草原をバックに、髪をなびかせて戦車を駆る少女たちの姿が映っていた。


◇◇◇

  話はその前日に遡る。与党第一党総裁である内閣総理大臣が、公邸にて夫人と共に夕食を摂った後のことである。

「ねえ貴方。お話があるのですけれど」

 嫌な予感がした。そもそも公邸に戻ったときから夫人の目つきに尋常ならざる光が見え隠れしていたのである。

「何かな」

 用心深く尋ねると、夫人はソファの上できっちりと座りなおした。

「今度戦車道の法律が議題に上がるんでしょう」

「ああ、そのことか……」

 文科省の方から内々に、あれはスポーツ庁の独断暴走であり法案は取り下げさせてほしいと念を押されていた件だと理解する。

「その法律、必ず通してあげてくださいね」

「何だって!?」

 突然の内政干渉ならぬ家庭内干渉に、一国の主は仰天した。

「あの頑張ってる女の子子たちの戦車を取り上げて新しい戦車を無理やり押し付けようだなんてとんでもない侮辱ですわ、私絶対に許せませんからね」

「お、おいおい……ちょっと待って」

「いいですか、もしあの子たちの戦車を守る法律が通らないのなら、私断固として『行動』させていただきますから」

「待ってくれ待ってくれわかった!」

 その鋼のように剣呑に光る視線を見た途端、妻が間違いなく本気だと悟った総理は必死で両手を差し出し、降参のポーズをした。

 この夫人は若い時から跳ねっかえりで有名であった。良く言えば行動力があり、悪く言えば熟慮に欠ける。その彼女がファーストレディーの肩書を振りかざして『行動』を開始したらどんな目を背けたくなるような有様が待っているか分からない。そのリスクを考慮すれば、総理の判断はやむをえないといえただろう。
 
 同じころ、野党第一党の党首にも後援会会長夫人からの電話が掛かっていた。与党第二党党首は支持母体教団の女教祖に呼び出されていた。閣僚たる各大臣たちにもそれぞれの母が、妻が、娘が、あるいは愛人が何らかの形でアプローチしていた。それぞれ言葉は違えど、女たちの脅迫・懇願・取引・吊し上げ、の内容は突き詰めれば一つに集約されていた。
 
 ──彼女たちに、道を開けろ。

◇◇◇

 かつて戦車道は『乙女の嗜み』と称され、良家の子女たちにこぞって履修されて隆盛を誇ったという。

その乙女たちはどこへ行った? 戦車道の斜陽とともに歴史の幕間へと消えてしまったのか?

否である。

かつての戦車乙女たちは今では良家の妻として、母として。日本を牛耳っていると信じている男たちの、その首根っこを押さえていた。

なるほど、車輌指揮の采配の妙は失われただろう。彼方の的を狙う視力はなくなっただろう。砲弾を押し込む拳のタコは消え、磨いたはずの腕はもはや操縦の基本すら忘れ果てただろう。

でも、あの硝煙の匂いは覚えている。

乾いた地面が上げる砂埃も、砲身が照り返す日差しの眩しさも、車内に籠る鉄と油と汗の交じり合った息苦しさも。

勝利の喜びに抱き合った暖かさも、敗北の悔しさに頬を流れる涙の冷たさも。

苦楽を共にした友人たちの、競い合った好敵手たちの笑顔も。

忘れるはずがないのだ。何十年経とうと、決して。

 児玉七郎が発案し、蝶野亜美が主導して(もちろん自衛官が関わったことは極秘で)作成されたPR動画は内容としてはそれほど大したものではない。これまで出回っていた動画には無かった、連盟が保管していた各種映像を追加し、さらに辻が企画している法案とそれが通過しなければどういう事態になるかを簡単に解説したものだ。

 ネットで流すだけでは効果は薄いと考えられたためスポーツ庁長官のコネを使ってテレビ局に送り込まれた動画は、法案審議の直前の時期になりワイドショーで紹介され、大変な反響を呼んだ。ネットに疎い往年の戦車道少女たちの元に、初めて西住みほたちの戦いと新たに迫る政治上の窮状が伝えられたのである。ぎりぎりのタイミングではあったが、辻たちは賭けに勝った。

 閣僚も文教族含めた与党議員も財界人も野党議員たちも、普段亭主関白を気取っている男たちですら、女たちが煌めかせる鋼の視線の前には逆らえなかった。動画は、彼女たちの魂の奥底に沈んでいた熱い何かを呼び起こしたらしかった。

 巨大な風車に通せんぼされて途方に暮れていたひょろひょろのロートル騎士の後ろから、ありったけの徹甲弾をぶち込んで粉々に撃ち砕いたのは、ずらりと並んだかつての戦車乙女たち。要約すれば、たったそれだけの話なのであった。

 文科省のドン・キホーテと呼ばれた男は、確かに幸福ではなかったかもしれないが、さりとて後悔もしていなかった。間違っていようがいまいが、己の道を突き進んでやりきった人間というのはえてしてそういうものである。

「何故だ……何故俺が負ける……俺は文科省を、文科省で天下を取ってやるはずの男だ!それなのに、何故だ!」

 その驕りが敗因だよ、と辻は心の中でSに答える。

 世界はおまえのものじゃない。もちろん自分のようなポンコツのロートルのものでもない。官僚たちのものでも、政治家たちのものでもない。強欲な大統領閣下のものでもないし、傲慢な共和国主席のものでもない。

 辻の目の前のモニタを、西住みほたち、戦車道に生きる少女たちが駆けていく。チャンネルを変えても、どうやら他の局でも繰り返し彼女たちの雄姿が放映されているようだった。

 どう考えても今さらだし面映ゆいし、もちろんこんなことを口に出したりは、絶対にしないが。

 世界は、彼女たちのためにあるのだ。

 ──そして。

 辻はモニタの向こうの幻想の世界を見つめる。そこには大洗女子学園の制服を着た短いポニーテールの少女の笑顔があった。古くて傷だらけで、でも力強い唸りを上げて突き進むポルシェ・ティーガーとともに。

 行け。迷うことなく突き進め。

 未来は君のためにある。

「どうしてくれる! アメリカの通商部にはどう言い訳すればいいっていうんだよ! 中国体育委員会には!?」

 幻想に浸っていた辻に、Sがまた詰め寄ってきた。折角の高級スーツがぐちゃぐちゃに乱れている。その手のスマホからは英語らしいわめきたてる声と、つぎつぎと入るキャッチホンの音が響いてくる。それにしても忙しい男であった。

「そこまでの義理はないんだが……利用するためとはいえ一度は俺を助けてくれたわけだし、昔使った便利な言葉を教えよう」

 辻はついっと眼鏡のブリッジを押し上げた。

「“口約束は約束では無いでしょう”。そう言ってみたらどうだ?」

 果たしてSがその言葉でピンチを切り抜けられたかどうかは定かではない。

<三月>
後は特に追補すべき事項はない。法案は閣議で承認され党議拘束を受け、衆参議院を何事もなく通過してスピード成立した。

◇◇◇

「辻審議官。何を見てらっしゃるんです?」

「いや、その……花をね」

 法案成立に尽力したスポーツ庁職員たちとささやかな祝賀会へと向かう道の途中。夜も遅いというのに開いているフラワーショップを見つけ、辻は思わず足を止めていた。

「何か贈り物ですか? お包みしましょうか」

「ええと……そうだな……」

 店員に声を掛けられて、辻は逡巡した。

 やっぱり花を贈るなんて気障ったらしい真似、自分らしくないんじゃないか。
 
 いや、今更か。

 もう散々、自分らしくないことばかりしてきたんだ、花ぐらいいよな。

「ええと……スイートピーを。後、それから……」

「それから?」


「それからここにある、全ての花を」

<4月>

「西住どのーっ! こっち、こっちです! 見てくださいよぉ!」

「えっ、えっ、あの私、まだ新一年生のみんなに挨拶の途中で……!」

 新学期、大洗女子学園。

 本来だったらは記念すべき新入生を迎えての最初の授業になるはずの日。

 何故だか西住みほは、秋山優花里に引っ張られて演習場の片隅の別棟の格納庫へと連れて来られていた。

「はぁ、はぁ……優花里さん、一体どうし……ふわぁ……!」

 格納庫の中を見せられた途端、みほは目を見張っていた。 

「何これー!?」

「誰がやったのー?」

「すごーい!」

 何事かとついてきた、新入生を含めた他の生徒たちも次々と歓声をあげる。
 
 いつもだったらモーターの修理の目途がつかないままのポルシェティーガーがぽつんと鎮座しているだけだったはずのそこは今、中の空間を埋め尽くすほどの大量の花束と甘やかな匂いで溢れかえっていたのだった。

「アネモネ、コスモス、マリーゴールド、桜、胡蝶蘭……」
 
 五十鈴華が首を傾げながら花の名前を数え上げる。

 まったく季節感も統一感もない、花の種類などにはとことん無知な人間が手当たり次第に選んだような色とりどりの花々。車体といわず砲塔といわず履帯といわず、それでも置き場が足りなくて砲身の中にまで花を突っ込まれたポルシェティーガーは、まるで両手で抱えきれないほどの花束を持って少女たちを出迎えているかのようであった。

「もしかして私の熱烈隠れファンが贈ってくれたんだったりしてー! ついに私モテ期が来ちゃったのかなぁ!?」

「そんなわけがあるか。……でもまあ、こういうのは別に、悪くない」

 やだもー、と身体をくねくねさせる武部沙織に突っ込んだ冷泉麻子が、清楚な佇まいの白いオリーブの花を取り上げてわずかに口元をほころばせる。

「それにしても、一体誰がこんなことを……」

 普段ワイドショーなどわざわざ観ない少女たちには、霞が関と永田町で水面下の暗闘が繰り広げられていたことなど知る由もない。西住みほが首を傾げても、それに答えられる者はこの場には誰もいなかった。
 
 青いスイートピーの花束を見つけた新入生の少女が、短いポニーテールを揺らしながら思わず、という様子で抱え上げる。するとその下には、花束とは別のプレゼントが鎮座していた。

「わっ……うそっ……! 何で……!?」
 
 陽光に光る巨大なシルバークロムの物体を認めたツチヤが、眼を輝かせて飛びつく。
 
 NSH工房と刻印されたそれは、新品同然、オリジナル同様のポルシェティーガーのモーター。
 
 この程公布、施行された【学生戦車道の保護と育成に関する法律】の下に生産された、第1号パーツであった。

※一年後、NSHT工房と改名された民間戦車工場は【学生戦車道の保護と育成に関する法律】の下に数台のポルシェティーガーを生産。実際に戦車道競技でも運用された。

※※スイートピーの花言葉:ほのかな喜び、優しい思い出、別離、門出。

・終わりです

・読んでくれた方ありがとうございました

・ガールズもパンツァーもろくに出て来ない話なのにありがとうございます!

・すみません、>>42>>43の間の1レス入れ忘れました。↓になります。

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「な、なんでまたそんなことを君が……」

「お忘れ? 私は」

「ああそうだった、君も高校時代戦車道をやっていたんだよな」

 妻が機嫌を悪くする前にと、慌てて忘れていたことを隠すようにフォローする。

「今日ワイドショーで見ましたの。何だか昔に戻ったみたいで気持ちが若返りましたわ。青春っていいものね」

「何を見たって……それよりそれと法案に何の関係が」

「大ありです!」

 夫人はかっと目を剥いた。

・前から書きたいと思ってた話だったんですが知識不足でなかなか形にならないのを想像や捏造で無理矢理補完して書いた、みたいな感じなのでその筋の方から見たら間違いだらけの内容だと思います、すみません。『フィクション故の誇張や省略』という体でお目こぼし願えれば幸いです。

・堅苦しくて地味な内容と文章なのでツマンネって言われるかと覚悟しておりましたが、思ったよりお褒めの言葉を頂いてしまい大変うれしいです。ありがとうございました。

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