京子「私とあかりはくもの上」 (20)
すううう……と、
私は息を吸う。
大きく、大きく、
大きく、大きく。
呼吸を、整えた。
掌の上で転がる、
柔らかく赤みがかったカプセルを、
勢いをつけて、口の中へと放り込む。
ごくり。
みるみるうちに、身体へその力が及んでいく。
視界の内を彩る木々が、本で読んだだけの屋久杉を彷彿とさせた。
薬を渡してくれた西垣ちゃんが、深夜アニメで見た巨人を想起させた。
綺麗に咲いた花壇の花々が、おしべやめしべまでグロテスクなほどに見えた。
そして、ごらく部のあるこの学校が。
これでもか、これでもかと巨大なものに変貌を遂げる。
異形化が止まったとき、いつもと同じように、
横にいるあかりは微笑みの表情を湛えて。
「スゴいね、京子ちゃん。小さくなっちゃったぁ」
「……そうだな」
「ワクワクしちゃうなぁ、これでくもに乗れるなんて」
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『雲の重さは凡そ2.5×10^11g』
何だこれ……
くもについて調べようと、ある本を手に取った日。
何とも非現実的な事実を突きつけられた第一声は、そんな間の抜けたものだった。
『10^11』っていったい……と思いながら、その本を隅々まで読む。
提起された謎に対しての答えは、巻末にあった。
デカ(da)、10^1。
ヘクト(h)、10^2。
キロ(k)、10^3。
メガ(M)、10^6。
ギガ(G)。10^9。
何だこれ……
同じ言葉が、また口から溢れる。
あかりとあかりの夢のスケールの差。
一般的な人間の物理法則に従って生きてきた私にとって、
それは完全な未知の領域だった。
いや、
気を落としちゃいられない。
小さい頃に約束したじゃんか。
2人一緒にくもに乗って、
大きな空を冒険するって。
小さい頃の事を思い出して何とか奮起し、もう一度本をめくる。
くもに乗る方法を探し直さなくちゃ。
柄にもなく延々本に没頭し、
インターネットを流動する知恵のなかへと潜り込み、
私は、その約束を果たす1つの方法を見つけた。
『上昇気流の力と重力のバランスが合う
乱気流の起こる地点で浮かべるように
粒と同程度の質量にスケールダウンすると雲に乗れるようになる
雲を構成する粒子1粒の重さは、1.5×10^-18gである』
何だこれ……
やっぱり、意味が分からない。
私は途方に暮れるしかなかった。
「おっ、どうした歳納」
そこにひょっこりと顔を見せた西垣ちゃん。
そのときばかりは、少なからず後光が差していた。
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――
「2人ともー、身体におかしいところはないかー」
「大丈夫ですー」
「今のところは、だけどねー」
「……そのー、本当にこれで乗れるんですかー?」
「ああ、そのハズだー」
近くにいるハズの声の主を見上げるにも、驚くほど首が痛い。
でも、余りに距離がありすぎるんだろうか。
空の見え方には、特に疑問を感じなかった。
あかり曰く乗り心地のよさそうな綿ぐもが、ふよふよと青空を闊歩している。
確かに、今日は絶好の冒険日和だ。
「京子ちゃん」
「楽しもうな」
「そうだね」
「せっかく、叶うんだもんな。願いが」
「うん!」
「歳納ー、赤座ー。気をつけて行ってくるんだぞー」
やがて私たちは、ふわふわと浮かび上がっていく。
実在するのかさえまだ知らないくもの粒と、おそらく同じように。
動かす手足の感覚も、全くのいつも通り。
ただそれだけに、目に止まる景色が奇妙に映った。
覚えのない姿の花たちに見送りを受けてから、
頻繁に爆発する理科準備室を下目で捉えて、
道路際に平然と佇む電柱を超えて、
校舎の屋上をいとも簡単に跨いでいって、
忙しなく飛ぶ鳩たちに心を奪われて、
私たちの家がどの当たりか探し、気づいてははしゃいで。
線路を行き交う電車や、その向こうの隣町の光景までが輝いていて。
手なんて届かないんじゃないか。
やっぱり文字通りの絵空事だったんじゃないか。
そんなことを思ったりもしたけれど。
夢物語の引き金は、
私たちが見慣れない景色にうっとりしている間にも、
どんどん近く、また近くへと。
〜
――そういえば最近聞いたんだけど、くもに乗るのがあかりの夢って知ってた?
とある日の放課後のことだった。
結衣の言葉を聞いたとき、私は椅子から転げ落ちそうになった。
ピタゴラスが1は素数であると宣言するくらい……。
あるいはアイザック・ニュートンが、自分ならリンゴを世界の果てまで投げ飛ばせると主張するくらい……。
いや、ブレーズ・パスカルが死を既知のものとするくらい……?
とにかく、驚愕を押し殺し兼ねた私。
あかりはよくその願望を熱弁していた。
折に触れて、何度となく。
春先の平穏さを映す綿雲を一緒に仰ぎながら。
夏場の暑い日、一雨降るんじゃないかと思わせるような斑雲に背中を向けながら。
秋、早まる夕焼けに映える羊雲に目を眩ませながら。
冬の入りに姿を見せる積雪をもたらす入道雲を、私の家から窓越しに眺めながら。
姿形が千変万化するそれらに目を向けて、可愛らしい笑みを浮かべていた。
かと思えば、一緒にくもに乗る方法を考えないかと願い出てきたこともあった。
私もそんな物語に興味がなかったワケじゃない。
おとぎ話のような、ファンタジーのような、ロマンチックな話。
雲に跨がって空を旅できたら、どれだけ気持ちいいんだろう……
なんて、あかりの話を聞きながら、幼心に考えていたものだったっけ。
実のところ空想に膨らませる胸も、それはそれはどきどきしていたハズだ。
まあ、そんなのはもう何年も前の話。
結衣と3人で公園に行って遊ぶことが増えた頃にはもう、それより昔の夢物語をご執心な様子で語るあかりの姿なんて見た覚えがなかった。
行動としてその感受性の片鱗は至るところに発揮されていたけど、夢として表に出てくることはどんどんなくなっていった。
……と、ずっと思っていた。
結衣がその話題を出すまでは。
ときどき私が表に出すこの発想の豊かさは、誰にだって負けない。
今となっては、そんな自負が心のどこかにあるように思う。
あくまでそれは、なるべく自覚的にやっていることなんだけど。
ただ、そういう意識は誰かに制されればいともたやすく追いやられてしまう。
事実、この雲への微かな憧憬も私自身、いつの間にかアルバムの1ページとして押し込めてしまっていた。
そんな私とは正反対なあかり。
道端の鳩を、無心で追ってみたり。
池に棲む鯉を眺めて、一緒に泳ぎたいと口走ったり。
野良犬を見た次の瞬間には抱きかかえたり。
しかもその犬を見て、飼ってみたいなぁ……なんて呟いたり。
私にないその感性は、どんなときでも自然と表に出てくるもの。
あかりがくもへの憧れを自分から、そう簡単に思い出に留まらせる想像はつかない。
でもそれだけに、周りの心ない言葉のせいで抑圧されることがあったかもしれない。
だとすればあかりの中では、思い出どころかゴミ箱に捨て去られてしまっているんじゃないか。
あかりが持つ、大切なものの1つが。
私の好きなあかりのいいところの、その1つが。
〜
私たちは、夢の在り処へと辿り着いた。
「……」
「これが、くもなんだねぇ……」
理科が得意なあかりのことだ。
くもの正体くらい、本当はきっと分かっていたに違いない。
私より先にその粒を掴んでいたあかり。
声のトーンが、らしからぬ落ち着きを見せる。
あかりがずっと、ずっと焦がれた領域。
そこには空を漂うふわふわのくもなんてない。
むしろ正しい言い方をすれば、
私たちがくもになってしまったと言えるかもしれない。
「京子ちゃん」
数多の雲の粒に紛れ込み、
私の心はいつの間にか上の空になる。
現代の科学技術を結集した航空機でさえも避けて通ろうとする、
ここはそんな乱気流地帯だった。
自由に動ける、と言う状態には程遠かった。
上昇気流程度で地に足がつかなくなった小ささの私では。
「大丈夫?」
浮かぶことでいっぱいいっぱいな私の傍を、いくつもの雲の粒子が過ぎていく。
『雲に乗るってのはこの場合、その粒子に乗るってことだ』
西垣ちゃんの助言を実行しようにも、上手く跨がれない。
それどころか、しがみつくことさえできずにいた。
「掴まって」
どこからともなく、目の前に差し出されてきたあかりの手。
おそるおそる、その手を私は握る。
ぐいっ。
驚くほどにたやすく、自分の身体が引き寄せられていく。
1つの粒子にもう片方の手を引っ掛け、よじ登る。
私はそこでようやく『くもに乗る』感覚を得ることになった。
「ねえ、見て!」
「……?」
「あそこ、キャンプしたところかなぁ?」
「……ほんとだ!」
「こんなに高くまで来ちゃったんだねぇ」
「……そうだね。ふふっ」
一夏の思い出を過ごした場所を見下ろす、絶景。
「京子ちゃん?」
「ううん、何でも」
「そっか。――あのね」
「何?」
「あかり、解ってたんだ」
「あっ……」
「だからずっと思ってたの、これは夢のままで終わるんじゃないかって」
「……あかりの願い、叶ったかな」
「もちろん」
「そっか、ならよかった」
「あかり、とっても嬉しい!」
悪環境からの離脱を図った私。
アルバムの中の大事な1ページより更に大切な笑顔が、その傍にあった。
あかりの楽しそうな声は、きらきらと弾け飛んだ。
私たちは、幼いままだ。
……いや、ちょっと違うか。
私たちはどんなに大きくなっても、小さい頃のことを忘れない。
変わらない大切なものを携えて、これからも。
「よし、2人でもうしばらく続けるか」
「くもの旅?」
「おうよ」
「わぁい!」
終わり
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