伊織「あいつと喧嘩した」 (59)
喧嘩したのは初めてではないが、ここまで長引くのはたぶん付き合いだしてから今日が初めて。
今朝からずっと口を聞いてない。
お互い目があっても、ぷいと向こうをむいてしまう。
日曜日のダイニング。
昨夜からの雪が部屋の外の世界を白く染めていて、肌寒さを感じる空気を押しのけるように窓から差し込む光が、暖かそうな色を壁に映している。
やかんから立ち登る煙。
紅茶の匂い。
白い皿の上のクッキー。
ストーブのたてる、かすかな音。
何とも心温まる光景。
だってのに、冷たいこの空気が部屋の中に漂っている。
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あいつが、新聞を音をたてて読み始める。
ぱさぱさという音が、普段は特に何も感じないのに、今日はやけに耳についた。
「新聞の音、うるさいわよ」
つい、言ってしまった。
口にしたその瞬間に、そんなことを言わなければ良かったと後悔してしまう、そんな言葉。
普段とは違う毒にまみれたそんな言葉。
そんな言葉に、あいつはぴたりと手を止めて、呆気にとられたように数秒間私を見た。
そして何事も無かったかのように、なにげない所作で視線を外すと、再び新聞の方に目を落として
「別にいいじゃん」と言う。
言わなくても良いことを言ってしまったことに後悔したけれども、今更後に引くことも出来ず、泥沼にはまって行く私を、心の中のもう一人の私が「バカね」と笑っているのを感じながら、
「気に触るのよ」
と応えた。
しかし、 あいつはそんな言葉には全くとりあうこと無く黙ったままで、しかし、ばさばさと、もっと大きな音をたてて新聞をめくっていく。
大人げないわね。
本当に、こういうところは普段と違って子供っぽい。
端から見ると、つまらないことを言い出す私も同じように子供っぽく見えるんでしょうね。
似た者どうしね。良くも悪くも。
ふぅと溜め息をついた
付き合いだしてから今に至るまで、私たちは喧嘩だらけだった。 けれどもそれは長引くことは無かった。
あいつがいっつも私の言葉を大切にしてくれたから。
多分、そう。
そんな記録が途切れたのは、とてもとても些細なことがきっかけだった。
自分でも、呆れちゃうくらい。
今朝かかって来た、一本の電話。
私の曲、「DIAMOND」のイントロが鳴った。
あいつの着信音だ。
「鳴ってるわよ」
ソファーでゆっくりと食後のお茶を飲んでいたあいつは、まだ眠りから充分覚めきっていないような、ぼうっとした表情で私を見た。
「電話、鳴ってるわよ」
「ふぁーい」
「ああ、茂子ちゃん?うん」
女の人の名前が聞こえた。
耳が勝手にあいつの言葉に集中し始める。
「どうしたの? こんないきなり電話してきて?」
ふにゃふにゃとしまりのない顔になっていく。
そういう性格だとは知ってるけれども、あんな顔を見せられると……。
正直、ムカツク。
それに着信音が「DIAMOND」だったのが余計に、ムカツク。
ひょっとして、電話の相手が見てるあいつは私の見ているあいつとは違うのかもしれない。
そうかもしれない、そう思った。
そして寂しさが湧いて来た。
いろんなあいつの表情を知っている。
これまでの時間の中で、積み上げて来たから。
長い間、時間をかけて。
それでも、まだ、私の知らないあいつがいる。
そして困った事に腹が立つのは、その私の知らないあいつを多分、あの女は知っていること。
これは、嫉妬なのかしらね?
この感情はこれまでにも何度か感じたことがあった。
アイドル時代なんか毎日感じてた。
だからそういう感情が私のなかで生まれたことはたいして驚くことじゃなかった。
けれども、こみあげてくる思い。
うまく説明できないけれども、この身体の内側からかきむしられるような気持ち。
話はまだ続いている。あいつはまだ携帯を置かない。
あいつの周囲だけ空間が切り取られているような、そんな気が少し、した。
やがて、「うん、うん。それじゃあ」というしまりのない言葉と共はあいつは受話器を戻した。
「女の人から電話なのね」
私は、そう言った。
言葉が氷点を割るのを、自分でも感じながら。
「高校時代の同級生からだよ」
あいつは、私の怒りが理解できないのか、少しおびえつつも、どうしたのと言いたげな表情で応えた。
「随分仲が良いみたいね」
そこまで言ってようやくあいつは私の機嫌が悪い理由に思い至ったみたいで。
「何考えてんだって。全然そんなんじゃないって。本当に只の同級生だって」
慌てて、顔の前で手をふりながら、あいつはそう言った。
「本当かしらね。そのわりには随分嬉しそうに話してたけれど……」
「嬉しそうって、そりゃそうだろ。久しぶりに同級生の声を聞いてさ、嬉しくないはずないだろ」」
「いーや分からないわね」
その、私の言葉に少し考え込んでから、あいつは言った。
「伊織、ひょっとして、俺が浮気してるって思ってる?」
「かもね」
「そんなことあるわけないだろ」
あきれたようにあいつはそう言った。
「それが本当かなんて、分からないでしょ?」
「そんなに、俺の言うことが信じられない?」
「そういう台詞で嘘をつく人もいるしね」
「そんなこと、するわけないだろ」
本当は、これは私の勘違いだなと、私は分かりはじめてていた。
基本的にあいつは嘘がつけない。
あいつは嘘をついたり、隠し事をしている時はいつも視線をそらすから、まず簡単に分かってしまう。
それに、本当にあいつが浮気をしているのなら、こんな風な受け答えはしない。
あらかじめ下手な言い訳や受け答えを用意しといて、逆にそのせいで台詞が棒読みになってしまって、すぐにばれる、そんなところのはず。
今回はそんなへまをせず、言い訳もしないでただむきになって無実を訴えるところを見ると、おそらく浮気はしていないんだろうと思う。
まず、間違いなく。
それでも、なんとなく許せないのは、あいつが私の気持ちを全く分かってくれへんこと。
いきなりの女性からの電話。
嫉妬したり、疑ったりするのはごく自然なことじゃない。
だから、きちんとフォローして欲しい。 「俺には伊織しかいないよ」とか歯の浮くような言葉でも言ってくれたらいいのに。
人の恋路には鋭いのに、自分のにはとても鈍感なのだから。
そこがまた好きなところっちゃところだけれども、それも程度問題じゃないかしら。
これは、罰。
私の気持ちを分かってくれなかったことに対する。
私は、まだあいつの浮気を疑っているふりを続けることにした。
「男の人って、信じられないものね」
私は笑いだしそうになるところを見られないようにあいつとは反対側を向くと、わざと肩を落としてそう言った。
「男の人って……、じゃあ、俺のことも信じらんないってことか?」
「 あんただって、男じゃないの」
すまして、そう私は答えた。
「男だからって必ず浮気するとは限らないし……、第一、女の人だって浮気することあるだろ。……伊織だって浮気してるかもしれないじゃないか」
「……あんた何言ってるか、分かってるの」
言うに事欠いて、あいつはとんでもない事を言い始めた。
「そう言えば、この間だってかなり帰りが遅かったよな」
「あれは仕事が長引いて……」
「いや、本当はどこかで男と会っていたのかも知れないな」
「私がそんなことするわけないでしょ!」
「それこそ、証拠が無いだろ」
「本当に決まってるでしょ!」
「そうやって嘘をついているのかも知れないしな」
「そんなに私の言う事が信じられないのかしら?」
「ほら、伊織だって俺と同じような事を言ってるじゃないか」
怒った。
私のことが信じられないなんて、それだけは許せない。
「私はあんたみたいな浮気者じゃないわよ」
「俺だって、伊織とは違うよ」
「ふぅーん、そんなこと言う?」
「おう、言って悪いか?」
口にしてはいけない台詞。それをお互い口にしてしまった。
そして、私達二人はお互い反対側を向いて、何も口をきかなくなってしまった。
思い返してみて、 私も、というか私がきっといけなかったと思う。
でも、気がついてくれたっていいのに。言葉の裏側の想いに。
そう思うのは、私の甘えなのかしらね。
いいかげん、息のつまるような空気に耐えかねて、遂に私はこの部屋から退却することに決めた。
私は壁ぎわに寄って、ワードローブからコートを取り出した。
「どこ行くの」
目ざとく見付けたあいつが私に尋ねる。
「実家に帰らせて頂きます」
ここぞとばかり、私はそう答えた。
「実家って……」
あきれたようにあいつがそう言う。
「……どこだっていいでしょ」
私が少しむっとしながらそう答えると、興味無さげな態度をあいつは作って、再び新聞へ向かう。さも、面白い記事を見付けたと言うように。
そして、新聞の向こうから、
「そうだった、別に俺にはどうでもいいことだった」と言ってよこした。
ちょっと悔しい。
私は、コートとお揃いのマフラーを手に取り、それを首にまわしながら、
「あんたこそ、あの人の所でも、行って来たら」
と言った。
言葉にたっぷりと刺を含ませて。
その途端に、あいつは椅子から飛び上がらんばかりになって、
「だから、あれはそんなんじゃないって」
と、猛烈な勢いで私に噛みついてきた。
「どうだか」
私は、鼻でせせら笑いながら、そう言ってのけた。
あいつは新聞を傍らに置いた。
「だから、なんども説明しただろ、それは伊織の勘違いだって」
「そう、よかったわね」
「どうして分かってくれないんだよ」
必死の表情で、あいつは言う。
許してしまいそうに心が揺れるけれど、ここは我慢。
「証拠がないでしょ」
澄まして私はそう答えた。
「……それじゃ伊織の好きにしろよ」
怒ったようにあいつがそう言った。
「ええ、そうさせてもらうわよ。どこかで男らしくて、決断力があって、浮気をしなくて、優しくて頭のいい人見つけるから」
「どうせ俺はダメ男だよ」
あいつはぷいと向こうをむいてしまった。
言いすぎたかしら。罪悪感がちくりと胸を刺す。
言葉を失った私に、あいつは
「早く行って来れば」
と追い出しにかかる。
私だって悪いということは分かってた。
それでも心の底で、あいつに引き留めて欲しいという気持があった。
けれど、無理みたい。
そう思って無理につっぱればつっぱるほど、自分の思いとは反対の方向へとあいつは進んでいってしまう。
本当はここで謝ればいいのだろうけど。
でもいまさら引っ込みがつかなくて、私はコートを着込んでハンドバックをひっつかむと
「じゃあ、行ってくるから。今晩は帰らないかも知れないから」
と言った。
「好きにしなよ」
あいつは顔もあげずにそう応えた。
さみしい気持、悲しさ、私の方を向いて欲しい思い、さまざまな思いが入り混じって、心の深いところで濁った流れとなって渦巻いたそのままで、
私は私達の家の扉を開けて、寒風の吹く外へ出た。
マンションホールから扉の向こうを眺めた。
昨夜からの雪は既にやんで外は抜けるように青く、それでいてぼうっとしてとらえどころの無いような表情を見せいていた。
一面に白い雪が辺りを埋め、日常を覆いつくしていて、まるで知らない街に来たような錯覚を覚えるほど、いつもとは違った光景に見えた。
なりゆきで、どこへ行こうという当てもなく外に出てしまったので、これからどうしましょうかと、少し困った。
美希のマンションにでも行こうか思ったけど、 そういえば家族3人仲良くハワイに昨日から旅行に行ってるんだったわね。
なんともまぁ間が悪い。
本当にお屋敷に帰ってやろうかと思ったけれども、それはあいつに負けた気がするのでそれだけはとどまった。
アイドルを引退して事務所の社長になってから、私の行動パターンは日増しに乏しくなって来てる。
ほとんど毎日、家と事務所の往復だけで一日が終わる
せっかくの休みや土曜、日曜はたまっている家事をしたり、疲れたからゴロゴロしてることが多い。
最初は「あいつと同じ職場じゃないの」と浮かれていたけれども、そんなことなんて全然無かった。
私はずーっと事務所で、 あいつはあいつで現場から現場で大忙し。
アイドルだった頃みたいに二人一緒にいることなんてほとんど無かった。
まだまだアイドルのプロデューサーを続けているあいつと、社長の私では、生きている時計が、世界が違いすぎる。
それに最近、あいつが以前ほど私と外に出かけたり、遊んだりすることを楽しいと感じなくなったからのような気がする。
アイドルだった時や二人で暮らし始めた時に感じていた、二人でいる時の胸の高まりが段々薄らいで来たのは、私だってそう。
でも。
日本に古来から伝わる格言。
律子から聞いた格言。
「釣った魚に餌をやらない」
ひょっとして、そういうことなのかもね。
だとしたら、思い知らせてあげるわよ。
釣った魚だって、逃げ出すかも知れないってことを。
愛情だって、お腹が空くということを。
ぶらぶらと駅前へ向かって歩いて行く。ハンドバックを振り回しながら。
いいもの発見。
一度は行って見たかったけれども、でもなかなか行く機会がなかったもの。
それは、ぴかぴかと飾り付けが光るパチンコ店。
あいつに一度連れて行って欲しいと頼んだのだけれど、「俺も行った事がないからダメ」といって断られたことがある。
ちょうど良い機会だし、行ってみましょう。
入口に立つと自動扉が開いて、その扉の間から、むっとした空気と耳をつんざく騒音が溢れ出して来た。
大音量の軍艦マーチ。怒号のようなアナウンス。光の明滅があちらこちらで目につく。
どことなく私にとって懐かしさを感じさせるものだった。
私の後から入って来た人を真似て、自販機でカードを買った。
そして、適当な台の前で座って、カードを入れる。
出て来た玉を、私は弾き始めた。
ちゃらちゃらと音を立てて玉は盤面に飛び出して行く。
そして踊りを踊りながら下へと落ちて行く。
時々、両手を広げたチューリップに吸い込まれ、盤面を赤や黄色の光が飛ぶ。
鳴り響く電子音。
ざらざらと小気味のいい音と共に玉が出て来た。
あら、これって面白いじゃない。
たくさんの人達がこうやって遊んでいる理由が分かったような気がした。
しばらくそうやっていると、中央のチューリップに入り、スロットの文字が回り始めた。
お、入った。
残念なことに数字は並ばなかったけれど、結構玉は増えたので、嬉しかった。
結局、しばらくすると玉はすべて吸い込まれていって、願いも空しく最後の一個も消えた。
そんなもんか。
別にお金を稼ごうと思っていたのではないんだし、小一時間も遊んだのだから、良しとしましょう。
暇を潰せるとこ探して喫茶店に入った。
いつも二人で入るとこじゃなくて、別の喫茶店。
別に、特に意味なんかない。
たまたまそういう気分なだけで。
今日はカプチーノを頼む。
昔はオレンジジュースばっかりだったのに、今ではコーヒーばかりだ。
飲めるようになったことは嬉しいけれども、それだけ歳をとったということで寂しくなる。
あいつはいつもコーヒーに砂糖とクリームをたっぷり入れる。
あまりに強いコーヒーの薫りと味は苦手なんだと。本当に、子供みたいなのねと感じる。
だから、一緒の時は私もつき合って、同じようなコーヒーを飲んでいる。
カプチーノを飲むのは、一人のときばかりだけ。
気がつくと、考えているのはあいつ事ばっか。
せっかく一人でいるというのに。
悔しいけれど。
しばらく窓の外をぼうっと見ていた。カプチ-ノを片手に。
時間はゆっくりと流れて行く。
それから駅前でウィンドショッピングを楽しんで、一人を味わってから、私は家に戻る事にした。
これくらいで、充分あいつも寂しさを味わったはず、きっと反省してるだろう、そう思いながら。
帰る道々、考えた。
どうやって、許してあげようかしらね。
「ただいま」
そう言いながら家の扉を開けようとして、鍵がかかっていることに気付いた。
ひょっとして、私がいない隙にあの女を連れ込んでいるのかと、恐ろしい考えが浮かんで、私は慌ててバッグから鍵を取り出し、扉を開いた。
部屋は電気もついておらず、薄暗いままだった。どこかに隠れて、驚かせようとしてるのかしら。
そう思って、あいつの名前を呼んでみた。
返事がない。
私の言葉は部屋の暗がりに、ただ吸い込まれていくだけだった。部屋のあちこちを探し回ってみた。どこにもいない。
ひょっとして、本当にあの女とどこかに出ていってしまったのかしら。
こんな私に愛想をつかして。
まさか、という思いと、ひょっとしたら、という思いが私の中でせめぎあう。
涙が出そうになった。
そんなつもりじゃ無かったのに。
ただ、少し困らせようと思っただけなのに。
あんな事、言うんじゃなかったわ。
こうなると分かっていたなら。
後悔がふつふつと湧き上がる。
暗いところにいても仕方がないから電気をつけた。部屋の中は私が家を出る前と寸分変わらない光景だった。
ただあいつがいないだけで。
呆然として床にへたりこんだ。出てくるのは後悔の言葉ばかり。
そのままころりと横に倒れた。
頬に触れた床の冷たさが伝わってくる。
しばらくそのままでいた。
もしかしたら、次の瞬間、「ただいま」と言って、あいつが扉を開けて帰ってくるんじゃないだろうか、そんな期待をしながら。
ローボードの上の時計がこちこちと時を刻んでる。
静けさの中のただ一つの音。
15分待った。
だけど、何も起きない。
私はむくりと起き上がる。
帰って来たそのままの恰好だった。
私はコートについた埃を払った。
待っていたって、あいつは帰ってこないかも知れない。
探しにいこう。
そして、謝ろう。素直に。
そう決めると、すぐさま私は家を出た。
出たものの、あいつが今どこにいるのか、思い当たる場所はなかった。
あいつはどうしているのだろうか。
想像して見る。
食事に出かけた。
喫茶店でお茶を飲んでいる。
本屋でたち読み。
映画館。
あの女の家に行った。
あいつがあの女の部屋にいる、という想像が働いて、いやなシーンを思い浮かべてしまった。
いけない、そんなことを考えていては。
あの女のところに乗り込もうか。そう考えて、気付いた。
あの女の居場所を私は知らない。
それどころか、名前さえもちゃんと知らない。
顔も知らなければ声を聞いたということもないということに。
「どうもできないじゃないの」
コートのポケットに入れた携帯電話に手が延びる。あいつも携帯電話を持ってでていれば、捕まえる事が出来るはず。
着信履歴の一番上にあるその名前をを押そうとして、でも、押せなかった。
見つけ出して直接謝らないと。
そんな私の意地がためらいを大きくして、私は携帯を再びポケットの中に落し込んだ。
とりあえず、駅前の思い当たる場所を探そう。
私は駅の方角に向かって歩き始めた。
駅前で、いつも二人で行く店を中心に探して回る。
喫茶店。
ブティック。
スーパーマーケット。
ケーキ店。
ドーナッツショップ。
本屋。
雑踏の中にあいつの姿を探して、誰かに肩をぶつけるたびに謝りながら、ふらふらと私は店から店へと探し続けた。
寒空の下、足が冷え、口から吐く息は白くなって人混みに消えて行く。
どこというあてもなく、さ迷い続ける私に、風の音だけが寄り添っていた。
いない。
あいつはどこにいるのよ。
あいつはいま何をしてるのよ。
思い付く限りの店を探し、あいつが行きそうな場所を回り尽くしたけれども、見付からなかった。
ひょっとして、電車に乗って、どこかに行ったのかしら。
そんな考えが浮かんだ。
きっとそうだ。
これだけ探していないのだから。そうに違いない。
私は人の流れの間を縫うようにして駅へと向かった。
改札口に定期券を突っ込んで、ホームに上がる。人のまばらなホームには溶けずに残った雪が白かった。
電車は行ったところみたい。
私は階段の側にある鉄の支柱に背中を預けた。
駅近くのビルを回り込んで来た風が私の身体に吹き付ける。
寒い。とても寒い。凍えそうなほど。
ポケットにいれていた手を出して、こすりあわせてみる。
息を吹きかけてみる。
それでも、やっぱり寒かった。
いつもなら、 あいつが暖めてくれるのにと考えてしまうそんな自分が情けなくて……。
身体が震え出して、その震えは自然に足踏みに変わる。
雪のとけた水でぬれているコンクリートを踏む足音が天井に当たってホームに響いた。
ばさ、という音がして屋根にたまった雪が滑り落ちた。
その音を引きがねのようにして、ホームのすぐ側にある踏切の警報機が、かんかんと鳴りだした。
明滅する光が赤く視界の端に映る。
レールのきしむ音が響き、正面のライトが放つ光が私の目を射た。
やがて、うなりをあげて電車がホームへと入って来た。
窓から見える車中の光景。
暖かな光は惜しげもなく、外に洩れて光と影を生む。
扉が開いて、ざわめきを連れて下車の人達が流れ出る。
日曜日の行楽から帰る人達、楽しそうに。
幸せそうに寄り沿う、若い二人。
両脇の両親にそれぞれ片手ずつ手を握られて、ぶら下がるようにしながら歩いて行く子供。
皆、白い息を吐きながら、幸せそうな空気をまとい、改札口へと流れて行く。
顔につき刺さってくる冷気が和らいだような、そんな光景。
そして裏腹に、私の心は深く深く沈んでゆく。
通りすぎる人の一人一人をじっと見る。
いるかなと期待しながら。
きっといるに違いないと思いながら。
でも、あいつはいなかった。
次の電車かもしれない。
乗客の最後の一人が私の前を通りすぎて、人の少なくなったホームに取り残された私に、そんな言葉がささやきかける。
もう少し待とう。
もう少し。
人気の無くなったホーム。
カラスが空から降りて来て、電線に止まった。私の方を見ている。
不思議そうに。
歩きながらポケットから携帯電話を取り出す。
意地を捨てて、あいつの電話にかけてみた。
もうあいつは帰っている。たまたますれ違いになった、それだけ。
そんな期待を込めながら。
呼出音が鳴り始めた。1回、2回、3回……。あいつは出ない。
ただ呼出音が耳に響くだけ。
11回、12回、13回……。まだ、駄目。
ぎゅっと力を込めて携帯電話を握り直す。
16回、17回、18回……。
私は諦めて電話を切った。
街灯に火がともり始めた。闇を切り取って行く。
あんたはどこなのよ。
何をしているのよ。
何を思っているのよ。
分からなかった。
とぼとぼと歩く道。
寒さがいっそう、つのる。
通りすぎた家の軒の下にかわいらしい雪だるまがあった。
崩れかかっている。
あんたもひとりぼっちなの?
雪だるまに聞いてみたくなった。
我が家のあるマンションが目に入って来た。
窓を見る。
明りは消えたまま。
最後の望みも断たれてちゃった。
家の前の公園にさしかかる。
出口から出口を結ぶ線上は人の足跡で踏み固められている。
けれども、辺りにはまだ誰も跡を残していない綺麗な雪面が残っていた。
足跡をたどるようにして、私は歩いて行く。
公園の真ん中辺りまで来てから、立ち止まって、横を向いた。
ただ白い、雪に覆われた大地。
ポケットから手を出すと、そのまま背伸びをするように身体を一本の棒にして、私は、ばっさりと雪面に倒れ込んだ。
顔を雪が覆う。
冷たい。
この冷たさが雪のせいなのか、それとも今しがた流れ始めた私の涙のせいなのか、私には分からなかった。
雪に溶け込んでしまいそうな、そんな気持ち。
それもいいかもしれないなと、ふと思う。
このまま、溶けてしまって、雪と一緒に消えて行く。
何もかも忘れて。
「それって面白いか、伊織?」
声が、した。
聞き覚えのある声。
あいつの、声。
慌てて私は声の方を向いた。
寒さに震えて、歯と歯をがちがちいわせているあいつが、いた。
声にならない声が口から飛び出した。
立ち上がり、駆け寄って、彼に飛びつく。
勢い余って反対側にあいつを押し倒してしまった。
寝ころがったまま、目を見合わせる。
声が出ない。
二人、そのまま。雪の中にいた。
「遅かったじゃん」
あいつが言う。
「待っててくれたの?」
頷く気配があった。
「ここで?」
「すこし探し回ったけど。ここで待ってた」
「ずっと?」
「ああ。一体どこに行ってたんだ」
私は直接その言葉には答えず、ーさん にぎゅっとしがみついた。
そしてあいつの耳もとで、小さく
「ごめんね」
と言った。
くすりとあいつが笑う気配がして、あいつの手が私の髪をなでた。
何度も、何度も。繰り返し。
>>46
すいません、ミスがありました。
ここは読み飛ばしてください。
寝ころがったまま、目を見合わせる。
声が出ない。
二人、そのまま。雪の中にいた。
「遅かったじゃん」
あいつが言う。
「待っててくれたの?」
頷く気配があった。
「ここで?」
「すこし探し回ったけど。ここで待ってた」
「ずっと?」
「ああ。一体どこに行ってたんだ」
私は直接その言葉には答えず、あいつにぎゅっとしがみついた。
そしてあいつの耳もとで、小さく
「ごめんね」
と言った。
くすりとあいつが笑う気配がして、あいつの手が私の髪をなでた。
何度も、何度も。繰り返し。
「そろそろいい。結構冷たいんだよ、ここ」
私の下敷になっているあいつが冗談っぽい笑いを浮かべながら、そう言った。
「もう少しだけ」
私はそのまま、あいつの上から動こうとはしなかった。
鼓動が聞こえる。
あいつの心臓の。
私の心臓の。
やがて私は起き上がった。
一緒に、あいつも。
そしてお互い、服についた雪を払い落しあった。
白い雪、白く白く。
何もかもを覆い尽くす。
街灯の青白い光が照らす下で、自然に手を取り合った私達は、互いに微笑みあって、この雪の上でワルツを踊りはじめた。
お読みいただきありがとうございました。
水瀬伊織さん、お誕生日おめでとうございます。
暑かったので、冬の話にしました。
途中ミスをしてしまい本当にすいませんでした。
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