風俗嬢と僕 (951)
ネオンライトがギラギラと輝く街。脂ぎったおっさんやキャッチの兄ちゃん、色気を撒き散らす女と、様々な人がそこを歩いている。
彼女にフラれた腹いせに風俗へ。
自分がこんなに短絡的な人間だとは思ってもいなかった。とはいえ、止める気もない。
デリヘルやソープといった様々な業種があるのは何となく知っていたけど、金銭的にも高価なところには行きづらくて。少しは敷居が低そうなピンサロに僕は向かっていた。
雑居ビルの5階に店はある。別にどの店でも良かったんだけど、ネットで検索したら上位でヒットしたからという理由だけで、僕はそこに狙いを定めた。
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エレベーターに乗り込んで、それが上昇するのと共に胸の鼓動が速くなる。
浮気をしようとしてるわけでもなければ、自分は18歳だって越えている。生活費や仕送りに手を出しているわけでもなく、大学の授業の合間にこなしているバイトで稼いだ金で遊ぼうとしている。
後ろめたさを感じる理由はないはずなのに、どこか悪いことをしている気がするのはなぜだろうか。
何となく気後れしてしまったけど、乗り込んでしまったエレベーターは故障もせずに無事に5階まで到着してしまった。
扉が開いて一歩踏み出してみると、そこには受付の兄ちゃんが扉のそとで待ち構えていた。
「いらっしゃいませー! お兄さん、どう?」
おっさんというよりは兄ちゃんと言うべきか、ホストの出来損ないみたいな金髪ミディアムの男が胡散臭く笑いながら話しかけてきた。
「えーっと、はい。お願いします」
何と返事をすべきかも分からず、変なことを言ってしまった気がするが、口から出てしまったことは仕方ない。
了承の返事に気を良くしたのか、男は早口に言葉を続けた。
「あざまーすっ! 今ね、一番人気のゆうちゃんが空いてるんですよ! 初めての来店なら、指名料込みでこの値段! お得ですよ!」
そう言って彼は看板の料金表を指さした。正直、他の店との相場とか人気とかあまり分からないけど、その値段自体は予算の範疇ではあったし、店の前に立っているのも何となくの恥ずかしさと後ろめたさがあったので、二つ返事で了解した。
「じゃあそれで」
「あざまーすっ! それじゃ、料金頂戴しますね。こちらの待合室で長かったら爪を切ってお待ちくださーい」
提示された金額通りの紙幣を渡して、カーテンで仕切られただけの待合室のボロい椅子に腰かけた。
……こんな感じなんだ。
やたらうるさくてポップなBGMが流れていて、とてもエロいことをするようなムードには思えないけど、そういう店なのには間違いがないはずだ。
何となく異世界にきてしまったような戸惑いと、 後ろめたさと、でも悲しいかな男としてやっぱり期待するものもあるわけで、今までの人生で経験したことがないようなテンションになっている。
平日の昼間ということもあってか、他のお客さんはいないみたいだ。一人で落ち着かない気持ちになっていると、やっと店員から呼びかけられた。
「お客さん、来てください」
言われるがままに待合室のカーテンを潜ると、禁止事項を読み上げられた後にブースの指定をされた。
店内は柵か何かで分割してブースを作っているらしく、僕はそのなかで3番ブース、一番奥だった。
「それではごゆっくりどうぞー!」
男はブースの前まで案内すると、そんな言葉を残して待合室や受付の方へ戻っていった。
「ごゆっくりって言われても……」
柵はやたらと低くて立ってる人からは丸見えみたいだし、そもそも今は何をして待っていれば良いのかも分からない。
とりあえず床に座って黙って待つ。そういえば、一番人気ってことしか聞いてないからどんな女の子がきてくれるのかすら分かっていない。
勢いだけでここまできてしまったな、なんて独りごちてもどうしようもないんだけど。
数分待ったところで、場内アナウンスが聞こえた。
『ゆうさん、3番ブースへどうぞっ』
その声と共に入口からの気配を感じると、女の子がブースの入口に立っていた。
「こんにちはー! 初めまして、ゆうですっ」
「それが……」
僕の言葉を遮るように、ヒロさんは言葉を重ねた。
「あいつ、チームメイトだったんだよ」
ああ、そういえば。
言われてみると、確か彼は去年までニ部のチームでプレーをしていたはずだ。そして、そこでの活躍が認められて一部のチームに今季から移籍したと、雑誌の特集記事を読んだ記憶がある。
しかし、元チームメイトだったのなら、彼の代表選出は喜ばしいことなんじゃないんだろうか。
そんな謎は残るけど、僕からヒロさんにそれを尋ねるのは何だか躊躇われてしまった。
「俺がクビになった理由、カズに話したかな?」
投げられた言葉は、またも脈絡の無いように思えたものだった。僕は黙って首を横に振ると、ヒロさんは言葉を紡ぎ始めた。
俺と同期で高卒新人だったのが、シンヤだったんだ。
もちろん俺たちはすぐに仲良くなった。友達だし、チームメイトだし、仲間だった。
入団初年度はお互いにロクに出番がなくて、二人で自主練をしたり、愚痴りあったり。
お互いに活躍するとそれを励みに練習に打ち込んで、仲間だけど負けたくないなって思ってた。
二年目になって、俺たちのチームの主力選手の先輩が抜けたんだ。一部のチームに引っこ抜かれて、チームとしてはピンチだけど俺達としてはチャンスだなって。ポジションも同じだったから、これを機にレギュラーになってやるって野心を持ってね。
その年の開幕前のキャンプで、紅白戦をしたんだ。レギュラーチームに入ったのは、シンヤじゃなくて俺だった。
プレースタイル的に俺の方が先輩に近いものがあったっていう幸運もあったのかな。でも、そこで良いプレーをしたら開幕スタメンも夢じゃないって思って、俺は気合を入れてその試合に臨んだんだ。
自分で言うのも何だけど、前半はかなり良いプレーが出来てさ。あのプレーなら、先輩がいてもレギュラーを争えたんじゃないかってくらい。チームとしても良いペースで点を奪って、紅白戦だけど圧勝って感じ。
ただ、後半。あれが起きたのは後半だったんだ。
後半が始まってからも、レギュラーチームの優勢は変わらなかった。
俺たちはボールを支配して、相手チームも防戦一方って感じでさ。
そんな雰囲気の時に、俺とシンヤがマッチアップしたんだ。ボールを持ってるのはもちろん俺で、ディフェンスがあいつ。
勝ってるし調子も良いからって天狗になりかけてた俺は、シンヤ相手に股抜きをしたんだ。
足の間をボールが通って、俺も脇を通り抜けて。やったと思った直後に、倒れたてたんだ。
後ろからシンヤにスライディングをされて、それがモロに右足に入ってたんだ。
出たくなんかないのに担架でピッチの外に追い出されて、そのまま病院に行ったら全治半年だ、って。
試合に出られない間にあいつはチーム内でレギュラーになって、俺はそのまま出番をなくしてしまった。
初めてそんな大怪我をしたからかな。それ以来、後ろからの接触プレーが怖くて、どうしても抜いた相手を気にし過ぎてしまうんだ。
県リーグレベルならそれでも通用するけど、プロの世界ではそれじゃダメでさ。
その年ともう一年は面倒を見てもらえたけど、結局それが遠因で、二年前にクビになったんだ。
シンヤともあれ以来気まずくて、退団してからは連絡を取ってない。
「あいつのせいじゃないってことは、分かってる」
ヒロさんは、絞り出すように漏らした。
「あんな状況で股抜きなんかされたら誰だってイラつくし、接触プレーを怖がってしまうのは俺の心が弱いからなんだ」
「じゃあ……」
「でも」
逆接の言葉で感じたのは、強い感情だった。理屈を超えた感情だ。
「もしあそこで怪我してなければ、今ごろ代表にいたのは俺かもしれない。そう思うと、どうしてもスッキリした気持ちで応援も出来ないんだ」
俺って嫌な奴だよな、とヒロさんは自嘲気味に呟いた。
「そんなことないです」とも、「それはシンヤが悪いですよ」とも、僕は言えなかった。
ヒロさんの「あれさえなければ」という気持ちも分かるし、とはいえ怪我のリスクはサッカー選手である以上、当然背負っているものだ。自慢できるものではないが、僕だって骨折や捻挫の経験はある。
消化しようとしてもしきれないモヤモヤを、ヒロさんも感じているんだろうか。
「悪いな、こんな空気にしてしまって。ちょっと愚痴をさ、聞いてもらいたかったんだ。お前くらいしか話せないからさ。ミユにこんな話を聞かれると心配されるし」
その言葉を最後に、ヒロさんは空元気なのか笑えてない笑顔で僕に「肉食え、肉! 体作って、今週の試合も勝つぞ!」と言った。
その言葉にも僕は返事が出来なくて、ただ頷いてトングで肉をつつくだけだった。
あの焼肉から一週間。
アジア予選が始まり、シンヤも代表デビュー戦でゴールを決める活躍をした。その試合後は、うちのチームでもシンヤの名前がよく出てきた。
彼の名前を耳にするたびに、ヒロさんは複雑そうな表情で相槌を打っているし、僕も何だか晴れやかな気分とはいかなかった。代表が勝ったら、普段は嬉しいのにね。
大学も練習も無い休日は久しぶりで、家に引きこもるか悩んだけど、ちょっと出掛けてみることにした。どうせ一人で家にいても落ち着かないしね。
七分丈のお気に入りのサーマルカットソーに、ちょっとダメージの入ったジーパン、スニーカー。夏が近づくとサンダルを履く人も多いけど、中学生の時の部活の顧問に「サンダルなんか履いて怪我してサッカーできなくなったらどうするんだ! 靴を履け!」と言われて以来、卒業した今もその教えをずっと守っている。
ファッション、流行りの服が好きってことじゃないけど、お気に入りの服を着るだけで少し楽しい気分になる。
浮かれない気持ちも少しはマシになって、僕は行くあてもなく町をうろつく。
そこまで話したところで、オーダーしていた料理をウェイトレスが運んできた。
ミユはオムライス、僕はハンバーグのセット。両方にかけられているデミグラスソースの香りが広がって、ついお腹が鳴りそうになる。
「わー、美味しそ」
彼女はそう呟くと、「食べていい?」と確認しながらも既にスプーンを手にしていた。そして、確認なんかしなくて良いと返すより先に既に頬張っている。
僕も両手を合わせて小さく「いただきます」と呟いた。
「礼儀正しいね」
「いや、普通のことだから」
ていうかさ、みんなやってなさすぎるんだよね、いただきますって。ご馳走さまもだけどさ。
別に感謝の気持ちがー、とまでは考えてないけど、子供の頃からそれはクセになっていて、しないと食べる時に落ち着かないんだよね。
箸で割って口に入れてみると、肉汁とデミグラスソースの味が広がってついつい頬が落ちてしまう。
ミユも無心でオムライスを口に運んでいて、どうやら話は一旦置いておくつもりらしい。
さっきまであんな話をしていたのに、無言になっても気まずい沈黙と感じないのはきっと料理が美味しいからなんだろうな。
サッカーのトップ選手のプレーを見てる時と同じかもしれない。素晴らしいものは、僕たちを嫌な気持ちから遠ざけてくれる。
二人して黙々と食べていると、あっという間にお皿は空っぽになった。
相手チームのキックオフのボールが中盤の選手に下げられた瞬間、僕はそれを追いかけてチェイシングをする。
相手チームはボールをポゼッションしようとするんだけど、前線から僕ともう一人のフォワードのプレッシャーを受けて慌ててロングボールで逃げる。
僕の代わりに右サイドバックに入った選手がそのボールを拾い、パスを回し始めると、前半と同じように後半も支配権を握ったのはうちだった。
ゴール前まではいけても、そこから決めきれない。
僕もシュートは打ててるんだけど、キーパーに阻まれたり、ゴールから逸れてしまったり。それに、フォワードとしての守備なんて慣れてないから、どこまでプレッシャーをかけに行けばいいかも分からず、とにかく走り続けていた。15分も経つ前に、限界が訪れそうなくらいガムシャラに走る。
正確な試合時間を刻むデジタル時計なんかこの小さな競技場にはなくて、申し訳程度にスタンドに設置されているアナログ時計を見てみると、残り時間は2分ほど。僕と交代予定のフォワードもアップを終えて、ユニホーム姿になる準備をしていた。
15分で、僕はまだ何もできていない。いくらシュートを打とうが、プレッシャーをかけ続けようが、ゴールを決められない限りは与えられた役目は果たせていない。
走り続けて体は限界に近いんだけど、根性とか意地とかそういうものなのかな。何か分からないんだけど、それでもとにかく走る。
いよいよ交代が近づいて、第四の審判が交代予定の選手のスパイクや装具品チェックをしているのが目に入った。
くそっ、まだだ。まだ僕は何もできていない。このまま交代することなんて、僕にはできない。
苦し紛れに相手チームが蹴ったボールはうちのキーパーまで届いて、そこから恐らく僕にとってのラストプレーが始まった。
キーパーはそれをディフェンダーに預け、更に中盤の底の選手、いわゆるボランチへと運ばれる。
相手チームもしっかりと守備陣形を作っていて、雑な攻撃では壊せそうにない。中盤で横パスを回して揺さぶってみても、相手チームの選手はしっかりと陣形を整えたままスライドして修正してくる。
そんなとき、すっとヒロさんが少し下がり気味のポジションを取った。相手のマークが少し薄くなったのを察知したボランチは、そのままヒロさんにボールを預ける。これが僕のスイッチだ。
ヒロさんが前を向いてボールを触った瞬間、僕は一気呵成に走り出した。
「来い!」
ボールを要求する声よりも早く、ヒロさんからのロングパスは蹴り出されていた。
少し低めの弾道で、弾丸のようなそのパスは玉足が速い。
全力で走る僕の少し上を、そのボールは通過していく。中央からやや右サイドへの角度があるパスは、そのままタッチラインへ向かって転がっていく。
相手チームのディフェンダーは追いかけるのを止めている。間に合わないと思っている。
僕だって、普段ならここまで必死に追いかけたりはしないかもしれない。それでもこれは、僕にとってのラストプレーだ。ここでプレーが止まると、僕は交代してしまう。
最後の燃料を使い果たすかのように、僕は足を運ぶ。前へ進む。
勢いが死に、ゆっくり進むボールがタッチラインを越えそうになった瞬間、僕はスライディングでボールが外に出るのを食い止める。
副審の旗を確認する余裕なんかない。ただ、この際どいプレーに主審の笛が鳴らないということは、まだボールは生きている。プレーができる!
立ち上がってドリブルを開始すると、相手ディフェンダーが慌てて戻ってくるのが目に入った。でも、もう遅い。
ヒロさんからのパスを追いかけるのをやめていた相手と僕には、かなりの距離がある。
右サイドからゴールへ向かうと、ペナルティエリアに入ったところでキーパーが飛び出してくる。ただでさえ角度がない場所なのに、更にコースが狭まる。
あ、無理だ。
直感的にそう感じた。前半もこういう場面でシュートを打ち、枠を外したり止められたりというシーンがあった。
時間的にもこれが最後のプレーで、これを外すと今日の僕の試合は終わってしまう。
コースを丁寧に狙ってシュートを打つ決心をしたところで、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕にパスを出した人のその声はペナルティアークのあたりから聞こえてきて、顔をあげて確認すると、そのまま彼に優しくパスを出した。
僕のシュートコースを消しに来ていたキーパーはそのパスに反応できるわけもなくて、パスを受けたヒロさんはそのパスをインサイドで丁寧に流し込む。
何も邪魔をする者がいなくなったゴールにそのボールは転がっていき、そして小さな白い波が起きた。
ヒロさんはゴールを決めるとそのままに僕に駆け寄ってくる。
「やったな! カズ!」
頭をめちゃくちゃに撫でられながら、僕もヒロさんの背中を叩く。
「ナイパス、ナイッシューっす!」
二人で歓喜を爆発させていると、遅れてきたチームメイトも混ざってきて小さな輪ができた。
みんな、「やったな!」「よく走った!」と僕を叩きながら言ってくれる。
その輪が一段落したところで、主審が僕たちに早くプレーを再会するよう笛を鳴らして促した。
「君、交代だから」
主審にそう言われたので確認すると、交代選手が立っていた。そっか、交代か。
得点が決まるまではいられたとはいえ、最後までプレーしたかったな。
そんな残念さもあるけど、慣れないポジションでのプレーに疲れていたのも事実で、交代選手とハイタッチをしながら僕は白線の外に出ていった。ピッチに一礼も忘れずに。
ベンチにいたチームメイトからも声をかけられて、ミユからも「大活躍じゃん」と言われた。
自分のゴールって結果を出せなかった後悔、最後までプレーできない悔しさなんかはあるけれど、とりあえず今はチームの応援だ。
失点した相手チームはその後、攻勢に出てきた。危ないシーンも何度かあったけど、逆に前がかりになってきた分守備が甘くなっていた。
僕の代わりに入ったフォワードの選手がキーパーとの一対一を制して二点目を決め、そのまま試合終了を告げるホイッスルが響いた。
どうにか勝利はできたけど、課題の多い試合だったよな。
ベンチを空けて、スパイクからトレーニングシューズに履き替えると、僕はヒロさんと一緒に競技場の外でクールダウンのジョギングを始めた。
「ナイッシューです」
一点目のシーンを振り返ってそう話しかけると、ヒロさんは僕の背中をバシッと叩いた。何か今日、叩かれすぎじゃない?
「何言ってるんだよ、あんなのお前がパスに追いついた時点でお前のゴールだよ。よく追いついたよ」
そんな風に誉められると、何だかむず痒い。嬉しいような、止めてほしいような。
「お前に届けるとかいいながら、お前が届かせてくれたしな」
キョトンとした顔でヒロさんを見返すと、「後半開始前に言っただろ、お前にパスを届けるって」と、恥ずかしそうに言った。
「いやいや、あの厳しいパスだから相手も追いかけなかったわけですし……」
「でももっと楽に、ていうかお前に決めさせられるようなパスを出したかったんだよなー、くそっ」
「そんな良いパスもらっても、僕が決められるかは……本職じゃないですし?」
「何だよー、待ってますって言えよー! またお前が前でプレーするなら、その時待ってろよ」
そう言うと、ヒロさんは照れ隠しか少し走るペースを上げた。それが何だかおかしくて、少しニヤけながら僕もついていく。
「ヒロくん!」
後ろから、どこか聞き覚えのある声でヒロさんを呼ぶ声がした。
「あっ、サキちゃん」
サキちゃん……?
まさかと思って振り返った先には、はっきりと覚えてる顔。
二ヶ月ほど前、僕に対して「今は誰とも付き合う気はない」と話した元彼女が、そこには立っていた。
遅くなりましたが、面白そう、良いね等のコメントをありがとうございます。
安価つけてレスをするとコメントクレクレになりそうで言いづらかったのですが、本当に嬉しいです。
SSで地の文は敬遠されがちだと思いますが、読んでくださる方がいることをモチベーションに更新しております。
ありがとうございます。
そんなところまで追いかけても、どうせパスされるじゃない。何で追いかけるの?
それが素人の私だから持つ感想なのか、他の人もそう思ってるのか分からない。でも、明らかに無駄に見える走りを彼は止めない、諦めない。
まだ後半が始まったばかりなのに、焦っているのかな。前半とは何か違って見える。
そんな彼の姿を眺めていると、カズヤのチームの10番がボールを持った。カズヤは走りはじめて、大きな声でボールを呼び込む。
でも、出てきたパスは厳しいもので。外に向かって流れていくボールを追うペースを、相手選手も緩めてるのに、カズヤは全力で追いかけている。
何で。何で走るの。ボール出ちゃうよ。またその後に頑張れば良いじゃない。無駄だよ。
そんなことを思っているのに、口から漏れてきた呟きは真逆のもの。
「……がんばれ」
ボールはそのまま白線に向かっていく。勢いは落ちているけど、それでも着実に。
ああ、もう出ちゃう。やっぱり、無駄なんだよ。
そう思った私に、新しい絵が目に入った。パスを出した10番が、相手ゴールの方に向かって全力で走り出したんだ。
相手チームの選手も申し訳程度に走っているんだけど、二人ほど全力ではなくて。たぶんボールが出ると思ってるのかな。
みんなが無理だと思ってるところで走る二人は何だか滑稽。滑稽なのに、笑えない。
追いかけるカズヤとボールの距離は少しずつ、少しずつ縮まっている。まさか。追い付くの?
いよいよボールがラインを越えようという時に、カズヤはボールに滑り込んだ。縮まっていた距離はゼロになって、ボールはグラウンドの中に止まる。
スタンドにいる、多くはない観客から今日一番の歓声が上がった。間に合ったの? ボールが出る前に、カズヤは追い付いたの?
ろくにルールも知らない私はキョトンとするだけなんだけど、グラウンドの彼はもう立ち上がってドリブルをしている。あんな勢いでスライディングしたのに、痛くないのかな。
相手チームの選手も慌てて戻っているけど、カズヤには全然追い付けそうにない。
外からゴールに向かってドリブルしていくカズヤの顔は、何だか楽しそう。あんなに走り回って、ボロボロになって、さっきもスライディングをして。楽ではないことのはずなのに、彼は今、笑っている。
ゴール前に一人だけ残っていたキーパーが、慌ててカズヤに向かって近づいていく。今までもこういうシーンが何度もあって、その度に外してしまっていた。
どうするんだろう。また外してしまったら、さっきの頑張りも意味がなくなっちゃうのに。
カズヤがドリブルのスピードを落とした時、彼の名前を呼ぶ10番が後ろから走ってきていた。このために、他の誰よりも早く走り始めてたんだ……!
丁寧なで優しいパスをカズヤからもらった10番のシュートを妨げる人はもういない。カズヤが追いかけていた時みたいに転がったボールは、ゴールの線をしっかり越えてネットを揺らした。
カズヤと10番は二人で喜びを爆発させている。遅れて、後ろから走ってきたチームメイトもそこに加わる。
プロの試合でもなければ、彼らはこれでお金を稼いでるわけでもない。ゴールが入っただけ。ただそれだけ。
ゴールを決めたからお給料が増えるわけでもなければ、有名になるわけでもプロになれるわけでもない。
それでも彼らは輪になって喜んでいる。これこそが最大の喜びだというように、顔をクシャクシャにしているのがここからでも分かる。喜びすぎて、審判に笛を鳴らされるほどだ。
彼らがここまで喜べる理由が、私には分からない。その一方で、そんな風に考えてるくせに、胸には何か熱いものが残っているのも事実で。
言葉にできない何かが、私を焚き付けてくる。今までに感じたことがない気持ちだけど、嫌じゃない。
これが何か分かれば、カズヤたちの気持ちも分かるのかな。
理由の分からない胸の高鳴りを感じていると、カズヤがベンチに向かってきて、代わりに一人の選手が入っていった。交代しちゃったのかな、残念。でも、点が入るまで出てて良かったなぁ。
私がいなくなっても世界は回るように、カズヤが交代しても試合は続く。
胸が高鳴ったまま試合観戦を続けていると、相手チームも反撃をし始めた。
あっ、危ない! シュートがカズヤたちのチームに向かうと、それだけで何だか不安な気持ちになるし、逆に攻めてると「いけー!」って思っちゃう、不思議。
そのまま攻めたり攻められたりの時間が続くと、久しぶりに10番の選手がボールを持った。カズヤが交代した後もずっと存在感を放っていたけど、今度はどんなプレーをするんだろう。
前を向いてボールを持った彼は、右足でボールを叩いた。点と点が線で結ばれるように、カズヤと交代した選手の走る先にボールが送られた。
すっごい、綺麗!
さっきのカズヤみたいにキーパーと一対一。でも、あの時とは違ってゴール正面からだからかな、その選手が放ったシュートは難なくキーパーの脇を抜けて、ネットが再び揺らされた。
一点目同様に輪が出来て、相手選手もうなだれてる。
観客の「やっぱりオオタは上手いよ」「パスで勝負あったな」なんて話し声が聞こえてきて、10番の選手がオオタさんだと私は知った。サッカーの分からない私でも綺麗と思うようなパスを出すくらいだから、あの人ってすごい人なんだとは思っていたけど、名前も知られてる程なんだ。
そのまま試合が進んでいって、もうすぐ終わりかな、なんて思ったときに、隣に女の人が座ってきた。
うわー、すっごい美人だ。
ウェーブを少しかけて、ふわふわの茶髪が背中まで伸びてる。目鼻立ちはくっきりしてるし、着てるシャツワンピも安くは無さそうな生地感。肌の色は白くて、胸元には女の子に人気なブランドのネックレスが飾られている。
さっき私を見ていた子の時は冗談で考えてたけど、こんな美人がいたら、つい見つめてしまう。
誰かの彼女とかなのかな。それか、親戚? うーん。
座ってからはずっと携帯をいじっていた彼女を見ながらそんなことを考える私を不審がったのか、こちらに不思議そうな視線を向けられた。慌てて会釈をして試合に視線を戻したんだけど、すぐに試合が終わってしまった。
他の観客たちは帰り支度を始めて、徐々に席を立っている。隣に来た女の人も、座って早々だというのに立ち上がった。終了間近に到着して、試合も見ずに携帯をいじって、それでもう帰るんだ、何をしに来たんだろう。まぁ、私も人のこと言えないくらい何をしに来たか分からないんだけど。
元々少なかった観客はどんどん減っていき、私は最後の一人になるまで座ったままだった。
何て言うか、圧倒され過ぎて、見てただけなのに私はちょっと疲れていた。全然走ってもないし、日陰に座ってただけなのにね。何でだろう。
選手たちもグラウンドから出ていって、空っぽになったスタンドから空っぽになったグラウンドを眺める。
綺麗な緑は、夕焼け空に照らされている。何か、青春っぽい景色だ。
一息吐くと、私は階段を降りていって小さなスタンドの最前列に立って柵に手をかける。
こんなに近くにあるのに、柵の向こう側は遠い異世界みたいだ。私なんかは、入りたくても入れない世界。
そう思うと何だか無性に悲しくて、泣いちゃいそうになる。柵を握る手にも力がこもる。
その世界に行きたいなんて思ったことはなかった。今だって、何であんなことしてるんだろうなんて考えてた。
それでも彼らはなぜか輝いていて、理由も分からないけど憧れすら持ちそうになる。
寂しさを隠すように頭を小さく振って、グラウンドに背を向けて帰り始めた。
スタンドを出て階段を降りようとすると、折り曲げられて小さくなった背中が目に入った。何だか見覚えのある後ろ姿だ。
階段を降りるにつれ、その見覚えは確信に変わる。カズヤだ。
ユニホーム姿からジャージ姿になってるから階段の上からじゃ分からなかったけど、彼は今、なぜか分からないけどこんなところで膝を抱えている。
背中が小刻みに震えて、鼻をすする音も聞こえる。
どうしたんだろう。試合には勝ったし、活躍もしたはずなのに、何で彼は泣いているんだろう。
状況が状況なせいで何が何かも分からないまま、私は少しずつ階段を降り、彼に近づいていく。
声、かけない方がいいかな。お店のルール的にも良くはないし……っていうのは、ここに来た時点で言い訳にしかならないんだけど。こんなところに来て泣いてるってことは、カズヤも人目につきたくなかったのかもしれないし。
でも。彼の隣に並んだとき、私はそのまま黙って階段に座った。お気に入りのデニムが汚れることなんて気にもせず。
無視なんて、私にはできなかった。
理由なんて分からない。でも、そういうことって誰もが経験あるんじゃないかな。優しくしたいとか、泣いてる理由が知りたいとかじゃなくて、ただ単に放っておけなかったんだ。言ってしまえば、私のわがまま。
励ましたいから、元気になってほしいからカズヤの隣に座ったんじゃなくて、ここで私が黙って通りすぎちゃうと家に帰った私がモヤモヤしそうだから。
隣に座った私に気づいているのかいないのか、彼はまだ顔をあげようとはしない。
かける言葉も見つからない私は、彼の背中に右手を伸ばした。
寂しそうに揺れる背中を、そっと撫でる。今までもお店でカズヤの体に触れたことはあったけど、その時とは違うように感じるのは気のせいなのかな。
急に触れられて驚いたのか、カズヤは小さく頭を動かしてこちらを向いた。目は充血していて、頬は普段より痩けて見えた。
「えっ……」
驚きの呟きを漏らす彼に、私は労いの言葉を投げ掛けた。
「試合、お疲れさま。かっこよかったよ。勝って良かったね」
「いやいや……えっ……な、何で?」
泣き顔のまま、カズヤは疑問を投げ掛けてきた。まぁ、それはそうなんだけどさ。ちょっと意地悪をしてみよう。
「何が何でなのー?」
「いや、何でいるの……っていうか……」
「見に来るって言ったでしょ? 信じてなかったのー?」
「いやいやいやいや……」
やけに「いや」って言葉を使うなぁ、口癖なのかな。そんなどうでもいい感想は置いておくとして、私は彼の背中を撫でながら言葉を続けた。
「凄いね、上から見ててもカズヤってうまいんだなって思ったよ」
「いや、俺なんか全然……」
「謙遜しないでいいから。私、正直サッカーのことなんて全然分からないまま来たけど、カズヤのプレーが何ていうか……一番だった」
上手いっていう言葉が入るのか、凄いって言葉が入るのかは分からない。ただ、カズヤの姿が私の胸を揺さぶったのは事実で。
「あんなに走り回って辛そうなのに、楽しそうだなって。目が離せなかったの」
黙って私の言葉を聞く彼は、少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「あ、ありがとう」
「だから本当に、かっこよかったよ」
「いやいや……最後だって結局、ゴール決められなかったし」
「でもその前のパスに追いついたところとかさ。間に合わないと思ってたのに、スタンドも凄い盛り上がってたよ」
それはそれは、と他人事のように彼は呟いた。
「もうー! 本当だよ! カズヤはもっと自分のしたことの凄さに気づきなよー!」
「いや、だって僕、仕事できてないし。点取るためにポジション変わったのにさ……」
「でもさ、カズヤがあそこで走って追い付いて、点が入ったでしょ? 勝ったんだし、その悔しさはまた次に解消すれば良いじゃない。それに……」
そこまで言った後、何と続ければ良いか分からず言葉に詰まってしまった。
感動した? 違うよね。うーん、何て言葉を言うのが正解なんだろう。
「それに?」
言葉の続きを求められて、私の口から出てきたのはこれだった。
「また見に来たいな、って思ったよ」
「お、うちのチームのサポーターになっちゃう?」
「サポーター?」
キョトンとした表情で問い返した私に、カズヤは説明をしてくれた。
「ファンっていうか応援団っていうか……ほら、日本代表の試合だったら『VAMOS ニッポン』って歌ってたりするじゃん?」
「えー! 無理だよ無理!」
あんな少人数しかいないスタンドで、テレビで見るような応援なんて絶対無理。恥ずかしいし、そもそもサッカー自体がまだ、ろくに分かってないし。
……まだ?
「それは冗談にしても、よかったらまた見に来てよ。見てくれる人がいるって、やっぱり嬉しいしさ。うちのチームくらいだと、基本的に家族とか関係者しか見に来ないから」
そうなんだ。やっぱり、さっきスタンドにいた人たちはみんな知り合いなのかな? 楽しげに話してた人もいたし、オオタさんって名前を知っていたのもその関係だろうか。
あの美人さんは誰かの恋人なのかな。それこそ、オオタさんとかお似合いっぽいけど。
高校を卒業して最初の年は、高校の友達がお祝いしてくれた。
でも、去年は誰からも祝ってもらえなかった。大学や専門に通ってもいなければ、職場の女の子とも特に親しいわけではない。独り暮らしを始めていたから家族も連絡がなくて、寂しい誕生日だったなぁ。
ホストにハマったのには、二十歳になってお酒も飲めるようになったし、その寂しさを埋めたいって気持ちもあったのかもしれない。まあ、それがどうしたって話なんだけど。
寂しさを埋めるためにホストに通い、抜け出せなくて辛くなるなんて思ってもいなかった。
アキラも私の誕生日なんて興味を持っていないだろうし、どうせ私は今年も誰にも祝われないまま一人で歳を重ねるんだ。
別にいいんだけどさ、でもやっぱりちょっと寂しい。
どうせ誰にも祝われないなら、明日は出勤前に買い物に行こう、自分で自分にプレゼントを買ってあげよう。 アキラのお店に行くかは、仕事が終わって決めよう。
そう決心すると、私は何か欲しいものを探してファッション雑誌のページを開いた。
かなり奮発して、お高いブランドのアクセサリーを自分にプレゼントした私はご機嫌だった。
たぶん、私みたいな歳の女が持つには分不相応なブランドなんだろうけどね。いつもアキラにばかり高価なブランド品を貢いでいて、自分には安いものばかりだったから、たまには良いよね。
ウキウキした気持ちで出勤すると、今日は予約が一杯入ってた。普段はあんまり忙しくない方が嬉しいんだけど、今日は頑張ろうって気持ちになれる。指名料も稼げるしね、アクセサリーの分を稼いで、また自分にプレゼントしてあげよう。
裸になっては服を着て、裸になっては服を着てを繰り返す。まあ、誕生日だからってお仕事まで特別になる訳じゃないからね。いつも通り。
そんな感じで慌ただしく働いていると、この間の試合からそう日も経っていないのにカズヤが待っていた。
どうしたんだろう、また悩み事? まだあの日のショックを引きずっているんだろうか。
たぶん彼は、私にそういう行為をしてほしくてこのお店に来ているわけではない。
それは何となく分かっているんだけど、それじゃあ悩み事の相談なのかなって考えると、そんなに次から次へと悩んでるのかな、なんて考えちゃったりもする。
何となくしないとは分かっていても、行為をするかどうかだけは一応は確認しないといけない。冗談めいて彼に声をかけてみると、彼は紙袋を差し出して来た。
「えっ、私に?」
いや、確認しなくても私にだって分かってるんだけどさ。何でカズヤは私の誕生日を知ってるんだろう。
私の疑問に対する返事を耳にすると納得したけど、よく覚えてるなぁと感心したりもする。
カズヤが4月生まれっていうのは、お客さんの歳を覚えるためだと思って私は意識してたけど、まさか私のそれを覚えてくれているとは思っていなかった。覚えているどころか、プレゼントまで用意してくれてるとは想像したこともなかった。
誰にも祝われないと思っていた矢先、予想外の人に祝ってもらえた私は嬉しさのあまりにオーバー気味に喜んじゃった。不自然なくらい。だって、それだけ嬉しかったの。
私の誕生日が今日であることをカズヤに伝えたら、「じゃあ、良い日に来たね、僕」と笑っていた。本当にそうだよ。
それにしても、このプレゼントは一体なんだろう。何だか気になるんだけど、本人の前で開けるのは失礼だよね、たぶん。
プレゼントを確認するタイミングを失ったまま、話は進んでいく。先日のショックも少しは和らいだのか、その話は出てこなくてちょっと安心したよね。
「……あっ、それ」
私は彼の胸元を指差した。そこに飾られていたのはネックレスで、それはさっき私が買ったブランドと同じものだった。
「そのブランド、好きなの?」
「えっ?」
カズヤは急に話を変えた私についてこれなかったみたいで、何のことか分かってないみたいだ。彼の首にかけられているそれをツンツンと指先でつつきながら、私は彼に示して見せた。
「これ、ネックレス。可愛いなぁ、って」
「ああ、これ? うん、お気に入り」
「良いよねー。私も、さっき自分へのプレゼントにそこのアクセサリーを買ったんだ」
今思い出しても、嬉しくてちょっとにやけそうなくらいだ。
「えー、いいなー。僕はあれだよ、去年二十歳になったときに、ずっと使える良いものを買おうと思ってバイト代を貯めて買っただけだから。だから、気合い入れたい時に付ける勝負アクセサリー……みたいな?」
「じゃあ、今日は気合い入ってるの?」
「たぶん?」
何それーって突っ込むと、彼も何だか恥ずかしそうに笑った。
そっか、やっぱり私たちくらいの歳だと、そんなに簡単に買えるものじゃないんだよね。
私にしてみれば高価とはいえ、何だかんだこのお店で働いてアキラに貢がなければ普通に手が届くくらいの額でも、カズヤにとってはお金を貯めて買うものだし。
私がこのお店で働いて得たものは、お金と狂った金銭感覚なのかもしれない。
そこから、カズヤの好きなファッションの話とか、逆に私のお気に入りのブランドの話なんかをしていると終了時間になった。
「本当に……ありがとね!」
彼を出口まで送ったあと、紙袋を抱えて私は彼にお礼を告げた。
カズヤは「大したものじゃないから」なんて言うから、私は軽く叩いちゃったよ。大したものだろうがそうでなかろうが、私にとっては大事な大事なプレゼントだ。
早く仕事が終わらないかなぁ、紙袋の中には何が入ってるんだろう。
カズヤが来る前以上に浮かれて、私はお仕事を終えた。すぐにでも中を確認したい気持ちでいっぱいだったんだけど、何となくお店でそれを開けるのは勿体ない気がした私は一度家に帰ることにした。
ちょっと大きな紙袋。でも、中身はそんなに重たくない。
家に帰りつくや否や、私はテーブルの上に置いた紙袋を閉じているシールを剥がした。
「……うわぁ……」
中に入っていたのは、ストローハット。俗にいう麦わら帽子だった。お洒落な雰囲気なのをチョイスしてるのはさすがだけど、何でカズヤはこれを選んだんだろう。
それを被って姿見で確認すると、ちょっと良い感じ。今日買ったアクセサリーにも合うかもしれない。
いつまでも部屋の中で被ったままでいるのも変な気がして、名残惜しさを感じつつもそれを紙袋に入れようとする。袋を開き、帽子を手に持ったところで、私は底に残っていた封筒の存在に気がついた。
表面には『ゆうちゃんへ』という文字。裏面のシールを丁寧に剥ぎ、中身を確認する。
僕なんかに手紙を渡されても困ると思うから、あれだったら捨ててください。
この間は本当にありがとう。お世話になりました。何て言うか、ゆうちゃんに話を聞いてもらえて本当に楽になりました……っていうのは、初めて来たときからいつもなんだけど。
6月に誕生日だって言ってたから、何かお礼にプレゼントと思って、これにしました。「また見に来たい」って言ってくれたのが本当なら、これから暑い日が続くし、熱中症対策にも?被ってもらえたら嬉しいです。
安物だし、趣味じゃなかったら捨てて。ごめん。
気持ち悪いこと書くけど、ゆうちゃんに会えて本当に良かったです。変な気持ち悪い客だって思ってるかもしれないけど、でも、僕は本当に色々と救われました。
良い一年にしてね。本当に、おめでとう!
「……律儀だなぁ」
手紙を読みながら、つい苦笑いしてそんなに感想が漏れた。
そんなに遠慮気味に言わなくても、カズヤのことを気持ち悪いお客さんだと思ったこともなければ迷惑だなんてとんでもない。ただ、変な人とは最初に思ったけどね。
何て言うか、カズヤは一生懸命なんだと思う。手紙もそうだし、プレゼントだってそう。私の「また見に来たい」って言葉を覚えてこのハットを探してくれたんだろうし、かといって押し付けじゃなくて手紙でそういう風に説明してくれたり、メッセージをくれたり。初々しいっていうよりは、一生懸命。
ただ高価なアクセサリーをアキラに貢いで喜ばせようとする私とは大違いだ。金額じゃないもんね、プレゼントって。
カズヤは私の好きなブランドも知らなければ、手紙にも書いてたみたいに、私が自分で買ったブランドのアクセサリーみたいに高価なものでもないんだとは思う。
それでも、カズヤからのプレゼントは私の胸を揺さぶる。それはきっと、言葉にするなら感動というもの。
人の暖かさに、久しぶりに触れた気がする。
アキラと体を重ねているときにも感じたことのない暖かさ。私自身、もう長い間忘れていた気がする。
帽子を片付けるのが何だか急にもったいなくなって、それをカラーボックスの上に飾ることにした。
うん、可愛い。
それを見てニヤけていると、私はあることを思い出す。
そういえば、アキラのお店に行かずに帰っちゃった。でも、何だか幸せだから今日は良いや。カズヤに祝ってもらえたし。
飾ったハットを眺めてにやけながら、私は自分で買ったアクセサリーも確認して幸福に浸っていた。
おかしい。
この間の試合からミユがやたらと僕に近づくようになった。元々歳が近かったり、ヒロさんの関係で仲良くはあったんだけど、ヒロさんがいない時に遊びに誘われたり、ご飯に誘われたり。それまでは基本的にはヒロさんがいるときだったのにね。
そうそうヒロさんといえば、走ってサキの前から逃げたことに関して「彼女さんが美人だったから緊張して逃げちゃいましたー、すみません」って謝ったら、「まだ彼女じゃねーよ!」と笑って許してくれた。ごめんね、ヒロさん。
話を戻すけど、そんな感じでミユはなぜか僕といることが増えてきて、ヒロさんには「カズが義弟になる日も近いな」なんて言われちゃったよ……なりませんから。
ミユのお誘いは、ご飯とか遊びには付き合うけど、さすがに僕の家に来たいっていうことは断るようにしている。彼氏に誤解されたらめんどくさいしね。まぁ、ご飯くらいならやることはやってないって分かるし許されるかなっ……ていうのは僕の個人的な感覚なんだけど。
とにかく、不自然なくらいミユは僕を誘ってくる。
まぁ、彼氏の話なんかも聞いちゃったし、ちょっとは心を開いてくれたからこそなのかもしれないけど。
とはいえ、あの後彼氏とどうなっているのかはは教えてくれないんだけどね。
ただ、「あのサッカー場にいた人、カズくんの彼女じゃないの? 本当に?」とはやたらしつこく確認するようになってきた。どうしたんだろう、一体。
プレゼントを渡してからはお店にも行けなかったし、試合会場で会うことも無かった。僕は僕でテスト勉強が忙しかったり、天皇杯予選で勝ち進んでるから練習に励んだり。ゆうちゃんは、あの言葉がリップサービスだったのかもしれないしね。一回来てくれただけでも感謝しないとね……うん。
寂しさを感じながら自分に言い聞かせて、僕は練習に向かう。
今週末はいよいよ予選の決勝だ。相手はキックスっていう、アマチュア最高峰のリーグであるJFLに所属するチーム。正直、かなり格上。
とはいえ、勝てない相手じゃない。今年は調子もよくないみたいで、JFLじゃ下位をうろついている。
キックスに勝てば、本大会に出られる。本大会に出れば、プロとも試合ができるかもしれない。
それをモチベーションに、今日も僕はボールを蹴る。
練習を終えて荷物をまとめていると、ミユに声をかけられた。
「ねね、カズくん。このあと、空いてる?」
「空いてるけど……」
僕のその返事に、周りにいたチームメイトが声をあげる。「カズも隅におけねぇなあ!」「ヒロー、妹が危ないぞ!」なんてね。いや、良い歳の大人なんだからもうちょっと落ち着きましょうよ。
「ねー、カズくんち、今日行っちゃだめ?」
「ダメ」
その即答には、ミユは口を尖らせて「何でー」と不満げだ。いや、お前も彼氏がいるならそんな簡単に一人暮らしの男の部屋に来たいとか言うなよって。でも、ヒロさんがミユの彼氏のことを知ってるかどうかは分からないから、その説明をして良いのか分からないんだけど。
「じゃあご飯いこうよー」
「まぁ……それくらいなら……」
「決まりっ! ほら、早く早く」
彼女は手を叩いて僕を急かす。チームメイトも囃し立ててくるけど、何なんだ、みんな。
お疲れさまでしたーと声をかけながら、僕たちは帰り始める。
今日は何だか天気が良くなくて、夜から雨が降るらしい。
「雨が降る前に帰りたいなぁ」
僕がそう呟くと、ミユは「カズくん、傘忘れたの? ちゃんとしなよー」なんて言いながら自慢げに折り畳み傘を見せつけてきた。
「はいはい、さっさと食べてさっさと帰ろうな」
そう言うと、僕らは帰り道のレストランに入った。ミユの彼氏の話を聞いたお店だ。
以前と同じメニューを注文して、僕らは雑談を始める。キックスに勝てるかな、とか。ヒロさんの彼女候補ことサキの話とか。ちなみに、ミユはサキが僕の元彼女だってことは知らない。
「それにしても、ヒロ兄の新彼女、可愛くて驚いちゃったよ」
「ヒロさんが言うには、『まだ彼女じゃない』らしいけど?」
「いーや、あれは付き合うね。間違いないよ。絶対そのうち付き合い始める」
絶対だよ、絶対。ミユはそう言い足して、僕に同意を求めてきた。
「……うん、そうだね。そうだと思う、付き合うと思う」
歯切れは悪くなったけど、それを認めることへの躊躇いはどんどん薄くなってきた。時間が経つにつれ、僕の暗い気持ちは薄くなっている。
理由は時間なのか、それとも他にあるのかは僕にはまだ分からないけど。
「ねぇ、カズくんは? 彼女作らないの?」
「どうした急に」
話に脈絡がないぞ。
「いや、カズくんって見た目チャラいのにそういう話をあんまり聞かないなーって」
「……僕、そんなにチャラそう?」
ゆうちゃんにも言われたし。
「チャラいよー! 髪色明るいし、長いし、アクセサリーもつけて私とチャラチャラご飯に来て! チャラい!」
「分かった、もうミユとはご飯に来ない」
「冗談だって冗談! でも、見た目はチャラいよー、うん」
そっか……ちょっとイメチェンしようかな……悩む。
「で、彼女は?」
誤魔化したつもりなのに、しっかり話を元に戻されてしまった。うーん、本当に最近は何かおかしいな。どうしたんだろう。
「前も言っただろ、いないって」
「じゃああの女の人は何ー?」
「いや、だからただの知り合い……」
その言葉に、自分でちょっと傷ついたりね。知り合いって言っちゃっていいのかな。
「ただの知り合いとあんなに密着して、背中撫でさせながら話したりするの? やっぱりチャラいよ」
ああ言えばこう言うなぁ、本当に!
「何、どうしたの。最近、ちょっとおかしいよ、ミユ。前はそんな話全然してなかったじゃん」
「おかしくないよー、カズくんに興味わいちゃっただけー」
だめー? なんて上目使いで聞いてくる。いや、ダメとは言ってないけどさ。でもやっぱり、何かおかしい。
「カズくんは私に興味ない?」
「いやー……ねぇ」
そんなこと、急に聞かれても困る。ていうか、本当にどうしたんだ、こいつ。
「無いのー? 傷ついた……」
落ち込むフリをするミユを見て、僕は本格的に心配になってきた。
何だ、こいつ、もしかして彼氏にフラレてか何かのショックでこんなテンションになってるのか? まあ、そうだとしても言われるまでは聞かないでおこう。めんどくさいしね。
「ほら、カズくん、年下の女の子が落ち込んでるんだよ。慰めてよ」
これまた、ざっくりした要求で。
「僕以外に興味持ってる人がいるから……」
「やだー、カズくんがいいのー」
何なんだ、本当に。今日はいつにも増して、変なテンションになってる。
「ほら、もう良い時間だし、帰ろう」
声をかけると、ミユは駄々をこねるような声で「もうー? 早いよー、まだ大丈夫だよー」と言ってくる。いやいや、あんまり遅いとヒロさんも心配するだろうしね、ご家族も。
嫌々言いながら、ミユはバッグを手に持ち支度を始めた。
お会計を済ませてドアを開けると、軽く雨が降り始めていた。しまった、遅かったか。
お店の人が傘を貸そうかと声をかけてくれたけど、このくらいならどうにかなりそうだ。お礼を伝えながら断って、僕達はレストランを後にした。
「カズくん、相合い傘したかったから借りなかったんでしょ?」なんて調子の良いことを言ってくるから、ミユの頭を軽く叩いてやった。全く、どうしたっていうんだ。
「痛いよー、カズくんに叩かれたー、DVだよ、DV」
「誰がDVだよ、誰が」
「傷物にされちゃった……責任とらせてやる……」
そんな、下らないやり取りをしながら僕たちは駅へ向かう。
練習場は少し外れた場所にあるから、駅までは少し距離があって。帰り道にはアパレル系のお店の通りがあったり、ホテル街があったりもする。ごちゃごちゃした町だよなぁ。レストランも結構練習場寄りのところだから、駅まではまだ長い。
二人でダラダラ話しながら歩いていると、少しずつ雨足が強くなってきた。しまった、素直に甘えて傘を借りるべきだったかな。
足取りを速めても、駅に着く前に雨は本降りになりそうな気配を感じているんだけど、今更どうしようもないし……コンビニでビニール傘を買うのは負けた気がして嫌だし。
「雨、強くなったね」
傘を開いているミユは、他人事のようにそう呟いた。
「……入る?」
「いいって、折り畳みなんだから二人も入れないだろ」
その返事には小さく「つまんないのー」なんて愚痴をこぼされながら、二人で並んで歩く。
話すだけ話したからか、少し沈黙。その分、雨が地面を叩く音が耳に入ってきて、それがどんどん強くなってきた。
それはとうとう僕も耐えられないくらいになって、駅に向かって走りながら、雨宿りできそうなところを探す。
びしょびしょになった服の裾を扇ぎながら、雨の様子を見る。
強いなぁ、しばらくはやみそうにない。
どうしたものかと考えていると、後ろからひょこひょこと歩くミユが追い付いてきた。
「うわー、大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
傘を持っていたミユはそこまで被害がないみたいだけど、僕は結構やられてしまった。一度家に帰って練習に向かったから、教科書とかプリントみたいに雨に負けそうなものが少ないのがせめてもの救い。
ため息をつきながら雨がやむのを待っていると、後ろから「すいません」と男女二人組に声をかけられた。
うわっしまった、ここ、ホテルの出入り口か……ミスったなぁ。
傘をさす彼らに道を譲りながら、僕はここに逃げ込んだことを少し後悔する。
「入っちゃう?」
顔をミユに向けると、彼女はホテルのドアを指差している。
何言ってるんだ、こいつ。
「お前、いい加減に……」
「だってさ、雨やまないと思うよ。カズくん、傘ないでしょ。それに、そんな濡れてたら電車にだって乗れないよ。どうするつもりなの?」
そこまで言われると、少し言葉に詰まる。
「……それは駅についてから考えるけどさ」
「ここで入った方が絶対良いと思うんだけどなぁ。風邪引いちゃったら、週末の試合に響くよ?」
「いや、だから入らないって」
「そんなに私と一緒に入るのは嫌だ?」
「いや、だからそういう話じゃ……」
「じゃあ良いじゃん、入ろうよ。私だってこんな雨のなか歩きたくないよ」
「本当に最近どうした? 大丈夫?」
「私はいたって普通だよ、大丈夫」
いや、普通じゃないから……って言っても認めようとはしないんだろうな、たぶん。
「いや、お前、やろうとしてること、彼氏と同じことじゃん。それ分かってるの?」
言って良いのか分からなかった、と言うか、たぶん言っちゃダメなことなんだろうけど、僕はそれを口にしてしまった。
だって、こうでも言わないと入ると言うまでここで口論をすることになは気がしたから。
僕の言葉を聞いたミユは、表情を曇らせて俯いた。
言の刃を向けてしまったことを悪いとは思うけど、でもこう言う以外にミユを止める方法も思い付かなくて。ごめん。
しばらく黙っていたミユは、顔をあげて僕を見た。目を合わせて、決意を込めた目線だ。
「そんなこと、分かってるよ」
「じゃあ何で……」
「分かってるけど、傷つけられた私はどうすれば良いの? 傷ついただけで、それで終わりなの?」
「どうすればって……」
何で、今なんだろう。
いや、タイミングの問題じゃないのかもしれないけどさ。ほら、前に僕に話してきたタイミングでだったら、浮気されたショックでって分かる。
でも、あの時は割と冷静に辛さを処理できていたように思える。あれからしばらく経っているのに、何で今更。
「何で私だけなの。ねぇ、カズくん、教えてよ」
そんなこと、僕に言われても困る。困るけど、それを言葉にすることも僕には出来なかった。
「そんなに私って魅力がない? すぐに浮気されるほど、私から誘ってもエッチしたいとは思えないほど魅力がないの? ねぇ!」
そう叫ぶ彼女の目は雨以外の何かで濡れていて。
傘をさして歩いてる人たちは、ホテルの前で立って口論をする僕たちを好奇の目で見ながら通りすぎる。たぶん、痴情のもつれか何かに見られているんだろうな。
「そんなことは……」
実際、ミユは可愛い子だと思う。気さくで、マネージャーとしても気が利くし、顔だって愛嬌があって可愛らしいって感じで、少なくとも嫌われるような子ではない。
でも、だからと言って僕が彼女を抱くことはたぶんできない。
「……」
沈黙を回答にすることしか、僕には出来なかった。
「……もういいっ、帰るっ! カズくんの、バカ!」
その言葉を残して、ミユは走って僕の前から消えてしまった。
ホテルの前で立ち尽くして、僕は彼女の背中を目で追いかける。
それしか、僕には出来なかった。
あの日のミユとの気まずさは無くならないまま、僕たちは天皇杯予選決勝、キックス戦を迎えた。
あれから二回開かれた練習で会っても特に会話もなくて、チームメイトも「痴話喧嘩かー?」なんておちょくってくるけど、ミユはそれにも反応しない。僕は「そんなんじゃないっす」ってヘラヘラ誤魔化しといた。
あの日から降ってはやみを繰り返していたけど、空は今日も雨模様。
芝のピッチは少し重たくなっていて、ヘビーな試合になりそうだ。幸い、アップをしてみた感じでは水溜まりはまだ出来てないみたいだけど。
それに、雨っていうのはある意味で都合が良い。格上に挑むのに、不確定要素は多ければ多いほど良いからね。
蒸し暑さを感じながら、ステップを踏んで僕は体を暖める。
右サイドバックでスタメンとなった僕は円陣を終えてポジションにつき、ヤマさんがミーティングで話していたゲームプランを頭のなかで繰り返す。
前半は、基本的にディフェンシブに試合に入って無失点で乗りきる。そして、後半になって相手が焦ってきたところで隙を狙ってカウンター。言ってしまえば、弱者の兵法だ。
審判が笛を吹いて試合が始まる。
相手チームのキックオフで始まると、僕の方にロングボールが飛んできた。キックオフ後のロングボールはそんなに珍しいことではないけど、今日は雨だということもあってかこういう蹴り合いが増えそうだ。
そのボールをトラップすると、プレッシャーをかけに来た相手選手が視界に入ったのですぐに蹴り返す。セーフティーなプレーをしないと、こういう日は本当に危ない。
予想通りの大味な展開で、試合はどんどん進んでいく。お互いに中盤をほとんど省略して、前へ前へロングボール。そのこぼれ球を誰がとるか。そんな試合。
たぶん見てる人は退屈なんだろうけど、やってる方はなかなかヘビーなんだよね、こういう試合って。
内容はつまらなくても、時間は着々と流れていく。このまま前半を無失点でいけたら、僕らにも勝機はある。
僕とマッチアップすることの多かった左サイドの相手選手は、リスクを負いたくないのかなかなか勝負を仕掛けてこない。僕も人のことは言えないけどね。
実力的にキックスの中ではそんなに上手いわけではないのか、彼には一対一の局面では今のところほとんど負けていない。
試合は膠着状態に陥って、お互いにロングボールを蹴ってもシュートまでは結び付かないことが増えてきた。いいぞ、このままだ。
そんな油断が良くなかった。
ボールを受けた僕がセンターバックへ出した横パスは、試合中に出来てしまった水溜まりで止まってしまった。
それを狙っていたキックスのフォワードはボールを拾い、そのままゴールに向かってドリブルを始める。
慌てて僕もセンターバックも戻るけど、相手は独走でキーパーと一対一を迎えた。コースを狙うシュートではボールが止まる可能性を恐れたのか、飛び出しているキーパーもお構いなしに思い切り右足を振り抜かれた。
カァン! と、乾いた音が鳴って、ボールはゴールの外に弾かれた。
危ない……ゴールポストに助けられた。
「カズー! パス速度気を付けろ!」
前にポジションを取っていたヒロさんからは叫び声が聞こえてくる。僕もそれに右手を上げて了解と表した。
本当に、雨の日は何が起きるか分からない。
ほっとしたのも束の間、ゴールキックを拾ったキックスは、逆サイドから崩しにかかった。雨で止まらないように少し浮いたボールでパスを回し、スルーパスを通される。
うちのチームのセンターバックが一枚釣りだされてしまい、ゴール前にはもう一人のセンターバックと僕しかいない。相手はフォワード二人に右サイドの選手の三人。
ふわりと浮かせられたクロスは、相手チームの長身フォワードにぴったりと合っていた。
競り合いにいったセンターバックも、綺麗に点と点が線で結ばれたようなそのボールには触れることができなくて。
前半34分、キックスが先制ゴールを決めた。
その後は、勢いに乗ったキックスが試合のイニシアチブを握った。
僕たちは防戦一方になりながらも、どうにかゴール前で跳ね返し続ける。とてもじゃないが、カウンターなんて狙えそうもない。
ロングボールどころか、クリアすらままならぬまま、前半終了の笛を待つ。
くそっ、まだ鳴らないのかよ!
無失点に抑えていたからと動いていた足も、徐々に疲れを実感しつつある。サッカーはメンタルのスポーツって本当だね。
とにかく相手がボールをもったらすぐにプレッシャー、パスをされたらポジションを取り直してっていうのを繰り返し、勝ちの目なんて見えない試合は時間が流れる。
嫌な時間は永遠にも思えて、でも永遠なんてものは現実にはあり得なくて。何度目か分からないキックスのシュートが枠を外れたとき、神の笛が鳴らされて前半が終わった。
ハーフタイムのベンチでは、皆声を出す余裕もないくらい疲れている。晴れてると暑さで体力がなくなるんだけど、今回は雨のぬかるみだけでなく、精神的にもキツイ。
ヤマさんは「まだ一失点だ、いけるいける!」と根拠は無いけど前向きな声を出している。
「どうやって相手を崩すかが問題だよ」
「いや、こんなピッチじゃ崩すにも崩せないよ……パスも止まりやすくなってきたし……」
他のチームメイトもこの調子だ。八方塞がりとは認めたくないけど、現状ではどうやってて点を取りに行くかの案も出せない。
ピッチ中央付近は水溜まりが増えてきてる。サイドはともかく、真ん中の選手はパスを出すのも一苦労って感じ。
「カズ、お前の対面どうだった?」
その声をかけてきたのはヒロさんだった。
「7番っすか? いや、仕掛けてこないから何とも……でも、他の選手ほどじゃないかも」
「だよな、お前のサイドで危なくなったのは、パスが雨で止まったあのシーンだけだし……」
少し考える間をおいて、ヒロさんは全体に呼び掛けた。
「後半、右サイドを起点にしましょう。雨で真ん中は使えない。それに、カズの対面の選手は正直キックスの穴だ。狙わない手はない」
ヤマさんの方を見て、ヒロさんは「どうですか?」と確認を取る。
試合前のゲームプランが壊れた今、藁にもすがる気持ちなのだろう。ヤマさんはそれに頷き、チームメイトも同意した。
審判が選手をピッチへ呼び戻す笛が鳴り、僕たちは雨の中へ戻っていく。
この試合に勝てなければ、先はない。それなら勝つしかない。
そんなシンプルなことだけを考えて、僕はポジションへついた。今度はスタンドに近いサイドで、ベンチの選手からの声もよく聞こえる。
雨が降り続くピッチの上で、強い音が響いた。
後半が始まってしばらく経つと、僕は小さな自信を持ちつつあった。
ハーフタイムを挟んだおかげか、相手チームの勢いは落ち着いている。加えて、カズさんの「相手の7番は穴」という発言が正しかったのか、今のところ彼にボールを取られる気はしない。
ドリブルを仕掛けてないから、奪われようがないっていうのもあるけどね。こんな雨では、下手にドリブルをして奪われてしまうのは怖い。穴とはいえ、格上のチームでの話だしね。
ハーフタイムでの立て直しが利いたのか、少しずつ、僕たちも攻めの形を作れるようになった。相変わらずロングボールがメインのつまらない形ではあるけど。
少しずつ7番を押し込んで、僕が高いポジションを取れるようになってきた。悪くない流れだけど、時間を考えるとそろそろ同点にはしておきたい。
中盤を省略したロングボールをうちのセンターバックが怪って、競り合いから零れたボールをヒロさんが拾った。
今だ!
予選の最初の試合だったかな、ヒロさんがボールを持ったら前に走り出せってやつ。それを今、僕はしている。
全力で右のライン際を走り、ヒロさんからのパスを呼び込む。
低いライナーで僕の走る先へドンピシャのパスが届けられた。さすがヒロさん。
ゴール前を確認すると、7番に追い付かれる前にクロスを上げた。
後半が始まってからはずっと僕のサイド、右サイドをメインに使っていた。必然的に相手もこっちに人数を割くことになり、ゴール前にもディフェンダーは固まっている。
じゃあ、空いているのは? 簡単な問題だよね、逆にある左サイドの選手だ。
僕の蹴ったボールは人の密集していたゴール前を飛び越して、逆サイドの仲間へと届けられる。
雨の中、転がったボールは止まってしまうかもしれないけど、浮いたボールなら綺麗にミートすればそれだけで飛ぶ。
ダイレクトで合わせるのは難しいけど、彼は見事に押さえられたボレーを放った。
それは美しささえ感じられる弾道で間隙を縫い、ゴールネットへ突き刺さった。
退屈な試合展開から生まれたビューティフルゴールに、雨の中でもこんな試合を見に来るような物好きな観客たちは歓声をあげる。
今のボレーは、たぶん10回に3回成功するかどうかの偶然だ。まぁ、決まったっていうことが一番大事なんだけどさ。
喜びを爆発させるチームメイトを見ながら、僕はスタンドに設置されている時計を確認する。サッカー用のデジタル時計がない競技場だから、アナログ時計だし大体の残り時間しか分からないんだけど。
あと20分か、このまま勢いに乗れたらいける、勝てる!
そのまま目を離し、ゴールを決めた殊勲者にハイタッチで称えようと彼のところに向かおうととして、見覚えがあるものが目に入った。
あれ、あのハットって。
こんな雨の中、帽子を被っている人なんてそうそういない。
「ははっ」
何だろう、嬉しい気持ちになって、同点の喜びだけじゃなくてにやけちゃったよ。
試合が再開されると、相手の動揺は手に取るように分かった。ロングボールの精度は落ちてるし、そのこぼれ球への反応も悪い。
前半の失点後の僕たちみたいだ。一番の違いは、たぶん彼らが僕たちより格上だということ。焦りは僕たちよりかなり強いはずだ。
その一方で、うちのチームは勢いに乗っている。ハーフタイムでの作戦変更がハマったという事実も、僕たちにある種の自信を与えてくれた。
イケイケムードでシュート放ち、キックスがそれを防ぐ時間が始まった。
とはいえ、さすがはJFLのチームと言うべきか、最後の最後でしっかりと蓋をしてくる。シュートは打てても得点まではなかなか結び付かない。
延長に入れば、さすがに相手も立て直してくるだろう。そうなると、地力で勝るキックスが有利になってしまう。
かなり高いポジションを取っていた僕は、ヒロさんから横パスを受け取った。中盤の右サイドの選手は、ほとんどフォワードみたいなポジションを取っている。
目の前には7番が立つ。
今までは、僕は雨だからといって安全なプレーを心がけて仕掛けずにパスで逃げていた。
でも、ここでそれをするのが本当に賢いプレーなのか?
本能としか言えない
気づいたときには、僕は7番に向かってドリブルで勝負を仕掛けていた。
カズヤから貰ったプレゼントは、中々使うタイミングが無かった。
いや、被りたいとはいつも思ってたよ。でもさ、折角なら試合を見に行く日に使いたいじゃない。
カズヤのチームのことは、あの後インターネットでサッカー協会のホームページを見て試合結果は追っていた。次の会場とか時間も掲載されていたんだけど、お仕事が入ってなかなかい行くことは出来なかったんだけどね。
カズヤもあの日からお店に来なくなって、何かちょっと寂しさを感じていた。
その寂しさを埋めたかったのかな、アキラに会いに行っちゃったの。彼も何かイライラしてたのかな、珍しくプレゼントも持ってない私を抱いた。ホテル代は私持ちだったけどね。
良くないことだって本当に分かってるし、変わりたいって気持ちも本当だ。それでも、やっぱり変われないくらい私はクズ。
雨模様の天気と同じで、私は私に嫌気がさしていた。いつものことって言えば、いつものことなんだけどね。
でも、カズヤたちの試合結果をみていると、何だか胸が晴れるんだよね。
「あっ、また勝ってる!」「もう準決勝かー」なんてね。関係者でも何でもないのに、何でだろう。
何だかその言葉に特殊な響きを感じて、私は決勝戦の日はお休みをもらうことにした。カズヤたちが決勝に残れるかも分からないのにね。
不思議なことに、私は彼らが決勝に残ると心の底から信じていた。理由なんて分からないけど、でも、本当に。
そんな私の期待通りと言うべきか、カズヤたちは決勝まで勝ち進んだ。
それがどれくらい難しいことなのかは分からないけど、とりあえず決勝戦ってだけで何だか凄いんだろうなってことは分かる。
久しぶりに見に行けるという期待と裏腹に、雨模様の天気は続いていた。当日の朝も、天気は良くない。
こんな雨の中で帽子を下ろすのはどうかと思ったんだけど、いよいよ行けるということで、我慢できなくなってそれも頭に被っちゃった。
歩いて行くかタクシーで行くか悩んだけど、歩いてみることにした。カズヤたちは雨でも傘も ささずに走るんだし、少しくらい私も歩いておこう。
そんな風に考えた自分に自分で驚きもしたんだけどね。カズヤに会う前の私なら、「タクシーに乗るお金くらい持ってるのに、乗らないはずがない」と思っていただろう。
会場に着くと、ちょうど試合が始まる頃だったみたい。スタンドの雨が振り込まない席を見つけて、私はそこに座った。
グラウンドの上で選手が丸くなっていて、声をあげたあとに散らばっていく。カズヤはスタンドとは逆に向かっていった。
試合が始まると、ボールの蹴り合いが始まった。前の試合だったらオオタさんがドリブルをしたり、カズヤが前にいったりしてたんだけど、今日はそんなこともない。
ポーンってボールが飛んでいって、ドンってヘディングをして、そのボールを拾ったら攻められる。相手に拾われたらそれが入れ替わるって感じ。
カズヤたちのチームはどっちかって言うと攻め負けてるのかな。相手チームが長いボールを蹴る回数が多く思える。
でも、点に動きもないし、試合展開も同じことの繰り返しで退屈になりかけていた時に、カズヤのパスが水溜まりで止まった。
「危ないっ」
口にするつもりはなかったのに、いつの間にかそれは声になっていた。
幸い、相手がシュートを外してくれたけど自分が何か失敗をしてしまったかのように焦っちゃった。
オオタさんがカズヤを注意する声が聞こえてきて、私もそれに心の中で同意した。危ないよ、本当に!
同点になると、それまで以上にカズヤたちのチームは攻勢に出た。目に見えない流れっていうものがあるのなら、今、彼らはそれに乗っている。
シュートを打って、跳ね返されたボールを拾ってまたシュート。前半とは立場が逆になったように、弾丸の雨を浴びさせる。
でも、それはどうしてもゴールまでは辿り着けなくて。やっぱり前半みたいに、相手チームも踏ん張りを見せてくる。
後半終了まで点が入らなかったら引き分け? それとも延長とかあるのかな。決勝だから、白黒つけないわけにはいかないよね。
シュートを打っても入らないストレスは、私に無力さを痛感させる。あとちょっとなのに、そのちょっとをどうにかする力が私にはない。
残り時間が5分くらいになった時、カズヤがパスを受けた。いつもはそこからすぐにゴール前に浮いたパスを入れているのに、今回は何だか雰囲気が違う。
中に向かってドリブルを始めようとして、相手の7番も少し遅れてそれについてくる。この試合で初めてのドリブルは7番にも予想外だったのか、対応がぎこちない。
中央は水溜まりで蹴りづらそうなのに、何であっちに向かって、ドリブルで勝負をしかけるの?
私のその疑問を嘲笑うように、カズヤは右足の外側の面ででボールを軽く触って今度は外に逃げる。
上手いっ!
雨で滑るグラウンドで、急な切り返しに対応出来なかった7番はカズヤを見送るだけ。
右サイドはまだどうにかドリブルはできそうな状態で、彼はそのまま深く、深く突き進んでいく。雨の中に吹く風みたいに、その姿は力強く見える。
我慢できなくなったのか、ゴール前を固めていたディフェンダーがカズヤに向かって走り出した。
それを視界に入れると、カズヤは同点弾のふんわりしたボールとは真逆の、ゴロではないけど低くて速いパスをゴール前に向かって思いきり蹴った。
それはゴール前でワンバウンドすると、濡れた芝に触れたからかな、つるっと滑って速度が変わった。
ごちゃごちゃになったゴール前で、その変化は対応しづらかったみたいだ。
守るために人数をかけていたゴール前で、相手チームの選手の足に当たったそれはゴールに向かっていく。
キーパーも、味方に当たったボールは予想外みたいで対応が遅れた。
決してカッコいいシュートではなかった。というか、シュートですらないんだろうけど。
カズヤのゴール前に蹴ったボールは、ネットを弱く、それでも確実に揺らした。
「やったぁ!」
気づいた時には立ち上がって、私は大きな声をあげていた。黙りになっちゃった相手チームのサポーターとは正反対にね。
何だろ、今までならこんな風に喜ぶことなんてなかった。ゴールが決まったからといって私が何かあるわけではない。でもそんなことなんて関係なく、私は喜んでいる。
芝の上ではカズヤがチームメイトに囲まれて、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
何で彼は、あんなに急にドリブルを始めたんだろう。
それまではすぐにパスをして、自分で勝負を仕掛けることなんてなかった。なのに、さっきはいきなり挑んで、そして結果に結びつけた。
そこに何かの意図があったのか、たまたまやってみてたまたま上手くいったのかは、私には分からない。
でも、勝負を仕掛けなければ今の喜びはなかったわけで。
胸の底から、いつかもあった熱を感じてる。それは前よりも強くて、そして私にある種の衝動を焚き付ける。
勝負をしなければ状況を変えることはできない。当たり前のことを、今更教えられた気がする。
変わりたいけど変われないっていうのは、私が勝負を仕掛けていないからなのかな。寂しいからアキラと寝るとか、貢ぐとか。それは結局現状維持でしかなくて、行動としては何も変えることはできてない。
特別なことは何もない、アマチュアサッカーのただの1プレー。
それが私に与えた衝動は、計り知れない。
変わるためには、私が動かないといけない。きっかけを待ってるのじゃダメなんだ。
立ち上がったまま、呆けてそんなことを考えていると、周囲の視線を感じて慌てて座る。
そういえば大きい声も出しちゃったんだ、恥ずかしい。
グラウンドに視線を戻せば、カズヤたちも試合再開のためにポジションにつこうとしているところだった。
彼がこっちを見てる気がするのは自意識過剰なのかな。彼は私の方を見たまま自分の頭のあたりを指差して、そのまま右手を突き上げた。
……あっ、帽子? じゃあ、あれは私に?
恥ずかしさなのか何なのか、私は顔が赤くなるのを感じる。でも何だか、嫌じゃない。
試合が再開するけど残り時間はあと僅か。チームの勢いも、得点数も、カズヤたちは相手を圧倒していて。
数分の後、彼らの優勝を伝える笛が響いた。
カズヤたちは喜びのあまりに雨の中を走り回り、相手チームは項垂れたり、グラウンドに倒れてしまったり。
こんなに喜んだり悔しがったりできるほど夢中になれるものがあるのって、何だか羨ましいな。
彼らがサッカーをする理由、好きな理由なんて私には分からない。
でも、少なくとも「これが好き!」と言えるものが思い当たらない私には、彼らはとても輝いて見えた。
服とかカフェとかは好きなんだけど、それも流行りに乗っかっているだけだし。流行りが変われば、私はそれまでに好きだと思っていたものへの興味も無くしてしまう。
彼らのそれは何だかそういう好きとは別次元のものに思えて、自分を恥じそうにすらなる。
好きなものって、どうしたらできるんだろ。
選手たちはぐちゃぐちゃのグラウンドで整列をして、スタンドに向かって礼をした。その直後、ベンチに座っていたカズヤのチームメイトたちも走ってその列に向かっていく。
歓喜の輪が再び作られて、みんな抱き合って喜んでいる。スタンドにいる人たちも、拍手で彼らを称える。もちろん私も。
しばらくして、カズヤはその輪から外れて小走りでスタンドに近づいてきた。
関係者っぽい人たちは「カズー、最高ー!」「カズくんかっこよかったよー!」なんて叫んでいる。今日の主役は間違いなく彼だったし、当然だよね。
彼らに「ありがとうございます! 本戦も応援お願いします!」って返事をしながら、カズヤはこちらに向かってくる。本戦……って何だろう。
私は傘を開いてスタンドの最前列へ向かう。カズヤも私の方を見上げていて、目があった。
「帽子、被ってくれたんだ」
二点目が決まった直後みたいに頭を指しながら、彼は言った。私は頷いて、大きな声で返す。
「かっこよかった! 優勝おめでとう!」
その言葉を耳にすると、カズヤは少し恥ずかしそうに俯いて、ありがとうと返事をくれた。
何かお互いに恥ずかしくなって、少し沈黙が起きてたら、カズヤを呼ぶ声が聞こえた。あ、オオタさんだ。
「ちょっと待って、時間あるなら待っててくれたら、後でそっちに行く!」
その言葉を残して、カズヤはオオタさんに向かっていった。
二人は仲良さそうに話しながらベンチに向かう……と思ったら、オオタさんが振り替えってこちらに手を振ってきた。私が小さく振り替えしてみると、カズヤが彼を肘で軽く小突いて笑いながら再びあちらに進んでいく。
仲良いなぁ、本当に兄弟みたい。でも、あの様子なら元カノの件で気まずいとかじゃないみたい。良かった。
その奥から、表情はよく見えないけどマネージャーの女の子がこちらを見ているから、ペコリと頭を下げてみた。
反応は無かったから、私を見てるわけじゃないのかもしれないけどね。
後で来るって言葉を信じて私は再び雨の振り込まない席に戻ったんだけど、カズヤのチームの関係者っぽい人からすごい話しかけられちゃった。
「カズくんとはどんな関係なんですか?」
「彼女?」
「サッカー好きなの?」
大体は、そんな感じで。
どんな関係かって聞かれたら、返事に困っちゃうよね。風俗嬢とお客さん……今となっては、そんな関係では無い気がする。友達? それも何だか違うよね。
「ちょっとした知り合いです」としか、私には言えなかった。その言葉に自分でちょっと傷ついたんだけどね。
サッカーが好きかと聞かれたら、それも少し返事に困る。カズヤの応援は楽しかったけど、それ以外の試合を見たこともない私にしてみれば、サッカーが好きなのかどうかもよく分からないし。
何だか中途半端に色々とぼかした返事しかできない私を、彼らは暖かい目で見てる。どうしたんだろう、一体。
ベンチでは引き上げる準備が始まっていて、私に話しかけていた人たちも、彼らに会いに行く準備を始めた。
「待つんじゃなくて、カズくんのとこまで行きなよー」
そんな風に勧められもしたんだけど、さすがに私がカズヤに声をかけに行くのは何だか図々しい気がした。
どうしようかな、でもあの言葉が本当なら出向かせるのも悪いよね……うーん。
そんな風に悩んでいると、ユニホームからジャージ姿になったカズヤが階段から現
れた。
「お早い到着で」
「カズー、色気づいてんじゃねぇぞー」
そんな風に茶化しながら、関係者の人たちはカズヤとは入れ替わりで階段を下りていく。
カズヤはカズヤで顔を赤くして「そんなのじゃないっすから!」なんて返事をしてる。そっか、そんなのじゃないよね。
試合に負けた相手の応援団は早々に帰り支度をして出ていってたし、スタンドには私たちしかいない。何か、少し緊張する。
何て言おう、何を伝えよう。
感動した? おめでとう? かっこよかった?
言葉を探して黙ってしまった私に、彼は言葉を投げかけた。
「ありがとう」
「えっ?」
何が? と言葉を続けると、彼は笑って返事をした。
「いや、見に来てくれて。試合中に気づいてさ、嬉しかったよ、本当に」
「あ、もしかして同点に追い付いた時?」
「そうそう、時計見ようと思ったらさ、こんな雨なのにハット被ってると思って」
思い出し笑いみたいに笑うカズヤに、私は不機嫌な顔を作って反論する。
「だって、せっかくプレゼントしてくれたんだから被りたかったもん。試合見に行くまで我慢しようと思って、やっと来れたから」
その後、ふざけ半分で「似合う?」と帽子の鍔を手にして見せた。
「うん、似合う似合う」
「何それ、適当じゃない? 」
本当にー、と彼は必死に弁明するから何だか可愛く思えて、ついからかいたくなっちゃった。
「本当に似合う? 可愛い?」
首を上下に動かす彼を見て、言葉を続けた。
「じゃあ、元カノと私はどっちが可愛い?」
「そんなのゆうちゃんに決まってるじゃん」
「えっ」
どうせカズヤは焦ってしどろもどろになると思い、「冗談だよー」なんて誤魔化すつもりだった私は、その不意打ちの言葉に反応できなかった。
顔を赤くして、「そっか……あ、ありがとう」なんて返事をするのが精一杯で、逆に私が恥ずかしくなった。でも、嬉しいのは隠せなくて、つい笑みがこぼれちゃいそう。
気まずくはない沈黙が流れているとき、階段から足音が聞こえてきた。そちらを見ると、マネージャーらしき彼女。
「いい加減にしなさいよ!」
そう叫ぶと、彼女は私のもとにむかって走ってきて。
「人の彼氏とヤっといて、カズくんまで手を出そうとしてんじゃないわよ!」
その言葉が聞こえた瞬間、私の左頬は彼女の右手に弾かれていた。
私の彼氏は女癖が悪いって有名だった。
でも、顔も良いし友達としては悪い人じゃなかったし、付き合おうと言われたときも断る理由は見つからなかった。
でも、楽しい時間はすぐに終わる。
浮気されるのって本当に辛かった。私に魅力がないって言われているようなものだもん。
最初の浮気は許したくはなくても、特に指摘はできなかった。
そういう可能性があることを考えての付き合いだったし、カズくんに話を聞いてもらえたから少しは楽になれた。
でも、だからといって何かが解決したわけではない。
それはあくまで私が傷つくきっかけであっただけで、悪夢はそれからも続いた。
彼から漂う女の香りに、私は悪酔いしていた。
最初は嫌な気持ちだったのに、徐々にそれにはなれていって、むしろ『彼氏に浮気されて可哀想な私』であることに心地よさすら感じつつあった。
カズくんだって、微妙に気を使ってくれるし。
その優しさに甘えちゃった私は、彼に依存していく。
たまにいるでしょ、彼氏がいるくせに男友達といつも一緒にいるような子。あんな子達の気持ちが、今の私にはよく分かる。
彼氏には認められなくても、カズくんは私のことを認めてはくれなくても否定もしない。それはぬるま湯みたいなものなんだけど、だからこそ抜け出ることもできない。
彼氏からも抜けられず、カズくんからも抜けられず。
気持ちの悪い湯加減に、私は中毒のように沈んでいく。
天皇杯予選が近づくと、チームの練習日も増えたりして彼氏と会う日が減って、逆にカズくんに会う日も増えた。
そうなると、私はどんどんカズくんへの異存が増していって、逆に彼氏も他の女と遊びに耽る。そしてそれに対する苛立ちで、カズくんへの異存が更に強くなる。悪循環ってこういうことなのかな。
カズくんって優しいから、多少鬱陶しくても本気で拒否してこないしね。だからこそぬるま湯なんだけど、それにつけこんで私はどんどん彼と一緒にいる時間が増えていく。
まるで、私がカズくんの彼女だと勘違いしそうなほど。
そんな勘違いをしかけていた頃。天皇杯の初戦勝利を告げる笛が鳴り、スタンドを振り返った私は見覚えのある顔を見た気がした。
それは何だか嫌なところで見た気がして、確信は持てないけど、彼氏がホテルから出てきた時に見た顔だとしか思えなくなってしまった。
そして、試合後に半行方不明になったカズくんを探しに行ったときに、私は彼女を見た。サッカーの試合会場にいるには少しお洒落しすぎな格好に見えたし、彼女はここにいるには不自然な気がしてしまった。
最近売れてる女優に少し似てる彼女は「最近彼氏と別れて寂しいんです」と言った。それが親近感をつくったのかな、彼女と俺は仲良くなっていた。
彼女の元彼もしていたらしく、ちょっとサッカーに興味があったらしい。プロだった頃の話をすると楽しそうに話を聞いてくれた。
「サッカーやってるとこ見てみたいなぁ」
その言葉に、今も社会人リーグで続けていることを話すと、いつか試合を見に来てくれるってさ。連絡先を交換して、その合コンからもやり取りは続けていた。
そして天皇杯予選の初戦、彼女はとうとう試合を見に来てくれることになった。当然、それだけ俺のモチベーションも上がる。
浮かれた気持ちでカズにもその話をすると、なぜかあいつまで嬉しそうだった。自分のことでもないのに変なやつだよな。でも、それがカズの良いところでもあるか。
予選の初戦を迎えた。
彼女からはメールで「用事があるから到着が遅れちゃう、ごめんね」って連絡が来てた。着いた時に負けてたらカッコ悪いよな。
カズにはお気楽に「もう来てるんですか?」なんてお気楽に声をかけられちゃったよ。注意はしておいたけど、これくらいリラックスできてるなら緊張は心配無さそうだな。
同じ県リーグの相手とはいえ下位にいる相手だからそこまで苦戦はしないと思っていたのに、最後の最後でゴールを決められないまま試合は進んでいく。
こういう試合って、攻めてる方がキツいんだよ。体力的にじゃなくて、精神的にだけどさ。
前半だけで大量得点をしていてもおかしくないくらい圧倒していたのに、スコアは動いていない。
何かを変えなければ、状況は変わらないように思えた。
何を変えれば好転するのか。
試合の大まかな流れ自体は悪くない、ただ最後のシュートが入らないだけ。こういうのって、実力だけじゃなくて運とか雰囲気とか、そういうのもあるんだよ。良い感じなのに何かダメ、みたいなことってサッカー以外にもあるよな。
そういうものを引き寄せられるやつって、何かを持ってるヤツなんだ。これは俺の経験則なんだけど、ただ上手いだけのヤツじゃなくて、『持ってる』ヤツじゃないと、こういう停滞した雰囲気は壊せない。
そんなの、うちのチームではあいつしかいない。
「カズのポジションを上げましょうよ」
その言葉は、俺からしてみれば当然の答だった。
カズはフォワードを経験したことがないみたいだけど、この一年で戦術理解度もかなり上がった。全く出来ないということはないはずだ。
それならば、あいつの持ってるものに賭けてみよう。
同じサッカー選手として認めるのは悔しいけど、うちはカズのチームだ。
まだ実力的には負けてるとは思ってない。でも、たぶんチームメイト全員がカズのことを何かしらで認めている。
サッカーに対する情熱であったり、能力のノビ方だってそうだ。この成長速度だったら、もしかしたらそのうち俺なんか相手にならないくらい上手くなるかもしれない。
そんなあいつがゴールに近づけば、きっと何かが起きる。あいつが起こせなくても周りがどうにかしてやれる。
そんな風に俺に思わせるのも、アイツの才能の一つかも。本当に不思議なやつだよ。
自信無さげに返事をして、ピッチに向かうカズに声をかけた。
相変わらず自信無さげだよ。一年でサッカーは上手くなっても、そういうところはまだまだだな。
こいつは俺を信用してくれてるみたいだし、少しでも自信を持たせてやろうと思って柄にもなく「絶対届けてやる」なんて言っちゃったよ。
了解っすとは言われたけど、大丈夫か、本当に?
とはいえ、もう後半開始の時間だ。あとはプレーで自信を持たせてやるしかない。
試合展開は前半同様にうちが攻め続けて、相手が防いでの繰り返しだ。
決定的に違うのは、カズが体力配分も無視して前線からプレッシャーをかけていることだ。元々ディフェンダーだから守備に手を抜けないのか、追い付けそうにない相手にまで全力でプレッシャーをかけている。
そのおかげで相手のロングボールやクリアの精度は前半よりかなり落ちて、結果としてそのボールをうちのチームが拾う回数も増えた。意味のないように見えるカズの頑張りは、そういうわかりづらくも明確な結果に繋がっている。
とはいえ、カズに与えられた時間はたったの15分だ。そろそろ決めないと、あいつは交代させられてしまう。
カズが全力で相手選手にプレッシャーをかけ、その勢いにビビったのか蹴られたボールはうちのキーパーまで送り届けられた。
このボールを、アイツまで届けてやる。
ディフェンダーからボランチにパスが渡った時、すっと引き気味に動いた。
前半から点が入らないフラストレーションで前へ前へとポジションを取っていた俺のその動きに、マークについてた相手選手の対応が遅れた。
ジダンの得意技だったマルセイユルーレットのようにパスをトラップし、一発で前を向く。相手選手がプレッシャーをかけに来てるけど、それと同時にディフェンスラインの裏へ走り込むカズが目に入った。
言ったこと、ちゃんと分かってるじゃん。
カズの走る先を目掛けて、俺は足を振り抜いた。しまった、ミートポイントがずれて思ったより強い球足になったかもしれない。ディフェンダーを気にして焦ったか。
ミスパスになりそうなそのボールを、俺自身諦めていた。
でも、カズは愚直に追いかけている。間に合いそうにないパスに向かっている。
『俺が届けてやる』
後半に向かう前、カズに言った言葉が頭に浮かんできた。
俺が届けられなかったパスを、あいつが届けさせてくれるかもしれない。受け取りに行ってくれるかもしれない。
それは衝動となって、俺の足を前へ運んだ。
確信は持てない。でも、あいつはきっと俺のパスを受け取ってくれる。
最近ペース落ちてるけど楽しみにしてるから是非完走してほしい
そんな風に、どうやってヒロくんを最後まで追いつめるか悩んでいると、彼からメッセージが届いた。
内容は「試合に勝ったから、次は決勝戦。よかったら応援に来てね」というものだった。
彼からストレートに見に来てほしいって言われたのは、あの日以降では初めてだった。だからこそ、私も行かずに済んだっていうのもあるんだけど。
カズヤに会うリスクはあるけれど、ここで行くと言えば彼は私を求めてくれるのだろうか。
悩んでも答はでなくて、「考えておくね」と先延ばしにするだけの返事をしておいた。どうせ、そんな答なんて延ばしたところで決められないくせにね。
>>309
最近仕事やその他諸々忙しくて中々更新できなくてすみません……
必ず完結させます。ありがとうございます。
「ありがとうございます……、すいません」
「良いの良いの、若い人は気を使わなくて。で、オオタくんたち、実際どうなの、調子の方は」
「うーん……良くはない、ですね」
その返事に、ヤギサワさんは肩をすくめて言葉を漏らす。
「ちょっと、初戦は勝ってよ? 試合後にも言ったけどさ、プロとやるくらいまでは」
「それはカズに期待……ってことで」
ね、と私の方を見て笑うカズさんに、私は苦笑いで返す。
「ま、何にせよやっぱりカズくん? がカギになるんだね。俺も試合、見に行くからさ、応援するよ」
「ありがとうございますっ。やれるだけ、やってきます」
「おうおう、楽しみにしてる」
あ、何か良いな、こういうの。
敵なのに敵対してるわけじゃないっていうか、仲間っていうか。
男同士って、こういう入り込めない世界があるよね。
「羨ましいなぁ」
「何が?」
つい想いを言葉にしてしまったら、ヒロさんが問いかけてきた。
「いや、何ていうか、仲間……みたいな感じがして。チームメイトじゃないのに、良いなって」
「そう? でもさ、ゆうちゃんだってもううちのチームの仲間じゃん」
「えっ」
「違うの? 応援してくれない?」
「いや、してますけど……良いんですか、私なんかで」
「良いも何も、大歓迎だよ。特にカズは、そう思ってると思うよ」
あはは、とヤギサワさんは声を漏らして笑った。
何だろう、何だろう。この感情を正しく言葉にできないけど、それでもまとめるなら、ただただ嬉しい。
「……本当ですか?」
「うんうん、ていうか、嘘つく必要もないじゃん。本人に聞いてみる?」
ヒロさんは携帯を手にして、私に問いかけてくる。
「いやっ、それはさすがに……」
嫌じゃないけど、まだ平気な顔をしてカズヤと話せる自信は無い。
「そう? カズも元気出ると思うし……嫌じゃなかったら」
嫌というわけではもちろんないけど、私なんかで良いのだろうか。
私なんかが、あんなに迷惑をかけてしまったカズヤとまた話してしまって良いのだろうか。
「無理にとは言わないけど……」
そう言われてしまうと、急に惜しくなってしまうのが人間の心情じゃない?
悩んでいたのは本当なんだけど、でも、今を逃すと次はもっと悩んでしまって気まずくなってしまって、そんな気がした。
「……はい、お願いします。すみません」
「良いの?」
その確認には頷いて気持ちを表すと、ヒロさんはスマートフォンを操作して耳に当てた。
「あ、カズ、俺。今、大丈夫? 電車に乗ってない?」
どうやら、カズヤはまだ練習からの帰り道みたいだ。
確認をとったヒロさんは、「カズ、ちょっと電話代わるわ」と私の名前を出さずに耳から電話を話し、私に差し出してきた。
それをおそるおそる耳に当てると、ヒロさんは椅子から立ち上がり、「ちょっと話してくるから、ごゆっくり」と言い残し、ヤギサワさんと入口から店外へ出て行ってしまった。
「もしもし……」
「……えっ」
「えーと、私。ゆうです……」
「えっ、何で? 何で、どういうこと? ちょっと待って、何?」
カズヤはまるで状況が読めてないようで、同じことを何度も繰り返す。
まぁ、事情がすぐに飲みこめる方がおかしいんだけどね。
「落ち着いて、ご飯食べにきたらね、たまたまオオタさんに会ったの。それで、オオタさんが気を使ってくれて、電話させてくれたの」
「あっ、なるほど……って、今どこ? ヒロさんも練習帰りってことはもしかして近く?」
「えーっとね……」
散歩しながら来た道だから、ここを何て説明したらいいのか分からない。
何て伝えようと思っていると、張り紙にレストランの名前が見えた。私がそれを伝えると「……あっ、分かったかも、ちょっと待ってそこ向かうよ」と言ってきた。
「えっ、えっ」
そうなると、今度は私が混乱する番がやってくる。
「あっ、迷惑だったら止めるよ、ルール……だったよね?」
「いや、迷惑とか嫌とかじゃないんだけど……」
ルールなのはそうだけど、それ以上に会いたい気持ちがあるのは間違いない。
ただ、彼は良いのだろうか。
「会ってくれるの?」
あんなことに巻き込んでしまったのに。
それは言葉にできずにいると、カズヤは素で問いかけてきた。
「何で? むしろそれ、僕が言いたいんだけど」
それこそ、何で……なんだけど。
でも、きっと彼はそれを聞いても困るだけ、戸惑うだけなのかもしれない。
これが私の幸せな勘違いでなければ嬉しいんだけど、もしかしたら彼は私のせいで迷惑をかけられたとは、思っていないのかもしれない。
そんなことを考る私は、お気楽で頭が空っぽな女なのかもしれない。それでも良い。カズヤが迷惑じゃないと思っていてくれたのなら、それだけでもう私の悩みなんて無くなってしまう。
「……ううん、何でもない。楽しみ」
「ちょっと急ぐから電話切るね、また後で」
そう言い残すと、電話は切れてしまった。
……えっ、今から来る?
電話が切れて冷静になると、急に慌て始める私がいた。
どうしようどうしよう、そんなことになると思ってなかった。買い物に行ってたから服はおかしくないと思うけど、ここまで歩いて来たし汗臭くなってないかな?髪崩れてないかな?
そんな心配をしていると、ヒロさんたちがドアを開けて戻って来た。
「カズ、何か言ってた? 元気出てそうだった?」
「いや、何か……あの、こっちに来るって」
ヒュー、と八木沢さんは口笛を吹いてみせる。
「やるねぇ、彼」
「それくらい、プレーにも積極性があると良いんですけどね」
私はお礼を言いながら携帯電話を返して、荷物を持ってお手洗いに向かって席を立った。
髪型……うん、崩れてない。メイク……も、大丈夫。よし。
お手洗いの鏡でゆっくりと自分の顔をチェックする。仕事の時は薄暗いからよく見えないと高をくくっているんだけど、今日はそういうわけにもいかない。
深呼吸をして、お手洗いの扉を開けて、自分の席に向かおうとしたところで、入口が開いた。
「おい、おせぇよカズ」
「いやいやヒロさん……あんな急に……」
本当に急いで来たらしい、カズヤは汗を流しながらの登場だった。
「こんばんは」
私の声に、彼はこちらに目を向けた。何だか久しぶりのような、そうでもないような、不思議な感覚。
私は今ここで、彼と会っている。目を合わせている。それだけで、ある種の奇跡のような気がしてしまう。
「……こんばんは」
「ほら、じゃあカズ、後は二人で行ってこい」
笑いながらヒロさんがそう言うと、冗談のようにカズヤも返す。
「行ってこいって、どこにですか」
「そりゃ、お前が考えろ。俺は今からヤギサワさんと大人の話があるんだよ」
「ヤギサワさんって……あっ、こんばんは。キックスの……」
「こんばんは。ほら、女の子を待たせるなよ、行ってきな」
「えーっと……じゃあ、行く?」
その問いかけに、私は困ったようにしつつも頷こうとしてあることを思い出す。
「あっ、お会計……」
「そんなこと気にしなくていいから。オオタくんとカズくん? に、次の試合で勝ってもらうからそれが代金、ってことで」
プレッシャーかけないでくださいよ、とオオタさんが笑いながら突っ込む。ヤギサワさんも笑いを隠しきれない様子で言葉を続ける。
「ほら、行ってらっしゃい。俺は今からオオタくんと渋い大人のオトコ談義をするからさ」
「ありがとうございます……ごちそうさまでした」
申し訳ない気持ちもあるけど、こういう時は厚意に甘え無い方が失礼だと思う。
ぺこりと頭を下げると、カズヤは入口のドアを開けてくれる。
「じゃ、行こっか」
どこに行くか分からないけど、と照れ隠しのように笑うカズヤにつられて、私も笑ってしまった。
後ろから「暗いから気をつけて」と声をかけられると、それにお礼を告げてドアを閉めた。そのドアに吊るされていたのはcloseの文字。
……あ、そうか。気を使ってくれてたんだ。
私がカズヤと電話をしている時に、他のお客さんが来て邪魔をされないように。邪魔なのは私なんだろうけど。
それにしても、改めて状況を考えると何だか緊張してしまう。
会いたくて、でも会えないと思っていたカズヤが隣にいる。それも、予想外に。
何となく、お互いに声をかけられないままお店から離れるように歩き始めた。気まずい沈黙ではないけど、私には話さなければいけないことがある気がする。
「「あのさ」」
話を切りだす声が重なって、私たちは視線を合わせた。お互いに小さく笑いながら、相手の言葉の続きを待つ。
「えっと……どうぞ?」
「ううん、カズヤからいいよ?」
「えっ、いいよ、大したことじゃないし」
「じゃあ尚更。私は、カズヤに話さないといけないと思ってたことだから、きっと長くなっちゃうし」
「良いの?」
不安そうな目で、彼は私を見返してくる。
それはこっちのセリフなのに。今にも「冗談だよ」って言われるんじゃないかって怯えていたのは私なのに、彼のその可愛さすら感じる視線に、私はつい笑ってしまいそうになる。
「もちろん。私も、カズヤの連絡先、知りたかったし」
何かこれ、携帯を持ったばかりの初々しい学生みたい。こんな歳になっても、連絡先を交換できるというだけで、私はこんなに舞い上がってしまいそうになる。
彼との距離が、一つ縮まったことを実感できるから。私が素敵な人間になったとか、カズヤみたいになれたとか、そういうことじゃないんだけど。それでも、私はただただ嬉しい。
「えっと、赤外線ある?」
私のその言葉に、カズヤは「あ、アドレス?」と聞き返した。
彼の携帯画面を覗いて見ると、スマートフォンユーザーの大半が使っているであろうメッセンジャーアプリが立ち上げられていた。
「あ、そっか。そっちの方が良いよね」
連絡先の交換なんて、高校を出てから滅多にしなくなったから、ついつい昔の感覚でそっちを選んでしまった。大学生だと連絡先を交換する機会もいっぱいあるだろうし、簡単なアプリの方が便利なんだろう。
私も彼にならってそのアプリを立ち上げようとすると、彼にそれを制された。
「待って、 僕も赤外線準備するから。せっかくだし、アドレスと番号交換しようよ。そしたらアプリでも追加されると思うし」
彼のその優しさに、私は甘えることにした。
アプリが嫌ってわけじゃないんだけどさ、何か軽い気がするんだよね。グループで複数人と話せたり、可愛いスタンプを送れたり、メールにはない便利な機能もあるんだけど、だからこそ軽い……っていうか。
「本当は、僕もアドレスと番号知りたかったし。ただ、重たいかなって?」
「重たいって?」
「ほら、アプリならさ、僕のこと嫌になったらすぐに拒否できるけど、メールと電話も拒否できるとはいえ個人情報じゃん。良いのかな、って」
そんな杞憂を真面目な顔で話されて、私はつい笑いをこぼしてしまった。
「良いに決まってるじゃない。カズヤこそ、良いの? 私、悪い女だよ?」
「自分でそんなことを言う人に悪い女はいないから。ほら、早く」
気づくと、彼は赤外線を既に準備していた。送信の彼に合わせて、私は受信をする。
「シイナ……っていうんだね、苗字」
「うわ、そっかそこからか、今さらだよね。何か恥ずかしい……」
照れたように俯く彼を見て、今度は私が送信するように準備をする。俯いたまま、カズヤも受信ボタンを押して、私の個人情報が、彼の携帯に流れていく。
「送れた?」
「……うん、きた。そういえば、僕、名前も知らなかったんだよね」
ゆうちゃん、が当然の呼び方になっていたから、何の違和感もなかったけど。言われてみれば確かにそうだ。
「これ、ぼくはどっちの名前で呼ぶべき?」
「どっちって?」
「この名前と、『ゆうちゃん』」
「えー、カズヤの好きな方で良いよ。呼びやすい方で」
本当は、もちろん本名の方が嬉しいんだけど。とはいえ、呼び慣れた方が恥ずかしくないとか、そう言う気持ちも分かるからわがままは言わないでおこう。
「そっか、分かった」
彼は腕時計をチラっと見た。私もつられて携帯で時間を確認すると、楽しい時はすぐに過ぎるからか、それとも私が緊張しすぎたせいかは分からないけど、もうかなり良い時間だった。
「時間大丈夫? そろそろ、帰ろうか」
彼にそう聞かれて、私も頷く。本当はもっと話したいんだけど、もう今までみたいにあやふやな繋がりじゃない。私たちは、明確に繋がっている。
連絡先を知っているから繋がっているっていうのも、ちょっと機械的な気もするけど。
「それじゃ、行こうか」
私の分のコップも持って、彼はそう言った。その小さな優しさすら、とても嬉しいものに思える。
素敵な服の掘り出し物があったわけでもなければ、宝くじにあたったわけでもない。私のこの気持ちが満たされるかどうかも分からない。
なのに、私はこの夜をきっと忘れないと分かった。
それくらい、大切な時間だった。
荒らしその1「ターキーは鶏肉の丸焼きじゃなくて七面鳥の肉なんだが・・・・」
↓
信者(荒らしその2)「じゃあターキーは鳥じゃ無いのか?
ターキーは鳥なんだから鶏肉でいいんだよ
いちいちターキー肉って言うのか?
鳥なんだから鶏肉だろ?自分が世界共通のルールだとかでも勘違いしてんのかよ」
↓
鶏肉(とりにく、けいにく)とは、キジ科のニワトリの食肉のこと。
Wikipedia「鶏肉」より一部抜粋
↓
信者「 慌ててウィキペディア先生に頼る知的障害者ちゃんマジワンパターンw
んな明確な区別はねえよご苦労様。
とりあえず鏡見てから自分の書き込み声に出して読んでみな、それでも自分の言動の異常性と矛盾が分からないならママに聞いて来いよw」
↓
>>1「 ターキー話についてはただ一言
どーーでもいいよ」
※このスレは料理上手なキャラが料理の解説をしながら作った料理を美味しくみんなで食べるssです
こんなバ可愛い信者と>>1が見れるのはこのスレだけ!
ハート「チェイス、そこのチキンを取ってくれ」 【仮面ライダードライブSS】
ハート「チェイス、そこのチキンを取ってくれ」 【仮面ライダードライブSS】 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1450628050/)
>>1を守りたい信者君が取った行動
障害者は構って欲しいそうです
障害者は構って欲しいそうです - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1451265659/)
最初は驚いて声を漏らしてしまったけれど、私はむしろ乗り気になっていた。
いつまでも今の仕事を続けられると思ってもいなかったし。カズヤと付き合う……ってことになるなら、風俗嬢を続けるのは彼も良い気はしないだろう。というか、私が申し訳ない気持ちにもなってしまう。
「バイト……良いんですか?」
そう問い返すと、奥さんは「えっ、良いの?」と驚いた。さっきと立場が逆だと思うと何だかおかしい。「気を使わなくていいんだよ。思い付きで言っただけだから、本当に」とは、旦那さんの方のヤギサワさんからのフォロー。
「いえ、あの……やってみたいです。ご迷惑じゃなければ、お願いします」
幸い、貯金は少なくはない。アキラに貢いでいたとはいえ、将来の不安を感じ始めた時期から、ある程度のお金は貯金するのが癖になっていた。
今までふらふらしていた私がすぐに正雇用の職に就くのは難しいだろうし、何よりこのお店で働けるというのは魅力的だ。幸せな気持ちにしてくれる場所だなって、二回しか来たことはないけど思っていた。
「嬉しいわ。えっと……名前と電話番号と住所……」
それらを書くのに適切な紙が見つからなくて、奥さんは申し訳なさそうに紙ナプキンを渡してきた。「ごめんね、後でちゃんと他の紙に書き写しておくから」と。
アンケート用に備え付けられていたボールペンで記入していると、カズヤがぽつりと「……みたいだ」と漏らした。それを聞いたヤギサワさんも、プッと笑いをこぼす。
きょとんとして顔を上げると、カズヤは海外の有名選手のエピソードを話し始める。
「今、世界一じゃないかって言われてる選手なんだけど。子供のころの彼をスカウトしようとした人が、プレーを一目見て、今すぐにでも契約しようって紙ナプキンで契約書を作らせたって話があるんだ。だから、それっぽいな、って」
説明をした後、またおかしくなってきたのか彼は笑い始めた。
「まぁ、うちの店からしたらそんな感じだよ。これで俺も手伝いに来なくて済む」
そう言い足して、ヤギサワさんもまた笑った。
「私からしてみたらそんなもんじゃないわ。待ち望んでいたんだから……今日はいい日だわ」
口々にそんな風に言われると、むずがゆい用な照れくさいような。実際、まだ働けているわけじゃないんだけど。
私は誰にも求められることもないと落ち込んだこともあったっけ。あの頃からしてみると、信じられないくらい進歩している。
記入し終えて奥さんに渡すと、彼女はそれをまじまじと見て、そして私に視線を移した。
「それじゃ、改めてよろしくね。えーっと……エリカちゃん?」
「はい、よろしくお願いします」
席を立ってぺこりと頭を下げると「礼儀正しいわね、良いわ」と一言。それだけでちょっと嬉しい。
「エリカちゃんって言うんだ? それで、あだ名はゆうちゃん? 珍しいね」
ヤギサワさんが当然の疑問を漏らした。そっか、この間ヒロさんと話してる時も源氏名を名乗っちゃったから、当然の疑問だ。
「そう呼ばれることが多くて」
そう返すと、ヤギサワさんはそれ以上深く問いかけてくることは無かった。こういうところが大人だなぁって思う。
ドアの開く音がして、新しいお客さんが入って来た。
「いらっしゃいませ」と声をかけ、ヤギサワさんが接客に向かう。
「……それじゃ、いこっか。忙しくなりそうだし」
カズヤにそう声をかけられて、私も頷いた。
「それじゃ、出勤日とかについては電話するから」そう言って、携帯番号の書かれた紙ナプキンを私に渡し、奥さんも厨房に戻っていった。
お会計を済ませて、ヤギサワさんに「ごちそうさまでした」と声をかける。「次も楽しみにしてるよ」って言われちゃった。二人でお礼を返して、扉を開けた。
夏の終わりを告げるような、ちょっとノスタルジーを感じる夕焼け空。それでも、寂しさとか切なさより、私は幸せな気持ちで満たされていた。
「行こう、エリカ」
そう言って、私に手を伸ばしてきた。……初めて名前で呼ばれちゃった。
返事をするのも恥ずかしくて、私は頷いて手を繋いだ。暖かい手だ。幸せをくれる手だ。いつか私も、彼に少しでも返したい。
これからのことなんて、何も不安はないと思っていた。
まだ、やるべきことはたくさんあるのに。
カズヤに拒絶された私は、何もする気がわかなかった。
ヒロくんからの連絡も、返しはするけど適当になってしまってる。もう、返さなくても良いはずなのにね。
私は結局何を求めているんだろう。何をしたいんだろう。
カズヤと別れたのは社会的な地位とかお金とか、そういうのが欲しかったから。そのはずなのに、その理由すら揺らいでしまっている。
何をもってカズヤを好きになったんだろう。何でヒロくんに惹かれつつあったんだろう。
そんなことばかりを考えていると、日が昇ってもすぐに沈む。答なんて見つかるのかな。というか、あるのかな。
気づけばあっという間に夏の終わりが近づいていて、ヒロくんから久しぶりに試合があるんだって内容のメッセージがきた。
もう見に行く必要もない。そのはずなんだけど、一方で期待もあった。
ヒロくんとカズヤをそういう気持ちで見比べて見れば、私の悩みを解消する種が見つかるかもしれない。
表向きは、応援に行くとは返事をしなかった。できなかった。罪悪感とかじゃなくて、単に面倒なことになるかと思って。カズヤにはヒロくんに乱暴されてるって言っちゃってるし。
返事は案外あっさりと「そっか、残念」くらいのもので、私も少し安心してしまう。
気づかれないように普段とは少し違ったラフな格好をして、好きじゃないけど眼鏡もかけた。こういう地味な格好の方が会場に溶け込みやすいっていうのは、以前見に行った時に気づいて良かった。
暑すぎる日差しの中、試合をする彼らをスタンドの後ろの方から眺める。カズヤもヒロくんも、今日も二人とも試合に出てるみたいだ。
試合が始まると、彼女は黙ってしまった。
この暑さの中、座ってるだけでも項垂れてしまいそうなのに、彼女は一生懸命応援している。
そんな彼女がここにいるのは何だか不思議な気がしてしまう。やっぱりベンチに行くべきだったんじゃないのかな。
途中で「帰るね」って声をかけたくなったんだけど、横を向く度にその真剣さにつられてしまって、ついつい目線を戻してしまう。
もうそろそろ終わりかな、負けちゃうのかな。
カズヤが相手を抜いてヒロくんにパスを出した瞬間、隣でミユちゃんが小さく呟いた。
「危ない」
えっ? という声は、言葉に出来なかった。
強い笛が鳴ったかと思えば、ヒロくんは綺麗な芝生の上に寝転んだまま起き上がれない。
「ヒロ兄……!」
声にならない声で、彼女は名前を呼んだ。
グラウンドの上では選手同士が揉めていて、カズヤはその中ヒロくんに駆け寄っている。
大丈夫かなぁ、心配だなぁ。
私としては、それくらいの他人事にしか思えなくて。
結局、私は当事者にはなれていなかったんだと思う。ただヒロくんからの好意を得ようというためだけに、ここに来ていたから。
担架に乗せられて、ヒロくんは外に運ばれていった。
ミユちゃんは心配そうな目線を彼に向けて、拳を握り締めていた。
何でそこまで、他人に感情を向けられるんだろう。家族だから、チームメイトだから、さっきの話で言えば恋人だから。
言葉に出来る繋がりだけで、人は他人をそんなに大切に思えるのかな。
哲学みたいなことを考えながらもグラウンドを眺めていると、ヒロくんが倒れた場所にボールを置いたのはカズヤだった。
「あの子、カズくんです」
言われなくても知ってるんだけど、私は黙って相槌をうった。
「たぶん、決まりますよ」
その直後、彼女は言い直した。
「決めます。必ず決めてくれます」
その言葉には、熱がこもっていた。不思議に思った私は、つい聞き返す。
「その違い、大事なんだ。彼、そんなに上手いの?」
「上手いですよ。でも上手いからっていうより……」
「いうより?」
「何て言うんでしょうね。信じてるというか、決めてほしいっていうか。あれだけサッカーに正面から向き合ってるカズくんが決めないと、他に誰が決めるんだっていう」
少し恥ずかしそうに「見てないと分からないですよね、すみません」と言い足されて。
フリーキックの準備ができて、笛が鳴った。
助走を始めたカズヤはボールを右足で蹴って、それは綺麗な弾道でゴールに向かって進んでいく。
「うわぁ……」
今までとの光景の違いに小さく歓声をあげながら、私は適当な席を探す。
後ろの方が見やすいんだけど、近くで応援したい気持ちもある。
どこがいいかな。悩んじゃうな。
うろうろしている私を、「あ、ゆうちゃん」と呼びかけてきたのは、聞きなれた声だった。
「こんにちは」
Tシャツにデニム、足元にはスニーカーというカジュアルな服装を身にまとったヤギサワさんが、私を手招きしている。隣には、奥さんの姿も見える。
「良かったら一緒に見ない?」
「はい、ぜひ!」
誰かと一緒に見たこと、今までになかったし。サッカーをよく知ってるヤギサワさんと一緒に見た方が、色々教えてくれそうかなってちゃっかり考えてしまったり。
「こんな暑い中応援に来るなんて、健気ねぇ。」
「お前なんて、この間の試合も見に来てくれてなかったもんな」
「あら何、私の応援が無いから負けたっていうの?」
そんな仲睦まじいやり取り。良いなあ、こういうの。なんかちょっと羨ましい。
「あ、出てきた」
やや劣勢になっていたヤギサワさんが、話を逸らすようにピッチを指さした。
「カズくん、今日もスタメンだね。良かったね」
そう言って私の肩をたたく奥さんに、ヤギサワさんが言葉を返す。
「あの子は外せないよ、チームの柱だから。あとオオタくん」
「分かってても、ドキドキするもんなの。ね?」
そう言って私に同意を求めてくるものだから、あいまいに頷いてしまった。
スタメンじゃない……というか、試合に出てないことは今までにあまり考えたことがなかった。けど、そうだよね。途中交代だってあるし、作戦とかによって選手って変わったりするみたいだし。
「お、タカギも出てるじゃん。同級生でマッチアップだ」
ヤギサワさんが呟いた一言に、つい反応してしまう。
「あの人……うまいんですよね? 大丈夫かな」
「うーん。上手いは上手いよね、プロだし。でも、期待されてたほど伸びられてないのかな」
世代別日本代表って、結構曖昧なものらしい。そこで選ばれてても、実際のワールドカップに出たりする日本代表までいけるのって更に一部。それに、世代別代表経験が無くて代表選手になる人も結構いるらしい。
「そういうもの……なんですね」
「ま、遅咲きの選手だっているしね。だからまぁ、カズくんのことだから、上手くやれると思うよ」
試合が始まると、ヤギサワさんの言う通りの試合展開になった。
ボッコボコに負けるんじゃないかって不安はどこへやら、互角の試合を繰り広げている。
相手チームのサポーターが大声で応援しているんだけど、それに負けじと私も心の中でカズヤの名前を叫ぶ。
時折「あっ」とか「危ないっ」みたいな言葉になってしまって、ヤギサワさん夫妻はそれを見て笑っている。
オオタさんがゴール前でパスを受けると、相手チームからブーイングが聞こえることが多い気がする。不思議そうに見ていたのか、「昔の仲間だから。それだけ、怖がってるのさ」と教えてくれた。
そっか、そうだった。オオタさん、このチームにいたんだ。
「タカギとも負けてないね、カズくん。やるじゃん」
「は、はいっ」
何だろ、私のことじゃないんだけど、私のことみたいに嬉しい。
その返事をしたところで、少し客席がどよめいた。
カズヤがタカギを振り切って、相手陣地を切り裂くようにドリブルをしている。
「大丈夫っすか?」
この人が後ろからのタックルに恐怖心があるのは覚えていた。悪いことをしたかなと思う一方で、これで精彩を欠いてくれればと思う自分もいる。
いつの間に、こんな風になってしまったんだろう。
焦ったり、勝つために手段を選ばなかったり。勝つことでしか、自分の存在意義を示せないと。
でも、それがプロってことだ。タックルにビビる、臆病者のあんたとは違う。プロとして戦うっていうのは、こういうことなんだ。
「……お前さ」
立ち上がりながら、ヒロさんは口を開いた。
「楽しいか? サッカーやってて」
真っ直ぐな目で、見つめられた。どこかで見たことのある目だ。
ハーフタイムに言おうとしたのはこのことだったのかな。
「楽しいか、って……」
俺にとって、サッカーは。
「……」
あれ、俺にとって、サッカーって何なんだっけ。仕事。上に上るための手段? 上ってなんだ? 何で俺は、上を目指してるんだ? 稼ぐため?
いや、そんなことじゃなかったはずだ。
「ほら、早く出ていって!」
答えを見つける前に、主審が笛を吹いてタッチラインに向けて背を押してきた。
そうだ、何で俺は、上を目刺し続けてきたんだろう。
ペナルティーエリア少し手前。距離は大体、20mくらいかな。
ボールをセットして、先程の出来事を振り返る。
タカギ、上手かったのに。何であんな風になっちまったんだろうな。焦って、苦しみの中プレーしているみたいで。
「いや、俺も同類だったのかな」
少なくとも、クビになった直後は。カズと出会ってなければ、俺もあんな風になっていたのかもしれない。
右足の爪先で軽くピッチを叩くと、少しだけ違和感。でも打撲ではなさそうだし、これならいける。
意識をゴールに向けて、審判の笛を待つ。残り時間はあとわずか。このチャンスを外すわけにはいかない。
壁に入っているのは、かつてのチームメイト。何人か初顔合わせもいるけど、何だかあの頃の練習を思い出すようで懐かしい。
俺の癖……なんてものがあるのか分からないけれど、少なくとも得意なコース、苦手なコースは知られている相手だ。
やりづらさはあるけれど、だからこそ破り甲斐があるってものだ。
あの頃の自分から、成長しているところを見せるために。自分を獲得していたことは間違えてなかった、そして自由契約にしてしまったことは間違っていたと、試合後に思わせられるように。
狙うコースは決めている。成功するかどうかは五分ってところ。けれど、不思議と失敗する気はしない。
強い笛がなって、助走を始める。キーパーはギリギリまで動かない。
狙いは変えず、右足インステップで強くインパクト。壁に入った選手たちはそれを遮るように懸命に飛ぶ。
その下を、ボールは通りすぎていく。
あの頃いつも狙っていた、壁を越えるカーブ気味のシュート。
その面影すら感じさせないような、速い弾道のグラウンダーのボール。コースをギリギリまで見極めようとしたキーパーは最後まで動けずに、ネットを揺らすそれを視線で追いかけることしか出来なかった。
「っしゃぁ!」
叫んで、ベンチに向かって一直線に走る。それを後ろから追いかけてくるのは、今のチームメイトだ。かつてのチームメイトは、下を向いて繊維を喪失している。
「ヒロさん!」
氷嚢で足を冷やしていたカズが、タッチライン際まで出てきて名前を叫ぶ。
そこに飛び込んだ俺、そして他の選手たちで、大きな輪が完成した。
「ヒロ! お前やっぱすげぇよ!」
「いくぞ、勝つぞ!」
頭はグシャグシャに撫でられて、背中はバシバシ叩かれて、でもそれが気持ちいい。
主審にポジションにつくように指示を受けて、自陣に戻っているとカズの大きい声が聞こえた。
「一本集中! ゼロでいきましょう! ゼロで!」
二部相手とはいえ、プロを相手にこんな声を出せるやつじゃなかったのにな。
頼もしい後輩の成長に負けたくなくて、俺も大きな声でそれに応える。
「もう一本! とりにいきましょう!」
試合終了を告げる笛は、それから10分ほど経って鳴り響いた。
スタジアムからは、何とも言えない声が盛れている。決して歓声ではなく、かといって落胆でもない。
整列をして、審判、次いでフォルツァの選手と握手を交わす。
「やられたよ、次もがんばれよ」
「あんなコースに撃たれるとは思ってなかったよ。やられたわ」
「オオタ、お前、上手くなったな」
そんな声。
上手くなったな、っていうのはやっぱり嬉しいね 。クビになったけど、それから成長できているってことなら、そうなったのにも意味があったと思えるから。
握手を終えると、ベンチメンバーと一緒にゴール裏のサポーター席に向かった。
大勢いる訳じゃないけど、お金を払ってまで応援に来てくれている、心強い仲間だ。
一礼して頭を上げれば、前の方にヤギサワさん、奥さん、それにゆうちゃんがいる。
「ほら、行ってやれよ」
カズにそう言うと「もう、やめてくださいよ!」と恥ずかしがるフリをしつつも、嬉しそうに近づいていった。
それをニヤニヤしながら眺めていると、今度は逆のゴール裏からうちのチーム名のコールが聞こえてきた。エールを送ってくれてるのかな。
みんなでそっちに向かって頭を下げると、今度は「オオタ」コールが響き始める。
ヤマさんに「行ってこいよ」と声をかけられ、試合前と同様に小走りでそちらに向かった。
「ありがとうございました! 次も頑張ります!」
辿り着いて、大きな声を張って叫んだ。
「オオター! お前、嫌なくらい、良い選手になったな! 今更上手くなりやがって!」
コールリーダーの中年のおじさんが、拡声器で叫ぶと他のサポーターが笑い声をあげた。
「次も勝てよ! ジャイアントキリングに期待してるからな!」
そう言って、再び大きな声でチャントを叫び始めた。クビになったとき、もう聞くことはないと思った声援だ。
熱くなるものを感じながら、俺は頭を下げた。この気持ちは、次も勝つことでしか返すことができない。
「ありがとうございました!」
もう一度叫んで、小走りでロッカールームに向かう。同じくロッカールームに戻ろうとしてたカズと、俺しかもういない。
「ナイッシューです」
プレイヤーズトンネルの手前でちょうど合流したカズに、そう声をかけられた。
「俺も決めとかないと、プレースキッカーをカズにとられるからな。あれから焦って練習したのさ」
「またまたー、そんなの、ありえないっすから」
こういうところは昔と変わらないんだな。プレーしてるときは、あんなに雰囲気が変わったっていうのに。
トンネルの中に入ると、一人、待ち構えてるやつがいた。
「……すみません、大丈夫でしたか?」
カズと俺にラフなタックルをかましてきたそいつは、まず最初にそう言った。
「大したことないよ。なぁ、カズ?」
「冷やしてたらもう大分良くなったんで」
「……よかった」
何と言って良いのか分からず、言葉を探すように、そいつは口を開く。
「……サッカー、楽しくなかったです」
それがどういうことかは、すぐに分かった。
「苦しかったんだな」
その場にいなかったカズは何がなんだか分からない、といった顔で、俺の表情を窺うように視線を寄越してきた。
「僕、戻っときますね」
気を使ってそう言ったんだろうけど、敢えて「いや、いてくれ」と返す。カズがいてくれた方が、たぶん分かりやすい。
「勝たなきゃ意味がないと思ってました。代表に入れなきゃ、やってても仕方ない。俺、プロだし。勝つことが仕事だし」
自分に言い聞かせるように、言葉を続けていく。
「ヒロさんのことも、最初はバカにしてた。クビになったくせに必死こいて勝ち進んで、バカみたいだなって。勝ったところで何にもならないじゃないですか。なのに何で? って」
そうだ。俺も最初はそうだった。
フォルツァをクビになって、県リーグなんかでサッカーを始めたのは、ただの惰性だって。
「でも、何か違ったんです。何か分からないけど……何か……何か……」
その感情を表現するのが難しかったのか、言葉を詰まらせながら俯いて、少し間を開ける。俺たちは、ただ黙って言葉を待つ。
「……羨ましかった」
そう言ったタカギの目からは、雫が伝っていて。
「楽しそうだな……羨ましいなって。俺、ずっと、そんな風に、おも、思えなくて」
ずっとエリートコースを歩んできてたこいつが、そういう風に感じるのも分からなくはない。
フォルツァはプロリーグ発足当時は名門で、ユースも力を入れられていた。だけど、一度二部に降格してからは、メインスポンサーも離れてしまったせいか大した補強はできなくなってしまった。少なくとも、強豪というイメージはなくなってしまいつつある。
「代表のやつらに置いていかれてしまうって。悔しくて! でもどうにもできなくて……何で? 何で俺はこんなところにいるんだ? って……」
「分かるよ」
その同意は、俺の本心だった。
「俺も最初はそうだった。クビになったあと、うちに参加したのだって、ただ『サッカーをしない自分』がイメージできなかったから。ただそれだけだったから」
横で黙って話を聞いてたカズが、視線だけこちらに向けてくる。
フォルツァとの試合を終えた私たちは、ヤギサワさんのお店にお邪魔していた。祝勝会の準備をしてくれていたらしい。
もし負けたら残念会で……ってことで、気を利かせて店休日にしてくれてたんだって。すごいよね。
ヒロ兄、カズくん、ヤマさん、他にも都合がついたチームメイトに、そしてゆうちゃん。
ゆうちゃんは最初は「私は部外者だし……」って遠慮してたんだけどね。ヤギサワさんたちが半ば無理やり。
謝らなきゃ。この間のこと。急に叩いちゃって。酷いこと言っちゃって。
そう思ってはいるんだけど、カズくんも微妙に気を使ってるし、彼女は彼女で色んなところでカズくんとのことを冷やかされててたり、お手伝いをしてたりでタイミングをつかめない。
「ね、ミユちゃん? よね? 悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれないかしら」
ヤギサワさんの奥さんからそう言われて、私は厨房の中に入る。大皿に盛られた料理を見て、「うわぁ」と声を漏らす。
「すごい、美味しそう」
「すごいでしょ? それ、あの子が作ったのよ」
「えっ、そうなんですか?」
可愛いだけじゃなくて、料理も得意なんだ。すごいなぁ。
「それ、運んでくれる? それが終わったらこっちも」
奥さんからの指示を受けて、いい匂いがするお皿を運び始めた。
ホールに出ると、男たちはただお酒を飲んで、料理を食べて、大騒ぎしてる。
うん、貸し切りにしてくれてなかったら、こんなテンションの男を受け入れてくれるお店はきっとない。
「いやほんとさぁ! 勝てるとは思ってなかったぜ、マジで!」
「ヒロのフリーキックよ!」
「ていうかカズ、お前ちゃっかりタカギと交換してんじゃねぇよ! 羨ましいわ!」
とにかく声がでかい。そして料理を持っていくとそれに群がっていく。とても、数時間前に死闘を繰り広げていたのと同じ選手には思えない。
それでもまぁ、今日くらいは特別だ。プロに勝ったんだしね。ヒロ兄も、普段よりお酒が進むのが早いみたい。
今日くらい、大騒ぎしていてもきっと罰は当たらない。
料理の提供も落ち着いて、みんな酔っ払い始めた頃、やっとゆうちゃんが解放されたみたいでキッチンに戻って来た。
「二人ともお疲れ様。もう大丈夫だから、ゆっくりして。何か飲みたいなら、ご自由にどうぞ」
そう言われて、二人で顔を見合わせちゃった。奥さんはそのままホールに向かって行って、ヤギサワさんと何か話している。
何となく気まずい空気が流れて、無言になってしまった。
口を開かなきゃ、と思えば思うほど、それができなくて。どうしよう、何て言えばいいんだろう、って。
「あの、ちょっと、外で話せないですか?」
私が言いたくてたまらなかったその言葉を、彼女から口にしてくれた。
頷いて返事をして、裏口から外に出る。
どうしよう、何を話されるんだろう。仕返しされちゃう? 怯えながら、それでも仕方ないと私は彼女の言葉を待つ。
涼しげな風が吹いて、彼女の長い髪を揺らした。それを視線で追っていると、目が合って。
「あの……」
言いづらそうに、彼女が漏らして、続いた言葉は。
「ごめんなさい」
その言葉がどういう意味なのか、なぜ彼女から言われたのか、つい考えてしまった。私が言おうとしてた言葉なのに。
きょとんとした顔を見て、彼女が言いづらそうにしながらも口を開く。
「あの、えっと……アキラ……っていうか、あの、うん……」
「アキラ?」
「あっ、そっか源氏名……えっと、彼氏……さん?」
ああ、そういうことかと納得しつつ、何か釈然としない。アキラって何だ? 誰?
「えっと……ううん、私こそ、すみませんでした。急にぶっちゃって。酷いこと言っちゃって。ごめんなさい」
謎を感じているうちに、言いたかった言葉はするっと出てきてくれた。
彼女が首を横に振って、「ううん、私こそ。ごめんなさい」と。
埒が明かなくなるので、「謝り合いはここまでにしましょ」と提案して、ゆうちゃんもそれに頷いた。
「あの、アキラって?」
もしかして、私が勘違いでぶっちゃたのかな。そうなら、謝っても謝りきれないことをしてしまった。どうしよう、どうしよう。
「あの、私、彼のお客さんだったの」
「お客さん?」
確保してたテーブルの二つ手前の女子グループの中に、よく知った顔が混ざっていた。
「えっ、何で二人で?」
問われて、事情を説明すると「あー、そういう……なるほどね」と頷き始めた。
一体何があったのか分からないけど、あの食事会以降、二人は連絡を取りあったり仲良くなってるようだ。
とてもそんな仲になれるような関係とは思わなかったけど、女って不思議だ。
二人して消えたと思ったら、いつの間にか楽しそうに話しながら戻ってきて、『カズくんがエッチだってことを教えてもらったよ』なんて。
まあ、いいや。僕も好きな二人が仲良くしてくれるのは嬉しい。
「今日の練習一緒に行こうよ~」
「え、私も行って良いの?」
本当に、仲がよろしいことで。
少し離れたところで二人を見ていると、女子グループのうちの一人から「あれ、もしかして……」と声をかけられた。
「ミユのいるチームの……カズヤくん? だよね?」
「あぁ、はぁ……」
今週に入って、何度かこういうことがあった。
ローカルニュースとか、友達づてとか。サッカー部ではないやつが、天皇杯でプロに勝ったらしいっていうのは、体育会系の部活があまり活発でないうちの大学では面白い話題の一つみたいで。
体育会系サッカー部のやつには入部しなよと勧誘されるし、ちょっと面識がある、くらいのやつには今みたいに興味本意で話しかけられたり。
そういうのに慣れてない僕は、ただ焦るだけなんだけど。
「すごいね、がんばって!」
でも、こんな風に応援してくれるのは素直に嬉しい。今までは『部活にもサークルにも入ってない、ちょっと変なやつ』みたいに見られてたしね。
「うん、ありがと」
チラッとエリカとミユに視線を向けると、その子は「ほら、デートの邪魔しちゃ悪いでしょ」と声をかけてくれた。
「あ、ごめんごめん。それじゃ、またあとでね」
エリカもそれに頷いて、僕たちはやっと席に着いた。
頂きます、と二人して呟くと、続けて尋ねられた。
「さっきの子、知り合い?」
「ううん、知らない。ミユとも大学の中で話すことって、あんまりないし」
ミユはうちのマネージャーだけじゃなくて、インカレのテニサーにも入ってるらしく、学内の顔は広い。社交性って、そういうところに出てくるよね。
「へぇ……そっか。さっきみたいなことってよくあるの?」
「さっきみたいな?」
「知らない子に話しかけられたり?」
「先週の試合のこと知ってる人からはたまに、かな?」
「そっか……」と呟く彼女を見て、「どうした?」と問いかけると、モジモジと返事を聞かせてくれた。
「何て言うか、遠い人だなって。すごいなって。知らない人がそんな風にカズヤのこと知ってるって、凄いよね。」
「いや、全然……」
この間の試合だって、ヒーローだったのはフリーキックを叩き込んだヒロさんだし。
だらだらと二年以上書き続けてしまってますが、今もお付き合いくださってる皆様には感謝しかないです。
励ましのコメント等々、いつもありがとうございます。
今回の天皇杯はいわきFC以外にも番狂わせが多くて個人的には嬉しい限りです。
今後も書けるときには書き進めていくので、どうか最後までお付き合い頂けますと幸甚です。
という、700区切りの挨拶でした。
ではではまた本編で。
「本当に?」
ゴールデン帯のドラマでヒロインを演じ、今や日本で彼女のことを知らない人はほとんどいなくなっている。
知名度も、美貌も、ついでにお金も。普通の人が求めるものは既に得てしまった彼女でも、世界は変わってないとは信じがたい。でも、日本代表になった俺だってそれは同じか。
「私の夢が叶ったわけじゃないから」
そう言って、彼女が「シンヤもでしょ?」と問い返してきた。
あの時言った夢。日本代表になりたい。海外移籍をしたい。その夢が叶えば、俺の世界は本当に変わるのだろうか。とりあえず日本代表だけでは、変わらなかったわけだけど。
「妹さんとは、最近は?」
「何も。ドラマの感想すら無いわ」
盆正月などで顔を合わせると普通に話すらしいけど、それ以外はやり取りをすることもないとは聞いていた。それでも、自分の姉が活躍するのは嬉しいものではないのだろうか。姉妹って分からないもんだ。
世間からは俺たち二人は成功している、不自由無い生活をしていると思われているだろう。いや、実際そうなんだけど。
それでも何か足りない気がしてしまうのは、贅沢なんだろうか。それとも、大事な何かが欠けてしまったんだろうか。分からないけど、俺に出来ることはサッカーしかない。
リーグは独走状態だし、カップ戦も勝ち進んでいる。今シーズン4冠を置き土産に、俺は海外へ行く。もっと大きな選手になる。
そうすることで、この言いようのない苦しみから抜け出せると思っていたから。ヒロに対する罪悪感は、見ないふりはできても消えることはなかった。それならもう、遠くに行くしかない。アイツがどこまで頑張ってもいけなかった世界にたどり着いて、俺がここにいることを正当化したかった。
サッカーをするのが苦しくて、それでも俺にはサッカーしか残っていなかった。
苦しみから抜ける方法もサッカーをすることでしかなくて、麻薬のようにそれを繰り返す。サッカーをすることで苦しんで、サッカーをすることで救われる。
そんな時、あるスポーツニュースが目に入った。
アマチュアチームのジャイアントキリング特集だった。
天皇杯では、毎年何チームはプロチームを倒して上がっていく。そのたびに取沙汰されるのが常である。
今年のそれを起こしているのは、どうやら都道県リーグレベルのチームらしい。そんなところがJFLだったり二部を倒したりしてるんだから、そりゃ見ている方は痛快だろう。
うちのチームが次に当たるのが確かそこだったと思い出して、そのまま何の気なしにニュースを見続けた。俺が出るとは限らないんだけど。
本戦一回戦、二回戦の映像でゴールシーンが映される中で、最後にフリーキックを決めた背中にやけに見覚えがあった。
固有の選手名は上がらなかったが、何となく懐かしい感じ。でも、俺が知っている彼とは似ているようで違う雰囲気の選手だった。
まさか。その時はそう思っていた。
しかし、試合に向けてのミーティングでその名前を耳にすると、やはりそうだったとも思えてしまった。
ヒロはあんなところで終わる選手じゃなかったと思い安堵する一方で、俺のせいでアイツのサッカー生命を壊してしまったのではないかとも思った。
次に会うと、酷く罵られてしまうのではないだろうか。お前のせいだと謗られるのではないだろうか。
そんな心配をしても意味がないことだと分かったうえで、そういうことを考えてしまうのが人間ではなかろうか。
「なぁ、次の試合、見に来てもらえないかな?」
サエにそう言ったのは、不安な気持ちを少しでも和らげたかったからだった。
「珍しいね。いつ?」
日程を伝えると、彼女は「うーん、仕事が入ってる……行けたらね」という素っ気ない返事だった。
とはいえ、誘った理由も情けないものなんだから、強く来てくれというのも恥ずかしくて。結局それで話は終わり、運命の日を迎えた。
ピッチ上に立つヒロは、俺の知っているヒロのままだった。テレビの液晶越しに見たヒロとは何だか違う。
良かった、俺の知ってるアイツだった。
チームメイトとパス交換するアイツに挨拶に行くと、やっぱりアイツは良いやつだ、今まで通りに接してくれた。
空白の期間に俺が勝手に作ってしまっていたしこりは、現実にはなかった。
それならば、その期間に俺が上り詰めて積み上げてきたものをヒロに見せてやるのが、唯一できることだろう。
ターンオーバーでベンチスタートを言い聞かされていた俺は、勝っている展開だと出番はないだろう。
楽しませてくれよ、と口にすると、ヒロはやや不服そうにこう言った。
「悪いけど、勝たせてもらうから。うちにはエース様がいるんで」
エースと指した彼は、ヒロとパス交換をしていた男だった。俺たちよりまだ若そうだ。たぶん、二十歳かそこら。
へぇ、そんな奴もいるんだな。負けず嫌いのヒロにそう言わせるなんて、よっぽどのもんなんだろう。
「早めに出番をくれてやるよ!」
そう叫ぶヒロに手をあげる。悪いけど、お前らがどんなに頑張っても、俺たちは負けない。そこにある力の差を見せつけることだけが、俺に出来ることだから。
しかし意外や意外、いざ始まってみると試合はうちのチームが劣勢を強いられている。
いや、展開自体はうちが押しているのに、スコア上ではうちが負けてしまっている。ヒロと、エースくん……カズヤって言うらしい、二人の見事な連携で失点をしてしまった。
あの崩しは確かに見事で、ヒロがエースと呼んだのも頷ける出来だった。
とはいえ、そこからの展開はうちのシュート練習になっているわけだけど。それでも一点が遠いのはうちの苦しいところだ。
それをどうにかするために、俺みたいな主力がベンチに控えているわけだけど。
案の定、早い時間にアップの指示が飛んできた。ブラジル人のうちの監督は、負けている展開だとすぐに手を打ちたがる。熱い性格がプラスに働くこともあれば、今日みたいな展開だと短気に交代枠を使っていく。
「スガ! 出番だ!」
ヒロの言葉通り、前半から出番を与えられるとは想像もしていなかったけど。まあ良い、俺の実力を見せるのに十分な時間を与えられたと思うことにしよう。
ベンチからの指示に細かいものは無い。「とにかく早めに同点にしろ」なんて、小学生にも言わないだろう。とはいえ、同点にさえできれば好きにプレーをしていいというのなら、望むところだ。
タッチライン際に立つと、スタジアムから声が上がって来た。いつものリーグ戦よりは少ない声だけれど、それは確かに俺の背中を押してくれる。
プレーが切れるとスタジアムから一層大きな歓声が上がり、スタジアムDJが俺の名前を叫んだ。
ピッチに入るや否や、オカモトが近づいて監督の指示を確認しに来た。とにかく早く追いつけってさ、と伝えると、呆れたように苦笑いを返された。
「ボール、俺に預けてくれ。ロングだけじゃ相手固いから下から崩す」
「はいっ」
サイトウを使って、サイドから崩しにかかる。ボールを預けると、そのままバイタルエリアに向かって走る。そのままワンツーを要求しようとしたところで、相手の10番、ヒロの右手が俺の背中に触れた。マークしているぞ、という意思表示だ。
「出せ!」
全力で前進して、その手の感触がなくなったところで要求通りのボールが戻ってくる図が見えた。
そこでカズヤの足が伸びた。
お手本通りのようなインターセプト。わざとルーズに守っていたのか、俺にボールが入ることを最初からイメージしていたかのようにそれは奪われてしまった。
俺のマークについていたはずのヒロは、カズヤからのボールを受けるとそのまま前に進む。
そうか、ヒロは俺のマークを外してしまったんじゃない。こいつがインターセプトすると読んで、敢えて残っていたんだ。
アマチュア相手に出し抜かれた恥ずかしさと、不甲斐なさと、失望。それらを感じる前に、今はボールを奪い返さなくてはならない。
「ディレイ!」
ヒロをチェックするオカモトに大声で遅らせろと指示を出す。マークを外されたとはいえ、すぐそこだ。挟み込めばなんてことは無い。それに、この二人以外は守り疲れでろくに押し上げることもできていない。
オカモトも簡単には抜かれないように適切な間合いを取って、時間をかけて対応する。前線に一人残っていた敵フォワードが下がってボールを受けに来て、ヒロが一旦そこにボールを出す。
しかし、うちのセンターバックのプレッシャーに耐えられず、ボールはダイレクトでヒロの足元へ。今だ!
オカモトがヒロに体を当てて、ボールを奪い返す。テクニック面は現役時代の財産が有れど、フィジカルは一朝一夕でプロには太刀打ちできないだろう。
奪い返したボールを再度要求し、トラップする前にルックアップで状況を確認する。前線は二人、サイトウはフリー。……フリー?
「後ろ!」
そう伝えると、運転手さんも「そうですね、すみません」と一言謝って、静かに運転に集中し始めた。心無しか、運転自体もさっきよりは丁寧になった気がする。
道中、気になってスマホで試合のスコアを確認すると、後半が始まったばかりのところで、スコアは3-1のままだった。うん、これなら心配はいらないかな。
そのまま液晶を暗転させて、「近づいたら起こしてください」とだけ伝えると、私も目を閉じて眠りについた。
最近、眠れてなかったから。仕事疲れたな。でも今日はいい日だな。サキがもし帰って体調良くなってたら、ご飯にでも誘ってみようかな。
そんな幸せな考えを反芻させていると、底なし沼にはまったように眠りについてしまった。
「お客さん、そろそろ着きますよ」
その声で起こされると、もうサキの家はすぐそこという場所だった。妹はと言えば、私より先に起きてたらしく、詳細な場所を案内しているところだった。
「よく寝てたね、疲れてたの?」
その一言は、さっきまでとは少し違う、暖かさを帯びている言葉の気がした。どうしたんだろ。
「ちょっとね。サキこそ、体調は?」
「ん、割と良くなったかな。ごめんね、心配かけて」
タクシーはサキの指示通りにすんなり進んで、私が起きて間も無く、目的地に辿り着いた。
運転手にタクシーチケットを渡して、サキの自室に案内される。シンヤの家に初めて行った時より全然緊張する、なんていうのは、きっと彼に言ったら怒られるんだろうけど。
玄関にあるパンプスに見覚えがあるなと思ったら、私が以前撮影で履いたものだった。言葉にはしなかったけど、それが私の影響でなくとも、ちょっと嬉しい。
バッグを置いて時計を見ると、シンヤたちの試合があと10分残ってるかどうかくらいの時間だった。
「ごめん、テレビ借りていいかな?」
直接見ることは出来なかったけど、せめてテレビでくらいは見守ってあげないとバチが当たるかもしれない。
了承の言葉が返ってくると、リモコンを操作してお目当ての番組を探す。今日の試合は割と注目されてるらしく、放送が組まれていたはずだ。
適当にチャンネルを変えていくと、緑の芝生でドリブルをしようとする選手がアップで映ってきた。まだ幼く見える表情の彼は、対面のシンヤに勝負を仕掛けていく。
ボールが動いていく中で、ふと左上のスコアが視界に入ってきた。
「」
試合が始まると、思った以上に相手チームは良い試合をしていた。
ぼこぼこにしてマリッズが勝つと思っていたのに、先制したのは相手チームだった。それも、たまたま入ったゴールって感じじゃなかった。
ぼくの隣でパパが「すげぇな!」と興奮している。パパはどうやら相手チームを応援して見ているらしい。
確かに、ゴールを決めた選手と10番の選手はちょっと上手かった。少なくとも、マリッズの選手と比べても明らかに下手くそって感じではない。
そんな感想を伝えると、「そうそう、その二人をよく見てな」と言われた。10番の選手は元々はプロだったとも、その時に教えられた。
「じゃあ、パパは元プロとも試合をしてたの?」
「うん、そうだな。ただ、パパたちは敵わずに負けちゃったけど」
そう言った後に、言い足した。
「実際に戦ったからこそ、お前にも見てほしかったんだ」
真剣な顔で、パパはそう言った。
一点取られて焦ったのか、その後すぐにシンヤが出てきた。
会場中から大きな声援が湧く。ぼくも大きな声で「シンヤだ!」と声をあげた。
遠くから見ても、一人だけオーラが違うように見える。ピッチの上にいる人たち、特にマリッズの選手から見えてたそれよりも、一回りも二回りも大きい。
輝いて見えた。華やか過ぎるステージの上で、特に華やかな位置にシンヤは立っていた。
そしてその輝きは、ボールを持つとさらに強くなった。
負けている状況から出場したシンヤは、まるで魔法使いみたいにマリッズを生き返らせた。相手チームの選手がいないみたいに見えた。
この間の試合でナショナルトレセンの選手がぼくたち相手に見せたように、圧倒的な力だった。
あっという間に三点を取って、マリッズは逆転して見せた。前半が終わる頃には、周りにいた人たちからも「シンヤはやっぱ上手いなぁ」とか「頑張ってたんだけどなぁ」って、マリッズが勝ちそうだなという声が聞こえてきた。
当然だと思う。マリッズに勝つなんて、プロでも難しいことを、プロですらないチームがやってしまうことは無理だ。
それなら、何でパパはマリッズのサポーター席で試合を見せてくれなかったんだろう。
いくら相手チームと試合をしたことがあるからといって、10番やゴールを決めた選手を見せたいだけなら、マリッズの応援席に入れてほしかった。
そんな気持ちを隠せなくて、パパに声を出して尋ねた。
「何でマリッズじゃなくてこっちの席なの?」
どうせなら、大きな声でシンヤを応援したかった。輝いてる人、憧れの人の背中を押したかった。
確かに、相手チームも頑張ってはいるように見える。見えるけど、それだけだ。シンヤみたいなオーラもなければ、特別上手い選手がいるわけじゃない。
ぼくの純粋な疑問に、パパは言った。
「うーん。お前はやっぱりマリッズの方がかっこよく見えるよな?」
その質問に、ぼくは黙って頷いた。
「相手チームはどう思う?」
「頑張ってる」
頑張ってる。……うん、頑張ってはいる。
「そっか。うん、それなら、後半も見ていてほしいんだ」
パパはそれ以上、答えてくれなかった。はっきりとした答えが無いのなら、やっぱりマリッズの席に入れてくれればよかったのに。
あっちの方が入場料が高いのかな、とか、パパはマリッズを好きじゃないのかな、とか考えていたら、後半が始まった。
3-1のまま試合は進んでいく。前半で勝ち越したからか、マリッズの攻撃も少し落ち着いたように思える。
とはいえ、相手チームも攻め手がなさそうだ。パパが注目している二人は、シンヤとオカモトに押さえられている。
そう、マリッズはシンヤだけじゃない、オカモトにマツバラ、サイトウと他にも有名な選手がいっぱいいる。そんな人たちと比べても圧倒的な存在感のあるシンヤは、やっぱり凄い。
ぼーっとそんなことを考えている時だった。
ハーフウェーラインのあたりで、ボールが蹴られた。ドン、と音が響いた。
ロングパスかなと思ってボールを眺めても、その先には誰もいない。大きくゴールに向かって飛んで行った。
キックミスかな。
そう思ってボールの行方を目で追いかけていると、少しずつ周りの人たちがざわめきはじめた。ボールはゴールに向かっている。……ボールがゴールに向かっていく!
パスでもミスでもない、シュートだと気がついた時に、ボールはゴールの中におさまっていた。
パパが立ちあがって「マジか!」と叫んだ。他の人たちも騒ぎ出している、
練習中もその後も楽しそうに話す四人を見ると、今までに起きていたごたごたが嘘のように思える。ミユがエリカをビンタしたことなんて、遠い昔のことのようだ。
練習後にダウンを終えて着替えていると、エリカとサキが一緒に僕のところに来た。普通なら修羅場だよね、元カノと今の彼女が一緒にいるなんて。
「今、この子と付き合ってるんだ?」
いきなり本題に触れるエリカに苦笑しながら、僕は肯定する。
「そっか。……幸せそうでよかった。私が言えることじゃないんだけどね」
「初めて会ったとき、サキさんに振られたショックで泣きそうでしたからね、カズヤ」
「それは盛ってる!」
僕の突っ込みに、一瞬の間を空けて三人で笑った。それができるくらいには、僕と彼女たちの間にわだかまりは無くなっていた。
「都合のいい話だけど、私はカズヤに会えて良かった」
「うん。僕もエリカと会えて……良かったと思う。今となっては、だけど」
「やっぱり傷つけた?」
「うん、ショックで泣きそうになるくらいには」
その言葉に、もう一度三人で笑った。
「……最後に、お別れの握手を?」
そう言って、彼女は手を差し出してきた。エリカはそれを見ながら、僕に微笑みかける。どうやら「任せた」という言外のメッセージらしい。
「握手……はいいけど。でもさ。最後に、ではないでしょ?」
「え?」
「これからも応援してよ。うちのチームのこと。みんな、美人姉妹が来たって喜んでるから」
その言葉に、彼女はおかしそうに笑った。今までで一番、心の底から見せる笑顔だと思った。
「喜んで」
そして迎えた天皇杯の次戦、僕はいよいよ憧れの選手と対面をする。
子供の頃、サッカーを始めるきっかけになった人だ。ヨーロッパ最強のチームを決める大会で赤い悪魔にフリーキックを沈め、僕は彼の虜になった。
今となっては不惑を迎えた彼は、チームではレギュラーとは言えない立場になってしまっている。それでも天皇杯ではターンオーバーということで、スタメンで試合に出てきてくれた。
試合は僕たちが負けてしまった。マリッズに勝って燃え尽きていたとか、自力の差だとか、いろいろな要因はあるんだけど。
僕たちの挑戦はそこで終わってしまった。
世間から見ると、たまに出てくるアマチュアの割には健闘したチーム、という形なのかもしれない。
それでも僕はこの一年で多くのものを得た。
タカギという友人に、好敵手たちとの好ゲーム。憧れのナカムラにもらったユニホームは、きっと一生褪せることはない。
大会に敗れてしばらくすると、タカギから僕に連絡が来た。
『うちのチームに練習参加しないか』
最初は冗談だと思ったその言葉も、スカウトの人から直接連絡が来たあたりから現実味を帯びてきた。
どうやら天皇杯で当たって以降、うちの試合を何試合か見に来てくれていたらしい。
ヒロさんに相談すると「俺も同じ話をもらってる」とのことだった。
「どんどん遠い人になっていくね」
エリカはそう言って嘆いていたけど、僕は何も変わってはいない。
タカギ経由で連絡をとるようになったオカモトやマツバラからも『早く一部に来い。ていうか、代表に来い。一緒にやれる日を楽しみにしてる』と連絡が来た。
代表なんて、現実味がなさすぎる。でも、天皇杯前の僕からすると、プロの練習参加なんてそれ以上に現実味のない話だった。
だから、いつかきっと。
周りは就職活動の準備で忙しくなっている中、僕がこんなに夢を追い続けていいのだろうかと思うこともあった。
もし練習参加をして認められなくて、結局就職活動となるなら今から諦めるべきではないのだろうか、と。
でも、エリカが言ってくれた。
「私はサッカーをしているカズヤに惹かれたんだよ。カズヤを見て、私も変わりたいって思えた。それをもっといろんな人に見せてあげてほしいし、それができるのって、サッカー選手なんじゃないかな」
そうだ、僕はサッカーが好きだ。何事にも代えがたく、だからいい年をした大人になっても続けてきた。
それを仕事にするチャンスを与えられて、自分が望んでいるのに、自らそれを諦める理由なんてどこにもない。
結局、練習参加だけでは認められず、僕は年明けの冬季キャンプにも参加させてもらうことになった。ヒロさんは一足先にサインを結んだというのに。
県リーグで優勝し、地域リーグに昇格することが決まったチームメイトからは『二人も主力に抜けられたら困るんだよー』と笑われているが、それでも応援はしてくれている。
そして、一年が経った。
>>927
サキとエリカが部分的に入れ替わってる?
>>932
ご指摘の通りです。。
脳内変換ありがとうございます。
満員のスタジアムからは各選手のコールが聞こえる。一年前の僕には想像がつかなかった光景だ。それでも僕はここにいる。
前に並ぶタカギがニヤけながら「おい、緊張してんな」と声をかけてきた。
「ダイジョーブ」
「カタコトになってんぞ」
近くにいたチームメイトがどっと笑った。うーん、自分じゃ気づいてないけどそんな固そうに見えてるのかな。
ひとしきり笑った後、「集中!」という声で再び引き締まった気持ちになる。一緒に入場する男の子と手をつなぐと、彼は僕を見ながら言った。
「ボク、カズヤ選手みたいになりたいです」
「え?」
「去年マリッズとの試合を見て、カズヤ選手みたいになりたいなって。いつかカズヤ選手と一緒にサッカーをするのが、僕の夢なんです」
そう言ってにこっと笑う彼は、昔の自分とダブって見えた。こんな僕でも、憧れの選手といわれる日が来るなんて。
「できるよ、きっと」
誰でもそうだ。叶うまで諦めないという気持ちをもって進み続ければ、いつか叶う日は来る。
「僕も楽しみにしてるよ、君とサッカーができる日を」
キラキラした目で、彼は頷いた。
入場のアンセムが鳴り始め、タカギの背中も前に進み始めた。それに合わせて、僕も足を進める。
「わぁ」
視界が開けてくると、少年が感動の声を漏らした。スタンドではなくピッチでその光景を見るのは僕も初めてで、心臓がバクバクと鳴っているのに自分で気づいた。
落ち着きなくスタンドを見回すと、そこに彼女がいた。試合を見るときは、彼女はいつもその帽子を被るから間違えようがない。関係者席よりも声を出して応援できるからと、彼女はその席を望んでいた。
聞きなれた声で名前を呼ばれた気がして、整列したままそちらにサムズアップするとタカギから「バカ、やめろ」と窘められた。
「そんなことできるなら緊張してると思ったのは気のせいか?」
「ダイジョーブ、って」
うん、もう大丈夫だ。どこにいても、サッカーはサッカーだ。そしてどこにいても、きっと彼女は僕の背中を押してくれる。
セレモニーを終えてピッチに散らばると、目の前には広大な緑と、それを囲む青い景色が改めて目に入る。
少年に恥じぬ試合をしたい。いいプレーをしたい。勝ちたい。でもやっぱり、一番は楽しみたい。
主審が時計を一瞥すると、笛を鳴らした。一斉に選手が走り出す。
さぁ、楽しい時間の始まりだ。
というわけで、本編はこれにて終了です。
四年もかけて終わり方がこれ?と思われる方もいらっしゃると思いますが……。
番外編というか、タイシ編、アキラ編も考えてはいたのですが、冗長かなということで省略していました。
イヌイ編も不要だったのかなと思う一方で、あそこもカズの一つの転機になるので入れたいな、と。
また時間があるときに、その二編は書けたらと思っています。
そしてこの板への投稿は推敲もできないまま即興で書いているところも多かったので、
矛盾や>>927のような凡ミスも多々あり、大変失礼いたしました。
しっかりと推敲、ある程度の改稿や改定をしたものを、いつかどこかでまた書きたいなと思っています。
投稿当初からお付き合いくださった方も、今回の更新でたまたま見かけた方も、
たまに見に来てくれていた方も、この話に一度でも目を通して下さった全ての方に最大限の謝辞を。
飽き性の自分がエタらずに四年かけてでもこの話を書き終えられたのは、皆さまのおかげです。
最後までお付き合い、ありがとうございました。
またどこかで自分の話を読んで頂けると幸いです。
本当にありがとうございました!
(以下自分語りです)
この4年間でいろいろと環境が変わりましたが、サッカーを再び本気でやれる環境に来ました。
それも、カズヤたちと同様に、元Jリーガーたちがいる世界で本当に自分がやることになるとは思っておらず、
かなり背伸びした世界に入って来たと自分でも思っていますが、頑張ろうかな、と。
そして執筆方面でもちょっとだけ夢が叶いました。
いつかまたその話ができるようになったら、また聞いてもらえると嬉しいです。
それではまた!
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