「なんてこと……なんてことしやがる……ッ!」 (104)
『フタツキ』
久しぶり大残業である。
残業代は出るのが救いであるが、そもそもこんなものは好き好んでやるものでもない。
人間の維持できる集中力には限りがあるため効率はおちる。
周りはすでに帰宅しているとなれば当然、当人のモチベーションも下がる。会社側からすれば必要以上に経費が掛かる。
良くないことだらけだ。
事務所には私一人である。
もしかすれば私と同じような境遇の社員が他にもいるかもしれないが、見回す限りはそれで間違いなさそうだ。
私の名誉の為に言わせてもらえば、今回の残業は、別に私の業務遂行に遅滞があったわけでなく、顧客からの強引な納期短縮依頼によるものだった。
今日中にこの書類をまとめ、明日の朝一で卸し元に届けねば指定されたその納期は絶望的な状況である。
さらに言えばこの作業、複数人で行える物でもない。
そのあたりの事情はあらためて思い返したところで面白い事情があるわけでもない、とにかく貧乏くじを引いたのである。
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「腹が減ったな……」
他に人がいるわけでもなく独りごちてしまう。しかし、その声に呼応するかのように、グウ、と。
三十路に差し掛かり、無駄に肉突き良くなった我が腹は、私の言葉に同意を示した。いや、正確には胃袋であるが。
「しかしなぁ……」
そう、しかし、である。問題はこの横腹なのだ。
横腹が無駄に豊かになってしまっているのだ。つまめるのだ。これはいけない。
別に私は容姿に、この場合は体形に自信が有り、それを誇示しているわけではない。
人並みの容姿であるという自負はあるが、多少太ったところで別に損するわけでもない。
寛容な我が妻は、太った私であっても変わらず愛してくれるであろう。しかしそれとは別問題なのである。
結婚というものはなにか。私にはそこに一つのこだわりがある。
「いつまでも好きでいてもらえるよう努力すること」、これに尽きると思うのだ。
この考えに一人で至ったわけでもなく、いつであったか、インターネット上でそういった発言をしている人を見かけた、その考えに同意した、それだけの事である。
しかしその言葉に私は大層感動したのは事実であるし、顔も見えないその人の事を尊敬したものだ。
以来、私は自分もそうあるべきではないかと戒めてきたつもりである。従ってここは摂生するが良し、であろう。
この体形を維持しようとすることは、妻を愛することにも繋がるのだ。
時計の針は深夜の12時を刺している。
間違えてはいけない、昼の12時ではないのだ。
言うまでもなく、夜食とは太りやすい。
であれば、ここで適当に腹ごしらえなどしようものなら、ただでさえパンツのゴムから無様にはみ出している私の贅肉の体積が、
いくらかであっても増えるであろうことは想像に難くない。
以前、同期の友人が、入社時には問題なかったスーツのズボンが入らなくなったと嘆いていた。
妻に愛される愛されないは無論のこと死活問題であるが、アレの二の舞は正直、御免である。
とはいえ、「いつまでも好きでいてもらえるように努力する」のであれば、さっさとこの苦行にも等しい残業にケリをつけ、妻の下へと帰るのが第一であろう。
もう寝ているかもしれないが。
そんな時である。
「……なんの匂いだ?」
異臭、ではない、生活上、馴染みのある匂いだ。
「これは……胡麻油?」
フライパンなどで胡麻油を熱したときの匂いである、この香ばしい香り、間違いない。
給湯室の方からだ。明かりもついている。私のほかに残業している人間がいたのか。
すわ、侵入者か、とは思わない。
不埒な輩が我が社に侵入したとて、何ゆえ給湯室で胡麻油の匂いを発しようというのか。
察するに、私と違い誘惑に負けた者が胡麻油を用いて何らかの夜食を作ろうとしているのだろう。
まことに迷惑千万である。
「くそっ、良い匂いさせやがって……」
自然、毒づく。
なにせこの香りときたら、その場にいるだけで食欲が湧いてくるという、この状況では最低のものだ。
通常のサラダ油ではでない、匂いだけで『これは旨いものだ』と脳が認識してしまう、ある種、蠱惑的香り。
『いつでもいけるぞ!』と、我が胃袋が獣じみた声をあげているのがその証拠である。
「ふざけやがって……」
再度、毒づく、静謐な事務所に先程まで軽快に響いていたタイピング音は荒々しいものとなった。
まあ、私がやっているのだが。
しかしそれも人情というものであろう。
こうなれば一刻も早く残務を終わらせ、帰宅してやると、そんな思いを込めていつもよりいくらかの力を込めてエンターキーを叩いたその時である。
「なんてこと……なんてことしやがる……ッ!」
この野郎、人が大人しくしていれば付け上がりやがって。
これは、この香りは間違いない。
こいつ、熱した胡麻油にニンニクをぶっこみやがった!
正気じゃない。事務所と隣接した給湯室で、だと?
換気扇にいかほどの効果があろうがアレの匂いが翌朝になろうと残留することは請け合いである。
不快な焦げた匂いが無いところを考慮すれば、低温でゆっくりと胡麻油にニンニクをなじませている。
胡麻油の香ばしい香りは徐々にニンニク特有の匂い、いや臭いへと変化する。
人によってはその臭いを嫌う人もいるだろう、特に口から発せられるソレは、私も不快に思う。
しかし調理中のニンニクにおいてそれは違う。アレは胃袋に直撃するのだ。
最早、物を言い出したのは胃袋だけではない。
劇的に刺激された私の海馬は、私が経験したあらゆるニンニクに関する記憶を引きずりだしてしまった。
餃子、
ペペロンチーノ、
いつか居酒屋で食べたガーリックバターで仕上げたジャガイモは絶品だった。
「だ、ダメだ!集中しろ……そうだ、ほっとくんだ、もう少しで……えっ!?」
ジュワッ、と事務所にまで音が響き渡る。
野郎、ニンニクのボイルなんてつまみを夜食にするはず無いとは考えてはいたが、ニンニク胡麻油で『肉を焼きはじめた』だと!?
間違いない、この状況で私が間違えるはずが無い、しかもニンニクの臭いに交ざったこのスパイシーな香りはたっぷり塩コショウだ。
それだけじゃない、なんて手際だ。
ジャッ、ジャッ、と手早くかき混ぜられ、投じられた肉にも色目が付いた頃合であろう。
それを、それをどうするつもりだ。
「うおっ!?」
思わず声も出よう、先程の肉が投じられた音など比較にならない、油と水が反発しあう甲高く激しい音。
野菜……野菜炒めだ!キャベツ、モヤシ、それだけでいい、そう、むしろシンプルなほうが私は好きだ。
胡麻油、ニンニク、肉、野菜、ソレ等を熱しただけでかくも人は狂えるのか。
握り締めた拳は白く変色するほどであり、叶うことであればこの鉄拳を今すぐ目の前のパソコンディスプレイにたたきつけてやりたい。
もう駄目だ、限界だ。許せん。
万感の思いを抱き私は廊下へと向かう。
しかしその足取りはおぼつか無い。
鼻っ柱に叩き込むのも辞さない思いで固めた鉄拳もどんどん緩む。
この廊下に充満した香りは麻薬のように私の意識を奪っていくのだ。
「あ……ああ……ああ……」
給湯室にいるであろう人物に頭を下げよう、『少し分けてください』とそう言うのだ。
だが、しかし、その時、突然。
ミソだ。
日本人ならば、日本に来た者ならば誰しもが嗅いだことのある香り、これはミソが湯に溶かれた匂いだ。
野菜炒め、深夜、湯に溶かれたミソの香りとなれば、この状況であれば『アレ』しかない。
「ミソ……ラーメン……だと?」
悪魔だ……こいつ……どこまで行く気だ……
早く残務を終わらせなければ、私には帰りを待っている妻が。
何故、私の足は給湯室へ向かう。
早く書類を作成せねば、納期が、クレームが。
「もういい、もういいんだ……」
納期がなんだ、残業がなんだ、横っ腹がなんだ。
これが解らないのか?
空きっ腹の深夜にミソラーメンだぞ?
袋麺だろうさ、せいぜい一袋88円だろうさ。
だがな、ニンニク胡麻油絡めの野菜炒めがてんこ盛りにぶっ込まれているんだぞ?
今は深夜だ、そして私は腹が減っている、わかるだろう?
交渉、懇願、泣き落とし、恫喝、脅迫、強奪、目標のものを手に入れるあらゆる手段を思考しつつ入り込んだ給湯室には、しかし誰もいなかった。
それは確かに不思議である。
なに、今となっては些細なことだ。目の前には正義がある。
嗚呼、ようやく会えたね。
白く立ち行く湯気の元には最早『塔』といわんばかりにキャベツとモヤシ、豚肉のシンプルな野菜炒め、
それが国民食とも言えるミソラーメンの上に盛られている。
廊下に充満していたものとは比較にならない香りに呼応し、我が胃袋は何度目かの悲鳴を上げる。
そしてどうだ、『塔』の根元から垣間見えるミソの海。
我が海馬はその味わいを瞬時に蘇らせ、口内では唾が滂沱と湧く。
普通はたかが袋麺にここまで手間は加えまい。
何せ商品の商標が『インスタントラーメン』である。インスタントであることに意味があるのだ。
しかし、どうだ、上に野菜炒めを盛るだけで、あらゆる高級料理では再現不可能であろうこの威容。
そして御託はここまでだ。この一品を前に御手元まで用意されて回想を続けるなど阿呆のすることである。
「いただきます!」
麺だ、麺から食すのだ。
野菜炒めもかじりつきたいが、主は、麺である。伸びてしまっては元も子もない。
野菜炒めの塔の下層を無遠慮に穿り返し、絶妙なちぢれ麺を引きずり出す。一息だ。
ズーッ!と。
欧米人が見れば発狂するような、彼等からすれば無作法極まりない食い方も、この珠玉の一品の前では正式なマナーとなる。
こうして食べることで二割は美味になろう。
ラーメンは食べ方によって旨さが変わるのだ。
欧米人の皆様には中々出来ることではあるまい。バット、ウィーキャン。
ズズッ!ズーッ!
もしこの様子をご覧になられている方々がいればまことに申し訳ない。
私の語彙力では諸兄にこの感動を、こうして擬音にてのみでしか伝えきることが出来ない。
麺に絡むミソスープの甘辛さ。
適度に加えられた塩コショウとニンニクの風味は脳を殴られるかのようなパンチの効いた味に仕立て上げられている。
キャベツとモヤシの与えるこのシャキシャキ感はどうだ、やもすればくどさを感じかねないこの油の固まりに清涼感を与える。
その中に見え隠れする豚肉がまた憎い。
他と味付けは同じであるにもかかわらず、これが存在するだけで一気にボリュームが飛躍する。
「……ップハッ!」
これ見が良しにコップに注がれた清涼水を一気にあおり、口内に渦巻く油を一気で胃袋に流し込む。
これで食える。また続きが食えるのだ。
やがて私に異変が起こった。
一心不乱に麺を啜り上げる私の眦に、熱いものがこみ上げてくるのだ。
どうやら私の海馬が引きずり出した記憶は、ラーメンの味だけではなかったらしい。
遠き過去の日。あれは私がまだ少年であった頃。
・
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
「お父さん、おなか減った」
「……だからなんだ?」
娘が生まれてから、彼にとっては初孫になるが、やたらと笑顔が増えたものの、私の内にある父の記憶はこんなものだった。
彼は口数少なく、気難しい、怖い人だ、そんな記憶ばかりだ。
「お母さん出かけちゃった。ご飯どうしよう?」
「……ふん」
冷蔵庫の中にはめぼしいもの、パンや惣菜のようにそのまま食せるような物は無く、材料があるのみ。
否、私は知っていた。戸棚の中にはインスタントラーメンがあることを。
とはいえ、当時の私に、それを調理して食す、という考えは無い。
火を使うことは厳に禁じられていた。
つまりこれはある種恐怖の対象でありながらも心強い保護者である父に対した遠まわしなおねだりだったのだ。
「……待ってろ」
そう言って台所へ向かう父の背中を見送り、父を怒らせることなく、無事に昼ご飯にありつける。
我ながらコソ狡い子どもであると思うが、ともかく、そう安堵した。
しかし。
「………もう来るかな?」
15分経過。
「おなか空いたな……」
30分経過。
インスタント麺如き、正直10分、15分あれば完成しよう。
しかし、父は未だ部屋に戻ってこなかった。
なにやら作業をしている音は聴こえてくるため、どこかに出かけたということは無いだろうが。
そういえば私は父が台所に立つ姿というものを見たことが無かった。
想像力豊かな幼少の頃とあっては、様々な思考が沸き立ったものだ。
もしかして父は調理に失敗しているのではなかろうか。
失敗作を食べさせられるのだろうか。
そもそも、あのようにねだったことが、父に大きな不興を買ったのではないか。
概々、そのようなことを考えていたように記憶している。しかし、その妄想ともいえる考えはあっさり裏切られた。
それも最高の結果で。
「……出来たぞ」
そう言って湯気の湧き立つどんぶりを二つ、盆の上にのせ現れた父。
平素見慣れないその姿に驚いたが、そのどんぶりの内容には更に驚愕した。
インスタントラーメンといえば素っ気無いもので、そのパッケージに描かれているものとは遠く離れた、スープと麺だけのもの。
それが私の常識だった。
ところがどうだ、父の持ってきたラーメンには袋の絵と同じものではないものの、豪華に野菜炒めが盛られていたのだ。
常に無いご馳走に、夢中になって麺を啜ったのを覚えている。
父は、私が食事をしている最中、私の事をじっ、と見つめていることの多い人だった。
厳しい人だったので、私は、私の食事作法に注視しているのだと考えていた。
そう考えていれば彼の視線は威圧的なものに思えたし、正直、私も息がつまり、食事に身が入らないことも多々あったものだ。
やはりというか、父は私の事を見つめていた。
だがこの時ばかりはそんなことに眼もくれず、今と同じように、一心不乱にラーメンを啜っていた。
何より嬉しかったのだ。
あの怖いと思っていた、料理などしないと思っていた父が、自分の為に手間を割いてこんなにおいしいものを作ってくれたということが。
思いは溢れ、私は父に言った。
「お父さん、凄くおいしい!」
「……ふん」
あれから二十年以上経っているが、あれほど旨いラーメンは食べたことが無い。
そしてあの時、いつもの面白くなさそうな言葉とは裏腹に、父は私に笑顔を向けていた。
あの時は父は何が可笑しかったのかわからなかったが、妻帯し、子どもが生まれた今ならわかる。
我が子が食事を取る光景は、何物にも変えがたい、親にとって最高の幸福を感じられる時なのだと。
あの眩しい笑顔は、食事中の私を注視するのは、そういうことなのだ。
私はあの父に愛されていたのだ。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
・
「お父さん……」
つ、と頬を雫が流れた。
そして目の前には空になったどんぶり。その底には『喜』の文字が二つが並ぶ。『フタツキ』、と読むらしい。
曰く、『客も喜び、店も喜ぶ』。
素晴らしい文字だと思う。
だがこの美しい記憶を思い出した今宵だけは、どうかその意味を少しだけ改変してもらえないだろうか。
あの時、私は嬉しかった。そして父も嬉しかった。そうに違いない。
時刻は1時を過ぎていた。
***********
深夜の事務所に軽快なタイピング音が響く。
空腹を解消した今となっては、私を遮るものなど何も無い。
強いて言うのであればこの幸福ともいえる満腹感は眠気を増進させることくらいか。
しかし、私がこのまま寝オチすることは無いだろう。
何故なら、私の胸の内は、幸福な記憶によってこんなにも熱いのだから。
食とは『人』に『良い』と書く。いや、それが正しいことかは定かでないが、今日よりはそう思うこととしよう。
故に、夜食おそるるに足らず。腹が減ったときは食べるものだ。
それで横っ腹はおろか、尻や腿にまで贅肉が付いても、まあよしとしよう。
なにせ我が妻は寛大であるから。
結局、あのラーメンは誰が作ったのかもわからない、けれどソレを食べることが出来たお陰で、私は大切なことを思い出せた。
「……ごちそうさまでした」
あのラーメンの製作者を初め、
インスタント麺という偉大な発明をした研究者に、
幸せだったあの時の記憶に、私はそうして、独り呟くのであった。
今日はここまで。
こんな感じの『孤独のグルメ』モドキ?(読んだ事無い)、でございますが、どうでしょうか?
よろしくお願いいたします。
いいと思う
主人公は変わるのだろうか
>>26
変えようと思います。
一話完結の短編集的な感じでいければと思いますれば。
銀の匙
旦那は久しぶりの大残業だ。
かといって、流石に夜更かしをしすぎてしまったようだ。
時計の針は既に2時をまわろうとしている。
夕食を作り、子どもに食べさせ、家事をこなし、それから仕事に戻る。とはいえ、私は旦那のように会社務めなわけでない。
所謂、翻訳家というヤツな私は、営業から打ち合わせ、作業から納品まで仕事といえばずっとパソコンに向きあいっぱなしで自宅に篭る。
没頭する性質なので、いつも私の健康状態を気に掛け、ソフトにブレーキを掛けてくれる彼がいなければ今日のようになってしまう。
家にいる時間が長いため、自然、私が家事をすることは多い。
夫はソレを申し訳なさそうにし、「僕は君が居ないとダメだね」、なんて自嘲して言うのだが、それは違う。
今の私こそが彼に依存しているのだ。肉体的にも、精神的にも。
一度、旦那が短期出張で家を一週間ほど空けた時があったが、案の定、私は今日のような生活を繰り返し、睡眠不足と過労で倒れてしまった。
独身のころはそんなことはしょっちゅうだったので特に気にしていなかったが、出張先から帰ってきた夫に激しく叱責を受けた。
「何故自分を大切にしないのか」「万が一のことがあったらどうするのか」。
私が翻訳してきた本では積もりあがるほど繰り返されたセリフだったが、いざ直接言われると、きつく感じると共に、胸が温かくなったものだ。
彼は付き合っていた頃から変わらず、私に、家族に優しい。
無理をしているのではないかとこちらが気にするほどに、である。
だからせめて、彼がいくらかでも誇れるよう、私は妻として、女性としての美しさを、せめて標準的なこの体形くらいは保ちたいと思う。
まったくもって柄にも無いことであるが。
しかし、まあ、だから、だからなのだが。
「……まだ残ってたよね」
そう考えるのは良くない。良くないったら良くない。
主に私の体形に左右する方向で。
当然、今も空きっ腹を抱え、残業をこなしているであろう旦那にも悪い。
『何が』残っているのか。
ソレを考えてはおそらく私は止まらなくなるだろう。
では、ここは一つ『アレ』をネガティブに考えてみるのはどうだろう。
茶色。
ドロドロ。
辛い。
ご飯。
グツグツ。
福神漬け。
一晩寝かせた。
旨辛い。辛旨い。
ダメだ。翻訳家のクセになんて語彙力の無さだ。
そも、あんなに美味しいものをネガティブに捉えられるわけが無い。
『一つだけネガティブな印象』を思いつくが、それだけは絶対に放ってはならない禁句である。
それを口にするのは女性的にもアウトだ。故にここで私がとるべき行動は唯一つ。
「……寝るか」
それに限る。起きて脳を働かせるからこそ腹は減る。ならば寝てしまうのに限るのだ。
そうと決めれば私の行動は早い。
元々寝巻きで作業をしていたのもあり、まっすぐ寝室へ、といってもこのリビングに直通なので移動というほども無い距離であるが。
夫はもう直ぐ帰るだろうか。きっとおなかを空かせているに違いない。
とはいえ、キッチンには解りやすく『アレ』の入った鍋があり、炊飯ジャーにもご飯がある。メモも残していることだし。
「おやすみー」
と、誰に言うでもないがそうして床につくのだった。
**********
「具がなくなっちゃった……」
これは、どこだろう。
実家だ。目の前には鍋がある。
「それがいいのよ」
母だ。まだ若い頃の。これは夢か。幼い頃の夢。
「なんで?給食のはたくさんあるよ?」
「野菜やお肉が完全に溶けた頃が一番おいしいの」
「ふーん」
母娘二人、鍋を前にして炊事をしている。いつの記憶だろうか。ああ、それにしても良い匂いだ。
家に帰った瞬間。今日は『アレ』だと解る独特なこの香り。複雑に絡められた香辛料の香り。
この匂いだけで、あの筆舌しがたい複雑な野菜と肉の旨みと、ほのかにある辛味を回想し、口の中では知れず唾液が込み上げる。
「少し食べてみる?」
「……うん」
コレだ、コレが好きだった。
この料理を作る時の楽しみ。
味ききと称し、小皿に盛られたソレをティースプーンで食す。
ある意味、本来の食べ方で食すよりも旨いのだ。
つまみ食いが特別旨いのと同じ感じである。
我慢する必要もない。
母より手渡された小皿のソレを、
なんの躊躇いもなく、私は。
あーん、と。
**********
「……む」
なんということか。もう少しだったというのに。
寝る前に食べることを逡巡していたためか、まさかあんな夢を見てしまうとは。
「あー……もう」
そんな言葉も出てしまう。そして知らずキッチンに意識がいってしまう。
正確にはキッチンにある『アレ』に。気のせいか匂いまでしてくる気がする。これはいけない。
早々、寝入ってしまおうと再度布団を被るがそうはいかない。
女にあるまじき空腹音まで響くとは、余計空腹であると自覚してしまうではないか。
どうするか、この際食べてしまうか。
いや駄目だ。
まだ旦那は帰ってきていないようだ。
しかし、時計の針は午前二時にもなろうとしている。そろそろ帰ってきても良いはずだ。
そうなるとどうだ。
私がモリモリと『アレ』をほおばっているところにクタクタになった彼が帰ってくる。
その可能性が浮き出てくる。
その絵面をたるや、妻としても女としても完全にNGだ、実にいただけない。百年の恋も醒めかねない。
しかし、だというのに。何故、何故だ。
どうして『アレ』の、『カレー』の匂いがしてくるというのだ。
まさか未だ私は夢の続きを見ているのだろうか。
クッソ、とろみのあるスープのみが鳴らす、あのクツクツという煮込み音まで聴こえてくる。
間違えてはいけない。グツグツではない、クツクツだ。小火で煮込んでいるあの音だ。
しかしこれは幻聴だろうとも。
いくら私がズボラとはいえ、流石に火の始末くらいは確認して床に就く。
ならばコレは夢だろう。けれど、それにしたってここまでリアルな必要は無いだろう。
「……仕方ないわね」
そう仕方ない。
私がガスを付けっ放しにしている可能性は無きにしも非ず。
いや、たった今の自分の思考をあっさり否定していることはわかっている。
しかしね、微粒子レベルであってもその可能性が存在するなれば、旦那に代わってこの家を守護する妻として確認を怠るわけにはいけない。
その結果、鍋の中身を小皿一杯分すくったところでなんの罰が下ろうか。
そう、これは味見だ、夫がいつ帰ってきたとて、美味なるカレーを食べられるようにする為の必要な行動。
懸念された絵面の悪さも、味見程度ならばどうとでもごまかしが付く。
「へへ、良い匂いさせやがって……」
夜中のテンションとは恐ろしいもので、今の私は独身時代のものに戻っている。
お馬鹿、考え無し、その私がカレーを食してやろうというのだ。
少量ならば大丈夫。子どもを生んでからというもの弛みやすくなったいえ、この私、毎日の腹筋は欠かしてはいない。
少量ならば、少量ならば。
だが、しかし。
「なん……だと……?」
寝室を出で、リビングに到着した私を待っていたのは。
「なんてこと……なんてことしやがる……ッ!」
美事なまでに大盛りのライスに盛られた『カレーライス』だった。
ご丁寧になみなみと水の注がれたコップまで添えてやがる。
何故だ?旦那が帰ってきてるのだろうか?いや、その気配は無い。
泥棒?強盗。馬鹿な、そんな不埒な輩が、人様の家に侵入して何故残り物のカレーを温め、盛り付け、あまつさえ福神漬けを添えようというのか。
「な……、いかん……ッ!」
それを手にとってはいけない。
真夜中にあって尚、僅かな月光を反射し鈍く光を放つ銀の匙。手に取れば最後、戻れなくなる。
嗚呼、しかし、本場であるまいし右手で食すわけにもいかない。
否、そもそも食すのがいけないのだ。クソ、思考が入り乱れている。
いや、待て、そもそも私は何をしにここにきた。
そう、カレーの匂いをさせる、安眠を妨害する何かを断ちにきたのだ。
それは何か。知れたことである。
嗚呼……もういいや。
「いただきますっ!」
スプーンを親指に挟んだまま両手を合わせ、次の瞬間にはカレーを浚っていた。
何度も行ってきたこの動作によどみなど無い。
スプーンの上には半分がライス、半分がルゥ。
スプーン上に一瞬でミニカレーライスを作ることなど、日本人であれば誰でも出来ることだろう。
それを一口だ。
「ぬ……っ」
その一口で気付く、コレは私の味付けではない。
しかしこの、寝かせたカレーのみが出す舌を蹂躙するまろみ、凝縮されほとんど溶け込んだ具によって現れる、甘味にも見たこの深み。
だが決定的に違うのはその辛さだ。
「でも……っ、コレは……っ」
唐辛子系にガラムマサラ等の香辛料が注ぎ足されている。この深みにこのパンチ。コレだ、コレこそがカレーだ。
辛いものが苦手な我が子と旦那にあわせ、ここ数年食べることの出来なかったカレーライスだ。
卑怯だ。寝かせたカレーは美味いというのは日本全国の常識だ、タダでさえそうだというのに、その味付けは私好みになってるなんて。
駄目だ、おなか減った。一旦中断します。
コラー!なんてことしやがるんだ こいつときたら!
サブタイを漫画からもってくる、なんて縛りがあるのデスか?
ごめんなさい今日はここまで、でございます。
一つだけ訂正を
>>38
×→しかし、時計の針は午前二時にもなろうとしている。そろそろ帰ってきても良いはずだ。
○→しかし、時計の針は午前三時にもなろうとしている。そろそろ帰ってきても良いはずだ。
瞬間、額に湧き立つ汗。ひり付く唇。
何度でも言おう、カレーだ、私は今、カレーを食べているのだ。
しかしこのままでは辛さにやられてしまう。
抜かりなし、福神漬けで中和。
そして水。
再びカレー。
この黄金パターンに一切の死角無し。美味し、美味し、美味し。
掬ったルゥに時折交ざる、溶けかけた具はカレーの当たり的存在といえよう。どうだ、この柔らかさ。
口に入れた瞬間、舌で押しつぶす必要も無く完全に溶け切り、後に残すは濃厚なその旨みのみ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
あえての大音量で豪快に水をあおる。
それもまたカレーの醍醐味。さあこれでまだ食べられる。
手元には皿と銀の匙が残っているのみだが、鍋にルゥは残っている。
そしてジャーのご飯も未だ健在なのだ。旦那がいない今宵この晩、私の夜はまだ始まったばかりだ。
**********
「ゲフッ」
やってやった。
炊飯ジャーの中身は私の胃袋と反比例し今は虚しい空間があるのみ。
あれだけ鍋に満ちていたルゥも、いやこそげばなんとか、しかし世間ではソレを空というのだろう。
この充実感、実に何年ぶりだろうか、ほのかに染み出る汗が今は酷く気持ち良い。
妊娠中であるかのようにすっかり丸まった腹をさすり、心地好い疲労感と、文字通り満たされたこの幸福に浸る。
そうとも、一時的とはいえ、飯を食らえば腹は膨れるのだ。なんとも栓の無いことで悩んでいたものだ。
とはいえ、流石に動かねばならない。
幸い食事中に旦那の帰宅は無かったが、この有様を見られるのも流石に気が引ける。
そして、そんな時だった。
ガチャリ、と。
「ただいま……なにしてるの?」
と旦那。
「あ……」
と、私。
しばしの硬直。
気付いた旦那の目線。
口。
片付け始めた食器。
そして膨れ上がったお腹。
「……に、妊娠した」
私の語彙ではその程度の言い訳しか思いつかなかった。
翻訳家は廃業しようかと悩むのだった。
一旦、キリ!
また、夜に来るかもです!
中華一番
ふう、と、一つ、ため息。今晩にいたってはもう何度目か、数える気にもならない。
そろそろ虫の息に変わるのではなかろうか。
腹が減っては戦は出来ぬとは言うが、それ以前に生死に関わるのは子どもでもわかる道理であろうに、
所詮は学があって、食うに困らぬ人間の言葉であろう。
それこそ腹の足しにもならない。
ポケットに手を突っ込むのも何度目か。別に寒くて手指がかじかむわけではない、強いて言うなら己の状況を再認識するためである。
二十五円。
掌の上にあるソレは何度確認したところで変わらぬ現実であり、そしてコレこそが自分の状況であり、
黄金色に光る硬貨にあいた穴の向こうには、知れきった己の未来が見えそうなまであると男は悟った。
「しけてやがる」
そんな言葉しか出てこなかった。そしてそれも知れきっている。
苛立ちを誰に見せるわけでもないが隠そうともせずに乱暴にポケットに突っ込む。
それも何度目か。どうしたところでこの状況は好転しないのだ。
ポケットを叩くとビスケットが増える、なんてふざけたおした歌詞の童謡をふと思い出す。
まさか増えていやしないだろうか、なんて思ってもいないが、己の心のうちには僅かでもそんな想いがあるのだろうか。
自分はさっきからこうしてポケットの硬貨を何度も出したりしまったりしているわけだ。だとすれば惨めだ。
喉が渇いたが動きたくない、ならば雨が降るのを待とうかいと、天に向かって口を開くが如くの様。
ただひたすらに惨めだ。もっと言えば阿呆だ。
ともかく腹だ。自分は腹が減っている。このままでは悪あがきすらも叶わない。
この際、ビスケットでもいいから増えやしないかと思うが、
止せ。
と直ぐに思いとどまる。
あれは最初に『一つのビスケット』という元手があって初めて成立する話で、
馬鹿な。
と再度、阿呆な逡巡を繰り返すこの思考をリセットし、
兎も角、この窮地を脱出するため、一世一代の賭けに出るのだった。
**********
『器物破損』『住居不法侵入』『窃盗』。
ことの成り行きしだいでは『強盗』もつくのだろうか、ともかく一世一代にしてはケチな行いである。
人様に迷惑をかけようという行為にケチも崇高もあるものか、けしからん。
と人は言うだろう。けれど男はこう答えるに違いない。「飢えた人間にとっては大抵がどうでもよくなる」と。
飢え死にの感覚はよく解らない。
ともかく視界が狭くなり、色も失いつつあり、思考が出来ない。
おそらくこうして一つずつ感覚を失い、気が付けば死んでいるのだろう。
そんなおぼろげな意識の中でも、初めのころは自らの行いを咎めた。
しかし、『三度目』ともなれば慣れたもので、見ず知らずの他人様の家に無断で侵入することになんとも思わなくなった。
それともそんな事を考える余裕すらなくなったのか。
そんな緩みとも言える心持が良くなかったのであろう。
「おじさん、だれ?」
家人に遭遇した。女の子ども。かわいらしいフリルの付いたパジャマの上下。
この家の者であることは直ぐに察しが着く。
カーポートには車が停まっていなかった。
従って何らかの理由で外泊しているだろうと踏んだのだったが所詮は素人の浅知恵だったらしい。
「あ……」
実に間抜けな返事だ。そんな言葉しか出てこない。
「泥棒?」
聡明な子だ。あてずっぽうにしてもその回答は百点満点だ。
しかし、そうだ、とも答えるにもいかず。たちすくむ己の何たる間抜けなことか。そうこうするうちに男の体が物を言った。
グゥ。と。
「……お腹空いているの?」
「空いている」
そんなことばかりは即答できる自分に嫌気がさしてくる。
その程度の羞恥心は男にまだ残されていた。
「……こっちおいでよ」
そうして女の子は奥へ行ってしまう。どうする気か。
知らず、男の意識はズボンの後ろポケットにいく。正確にはそこに差し込まれた『包丁』に。
「なにしてるの?こっち……」
扉の一つから彼女は顔だけ出して男を促す。
お前こそ何のつもりだ、と問い返したいものの、ここで機嫌を損ね、大声を出され、ポケットの中身を使用せざるを得ない状況になってしまうのはいただけない。
ともかく黙って従うことにした。
広々としたリビングキッチンだ。
しかし生活感が薄いというか、必要最低限のものしか置かれていない。
冷蔵庫や調理器具は奥のキッチンに並んでいる。しかしどれも使い込まれた様子は無い。
調味料も揃ってはいるようだ。
だが、実のところ、調理器具に関して男には一家言あり、一見充実そうなこのキッチンにあっても、この家の住人はまともに料理をしないであろうことは明らかであった。
そのキッチンで少女がゴトゴトと何かを出している。
「はい、こんなのしかないけど」
ラップに包まれた冷ご飯である。
「は?」
相変わらず、そんな間抜けな返答しか出来なかった。
「お腹空いてるんでしょ?」
盗人に追い銭とはこのことか、しばらく男は逡巡するも、乱暴にラップを剥ぎ取ると冷ご飯にがっついた。
美味い。
日本の米は美味い。
冷えていてもだ。
噛み砕く先から、炊いた米本来の柔らかさを取り戻し、胃袋に届かずとも口内は潤った。
どうだ、この甘味。コレが米本来の旨味だ。
焦りと空腹による疲労感からか、租借は拙い。
だが幾千、幾万と繰り返されたその行動に男の舌は正確に動き、栄養源を胃袋へと流し込む。
美味い。と、体がそう叫んでいた。
我が胃袋よ、お前もそう言うか。
「凄いお腹の音。おじさん何も食べてなかったのね」
見りゃ解るだろ。と、返答するのも無く。
ラップごと食べかねない勢いで冷や飯をほおばる。
満たされる、なんたる幸福。空腹は最大の調味料とは良く言った。
満たされる、何たる屈辱。冷や飯程度で己は幸福を感じている。涙すら浮かんでくる。
「まだ、食べる?」
まだあるのか。当然、というところで男の思考は戻った。
「待て、お前は一人か?」
「一人よ、お母さんならいない。今日も仕事」
やはりか、と、男は自分の予想が当たっていたことを確認する。
同時に己の間抜けさも。
こんな一軒家で、一人暮らしなわけが無い。家族がいる可能性が高いに決まっている。
今は過ぎ去りつつある空腹のせいで、己はまともな判断が出来なかったのだと胸中で言い訳し、男は本来の目的を実行すべく口を開いた。
「金目のものを出せ」
「……わからない」
変な子どもだと思っていたが、やはり年相応だ、男がそう告げた先、見るからに顔はこわばる。
わからない。当然か、親が仕事で不在ならば、財布などは当然持ち出しているであろう。
こんな小学生ぐらいの子どもが通帳や印鑑の場所を知っているとも思えない。本当にわからないのだろう。
「ごめんなさい……殺さないで」
胃袋に流れ込んだ血液が、一気に脳へと撒き戻される錯覚を覚えた。同時に戻ってきたのだ。罪悪感が。
「いや、殺さないっ」
反射的にそう言った。本心からである。
少女の顔はまだ硬い。当然である。男は侵入者で、彼女は男に対して為す術が無いのだ。
「じゃあ……どうするの?」
「どうするって……」
どうしよう。情け無い。自分でも惨めになる。ここにきて自分が正気に戻るとは夢にも見なかったのである。
だが、
グウウウウウ……
男が正気であろうと、なかろうと、体は、胃袋は正直に「どうしたいか」に応えたのだった。
再度、惨めになる。
「……フフッ」
笑われてしまった。
「ごめんなさい……フフッ」
だが、そんな間抜けな音でも、この場を救ってくれた。
正気に戻ったさきから混乱しだした男の頭も冷静さを取り戻し、自分の間抜けな様を客観してみればどうだ。
「……クッ、クククッ」
そうだ、少女が笑うのも当然だ。男だって笑えた。
「フフッ……ご飯、まだ食べる?」
「ごめん、貰う。いや待て」
「いらないの?」
そうじゃない、と言葉を閉めると。男は少女が冷や飯を取り出した冷蔵庫の中身を漁る。
絶句した。
「ごめんね、お母さんほとんど買い置きしないから……」
恥ずかし気に俯く少女だが、そういう問題ではない。冷蔵庫にあるのは卵、どんぶりいっぱいの冷や飯。それだけだ。
「……お前、今日の晩御飯なに食った?」
冷蔵庫から目を離さず、幾分低い声を出してしまう。
そして、予想はしていたことだが。
「……おじさんと同じ」
飽食の時代に栄養不足で倒れそうな人間がここに二人もいたのだ。
その言葉を受け、男は目線をキッチンの隅々まで駆け巡らせた。
調味料は全て揃っている。だが揃っているだけだ。初めは真面目に自炊をしようとしたが諦めたパターンだと男は納得する。
中華ダシなど洒落たものを買っておいて未開封とは、しかしそのお陰で腐ってはいないだろう。油類も問題なさそうだ。
調理器具も新品同然。火気類はオール電化なのが男としては気に入らない所であったがが、まあ良いだろう、と勝手に納得する。
洗剤、スポンジ、タオルは……少女に借りれば良いだろう。清潔なのは第一条件だ。
「卵と冷や飯」
「え?」
「全部使うぞ?」
少女の返答を待たずして、男の手は走りだした。
きゅ、休憩っ、まさか冷や飯の描写程度で胃袋が音を上げるとは……っ!
都合よく、どんぶりにラップを掛けたまま保存されている冷や飯をそのままレンジに入れる。
少しで良い、完全に固まった状態から解凍されればそれで良いのだ。
手際よく別の器に卵を落とす。溶きすぎず、かといってダマを残しすぎず、手早くかき混ぜる。
チンッ。
小気味良く卵をかき混ぜる箸を止め、レンジから冷や飯を取り出す。
「卵ご飯作るの?」
「いや……」
これだから子どもは。嘆息も洩れそうになる。
深夜、男が手軽に作る夜食など相場が決まっているのだ。それが解らないとは。
とはいえ、卵ご飯を貶しているわけでも無い。
あれは美味い。だがこの空きっ腹、それだけでは済まぬと、やや湯気を放ちだしたご飯に溶き卵を流し込む。
混ぜる、混ぜる、混ぜる。
「醤油いる?」
最早、無視。今この時においては、時間との勝負なのだ。
飲食店の厨房と家庭のキッチン。決定的に違うのは火力という意見がある。
確かに、飲食店などの厨房の火力は家庭用に比べるべくも無い。
だがそれはノロマの論理である。
フライパンや鍋。その上に敷く油の温度とは際高温が決まっている。
具を炒めたり、煮たりすることでその温度は当然下がり、飲食店の厨房ならばそのまま最大火力が維持でき、
家庭ではそれが困難、だが手早くやれば大差は無いのだ。
コレまでの工程の間、男は更にもう一つの工程を重ねていた。
熱しにくい電気調理器は既に点火済み。フライパン、油も当然加熱済みである。
火力の性能の差が、味の良し悪しの決定的な差では無い事を教えてやる。
すべては男の掌の上である。
一粒残すことなく、熱されたフライパンの上に卵ご飯が流し込まれる。
右手にフライ返し、左手にフライパン。否、それらは男の両手であるかのように自由自在に動き、
卵と混ぜ合わさった米が、その上で舞い踊るあたかもそれは砂金を練成するかのような幻想的な光景である。
すべては男の掌の上であるのだ。
塩コショウ、中華ダシ。それだけで良い。多くの手間を加える暇など無い。寧ろコレだけで充分なのだ。
そう、『炒飯』である。
訂正
>>71 フライパンや鍋。その上に敷く油の温度とは際高温が決まっている。→×
フライパンや鍋。その上に敷く油の温度とは最高温度が決まっている。→○
「……皿」
と、ぶっきらぼうな物言いをする。背後で慌てふためく足音がする。
少女は見入っていたようだ。見ずとも、そう確信できる会心の段取りと出来栄えである。
最早食さずとも解る。体中の細胞が既に知覚しているのだ。『コレは美味いものだ』、と。
見よ、この室内の僅かな光を弾き返し煌く米の一粒一粒。黄金と例えてなんの遜色があろう。
見よ、この湧き立つ湯気を。あたかもその香りを具現化したかのような光景ではないか。
長くは語るまい。限界なのだ。この男も。少女も。正確にはこの男の腹も、少女の腹も。
日本人であれば、全国各地離れ離れであっても、誰もが唱える共通言語を今こそ放つのだ、と。
「いただきますっ」
口に入れた瞬間。
どうだ、この食感。租借に何の抵抗も無く、ゆっくりと噛み砕かれていく米。
フワリと口の中を満たし、下味と米本来の旨味が合わさり、ただでさえ最強に思えるというのに、噛めば噛むほど口内は幸福に包まれる。
それでいて一切のべたつきは無く、パラリとした食感は一度に大量の租借を可能としてしまう。
やや多めに加えられた塩コショウの辛味が食欲を一層掻き立てる。犯罪的ですらある。
中途半端、でございますが、本日はここまで。お腹減った……
男は述懐する。
食事とは楽しく在るべきである。ソレこそが人を人足らしめる最大の要因の一つ。
食事中の会話は人と畜生を分ける『豊かさ』なのだ。 少女と男は視線を交わすことは無い。会話も無い。
しかし必要ない、必要ないのだ。
食器にスプーンがこすれる音を聴け。それだけで一心不乱に飯をかっ込む少女の姿が目に浮かんだ。
そして彼女も自分の姿を容易に想像していることであろう。
突如、スプーンを置き、席を立つ少女。その意図を男は問わない。既に彼女のとらんとする行動を察知し、一言。
「すまん」
「ん……」
熟年の夫婦の如きやり取り。少女が出したのは二つのコップ、そして麦茶。
かっ込んだ炒飯を租借しながらのその行動。
決して褒められたものではない、しかしどうだ。この気遣い。これこそが人である。
食を通し、今日会ったばかりの二人であっても以心伝心の境地に達することが出来るのだ。
コトリ、と。
麦茶がなみなみと注がれたコップが目の前に置かれる。
飲む。再び食べる。
「おじさん……」
「ん?」
突如、少女の質問であった。
「泥棒なの?」
「んん」
互いに心を交わし、言葉を必要としない関係から生まれたのは更に『理解したい』という気持ちだったのか。
ソレは男にはわからない。ただ事実を事実のまま伝える。
「……なんで?」
「色々あってな……」
麦茶を一気に飲み干し、一呼吸置く。そうだ色々あった。
「カミさんと子どもが交通事故で死んでな、色々どうでも良くなって」
「ふーん……」
腹が満ちるのは決して良いことばかりでは無いかもしれない。
心に余裕が生まれ、考えなくても良いことまで考えてしまう、思い出さなくても良いことまで思い出してしまう。
人がこうして地球で栄えている理由の一つは、豊かな食生活により幸福であるから、ではないかと男は考えた。
腹が満ちると生きることに余裕が出てくる。色々考える時間が出来る。もっと豊かになる。
けれどその豊かさと幸福、余裕や考えることはソレそのものが不幸の原因にもなる。
欲望は際限が無いからだ。
そしてなにより、考えることは苦悩を生む。今の自分がまさにそうだ。
つらかったことを吐き出せばきりが無い。言葉は止まらなかった。
「仕事も止めて、借金作ってまでギャンブルして、家も追い出されて」
室内に響いていた食器がこすれる音は止んでいた。
その静寂ですら、少女の様子を捉えることができた。彼女は男の話を真剣に聴いてくれているのだ。
「食うに困って、それでな」
「……何回も泥棒したの?」
「いや、確かに何回かは忍び込んだんだが」
「どうしたの?」
「むいて無いんだろうな。何も盗めずに逃げた」
「どうして?」
「その……腹が減ってな」
一番最初に忍び込んだのは貸しビルに構えられていた事務所。
何の会社かはよく解らないが、セキュリティがザルだったのであっさり忍び込めたが、残業中の社員と鉢合わせしそうになって逃げた。
「なんで?」
「あ?なんでってなんだよ?」
「どうしてお腹が減ったから逃げたの?」
自分でも間抜けに思う。
いつだったか空き巣狙いが侵入した先の家で昼寝をし、その間に家主が帰ってきて敢え無く逮捕された間抜けな事件を聞いたことがある。
今なら彼の気持ちが少しは解る。ほぼ同レベルの事を自分はやらかしたのだ。
「その、夜食を作ろうとしてな……」
「それで見付かりそうになったの?」
「まあ……」
「……変なの」
クスリ、と笑われても起こる気になれない。
男もその意見には全く以って同意であった。
次いで忍び込んだ家ではカレーを温めなおそうとしたなど口が裂けても暴露できない。
このうえ『しかも懲りてない』などと思われるのは流石に羞恥に耐えぬものがあった。
「ご馳走様でした」
両の掌を合わせ、いつの間に完食したのか、少女は食事を終えていた。
そうするのが当然という動作で、食器を流しに持っていき、洗いだす。
年の割りにしっかりしているものだと少なからず感心した。
男も最後の一口を平らげると、少女に続き、流しに食器を持っていく。
今更、少女にどうこうしようなどという考えは消えうせていた。
片づけが終わったら帰ろう。
この少女もすぐに通報したりはしないだろう、自分が帰った後は解らないが、それを咎める気は男には無かった。
やはり自分はこういったことには向いていないのだと、どこか諦めていた。
「なあ……」
と、少女に声をかけ、その肩に手を置いた時である。
「痛いっ!」
その声に思わず手を引く。
同時に少女が洗っていた食器が流しに落ち、音を立てた。
割れていない、少女に怪我も無いようだ。
全く持って強くしたつもりは無い。
何故だ。という意図を込めた視線を送れば、少女の顔に浮かぶ表情は痛みを堪えている顔などではなかった。
バツの悪そうな顔。見られたくないものを見られた、そんな顔だった。
「何でもない……」
こちらが何も言っていないのに少女は言い訳じみた言葉を洩らす。
何故か。
「……何でもないわけ無いだろ」
「何でもない……」
何故か、男には少女の意図が解ってしまった。
少女の言い訳を聞き続けるつもりは無かった。無言で彼女が着ているパジャマの袖を捲る。
「……何でもない」
嗚呼。
「何でもないの……」
やはり、腹が満ちるのは決して良いことばかりでは無い。
一時間ほど前の自分ならば、『コレ』を見たところでなんとも思わなかったはずだ。
この少女と心を通わしていなければ、自分にとって全く向かないはずの悪事に駆り立てられることは無かったはずだ。
「……これ、なんだ?」
「知らない」
未成熟な、白い肌に斑模様にもなるほどに付いた『青痣』を指して言った。
「……誰かにやられたのか?」
「知らない」
医者でなくともわかる。これは心無い『暴力』によってつけられたものだと。
「……なんで冷蔵庫が空なんだ?お前いつも何食べてんだ?」
「……知らない」
誰だってわかる。彼女が『何をされたのか』。
「なんてこと……なんてことしやがる……ッ!」
今日はここまで。
************
深夜、というより、もう朝方である。日は未だ明けていないものの、新聞配達員はその業務に取り掛かる時間だ。
産業道路から離れたこの住宅街で、軽薄な赤色のスポーツカーが走っていた。進路によどみは無く、やがて一つの家に停まる。
スポーツカーから出てきた女の足取りはおぼつか無い。
崩れた化粧。だらしなくはだけた衣服。ほのかに赤い顔。
深酒の末、男と寝て、そのまま帰ってきたことなど誰の目にも明らかなことである。
使い古したブランド物のハンドバッグから鍵を取り出したその時である。
「おい」
突如の声に振り向く女。否、振り向くことは出来なかった。
力任せに首根っこを押さえつけられ、腕をねじりあげられ。壁に叩き付けられる。
「え!?え!?」
「黙ってろ」
何が起きているのか理解が追いつかないまま、背後から底冷えするような声で囁かれる。殺される。女は恐怖した。
「ガキがいるのに朝帰りか?良いご身分だな?」
子どもがいることを知っている。別れた元夫、ではない。明らかに声が違う。
女の頭では混乱で思考が飛び交う。だが、背後の男は構わず言葉を次いだ。
「クソ女。自分がされるのは慣れてないか?」
「な、なんでこんなこと、お願い、離してっ、痛いっ」
「……お前は自分のガキになんて言った?」
女としては何のことかわからないでもなかった。
自分は子どもに暴力を振るい続けていた。
確かに、似たようなことを言っていた。
「そんでお前はどうした?言ってみろ?」
子どものことで怒っているらしいのは解る。だが関係性が理解できない。
何故自分はこの男に捻りあげられているのか、一体この男はなんなのか?
女の頭の中を幾つもの疑問が錯綜するのを他所に背後の男は腕に力を込めた。
壁に当たる顔面がすれる。ねじれた腕が軋みをあげる。
「あうっ」
「お前はこの後、さっさと通報してぎゃーぎゃー喚いて俺に対して報復を求めるんだろうな?ソレが当然だろう、勝手にしろ」
だがな、と、その言葉の後、突如、腕と首に込められた力から解放される。
ソレも束の間、今度は髪を掴まれ、後頭部を壁に叩き付けられる。
初めて自分に暴行を加える男を女は見た。
薄汚いパーカーに身を包み、髭も生えっぱなし、ホームレスのような出で立ちだったが、深く被ったフードの奥に光る男の眼光は剣呑な火を灯していた。
「傷を見られても、知らないって言い続けたガキの気持ちがお前にわかるか……っ!?」
「ひっ……」
「何よりな……っ」
最早、声も出ない。恐怖と混乱で掴みあげられた頭髪に痛みも感じない。
「家族がいるにもかかわらず一人で飯を食い続けたあいつの気持ちがわかるか!?」
叩き付けられる。
「一人で冷や飯を貪る気持ちがお前にわかるか!?」
叩き付けられる。
「覚えとけ、クソ女、この世に腹が減っても満足に飯も食えねえことほど惨めなことはそうはねえんだ……っ!」
叩き付けられる。
**********
自首した。
結局、あの後、女は失神してしまった。
自分がしたことは間違いなく犯罪であるが、別に罪の意識があるわけでも無い。
なんだったらもう一度同じ場面に遭遇したのなら、自分は間違いなく同じ行動をしたであろう。
あの夜、出会った少女はどうなったかは少し気になるものの、最早、男には確認のしようもない。
あの女があれで懲りたとも思えない、そうなれば、自分がしたことの鬱憤はあの少女に向かうだろうか?
だとすれば、それは後悔の種である。
男は、結局、自分がしたことは善行はおろか、偽善ですらないことを理解していた。
ただただ、子どもが鬱憤を晴らすだけの他愛の無い行為。最後の最後までロクなことをしてこなかった。
「で、なんでそんな事を聴くんですか、刑事さん」
「ん……いや、あんたの調書は大体終わったしな。これは別件だ」
「別件?」
腑に落ちない。自分は単独犯で、その最後は自爆だ。
あの家で少女と食事を共にしたことが、どんな事件に絡んでいるというのか。
「んー……おい」
「……はい」
男の目の前に座る刑事は別の机に控え、記録をとる若い刑事に合図をする。
若い刑事は直ちに記録用のノートだろう冊子をしまうと退室した。
「……あんたが最後に入った家庭なんだが、随分前から虐待の通報を受けててな」
「はあ」
「はあ、って、あんたもそれにムカついたんじゃないの?」
「まあ、確かにムカつきましたけど」
「で、こんなことが起きただろ?それがキッカケで虐待の証拠が山ほど見つかったんだよ」
「じゃあつまりコレは」
「うん、児童虐待の件だ。あの女の子、親から離れて施設に入ることになるだろうな」
本当にロクでもない。
あの女の子は母親を守ろうとしていたようにも思えた。
自分が行った行動は、彼女と母親を引き裂いてしまったわけだと、そう察した時、男は真に自分を恥じた。
少女は自宅に押し入った自分に食事を与えてくれた。
だが男がしたことは、金目のものを出せと脅し、母親に暴力を振るい、しかもその仲を引き裂いたのだった。
その事実は変わらない。
「なんであんたが落ち込むんだよ」
「いえ……」
親と離れたほうがいい子どもがいるのも、また事実だろう。
だが、それを当人達とは関係ないところで決めるのは、やはり後味は良くない。
「……多分」
「……はい」
「あの女の子、もう腹を空かせて冷や飯かじることは無いんじゃないかな?」
「だと……いいけど」
「幸か不幸かはわからないよ俺だって。けど」
「……けど?なんですか?」
「子どもが腹を減らして、冷たい飯食ってるのが幸せなわけはないよ」
その通り、その通りだ。
少し楽になった気がした。
「ありがとうございます」
「まあ、アンタはこれから冷飯食うことになるんだろうけど」
その通り、その通りだ。
だがその軽口には少しムッとする。
「……豚飯の間違いじゃないですか?」
「はっはっはっはっ!イケル口だねあんた」
「刑事さんも」
「じゃあなんだ。豚飯の前にカツ丼でも食うか?ホントはダメだし、実はあれ自腹なんだけど」
取調べ室でのカツ丼の裏はそうなっていたのかとなにか得心する
。豚飯に対してカツ丼で返してくる駄洒落好きなこの刑事の好意はありがたかった。
だが、この深夜にあっては、そのチョイスに異を唱えるべく、男は口を開いた。
「出来れば中華丼がいいですね」
「へえ?何でまた?」
「いえ……別に、ただ相場の問題であって」
和食は美味い。素朴な家庭料理から高級膳まで、その全てが美味い。
洋食も美味い。馴染みのあるものからレストランでしかお目にかかれないものまで。
なんだったらインドでもいい。インド人が一年中カレーを食っているのも理解できるほどに美味い。
だが深夜の食事の相場は。
「なんだかんだで中華が一番です」
「なんてこと……なんてことしやがる……ッ!」
完
くぅ疲。コレにて終了です。しかし、お腹減るな。
おっつおつおつ
お疲れちゃん
いつの間にかにお気に入りから消えてたことをHTMLスレで知ったよ
リアルタイムで見れなくてすまん
サンタのおじさん、ごちそうさま!
伊丹十三監督の「タンポポ」を思い出した。また旨いもん食わしてくれ!
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