咲「今日のお薦めはこちらですか?」ハギヨシ「はい、この本です」 (58)

ふらりと咲が立ち寄ったのは街の図書館だった。


背の高い木々を背景にして、緑に埋もれそうな建物は3階建て。

白亜の壁は、ベージュの建築物が多い中では陽光に照らされて一際目立つ。

カラフルなタイルを敷き詰められた末広がりの階段を上がり、施設の中へと足を運ぶ。

階段を上がった正面に拡がっているのは、壁を大きくくり抜いてはめ込まれた格子のガラス窓。

ステンドグラスになっており日差しの強い日でも採光を抑える工夫なのだろう。

その前に置かれているのは規則正しく並べられた長机とベージュの布が張られた椅子。

自習室は別に有るため机は個別タイプではなく椅子と椅子の間隔は事のほか広い。

休日には本を積み上げて一日居座る者も居る。

咲は開放されたその空間から離れて、棚が並ぶやや薄暗い方へと足を進めた。

人の視線が通りやすい場所での読書はあまり好まないのだ。

沈むほど毛の長い臙脂色のカーペットの上を歩く。

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やがて最奥に近い位置にまで歩みを進めて。

咲は、彼の姿に気付いた。



棚と棚の合間に不規則に設置された読書スペース。

低く小さな丸テーブルは磨き抜かれた深い焦げ茶色。

ぱっと見はシンプルなデザインだが、四隅には蔓草の意匠が透かし彫りされている。

肘掛の部分が丸く内巻き、緩い曲線を描く背もたれを持つ椅子はグランドファーザーズチェア。

よくよく見れば張られた生地はゴブラン織で、濃い深緑にいくつもの美しい花が描かれている。

天井にまで届くような縦に長い張り出し窓のすぐそばに誂えられているその場所に

柔らかな陽光を受けながら静かに手元の本に視線を落とす―――彼が、居た。

机の上に数冊の本を重ね、背もたれに背を預けたまま片肘を乗せた方の手で時折ページをゆっくりと繰る。

その所作に、張り詰めたものは一切ない。

本棚に囲まれ人の視線も届かない、時間の流れに切り離されて音も無く沈んでいるかのような空間の最中に居ながらにして

体の境界が解けるに任せているらしい彼は、何時になく寛いでいるように見えた。

細い彼の髪を上から下へと光の粒子が滑り落ちるのを見ながら、咲はそっと声を掛けた。


咲「こんにちは、萩原さん」

つ、と面をあげたハギヨシは穏やかな表情で咲を見上げた。

ハギヨシ「こんにちは、宮永さん。こんな所でお会いするとは奇遇ですね」

にこりと微笑みながら、咲を向かいの席へと進めてくる。

咲「そうですね。…あの、萩原さんはいつもここへ?」

テーブルを挟んで相対する椅子へ腰掛けた。

じわり、と肌に染み込む陽光が心地良い。

ハギヨシ「それは図書館に、と言う意味でしょうか?それともこの席のことですか?」

咲「どちらも気になります」

素直にいえば、ハギヨシはふと考え込むように手を顎にあててから、ゆっくりと答える。

ハギヨシ「この時間帯はちょうど休憩時なので、大抵は来ていますね」

咲「そうなんですか。…ここ、素敵な場所ですね」

ハギヨシ「え?」

咲「まるで、小さい頃に憧れた隠れ家みたいです」


窓から見えるのは常緑樹の天頂に近い枝葉。

三階のこの高さにまで伸びた新緑の色は鮮やかに窓ガラスを瑞々しさに染め抜いている。

このサイズの張り出し窓はそうそうにお目にかかれるものではない。

天頂からかかる臙脂色の重厚なカーテンは、天気が良すぎる時に本の日焼けを防ぐためにかけられているものだろう。

まるで一編の物語を切り抜いてそこに置いたかのような、あまりに贅沢な場所。

咲「私、張り出し窓って好きなんです」

外へと視線を投げかけながら椅子に深く腰掛ける。

ハギヨシ「そうなのですか?」

咲「はい。昔よく想像してたんです。家に張り出し窓が有ったら、って」


切り取る景色も、その内側にいる自分たちも巻き込んで物語を編み上げていく力が秘められている気がする。

側に置かれた年季の入った椅子は木製で青か赤のビロード張り。

机は小振りで円卓状、乗せられているのは数冊の本と、銀製の栞。

外に見えるのは木々の濃淡様々な溢れる緑色、遠くに聞こえる全ての声と音。

緩くまとわりつくのは季節の巡りで埋まっていくのは静かに重ねられた時間の層――


咲「張り出し窓は、そういう世界を許してくれる気がして…憧れてました」

つらつらと語って、そうしてはたと我に返りふと口を噤んでそっと相手を伺う。

部活仲間ならぽかんと口を開いたままにするか、何言ってるのか分からないと失笑されるところだろうが

ハギヨシはただ、ふむ、と何かに納得したように一度、頷いた。

ハギヨシ「成程、そういうものですか」

咲「あ、いえ…私がそう思っているだけ、ですけど…」

ハギヨシ「意識したことはなかったんですが、言われてみれば、ここは良い場所ですね」

ハギヨシ「私は滅多に人がうろつかないから来ているだけでしたが」

微かに、口角を上げてハギヨシが笑う。

他者の感じ方を嗤うでもなく否定するでもなく理解できないと跳ね除けるでもなく。

そういう考え方もあるのか、と穏やかに返されて咲は僅かに頬を染めた。

同時にぎゅう、と胸の辺りを鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。

不快感からではないのに、このまま窒息してしまうと錯覚するほど、苦しい。

何故だろう。上擦る呼吸を胸元に手を当てて宥めすかす。

ハギヨシ「それにしても、宮永さんとこんなに会話をしたのは初めてでしたね」

咲「あまり二人きりで話をしたことって、ありませんでしたしね」

最近では衣に誘われて龍門渕邸にお呼ばれすることが多くなったが、

その時も咲とハギヨシが直接会話をすることはごく稀だった。


視線を下向ければ、机の上に積まれた山の中で一番上にあった本のタイトルに気付いて

思わず咲はそれを手にとった。

咲「この方の本、面白いですよね。思わず他の作品も辿って読みました」

一般受けしないのか店頭で華々しく宣伝されることはないものの

咲は非常に好んで読んだ作品の一つだった。

周囲に読んだことの有る者が居らず話が出来ないことを少々残念に思っていたのだ。

咄嗟に弾んだ声になった。

ハギヨシは少し目を見開いて驚きながらも答える。

ハギヨシ「そうなのですか?私と同じですね」

ハギヨシ「良かったら、こちらの作者のものも試してみるといいですよ。気に入るかもしれません」

咲「はい」

ハギヨシ「あとは、…ここには持ってきていませんね。ちょっと待っていて下さい、棚から探してきますから」

咲「ありがとうございます、萩原さん」

席を立ち、本棚の向こうへ消えていくハギヨシの背中を視線で追って、それが叶わなくなってから

咲は両手で頬を包むようにして顔を覆って、背を丸めた。

床を見つめて、長く長く、息を吐く。


どうしたというのだろう。

ハギヨシが「自分と同じだ」と嬉しそうに顔を綻ばせた。

自分の読書を中断してまで、わざわざ本を持ってきてくれる為に席を立った。

今まで自分に向かって微笑みかけられたことすらなかったというのに。

どうして。どうして、頬が熱いのだろう。

どうして、こんなにも嬉しいのだろう。



――――――――
――――
―――


咲「萩原さん。こんにちは」

側に立って、名前を呼ぶ。

顔を上げて、ああ来たのですね、と微笑みを浮かべながら

机を挟んで向こう側の椅子へ座るようにと促される。

ハギヨシ「どうぞ。座ってください」


あの日以来、度々咲は図書館へ、正確にはハギヨシの所へ足を運んでいた。

ハギヨシ自身の発言通り、同じ時間帯に訪れればほぼ間違いなく最初に見つけたあの場所で

その姿を見つけることが出来た。


二度目に訪れた時、

咲「教えてもらった本がとても面白かったので、他にもオススメがあったら聞きたいと思いまして。ご迷惑ですか?」

と告げればふわりと微笑んで了承してくれたハギヨシの、あの表情が通い続ける決め手だった。

それから三ヶ月の時がたった。

咲が龍門渕邸を訪れる日は以前より増えた。

しかし他の皆には、図書館での密やかな交流について咲もハギヨシも、示し合わせたように口を噤んでいる。

ただし共有するものを持つ者同士だけが気付ける控えめさで、ほんの少し、距離が近付いた。


例えば、衣たちと麻雀を打った後のティータイム。

ハギヨシによって出された紅茶が、咲の好きな銘柄であることが多くなったり。

皆の前で直接言葉を交わしはしないが、視線を交わし微笑み合う瞬間が増えたり。

送り迎えの際も、衣たちと別れ踵を返した瞬間に彼は現われ、家まで送り届けてくれるのだ。

咲は毎度お礼を言いつつ、ハギヨシと肩を並べて家路へと歩く。

ハギヨシ「日が落ちるのが早くなってきましたね」

咲「そうですね。これから徐々に寒くなるんでしょうか」

ハギヨシ「風邪に気をつけるべきですね」

咲「はい」

そんな、何でもないような会話を交わしながら。

休憩時間が終わったので続きは夜にあげます

共有する秘密めいた時間。

それ以外には、お互いの間に特別なことは何も起こらない。

それなのに、何もかもが特別めいて見えるのはどうしてだろう、 と咲は不思議に思う。


いや、それは嘘だ。

どうしてだろうと、わざとらしくため息をついてみせることで

その先へ思考が進むのを必死に押しとどめているだけだ。

だってため息の果てに待つ自覚には、望めるものなんて無い。

得るものは寂しいものばかりで、きっと幸せな穏やかさを失うばかり。

それならいっそこのままでも構わない。

だって、このままでも十二分に自分は―――幸せだ。

幸せだ。その気持ちに何一つ嘘はない。

けれど正直なところを言えば。

決して満足なんてしてない。

それでも回数を重ねていく図書館での会話を。

合う視線の多さを。

幸せだと噛みしめる気持ちに、悲しいものなどなくて。

だから、そう。満足ではないけれど、幸せだと信じていられる。

そうして咲は、帰り道並んで歩くハギヨシの横顔をそっと盗み見て

心臓を握りこまれるような痛みと肌から侵される暖かな幸福感とに同時に耐えるのだ。

彼の、特別になりたい。

その願望が、何を指し示すのか知らないわけはない、気付かないはずもない。

きっと最初に図書館で出会ったときに、自分は恋に落ちていたのだろう。

決定的な言葉にしてしまえば、どうしても先に進みたくなる。

でもそれは、今の関係を壊してしまうことと同義だ。

望んではいけない。

咲は気分の気持ちを必死に押さえ込んだ。

彼の、特別になりたい。

その願望が、何を指し示すのか知らないわけはない、気付かないはずもない。

きっと最初に図書館で出会ったときに、自分は恋に落ちていたのだろう。

決定的な言葉にしてしまえば、どうしても先に進みたくなる。

でもそれは、今の関係を壊してしまうことと同義だ。

望んではいけない。

咲は自分の気持ちを必死に押さえ込んだ。

ハギヨシ「前回の本は、どうでしたか?」

咲「最後まで展開が読めなくて面白かったです。ついつい夜中まで読みふけっちゃいました」

ハギヨシ「最近、一日と置かずに読み終わりますね。貴方の読破スピードは大したものですよ」

咲「そうでしょうか。きっと、萩原さんが選んでくれる本にハズレがないからですよ」

ハギヨシ「だと良いのですが」

賞賛されて、心から嬉しそうな顔をしてみせる彼を知っているのが自分だけという奢りを、咲は持たない。

それでも、こんな緩んだ雰囲気を他の皆の前では見ない。

咲にとってのハギヨシというその人は、龍門渕邸と、図書館と、時折の短い帰路とに息づく存在なのだ。

自分の知らない瞬間に彼が誰とどんな会話を交わしどんな表情をするのかなど、考えても仕方ない。

そこで笑う彼を想像するのは、 あまりにも過ぎた自傷行為だ。

なら自分が添えるその時間の中で、彼がゆるりと顔を綻ばせるのだという、その幸せを甘受すべきだと思う。

咲「それに、最近の萩原さんのお薦めは短篇集ばかりですし、読み易いんです」

ハギヨシ「…短編は、お嫌いでしたか?」

ふと、ハギヨシは心無しか何かに構えるようにして声をひそめた。

咲「え?いえ。私は今まで、どちらかと言えば長編ものが多かったですから」

咲「違った楽しみ方が出来て面白いです」

ハギヨシ「そうですか…短編ばかり選んでしまっていましたから、少し心配していたのですよ」

咲「言われてみれば、連続して短編でしたね」

ハギヨシ「…いえ、気にしないでください。こちらの話です」

咲から視線を外したハギヨシは、自身の顔を隠すようにして片手を振り、もう片方で持っていた本を膝の上で畳んでしまう。


今の会話の何処に、ハギヨシが危惧するようなことが有ったのか、と咲は首を傾げた。

何故そうなってしまったのかが分からないままではあるが、

この生じてしまった微妙な空気を一新してしまおう、と机に乗せられた本を指で示しながら尋ねた。

咲「萩原さん。今日のお薦めは、こちらですか?」

ハギヨシ「はい。――この本、です」


春先の樹木のような柔らかで優しい翠色で染め抜かれた表紙

中央より少し上に金文字箔でタイトルが付けられた、シンプルだが美しく

先ほどカウンターで返却手続きをとったものより、幾分大きく重たい本だった。

返事を返しておきながら、一度躊躇うような仕草でハギヨシはその本を手に取った。

なんだか悉くいつもと流れが違う、と咲はまたしてもきょとんとして目を瞬かせる。

何か本を推薦してください、と請うた咲に、ハギヨシはいつでも真摯に対応してくれた。

咲の好みである海外ミステリーから日本の純文学まで、それこそジャンルは幅広く。

最初の頃は数冊まとめて勧めてくれていたのだが、

次に図書館で会ったときに一冊ごとの感想を伝えれば

その感想にハギヨシの解釈が加わって、と議論が進んだ。

結果、そう長くもない彼の休憩時間内に駆け足で本の内容について話をするのに不満があり、

もっと重厚な議論を望んだのだろう、彼が一度に咲に勧める本は一冊ずつになったのはそう後のことではない。

ハギヨシの元を訪れれば、机の上には必ず咲用にと選ばれた本が一冊置いてあって、

彼が休憩を終え帰る時間が来るまで、咲は相対する椅子に腰掛けてそれを読む。

時折ハギヨシの顔を盗み見て、密かに心を温かくする。

双方の視線が合えば、そう言えばあの本は、とどちらからともなく静かに会話を始め、

ぽつりぽつりと多くない口数の中でゆっくりと時間を過ごす。

それがいつもの流れだったのだ。

こんな風に、本を差し出すのを躊躇われたことはなかった。

戸惑いながらも両手を揃えて差し出せば、そこにそっと本を乗せられた。

咲「いつもありがとうございます」

ハギヨシ「いえ。気にしないでください」

聞く方の胸が潰れるかと思うような、そんなため息をハギヨシが吐いた。

咲「…あの、萩原さん。どうかしましたか?なんだかいつもと様子が違いますけど…」

ハギヨシ「…いえ、気のせいでしょう。…私は少し棚の方へ行ってきます」

ハギヨシ「ゆっくり、その本を読んでいてください」

咲「は、はい。そうさせてもらいますけど…」

ハギヨシは静かに席を立ち、今だに流れについていけない困惑顔の咲を一度見つめ、

そうして意を決したように踵を返し本棚の向こうへと消えていった。


最奥の方へ背中が吸い込まれていくのを見送って、咲は呟く。

咲「…私、何かしたかなぁ」

受け取った本を抱え込んで、滑り落ちそうなほどに深く椅子に凭れる。

胸に抱いた本に視線を落とし、次いでハギヨシが去った方を見遣る。

彼が帰ってくる気配はない。

しかし、このまま戻ってこないということはないだろう。

ハギヨシが読みかけていた本だって、ここに置きっぱなしなのだ。

これくらいの違和感でわざわざ探しに行くのも不自然だ。

何か気に障ることをしてしまったのか、と項垂れたい気持ちで一杯になりながら、

それでも咲は本の表紙を開いた。

そうして。

ぱさ、と指先に触れたのは、二つ折りにされた、薄い白紙だった。

咲「え……?」

真白な紙。

いや、そうではない。

二つ折りのそれを開けば、そこに、小さく書かれた文字がある。

ハギヨシの筆跡だ、と思った。

理由も根拠もなく、言ってしまえばただの直感。

けれど、その文字の意味するところを読み取って、

―――彼であればいい、と強く思った。

誰でもなく、これを書いたのは彼がいいと。

だから実際のところは直感というものですらなくて、咲自身の願望がそう思わせただけのこと。

それでも、真実だった。

短く綴られた言葉に込められたその気持ちは紛れも無く真実だった。

視覚情報の処理が追いついて、ぶわりと全身が粟立った。

指先が震える。

は、と吐いた呼気の音で、ああ自分は呼吸の仕方を忘れていたのだと遅まきに自覚する。

上滑りする吐息。心臓を直接握りこまれているように痛む胸。

溢れてくるのは、彼の名前を呼ぶ自分の声。

愛おしさを滲ませたことに、気付かれたくないと祈りながらも

届けと願う相反に苦しんだ声。

散らかる思考。

けれど体は、既に椅子から立ち上がって足を進ませていた。

最奥へ向けて、咲は歩き出す。

期待と困惑と切望とで心臓が暴れるせいで呼吸が乱れる。


不定期に訪ねた時でも、必ず自分に用意されていた本。

続いた短篇集。薄いそれ。

一日かければ読み終えるだけの量。


少し考えれば分かる。

でも期待なんてしたくなかった。

だって裏切られてしまえば、この胸に残る傷はきっと二度と消えないほど深いものになるだろうと思った。


けれど、もしもの話。

彼に手渡された本、相手に必ず読まれると分かっていたもの、それに挟まされた紙。

他人の紙ならば選んだときに彼が気付かない筈はないだろう。

彼には手にとった本はどんなであれ一度全ページを繰るようにして指先で遊ぶ癖がある。

ならば、きっとあれは、彼のものなのだ。

書かれた文字。短い言葉。

愛の告白のような、

あいのこくはく、のような、

そんな言葉。



身長を遥かに超える本棚と本棚の間はさほど広くもない。

滅多に人の来ない場所だからか、光量も控えめで薄暗い。

一つ一つの本棚の間を確認しながら、ここにも居ない、と焦るばかりの気持ちを抑えて

咲はほとんど小走りで進んでいく。



咲(萩原さん)

それを宛てたのは、誰へですか。

あなたから、誰へ。

そうして、途切れ途切れの息で、咲はやっと探していた相手を見つける。

咲「萩原さん!」

本棚の一つの縁に手を掛けて、こちらを待っていたような様子で佇んでいた彼を、見つけた。

ハギヨシ「…宮永さん」

どくどくと鼓動を打つ心臓の音。

まるで耳元で鳴らされているようで、ひどく煩い。


ハギヨシは、咲の方へ向き直って、ぎこちなく笑った。

ハギヨシ「どうしました、と訊くのは…愚問なのでしょうね」

彼の姿を見つけたとたん、一歩も動かせなくなってしまった足が今更になってがくがくと震え出す。

心より正直に体は怯えている。

勘違いだったらどうすればいいんだろう。

追いかけて、見つけて、今になって本当のことを知りたい気持ちより

自分が傷つくかもしれない未来を心から恐怖している。

咲「萩原、さん」

ハギヨシ「はい」

薄暗さの中に溶け込むようにして、本棚の前に立っている彼の表情はよく見えない。

それを幸いだと自分に言い聞かせる。

ぐ、と手を握りしめた。

咲「あの…紙が、入っていて…書かれていた言葉、が」

ハギヨシ「はい…」

咲「その…私が読んでも、良かったんでしょうか」

ハギヨシ「……宮永さん、私は」

咲「――自惚れても、いいんでしょうか」

多分、声は既に水張っているのだろう。

視界は滲みきって、もう彼が立っている場所すらぼんやりとしか捉えられない。

徐々に顔を俯けてしまうのは、どうしても自信が持てないからだ。

だって、もしかしたら両思いかもしれない、だなんて。

そんなのは救いようもない夢物語だ。

自分の靴先を見つめながら、返事を待った。


時間は永遠かと思うほどに引き伸ばされて、がちがちと奥歯が意思とは無関係に鳴る。

怖い、寒い、遠い、どうしよう。

逃げ出したい、でも。

でも一欠片でも、縋れる期待が有るのなら。

ハギヨシ「宮永さん…」

咲「お願いです…肯定か否定かだけを、教えてくれませんか」

ぎゅうと目を瞑ればそれだけで縁に貯まったものがこぼれそうで、

ひたすら咲は自分の靴先を見つめながら、ハギヨシの声だけを拾う。

ハギヨシ「宮永さん。私は…」

彼は、静かに言った。


ハギヨシ「貴方が好きです」


頭の中が焼き切れたかと思った。

とん、とハギヨシの背中が軽く壁を打つ。

ハギヨシ「宮永さん?」

急に飛びついてきた咲に、ハギヨシが心配げに咲の名を呼ぶ。

反射的に受け止められたのを良いことに、ぎゅう、と彼の体に抱きついた。

彼の体を壁に押し付けるようにしてしまうのは、そうでもしないと立っていられないからだ。

ハギヨシ「…宮永さん」

落ち着かせるように、ハギヨシの手が咲の背を優しく撫でる。

ハギヨシ「顔を上げてください」

咲「…い、いやです」

今の自分の顔を見られたらそれだけで心臓が止まってしまうかもしれないと

咲は必死に頭を横に振った。

いや、本当は、蕩けるようなハギヨシの声が怖い。

だってもし顔を上げてそこに声通りの表情でも浮かんでいようものならどうすればいい。

自分はそのまま息絶えるに違いないのだ。

だから、ぎゅうと顔をハギヨシの胸に埋めて、ただただ零れる涙をそのままにした。

ハギヨシの空いた腕が咲の腰に回され、先ほど背を撫ぜた手で宥めるようにゆっくり優しく叩かれる。

促されていることは分かるのだ。けれど。

ハギヨシ「…ほら、宮永さん」

咲「いや、です…」

ハギヨシ「…仕方ありませんね」

どこか拗ねたようなため息。

え、と思った次の瞬間には、両の手で頬を包み込まれる形でハギヨシと額を付き合わせられていた。

ぶわ、と一気に溢れたのは、涙だった。

あ、う、と収集のつかない頭と涙に一人で狼狽えれば彼は少し困ったように笑って、

―――ちゅ、と目元に、キスを降らせた。

今度こそ、咲は息を呑んだ。

ハギヨシ「そんなに泣かないでください…どうすればいいのか、分からなくなります…」

呼気すら交わす距離で、彼が言う。

ハギヨシ「あの紙を読んで、貴方がどう反応するのか分かりませんでした」

咲「えっ…」

ハギヨシ「だから、嫌ならそっと立ち去ってくれればいいと思い、席を立ちました」

ハギヨシ「どういうことかと詰問されるならそれでもいいと思いました。けれど…」

ハギヨシ「こんな風に、泣かれるとは思いませんでした」


顔を真っ赤に染め、喜んでいるのかと思えば、いきなり抱きついてきて物も言わず泣き続ける咲。

顔を見せてくれと言っても拒否される。

嬉し泣きというにはあまりに泣き声が痛い。


ハギヨシ「だから泣き止んで欲しいのに、それすらさせてくれないのでは、流石に私とて傷つきます」

咲「萩原、さん…」

ハギヨシ「貴方が笑っている顔を見るほうが、私は幸せなのですが」

ハギヨシ「まして、私のせいで泣いているのかと思えば、これ以上に辛いことはありません」

咲「す、すみませ、ん」

ハギヨシ「…全く、貴方は泣き虫なのですね」

苦笑すら甘く。

ハギヨシは、やれやれと呆れと優しさとを半々に滲ませて、咲の顔にキスを降らせる。

頬を包み込んだ手を離さず、目元、額、鼻先、頬に。

幾度も幾度も雪が触れるのと同じ淡さで唇が触れる。

ハギヨシ「一つ、聞かせて欲しいのです。…貴方の気持ちを」

咲「この状況で、言えっていうんですか…」

繰り返し繰り返し、宥めるために振らされるキスに

咲はようやく気持ちを落ち着かせ涙も止まりかけた。

が、ハギヨシの言葉に思わず相手の胸を押して距離を取った。

逃げを打とうとした体は、しかし腕を取られて失敗に終わる。

ハギヨシ「まだ何の言葉も貰っていませんから」

咲「分かっているくせに…ヒドイです、萩原さん」

ハギヨシ「―――咲」

いきなりファーストネームで呼ばれ、どくんと心臓が跳ねる。

そんな咲の、耳にかかる髪の一房を指の腹でさり、と遊びながらハギヨシは顔をのぞき込んでくる。

観念、するしかないのだろう。

咲は折角引いた熱が頬に集まってくることを自覚しながら、小さな声で告げた。


咲「私も…萩原さんが好きです」


これで両思いですね、と破顔した彼があんまりにも幸せそうで。

幸せにしてもらったのは、さてどっちだったのだろう、とつられて咲も笑うのだった。


カン

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