P「律子が薬をやってるだと?」(318)
それは12時を少し回ったぐらいの頃だったので、俺は空腹を感じ始めていた。
事務所にはレッスンから帰ってきた亜美と俺の二人しかおらず、音無さんは昼食をコンビニに買いに行っていたので事務所にはいなかった。
亜美は落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り返している。
時折こっちを横目で見ているのには気づいていたが、俺からは話しかけなかった。
俺はそんな亜美は放っておいて、溜まっている仕事に集中する。
「ねえ、兄ちゃん…………………………なんだけど」
亜美はとうとう痺れを切らして俺に話しかけてきた。
「へー……」
しかし、俺は亜美が話してくれた内容を聞きもせず、ただ目の前の書類を片付けていた。
子供の相手をしている時間などなかったし、このまま行けば今日も残業になるのは目に見えていた。
疲れているのにわざわざ残業をしたくない。
それに俺は好きで残業をしているわけではなかった。
仕事が終わらないために残業することを強いられているのだ。
そして、俺が残業したくない理由はそれだけではなかった。
765プロは残業代が出ないのだ。
定時になるといつの間にかタイムカードが押されていることに気がついたのはいつのことだっただろうか。
労働の対価が支払われないのは自分の仕事の価値を否定されてるようで辛い。
俺は左手で凝った肩の筋肉を解した。
朝からずっと机に向かってるせいで首や肩や腰が酷く痛んだ。
「ねえ、兄ちゃん……ちゃんと聞いてよ……」
俺は今まで聞き流していた亜美の言葉に、哀願の響が含まれていることに気づいて思わず顔を上げた。
俺は驚いた。
亜美の顔からは普段の快活な表情が消え失せ、眉間には皺が寄せられていた。
その目には涙が湛えられており、今にも泣き出しそうに見えた。
俺は椅子に座ったままキャスターを利用して亜美に近づいた。
久しく油が差されていないためか、このキャスターはしばしば猿の断末魔のような音を立てた。
「どうしたんだ?」
俺はいつもと違う亜美の様子に狼狽し、その原因を尋ねた。
「あのね……」
亜美は再び話そうとするが言葉はなかなか出てこなかった。
何度も口を開いては閉じ、酷く言いにくそうにしていた。
「言ってみろよ」
俺は亜美の発言を促した。
「あのね……律ちゃんがね……」
「律子がどうしたんだ?」
「変な薬をやってる、かも」
「薬?薬ってなんだ?」
「かくせいざい?とか……」
「何だと?」
俺は戸惑った。
律子が覚せい剤をやっている?
何を言ってるのだろうか。
俺は子供の相手をしている暇はないと亜美を叱ろうかと考えた。
しかし、それは嘘にしてはあまりに現実味がなかった。
亜美はいたずらをよくするがそれはあくまでいたずらであり、他人を傷つけたり害するものではなかった。
そして、俺は亜美が律子のことを年の離れた姉のように慕っていることも知っていた。
俺には亜美が律子のことを故意に貶めようとするとは思えなかった。
俺は再び亜美を眺めた。
亜美は唇を噛み締めて下を向いていた。
靴の先をじっと見つめたまま顔を上げず、それ以上何も言おうとはしなかった。
俺に相談するためにかなりの勇気が必要だったことは容易に想像できた。
こんな突拍子もない話を信じてもらえるとは、普通は思わないだろう。
ドッキリの可能性も考えたが、これ以上亜美のことを疑いたくないと思った。
俺は亜美に詳しい話を聞いてみることにした。
「亜美はどうしてそう思ったんだ?」
「あのね……律ちゃんが隠れて注射してるところを見ちゃって……それで……」
「ふーん……そうか……」
確かにそんなところを見たら、薬物の使用を疑っても無理はない。
しかし、俄かには信じ難い話だった。
あの規律に厳格な律子が薬物に手を出すだろうか。
薬物。
その言葉を聞くと、酷く不愉快な気分になった。
俺は、仕事に対して真面目に取り組む律子を信頼していた。
好意にも似た感情を持っていた。
しかし、亜美からその疑惑を聞いたことでそれは薄れ始めていた。
俺は薬物というものを強く嫌悪している。
律子の清廉潔白なイメージと薬物という退廃的な印象は、簡単には繋げることができなかった。
亜美の話を聞かなかったことにはできないだろうかと考えた。
しかし、それは難しかった。
もし、これが本当ならば事務所どころか、俺自身にまで飛び火する可能性があった。
低俗な雑誌の記者などに知られたら、格好の攻撃材料にされるであろうことは明白だった。
亜美の手は太腿の脇で固く握り締められて白くなっていた。
亜美が抱えている苦しみを取り除いてやるためにも、この問題は早く解決すべきだと思った。
「亜美は律子を止めたいか?」
「律ちゃんのことを助けてくれるの?」
驚いて顔を上げた亜美の目は期待に輝き、俺を真っ直ぐ見つめた。
それゆえに、嘘をつくことはできなかった。
「……」
「……兄ちゃん?」
「わからない」
「そんな……」
亜美は肩を落とした。
再び俯いてしまい、今度は本当に泣き出しそうだった。
亜美は泣くまいと手で目を擦った。
「いっそのこと律子に直接確かめてみよう」
俺は亜美を元気づけるためにそんなことを言った。
「律子に薬をやってるかどうか聞くんだ」
「でも……本当のことを言ってくれるかな」
亜美は不安そうに呟いた。
仮に律子が薬物に手を出していたとしても、証拠が無ければ否定されて終わりだ。
しかし、それは証拠さえあればいいということでもある。
「律子が注射してるところを写真に撮って聞いてみよう。頼めるか?」
「え?亜美が?」
「ああ。俺よりも、律子といっしょにいる時間が長い亜美のほうがチャンスは多いはずだ」
「でも……できるかな?」
「律子を止めるには証拠が無ければどうしようもないんだ。やってくれないか?」
「うん……わかった……やってみる……」
亜美は俺の言葉に頷くと落ち込んだまま帰っていった。
亜美と入れ違いに音無さんが帰ってきた。
「亜美ちゃん、どうかしたんですか?」
「何がです?」
「なんか落ち込んでたみたいですけど」
俺は心の中で舌打ちをした。
音無さんに亜美の異変について知られたのはあまり良くなかった。
今、律子の疑惑が広まれば万が一亜美の勘違いだった時に困ることになる。
「あー、お腹でも空いてたんじゃないですか?」
「あ、そうだったんですか?」
「ええ、レッスン終わったあとでしたから」
「それなら私のご飯を分けてあげたのに……」
音無さんはコンビニで買ってきたものを机の上に置きながらそう言った。
俺は仕事を再開するフリをして音無さんを観察する。
しかし、特に変わった様子は見られない。
呑気に昼食を取っていた。
その後もしばらく音無さんを観察していたが、いつもと変わったところはなかった。
深夜の事務所は水を打ったように静かだった。
響いているのは秒針の音とデスク上のパソコンの動作音だけで他には何も聞こえてこない。
壁にかけられた時計は0時を少し過ぎたところを指していた。
事務所にいるのは俺一人だった。
音無さんは定時で帰って行ったし、律子は現場から直帰だったから事務所には戻ってこなかった。
これは俺にとって良い方向に働いた。
胸の内に疑惑を持ったまま律子といつも通りに接する自信が無かったからだ。
勘の鋭い律子なら俺の言葉の端に滲んだ不愉快さに気づき、不審に思っただろう。
仕事はすでに全部終わっていた。
薬物について調べていたために帰るのが遅くなったのだ。
もちろん家でも調べることはできる。
しかし、家にこの問題を持って帰る気はしなかった。
亜美が言うには、律子は注射器を用いていたらしい。
最近流行りの脱法ハーブなどは注射器を用いたりしない。
紙で巻いてタバコのようにしてから吸うのが主流のようだ。
やはり注射器というと覚せい剤だろう。
登場人物が覚せい剤中毒になってしまった漫画を昔読んだのを思い出した。
中毒になり、少しずつ行動がまともでなくなっていくことに対する恐怖は、今でもはっきり覚えている。
その漫画では覚せい剤ではなく、ヒロポンと呼ばれていたが。
俺はうんざりしてPCの電源を落とした。
頭が割れるように痛かった。
椅子の背もたれに身体を預けると、ギシギシと不安になる音が鳴った。
長時間ディスプレイを見続けたせいで眼球は重くなり、窮屈さを訴えている。
上を向いて目を瞑って疲れた目を休ませた。
見たくもない薬物についての情報を見て酷く不愉快だった。
目を閉じると今まで押し込めていた記憶が浮かび上がってきた。
それもそのはずである。
俺が薬物を嫌悪する理由はそこにあるのだから。
俺は父子家庭で育った。
母親は俺を産んだときに亡くなったそうだ。
写真も残ってないからどんな顔をしていたか知らなかった。
父親に母のことを尋ねても詳しいことは教えてくれなかったし、俺もそこまでしつこく父親に聞いたりしなかった。
俺には昔から家族というものがどのようなものなのか分からなかった。
父親は一流企業の重役でほとんど家に帰ってこなかった。
そして、兄弟もいなかった。
父親とは一ヶ月に一度程度顔を合わせていたが話題もなく、会話はほとんどなかったと思う。
家事は全部家政婦さんがやってくれていた。
一般的な家族が行うイベントというものとは縁遠かった。
俺の家族は父だけだったが、休日はゴルフなどで常に家にいなかった。
家政婦さんも所詮は赤の他人だった。
だから、俺は毎日読書をして暮らしていた。
友達はいなかったし、外で遊ぶのも好きじゃなかった。
今はそんな自分を陰気だったと思うが、その当時はそれで満足していた。
とにかく、人と関わることが恐ろしかった。
人に自分が見られているだけで、自分自身を否定されるのではないかとびくびくしていた。
本の世界ではそんなことはなかった。
理想的な登場人物はこの世界とは違う世界の住人で、彼らは俺に干渉できず、俺も彼らに干渉できない。
その俺を置いてきぼりにしていく他人事な出来事を眺めているだけで幸せだった。
そんな俺でも人並みに反抗期は来た。
それまでは父親の命令に全て従っていた。
しかし、成長するにつれて選択を父親に委ねていることに疑問を抱くようになったのだ。
父親はそんな俺を煙たがった。
俺と話合う気もなかったらしく、マンションを用意されてそこで暮らすように言われた。
俺は父親と暮らさずに住むのなら全く異論はなかった。
価値観の違う肉親と暮らすことほど苦しいことはない。
そして、それが父親の命令に従った最後となった。
結局、二度と一緒に暮らすことはなかった。
父親が死んだ時のことはよく覚えている。
それは俺が大学2年の時だった。
その日は休日で俺は昼過ぎまで眠っていた。
まだ春なのに暑くて寝苦しく、何度も寝返りをうっている俺を起こしたのはけたたましく鳴る電話のベルだった。
内容は父親が危篤だから病院まできて欲しいとのことだった。
若い女の声は病院の名前と大まかな場所を告げた。
それを聞いても、何の感慨も沸かなかった。
著名人の訃報をコーヒーを飲みながら聞いたような心持ちだった。
行くべきか行かざるべきかそれが問題だ、などとふざけるぐらいの余裕があった。
しかし、どうせあとで呼び出されることは目に見えているのだから行くことにした。
軽い朝食兼昼食をとり、ヒゲを剃って顔を洗って歯を磨いて服を着替えてタクシーを呼んだ。
タバコ臭い車内で運転手と話をする気も起きず、寝たふりをしていた。
すると、父親の数少ない思い出が浮かんだ。
小学校低学年の頃に父の日の絵画コンクールというものがあった。
それで父親の顔を画用紙に書いて提出するという宿題が出た。
俺は絵が得意だったし、記憶力も良い方だったので絵はすぐに書き終わった。
問題はその後で、自分の名前の下に父親の名前を書く欄があった。
俺は驚くべきことに父親の名前を知らなかった。
物心ついた時から『お父さん』と呼んでいたし、家政婦さんも『お父様』か『旦那様』と呼んでいた。
父親が名前で呼ばれているのを聞いたことがなかった。
仕方なく俺は家政婦さんに頼んで保険証を用意してもらい、父親の読めない漢字を写して提出した。
俺の絵は賞を取り、全校生徒の前で表彰された。
赤いレンガが特徴的な、森に囲まれた美術館で展示されているのを見に行った記憶がある。
そこにはいくつか賞を取った絵が飾られていた。
どれもこれも小学生が描いたとは思えないほど上手く描かれていた。
そして、ほとんどの絵の中の父親は笑っていた。
おそらく父親にモデルになって貰って描かれたものだからだろう。
しかし一枚だけ、俺が描いた父親だけは全く笑っていなかった。
それは俺の記憶の中に笑っている父親のイメージが無かったからだ。
俺は父親がどんな顔をして笑うのか知らなかった。
「お客さん!着きましたよ!お客さん!」
「ん?……ああ、はい」
何時の間にか寝入っていたようだ。
タクシーの運転手に起こされた。
代金を支払って降りると、思い切り伸びをした。
空はどんよりと曇っていた。
日は差していないにも関わらず、蒸し暑く気温もそれなりに高かった。
父が入院しているのは大きな大学病院だった。
俺は受付で父親の名前を告げて病室の位置を聞くと、エレベーターに乗って5階に行った。
父親の病室の前で髪に白髪が混じった初老の医者と遭遇した。
「息子さんですか?」
「どうも……」
俺はあえて医者の質問に答えず、適当に挨拶した。
「我々も最善を尽くしましたが、何分お父上の癌は発見された時にはすでに末期でしたので……」
「ええ……」
知ったかぶって答えてみたが、この時初めて父親が癌を患っていたことを知った。
「どうぞ中へ。いつ何があってもおかしくありません」
医者は俺に病室に入るように促したが俺の足は動かなかった。
靴が接着剤で地面につけられたような気がした。
「どうかしましたか?」
医者は不審な目で俺を見ている。
「いえ、なんでも」
俺は無理やり足を動かし、扉を開けた。
病室の中には排泄物の臭いなのか、甘ったるい臭いで満ちていた。
俺は吐き気を催し、露骨に顔をしかめた。
平気な顔をしている医者が信じられなかった。
病室の真ん中にあるベッドに歩み寄る。
そこに横たわっていたのは俺が知っている父親ではなかった。
髪は抜け落ち、頬はこけ、たくさんのチューブに繋がれているモノだった。
かつて俺が絵に描いた人物と同一だとは思えなかった。
懸命に呼吸するその姿に俺は恐怖を感じた。
目は魚の死骸の目のように黄ばみ、どろりとした粘性の液体で覆われていた。
その目は零れんばかりに見開かれているが焦点が合っておらず、ただ虚空を見つめていた。
顎の下の布には呼気に混ざった血が付着し、乾いて茶色いシミになっていた。
素人目で見ても、もう助からないことはわかった。
それはただ呼吸をするだけの存在になっていた。
息を吸う。
息を吐く。
父親に残されているのはもうこの二つだけだった。
俺は植物に似ていると思った。
呼吸によって血中に酸素を取り込んで、二酸化炭素と交換し吐き出す。
このルーティンを延々と繰り返す。
その無意味さは酷く植物的だと思った。
もう考える力は父親に残っていないようだった。
「モルヒネで意識が混濁してますが、名前を呼んであげてください」
医者はそんなことを言った。
「……お父さん、お父さん。しっかりしてください」
その言葉はあまりにおざなりで空虚に響いた。
心が全く込められていなかった。
医者に言われるままやってはみたが、これは違うと思った。
酷い茶番だった。
仲が悪かった親子が今際の際だからというだけで、取ってつけたように和解するのはフィクションだけだ。
とうとう耐えきれなくなって、俺は医者にトイレに行くと告げて病室を出た。
自動販売機でコーヒーを買うと隣に設置されたベンチに座った。
プルタブを引いて、蓋を開け、香りを味わってから一口飲む。
コーヒーの冷たさが頭を冷やしてくれた。
なぜ俺は父親を見たときに恐怖を感じたのだろうかと考えた。
それは父親の死に対する恐怖ではなかった。
俺は自分が死んだあとの事を想像した。
死んでもすぐには体温は失われず、少しずつ熱を失っていく。
酸素が供給されなくなって細胞は壊れて腐っていくのだ。
葬式までもたせるためにドライアイスで冷やされるが、終わってしまえば火葬場で熱い炎によって燃やされる。
よりコンパクトで収納し易くなってから骨壷に入れられて、墓の下で永遠の沈黙に突入する。
俺は墓の下に入った自分を考えた。
日が当たらず、誰も喋らず、酷く退屈そうだ。
ただ静けさだけがどこまでも広がっていく気がした。
だが、骨は俺ではないと思った。
それは俺が生きた証であり象徴であるが、それだけである。
骨は俺ではないから、俺が感じるようには感じないだろう。
人間の結末は酷く空虚で無意味なものだ。
しかし、その事を思う時、不思議と俺の心は安らかだった。
俺は躍動する生の対極にある静寂な死に憧れていた。
では、俺が恐怖したものは何だったのだろうか。
それは生と死の境界にある門のようなものである気がした。
きっとそれは人間の誕生の対極にあるものだ。
そこを越える苦痛を想像し、恐怖したのだ。
その恐怖はひどく本能的なものだが、嫌な感じはしなかった。
それは自然な事だと思った。
もし一切の希望を捨て去る事ができたなら人は苦痛を感じなくなるだろう。
そうできたら、どんなに幸せだろうか。
俺は父親の呼吸が止まりかけた時に二つの思いを抱いていた。
父親の延命を願いながら、同時に絶命を望んだ。
それは無意識的なものだった。
しかし、以前抱いていた憎悪とは違うところから湧き上がってきているような感じを受けた。
ふと昔読んだ小説の一節を思い出した。
『健康な人は誰でも、多少とも愛する者の死を期待するものだ。』
確かカミュだったと思う。
高校生だった当時はこの言葉に衝撃を受けた。
何の脈絡もなく唐突に非倫理的な意見が書かれ、ショックを受けた。
しかし、今ならその言葉の意味がわかるような気がした。
そして、俺の中にもう父親に対する憎しみがない事に気づいた。
愛することまでは無理だが、許す事はできそうだった。
最後に一度だけ父親と話してみたいと思った。
しかし、それはもう叶わぬ夢だった。
父はすでに死んでいた。
モルヒネによって殺されていた。
白痴のように成り果ててしまい、もう父親とは呼べない、父親だったものになっていた。
何もかももう遅い。
手で顔を覆った。
それは癌の痛みから逃げるためには必要なことだったのだろう。
だが、過保護過ぎて子供を死なせてしまう母親の愛情のように余計なことのように思われた。
俺は父親を殺したモルヒネを恨んだ。
病室に戻ると父親は息を引き取っていた。
医者はお悔やみの言葉を述べると、もう用はないというようにさっさと出て行った。
俺は再びベッドの横に立って父親を眺めた。
呼吸は止まっていた。
その死に顔は酷く安らかで、もう恐怖は感じなかった。
父親は門を越えていったのだなと思った。
律子が薬物を使用しているなら、いずれあのときの父親のようになるかもしれない。
それは酷く許し難い事に思われた。
それは俺が望む律子のあり方ではない。
得体のしれない影に律子の身体を陵辱されてるような不愉快さを感じた。
亜美が疑惑を告げる前から、俺自身も最近の律子には異様さを感じていた。
以前よりもやつれたように見えるのに、その目にはギラギラした光があった。
信じたくないが、やはり律子は薬をやっているのかもしれないと考えた。
でも、今ならまだ間に合うかもしれない。
完全に壊れる前に止めなくてはいけないと思った。
すべては亜美だけが頼りだった。
頭が酷く痛むため、家に帰る事は諦めて仮眠室で眠る事にした。
電気を消して布団に入る。
どんなに眠ろうとしても律子の姿が浮かび、その日はなかなか寝付けなかった。
◇
急いでドアノブを捻ったためガチャリと大きな音がした。
それを気にせずに急いでドアを開けると中へ倒れこむように入った。
両親はすでに寝ているからなるべく大きな音を立てないように気を配る。
這うようにして家に帰ってきた。
全身がだるく、喉が乾いて、身体は薬を求めて声高に叫んでいた。
私は薬が切れているということを嫌でも理解した。
トイレに隠れて打っても良かったが、不用意な行動は避けたかった。
頭の中は薬の事でいっぱいで他の事は何も考えられなかった。
私は完全に薬に依存していた。
カバンの中から注射器を出すと、来ていたシャツをまくって腕を露出させ、薬を打った。
「ふう……」
大きく息を吐く。
薬のおかげでさっきまでの死体のような状態から生き返った気がした。
だるさも少しずつ収まり、私は再び動けるようになった。
のろのろと立ち上がり、キッチンまで行って、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。
最近は食事も取らず水ばかり飲んでいる。
私は自分の部屋に入ると疲れた身体をベッドに投げ出した。
シャワーを浴びる元気はなかった。
服も着替えずそのまま眠る事にした。
薬を止めたら今より酷い事になるのは明らかだったから、止めることはできなかった。
普段は薬が切れたらトイレでこっそり打っていたが今日はスケジュールがタイトでそんな時間は取れなかった。
そんな事をしていても、いずれ露見するだろうと考えた。
自分の弱さが情けない。
涙が零れた。
せめて、プロデューサーには打ち明けたかった。
でも、怖かったのだ。
プロデューサーはこんな弱い私を厄介だと思い、役立たずだと考えるかもしれないと思った。
プロデューサーにだけは嫌われたくなかった。
頭の中がグチャグチャで上手く考えられなかった。
私は考えるのを止めて電気を消し、目を瞑って寝る事にした。
疲れた身体は一瞬で眠りに落ちる。
その日は何の夢も見なかった。
◇
俺が事務所に着いたとき、律子はすでに仕事を始めていた。
「お、早いな」
俺は平静を装って律子にそんな言葉をかけた。
「ええ。最近はあんまり書類とか企画書を書く時間が取れませんから」
律子は俺のほうを全く見ずに答えた。
ディスプレイを凝視する目つきは鋭く、キーボードを叩く指先はいつもより荒い。
律子の様子はどこかおかしかった。
しかし、このぐらいの変化は体調不良とか生理でも起こる。
これだけでは律子が薬をやっているという証拠にはならない。
俺は資料を読んでるふりをしながら、横目で律子をじっくり観察した。
律子は一旦手を止めると目薬を取り出し、上を向いて点眼した。
俺はチャンスだと思い、律子に話しかけた。
「ところでさ、今度の日曜日にライブに行かない?」
「はい?」
律子は訝しげに俺のほうを見た。
頬を目薬が流れた跡が、涙の跡に見えてドキッとした。
「テレビ局の人にチケット二枚貰ってさ。いろいろ勉強になると思って」
そう言って俺は律子にチケットを渡した。
いつもすぐ完売になってしまう有名なロックバンドのライブだ。
最初はデートしたいと喚く美希でも連れて行こうかと思っていた。
しかし、律子と一緒に行けば一日中律子の様子を伺えるから薬のことが何か分かるかもしれないと思ったのだ。
「はあ……」
律子はぼんやりと俺が渡したチケットを眺めていた。
「仕事ならしょうがないけど……」
「今日は何曜日でしたっけ?」
「水曜日だ」
律子はカバンから手帳を取り出すとパラパラとめくって予定を確認した。
「あ、空いてます。でもいいんですか?」
「もちろん。学ぶところがいっぱいあるだろうからな。今後のプロデュースにも活かせると思うし」
「そう……ですね……」
律子の顔に影がよぎる。
しかし、それも一瞬だった。
「わかりました。楽しみにしてますね!」
律子はそう言って笑った。
「ははは、じゃあ当日は律子の家まで迎えに行くから」
俺もそう言って笑った。
これは明らかにデートだ。
仕事のためという口実だが、女性と二人きりでライブを見に行くのをデートと呼ばずして何と呼ぶ。
しかし、俺の胸は高鳴ると同時に酷く痛んだ。
律子が薬物をやっていると知る前なら手放しで喜べただろう。
律子の笑みを見るたびに俺の心の中ではヘドロのようなものが渦巻いていた。
律子は俺にこんなに純粋な笑みを見せているけど、裏ではシャブの快楽を貪っているんだぜ?
女って怖いよな?
そんなことをネガティブな自分がそっと耳に囁く。
さっきまで輝いて見えた律子の笑顔が、手垢塗れで汚れているように見えた。
そして、そんなことを考える自分も汚らわしく思われて憂鬱だった。
何もかも破壊してしまいたいような衝動が沸き起こる。
「コーヒー淹れるよ」
俺はそんな衝動を掻き消すように勢いよく立ち上がった。
「あ、私がやりますよ」
律子も立ち上がろうとしたが、押しとどめた。
「いいって、律子疲れてるみたいだからな」
「すみません……」
律子は申し訳なさそうな顔をして、上げかけた腰を下ろした。
「砂糖とミルクはどうする?」
「ブラックで」
「そういえば……」
俺は引き出しからお菓子を取り出す。
「コアラのマーチあるけど食べる?」
「いえ、いいです」
ダイエットしているのだろうか。
確かにアイドルやってたころに比べたら運動量は減っただろう。
だが、最近の律子は前よりも痩せたように見えた。
やはり薬のせいなのだろうかと水の入ったやかんを火にかけながら考えた。
ダイエットになると言って薬物の勧誘をする手口があると以前読んだ。
女性は痩せれるという言葉に滅法弱い。
律子はそんな怪しげなものに手を出すはずがないと思っていただけにショックだ。
コーヒーを淹れて戻ると、律子の様子が変だった。
さっきと比べて明らかに顔色が悪くなり、具合が悪そうに見えた。
「律子?」
俺は律子に声をかけた。
「なんか……お腹痛くなってしまって……」
「大丈夫か?」
「ははは……すみません、ちょっとトイレに……」
そう言うと律子はカバンを持って立ち上がった。
律子は酷くだるそうに見えた。
ゆっくりとトイレに向かって歩いて行くがその足取りは不確かだった。
俺は律子を追おうかと思ったが止めた。
流石にトイレの中まで見に行ったら怪しまれるだけじゃすまない。
亜美がいないのが惜しまれた。
俺は黙ったまま律子を見送った。
律子はなかなか帰ってこなかった。
仕方なくコアラのマーチを開けて口に放り込む。
チョコレートの甘みが毎日の激務で疲れ切った頭を癒してくれる。
疲れている律子に食べて欲しかったが断られてしまったので一人で全部食べた。
律子は30分ぐらい経ってから戻ってきた。
「大丈夫か?辛いなら帰ったらどうだ?」
「いえ!全然問題ありません!」
トイレに行く前とは打って変わって、律子はやけにハツラツとしていた。
足取りも軽く、さっきまでのような千鳥足では無かった。
俺は律子にトイレで何をしてきたのか聞きたかった。
だが、セクハラになりそうだったので止めた。
俺はまた一つ証拠を見つけたようで悲しくなった。
「そうか……無理するなよ……」
律子にそう忠告して仕事に戻った。
律子を疑ったまま一緒にいるのが辛くなり、20時に帰ることにした。
「律子はまだやってくのか?」
「ええ、あと少しですから」
「そうか、じゃあ施錠頼んだぞ」
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ」
そう言って事務所を出た。
大きくため息をついた。
律子といると神経がかなり磨り減る。
疑いの眼差しで見ると、その一挙手一投足が怪しく見えた。
特に、具合悪そうだったのがトイレに行った後、すぐ直っていたのが怪しかった。
俺はあの時律子はトイレに薬を打ちに行ったのだと考えた。
しかし、それはそういう目で見ているからそう見えるのかもしれない。
単純に腹痛だった可能性もあった。
そして、俺はそう思いたがっていた。
はっきり黒だとわかるまでは、律子が薬をやっていると決めつけたくなかった。
真実と向き合う勇気がなくて、逃げているだけの自分がじれったい。
俺は暗くなったビルの谷間で思い切り叫びたくなった。
◇
仕事が終わって家に帰ってきたのは22時すぎだった。
今日も家に帰ってきてから、まず薬を打った。
ぼんやりしていた頭が冴えていく。
本来の自分を取り戻していくようで嬉しくなり、思わず笑ってしまった。
「……ははは……ははっ……」
異常者になったような気分だ。
もう薬がない生活は考えられなかった。
だって私は薬によって生かされているのだから。
酷く喉が渇いていた。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとラッパ飲みした。
口から零れた水が顎を伝って服を濡らした。
袖で濡れた口元を拭う。
心が次第に荒んでいく気がした。
いつまで薬を打ち続ければいいのだろうかと考えた。
薬を打っているこの状況が良くないことは理解している。
こんな生活を続けていっても身体は壊れる一方であることも。
やめられるなら今すぐにでもやめたい。
それができるならこんなに悩むことはなかっただろうが。
心の底にに膿が溜まっていくような気分で胸が苦しくなった。
特に今日の朝のことは私を酷く苛立たせた。
危なくプロデューサーの前で醜態をさらすことになりかねなかった。
せっかく今まで隠してこれたのに、その努力が水の泡になるところだった。
今日は薬が切れるまで忘れていた。
私は自分の迂闊さを呪った。
ここの所体調が悪く、仕事が思うように進んでいない。
だから今朝は早く出勤する必要があり、その結果家で薬を打つのを忘れてしまった。
どうにかしなければいけない問題が山積みだった。
でも、プロデューサーには知られたくない。
プロデューサーに知られることでダメな人間だと思われるのは、社会人としても女としても嫌だった。
脱衣場に行き服を脱いだ。
ふと鏡をみると腕の部分が目に止まった。
腕はいつも薬を打っているところだ。
注射針の跡がたくさん残っている。
指先でそっと撫でた。
痛みはない。
それなのに、何故か心は酷く痛んだ。
私の崩壊は少しずつ進んでいる気がした。
他人から見てもわからないほどゆっくりだったが、毎日見ている私には嫌でもわかった。
それは私を蝕んでいき、いずれ私の身体と精神を腐らしてしまうのは明らかだった。
鏡の中の私は涙を流した。
私は急いでバスルームに入った。
そして、シャワーノズルから出る冷水を全身に浴びた。
普段なら思わず叫んでしまうだろうが、今はそんな声は出なかった。
私はシャワーが好きだ。
シャワーは目から零れた涙を洗い流し、抑えきれなかった嗚咽を水が床を打つ音で掻き消してくれるから。
◇
亜美が写真を撮るのに成功したのは、俺に話してくれた日から三日後のことだった。
音無さんが帰ったら亜美が撮った写真を見せてもらうことになっていた。
音無さんは今日も定時で帰った。
「兄ちゃん……これ……」
亜美は震える手でSDカードを差しだした。
俺は黙ってそれを受け取った。
俺は中身を見たくなかった。
しかし、せっかく亜美が撮ってきてくれたのだから、見ないわけにはいかなかった。
カードリーダーにそれを差し込み、中のデータをPCに取り込む。
そこには律子の写真が一枚だけ入っていた。
携帯で撮った写真のようだが、かなり鮮明に写っている。
律子はどこかの廊下のベンチに腰掛けているようで、全体的に薄暗い印象を受けた。
律子は上着を脱いでシャツの袖を肩まで捲り上げていた。
そして、ペンぐらいの大きさの注射器を使って腕の外側に薬を注射していた。
俯いているため表情はハッキリとはわからなかった。
俺は律子が薬に陶酔しているところを見ずに済んで良かったと安堵した。
それを見てしまったら、俺の中の律子が本当に壊れてしまう気がしていた。
しかし、これは律子が薬をやってる紛れもない証拠だ。
できれば亜美の嘘であって欲しかった。
亜美を疑っていたわけではない
それだけ律子を信じていたのだ。
俺は律子に裏切られた気がして、陰鬱な気分になった。
「ねぇ……兄ちゃん……これからどうするの?」
亜美は悲しげにそう言った。
「どうするって……何がだ?」
俺の頭はその写真が衝撃的で上手く回っていなかった。
「律ちゃんと直接話すの?」
「うーん……」
俺は悩んでいた。
本来なら社長に話すべきなのだろうが、話してしまえば律子は終わりだ。
解雇されるのは間違いなかった。
律子と一緒に仕事ができなくなるのは嫌だと考えた。
しかし、薬物をやっているような人間を放って置いていいのだろうか。
俺たちプロデューサーはアイドルの管理を任せられているのに、薬物に手を出しているとなると問題だ。
アイドル達にまで薬物の使用が広まったら大変な事になる。
白いウサギ事件などが記憶に新しいが間違いなく警察沙汰になるだろう。
765プロの信用どころの話ではない。
「兄ちゃん……亜美、ちょっと律ちゃんが怖い」
「え?」
亜美は俯いたままそんなことを言った。
亜美がどんな顔をしてそんなことを言っているのか俺にはわからなかった。
「だって……学校の保険の時間にやったよ?薬物に手を出したら、どんなに普通の人でもおかしくなっちゃうんでしょ?」
「……」
俺は何も言い返せず、黙ったまま亜美の言葉を肯定も否定もしなかった。
「こんなこと考えちゃいけないって思うんだけど……でも、律ちゃんもおかしくなっちゃうのかな?」
亜美はぼそりとそんなことを言った。
俺は亜美の質問に答えられなかった。
それはずっと考えないようにしていたことだった。
あの律子が幻覚や幻聴に取り憑かれておかしくなってしまうなど考えたくなかったのだ。
俺はプロデューサーだ。
普通のプロデューサーなら取るべき行動は一つだった。
「そうだな……社長に話してくるよ……」
「うん……」
亜美は自分を責めているように見えた。
律子のことがばれてしまったのは自分のせいだと後悔しているのだろう。
俺は亜美の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「亜美はもう帰れ。それで、ご飯をいっぱい食べてさっさと寝ちゃえ」
「うん……」
「寝ちゃえば大抵のことは大したことはないと思えるって偉い人も言ってたからな」
「うん……」
亜美は俺のアドバイスをあまり聞いてなかった。
落ち込んだまま、とぼとぼと一人で帰っていった。
亜美が帰っていったのを見届けると俺は律子の写真をプリンターで印刷した。
社長に言葉で説明するよりも、この写真を見せたほうが早いと思った。
「……よし」
頬を叩いて自分に気合を入れた。
俺は社長室の前に立つとドアをノックした。
「どうぞ」
社長の返事を聞いてからドアを開けた。
「失礼します」
「ん?どうしたんだね?」
社長は机の上で書類を書いていた。
仕事中なのに邪魔するのは気が引けたがやむを得なかった。
「見ていただきたいものがあるんですが……」
俺は印刷したばかりの写真を渡した。
「これは…………」
社長はその写真を見ると大きく目を見開いた。
明らかに動揺していた。
「社長はご存知だったんですか?」
俺は驚き、社長にそう尋ねた。
社長は俺の質問には答えず、大きくため息をついた。
「これはどうしたのかね?」
「言えません」
「そうか……」
社長は急に老け込んで見えた。
ハンカチをポケットから取り出し、顔を拭った。
右手で眉間を解しながら、再び大きく息を吐いた。
社長の顔から普段のエネルギッシュなオーラは消え去り、身体は一回り小さく見えた。
「嘘をついても仕方がない。私はこのことを知っていた」
「そんな!」
俺は驚きの声をあげた。
まさか、社長が知っているとは思わなかった。
俺は社長にまで裏切られていたのだ。
強い疎外感と不信感を覚えた。
「そんな……知ってたのに、ずっと黙ってたんですか?」
「ああ、そうだ……」
社長の返答には覇気がなかった。
淡々と俺の質問に答えていた。
その様子は嘘に見えなかったが、俺は疑心暗鬼に苛まれた。
「……律子が自分から社長に話したんですか?」
「そうだ。そして君には黙っていて欲しいと言われた」
「なぜ……?」
「君に自分の弱さを見せたくなかったのだろう。律子君は強い女性だからね……」
「律子を……このまま雇い続けるつもりですか?」
俺は今まで知っていたのに何の手も打っていなかった社長のやり方に疑問を抱いた。
「仕事に支障が出ない限りはそうするつもりだ」
「そんな!アイドルへの影響を考えたらこれ以上は……」
「律子君は聡明だ。どうしてもダメになったら自分から言うだろう」
「本当にそれでいいんですか?後で問題が起きる可能性もありますが……」
「これは経営者としての私の判断だ。そして、私は律子君自身に判断を任せた。だから、これは律子君が決めることだ」
そう言って社長は黙った。
話はこれで終わりのようだった。
俺は社長から印刷した写真を返してもらうと社長室を出た。
今日はもう仕事をする気にはなれなかった。
律子の写真とSDカードはカバンの中にしまった。
俺は社長に失望していた。
律子の写真を見せれば、何らかの対応をしてくれると思っていた。
しかし結果は違った。
社長は律子が薬をやっているのを黙認していたのだ。
律子を呼んで話を聞くぐらいはするだろうと思っていた俺の期待は大きく裏切られた。
薬物乱用を黙認しないだろうと高をくくっていた俺のミスだ。
こうなったら俺が直接律子と話すしかなかった。
しかし、律子は営業でそのまま直帰することになっていた。
明日は仕事が終わったら事務所に戻ってくるようだから、そのときに話すことにした。
荷物を持って事務所を出た。
外はまだ明るかった。
夕暮れの街は深夜と違って人通りが多く、活気があった。
こんなに明るいうちに帰ったのはいつ以来だろうか。
スーパーで食材を買ってから家に帰った。
のんびり風呂に入って凝り固まった全身を解す。
風呂から上がって夕食を手早く用意してから、グラスにビールを注いで1人で乾杯した。
ビールを飲みつつバラエティ番組を眺める。
テレビの中ではお笑い芸人達が楽しげに笑いながら、和やかな雰囲気でトークしていた。
俺は芸人のネタで声を出して笑ってしまった。
こんなにまったりした夕食は久しぶりだ。
普段は飯の時間も惜しんで仕事をしていて、食べるにしてもコンビニ弁当を掻き込むかウイダーゼリーだけだった。
穏やかな時間の中で俺の心は酷く落ち着いていた。
しかし、ふと律子のことを思い出して俺の心は乾いてしまった。
心の中に今にも壊れそうな律子の姿が居座ったままでは何をしても楽しくなかった。
さっきまで笑えたバラエティ番組もつまらなく思われた。
リモコンを取ってテレビを消した。
部屋には音を出す物は無くなり、静けさだけが残った。
グラスに小気味良い音を立ててビールを注ぐ。
それを一気に飲み干しても苦いだけで気分はちっとも良くならなかった。
俺は明日律子と話そうと改めて思った。
このままでは俺まで壊れてしまう気がしたからだ。
こんな気持ちを抱え続けるのはあまりにも辛い。
でも、亜美が撮った写真はなるべく使わないようにしたいと考えた。
それを使ってしまえばただの脅迫になる気がした。
何より律子の弱みに付け込んで本当のことを言わせるというのは考えただけで不愉快だった。
律子に対してそんなことをしたくはなかった。
残された手は俺の気持ちを律子に伝えて、自首してくれるよう頼むしかないと思った。
そんなものが何の役に立つのだと俺の中に潜むリアリストが笑った。
愛が何かを救う話はファンタジーと呼ぶのだ、と。
現実に愛が解決できる事など、どれほどあるだろうか。
俺はビールを再び注ぎ、今度は少しずつ飲みながら考えた。
でも、こんな非現実的な状況を打破するのは愛のような普遍的なものに違いないと思った。
そもそも、他人に言われただけで止められるなら薬物乱用など問題にならないはずだ。
俺の中には薬物に対する嫌悪が依然あった。
そして、かつての俺は自ら薬物に手を出す人間を憎悪していた。
それは今も変わらない。
だから、律子が薬をやってると聞いたとき、俺には律子が嫌いになるような予感があった。
しかし、それは外れた。
薬物乱用者への憎悪を差し引いても、律子への愛は残った。
もう俺自身にはどうしようも無いほどに律子のことを愛してしまっていた。
どうして運命はこうも残酷なのだろう。
律子が薬に手を出していなければ、薬に手を出しているのが他の人間だったら。
俺はこんなに悩むことは無かった。
もう寝ることにした。
俺の心は決まっていた。
電気を消す。
暗闇の中に律子が浮かんだが、すぐに消えた。
俺はそのまま眠りに落ちた。
◇
私は自室で一冊の文庫本を読んでいた。
それは私の本ではなかった。
ずいぶん昔に借りたまま返しそびれていたのだ。
私はこの本を借りたときのことを思い出していた。
あれはまだ私が中学生だった頃のことだ。
晴れた日の午後に私はその老人と初めて言葉を交わした。
ある用事で病院に行った帰り、病院の前庭でベンチに座って読書をしている老人がいた。
その老人は年老いていたが身なりがよく、たまに読書をしているのを見かけた。
私が家に帰ろうと思い、病院から出ようとしていたとき、少し強い風が吹いて老人の被っていた帽子が私の足元まで飛ばされてきた。
私は咄嗟にしゃがみ、その帽子を拾った。
地面に転がって砂ぼこりがついたので軽く手で払い、杖を突きながら帽子を追いかけてきた老人に手渡した。
老人は朗らかに笑って私にお礼を言った。
私はそこで老人と少し世間話をしたのを覚えている。
葉だけになった桜の木の下は日差しが遮られ、ひんやりとして涼しかった。
ずいぶん昔のことだから、どんな話をしたかまでは流石にはっきりとは覚えていない。
ただ、流れで老人が読んでいた本の話になった。
老人が読んでいたのは有名な小説家の作品で、親子の確執と和解について書かれたものだった。
老人はその本についてやけに怒っていた。
長年の確執が簡単に解消されたのが気に入らなかったようだ。
作者がとっくの昔に死んでいる作品に対して真剣に怒っている姿はなんだか面白かった。
当時の私はまだその作品を読んだことが無かった。
それを何気無く老人に言うと、老人は貸してくれると言った。
普段なら遠慮しただろうが、そのときの私は何故かその老人から本を借りることにした。
それがきっかけで私たちは病院で会うと何度か話をした。
何度かその老人に借りた本を返そうとしたが、いらないなら捨てて欲しいと言われ返せなかった。
そうこうしているうちに老人は亡くなってしまい、私の手元にこの本が残った。
私は老人に借りた本をじっくりと眺めた。
捨てるに捨てられず今日まで持ち続けてきた。
だが、そろそろこの本を持っているべき人に返すべきだと考えた。
返すチャンスは今までに何度もあったが、何故か踏ん切りがつかなかったのだ。
これを返してしまったら、もう今までの関係でいられなくなる気がしていた。
その段階に進むためには私自身の弱さをさらけ出さなければいけないのだ。
この本を手に入れるきっかけを話すなら必然的にその話をしないわけにはいかなかった。
私は自分自身のそれを欠点と認めたくなかった。
それを認めてしまったら、人間は運命の奴隷であることを認めることになると思った。
私はそんなことを気にせずに自由でいたかった。
だが、嘘で塗り固めて作り上げてきた偽物の私は今にも崩れそうだった。
信頼してくれている人達を騙している罪悪感は夜毎に私を苛んだ。
私は他の人に話すことで楽になるであろうことを理解してはいた。
困ったときに手を貸してもらえるようになれば今よりもリスクは減るだろう。
現に社長からはプロデューサーだけには話しておくことを勧められていた。
しかし、私はそれを断った。
プロデューサーに知られることで今まで通り接してもらえなくなるかもしれないと思うと足が竦んだのだ。
私はカバンの中にその本を閉まった。
明日この本を返そう。
そう決意した。
私は私のことを話すことに決めた。
その結果、プロデューサーに嫌われても仕方ないと思った。
電気を消して布団に入ると、目を瞑った。
瞼の裏には笑顔のプロデューサーの姿が浮かんでいた。
涙が頬を伝って流れ、枕を濡らした。
◇
朝が来た。
希望の朝というものには久しくお目にかかっていない。
ここ最近お馴染みの絶望が胃の辺りに溜まってムカムカしていた。
一晩経って、俺の決心は少し揺らいでいた。
だが、話さないわけにはいかないという思いが俺の中にあった。
俺はカーテンを開けて外を眺めた。
空は晴れていた。
雲ひとつ無かった。
雀が電線に止まり、首を傾げながら囀っていた。
窓を開けると、春の柔らかい風が部屋の中に流れ込んできた。
朝にしては強い日差しが今日も暑くなりそうな気配を漂わせている。
俺の心の内とは裏腹に外は酷く長閑だった。
俺は平和な世界に苛立った。
寝ている間に世界が滅んでいたら、律子と話し合う必要は無かったのにと馬鹿なことを考えた。
しかし、主観的にはその問題は世界の危機だった。
俺と俺を取り巻く世界を根底から破壊してしまう危険性があった。
そんなことを考えていても、俺は自分が律子と話をすることを確信していた。
俺は本質的に臆病なのだ。
律子を放置することによって起きうる問題を考えるだけで、恐怖で背筋が凍った。
錯乱した律子がアイドルを殺すかもしれない。
それはあり得ないことではなかった。
異常な人間が何をするかなど、俺たち正常な人間には予測不能だ。
真っ先に浮かんだのは律子が竜宮小町のメンバーを惨殺している光景だった。
幻の中の亜美は何度も律子に腹部を刺されていた。
肩を掴まれ、包丁を腹部に開いた穴に何度も出し入れされていた。
律子が包丁を抜くと亜美の温かい血液が吹き出して、律子の包丁を持った手と上半身を汚した。
亜美のお腹にぽっかり開いた穴からはピンク色の腸がはみ出て見えた。
亜美は激痛にのたうちまわり、床に血反吐を撒き散らしている。
次に、律子が襲ったのは伊織だった。
驚いて動けなくなっている伊織との距離を一気に詰める。
律子の包丁は亜美の脂で切れ味を落としているはずなのに、あっさり伊織の頸動脈を刎ねた。
伊織は一瞬何が起きたのかわからないとでもいうようにぼんやりと立ち尽くしていた。
一拍置いて、切断された頸動脈が真っ赤な血を噴水のように吹き上げた。
伊織は白眼を向いて後ろ向きに倒れ込んだ。
部屋が真っ赤に染まる。
床だけでは飽き足らず、壁や天井まで伊織の血で汚れた。
床に横たわった伊織はそのまま声も上げず、絶命した。
最後に残ったあずささんは全身を切り刻まれた。
白い肌の至るところに真っ赤な傷口が開いていた。
あずささんは致命傷はなかったが、おびただしい量の血を流していて助かりそうになかった。
胸も刺されていたが、心臓に上手く刺さらなかったようだ。
2人分の血と脂で切れ味が大分悪くなっていたせいだろう。
しばらく床の上で跳ねていたが、少しずつ動かなくなる。
焦点の合わない虚ろな目を見開いたまま天井を見上げていた。
やがて血を流しすぎたあずささんは冷たくなり、全く動かなくなった。
そして、血塗れの包丁を持ったまま律子は立ち尽くしていた。
三人の死体を見下ろしながら、血溜まりの中で仁王立ちしていた。
愉快で仕方がないというように哄笑しながら。
俺は頭を振ってその光景を打ち消した。
こんなことを考えるなんて、俺は既におかしくなっているのかもしれない。
こんなことは起きるはずがない。
自分の心配性を呪った。
しかし、少しでも可能性があるなら、こんな事態にならないためにも律子と話さなくてはならない。
俺は腹を括り、出勤する準備を始めた。
事務所に着くと、竜宮小町と律子がいた。
「みんな、おはよう」
4人に挨拶すると、眠たげな声で挨拶が返ってきた。
亜美は俺の側にやって来ると小声で話しかけてきた。
「兄ちゃん……どうするの?」
「今日話すよ……」
「そっか……」
亜美は嬉しいような、嬉しくないような微妙な顔をした。
このことは素直に喜べることじゃないのを亜美も理解しているようだ。
俺は亜美の頭を掻き回す。
「ちょっ!?兄ちゃん!?」
亜美は戸惑って悲鳴にも似た声で俺に抗議した。
これなら、今日の仕事も問題ないだろう。
俺は亜美の頭から手を離すとそっと耳打ちした。
「何とか律子を助けられるような道を考える」
「……うん、お願いね?」
俺と亜美が話してるのを見て、伊織が突っかかってくる。
「ちょっと?なに内緒話してるのよ?」
「いおりんには教えてあーげない!」
亜美はわざと明るく振る舞っている。
こんな年下の女の子に心配させなくてはいけない自分の不甲斐なさを改めて反省した。
「なによ!教えなさいよ!」
「やーだーよー。ふふっ、でこちゃんが追いつけたら教えてあげるよー?」
「でこちゃん言うな!」
亜美は笑いながら伊織から走って逃げ出した。
伊織は怒って亜美と追っかけっこを始めた。
それをあずささんが微笑みながら見守っていた。
「全く、あの二人は……」
律子はその横でため息をついていた。
「律子……ちょっといいか?」
「はい?何ですか?」
「ちょっと会議する必要が出てきたから、仕事終わったら少し時間をくれないか?」
「会議ですか……?」
「ああ。非常に重要な問題なんだ。仕事は何時に終わるんだ?」
「今日は16時まで竜宮の撮影ですから……アイドルを車で送ると……18時には事務所に戻って来れます」
「そうか……じゃあ18時半から会議やるから」
「ええ、わかりましたけど……何の会議ですか?」
「今後の765プロの方針について話し合うんだ」
「てことは社長も出るんですか?」
「いや、まずは俺たちだけで意見をまとめて欲しいそうだ」
「そうなんですか。わかりました。18時半ですね?」
「ああ。撮影が押して遅くなりそうだったら連絡してくれ」
「わかりました。それじゃ、行ってきます」
「あんた、サボってないでちゃんと仕事するのよ?」
「プロデューサーさん、行ってきます~」
「兄ちゃん頑張ってねー?」
「いってらっしゃい」
俺は亜美の応援に頷いて、みんなを仕事へと送り出した。
「ふぅ……」
「お疲れですか?」
音無さんがコーヒーの入ったマグカップを手渡してくれる。
湯気とともにコーヒーの良い香りが立ち上っていた。
「ああ、ありがとうございます……なんか悩みが多くて……」
「へー……」
音無さんは自分の席についてコーヒーを飲み始めた。
俺もそれに習い、コーヒーを啜る。
2人の間に沈黙が流れた。
しかし、嫌な感じはしなかった。
ここしばらく無いぐらいに落ち着いていた。
「ところで音無さんって律子のことを知ってたんですか?」
「へ?律子さんがどうかしたんですか?」
どうやら聞かされてないみたいだ。
「いや、なんでもないです」
「気になりますね……教えてくれないんですか?」
「律子に直接聞いてください。俺の口からは言えません」
「いけずです……」
俺は苛ついたが何も言わず、仕事に取り掛かった。
しかし、全く集中できなかった。
時計を何度も見ていたら音無さんに笑われてしまった。
手を止めて律子のことを考えてしまう。
聞きたいことはたくさんあった。
どうして薬物に手を出したのか。
いつから薬物をやっているのか。
どうやって入手しているのか。
なぜ俺には教えてくれなかったのか。
気づいたら一日が終わっていた。
今日何をしたか全く覚えていなかった。
朝、机の上に置いた資料は1ページたりともめくられていなかった。
コーヒーも一口しか飲んでいないのに冷たくなっていた。
俺は音無さんに聞いてみようと思ったが、席にその姿はなく、すでに帰ってしまっていた。
事務所には俺しかいなかった。
冷めたコーヒーを飲んでみた。
美味しかった。
沈んでいた気分が少し良くなった気がした。
時刻はいつの間にか18時になっていた。
「ただいま帰りましたー」
律子が帰ってきた。
俺の心拍数は緊張でかなり上がった。
だが、もう迷いはなかった。
「……おかえり、律子」
「いやー今日の撮影大変でしたよー」
律子はハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「どうしてだ?」
「亜美の撮影がすごい長引いちゃったんです」
「……」
俺は何も言えなかった。
亜美の苦しみを思うと胸が痛んだ。
「調子は悪そうには見えなかったんですけどねー」
「それなのによく時間通りに戻って来れたな」
俺が内心では律子が俺との約束を忘れていてくれていることを期待していたのは言うまでもない。
今までの俺は逃げているだけだった。
嫌なことからただ逃げようと藻掻いているだけだった。
しかし、もう違う。
自分にとって都合の悪い事態から目を逸らすのはやめた。
そんなものは俺のエゴに過ぎないからだ。
自分の心を大事に守ることで、もっと悲惨な事態を引き起こすなんて耐えられない。
本当に律子を愛してるなら律子のためを思って行動すべきだ、というのが俺が出した結論だった。
「ええ。その分伊織とあずささんが頑張ってくれましたから」
「そうか……」
俺は律子の真後ろに立っていた。
律子は机の上の山積みになっていた書類を整理しているところだった。
「ところでプロデューサー。会議はどうす」
俺は振り返ろうとした律子を思い切り抱きしめた。
律子は小さな悲鳴を上げかけたが、すぐに黙った。
俺は何も言わず、ただ律子の細い体を抱きしめていた。
律子の髪からはいい匂いがした。
律子の身体は柔らかく、抱きしめていてとても安心できた。
「ど、どうしたんですか?プロデューサー?」
律子は戸惑っているようだった。
しかし、嫌がっている様子はない。
律子は俺の腕の中で微動だにしなかった。
「プロデューサー?」
「……律子が好きなんだ」
俺は律子の耳元で囁いた。
自分の本心をそのまま言葉にして伝えた。
無駄な言葉を並べたところで伝わらないなら、できるだけ簡素でわかりやすいほうがいい。
「へ!?」
律子の身体は大きく震えた。
さっきまでは黙って抱かれていたのに急に暴れ始めて、俺の腕の中から抜けようとした。
「え?え?ちょ、ちょっと冗談はやめてください!」
「冗談じゃない。俺は律子が好きなんだ」
俺は再び律子に囁いた。
律子の耳は一瞬で真っ赤になった。
「なんで?そんなの……でも……なんで……ドッキリですか?」
律子は事務所の中を見回すがカメラなどあるはずも無い。
「俺はただ律子に俺の気持ちを知って欲しかったんだ」
「どうして……そんなこと……急に言われても……」
俺は息を吸うと律子に告げた。
「俺は……律子の秘密を知ってしまったんだ」
それまで俺の腕の中でもぞもぞ動いていた律子は動くのをやめた。
「どうして……」
律子の顔は俺からは見えない。
ただ、律子の声は震えていた。
「どうして……それを……社長ですか?」
「違う。亜美だ」
「だから……今日は……」
「亜美が、律子が注射してるって教えてくれたんだ」
「そう……だったんですか」
「どうして……社長には教えて、俺には教えてくれなかったんだ?」
律子は黙ったまま俺の質問に答えない。
「教えてくれ。俺はそんなに頼りないか?」
「違います。ただ、プロデューサーには知られたくなかったんです」
「そうか……」
律子はそれっきり黙ってしまった。
「もう一度言うが、俺は律子のことを愛してる。だから薬をやめてくれ」
「……え?」
「簡単にはやめられないのは分かっている」
「……」
「一度覚せい剤をやったら依存してしまうことも知ってる」
「……」
「だが、大切な人が薬で壊れていくなんてもう見たくないんだ」
「……」
「俺のためにも……薬をやめてくれないか?」
「……」
「律子?」
「…………ククッ」
俺は、初めは律子が泣いているんだと思った。
だが、それは違った。
律子は肩を震わせて笑っていた。
「律子?」
「ふふっ……あはははははははは」
静まりかえった事務所に律子の笑い声が響いた。
「ど、どうした?」
律子は笑いながら言った。
「私は覚せい剤なんてやってませんよ?」
この期に及んでまだ誤魔化す気のようだった。
「証拠はある。亜美に頼んで写真を撮ってもらった」
「ふふふっ可笑しい。だからそれは覚せい剤じゃないんですって」
「じゃあ、何なんだよ!?」
俺は見苦しい言い訳をする律子に腹が立って思わず大きな声が出た。
「インスリンです」
律子は落ち着き払った声で言った。
「え?」
「だーかーらー、糖尿病の治療のためのインスリン注射なんですって」
「え?」
「私、糖尿病なんです」
「え?」
飯食ってくる
「今まで黙ってたのは謝りますけど」
「……」
「まさか覚せい剤と間違われるとは思いませんでした」
「……」
「いくら注射してるからって、薬物だと思うなんて早計すぎませんか?」
「……」
「私が薬物なんてやるわけ無いじゃないですか」
「……」
「もしかして本当に私が薬物やってると思ってたんですか?」
「……違うのか?」
律子は深いため息をついた。
「写真あるんですよね?」
「あ、ああ」
俺は鞄の中から昨日印刷した写真を見せた。
「ほら、ここ見てください」
律子は注射を打ってる部分を指した。
「腕の外側に打ってますよね?」
「ああ」
確かに写真の中の律子は上腕の内側でなく、外側に注射していた。
「それがどうしたんだ?」
「覚せい剤って静脈注射ですよ?」
「ああ、それは前調べた時にネットで読んだな」
「腕の外側の静脈なんて見てもわかりませんよ。打つなら内側の皮膚が薄いところです」
「確かに……」
言われてみればその通りだ。
俺は急に恥ずかしくなってきた。
もしかして俺は勘違いをしていたのか?
穴があったら入りたいという言葉がここまでぴったりな状況はないだろう。
「でも、律子の年で糖尿病になるのか?」
「糖尿病は食生活だけでなるわけじゃないんですよ?」
「そうなのか?」
「糖尿病でも二種類あって、食生活関係なく発症する1型糖尿病っていうのがあるんです」
「へー……」
「私はそっちなんですけど、それは10代で発症したりすることもあります」
「そうだったのか……」
俺は自分の無知を恥じた。
「それにしても亜美ったら、盗撮するなんて」
律子は舌打ちしながら言った。
「それは俺が頼んだんだ。すまなかった」
「亜美には私から説明しておきますから。他のアイドルには話さないでくださいね?」
「ああ……」
「そろそろ帰ります」
「あ、ああ……気をつけて……」
「あ、明日の待ち合わせは何時ですか?」
「明日って?」
「ライブですよ!ライブ!」
そういえばそんな約束をしていた。
ずいぶんと昔のことのような気がした。
「14時からだから12時半ぐらいに迎えに行くよ」
「わかりました。それじゃ、帰ります」
「ああ、お疲れ」
「お疲れ様でした」
そう言って律子は帰って行った。
俺はしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
さっきまでのことが全部夢じゃないかと考えた。
律子が薬をやっているわけじゃないと分かると、安堵して力が抜けたせいか、椅子に座り込んでしまった。
深いため息をついた。
少し時間が経ってからその事実が理解できて、俺は歓喜のあまり叫び声を上げた。
やはり律子は俺が思っていた通りの律子だったのだ。
俺はPCの電源を入れた。
1型糖尿病について調べてみた。
律子が言っていたのは本当だった。
何らかの原因でインスリンを生成するβ細胞がリンパ球から攻撃を受けることによってなるらしい。
そして、インスリン注射が代表的な治療法であるとも書いてあった。
何より律子の写真に写っている注射器がインスリン注射に用いられるものであると書いてあるのを見つけた。
俺は恥ずかしさのあまりに手で顔を覆った。
「ふふふ……」
勘違いしたのは恥ずかしいが、律子が薬をやっていなかった嬉しさのあまり笑ってしまった。
そういえば驚きすぎて律子の気持ちを聞くのを忘れていた。
しかし、そんな些細なミスも今は気にならなかった。
明日も律子に会えるのだからその時に聞けばいいと思った。
何もしなくても口角が上がりにやけてしまう。
呼吸と一緒に勝手に笑いが零れた。
こんなところを他の人に見られたらおかしくなったと思われるだろう。
でも、そんなことは今はどうでもいいのだ。
ただただ心の中に喜びが溢れていた。
昨日までの自分にこの喜びを分けてあげたいくらいだった。
俺は帰る支度を始めた。
今日は久しぶりにぐっすり眠れそうな気がした。
◇
家に帰ってきて、夕食をとってからお風呂に浸かった。
今日の撮影はなかなかハードだったから少し疲れていた。
湯船に浸かりながら軽く筋肉を伸ばしてストレッチする。
肉体的な疲労とは裏腹に精神は高揚していた。
ドライヤーで髪を乾かしてからキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。
身体中に染み渡って行くようで凄く美味しく感じられた。
病気のせいで喉がよく渇くせいで水を飲むことが以前より増えた。
自分の部屋に戻ると電気を消してベッドに飛び込んだ。
枕を抱きしめて顔を押し付ける。
今日起こったことがあまりにも衝撃的で頭がどうにかなりそうだった。
プロデューサーから好きと囁かれるなんて想想の中だけで、現実には起こりえないと思っていた。
ただの愛の告白だけではなく、後ろから抱きしめられながらあんなこと言われるなんて、まるでフィクションのようで凄くドキドキした。
恥ずかしさのあまり、枕に顔を押し付けたまま足をパタパタしてしまう。
プロデューサーに薬物をやっていると思われてたのは心外だったが、誤解は解けたみたいで良かった。
明日はプロデューサーの顔をちゃんと見れるだろうか。
今日は恥ずかしさに負けて急いで帰って来てしまったが、明日会ったらちゃんと私の気持ちを伝えようと思った。
なんだか幸せで胸がいっぱいだった。
こんなに幸せになっていいのかと思ってしまうほどに。
あたた
明日はプロデューサーとのデートだ。
予定では昼からだが、寝坊したりしないように今日は早めに寝ることにした。
◇
ライブは最高だった。
歌がうまいのはもちろんだが、演出面での素晴らしさは筆舌に尽くし難い。
1曲目のドラマの主題歌になった曲で客の心をガッチリ掴んで離さないのは流石だと思った。
そして、アップテンポな4曲目に入ってからは、ボーカルは歌いながらホールの端から端まで走り回っていた。
これには舌を巻いた。
多少息継ぎは多くなっていたものの、歌のリズムや音程は全く崩れなかった。
歌とダンスで手一杯なうちのアイドルには真似できないだろう。
単純な体力差もあるだろうが。
今度からはアイドル達を走らせたり、自転車に乗せたりして持久力向上を目指すべきかもしれないと思った。
ランニングをすることで持久力だけではなく、肺活量も上がり歌にもダンスにも良い効果があるだろう。
俺たちがいたのは関係者席だったのでライブが終わってからも顔見知りのディレクターなどと話ができて、実に有意義だった。
俺と律子はその後も楽屋にお邪魔したりして帰るのは大分遅くなった。
だが他の客はみんな帰ってしまっていたので返って空いててよかった。
少し離れたところに駐車していたので、俺と律子は会場から歩かなければいけなかった。
歩くことは問題ではなかった。
律子と2人きりになると昨日のことを意識してしまうせいか少しギクシャクしていた。
会話していてもお互いにすぐ沈黙してしまうため、黙っている時間が長かった。
話したいことはいっぱいあった。
だが気恥ずかしさがそれを阻害していた。
俺と律子は黙って信号待ちをしていた。
俺は信号待ちの時間が好きじゃなかった。
前に進みたいのに、強制的にその場に留まらなければいけないのは酷く不愉快だった。
何かをするには短く、何もしないのはもったいない。
いつもそんなことを考えていた。
そして、今は律子と一緒にいるせいで余計に長く感じられた。
何か気のきいた話題を探してはみるものの、俺はあまりトークが得意ではない。
2人の間に少し気まずい空気が流れている。
それゆえに今の手持ち無沙汰な状況が際立っている気がした。
その時、律子の携帯が鳴った。
横目で律子を見ると、少し安堵したような顔をして電話に出た。
「はいっ!秋月ですっ!はい!いつもお世話になっております……」
律子は俺に背を向けて話し始めた。
口調から察するにどうやら仕事関係のようだ。
それがなんだか面白くないように感じられて嫌だった。
せっかく一緒にいるのに。
などと考えている自分を発見して驚いた。
こんなことは今まで何度もあった。
それなのにこんな気持ちになったのは初めてだった。
俺は自分がここまで嫉妬深いとは知らなかった。
しかし、そうして嫉妬しているのも律子を愛している証拠だから強く否定する気にはなれなかった。
俺は暇を持て余し、目の前の風景を眺めた。
たくさんの車が流れ、時折クラクションを鳴らして文句を言う。
交通量が多い交差点だから、道幅も広くスピードを出している車も多い。
通りを挟んで向かい側の歩道には俺と同じように信号待ちをしている人がいた。
夫婦とその子どもらしき幼稚園生ぐらいの男の子と年老いた老人と若い学生がいた。
夫婦は仲が良さそうに会話しているが、他の人は俺と同じように暇そうだった。
車が起こす風が、男の子が手に持った風船を揺らした。
その風船はサバのような魚類を模して作られていた。
風に揺れている姿は水の中を自在に泳ぎ回っている姿によく似ていると思った。
夕日を金色の背ビレが反射して光っていた。
信号が変わる。
信号と共に備え付けられたスピーカーから音楽が流れ始める。
再び律子を見るとまだ電話していた。
俺は1人で横断歩道を渡り始めた。
この後、律子をどこに連れて行こうかなんて考えていた。
高級レストランとかでもいいが、律子の身体を考えたら食事には気を使わないといけない。
律子の電話が終わったら聞いて見ようとぼんやり考えた。
そして、俺の思いに対する律子の気持ちも聞こうと思った。
その時、俺の後ろで車の急ブレーキの音が響いた。
耳をつんざくその音がタイヤと地面によって発生させられたものであると気づくまでに数秒必要だった。
歩道の反対側にいた夫婦は俺の後ろを見て、大きく目を見開き、指を指した。
振り返った俺が目にしたのは車に撥ねられて、風に飛ばされたビニール袋のように飛んで行く律子の姿だった。
時間の流れが酷く緩やかになった。
俺の目は空中を舞う律子の顔を捉えていた。
律子は目を開けたまま、何が起こったかわからないとでもいうような顔をしていた。
律子が飛んでいくのと全く同じスピードで律子がさっきまで使っていた携帯が飛んでいた。
律子の身体は音も立てずアスファルトの地面に墜落した。
一拍遅れて律子の携帯が落ちて、プラスチック特有の軽い音をたてた。
世界は静まり返っていた。
誰もがその光景に目を奪われていた。
その静寂を破ったのは子供の泣き声だった。
それを合図に時間の流れや音は元に戻り、喧騒が押し寄せてきた。
救急車を呼ぶもの、警察を呼ぶもの、遠巻きに見るだけのもの、さまざまな人間がいた。
中には関わりたくないと言うように足早に去っていくものもいた。
俺の足はフラフラと律子を目指して動いた。
頭の中は真っ白で何も考えられなくなっていた。
律子は交差点の真ん中に横たわっていた。
俺は律子が死んだと思った。
側まで行くと、律子の顔が見えた。
その顔は酷く安らかだった。
あの時見た父親と同じように酷く安らかな顔をしていた。
「律子……?」
俺は恐る恐る律子に話しかけた。
律子からの返答はなかった。
俺はどうしていいかわからず、ただぼんやりと律子の側に立っていた。
俺はふと上を見上げた。
さっきの子供が持っていた、魚の形の風船が空に飛んで行ってしまっていた。
俺は驚いて手を離してしまったのだろうかと考えた。
中に入ったヘリウムガスのおかげでその魚は空を飛べるようになっていた。
その魚はゆっくりと空に登って行った。
それからしばらくして救急車がやってきた。
何も分からぬまま、律子と一緒に救急車に乗せられた。
律子はまだ生きているようだ。
苦しそうに呼吸をしている。
また、死んでいく父親の姿がフラッシュバックした。
それは死ぬまでの猶予を与えられただけかもしれない。
律子の状態はかなり危ういようだった。
いつかは人は死ななくてはいけない。
結局死ぬのならいつ死んだかなどなんの意味があるのだろうか?
人生は死ぬまでの暇潰しにすぎないと言った人もいた。
生きることなんて無意味なのかもしれないと考えた。
しかし、それでも俺は律子に助かって欲しかった。
できることなら俺の命を代わりに差し出してもいいとさえ思えた。
俺は普段全く信じていない神に律子を助けるよう祈った。
病院に到着すると律子は集中治療室に運ばれて行った。
俺は黙ってそれを見送った。
廊下に設置されたベンチに座った。
ここは父親が死んだ病院だった。
父親が死んでから来たのは初めてだ。
ここに来ると父親を失った苦しみを思い出すような気がしていたからだ。
でも、そんなことは無かった。
記憶として蘇っても、落ち着いて客観的に眺められるぐらいの余裕が生まれていた。
俺の中で父親の記憶は風化し始めていた。
かつて抱いていた思いも今となっては別の人のもののように感じられた。
少し寂しい気がした。
でも、それでいいと思った。
いろんなことを忘れて生きていくのが本当なのだと思った。
律子の手術は長引いた。
手術室の表示の電気が消えたあと、静かに律子がストレッチャーに載せられて出てきた。
管に繋がれたその姿を見ると、やはり父親のことが思い出された。
「ご家族の方ですか?」
「いえ、恋人です」
自然と口からそんな言葉が出た。
それは嘘のような気もしたが、嘘でないという気もしていた。
「命に別状はありません。若くて体力がありますから、たぶんもう大丈夫でしょう」
医者はこんなことを言った。
「そうですか!……ありがとうございました」
医者は引き上げていった。
俺は緊張が途切れてベンチに座り込んでしまった。
律子は助かった。
ただただ嬉しかった。
俺は病院の廊下で1人で泣いた。
それからの2週間は地獄だった。
律子がいないせいで俺の負担は3割増しだった。
俺は通常の三倍のスピードで仕事をすることなどできないから、必然的に残業時間が増えた。
だが、律子を失う苦しみに比べたらこんなものはどうということはない。
残念だったのは律子の見舞いに行く時間が取れないことだった。
アイドル達は暇を見つけては律子の見舞いに行ってるらしい。
話を聞く限りでは律子はもう元気になっているようだ。
亜美と真美の2人でお見舞いに行ったところ、病院でうるさくするなと怒られた、と嬉しそうに言っていた。
俺がそれを羨ましそうに眺めていたら音無さんにまた笑われてしまった。
社長が俺の仕事を手伝ってくれたおかげで今日はオフだ。
ようやく律子のお見舞いに行ける。
病院の前の道を歩いていると、父親が死んだときのことを思い出した。
あの日はどんよりと曇っていたが今日は爽快な青空が広がっていた。
父親の時とは違い、律子は元気だから足取りは軽い。
交差点に差し掛かる。
信号は青だった。
俺は注意深く左右を確認してから渡った。
律子が信号無視の車に撥ねられたのに助かったのは奇跡だ、と医者は言っていた。
あれだけのスピードを出していた車と接触したら普通は死んでしまうだろう。
そんなことを考えながら渡っていたら、交差点を渡り終えたところに一匹の蛙が死んでいるのを見つけた。
俺はそれを踏みそうになったが、既のところで避けた。
それは大きい蛙だった。
20センチはありそうだった。
恐らく病院の庭にある池から逃げてきたのだろうと考えた。
種類は分からないが、背中は綺麗な緑色をしていた。
蛙は白い腹を上に向けてひっくり返っていた。
白い腹は避けており、内臓が見えてしまっている。
小学生の頃の理科の教科書に乗っていた写真を思い出した。
蛙はなんで死んだのだろうかと考えた。
この潰れ具合から車に撥ねられたのかもしれないと思った。
そう思うとあの時地面に横たわっていた律子の姿が思い起こされた。
俺には蛙と律子が重なって見えた。
蛙は死んだ。
しかし、律子は死ななかった。
その二つを隔てたものを思った。
そこには何も無かった。
理由はなく、原因もない。
あるのは偶然だけだった。
昔読んだ小説でもこんなシーンがあったのを思い出した。
その作品では蛙ではなかったと思うが。
俺は蛙をそこに残して病院の敷地に入った。
病院の中にはほとんど人がいなかった。
一階のロビーも閑散としていた。
俺はエレベーターに向かって歩いていた。
律子の部屋は確か5階だったはずだ。
エレベーターに乗りこむと、1人の妊婦がゆっくりとこちらを目指して歩いてきた。
俺は急いでるわけでもなかったので、開ボタンを押したまま待った。
妊婦は俺にお礼を言ってから3階のボタンを押した。
扉が閉まって、エレベーターは上に登っていく。
3階に着くと妊婦は再び俺にお礼を言って降りていった。
エレベーターの扉が閉まると、再び上に引き上げられていく。
軽快なベルが鳴って5階についたことを告げた。
エレベーターから降りた俺は以前ここに来たことがある気がした。
その時ようやく父親が入院していたのも同じ階だったことを思い出した。
律子の部屋へと向かう。
予感はあった。
記憶を辿って歩く。
やはりそうだった。
律子の病室は父親の病室と同じだった。
俺は開けるのを躊躇した。
扉の向こうに死にかけた父親がいるような気がして怖くなった。
だが、そんなことはあるはずがない。
俺はドアをノックした。
「はーい」
中から元気な律子の声がした。
俺は安心してドアを開けた。
中の様子は俺の記憶と全く同じだった。
違うのはベッドの中にいるのが父親ではなく、律子だということだけだった。
律子は読んでいる本から顔を上げて言った。
律子は足を吊っていたが元気そうだった。
「お父さんと同じ部屋ですね」
律子はポツリと言った。
俺は心の中が読まれたような驚きを味わった。
それは律子が知らないはずのことだった。
「どうして律子がそれを……?」
「まだ気がついてないんですか?」
「何のことだ?」
「あの日電話したのが私だってことです」
雷が落ちたような衝撃を受けた。
「まさか……いや……そんな……あれって」
俺は親父の愛人とかだろうと思っていた。
病院に提出する書類に俺の電話番号を書くはずはないと思っていたから。
しかし、葬式にそんな女性は顔を出さず、俺は不思議に思ったことを思い出した。
「あれが律子だっただと?」
「ええ。私はプロデューサーのお父さんと知り合いでしたから」
「そんな、だってその頃の律子は中学生だろ?」
「そうですよ。糖尿病を発病してここに通院し始めた頃でした」
ああ、そうだったのか。
疑問が一気に溶けていった。
いろいろなことが俺の見えないところで繋がっていた。
だが、それを知ってもまだわからないことがあった。
「どうして律子は俺の電話番号を知っていたんだ?」
「これです」
律子は読んでいた本を俺に見せた。
「それがどうした?」
「これ、プロデューサーのお父さんから借りたものなんです」
「なんだと?」
「この本の中にあなたの名前と電話番号が書かれた紙が挟まっていたんです」
「そんな……」
「これ、返します」
俺は律子からその本を受け取った。
和解というシンプルな題名は俺の心を打ちのめした。
「お父さんはこの本が嫌いだって言って私にくれたんです」
「……」
「現実はこんな簡単にいかないって怒りながら」
「……」
これは作者自身の体験をもとにした小説だから、内容も現実のことのはずだった。
ただ、父親の思っていたことを知って俺の目からは涙が零れた。
律子の前だったが、もう律子に隠すことなどなかった。
俺は声をあげて泣いた。
律子は俺が泣き止むのを待っていてくれた。
「ごめんな」
「いえ。ところでその本はどうするんですか?」
「これは大事なものだからな。大切にするよ」
「そうですか」
律子は嬉しそうに言った。
「だけど、俺の大事な人に持っていて欲しい」
「え……?」
はいはい、えんだーいやー
「これは父親との家族の証みたいなものだから。新しく俺の家族になる人に持っていて欲しい」
俺は律子にそれを渡した。
「……」
「もう一度ちゃんと言うよ」
「……」
律子は黙ったまま俺の言葉を待っている。
俺は大きく息を吸い込むと言った。
「俺は律子が好きだ。俺と結婚してくれ」
「……はい」
律子が仕事に復帰できたのはそれから2ヶ月後のことだった。
今日は事務所で律子の誕生パーティー兼復帰祝いを行うことになっていた。
朝から、オフのアイドルが集まってその支度をしていた。
事務所の中はうるさいが律子のためにしてくれてることなので我慢して仕事をしていた。
そんな喧騒のなかで伊織はソファの上で寝ている美希を怒っていた。
「もう!寝てないで働きなさいよ!」
「嫌なの!美希のハニー取った律子なんか嫌いなの!」
そんなことを言いながらも、オフなのにわざわざ事務所に来てくれた美希に感謝していた。
きっと律子も喜ぶと思った。
そろそろ律子が来るころだと思って窓から外を眺めた。
ちょうどその時、事務所の前の道に一台のタクシーが止まった。
中から降りて来たのはいつものスーツではなく、私服の律子だった。
タクシーは走り去った。
律子は窓から覗いている俺に気づくと、少し恥ずかしそうに笑った。
そして律子は俺に向かって左手を振った。
俺が贈った指輪が太陽の光を反射して煌めいた。
すぐに律子は事務所の中に入ってしまい俺からは見えなくなった。
俺は空を見上げた。
青空にいくつか雲が流れていた。
とてもいい天気だった。
日差しの強さはもう春のそれではなく、夏を感じさせていた。
普段ならなんとも思わないことでも、今日は凄く嬉しいことのように思えた。
きっと律子のおかげだ。
こんなにも世界が素晴らしく思えるのは、俺が律子に魔法をかけられてしまったせいかもしれないなとも思った。
終
P「律子、薬なんてやめてくれ」
律子「これ、糖尿病のインスリンですよ」
P「誤解だったか、結婚してくれ律子」
律子「はい///」
おい、4行で終わったぞ
このSSまとめへのコメント
インシュリンかと思ったらインシュリンだった
社長がかなしんでたのはなんで?