ごん「そうです」
ぎつね「俺も入れろよ」
栗を置いてったのがゴンだという事実がわかったくらいで兵十が撃ったことを後悔するのが理由が不可解
ゴンが親の仇であるのには違いない、たとえ順序が入れ替わってたとしても兵十はキツネ売ってた
「所詮はキツネ」、そういう気持ちで引き金を引くような男、兵十はそういう男
兵十「今日は鍋にしよ」
兵十「エキノコックスを始末」
兵十「敵要塞、ゴンゲマウンテンに潜入、新型味覚兵器"チェスナット"を確保せよ」
「良いかゴン、これは完全なるスニーキングミッションだ。くれぐれも敵にこちらの気配を覚られてはならん」
ゴン「その呼び名は止してくれ・・・俺はすでに除隊した身だ」
「それにこういうのはむしろ"蛇"の仕事じゃないのか?」
兵十「蛇は捕食こそ得意だが確保には向いていないのだよ」
というか時代設定をあまり覚えてない
明治~昭和、わりと最近の周囲から隔絶された集落での物語だとおもってた
>>7
家族をキツネのイタズラで殺されてれば撃つだろ
ごん「うなぎパイやるから元気だせ、な?」
>>29
そう、だから人間の立場でしか考えられない、大半の人間と同じ人間至上主義者だよ
にもかかわらずその後の「おまえだったのか」というセリフに人格の不一致が見られる
ごん(くくく…こうしてお前は一生心の傷を負う。ざまあみやがれ)
キツネ殺しの罪は罪に違いないが引き金を引いた兵十も過ちに気づき苦しみを負ったとして
読者に兵十もまた被害者、これは悲劇として物語を締めくくるのは、過ちをおかしてもその後の反省(特に心においての)が肝心だという思想を
作者がこの作品で広めようとしてる、
子供心にこの思想、なにかひっかかるものがあると思えば
浄土真宗の開祖、親鸞の「悪人正機」に通じるものがあると気付いたのはもう少し後の話、これはつまりそういう思想の植え付け
植え付けは言い過ぎた
が教育現場の大人が好んでこれを小学生に朗読させることに意味を見出すのは合点納得がいく筋道というものである
後悔して命を終えたゴン、命を負えずに後悔するだけの兵十
これはそういう
敗者側からの嘘偽りなき正真正銘の同情と
勝者側の建て付けのエゴイズム的同情を対比してもいる
ごん「私だ」
兵十「お前だったのか」
失ったが側(敗戦国)が得た側(勝戦国)に「我々とおなじ痛みを感じて欲しい、背負って欲しい」
そう訴えていく事と同じような非力さ、途方の無さだけが最後に漂う
これが誰もが泣ける話「ごんぎつね」の正体ではないだろうか
>>48
教育のものならなんでもかんでも反戦につなげたがる日教組脳は個人的にファックですね
>>50
気に食わなければ「戦」という文字を省いてもらえばいいけども
あの無情さが理解するのにはなんらかのヒエラルキーを持っている必要がある、
児童なら大人に対してのそれが元々多いから書く必要もないと言えばない、日本人という共通項で探したら敗戦というものが背景にあるかもしれないと思った
あともうひとつ訂正したい、作者が悪人正機的思想を訴えているというところだが
あれを読んで最後に万々歳ではないが、兵十は後悔したそしてご和算という結論で満足しない人間(俺もその一人だが)にさらなる考慮を求めてるのなら
それはむしろ時々我々が心酔する「人間の性善説」というものの存在を問い直す目的で書かれたに違いない。ここは全く逆になってしまうのだからすごい
大間違いだった申し訳ない
日教組脳というのはちょっとどこを指してる言葉なのかわかり難い
普通じゃないなこりゃ視野が開けた
ゴンの罪滅ぼしを「健気な行動」と捉えるのに「不用意な行動」と称してるところなんだけど
>>42で贖罪が偽物なのか本物なのかにばかり焦点を合わせて話してみてはいるが
もしそちらの言葉で分かった、ゴンの行った贖罪もまたエゴイズム的で不用意であるのだ
純粋なものか汚れた物なのかという以前に「贖罪というものは絶対的な危険性を孕んでいる」
そういうことがあるなら、この話はとてつもなく恐ろしい、恐ろしい意図で書かれてる
そして>>37のレスが蘇ってくる、まいった降参
ぼくぁ
どうしても殺してしまった相手、殺されてしまった相手。この二者関係を掘り下げていくことに興味が行くなぁ
いたずらしにくるキツネは撃つという信条はもう心の中で固めて射撃を実行した兵十、この時兵十にとっては過失じゃない
過ちは存在しない、どんぐりを見つけた後に過失ということにした。
この男の器、というより人間の限界を感じるから報われたゴンの望みというものもまた一片たりとも存在しない残るのは煙のみ。
非常に悔しい
「ごんお前だったのか」というセリフに覚えた違和感を説明するのを諦めて
短文レスに徹することは俺にはできない、読むべき本があるなら知りたい
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