魔法少女まどか☆マギカ AFTER STORY ——赤いリボンの伝説—— (480)




             —Don't forget.

            always, somewhere,

          someone is fighting for you.

         —As long as you remember her.

             you are not alone.




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1347384364



ぽつ、

     ぽつ、
          ぽつ——


垂れ込める暗雲から、堰を切ったようにいくつかのしずくが溢れ、零れはじめる。
それらは頬を流れ落ちる涙のように、音を立てることなく地面に弾かれ、その花を開かせていく。
飛沫が乾いた土へ溶け込み、大地が湿気を帯びてわずかに黒ずんでいった。

「……ほんとう、に」

ぬるま湯のように生暖かい湿り気のある空気を震わせて、小さな音がひびき渡る。
湿った空気に同調するような、頼りの無い可憐な揺らぎ。力の無い弱弱しい声だ。
空から降り注ぐしずくを浴びる大地の上で、愕然と立ち尽くす少女の口から漏れた呟きだった。

——彼女の腕の中には、今まさに消えかけている一つの命があった。

「本当に、これしかないのね」

暗い色に彩られた少女は、雨に打たれながらももういちど、言葉を漏らした。
だんだんと勢いを増し始めた雨と同調するような、先ほどとは打って変わって芯のある響きだった。

その呟きに対し、応える者がいる。

《そうだね。君の願いを叶えるためには、これが最善の策だと思うよ》

それは短い四本足を地面に付けた、小さな白い生き物。
耳から長い毛を飛び出させる、犬とも猫とも取れない奇怪な動物だ。
その柔らかそうな白い毛皮は、しかし常識を覆し、空から降り注ぐ雨粒を弾き返している。

《だけど、それは彼女の運命を大きく歪ませることを意味している。君はそれでも良いのかい?》

湿った空気と3メートルの距離を無視して、ふたたび白い獣の声が少女の心へ伝わってゆく。
だが少女は応えない。用は済んだと首を振り、艶のある黒髪を湿った風に靡かせるだけだ。


ざあ、

     ざあ、
          ざあ——


「……だいじょうぶだから」

烈しさを増していく雨に耐えながら、少女は自分の腕の中にある命に言葉をこぼす。
そして、娘を想う母のように優しい愛を宿した熱い視線を向けた。

その生命は、あるいは彼女にとってかけがえの無い物なのかもしれない。
神か、もしくは世界の粋な計らいとでも言うべき奇跡の塊か。
唯一無二の存在。
天からの贈り物。

「たとえ、何度繰り返すことになっても」

腕の中の存在へ、彼女は語りかける。

「必ずあなたを、助けてみせる」

その表情は、濡れた髪に隠れている。
だがその言葉は、妙に馴染みの深い響きと共にあった。
まるで何度も何度もその言葉を口にしたことがあるような、そんな慣れ親しんだ響きを宿していた。

「今度こそ、あなただけは幸せにしてみせる……!」

表を上げて、彼女はキッと空を睨みつける。

彼女の双眸は覚悟によって爛々と輝いていた。
彼女の表情は決意によって粛々と強張っていた。

少女は軽く首を振った。
全てを飲み込むような深い黒の髪が揺れて、次の瞬間、その髪に新たな色が生まれる。
それは明るくて、少し可愛げのある赤。
情熱の炎というよりは、幼い乙女の心を表すような赤。

優しい質感の、赤いリボンが彼女の髪に確かに結ばれていた。



少女の腕の中に優しい光が訪れる。

光は少女の腕から溢れ出て、やがて少女を中心とした世界を満たし尽くした。



   ざあ、

         ざあ、
           ざあ——



それらはすぐに、消えてしまう。

ちりと水分を含んだ、濁ったしずくに流されて。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


此方より彼方へ——昔、そんな題名の物語があったそうだ。

わたしの目の前には、まさにその題名のように遥かに続く灰色の光を帯びた無限の空が広がっている。
嘘が真に、偽りが真実に。おとぎ話のアリスが迷い込んでしまった不思議の国。
この世の常識を覆すありえざる輝きが溢れる幻のような世界。

わたしはその光景の異常さに心を奪われ、つい足を止めてしまった。

「——あぶないっ!!」

危険を知らせる鋭い声。けれどもわたしは、その声の期待に応えられずに立ちすくんでしまう。
そんなわたし目掛けて、すぐ前方より幾条もの光線が放たれた。
光線は宙を切り裂きながらわたしのすぐ手前に着弾し、地面に大きな焦げ跡を残していく。

巨人のように大きく、不気味な聖職者の姿をした≪魔獣≫の攻撃だ。

……魔獣。人の妬みや恨みを食らって世界に干渉する存在。わたしのような≪魔法少女≫の敵。

半ば思考停止しながらも、わたしは続く攻撃を身体を捻ってしのぎきり、伏せたまま敵を見据える。
敵は攻撃した後で隙だらけだった。このチャンスを無駄には出来ない。

わたしは左手に携える『木の枝のように細い弓』を構えた。

右手に光の矢を灯して弓につがえ、狙いを定めて思い切り引き絞る。
きりきりと唸る弓のしなりが最高潮に達したところで、わたしはその力を解き放とうとする——けれど。

「……邪魔……」

「えものはもらっちゃうよー!」

わたしが矢を放つよりも早く、二人の女の子——わたしと同じ魔法少女たちが躍り出た。


二人はそれぞれ己の得物を構え、獲物を狙い、まっすぐに飛び掛っていく。

若草色の暗くも美しい衣装を着た同じく若草色の長髪の少女がムチを振るって魔獣を牽制。
次いで、珊瑚色の服装の小さな女の子が立ち止まる魔獣をステッキで殴りつける。

魔獣の動きが完全に止まった。狙うなら今しかない。
引き絞った弓を解放。溜め込まれた魔法の矢が結界の中を駆け抜ける。
矢はほんのわずかなタイムラグの後に、寸分違わず魔獣の頭部に命中。ばしゅっと音を立てて魔獣が消滅する。

わたしは一息ついて、先行した二人の動向を横目で窺った。
戦場と化した神秘的な結界の中を、うごめく茨ときらめく炎が駆け抜けている。

時には互いを囮にして、またある時は互いに背を預けあって。
直進したと思えば反転し、跳んだと思えば力を振るい。
敵を撃破、あるいは盾にして、並み居る魔獣たちを砕いていく。

飛び出すような緑と赤の流線形が交互に交わり、螺旋を築きあげる。
わたしは自分が戦場にいる事を忘れて、そのコンビネーションに見惚れてしまう。

「……すごい」

≪小型≫と≪中型≫の魔獣、合わせてざっと70。その大群が二人の魔法少女によって切り崩される。

「ラストはゆずっちゃうよー!」

「……ここで働かないとか信じられない……」

そんな声が耳に届いた。
直後、1メートル半分程度の魔獣——最後の生き残りだ——がムチに薙ぎ払われて撃破される。

それに合わせて結界が薄らぎ、無限にも思える有限の空間がほころびを生じさせて消えていく。
引き伸ばされた霞のような雲が引き裂かれ、異常な光をもたらす天に位置する何かが破れ——


気がついたときには、周囲の光景は普段見慣れた見滝原市を突き抜ける河川敷のそれに変貌していた。

灰色の光よりも明るい日差しと、暖かい草花の匂いを運んできた風とがわたしの頬を撫でては通り過ぎてゆく。
季節は春。寒くはないが、だからと言って暑くもない微妙な時期。
そんな春の陽気を感じながら、わたしは一度頷いた。

わたしたちは魔獣に勝った。そしてまた、見滝原市に戻ってくることが出来た。
ほっと一息吐いて、首をぐるりと回す。
それからわたしは、地面に落ちている小さな石ころ——≪グリーフシード≫を拾い集める二人の下に駆け寄った。

「さっきはごめんなさい! ついうっかりぼーっとしちゃって!」

わたしの声に二人は呆れたようなポーズを取って見せた。

「戦ってるとちゅーでぼーっと出来るって、ある意味すごいよね」

「……佐倉さんとは大違い……」

佐倉さん——≪佐倉杏子≫さんの名前を出されて、わたしは思わずたじろいだ。
『マギカ・カルテット』のまとめ役でその道30年の人と比較するのは、どうなのかなぁと思う。

だけどすぐに姿勢を正し、深々と頭を下げる。散々な言われようだけれど、わたしのミスに変わりはないのだから。
それに彼女の辛らつな態度には慣れているし——わたしはちゃんと、知っていた。
その若草色の、少し長すぎる前髪の隙間から覗かせる瞳の温かさに。

わたしは苦笑を浮かべてから、もう一度頭を下げた。

「佐倉さんとは大違い——って台詞、今ので9回目だぞー」


陽気な声が聞こえて、わたしはそちらへ目を向けた。
視線の先で、もう一方の背の低い魔法少女が小さな右の手のひらに飴玉を作り出している。
それをひょいっと口の中に放りながら、彼女は珊瑚色の髪を揺らしてにかっと笑顔を浮かべた。

「まーなんにしてもさ、きょーはもう帰って休んだら? 朝からずっと戦ってんでしょ?」

少し舌足らずな発音に頬を緩ませ、彼女の気遣いに感謝する。
だけどわたしは首を横に振った。
そこまで疲労は溜まっていないし、出来れば汚名挽回——じゃない、汚名返上したい。

「……佐倉さんに叱られかねない……」

「そーそー、ケガしてからじゃおそいの! この辺りのパトロールはあたしらがやっといたげるからさ!」

でも、と言葉を詰まらせる。
迷惑を掛けた以上、償わなければならないという義務感が沸いて来る。

「あんたは年下、あたしは年上。分かったらしたがいなさいって!」

「……その身長で年上とか信じられない……」

「あぁ? なんか言ったか人間不信やろー!」

「……お子様の言葉は相手にしない……」

——なぜか話が逸れてしまっている。

むむむ、といがみ合い始める二人に、わたしは緩めた頬を少しだけ引きつらせる。
仲が良いのか悪いのか……とお決まりの文句が頭に思い浮かんだ。
もちろん真相は考えるまでもないのだけれど。


「喧嘩はいけませんよ二人とも。仲良くしましょう」

太陽の日差しの下に繰り広げられる、くだらない喧嘩をなだめていたわたしは、
天が差し向けてくれたのであろう思わぬ味方に勢い良く振り返った。

振り返った先には、紺色の修道服を着た物静かそうな女性が立っている。
墨をこぼしたような、優しくも奥深い黒の髪。生けるもの全てを肯定するような優しい瞳。
その人——わたしと同じ魔法少女の一人は、柔和な笑みを浮かべたまま近づいて、そっとわたしの頭を撫でてくれた。

「お疲れ様です。疲れたでしょう?」

「……わたし、子供じゃありませんよ?」

嫌なわけじゃない。だけどくすぐったいし、恥ずかしいので上目遣いのまま文句を呟く。
しかし彼女は笑ったまま、わたしの文句を軽く受け止めてさらにもう二度、頭を撫でた。
それで気が済んだのか彼女は二人に振り返るとぱん、ぱんと手を叩いて注目を集める。

「二人とも、喧嘩はおよしなさい。イエズス様のお言葉にもあるでしょう。汝、隣人を愛せよ、と」

「だってこいつが!」

「……ああ騒がしい……」

ぎゃーぎゃーとわめく二人に、彼女はにっこり笑って歩み寄った。
そして先ほどわたしに行ったのと同じように、優しく二人の頭を撫でるのだ。
ああ見えて照れ屋で恥ずかしがり屋の二人は、すぐに口を震わして縮こまってしまう。

……かわいい、などと思っていると。彼女はわたしの方へ振り向き、

「話は聞きました。あなたはもう帰りなさい。幸い今日は魔獣も少ないですから」

びしっと言い放った。えー……


「でも、あの! 魔獣、少ないんですか? 朝は≪瘴気≫が濃いって……」

魔獣がもたらす嫌な空気、あるいは気配。
≪瘴気≫と呼ばれるそれが、今朝の見立てでは珍しく濃かった。つまりそれだけの魔獣がいる、ということ。
グリーフシードを回収することはもちろん、一般人の生命力を奪う魔獣には即刻対処する必要があるのだ。
それで久しぶりに大掛かりな魔獣の討伐をするというからわたしも意気込んで参加したのだけれど。

「早朝時点では確かに濃かったのですが……」

「佐倉さんも同じよーなこと言ってたよね。なんかあるのかなー」

「……どちらにしても不可解……」

「不可解……そうですね。——分かりました。それでは念のため、あなたは佐倉様に御報告をお願いします」

そう言って、彼女は軽く頭を下げた。
ずっと年上の人に頭を下げられてしまっては、さすがにもう何も言えなくなってしまう。
わたしはがっくりと肩を落として了承する。

「……分かりました。それじゃあわたし帰ります」

「ああそれから、佐倉様によろしくお伝えください。ソウルジェムに翳りがあれば、すぐにでもお分けすると」

「はい」

返事をすると、わたしは三人に向かって微笑んでからお辞儀をした。
それを見た三人は元気良く腕を振ったり、軽く手を振ったり、なぜか小さく指を振ったりと様々な返しを見せてくれた
もう一度大きく微笑んでから、わたしは後ろを振り向き、ゆっくりと歩き出す。

目に見える場所に瘴気は無く、≪ソウルジェム≫も反応無し。
今日の見滝原は珍しく平和そうだった。

そんなことが無性に嬉しくて、わたしはときおりスキップを交えながら軽やかに帰路を歩んだ。
周りの白い目線に気づいて顔を真っ赤にするのは、それから五分後の事である。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


見滝原市の住宅街に建てられた小さな下宿所。
複数の魔法少女が生活を共にする『マギカ・カルテット』の生活の拠点だ。
玄関の扉を開けて、わたしは自分が帰ってきたことを知らせるために声を張り上げた。

「ただいまー!」

言ってから、靴を脱いで桃色のスリッパを履く。
そしてリビングへ向かうと、携帯電話を片手に持ったままソファでくつろいでいる女性がいた。

「おや? やけに早かったじゃないか。おかえり」

そう言って、女性——杏子さんはわたしに顔を向けると、朗らかな笑みを浮かべた。
赤みを帯びたストレートの髪が、そんな彼女の仕草に合わせてふわっと宙を舞う。
四十半ばだなんて思えないくらい若々しい雰囲気だ。ひょっとするとわたしよりも活力があるかもしれない。
スタイルも良い。肌なんて二十代でも通用するくらい瑞々しい。下手したら十代でも……

……それは流石にない、かな?

そんな杏子さんに先程の出来事を報告しようとして、だけどわたしは思いとどまった。
杏子さんが険しい顔で携帯電話に耳を預けたからだ。

「……寄付金が足りなくて運営が出来ない? 甘えるのもいい加減にしな。
 最近の教会はすぐに予算がどうだ周りの視線がどうだってわめくけど、だいたいアンタらは——」

電話に向かって鋭い言葉を浴びせる杏子さん。

事情を察して、わたしは向かいのソファーに座り込んだ。
恐らく電話の相手は近くの教会の神父か、その手伝いのスタッフを兼ねている信者さんだろう。
きっとなにか悩みや問題があって杏子さんに相談しているに違いない。——結果は、あれだけど。

杏子さんに怒鳴られて戦々恐々としているであろう人の顔を想像し、静かに苦笑を浮かべる。

流石はたくさんの魔法少女を鍛え上げて、今日まで導いてきた人だ。


「ああ、それで通しといてくれ。————ったく、最近はダメだね!」

悪態をつきながら携帯電話をテーブルに置く杏子さん。

携帯電話といっても、今流行の携帯電話ではない。
30年以上も前に流行していたそれはそれは古い携帯電話だ。
杏子さんに言わせると≪スマートフォン≫らしい。

あの形のどこがスマートなのかは、現代っ子のわたしには正直よく分からないけれど。

それはさておき、そんな古い携帯電話を扱う杏子さんの姿は、わたしの目にはとても凛々しく映った。
なんとも言えない気分になってため息を吐くと、わたしは彼女に声をかけた。

「なにかあったの?」

「甘えん坊さんが多くてやってらんないって話さ。私の時代と比べりゃ遥かにマシだってのに」

「そうなの?」

「昔は宗教に対する偏見が強かったし——それに『こっち』の話だと、魔法少女も群れなかったからね。
 魔獣の発生頻度も昔よりマシになったもんだよ。≪大型≫は出ないし、数が少なすぎることもないってね」

「おかげでわたしたちは生きてられるんだよね」

「そういうことさ。——で、どうする?」

杏子さんが、にやりと笑みを作る。

「昼飯、食べるかい?」

時刻はちょうどお昼時。仕事(とうばつ)帰りでお腹も空いている。
断る理由は無いので、わたしはすぐに頷いた。

それを見た杏子さんは、よし来たと言わんばかりに膝を叩いて立ち上がった。
そして鼻歌交じりにキッチンへと向かい、手馴れた手つきでお昼ご飯の調理を始める。

何度見ても飽きない、杏子さんの姿。
わたしの保護者としての——『お義母さん』としての優しい姿を、わたしはこの目にじっと焼き付けた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「——それで、わたしだけ帰らされちゃったんだ」

「なるほどねぇ、あいつらもたまには気が利くじゃないか」

けらけら笑いながら、杏子さんはお皿に盛られた焼きそばをテーブルに置いた。
小麦色の焼きそばから漂う香ばしいソースの香りと、どこか懐かしい青海苔の匂いがとてもマッチしてる。

「でも気になるね。確かに今朝の瘴気はかなりの物だったんだが」

「杏子さんの勘が鈍ったとかかな?」

「……あんたも言うようになったねぇ。そういうところはマミに似ちまったのかね」

杏子さんが呆れ顔で言うので、わたしも負けじと言い返す。

「杏子さんにも育てられてるから、ほら」

「ったく、生意気娘は……だいたいね、私からすればあんたらなんてトーシロ同然だよ。バカ言ってないでさっさと食いな」

「はーい」

差し出された箸を受け取ると、湯気の絶えない焼きそばに差し込み口元まで寄せて一口で頬張る。
紅しょうがの辛さに自家製のソースの甘酸っぱさと麺の絡み具合が絶妙、と偉そうに評価してみる。
もちろんそんなのは最初だけだ。
あとは空腹も手伝って黙々と食べ続け、あっという間に平らげてしまう。

……うん、やっぱり杏子さんの作ってくれるご飯(今日は麺だけど)はおいしい!

素直な感想を述べようと顔を上げて、杏子さんの目線がある一点に釘付けになっていることに気付いた。
その視線の先には、ずっと昔、地上デジタル放送に移行した時に生産された薄型の液晶テレビがある。
そんな年季のあるテレビは、お昼のトーク番組をその画面に映し出していた。

『——というわけで、今日のゲストは世界で活躍しているヴァイオリニストの上条恭介さんです!』


そう言ってカメラを向けられた銀色の髪の男性を見て、わたしは思わず「あっ!」と声を上げてしまった。
杏子さんが怪訝そうな顔を向けてわたしの反応を訝しがっている。うう、恥ずかしいよぉ……

「……あんたこういう音楽に興味あったのかい?」

「え? そ、そんなことないけど。でもほら、よくテレビで見かけるし、ちょっとだけね」

口ではそう言ったけれど、実は新曲をいつもチェックしてしまうくらいにはファンだったりする。
本当は小型の音楽プレイヤーでずっと聴いていたいのだけれど、そういう物は高いので我慢だ。

『——それで、上条さんの人生を振り返る上でどうしても欠かせないエピソードと言えば?』

『そうですね……やはり中学時代でしょうか。事故に見滝原大災害。
 あの時は本当、悲しんでは喜び、喜んでは悲しんでと、希望と絶望の間を行ったり来たりしていましたよ』

『なるほど。事故と言えば、やはりあの奇跡ですね』


自分の目が無意識の内に細まったのを、わたしは少ししてから自覚した。
奇跡という言葉を聞くとどうしても魔法少女を連想してしまうのだ。
……もしかしたら彼の腕を治す、そんな願いを叶えて魔法少女になった人がいるのだろうか。

いたとして、今は何をしているのだろうか。その人は願いを叶えた後で、幸せになれたのだろうか。
わずかな疑問が頭の中に芽生えるが、しかしそれは根付くことなく思考の波に流されてゆく。

『今でも信じられませんよ。過去の現代医学では治療できないと断言された右手が、一晩で完治してしまったんですから』

『神は人を見捨てなかった、ということですね。確か奥様とはその頃からの仲とか?』

『ええ、妻は私の親友の友人でした。退院後に彼女から告白されてましてね。いや、妻には頭が上がりません』


学生の頃から結ばれた仲……
学生だった時が無い——そしてこれからも来ない——わたしには、それがとてもロマンチックな響きに聴こえた。
未練がましいと自覚はしている。だけど、仕方が無い。憧れてしまうものは憧れてしまうものだから。

同意を求めようと杏子さんの方に視線を向けたわたしは、思わず体を後ろにのけぞらせた。

杏子さんの眉間に、とても深い皺が刻まれていたから。
肩はわなわなと震えて、何か——深い怒りを堪えているのかもしれない。
だけど、何故だろう。そんな杏子さんは、同時にとても悲しんでいるようにも見えた。

『……でも、本当に辛かったのは事故でもあの大災害でもないんです』

『と、言いますと?』

『あの大災害の少し前、私の唯一無二の親友が失踪してしまいましてね』

『ええ! それは本当ですか?』

上条恭介の言葉に、杏子さんがはっとした表情を作った。
その意味を測りかねているわたしを無視して——当然と言えば当然なのだが——上条さんが話を続ける。

『ああ、そういえばこの話をテレビでするのは初めてですね。
 彼女の様子がおかしいことに気付けなかったことを、私は今でも悔やんでいます』

『警察や消防は対応してくれなかったのですか?』

『いいえ、対応してくれました。それでも見つからなかったんですよ』

『……それは、その。なんとも悲しいお話ですね』

『親友の身に何が起こったのか……それだけでも良いので、知りたいのですが』


「『さやか』」

画面の中にいる上条恭介の言葉と杏子さんの呟きがぴったり重なったのを、わたしは確かに聴いた。
何かを懐かしむような響きも、自分を責めるような口調もそっくりそのまま。

ぶつっと音を立ててテレビの画面が途切れる。

リモコンを使ってテレビの電源を消した杏子さんの表情は、先ほどよりも少しだけ柔らかい物になっていた。
だけど、何がきっかけで機嫌を直したのかが分からない。上条恭介の言葉と何か関係があるのだろうか。
わたしは自分の抱いた疑問を、おそるおそる杏子さんにぶつけてみた。

けれど、

「今のは魔法を使って先読みしただけさ。凄いだろう?」

そう言って快活に笑い、杏子さんは話を締めくくってしまう。
表情はいつもと同じ、明るく強気な杏子さんのそれなのに。
わたしは杏子さんとの間に広がる越えることの出来ない壁を感じ、ただ頷くことしか出来なかった。

そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、杏子さんはわたしに微笑みながら尋ねた。

「それで今日はどうするんだい。魔獣退治、しないのなら暇だろ?」

「うーん、どうしよっかなぁ」

「そうやって悩むくらいなら、中学校の話も断らなければ良かっただろうに」

「あはは……」

手痛くも鋭く正しいお言葉に、わたしはただただ苦笑いするしかない。
だけど、もう遅いのだ。わたしは決めたのだから。


「それじゃあ今日はマミさんのところに行ってみようかなぁ」

わたしがそう言うと、杏子さんは露骨に嫌そうな顔をして見せた。

「またか? あんたも飽きないもんだねぇ」

「うん、でもほら、マミさんって寂しがり屋さんだし、もうすぐ二年になるから……」

マミさん——私を『拾ってくれた』もう一人の『お義母さん』の顔を思い浮かべる。
わたしにとってマミさんは、杏子さん以上に馴染みの深い人だった。

杏子さんは呆れたような顔のまま、やれやれと言って首を振った。
それから瞳を細め、どこか懐かしがるような、寂しい笑みを作る。
その表情に、わたしは先ほど感じたのと同じ越える事の出来ない壁を垣間見た。

「もう二年になるのか」

わたしは静かに頷いたのを見て、杏子さんは肩をすくめて見せた。

「マミが寂しがり屋なのは本当だし、仕方ないね。良いよ、行ってきな」

「うん、ありがとう杏子さん!」

大仰に頭を下げて、わたしは勢い良くリビングを飛び出した。
玄関に置かれた靴をしっかりと履いて、後ろを振り返る。
そしてリビングから姿を覗かせている杏子さんに向かって大きく手を振る。

「それじゃ、行ってきます!」

「行ってらっしゃい。遅くならないうちに帰ってきな」

「はーい!」

返事をして、扉を開ける。と同時に、視界一杯に白い世界が広がってゆく。
太陽の陽射しに当てられた住宅街が白く染まっているのだ。
立ち眩みにも似た眩さから目を細めながらも、わたしは一歩前に踏み出した。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



少女を見送ると、杏子は表情を険しくした。
くるりと踵を返し、肩で風を切るように足早にリビングへ戻る。
その肩はほんのわずかながらも確かに震えていた。

「……なんで、いまさら」

自然体のまま、恐らくは無意識の内に彼女は呟いた。
電話の母機が置かれた棚まで足を運び、上から二段目にある引き出しに手を伸ばす。

「なんでいまさら、あれが、あんなことを……」

眉間にしわを寄せたまま、彼女は引き出しの中にある畳まれた写真立てを取り出した。
鋭い眼差しで、そのガラスの向こうにある写真を凝視する。

写真には、四人の少女の姿とどこかのマンションの一室が写っていた。
年齢は14か15で、照れている者もいれば笑顔の者も、緊張した様子の者もいる。

「……っ」

ぐっ、と。写真立てを握る手に力がこもる。

「感傷に浸るなんて、女々しい。大人ぶるなんて、らしくない——そう言って、あんたは今の私を笑うかい?」


写真から目を離さずに呟き、左手を胸に当て、杏子は祈るように目を閉じる。

「でもね、しょうがないじゃないか。誰だって子供のままではいられないんだ」

まるで目を開けばそこに写真に写る彼女らがいるかのように、杏子は一人続けた。

「いつまでも“アタシ”じゃ居られない。“私”になる時が、来るんだよ」

自嘲気味な笑みを浮かべると、杏子は目を開いた。
当然の事ながら、そこに写真に写る少女達の姿は無い。
だからと言って気落ちする様子を見せるでもなく、杏子はもう一度写真に視線を落とした。

「美樹、さやか……」

言葉が漏れる。

「さやか」

もう一度、言葉が漏れる。
どこか悲痛で、諦観にも似た力の無い響き。

「あんたは、余計なことをするなと怒るかもしれないが」

悲しくも、怒りの色を帯びた。けれども憂いを秘めたる、つぶやき——

「それでも私は……」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



——そして。

温かい陽射しを背に受けながら、わたしは辿り着いた。

「久しぶり、マミさん。元気してた?」

普段となんら変わらぬ調子で声を掛ける。
途中で購入したクッキーの箱をビニール袋から取り出し、開封して中身を二枚ほど手に取る。
甘い香りが、春の匂いに溶け込んでいく。
お花でも買えばよかったな、と少し後悔。次に来る時は綺麗なお花を必ず用意しよう。

「前に来たのが三ヶ月前だったから、本当はお詫びにケーキでも持ってきたかったんだけど——」

気持ちの良い風がさあっと流れ、辺りに生えた草花がゆらゆらと揺らされる。
あまりの心地よさにわたしは少しの間だけ沈黙した。

草花の揺れる音を堪能し終えると、わたしは改めて口を開き、それから苦笑を浮かべた。

「——ここに置いておくと、蟻さんたちが食べちゃうから。ごめんね、マミさん」

息を吐く。次に視線を逸らし、空いている方の手で地面に散らばっている枝や小石をまとめる。
あるていど周りを綺麗にすると、わたしはもう一度、しっかりと正面を向いた。
そして正面のそれを見て、

「——マミさんが円環の理に導かれてから、もうすぐ二年になるね」

わたしは、そう言った。


わたしは手に持っていたクッキーを、静かにそれへと供えた。
目の前に鎮座するそれ——少し埃がかった“墓碑”には、日本語で“巴マミ”と。
そのすぐ下には少し変わった言葉で“Candeloro”という文字が刻み込まれている。

かつて多くの人々を救い、多くの少女を鍛え、慈しんだ英雄——巴マミ。
この墓碑は彼女が存在していたという証だ。

たとえわたしたちの記憶から消えてしまっても、わたしたちがいなくなったとしても。
この墓碑が残り続ける限り、彼女の英雄的活躍と伝説じみた偉業は消えない。
そして彼女が存在していたという事実も残る。

……けれど、彼女の亡骸はここにはない。それどころか、この世界のどこにも存在しない。

そのおかしさに胸が詰まるような思いで、わたしは唾を飲み込んだ。

「ねぇマミさん。向こうでは楽しく過ごせてる? 不自由してない?」

質問する。答えは返ってこない。当然だ。

「わたしね、まだマミさんのリボンで髪を結んでるんだ。どう? 少しは似合ってきたかな?」

わたしは『桃色の髪』を手でいじりながら、墓碑に顔を寄せた。
ぱた、と音を立てて『黄色いリボン』が前に垂らされる。

「わたしにはちょっと荷が勝ちすぎてるけど、でも負けないように頑張るよ!」

精一杯の笑顔を作って、わたしは言う。

「……だって、そうでもしないと、わたし」

けれども、声は上ずって。顔が熱くなって、喉が痛くなって。
ついには視界がにじみ始めてしまい、わたしは大きく目を見開いて頭を下げた。

「ごめんね、マミさん! 今日はこれでおしまい! また今度ね!」


勢い良く吐き出すと、ようやく顔に出ていた症状が治まった。
ここに来るといつもこうだ。まだまだ挨拶しなきゃいけない人がいるのに、抑え切れない。
わたしは頭を上げると、他の墓碑に向かおうと、後ろを振り返り、

「っ!?」

音も無く背後に忍び寄っていた3メートル以上の巨人——≪中型≫の魔獣を見つけて、息を呑んだ。

いったいいつの間に。どうして気付けなかった。なぜ油断した。
いくつもの言葉が、自らを叱責する自分の声が頭の中を駆け巡る。
魔獣の体からはあの異様な光が漏れていて、おそらくはつい今しがた出現したのだろう。

光の靄が急速に広がり、わたしを飲み込んでいく。
魔獣が結界を展開しているのだ。

「ま、魔法、変身っ……」

魔獣がそっと手を突き出して、わたしの額を指差した。光が点る。
防御は無理だ。今からじゃ間に合わない。
普段なら五体同時に相手しても勝つ自信があるけれど、完全に先手を打たれてしまっている。

「……っ」

恐怖を覚えるよりも先に、わたしはぎゅっと目を瞑った。
もうすぐ魔獣の指先から直線的なレーザーが放たれるはずだ。
きっとわたしはわずかな衝撃と熱を感じたすぐ後に意識を失って——


「……?」


——しまうことは、なかった。


「え?」

代わりにとても速い何かが、何かを切り裂く音がした。
わたしは恐る恐る目を開き、そして目の前の光景に唖然とする。

「なに、が?」

つい先ほどまでわたしに指先を向けていた魔獣が、真っ二つになって光の粒へと姿を変え始めていた。

「あっ……」

その光の粒の向こう。
歪み始める空間の中で。
わたしは一人の少女を目にした。

黒い髪に、少し紫色の混じった魔法少女の格好。
きらりと輝く、左手の甲に備えられたアメジストのようなソウルジェム。
そして——

「赤い、リボン?」

黒い髪をに結ばれた、少し派手目の『赤いリボン』。



似合っていない。

それがわたしの抱いた、『彼女』の第一印象だった



——この時のわたしは、まだ何も知らなかった。


杏子さんの過去も、見滝原市で起こっている異変も。


魔獣という存在の本質も、魔法少女に纏わるいくつもの『伝説』も。


この世界が、この世界になったきっかけも。


赤いリボンの伝説のことも。


まだ、何も知らなかった。

ここまでです。

やってしまった……というわけで本編後のSSです。しかも本編後から30年後の見滝原市が舞台です。
スマホが過去の遺物扱いされて、アナログテレビを知らない子供で溢れかえっている近未来。
本編では幼女だったキャラが中年になり、子供を産んでいたり、おばさんだったキャラがおばあさんになっています。

ですがこれはまどマギSS。オリジナルキャラクターが結構出てきますが大半は名前がありません。モブと同然。
服装や性格や『元ネタ』などで分かりやすく区別化していますが、分かりにくい時は何か対策を講じます。

主人公は一見すると『わたし』ですが、どちらかというと『杏子さん』の方が主人公に近いです。

次の投下は現在全く見通しが立っておりません。近日中に、とだけ。投下前日には予告するよう心がけます。
いかん、もう夜が明ける。それではみなさま、おやすみなさいませ。

レスが五臓六腑に染み渡ります……うへへ
それはさておき今日の夕方頃にアバン(過去)〜Aパート(現代前半)を投下します。魔獣解説はこの分だと次回ですね

さて寝ずにAO待機するか

完全に夕方ですね。ごめんなさい。投下します


荒れ果てた街の中を、一人の少女が歩いていた。
あまり見かけることのない黒で染められた服装を泥に濡らしながら一歩。また一歩。
牛歩の如く遅々とした速度で、彼方まで続く荒涼とした街の中を亡者のように。
けれども二本の足で大地に向かって食らい、噛み付く勢いで踏みしめて、少しずつ前に進んでいる。

そんな彼女の背に向かって、声を掛ける者がいた。
全身にすり傷を負った、吊り目と八重歯が可愛らしい赤毛の少女だ。
泥で汚れた左手には価格10円の棒状の駄菓子が。
血で塗れた右手には彼女の身の丈よりも長い槍がある。

「なーんにも言わずに行っちまうつもりかい?」

しかし、黒の少女は応えない。
長い槍を片手で保持したまま頭上で振り回し、切っ先を地面に向けた状態で構えながら少女はもういちど口を開いた。。

「おい」

けれど、黒の少女は応えない。
赤毛の少女は左手の中にあった駄菓子を口の中に放り込むと、その袋を投げ捨てた。
流れるような自然な動作で槍を振り回し、相手に向かって無言で切っ先を突きつける。
その距離およそ十メートル前後。
彼女が本気を出せば一瞬で詰められる。距離などあってないようなものだ。

彼女は喉を震わせながら、懇願するようにもういちど言った。


「……あんたが行っちまったら、またアタシとマミの二人だけになっちゃうんだ」


——やはり、黒の少女は応えない。
そんな彼女の態度に、赤毛の少女は構えた槍を力なく下ろした。
切っ先が地面に打たれて、わずかな埃を浴びる。

相手との距離はわずか十メートル。
彼女が本気を出せば一瞬で詰められる。距離などあってないようなものだ。

しかしそんなものなど話にならないほどに、相手の心は遠くへ離れてしまっていた——


「あんただって分かってるはずだ、もう戻って来ないって」

それでも、彼女は呼びかける。
槍を握り締め、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、肩を震わせながら。
どうにもならない現実に対するやりようのない怒りを堪えたまま、吐き捨てるように言う。

「アタシたちは生きてるんだよ! なのにあんたはそうやって一人になって、それで後を追うつもりかい!?」

——初めて、黒の少女の足が止まった。

「アタシとマミ、あんたの三人なら良いトリオが組める、楽しくやってける。だから一緒に!」

「佐倉杏子」

——果たして、黒の少女は呼びかけに応じた。

泥と血で重たくなった右足を引きずりながら、彼女は半身を翻す。
かろうじて見える左目は、黒い髪に隠れている今でもなおはっきりと分かるほどにギラギラと輝いていた。
それは怒りではなく、悲しみでもない。
何かに立ち向かう者が、無常な現実を嘆いてそれでも明日へ向かって生きようとする時に見せる光だ。

赤毛の少女はその瞳を見て驚くよりも先に安堵した。ため息を吐いて、肩を下ろす。
張り詰めていた緊張の糸がほぐれ、連鎖するように頬がゆるんだ。
そんな様子などお構いなしに黒の少女は続けた。

「私は死ぬつもりはない」

もうそれは分かったよ、と杏子はだらしのない笑顔を浮かべた。

「私は、守る」


黒の少女は半身を赤毛の少女に向けたまま、荒れ果てた町を包み込むように両手を広げて見せた。
指先まで目一杯伸ばして、これでもかというほどに胸を反らす。

「たとえ“アレ”がどこかへ消えたとしても、それでこの街の人の呪いが消え失せるわけではない」

彼女は広げた両手を胸に寄せて、抱き締めるように両手を抱いた。

「世界の歪みはふたたび魔獣となり、“アレ”もまた闇の底からこの街を、この街に住む人々を狙っている」

両の手の中にこの景色がある。この街がある。
全部抱き締めて離さない。絶対に見捨てない。
黒の少女は表情だけでそれを語ると、呆けている赤毛の少女に対して語りかけた。

「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、私にとっては何の価値もない救いようのない街だけど」

その言葉はあまりにも堂々としていて、
まるで詩を詠っているのかと赤毛の少女が錯覚してしまうほどに様になっていた。

「だとしてもここは、かつて彼女が守り、救おうとした場所だ」

黒の少女はギラギラ輝く左目を、どこか遠くにある何かを見つめるように細めた。
そして笑った。

「彼女は消えていない。彼女の意思は私が引き継ぐ」

背を向ける黒の少女。
赤毛の少女はもう、引き留めようとはしなかった。

「私は覚えている。私は忘れない」

「だから私は、戦い続ける」


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

もしも明日が晴れなら——そんな題名の物語があったと、パソコン好きの友達が言っていたのをわたしは思い出した。

「雨、止まないね」

「……陽の光が欲しい……」

「晴れたってどーせバラに当てるだけであんたは当たんないんでしょー」

杏子さんと『赤いリボンの伝説』の話をしてから二日。
あの日から今日まで、雨は一向に止む気配を見せていない。
おかげさまでわたしと同居人の二人、それから杏子さんのお洋服は洗えずに溜まり続ける一方である。
それもこれも、杏子さんと例のバラ好きの友達が室内で洗濯物を干すのを嫌がるからだ。


『部屋に干すと邪魔くさいし回収めんどい』『湿気が薔薇に悪影響を及ぼす』


と主張する二人に、わたしも負けじと


『お洋服が溜まると着るものに困るし洗濯物溜め込むのは女の子としておかしいよ!』


という正論で反論するも、唯一の味方かと思ったお菓子好きの友達の、


『べつに少しくらいいーんじゃない?』

というありがたい鶴の一声で形勢逆転どころか撃沈。
第四十二次……あれ? 第五十二次だったかな?
ともかく、部屋干し論争はわたしの圧倒的敗北によって終戦した。

……乾燥機能付きの洗濯機、とっても安いのにどうして買わないんだろう?
自動で折り畳みもしてくれる洗濯機もあるのに、と内心で愚痴をこぼす。

窓ガラスに叩きつけられる大粒の雨を見ながら、わたしは心が憂鬱になるのを抑えられなかった。


そんなわけで、雨が降り続ける現状では外に遊びに行けるはずもなく。
雨音をBGM代わりにして、食堂の椅子に腰を下ろしたわたしたちはテレビで古い邦画を観ていた。
日本の映画はどうしてこうも静かなのだろうと、時々不思議に思う時がある。
もちろんそれは見る映画にもよるのだろうけれど、じめじめしているというか……などと身勝手な感想を抱いてしまう

とはいえ、黙って視聴していても気が滅入るだけだ。
気分を入れ替えようと、目の前のお皿に盛られたポテトチップスを手に取って一口かじりながら話を切り出す。

「そういえばこれ、杏子さんが買ってきてるんだよね?」

「んっ……そーだよ? 佐倉さんががさがさーって買ってくれるの」

「でも杏子さんってあんまりお菓子食べないよね?」

そういえば、と目の前に座ってポテトチップスをかじっていた彼女が固まった。
珊瑚色のきれいな髪に指を絡ませて、萌葱色の瞳をくるくると回転させている。
それからややあって、こてんと首を傾げた。

「じゃーなんでたくさん買うんだろ?」

「……あなたが食べるから……」

のそっと皿に手を伸ばして、他の子が一言。
だけど、恐らくそれだけではないはずだとわたしは考えた。

「たぶん違うよ 杏子さん、昔からよく買ってたし」

あの子がわたしたちと一緒に戦うようになったのはつい最近——と言っても三年も前——のことだ。
わたしの記憶が正しければ、杏子さんはそれ以前からお菓子をたくさん買い込んでいた。

「お茶請けよーとかじゃない?」

「……巴さんの手製菓子があったのに?……」

「あーそーいえばそーだね……」


「んまい棒の時の顔は怖かったよねぇ」

「あーあれはこわかったー!」


杏子さんはあまりお菓子を食べない。
それどころかお菓子を見るとどこか嫌そうな顔まですることがある。

もう半年以上前になるだろうか。
わたしたちがクレーンゲームで引き当てた大量の『んまい棒』を杏子さんにプレゼントしようとした時のことだ。
杏子さんは眉を立てて露骨に不機嫌になり、まるで肉親の仇でも見るような必死の形相で、

『いらない』

——とだけ言って部屋に籠もってしまった。
その時のわたしたちはみんなで必死に悩み、相談しあい、
クレーンゲームにお金を注ぎ込んだことを怒っているのだと推察して後日謝罪した。

ところが杏子さんは笑いながら首を振ってそれを否定。
そのまま有耶無耶にされてしまい、今日に至るのだけれど……

「あれってお菓子が苦手でつい不機嫌になっちゃってことなのかな?」

「でもさー、フツーお菓子が嫌いなら買わないでしょ?」

「……癖?……」

「癖って?」

「……子供時代の癖……」


「杏子さんの子供時代かぁ」

言われてわたしは、杏子さんの子供の頃の姿を想像してみた。
たぶん髪型は今と同じ赤いきれいな炎のような髪をまっすぐに下ろしている。
八重歯がキュートで、目はちょっと怖そうだけど同時に優しそうで。
顔つきは今も昔も変わらずキリッとしているに違いない。

「うんどーしんけーが抜群っぽそーだよね!」

うん、そうだね、とわたしは笑った。
きっと背は高くて運動神経も良いはずだ。
そして健全な肉体には健全な精神が宿ると言う。
性格はとっても真面目で、だけど堅苦しくなくて、優しくて明るくて元気。

「……人間関係は良好……」

うんうん、とわたしたちは頷いた。
きっとお友達がたくさんいて、みんなと仲良くやっていたのだろう。
友達が喧嘩していたらそこに飛び込んで、すぐに仲直りさせるに違いない。

杏子さん自身が喧嘩することは……ありそう。だけどきっと『正義の側』だと思う。
友達が道を外れるようなことをしていたら真っ先に頬を叩いて矯正させる、正義感溢れた魔法少女だ。

「お菓子はそんなに食べないんじゃないかなぁ?」

もしかしたら人並程度には食べるかもしれない。
でも決して食べ過ぎたりはしないだろう。
むしろ食べ過ぎている子を注意する側に回りそうかも。

今でもお菓子を食べ過ぎている子——ほとんど一名だけど——にはきちんと叱っていたりするから、
昔から変わらない性格の可能性が高い。
そう考えたら不思議と胸がじわっと熱くなってきた。

わたしは凄い人に育てられてきたのだ、と。いまさらながらに思う。


「……三大魔法少女……」

「ミチルさんとマミさんと杏子さんのお話?」

「友情の和紗さんと努力の巴さん、それからえーっと……勝利の佐倉さんだっけー?」

それじゃ少し前に廃刊になった漫画雑誌だ。
わたしは天井を見上げて少しだけ記憶の糸を辿り、それから正しい名称を口にした。

「仲間のミチルさんと、
 弟子のマミさんと、
 正義の杏子さん——だよ」

現代の魔法少女は数が増え、さらには横と横の繋がりがとても広がっている。
魔法少女間の情報交換用のネットワークをプレイアデス聖団が実用化したからだ。
インターネットが普及されていることも大きな原因の一つとされている。

そんなたくさんの魔法少女の憧れの的の三人は、セットでいつも三大とか三強とか、三聖とか色々呼ばれている。
件の三大魔法少女もそれの一つだ。

「……三十年前の見滝原の件も……」

「あれは魔獣はぜんぜん関係ないって佐倉さん言ってなかったっけー」

「うん、言ってたね。あれは天災だよって」

三十年前の大きな災害。仮にあれが魔獣によるものだとしたらとても恐ろしいことになる。
たぶん≪大型≫の魔獣が出現するとあれくらいになるはずだろう——という解を導き出して、
わたしは思わず自分で笑ってしまった。

≪大型≫の魔獣と戦って生き残ることが可能な魔法少女なんていない——それが今の魔法少女の常識だった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

そんな話をしていると、外に出ていた杏子さんが帰ってきた。

「ただいま……っておいおい、なんで三人揃ってここでくつろいでるんだい?」

「ひとりでいると気分が暗くなっちゃうから」

「あたしの部屋テレビないしー」

「……薔薇の手入れ……」

三人の答えに呆れ顔をする杏子さん。

「あんたいま完全に頬杖しながらテレビ観てたろ。薔薇の手入れしてる素振りなんて欠片も見れなかったよ」

「……モーマンタイ……」

「ったく、誰に似たんだか……ああそうそう、今日は魔獣探しはしなくていいよ」

魔獣探しというのは文字通り見滝原市を見回って魔獣を探すことだ。
普段なら一人、ないし二人で行うもので、遠くまで見回るときにはちゃんと交通費も渡される。
学校通いの子なら登校中や下校中に、そうでない子は時間を作ってちゃんと見回らなければならない。

今現在、見滝原市にいるマギカ・カルテットの魔法少女は全部で七人、杏子さんを除けば六人。
その内の三人が少し離れた場所に自分の家を持っていて、
顔を合わせることが難しい場合はその住所付近の見回りを担当してもらっている。
シスターやパソコン好きのあの子もその中の一人だ。

それを行わなくて良い、ということは……


「さーくーらーさーん……? まさかとは思うけど、魔法を使っちゃったとかじゃないよねー……?」

珊瑚色の髪の毛をわずかに揺らしながら、彼女はジト目で杏子さんを見た。
一方の杏子さんは頬を引きつらせて首を横に振った。

「使ってないよ、これからシスターが来るんだ。その時に魔獣探しもやってくれるってさ」

「なーんだよかったー!」

「……焦る……」

二人の反応にくすりと笑みを漏らす。
わたしの言葉を取らないで欲しいなぁなどと思いつつ、わたしは杏子さんを見上げた。

「ん? なんだい?」

なんでもない、と手を振る。
表情の変化が見られなかったので、たぶん約束を破るようなことはしていないのだろう。

杏子さんは戦っちゃいけない。
杏子さんは魔法を使っちゃいけない。
これはマギカ・カルテットのみんなが二年前に杏子さんと交わした約束だった。

「約束、ちゃんと守ってくれてるんだね。安心しちゃった」

「おいおい、あんたは私をなんだと思ってるんだ?」

呆れ顔のままわたしの頭に手を置く杏子さんに、わたしは笑顔を向けながら言った。

「頼れるお義母さんって思ってるよ!」

「心がこもってない。真心チョップ」

あいたっ……これは手厳しい。


「そんなことより朗報だよ。新入りがこっちに越してくることが決まった」

「ホント? 日取りはいつ?」

「今日の夜だよ。荷物はほとんど無いから、二回の空き部屋片付けるだけで済みそうだね」

あっけからんと紡がれた杏子さんの言葉にわたしは絶句した。
今日の夜にいきなり訪れると言うこともそうだが、荷物がほとんど無いというのも少し妙な話だ。
これまでたくさんの入居者を見てきたわたしの経験からすると、
荷物が無いということは何か家庭に事情があるというケースが多い。

「おーすごーい」

「……どうでもいい……」

……そういえば二人もあまり荷物が無かったような。
それはともかく、わたしはその子を迎え入れるための準備に取り掛かるべく杏子さんに尋ねた。

「じゃあわたし、部屋を掃いてくるね。手前の部屋で良いんだよね?」

しかし杏子さんは右手を振ってそれを静止。
次いで右手を丸め、人差し指や親指などで何かを握りこむようなポーズを取った。
あれは……鉛筆だろうか?

いつの間にか漏れていたらしいわたしの言葉に、杏子さんはにっと笑みを浮かべて頷いた。

「あんたたちはシスターとお勉強だよ。新入りが来る前に魔法に関する知識の方の再確認しときたいからね」

「えー!? あたしこれでも頭いいよー!?」

「≪小型≫と≪中型≫の戦力差は?」

「……さ、三対一かな? 四対一かなー……?」

「素直に勉強しな。場所はいつもの部屋だからね」


しぶしぶ席を立つ二人に続きながら、わたしは杏子さんの方を振り返った。

「ねぇ杏子さん。一つ聞いてもいいかな?」

怪訝そうな表情を浮かべる杏子さんに構わず、わたしは少し早口で話を続けた。

「杏子さん、いつもたくさんお菓子買うよね?」

「ん? ああ、そういえばそうだね」

「でも杏子さんってお菓子あんまり食べないでしょ? だからどうしてそんなに買うのかなって気になっちゃって」

杏子さんは顎に手を置き、視線をそらした。
昔を懐かしむような優しい眼差しのまま、そっと口に出す。

「なんでだろうね……つい買っちゃうんだ。深い理由や意図は無いよ」

さっきの子が言っていた『癖』という言葉を思い出す。

「もしかして杏子さん……子供の頃はお菓子、好きだったの?」

驚いた顔で目を見開いている杏子さん。
何度か瞬きをした後、彼女はふっと鼻で笑うと肩をすくめておどけてみせた。
まるで何かを隠すかのような仕草だった。

「どうだったかな、昔の事なんて忘れたよ。ほら、あんたもさっさと行きな」

「う、うん——あ、もう一つだけ良い?」

またか、という顔をする杏子さんに頭を下げつつわたしは尋ねる。

「新しい子のお名前はなんていうの?」

「ああ、名前ね。名前はね……」

杏子さんは少しだけ声を低くしてそっと呟いた。



「ちとせ……千歳あんず、だよ」

3アバン〜2Aパートここまでーっす。次回は魔獣に関するお勉強会

オリキャラに名前を付けないとか言ったかもしれないが例外はあったりなかったりしなくもなかった!
もう投下予告制度はやめよう、時間を守れる気がしない


もしも明日が晴れならばとか懐かしいな

なんかほむらにしては口調が堅苦しいと思ったけど
もしかしてこれはそういうことなんだろうか
なんかもやもやしてきた

小ネタに気づいてもらえるとうれしい
というわけで投下。ちょっとオリキャラパート長いので斜め読みどうぞ


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「前から不思議だったんだけどさー、ここってなんのための部屋なの?」

「ここは元々は古くてちょっと大きいアパートだったから……会議室かな?」

「……会議室のあるアパート?……」

「ほら、この街ってちょっと変わってるって言うから」

白い会議室の長テーブルに肘をかけ、パイプ椅子に腰を下ろして雑談を交わしていると、扉が開かれた。
部屋に入ってきたのはマギカ・カルテットの一員のシスターだ。

シスターと言っても以前会ったときのような紺の修道服姿——魔法少女の姿ではない。
上はTシャツ、下は長めのジーパンという比較的ラフな私服姿だった。
豊かなバストとお尻がくっきり浮かび上がっていてわたしは思わず心の中で拍手した。
いや、ソッチ系じゃないけどね?

「みなさん揃っているようですね。それじゃあさっそく始めましょうか」

「お菓子食べながらでもいいですかー」

「それで知識が身に付くのならかまいませんよ」

「……帰ってもいい?……」

「それで知識が身に付くのならかまいませんよ。——知識が身に付くのであれば、ですが」

露骨に嫌そうな舌打ちの音が響いた。
シスターはそれを返事と受け取ったのか、
彼女はにこにこしながら長テーブルを挟むようにわたしたちの正面に立つ。

そしてっすぐ後ろに設置されたホワイトボードに、黒のマーカーで、お勉強の内容をすらすらと書き込んでいく。
その字はシスターの倍近く生きている杏子さんよりもずっと丁寧でバランスが整っていた。


「それではまず始めに——魔法少女とはなんでしょうか?」

シスターの発言にわたしたちは揃って顔を見合わせ、これまた揃って首をかしげた。
魔法少女は魔法少女。それ以外にどう説明すればいいのだろう?

「そうですね。あなたたちにはそれが当然の意識かもしれません。
 では質問を変えましょうか。魔法少女とはどのようにして成るものですか?」

「うちゅー人のキュゥべえに願いを叶えてもらって、その代わりになるものでしょー?」

「その通りです。私たちは願いを叶える対価として魔法少女になります。
 魔法少女とは地球外生命体であるキュゥべえに願いを叶えてもらった者です。SFですね」

少女の願いを叶えて魔法少女にし、魔法少女に付き従う使い魔のような生き物。
それがキュゥべえ——正式名称はインキュベーター——である。
彼らは純粋な科学技術を用いてわたしたちの願いを叶え、魔法の力を授ける存在だ。

「私も、あなたたちも、願いを叶えたからこの場にいるはずです。ああもちろんあなたは例外ですね」

わたしに気を遣ったのか、彼女は慌てて訂正するとわたしのことを見て申し訳なさそうに頭を下げた。
その様子を見て慌てて手を振り、どうぞと先を促す。
年上の人から気を遣われるのは苦手だな、と思いながら、わたしは自分のことについて少しだけ考えた。


——わたしは、願いを叶えて魔法少女になったわけではない。
いいや、もしかしたら願いを叶えたのかも知れない。でもわたしはそのことを覚えていない。
今から十年も前のことだ。
当時、おそらく三歳か四歳だったわたしは記憶を失った状態で、
桃色のソウルジェムを両手で握り締めたまま地面に横たわっていたのをマミさんに発見された、らしい。

例外というのはその事だ。
なにせキュゥべえですら『残念だけど答えられないね』と言うのだから不思議も不思議。
いったい何があったのか。それは記憶を失う前のわたしにしか分からない事だった。

——でも、そんなことは、今は重要じゃない。

わたしは頷くと、シスターの話へ意識を向けた。
話はいつの間にか進んでいたらしく、彼女が叶えてもらった願いの話に移っていた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


私はかつて、神とイエズスの教えを正しい物だと心の底から信じていた。

そして私は、この世界は神とイエズスの教えだけでは何も変わらないという事実に気づいてしまった。

ならば今はそれらを信じていないのか?
ならばお前は進む道を違え誤ったのか?

そう問われれば私は首を横に振るだろう。そして胸を張って言うのだ。

『私は今でも神と教えを信じているし、道を誤ったつもりもない』

その通りだ。私は今も神の存在を信じている。イエスの教えも正しい物だと信じている。

今日に至るまでに流してきた汗と涙に無駄な物など一滴たりとも無い。
見えない衝動と焦燥に突き動かされ、見えない濁流に揉まれたような一生だとしても。
きっと私は自分の歩んできた道を誇らしい気持ちで振り返り、満足気に胸を張る事だろう。
そしてふたたび足を進めるはずだ。

昔と今で違う物があるとすれば、それはたったの四つ。

それは信じる対象が増えた事。
この手で救える対象が出来た事。
修道女を経てシスターになった事。

そしてなによりも魔法少女になったという事だ。


私が契約したのは今から六年以上も前になる。

当時の私はまだ二十歳。修道女になってから日も浅かった。
修道女になった理由を語るのは話がそれてしまうので省略してしまうが、
私の家は古くから続く良家であり、そんな両親に反発したかったからという、あまり褒められる理由ではない。

だけど私はそれで良かったと思っている。
良家の加護を受けて綺麗な着物を着て、置物のような一生を過ごすよりは、だ。

両親は修道女になった私を疎み、もう何年も会おうとはしてくれなかった。
それはよりいっそう私を神とイエズスの教えの信仰へ駆り立てる理由にもなったのだろう。

神を絶対の物だと信じて疑わなかった私は、教えに従ってひたすら努力していた。

修道女とは、辛い修道生活をこなしながら日々困難と闘い続ける人種だ。
華々しい活躍を見せる人間など数えるほどもおらず、
その大半が修道女としてひたすら修道生活を送り続け、やがて息を引き取る運命にある。

両親を見返したいという気持ちもあって、私はそのままでいる事を恐れていた。
もっと誰かの役に立ちたい。誰かの支えになりたい。
そうすることでこの荒んだ社会を少しずつ変えてみせるのだと、そんな甘い理想を本気で抱いていたのだ。
信じるものは救われる。それが当たり前なのだと錯覚していた。

けれども、修道女はどこまで行っても修道女だ。
一回の修道女でしかない私にとって、その理想はあまりにも高すぎた。

どれだけ考え、悩み、苦しんだとして、一介の修道女には限界がある。
元より修道女とは、誰かを救うための物ではない。
修道女になった上で誰かを救える存在になるためには膨大な時間を費やす事が必要だった。

言い訳がましくなってしまうが、結果的に言えば私には向いていなかったのかもしれない。
急ぎすぎていたというのも少なからずはあるのだろうが。


そこに家族の不幸と恐ろしい出来事が重なった。

家族の不幸。
一言で言えば、両親が交通事故で他界したのだ。

両親が亡くなったという報せを聞いた時、私はあまり実感を持つ事が出来ず、
自分でも不思議なほどにすんなりと受け止める事が出来てしまった。

交通事故の原因は、両親の不注意による運転ミスからの対向車との接触だった。
元より両親は運転する事に慣れていない。専属の運転手を雇っているからだ。
おそらくその日の運転は『趣味』や『娯楽』の一環だったのだろう。

接触した相手側の車には女の子とその父親が乗り込んでいた。
ピクニックの帰りで疲れていたらしく、両親の運転ミスに気づくのが遅れてしまったそうだ。
疲れていたゆえに反応が遅かったにせよ、相手側に非はまったく無かった。

そして——ああ、今でも信じられない。

私の両親は、まだ10歳にも満たない少女から父親という存在を奪ってしまった。
彼女はもう二度と父親と語り合う事もできず、触れ合う事もできない。
もう一生温もりを得る事が叶わなくなってしまった。

私は私の家族の死を悼むより先に家族を恨み、彼女の不幸を悼んだ。


後日、私はすでに埋葬された両親に代わって謝罪しに行こうとしたが、結局それは叶わなかった。
彼女の母親に断られてしまったからだ。当然だろう。

あの子は今、どうしているのだろうか。

まだ見ないあなたに幸せがあらんことを。

私はただそれだけを祈り続けた。

仄暗い絶望を胸の奥に秘めながら。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


そうして深い絶望に嵌っていった私は、
人間の負の感情を集める魔獣にとっては格好の餌だったのだろう。

何をする気にもなれず、ただぼうっと道を歩いていた私は見た事の無い不思議な場所に出ていた。
異常な光と、異常な景色。魔獣の庭の中。

目の前に立ちはだかる5メートルはあろうかという魔獣を見上げながら、私は何も出来なかった。
一見すれば聖職者に見えない事も無い巨人は、無力な私に下された裁きの象徴なのだと、
虚ろな表情のまま、本気でそんな事を考えていたと思う。

そのとき私の耳に届いた言葉を、私は今でもはっきりと覚えている。
彷徨い、絶望し、その命を散らせる寸前だった私に向かって、
彼女は背後から音も無く近付きこう言ったのだ。


『——あんたの心は、もう死んじまってるのかい?』


その言葉に、私は意識が急速に覚醒していくのを実感した。
気付いた時には体を後ろに倒すような勢いで後じさり、悲鳴を上げていた。
彼女はそんな私を見て小さな笑い声をこぼした。
そして私の肩に手を置き、済ました顔で言った。

『良い反応だ。人助けするなら、やっぱり心が生きてるやつに限るってもんさ』

口から覗かせる八重歯。鋭い目つき。赤い瞳。暗い赤と明るい赤のツートンのドレス。
そしてゆらりと燃え上がる、炎のように綺麗な赤いストレートヘアーに——胸に輝く、赤の宝石。

彼女は身の丈よりも長い槍を手に取り、まるでスキップでも踏むかのように軽やかに前進。
片手で槍を薙ぎ、自分の背の三倍以上もある巨人を一撃で撃破した。
子供の頃に読んだ、漫画に出てくる主人公のように堂々とした佇まいに、
私は我を忘れてただただ呆然と彼女を眺めていた。


結界が解けて元の世界に戻った頃。
ようやく我に返ると、私は彼女に向かっていくつも質問を投げかけた。

あなたは何者だとか、先ほどの巨人は何だとか、私もあなたのようになりたいとか、色々。

けれども彼女は至って冷静に、ただ私の目を見て言った。

『世界の裏側には、さっきの巨人みたいなヤツがうじゃうじゃしている。
 人の負の感情を食らって人の人生を台無しにする最低の化け物だ。私はそいつらと戦っている』

私はすかさずこう尋ねた。
あなたのようになりたい、と。
彼女は悲しい瞳をして首を横に振り、だめだ、と言った。

当時の私は気づかなかったが、今思うとあの瞬間、彼女の表情は驚くほどに一変していた。
先ほどまで見せていた逞しさと漲っていた気力は鳴りを潜め、
生きることに疲れた者が見せる疲弊の色——重たい灰色の何かが確かにそこにはあった。

少なくとも、四十にも満たない女性が見せる顔ではなかったように思う。

『私のように、ね。残念だけど誰でも私みたいになれるわけじゃない。
 それに辛いことや悲しいこと、苦しいことや傷付くことが山のようにある。
 あんたは興奮しているから分からないだろうけど、実は私はね、あんたよりも無力なんだよ』

彼女の声は切実な物で、私を通して別の誰かに語りかけているようだった。
それはある種の悲痛な訴えにすら似ていた。

『私に出来るのは、裏側から世界を守る事だけだ。
 だけどあんたたち真人間は違う。表側から誰かを救える。それが世界を守る一番の近道なんだ』

彼女は槍をどこかへ消し去ると、私の背中をぽんと叩いた。
肩をすくめて微笑を浮かべ、頑張れ、と言ってくれた。
そしてすぐ近くで待機していた歳の近い女性と共に姿を消してしまった。

それが私と彼女の——佐倉杏子様との、初めての出会いだった。

それから半年後、私はキュゥべえと出会った。

晴れて私は魔法少女となり、佐倉様のお隣で、裏から表から、世界を守り救う道を選んだのだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「——『まだ見ないあの子が幸せでありますように』。それが私の願いです」

シスターの話を、わたしはただ黙って聞いている事しか出来なかった。
こういうときに何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、わたしは知らない。

「まーいろいろあるもんだねー」

「……人の数だけ歴史あり……」

思ったよりも驚いていないのがこの二人だ。
彼女たちは大変だねぇ、と頷いたり、そうなのかぁ、と興味深そうにしている。
けれどもわたしのように戸惑う素振りは見せていない。

人の数だけ歴史あり。

二人にも同じように複雑な事情があったのだろうか。
無意識のうちに自分の黄色いリボンを触りながら、わたしはふとそんなことを思った。

「さて、お勉強に戻りましょうか」

「えー!?」

「えー、です。
 私の祈りは早い話が他者の救済です。それによって得られた魔法が治癒の魔法です。
 と言っても、これはどちらかというと精神的な治癒ですのであなたには及ばないかもしれませんね」

そう言って、シスターはわたしに微笑みかけた。
わたしの固有魔法は自分や誰かの怪我を治癒する典型的な回復魔法だ。
あなたの願い事はその魔法に似た優しい物なのでしょうね、とマミさんが言っていたのを思い出した。


「あたしの魔法はコーゲキタイプなんだよねー」

そう言って、隣で飴玉を舐めていた彼女は右手を掲げて見せた。
ぎゅっ、ぱっ、と拳を作っては開いたりを繰り返している。

「あれ、固有魔法はお菓子の生成じゃなかったの?」

「それじゃ戦えないでしょー? だから巴さんに教わってさー……っと!」

ぼんっ! と乾いた音を立てて彼女の手のひらの上に鬼火のような輝きが現れた。
ゆらゆらしてるけど、よく見ると球状になっている。
鬼火と言うよりは昔の漫画にあった必殺技に似ていた。

「お菓子は魔力でできてる——ってことは、イコールつまり形をくずしちゃえばそれサイキョー!」

ふふーん、と胸を反らす彼女。
手のひらの上を漂っていた光の玉は、もう飴玉に変わっていた。

「おーよー次第で、なぐりつける時に大ダメージ与えれたりもしちゃうんだよねー。巴さんにかんしゃかんしゃ」

「巴様は魔力の扱い方が特に秀でておられましたからね。それであなたの方は……」

シスターは小さく首を振って視線を横にずらした。
わたしたちも同じように視線を走らせる。

そうして三人に凝視される事になったのは若草色の髪のあの子だ。
彼女はぷいっと顔を逸らし、何も言おうとはしなかった。


「魔法は願いと祈りに直結していますから、
 無理に答える必要はありませんよ。
 それが私たちマギカ・カルテットですからね」

穏やかに締めくくり、シスターは話を次の段階へと移行させた。

「願いと祈りと魔法の関係性は十分ですね。それではキュゥべえの説明に入りましょうか」

「えーどーでもいいよあんなペットなんかさー」

「……胡散臭い……」

「たしかに、それはちょっとあるかも」

わたしたちの言葉に、シスターは口に手を当てて苦笑を隠した。

「キュゥべえの目的について、だれか知っている人は?」

沈黙。
ひたすら沈黙。
仕方が無いので、わたしはおずおずと手を挙げた。

「えっと、宇宙を長生きさせているんですよね」

「その通りです。この宇宙は遠い未来、エネルギーが広がって、よく分からないのですが死ぬようです」

呆気からんと放たれた言葉にわたしたちは思わず噴出してしまう。
よく分からないけど死んじゃうんだって。

「なにせ何千億年以上も後の事ですから。
 私たちからすれば他人事です。キュゥべえたちにとってはそうではないようですけれど」

「なんでさー?」

「主観時間と客観時間の問題ですね。説明は……またいずれ」


コホン、と咳払いを一つ。

「その宇宙の死を防ぐためには、グリーフシードと呼ばれる結晶が必要になります。
 これは扱い方次第でこの世界の物理法則を変化させうるとても恐ろしい代物です」

物理法則を変化させると言うけれど、わたしにはそれがいまいちよく分からない。
杏子さんは曲がった物を直すのに似ている、と説明してくれた。
マミさんは空いてしまった穴を埋めるのに似ている、とも。

「これはどこからともなく現れる魔獣しか持っていない貴重な物です。
 そして魔法少女になった私たちは魔獣と戦い、グリーフシードを集めなければなりません。
 なぜなら、負の感情を吸い上げる魔獣と対抗できるのが私たち魔法少女だからであり——」

シスターは自分のソウルジェムを手のひらに乗せ、わずかに濁っている箇所を指差した。

「ソウルジェム——
 契約の際に変化する魔法少女の魂に溜まっていく、
 穢れと呼ばれる物を唯一浄化出来るのがこのグリーフシードだからです」

ソウルジェムは、魔法を使ったり負の感情を抱く事で濁り、穢れが溜まっていってしまう。
それが限界まで溜まりきった時、ソウルジェムははそれに耐え切れなくなる。

「そうして濁りきったソウルジェムは、その魔法少女の体ごと消滅します。
 この宇宙に存在しているとされる、円環の理と呼ばれる事象、あるいは存在によって跡形も無く——です」


そう——マミさんのように。


「私たちは願いを叶えてもらいました。だから戦わなければなりません。何よりも生きるためにです」


「さて、それでは魔獣の説明に入りましょうか。魔獣はいくつに分類別けされていますか?」

「≪小型≫と≪中型≫と≪大型≫ですよね」

「はい。では≪小型≫の特徴を、飴玉を舐めるのに夢中になっている子にお願いしましょうか」

「わーだれだよー飴玉舐めてるやつはー(棒)」

じろり、とシスターが冷ややかな目で彼女を見た。
さすがに不味いと思ったのだろう、彼女はたじたじになりながらも仕方なく答えていく。

「えっとー≪小型≫は数がおーくて弱い。
 あとちーさいよね、1メートルから2メートルくらい?
 魔獣の手先とか配下とか信者とかいろいろ呼ばれてるよねー」

「マギカ・カルテット内で≪小型≫を採用しているのは、文字通り私や佐倉様がいわゆる信者だからですね」

それだけではないのよ、とマミさんが語っていたのを思い出す。

魔獣を表す言葉にもうひとつ、システムというものがある。

この宇宙の見えない何かをどうこうする、宙が作り出した意思を持たない存在だから、とかで。
≪小型≫は手先でも配下でも信者でもなく、ただ小さくて数が多いだけの魔獣でしかないのだと。
じゃあ宇宙はどうしてそんな物を作ったのと幼い頃のわたしが尋ねると、マミさんは困ったように笑っていた。

「≪小型≫の能力はせいぜい身体能力の高い人間程度です。
 主な攻撃手段であるレーザーは直撃さえしなければ、並大抵の魔法少女ならば無視できるでしょう」

「あーあとセーシン汚染? があるんだよね。瘴気をがばって被せるやつ」

「ですがそれは魂がソウルジェムに変換されている私たちには効き目がありません。
 けれど、一般人相手には十分有効ですので結界内に一般人がいる場合は注意をしてください」

マミさんや杏子さんのように、リボンや鎖で魔法の結界を張れれば問題は解決できる。
ただ……いま教わっているわたしたちはそういった技術をまだ身に付けていない。


他に注意事項をいくつか述べると、シスターは後ろのホワイトボードにそれらの情報を簡単にまとめた。
中でも一際重要なのが『浄化率』の項目だろう。

≪中型≫から回収出来るグリーフシードの浄化率を5とした場合、
≪小型≫から回収出来るグリーフシードの浄化率はその五分の一の1だ。
≪小型≫を五体狩ってようやく≪中型≫と同等の浄化が行える事になる。

ソウルジェムを一つ丸々きれいにするためには、
≪中型≫のグリーフシードが二十個、
≪小型≫のグリーフシードが百個必要になる計算だ。

これだけだと≪中型≫を狩った方が効率が良く思えてしまう。
けれどもここでさらに重要なのが≪中型≫と≪小型≫の戦力の差だ。
並の魔法少女と比べた場合の戦力差は以下の通りである。

魔法少女1に対して≪小型≫が25   1:25

魔法少女1に対して≪中型≫が5    1:5

もちろんこれはあくまで杏子さんとマミさんとキュゥべえが出した、
現代の魔法少女と魔獣の戦力差の基本となる数値でしかないのだけれど。

≪小型≫も≪中型≫もグリーフシードの浄化効率で言えば変わりは無いのだ。
消費する魔力の量もデータの上ではほとんど誤差の範囲内で収まっているため、
どちらかを無視して狩るのは非効率だと言うのが魔法少女の間での常識である。

とても『都合の良い』バランスになっている、とマミさんが語っていたのをわたしは思い出した。
誰にとって『都合の良い』バランスなのかは考えるまでもない。

でも、それで誰かが救われるのならそれで良いよね……?


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「——以上の三つの点から、プレイアデス聖団が推し進めている、
 グリーフシードを核にした人造魔法少女計画は未だ成功しておりません」

シスターはそこでいったん口を閉じると、どこからともなく懐中時計を取り出して見せた。
表示されている時間を見て彼女は一息吐き、わたしたちに向かって微笑みかける。

「今日はこのくらいにしておきましょうか。お夕飯はもう済ませましたか?」

「まだー」

「それでは今日は私が担当しましょうか。佐倉様も色々と忙しいでしょうし」

いよっしゃー! と小躍りしている友達を微笑みながら優しい目で見つめるシスター。
マギカ・カルテットには色々な人がいたけれど、この人はその中でも特に優しい気がする。
わたしは宗教や教えというものについてあまり詳しい事は分からないけれど、
そういうのが人格面に与える影響ってやっぱり大きいのかもしれない。

そんな失礼なことを思っていると、シスターが真剣な顔をわたしに向けてきた。

「少しお聞きしたいのですが、よろしいですか?」

「あ、はい。なんですか?」

「あの子は元気にしていますか? 最近は教会の方が忙しく、あまりお会い出来ていないので」

この場にいない魔法少女で、あの子と呼べる年齢の魔法少女は一人だけだ。
わたしのお友達の物知りなあの子。透き通った青空のような瞳を持つ彼女のことだろう。

「元気そうにしてましたよ。なにかあったんですか?」

シスターは悲しげな表情でうつむき、小さな声で言った。

「どうも私はあの子に避けられているみたいで。元気そうなら良いのです。ありがとうございました」

「あ、はい」

あの子が、避けている?
確かにあまり人と積極的に関わろうとはしていないけど……
どこか腑に落ちず、わたしは首をひねって考えた。けれども答えが出ることはなかった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


そうこうしている内に夜になり。
わたしたちは新しくマギカ・カルテットの一員となる女の子と顔合わせを行っていた。
ちなみにシスターはこの場には居ない。
すでに杏子さんと一緒に顔を合わせているからなのと、色々と忙しいから、らしい。

「この子が新入りの千歳あんずだよ。よろしくしてやってくれ」

杏子さんが腰に手を当てながら言った。
……のは良いんだけど。

「ねぇ杏子さん、そのあんずちゃんはどこにいるの?」

わたしの指摘を受けた杏子さんがきょろきょろと辺りを見回す。
それからややあって、杏子さんの影からひょいっと小さな女の子が現れた。

「……あんず、私は柱でもなければ遮蔽物でもないんだよ」

びくっと大きく震える女の子——あらため、あんずちゃん。
あんずちゃんは目尻に大粒の涙を浮かべたまま、おそるおそるこちらの様子を伺っていた。

少し緑がかったツーサイドアップの髪の毛。
二つセットになっているかわいらしい大きな丸い髪留め。
藍色にも見える深い青の瞳に、彼女の髪の色をより深くした色の服装。
年齢はたぶん八歳か七歳くらいだろう。怯えているところとあどけなさが可愛らしい。

——いや、それにしても可愛い!

そこまで特筆するような特徴があるわけではないと思うのだけれど、可愛い。
視界に入った瞬間からもうわたしの視線は彼女に釘付けだ。
いますぐに駆け寄って抱き寄せたくなる、なんというのだろう、保護欲を掻き立てられる可愛さ? がある。
可愛いというよりもかわいい? みたいな、不思議な感じ。

それは他の子たちも同じらしく、
あのバラ好きの、普段から誰かをあまり信用としない彼女にしては珍しく、
目を見開いて口を半開きにし、わたしと同じようにじわじわとにじり寄ろうとしていた。


「ほら、あんず。自己紹介」

「……キョーコ、おねがい」

「だめだ。ほら、はやくしな」

がっくりとうなだれるあんずちゃん。
彼女はそろりと前足を運んで姿をさらけ出すと、おどおどしながら言った。

「えっと、わたしは……千歳あんず、だよ?」

かわいい。

「かわいい!」

「ふぇ?」

いけないいけない、つい口に出してしまった。
わたしは自分のうっかりに顔を赤らめ、隣の二人の背中に隠れた。
アホか、とじと目で見られる。うう、ひどいよ二人とも……

「あー、悪いね。あんたたちに言っておかなきゃいけないことがあるんだ」

わたしの様子に苦笑いしていた杏子さんが言った。

「この子は絶対に甘やかすな」

「え?」

異口同音に並べられた三つの疑問の声を無視して杏子さんは続ける。

「この子は絶対に甘やかすな。厳しすぎるくらい厳しく接するんだ。分かったかい?」

反論は許さない、と目で語る杏子さんに、私たちは何も言えずにただ頷くばかりだった。
わたしたちが杏子さんの言葉の意味を知ることになるのは、
これからもう少し時間が経ってからになる。

いじょーっす

淡白な述懐パートの方が文章の進み方が桁違いに早い。好きです、淡白表現

補足すると、グリーフシード二十でソウルジェム一つ浄化ってのは
劇中でほむらが行ってた例のキュゥべえとのイチャイチャシーンが元ネタ
中型二十=魔女一でさやかちゃん一人でこの時代の魔法少女四人相手に出来る設定

>>91
こなたかなたとか桜とか、色々盛り込んでます。俺得のしょうもない小ネタです

>>94
ネタバレになるので明言は避けますがたぶんそれで合ってます

まだ十二日だからセーフさ!アウトですか、すいません
ちょっと予定を変更して、主人公パートを字秋に回して杏子パートを持ってきました。
かずみマギカを知らない方にはちょっと厳しいかも……
と思ったけど主人公パートもオリキャラだし関係ねーか!


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「いらっしゃい……わあ?」

扉を開けたわたしの友人は、軽く口を丸めてわたしとあんずちゃんを見比べた。
今日の空模様と同じ、雨が降った後の青空のように澄んだ瞳を真ん丸くしている。
そして何秒か間を空けてから、ぼそりと呟いた。

「コウノトリが子供を運んでくるのは有名だけど……友達が子供を運んでくるとは思わなかった」

「いろいろとおかしいよ!」

おもわずツッコミを入れるわたし。
彼女はくすりと笑みをこぼすと、あんずちゃんと目線が合うように屈みこんだ。
その慣れた動作に思わず軽く目を見張る。
彼女はあんずちゃんの頭に手を乗せ軽く撫でながら、小さな声で尋ねる。

「あなたがうわさの新人さん……ね? いらっしゃい」

初対面なのに会話できてる!

普段はわたしと同じくらい人見知りな彼女の意外な一面に、身をのけぞらせるわたし。
もしかして子供が好きだったりするのかな?

そんなこちらの様子に気づいたのか、彼女はわたしを見上げて軽く頬を膨らませた。
そしてじろーっと、非難するようなじと目で睨みつけてくる。
あはは、と愛想笑いでごまかしておく。
その間にもじもじしているあんずちゃんの背中を軽く押してあげることを忘れない。

沈黙を保っていたあんずちゃんは、それでようやく決心が付いたのか、ぷるぷると震えながら声を発した。

「ちっ、千歳あんず……だよ!」


小さな体から搾り出された儚い声。
聴けば誰もが頬を緩ませるような懸命な応え。
それはわたしも例外ではなく、無意識の内に頬を緩ませかける。

けれども彼女は違った。

彼女はほんの数秒前まで緩めていた頬を、いびつな形に引きつらせていた。
何かを嘆くように、彼女の小さな唇が自然と動く。
だけどわたしにはそれが何を意味しているのかが分からなくて——

「——そう、そっか。“あんず”ちゃんっていうんだ。良い名前、だね」

わたしが言葉を発しようとした時にはもう、彼女は話を一歩先へと進ませていた。
あんずちゃんが、そうかな? と可愛らしく小首を傾げる。

もしかして単なるわたしの見間違い?
さいきん妙な事で悩んでるから、そのせいかなぁ……?

「あなたのお名前は、ママが考えてくれたの?」

「うん! どーして分かったの?」

「さぁ、どうしてでしょう?」

「どーしてー?」

教えてよぉとねだるあんずちゃんから目を離すと、彼女は視線をわたしに向けた。
よっこいしょ、と年齢に似合わない大きな声を出して立ち上がる彼女に、わたしは少し苦笑い。

「もう、おばあさんじゃないんだから」

「最近からだが重たくて」

そう言って、困ったように肩をすくめてみせる。

「……立ち話もなんだし、まずは部屋に入ろっか」


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「立ち話もなんだし、勝手に座らせてもらうよ」

それが勝手に上がり込んだヤツが吐く台詞か。
そんな事を言いたそうな表情を浮かべながら杏子は憮然と黙り込んでいる。
杏子の返答を待たずに、さっさと私服姿に変身した御崎海香と神那ニコは対面のソファに座り込んだ。

ただでさえ警戒して深いしわが刻まれている眉間をより一層ひそめる杏子。

気まずい沈黙が部屋に訪れる中、杏子は二人の姿、正確にはその肌や体つき、仕草に視線を走らせる。
そうして隅々まで観察してから不可解そうに首をひねった。

(見間違いじゃない。明らかにこいつら……)

一人思慮に耽っていると、

「マギカ・カルテットのリーダーは客人にお茶も出さないの?」

やんわりと非難するような海香の声が浴びせられた。
しかめっ面を浮かべながら、杏子はのろのろと腰を浮かび上がらせる。
代わりに一つ、憎まれ口を叩きながら。

「相変わらず身内以外にはキツい性格みたいだね、あんたは」

「……あなたが警戒を解かないから悪いんでしょう」

「いつだって君は、私たちのことが嫌いみたいだね」

「べつに嫌ってなんかいないさ。確かにユウリとは折り合いが悪かったけどね」


あの時は私も若かった、とつぶやくのは杏子だ。
慣れた手つきで湯を沸かしながら、懐かしそうに表情を緩める。
そんな杏子に対して海香はそっと目を伏せて言う。

「そのユウリももういない。時の流れは残酷ね。必死に夢を追って小説書いてた頃が懐かしくなるわ」

「時間は夢を裏切らない。夢も時間を裏切ってはならない——とね」

ふたたび生じる沈黙に、杏子は気づかれないように息を吐いて肩を降ろした。
ポットを電子レンジで暖め、その間にテーブルにカップを用意していく。

「ポットをレンジで? ナンセンスじゃないかな」

様子を眺めていた機に子が漏らした言葉に、杏子は肩をすくめて答えた。

「イギリスでも推奨されている立派な方法だよ。知らないのかい?」

「ニコはあまり紅茶飲まないから。そもそも『うち』はバターコーヒーやココアが好きな人が多いのよ」

有名パティシェの立花氏おすすめバターコーヒー。
元ネタは漫画らしい。
杏子は興味なさそうにふうんとだけ返すと、温めたポットに葉を入れて湯を注いだ。
二分間きっちり待ってから、ポットとミルク、ストレーナーをリビングまで運んでいく。
運んで用意をしていればちょうど三分。茶葉から成分が抽出されて良い紅茶に仕上がる計算だった。

「ミルクは?」

「ニコは後入れで多め。私は先入れで少なめ。砂糖は少しでいいわ」

「注文が多いね……後からで統一した方が楽なんだが」

「先入れの方が成分的には良いって、上条仁美が雑誌のインタビューで言っていたわ」


上条仁美、という名前を聞いて杏子の表情がわずかに固くなる。

「……どうかしたの?」

「いや、なんでもない」

その返答に海香は不思議そうな表情をするが、杏子はそれを無視して注文どおりに紅茶を注いでいった。
ああ、そういえば上にいるあの子の分も用意すればよかったな——
と杏子が思ったのは、すでに紅茶を注ぎ終えてからの事だった。
部屋に紅茶とミルクが混ざった香りが充満していく。

「紅茶の香りにはリラックス成分があるそうね。巴マミがやたらと紅茶を好んでいたのはそういう理由からかしら」

「さあね」

「巴マミの紅茶はおいしかった。機会があればまた飲みたいね」

「もう飲める機会なんて一生無いよ。私をおちょくってるのか?」

やや苛立ちを含んだ杏子の声。
けれどもニコは意味有りげに笑みを浮かべ続けた。

「無いとは限らないんだな、それが」

杏子は正気を疑うかのような眼差しでニコを見つめる。
それを見ていた海香は、やれやれと溜息を吐き出してニコにチョップを食らわした。
そして冷めた目で一言。

「それはまだ“早い”」

「ソーリー」


ストレーナーで適当に注ぎ分けると、三人は各自のペースで紅茶を飲み始めた。

「——おいしいわ。良い葉を使っているわね」

「スーパーの店員に伝えておくよ。一番安い茶葉だけど客は喜んでくれましたってさ」

ぐぬぬ……とくやしそうに縮こまる海香。
そんな彼女をフォローするつもりなのか、ニコはそんなことよりも、と杏子のカップを指で指した。

「君はなーんでミルクも砂糖も入れてないのかな」

「紅茶本来の香りと味で満足出来るのが大人ってもんさ」

「出た。杏子の中二病。そろそろ卒業しなさいよ、それ」

「お子様には分からないだろうねぇ……やれやれ」

「四十半ばがみっともないぞ、二人とも」

杏子はカップをテーブルの上に置きなおし、両手を組んだ。
そして真面目な顔で、先ほどから抱いていた疑問を投げかける。

「——四十半ばにしては、ずいぶんと若く見えるんだけどね」


空気が変わる、というほどではないが、確かに二人の雰囲気には変化があった。
海香はうんざりしつつも、平然と。
ニコはやっと来たねと、確かに嬉しそうに。

(……この場合、異常なのは後者か?)

興味深そうに目を細め、杏子は二人の様子を見比べる。
と、そこで海香が大きく身を乗り出してきた。深い青の瞳が杏子を飲み込むように見開かれる。
カチャリとカップをテーブルの上に置くと、海香は口を開いた。

「それじゃあ、本題に移りましょうか」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「まず最初に……杏子、あなたたちが保有するグリーフシードは全部でいくつ?」

話が動いた途端にそれか、と苦い表情の杏子。

「まずはそっちが私の質問に答えな」

「それは……」

言いよどむ海香を制して、ニコが口を出す。

「新しい器(からだ)だよ。はい答えた」

「真面目に答えろ」

ふっと嘲るような笑い声。
失礼、と肩をすくませる海香と、にやにやと頬を緩ませているニコ。
言い知れぬ不気味さを覚えて杏子はわずかに姿勢を正した。

「ニコの言っている事は本当よ。魔法を使って造られた、新しい器(からだ)。それがこの若さの秘訣」

——ありえない、と杏子は憤りの表情を浮かべた。

魔力には波長と呼ばれるものがあり、肉体との相性のようなものが存在している。
ソウルジェムが本来の体以外、つまり他人の体に適合してコントロール出来る可能性は限りなく低い。
生半可に試せば肉体が魔力を受け付けず、拒絶反応で崩れ、ジェムも瞬く間に濁ってしまう。
ジェムの移し変えに成功した魔法少女は杏子が知る限り、過去に『一人』しかいない。

その場合、普段の姿はその体のものに。
魔法少女として活動するときの姿はソウルジェムが本来あった体のものに近付くのだ。

「魔法で体を作って、それで簡単に乗り換えられるわけがない」

「出来るわ。在りし日の聖団の魔法をコピーした私と、再生成の魔法を持つニコならね」

在りし日の聖団——プレイアデス聖団がまだ“七つ星”だった頃の話だ。
今はもう、欠けに欠けて三つしか残っていない。


「……なんでそんなことを?」

杏子の疑問に、海香は呆れたように答えた。

「魔法少女は年を重ねれば重ねるほどに弱くなる。
 具体的には三十を越えたあたりで能力的には限界に達し、あとは落ちる一方。知らないの?」

「二年前に痛いほど思い知らされたよ」

「なら分かるでしょう。新たな器を用意して、そこにジェムを移す。
 そうすることで私たちは半永久的に活動できる。ジェムが濁らなければだけど」

海香の言葉は正しい。そう思ったのか、杏子は眉を立てて唸り、頷いた。
魔法少女として活動を続けるのであれば、肉体の老いから来るいくつかの問題はたしかに無視出来ない。
だからこそ分からない、とでも言うように、杏子は険しい表情のままニコの方を見た。
一方のニコは気にする様子も無く自由に紅茶をすすっている。

「ニコ、あんた以前私に向かって、後継者を育てているって言ったよな」

「んー……言ったかな、そういえば」

「後継者を育てるってことは自分は引退、もしくは活動を減らすってことだろう?」

「さあ、どうだったかな?」

「……前線で活動しないのならなぜ肉体に拘るんだい? 拒絶反応のリスクを背負ってまですることじゃない!」

思わず声を荒げてから、杏子ははっとした。

新しい体にジェムを移す。
その行いに、単なる老いの回避以上の意味があるとしたら。
魔法で作られた体を動かす、そのことに意味があるとしたら。


「……まだ諦めてなかったのか? ミチルを……“かずみ”を造ることを」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


プレイアデス聖団。
海香とカオル、ニコの三人が中心となって十五名以上の魔法少女を支えているチームだ。

マギカ・カルテットの誕生にも深く関わっており、魔法少女界隈で知らない者はいないだろう。
戦力ではマギカ・カルテットに及ばない——二年前の時点の話——が、
聖団にはそれを上回る知識と学がある。

『複数の魔法少女による効率的な戦術の構築』

『身体の欠損の回復を行わずに済む魔法を応用した義肢の製造』

『肉体の損傷が激しい者とジェムとの接続を強制的に切り離す方法の発見』

『一つの街全体に影響をカバーする広大な結界魔法の理論の提唱』

『魔獣追跡の手順を簡略化し、さらに効率化を図れる魔法を用いたアプリの発明』

これらはすべて彼女たちの功績による物だ。
他にも、ソウルジェムの研究から派生した『魔女文字』あるいは『魔法言語』の発明などはキュゥべえにも衝撃を与えている。
見てくれはただの模様でしかないのだが、存在を知っている魔法少女がそれを読めば文字として機能する仕組みだ。

マギカ・カルテットでも『墓』や目印などに用いられているし、
ニコが立ち上げたマギカ・コミュニティというネットのサイトでこれを使用しているため、
ネット環境を持つ魔法少女やチームとのインターネット間での情報の交換が容易になった。

模様にしか見えないので、一般人に怪しまれても解読される事は起こりえない。

この時代、自分が作ったフォントや文字をネットに利用する者は決して少なくないので目立たないし、
仮にこの文字の配列のパターンから文章の内容を読み解こうとする者がいたとしても、
魔法少女がどうのとか、魔法がどうのとかを、真に受ける者もあまりいないだろう。

『ソウルジェムの認識機能を解析して特殊な文字を作るなんて、想像以上だよ』——とはキュゥべえの言葉だった。


そんな聖団が誕生したのは、今からおよそ31年前に遡る。
プレイアデス聖団はとある一人の魔法少女と彼女に信頼を寄せる六名の魔法少女によって誕生した。

きっかけはこうだ。
当時その六人は己の心に負の感情や絶望を抱いていた。
わずかに発生した瘴気を魔獣が見つけ出し、少女たちに接触するのは避けようの無いことだった。
そして精力と魂を吸い尽くされ、六人が廃人になろうとしていたその時。

『デッド・オア・アライブ?』

とある魔法少女——巴マミと佐倉杏子に並ぶ有名な魔法少女である和紗ミチルが颯爽と現れた。
彼女は乱暴ながらも確実な方法で六人に生きる活力と勇気を与え、魔獣を撃破して見せた。

救われた六名はそのまま魔法少女となり、とある魔法少女のために協力する事を決意。
そうして完成するのが七つ星の『プレイアデス星団』から取った『プレイアデス聖団』である——と。

彼女らは当初、偉大な目的を掲げていたわけでもなければ尊大な計画を練っていたわけでもなかった。
希望の魔法少女として活動できればそれで良い、一緒に話し合える仲間が欲しい。
そんな純粋な理由で行動を共にしていたのだ。

『魔法少女が七人行動なんて、わけがわからないよ』

彼女らは知る由も無かったが、これは魔法少女の常識として考えるとかなり異常な事態でもある。

今でこそマギカ・カルテットのような魔法少女のチームは珍しくないが、
当時はそんな思想や構想をキュゥべえに打ち明ければ馬鹿にされてしまうような時代だった。
互いの方針の違いや人間関係の難しさ、縄張り問題などで争うのが目に見えていたのだ。

彼女らが争わなかったのは、和紗ミチルの人徳のなせるわざと言う他ないだろう。

だからこそ、和紗ミチルが行方不明になった時、聖団は致命的に狂ってしまったのかもしれない。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「……里美がいなくなった時点で、あんたらはもう狂ってたのかもしれないね」

声のトーンを低くして、うなだれながら杏子は言った。
宇佐木里美——七つ星の中で最初に導かれた魔法少女の名前だ。

「もう二十年以上も前になるね。最期を看取ったのはニコだったよな?」

「イエス」

「あの時から、あんたとミチルは二人でこそこそ何かを企んでたんだったね……」

里美の死——と呼べるかは分からないが——をきっかけに、ミチルはあることを思い付いたのだという。

それは魔法少女の穢れを吸ったグリーフシードをソウルジェムに見立て、
多くの魔法を重ね掛けすることで新たな肉体を造り出し、喪われた魔法少女に似た存在を“造り出す”という物だ。
人呼んで、“人造魔法少女”。あるいは“合成魔法少女”。

けれど、もちろんミチルがそれを実行に移すはずがない。

彼女は杏子が心から賞嘆を浴びせたくなるほどに立派な生と死の倫理観を持ち合わせていた。
あくまでそれ——合成魔法少女計画は、グリーフシードの応用という道楽の一環か何かだったのだろう。
つまりはくだらない暇つぶし、単なる興味本位での研究だ。

「次にサキが導かれたんだったか」

「『十年前』になるわ。あの年は、もう思い出したくもないわね」

海香の言葉に同意するように杏子とニコがうなずいた。

「あの年は魔獣の出現頻度が異常だった。ウチも二人やられたよ。立派に成長してたのにね」

「こっちは三人よ。サキも入れれば四人。私たちよりも人数が少ないのによく二人で済んだわね」

「あの時はマミもいた。中沢もまだいた。今は二人ともいないけど、代わりに希望も見つけた」


なにそれ、というニコの表情を杏子は無視して話を続ける。

「そしてミチルが消えた。もう八年前だ。計画が本格的に始動したのもその頃だったか?
 次にみらいが消えて、計画自体が立ち消えたって噂と、一向に進んでいないって噂を聞いたことがある」

「それは間違い。実際は計画は水面下で進んでいる。——だから私たちはここにいる」

魔法で作り出した身体を自分たちのソウルジェムで動かす事で、研究を推し進める。
実際に動かして浮かび上がった問題点はその都度修正し、痛みに耐え、苦しみを堪えて。
そして手に入れた。新たな器を。
少なくとも、見滝原市にやってきて杏子を挑発する余裕がある程度には安定したのだろう。

時間の問題は解決されたのだから、あとは確実に研究を推し進めれば良い——ならば、と杏子は尋ねた。

「だったら、なんで私のところに来た。グリーフシードの数を聞いたのは何故だい?」

「肉体が万全でも、ソウルジェムは話が別よ」

そこまで言って言葉を切ると、海香は紅茶に手をつけた。
さっさと飲んで話をしろ、と続きを促す杏子の視線に、今度はニコが応える。

「聖団は現在、全部で18人いる。
 十代が7人と二十代が6人。三十代が2人。私たちが3人の18人。
 みーんなミチル大好きだから研究には協力してくれるけど——ぶっちゃけ浄化が追いつかないんだよね」

今度こそ、杏子は本当に呆れたように溜息を吐いて天を仰いだ。
吐き出す言葉は短くド直球。

「あんたら、バカだろ」

「うん、褒め言葉だね。そんでいくつ持ってるのかな?」

ん? とイライラする表情を浮かべるニコに、杏子は視線を逸らして考え込む。

(ここまで訊き出しておいて、答えないのはフェアじゃないね……)


「≪小型≫が200と≪中型≫が100。合わせて七人分だよ」

目を丸くする二人と、その反応を見て意外そうに首をかしげる杏子。

「そんなに多かったかい? これくらいならべつに——」

「違う、違うわ杏子。私たちは多かったから驚いているんじゃないわ」

「予想よりも少なかったから驚いているんだな、これが」

そういうことか、と杏子はうんうんと頷いて納得する。
確かに、これは少ない。
“三十年掛けて”これでは、少なすぎる。

「……二年前に消費し過ぎたんだよ。
 マミもいないし、私も“戦わせてもらえない”から他の子の負担が増えてるんだ。悪かったかい」

「悪くはないけど……ちょうどいいわ。杏子、私たちのところに来なさい」

「はぁ!?」

突然すぎる提案だった。
てっきり『関係ない』とか『譲ってくれ』とか『殺してでも奪い取る』といった反応を覚悟していた杏子にしてみれば、
その反応は予想外という他にないだろう。

けれども今度は海香が口をぽかんと開けて、予想外ね、といった表情を浮かべた。

「どうしてそんなに驚くの?」

「どうしてって……当たり前じゃないか、何考えてんだいあんた」

「あなたこそ、何を考えているの?」

「何って……」


海香は疑わしい目で杏子を見つめてから言った。

「まさか、まだ『アレ』をどうにかできると本気で思っているの?」

杏子は反論しようとして、言葉を詰まらせた。
たくましい彼女の顔に、じわじわと憂いのそれが帯びていく。
言葉を返したくとも返せない、なぜなら彼女の指摘は正しいからだ——と杏子の様子がそれを如実に語っていた。

「≪大型≫の魔獣は倒せない、なんて教育してるわりに、本人たちはヤル気満々みたいだね」

「『一番目のマギカ・カルテット』……正確には『二番目のマギカ・カルテット』だったかしら?」

その質問に杏子が答えないでいると、海香は無視してさっさと話を続けた。

「たしか巴マミと二人で『アレ』をどうにかしようなんて考えてる時に、
 変わり者だけどやたらと強い子が二人加わってそれが出来上がったのよね。それで頑張って対処を試みた、と」

忌々しい、と杏子は無意識のうちに握り拳を作る。
海香は愉しげな表情のまま、しかし表情とは裏腹に淡々とした声で続けていく。

「結果……一人が脱落、一人が行方不明。それと同じことをまた繰り返すつもりなのかしら。
 あの時からコツコツと蓄えたグリーフシードはたったの七人分で、戦力は全盛期の半分以下なのに?」

「三十年続いたマギカ・カルテットもこれでおしまいだねぇ。感慨深くなるな」

「あなたたちの三十年分のノウハウとグリーフシードを無駄にはしたくない。
 杏子、考え直してくれない? こんな街は見捨てて、私たちの下に来ましょう?」


目を閉ざすと、杏子は考え込むような仕草を見せた。
両手を組んで、指で甲を叩き、眉をひそめ、ときおり声にならない呟きをもらす。
それを黙って観察するニコと海香。
彼女たちの視線を肌で感じ取ったのか、杏子は顔を隠すようにうつむいた。

一分ほど時間が経ってから、杏子は観念したように瞼を開いた。

「答えは、ノー、だ」

がっかりしたような海香と、やっぱりね、という表情のニコ。
そんな対照的な二人に向かって微笑を浮かべると、杏子は頭を下げた。

「マミと一緒に決めたんだよ。やるって、さ。
 見滝原からしてみれば、私はよそ者でしかないけどさ」

それでも、と杏子は笑った。
限界を分かっていながら、それでも抗おうとする者が放つ自嘲めいた笑みだった。

「あの子たちは付き合ってくれないかもしれない。
 もしかしたら私一人だけになるかもしれない。でもやれるだけのことはやっておきたいんだ」

「それで死ぬのね」

「ぶん殴っておきたいヤツが二人いる。そいつらを殴り終えるまでは絶対に死なないよ」

同情するような視線を向けてくる海香に、杏子は寂しそうに目を細めた。
交渉は決裂だ。
二人はおもむろに立ち上がると、庭へ向かって歩き出した。杏子もその後を追う。

「残念ね。もう少し利口だと思っていたわ」

「でも、ま、予想はしてたこと。合成魔法少女計画は身内でゆっくり推し進めればいいだけの話。
 でも勿体無いね。グリーフシードを使えば、合成魔法少女として“存在しない者”も呼び出せたのに」

「そんなの呼び出してどーしろってんだよ……?」


「合成魔法少女——最高の響きだと思うよ、私は」

どこか恍惚としたニコの言葉を聞いて杏子は目を細めた。
何かを探るような視線をニコに送る。
しかしニコは気にした様子も無く、さっさと庭に躍り出た。

「さようなら、佐倉杏子」

「バーイ、マギカ・カルテット」

二人はソウルジェムを取り出して輝かせると、瞬く間に変身した。
その二人に向かって、杏子は最後にもう一度、海香に声を掛ける。

「海香、私はあんたのこと、そんなに嫌いじゃなかったよ」

「私もよ」

嘘吐けと苦笑を浮かべ、次にニコを見て、

「ニコ——あんた、いつからそんなに合成魔法少女に拘るようになったんだい?」

疑問を投げかける。
ニコは複雑な表情のまま、さあね、と首を振った。
次の瞬間、目の前から二人の姿は消えていた。

魔法を使った短距離テレポートかもしれないな、と杏子は考える。
肉体を構成する物質を魔力の塊に変換すれば理論上——ミチルとニコの提唱する理論だが——は可能のはずだ。

昔は痛覚を遮断することすら頑なに拒んでいたというのに。
やっぱり人間は変わるもんだね、と杏子は寂しそうに独り言を呟いた。

同時に、かさっ、と足元で音がする。
それまで姿を消していたキュゥべえが、杏子の足元に擦り寄ってきていた。


のろのろと足元に付きまとうキュゥべえを見て、杏子は鬱陶しそうに鼻を鳴らす。

「あんたはどこに隠れてたんだい」

《隠れていたわけじゃないんだけどなぁ》

よく言えたもんだと杏子は感心して首根っこを掴んだ。
文句を言うキュゥべえを無視して外に放り投げようと構えて、杏子は動きを止める。
感情を宿さぬ赤い相貌が、何かの意思を宿したように杏子の顔を覗き込んでいた。

杏子は顔の前にキュゥべえを持ってくると、じっと真正面から彼の顔を見つめた。

《どうしたんだい杏子。やっと僕の可愛さに気づいてくれたのかい?》

「そういうくだらない冗談はどこで覚えてくるんだ?」

《僕らもきみたちとの関係を円滑に進めるように努力しているからね。今のはお決まりのジョークだよ》

「それはいいから、何か言いたい事があるんだろ? さっさと話しな」

《そうだね。“カンナ”から伝言だよ》

「なんだって?」

驚く杏子に向かって、キュゥべえは立て続けにこう言った。


《『赤いリボンの伝説。仮にそれが本当の話だとするなら、それはもうこの街に来ているよ』だってさ》


——鈍器か何かで殴りつけられたように、杏子の身体が大きくよろめいた。
もちろん実際に殴られたわけではない。
ただ、キュゥべえの放った言葉はそれほどまでに彼女を動揺させた。
忌々しげに唇を噛み締めて、やがて杏子は大きく舌打ちをした。

二階で聞き耳を立てていた一人の少女がびくっと肩を震わした事など、杏子には知る由もない事だった。

以上です。

三十年後、かずマギの連中は何をしてるのかっていう自己満足みたいな内容でした。
ミチル除けば聖団はかずマギの順番通りに脱落していってます。ニコ里美サキみらい……うん?うん!

あと杏子ちゃんの身長はポニテ盛含めて170前半ですすいません
含めないとギリ170前後でが、まぁ年齢的にそろそろ縮むんじゃないですか(適当)
そんじゃ失礼しました


春と呼ぶには暖かすぎて、
夏と呼ぶにはまだ物足りない、
季節の間のあいまいな、見滝原の夜。
二人の少女が、街灯に照らし出されながら人気の無い路地を歩いていた

「ねえ」

「ん……なんだい?」

後ろをついて歩いていた少女の言葉に、先を行く少女のが返事をした。
彼女は肩を並べようと少しだけ歩くペースを落とし、歩調を揃えて耳を傾ける。
その仕草を見て、先に言葉を発した少女がくすりと笑みをもらした。
年齢相応の幼いくもどこか優しい笑い方だった。
例えるなら、妹を見つめる姉や娘を見守る母のそれだ。
耳を傾けた少女はその笑みを受けてわずかにたじろいでいる。

「な、なんだよ。気味が悪いじゃんかよ」

「べーつにぃ? なんか犬みたいだなーって思っただけ」

「はぁ!?」

妹でもなく娘でもなく、犬。ペット。畜生。二重の意味で畜生。
少女はそのぞんざいな扱いに不満げに肩を落としてそっぽを向いた。
まるで飼い犬がご褒美をもらえなくて落ち込んでいるような仕草に、またも笑みをもらす。

「ごめん、今のは冗談。拗ねないでよ」

「べつに拗ねてないし」

「拗ねてるじゃん」

「拗ねてない!」


そんなやりとりを何度か繰り返した後、最初にからかった少女がやれやれとかぶりを振って溜息を吐いた。

「はいはい、じゃあ拗ねてないってことでいいからさ、話の続きしてもいい?」

先に話の腰を折ったのはどっちだよ……という恨めしそうな視線を笑って受け止めると、少女は真顔になって前を見た。
すぐ右手前の街灯に照らされて、彼女の表情が輝き、同時に影が差す。
元気で明るい彼女には不釣合いな、ミステリアスかつシリアスな雰囲気に、並んで歩いていた少女が気圧される。

「あんたはさ、マミさんの考えに反対なの?」

その質問に、少女は沈黙で応えた。
沈黙には沈黙をと、質問をした少女も沈黙を貫く。

しばらくの間、二人は言葉を交わすことなく歩き続けた。
音を立てずに歩いて、パイプが露出している異様な裏路地へと足を踏み入れる。
近代化と独特な美術センスが目立つ見滝原でもひときわ異様なそこは、どこか異界じみていた。

すぐ手前のパイプから、カン、と甲高い金属音が響いて、湿った空気を伝わり広がっていく。
風が唐突に吹き始め、砂埃が宙を舞い、そばにある室外機のファンが回転し始めた。
魔法少女の天敵——魔獣の気配を孕んだ瘴気に当てられて、二人の少女が身構える。

ごくり、と喉を鳴らす音がする。果たしてそれはどちらが鳴らしたものなのか。
それが合図とでもいうように、先ほどの質問に沈黙を返した少女が口を開いた。

「アタシはべつに反対してるわけじゃない」

「……そうなの?」

「アタシは分が悪い賭けが嫌いなんだ。だってそうじゃん?
 下手したらアタシもあんたも、マミも、あいつもお陀仏じゃんかよ。正気の沙汰じゃないっての」

付き合っていられない——そう告げる少女の横顔には、確かに呆れが見えた。
それは彼女の隣を歩く少女に対する物でもあり、また自分自身に対しての物でもあった。

彼女を嘲笑うように、風は勢いを増していく。


「あたしとマミさんと、あんたとあの子。四人で一つのチームでも組もっか」

「……なんでそーなんのさ?」

突然の提案に呆れるどころか若干引き気味の少女。
けれども提案した方は真面目な顔で頷き、決心する。

「あたしたちがアタッカーで、マミさんとあの子が援護!
 シングルダブルの次のトリオの次のトリオの……なんだっけ?」

「カルテットだろ」

「そうそれ! ね、良いでしょ?」

「あんたさ、そろそろ会話のキャッチボールってやつを覚えてくんない?」

なんで? と不思議そうに首を傾げる少女に、盛大な溜息を吐く相手。
どうして呆れるのか分からないなぁ、と少女は手のひらを掲げた。
その上に乗るのは、青い宝石。彼女の魂。

「この四人なら≪大型≫の魔獣だってやつだって怖くないじゃん?」

「はぁ?」

「ああもう、鈍いなぁ。あたしはあんたを口説いてるの!」

正気を疑うような視線を受けながら、彼女の体は青い輝きに包まれた。
光が収まると、少女の服装は一変している。
白いマントを身に着け、青と白の混合したラフな装備と一振りのサーベルを手に持つ姿はさながら軽装の女剣士だ。

「希望と絶望のバランスは差し引きゼロだって——いつだったか、あんた言ってたよね」

それは間違いじゃないよ——そう語る少女の横顔に、赤毛の少女の目線が釘付けになる。


「確かにあたしの心には恨みや妬みが溜まった。
 “いちばんの親友”の仁美だって——遠ざけちゃった。
 だけどその分あたしは『誰かの命を救った』し、そのことに『誇りを持ってる』んだ」

他の誰かを呪っても、他の誰かの幸せを願うことで他の誰かを救うことが出来る。
それが魔法少女という存在だ。

恨みや妬みが溜まりきって、苦しんで、絶望したとしても。
それが他の誰かを苛む事は絶対に起こりえない。
秋霜烈日の日々を潜り抜けた先で、魔法少女は必ず報われる。
それは死のようで死ではない、終わりであって終わりではない、導きという名の救済によって。

「あたしたち魔法少女ってさ、そういう仕組みなんだよ。
 絶望で終わったりなんてしない。最後の最後まで、希望を捨てずに頑張れるの」

凛然と語った青の少女は鋭く研ぎ澄まされたサーベルを構えて歩き始めた。
彼女の服とマントが起こす衣擦れの音を聞いて、片方の少女も慌てて後を追いかける。

「けっきょくさぁ、質問の答えになってないんだけど」

「あーもう! せっかく格好良く決めたんだから察してよ、あたしはあんたと一緒に頑張りたいって言ってんの!」

二人が一緒なら——否、四人が一緒ならどんな障害だろうとなぎ払って見せる。
そう宣言した彼女を見て、少女は笑うような呆れるような、複雑な笑みを浮かべた。
青の少女に倣うように彼女もソウルジェムを輝かせて変身する。

「あんたってホントバカだねぇ。——ま、バカに感化されるアタシもバカだけどさ

 仕方ないから付き合ってあげるよ。
 四人ならもしかしたら≪大型≫だって倒せるかも知れないわけだしさ」

「ほんと!? さっすが杏子、あたしの見込みどおりだわー」

「でもその前に今日の魔獣を片付けちまうよ。この分だと魔獣は駅のホームまで続いてそうだしね」

「もっちろん! さやかちゃん頑張っちゃいますからねー!」


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


そして明日の世界より——


「え?」

かすかな声を拾って、わたしはとっさに聞き返した。
だけど彼女は無言でうなずき、墨のように黒いおさげの髪を手でいじった。
わたしが肩をすくめて隣に座っているあんずちゃんを見ると、あんずちゃんも不思議そうな顔で首を傾けた。

『意味、わかる?』 と、わたし。

『わかんない』と、あんずちゃん。

うーむ、と首をひねって、わたしはこの部屋を——友達の部屋を訪れてからの出来事を思い返す。



——あんずちゃんを連れて友達の部屋を訪れたわたしたちは、玄関で3,40秒ほど待たされることになった。
来客用の格好をしていないから……と言う理由らしい。

ふたたび姿を見せた彼女は、瞳の色と同じ空色のワンピースを着ていた。
あまり日の光を浴びていないせいか、あるいは生まれつきの体質なのか、彼女の肌はとても白い。
わたしは無意識のうちに彼女の右肩に目をやった。

白い右肩に深く刻まれた痛々しい古傷を直視してしまい、申し訳なくなってとっさに目を伏せる。

とはいえ、いつまでも伏せていてはかえって気を遣わせてしまう。
わたしはすぐに面を上げて彼女ににっこりと微笑みかけた。
彼女も同じように微笑み返してくれた。
肩に少しだけ届くおさげの黒い髪をささっと手櫛で梳き、どこか期待したような上目遣いでこちらを見る。

その意図を察して、すかさずぐっと親指を立てる。
彼女は照れくさそうに笑うと、わたしたちを部屋に案内してくれた。


「……珍しいね、衣服に気を遣うなんて」

と、小声でわたしが問いかけると、

「……さいごくらいは、ね」

と、苦笑しながら彼女は答えた。
さいご? どういう意味だろう?
そんなことを考えながら部屋に足を踏み入れて、わたしはきょとんとした。
彼女の部屋が、先日訪れた時よりも少し片付いて見えたからだ。

「あれ? お掃除でもしたの?」

「ちょっとだけね」

布団のしわはきちんと伸ばされているし、
デスクに置いてある小さな機械——おそらくはずっと昔の携帯電話——も整頓してある。
もとより部屋を散らかす方ではないし、それほど物があるわけでもないのだけれど、
だからと言ってこまめに部屋をきれいにする性格でもないので、珍しい。

心の中で妙な違和感を抱きながら、わたしとあんずちゃんは彼女に促されてベッドに座り込んだ。

「なにか飲む? オレンジジュースとウーロン茶、それと牛乳があるけど」

「あんずちゃんは何が飲みたい?」

「オレンジジュース!」

「じゃあわたしもそれで」

「はーい、ちょっと待っててね」

小さな冷蔵庫へ向かう彼女の後姿を見る。
その足取りは軽く、いまにもスキップをしそうな勢いだ。

今日はやけに親切だなぁと思ってしまうのは、ちょっと失礼かな?


——そうして、最初に戻る。

いまはベッドに座って人心地着いているところだ。
手の中にはあの子が出してくれたオレンジジュースのグラスがある。
わたしはあまり飲んでいないけど、あんずちゃんは三度もおかわりしていた。

まだ小さなあんずちゃんには、慣れない遠出はかなりの疲労になっていたようだ。
もっとよく注意して様子を見るようにしよう。心の中で人知れず決心するわたし。


それはともかく。


さっきのひとりごとは彼女の態度となにか関係があるのかな?
あまりこういったことを詮索するのはダメだけど……と、あごに手を当ててぐるぐる思考をめぐらしていると、

「それで、どんなお話をしよっか?」

彼女が話題を求めて声を掛けてきた。

「え? あー、うん、そうだね……」

視線を宙に漂わせて話題を探すも、それより早くあんずちゃんが声を上げる。

「おねえちゃんはどうして魔法少女になったの?」


……魔法少女になった経緯。


それは禁句(タブー)というほどではないが、おいそれと聞いて良いものではないとも思う。
シスターの話を聞いた後だから、なおさらだ。

わたしを除いた魔法少女のほとんどが心に闇を抱えている。
願いを叶えてしまったという後悔。魔法少女になってしまったという後悔。
願いを叶えなければならなかった当時の状況。思い出したくないトラウマ。
それは人それぞれ、十人十色だけれど……


あのマミさんも同じような物を抱えていたらしい。
らしいというのは、それなりの理由がある。
それは、あの人がわたしに語ってくれたときに『昔は』という言葉が付け加えられていたからだ。
マミさんはそういったトラウマや辛い過去を乗り越えたのかもしれない。

でも……杏子さんも、犠牲になった人も、マギカ・カルテットを離れていった魔法少女の人たちも。
進んで願いを打ち明けてくれる人はほとんどいなかった。
八年前に会ったミチルさんはそうでもなかった……かな?
昔なので、ちょっと記憶があいまいだけど。

「あんずちゃん、それは……」

だからそういう質問はダメだよと、とっさに注意をしようとしてわたしは口をつぐんだ。
あんずちゃんの質問を受けた彼女が、わたしを制するように片手を挙げたからだ。

彼女だって例に漏れないはずだ。
そんな簡単に、魔法少女になった経緯を説明できるはずが——

「いいよ、教えてあげる」

軽い返答にガクッと腰が砕けるわたし。

「いいのっ!?」

「うん」

「わたしの懸念って……」

「え?」

なんでもない、と首を振って続きを促す。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

新しく用意されたグラスと、それに満たされたグレープジュースの中で浮かぶ氷がカランと音を立てる。
あんずちゃんはごくごくと勢い良く四杯目のジュースを飲みながら、じっと一点を見つめた。
その先にあるのは、パソコンの前に置かれた椅子に腰かけるわたしの友達の青い瞳。

「私が魔法少女になったのは、いまから三年位前になるのかな」

なんでもないように放たれた言葉に、わたしは目を丸くした。
彼女と行動を共にするようになったのが二年前なので、その頃に契約したのだとばかり思っていたのだ。
わたしの驚きを察してか、彼女はかすかに眉尻を下げて笑った。。
続く言葉は、わたしに向けてのフォローだった。

「マギカ・カルテットと合流したのは二年前だから、もしかしたら誤解させてたかな?
 その頃に佐倉さんと巴さんと出会って、いろいろあったんだ。ごめんね、伝えるのが遅くなっちゃって」

だいじょうぶだよ、と笑みを浮かべてわたしは続きを促した。
彼女はうなずき、真剣な眼差しで自身を見つめるあんずちゃんの方を振り向く。

「……でもね? 契約したのは三年前だけど、キュゥべえと出会ったのは六年前なんだ」

「どうしておねえちゃんはすぐに契約しなかったの?」

「悩んでいたって言うと、聞こえは良いかな。
 キュゥべえとお喋りしながら、いろんなことを調べてたの」

「いろんなことってどんなこと?」

「魔法少女の事とか、かな。
 私を助けてくれた恩人さんのことが気になったんだ」

「恩人さん??」

「……ああ、時系列順にお話した方がいいよね。じゃあちょっと長くなるけど、それでもいいかな?」

「うん!」

——こういう時にすらすら質問出来るのは、この子の長所かもしれない。

一歩間違えれば無神経扱いされそうだけど、この子はまだ子供だ。それに可愛い。
素直にうなずくあんずちゃんを見て感心しながら、わたしは友達の話に耳を傾けた。


「だから、昔の私はあんまり健康的じゃなかったかな。
 そんなある日、私はお父さんと一緒にお出かけしたんだ」

「お出かけ?」

あんずちゃんの問いかけに彼女は頷いた。

「外に出ない私を気遣ってくれたんだと思う。
 平日なのに遊園地に連れて行ってくれたんだ。それも二日連続で!
 いろんな乗り物に乗ったけど、いちばん楽しかったのはメリーゴーランドかな」

ふわぁ〜!と憧れを隠さずにいるあんずちゃんを見て、わたしと彼女はくすりと笑った。
今の生活に慣れたら連れて行ってあげようと、内心で決心する。
彼女の話は続く。


「たぶんだけど、外に出ないからかな?
 それで普通の人よりもたくさん楽しめたんだと思う。
 人目なんて気にしないで私は思う存分はしゃいだよ。
 ……本当はね、そういうのは私には疎遠の世界だって妬んでたんだ。
 だけど同じくらい憧れていた世界でもあって、そこにはそれが広がってて、すっごく興奮した」


わたしはその話を聞いて、ひとり頷いた。
彼女はわたしに似ている。

杏子さんとマミさんに拾われて、魔法少女として生きる事を選択したわたしには学校なんて縁が無い。
それでも未練を捨て切れなくて、同い年の子に嫉妬と憧憬の入り混じった視線を向けてしまう。

そんなわたしに、彼女は似ているのだ。


「その帰り道にお父さんと話した事は、今でも良く覚えてるよ。
 ……今日は本当に楽しかったね。また行きたいね。今度はお弁当も持っていこうね——って。うん。覚えてる」

息吐くと、彼女は表情を消して、底冷えするような声で言った。


「それが、お父さんと交わした最後の会話だったから」


その会話の直後に起きた交通事故で、彼女の父親は他界したのだという。
つまり彼女のパソコンは彼女の父親の“形見”なのだ。
右肩の傷も、その時に出来た物らしい。

六年前の交通事故というワードが妙に引っかかったけれど、
わたしはその疑問をむりやり振り払った。

沈むような表情の彼女にかける言葉を必死に探して、
けれども、ついぞ言葉は見つけられず。

「……体が苦しくて、右肩が熱くて、自分がどうなってるかも分からなくて。
 だけど必死に手を伸ばして、煙の中でなんとか目を見開いて、私は見たの」

彼女はわたしの瞳をまっすぐに捉えて、はっきりとした声で続けた。

「何かが焦げる臭いと黒煙を押しのけて、その人は私の目の前に現れたの」

一体誰なのだろう?
わたしの疑問は、すぐに解消された。
大きな驚愕とともに。


「——その人は、魔法少女だった。黒い髪、紫がかった服装。凄そうな雰囲気で」


「……赤いリボンを、髪に結んでいたわ」


息が止まる。止まった。
その瞬間、確かにわたしは呼吸を忘れて、頭の天辺から足の爪先まで動かせずにいた。
たぶんだけれど、思考を行うことすらも忘れていたと思う。


はっきり言って、わたしには彼女の言葉が信じれられなかった。


魔法少女がささやく噂。
架空の伝説の『赤いリボンの伝説』……
あるいは『黒い魔法少女の伝説』。
それら二つの伝説と、彼女の見た魔法少女の外見は、
あの日わたしのことを助けてくれた魔法少女のそれにおおよそ一致している。

でも架空の伝説は架空の伝説でしかない。
第一、六年前に彼女が見た人物がわたしが見た人物と同じかどうかなんて保証はどこにもない。
背が伸びるか、髪が伸びるか。同一人物だとしても、私と同年齢に見えるはずがない。
何らかの要素は変わるはずだ。
それに六年も前の事だ。
記憶だって多少は曖昧になっているに違いない。だから、気のせいだと、そういうことで……

……どうしてだろう?

……わたしが必死になって考える必要はないし、否定する理由もまったくないはずなのに。

……どうしてこんなにも気になるのだろう?

硬直から復活したわたしは、胸の鼓動が高鳴るのを抑え切れなかった。
分からない。何も分からない。
胸がぐしゃぐしゃに掻き回されるような嫌悪感。座っているのすら辛くなるような倦怠感。

頭の中を、断片的なイメージが駆け巡る。
赤いリボン。黒い髪。女の子。ソウルジェム。雨。街。優しい瞳。赤いリボン——赤いリボン?


「それでおねえちゃんはどうなったの?」

あんずちゃんの言葉が耳に入って、わたしの意識は急速に現実に呼び戻された。
かぶりを振り、話の続きに聞き入るために集中する。

「その人に抱えられたところまでは覚えてるんだけど、記憶があいまいなんだ。
 気づいたら病院のベッドの上で、あとはもう……どうだろ?
 ちょっと思い出したくないかな。色々と、辛くなるから」

「無理に話さなくてもいいよ……あんずちゃんも、良いよね?」

「うん!」

元気な返事を聞いて、わたしと彼女はまた笑った。
胸の中を渦巻いていた嫌悪感や、体を支配していた倦怠感は、もう消え去っていた。

「退院してから、ずっと部屋に引きこもってたんだ。
 キュゥべえと出会ったのはその時かな。
 窓辺に彼が立ってるのが見えて、つい話しかけたの。
 彼は不思議そうな顔で『その素質で僕が見えるのは珍しいね』って……色々、教えてくれたよ」

溜息を吐くと、彼女は軽く伸びをした。
それほど長く話していたわけではないが、話題が重いためにそれだけ神経を使ったのだろう。

わたしはまだ中身の残っているジュースのグラスを彼女に差し出した。
ありがとう、と言って受け取る彼女。
少しだけ口をつけると、彼女はふたたび話し始めた。

「……それからずっとキュゥべえとお話してたかな。
 ようやく契約する気になったのが、今から三年前。
 さて、あんずちゃん。契約した時の願い事、気になる?」

「うん!」

すうっと肺に息を溜め、彼女はその言葉を口にした。


「わたしの願いはただひとつ。あの思い出を閉じ込めて」


詩的な表現に戸惑うあんずちゃんとは対照的に、わたしはそうか、と頷いた。
彼女の願いが何なのか、うっすらとだけど察することが出来た。

「あなたは、パソコンをそのままにしておくことを願ったの?」

ぱちぱちぱち、と彼女は大げさに拍手した。
パソコンの方を振り向き、その外装を労わるように優しく撫でる。

「なにせ30年以上前の年代物なんだもん。
 今のインターネットに接続するのも一苦労だよ。
 お父さんがいなくなったら私しか手入れしなくなっちゃったし……ね」

彼女はパソコンから手を離すと、かすかに首をかしげた。
話を飲み込めていないあんずちゃんを見て、よしよしと頭を撫でる。

「ようするにね、おねえちゃんは『宝物』の『保存』を願ったんだ」

「宝物の保存……」

「そう。あんずちゃん、なにか大事な物はある? 大切な人はいる?」

あんずちゃんは少しの間考え込んでから、躊躇うように小さな声で言った。

「ママ……それにパパも」

「そっか。じゃあそれがあんずちゃんの『宝物』だね!」

にっこり笑うと彼女はもう一度あんずちゃんの頭を撫でた。
そしてわたしの方を見て、意地悪そうな笑みで言う。

「あなたはどう? 大事な物はある?」

「わ、わたし?」


大事な物……どうだろう?
杏子さんは大好きだし、シスターも薔薇を好きなあの子もお菓子が好きなあの子も大好きだ。
目の前にいる彼女も、『夕方に会うおばさん』も。
みんなと住んでいるアパートも大事だ。今という時間も大事だ。
それに——赤いリボン? ちがう、ちょっと落ち着こう。それは今の話とは関係ない。

「うーん多すぎて分かんないかなぁ、ごめんね」

「いやいや、大事な物がたくさんあるのは良いことだと思うよ?」

ちがうの、と首を横に振る。
大事な物を絞れないのは、わたしの心が弱いからだ。
もっとわたしの心に折れない芯が通っていれば、違う答えも弾き出せたかもしれない。
わたしは中途半端だ。

「それがあなたの魅力だと私は思うけどなぁ」

「……そうかな? なんか格好悪くない? そういうのって卑怯というか、ずるい気がして……」

「ひきょうでも、ずるくても、良いじゃない。
 完璧な人間なんていないんだから、だいじょうぶだよ」

「おねえちゃんは良いひとだよ!」

うう……優しいなぁ二人とも。
思わず胸が熱くなる。
すぐに乗せられるわたしってもしかして凄い単純なのかな?
それでも、誰かに認めてもらったり、励ましてもらえたりするのはうれしいかな……


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

それから一時間ほど世間話や体験話などをした。
マミさんの勇姿をあんずちゃんに語ってあげたり、杏子さんのお茶目な部分を教えてあげたり。
彼女の得意なインターネットの知識や、
マギカ・カルテットの歴史を簡単に説明してあげたり。

あんずちゃんはどの話もちゃんと聞いて、素直に受け止めてくれた。
そんなあんずちゃんが可愛くて、ついつい撫でちゃうこともあって……って、それはいいかな?

「ん……もうこんな時間か。大丈夫? 佐倉さん、怒ってるんじゃない?」

「あっ、そういえば……!」

慌ててスティック状の携帯電話を取り出すと、画面を拡大表示させて着信履歴を確かめた。
……着信三件、いずれも杏子さんからだ。
サイレントマナーにしてるせいで気付けなかったのだろう。

「キョーコ、怒ってるの?」

「角生やしてるかも……」

「キョーコ、すっごくこわい……?」

「まあまあ、佐倉さんだって鬼じゃないんだから。じゃあ今日はこの辺にしておこっか」

彼女は椅子から立ち上がると、ずいっとわたしに向かって手を差し出した。
手のひらの上には小型の機械——USBメモリが置かれている

「これは?」

「おみやげ。マインスイーパーが入ってるよ」

「それ、つまらないんじゃなかったっけ……?」

「まあまあ、何か悩み事があったらプレイしてみてよ。つまらないけどね」


つまらない物ですがと贈り物をする光景は良く見かけるけど、うーん……
苦笑いしながらも、わたしはそれを受け取る。つまらなくても、彼女の思い出の品だ。拒むのは失礼だろう。

「玄関まで見送るよ」

「わざわざありがとう、今日は突然押しかけちゃってごめんね」

「いいよ。助かったから」

「……? あ、そうだ」

あんずちゃんを連れて玄関へ向かう途中で、わたしはシスターのことを思い出した。

「シスターが心配してたよ。それと、私は避けられてるって。そんなことないよね?」

「心配って……あの人が?」

彼女は青い瞳を丸くして口に手を当てていた。
すぐに手を下ろし、嬉しそうな、寂しそうな、曖昧な表情を浮かべる。
真意は分からないけれど、邪険にしていない事だけはよく分かった。

「あの人にお礼を伝えておいてくれるかな? 願ってくれてありがとうございましたって」

「……願ってくれてありがとう?」

「たぶん意味は通じないだろうけど、伝えておいてくれればそれで良いんだ」

彼女なりの事情があるのだろう。
わたしは深くは詮索せずに了承すると、扉を開いて外に出た。

「じゃ、さようなら」

部屋の中から手を振る彼女に、わたしもあんずちゃんも同じように手を振り返す。
扉が閉まる。


わたしが彼女の言葉を本当の意味で理解するのは、ずっとずっと先のことになる。
その時にはもう、何もかも手遅れなのだけれど。

いじょうです

次回から過去パート無しの一本道+始点変更が無くなるので読みやすくなる……はず
次の投下は三日以内に必ず。それでは

改めて読み返すと、ギャグが少ないなぁとか思ったり思わなかったり
……サボテンが花をつけている

投下します


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

夕方のおばあさん改め織莉子さんと別れたわたしたちは、あんずちゃんグループと合流を果たした。
それから簡単に各自の成果を発表し合い、グリーフシードを一つにまとめた。
そして杏子さんがいるであろう見滝原病院の敷地のすぐ手前まで来ていた。

「ホントに行くのー? 先に家で待つってんじゃだめー?」

病院の手前から先に進もうとするわたしたちと、キャンディを舐めながら渋る彼女。
現状を簡単にまとめるとそのような形になる。

「あたしって病院嫌いなんだよねー。カンベンしたいってゆーかー」

「……ここまで来て言う?……」

信じられない、と付け加えて若草色の髪を手で弄る彼女の隣でわたしは首をかしげた。
あの子が病院が苦手なのは家を出る前のやりとりで分かっていたけれど、どうしてそこまで躊躇うのだろう?
わたしも苦手だけど、いわゆる拒絶反応を示すほどではない。
もしかすると思い出したくないことでもあるのかな?

「ねねっあんずちゃん、飴玉あげるから味方になってよ」

「あんずはキョーコのとこに行きたい!」

「ぐぬぬ……裏切りものめー! でもかわいいから許しちゃうぞー!」

本当に悔しそうにあんずちゃんを睨む彼女を見て、わたしはちょっぴり笑った。
でも、無理強いさせるのはいけないことだ。
わたしと彼女がここで待って、他の二人に杏子さんを迎えに行ってもらおう。

その旨を告げようとすると、彼女は開き直ったように大股開きで病院へ歩き始めた。
彼女は呆気に取られるわたしたちを見て、素知らぬ顔で手を叩く。

「ほらほら、なにやってんのー! ちゃちゃっと用事済ませちゃおー!」

決めたら即行動出来るのって、けっこう凄い事かも……


門をくぐる途中で、わたしたちは親子連れの隣を通り過ぎた。
会話が聴こえてくる。

「あらあら、それでぶつかつたお姉さんにはきちんと謝りましたか?」

「もっちろん! 俺はママに似て素直だからさ!」

「まるで仁美だけが素直で私は素直じゃないみたいな言い方だな、ん?」

「パパも素直だよ! 音楽に関してだけだけどね!」

「酷い言われようだなあ。そんなことないだろう、なあ仁美?」

「うーん……でも、恭介さんってそういうところ確かにありますわよ?」

「ええ? まいったなぁ、ははは」

顔はよく見えなかったけど、とても仲の良い親子だと言う事はよく分かった。

良いなあなんて思いながら、わたしはふと隣にいる子たちの顔を覗き込んでみる。
あんずちゃんはわたしと同じ考えらしく、どこか羨ましそうに親子連れを目で追っていた。
その隣の子は知らんぷりして明後日の方向を眺めてる。
特に何の感感慨も抱かなかったのだろう。

前を行く彼女の表情だが、残念ながらわたしの位置からでは窺い知ることは叶わなかった。
でも普段どおりの様子なので、なんとも思わなかったのかも?
あの子の性格からすると花より団子だろうしね。

そんな当人に聞かれたら嫌な顔をされそうなほどにまこと失礼なことを考えながら先へ進む。


しばらく歩くと、わたしたちは二人組の女性の姿を見つけた。
一人は杏子さんだ。真っ赤なストレートの髪が夕陽を受けて燃えるように輝いて見える。
格好を付けて表現するなら、生命の炎? みたいな。

もう一人はまったく面識の無い女性だった。
その人の髪は——夕陽のせいで分かり辛いが——栗色で、ところどころに白が混ざっている。
外見だけだと織莉子さんと同じくらいに見える。
六十代だろうか。しかし織莉子さんが四十代だったので、見た目で判断してはいけない。

それにしても、とわたしは改めてその人を見つめた。
童顔で人懐っこい笑みを浮かべてる。人好きのする笑顔だ。
杏子さんと話してる姿は優しげで、おっとりした温和な雰囲気の持ち主なのだろう。

わたしたちが足を止めると、それまでポッキーを齧っていた彼女も足を止めてつぶやいた。

「あっちのおばちゃん誰かねー」

「キョーコのお知り合いさんかな?」

「……知らない。あなたは?……」

三人から期待の視線を浴びるも、わたしは否定の意味を込めて首を横に振る。

「わたしも知らないかな。とっても親しそうだけど……」

「やさしー人っぽそーだよね。まあ佐倉さん顔広いし、そりゃーいろいろあるかもねー」

「あ、キョーコこっちに気付いたよ!」

振り返ると、キョーコさんが肩をすくめて手招きしていた。
考えるのは後にして、キョーコさんのところに向かおう。


女性はにっこりと微笑んで自己紹介を始める。

「みんなは初めましてよね? 私は早乙女和子。
 ちょっと前までは見滝原中学の教師をやってたけど、晴れて定年を迎えて、今は老後を送っています」

「あれ、教頭や校長にはならなかったんですか?」

意外そうに尋ねる杏子さん。
そういえば口調が敬語だ。珍しい。
早乙女さんはその質問にうーんと難しい表情をして答えた。

「憧れはしたけど、やっぱり子供達に教えるのがいちばん私に向いていたのよねぇ……」

しみじみとつぶやく早乙女さん。
表情から察するに、これまでに経験した苦労と喜びを同時に思い出しているのかもしれない。
その顔や首に浮かぶしわは、わたしの何倍もの時間を生きてきた事をわたしに悟らせるには十分だった。
たぶん、杏子さんや織莉子さんよりもずっと長生きしてるに違いない。

早乙女さんはもうほとんど姿を消しつつある夕陽を遠い目で眺めたあと、
青白い光を放ち始めた街灯を見上げて声を漏らした。

「それにしても驚いたわ」

「はい?」

「まさかあの杏子ちゃんがこんなに立派になるなんてねぇ……」

むう、と苦虫を潰したような表情を浮かべる杏子さん。
そんな彼女とは対照的に、好奇の色を隠すことなく顔に出すわたしたち。

これはつまりそう。
好奇を満たす好機である(上手いことを言いました)。
わたしたちはちらっとアイコンタクトを交わした。

ファック!
今の無しで


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「——で? なにやってんのさ?」

半目の杏子さんに問い質されて、思わず後じさり。
それまでポッキーの端っこを齧っていたあの子が代わりに一歩前に歩み出た。

「佐倉さんのこと迎えに行こーと思ってさー。でもお話ちゅーだったから様子見」

「待たずに帰れば良いのに……ったく、子供が余計な気を利かせるもんじゃないよ」

わたしたちは揃って顔を見合わせた。
全員が苦い表情を浮かべている。でも余計なお世話だった事は否めないので何も言えない。
ほんのわずかな時間、気まずい空気が場を包もうとする。
けれどもそれよりも早く、杏子さんの隣に居た女性が空気を壊すように喋り始めた。

「この子たちは? 杏子ちゃんの娘さん? 四人も産むなんて凄いわねぇ」

「そんなわけないでしょう。預かっているだけですよ。ああでも——」

杏子さんは訂正するように、その言葉に付け加える。

「本当の娘のように想って育てていますけどね」

優しい言葉だ。
だけどそれは、同時にわたしの胸をちくりと刺す言葉でもあった。
その痛みを誰にも悟られまいと気丈に振舞い、女性に尋ねる。

「あの、あなたは……?」


女性はにっこりと微笑んで自己紹介を始める。

「みんなは初めましてよね? 私は早乙女和子。
 ちょっと前までは見滝原中学の教師をやってたけど、晴れて定年を迎えて、今は老後を送っています」

「あれ、教頭や校長にはならなかったんですか?」

意外そうに尋ねる杏子さん。
そういえば口調が敬語だ。珍しい。
早乙女さんはその質問にうーんと難しい表情をして答えた。

「憧れはしたけど、やっぱり子供達に教えるのがいちばん私に向いていたのよねぇ……」

しみじみとつぶやく早乙女さん。
表情から察するに、これまでに経験した苦労と喜びを同時に思い出しているのかもしれない。
その顔や首に浮かぶしわは、わたしの何倍もの時間を生きてきた事をわたしに悟らせるには十分だった。
たぶん、杏子さんや織莉子さんよりもずっと長生きしてるに違いない。

早乙女さんはもうほとんど姿を消しつつある夕陽を遠い目で眺めたあと、
青白い光を放ち始めた街灯を見上げて声を漏らした。

「それにしても驚いたわ」

「はい?」

「まさかあの杏子ちゃんがこんなに立派になるなんてねぇ……」

むう、と苦虫を潰したような表情を浮かべる杏子さん。
そんな彼女とは対照的に、好奇の色を隠すことなく顔に出すわたしたち。

これはつまりそう。
好奇を満たす好機である(上手いことを言いました)。
わたしたちはちらっとアイコンタクトを交わした。


「早乙女さん、その話はもういいでしょう」

自分を褒める話には弱いのか、杏子さんは深い溜息を吐いて早乙女さんの肩に手を置いた。
手を置かれた早乙女さんは怒られちゃったぁと、ちろっと舌を出した。
かわいらしい仕草に毒気を抜かれて杏子さんがまたも溜息。

「でも本当に良かったわ。あなたが元気そうで」

そう告げる早乙女先生の表情は、心の底から安堵したように穏やかな物だ。

「あなたの隣で泣きじゃくっていた子、マミちゃんだったかしら?
 二人を崩れた避難所で見つけたときはどうなるものかと……
 そういえばマミちゃんは元気? いまも昔みたいに一緒にいるのかしら?」

幾つか気になるワードを拾って、わたしはこっそりと心に留めておく。
そして杏子さんの表情をちらりと覗き見た。
杏子さんはわたし以外は誰も気付かないほどほんのかすかに、寂しそうに笑っていた。

「元気ですよ。もう泣き虫“少女”は引退して、立派な“女”になってます」

「そう? なら良かったぁ」

本当に嬉しそうな早乙女さんの顔を、あんずちゃんと杏子さんを除いたわたしたち三人は直視できなかった。
直視すれば、ボロを出してしまう。
せっかく杏子さんが気を利かせたのだから、そこに水を差してはならない。

そうだ。
杏子さんは説明を省きはしたけれど、嘘を吐いてはいない。

魔法少女『巴マミ』から、
円環の理に導かれて、
魔女『Candeloro』になったのは。

紛れも無い事実——つまり、本当の事なのだから。


「……ああ、そうだ」

思い出したように、杏子さんはスマートフォンを取り出した。
時間を確認して、ゲッ……と乙女にあるまじき台詞。乙女と呼んで良い年齢かどうかはさておくとして。

「あんたたち、悪いけど先に帰ってお米を研いどいてくれるかい?
 今晩はナスのしょうが焼きと味噌汁だからそっちの方の準備もしといてくれ」

「え? あ、はい」

「あんずがお米研ぐ!」

「じゃああたしがお菓子食べよっかなー」

「……薔薇の手入れは任せて……」

こらこら。
突っ込みを入れながら、わたしたちは当初の目的である杏子さんのお迎えを断念して帰ることに。

「それじゃあわたしたちはお先に失礼しますね。さようなら、早乙女さん」

「ええさようなら。いやぁ良い子たちだねぇ」

「いやぁとんでもないです」

もうほとんど夜だというのに、いまだに話し合っている二人に背を向けて歩き出す。
途中で、いつものようにポッキーをくわえたあの子がなんだかなーと言葉を漏らした。
どうしたの? とわたしが尋ねると、

「いやさー佐倉さん迎えに来たのに目的果たせてないじゃん? 無理して病院に入って損したってゆーかさ」

「あはは……」

この子はよっぽど病院が嫌いのようだ。今度から気をつけよう——などと決心していると。


「————疲れてるのにわざわざ迎えに来てくれてありがとう! 感謝してるよ、あんたたちには!」


後ろにいる杏子さんから、わたしたちに向けて感謝の言葉が投げかけられた。
隣でポッキーをくわえたあの子は赤く染まった頬を街灯で照らされながら、
まんざらでもなさそうにはにかんでいる。

「……まあ、うん。ありがとうって言ってもらえたし、いっか!」

……ちょろいね、この子。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「……本当、立派になっちゃったわね」

二人だけになると、早乙女はそれまで浮かべていた柔和な表情を消した。
代わりに浮かべるのは、どこか儚げで、頼りの無い、いまにも泣き出しそうな笑み。

「いまから、ちょうど三十年前になるのかしら。
 教え子の事であれだけ悩んだのは、後にも先にもあれが最後かしら」

「……そうなんですか?」

「ええ。……そっか、あなたは知らないわよね。
 教え子が交通事故に遭って、一時期ムードが重かったのよ。
 それが解決したと思ったら今度はクラスから二人も行方不明者が出て……
 そのショックでクラスメイトの他の子達も不安を抱えて辛かったでしょうに、そこにあの天災でしょう?」

「それはまた……大変、ですね」

言葉を選んで慰めの言葉をかける杏子に、早乙女は力無く笑った。

「でも、あなたがいたから挫けなかったわ。
 瓦礫の街を、大人顔負けの力と速さで人助けを行うあなたがいたから、ね」

「……あれは、火事場の馬鹿力ですよ。それに昔の話です」

「それでもよ。あの時のあなたの立ち振る舞い、結構有名なのよ? ほら、赤い……なんだったかしら?」

やれやれ、と杏子はかぶりを振った。

「そうやってからかうのはやめてください、もう」

「はーい、気をつけまーす」

元気に言う早乙女に、杏子は少しだけ頬を引きつらせた。


「でも、さっきのは本心だからね。
 ユウカちゃんを助けてくれたの、今でも感謝しているんだから」

「それはどーも……ところで早乙女さん、あれから結婚できたんですか?」

杏子は反撃だと言わんばかりにニヤニヤしながら言い返す。
ところが早乙女は胸を張ってその言葉を受け止めた。柄にも無く焦り顔になって続けて杏子は問う。

「まさか相手が見つかったんですか!?
 シュークリームの受け皿問題や目玉焼きの焼き方問題をクリアして……!?」

「なんですかそれは、まったくもう……」

「で、どうなんですか?」

「……」

早乙女は顔に浮かぶしわを心なしかより多く刻むように頬を引きつらせた。
暗い表情でぼそぼそ喋る。

「……ラーメンの粉末スープを鍋に入れるか器に開けておくかで駄々をこねるような男なんて……」

「すいません、聞かなかったことにしておきます」

「というのは冗談です、秘密にしておきましょう」

「えぇ……」

「秘密にしておきましょう、ね!」

じと目の杏子を無視して早乙女はグッと拳を握って話題を強制的に終了させた。
相当なお歳だろうに、元気だなぁと呆れるやら嬉しいやらで複雑な杏子。


「もう真っ暗ね。病院で検査するだけで終わる予定だったのについ話し込んじゃったわ、やあねぇ」

「ああすいません、送りましょうか?」

「だいじょうぶだいじょうぶ、見滝原は私の庭だから。——ああそれから」

それまでの温和な雰囲気を一変させ、真面目な顔で早乙女は杏子を見た。
年老いて一線を退いたとしても、その瞳の真剣さや熱心さは変わらないのかもしれない。
杏子も彼女の意思に応えるべく姿勢を正して早乙女に向き合い、彼女の言葉を待った。

彼女はそんな杏子の様子を観察するように見つめ、それから口を開いた。


「……三十年前。あなたが私達のような大人を信用してくれなかったことは分かっているわ」

「っ、それは……」

「いいのよ、本当のことだもの。実際、私達は頼りなかったでしょ?」

その問いに、沈黙で応える杏子。

「だから、あなたには私達みたいにならないでってお願いしたくて。
 さっきの子たちはあなたのことを信用、ううん、信頼してる。だから、その気持ちに応えてあげてね?」

しばらくの間、何かを考えるように杏子は自分の爪先を見つめていた。
やがて諦めたように街灯に肩を預け、しぶしぶ、といった様子で頷いてみせる。

「善処、します」

「ありがとう。それじゃあまたね、杏子ちゃん。あの子たちやマミちゃんにもよろしく伝えておいてね」

手を振り、早乙女は夜の見滝原へ姿を消した。
彼女を追うべきか否か悩むような素振りを見せてから、
しかし杏子はその場から動かなかった。
動けなかった。


「べつに、大人が信用できなかったわけじゃないんだよ」

声に出すのは、先ほど口に出来なかった言い訳。
あるいは口に出す事を憚られた本音の言葉。


「たださ、私が……当時の“アタシ”やマミが抱えてた問題はさ。
 大人だからってだけでどうこう出来るほど軽くなかったんだ。
 さやかが消えて、あいつがいなくなって、人が大勢死んで……」


杏子は目を固く閉じたまま、うなされるようにつぶやく。


「さやかが生きてたらこうするだろうって。
 大人はただの人間だけど、魔法少女は人間じゃないから……
 だってしょうがないじゃないか。頼れる奴なんていなかったんだよ」


ぶつぶつと言葉を吐き出していた杏子は、足下に温もりを感じて下を向いた。
そこにはキュゥべえがいた。
彼は白い体を杏子の足にすり寄せるように近づけながら、念話で話しかける。

《でも、君は今、その大人だよ》

「……何が言いたいんだい」

《君が子供のとき、頼れる大人はいなかった。
 それは間違いないよ。だけど、君を慕っているあの子達は別だよね》

キュゥべえはいつもとなんら変わらぬトーンで話を続ける。
気を利かせて声色を変えるような感情が無いだけなのだが、
杏子にはそれがありがたいらしく、少しだけ表情を柔らかくして頷き、続きを促した。


《君は大人で、指導者で、魔法少女だ。
 君は彼女達からすれば十分に頼れる存在だよ。
 君に出来なかった事でも、彼女達なら出来るってことさ》

「……早乙女さんと同じことを言うんだね、あんた」

《僕らからしてみれば、早乙女和子の言い分は正しいよ。
 君が彼女達との結束を深めれば深めるほど、より多くのグリーフシードが回収できるんだからね》

「ようするに、その方が都合が良いってことだろ」

《もちろんそうだよ。でなければこんなこと言わないさ》

「……そういうところが嫌われるんだよ、あんたは」

もっとも——と杏子は間を空けてから、足下にいるキュゥべえを手で掴み上げた。
乱暴に肩に乗せ、先ほどまでの弱気な表情を消し去ってから、小さく笑う。

「今の“私”には、そういうデリカシーの無さが嬉しいよ」

《君はそういうところを嫌っていたと思うんだけどなぁ》

「時と事情によるんだよ。さ、帰るろうか。今日はあんたも飯食ってきな」

《やれやれ、さっきまではあんなに落ち込んでいたのにもう元気になってるなんて》


《ほんとう、きみたちはわけがわからないよ》

大変寒い中での投下でした——以上。

次回の投下は少し遅くなります。
ここらでいわゆる日常お話を挟むか、そろそろ風呂敷を畳みに参るかで悩んでるので。
きっと後者を選びます。それでも先は長い……それでは

ファック!
畳むと言ったがそれはオリキャラの話であって本筋も伏線回収ももっと先……なんでもないです
投下します


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

ある晩、あたしは夢を見た。

破天荒でハチャメチャで荒唐無稽極まりない夢とはちがう、過去の夢。

昔のあたしを見ているあたしの夢。


それは綿菓子のように白く、紅茶のように温かく、飴玉のように初心で、まるで母のように優しい。


醜くて惨い、愚かで最低な夢。


『……おかあさん』


霞がかってぼやけている病院の廊下に、あたしはぽつんとひとりぼっち。
きれいだねって褒められる、珊瑚の髪はまだ結んでない。
体は今よりもっと小さくて、心はいまよりもっと弱い。

覚えてる。

これは魔法少女になる前のあたしだ。
現実なんて屁でもない、孤独なんて耐えられる、甘えなくても大丈夫って、懸命に抗っていた頃のあたし。
あたしは小さいけど大人だもんって強がってた幼いあたし。

でも、本当は違う。
現実が嫌で、孤独が怖くて、誰かに甘えたがってた。


白い影がぼんやりと廊下に浮かび上がる。
キュゥべえだ。
子供のあたしはその可愛らしさにメロメロだった。

《僕は君の願いごとをなんでもひとつ叶えてあげる》

『えー?』

《だけどその代わり、君の魂はソウルジェムへと姿を変える。
 そして君のその身が滅びる最後の瞬間まで魔獣と戦う宿命を課されるんだ》

『しゅくめー……』

《他に何か聞きたいことはあるかい?》

『まって、おねがいごとって、なんでもいーの?』

《もちろんさ。だけどよく考えてから決めるんだよ。後悔のないようにね》

『きまったー!』

(違う、そーじゃない!)

叫ぶけど、決して声は届かない。
どうにもならない。
明晰夢とは違って、無力でいることを強制させられる正真正銘の悪夢。
歯がゆい。手を伸ばしたい。届かなくてもいいから。

《……即決だね》

『うん、ぜんはいそげ、こういんやのごとし、だよ!』

《うーんちょっと違うと思うけど》


『ねえねえ、どーすればいーの?』


《……分かった。それじゃあ改めて》


(ダメ、ゆーなバカ、そんなんじゃ何も解決しない!)


もちろん声は届かない。
それにしても、やっぱりキュゥべえは優しい。
ちゃんと事前に忠告してくれていた。
それなのに子供のあたしってば、バカだからすぐに行動して。

《僕と契約して、魔法少女になってよ!》

彼のお決まりのセリフと共に、二つの意味で覚醒を促す光が視界いっぱいに広がる。
一つはあたしが魔法少女になる、という意味で。
もう一つはあたしの夢が覚める、という意味で。


『うん! あのね、あたしのおねがいごとはねー——』


あとはもう、よく覚えてない。
それは二つの意味で。

一つは夢から覚めれば忘れてしまう、という意味で。
もう一つは今すぐ忘れてしまいたい、という意味で。

あたしってば、ほんとバカ。

ごめんなさい、おかあさん。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

昼下がりの我が家。

《暇そうにしているね》

少年のような声に釣られるようにして、わたしは無意識の内に視線をテーブルの上に送った。
そこには白くて柔らかそうな体のキュゥべえが行儀良く丁寧にお座りしていた。

《あんずはシスターと会議室でお勉強中みたいだね。
 他の二人は……食堂の隅っこで薔薇の手入れと、それからバイトかな。杏子はどうしたんだい?》

「お部屋でお仕事中。教会のボランティアじゃなくて、ちゃんとお金が貰える方のね。キュゥべえも暇なの?」

《いやいや、僕はいつだって忙しいよ。やることは山ほどあるからね》

言いながらも、キュゥべえは器用に尻尾を振ってお盆の上に置かれたクッキーを掴み上げた。
そして小さな口元にそれを運び、少しずつかじり始める。

「……すごい暇そうだけど?」

《これも君たちとのコミュニケーションを円滑に進めるための学習という仕事だよ》

「それほんと?」

《お菓子を頬張りながら他愛もない会話を交えるのが君たちのコミュニケーションなんだろう?》

「違うような違わないような……ねえ、キュゥべえはいつもなにしてるの?」


一枚目のクッキーを平らげたキュゥべえはごろりと寝転び、愛くるしい瞳を右へ左へやった。
その仕草はまるで猫みたいで、とてもかわいらしい。
喉元を撫でたくなってしまう衝動を堪えながら、彼の反応をうかがう。

そんな私の気など知らずに、彼は暢気に瞳を別々の方角へ向けたまま言った。


《基本は魔法少女候補の探索だよ。それから不可解な事件や事例の調査かな》


不可解な事件の調査。
そのフレーズを聞いて、わたしは数日前に遭遇した『天然(偽)グリーフシード』のことを思い出した。
正確には『植えつけられた使用済みのグリーフシード』だけど。

杏子さんに報告したものの、その謎の魔法少女がそんなことをした理由はまだ判明していない。
気になってそのことを彼に尋ねてみると、


《残念だけど、僕の口からはなんとも言えないね》


そんな、なんとも含みのある回答をもらった。
キュゥべえはこんな風に煙に巻くことがよくある。
そういうのは、まだ原因が判っていないか、他の魔法少女の秘密に関わっている場合がほとんどだ。

「でも、わざわざグリーフシードを街に設置して何か意味があるのかな?」

《グリーフシードはまだまだ未知の部分が多いからね。そのことは君も知っているだろう?》

「少しだけなら……でもキュゥべえたちはわたしたちよりもずっと詳しいんでしょ?」


キュゥべえは赤い瞳をわたしに向けると、すうっと細めた。尻尾が右に、左に、揺れる。

《僕らはグリーフシードをエネルギーに練成し直すけど、その実態はまるで掴めていないよ》

「そうなの?」

《グリーフシードは感情を持った生き物でなければその効力を発揮できないからね。
 ソウルジェムの濁りはグリーフシードを用いて浄化出来るけど、実はあれの原理もよく解ってはいないんだ》

……初耳だった。

《僕らは感情エネルギーがエントロピーを凌駕し得る代物だと突き止めた。
 そしてそれを研究している途中で魔獣とグリーフシードの存在を知った。
 負の感情が集まって出来たグリーフシードは宇宙の寿命を延ばすのに最も効率が良いんだ》


難しい話だなぁ。


彼は恐ろしいほどに無表情のまま、底冷えのするような落ち着いた声で続ける。

《僕らは魔獣の生成するグリーフシードを回収したかった》

《そのために、グリーフシードと同じ性質の物を扱った対魔獣用の兵器を作ったのさ》

「兵器……?」


彼の口元に笑みが浮かぶ。嫌らしい、醜い笑みが。


《希望の祈りと願いで魂を練成し直し、正の感情エネルギーを魔力に還元することで戦える兵器……》

《それが君たち魔法少女さ》

「そんな……」


きゅっぷい、と憎らしい声を出して、挑発するように首を傾ぐキュゥべえ。
目線の高さはわたしの方が上なのに、なぜかわたしが見下ろされているような錯覚すら覚えてしまう。


《僕らからすれば君たちは家畜以下のただの道具でしかないのさ》

《それなのに君たちは対等な立場に立とうとしたがる。わけがわからないたい痛いよごめん悪かったほんとうにごめん》


……気付けばわたしは、キュゥべえの耳毛をぐいっと引っ張り上げていた。
足場を求めてキュゥべえの短い両足がわたわたと宙を泳いでいるが、無視。
痛みを訴える言葉が聞こえるけどそれも無視。

そしてわたしはキュゥべえに説教する。

「言ってる事は事実だけど、今のは意地が悪いと思う。そんなんじゃ嫌われちゃうよ」

《……愛くるしいマスコット路線だけじゃ飽きられてしまうからね。新たな勧誘話法を鋭意模索中なのさ》

「でもこれじゃ逆効果だよ。体中を穴ぼこにされても文句言えないよ」

《反省しているよ。だから離してくれないかな。32年物のボディが傷んでしまう、というか耳がもげちゃうよ》

「はいはい」

説教終了。
そっとキュゥべえを地面に降ろしてあげる。
彼は両方の耳毛をうねうねさせて付け根の辺りをさすっている。

……要するに、今のは単なるおふざけ。

彼は腹黒い宇宙人の役で、わたしはそれに怒る少女Aといったところかな。
でも、もちろん彼らがさっき言った言葉に嘘偽りなどは一切含まれてはいない。
兵器という見方だって出来なくはないのだ。
にもかかわらずわたしが平然としていられるのは、それ以上に彼らのお世話になっているから。

魔法少女は——わたしを除いて——契約する際に大まかなメリットやデメリットを説明してもらっている。
魔法少女はすべてを承知の上で彼らと契約を交わすのだ。
魔法のレクチャーも簡単だけどしてくれるし、友達代わりにもなる。
だから彼らを恨む魔法少女は滅多に見かけない。

杏子さんもキュゥべえとは親しい。
きっと昔から仲が良かったに違いない。
希望に満ち溢れた願いを叶えてもらったのだろう。

そんなわけで、わたしたち魔法少女と彼ら『インキュベーター』の関係は極めて良好。


《これでも僕らは君たちに感謝しているんだよ。もちろん僕らに感情はないけどね》

「そういう言葉を加えるからダメなんだよキュゥべえ……」

《事実を補足しただけなのに……おっと、そろそろ話を戻そうか》


《ここ十数年でグリーフシードの研究が大幅に進んだのは君たち魔法少女のおかげでもあるんだ》

「そうなの?」

《そうだよ。だからグリーフシードを街に設置した魔法少女はグリーフシードに詳しいんだろうね》

「でも実際どんなことに利用できるのかなぁ」

《メジャーどころだと……人造魔法少女計画かな。君も知っているはずだよね?》

つい先日シスターに教わったばかりなので、その言葉には聞き覚えがあった。


「グリーフシードを使ってプレイアデス聖団が進めてる……んだっけ」

《そのとおり。そういえば君はカンナとは特別仲が良かったんだよね?》

「カンナ……ニコさんのこと?」

言われてわたしは、そうだっけと首をかしげた。
最後に会ったのはミチルさんが亡くなってから二年が経っていたので……今から六年前になる。
今思えば確かにあの時のニコさんは熱っぽい表情でしきりに何かを語っていたような気がする。

『君は私の同類かもしれない』とか、『興味に値するよ、気になるってことさ』とか……


《……ふうん。どうやら彼女も必死みたいだね。……おっと、杏子がこっちに向かってくるようだ》


キュゥべえは四本の足で立ち上がると、ぴょんっと跳ねて床に降り立った。
その光景に、なぜかわたしは胸の辺りにぽっかり穴が開いたような寂しさと虚しさを覚えてしまう。
原因は判っている。

「マミさんの言いつけ、杏子さんの前では守ってるんだ」

《僕としても、いちいち杏子に気を遣わせて、彼女のソウルジェムを濁らしてしまうのは不本意だからね》


キュゥべえがテーブルの上に乗ると、マミさんはいつも決まって彼のことを叱っていた。
マミさんがいなくなってから、杏子さんはマミさんの代わりに彼を叱るようになった。
それだけじゃない。
マミさんがしていた仕事や抱えていた負担を、杏子さんは進んで背負うようになった。
魔法少女のしつけだったり、生活のことだったり、マナーのことだったりと色々ある。

杏子さんは泣き言一つ言うことなくそれらをこなしている。
今という時間を、もう戻っては来ないあの懐かしい日々のそれに少しでも近づけるために。

杏子さんはマミさんと同じ行動を取るとき、少しだけ悲しい素振りを見せる。
キュゥべえは杏子さんを悲しませたくなくて——感情の無い彼にそんな気は無いのかもしれないが——床に降りたんだ。


もやもやした気持ちでいると、食堂の扉が豪快に開け放たれた。

「たーだーいまーあー! お腹空いちゃったよー」

でも、現れたのは杏子さんではなくお菓子が大好きなあの子の方だ。
いつものように琥珀色の短い髪をおさげにしている彼女は、へろへろとテーブルに突っ伏した。


「今日もおつかれさま。ケーキあるけど食べる? それともお昼ご飯の残り食べる?」

「ケーキでおねがーい、やーしんどかったよもー。一生分働いたー」

大げさな彼女の言葉に苦笑を浮かべつつ、わたしは冷蔵庫から皿に乗せられたケーキを取り出した。
そして形を崩さないように三角の立体型になっている形状記憶する『かしこいラップ』を外す。

昔のラップフィルムはケーキに被せたら形が崩れたり、
ラップにクリームがくっ付いたりしてしまってあまりケーキの保存には向いていなかったそうだ。
技術の発展は凄いわね、とはマミさんの言葉である。


どうでもいいことを思い出しながら、ラップを丸めてごみ箱に入れ、わたしはケーキをテーブルまで運んだ。

「はい、ケーキ持ってきたよ。紅茶も飲む?」

「紅茶はいーや……って、これまさか……」


のっそりと体を起こした彼女はケーキを見て頬を引きつらせた。
嫌っているというよりも、怖がっている。
そんな風に、わたしには見えた。

彼女がこんな反応をするのは初めてのことなので、わたしは少し戸惑いながら彼女に話しかける。

「どうかしたの? ケーキ、食べたくない?」

「いや、そーゆーわけじゃ……ないけど」

苦虫を潰したような表情でケーキを睨む彼女。
わたしもそれに倣ってケーキを見る。
けれども至って普通のケーキにしか見えない。


事実、それは何の変哲もないただの“チーズケーキ”でしかなかった。


呻るような声を漏らす彼女に、
わたしがおろおろしていると、バン! と乱暴に扉が開け放たれた。

今度こそ、杏子さんが現れた。
今日の杏子さんは赤い髪を髪ゴムで結んで一本結びにしている。
いわゆるポニーテールとはちょっと違う。
おばさん結びなんて称されることもあるあの髪型だ。
でも杏子さんがすると知的なオーラが漂ってきて、これはこれで良い、と内心で思ったりする。

気まずくなりかけた空気をぶち壊してくれた杏子さんに感謝しながら声を掛けようとして、

「薔薇ムスメはどこにいる?」

静かな怒気を孕んだ声で杏子さんは言った。
杏子さんはわたしが答えるよりも早くバラムスメ——バラが好きなあの子を目で捉える。
捉えられた方は怒り心頭といった様子の杏子さんに気付いてわずかに狼狽の色を見せるものの、
あからさまに動揺するようなことはなく、静かに杏子さんの出方を伺っている。

見るからに怒っているので、わたしとチーズケーキと睨めっこしていた彼女は少しだけ身構えた。
足下で座っているキュゥべえは沈黙を維持。肝心な時に役に立たない。
結果として、その場は静寂に包まれた。

「……はあ」

息が詰まるような静寂を破ったのは、杏子さんが大きな溜息をする音だった。

「連絡があったよ。もう三ヶ月連続で約束を破ったそうじゃないか」

「……」

「会いたくない気持ちは分かる。でも会いに行きな」

「……い、や……」


なんて弱弱しい声なのだろう。
頼りなくて、心細くて、微風よりも静かな抵抗の声。
その声を聴いて、わたしはようやくただならぬ状況だと悟った。

杏子さんはそんな彼女の抵抗を、一息で崩さんとばかりに畳み掛ける。

「嫌じゃない。わがまま言うな。こうして怒るのはたしかこれで四度目だね。
 何度も言ったように、約束を守れないならあんたをここに置いておくことは出来ない。
 それでも良いのかい? ……違うだろ、嫌なんだろう? ならどうして約束を破るのさ?」

何もそこまで一方的に捲くし立てなくても……と思うけれど。
同時に、仕方が無いのかもしれないとも思ってしまう。

「……イヤ……」

「楽園じゃないんだよ、ここは。世間の目やあんたたちの家族との関係とか、しがらみは山ほどあるんだ」


マギカ・カルテットは決して魔法少女たちが楽しく暮らせるだけの楽園ではない。

『理由は話せないけど一緒に暮らす! わいわい楽しく過ごす! 何にも縛られません!』

……そんな夢のようなことはありえない。
だからマギカ・カルテットとその拠点であるこの家は、
表向きには民間の『更生施設』ということになっている。

魔法少女になる子には家庭や生活に問題を抱えた子が多いためだ。

もちろん本格的な更生施設ではないのだけれど……
多少強引な手段を使って創設したので問題は無い。

その代わりに貰うお金は本当に最小限のみだし、
相手側の家族といくつもの約束を取り交わす事になる。
それを破るのであればもちろん子供は預かれない。
帳消しにした問題が浮上して厄介沙汰に巻き込まれる可能性も無視できない。

いま問題になっているのは、その約束の事だ。


バラが大好きなあの子の母親が杏子さんと交わした約束は、たった一つ。

『月に一度、かならず母親と会う』

これは何度か問題になっていたので嫌でも覚えてしまっている。
だけど、彼女の家庭の事情はわたしもよく知らない。

そういう複雑な事情は気軽に知ってしまって良いものではないし、
彼女は家族のことをあまり話したがらないからだ。

「……母とは会いたくない……」

「たった一日、ほんの数時間だけ顔を合わせるだけじゃないか。いざとなったらトイレにでも隠れてればいい」

「嫌だ」

彼女は語気を強めて杏子さんの提案を拒んだ。
さらに彼女は体をかすかに震わせて続ける。

「母とは会わない。ダメなら出て行く……!」

「あんたねえ……」

杏子さんが呆れて肩をすくめる。
それを見て彼女はさらに体を震わせ、家全体に響くような大きな声ではっきりと言い放った。



「っ……母なんていらない、死んじゃえばいい!」


贅沢な悩みだな、と静かに受け止めるわたしと。
そこまで追い詰められるなんて、と同情するわたしがいる。
そんな自分の醜さに嫌気が差してしまい、目を閉じて——


——パァンッ!

そんな、乾いた音が響いた。
頬を平手で叩いた音だ。
わたしはあわてて目を見開き、目の前の光景を食い入るように見つめる。

「い、今のは……あれ?」

わたしは杏子さんが彼女の頬を平手打ちしたのだとばかり思っていた。
だから、先ほどまで椅子に座っていた『お菓子』の子が『バラ』の子の頬を叩いたのだと気付くのに、少々の時間を要した。
そして事態はわたしが動くよりも速く流転する。
琥珀色の髪を逆立て、肩を怒りで震わせながらあの子は言った。


「死んじゃえばいいとか軽々しく言わないで!」

「……っ……」

「世の中には、会いたくても会えないって、そーゆーフコーな子がいるんだから……!」


あの子はその目に大粒の涙を浮かべていた。
過去になにかあったのだろうか? ……ううん、きっとなにかあったに違いない。
辛い事や、悲しい事がたくさんあったんだ。

涙を流すあの子と、頬を赤く腫らした彼女。
杏子さんも突然の事態に驚いているらしく、固まったままでいる。
どうにも声を掛けにくくて、わたしはだんまりを決め込んでしまった。


その結果、

「……っ……」

「あ、ちょっ、待ちな!」

若草色の髪で顔を隠すようにうつむきながら、彼女は駆け足で廊下に出た。
そしてそのまま勢いで外へと出て行ってしまった。
杏子さんもその後を追いかけようと何歩か前に進んだ。
けれどもかぶりを振ってそれを諦め、あの子に向き直る。

「……どうする?」

「知らない、あんな子!」

どんっ、と古い床板を足で踏み鳴らして、同じように廊下に出る。
ただし外に出るのではなく、二階へと上がっていく。
追いかける気はないみたい。

「どうしようかねぇ、これ」

呆然と立ち尽くすわたしを見て、杏子さんは肩をすくめた。

「あんたはどうするんだい? どっちを追いかけるべきか、悩んでたりするんだろ?」

「……うん」

「だったらその前にお茶にしようか。こういう時は、まずは落ち着かないとね」

杏子さんはキッチンへ向かう途中で、わたしの方を振り向き、にやりと笑った。


「ついでに何か、食べるかい?」

今回はここまでです。いつもレスありがとうございます
次回はできるだけ早めにします。したいです。

レス感謝感謝

で、今回は投下ではなく訂正を
シャワー浴びてて思い出したんですが、お菓子ちゃんの髪の色が琥珀色になってました
珊瑚色に脳内補完していただければ幸いであります

乙なファックありがとう……ん?ファックな乙か?
ともかく投下


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

二人の喧嘩を見た直後にもかかわらず、杏子さんはとても落ち着いていた。
いつものように慣れた手つきでカップに紅茶を注ぎ、テーブルに並べ終えると、
手付かずのチーズケーキを冷蔵庫に戻し、代わりにショートケーキを並べていく。
それが終わると、杏子さんはわたしに小さなフォークを差し出した。礼を言って受け取るわたし。


「——たまには砂糖とジャムを使ってみるのも悪くないかな」

そう言うと、杏子さんはにこっと笑って自分の紅茶に砂糖とジャムを足し始める。
それもたくさん。具体的には砂糖三個とジャム三杯。

「それじゃあシロップだよ……」

「昔の友達がよくやってたんだ。一緒にいた時間は本当にわずかだったけどさ。一週間くらいだったかな」

「それなのに覚えてるの?」

「四十年以上生きてると、むしろ短い時間のが記憶に残るもんなのさ」

人生の先輩からのありがたい助言を心に留めつつ、わたしは紅茶を飲む。

「それで? あんたはどっちを応援したいんだい?」

「っぶ、げほっ、げほっ!」

そんな突拍子もない言葉にむせるわたし。
ティッシュで口元を拭きつつ、恨みのこもった視線を杏子さんに送るも、
杏子さんは目尻を下げた穏やかな表情であっさりとそれを受け流す。

「……どっちを応援したいとか、そんなんじゃないよ」

「そりゃそうだろうね。でもどちらが正しいか、なんてことくらいは考えてるだろ?」

わたしの心を見透かしたような言葉に、思わず目を逸らしてしまう。
杏子さんは意地悪だ。
そんな恨み言を漏らしたい気分を抑えながら、わたしは素直に頷いた。


それを見た杏子さんは我が意を得たりと自信満々に胸を反らした。

「……でも、そういうのは抜きにしてみんなと仲良くしたいの」

杏子さんはやれやれと大げさに肩をすくめる。

「魔法少女間での対立を見るのはこれが初めてじゃないだろう」


言われてわたしは、記憶を探るべく視線を宙に泳がした。
そうだ。これが初めてというわけではない。
もうすでに記憶が曖昧だけれども、わたしが五歳だった頃に一度起きている。

原因はわたしの処遇にあった、と思う。
幼いわたしを戦いに参加させるべきか。
それとも参加させずに保護するべきか。

記憶が正しければ、『第二次性長期を迎えるまで戦闘には参加させない』と決めたことで解決したはずだ。

その次は七歳。そして十歳。
魔法少女の方針——能力的に劣る子のサポートや、魔獣狩りを放棄した子に関する問題だったと思う。


わたしがそのことを思い出し終わると、杏子さんはそれを察したかのように首を縦に振った。

「小さなケンカだけならもっとある。経験を踏まえた上で言うなら、今回のははっきり言って些細な事でしかない」

はっきりと断言する杏子さんに少しばかりの苛立ちを感じてしまう。
二人ともすっごく怒ってたし、悲しんでいたのに、どうして割り切ってしまえるのだろう。
わたしは眉をひそめて反論した。

「でも飛び出しちゃったし……このままだときっと良くないことになるよ」

「家を飛び出すことなんて珍しくないさ。
 あんたが不安に思うのは、あんたがあいつらと過ごした時間が濃かったからだよ」


わたしがマギカ・カルテットの一員になったのが十年前。
マミさんと杏子さんにわたしが戦うことを認めてもらえたのが今から二年と少し前。

その少し前に、彼女達は仲間になった。
お菓子が大好きな子とバラが大好きな子。
ちょっと変わっていたけれど、とっても優しくて、わたしたちはすぐに打ち解けた。
そこにパソコンを大事にするあの子が加わって、
わたしたちは『新生マギカ・カルテット』なんてふざけあいながら、共に楽しい時を過ごした。

ああ——そうかもしれない。
マギカ・カルテットで過ごした十年の中でも、この二年間の時間の流れは特に濃密だったんだ。

杏子さんはどろどろの紅茶に手をつけ、一息吐いて、ふたたび話し始めた。


「私にもそういう時期があった。
 反発した時間は長いくせに共感した時間は短くて、それでも楽しかった時期が」


カップをテーブルに置き、遠い目をする。
杏子さんの瞳に映るのは、果たしてどの時代の光景なのだろうか。
十年前か、二十年前か、それとも三十年前なのか。
わたしにそれを窺い知ることはできなかった。

「これまでに起こった小さな対立なんかは、当事者である魔法少女たちが解決してきた。
 もちろん私やマミもそれに口を挟むことはあったが、直接関わった事はほとんどないよ」

二つの瞳がまっすぐにわたしを捉える。
つまり、杏子さんはわたしにこう言いたいのだろう。

今度はお前の番だよ、と。


「……杏子さんの時はどんな感じだったの?」

「私の時は、まあ、それなりに大変だったさ。
 一言で言ってしまえば、魔法少女としての在り方が問題になったからね」

杏子さんはケーキを口元へ運びながら、その時のことを話してくれた。

それは、いまから三十年も前の事になるらしい。
三十年前の見滝原にはマミさんを中心とした三人の魔法少女がいた。
そこへ現れた四人目の魔法少女が、その三人のことを快く思わなかったようで、
わざわざちょっかいを出してきたそうだ。
縄張り争いや主義主張の問題で荒れに荒れ、とても大変だったという。

「杏子さんはどうしたの?」

「……どうしたと思う?」

杏子さんの顔がいたずらっぽく歪んだ。
かわいいなあこの四十代。
そんなことを思いながら、わたしは杏子さんの過去の行動を推察してみる。

普通に考えればその“四人目の魔法少女”は平穏を脅かす外様の存在だ。
街の外に追い返すなりなんなりしてもおかしくはない。

でも。
優しくて、厳しくて、強くて、凛々しい杏子さんなら。
杏子さんならきっと、そんなことはしないって、わたしは思った。

「……その“四人目の魔法少女”を説得した、のかな?」


杏子さんの顔から笑みが消えた。
それは恐ろしいとか、憤っているとかではなく、
純粋に虚を衝かれたからだろう。
つまり、わたしの言った言葉を杏子さんは予想していなかったらしい。


「最初はその子とぶつかっちゃうかもしれないけど……
 杏子さんなら、きっとその子と打ち解けられたと思うの。
 その子も杏子さんのことを好きになって、最後は杏子さんたちが正しいって分かったじゃないかな」

杏子さんは上を見て、横を見て、それから困ったように笑った。

「ああいや、そのさ。四人目の魔法少女だけど……」

「……仲良くなれなかったの?」

「いや違う、そうじゃない、ああ……」

深い溜息。
なぜだろう、杏子さんが妙に動揺している。
戸惑っている、と見るべきかもしれない。

「……まあ、私の場合はそうだったよ。まっすぐにぶつかって、それで相手を惹きつけたんだ」

「惹きつけた?」

「現実だのなんだのを受け止めたところで、
 人間誰しも希望や理想に憧れるものなのさ。
 だから“四人目の魔法少女”は、まっすぐな“三人の魔法少女”を見ていて思ったんだ。
 だったらいっそのこと間違えてしまえばいい、彼女らといっしょに理想を追い求めてしまえ——ってね」

杏子さんは過去を懐かしむように、寂しげな眼差しで言った。
四人目の魔法少女のことを思い出そうとしているのかもしれない。

「今では良い思い出だよ」

静かな声が、食堂に響き渡る。。
そこでわたしはふと、ある疑問を抱いた。
杏子さんの意識が現実に戻ってくるのを見計らって、それをぶつけてみる。


「ねえ杏子さん、その人って最初のマギカ・カルテットの人?」

「ん、まあ、そうだよ」

「最初のマギカ・カルテットって、確か……」

初代マギカ・カルテットで二大魔法少女、巴マミと佐倉杏子。
でもカルテット——すなわち四重奏のうちの、残る二人の存在は、あまり魔法少女の間では知られていない

一人は、仲間内からは『いいんちょ』なんて親しまれていたらしい。
キツめの性格だったそうだけど、規律や規則を重んじる真面目な子。
契約した理由は、残念だけど聞かされていない。
墓碑には魔法文字で“パトリシア”と刻まれている。

もう一人は、実はわたしも何度かお話をしたことがあった。
と言っても、もう九年以上も前だからほとんど記憶には残っていないのだけれど。

『どっちでもいい』が口癖で押しに弱い性格だったその人は、
パトリシアと仲が良い——というよりも半ば保護されていた、と杏子さんは言っていた。
契約した理由は、とても複雑だ。
趣味の創作活動が原因でいじめに遭っていて、それに耐えるために……らしい。
この人の墓碑には“イザベル”と刻まれている。

当然だけど、導かれてしまった者——この世界から消えた、あるいは魔女になった人たちだ。

わたしはかぶりを振って意識を現実へと引き戻す。


「その四人目の人って、残る二人のうちのどっちの人だったの?」

「あー……まあ、そこは良いじゃないか。昔の話だしさ」

ところが杏子さんは、歯切れの悪い返事を返してくる。
そして両手を胸の前で叩き、この話はこれでおしまいだ、と意思表示。


「……悩むあんたに、人生の、そして魔法少女の先輩からアドバイスをあげるよ」

杏子さんはケーキをきれいに平らげると、済まし顔で語り始めた。

「自分のやりたいようにしな。以上、アドバイス終わり」

「うんうん……って、ええ!?」

「今回の問題は魔法少女の主義主張じゃなくて、
 もっとデリケートな問題だ。それは分かってるだろ?」

言われて、わたしは首を縦に振った。
今回は魔法少女というよりも人間の、正確には子供の価値観の問題だ。

「親を想う子の気持ちも、親を憎む子の気持ちも、私には分かるよ」

「……そうなの?」

「そうだよ。それから親を欲しがる子の気持ちもね」

杏子さんは肩をすくめてわたしを見た。
杏子さんの言葉はまさに図星だった。
なんとなくむずむずするので、話を進める。

「でも……」


わたしのやりたいようにする。
二人のわだかまりを失くすとか、二人に分かり合ってもらうとかじゃなくて。
そんな複雑なことじゃなくて。

もっと簡単なことを考えてみよう。
難しく考えないで、自分に正直になってみよう。
わたしの望むこと。
それはやっぱり。


「杏子さん、わたし決めたよ」

「ほほう、聞かせてもらおうじゃないか。娘の考え付いた解決策をね」

杏子さんの口元に笑みが浮かぶ。
わたしは微笑み、杏子さんの瞳をまっすぐに見つめた。

「わたし、間違えてみる!」

「は?」

呆気に取られて目を丸くしている杏子さん。
わたしはくすりと笑うと、杏子さんにも分かるように説明した。

「わたしには、二人が正しいのか、間違っているのかなんて分からない。
 だから難しいことは忘れて、とにかく仲直りしてもらおうと思うんだ。
 もちろんそれが失敗したら余計に話がこじれちゃうかもしれないけど……」

それでも、きっと。

「杏子さんみたいに、いつかは『良い思い出だ』って思える日が来ると思うから」

「……」

「だめ、かな?」


杏子さんは唖然としていた。
ぽかんと口を開いて、まるで未確認生命を観察するような目でわたしを見ている。
何度か繰り返されるまばたき。

そして感心したように背もたれに体を預け、杏子さんは一息吐いた。
次に杏子さんは、驚きと喜びと楽しさが混ざり合ったような表情を浮かべた。

「間違っている、けれども合っている……ってところだね。
 若いうちは怪我の治りも早い。ばんばん間違って、たくさん転んで、学習しときな」

「転びすぎると傷跡が残っちゃいそうだけどね」

「それもまた人生ってやつだよ」

くすりと笑う杏子さん、に釣られてわたしも笑ってしまう。
ひとしきり笑い合って、わたしは椅子から腰を浮かした。

「行くのかい。目星は?」

「いちおう、なんとか。ダメなら携帯で探してみる。それで杏子さん、あのね」

杏子さんは頷くと、片手を挙げた。

「心配は要らないさ。あんずとお目付け役が担当してくれるからね。——ほら、後ろ」

言われて振り向けば、シスターとあんずちゃんが並んでわたしを見ていた。
興奮した様子のあんずちゃんが首を何度も縦に振っていて、
そんなあんずちゃんの肩に手を乗せながら、シスターが苦笑を浮かべている。

わたしはそんな二人に礼を言うと、友達を追いかけるために外に出た。

バラが大好きなあの子がいそうな場所へと、向かうために。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……まったく、出来の良い娘を持つと嬉しくなるね」

少女を見送ると、杏子は嬉しそうに破顔した。
そして二階へと上がっていくあんずとシスターの後姿を眺め、

「これなら、私は何もしないでも良さそうだね」

独り言をもらして食堂へ戻る。
そしてテーブルの足のそばで座っているキュゥべえに気付いた。
訝しげな顔のまま、杏子は彼をじろじろと眺める。

「なんだい、その顔は」

《そんなに変な顔をしていたのかい?》

「少しね。妙な顔っていうか……で、何か言いたい事でもあるんだろ?」

《まあ、そうなるね》

キュゥべえは杏子を見上げた。
赤い瞳が彼女の心を見透かすかのように細められる。
そんな仕草を見て、杏子がわずかにたじろいだ。

しかし、彼女の動揺など気に留めることなくキュゥべえは言った。

《——どうして本当のことを言わなかったんだい?》

杏子の目が見開かれる。
そして時が止まったように動かなくなる。


「なんの……ことだよ」

《言わなくても分かっているはずだよ、杏子》

「……」

杏子は忌々しげに眉を立ててキュゥべえを見下ろす。
キュゥべえは彼女の視線を気にせず続けた。
感情など微塵も感じられない、冷たい声が彼女の脳内に直接響く。

《君は嘘を吐いた。
 “三人の魔法少女”の中に君はいない。
 イザベルもパトリシアも“四人目の魔法少女”じゃないし、
 それどころか最初のマギカ・カルテットの一員ですらない》

「嘘じゃない、私はただ嘘は吐いていない!」

《認識の相違から生まれる判断ミスを利用して彼女を騙したじゃないか》

「あんたたちが言えた義理じゃないだろう……!」

《僕達は君たちの事を騙した覚えはないよ。ちゃんと事前に、すべて説明しているじゃないか》

ギリッ——
杏子の歯軋りが、一人と一匹だけの空間に鳴り響いた。
彼女の目は怒りと後悔によって燃えるように揺れている。

《杏子。僕は君のことが心配だから言っているんだよ。
 嘘を重ねて自分を偽れば、良心の呵責から精神の安定を乱し、
 不必要にソウルジェムを濁らしてしまう。
 君という優秀な指導役の魔法少女が欠けるのは僕達としても惜しいからね》


あくまでも、自分達の目的のために。
それがインキュベーターという種族だ。
杏子は深呼吸すると、無理やり苛立ちを押し隠して椅子に座った。

「……期待されちまってるんだ。しょうがないじゃないか」

《まあ、君は彼女達からすれば理想の魔法少女だからね。
 でも嘘を吐けば苦しむのは君だよ。……そのことだけは忘れないようにね》

「……気をつける」

返事を聞くと、キュゥべえはぴょんと飛び跳ねた。
杏子の膝の上に乗って、愛くるしい瞳で彼女を見る。

《ところで杏子。良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どちらから聞きたい?》

「良いニュースから頼むよ。あんたのせいで必要以上に参ってるんでね」

《放浪娘が帰ってくるよ》

放浪娘? と杏子は首を傾げた。
それから何かを思い出したように口を開き、キュゥべえの首根っこを掴む。

「錆びた自転車で日本を一周するとか言って出て行ったあいつか?」

《そう、その子だよ》

「そうか……」

杏子は頬を緩めると、キュゥべえの頭を乱暴に撫でる。

「今のニュースで私の気分を台無しにしてくれた事はチャラにしてやるよ」


杏子は目を閉じた。
両の指を絡め、黙り込む。
沈黙の裏で、彼女はある計算をしていた。

「……あいつが“なんとかなる”かもしれない。
 フォロー有りならあんずも戦いに参加させられる。
 それに家族持ちのあいつも乗ってくれるはずだ。全員で九人、これなら……」

《八人だよ》

キュゥべえの言葉を聞いて目を丸くする杏子。

《そうするとあんずが戦えなくなるから七人。
 それにあの子も家庭を守りたいだろうからこれで六人だ》

「ちょっと待て、何の話だ?」

訳も分からずに混乱する杏子を尻目に、キュゥべえはいつものように軽く言った。


「————が、導かれたよ。正確に言えば、導かれたのは少し前なんだけどね」

息を止める杏子。
キュゥべえはそんな彼女に構わず先を続ける。

「“向こうでの名前”は僕が決めたよ。彼女が望んだからね」

「彼女の名前は『KIRSTEN』……ヘンネームは『ELLY』だよ」

ここまでーっす。

>>297修正

>墓碑には魔法文字で“PATRICIA”と刻まれている。
>この人の墓碑には“IZABEL”と刻まれている。

で。
次回の投下は30日の夜までには。

あと現段階でのマギカ・カルテットのメンバー表

佐倉杏子・『わたし』・お菓子の娘・薔薇の娘・シスター・千歳あんず・『家庭持ちの女性』

当分先の話ではありますが、
過去編(ほぼ本編キャラオンリー)をやる際もしかしたら別のスレを立てることになるかもしれません。
まだ考え中なんですけどもね。
そいでは。


ヘンネームはペンネームでおk?

レスありがとうございます

>>311-312
ハンドルネームのHNをペンネーム=ヘンネームなんてそんなややこしいウルトラ勘違いするわけが……
してました。ご指摘感謝感謝

>>304修正
>「彼女の名前は『KIRSTEN』……ハンドルネームは『ELLY』だよ」

年末年始忙しすぎワロリンヌww
すいませんでした
あけましておめでとうございます
二日遅れ……三日遅れ?ともかく紅白見ながら投下です


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


わたしは家を出ると、携帯電話を取り出して親指で簡単な操作を行った。

わたしが持っている細いスティック型の携帯電話のメインターゲットは主に学生層だ。
主流である板状の携帯電話——杏子さんのスマートフォン系列——や、
機能重視のタブレット型のコンピューターを小さくしたような携帯電話と比べれば機能は多少劣ってしまう。

それでも携帯電話としての機能だけで言えば100点満点に近い性能を持っている。

「お友達を探したいの、調べて!」

わたしの声に反応して、携帯電話が自動でアプリを立ち上げる。
中空に地図の映像が投射された。

そして黄緑色の光点——あの子の現在位置が目に留まる。
距離は若干遠い。杏子さんと話していた時間が長かったのだから仕方がないのだけれど。
方角から彼女の行き先を推測すると、わたしは携帯電話に向かって目的地の位置を告げた。
すぐに最短距離のルートを表示される。

「これなら……!」

走ればたぶん、うまく鉢合わせできるかもしれない。
持つべき物は文明の利器だよね、と感謝しながら携帯電話をポケットに戻す。

あの子に会ったら何を話そう。
難しい事は考えない。とにかく仲直りさせる事だけを考えよう。
そう意気込むと、わたしはすぐに駆け出した。

あの子がいるであろう場所——店先にバラが並べてあるお花屋さんへ。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


しかし、わたしの思惑はまるっきり外れてしまった。

「……いな、い?」

お花屋にはバラが並べてある。バラも、あの時と変わらずきれいに咲き誇っている。
あの時と同様、すでに陽は傾き、夕方へ差しかかろうとしている。
なのに、そこに彼女の姿は無い。

「……もう一度アプリで」

携帯電話を取り出してアプリを立ち上げる。
間を空けずに中空に地図が投射される——けれども、先ほどとは違って赤い光点はどこにも存在していない。

そして表示される≪拒否≫の二文字。

どうやってかは分からないけれど、わたしの追跡に気付いた彼女がアプリの同期を断ったんだ。
個人情報保護法が強化されたせいでアプリの機能も制限されてしまっているため、
本人の許可無しではこれ以上の特定は不可能になる。

——通常の手段では。

杏子さんから教わったアクティブな探知魔法を使ってみよう。

わたしは右手の中指に嵌められた指輪に目を落とした。
桃色の宝石を軽く撫でて、意識を集中させる。
やがて、指輪から生成された不可視の魔力がゆっくりと波紋のように広がり始めた。

簡単に言ってしまえば、これは現実にあるレーダーやソナーと同じだ。
アクティブ方式は精度が高く、力量や位置が把握できるけれど、反面、相手に見つかってしまう可能性が高い。
パッシブ方式の場合はその逆で、相手に見つかるリスクは少ないけれど、
あくまで感じた魔力から相手の位置や力量を測るために精度が低いので、誤認してしまうことがある。

だけど今はあくまで人探し。問題は無い。

そうして魔力の波紋を広げ続けると——


「なにをしているんだい、恩人」

「——え?」

背中に投げられた声に驚き、わたしは思わず目を開いた。
結果、広がった波紋は目的を果たす前に消えてしまう。

残念に思いつつ後ろを振り返ってみれば、そこにはあのおばあさんの姿があった。
いつものように愉しげな雰囲気を身に纏い、子供のように純粋な笑みを浮かべている。
わたしは咄嗟に指輪を隠し、愛想笑いを浮かべてみる。
そしてあの子から聞いたおばあさんの名前を思い出し、

「こんにちはおばあさん。……あの、美国さんって呼んだ方がいいですか?」

訝しげな表情のおばあさん——もとい美国織莉子、さん。
美国さんは左手を顎に当てて首をひねっている。
中指に嵌められた黒に見えなくもない青紫の指輪が、黄昏色の陽光を反射してきらきらしている。

首をひねったまま、美国さんはわたしに尋ねた。

「……どうせなら織莉子と呼んでくれ。ところで、どうして私が美国織莉子だと知っているんだい?」

「教えてもらいました。あの、この前いっしょにいたお友達に。……お知り合いだったんですか?」

「いや」

今度はわたしが首をひねる番だった。

「違うんですか?」

「ふむ……」


織莉子さんは虚空に目をやった後で、ふたたび笑みを浮かべた。

「あいや失敬、今のは知らないフリだ。恩人の友人とはここで何度か会った事があったね」

「ほんとうですか?」

「私はウソは吐かない。というのがウソかもしれない。深いパラドックスだ、恩人」

「……じゃあ素直に信じます。今日はなんだか機嫌良さそうですね」

言ってから、この人が機嫌悪そうにしている姿を見たことがない事に気づいた。
けれど織莉子さんはさして気にした様子もなくうんうんと頷いている。

「恩人は目敏いね。そのとおり、私は機嫌が良いよ。それで恩人はここでなにをしているんだい?」

わたしは申し訳無さそうに頭を下げた。
先ほどの質問に答えていなかったことを今になって思い出した。
そして同時に、織莉子さんがあの子を見かけているかもしれないことに気付く。

「その、お友達が別の子と喧嘩して家を飛び出しちゃって……捜してるんです。見ませんでしたか?」

「残念ながら、君の期待には応えられそうにもない」

肩をすくめる織莉子さん。

「恩人の友人を捜していると言ったけど……それは愛」

「ちがいますよ!?」

言葉を遮られた織莉子さんは先ほどよりも心底残念そうに肩を落とした。


「……でも、それは見方を変えれば『友愛』だろう?」

しわだらけの頬を歪めて、織莉子織莉子さんは笑いながら言った。
この人は愛という言葉が大好きなんだろうなぁ……

早くあの子を追いかけたいという気持ちもあいまって、
わたしはちょっと悪戯めいたことを言ってしまう

「そんなに愛って安くないですよ?」

ところが織莉子さんはよりいっそう頬を歪ませて笑った。

「恩人、ついにその概念の領域に達したようだね。
 その通り、愛は安くない。だが恩人、忘れてはならない。愛は単位では言い表せない物だ」


織莉子さんは両手を広げてさらに続ける。

「私は恩人に、愛はすべてと言った。
 だが同時に愛はすべてでないとも言える。
 愛を修飾するのは愚かだが、丸裸の愛を晒すのも愚かだ」

矛盾だらけの言葉にわたしが頭を悩ましていると、織莉子さんはチッ、チッと指を振って見せた。


「……愛は人の数だけ存在するんだ。正も、非も、賢いも愚かもない。
 子供は『愛は特別だ!』と思いたがるものだが……愛なんてものは、道端に転がっている物でもある」


そして花屋に並べられたバラを指差してみせる。

「愛情を込めて育てられた薔薇だ。あれは愛の塊だ。
 愛はすべてのために存在し、すべては愛のために存在している。
 だから友を想う友人の気持ちもまた『愛である』と考えても不思議ではないよ」


わたしには、難しい事はよく分からない。
織莉子さんがどうして愛の何たるかを伝えようとするのかも、よく分からないままだ。
だけど——もしかするとこれは織莉子さんなりにわたしのことを応援してくれているのかもしれない。

「織莉子さんは、どんな愛を見つけたんですか?」

「私の愛は、ある人へ尽くす事だ。そのために今もこうして生きているよ」


その時の織莉子さんは、わたしが見たこともないような素敵な表情をしていた。


しわだらけの顔がまるで同い年の少女かと誤認してしまうほどに破顔し、
言葉の後に訪れた静寂がその表情をより際立たせ、黄昏色に染まる瞳が爛々と光り、
それこそ天真爛漫で純粋な、曇りの無い子供のようにさえ見えてしまいかねない。

織莉子さんの表情の前では、負の側面など欠片すらも存在を維持出来ない。
今にも胸が弾みそうな、ときめきにも似た至上の喜びを彼女は抱いている。
織莉子さんの愛は、ある人へ尽くす事だと言った。
ただそれだけのことで、こうも幸せそうな表情をするなんて。


「……愛って、すごいですね」

「恩人も愛されているじゃないか。そして愛しているじゃないか」

気付けば、織莉子さんの表情は普段の愉しげなそれへと戻っていた。
本当に子供のように見えたのだけれど……錯覚だったのかもしれない。
どちらにしても、凄い元気な人だなぁ。

一人感心していると、織莉子さんは何かを思い出したかのように上を向いて、

「ああそうそう、恩人の友人だけどね。
 この道をまっすぐ行って左に三度曲がってから右に曲がったところに向かって行ったよ」

明日の天気でも言うようにさらりと言ってのけた。


「ええ!? ど、どうしてもっと早く言ってくれないんですか!?」

「それじゃあ私が暇してしまうじゃないか」

「そういう問題じゃないですよ!」

「恩人はこの老婆から少ない楽しみすら奪うというのか!?」

「だからそうじゃなくて……」

「ああ恩人、キミはなんて酷いことを! キミはそれでも人間か!?」

「分かりました、分かりましたから……」

大げさに悲しむ織莉子さんに苦笑いしながら、わたしは道の先にある物を見た。
この先には古い大きなお屋敷があるくらいで、特に物珍しい物はなかったはずだ。
あの子はどうしてそんな場所の近くへ向かったのだろう?

「早く追いかけてあげたらどうだい?」

織莉子さんに急かされて、わたしは一歩前に踏み出す。
ところが急かした当の本人がわたしをもういちど呼び止めた。

「ああ恩人、一つだけアドバイスをしよう。愛を捜したくば、チート(ずる)はしない方が良い」

わたしは言葉を詰まらせた。もしかして、わたしの探知魔法に気付いて……?
焦るわたしに、織莉子さんは苦笑を浮かべて見せる。

「ケータイだよ。愛は己の足と目で捜しに行くべき物だ」

「……はい、そうしてみます。ありがとうございました、それじゃまたいつか!」

簡潔に礼を述べると、わたしは織莉子さんに背を向けて走り始める。
愛は己の足で捜しに行くべき物……なんだか深い言葉だ。
もうちょっとだけ、魔法に頼らないで自分の力で頑張って捜してみよう。

……えーっと、まっすぐ行って、左に三度曲がって……


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


ほとんど姿を消した太陽の、黄昏色の陽光を受けて燃えるような色彩へと変化する様々な薔薇。
薔薇だけではない。他にも並べられた色とりどりの花々が、一斉に燃えていく。
それは勇ましくも儚い、ほんのわずかな時間だけ訪れる神秘的な光景である。
影の消失する刹那。あるいは影と一体化する永遠。

「魔法の時間、マジックアワーの始まりだ。逢魔時ともいう」

極限まで削られた光と極限まで薄められた影の中で、織莉子は薄く笑う。
その姿は花々と同じく燃えるように輝いていた。

「さて、匿ってあげたんだ。話を聞かせてくれるかな?」

尋ね、織莉子が目を向けるのは、薔薇。
ではなく、その向こう側にある花屋の中。
灯りの点いていない花屋の中で、影がのそりとうごめいた。
見ようによっては不気味なバケモノに見えなくもないそれを見ても、織莉子はまるで動じない。
動じる必要が無いからだ。

ほどなくして影が店から出てきた。
それはバケモノでもなんでもない、ただの人間だ。

正確には、薔薇を愛する『恩人の友人』だった。

身長は165cm前後と高く、痩せていて、
大人しめの若草色の髪の毛は残念ながら陽光のせいで判別出来ない。

「恩人はキミから名前を教わったと言っていた。しかし私はキミを知らない。
 一方通行だよ。不可解だ。不思議だ。キミは、どうして私の名前を知っている?」

若草色の髪の少女は答えない。
だから織莉子は畳み掛けるように続けた。

「わけあって、私は見た目が非常に老いてしまっている。
 今の私を見て、私が美国織莉子であると一目で分かる者はそう多くない」


それでも少女が答えないので、老婆はやれやれと首を振った。

「……キミは薔薇が好きかい?」

こくりと頷いたのを見て、織莉子は満足そうに頬を緩める。

「キミはどうして薔薇が好きなのかな?」

たっぷり十秒待ってから少女は答えた。

「……母の、教え……」

「キミは母親が好きなのかな?」

「嫌い」

少女は即座に断言した。
若草色の髪の隙間から覗かせる瞳がしっかりと見開かれている。
はっきりと意思を示した少女の反応に、織莉子は気を良くしたように微笑んだ。

「好きと嫌いは両立する。キミは、そう、あれだ。私に——“美国織莉子”に似ている」

少女が驚いたような顔をする。
織莉子は笑みを浮かべてその反応を楽しんでいる。
好奇心以上の何かが彼女の心に生まれたようだった。

「“かつて”尊敬していた人物が薔薇を好んでいた。だから薔薇を植え、愛でた。
 それが美国織莉子だ。キミと違う点は、本当に薔薇を愛していたか否か、それくらいだよ」

「……」

「薔薇を愛するキミは何者だ?」

話を逸らしたかと思えば、一気に核心を突こうとする。
掴み所の無い自由奔放な織莉子の言動に、少女は呆気に取られてたじろいだ。
彼女の動揺を無視して織莉子はじっと少女の瞳を見つめる。
五秒、十秒、十五秒。
そばに建てられた街灯に灯りが点くと同時に、少女も口を開いた。。


「……あなたのお父上の、美国久臣の話をしても?……」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

——美国久臣。

それは今から三十年以上も前に亡くなった見滝原市の国会議員の名だ。

政治腐敗に一石を投じる清く正しい政治家として。
そして当時の与党である某党の未来ある党員として。
彼はまさに粉骨砕身の精神で活動していた。

彼の立ち振る舞いと演説は見る者聴く者すべての心を震わせ、
老若男女問わず幅広い層から支持されることとなる。

早くに妻を亡くしてしまったというのも、悲劇的な意味合いで支持層に受けたのだろう。
一人娘を育てながら国の政治に物申す、政治家の鑑のような彼の名は瞬く間に見滝原中に知れ渡っていった。
あと十年も齢を重ねれば首相になっていてもおかしくない。
そう噂されるほどに、彼は順調な人生を送っていた。

しかし、彼は噂が現実のものとなるよりも先に命を断ってしまう。
収賄容疑と経費改竄による不正の疑いを警察から掛けられ、追及を逃れて首を吊ったのだ。

それまで彼を支持していた人々は一斉に手のひらを返して彼を叩いた。
それまで彼と仲の良かった人々は一斉に関係を否定して彼から遠ざかった。

嘘吐き、詐欺師、裏切り者……

死人に鞭打つようで、あまり気持ちの良くない批判だ。
しかし騙された者には騙した者を糾弾する権利がある。それは仕方の無い事だった。
仕方の無い事——
たとえば家に心無い落書きをするのも、窓に石を投げるのも、仕方の無い事なのだろうか。

何の責任も無い彼の娘を攻撃の対象に加えるのも、果たして仕方の無い事なのだろうか。

今の“美国織莉子”には、分からない。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「……美国久臣議員には、もう一つ罪が……」

「ふむ」

話を聞きながら、織莉子はすぐそばのベンチに腰掛けた。
その足下を、定期巡回中の球状警備ロボットがごろごろと転がっていく。

「……早くに妻を亡くした男性が、それで満足できると?……」

「さあ。あいにく肉体的にも精神的にも男性に興味が無いから分からないな」

「……美国議員は、人々に隠れて別の方を愛した……」

美国議員の妻は、娘がまだ幼い頃に他界してしまっている。
再婚しようと思えば出来なくもない年齢なのだから、本来であれば隠れるて愛を育む必要は無い。
だがしかし、彼は妻の死と一人娘の存在を自身の好感度を上げるために利用してしまっていた。
いまさら若い女性と再婚など、出来るはずもなかったのだ。

ましてや、女性関連のスキャンダルは政治家には付き物であるとはいえ、
清廉潔白で正義感に溢れる政治家を装っている者であればあるほど、
政治生命の存亡に直結する重大な問題でもあった。

その話を受けて、織莉子は顔色一つ変えずに言った。

「ふうん」

少女の表情に曇りが差す。

「……驚かれていない?……」

「いや、驚いているよ。続きをお願いしよう」

その言葉とは裏腹に、織莉子は驚く素振りを微塵たりとも見せることはなかった。
織莉子に続きを促されて、少女はしぶしぶ話を再開させる。


「……愛人は美国議員の子を孕んだ。議員は認知しなかった。当然、だけど……
 ……愛人は議員と別れ娘を産んだ。娘が5歳のときに、愛人は姿を消した……」

少女はちいさく息を吐いた。
うつむき、ちらりと織莉子の様子を目で伺う。
織莉子は微笑んだまま、何も語ろうとはしなかった。

自分に腹違いの妹が存在していたという事実を受けても。
自分の父が愛人とその娘を切り捨てる悪人だと知っても。

自分には関係ないと、そう言わんばかりに。


少女は深呼吸をして話を続ける。

「……娘にはたった二枚の写真が残された。父親と、五歳ほど年上の腹違いの姉の写真。
 ……娘は父と姉の存在だけを心の支えにした。いつの日か、家族三人で暮らせるようにと」

少しずつではあるが、少女が紡ぐ言葉と言葉の間隔が短くなっていく。
しかし、何かに苛まれるような少女とは対照的に、織莉子は落ち着いている。
彼女は顔面に張り付く微笑をまったく歪めることなく維持し続けていた。


「……だけど美国議員は亡くなってしまった。施設の中で娘は悲しみに打ち震えた。
 姉に会いたいと思った。いっしょに泣きたいと思った。触れ合いたいと思った。
 遠目から眺めるだけじゃなく、その優しくて尊い心を感じたいと。だけど願いは叶わなかった。何故か?」


責め立てるような言葉の連続を受けて、織莉子は表情一つ変えずに言葉を返す。

「姉が失踪したから……だろう?」

少女はこくりと頷いた。


「……美国織莉子。あなたは議員の遺産を売却し、三十年前の大災害の後、行方をくらました……」


わずか15歳の少女に、議員の膨大な遺産——土地も含めた財産の管理を任せられるわけがない。
しかし、記録上では遺産のすべてが彼女の管理下にあった。

それこそ“魔法”でも使わない限り不可能なはずなのに、である。

「……なぜ?……」

「詳しい事情は伏せるが……財産は友人に渡した。
 そして私はあの大災害の後、避難所に隠れてひっそりと暮らしていたよ。
 家も家族も、何もかも失った人は大勢いたんだ。が気付けなくとも無理はない」

織莉子を見つめる少女のまなざしに疑いの光が宿る。
けれども織莉子は涼しい顔でそれを受け流した。

「……大災害から十五年後。娘は結婚して、子を産み、母親になった」

「なるほど。それがキミか。つまりキミは私、美国織莉子の姪に当たるわけか」

「……そう……」

「だが辻褄が合わないな。それとキミの母への憎悪、そして私に気付いた事とかが」

「……私は、薔薇と同じ」


はて、と首を傾げる織莉子。
黙ったままでいると、少女はか細い声で続けた。


「……母は私に、美国織莉子の模倣を望んだ。
 清く、正しい心の持ち主である事を。
 薔薇を愛でて、優雅で、気品のある優しい、完璧な人間をっ」

もはや悲鳴に近いその声に、初めて織莉子は動揺し、目を伏せた。
哀れむような感情の揺れが瞳に宿る。

父に捨てられた母に捨てられ、
腹違いの姉にろくに近寄る事も出来ず、
けれどもその存在を希望に生きることを選んだ少女の母親。

彼女は姉である美国織莉子を喪った——と勘違いした——そのときから狂ってしまっていたのかもしれない。

姉の美国織莉子が薔薇を育てていた。

だから自分も薔薇を愛した。

だから娘にも薔薇を愛する事を強要した。

美国織莉子のような人間になれと、娘にはそう命じられたように思えてしまったのかもしれない。

娘は想いに応えようと母の愛する薔薇を愛したが、しかし母の他の想いには応えられなかった。

圧し掛かる身勝手な期待は少女の心を押し潰し、母への憎悪を生んだ。

憎悪は心の内で暴れまわり、歪んだ愛となって薔薇へと吐き出された——と。


「キミは“織莉子”より……に似ているね」

消え入りそうな声で言ったのは、織莉子だった。

「でも、あれだ。そう……たかがそれだけのことじゃないか」

織莉子の表情には、はっきりとした意思が宿っていた。
老いてたるんだはずのほうれい線が、無数に刻まれたしわが、
四十年という時間の流れでは生まれないような苦労の証の数々が、ほんのわずかな瞬間、消えてなくなる。

「たとえどれだけ狂い歪んでいようと、
 キミの母親がキミへ向けた想いは“愛”だよ。キミが薔薇へ向ける愛よりも、より純粋に歪んでいるけどね」

その言葉に、少女の目が見開かれた。

「愛されているくせにそれ以上を望むというのか? 恩人の友人は欲張りだな」

「愛されてなんかいない、私はっただの人形、それで誰も信じられなくてっ……」

「キミの母がキミに望んだ事は、立派な人物になって欲しい、ただそれだけのことじゃないか」

「っ……」

「愛に不満を覚えたのなら真っ向から立ち向かえばいい。
 愛を受け入れるか拒絶するか、その二択しかキミの頭には無いのか?」

少女は押し黙った。
実際、そんな簡単に済むような問題ではないのだろう。
だが織莉子の言葉からは、有無を言わせない迫力が滲み出ていた。

織莉子はまるで“愛されるだけマシじゃないか”と言いたげな表情をする。
そしてふてくされるように肩をすくめてベンチから立ち上がった。

「それにキミには、キミのことを心配してくれる愛すべき友人がいるじゃないか」

そして半身を逸らし、自分の背後を人差し指で指し示してみせる。

そこには、目に涙を溜め込んだまま、黄色いリボンをふるふると揺らす少女がいた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

話の一部始終を盗み聞きしていたわたしは、あわてて袖で目元を拭った。
でもなかなか涙が拭いきれなくて、そうこうしている間に二人が話を続けてしまう。

「……」

「親を許せとは言わない、が、キミは、あれだ。少し周囲に目を向けるべきだ」

織莉子はやれやれと首を振って見せる。

「親子喧嘩なんてものは十年も経てば笑い話になる。友達との喧嘩もだ。
 しかしキミはそう、このままだと絆もろとも断ってしまいそうだ。必ず後悔するよ。分かったかい?」

「……でも……」

「キミは愛されているんだ。少しは胸を張りなさい」

「……は、い……」

ようやく正常になった頃には、二人とも一段楽した顔をしていた。
うつむいていたあの子の上体が元に戻り、背筋が伸びている。
それを見た織莉子さんはにっこりと微笑んだ。

「うん、それで良し。じゃあもう一つ質問だ。どうして私が美国織莉子だと気付いたのかな」

「……アプリ……」

あの子が取り出したのは、わたしの持っているのと同じスティック状の携帯電話だった。
いくつかのキーを叩きながら二回、携帯電話を振るう。
中空にが、二人の少女が仲良さそうに並んで歩いている写真が投射された。
それ自体は、わたしには何の変哲も無いただの写真でしかなくて。
だからわたしは、何気なく覗き見た織莉子さんの瞳が見開かれていることにとても驚いた。

「これは……!」

「……母が最後に撮った、あなたの写真を、処理……」

さらに画面が切り替わる。今度はしわがれたおばあさん——織莉子さんの顔のイメージ。


「凄いものだね、最近の技術は。子供の頃にも似たようなのはあったが、いやはや……」

嘆息する織莉子さん。その瞳はまだ開かれたままだ。

「……以前、この店のそばであなたを見つけたとき、なんとなく……」

「直感的に写真を加工して照らし合わせたと、なるほど。ところで……」

皮肉っぽい笑みを浮かべ、織莉子さんは笑い声をもらした。

「キミの模倣元——本物の美国織莉子と会話した感想を聞いてみたいな。幻滅したかい?」

あの子は首を横に振った。
幻滅してない。それはたぶん、あの子の本音だと、わたしは思う。
あの子はそれ以上何も語ろうとはしなかったけれど、織莉子さんは何かを悟ったような顔で、そうか、と頷いた。

「……母に、教えても?……」

「できればやめて欲しい、が、それではあんまりか。じゃあ、あれだ。キミの母君に伝えておいてくれるかな」

織莉子さんは今にも闇に消えそうな、ふらついた足取りで言った。

「『美国織莉子は、キミの事を愛していた』とね」

そう言って、織莉子さんは自嘲めいた笑みを浮かべる。だけど、あの子は素直に頷いた。

「ありがとう。さあ、はやく家に帰るといい。ほらほら恩人、恩人の友人を家までエスコートしてあげなさい」

わたしは慌てて駆け寄ると、その子に右手を差し伸べた。

「盗み聞きしちゃって、ごめんね」

「……いい……」

「あのね、わたし、難しい事はよく分からないから……だから、お家に帰って、みんなと晩御飯食べて、仲直りしよ?」

「……うん……」

頷くと、彼女はわたしの右手に左手を重ねてくれた。


「よかったぁ……」

ほっと肩をなで下ろす。
これで全部解決、というわけにはいかないけど、ひとまず安心。
家に残ってる子が機嫌を直してくれればいいけど……今は、あんずちゃんとシスターを信じるしかないよね。

……だけどこれ、ほとんど織莉子さんのおかげかも。
杏子さんになんて報告したらいいんだろ?

わたしが気まずい思いをしながら振り返ると、織莉子さんの姿はもうどこにもなかった。

「あ、あれ? 織莉子さん?」

「……神出鬼没。油断ならない……」

あはは、と苦笑い。
心の中で織莉子さんにお礼を言いながら、わたしたちは手を握り合う。

「……わざわざ、ありがとう……」

「……ううん、こっちこそ、ありがとう」


終わり良ければすべて良し——そういうことに、しておこう。

わたしは投げやりな気分のまま、家路へと就いた。




「……織莉子」




「キミが愛したのは、彼女の母君だったのか?」




「もしもそうなら、私は」




「私が三十年間、この街と共にあった意味は」




「……愛は、無限に……」




「……無限に……」

そんな感じでした。
久臣先生が悪者になってしまいましたが、本来はきっと良い人ですよ

次回はお菓子の話とあんずちゃんの過去を少しやります。ゆまさんのお話もちょろっと描くかも。

なおまっすぐ行って左に三度曲がってから右に曲がってぶっとばす。右ストレートでぶっとばす。
は図で表すとこうなります。我ながら少し分かりにくかったかもしれません
済まぬ

↓↑
↓↑    
↓└←┐
↓    ↑
└→→┘

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom