【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【再構成】【プロローグ改稿版】 (286)


このスレでは、私nubewoがこれまで執筆してきた『ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール』の導入部を大幅に加筆・改稿したものを投下していきます。
本作は「とある魔術の禁書目録」「とある科学の超電磁砲」のSSであり、いわゆる本編再構成モノとなっております。

細かい注意書き
時系列は、小説版禁書目録とアニメ版超電磁砲に依拠します。そのため、いくつか時系列的に矛盾が生じている部分があります。
・小説版禁書目録+漫画版超電磁砲では、幻想御手<レベルアッパー>事件は夏休みの初め、すなわち上条当麻がインデックスを助けるべく奔走している裏で起こっていますが、これをアニメ版超電磁砲にあわせ、夏休み前の出来事であると設定しました。
・また、婚后光子の常盤台転入は二学期からでしたが、アニメ版にあわせ、一学期から転入したと設定しました。
超電磁砲をマンガでしか知らない人は時系列がご存知のものと異なる点をご了承ください。

まとめて読めるところ:Arcadia
ttp://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=etc&all=19764&n=0&count=1

これまでにSS速報vipで投下した部分:

これまで同様、ここで書きたまり次第加筆修正を行って、Arcadiaに投稿するというスタイルをとっていきたいと思います。


! 導入部を投下しますので、本作を未読の方も、特に問題なくお読みいただけます。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1380983115

お帰り!

お久しぶりです。
ほぼ一年ほど前にスレを落としまして、それからご無沙汰しておりました。
執筆そのものは6月ごろに再開して数話ほどArcadiaには上げておりますが、このたび、「まるでキングクリムゾンしたように重要なシーンがすっ飛ばされている」と何度か指摘をいただいておりましたプロローグについて、かなり改稿を行いました。その完成の目途が経ちましたので投下させていただきます。
過去の話より続きを読みたいというご意見はあるかと思いますが、ひと段落するまでお付き合いいただければと思います。


雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。
上条当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。
ハァハァとまとまらない呼吸に毒づきながら、時々後ろを振り返る。

「ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」

そう、追いかけてくる連中には、実は昨日も会っていた。
おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちとその子に間に割って入ってしまったのだ。
おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。
いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。
当麻は何も体力に自信があるわけではない。
昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。
そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。
それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。
足がガクガクだ。だが相手も本格的な武闘派スキルアウトではないようで、かなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――


カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。


「は? うわっ!」

日ごろから不運に見舞われることの多い当麻だが、空き缶が転がってきたからといってマンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。
だが、右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す羽目になった。
そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。

「あいでっ……くそっ」
「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」

肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。
非常にマズイ展開に直面して、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。

「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」

そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。
当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。
その直後。べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音が当麻の耳に響いた。



婚后光子(こんごうみつこ)は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観では、の話だ。
彼女の通う学校、常盤台中学は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。
そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。
そして彼女の寮もその区画内にあったため、2年生になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。
そして彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、
中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。
だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんていう、まるで不良みたいな行為は。
日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、
駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。

光子はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。
沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。
あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。
執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息などある程度の男子の知り合いはいるが、
それでも腕を組むなどという破廉恥な行為は考えたこともない。
道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。
手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けて、1つのクレープを食べあいしていた。その光景をつい凝視してしまう。
椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。
品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、とつい自分に重ねて空想してしまう。
いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのだ。
町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。
だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。

もう少し先まで行ったら引き返そう、そう光子が決めたときだった。
店と店の間の、小型車両しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。
ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。
……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミ頭の少年を囲んだ。そこで光子は状況を理解する。
つまり、あの髪のとんがった少年はどうやら襲われているらしい、と。
焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。


婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。
――困った人には、手を差し伸べること。
おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。
トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。


金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。
電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。
普通の人が自分の腕でこの看板を投げたのなら、看板の描く軌跡はたぶんブーメランのように緩やかにカーブしたもののはずで、不良にはその角が突き刺さることだろう。
だが実際には、宣伝内容が書かれた広い面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。
一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。

「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」
「へ?」

当麻と不良たちの声が唱和した。浮かぶ疑問は皆同じ。
不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この子はどれくらい自分の実力に自信があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。
気弱い普通の女学生からは真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に、その場の誰もが困惑した。
その中で、立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。

「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」

肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。

「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」

当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。
その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。
当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。
パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。

「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」

叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。
それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。
倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。
当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。

「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」

自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」

少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。
こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て、思わず血相を変えた。

「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」

いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。
そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。

「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っっ!」
「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」
「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」

慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は問答無用の良家の令嬢なのだ。
繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。
女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。
光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。

「どこへっ、向かいますの!?」

それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。
よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。

「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に人集めはできなくなるはず! そこまで頑張れ!」

ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。
周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。
やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。

「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」
「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」

状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。

「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」
「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」
「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」

やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。

「まあでも、助かったよ。最悪なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」
「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」

目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。
やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。
色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。

「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、そっちはどういう用事で来たんだ?」
「え?」

お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。
単に、おのぼりさんみたいな光子に危害が及ばないように必要なら簡単なエスコートくらいはするかと考えているのだった。その申し出に、光子が視線を彷徨わせる。

「いえその、私」

言ってみれば、光子は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。
恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。

「やっぱこういう所、初めてだったりするのか?」

当麻は口ごもる光子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、光子は言い当てられて戸惑いを視線に浮かべていた。

「え、ええ。まあ。あまりこういうところは来ませんから……」
「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」
「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」

女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。
なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。彼女はどうもそれを知らないらしかった。

「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」
「ちょ、ちょっと。私そのような礼は不要ですと申しましたのに……」
「まあまあ。正直、ほとぼり冷ます時間もいるし、ああいう陰険な連中の目をくぐって帰らなきゃいけないだろ?」
「また会ったなら、その時こそ性根を直して差し上げる時でしょうに。レベルの低さに屈折して、暴力に走った学生なんて」

そう冷たく言い切る光子に、当麻は苦笑を返した。正論は正論なのだが、それは集団相手にはなかなか振りかざせない正論だ。

「言いたいことはわかるけど、あっちは群れだからな。ほら、慣れてないんだからとりあえず俺の言うこと聞いてくれよ」
「はあ。……あの、言うことを聞くというのは、こちらのレストランにエスコートすることについても承諾しろ、ということですの?」

ちょっと、戸惑いがないでもない。だって、男の人に案内されて食事なり喫茶なりをするなんて、これはいわゆるデートというやつではなかろうか。
もちろん、自分とこの人は初対面だから、世間で言うところのデートとは違うのはわかるけれど。

「嫌なら、まあ別に断ってくれたらいいけど」

目の前の当麻が困惑気味にそう返したのを見て、光子は悩んだ。
こういうときは、断るのは失礼なことなのかしら。別に、あまり高いお店には見えませんし、巷ではこういう時に軽く殿方にご案内いただくのが普通なのかも……。
内心でそんなふうに悩んだ末、光子は当麻の方を見た。

「その、ご迷惑ではありません?」
「迷惑? いや俺の方にはそんなのないって。そっちこそ変に誘われて困ってるか? もしかして」
「い、いえ。分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、エスコートをお願い致しますわ」
「ん。甘い方か甘くない方か、どっちが好きだ?」

ハンバーガーというのはあまり馴染みがない。そちらにもちょっと気は惹かれたが、素直に好みを答えた。

「甘いもののほうが好きですわ」

光子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。

「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」
「1人だったらお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」
「わかった。じゃあ、行くか」

昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。

「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」
「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」
「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」
「あ、ごめん。婚后さんね」

騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。
初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。

「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」
「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」

硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。

「これ、アップルパイですの? 本当に?」
「え、そうだけど?」

光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。
パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。
目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。
生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。

「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」

ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。
一緒に購入した紅茶に口を付けると、安っぽいアールグレイの味がした。こちらはちょっと、いただけない。
対面にいる当麻はというと、アールグレイにミルクポーションと、さらにガムシロップとかいう液体砂糖を入れていた。
これはそうやって飲むものなのかもしれない。ポットで淹れて温かいままいただく光子のよく知ったアールグレイとは違うのだろう。
自分も当麻の真似をしてみればいいのかもしれないが、さすがに甘いアップルパイに甘いアールグレイを合わせる気にはならなかった。


「なあ婚后」
「はい、なんですの?」
「どうだ、こういう雑多なファストフードのノリは?」

当麻は、光子がほぼ完全にこうしたところに不慣れなことを見抜いているらしかった。
隠しても仕方がないし、率直に答える。

「なんだか、面白いですわね。たったの100円でこんなものが買えて、楽しめるなんて」
「はは。まあ、ちゃんとしたところのアップルパイだと800円くらいするもんな」
「え、ええ」

アップルパイの値段は知らなかった。
家で誰かが作ってくれるか、そうでなくても誰かが用意してくれるものなので、光子はアップルパイを購入したことなど一度もないのだ。

「見るからに、婚后ってお嬢様っぽいもんな」
「そ、そうでしょうか」
「だってさ、そうでしょうかなんて返事をする中学生がどこにいるんだよ」
「えっ? あの、私の言葉遣いは、もしかしてこうした街では浮いてしまっておりますの……?」
「いや、浮いてるっていうか。婚后には合ってると思うけど、普通の中学生はまあ使わないな」
「はあ……」

直せと言われて直るものでもない。あまり直そうという気もないし。

「悪いって言ってるんじゃないんだ。ただ、いいところのお嬢さんなんだろうなって」
「え、ええ。婚后はそれなりに名の通った名家ですわ。上条さんも名前をご存知ではありません? 日本で航空最大手の婚后航空を」
「ああ、名前は聞いたことあるな。ニュースで。学園都市にも乗り入れてたっけ」

当麻は小学校に上がる前からの学園都市暮らしだ。飛行機に乗ったことは、それ以前にはあったかもしれないが、ほとんど記憶にはない。
一般的な学園都市の学生らしく、航空産業にあまり興味はなかった。そんな当麻でも知っているのだから、大手の会社ではあるのだろう。

「はい。数に限りはありますが、いくつか就航していますわよ」
「婚后って、もしかしてその一族の?」
「ええ。こう見えて、跡取り娘ですわ」
「へぇ。すごいじゃないか」

当麻が感心したような顔をしたのを見て、光子はいくらか気分をよくした。


「私も、早くお父様やお爺様のお力になりたいんですけれど」
「将来のヴィジョン持ってるんだな」
「え、ええ。でも婚后に生まれた者として当然の自覚を持っているだけですわ。上条さんは、どうですの?」
「え、どうって?」
「お父様のお仕事を継いだりとか、そういうお考えは?」
「んー、あんまりないな」

当麻は苦笑しながら光子に答えた。父親の職業には由緒なんてのはこれっぽっちもない。

「うちの親はサラリーマンだからな。継ぐっていっても、父親が働いてるからって理由じゃ雇ってくれないだろうし」
「はあ」

光子が曖昧な返事を返した。サラリーマンの実態がいまいちイメージできないらしかった。
話していて十分に分かったことだが、どうも光子は、相当な箱入り娘というか、お嬢様なのだった。

「さて、もう食べ終わったよな?」
「はい」
「婚后に美味かったかと聞くのは無謀かも知れないけど、それなりに楽しんでくれたか」
「ええ。たくさんの初めてがあって、とても面白かったですわ。殿方にこんな風にお誘いいただいたのも初めてでしたし、
 こうした……ウェイターが注文を取りに来ないお店で食事をしたのも初めてでしたから」
「楽しんでくれたなら良かったよ。悪いな、長い時間付き合わせて」
「いえ。こちらこそお誘い下さって、ありがとうございました」

軽く頭を下げ合って、当麻は光子と自分のトレイを持って、ゴミ箱に向かった。
立ち去る時もセルフサービスなのが、また光子には不思議らしかった。
そしてファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。

「それじゃ、気をつけて」
「ええ、上条さんもお気をつけになって」

こちらを振り返ることなく男子禁制の世界に戻っていく光子の後ろ姿を眺め、可愛い子だったな、と当麻は今日の出来事を反芻した。
つい前日には同じ常盤台でも攻撃的なタイプの子に追い回されて、当麻の抱えていたお嬢様学校のイメージが崩れかけていたが、
やはり光子のような子の方が常盤台らしい学生なのだろう。お嬢様気質な面は否めなかったけれど。
自分のいた環境が人より恵まれていたせいか、人を見下すような表現を使うことがあったり、
あるいは自信家なところが自慢好きに見えたりと、敵を作りやすそうな女の子だなという印象はあった。
けれど根はきっといい子なのだろう。当麻のからかいにたいする反応はどれも素直で、可愛いかった。

「ま、そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」

自分の不幸体質をさっくりと再確認してから、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。



これが、上条当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。


ここまで『prologue 01: 馴れ初め』
まだここはArcadiaにすでに上げてる部分です。とりあえず未投稿部分までずらっと上げますね。

とりあえず乙
この間最新話まで読み直したところだから続きが気になってしかたがないんだぜ


「暑いですわね……」

手にした扇子で直射日光を遮りながら、光子は誰ともなしにそう呟いた。
日傘も許されない校則というのは正しいものだろうかと訝しみながら、光子は寮への帰り道、繁華街を抜ける少し遠回りなルートをひとり歩いていた。
こんな場所にいる理由は、ついこないだと同じ。
学舎の園と呼ばれる男子禁制の領域の、外にある方の寮に住むクラスメイトに、紙の資料を手渡しするためだった。
そういう仕事は、きちんと手続きを踏めばわざわざ生徒が運ばずとも目的地に届くはずなのだが、
光子が普段、一番お世話になっている先生はどうもそういうところで人使いが荒いのだった。
とはいえ、教師から理由を与えてもらって外出するのは、大義名分をもらったようで気分的には悪くない。この暑さを除けば、だが。
せめて涼しい所で休憩できれば、と茹だりそうな頭で考える。
美味しいとは言えないが、先日寄ったあのファストフードとやらのお店はエキサイティングだった。
不良を退治した上、助けた相手にアップルパイと紅茶をご馳走になった一日。
人生の中でもトップレベルに風変わりな日だった。
見上げれば似たような店は近くにもあるようではあった。

「一人で寄るにはやはり敷居が高いですわよね……」

それが光子にとっての偽らざる思いだ。
それこそ、なじみの呉服店だとかなら、自分一人でタクシーで乗り付けて一時間でも二時間でもいられるのだが。
そういえば今年は新しい服をあまり買っていないな、と思って周りを見渡したが、着たこともないような派手なTシャツだとか、
生地の少ない服ばかりがショウケースに並んでいて、光子は自分のいた世界とのギャップに眩暈を覚えそうになった。
Tシャツの良しあしなんて、店員にいくら説明をしてもらっても光子にはわかりそうにない。

「やっぱり、一人でここに来ても、どうしていいかわかりませんわ」

ため息をつく。学び舎の園の外を一人歩きするのは二回目だ。
慣れてきた分周りがよく見えるようになった一方で、気軽に楽しめるほどには自分がとけ込めていないと感じていた。

「……もう、帰りましょうか」

ふう、とため息をついて、帰り道を探すために目線を上げる。
その時だった。

「あれ、婚后?」
「えっ?!」

若い男の声で、自分の名が呼ばれたのに気がついた。
声の先には、こないだ会って、アップルパイもどきをごちそうしてくれたツンツン頭の少年、上条当麻がいた。


特にすることもない休日の午前、上条当麻は買出しにでも出かけようかと繁華街を目指し歩いているところだった。
目的地は学校帰りの行きつけのスーパーではなくて、ショッピングモールに併設された大型スーパーの方だ。
特売のチラシを見かけたのも理由だし、暇だからいろいろ見る所のある場所へと行ってみようという程度の、大した目的もない散策だった。

「くそ暑い……」

汗を手で軽く拭いながら、空を見上げる。
自分の背丈よりも高いところまで陽炎は成長しているのだろうか、太陽が揺らめいて見えた。熱中症のせいではないと信じたい。
しかしこれが気のせいでなく本当に暑いせいなら、今から生鮮食料品を買いに行こうと考えている自分は結構愚かなんじゃなかろうか。
そう思いながらも、道半ばまで来てしまった以上引き返すのがもったいないと感じる貧乏性の当麻だった。

「あれ、婚后?」

交差点を曲がって、すぐ先。
こないだと同じようにあちこち視線のせわしないおのぼりさんみたいな様子の少女が、足取りだけは優雅にこちらのほうに進んできていた。
思ったとほぼ同時くらいに条件反射で名前を呟くと、校則違反を見つけられた学生みたいにビクッと肩をすくめて、こちらをまじまじと見つけてきた。

「あ……、えっと、上条、さんでよろしかったでしょうか?」

こちらの顔に思い当たったのだろう。ほっとした感じで光子が最警戒態勢、といった感じの緊張を解いた。
忘れられていなかったことに当麻としても少し安心する。

「こないだぶりだな。あれからなんともないか?」
「なんとも、ってなんのことですの?」
「不良に追いかけられたりしてないかって話」
「ああ」

会ってまだ二回目だからだろうか、無警戒で相対はしてくれないらしく、光子はやや戸惑い顔でこちらを見ていた。
ちょっと馴れ馴れしかったのかもしれない、と当麻は反省した。

「あれから学舎の園から出ていませんの」
「ああ、それなら会うわけないか」

光子のいる場所は男子禁制の、チェックの厳しい箱庭だ。不良集団<スキルアウト>の連中がおいそれと侵入出来る場所ではなかった。

「上条さんこそ、大丈夫ですの?」
「え? まあこちらも、なんとか」
「そう。なら良かったですわ」

薄い笑みを光子が浮かべた。親しくないからよくわからないが、営業用のスマイルな感じがした。
当麻の自意識過剰と言われればそれまでだが、なんとなく隔意があるような気がしてならない。
光子にしてみれば、暑いし日焼けもするこの場所に長居をしたくないという思惑がある程度のことだったのだが。

「今日はどうしてここにいるんだ?」
「前と同じですわ。体調不良で休んだ同級生へのプリントを届けるよう、先生から言付かったのですわ」
「ふーん」

そういえば、その辺の事情は前回聞いた。常盤台中学は全寮制の学校で、その寮は男子禁制の区域である学舎の園の中に一つ。
こちらは常盤台自体のごく近くにある。そしてもう一つが、学舎の園の外、第七学区の中でも雰囲気のいいこの一角にあるらしかった。
光子の住んでいる寮をわざわざ本人に聞くのははばかられたが、状況からして、光子自身は学舎の園の中のほうに住んでいるのだろう。

「それで、お使いのついでに買い食いって感じか」
「お、お使いなんて言い方はやめていただきたいですわね。それに買い食いなんて。それ、道端で食べ物を買って歩き回ることでしょう。
 良家の子女として、そんな行為に手を染めたりなどしませんわ」

人聞きの悪い、と言わんばかりの不満げな表情で、光子はそっぽを向いた。
その態度を見て、当麻としては苦笑せずにはいられない。

「こないだ会った時は俺が買い食いに付き合わせちまったけどな。ってか、やっぱ婚后にとっては買い食い自体が耳慣れないのか」
「え?」
「小学生ならいざ知らず、寮で自分一人で暮らし始める中学生からは買い食いなんて普通すぎてむしろ誰も意識しないもんだしさ」

やはり純粋培養なのだろう。深夜までこのあたりを走り回ったりする当麻とは、育ちが違う。

「上条さんは、よくされますの?」
「え?」
「その、買い食いを」
「んー、実はあんまり。コンビニで生菓子でも買おうもんならあっという間に高くついちまうからな。飯以外の菓子類とかもスーパーとかで買っちまうんだよな」
「はあ」
「常盤台は三食全部出るんだろ? 羨ましいよ」

そんな所を羨ましがられて、光子としては困惑するほかなかった。
だって、常盤台を選ぶ際に、食事のことなんて全く意識しなかった。
きちんとした三食が何も言わずとも用意される、そんなものはあって当たり前のサービスなのだから。

「学園都市でも最高の教育を行っている学び舎に対して、食事があるからいいところだなんて評価、どうかと思いますわ」
「そりゃそうか、ごめん」

そんな風にあっさりと謝る当麻を見て、光子はどうも不満を隠せなかった。
不良に絡まれて苦労していたし、交わした会話の端々から察するに、当麻のレベルは2よりは下だろう。
常盤台は女子校だから当麻に直接は関係ないが、それでも高レベル能力者を集めたエリート校だ。少しくらいは憧れてもらわないと。

「上条さんのレベルはおいくつですの? 常盤台は学園都市でも名の通った学校なのはご存知でしょう。
 それがどんなものかお分かりにならないのかもしれませんけれど、そこらの学校とは全く違いますのよ」
「まあ、そうだろうけど。小学校に上がるかどうかって頃からずっとレベル0の身としちゃ、
 ぶっちゃけ常盤台じゃなくてもっと低レベル向けでも俺には関係ない世界だからさ」
「はあ」

そう言い返す当麻にどんな反応を示していいかわからず、光子は曖昧な返事をした。
レベル0は、学園都市に在籍する学生の多くが属する階級だ。レベル1と並んで、能力者としては使い物にならない学生たちを指す。
その最下層の序列に幼少の頃から組み込まれていて、それでも劣等感らしきものを当麻はほとんど見せない。
それも強がりだとかではなさそうだ。光子には、そんな当麻の自然体さがうまく理解できなかった。
そんな隙をついて、当麻が歩を進めだす。歩く方向が一緒だったので、光子も自然とついていくしかなかった。

「……上条さんはどちらへ?」

話すことなんて特にはない。だからつい、そんな無難なことを聞いてしまう光子だった。

「え? ああ、暇だからあっちのショッピングモールのスーパーにでも行って、買い物しようかと思ってさ」
「そうですの。お暇そうですわね」
「う……」

何気ない光子の言葉に、当麻はちょっと怯んだ。他意はないのだろうと思うが、自分の休日をバッサリとそう言いきられるとヘコむものだ。

「そういうそっちは今から何するんだよ」
「えっ? ま、まあ、少々することがあるといいますか……」

光子が空を見上げるように目を動かしてパタンと扇子を弄ぶ。非常にわかりやすい態度だった。
本当に用事があるんなら、あんなキョロキョロとあたりを見回しながら歩いていたりしないだろう。
どう見てもこないだの続きで、自分の知らない繁華街という世界に足を踏み出したところだった。
ただ、そういう態度を見ているとちょっといたずら心がわいて来るのも事実。当麻は光子の言うことに付き合ってやることにした。

「へぇ。こっちのほうで? 学舎の園って中で生活が完結できるだけのものがあるって聞いたけど」
「そ、それはそうですけど。でもエカテリーナちゃんの食餌ですとか品ぞろえに時々不満もありますし」
「エカテリーナちゃんって、ペットか何かか?」
「ええ」
「ということは、婚后はペットショップに行くところか」
「そういうことに、なりますわね」
光子がほっとしたのが態度で分かった。
「なるほど。ちゃんと目的が合ったんだな。おっかなびっくりで歩いてて、今日も知らない世界を大冒険してるのかと思ったんだけど」
「か、上条さん!」
ポッと顔が赤くなった。内面がはっきりとわかってしまうそのわかりやすいリアクションが可愛かった。
自分のクラスメイトの女子たち以上に擦れてない感じがするのは、年下だからという以上に、やっぱりお嬢様なのだろう。
「わ、私は別に冒険なんて……!」
「いいじゃん。俺だって初めて第7学区から遠出した時はドキドキしたし。今まで行ったことのない場所に行くのは冒険だろ」
「そ、そうかもしれませんけど、こういう場所、別になんてことのない普通の場所でしょう」
「婚后はめったに来ないんだから普通じゃない、だろ?」
「それはそうですけど……」
当麻は、光子にとってやりにくい相手だった。
強がりを見透かされたことは今までにだってあるけど、こんな風に見透かされた上でその強がりを肯定されると、どうしていいかわからなくなる。
もっと強がったり、言葉を重ねようとしても、もっと優しく笑われる気がする。嘲笑なら突っぱねられるのに、そういうのとは違うのだった。
同い年の男子ともそれほど親しくした経験はないのに、年上の男の人の相手は光子には少し荷が重い。
「で、ペットショップ、行ってみるか?」
「え?」
「行ってみたいってのは嘘じゃないんだろうし、せっかくだ、案内するから」
ニッと笑う当麻の好意を嫌だと思えなくて、突き放せないまま従ってしまう光子だった。

当麻に連れられ、ショッピングモールに光子は立ち入る。
通路が狭いことにすら少しびっくりだった。
休日ということもあって人ごみがすごいこともあるが、それを差し引いても、
反対側から歩いてくる人とすれ違うためには当麻と並べた肩が少しぶつかってしまうくらいなのだ。

「あっ……」
「ごめん」

つい、過剰反応をしてしまった。擦ったといってもいいくらいの些細なぶつかり方だったのに、当麻に謝らせてしまったことを申し訳なく思う。
でもやっぱり、こんなに近い距離で男性と歩くなんて、初めてのことなのだ。ちょっとくらい過敏になったって仕方ない、と心の中で言い訳をした。

「婚后さ、人ごみ、苦手だったか?」
「えっ? そ、その。苦手というよりは初めてで」
「初めて? これくらいで?」

ここはそう大きくもない駅前のモールだ。
はっきり言って、ハブ駅の前にあるショッピングモールまで行けば、これより大きく、また休日は芋洗いでもするような人ごみに出くわせるところが山ほどある。
少なくとも、学園都市で普通の学生をしていればこれくらいは何ともないと思うのだが。

「だって。ショッピングをする所と言えばもっと道が広くて余裕のある場所でしたもの。
 ちゃんとお店の方が御用伺いに来てくださいますし、そういうお店で確かなものを選ぶというのがショッピングの楽しみ方ではありませんの?」
「……ん、まあ、それも間違ってないだろうけど」

拗ねているのか、あるいは怒っているのか。やや口早に光子にそう答えられると、当麻はどう返していいのかわからなかった。

「でもさ、たとえばお菓子とか買うときって、わざわざ店の人がついてきたりなんてしないだろ?」

ほら、と目の前の菓子屋を指さす。いわゆるスーパーの菓子コーナーに並んでいるようなものから、それより少し高級路線のものまでを扱うショップだった。
言うまでもなく子供が群がっていて、店員はそれを俯瞰的に監視こそすれど、一人一人にアドバイスなどするはずもない。
そう話を振ってみると、光子がまた困惑したような顔を見せた。

「お菓子を買う、なんてほとんどしたことありませんわ」
「え、お菓子もないの?」
「だって、そんなの家に帰ればあるものでしょう!? わざわざ買いに行ったことなんて、おじい様が体調を崩された時のお見舞いくらいですわ」
「……悪かった。なんていうか、馬鹿にするつもりはないんだ」
「当然ですわ。自分で買わなければいけない人に、馬鹿にされる筋合いなんてありません」

当麻は、なんとも複雑な気持ちになってしまった。
この婚后という女の子は、随分偉そうなことを言っている。庶民で何が悪いんだと反発を感じなくもない。
だが同時に、光子の見せる反応は、ショッピングモールが物珍しくて訪れたはいいけれど誰でも知っているような当たり前を知らなくて、
それがきっと恥ずかしいのだろうと容易に推察させる態度だった。
そういうところは、可愛いとも思う。

「お菓子の一つでも、買ってみる気はないか?」
「べ、別に要りませんわ。お菓子でつられるほど子供でもありませんし、それにこんなもの」

光子が興味もなさそうなふりをして、陳列されたパッケージに目線を走らせた。
だがそれが取り繕ったものなのだとわかるくらいには、光子は裏表のない少女だった。

「婚后が食べてきたお菓子より上品な美味さはないかもしれないけど、いろいろあって面白いだろ? いいじゃないか、冒険なんだから試してみれば」
「で、でも。上条さん、私を案内する先はペットショップではありませんでしたの」
「別にお菓子買うくらいの寄り道で硬いこと言うなよ。ほら、ポテトチップスとか食べたことあるか?」

当麻は傍にあったオーソドックスなやつをつまみ上げ、光子の目の前にかざしてやる。

「ば、馬鹿にしてらっしゃるの? ありますわ」
「そっか。普通の塩味?」
「え? ……それ以外に、何がありますの。ワインビネガーでも振りかけろとおっしゃるの?」
「いや、そんなの見たことない。そうじゃなくて、コンソメとか、だし醤油味とか、ピザ風味とか」

味の種類を言うたびに光子の唇がとがっていくのが楽しくて、つい当麻はあれこれ紹介してしまった。

「知りません! うちではもっと良いものをいただいてきましたから!」
「きっとそうなんだろうな」
「えっ?」

思わず、嘲笑とは別の意味で軽く笑ってしまう。そんな当麻の表情に光子は戸惑っているらしかった。

「ごめん。からかわれて気分良くないよな。ちょっとさ、慣れない所にきて肩ひじ張ってる婚后が、まあその、さ」
「……なんですの」

当麻の言葉をどう取っていいかわからず、曖昧な表情を浮かべる光子。
だがさすがに、会って二回目の女の子に、面と向かって可愛いと言うのは当麻にも照れ臭かった。

「なんでもない。ほら、どうだ、せっかくだから試してみろって」
「は、はあ」
「俺のおすすめってことで、俺が買っとくから」
「えっ? そ、そんな、こないだもそうやってご馳走になってしまいましたし、悪いですわ」
「いいから」

はっきり言って当麻に経済的余裕はないのだが、まあ、一日100円分のお菓子を我慢するくらいはどうってことない。
良く買う銘柄のうち、光子の知らなさそうな味のものをひとつ拾い上げて、当麻はレジへと向かった。

「上条さん」
「ん?」
「買っていただくのは……その、すみませんと言いますか、ありがとうございますと言いますか」
「いいって。俺がやりたいだけだし」
「それで、こんなことを聞くのはなんですけれど、恥を忍んで、お聞きします」
「ん?」

光子が、両手を重ねて軽く腰を折り、丁寧に質問を放った。

「これ、どのようにして温めればよろしいのでしょうか」
「……はい?」

小銭を手渡し釣りを待つその一瞬で、当麻は思わず硬直した。

「え、そのまま食べればいいんだけど」
「そうなんですの? でも、以前いただいたときは揚げたてでしたから、手で持つのがやっとくらいでしたので」

お嬢様はポテチすら揚げたてですか。
やっぱりギャップを感じずにはいられない当麻だった。

買ってはもらっても食べ歩きなどという行儀の悪いことをする気はない、というか光子はそれを思いつきもしないのか、その後はまっすぐペットショップを目指した。
人が多いのは相変わらずで、軽く肩が触れるのを繰り返した結果、光子は半歩下がって当麻に寄り添う、というポジション取りを覚えたらしかった。
たぶん、当麻が気を使って細かく話を振るから、真後ろに下がって一列に並ぶことはしないでくれたのだろう。
だが、その位置関係は結構親密な関係の男女っぽくて、綺麗な光子の横顔がすぐ近くにあることに落ち着かない当麻だった。

それはもちろん、光子にとってもそうだ。
もし、殿方とデートをするとしたら、こんな感じなのかしら。
そんなことを一人で考えてしまって、顔が火照るのを自覚する。
覗かれるのが恥ずかしくて、当麻の肩で顔を隠した。
別段当麻の肩幅は広いわけでもないし、ほんの一メートル以内にだって男性はいくらでもすれ違っているのに、
なんだかその背中が特別なような錯覚に陥って、光子は自分で少し反省した。
別に、当麻のことを好きなわけではない。
だって会って二回目だし、そもそも好きになるほど優しくされたわけでもない。
当麻が光子のことを特別な女の子として見ている素振りだって全くないし。
それはそんなに面白いことではないが、と心の中でちょっと批判をしながら、光子は当麻が歩みを緩めたのを感じた。

「ほら、婚后。これが目的地のペットショップな」
「ありがとうございました。結構大きいんですのね」
「そうなのかな」

視線の先で、可愛らしい仔猫や仔犬が駆け回っているのを見つけて、ああいうのが婚后も好きなのかな、と当麻は視線を伺う。
だが光子はそちらにはさほど興味を示さず、冷蔵保存されたペットフードのコーナーに足を向けた。
ペットの餌なんて常温保存の利くものだとばかり思っていたので、一体光子が何を見ているのか気になった。

「一体どんなの見てるんだ?」
「ああ、上条さん。こちらのお店、非常によい品揃えですわ。ほら、こちらなんか丸々としてていいボリュームですわ」

ほら、と。光子がパッケージに入ったそれを、当麻に手渡した。
ひんやりとしたそれは、ビニールのパッケージ越しに、短い体毛の感触を伝えてくる。当麻は、手のひらに置かれたそれに、ただ硬直するほかなかった。

「上条さん?」

上条が受け取ったそれは、まごうことなき、冷蔵されたラットだった。

「……ごめん、哺乳類がくると思ってなかった」
「え?」
「婚后の飼ってるペットって、何かな」

硬い口調で、当麻は光子に尋ねた。

「エカテリーナちゃんはニシキヘビですわ」

愛着があるのだろう。光子が嬉しそうにそう答えた。ペットなんだから、愛情を持って飼っているのはいいことだ。
でも、蛇かー……
恐怖症などがあるわけではないが、蛇と聞けばとりあえずびっくりするのは自然な感覚だと思う。
手のひらにこんもりと乗っかるサイズのラットを、まさかそのへんで見かける小さな青大将が飲み込むはずもない。
それなりのサイズだろうというのは推測できた。
当麻がいろいろな事実を受け入れている間に、光子は店員に声をかけ、配送の相談などを行なっていた。

「少々思いがけないことでしたけれど、いい店に巡り会えましたわ。上条さん、ありがとうございます」
「いや、婚后がもともと行く気だったのを無理やり案内させてもらっただけだからな。なんかお礼を言われると申し訳ない」
「ふふ。私一人ではたどり着けなかったかもしれませんから、やはりお礼は言わせてくださいな」

多分一人だったら、迷った挙句人いきれでくたびれてしまいそうだった。今度来る時はきちんと準備してこよう。

「さて、それじゃ婚后の捜し物も、これでおしまいか。他に行きたいトコとかないか?」
「いえ……もとより、その、そんなに目的があったわけではありませんでしたから」
「そっか」

当麻はそこで言葉を区切って、少し続きをためらう。
少し早いが、昼食時に差し掛かっていた。当麻はここのフードコートで適当に何か食べるつもりでいたが、光子はどうするつもりだろうか。

「お昼、どうする?」

意図をぼかした質問。ばったり道で会って、軽く道案内をした上に、さらに食事に誘うというのは当麻にとっても敷居が高い。
というか、ここまでやると男女間のただの知り合いとしては距離感が取りづらい。下心があると取られて当然というレベルになる。
そういう当麻の考えを光子も理解したらしい、少し戸惑いと恥ずかしさを顔に浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げた。

「あの、私は寮の方でお昼を摂ると寮監に伝えましたので」
「あ、そっか。それじゃそろそろ帰らないとだな」
「ええ」

内心でいくらかがっかりしたのを顔に出さないよう注意しながら、当麻は頷いた。
そうして、二人で店を後にする。そして人ごみに慣れてきた光子を連れて、言葉少なに上条はショッピングモールから外へと抜け出した。

「うわ、あちー……」
「うんざりしますわね」

婚后がぱたりと扇子を開き、軽く仰いだ。だが風もおそらく温いに違いない。

「車で迎えがあればこんなことにはなりませんのに」
「そうは言うけど、こんなとこ、駐車場もまともにないぞ」

なにせ駅前のモールだ。そもそも学園都市は自動車を運転可能な年齢層が外より極端に少ないこともあって、駐車場自体があまり大きくないのが普通だ。

「お店が雑多で、高密度にまとめられた施設では仕方ないのかもしれませんけれど」
「ま、婚后が普段行く店に比べたら、そうなのかもしれないけどさ」
「比べられるものではありませんわ。ペットショップの二つ隣に和ものの小物店がありましたけれど、ああいうのはどうかと思いましたもの。
 ああいったものは呉服屋と並んでいるのが自然でしょうに」

そんな愚痴を光子はこぼすが、まさか呉服屋をペットショップと並べるわけにもいかないし、こういうモールで小物を買う購買層と呉服屋はたぶん相容れない。
あの配置はあの配置で理にかなっていたのだろうと思う。

「常盤台の子って、みんなやっぱ婚后みたいにお金持ちなのかね」
「えっ?」

唐突だった当麻の質問に、光子は戸惑った。お金持ち、という表現にドキリとしたのもある。

「そんなことはありませんわ。常盤台はああ見えて完全実力主義ですから。
 校風が上流階級向けではありますけれど、ご両親の経済状況に一切関係なく、入学は可能です」

レベル4以上なら学費の支援なども手厚いため、実力さえあれば問題ない、というのは本当だった。

「そうなのか。じゃあ、さ、婚后」

少し言いにくそうに、当麻が切り出した。

「婚后みたいにお金持ちの子と、周りの子じゃ感覚にギャップがあったりしないか?」
「べ、別に、そんなことは……っ」

光子はその言葉に、焦りを覚えた。

「いや、もしそうなら余計なお節介なんだけどさ」

当麻が頭を掻いて、その先を続けるかを、逡巡した。

「そういうのって、なんか距離を取られてるっていうか。庶民とは全然違う世界の人なんですって言うのってさ、なんか、友達減らしそうだなって思うんだよ」

ざくりと、その言葉は光子の急所に突き刺さった。

「……っ! そんなこと」
「俺の思い違いなら、ごめん」
「……」

上条さんの勘違いですわ、と強がることもできた。だけど、否定はできなかった。
身も蓋もなく、婚后光子の現実を表せば。
彼女は、友達が、少ない。
特に転校して数ヶ月。常盤台では休み時間に話す程度の知り合いはいても、放課後を共にしたり、毎度の昼食を共に取るような相手はいない。

「悪い。嫌な思いさせちまったな」

光子が答えを返さない、いや返せないうちに、当麻が軽く頭を下げた。
反射的に覚えた反発が和らいでくると、当麻に謝らせたこと自体が申し訳なくなった。

「どうして、そんなことを仰りましたの?」
「え?」
「私を馬鹿にしようとなさったんではありませんわよね?」
「そりゃもちろん。なんかさ、もったいないって思ったんだよ」
「もったいない、ですの」

少し奥歯に物が挟まったような言い方だと光子には感じられた。
実際、当麻は言葉を選ぼうとしているのか、話しにくそうだった。

「こないだと今日とで二回しか会ってない俺が言うのもなんだけどさ、ちょっと気になったんだ。
 婚后の態度って、時々偉そうに見えるっていうか、同じ目線で対等に付き合おうと思っても、それがずれてる感じがするというか。
 婚后は意識してないのかもしれないけど」
「私は……ただ、どなたのご友人としてでもふさわしい態度をとっているつもりですわ。
 成績や能力、立ち居振る舞いの面でも、相手の方に尊敬を持っていただけるだけの人であろうとしてきたつもりです」

投げかけてくれた当麻の方にも、そして答えようとした自分自身の方にも隠しきれない戸惑いがあった。
それほど親しくない知り合いだし、こんな立ち入ったことを話しているのが、不思議だった。
少しの時間、当麻は光子の言葉の意味を心の中で確かめているようだった。

「なあ、婚后」
「はい」
「さっきからさ、踏み込んだ話で嫌な思いさせてるかもしれないけど。ちゃんと、伝えておくな」
「どうぞ、仰ってくださいませ」

態度を改めた当麻に対し、光子も姿勢を正した。
自分を諌めてくれる人の言葉はきちんと受け止めなさいと、両親から教えられてきた。
当麻がしようとしているのは、そういうことだと思う。

「確かに友達同士でも相手を尊重する気持ちって必要なんだろうけど、友達ってのはもっと、気軽というか、気さくな関係でいいんじゃないかと思う」
「……」
「例えば俺が、婚后にふさわしい友達であろうとしてるように見えるか? 自分の偉いところを示そうとしたりとか、そういうの。
 まあ言っちまえば、常盤台の生徒に誇れるところなんて別にないってだけだけどさ」
「……いえ。上条さんは、親しみやすい方だと、思いましたわ」
「そういう俺の態度は不愉快だったか?」
「そんなこと、思っていません」
「そりゃよかった。友達ってさ、こんなもんでいいと思うんだけど」

嫌な話はこれくらい、と区切るように、当麻が笑って歩き始めた。
信号を渡り、公園につく。

「上条さん。私は、やはり思い違いをしていたのでしょうか」
「そこまでのことでもないさ。だって婚后が嫌なヤツなら、上条さんにとって、こんなふうに道案内するのはお断りのはずだろ?」

おどけた口調でそう言ってくれる当麻の気遣いが嬉しかった。

「では私のこと、嫌いではありませんのね」
「え?」
「え?」

当麻が、不意に硬直した。その態度の激変についていけなくて、光子も首をかしげる。
そして直ぐに悟った。
今のはまるで、男女が、互いの気持ちを確認するときの言葉みたいだった。

「あのっ、私そんなつもりじゃ」
「ごごごめん! 俺の方が今のは悪い。そんな流れじゃなかったのはわかってる」

思わず互いに目線をそらし、呼吸と間を整える。
そして再び光子が顔を上げると、当麻が優しく微笑んでいた。

「やっぱ、ちょっとでいいから変えてみるといいと思うよ。自慢げに聞こえるような言葉を、きっと減らしたらいいと思う」
「そういう所が、上条さんをご不快にしていましたのね」
「俺はそうでもないよ。そういうところも含めて、何ていうか」

当麻は再び、可愛いという言葉を使うのはやめておいた。

「いい子なんだなって、思うよ」
「……もう、そんな言い方。子供扱いされているみたいですわ」

光子が顔を赤らめた。

「うまい言い方が他に思いつかなかったんだよ。ほら、時間大丈夫か?」
「あっ。ええと、今から帰ればちょうどくらいですわ」
「そっか。じゃあ、ここまでだな。今日は時間も早いんだし、わざわざ送ったりすると迷惑かな」
「迷惑なんてことはありませんけれど……でも大丈夫ですわ。上条さんも、ご自分のお買い物をお続けになって」
「ん、サンキュ。それじゃあ、また街で会ったら、話でもしよう。高校生の男子と友達ってのは難しいかもしれないけど、相談には乗るしさ」
「ええ。ありがとうございます」

当麻は脳裏で、偶然会うことは難しいんじゃないかと思いながら、別れを切り出す。
確実に連絡できる手段として、メールアドレスのひとつでも聞けばいいのだが、それは憚られた。
光子は二学年下の、美人の女の子。そんな子にアドレスを聞くのは、ナンパ以外の何物でもない。
内心の葛藤を押し殺して、当麻は軽く手を挙げた。

「それじゃあ、またな」
「はい。上条さん、ごきげんよう」

一度も口にはしなかったけれど、険のとれた優しい笑いを浮かべる光子は、とても可愛かった。

ここまで『prologue 02: 目線の高さ』
まだまだいくよー


カラーンと優しい鐘の音が鳴る校内を、光子は一人歩く。
当麻にショッピングモールを案内してもらった次の日の、ちょうどお昼時だった。
屋内の食堂に、テラス、カフェテリアを備え、さらには寮に戻って食事も可能という常盤台の環境は、昼休みの混雑とはあまり縁がない。
入学当初は昼休みの時間まで利用して、自分の派閥を作ろうとスカウトに走ったものだが、それももうすっかりやめてしまった。
皆早々にほかの派閥へと所属したり、部活に専念するからと断られたり、そんなのばかりだった。
光子は二年からの編入。それで新参者が派閥を作ろうと奔走するのは、あまり好意的に映らなかったらしい。
長い休憩時間を持て余し気味に感じるのはいつものことだったが、今日は、それ以上に。

「昨日のこと、いい加減に引きずるのをやめませんと――」

当麻に、言われたことがずっと頭から消えなかった。
あくまで当麻自身は優しく言ってくれたし、その場では前向きな気持ちになれたはずだったのだが。
部屋に戻ってからが、自己嫌悪と自己否定がとめどなく続く一人反省会となったのだった。
これまでは気にしていなかったのに、すれ違う人の視線が光子の意識をざわつかせる。
すっかりと派閥形成に失敗した自分を、笑っているのではないかと、そう思ってしまうのだった。

「あ、婚后さん、お昼行くの?」

後ろから、朗らかな声がかかった。振り向かずとも分かる。入学当初から割と付き合いのある、御坂美琴という同学年の生徒だ。
学年を超えた人気者らしく、一緒に歩くとあっちこっちで声がかかる。

「御坂さん、ごきげんよう。こちらのほうでお会いするのは珍しいですわね」

美琴のクラスからこのルートを通るのは、カフェに行く時くらいだ。美琴と食事を摂る時も近場の食堂が多いので、あまり顔を合わせない場所だった。

「今日は黒子から一緒にご飯しようってねだられてさ。しょうがないから付き合うトコ」

黒子、というのは一年生の白井黒子のことだ。美琴のルームメイトだから、おそらく朝食と夕食はかなりの頻度で一緒になっていることだろう。
学年が違うのに、わざわざ昼に一緒になることもない。

「婚后さんも一緒にどう?」

美琴がそう訪ねてくれた。義理という感じはしなかったが、わざわざ呼び出しを受けているところにお邪魔するのは気が引ける。
相手が白井ならなおさらだ。どうも入学当時から、あの小さい一年生とは反りが合わないのだ。

「せっかくですけれど、御坂さん。お二人でお楽しみになって」
「そう? まあ、見飽きた顔だから楽しみってほどじゃあないけどねー」

苦笑いの美琴に、光子も笑みを返した。

「ごめんなさい、ちょっと横を失礼しますわ」

立ち話をする横からそんな声が掛かった。振り向くと、学年もまちまちな、30人位の生徒の集団が立っていた。

「御坂様、ごきげんよう。今日もお元気そうで何よりですわ」
「どうも。今日はお食事会?」
「ええ。定例の集まりですわ。新しいメンバーが増えましたからそのお披露目もありますの」
「まだ増えるんだ」

美琴が話している相手は、たっぷりとした長い髪を縦ロールにした少女。彼女はこの集団のサブリーダーだった。

「お陰様で順調ですわ。これでもうひとつくらい、面白いプランに手を出せそうですの。それでは、これで失礼いたしますわ」
「ええ、それじゃあね」

サブリーダーの少女が通り過ぎると、後ろの少女たちもが次々とこちらに頭を下げながら立ち去っていった。
すでにこれまでにも目にした光景だが、その数の多さに光子は圧倒された。
レベル4の能力者ですら10人以上を抱える、常盤台で最大の派閥。
学園都市でも七人しかいないレベル5の能力者の第五位、『精神掌握<メンタルアウト>』をトップとする集団だった。

「相変わらずの大所帯よね。敵視はされてないみたいだけど会えば絶対こんな感じになるから、ちょっと面倒なのよね」
「御坂さんは人気者ですものね」
「あー、うん。まあね」

美琴は少し困った顔でそう返事を返した。
人気者だからというより、単にもう一人のレベル5だからなのだが、どうも光子はそれを分かっていない節がある。
かと言って「私がレベル5です」なんて名乗り出るのは恥ずかしすぎるので、ついついそのまま誤解が続いているのだった。

「御坂さんは、派閥を作ったりしようと思ったことはありませんの?」
「え?」

それは、光子にとっては素朴な疑問だった。話していれば美琴が優秀な能力者だということくらいはわかるし、人望もある。
きっと派閥を作れば沢山の人が集まるだろうことは想像に難くない。なのにどうして作ろうとは思わないのか。
美琴は再び苦笑いを浮かべて、答えた。もう何度も、いろいろな人に尋ねられた質問だった。

「私は人のてっぺんに立ちたいって思わないしさ、堅苦しいの、嫌いだから」
「では、誰かの派閥に入ろうとは思いませんの?」
「それは……」

こちらは斬新な質問だった。
まさか自分があのいけ好かないもう一人のレベル5と仲良しこよしになるなんて想像もできなかったし、
レベル4の生徒が主催する派閥に自分が入るというのは、トップとなる子にとっても自分にとっても気苦労が絶えないだろう。
だから、考えたこともない選択肢だった。

「私は結構、群れるの嫌いなタイプでさ。やっぱり派閥ってどこか上下関係が生まれるものだから、そういうのに馴染めないんだよね。
もちろん派閥ってものを否定する気はないんだけど、私には合わないというか」
「上下関係、ですの」
「やっぱまとめ役はみんなを引っ張ってかないといけないし、参加した人は集団がバラけないように、みんなと同じ方向を向かないといけないじゃない?」
「ああ、それはそうですわね」
「そういうのより、もっと自然にさ、友達同士で集まる方が楽しいなって」
「……そのほうが、御坂さんらしい気がしますわね」
「ぅえっ? そ、そうかなー。って、ごめん。黒子を待たせてるから、そろそろ行くわね」
「ええ、ごきげんよう」
「それじゃ」

最後のドタバタとした動きは、照れ隠しだったのかもしれない。美琴を見送りながら、光子はぼんやりとそう考えた。
そして先程の会話を反芻する。上下関係、という言葉が光子の脳裏でリフレインしていた。
幼少期から構築しようとしてきた友人関係は、たぶん派閥を組むのに近い、自分が頂点にいるタイプだと思う。
自分で認めるのもなんだが、裕福な家庭に生まれて、ちやほやされて育ってきたというのは紛れもない事実だろう。
お父様の薫陶を受けて、尊敬を集めるだけの人であれと努力してきたつもりだったけれど、転校前の知り合いで今も連絡の続く相手がいないのを考えれば、自分はきっと。

「友達として、必要とされてきませんでしたのね、私は」

例えば美琴との間に、上下関係はないと思う。あちらがどう思っているのか、光子に心が読めるわけではないから絶対的な答えはないけれど、たぶん、間違っていないだろう。そういう関係を、作っていくべきだったのだ。

「上条さんは、嫌な方ですわね」

こんな風に落ち込んでしまうのは全部、元を正せば自分が悪い。だけど少し、恨まずにはいられなかった。

「……お昼を摂りませんと」

食欲もさほど湧かないが、食べなければ午後が余計に辛くなる。ふうっとため息をひとつついて、光子は顔を上げた。
すると。

「あら、婚后様」
「ごきげんよう」

湾内(わんない)と泡浮(あわつき)の二人が、職員室の方から出てくるところだった。

「ごきげんよう、お二人とも。なにか御用でもありましたの?」
「はい。水泳部の先生から、まとめておいたデータを提出するように言われましたので届けに行っていましたの」

二人は水泳部の所属で、ともに流体操作系の能力者だ。
泡浮の方はプールの塩素にも色褪せのしない長い黒髪の持ち主で、湾内の方も、傷んだ感じなど微塵も感じさせないふんわりとした栗毛の少女だった。
どちらも結構いいスタイルをしているのだが、プロポーションについては光子自身がさらにその上を行くので、美琴と違ってどうとも思わない。

「婚后様はどうしてこちらに?」
「え? 私はたまには違う場所でお昼をいただこうかと思いまして」
「まあ、そうでしたの」

湾内が泡浮にさっと視線を送り、軽く頷き合う。

「私たちも今からお昼ご飯のつもりでしたの。もし婚后様がどなたかとご予定があるのでなかったら……」

そんな風に、提案してくれた。
この二人は編入の光子と同じ、今年の四月に入学してきた一年生だ。
学年は違うけれど、同じタイミングで入学し、同じ寮内に住んでいることもあり、こうして時折食事を共にするのだった。
年上であり、レベルも上である光子のことを素朴に慕ってくれていて、この二人といる時間は、美琴といる時間とはまた違う感じだけれど、楽しかった。
光子は別に、一緒に昼を食べる相手は決まっていない。いつもどおりに誘いに乗ろうと思って、口ごもった。

「ええ、よろしいです……いえ」
「婚后様?」
「どうかなさいましたの?」

ご一緒にいかがですかと尋ねられて、よろしいですわ、とこれまで答えを返してきたけれど。
そういうところが、当麻に指摘されたところなんじゃないだろうか。

「……ちょうど独りでしたの。ご一緒させて頂けたら、嬉しいですわ」

だからそんな風に、光子は返事をした。
その光子の雰囲気がいつもと違うのを感じて、泡浮と湾内は不思議に思った。だが、嫌な感じではない。
いつも自信に満ちていて力強い光子の笑顔はおとなしい二人にとって憧れの対象だったけれど、今みたいな優しい笑顔は、なんだか近しい感じがした。


「だったらちょうど良かったですわ。もう五分も過ぎてしまいましたから、早く向かいましょう」

そう言って、湾内はごく軽く、光子と腕を絡めた。

「わ、湾内さん?」
「あら、ずるいですわ。それじゃあ私も」
「ちょ、ちょっと泡浮さんまで」

反対側の腕をとって、泡浮がカフェへと先導し始めた。
初めて会ってから、もう数ヶ月になる。なのにこんなフランクなスキンシップは、初めてだった。
なぜそんなに二人の態度が変化したのか、光子は驚かずに入られなかった。

「今日はどうしましたの?」
「えっ? あの、ご迷惑でしたか?」

二人の腕が、少し迷うように動きをよどませた。
この二人と自分の間には、学年という隔たりがある。年長の自分が迷惑だと言えば、きっと二人は謝罪をするだろう。
そんなの、全然本意じゃない。

「そんなこと、ありませんわ」

両腕の二人を引き寄せる。三人並ぶと常盤台の廊下も狭くなる。何事かとこちらに向けてくる視線が結構あった。

「今日の婚后様は、ちょっとお優しい感じがして」
「そ、そうかしら?」

それにしたって、こんなにも親しげに振舞ってくれるものだろうか。いつもは、光子を立てるように少し後ろから付いてきてくれるのだが。
実際には、だんだんと仲良くなってきて、軽く手をつなぐくらいの下地はもうあったのだ。
今日の光子の変化が、それを後押ししただけ。ただそんなことは光子にはわからなくて、驚きを隠せなかった。
そのまま、周囲の邪魔になりながら、カフェへと降りた。
さすがに注文は手をつないだままでは無理だから、仲良く注文を済ませ、席を探す。

「婚后様。こちらにしましょう」

空いていた席を手早く泡浮が見つけてくれて、三人は昼を摂り始めた。
食事を彩る話題は、いつもどおり他愛もないものだ。
だけど、改めてその内容について考えてみると、ちゃんと、光子に対して気遣いをしてくれている。
二人は同じ部活、同学年、同クラス。だから内容によっては光子を置いてけぼりにする可能性は結構ある。
だけどそうなりそうになるたび、どちらかが注釈を加えてくれたり、話題を自然と光子の参加しやすいものにしてくれたりしていた。
もちろん、今までだってそれに気づいていなかったわけではない。
だけどそういった気遣いを、自分はありがたいとも思わず、当たり前のように受け取っていたと思う。


「湾内さん、泡浮さん」

二人が食事を終え、アイスティーのストローに口をつけたところで、光子は改めて二人の名前を呼んだ。

「はい、なんでしょうか」
「今更、こんなことを言っても仕方ありませんけれど」

目立たぬよう座ったままだったけれど、光子は髪を手で押さえ、深く頭を下げた。

「至らぬ私に付き合わせて、ごめんなさい」
「えっ……?」
「こ、婚后様? 一体どうなさったんですの?」
「何度もこうやってお食事に誘っていただいたりしてきましたけれど、その度に、私は失礼な態度をとり続けてきましたわ。お二人が後輩なのをいいことに」
「そ、そんな。失礼だなんて、私たちはそんなこと少しも思っていませんわ!」
「そうです! だから婚后様、どうかお顔を上げてくださいませ」

見ると、とんでもない失態でもやったかのように、二人が狼狽していた。
二人にしてみれば、仲良くしている先輩から、突然理由不明に謝られたも同然なのだ。

「あの、婚后様。私こそ失礼でしたらごめんなさい。今日の婚后様は、どこか様子が変わっていらっしゃいましたけれど、どうかされましたの?」
「私も同じことを感じていました。失礼でしたら、謝ります」

今度は逆に、二人に謝られてしまった。それも二人はカフェのど真ん中で、直立してだ。

「ちょ、ちょっとお二人ともおかけになって。謝られる理由なんてありませんし、ほら、目立ってしまいますわ」

慌てて二人を座らせて、不安げな二人に向けてなるべく優しい笑みを浮かべる。

「ええと、まずはその、混乱させてごめんなさい。はじめに謝ったのは、やっぱりけじめとして必要なことと、思ったからですわ」
「はあ……」
「つい昨日のことだったんですけれど、とある方から、私が知り合いに接するときの態度が傲慢だと、そんな風に指摘をいただきましたの」
「そんなことありませんわ! その方は、きっと婚后様のこと、誤解してらっしゃいます」

怒ったように、湾内がそうフォローをしてくれた。純粋にそれを嬉しく思う。だけど、やっぱり当麻の言葉は誤解なんかじゃなくて、一定の真実を含んでいたと思う。

「ありがとう、湾内さん。でもやっぱりそれは事実だと思いますの。
 お二人とこうやってお会いするときも、いつもお二人に誘ってもらうのを待って、お誘いに乗って差し上げる、なんて態度をとってきましたわ。
 おしゃべりの中でだって、私の自慢めいた話なんかしてしまって」
「……でも、それを嫌だって思ったことは、ありませんもの」

戸惑いながらも、泡浮がそう否定する。

「そう思っていただけて、本当に僥倖ですわ。……謝りたかったのは、こういうことでしたの。それと二人には、改めてお願いがありますの」
「なんでしょうか」
「何でも仰ってくださいませ。婚后様のお力になりたいですわ」

二人から、随分と真剣な目で見つめられてしまう。その視線に励まされて、光子は今まで、言えなかったその言葉を、口にした。

「泡浮さん、湾内さん。わたくしと、お友達になっていただけませんか」

二人は、示し合わせたように笑みを浮かべ、

「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。婚后さん」

そう、唱和した。

食事を終えて、教室へと戻る。学年が違うから、改めて『お友達』になった湾内と泡浮とは当然別行動になる。

「お二人とも、本当にはしゃいで仕方ないんですから」

嬉しかったのは、もしかしたら泡浮たちもだったのだろうか。いつになく二人ははしゃいで、光子にじゃれかかってきたのだった。
友達なら失敗談だってお聞きしたいですわ、だとか、婚后さんの心を揺り動かした方って、
もしかして女性じゃなくて殿方では……だのと、いつもなら質問を控えるようなところまで尋ねてきて、光子も困ってしまったのだった。
特に、昨日会った相手が男性だったというのは、二人の興味に俄然火をつけたらしかった。困ったものだ。別に当麻とは、なんでもないのに。
でも、お礼は言いたいと思う。連絡先の交換はしていないから、探すには名前しか頼れるものがないのだけれど。

「あ、婚后さん」
「御坂さん」

後ろから、美琴が追いかけてきた。

「さっきのアレ、なんだったの?」
「えっ?」
「離れてたけど、私と黒子もカフェにいたから。泡浮さんと湾内さんがすっごい謝ってたの、なんだったのかなーって。しかもそのあと普通に楽しそうに話してるし」

これがもし、先輩に対する粗相で後輩が真剣に謝っていたのなら、美琴とて尋ねるのをためらっただろう。だがそういうのではなさそうだった。
そういう状況を美琴が分かっているのが光子にも察せられたので、説明する前に、美琴にも改めてお願いをしようと思う。

「同じことで、御坂さんにもお話がありましたの」
「え、私に?」

美琴も、まったく心当たりがない、という顔だった。

「こちらに編入してきてから、御坂さんには本当に良くしていただきましたわ。至らないところも多い私に対して、色々と親身になってくださって」
「へっ? いやあの、婚后さん?」

美琴にしてみれば、そんな大したことをした覚えがない。ちょっと道案内をしただとか、常盤台独特のしきたりについて教えてあげたりだとか、そんな程度だ。

「私が一体どれだけのものを返せるのか、わかりませんけれど。御坂さん、わたくしと、お友達になっていただけませんか?」
「……っっ!!」

奇妙な顔をして、美琴は黙りこくった。そしてだんだんと顔を赤くして、そっぽを向く。
反則だ、と美琴は心の中でつぶやいていた。だって今更だ。こっちは、とっくに。

「あの、御坂さん」
「……私は、ずっと友達だと、その、思ってたん、ですけど」
「えっ?」
「だってそうでしょ! 同級生で一緒にご飯食べてんのに友達じゃないとか変じゃない」
「そ、そういうものかしら」
「そうよ。もう、どんなこと言われるのかと思ったら。びっくりしたじゃない」
「でも、私にとっては大事なことだったんです」
「……そっか。まあ、改まると恥ずかしいけどさ、これからもよろしくね」
「ええ。こちらこそ」

光子は、美琴に優しくほほえみ返した。
それにしても、なんだこんなことだったのか、と拍子抜けすらしてしまいそうだ。
親しい友達を作るというのは、もっと困難を伴うものだと感じていたのに。

「お姉さまぁー! ちょっと待ってくださいですの!」
「え、黒子?」

美琴の後ろの階段から、白井が大急ぎで駆け上がってきた。

「どうしたの? こっち、二年の教室じゃない」
「お姉さまが勝手に先に行かれるからですわ。お別れの挨拶がまだでしたのに」
「挨拶って……いらないわよそんなの。トイレ行くっていうから、また後でねって言ったじゃない」
「黒子がしたいんですの。それじゃあ、お姉さま、ごきげんよう」
「あーうん。またね」

ごきげんようの一言のためにわざわざここまで来た白井と、それをすげなくあしらう美琴。
なんだか親しい関係なのに温度差があるように感じられる。だけど決して一方通行の関係のようには見えなかった。
あれはあれで、二人の間に信頼関係があるのだろう。

「仲、よろしいのね」

これまでみたいに羨ましさを隠すわけじゃなくて、ああ、仲がいいんだなと光子は感想を呟いた。
その言葉でようやく光子の存在に気づいたように、白井がこちらに視線を向けて美琴に見せるのとは全然違う顔をした。

「婚后光子? 一体何の用ですの」
「私はお友達の御坂さんとお話をしていただけですわ」
「友達……? あなたとお姉さまが?」
「何かご不振な点でもお有り?」

そう質問を返してやると、確認を取るように白井は美琴を見上げた。

「何よ」
「この女の言ったことは真実でしょうか」
「もう。なんで二回も確認されなきゃいけないんだか。……私はそう思ってるわよ」

ちょっと拗ねたように、美琴はそう認めた。白井はその反応を見て面白くなさそうに舌打ちした。
その顔を見ていると、つい、光子の中に湧いてくる感情がある。
それは泡浮や湾内、美琴に対して持ったものとは明らかに異なっていた。

「つまり、私と白井さんはお友達のお友達ということになりますわね。この際だから、お友達になってあげてもよろしくってよ?」

これまでの光子のように。白井の目線に合わせようとすることなく、光子はそう宣言した。
白井は一瞬ぽかんとしたあと、先程の倍くらい苦い顔をしてこちらを睨みつけた。

「ハァ? 勘違いも甚だしいですわね。一体何の得があって私が貴女と友誼を結ばなければなりませんの。お友達を増やしたいのなら他を当たることですわね」

その険のある態度は、きっと白井以外から向けられたら落ち込んだことだろう。
だが白井からならば、なんとなくこれでもいいかと思えてしまう光子だった。

「そう。残念ですわね。ところで、それならば私は二年で、貴女は一年なのだから、私たちの関係にふさわしい態度をお取りになったら?
 模範的生徒、風紀委員の白井さん?」
「これまでの失礼なそっちの態度を鑑みればこれでも十分すぎるくらい丁寧ですわ」

フンッ、とそっぽをむいた白井を心の中でクスリと笑って、光子は手にした扇子をパタンとたたんだ。

「まあ、別に本当に下手に出て欲しいというわけではありませんから、それでよろしいわ。それではお二人とも、ごきげんよう」

光子はカジュアルでいながら優雅な一例をして、二人に背を向けた。

「黒子、もうちょっとマシな受け答えの仕方ってもんがあるでしょうが」
「ですがお姉さま」

自分がいなくなった途端声に甘えた感じの響きが混じる白井に苦笑しながら、光子は教室へと歩いていった。

それから数日。光子は再び、学舎の園から外に出て、人通りの多い道を歩いていた。
三度目ともなるとそこまで挙動不審にはならない。
よくよく見てみれば、時折常盤台の制服を着た生徒を見かけるし、きっとこれくらいは普通のことなのだろう。
光子がわざわざ街に繰り出したのは、一番の理由としては、この間のペットショップを訪れるためだ。
学舎の園の中のペットショップよりも品揃えがよかったので、エカテリーナちゃんの口に合うものをあれこれ試した結果、
ここで継続的に注文を頼むのがいいという結論に達したのだった。
けれど、その足取りは、店へと直行というわけではなかった。
知っている、つまりは既に通った道だからというのもあるけれど、先日当麻に出会った道を、きちんとなぞっているのだった。
理由は、もし、偶然にでも会えたなら、お礼を言おうと思ったからだ。
さすがに自分の方から、名前を頼りに探し出してお礼をするというのは敷居が高い。
けれど、これまでに当麻と出会った場所を通れば、会えるかもしれない。そう思っての行動だった。
だからついついあちこち見渡してしまうし、似た声が聞こえると振り返ってしまう光子だった。

「……二度とも、普段とは違うところに来たって言ってましたものね」

だからまあ、きっと会えないだろうと思っていた。
全速力で近づいてくる、そのツンツン頭の一部が見えるまでは。

「あっ……!」
「ちょっとすいませーん、通りまーす」

割と焦った顔をして、当麻がこちらの方に近づいてくる。だけどその目はまるで光子になんて気がついていないふうだった。

「あのっ、上条さん」

と、声をかけてみる。だがあちらはまるで気づくことなく、そのまま光子の前を通り過ぎようとする。
それではわざわざ街に出てきたかいがないし、せっかく声をかけたのに素通りされるのは面白くない。

「上条さんっ!」
「え?」

びっくりしたようにこちらを振り返って、当麻がようやく足を止めてくれた。

「あれ、婚后か。どうしたんだ? また放課後の冒険中か?」
「だから冒険なんて言い方、やめてくださいって言いましたのに。それで、上条さん。今お時間は……」
「え? えっと」

当麻が視線を泳がせた。その先ではそのへんにありそうなごく普通のスーパーマーケットが大量の人を集めているところだった。
店員が入口で何かをがなり立てている。日本語のはずなのだが、光子は何を言っているのかを全く聞き取れなかった。

「すまん、タイムセール目当てでここに来たんだ。婚后の用事って急ぐか?」
「えっ? いえ、そういうわけでは……」
「問題なけりゃ、15分くらい後じゃダメか? 今日は月イチのセールなんだ。
 米は5キロ1400円、卵はLサイズ10個58円おひとりさま2パックまで、あときゅうりも3本で80円!」
「あ、あの、わかりましたから。それにお手伝いが必要でしたら――」
「マジ?!」

救い主を見た、と言わんばかりの目の輝きに光子は思わずたじろいだ。

「じゃあ卵の協力頼む!」

そう行って勢い勇む当麻に、光子は慌てて付き従った。

それからの五分は、まさにこれぞ庶民の暮らしと言わんばかりの熱気だった。
卵のコーナーに真っ先に向かったが、そこには既に人だかりができており、二人が他の買い物を済ませてレジに向かう頃にはもう売り切れていた。
光子は光子で、卵を40個も買っていったいどうする気なのか不思議でならなかったのだが、とてもゆっくりとそれを尋ねられるような雰囲気ではなかった。

「こちらがお釣りとレシートになります。ありがとうございました」

光子の後ろでは、当麻が会計を済ませていた。あとは店から出て一言お礼をいえばいいだけなのだが、
なんというか、そういう改まった雰囲気がすっかり吹き飛んでしまっていた。
そんな光子の困惑などお構いなしに、満足気な当麻は光子を促して道の隅へと誘った。

「婚后、ありがとな」
「いえ、別に大したことをしたわけではありませんから……」

光子はそう言いながら自分が手にした方のビニール袋を当麻に手渡した。それを大事そうに受け取り、ようやく一段落、という顔をした。

「それで、付き合わせちまってからでなんだけど、どんな用だったんだ?」

どう切り出したものかとためらう光子と対照に、当麻はこれっぽっちもこちらが何をしようとしているのかに気づかないらしい。
その無頓着な態度に、ちょっとムッとなる。

「こないだのお礼を、と思ってお探ししましたのに……」
「え?」
「なんでもありません!」

小声で愚痴を呟いて、光子は気持ちを切り替えた。お礼をしたいなんて思ったのも、忙しそうな当麻を引き止めたのも、全部自分の都合でやったことなのだ。
それで文句を言うのは筋違いなのも事実だ。

「……上条さん」
「ん?」
「先日は、どうもありがとうございました」

光子がそう言って、丁寧に腰を折った。その動きに合わせて流れる髪が綺麗で、うっかり当麻はそちらに気を取られてしまった。

「あ、うん……。その、なんの話?」
「え?」

お礼を言われる理由がわからなかったから単純に聞き返しただけなのだが、当麻のそんな態度に対し、まるで信じられないものを見たかのように、光子が絶句した。

「こないだ、アドバイスをしていただいた件について、お礼を言わせていただこうと……」
「アドバイス? ……って、友達がどうのってヤツ?」
「ええ」

律儀だなあ、というのが当麻の率直な感想だった。というか、あんなのは。

「お礼を言ってもらうような大層なことじゃなかったと思うけど。それにさ、婚后を結構怒らせたし」
「そ、そんなことありませんわ。それに、ああしてお声をかけていただいたおかげで、
 私自身、周囲の友人達との関係で、変われたと思ったところが有りましたの。だから、お礼を言いたくて」
「ほんとに大したことじゃなかったつもりなんだけどさ。でも、それでいい方向に進んだんだったら、ま、お礼を言われて悪い気はしないよな」

当麻だって彼女が欲しいお年頃の、普通の男子高校生だ。女の子の方からお近づきになってくれるなんて幸運以外の何物でもない。
そういう下心めいたものが当麻には無きにしもあらずだったのだが、軽く微笑んだ当麻を見て、光子の方も気持ちが軽くなった。
こうして礼を言おうとしたのは、当麻に知って欲しかったからなのだ。当麻のアドバイスで、こんなにも自分を取り巻く環境が変わったのだと。
もちろん当麻に対してたくさんの感謝の念は持っているけれど、それとは少し趣を異にする願いが光子自身が自覚しないところで含まれていた。
すなわち、当麻に自分のことを見て欲しいという。

「でも。俺が言いたかったのはあくまでさ、勿体ない、ってことだったんだけどな」
「え?」

当麻の言うことがわからなくて、光子は首をかしげた。当麻も伝わらないことはある程度分かっていたのだろう。
だが続きを言うかどうか逡巡、いや、照れているようで、鼻の頭を掻いて空を見上げた。

「あの、どういうことですの?」
「……婚后が何か変われたってんなら、それは俺がどうこうしたって訳じゃないよ」

照れくさそうな当麻の目が、光子にすっと向けられた。その瞬間、光子は訳も分からず、何も言えなくなった。

「婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ」
「――――ぁ」

思わず、呼吸が止まった。
そして、二人の間に完全な沈黙が訪れた。
光子はかあっと頬が火照って、頭が仕事をするのをやめてしまったから。
当麻は、あんまりにも気障ったらしいというか、光子に変に思われるようなことを言ったんじゃないかと心配になったから。
そうして、やがてその沈黙がむしろ二人を圧迫するようになって、ようやく当麻が口を開いた。

「ごめん。変なこと言っちまって」
「えっ? そ、そんなこと、ありませんわ。ちょっと、どうしていいかわからなくなってしまって……」
「別に婚后のこと、そんなに知ってるわけでもないのに偉そうなことばっかり言ってるからさ」
「そんなこと、ありませんわ。本当に私、上条さんに会えて嬉しくって……」
「え?」
「あっ、ち、ちがいますの。お礼を言いたかったから、会えて良かったという意味ですわ!」
「だ、だよな」

光子は恥ずかしくてさらに頭がぼうっとしてしまっていた。だって、今の言葉は意味深すぎる。そんなつもりじゃ、なかったはずなのに。
それに当麻の態度だって、別に嫌そうには見えなかったし。

「そうですわ。お礼なんて言っておきながら、言葉で伝えるだけで済ますというのは婚后光子の名が廃ります。何か私に出来ることはありません?」

身を乗り出すようにしてそう尋ねる光子に、当麻は半歩ほどたじろいで対応した。きっと間を埋めるためなのだろうけど、ちょっと挙動不審な感じがした。

「え、出来ることって」
「上条さんの学業や能力開発のお手伝いをするとか」
「い、いや。能力の方は無理だと思うし、さすがに勉強でも中学生じゃさ」
「でしたら、お忙しい上条さんのかわりにお夕飯を作らせていただくとか」
「――え、作れるの?」

瞬間。はたと、光子の動きが止まった。どうみてもその顔は作れないのに勢いで言ってしまったという顔だった。

「……え、ええ。シェフには遠く及びませんけれど、少しくらいは」
「そうなのか」

表情を変えないようにしながら、つい当麻は心の中で笑ってしまった。たぶん、ちょっと意地の悪い笑いだった。

「それじゃどんなものを作ってもらおうかな」
「……な、なんでも仰ってくださいな」
「フランス料理のコースとか?」
「上条さんが、お望みでしたら」

今の無茶振りはイマイチだった。当麻の方が料理の中身すら想像できない一方、光子はそっちのほうは腕はともかく知識はたっぷりあるのだろう。

「んーでも善し悪しがいまいちわかんないしな。親子丼とか生姜焼きとかそういう簡単なのでいいや」
「え、ええ……わかりました」

露骨にこちらの方が、心配そうな顔になった。

「それとさ、さっきからちょっと気になってたんだけど」
「ええ、なんでしょうか」
これを突っ込むのは、ちょっと当麻も恥ずかしかった。
「料理を、うちに作りに来てくれるってことだよな? 俺の家、一人暮らしの学生寮なんだけど」
「――――」

あっ、と問題に気づいたような顔をして、手で軽く口元を抑えながら、光子がまた沈黙した。
もう、夕日でも隠せないくらい、頬が朱に染まっていた。
さすがに当麻も、まずいと思い始めていた。光子は、素直すぎる。
からかうと面白いけれど、これ以上は知り合い程度の女の子にしていい範囲を、逸脱してしまうだろう。
そう自制を促す気持ちを脳裏で確かに感じていたが、当麻はそこで言葉を止めることを、しなかった。

「まあ、婚后が来てくれるって言うなら、大歓迎だけどさ」
「っ!」

光子が息を呑んだ。

「……でもやっぱ、良くないよな。高校生くらいになると、女の子を家に上げるってのはやっぱりまずいことだと思うし。
 だから料理の件は、婚后が料理の練習をしてからってことで」

場の雰囲気を変えるように、意地の悪い感じを押し出して光子に笑いかける。
その当麻の表情の意味に光子もすぐ気付いた。

「えっ? か、上条さん! もしかして――」
「見ればわかるって。婚后は、そういうとこあんまり裏表ないし。それにお嬢様なんだから料理したことなくても別に普通だろ」
「おからかいになったのね」
「見栄を張った婚后の方が悪い」
「でも」

つんと尖らせた唇が可愛かった。恨めしそうにこちらを上目遣いで見つめるその姿勢に、つい惹かれずには居られなかった。

「ごめん。婚后をからかうの、ちょっと楽しくてさ。……それで、さ。話があるんだけど」
「はあ、なんでしょうか」
「これで解散したら、また会えないだろ?」
「えっ? あ……そういうことに、なりますわね」

声に、寂しげな響きが混じった。少なくとも当麻はそう感じた。そんな光子の変化に勇気づけられて、当麻は続きを口にした。

「だから、ほら、アドレスくらい交換しとこうぜ」

そう言って当麻が差し伸べた手を、光子は思わずじっと見つめた。

「……まずかったか?」
「いいえ。そんなこと、ありませんわ」

思わず笑みが浮かんでしまった。また単純だと、当麻には思われているのかもしれない。
ポケットを探って、携帯を取り出した。そして簡単な操作を行うと、当麻の携帯の番号がディスプレイに表示された。
別に数字やアドレスそのものはなんの変哲もない無機質なものなのだが、その文字の羅列が光子には特別に見えた。

「よし」

これで無事交換できた、と二人共がホッとしたその瞬間だった。
チリンチリンとせわしない自転車のアラームが、邪魔と言わんばかりに二人に向けられた。

「きゃっ?!」
「婚后!」

ぼうっとしていた光子が、跳ねるように自転車をよけて、当麻の方に迫った。倒れるのではないかと思って、当麻は思わず手をだして――
ふよんと、柔らかい感覚が手のひらいっぱいに広がった。

「え?」
「え?」

二人がはじめに感じたのは、戸惑い。そして互いが互いにどんな状態になったのかを理解した瞬間。光子の顔がまた、真っ赤になった。

「あ、あ、」
「ごめん!」

初めてだった。光子が、幼い子供の頃はいざ知らず、心と体が女らしさを帯びてからは、こんなことは一度だってなかった。
それはもっと大人になったとき、大切な人にだけ、許すものだ。そう教わってきた。
だから、処理できないくらいの羞恥を、光子は感じていた。
だけど予想に反して、当然伴っているはずの嫌悪は、心の中に湧き上がってこなかった。
むしろまた当麻に謝らせてしまったと、場違いなことを考えていた。

「その、言い訳なんてできないけど」
「……分かっていますわ。その、もうこれ以上はなにも仰らないで」
「あ、ああ。ごめん」
「私の方こそ、その、どうしていいかわからなくって。今日のところは、そろそろお暇しますわ」
「そう、だな。わかった」

完全下校時刻まで、もうあまり時間もない。確かに潮時だった。

「それじゃあ上条さん、重ね重ねありがとうございました」
「俺は大したことはしてないさ。それじゃ」
「――――次は」

そこまでを言ったところで、光子の言葉は途切れてしまった。
言わないと、いつでも連絡が取れるのに、連絡が来ないような気が、したのだった。
だけどそれ以上は、言えなくて。

「……」

うつむいた光子を見て、当麻は、その続きを紡ぐべきか、少しだけ迷った。
だがやがて、離れた光子に一歩近づいて、その瞳をのぞき込んだ。

「次の日曜日、暇か?」
「えっ?」
「俺は試験明けでさ。婚后が暇なんだったら、少しくらい遊ばないか」
「――――」

ぼうっと、光子がこちらを見上げる。返事はないのに、視線だけが絡まった。

「あの、婚后?」
「わかりました。お時間、開けておきますから。それでは、あの、ごきげんよう」

そう言って、当麻が返事を返すより先に踵を返し、光子はカツカツと立ち去った。

「また、連絡するから」

その背中に声をかけると、びくりと立ち止まって、少しだけ会釈を返してまた歩き始めた。
嫌われたとかでなくて、照れているのだと、そう信じたい。

「……帰るか、俺も」

試しに二三歩歩いてみると、自分もなんだかふわふわとしていて、まるで落ち着いていなかった。
いつも持ち歩く傷だらけの携帯を、なくさないようにポケットの奥底にきっちりしまって、当麻も自分の家路を急いだ。
当麻は気付かなかったけれど、そっと携帯を手で包んで、大切そうに握り締めた光子の横顔は、夢を見ているように微笑んでいた。

『prologue 03: 人と人の距離』おしまい
ラブコメ体質の上条さんに、インデックスさんというコブも美琴のようなすれ違い属性もなければこうなります、という話でした。


「泡浮さん、湾内さん。外にお出かけになるときの服って、制服以外にどのようなものをお持ちですの?」
「え?」

二人は、光子からのそんな唐突な質問に、揃って首をかしげた。
場所は常盤台の学生寮。時刻は夕食を終えてすぐ、就寝までの自由時間となっている。
それぞれの個室に戻ってからは特に何時に消灯しろといった義務はないが、こうしてラウンジで部屋の異なる友人とくつろげる時間はある程度限られている。
もちろん友人の個室にお邪魔することは可能だが、話し声がうるさいとすぐに寮監が飛んでくる。

「どうされましたの、婚后さん」
「もう夏休みのご予定をお考えですの?」

夏至を過ぎてまだ日も浅い。ラウンジの窓から眺める空は依然として夕焼け色をたたえている。
とはいえ夏休みに思いを馳せるには、まだいくばくか日が残っている時期だった。

「いえ、夏休みのことではなくって、その、次の日曜のことなんですけれど」

光子は改めて問うような視線を投げかけた。
常盤台は、外出時は原則制服着用が校則となっている。概ねそれは守られているのだが、校則というのは必ず誰かは破るものだ。
泡浮と湾内は顔を見合わせ、自分の手持ちの服を思案した。

「入学前の夏に買ったものが一通りありますけれど、そういえば今年の夏物はまだ買いに行っていませんわ」
「常盤台に入学すると皆さん口を揃えて言いますけれど、服を見に行く機会が減ってしまって」

着る見込みも見せる見込みもない服を買う趣味は、いかに少女たちといえど持ち合わせて居ない。
校内校外を問わず制服姿を指定されている常盤台生にとってのファッションとは、拘束の中わずかに与えられた自由度、
たとえば髪留めやリボンだとか、靴下やブラウス、さらにはその下に着るものに限られるのだった。
靴下やブラウスは色や形がほとんど決められているから、敏感な子などはボタンのデザインにすら気をつかったりする。
下着のほうも、二人の同級生の中に、色っぽいとかおしゃれを通り越して扇情的といっていいものを愛用する風紀委員がいたりする。
二人も多分に漏れずこうした小物のファッションには気を使っているのだが、私服の方はどうもアンテナが鈍っているらしかった。

「今年はどのようなものが流行りなんでしょうか」
「今週末は服を見に出かけませんこと? 婚后さんではありませんけれど、両親のところに帰るときに制服しかないのでは外に出られませんもの」
「いいですわね。私は賛成ですわ。婚后さんもご一緒しましょう」
「え、ええ。それは私としても望んでいたことなのですけれど……」

実は光子の悩みは、もうちょっと根本的かつ、深いのだった。

「どうかされましたの?」

歯切れの悪い光子の態度に、湾内が首をかしげる。

「実は、その。例えば遊園地に遊びに行くのにふさわしい私服というのは、どういうものかしら、って」
「遊園地、ですの?」
「ええ。……お恥ずかしながら、そういうところに私服で行ったこと、ありませんの。
 家では普段着が和物でしたし、パーティに来ていくようなドレスや、バカンス用のワンピースではちょっと場所に合わないんではないかと思ってしまって」

要は、街中を遊び歩くような服に、光子はとんと縁がないのだった。

「アトラクションに色々お乗りになるんでしたら、スカートよりはデニムのジーンズだとかの方がよろしいかも知れませんわね」
「はあ、ジーンズ、ですの」
「最近は非常に短いものが流行っていますけれから、そういったものとか……。あとは歩くのが前提でしたら、足回りから決めるのも手ですわね」
「お二人はそういうの、着ていましたの?」

勧めてくれた泡浮のほうは、素直にコクリとうなずいた。しかし湾内はそうでもないらしい。

「私、ほとんどスカートしか持っていませんの。ちょっと長めのスカートが好きで、そういうのばっかり集めていましたから」

なんとなくそれもわかる気がした。泡浮よりもさらにおっとりとしたところにある湾内は、ふんわりしたスカートなんかが似合いそうだ。

「考えたらそういう雑誌のひとつも持っていませんわ、私」
「常盤台に持ち込むのが、憚られますものね」

別に禁止もされていないし、学舎の園の中でも普通に買えるのだが、入学してまだ数ヶ月の二人にとってはまだ冒険的な買い物なのだった。

「婚后さんのスタイルでしたら、きっとどんな格好をしてもお似合いになりますけれど、どういったコンセプトを考えておられますの?」
「コンセプト、ですの?」
「ええ。バカンス風か、街中で見かけるような感じか、カジュアル寄りかフォーマル寄りか、お友達と遊ぶのか、ご両親と一緒なのか」
「ああ――」
そう納得しかけた光子にかぶせるように、泡浮が言葉を重ねる。


「あとは、恋人と過ごされるとか」
「えっ?!」
その指摘に、おもわず光子はドキリとなる。だって、この服選びを二人に相談している理由は。
――当麻に、遊びにいかないかと、誘われたからなのだった。

「その反応、もしかして、まさか婚后さん?!」
「本当に『そう』なんですの?!」

文字通りガタッと音を立てて、二人は座っていた椅子から飛び上がった。
上品というにはどこでも会話に花が咲きすぎているラウンジだから、周囲の学生たちはチラリと光子たちを一瞥すると、すぐに興味の対象は逸れていった。
だがそんな周りの目に関係なく、二人がずずいっと光子に迫ってきた。

「ちょ、ちょっとお二人ともお待ちになって!」
「待てと言われて待てる話ではありませんわ! どこでお知り合いになりましたの? まさかずっと前からとか」
「い、いえ。そんなんじゃありませんのよ。知り合ったのだって別に最近で……」
「最近?! でも婚后さん、そんな風には」
「違いますわよ湾内さん、だって、私たちが婚后様ではなくて、婚后さんってお呼びし始めたのって最近のことでしょう。
 きっとあの時婚后さんがお変わりになったのって、その方の――」
「そういうことでしたのっ? 以前は婚后さんは憧れの方でしたけれど、あれからはなんだかお顔も優しくなって、
 同性の私が言うのもなんですけれど、とってもお綺麗になりましたし」
「やっぱりそう思いますわよね。やっぱり恋は人を綺麗にするって、本当なんですわね」
「ちょ、ちょっと! お二人とも話が飛躍しすぎですわ! 別にそういう話じゃありませんのよ」

どんどん飛躍していく二人の話を必死に静止すべく、光子はなんとか口をはさむ。
だがもはや好奇心の塊となった二人にとっては、それすら光子の弱点を探る糸口でしかなかった。

「じゃあどういうお話ですの? そのご一緒される方って、殿方なのでしょう?」
「わ、私一言もそんな事言っておりませんわ」
「じゃあ女の方なんですか?」
「えっ? い、いえそれは……」
「お認めにならないということはやっぱり殿方なんですわね! どうしましょう、泡浮さん。
 私、デートの経験なんてありませんから、婚后さんにアドバイスなんてできませんわ」
「そんなことを言ったら私だってそうですわ」

湾内が両手を頬にあて、ぼうっとした表情で泡浮に相談する。泡浮のほうも頬が紅潮していて、目の輝き方がおかしかった。

「で、デートではありませんわ! ただ、ちょっとご一緒して遊ぶだけで……」
「ちょっと、っておっしゃいますけれど、場所は遊園地なんでしょう?」
「え、ええ」

あの日別れ際には、どこという指定はなかったけれど、ほんの数度だけやり取りしたメールの中で、そんな風に決まったのだった。
たかだかメールの一つに1時間も悩んだのは、あれが初めてだった。
困惑しながら光子が認めると、泡浮がほらやっぱり、という顔をした。

「これがデートでなかったら、一体デートというのが何かわからなくなりますわ!」
「そんなこと……。だって、デートはお付き合いをされている男女でするものでしょう? 私、あの方とはそういう関係なわけではなくて――」
「あの方! 湾内さん聞きまして? いま婚后さんったら『あの方』なんてお呼びになって」
「ああどうしましょう。私、ちょっと暑くなってきましたわ……」

まるで尋問される側のように、湾内の頬は赤く染まっていた。
本人は男性恐怖症なところがあって実際に男子と接するとストレスを感じる方なのだが、他人の恋愛話は別腹ということらしい。
いかにも興味津々という顔で手を振ってパタパタと扇いだ。

「でも湾内さん。ちょっと周りの視線が」

さすがに大騒ぎしたせいだろう。何事かと見つめる視線や、迷惑そうな視線が集まり始めていた。これはちょっとまずい。
異性交遊と、そのために校則違反にあたる私服購入をする相談なんて、寮監に見つかったら一発で謹慎処分になるような危険なネタだ。

「婚后さん、これからご予定は?」
「え? 別に何もありませんけれど」
「じゃあ続きは私たちの部屋でしましょう! 夜を徹してでもご協力させていただきますわ」
「いえ、お気持ちは嬉しいですけれどそんなには……」

今すぐに手を引っ張ってでも行きそうな二人に、ちょっと光子はためらいを覚える。
だって根掘り葉掘りで質問をされそうな気がしてならない。それこそ本当に徹夜でもしそうな勢いで。

「とっておきの紅茶を淹れますわ。新茶の季節ですから、いいものを頂きましたの」
「まあ湾内さんたら、今からカフェインをとってどうするおつもりなのかしら」

二人とも、光子の言葉なんて聞いちゃいなかった。優しく、しかし強引に光子の手をとって、二人は光子を自室に連行した。

「どうぞ婚后さん、お入りになって」
「え、ええ。それじゃお邪魔しますわ」

勧められると断れず、光子は二人の部屋に入った。失礼にならない程度に見渡すと、光子とはまた違う、二人の趣味の反映された部屋作りとなっていた。
水生生物のモチーフや、青を基調とした物の配置なのは、やっぱり二人が水泳部員だからだろうか。

「落ち着いた感じの部屋ですわね」
「ありがとうございます。でも、こないだ掃除をしたばかりですからこうですけれど、普段はもっとひどいですわ」
「さ、婚后さんはこちらのソファへどうぞ。すぐにお茶を淹れますわ」

さっと湾内が電機ケトルを給電スタンドから外し、水を汲んで沸かし始めた。
裏では泡浮がカップやソーサーと茶葉の入った缶を取り出して準備を進めている。
何気なく銘柄を眺めると、ダージリンの夏摘み(セカンドフラッシュ)だった。さっき言っていた通り、ほぼ摘みたて縒りたての新茶だろう。
紅茶のたしなみのある光子にとって、もちろん新茶のダージリンは楽しみな一杯だ。
しかし、さっき泡浮が指摘したとおり、ダージリンはどれも発酵度が低く、カフェイン含有量は緑茶並みだろう。
こちらを寝かせないという下心があるんじゃないかと、つい疑ってしまう光子だった。

「もう少々お待ちになって、婚后さん」
「蒸らし時間が結構長めですの、これ」

そう言いながらクッキーをさらに広げ、テーブルの中心にそっと置く。
しっかりそろったティーセットを前に、簡単には離してもらえない感じの空気が漂っていた。

「あの、あまりお二人のお時間をとってはご迷惑じゃ……」
「そんなことありませんわ!」
「むしろ頼ってくださって嬉しいくらいですのに」

とんでもない、という風に言ってくれる二人の好意が嬉しい。
……そう思った光子だったが、その思いは次の言葉を聞くまでしか続かなかった。

「それに、婚后さんとその殿方のお話、あのままじゃ気になって気になって」
「ですわよね!」
「べ、別にさっきお話しした以上のことなんてありませんわ」
「そんなはずありませんわ。だって私たち、どんな出会いだったのかちっとも光景を思い浮かべられませんもの」

ねえ、といった感じで二人は顔を見合わせ頷き合い、同時に光子に向かって微笑みかけた。
いつもどおりのおっとりした、優しい笑みのはずなのに、なぜか威圧感があった。

「そろそろですわね。お茶、入りましたわ」

湾内が、お湯で温めておいたカップとソーサーに茶濾しを掛け、静かにポットから紅茶を注いだ。
真っ白なボーンチャイナに薄い緑で模様が描かれたカップに、淡い琥珀色の水色がよく映える。

「さ、入りましたわ」
「婚后さん、どうぞ召し上がって」
「ありがとうございますわ」

準備を終えた二人もソファに腰掛け、三人でカップとソーサーを手にした。
常盤台の生徒の当然のたしなみとして、三人とも音を立てずに口をつけ、そっと紅茶の香りで口の中を満たした。

「ああ、いい香り」

思わず光子はそう呟いた。しっかりと葉が色づくまで発酵させるウヴァやアッサムと違って、ダージリンは若々しい香りがする。
上等のお茶というのはどんな銘柄でもたいていは果実めいた甘い香りがするものだが、やっぱりダージリンと言えば。

「新緑の葉っぱの香りの後ろに、マスカットの香りがちゃんとしますわね」

ふう、と満足げについた光子の溜息を見て、二人は嬉しそうに頷いた。

「今日はちゃんと淹れられたみたいでよかったですわ。実はマスカテルフレーバーがちゃんと出ないこと、時々ありますの。
 自分で見つけた一番いい蒸らし時間で毎回淹れているはずなんですけれど」
「匂いは形のあるものではありませんし、捕まえるのは難しいですものね。あまり気にしないほうがいいと思いますわ。
 何も果実香だけがダージリンの良さではありませんし。あ、でもお茶の香りを引き出すいい方法がありますのよ」
「どんな方法ですの?」
「こうしますの。お二人も試してみて」

光子は小さなクッキーを一つつまみ、口に放り込んだ。二人もそれに倣う。
次はどうすればと目で問う二人に、クッキーの味と香りをしっかり楽しんでから、光子はお茶にそっと口をつけた。
二人もそれに追従し、お茶を飲んで軽く目を見開いた。

「ね?」
「あら」
「確かに……」
「甘味の余韻が残った所で飲むと、お茶の香りのうち、甘いものが引き立ちますの」
「本当、これならマスカットみたいな香りだってちゃんとわかりますわ。
 お茶とクッキーなんて、よく食べている組み合わせのはずでしたのに、初めて知りましたわ」
「あら泡浮さん、クッキーをよくお食べになるの? 運動部ですから問題ないのかしら」
「それは聞いてはいけないことですわ、婚后さん」

そう言って、三人はほっと一息ついてしまった。
そしてようやく、ここに三人で集まった用事を思い出す。

「それで、婚后さんはどのような服をお買い求めに?」
「学舎の園の中だと店が小さくて品ぞろえがよくありませんし、ある程度は方向性を決めて、買いに出かけませんと」
「え、ええ。それがいいとは私も思うんですけれど……」

その方向性、というのがよくわからないのだ。
手持ちの服から選ぶなら、ワンピースあたりだろう。和装が決定的に合わないことくらいは光子にだってわかる。
だけど、ワンピースを着て行って、当麻に変に思われないだろうか。
また、ものをわかっていない、場違いな女だと思われたりしないだろうか。

「ヒールが高いのはよくないですよね。歩くと疲れますし」
「そう、ですわね」
「スカートとパンツだったらどちらがよろしいでしょう?」

そう尋ねた湾内に光子が答えるより先に、泡浮が言葉を継いでいく。

「婚后さんはとても恰好のいいスタイルをされていますから、サンダルと細めのデニムでどうかしら」
「泡浮さん。婚后さんはデートをされるのですから、恰好のいいファッションじゃなくて、可愛いほうがいいに決まっていますわ」
「ああ、そうでしたわ。なら、スカートのほうがいいのかしら」

その後もああでもないこうでもないと、二人は提案してくれたのだが、どうにもピンと来なかった。

「ごめんなさい、優柔不断でなかなか決められなくて」
「いえ、こちらこそちょっとはしゃぎすぎでしたわ。やっぱり実物を見ないとわかりませんし、土曜日は駅前まで出て、セブンスミストで買い物するのが一番ですわね」

そう泡浮が提案してくれた。セブンスミストは光子とて名前くらいは知っている、衣料をメインに扱うショップだ。
若者向けのカジュアルな服を多く取り扱っていると聞くし、たぶん光子の目的にも合致しているだろう。

「やっぱりそれがいいのでしょうね。……でも、私がもっとちゃんとしないと駄目ですわね」

自嘲するように、光子は笑った。

「え?」
「婚后さん?」
「どんな服を着ていくのかって、どんな心づもりであの方が約束をされたのかと、切り離せないでしょう。でも、私は、それがわかっていないんですわ」

ついこないだ再び会ったことで、当麻にお礼を言うという光子の目的は果たされている。
日曜日に会うのは当麻のほうから誘いがあったからだ。それは、どういう意図を持った提案だったのだろう。

「お世話になった方とまたお会いするわけですから、失礼にならない服で、でもカジュアルなものを選ぶのがいい……そうでは、ありませんの」

誰というより、自分にそう光子は問いかけた。だがその独り言に、隣の二人は首をかしげる。


「でも、デートなんですよね? 落ち着いた服がだめってことではありませんけれど、もっと可愛らしさで服を選んだってよろしいんじゃありませんか?」
「そのほうが、お相手の殿方もきっとお喜びになるんじゃ」
「本当に、そうかしら」
「え?」

だって、当麻とは、なんでもないのだ。出会いからして色恋とは何の関係もないし、こないだだってお礼を言いに行っただけだ。
なのに、次に会う時に着飾って行って、勘違いをしていたら、どうしよう。
当麻が自分のことをなんでもない相手だと思っていて、そんな自分とただ遊ぶだけなのに、力の入ったファッションを見せてしまったら、きっと変だと思われる。

「デートなんて言葉、一度もお使いになりませんでしたから。だからこれは、そんな浮ついたものではないんですわ」
「二人っきりで遊園地で遊ぼうという提案を、デート以外の目的でされることはないと思いますけれど……」

とはいえ、ここにいる三人は、誰一人として男の子とデートをしたことがない。確証を持って、当麻の意図を判断することは誰にもできなかった。

「婚后さん」
「どうされましたの、泡浮さん」
「もし今からいうことでご気分を害されましたら、謝ります。でも、婚后さんに、聞きたくて」
「……どうぞ。なんでもお聞きになって。謝ることもありませんわ」

その前置きに、光子は少し身構えた。だけどこの二人はいたずらに人を傷つけるようなことをいうタイプではない。
だから、今からいうことは踏み込んだ質問であっても、不躾なものではないだろう。

「婚后さんは、どうなさりたいんですの?」
「え?」
「当事者でもない私が言うのは、ずるいかもしれませんけれど。どんな服を着るかって、お相手の方の心づもりよりも、
 婚后さんが、そのお相手の方にどう思ってほしいかで決めるべきだと思います」
「私が、あの方にどう思ってほしいか」
「はい」
「そ、そんなこと……」

おかしな女だとは、思われたくない。友達の少ない、駄目な女だとは思われたくない。
婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ、と。当麻はそう言ってくれた。
それが真実であるような、そんな女でありたい。そう当麻にも思ってほしい。
そんな光子の気持ちを、端的に表すならば。

「わかりません、わかりませんわ」

頬を染めて、光子はそう繰り返す。
けれど湾内と泡浮にとって、裏腹な光子の内心は、どうしようもなくわかりやすかった。

「土曜日が楽しみですわね。婚后さん」
「いい服が見つかるといいですわね。いえ、絶対に見つけませんと」

困惑にうつむく光子の視界の外で、二人はしっかりとうなずき合った。


――――可愛い女だと、思われたい。
それが光子自身が気づいていない、偽らざる願いだった。

駅のトイレでいつも通りのツンツン頭を指で整えながら、当麻は身だしなみのチェックをする。
待ち合わせ場所まで、もう鏡はない。自分自身で鏡を持つ趣味もないので、事実上、これが最後のチャンスだ。

「鍵はある、サイフもある、ケータイもある。財布の中身も……これなら大丈夫だろ。
 ポケットに縫い目のほつれはないし、鞄も壊れてない。ハンカチとタオルとティッシュもオッケー、と」

不幸に見舞われる確率がどう考えても他人より高いという自覚がある当麻にとって、
身の回りのチェックには、単に忘れ物の確認だけでなく、持ってきたものが壊れたりしないことの確認までが含まれる。
あんなにも可愛い女の子と二人っきりで遊ぶ約束を取り付けるという出来事を前に、
つまらない不幸を自分で呼び寄せるような真似だけは絶対にしたくなかった。

「待ち合わせ20分前、と。まあ、そろそろいい時間だよな」

こういう時、男は待たされるべきだ。時間に正確そうな光子のことだから、5分前に行ったのでは待たせることになるだろう。

「……行くか」

鏡の前の自分をじっと見据え、決意を固めて当麻は歩き出した。
待ち合わせ場所は、自分が今いる所から少し離れた噴水の前だった。
おそらくは自分たちと同じように遊園地でデートをするために集まったカップルが、あちこちに見られることだろう。
信じられないことに、今日の自分はそれを僻んだ目で見る必要がない。生まれて約16年目の、初めての奇跡だった。




「ちょっと早かったかしら……」

光子は初めて降りる駅であたりを見回し、駅前広場の中央に置かれた時計で時間を確認した。
乗り過ごしなどがあってもリカバーできるようにと早めに出た結果、約束の時間まで余裕を残した状態で早々に到着してしまった。
とはいえ、時間をどこかでつぶすほどの残り具合でもない。待ち合わせ場所の噴水近くの日陰で当麻を待つことにした。
まだ20分も前だから、当麻はいないだろう。そんな風に考えて、光子はすぐ傍に置かれた地図を確認した。
待ち合わせ場所は遊園地に一番近い出口のすぐ目の前にある。周りもほとんどは遊園地へ行く客のようで、
その流れに身を任せていると、すぐに待ち合わせ場所へとたどり着いた。

「上条さんは、さすがにまだよね」

当麻はどれくらい早くに来る人だろう。少なくとも時間ちょうどまでは責める謂れはないし、数分くらいの遅刻なら、別に自分としても怒る理由はない。
光子の読みでは、あと10分くらいじゃないかと思う。それまでに、しっかりと心を落ち着かせないといけない。
ふう、と光子は深呼吸をした。噴水は屋根付きドームの下にあるから直接の日差しはないが、冷房の効いている駅舎中心から離れ、空気は夏らしくぬるんでいた。
取り出した大ぶりのハンカチで、トントンと首筋に浮いた汗を拭きとる。そして服に乱れがないか、ショーウインドウに映った自分の姿を最終確認する。
たぶん、おかしなところはない、と思う。
問題なのはきっと自分自身だ。変な子だって、思われないようにしないといけない。

「とりあえずは、もうちょっと落ち着きませんと――――」

そうウインドウの向こうの言い聞かせながら、光子は完全に油断していた。

「婚后」
「えっ?!」

不意打ちだった。当麻とは別の人である可能性を一瞬考えたが、声が間違いなく当麻のものだった。
慌てて振り向くと、まだ見慣れたというほどではないけれど、見知った高校生の顔。
よく知る制服姿とは違うものの、服装は大きくかけ離れてもいない。ちょっとデザインの凝ったTシャツに、ジーンズという出で立ちだった。

「かか、上条さん。ごきげんよう」
「おう。なんかお互い結構早めに来たみたいだな。まだ20分前だし」
「え、ええ」

次の言葉が、出てこない。もう少しちゃんとした応対をするためにあれこれシミュレートしていたはずなのに、それは全部無駄だった。

「えと、約束の時間までここにいても仕方ないし、早速もう行くか?」
「あ、はい」

なんてぎごちないんだろう。光子は、内心でそう呟かざるを得なかった。
悪いのはもちろん自分だ。ええだのはいだの、そんな答えしか返せないこちらをエスコートするのは、当麻だって大変だろう。
もっと、気の利いたことを言えばよかったのに。お誘いくださってありがとうございます、くらいなら、パーティの席で何度も言ったことがあるはずなのに。

「……」

どうしていいかわからずにうつむいた光子に、当麻が申し訳なさそうな顔をした。

「その、悪いな。変に緊張させちまってるみたいでさ」
「え?」
「こんなこといきなりバラしちまうのもどうかと思うけど、慣れてないんだ。こういうの」
「……あの、こういうのって」
「女の子と一緒に二人で歩くのがだよ」
「そう、なんですの?」

意外、というかそんなことはないだろうと勝手に光子は思っていた。
だって、こないだまで、あんなに何度も自分を連れまわしてからかっていたのだ。きっと学校にいる女友達ともあんな風に接しているのだろうと考えていたのに。
……そんなことを考えて、少し、胸が痛んだ。

「遊園地なんてなおさらだな。それに、婚后の今日の服が、さ。ほら、いつもの制服とは違うだろ?」

チラリと当麻は一瞥しただけで、光子の装いからさっと視線を外した。そんな反応に、つい不安になる。
おかしくはないだろうか。当麻自身の服装と釣り合わなくて、変だと思われていないだろうか。
光子が選んだのは、結局ワンピースだった。ただ元から持っていたものではなくて、つい昨日、泡浮や湾内と一緒に買ったものだ。
三人でどんな色がいいだとか、スカートの長さはどれくらいにすべきだか、
そんなことを服を何着も手に取りながらあれこれ話し合った結果、光子が納得して決めたものだ。
色の薄い、パステル調の青と、体のラインをすっきりさせるために白い帯状のアクセントがあちこちに配されている。
日差しが強いだろうから袖付きの肩が露出しないものを選んだ。そのかわり、スカートが短い。常盤台の制服と同じくらいだった。

「……おかしい、でしょうか」
「え? い、いやいや! 逆だって」
「逆、ですの」

当麻がもう一度、光子を見た。だがやっぱり視線が光子に向けられる時間は、短い。
その理由が、当麻が照れているからなのだとは、想像が及んでいない光子だった。
だから、ぽつりとこぼれた本音に、光子は本気で驚くことしかできなかった。


「その……めちゃくちゃ可愛くて、びっくりした」
「……っっっっっ!!!!!」


顔が熱い。言葉が出ない。夏の日差しのせいじゃないのは、言うまでもなかった。

「わ、悪い。気の利いた事とか言えなくてさ」
「……」
「お世辞とかじゃないん、だけど、こんなこと言われて嫌だったら、ごめん」
「……しく、ありません?」
「え?」
「おかしいとか、変だって思ったりは、してらっしゃいませんのね?」

上目づかいで見上げる光子の瞳に、当麻は再びクラリとなりそうになった。
楚々とした色のワンピースと、色を合わせた帽子。綺麗なコントラストを見せるまっすぐ長い黒髪。
これで変だなんて注文を付けるヤツがもしいるんなら、光子のためにソイツと戦える自信が当麻にはある。

「そんなこと、あるわけないって。俺に褒められても嬉しくないだろうけど、よく似合ってると思う」
「本当ですの?」
「当たり前だろ」

ちょっとぶっきらぼうな、当麻の態度。それがなんだか正直さの現れな気がして、光子はほっとした。
そして同時に、当麻の言葉と正反対に、嬉しさがどんどんとこみあげてくる。
俺に褒められても嬉しくない、なんて、どうしてそんな風に考えるのだろう。

「良かった。上条さんに気に入っていただけて」
「う……」

経験値が浅いのは当麻も同じ。今度は、そんな光子の柔らかい笑みに、当麻がやられる番だった。

「じゃ、じゃあここにいても時間が勿体ないし、そろそろ行くか」
「はい」

その言葉に素直に従い、光子は当麻の隣に並んで歩きだした。
当麻が光子の空いた手に目をやったのには、気が付かなかった。

入場者の集中を避けるため、入り口で5分ほど並ばされた後、二人は無事に園内へと入ることができた。
真っ青な蒼天というにはやや雲が多いが、外で遊ぶにはむしろもってこいの天気だ。
だが、光子は周りの状況に少し圧倒されていた。

「婚后。どうかしたか?」
「……あの、こんなに人がいるものですの?」
「え?」

開けた視界が、人で埋め尽くされている。アトラクションの入り口らしき場所には、必ず待機する人の列があるようだった。
お世辞にも快適とは言えないが、それでも当麻からしてみれば、ごく普通の混雑具合だった。
夏休み中みたいに、破滅的な混雑具合というわけでもない。アトラクションは予約も可能だから、炎天下で待つ時間は一番人気のアトラクションでも15分程度だろう。
問題になるほどの込み具合ではない、というのが当麻の感想だった。

「空いてはいないけど、ひどいってほどでもないだろ?」
「こ、これでそんなものですの?」
「婚后、もしかして遊園地とかって初めてか?」
「そんなことありません! でも、以前通っていた学校の遠足でこういったところに訪れたんですけれど、その時は貸切でしたから」
「貸切、ね」

それが一学年、多く見積もったとして300人規模の団体だったとしても、貸切なら遊園地はガラガラだろう。
代わりにどれほどのお金がかかっているのか、想像もつかない。
当麻は頭を振ってそんな野暮な見積もりを頭の外に追いやった。

「で、婚后はどういうのが好みだ? いきなりジェットコースターから攻めるとか?」

そう尋ねられて、光子は答えに窮した。

「いえ……。あまり何度も来たことがあるわけではありませんので、普段はこうするというパターンみたいなのはありませんわ。
 上条さんは初めにジェットコースターにお乗りになりますの?」

お任せします、と言ってしまうのは簡単なのだが、丸投げするときっと当麻を苦労させるだろう。
パーティに参加した時みたいに完全にお姫様を決め込むことも光子にはあるのだが、今日はそれはしたくなかった。
だって当麻の言葉で、自分は変われたのだ。相手に楽しませてもらい、それを当然のことかのように振る舞っていた以前の自分から。
とはいっても、当麻をリードするような積極性を発揮したいのとは違う。二人で相談して二人で決めたい、というのが率直な思いだった。

「俺も別に決まったルートはないな。って言っても、いきなりゲーセンとかお化け屋敷とか、他に占い系とかに行くってのは違う気がするんだよな。
 はじめのうちは乗り物系、観覧車以外のヤツってところか」

その当麻の意見は、光子にとっても納得のいくものだった。
やっぱりこういう場所ははしゃぎに来ているのだし、大きく、あるいは速く動くアトラクションに乗りたい。

「私もそれがいいと思いますわ。確か、乗り物のアトラクションはあちらに集中しているんでしたわね」
「だな。よし、じゃあまずそっち行くか!」
「はい」

小ぶりのバッグを小脇に抱え直し、光子は当麻の隣に並んだ。
開園からそう時間が経っているわけでもないのだが、早くも向こうでは楽しげな悲鳴が響き渡っていた。

「メリーゴーランドは乗る派?」
「えっ?」

当麻が光子をからかうような顔をしていた。さすがに中学生にもなれば、あんな子供っぽい物に臆面もなく乗れるわけがない。

「婚后はこういうの、好きなんじゃないかって思ったんだけど」
「べ、別にそんなこと。だっていくら上条さんより年下と言っても、もう中学生ですのよ?」
「年の問題じゃなくてさ、婚后ってこういうお姫様的なヤツ、好きそうだなって」
「……昔は、乗ったりもしましたけど」

別に、それくらいは普通だと思う。有名な名前のアトラクションなのだから普通に好きな人は多いはずだし、自分が好きでおかしいことなんてないはずだ。
だけど面白くない。当麻の顔が、光子のことをただ綺麗な世界だけを信じている何も知らないお嬢様みたいに揶揄しているように感じられた。
今日は、そんな女だと思われたくないのだ。

「上条さんこそお乗りになったら? お好きなんでしたら」
「へ? いや、これはさすがになぁ。たぶん乗ったこともないし」

嫌味を言ったつもりが、冗談に受け取られたらしい。光子の不機嫌に気づいてないらしい、平然とした態度の当麻だった。

「ま、これは今日はパスだな。それより一発目はこれでどうだ? 涼しそうだし」

当麻が指差した先のアトラクションは、いわゆるウォーターライド系の、水路をコースターに乗って進むタイプのものだ。

「結構、最後は激しいんですのね」

光子の視線の先では、最後の部分で勢いよく水をまき散らしながらコースターが滝を模した急な坂を滑り落ちるところだった。
そりゃあ、涼しいだろう。これだけ水がしぶきをあげるなら。。

「濡れてしまいそうですけれど……。上条さんはこういうのがお好きですの?」
「そうだな。学園都市のジェットコースターってさ、どいつもとんがった仕様のばっかだろ?
 疲れるから、実はこれくらいのほうが性に合ってる。ほら、近いし今なら空いてるみたいだしさ、この辺から攻めてこうぜ」


もう一度、目の前のアトラクションを眺める。Tシャツ姿の当麻と違い、光子には不安もあるのだが。
そういう思いは表情には出ていたはずなのだが、当麻には伝わらなかったらしい。

「メリーゴーランドよりは、こっちのほうがいいだろ?」

また、当麻がからかうように笑って、そんな風に蒸し返した。
どうしてわかってくれないのだろう。当麻と一緒にいるのは嬉しいけれど、当麻にそんなことを言われるのは嬉しくないのだと。
そんな不満が、つい、反射的に口からついて出た。

「……もし上条さんがお好きなんでしたら、どうぞお乗りになって。私はここでお待ちしていますわ」
「え?」

当麻が、返す言葉に躓いた。目的地であったはずの入場口を前にして、二人の足が止まる。

「……」
「……」

訪れた一瞬の沈黙が、光子に反省を促した。
今自分が口にしたのは、相手の好みを尊重するような表現を使って、婉曲に自分の不愉快を伝える、そういう言葉だった。
他人に自分の心の内を察してもらうのが当然と言わんばかりの、相手任せの行動を改めるべきだと、他でもない当麻に教えてもらったはずなのに。
そのアドバイスに感謝しているから、ここにいるはずなのに。

「ごめんな、婚后」
「えっ?」

ごめんなさいと、光子の側から言おうとした時だった。当麻が目を伏せて頭を軽く下げた。

「服のこと、全然気づいてなくてさ。俺と違って濡れちまうとまずいよな、そんな綺麗なワンピース」
「い、いえ。私のほうこそあんな言い方をしてしまって」

そう言いかけた光子を遮り、背後のメリーゴーランドに軽く目をやりながら当麻が言葉を続けた。

「それにさ、さっきの件も婚后を嫌な気持ちにさせただろ」
「そんな」
「こないだ婚后に偉そうなこと言った時の話を蒸し返すみたいだったよな。ちょっと、からかってみたいって感じのつもりだったんだけど、悪かったなって」
「……」
「だから、ごめん」

光子は、とっさに答えを返せなかった。当麻の謝り方が自然で、まるでお手本みたいだと思ったからだった。
こないだ湾内と泡浮にしてしまったような、相手を戸惑わせるような重い謝罪じゃないけれど、
いい加減なのとは違う。ちゃんと当麻の気持ちが伝わってきた。
別に、当麻にとってみれば、何気ないことだったのだが。

「上条さん。どうぞお謝りにならないで。私のほうこそ相手に斟酌を押し付けるような態度でしたもの。
 こういうのが良くないって、上条さんに仰っていただいたのに」

そんな風に返して、当麻と見つめ合った。互いに変な顔をして、笑いあう。だって、遊園地でこんな真面目な話をするなんて場違いもいいところだ。

「じゃあ、許してくれるか、婚后」
「上条さんこそ」
「俺は婚后に文句なんてないよ」

二人で、今度こそ朗らかに笑いあった。気づかず肩に入っていた力を二人とも緩めた。

「じゃあ私も文句ありません。せっかくですもの、ちゃんと楽しみませんとね」
「だな。さて、それじゃあさ、このアトラクションの件なんだけど」
「はい」

当麻が再びウォーターライドを指さした。どうするのだろう、と光子はいぶかしむ。
水で濡れると困るのは間違いないのだ。生地からしてどう考えても服が透けてしまう。

「これ、ちゃんと跳ねた水の対策がしてあるから、ボートの先頭にさえ乗らなきゃ大丈夫になってるんだ。
 別にこれに乗らなかったからってここにはまだいっぱい遊べるトコはあるんだけど、逃すと俺は悔しい。だからさ」

照れ臭そうに、当麻が笑った。

「一緒に乗らないか、婚后。濡れないように俺もカバーするし。やっぱさ、二人で来たんだから、俺は婚后と一緒に楽しみたい」

そんな当麻の態度に乗せられて、光子の内心で「少しくらいなら濡れてもいいか」なんて思い始めていた。
現金なものだとは思うけれど、そんな風に言ってもらって、嬉しくないわけがないのだ。

「上条さんと遊ぶために来たんですもの。私を腹をくくりますわ、どうぞどこへでもお連れになって」

なんて、調子のいいことをつい言ってしまう光子だった。
二人の背後で、再び歓声と水しぶきが舞う。
日光を乱反射してキラキラと輝くその光景が、さっきとは全く違って見えた。

『prologue 04: 遊園地とワンピース』でした。
ここまでArcadiaで投下済みの内容となります。

それでは未発表の部分の投下を行いたいと思います。

おう


「ほら、婚后は前な。シート濡れてないか」
「大丈夫みたいですわ」

水に浮かんだ不安定なボートへと、光子は慎重に身を乗り出す。当麻に誘われて、結局乗ることになったウォーターライドだった。
座席に腰を降ろしてみると胸元までボートの中に隠れ、確かに濡れにくそうではあった。座席のふちには水除けのビニールシートもある。
面白いのは、当麻がいるのが隣ではないことだった。

「シートの取っ手、こっちによこしてくれ」
「はい。お願いしますわね」

もう出発まで時間がない。当麻に水除けシートの取り回しを任せ、光子は前を向いた。
二人の位置関係に、光子は結構ドキドキしていた。
もちろん隣りあわせでも、同じ思いをするのだろうけれど、それとはちょっと違う。
当麻は、光子のすぐ後ろの席に座っていた。
カップルや、親子連れごとの席なのだろう、大きなボートは、二名か三名ずつで縦に連なって並ぶ間仕切りになってるのだった。
だから、当麻の声がすぐ頭の後ろから聞こえてくる。シートをつかむ当麻の手が、時折光子の二の腕に触れる。
抱きしめられているような、とまではいかないけれど。決して無視できない距離だった。

「よし、そろそろだな」
「ええ」

少しうるさいベルの音の後に、二人を乗せたボートは進み始めた。お決まりの上り坂で位置エネルギーを蓄え、やがて滑らかにコースを下り始める。
洞窟を模した暗いトンネルへと潜りこみ、ボートが右へ左へと危うげに揺れる。それに合わせて、水しぶきが跳ね上がるのを光子は頬や腕で感じた。

「濡れてないか?」
「えっ?! ええ。大丈夫です」

当麻がそんな風に尋ねてくれた。その声は、光子の耳の、ほんの数十センチ後ろから聞こえてくる。
水なんかより、そちらのほうが光子をドキリとさせる。当麻との距離が近すぎるのだ。それが光子の、率直な思いだった。
早鐘を打つ心臓が妙に気になって、光子はアトラクションに集中できなかった。
自分が、その距離を不快には感じていないということには、無自覚だった。

「お、そろそろだな」
「そうですわね」

どれくらいの時間だったかはわからないが、体感的にはあっという間に、ボートはゴール前にたどり着く。
もちろん降りる前には、さっき外から眺めたクライマックスが控えている。

「大丈夫とは思うけど、一応な」
「あ……」

当麻が、光子の肩から下をガードするように、しっかりとビニールシートを引き上げた。
「か、上条さんも、ちゃんとシートをかぶってらっしゃいますの?」
「大丈夫だよ」

むき出しの当麻の腕が、光子の視界にはっきりと映っていた。それを見て、光子はきゅっと胸が締め付けられるような気持になった。
紳士らしく振舞って、当麻は不躾に光子の体は触れたりはしてない。
だけど、当麻の腕は光子の肩を通り越し、体の前にまで回されていて、光子は当麻に抱きしめられているようだった。
その事実に戸惑い、周りのことを忘れかけた一瞬後。
勢いをつけてボートは滝を下り、浅く水が張られた地上へと突っ込んだ。

「きゃっ!」
「おー!」

巻き上げられた水のカーテンが視界を遮り、すぐさま水滴へと形を変えていく。
大きな粒はどれもあらぬ方向へと飛んでいき、光子にかかることなく水面へと戻っていった。
おそらくは、そういう水の動きをちゃんと計算して作ってあるのだろう。
私たちのほうにかかるのは、終末沈降速度が十分遅くなるような微細な液滴だけなのね、と光子はひとり納得した。

「な、大丈夫だったろ?」
「はい。それに、近くで見ると綺麗ですわ」

宙に残る小さな液滴で乱反射した光が、あたりをきらきらと彩っていた。
当麻がシートをどかすと、水滴を含んだ空気が、気化で光子の腕の熱を奪っていく。

「やっぱこの涼しさがいいよなー。婚后、どうだった?」

屈託なく笑いながら、当麻がそう尋ねる。はじめは渋った光子だったけれど、今は当麻と同じ気持ちだった。

「楽しかったですわ。乗る前にしていたの、余計な心配でしたわね」
「でも俺も言われるまで、心配しなきゃいけないかもなんて全然考えてなかったからな。ほら、婚后。つかまって」
「あ、はい」

いつしかゴールに戻っていたボートから当麻がさっと身を乗り出し、乗り場へと戻って光子に手を出した。
光子は自然とその手を握り、当麻に引っ張ってもらった。

「ありがとうございます」
「おう」

つないでおく理由がなくて、二人はすぐ手を放した。手に残る感触に、光子はくすぐったいような気持になった。
男性にこんな風にエスコートしてもらうというのは、洋式のパーティなどでは普通のことだ。
でも、そういう場所での振る舞いは、型として決められた儀礼的なものだ。当麻の手は、そういうのとは違う感じがした。
一方当麻は当麻で、成り行きでこんなにも簡単に、柔らかい女の子の手に触れてしまったせいでドギマギしているのだった。

「で、さ。次はどうする? 婚后がこういうアトラクションで疲れてないみたいだったら、しばらく派手な乗り物を続けてみようと思うんだけど」
「賛成ですわ。以前来た時に思ったんですけれど、私、そういうアトラクションが結構好きなほうみたいですの」
「お、気が合うな。つっても学園都市でも一番ヤバいジェットコースターとかは正直疲れる気はするけど」
「私はそういうのにも挑戦してみたいですわね」

光子が自信満々にそう言うのに苦笑しつつ、当麻はあたりを見渡した。
近い順に当たっていくのが、手っ取り早くはある。となると――――

「上条さん。次はあれは如何?」

光子が素早く次を見つけて、さっと手で示した。
その先には、自分たちのいたウォーターライドよりずっと高くまで聳え立った塔。
言わずもがな、落下体験を楽しむ、いわゆるフリーフォールだった。

「攻めるなあ、婚后。いいぜ、あれにするか」

こちらのアトラクションとは比べ物にならない、本物の絶叫が響き渡ってくる。
自由落下の浮遊感は、それが醍醐味とはいえ、恐怖感と切り離せるものではない。
そう思って顔を引き締めた当麻の横で、光子がつぶやいた。

「能力を使えない状態で強制的に落ちるのって、どんな感じなのかしら」

それは自力で学校の屋上からなら飛び降りたことのあるレベル4の大能力者の、平凡な意見だった。


その後二人は、予定通り尖塔の先から垂直落下することとなり、けろりとした光子がこわばった当麻の顔をくすりと笑う幕引きとなった。
続けてもう一つ回転系のアトラクションを回って、頃合いとなったのを見計らって当麻が光子を昼食に誘った。
両者ともに、対面で食事をするなんてもっと緊張するかと思っていたのだが、意外とそんなことはなくて、
二人で地図を眺めてああだこうだと目的地を決めながら、少し安っぽいレストランの味を楽しんだ。
そんな感覚を、どこか不思議な気持ちで光子は振り返っていた。だって、異性と二人っきりで、しかも慣れない遊園地という場所にいるはずなのだ。
だから、わずかに体に残る緊張は、自分が持っていて当然の感覚だ。
そして胸が高鳴るようなドキドキとした感覚もおかしくはないだろう。女友達と遊んでいるわけではないのだから。
でも、この落ち着くような、そばに当麻がいることがとてもいいことのように思えるこの感覚は、何と言ったらいいのだろう。
午後を過ぎて、二人でアトラクションめぐりをしながら、光子は心の片隅で自分の気持ちに戸惑いを覚えていた。




乗り終えたアトラクションの出口を二人で抜けて、感想を述べ合う。

「二回目だから退屈かと思ったけどやっぱ下る瞬間は来た来たっ、ってなるよな」
「その感覚、わかりますわ。……それにしても下に戻ってくると暑いですわね」
「だな。連続で乗せてくれるんならずっとジェットコースターの上でもいいな」
「かなわぬ願いですけれど」

二人して、二度目のジェットコースターを降りてそう言い合う。
地に足のつかないタイプのジェットコースターで、ぐるんと宙を一回りする時の回転軸がスリリングで気に入ったのだった。
満足した顔で、すぐ隣の入口に目をやれば、そこそこの人だかりがいる。もう一度乗ろうとしてもおそらくは二週か三週ぶんは待たされるだろう。
もう一度乗るのは望むところだが、待たされるのはさすがに御免だった。なにせ、今は日中でも一番温度が上がる時間帯だ。

「そろそろ休憩するか。乗り物系はだいたい乗ったし」
「そうですわね。どこに行くにせよ、涼しい所がいいですわ」

どう繕ったところで真夏の暑いこの時期のこと、光子の頬にもいくつか玉の汗が浮いていた。

「近場で言えば……あれだな」
「ゲームアーケード、ですの?」

光子は中にあるものが想像できず、つい首をかしげた。

「行ったことないのか?」
「ええ、そういえば小さい頃に行った所には、なかったような気がしますわ」
「そっか。まあ、要はゲーセンだからな。別にお金がかかるから、遠足じゃ行かせないだろうし」
「そういうものですの」
「たぶん涼しいし、休憩ついでにここ行ってみるか」
「はい」

目と鼻の先にあったアーケードに足を延ばし、二人で滑り込む。予想通りの涼しい空気が肌に心地よかった。
フードコートと併設されているおかげで、ベンチもたくさん並んでいるし、しばらくはここで過ごすのも悪くなさそうだった。

「ゲームアーケードというのは、こういう小さなゲームが並べられた場所のことですのね」
「そういうこと。景品が当たるようなのも多くて楽しいんだけどさ、俺ゲームでもとことんツイてないからなあ」

バスケットボールのフリースローのような、実力を率直に反映するゲームは実力なりの成果が出るが、
ちょっとでも運が絡む要素があると、まず当麻のもとにラッキーは舞い込まない。
それがわかっているから、そういうゲームにはめったに手を出さないのだ。

「……まあ、上条さんがアンラッキーな体験に恵まれた方だというのは、今日を見て感じましたけれど」

見つめる先の当麻のTシャツは、朝とは色が違っていた。
昼間に他の客からソフトクリームをぶつけられ、泣く泣く現地の高いTシャツを買って着替えたのだった。
当麻は午前だけで、そんな不幸を一つと、あわやというところで難を逃れたヒヤリハットの類がいくつか体験済みだった。
そんな頻度の高さを見ていれば、「不幸だー」などと嘆く当麻の言葉の意味を、光子もわからないでもなかった。

「では、あちらにあるみたいな占いとかは、まったくされませんの?」
「友達と初詣に行っておみくじ引いたりは普通にあるよ。大吉だって引いたこと何回かある」
「あら、それは幸運なんじゃ」
「引いて、五分後に車が撥ねた泥水を被ったこともある」
「……それは」

なんというか、不幸が増したような。ぎごちない笑みしか返せない光子だった。

「ま、良くも悪くも慣れてるってのも事実だな。できれば認めたくない事実だけど」
「どうしてそういう人がいるのかって、やっぱり不思議ですわね。不思議なことでもないとは思うんですけれど」
「え?」

当麻には光子の言いたいことが伝わっていないらしかった。それを見て、光子は言葉を重ねる。

「幸運な出来事も不運な出来事も、どちらも偶然に人に訪れるものだとすれば、統計的に言って、
 とことん幸運な人や不幸な人って、ある一定数はいて当然なわけでしょう?
 多くの人は幸運と不運が足してプラスマイナスゼロに近くなるような人生を歩むのでしょうけれど、
 サイコロで1の目を引き続ける不幸な人だって、いて当然ですわよね」
「お、おう。まあ、そういうモンかもしれないけど」
「そして、そういうアンラッキーな人がたまたま私の隣にいらっしゃることだって、それは偶然以上の何物でもないはずなんですけれど、
 なぜか人は理由を求めてしまいますのよね。私も、つい疑問に思ってしまいましたの。
 そんなにアンラッキーが重なる人がどうしているんだろう、って。統計的にはナンセンスな質問のはずなんですけれど」

そう自分では言いながら、光子は少し思案した。当麻が他人より偏って不幸に恵まれていることは、はたして確率的に充分期待できるような偏りだろうか。
サイコロを百回転がして百回連続で1の目を当ててしまう不幸は、10のマイナス78乗オーダーの低確率だ。
つまり地球の全人口を100億人と近似して、その人たち全員が一人100億回ずつこの遊びをやったって、まず誰一人として引き当てられないような事象と言える。
当麻の不幸からの愛され具合は、百回サイコロの目で1を引き当てる不幸と比べても、さらになお、ありえないものじゃないだろうか。
わざわざ当麻にそんなことを伝えはしなかったけれど、光子が小難しいことを考えて当麻の不幸を合理化しようとしているのは当麻にもなんとなくわかった。
当麻としては、ひきつり気味の苦笑いで答えるほかない。
当事者だからか、あるいは光子ほど統計の信奉者ではないからか、当麻は光子の感想を共有することはできなかった。

「まあ、ひどい目に合ってるのが偶然なのか意味があるのかって、本人にしてみればどうでもいいけどさ」

意味があろうとなかろうと、ソフトクリームがTシャツにべったりなんてのは全く嬉しくない点では変わらないのだから。
そう告げて、光子の意識を現実世界に引き寄せる。

「それに今日は全然落ち込んでないけどな」
「え?」

光子が、首をかしげた。

「だってそうだろ、婚后とこんなに楽しくあっちこっち行ってるんだ、少しくらいのアクシデントで気分が下がったりなんてしないって」
「……ふふ。嬉しい」

光子も同じ気持ちだった。目上の、それも異性と一緒に歩くのだから気疲れするだろうと思っていたのに、そんな感じじゃないのだ。
隣にいて、嫌じゃない感じ。たぶん当麻も、そんな風に感じていてくれる気がしていた。

「なあ、婚后」
「はい」
「写真、撮らないか」

わずかに緊張を声ににじませて、当麻が少し先を指差した。
そこに並ぶ筐体は、いずれものれんが掛かっていて、いくつかは中に人が入って遊んでいるらしかった。

「あれって……」

写真、という言葉であれがなんなのか光子は理解した。
クラスメイトに、友人同士で撮影し、デコレーションをしたと思わしき写真のシールをペンケースに貼っている子がいたのを思い出す。
ここで写真を撮るということは、当麻と二人っきりでここに来たということが、事実として記録に残るということだ。
時間とともにぼやけていく思い出とは違い、いつまでも残るものが出来上がる。
そういうものを記念として残そうと当麻が思ってくれることが、嬉しかった。

「使い方、あんまり知らないんだけどさ。どうだ?」
「はい、私も、その……」

欲しい、とは恥ずかしくて言えなかった。だけど光子の表情を見て、当麻は察してくれたらしかった。
そっと肩のあたりを押すようにして、当麻は光子をのれんの奥にいざなった。
のれんで隠された入口に女性を連れ込むという行為で、当麻が別の場所のことを考えたのは、もちろん光子には伝わらなかった。

「これ、まずはお金を入れたらよろしいのね?」
「ゲーセンにあるものだし、そうだよな」

確認を光子がとると、さっと当麻が必要額を投入してしまった。

「あの……」
「いいって。あ、出てきた写真は半分ずつでいいよな? いらないって言われたら実は結構ヘコむんだけど」
「い、要ります! せっかく撮った写真なのに、手元に残らないなんて嫌ですわ」

焦って自分の発した言葉が、やけに周りに響いた。無理もない。
騒音だらけだし、のれんの隙間や足元から外は見えているけれど、ここは正真正銘、当麻と二人っきりの個室なのだ。

「良かった。じゃあ、撮るか」
「はい」

写真をデコレーションするためのフレームだとか、そういった細々したものを当麻が適当に選んでいく。
慣れてないし、そんなゴテゴテとした飾りが欲しいわけでもないので、オーソドックスなこの遊園地限定の設定とかいうのにして、早々に撮影モードに移った。

「そろそろ一回目」
「は、はいっ」

写真を撮られるのは五回だか六回だか、それくらいらしい。
写真写りが悪くならないように、とごく基本的な注意だけを気にしながら、当麻の横で光子はシャッターが切られるのを待った。
カウントダウンの音がやみ、人工的なぱしゃりという音がスピーカーから響く。
味気ないくらいに、操作パネルには撮影後の二人が映った。

「つぎは15秒後か。これ一時停止とかできないんだな」
「そのようですわね。せわしなくて、ちょっと慌ててしまいますわ」
「だな。……さっきのこれ、どう思う?」

次の撮影のことを考えてだろう、パネルに映った自分たちに対する感想を、当麻が尋ねてきた。

「緊張していますわね、私」
「いや、俺もだよ。表情硬いし、あとさ」

少し言いよどんで、当麻が鼻の頭を軽く掻いた。

「せっかく二人できてるのに、距離遠くないか?」
「えっ……?」
「ほら」

当麻が、光子のほうに肩を寄せた。それだけで、光子は呼吸が苦しくなる。
嫌だからではない。心臓が肺を圧迫するくらいに、激しく拍動するからだ。
うまく回っていない思考で、自分はどうするべきかと光子も考える。
だが光子が動くより先に、再び写真を撮られるほうが早かった。

「あっ」

淡々と撮影音を流す筐体の動作を、光子は呆然と見送る。
画面に出たのは、体を光子のほうに寄せた当麻と、がちがちに固まって視線すら合っていない自分の写真。

「ご、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ悪かった。変に緊張させたみたいで。やっぱりもう少し距離を」
「これで構いませんから!」
「へっ?」
「あの、上条さんはこのままで……」

光子はそう当麻に告げ、離れようとするのを留めた。
今の写真は、全く本意じゃない。楽しく遊園地で遊んだ相手との写真がこんなのだなんて、失礼だ。
もっと距離が近くたって、おかしいことはない、はずだと思う。
再び、カウントダウンが始まる。あと五秒で次の撮影だ。
腹をくくって、光子は寄せられた当麻の方に、自分の体を少しだけ預けた。
当麻が身じろぎしたのがわかる。それは、緊張のせいだろうか。

「そろそろだな」
「ええ」

当麻の体温が近くて、のぼせそうだった。
パシャリとまた音がするけれど、二人はそのまま体を離さなかった。
どうせ数十秒でまた同じ距離に戻るのだし、その時に離れた分を再び近づけるには、また勇気が必要になる。

「やっぱちょっと表情が硬いな」
「えっ? その、あの、すみません」
「……いや、自分の話だよ。婚后に言ってるわけじゃなくて」
「そ、そうでしたの。でも、私も自分でそう思っていましたから」

三枚目の写真は、距離的には仲睦まじそうな二人だった。ただ自分の表情が硬いのがよくわかる。当麻もそうかどうかは、よくわからなかった。

「次の課題は笑顔だな」
「ですわね」
「まだ終わってないけど、今日、めちゃくちゃ楽しかった」
「それは私もですわ」

その一言で、今日のこれまでを思い出す。
あまりに楽しかったせいで、普段の自分とは全然違って、アトラクションに乗りながら悲鳴を上げたり大声で当麻とおしゃべりしたり、さんざん遊び倒した。
今隣にいるのは、そんな風に過ごした大切な相手だ。
そう思うと、光子の体から余計な力が抜けていった。そして自然と笑顔も戻る。
男性と接触することへの慣れない感じが減って、少しづつ触れ合う面積が増えていく。
そうやって待っていると、四枚目と五枚目はいい写真が撮れた。

「この辺は採用だな。で、次が最後」
「いい写真にしたいですわね」
「……だな」

気負いなくそういった光子に対し、当麻の返事が少し遅れた。
その含みのある態度に光子は首をかしげた。

「婚后。文句は、後で聞くからさ。嫌なら写真はプリントしないし」
「え?」
「もうちょっとくらい、近いのも撮らないか」
「あっ……」

当麻に寄せているのとは反対側の光子の肩を、当麻が抱いた。
呼吸が、止まる。
それ以上のリアクションを返さなかったからだろうか、当麻がそのまま、優しく光子の体を自分のほうへと引き寄せた。

「嫌なら、言えよ」
「……」

何かを言うことはできなかった。嫌だったからではない。それとは真逆で、こんな風にされたことをちっとも嫌だと思わなかったからだ。
自分はどうすべきだろう。光子は自問する。
当麻からのアクションに対し、受動的であるのは、嫌だった。
だから言葉じゃなくて、できる仕草で、答えを返した。
どちらかと言えば長身な光子に対し平均的な身長の当麻だから、もたれかかるとちょうど光子の頬のあたりに当麻の肩が来る。
今までは頬を寄せることはなかったそこに、まるで当麻の恋人のようにもたれかかって、カメラを見つめた。
もう表情なんて意識するだけの余裕がなくて、ただ、頬に触れる当麻の温かみを感じていた。


――そうして、最後の一枚が二人の姿を切り取った。


ほどなくして当麻の腕が外される。大義名分がなければ当麻とてなかなか続けられない行為だからだ。
だが、そこに名残惜しいものがあるのはどちらも同じだった。

「最後のは、どうかな」

映し出された写真を見て、当麻は光子がどうしても嫌だと言わない限りは、絶対に欲しいと思った。
楽しそうに微笑んでいた前の写真も悪くないけれど、最後の一枚は、一段と光子が綺麗だった。

「婚后が嫌じゃないなら」
「……嫌だなんて、言いません」
「じゃあ、これも採用な」

二人並んでカメラを見つめるのをやめて、視線を互いに向け合う。
光子の顔が上気していて、いつもより色っぽい感じがした。

「最後のが一番、可愛かった」
「っ!! そ、そんなこと。からかうのはおよしになって」

そう言って、光子は半歩だけ当麻から距離を取った。これ以上は顔が火照って死んでしまいそうだ。

「変なデコレーションとか、要らないよな。わかんないし」
「ええ、そうですわね。日付くらいなら入れてもよろしいんじゃなくて?」
「そうするか」

実際に印刷する写真をいくつか選んで、その一つに日付を入れる。
作業を済ませると、個室の外にある受け取り口から写真が出てくるようだった。

「……ふう。気づかなかったけど、中はちょっと暑かったんだな」
「そうですわね。仕方ないのでしょうけれど」

クーラーの効いた風で涼をとっていると、ほどなくして写真が筐体から吐き出された。
当麻がそれをつまみ上げ、光子に見えるように手の上に広げた。

「小さいけど、思ったより画質いいな、これ」

照れ隠しで、つい当麻はそんなことを言った。
自分の映りはともかく、隣にいる光子が美人なのは論を待たない。
そういうものが自分の手にあるのが、ある種の感動を当麻にもたらした。
そしてそれは、光子にとっても同じことで。

「大切にします。こちら、全部」

それしか言えないくらい、光子は嬉しさで心がいっぱいだった。

写真を綺麗に切り分けて配分し、フードコートの座席で休憩したのち、二人は再びアーケードを出た。
めぼしいアトラクションはあらかた廻ったから、もう急ぐような気分ではない。

「なんか、一気に日差しが弱くなった気がする」
「雲のせいかしら」

空を眺めると、確かにさっきよりも多くの雲が浮いていて、太陽の光を遮っていた。
とはいえ薄暗さはそれだけが原因ではない。お昼時より、もう太陽は明らかに空の端へと寄っていた。

「このままだと一雨きそうですわね」
「そうだな。雷とか来たらアトラクションはストップかねえ」
「どうします?」
「降ってくるまでは気にしないでいいんじゃないか。婚后はあと、乗りたいヤツあるか?」
「もうほとんど乗ってしまいましたけれど……」

子供向けのものはさておき、あと一つ、大型のものが残っている。
光子にとっては別段強く惹かれるアトラクションではなかったし、当麻の好みではないのだろうかと思って乗り過ごしてきたのだが。

「寮の門限に合わせて帰ろうと思ったら、もういくつもは回れないよな?」
「……ええ。残念ですけれど」

当麻が尋ねたのは、聞かれたくないけれど、避けられない質問だった。
ほとんど管理されていないも同然な当麻の私生活と異なり、光子は厳格な寮に住んでいる。
解散すべき時刻までもう猶予はあまりなかった。
そうしなければ、寮監に目をつけられて再び当麻と外出するような機会は制限されるだろう。それは、嫌だ。
だが、そこまで考えて、光子ははっと気づいた。
今日みたいに当麻と遊ぶ機会が、果たしてこれからもあるのだろうか。
自分の目から見て、当麻もきっと楽しんでいてくれたとは思う。だけど、二度目や、それ以降はあるだろうか。
次がないかもしれないという不安を、光子はここに来て初めて自覚していた。

「じゃあ、アトラクションはあと一つで最後ってことにするか」
「……はい」

光子が切り出さなかったからだろうか。そうやって当麻が今日の終わりを提案した。
本当は素直に「はい」なんて返事はしたくなかった。けれど、どうしようもなくて。
当麻との接点を失わないように、二人の関係がこれ以上遠くならないように、つなぎ留めておきたい。
そういう焦りばかりが、光子の中で膨らんでいく。
そんな光子の気持ちを知ってか知らずか、当麻は、最後に残していたアトラクションを指差した。
それは遊園地で一番高い所へと昇るアトラクション、観覧車だった。

「あれ、乗らないか」
「ずっと乗ろうってお誘いがありませんから、お嫌いなのかと思っていましたわ」
「いや、そんなことはないよ。ただ、観覧車は最後の締めに持ってこようかなって」

それは、どういう意図だろう。
こんな、二人っきりで、誰にも邪魔されずに話ができる場所を残すなんて。
それも自分の変な思い込みなのだろうか。

「そういや観覧車は久しぶりだな」
「そうなんですの?」
「こないだはなんか吹寄……まぁクラスのヤツを怒らせて追い掛け回されたせいで乗り損ねてさ」

そんな当麻の言葉に、光子は聞き流せない何かを感じ取った。

「その方は……男性の、上条さんのお友達ですの?」
「え? いや、クラスの女子だけど……。
 こないだ誰かが企画してさ、親睦を深めようとかでクラスの連中でこういうところに行ったんだよ。この学区のじゃないけど」
「そう、ですの」

だから、なんだというのだろう。そんな話で、どうしてこんなにも自分は不安を感じているのか。
ただの知り合いでしかない当麻が、自分以外の誰かと遊園地に行ったっておかしくなんてない。
そして一緒に行ったメンバーの中に女子がいたっておかしくない。
いや、それを言うならば。
当麻が、彼女と一緒にここに来たことがあったとして、それはおかしなことだろうか?
目の前の当麻が空を見上げて、降るかなー、なんて呟いている。
そんな当麻の様子を見て、まるで空の天気に呼応したかのように、光子の心の中に暗雲が立ち込めた。
写真を撮った時の、当麻の手の温かさがいけなかったのだろうか。


今日一日、わがままな自分を手際よくリードしてくれた。
それは、たくさん経験があって、もう慣れた行為だからではないだろうか。
今日という日は、そして自分は、当麻にとっては特別なものでもなんでもないんじゃないだろうか。
大事に大事に、手帳の中に仕舞った二人の写真。
当麻は、こんなものを、もういくつも持っているのではないだろうか。
それとも、もっと親密な女性との写真を、持っていたりするのだろうか。
そんな可能性が脳裏にこびりつく。

――――観覧車だって、私が変に意識しているだけなんですわ。
女性と二人で乗るくらい、よくあることと思ってらっしゃるんだわ。
だって、こんなに素敵な方なのだから。


そんな風には考えたくないけれど、悩むほどに、そうなのかもしれないと思えてくる。
振り向いた当麻の目を、光子は見れなかった。

「婚后。ぼうっとしてどうしたんだ?」
「えっ? いえ、何でもありませんわ」
「時間がないし、行こうぜ」

当麻が肩に触れ、そっと光子を促した。
不安がっているくせに、その感触にまた胸を高鳴らせ、光子は当麻の後をついていく。
こういう行為も、当麻にとっては慣れたものなのだろうか。
心の中で渦巻く感情の正体に、光子はようやく気付き始めていた。
自分が、当麻にとってなんでもない女だったらどうしようという、不安。
そうあって欲しくないという期待の裏返し。
つまり、自分は――――


「はい、フリーパスをお持ちですね。それではこちらへどうぞ」

思い悩む光子の前で、当麻と光子の二人分のチェックを済ませた係員が、観覧車の籠へと二人を案内する。
流れに逆らうこともできず、光子はそのまま当麻に続いて、乗り込んだ。
いってらっしゃいませ、という形式的な挨拶とともに、扉が閉められる。止まることのない観覧車がゆっくりと二人を押し上げていく。

「……あのさ、婚后」
「はい」
「さっきから……なんか疲れてるか?」
「えっ? い、いえ。そういうわけじゃ」
「そうか。ごめん」

当麻のその質問は、急にうつむいてしまった自分を、気遣ってくれたものだったのだろう。
だというのに、その気遣いに、自分は全然応えられていない。笑顔の一つでも、返せればいいのに。

「あ……」

見上げた先の、観覧車の窓に、ポツポツと水滴が落ちた。
光子の様子で当麻も気づいたらしく、窓の外に目を凝らした。

「タイミング悪いな。せっかくゆっくりと外を見れるアトラクションなのに」

間が持たないような、嫌な空気が観覧車の中に満ちていく。無言の時間が過ぎる間にも、観覧車は緩やかに上昇していった。
光子は、外を眺める当麻の横顔を、じっと見つめる。
格好いいと、素直に思った。
一般的に言って、だとか、客観的に見て、といった判断じゃない。
上条当麻という人と今日一日一緒にいた、自分という人間にとっての素直な感想だった。
当麻は、優しい人だった。自分のことを、ちゃんと考えてくれる。
そして優しさに裏打ちされた厳しさを持っている人でもあると思う。
こうやって、二人で遊ぶきっかけになったのは、当麻が言ってくれた言葉だった。
今日着ているワンピースを一緒に買いに行くくらい、泡浮や湾内と仲良くなったのも、当麻のおかげだ。




「最後は天気に振られたけど、また、こういう所に一緒に来れるといいな」

当麻がためらいがちに、そう言った。

「ええ。私も、上条さんとまた」

当麻の言葉は、光子の待っていた通りの言葉だった。だからもちろん嬉しかった。
だけど。当麻は、どういうつもりで自分を誘っているのだろう。
それは、とても重要な問題だった。
ただの友達としてだろうか。自分を特別な相手だとは思わずに言っているのだろうか。
もしそうなら、これからも当麻といい関係を続けていくためには、捨てなくてはならない。
期待することを、やめないといけない。
もしも当麻に、好きな人がいるのなら。自分は、この気持ちを諦めなくてはいけない。

「上条、さん……」
「婚后?」

声が、自然と震えた。尋ねるのが、怖い。

「上条さんは、私みたいな相手とこうした所に来るのって、慣れていますの?」

そうだったら、嫌だ。そんなことあってほしくいない。

「いや、そんなこと全然ないって。今日だっていろいろヘマしてたじゃないか」

当麻が笑ってそう否定した。別にそれが嘘だとは思わない。
だけど、光子はその答えだけでは不十分だった。悪いのは、光子の聞き方だろう。
光子はもう、当麻の顔を見ることができなかった。怖くて、とても直視なんてできない。

「じゃあ、上条さんは」

はっきりしたことを聞かなくちゃいけない。だから、解釈の余地のない、そんな質問をしなければいけない。
不安に押しつぶされそうな心から、光子は、質問を絞り出した。


「上条さんは今、好きな人はいらっしゃいますの?」


答えは、すぐにはなかった。
静寂を遮る雨音と眼下の遊園地の喧騒だけが、狭い個室に響き渡る。
ほんの数秒が痛いほどに光子の胸を締め付ける。


「いるよ」


答えは、唐突で、一瞬で、断定的だった。
突きつけられた事実の意味を脳が理解するのに、いくらか時間がかかった。
ようやく心に染みこんできたそれは、絶望的な事実。
こんなにも、当麻のことが気になっているのに。惹かれているのに。
この気持ちは、諦めなくちゃいけない。
クラクラと、現実感が剥落していく。
当麻の視線がこちらに向かっているから崩れ落ちるのは自制したけれど、体のどこにももう力が入らなかった。
だから、当麻の視線に気づかなかった。当麻の言いたいことは、それで終わりではなかった。

「婚后」
「……はい」
「俺が好きなのは誰かって、話なんだけど」

そんなの死んでも聞きたくない。
どうせ知らない誰かだろうし、知っている誰かだとしても、いいことなんて一つもない。
どうして、当麻はそんな話をするのだろう。

「最後までわざわざこれに乗るのを残したりとかさ、いろいろ小細工してばれてたかもしれないけどさ。
 あと、なかなか言い出せなくて、もうそろそろ頂上過ぎちまうし、婚后には先にいろいろ聞かれるし」
「……え?」

当麻が、言い訳をしているらしかった。だけどその理由に心当たりがない。
だがその混乱は、光子の心を占める絶望を少しだけ紛らわせた。
まだ当麻の目は見られないけれど、膝の上に置かれた手が、落ち着きなく動いているのが見えた。



「婚后。好きだ」
当麻が短く、だが間違いようなく、そう告げた。




「……ぇ、え?」

のろのろと、光子の顔が上がる。
今当麻は、なんて言った? わからない。勘違いだろうか。

「俺が今好きなのは、婚后なんだ。嫌じゃないなら……そう信じたいんだけど、嫌じゃないなら、俺と付き合ってくれないか」

当麻と、視線が重なり合う。
今日見たどんな表情とも違う、勇気を振り絞って、真剣にそう言っているとわかる、そんな表情だった。

「……嘘」
「嘘、って。こんなタイミングで嘘言うわけないだろ」
「じゃ、じゃあ、その……今、言ってくださったこと、本当ですの?」

思わず身を乗り出して、光子はそう尋ねた。
その勢いをむしろ押しとどめるように、当麻が光子の肩に手をやった。

「本当だよ。……何回言えばいいんだよ。婚后のこと、好きだって」
「でも。上条さん、好きな人がいるって」
「いやだから、それが婚后だって話なんだけど」

取り乱す光子に、苦笑するように当麻が笑いかけた。
いつだって聡明だった光子が、まるでこちらの言うことを理解できていないのがおかしかった。
そして、そんな光子の態度で、当麻もほっとする。
これで迷惑そうな顔だとか、申し訳なさそうな顔だとかをされていたら、おそらく当麻は死にたくなっていただろう。
ぶっちゃけてしまえば、女の子を遊園地に誘った時点で、当麻としてはこうするつもり満々だったのだが。
いまだ呆然とする光子に、当麻は問いかける。やはり当麻も、言葉で光子の気持ちが知りたかった。

「返事、聞かせてくれよ。婚后はどうなんだ」
「……私、私も!」

その問いかけに、光子は必死に答えようとした。だけど気持ちが先に出すぎて、言葉にならなかった。
当麻に触れたくて、肩に添えられた当麻の腕を掻き抱き、ぎゅっと頬を寄せる。
それを見た当麻が、優しげにため息を漏らした。そして光子の頬を、指が軽く撫ぜた。
その温かみで、じんわりと心の中に喜びが広がっていく。
こんなに嬉しいのは、お世話になった方だからとか、優しい方だからとか、そんな理由ではないのだ。


自分が、当麻のことを好きだから。そういうことなのだ。


「婚后……可愛いよ」
「嬉しい……嬉しい」
アトラクションで遊んでいたとき以上にはしゃいだ光子の態度に、当麻はほうっと長めの安堵のため息をついて、苦笑する。
「……ほら、返事、ちゃんと聞かせてくれよ」
当麻の手を離さないまま、光子が当麻を見上げた。
「私も、上条さんのこと、お慕いしています。上条さんのことが、好き、です」
言葉を紡ぐ光子の顔が、みるみる赤く染まっていった。自分の頬が思いっきり緩むのを自覚しながら、当麻はその言葉を聞き届ける。
「至らない私ですが……一緒に、いてくださいますか?」
「俺こそ、婚后に頼ってもらえるほど人間できてないけど」
「そんなことありません!」
「じゃあ、付き合って、くれるか?」
答えは、言うまでもない。


「はい。私を、上条さんの彼女に、してください」

その一言で、当麻にも笑顔が広がる。当然だ。
思わぬ助け舟めいたものが光子から出されたとはいえ、かなり緊張しながら告白をしたのだ。それが叶って、嬉しくないわけがない。

「隣、行っていいか?」
「はい」

向かい合わせで座っているだけでは、物足りなかった。
彼女なのだから、手くらいはつないだっていいだろうし、写真を撮った時のように、肩くらいは触れ合ったっていいはずだ。
たぶん、光子もそう望んでくれていると思う。観覧車を揺らさないように光子の側へと移り、その横に腰を下ろした。

「手、つなごう」
「はい」

差し出した右手に、光子の左手が絡まる。それだけじゃなくて、空いたもう片方の手すら光子は当麻に触れさせて、もたれかかった。
こんなにも甘えてもらえるとは思わなくて当麻としては驚きを隠せなかったが、それが嫌なわけがない。

「やばい。婚后がめちゃくちゃ可愛い」
「嬉しい。褒めてもらえるのが、すごく嬉しいんですの」
「好きだよ」
「私も。上条さんのことが、すごく好きです」

そう言い合うだけで、もっと嬉しくなる。当麻が髪を撫でると光子がはにかんで目を細めた。

「髪、綺麗だな」
「気に入ってもらえて、よかった」
「もっと触っていいか」
「はい」

躊躇いがちだった手の動きを、大胆にする。指先で触れるようなのではなくて、髪の感触が手に広がるように、しっかりと撫でる。
光子は、そんな当麻の手つきに、嫌がるそぶりを全く見せなかった。
女の子が、自分の愛撫を積極的に受け入れてくれる。そんな事実に驚きと新鮮な感動を覚えながら、当麻は髪に触れ続ける。
ツンツン頭の手触りなんて考えたこともない自分の髪とは違って、光子の髪は柔らかく、指ざわりがなめらかだった。
そしてこの親密な時間に幸せを感じているのは、光子だって同じだった。
優しくて格好いい、当麻という人に、大切にしてもらえるという実感。好きな人に好いてもらえるということがたまらなく幸せだった。
髪を撫でる当麻の指使いに陶然となる。きっとそれは、別段どうということもない手つきなのだろう。
だけど、撫でてくれるのが当麻だというだけで、光子は深いため息をついて、その優しい手つきに夢中になってしまうのだった。

「気持ちいい?」
「はい……とっても」

光子はそんな当麻の問いかけに、感じたままの答えを返す。
当麻の側はちょっと別の意味での受け取り方が脳裏をかすめて目線を泳がしたのだが、もちろん光子は気付かなかった。
そんな、光子の無防備さがつい当麻のいたずら心をくすぐった。
髪に充てていた手を、頬へと流す。頤に手を添えると、光子が驚いたように目を見開いた。

「あ……」

二人の距離は、もうほとんど残っていない。
アクシデントですら、唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離。その距離が持っている意味に、当麻も光子も、気づいていた。
先に進むのはまだ早いと思う。付き合おう、なんて話をしてからまだ数分なのだ。
それに、光子のほうは特に、まだ唇を捧げるのは怖かった。
今は、そんな急激な関係の深化よりも、優しく撫でてもらう時間が、たくさん欲しかった。

「……そろそろ、終わりだもんな」
「えっ?」

当麻が、硬直した二人の距離をゆるめるように、そういった。
慌てて光子が外を見ると、もはや遠景などはそこにはなく、二人が降りる順番は次、というところまでやってきていた。
万が一、仮にキスなんてしていたら。
たぶん、案内係の人に、思いっきり目撃されていただろう。
そんなことにも気づかないくらい当麻に夢中だった自分が急に恥ずかしくなって、光子は当麻の顔が見られなくなった。

「ほら、降りよう」

先に降りた当麻の手を握り返し、光子は観覧車を後にする。
この遊園地の、この観覧車は、きっと一生忘れられない思い出の場所になるだろう。
そんな場所ができたことに、光子はまた嬉しくなる。

「また来ような」
「はい、是非」

これで今日という日が終わっていくことはさびしいけれど、それを上回って余りある幸せを、今日一日で貰った。

「夜もさ、電話しても大丈夫か」
「夜も、お話できますのね」
「そりゃまあ、携帯あるし」
「嬉しい。私、お待ちしていますから」

光子はそう言って、つながれた当麻の腕に寄り添い、さらに強く手をつないだ。
その手は、当麻が立ち入ることのできない学舎の園のすぐそばまで、離れることはなかった。


がさがさとレジ袋の音を立てながら、夏日で煮えたぎった自室に戻る。

「ふいー、ただいま、っと」

よどんだ室内の空気に顔をしかめながら、当麻はエアコンのスイッチに手を伸ばす。
手にした生鮮食品をさっさと冷蔵庫に放り込み、手を洗って米を研ぎにかかる。
こうした生活感のある行いのすべてが、今は煩わしかった。
机の上で振動を伝える携帯を手に取り、しばらく眺めてから返事を書く。
相手はもちろん、光子だ。学舎の園の手前まで送って、別れてからも、5分間隔くらいでずっとやり取りをしているのだった。
それがたまらなく楽しい。会話の内容なんて、大したことはないのに。
自分を好いてくれる彼女がいる、というのが、こんなにも幸せだとは。
ずっと想像していた以上に、それはすごいことだった。

「夏休み前に彼女ゲット、って、雑誌か何かの売り文句そのまんまだな」

それはつまり、夏休みを彼女と一緒に大いに満喫できるということである。
高校生として、これ以上の幸運はそうないだろう。

「彼女できた日は叫びたくなるとか、馬鹿な話だと思ってたけど、まあ、わからないでもないよな」

事実、叫びたいくらいには喜びが渦巻いている当麻だった。
もちろんこれで窓を開けて叫ぼうものなら、隣に住むクラスメイトから何を言われるかわかったものではないのだが。

「……そういや、いつ周りに話すかタイミングも問題だよな」

すぐに誰かに話すのも気はずかしいし、などと考えながら、光子の返事を待つ当麻だった。



欧風の石畳の街並みを、軽い足取りで光子は通り抜ける。常盤台の寮はもう目前だった。
夕日に照らされるそこが、今日はとても輝いて見えた。それはそうだろう。光子は今、幸せの絶頂にあるのだから。
手には携帯電話。片時も手放さず、ずっと当麻からの返事を待っているのだった。

「あっ! 婚后さん!」
「あら、湾内さん、泡浮さん。ごきげんよう」

寮の扉をくぐり抜けると、すぐそこのサロンで二人が談笑していた。
興味津々という表情を隠しもせず、二人はパタパタと光子の元へやって来た。

「もうじき夕食時ですのに、こんなところでお茶をしていらしたの?」

午後のティータイムはとっくに過ぎているのに、と思いながら光子が尋ねると、二人はさらに目を輝かせて身を乗り出した。

「婚后さんをお待ちしていたんです。お帰りは門限ぎりぎりじゃないかって湾内さんが仰って」
「それで、婚后さんがお帰りになったら、ぜひ今日の話をお伺いしなくっちゃって」

それが二人の目的なのだった。二人にしてみれば、デートに来ていく服の相談を受け、さらにはその服選びにも付き合ったのだ。
自分たちに浮いた話はないし、恋愛の話なんて常盤台では珍しいから、二人は飢えているのだった。

「ね、泡浮さん。やっぱり当たりだったでしょう? きっと一日中、お楽しみになったんだわ」
「それで、婚后さん。一体どんなことをして過ごされたんですの?」

はしゃいでまくしたてる二人をおっとりと眺めて、光子は今日一日のことを思い出した。

「とっても、楽しい一日でしたわ」
「まあ!」
「それって、やっぱり」

二人に、そっと微笑みかける。

「お二人には、本当に色々と助けていただいて、感謝していますわ。
 そのお礼はまたしますから……ごめんなさい、今日のところは一人で過ごしたいんですの」

その言葉を聞いて、二人は顔を見合わせた。
言葉だけなら、傷ついたからそっとしておいてほしい、と言っているようにも聞こえるかもしれない。
だけど、そんな可能性は光子の表情が完全に否定していた。
だって、光子の顔はとても幸せそうで。
二人はそんな光子から根掘り葉掘り聞きだすのをあきらめて、そっと部屋を後にした。
光子の鞄の中でメールが来たことを伝える携帯の音が鳴ったのを、しっかり心のノートにメモしながら。

『prologue 05: 好きな人がいるのなら』でした。
今日の投稿はここまで。

仮定をすっ飛ばして上条さんと婚后さんが付き合い始めてて感情移入できない、ということを何度かご指摘いただいていたので、それに対する答えを書いた感じです。
需要に応えられる内容だったらいいんですけど。

さらに書きたいシーンがあるのと、この先に滑らかにつなぐために、もうちょっと加筆を行います。
しばらくお付き合いください。

おつおつ
楽しみにしてたよ
吹寄の方もよろしくお願いします(小声)

Arcadia読もう読もうと思って放置しちゃってたがやっぱり面白いなぁ。
また1から読み直します。乙

コメントくれた人、ありがとう。
吹寄のほうもなんとかしないとなー。。。。


休日の昼下がり。同じ寮に住む同級生たちが、ベッドの中で午睡を楽しんだり、あるいは町中へと遊山に出かける中、当麻はまさに後者に加わろうとしているところだった。
といっても今日の相手は、よく一緒に遊ぶ相手、青髪とピアスが特徴的な友人や隣に住む金髪グラサンの同級生ではなかった。
まだクラスの連中に話してはいないが、少し前から当麻には恋人がいる。今日はその彼女、光子の予定に合わせて午後からのデートなのだった。

「あれ、上条当麻ー。今から出かけるのかー?」

玄関の鍵を閉めて階下へ向かおうとしたところで背中に声がかけられた。
当麻よりいくらか幼い女の子の声で、当麻には聞き覚えがあった。

「なんだ舞夏。今日は来てたのか」

声をかけたのは隣の家に住む友人、土御門元春の妹だった。
この二人は仲のいい兄妹で、妹が足しげく通い妻をしている光景を見かける。

「んー。定期的に掃除に来ないと大変なことになるからなー。兄貴の部屋は」
「家政婦養成の専門学校生が来るとか恵まれすぎだよな」
「今度そっちの部屋もお掃除してあげようか、お兄ちゃん?」

この暑い真夏の昼に長袖のメイド服を着こなす少女は、屈託のない笑顔でそう当麻に告げた。
当麻はそれに苦笑いを返し、手を振って歩き出す。

「頼むって言っても土御門に結局は妨害されるからな。ま、自分のことはなんとかするって。それじゃあな」
「ふーん。……またなー」

当麻のそんな態度に含むものを感じながら、舞夏は部屋に戻った。
室内では、もう午後になろうというのに部屋の主である彼女の兄がベッドの上でだらだらしていた。

「カミやんはお出かけか」
「そうみたいだなー。なあ、兄貴ー」
「ん? なんだにゃー」
「上条当麻に最近変わったことはなかったか?」
「変わったこと? いや、別に思い浮かばないけど」
「そっか」
「どうかしたのか?」

土御門が寝ころんだまま舞夏を見上げた。
なんでもないというように舞夏は少し笑って、台所へと足を向けた。

「なんとなく、上条当麻にも春でも来たのかなーと思っただけ」
「……カミやんに関しては心当たりがありすぎて逆にわからないにゃー」

女ほどは鋭くないということか、あるいは周囲から「義妹と言いながら一線を越えているらしい」と噂される相手が傍にいるからか、
土御門はそれ以上突っ込むことなく、再び午睡に戻っていった。



町へと足を延ばし、光子との待ち合わせ場所へと向かう。
今日のデートの場所は、光子と二人で廻り、ペットショップを紹介したあのショッピングモールだった。
金銭的に余裕があるなら毎回遊園地だって構わないが、さすがにそういうわけにはいかない。
デートの一番の目的は光子と会うことだ。手をつないで喋れる場所なら、別にどこだって構わないのだ。
とはいえ、安上がりデートをしていても、予算的には圧迫されているのは事実。

「やっぱこうなってくるとバイトでも考えるべきか……」

そう呟いてみるものの、学業のほうも補習漬けで、しかもいろんな面倒事に巻き込まれて出席日数も不足がちなのを考えると、バイトは難しいだろう。
そんな自分の境遇に溜息をついて、大通りへ抜ける石畳の坂道を見上げた。

「……ん?」

視線の先では、妙齢の女性があちこちへと視線をキョロキョロとめぐらせながら、何かを探しているようだった。
ファッション性に乏しいごく普通のスカートスーツと、これまた飾り気のないブラウスで細い体を包んでいる。
横顔を眺めると、徹夜続きのような濃いめの隈があった。
学園都市の大人は子供の数に合わせ、必然的に教師か研究者かその兼任を仕事とする者が多いが、見た感じこの人は研究者なのだろう、という気がした。
ルート上にいるその女性へと当麻が近づくと、成り行きでばっちりと目があった。

「あの」
「ん? ああ、邪魔だったかい? 失礼」

思わず、当麻は声をかけてしまった。困っている人を放っておけないなんて言うと偽善臭いが、町中でトラブルに見舞われ途方に暮れる体験は他人事でもない、というか日常茶飯だし、当麻は基本的に人の好い性格なのだった。

「何かお困りですか?」
「この辺りのパーキングに車を停めたはずなんだが、場所がわからなくなってしまってね」

微笑んでいるようにも見えなくもない、けだるい表情でその女性はそう呟いた。
視線の先には、人口密度の高い第七学区の駅前なら、どこにもでありそうなパーキングがあった。
このあたりは当麻にとっては庭みたいなものだから、他のパーキングの位置もわかる。
ただ、線路をまたいで向こうのパーキングなんて歩いていけば15分はかかる。
さすがにそれに付き添うだけの余裕は、デート前の当麻にはなかった。

「あのパーキングじゃないんですか?」
「ああ。一台一台確かめたんだが、見つからなくてね。なんとなくここではない気はしたんだが」

ぼんやりとそう答える相手を見て、厄介なタイプにあたったなー、と当麻は思った。
学園都市には結構な割合でいるのだ。研究以外に興味がなくて、生活を送るにもいろいろ支障をきたすようなタイプの大人が。
そういう人間が研究だけをやっている分にはいいのだが、能力開発の現場、すなわち学校でも『研究』をやる教師がたまにいて、
学生はそういう大人への対応を否応なしに学ばされる。
この目の前の女性は典型的な、自分の研究しか見えないタイプなのだろう。

「え-と……目印とか何か、覚えてないんですか?」
「目印、か。確か目の前に横断歩道があったな」
「横断歩道じゃあんまり目印とは……」

その女性――木山春生という名を当麻は知る由もない――の要領を得ない返事に、思わず空を仰いでしまった。
これは手伝っていると、とてもじゃないが待ち合わせの時間に間に合わない。
デートを理由に見捨てるのも気が引けるけど、光子に電話して謝るのもなんだかなあ、
とどっちにするかと悩んだところで、不意に坂の上から声を掛けられた。


「アンタ……!」
「ん? おお! ビリビリ中学生」

見上げると、見覚えのある少女がそこにいた。当麻にとっては印象的な出会いをした女の子だった。
ビリビリ、と呼ばれたのが不満なのだろう。声をかけた時点で険のある態度だったのだが、さらに表情が尖ったものになった。

「ビリビリじゃない! 御坂美琴! 毎度毎度逃げられてるけど、今日という今日は決着つけてやるんだから!」

夜の繁華街で不良に囲まれているところを助けようとした、というなんともドラマティックな出会いが彼女と知り合ったきっかけなのだが、
当麻にとって印象的なのはそれが理由ではなかった。
その一件で不良の恨みを買ったところを今の彼女である光子に助けられた、というその後の展開が、
美琴との出会いを当麻にとって特別たらしめている理由だった。
失敗に終わった、というか要らぬおせっかいだったとはいえ、せっかく助けようとしてやったのにその後も美琴は街でこちらを見かける度に突っかかってくる。
結果的に役に立たなかったとはいえ、曲がりなりにも好意で不良からかばおうとした側に「決着を付けてやる」とは、一体どういう心境なのか。
とはいえ、この場では気安く物を頼める相手がいるのは行幸だ。

「ってことは、お前今暇なんだな?」
「時間ならたっっっぷりあるわ」

腰に手を当てて美琴がそう宣言した。はっきりと断言してくれて正直当麻はホッとした。
それならあまり気に病むことなく、美琴に自分の代理を頼める。

「じゃあ、この人の駐車場探すの、手伝ってくれないか?」
「は?」

やる気に満ちています、と言わんばかりの態度のまま、美琴が疑問顔で硬直した。

「車を止めた駐車場がどこだかわからなくなってしまってね」

助かるよ、と言わんばかりの態度で研究者らしき女性が肩をすくめた。
露骨にホッとした顔の当麻も、その隣の女性も、どちらもすっかり美琴が手助けしてくれることを既定事実のように扱っていた。

「え、ちょっと、なんで!」

美琴としては抗議の声を上げずに入られなかった。暇だとは言ってない。だって今日こそは目の前のバカに引導を渡してやらねばならないのだから。
全く、いつもコイツはこうだ。私のことを子供だとでも思ってるのか単に舐めているのか、ちっとも相手にしないで。

「俺、行かなきゃならないトコがあってさ。お前暇だからいいだろ?」
「いいだろじゃねーっつの! また適当にあしらおうたってそうはいかないわよ。
 毎回のらりくらり適当なことばっか言って、今日という今日はホントに許さないんだから!」
「適当ってなんだよ。別にそっちと勝負とかする意味ないだろ?」
「だからその態度がムカツクって言ってんの!」

当事者の自分をそっちのけで喧嘩し出した学生二人を眺め、研究者の女性――木山春生(きやまはるみ)――はため息をついた。
学生二人のじゃれ合いを鬱陶しがったわけではない。小学校教諭であったこともあるから、この程度の口喧嘩には慣れっこだ。
不快なのは、背中に張り付いたブラウスの感触の方だった。もう20分は炎天下を歩き続けている。

「いやー、それにしても暑いな」

少しでも涼を摂れるようにと、木山はごく合理的な考えに基づき、ブラウスのボタンに手をかけた。

「あーだからもう、私の言うとおりに……って、え?」

美琴はその瞬間、当麻への怒りを全て失い、木山の振る舞いに思考をフリーズさせた。
首元まできちんと留められていたボタンを、上から順に一つ一つ外していく。
それどころか、木山はブラウスの袖から自らの腕を引き抜き、脱いだブラウスを腕にかけてため息をついた。
肌の色とあまり見分けのつかないベージュ色の、ごくごくありふれたデザインのブラジャーが、美琴の視界に飛び込んでくる。
言うまでもなく、そこは第七学区の、なんの変哲もない道の往来の真ん中なのに、だ。

「ぅおわっ!」

一瞬遅れて当麻も気づいたらしかった。
叫ぶ当麻は当然その木山のブラ一枚の上半身をモロに視界に収めているのだが、それに気づいても木山は文句一つ言わず、怪訝な目で学生二人を見るだけだった。
思わず、率直な疑問が美琴の口をついて出る。ついさっきまでファミレスで佐天たちと盛り上がっていた、ある「都市伝説」の話を思い出す。

「な……何をしている……んですか?」

木山の痴態は、まさしく『脱ぎ女』そのものだった。曰く、うつろな目をしていて、何の脈絡もなく、突然ブラウスを脱ぎだすという。

「炎天下の中、ずいぶん歩いたからね。汗びっしょりだ」

人心地ついた、と言わんばかりの清々しい顔で、木山は空を見上げた。
日焼けを知らない白い肌を見せて何気ない態度を取るその様子は、きっと自分の部屋でならおかしなことはなかっただろう。
それくらい自然な、脱ぎっぷりだった。


「なによ、この人?!」
「お、俺もさっき知り合ったばっかりだし」

つい常識にすがりたくて、美琴は助けを求めるように当麻を見た。残念ながら、あちらも同じ感想ではあったらしい。

「ちょ、ちょっとそんな格好まずいですよ!」
「うん? どうしてだい」
「どうしてって。ここ外ですよ、外!」

愕然とした当麻の声を、気が遠くなるような思いで美琴は聞いた。
齢二十歳を超えて、なぜ屋外で、このような格好になることがおかしいと感じられないのか。まるで常識が通じない。

「私の起伏に乏しい体を見て何かを感じる人間などいないだろう。それに下着まで脱いだわけでもない」

そんな理由で木山の中では十分に合理化がなされるらしかった。
自己申告通り、木山の体はグラマラスとは言えないだろう。
まだ気恥ずかしくて聞けていないが、当麻の彼女は中学生にして既にすごいスタイルだ。その光子と比べれば、たぶん、木山は起伏に乏しかった。
だがだからといって木山の肢体に無関心でいられるかというと、決してそんなことにはならないのが男の性というものだ。
野暮ったい色とデザインのブラに包まれた小ぶりの胸は、当麻の視線を引きつけてやまなかった。
そうは言っても、もちろんジロジロと眺めるわけにもいかないし、衆目に晒しっぱなしでいいはずもない。

「と、とにかく! シャツを着てください!」

当麻は視線を木山に合わせないように顔を横に背け、木山の手からブラウスをひったくって広げ、正面から胸を隠すように覆い被せた。
その仕草は心のどこかが大変に残念がるような、善意に基づいた行為だった。
だが客観的に見ると、当麻が妙齢の木山のブラウスを往来の真ん中で脱がせたように見えなくもない。
見計らったようなタイミングで、離れたところからきゃあっと言う声が上がった。
その悲鳴はあっという間に視線を集め、今まではこちらに気付きもせず遠くを歩き去っていた人間までもが、ブラウスを持った当麻に注目する。
そして状況を説明する間もなく、女の人が襲われてる?! あの男の人が脱がせたの? という声があたりから聞こえてきた。

「ち、ちがうって……」

当麻は咄嗟にそう呟くが、もはやその否定が逆に当麻が加害者であるという勘違いを助長しかねない空気だった。
美琴も、あまりの急展開にどう口を挟んでいいのか、アイデアが浮かばなかった。

「服を着ろと言うが……まだ脱いだばかりだ。木陰でしばらく休めば汗も引くだろう。ちょっと待ってくれないか」
「いや、ですから!」

木山が自身の下着姿を晒すことに全く頓着せず首をかしげているうちに、どんどんと当麻を非難する視線が増えていく。
女同士の自己防衛意識が働いているのだろうか、こちらの事情を聞くことすらなく、女子生徒達が通報を意識して携帯を手に取り出した。
もうひと揉めあれば確実に自分は性犯罪者になる、と当麻は確信せざるを得なかった。

「ご……」
「ちょ、ちょっとアンタ」
「誤解だああああっ!!!」

美琴はなんとかフォローをと考えて手を伸ばす。もちろんその手が何か助けになるわけではないが。
それを頼ってのことだろうか。当麻がブラウスを強引に美琴に預け、その場から走って逃げだした。

「あ、ちょっと!!」

当麻の逃避は決して美琴から離れるためではなく、もう変質者と呼んでやりたくなるような木山の振る舞いのせいだが、それでも逃がしたことには違いなかった。
美琴は思わず当麻を追いかけようと駆け出して、間もなく木山に止められた。

「君。それを持っていかれるのは、困るんだが」
「へっ?」

手には当麻から渡された、木山のブラウス。
それを手に走り去ろうとする自分は、一体どういう目で見られるだろうか。
それに気づいて美琴は頬に血が登るのがわかった。

「と、とにかく服を着てください! 見られてます、見られてますから!」

周囲からの誤解が解ける頃には、当麻はもう、見えなくなっていた。


缶ジュースを手に、美琴は木山と一緒に、自販機前の無料カフェテラスに腰を落ち着ける。
街路樹の傍にあるそこはちょうど日光が遮られていて、風通しもあるから涼しかった。
既にかなり歩いて疲労した木山の提案で、しばしの休憩を取っているのだった。

「済まないね、付き合わせて」
「いえ」
「研究のことばかり考えながら、珍しく繁華街に車を停めたのが仇になったようだ。こういう場所はどこも同じに見えてしまってね」
「研究って……学者さんなんですか?」

学園都市ではこういう強調の仕方をする場合、教職に就かない専門の研究者であることが多い。
それを肯定するように木山は軽く頷いた。

「大脳生理学、主にAIM拡散力場の研究をしているんだ」
「能力者が無自覚に周囲に発散している微弱な力のこと、でしたっけ」
「もう習っているんだな」
「ええ。一年の時に」

An Involuntary Movoment、すなわち無自覚な動きと名を冠されたこの力場は、人間の五感では感じ取れない、能力に由来する特殊な力場のことだ。
機械を使わないと測定できないし、そもそも使い道自体が見つかっていないので、
研究者はいざしらず、能力開発を受ける側の学生にとってはあまり注目されない存在だった。

「私はその力を応用する研究をしているんだ」
「応用、ですか?」
「性質としては電磁場よりは重力場に近くてね、対称性粒子の作用がないから集団になるほど増幅される」
「遮蔽効果がないってことですか」
「そうだ。さすがは常盤台の学生さん、と言ったところかな」

感心したように木山がそう呟いた。美琴は校則通り制服を着ているから、美琴のいる中学がどこかなんてすぐに分かることだ。
「能力は実に様々なバリエーションを持ったもので、すべての能力を体型的に説明づけるような理論なんてものは未だその雛形さえ見えない。
 だが不思議なことに、どんな能力者のAIM拡散力場であっても、互いにそれを打ち消し合う作用は見つかっていないんだ。
 静電場を考えると、私の体の中の電子と君の体の中の電子は互いに強い反発力を持っているけれど、
 君の体の中の陽子と私の体の中の電子の引力がそれにちょうど釣り合って、私たちの体の間には見かけ上、静電気力は働いていないように見える。
 そういう力場のキャンセルがAIM拡散力場にはないんだよ。
 重力をキャンセルする反重力がこの銀河系には存在せず、ゆえに月が地球の周りを回り、
 太陽系が出来、それらが銀河という途方もなく大きな集団構造を作るようにね。
 今後も今と同様に学園都市が膨らみ能力者が増加すれば、AIM拡散力場はどんどん強くなり、その利用価値は高まるだろう。
 問題はいかにして自然現象または人間の精神に干渉できるよう指向性を持たせるかの部分だがね」
「はあ……」

木山は能力者の多分に漏れず、自分の専門については饒舌らしかった。
いかに学園都市第三位の能力者である美琴と言えど、発電系能力以外の知識ではその道の専門家には勝てない。
ちょっとたじろいで、トピックを変えなければと美琴は焦った。

「あの……それじゃ能力についてもお詳しいんですか?」
「何か知りたいことでも?」

木山は言外に肯定の意を含ませて、美琴に尋ね返した。
個別の能力の開発に関しては対して知識も技術もない。だが、能力の多様性についてはそれなりに知識があった。
美琴のほうで気になっているのは、『脱ぎ女』と同様、今朝話題になった都市伝説のひとつだった。

「その……どんな能力でも効かない能力、なんてあるんでしょうか?」

そう尋ねながら、頭に浮かべるのはさっきのあのツンツン頭のことだ。
初めて会った時に見せられてから、ずっと気になっていた。アイツの能力は、まさにそんな都市伝説そのもののように思えたから。

「能力といってもいろいろあるが、文字通りあらゆる能力が効かないのかね?」
「その、例えば高レベルの電撃を受けてもなんともなかったり、とか」
「電撃か……。例えばその相手が自分より相当高レベルの発電系能力者なら、それも可能なのではないかな?」


一般論としてはその答えはイエスだ。
レベル1や2くらいの相手なら、美琴は相手が作ろうとしている電磁場ごと全部上書きして、キャンセルできる。
だが、美琴に対してそれができる発電系能力者はいないはずだ。それに、当麻はそういう感じの能者力だとは思えなかった。

「そういう同種の能力でキャンセルするのとは、別な感じがするんですけど」
「ふむ……。同種で上位ではないというなら、能力としてより高位である、という可能性はあるかもしれないな」
「えっと、どういう意味ですか?」

どう説明するかわずかに木山が思案顔を見せた。

「察するに君は発電系能力者<エレクトロマスター>だと思うが、この系統の能力者は、静電気力と磁力の両方を使えるのが一般だろう?」
「え、ええ。まあどっちかしか使えない人も結構いるみたいですけど」

美琴はどちらにも、不得手はなかった。というか、それらの力は統一されたひとつのものだという感覚が美琴にはある。

「より正確に能力名を定義するなら、静電気力だけを操れる能力者こそをエレクトロマスターと呼び、
 磁力だけならマグネトロマスター、両方を使える能力者をマグネエレクトロマスターとでも名付けるべきだな」
「はあ」

話が見えず、美琴は生返事を返した。それに取り合うでもなく、木山は手にしたスープカレーの飲料缶をぐびりとやった。

「電場しか扱えないエレクトロマスターにとって、マグネエレクトロマスターはより高度な理論をベースにした能力と言えるだろう?
 そしてこの両者が戦った場合、エレクトロマスターが電場を操ることしかできないのに対し、
 マグネエレクトロマスターは磁場を使って間接的に電場に干渉することも出来る。
 より世界の本質に迫った理論に基づく分、使える能力は相手の理解の及ばないような多様さ、奥深さを備えているはずだ。
 もちろん同レベルの能力者で比べないと無意味だがね」
「簡単に言っちゃうと、クーロンの法則とオームの法則を改変するレベルの能力者より、
 マクスウェルの電磁気学をベースにした能力者の方がすごい、ってことですよね」
「誤解を含まないでもないが、大胆に簡略化するとそういう説明になる。
 そして、こう言えば、君のような静電気力と磁力の両方を統一して扱う発電系能力者<エレクトロマスター>より、
 より高位な能力者が存在しうることに気づくかい?」
「さらに別の力まで統一した理論をベースにするってことですか?」

打てば響くように言うことを理解する美琴に、木山は愉快げに答えを返す。

「そう。この学園都市の発電系能力者<エレクトロマスター>はマクスウェルの電磁気学、つまり電場と磁場の統一理論をその理論的背景にもつ能力者だ。
 ならば、この電磁場と『弱い相互作用』までを統一したワインバーグ=サラムの電弱統一理論をベースにした能力者なら、
 君のような発電系能力者の理解を越える方法で能力のキャンセルをする方法を知っているかもしれない」
「でも……電磁気学以上に未完成な部分の多い理論でしょう?
 それに、電磁力は人間が観測できますけど、『弱い相互作用』なんて、
 人間の周囲で関係してるの、ベータ崩壊くらいじゃないですか」
「つまり電荷を持たない中性子から荷電粒子である陽子と電子を生み出せるということだろう?
 エレクトロマスターにはできない真似だ。他にも、今も君の体を素通りしているニュートリノにも干渉できるな」

木山は可能性の話をしているだけで、それが事実だと言っているわけではないのだろう。
改めて、あのツンツン頭がそういう能力の持ち主か、と考えてみる。正解という気がこれっぽっちもしなかった。

「まあ、君の提起した『どんな能力も効かない能力』を字義通り受け取るなら、電弱統一理論ベースでは不十分だろうな」

この世に存在する『力』は、静電気力と磁力、重力、そして素粒子オーダーの距離でしか働かない『弱い相互作用』と『強い相互作用』の五種類だ。
電磁力を統一して四種類と数えることもある。
普段全く気にすることのない残り二種類の力の名前は、冠詞というものの存在しない日本語では、ひどくマヌケな響きだが、もう固有名詞化しているので仕方ない。
百年前に静電気力と磁力は統一理論で説明されるようになり、学園都市ができるかどうかという時代、
美琴の父親たちが幼かった位の時代に、電磁力と『弱い相互作用』は統一された。
『強い力』もその範疇に含めた大統一理論は美琴の生きる今この時代にほぼ完成されつつあり、すべての力をひとつの理論で説明する、
すなわち『万物の理論』は、あとは重力を統一すれば完成、というところまで来ている。
ただその壮大な目標は、学園都市というまったく新しい領域、超能力という科学を生み出した街をもってしても、未だ達成されていない。
せいぜいが、不完全な理論をつなぎ合わせて、11次元空間を利用したテレポートが実用化されている程度だった。
それとて自分自身をたかだか数百メートル転移させられるだけでレベル4などという大層なレベルがつくほどに、テレポートはまだ未完成な領域にある。

「どんな能力も効かない能力があるとしたら、完全な『万物の理論』をベースとしたものである、ってことですか?」
「ただの推論だよ。希望的観測といってもいい。もっとも、私の個人的な想像ではなく、それなりの数の研究者が考えていることだと思うがね。
 要は、レベル6へと至るひとつのアプローチは『万物の理論』を足がかりとすることだ、と考えている研究者は多いということさ」
「はあ……」
「内情は知らないが、学園都市の第一位や二位だって、そういう感じがしないかい?」
「え?」

たった二人しかいない、自分より高位の能力者。詳細は知らないが、その能力については少しくらいは聞き及んだことがある。
「あらゆる場のベクトルに干渉する『一方通行<アクセラレータ>』は、重力場だろうが電場だろうが、場の種類を選ばない点で万物の理論と関連しているとも言える。
 そして第二位は質量を操る能力者だ。『万物の理論』を困難たらしめているのは、質量と重力という相対性理論と密接に関わる概念を、
 量子力学に根ざす素粒子物理に統合することの難しさだからね。
 質量というものを最も理解する能力者、という点で彼も『万物の理論』を志向していると言える。
 結論としては、君の言う『どんな能力も効かない能力』に一番近いのは『一方通行』の能力だろう」

それが木山の見解だった。
『一方通行<アクセラレータ>』と呼ばれる学園都市第一位の人間の顔も本名も、美琴は知らない。
だからあのツンツン頭がそうであるという可能性を否定する材料はないのだが、どうも、ピンとこなかった。
何をどう考えても、アイツはそんな大層な能力者じゃない。
アイツの能力は、もっと単純で、もっと得体がしれない何かのような気がした。
そんな能力、あるはずがないとも同時に思うにも関わらず。

「話が長くなってすまなかったね。ところで、君は誰かそういう能力者に心当たりでもいたのかい?」
「え?」
「なに、君の態度が、特定の誰かのことを聞きたかったように感じられたのでね」

そんなコメントを受けて、慌てて美琴は頭の中にいるアイツを思考の隅へと追いやった。

「いえっ! あの、ただの都市伝説の話です。都市伝説」
「都市伝説か……。懐かしい響きだね。最近の学生さんでもそういう話をするのか」

そう歳をとっているわけでもないが、木山はまるでおばさんを自任するかのように、そう独りごちた。


休憩を挟み、美琴は木山を引き連れ、駅前に点在する駐車場を巡った。
割と街に出るのが好きな美琴にとって、そこは自分の活動圏内だった。駐車場の場所くらいはだいたい把握している。
二つほど巡ったところで、どうやらアタリらしい場所にたどり着いた。

「トラックの影で見えないが、おそらくあそこだろうと思う。済まないね、付き合わせてしまって」
「いいんですよ。乗りかかった船ってヤツです」
「そうだ、彼にも礼を言っておいてくれ」
「彼?」
「君に会う前にいたあの男子生徒だよ」
「ああ、アイツにですか。まあいいですけど」

美琴は当麻の携帯番号も、それどころか名前だってまともに知らないのだが、また探し出して会うつもりだったのであっさり頷いた。

「君もそうだが、いい子だったな」
「おせっかいなだけですよ」

まったく、と美琴はため息をついた。

「別に頼んでもないし必要でもなかったのに、こっちの厄介事に首突っ込んできたり。
 その後もなんだかんだで毎回毎回いいようにあしらわれるし。そういのが上手いっていうか、ムカツクっていうか」

出会ったその日の夜と、当麻を見つけて追いかけた数夜を思い返して、美琴は毒づいた。
電撃によるスタンを狙うような攻撃まで美琴に繰り出させておいて、平気で逃げ切るのだ、あのツンツン頭は。
全然こちらを恐れもしないし、実際いくら能力を使ってもそれが通じたためしがない。
学園都市第三位のプライドを傷つけておいて、そんなことに全く頓着せず飄々としている。
絶対にごめんなさいと言わせないと、美琴の気が済まないのだった。
そんな風に内心で苛立ちを募らせている――と本人は思っている――美琴の顔には、ほほえみが浮かんでいて。
納得したように木山は頷いた。言葉と裏腹な感情を推し量ることなど木山には不得手中の不得手だが、美琴のそれはわかりやすかった。

「好きなんだな」
「――――は?」

端的な、短い木山の感想に、美琴は思考を完全に停止させた。
ついでに足も止まる。

「ど、どこを聞いたらそんなことになるってのよ! 私は全然そんな」

本気で美琴は戸惑っていた。だって、そんなことを言われる理由がまったくわからない。
だが美琴の混乱をよそに、木山は記憶の海の中から、美琴を表す言葉を思い出そうとしていた。

「君はあれだろう。一昔前に流行ったとかいう、ツン……ツンデル? ツンドラ? ああ、ツンデ……」

かあっと頬に血が登るのを美琴は感じ取っていた。
それは相手に対する単なる怒りとは明らかに違う感情なのに、
それが何なのかをきちんと理解しないままに、ただ声を荒らげた。

「ありえねーから!」

ドン、と美琴は地面へと踵を強く叩きつける。
感情の高ぶりがごく自然に電界への干渉を促し、軽い放電が起こった。

「おや、私の見かけ違いだったかな」
「そうです! だって、そんなんじゃないし!」
「まあ、あまり気にしないでくれ。人を見る目があるとは、お世辞にも言えたものじゃないからね。私は」

木山が肩をすくめ、そう美琴に言い放った。
それ以上木山に言い募る言葉が多い浮かばなくて、不機嫌そうに美琴は黙り込んだ。
木山が数百メートル先に自分の車を見出すまで、かけられた言葉が美琴の頭の中でグルグルと回り続けていた。
だって、本当にそんなんじゃないのだ。別にアイツのことなんて気になっていないし、変な気持ちとかを持っているわけじゃない。
単に気に入らないだけなのだ。だから、なんとか見つけ出してとっちめてやりたいだけで。

「ああ、あった。ありがとう、君のおかげで無事に見つかったよ」

あれだ、と木山が指を指す。その先には青いスポーツカーが止まっていた。
当麻に押し付けられた仕事は、これで終わりになりそうだった。
まったくなんの用事があってコッチに面倒ごとを押し付けたのか、と文句を言ってやりたい気分になりながら、美琴は礼を言う木山に返事を返した。


当麻の汗ばむ腕をぎゅっと自分の腕に絡め、光子は上機嫌で街を歩く。
彼氏が隣にいるだけで、嬉しくて仕方がないのだった。

「まだ結構汗かいてるだろ」
「大丈夫ですわ。別に、気になりませんもの」

指定の時間ギリギリに走って間に合わせた当麻は、デート前としてはいくらか残念な位に汗をかいている。
もう息は整っているが、汗が引くまでにはまだかかりそうだった。

「婚后は出てくるとき何も言われなかったか?」
「言われるって、誰にですの?」
「湾内さんと泡浮さん、だろ? よく相談に乗ってもらってるの」
「……そんなに、お名前を覚えるくらいお話したかしら」

ちょっと面白くない。名前を出したのは光子なのだが、別に当麻に覚えてもらいたいとは思っていなかったのに。

「結構何度も名前聞いてる気がするけどな」

当麻がそう言って光子を笑った。そんな反応に誘われて、光子は唇を軽く尖らせて当麻の腕を軽く叩いた。
拗ねてみせるけれど、内心では嬉しいのだった。このやりとりは当麻が甘えさせてくれているということの証だから。

「上条さんは誰かに話したりしませんの?」
「……いや、まだ。男同士でそういう話すると自慢にしかならないしさ」

女性同士でもそうなのかもしれないが、プライドの絡む微妙な問題なのだ。
彼女のいるいないは男としての優劣みたいなものがついてしまうし、付き合ってすぐに分かれるようなことがあったらむしろ名を落とすことになる。
誰かに言うにしても、それはちゃんと光子との関係が落ち着いてからのつもりだった。
とはいえ、そういう上条の事情は光子の知るところではない。光子は少し不満そうな顔をした。

「そうですの」
「恥ずかしいだろ? 付き合ってすぐに、俺彼女できたんだぜなんて話をするのはさ」
「それはそうですけれど」

光子とて湾内と泡浮に話したのは、当麻と付き合う前から相談をしていたからだ。
それ以外の相手に、お付き合いする相手ができましたなんて自分から言いふらすようなことはしていない。
女の噂はあっという間に広がるものだから、いずれは光子に相手がいることも、周知の事実になるのだろうけれど。

「いつか、ちゃんと紹介するって」
「どなたに?」
「よく遊んでる友達にさ。言っとくけどどっちも男な。よくつるんでるのが二人いて、片方は部屋も隣だしな」
「……ふふ」

ころころと表情を変えて、今度は嬉しそうに光子は笑った。

「どうした?」
「ちょっと想像していましたの。上条さんとお付き合いさせていただいております婚后と申します、って言ったらいいのかしら」
「なんか恥ずかしいな」
「はい。でも、そういうことって、嬉しくなります」

上目遣いで当麻をのぞき込んだ後、光子は先程にも増して、当麻にべったりとくっついてきた。
それが可愛くて、つい当麻も微笑んでしまう。

「どんどん、可愛くなってる」
「えっ?」
「初めて会った時より、婚后は100倍は可愛くなった」
「本当ですの?」
「ああ」
「嬉しい」

褒められたのがたまらなく幸せだった。当麻に可愛いと言われるだけで、舞い上がりそうなくらい、心が満たされる。

「でも、もしそんなふうに思ってくださるんだとしたら、それは上条さんのおかげですわ」
「そうか?」

ゆっくりと深く、光子が頷いた。

「大したことはないって仰るかもしれませんけれど、上条さんにかけていた言葉で、色々なことがいい方向に回っていきましたもの」
「婚后はもとから優しい女の子だったと思うよ」

そうやって褒めてくれる当麻ににっこりと笑い返しながら、光子は首を横に振る。

「そう言ってくださるのは嬉しいですけれど、きっとそんなことはありませんでしたわ」
「そうかな」
「そうなんです。上条さんが、私を変えてくださったから」

光子の態度は、尊敬と感謝をただ当麻に向けているという感じだったけれど、当麻としては苦笑を感じないでもない。
男のせいで女が変わる、というのは普通のことかもしれないが、まさか自分が当事者になるとは。

「その言い方だと、俺がまるで婚后を自分好みの女の子にしたみたいだな」
「光源氏の物語みたいに、かしら」

くすりと笑って、そんな風に光子は茶化した。
光子は読んだことがあるのだろうか、と当麻は気になった。もちろん自分にはない。

「格好いいロリコンの話だっけ」
「そんな言い方をすると身も蓋もありませんわ」

光子が苦笑した。

「ストーリーを見れば、完全に女性向けの娯楽小説そのものですけれどね」

国を統べる帝の子として生まれ、類い稀なる才覚と容姿に恵まれながらも、母方の家の権力が足りないばかりに臣籍へと降下させられた光る君。それが主人公の物語だ。
そしてたくさんいた彼の恋人のうち、最も近しく、最も愛された女性が紫上だ。

「作者の紫式部は、同じ色を名前に持つ紫上に、自分を重ねたんですわ。
 光る君に幼いころから見初められて、やがて妻になるまで一番愛された人ですもの。
 誰だって女なら、格好のいい殿方に、導いてもらいたいんですわ」
「光子も?」

嬉しそうに光子はコクリとうなずいた。

「私にとってはそれが、当麻さんだったんですわ」

恥ずかしげもなくそう言う光子に、当麻は居心地が悪いくらいだった。
どう考えても自分は、稀代の天才だとか美男子だとかでは、断じてない。
身分だって、知る限りはごく普通の庶民の親から生まれたのだから特別なことはないだろう。
光源氏と自分を比べるなんて、冗談にすらならない。

「どう考えても光源氏なんてガラじゃないけどな、俺。それにあの話、たしか主人公は浮気しまくりだったんじゃないか」

英雄色を好むというが、そういうところも自分とは断じて違う、と当麻は言いたかった。

「光る君は初め、正妻として葵の君という女性を娶っていましたし、事実上の正妻と言えるくらいの寵愛を受けてからも、
 のちには幼い女三宮が正式な正妻の座について、紫上は立場を奪われるんでしたわね。
 他にも六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方……」
「ひでーな。俺は絶対そんなことにならないな」

確信を込めて当麻はそう宣言した。間違っても凡人の自分にそんな色めいた展開は舞い込んでくるはずがない。

「上条さんには、そんな方、いらっしゃいませんわよね?」

確認を取るように光子がそう言った。ゆらっと、背後に剣呑な空気が立ち上ったような気がした。
おしとやかで優しい光子のイメージとはちょっと違うので、きっと当麻の気のせいだろう。

「当たり前だろ」
「信じて、いますから」

その言い方は、信じているという事実の表明というよりは、信じさせてくださいねという要請に近かった。
柔らかい語気の裏にある強い何かにたじろぎながら、当麻は頷いた。

「ところで上条さん。さっきまでは何をなさっていましたの?
 あの、責めるんじゃありませんけれど、いつもは余裕をもって待ち合わせ場所に来て下さるのに、
 今日は時間ぎりぎりに走っていらっしゃったから」
「ああ、ちょっと道に迷った人に会っちゃってさ。解決はしなかったけど、知り合いが来たからそいつに任せてきた」
「知り合い?」
「そういやビリビリのヤツ、常盤台だよな。もしかして婚后と知り合いかも……って」

詳しいことを尋ねようとして、思わず当麻は口ごもった。恨みがましい目で光子が見つめていたからだ。

「……常盤台に、お知り合いがいらっしゃるんですの?」
「え? ああ、そうだけど」
「私より、親しかったりして」
「そんなことないって。……婚后にしか、言ったことないんだぞ。好きだから付き合ってくださいって」
「本当ですの?」
「嘘なんて言ってない」
「……ごめんなさい」

疑いを向け続けるのをやめて、光子が項垂れて謝った。

「こんな、嫉妬深いのなんて、良くないですわよね」
「妬いたのか」
「だって」

自分と同じ、常盤台の女子生徒。年齢でも差はないし、能力や学力でも光子と大きな差はないだろう。
自分は、その子よりも当麻に愛されるにふさわしい人間だろうか。その質問に自信をもってイエスと言えないから、不安になるのだ。

「婚后は、特別な女の子だよ」
「ごめんなさい。いつも、上条さんはそうおっしゃってくださるのに」

落ち込む光子が可愛くて、当麻は思わず微笑んだ。
頃合を見計らっていたけれど、今はちょうどいいタイミングなのかもしれない。

「あのさ、せっかく付き合ってるんだしさ、いい加減、呼び方を変えたいなって思ってるんだけど」
「えっ?」

人目を今だけ気にせずに、当麻は光子の髪に触れた。

「光子、って呼んでもいいか?」
「――――っ! あの、私も、上条さんじゃなくて」

切ない顔をして、光子が当麻を見上げる。期待と喜びが綯交ぜになった、もう一度光子に恋をしそうになる顔だった。

「当麻って、呼んでくれよ」
「……当麻、さん」
「さんもナシでいいけど」
「ううん。当麻さんって、お呼びしたいの」
「俺は呼び捨てでいいのか?」
「呼び捨てにしてくださったほうが、嬉しいです。私は当麻さんのものなんだなって、そう思えますから」

思わず足を止めて、二人はじっと見つめ合った。

「光子」
「当麻さん」

名前を呼ぶだけで、嬉しい。それは特別な関係であることの証だから。
このままずっと見つめ合って、もっと仲を深めたいと願う二人だったが、いかんせん場所が悪かった。
邪魔だと言わんばかりに、通行人が当麻の肘にカバンをぶつけて通り過ぎていく。

「ここじゃ迷惑か」
「……そうですわね」

不満顔で光子が同意した。二人でゆっくり落ち着ける場所なんて、そうそうない。

「個室でゆっくりお話できるような場所、カフェなんてないのかしら」
「んー、少なくとも俺は行ったことない。大人向けだろ、そういう所って」

個室でカフェというのは普通なのだろうか、当麻には判断し難かった。
それに、二人きりになれる場所の代表的な場所にひとつ、当麻は心当たりがある。

「部屋に入るまでがちょっと気になるけど、うちにくれば二人っきりにはなれるな」
「えっ?」
「光子は女子中の寮だから俺が入ることなんて絶対に無理だろうけど、俺の部屋なら結構なんとかなるんだ。彼女連れ込んでる奴って結構いるし」

規則としては、確か男子の部屋に女子を連れ込むのは御法度だった気がする。
高校生にもなれば間違いを起こす確率がずっと上がるからだ。
だが、不良ではないにせよ学園都市の落ちこぼれの集まる学校だからか、管理は行き届いていないのが実情だった。
そんな当麻の提案を聞いて、光子はすこしぼうっとして空を見上げた。

「光子?」
「あの……当麻さんのお部屋は、キッチンはありますの? 常盤台は個室にそういうものがありませんの」
「うちはワンルームだからな。狭っ苦しいけどキッチンは付いてる。それを聞くのってさ、もしかして」

ゆっくりと光子が頷いた。思い出していることは、二人とも同じだろう。
まだ付き合うより前。冗談から出た話で、いつか光子が当麻の家に来てご飯を作る、なんてことを言っていたはずだ。

「二人っきりのおうちで、当麻さんのために、ご飯を作る」
「……してくれるのか?」
「あの。笑わないでくださいましね。そんなに、上手なわけじゃなりませんの」
「そんなの俺だって一緒だって」
「きっと当麻さんより、もっと」
「いいよ。光子が作ってくれたものならなんでも」

優しくそういうと、ちょっと光子は拗ねた顔をした。
美味しくなくてもいい、期待はしない、と言われているようでそれはそれで面白くないのだ。

「せ、せっかくお伺いするんでしたら、それまでには少しは練習しますもの」
「……幸せだ」
「え?」
「こういう優しい子に、彼女になってほしかったからさ」
「……っ!!」

満面の笑みで、光子は当麻の腕にしがみついた。

「いつか、誘ってください。精一杯練習しますから」
「ん」

幸せすぎるのは、光子だって同じだった。
撫でてくれる当麻の手の感触に、光子はそっと目を細めた。


その後、目的地だったペットショップへ寄って簡単な買い物をし、何気ないファストフード店で、完全下校時刻ギリギリまでずっと喋っていた。
デートとしては低予算で、大したイベントもない逢瀬だったけれど、当麻にとっても光子にとっても、幸せな時間だった。
だからなおさら、別れの瞬間がさびしくなる。

「それじゃ、ここまでだな」
「ええ。いつも遠回りをさせてしまってごめんなさい」
「いいんだって。大した面倒でもないし、光子と長くいたいから」
「ふふ」

夕暮れ前の、学舎の園の入り口。身分証明書によるチェックを必要とする、男子禁制の領域へのゲート前で、二人は最後の言葉を交わす。
同じことをしている学生は周りにもちらほらいて、別の男子と視線が合うと互いに気恥ずかしかった。
相手のいないらしい女学生もいて、ちょっと恨めしそうな顔をしながら横をすり抜けていく。

「これ、俺たちが付き合ってるってバレバレだよな」
「隠したいんですの?」
「そんなことはないけどさ」

光子は気恥ずかしくないのだろうか。

「いつかは皆に知られることですし、当麻さんみたいな素敵な彼氏がいるのは、自慢ですもの」
「み、光子。声大きいって」

周りにいる男子に聞こえるのは、御免こうむりたかった。

「ほら、もうそろそろ門限だろ。中に入らないと」
「……ええ、そうですわね」

学舎の園を外から隔離する門はちょうど駅の改札みたいになっていて、おとがめなしにここを通れる時間は、もうあと数分程度だった。
門限超過が重なると外出不許可になるから、絶対にくぐらないといけない。
そしてもちろん、当麻はその先へはいけない。

「……寂しい。当麻さんと離れるの、嫌」
「俺もだよ。ほら、またすぐにメールするから」
「もう。私だけがわがままを言っているみたい」
「二人で文句を言ってても、どうしようもないだろ? ほら、光子」
「あ……」

人前だから、抱きしめられたりはしない。当麻は優しく髪を撫でてくれた。
その手を自分の頬へと導いて、光子はぬくもりを確かめた。

「それじゃあ、当麻さん。今日も楽しかったですわ」
「俺も。次に会う日も、すぐに決めような」
「はい」

互いに微笑みあい、しばしの別れを名残惜しんでから、光子はゲートをくぐった。
振り返ると、当麻が手を振ってくれる。それに手を振りかえしてから、光子は自分の寮へと歩みを進めた。
離れてすぐは寂しさに胸がきゅっとなるけれど、だからと言ってずっと当麻との逢瀬だけを楽しめるわけではない。
見知った道を歩くにつれ、だんだんと心は日常を取り戻していった。

常盤台の学生寮まで、もう路地を幾つか曲がったところ。
ゲートの門限とは別の、寮のほうの門限に間に合うか少し時間が怪しくなって、光子は時間短縮になる裏道を歩いていた。
立ち寄れる商店がないため、人通りが少ないその道だが、ショートカットのおかげで何とか間に合いそうだった。
西洋風の街並みを模して造られた学舎の園の路地は、その多くが車がギリギリすれ違える程度の狭い路地に、
三階建てくらいの石造りの建物がひしめいているせいで、夕方になると地面に日の光が届かず、急に薄暗くなる。
男性を排除しかなり安全な場所とはいえ、長居はしたくない雰囲気があった。
カツカツと、歩みを進めるうちに、光子はふと違和感を覚えた。かすかに、足音が自分以外にもう一つ聞こえたのだ。
この道は常盤台の寮くらいしか目的地がないし、常盤台の学生はもう他にいなかったことを確認している。

「……?」

光子が歩みを止めると、足音は一つも聞こえなくなった。後ろを振り返っても、誰もいない。
気のせいだったかしらと思い直し、再び歩き出す。今後は踵が立てる音が控えめになるよう、少し慎重になった。
カツカツと、石畳に再び光子の足音が響く。だがそこに、やはり常盤台指定のローファーとは違う、誰かの足音が混ざっていた。

「――どなた?」

毅然とした声で、光子は誰もいない路地の先へと声をかけた。
反応はなかった。

「私を、常盤台中学の婚后光子と知っての狼藉ですの?」

不審な人物がいるなら、放置することはできない。
警戒を込めて自分の来た道を睨みつけながら後ろへ二三歩下がる。
突如、何もないはずの道端で、光子は何かに――否、誰かにぶつかった。

「……っ!」

慌てて振り返る。けれど、そこには依然として人影は見えなくて。

「なん……ですの?」

そうやって、ひとり呟いたその瞬間だった。
背後から髪と、首筋に何かが押し付けられる感触。
振り払うだとか、そんなことを考えるよりも先に、衝撃が光子を襲った。

「あ、――っ!」

他人事のように、自分の体が軽い悲鳴を上げた。
そして何が起こったのか、それを理解するより先に、意識が暗転していった。
スタンガンによる攻撃を受けたのだと理解するだけの時間は、光子にはなかった。

「……」

どさりと崩れ落ちた光子を、スタンガンと大きなマジックペンを手にした少女が見下ろす。
この常盤台の女が恋人と別れこの道にたどり着くまで、つけ狙った甲斐があった。
倒れこんだ光子の体を押し、あおむけにして流麗な顔のパーツを確認する。すこし歪んだ喜びを口の端に浮かべて、少女は光子の髪を掻きあげた。
手にしたマジックペンのキャップを開ける。そして少女は、無慈悲にその先を光子の眉に押し付けた。

そうして光子は、常盤台の女学生を襲った一連の事件、後に美琴や風紀委員である白井、初春、そしてその友人の佐天らによって解決されたその一件の、最初の被害者となった。

今日はここまで。書き溜めがもうほとんどないのでペースは落ちる見込みです。
やっぱり美琴が出るシーンではつい可愛がってしまう。

光子かわいい乙

乙でした
続き楽しみに待ってる


みんなかわいい

Arcadiaをほぼ毎日チェックし続けて半年以上、お待ちしてました
おかえりなさい

次回の投下楽しみにしてます!

>>72
婚后さんとくっつくまでをちゃんと書くってのが改稿の動機だからねー。
そう思ってもらえるとありがたいです。

>>75
毎日とはどうもお待たせして申し訳なかったです。
ペースがゆっくりになるとは思いますが、プロローグが一巻の再構成につながるまで、きちんと補完します。
といっても大きな加筆はもうだいたい終わりましたが。


まだ午前の早い時刻、当麻はとある病院の中を、足早に突き進んでいた。
通り過ぎる病室の一つ一つのネームプレートを確認しながら、目的の場所を探していく。
ほどなく『婚后光子』と書かれたそれを発見し、当麻はスライド式の扉に手を掛け、息を整えた。
コンコンと扉をノックする。二度ほどやり直しても、返事は無かった。
「……光子」
そっと中に声をかける。返事がなかったので扉を少し開け、中を覗き込んだ。
部屋の中に動くものはなく、ただベッドが少し膨らんでいた。
「入るぞー」
小声でそう囁き、当麻は体を部屋に滑り込ませた。光子の個室に忍び込むのに、気まずい思いはないでもない。
外で会うことはあっても、二人っきりになった経験が、あの観覧車くらいしかないのだった。キスだってまだだ。
背徳感めいたものを覚えながらベッドに近づくと、光子はシーツを首までしっかりかぶって、寝息を立てていた。
「寝てるのか」
行儀がよすぎるくらいまっすぐに体を伸ばし、光子は目をつむっている。
その穏やかな表情を見て、改めて当麻はホッと息をついた。
ベッドサイドにあった椅子を手繰り寄せて、寝顔の見える位置に座り込む。


光子が暴漢に襲われて病院に運ばれたという話を聞かされたのは、数日前のことだった。
デートを終えた後、その日の晩に光子から一切の連絡が来ないことをいぶかしんでいた当麻だったが、
次の日になって、警備員(アンチスキル)から連絡が来て、ようやく昨日の出来事を知ったのだった。
曰く、自分と別れた後、学舎の園の中で何者かの襲撃にあいスタンガンで意識を奪われた、と。
それ以上にどのような傷を負わされたのか、当麻は気が気ではなかった。
すぐに見舞いに行くと言ったが禁じられ、数日間の面会謝絶を言い渡された。
犯人は女性らしいということだったし、命に別状もなく、また身体への暴行などはなかったから最悪の事態は免れたのかもしれないけれど、
それでも会えない時間は当麻の焦燥を募らせていた。
「……良かった」
首から下は見えないが、光子のきれいな髪と整った顔立ちにいささかの傷もない。
昨日光子自身に電話で聞いた話でももう何ともないという話だったから、大丈夫なのだろう。
ようやく昨日になって光子の携帯電話が手元に戻ってきて、当麻と連絡が取れたのだった。
「起こすのも悪いかな」
朝ご飯は食べたとナースに聞いたから、これは二度寝なのだろうか。
そういうことはしないんじゃないかと勝手に思っていたから、なんだかおかしかった。
起きるまで、待っていよう。そう当麻は決めて、光子の顔をじっと見つめた。
大好きな彼女の顔は、見飽きる気がしなかった。



……ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。
「もう、ずっと見るなんてずるいですわ」
顔から火が出そうだった。光子としては、当麻がお見舞いの品を片づけたりしている間に目を覚ましたことにしたかったのに、
予想に反してずっと見つめられてしまったから、起きるタイミングがなかったのだった。
当麻に見せたのは、本当の寝顔というわけではなかった。あまりにも会うのが久々だし、着ているのは人任せで買ったパジャマだし、気恥ずかしかったのだ。
だからつい、ノックされた瞬間に寝たふりをしてしまったのだった。
とはいえ、当麻が起きて出ていくまで寝たふりをつづけることはできないだろう。
どれくらい時間がかかるかわからないし、それに寝てばかりでは無駄な心配をかけるかもしれない。
なにせ、自分はすでに完全に回復しているのだ。
上半身を起こし、手元にあった扇子を開く。
当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いて、かすかに舟を漕いでいる。
光子は扇子でそよそよとした風を送り、当麻の頭にあてた。
扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。
弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。
その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。
バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度のそよ風だ。
思ったよりも幼く見える当麻の寝顔を眺めながら、光子は当麻のために涼をとる。
そうやって尽くせるのが嬉しくて、光子は黙って手を動かし続けた。
「……ふふ」
寝たふりの最中だったからその瞬間の顔を見られなかったのが残念だけれど、
「良かった」とつぶやいた当麻の声が、本当に安心したという感じだったのが嬉しかった。
想われているのがわかる、というのはとても幸せなことだ。
家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。
心配されていないかもしれないという不安と表裏一体の、来て欲しいという願望。
それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。
もちろん、当麻がひどく心配した理由は、暴漢に襲われた恋人が一週間近くも面会謝絶になったという事実のせいだろう。
率直に受け止めればそれは光子が大怪我をしたというような意味に取れそうだが、事実は異なる。

光子を襲った犯人は、中学生の女の子だったらしい。
その彼女がスタンガンまで使ってやりたかったことは、光子の身体への影響という意味では、なんでもないことだった。
目を覚ますと、何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。
彼女自身にとっては何か深い意味でもあったのかもしれないが、光子には到底理解しがたい所業だ。
あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、
光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。
年頃の女子学生にとって、ゲジゲジまゆげを晒しながら生活を送るなんて、とても耐えられることじゃない。そう我が侭をいった結果が、この数日間だった。
そして今日、ようやく光子に会えた当麻はほっと一息つけたというわけだ。その後うたた寝を始めたところで、今度は光子のほうが幸せを噛み締めているのだが。
――明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。この間行ったセブンスミストはカジュアルな服が色々揃っていたから、当麻さんに夏物を見てもらいたいし。
そう考えを巡らせながら扇子を畳み、光子はそっと当麻の髪に触れた。
尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。
地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。
肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。
髪の艶の良さや手触りの滑らかさが保たれていると、自分の髪がとても好ましく思えるのだ。
その基準でいえばもちろん当麻の髪は落第だが、同じ基準で比べる気にはならなかった。
石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感で、どことなく安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。
当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。
「当麻さん……ふふ」
つい寝顔がもっと見たくなって、体を傾けて当麻の顔に自分の顔を近づける。
それがきっかけになったのか、不意に、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。
「あっ」
「あ……婚、光子」
変えたばかりの呼び名を間違えそうになって、はっと当麻は覚醒したらしかった。
「当麻さん、おはようございます」
「あ、ああ。起きたんだな。悪い、こっちが寝ちまった。寝顔見たら、穏やかそうだったからほっとしたし」
「ごめんなさい。私こそ、今日当麻さんがいらっしゃるって聞いていましたのに」
「気にしなくていいさ。それより、大丈夫だったか?」
「はい」
光子は短くそう返事をした。
「心配、してくださったの?」
「当たり前だろ。いきなり警備員(アンチスキル)から電話がかかってきて、知り合いの女性が襲われたから事情を聴きたい、だぜ。
 それで詳しく聞いたら、光子が入院してて、しかもお見舞いもダメな面会謝絶って。頭が真っ白になった」
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることはないんだけどさ。光子だって、被害者なんだから」
「でも、誰にもお会いしたくないって言ったのは、病気のせいじゃありませんもの。
 実際、親しいお友達にだけは必要なものを持ってきてもらったりでお会いしていますし」
「結局、大丈夫なんだよな、体のほうは」
「ええ。心配ありませんわ」
「良かった。本当に」
当麻がそう言って、光子の手を両手で包み込んで、自分の額に押し当てた。
長い気の抜けたような溜息をついて、わずかに疲れを見せた顔で優しく笑う。
そんな当麻の態度に申し訳なさを感じる半面、嬉しく思う自分を光子は否定できなかった。

「こんなことを言ってはいけないんでしょうけれど。当麻さんに心配してもらえて、嬉しい」
「嬉しいからって二度とやってほしくないことだけどな」
「私だってご免ですわ」
苦笑しながら空いた手をさらに当麻の両手に重ねる。
ベッドとベッドサイドという変則的な位置取りではあるけれど、二人っきりで、しかも近い距離にいられることが嬉しかった。
「たしか、今日退院だったよな?」
「はい。事件の犯人も捕まったそうですし、これで不安なく街を歩けますから」
お見舞いを受け付けたその日に退院というのも気が早いが、いろいろな事情で強引に引き延ばしていた入院なので仕方ない。
「解決したのか?」
「警備員の方にそう聞きましたわ。詳しいことは知りませんけれど」
常盤台の学生に恨みのある女生徒による犯行だったとのことだった。
もとより学舎の園の中での犯行だから容疑者は絞りやすいし、その絞った中に犯人がいたとかであっさり補導に至ったようだ。
襲われた人間として詳しい話を聞きたくもあるが、警備員はそんな口の軽いことはしてくれないだろう。
「無事解決ってんならそれは一安心だな。それでさ、どうしようかと悩んだんだけど、お見舞いはやめておいたんだ。
 入院中に必要なものって考えても、すぐに退院だし」
「どうぞお気遣いなく。当麻さんが来てくださるだけで嬉しいですわ」
社交辞令などではなく、本心からの思いだった。
申し訳なさそうに髪をかく当麻の、その表情を見られるだけでとても元気づけられる。
「代わりにさ、快気祝いのほうがいいかなって」
「えっ?」
「光子が行けるタイミングでデートに行って、そこで何かプレゼントさせてくれよ。
 それとも俺が選んで買って行って、渡したほうがいいか?」
「そ、そんなの。気になさらなくっていいんですのよ? 大した怪我ではありませんでしたから……」
「光子こそ気にしなくていいって。俺が、光子に何かをあげたいんだ。それで喜んでもらえたら、俺も嬉しいし」
どうしよう、と光子は思案した。買ってもらえるという提案は、ものすごくうれしい。
当麻に何かをもらえるなら絶対に欲しい。嬉しい。
だけど、そうやって好意に甘えるのは、図々しくはないだろうか。
「……図々しいって思われたら、嫌ですけれど」
「ん?」
「当麻さんに、夏物を一緒に見てほしくって」
「服ってこと?」
「はい。デートに着る服が、もう少し欲しいな、なんて思っていて、その」
「じゃあそれ、見に行こう」
「ごめんなさい、わがままを言って」
怒られたり、嫌われたら嫌だなと思いながら、光子は当麻の表情を窺った。
自然とうなだれたような姿勢から当麻を見つめることになる。
そんな、光子の上目遣いのしぐさに当麻はドキッとした。
甘えてくる女の子の典型的なしぐさなのだろうけれど、その破壊力を身をもって知ったのは初めてだった。
「謝らなくていいって。それより、もっと聞きたい言葉は別にあるんだけどな」
「あっ……」
当麻の言わんとすることに、すぐに光子も気づいたらしかった。
「次のデート、退院のお祝いって大義名分つけるからさ、何か、光子に贈らせてくれ」
「嬉しい。当麻さん、ありがとうございます」
形式ばった口調で告げた当麻に、光子は言うべきお礼を返した。
そうして、言葉にしてから、後になってさらに喜びが湧き上がってきた。
「どんなものが欲しい?」
「えっと……ごめんなさい、すぐには考えがまとまらなくて。
 ただカジュアルなものが欲しいと思っていましたから、そういうものを」
「じゃあ、そういうのがある店に行くか。知ってるところだと、駅前にセブンスミストって店があってさ、あそこは結構大きいんだけど」
「知っています。こないだお友達と行きましたの」
「そっか。んー、女性服の売ってる場所は詳しくないから、あそこしか出てこないんだけど」
「場所はそれで構いませんわ。ひととおりなんでも揃っていますし」
話しているうちに、今日これからの検査や退院手続き、帰宅といった面倒なことが頭から消えて行って、楽しい想像で一杯になった。
「ふふ、すごく楽しみですわ」
そういって目を閉じ、光子が溜息をついた。
カーテンによって薄められた陽光で浮かび上がる光子の優しい微笑みを見て、当麻はつい、光子を抱き寄せたい衝動に駆られる。
まだぎゅっと抱きしめたことはない。いつだって人前でしか会えなかったせいだ。
ほんの数日とはいえ、会えない日々がそうした欲求を強めていた。
「今日はまだ、時間あるのか?」
「ええと、午前中に検査だそうですから、その」
「そっか」
時計を見ると、診察開始の時刻までもうあまり残っていないらしかった。
「せっかく来ていただいたのに、あまり時間が取れなくってごめんなさい」
「気にするなって。一日でも早く会いたいからって、無理に押し掛けたようなもんだし」
さすがに退院すぐの光子は、その足で当麻と会おうにも学舎の園の外に出る許可が下りない。
今日会うなら、見舞いというチャンスしかなかった。
「あのさ」
「はい」
光子とつないだ手をそっと離し、光子の髪を触ってから、その肩に手を置いた。
「光子、好きだよ」
「私も。当麻さんが来てくれて、すごく嬉しかった」
「良かった。光子」
何かを尋ねかけてから、口をつぐむ。光子が首をかしげて疑問を伝えてきた。
今から自分がしようとしていることに、当麻は許可を求めようとしてやめたのだった。
何も言わずにするほうが、喜んでもらえる気がしたから。
「あっ」
肩においた手に力を込め、ゆっくりと当麻は光子を抱き寄せた。
同時に自分も椅子を最大限に光子に近づける。


嫌がる素振りを光子は見せなかった。
わずかに見せた不安顔は、行為へのというよりは、うまくできるかわからないという自信のなさだろうか。
ほどなくして、二人の距離はゼロになる。
接触の感触に少し遅れて、光子の体温がじわりと肌に届いた。
「ああ……」
光子が溜息をついて、沈み込むように、さらに当麻にしなだれかかる。
そうやって、恋人に体重を預けられることに、当麻は感動を覚えていた。
「光子、可愛いよ」
「嬉しい。あの、支えていただいて、お辛くありません?」
「大丈夫。それより光子こそ、その体勢しんどくないか?」
「全然気になりません」
首を振って、光子が顔をうずめた。
「当麻さんの心臓の音、聞こえます」
「俺は光子の、聞こえないけど」
「それはそうですわ」
光子が当麻の冗談をクスリと笑う。光子が当麻の体の内に収まっている以上、構造的にありえない。
「でも俺も聞いてみたいけどな、光子の」
「どうしてですの?」
目で笑いながら、当麻に問いかけた。だって赤ちゃんみたいだ。
自分で言っておいてなんだが、心音が聞こえるくらいの近距離なのは嬉しいけれど、
心音そのものがどうかというとそこまで思い入れはない。
もっと当麻に甘えた気分で、眠たい時なら別かもしれないけれど。
からかわれた仕返しだろうか、そんな光子の素朴な疑問に、当麻は意地の悪い表情を返した。
「逆の状態って、どうなってるかイメージしたか?」
「え? 当麻さんが私の胸の……あっ!」
さあっと、光子の頬に朱がさした。逆バージョンというのは、つまり当麻が光子の胸に顔をくっつけるということだ。
からかわれたと悟って、光子は口をとがらせる。
「当麻さんのエッチ」
「なんで?」
「だって……そうじゃありませんの」
「わかんねえなー。付き合ってるなら、彼女を抱きしめるのと逆に、
 彼女に抱きしめてもらうのだってアリだと思うけど。それが駄目なことなのか?」
からかうようにそう言いながら、当麻はちょっとあやういものも感じていた。
だって、光子の体は、とても二学年下の女の子と思えないくらい、成熟している。
今だって当麻の体に押し当てられたたわわなその感触は、ちょっと意識を集中させるとヤバい感じなのだ。
「当麻さんとそういうことをするのが嫌だなんて、言っていませんわ」
「そうなのか?」
「ええ。当麻さんが変なことを仰ってからかうのが悪いだけで……」
「じゃあしてもらおうかな」
「えっ?」
素直な光子は、誘導が楽だった。つい意地悪をしてしまうのはそのせいだろうか。
「で、でもっ。心の準備が」
胸の話でからかってからそんなことを要求するなんて、当麻はひどいと思う。
抗議を含んだ表情で当麻を見上げると、優しく笑い返されてしまった。

「光子は本当に可愛いな」
「こんなタイミングで言われても喜べませんわ。せっかくこうしてるのに、当麻さんたら私をからかって」
「拗ねるなって」
「知りません」
光子がそう言って俯いた。もちろん本気で怒っているわけじゃないのはわかっているが。
抱きしめたまま髪を撫でる。流れて頬にかかった光子の髪はいつもと変わらず、ほつれひとつなかった。
「光子」
「……」
返事はなく、ぐいと光子はもたれかかった体をより強く預けることで答えを返した。
「顔、見せてくれよ」
「嫌ですわ。きっとまた、からかわれますもの」
「しないって」
「本当に?」
「ホントにしないって。光子に嫌われたくないし」
「嫌いになったりは、しませんけれど」
わずかに笑って、光子が当麻を見上げた。
「光子は、綺麗だよな」
「もう、おからかいにならないでって言ったばかりなのに」
「本心からそう思ってるんだって。光子は、めちゃくちゃ可愛いよ」
「……あ」
当麻と、視線が重なり合う。今までで一番近い距離だ。
息遣いがダイレクトに聞こえるほどの接近。だから、二人とも、相手が息をのんだことがすぐに分かった。
「とうま、さん」
「光子」
「っ!」
真剣味を帯びた呼びかけに、光子は何も言えなくなった。
二人きりの個室に、沈黙が響き渡る。
目線を外すことができない数秒が、光子には何倍にも長く感じられた。
「光子……」
当麻の瞳が、強く当麻の気持ちを物語っている。その意思に抗おうとしない自分がいるのを、光子は自覚していた。
唇を、誰かに捧げたことはない。そして、今この瞬間がそうなのだとは考えていなかったけれど、
いつかは当麻に貰ってほしいと、そう思っていたのは紛れもなく事実だった。
心臓が、苦しいくらいに鼓動を早める。
当麻が、何かを言おうとした。その時だった。




パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。




ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。
光子が慌てて着ていたパジャマの襟を直したり、髪を手櫛で直したりするのを情けなく見守りながら、当麻はがっかりした気分でいっぱいだった。
もちろんそれは、光子も同じだったけれど。
ほどなくサンダルの足音がやみ、コンコンというノックの音が部屋に響いた。
「どうぞ」
「おはよう。婚后さん、そろそろ検査の……って、あら。お邪魔してごめんなさいね」
「べ、別にお邪魔なんて」
「そう? でも、彼氏さんと二人っきりなんだし、若いあなたたちなら普通よ。
 けど、時間切れね。検査が始まるから、そろそろ準備をしてくださいね。
 そのまま退院だから、服はもう外出用のにして、荷物もまとめておいてね。あとで預かるから」
「わかりましたわ」
数日もここで過ごしたからだろう、もうそれなりに親しくなったらしかった。
よろしくねと一言残してさっさと出て行ったナースに、光子が恨めしい視線を送っていた。
「あの、当麻さん」
「わかってるって。ちょっと、もったいないことしたけど」
「ええ……あの」
「急ぐ必要ないもんな」
「え?」
当麻が再び身を寄せて、光子をもう一度抱きしめた。
「今後、二人っきりになったら、光子にキスする」
「……はい」
「嫌じゃない?」
「そんなわけ、ありません」
正直に言うと、そうやって相手に体を許す行為は、結婚をしてからだと教えられてきた。
別にそれが間違っているとまでは思わないが、キスくらい、光子だってしたかった。当麻に愛されたかった。
「じゃあ、約束な。今日のところは、帰るよ」
「はい。当麻さん、来てくださって、ありがとうございました」
「光子の元気な顔が見れて俺もうれしかった。それじゃ」
「はい」
そう言って、当麻は立ち上がり、光子の部屋を後にした。

今日はこんなもんで。

ずっとアルカディアの方でやっていくもんだと思っていたからまさか再びここに降臨するとは思わなかった…
改めておかえりなさい、そして乙

上条さんのフラグ建築に四苦八苦の光子さんだけど、ここで最大の壁になるのはやっぱり食蜂さんなのかねえ…
派閥関係とか上条さん関係を考えると

この作者の科学ウンチクが面白い。
乙でした。

おかえりなさい。
理想郷での報告を見てやってきました。
いやあ、丁寧に二人の関係の馴れ初めを書いていただきありがとうございます!あっちにも書いたけど。
このころの上条さんはまだ初心だったのな……ww

次回も楽しみにしてますよー。


去り際に交わした視線に後ろ髪をひかれながら、当麻は出口へと向かう。

「さて、どこ行くか」

休日の午前に、今日すべき重要な用事が終わってしまった。
光子自身はもう回復したみたいだし、別に遊びに行こうが何をしようが、もう咎めるものはないのだが。
スケジュールをあれこれ考えていると、後ろから声がかかった。

「ん? 上条か。こんなところで何やってるじゃんよ」
「黄泉川先生?」

振り向くと、光子が霞むくらいのナイスバディを野暮ったいジャージに包んだ女性がそこにいた。当麻の学校で体育を受け持つ教諭だ。
名前は黄泉川愛穂(よみかわあいほ)。恋愛対象としてみるにはいささか年上すぎるとはいえ、容姿は間違いなく美女の部類に入る。
生徒からの人気も高く、また当麻自身も決して嫌いな相手ではないのだが、どっちかというと声をかけられると背筋を正してしまうような相手だった。
なにせ黄泉川は警備員(アンチスキル)だ。能力という厄介なものを身に着けた学園都市の学生の素行を取り締まる、実動部隊のお姉さんなのである。
最近は忙しいらしく、自分でクラスを持つことなく当麻のクラスの副担任を勤めているのだった。

「怪我でもしたのか?」
「あ、俺はなんともないです。知り合いが入院してるんで、その見舞いです」
「うちの生徒か? 具合は?」
「別の学校の生徒です。もう体調も良くて、今日退院です」
「そうか。ま、元気ならよかったじゃんよ」

そう呟いて、黄泉川は当麻の相手からは興味を失ったらしかった。
心の中で当麻はほっと一息つく。まさか副担任に彼女を紹介、なんてのは勘弁してほしい。
なにも付き合っている相手がいるというだけで怒られることはないろうが、小言を言われるのは確実だった。

「先生はなんで病院に?」
「ちょっと面倒な事件があってね。ここには顔も知識も広い優秀な医者がいるから、その人に相談にきたんだ」
「じゃ警備員(アンチスキル)の仕事ですか。大変ですね」
「好きでやってるんだ。文句はないじゃんよ」

ニッと笑って黄泉川はそう返した。嫌な顔一つ見せず、週末まで働くその仕事っぷりには一般市民としては頭が下がる思いだった。

「ところで上条」
「はい?」
「お前、レベルアッパーって知ってるか?」

何気ない口調で、黄泉川はそんなことを当麻に尋ねた。思い当たる節はないので、首をかしげるしかない

「なんですか、それ」
「レベルを上げる薬、だそうだ」

大真面目にそう告げる黄泉川に向かって、露骨にため息をつく。
あまりにありがちで、ばかばかしい話だからだ。

「違法な開発薬かスキルアウトの連中の興奮剤か、どうせそんなのでしょう」
「まあそうなんだろうけどな。上条、お前はそういうのには手を出さなそうだけど、一応教師だからな、釘は刺しとくじゃんよ」
「やりませんよ」

光子という恋人を得てこんなにも人生を満喫しているというのに、どうしてそんな馬鹿なものに手を出すものか。
そう心の中で一蹴したので、当麻は黄泉川が『レベルアッパー』なるものを単なるクスリにとどまらないものを感じていることに気が付かなかった。

「それじゃあたしはもう行くよ。また週明けにな、上条」
「はい。お疲れ様です」

手を振って挨拶をした黄泉川に会釈を返し、当麻は病院を後にした。

『prologue 07: その心配が嬉しい』ここまで。

>>84
そのつもりだったんですが、やっぱあちらでの一話ぶんを書き溜めて投稿すると時間がかかって大変でして。
こうやってレスポンスがつくのが、すごくやる気につながってます。
食蜂さんを動かすタイミングは考えないといけないですね。
漫画版の最新刊とかで随分設定も掘り下げられましたし。

>>85
プロローグの加筆部分にはあまりそういう話を入れ込めなかったですけどね。。。
妹達編のほうは佐天さんが絹旗さん相手に行き詰ったので、いずれ科学トークが出てくるのは確定です。

>>86
たくさん感想どうもです!
>このころの上条さんはまだ初心だったのな
ですねーw 書いてるこっちも「婚后」って当麻に呼ばせるのに違和感があって苦労しました。


キーンコーンカーンコーンと、一日の終わりを告げるチャイムが当麻たちの教室に響き渡る。

「よしっ、それじゃあ今日はこれで終わりです。ここの所物騒な話も聞きますし、
 野郎どもも子猫ちゃんたちもなるべく寄り道しないで帰るですよー」

休み明け、月曜日というのはどうしてこうもだるいのか。
担任の小萌先生の声を聞き流しながら、あくび交じりに伸びをして当麻はこれからのことを思案した。
昨日退院したばかりの光子は、しばらくは学舎の園からは出られない。

「あー……。授業が終わったのはいいけど、エアコンのない帰り道を考えると憂鬱だにゃー」

すぐそばで、土御門がだらけきった姿勢でそうこぼした。その発言には全く持って同意なのだが。

「けど帰ったらメシは出来上がってんだろ? 夏の台所を回避できるだけでも贅沢だっての」

エアコンも効かず、ガス火の熱風で蒸しあがるそこは、真夏における地獄である。
自炊を常とする当麻にとって、まさにそこは悪夢の場所なのだが。

「まーそれは、メイドにして妹という素晴らしい存在を手にした男の特権ぜよ」

悪びれもなくそう言って、土御門はだらだらと机の上の教科書を片付けだした。

「カミやん、これからどうする?」
「今日は駅のほうに出ようか考え中」
「駅? モールに買い物でも行くのか?」
「そんなトコだ。土御門はどうする?」
「買い物だったら付き合ってアイスでも買おうかと思ったけど、遠出はパスだにゃー。舞夏に怒られる」
「そうか」

内心で安堵したのを悟られないよう、当麻は表情を取り繕う。
今日行こうとしているのは、セブンスミストと呼ばれる大手量販店だ。
それも自分の服を買うのではなく、女物をざっと調べに行くのである。
一人で行くには根性のいる場所だが、だからといって男友達についてきて欲しくはなかった。
光子に合う服はどんなものかな、なんて考えながら男友達と一緒に女物のフロアを歩くのははっきり言って気持ちが悪い。

「そういやカミやん、物騒な話で思い出したけど、レベルアッパーって知ってるか?」
「あ、それ噂になってるやつやんね?」

別サイドからもう一人のクラスメイト、青髪にピアスの学級委員が割り込んできた。
180センチを超える長身が暑苦しい。
「使うだけでレベルが上がる魔法のアイテム、って話だにゃー」
「ボクも面白そうやから探してみたんやけど、まだ見つけてへんね」

両隣で交わされるその会話に、当麻ははあっと溜息をつく。そんなものあるわけがない。
しかも別に、この二人は使いたくて会話しているのではないだろう。
話のネタとして面白いから情報交換しているだけなのだ。どうせ。
つい昨日の黄泉川先生との会話を思い出しながら、当麻は二人の楽しげな雰囲気に水を差してやる。

「どうせ探し出せても、犯罪スレスレか犯罪そのものの禁止薬品が出てくるだけだろ」

だが当麻のそんな態度を見て、土御門はニヤリと笑った。

「それがどうも違うらしいんだにゃー」
「あん?」
「どうもマジで、あるっぽいんだよ」
「そんないかがわしい、レベルアッパーってのがか?」
「うそっ、土御門クン、なんか知ってるん?」

半分以上疑ったままの当麻の横で、青髪ピアスが身を乗り出す。その二人の反応に気をよくしたのか、土御門がうなずいて腕を組む。

「出所は明かせないけど、かなり具体的な情報が手に入ったんだにゃー。なんとこの幻想御手<レベルアッパー>、薬品じゃないらしいぜ」
「はあ?」

能力を引き上げるということは、幻想御手は脳に働きかける何かであることは間違いない。
そして、前代未聞の効果を発揮する優れものが、薬品以外のものとは考えにくい。超能力でもない限りは。
視覚や聴覚を入力とする洗脳の手段なんて、薬品で血流を通して直接脳の働きに介入するのに比べれば、効き目などたかが知れているのだ。

「でも、確かにそのほうが信憑性あるかも。
 そんな危険なものがクスリやったら、絶対にもう売ってる連中が警備員につかまってるはずやんね」
「ただの都市伝説だってほうがよっぽど信憑性あるけどな」
「カミやんの言いたいこともわかるけどな、最近流行ってる事件も関連してるって話ですたい。
 知らないか? 能力者が事件を起こしたってんで捕まえてみると、
 どうもそいつのレベルじゃ到底起こせないような大規模な破壊とかが起こってるって話」
「知らねえよ。ってかどこからそんなゴシップ引っ張ってきたんだよ」
「ソースは教えられないにゃー」
「で、結局幻想御手<レベルアッパー>ってのは、なんなん?」
「それはな」

勿体ぶるように土御門が言葉を切る。そしてその一呼吸で注目を集め、答えを口にした。

「……音楽、らしい」
「は?」
「入手経路は分からないが、その曲を聞けば能力が上がるとか」

どうだと言わんばかりの顔でそう言い切った土御門に、精一杯呆れ顔を返してやる。
だって、言うに事欠いて、音楽だって?

「んー、土御門クン、もっと上手にオチつけてくれへんと、モヤモヤする」
「だな。次からは最後までストーリーを練っといてくれ」
「今の情報はマジモンだって! ほらカミやん、街に出るってんならレコード屋に行って隠し部屋の探索とかしてみろって。もしかしたら見つかるかもしれないし」
「アホか。やりたいならダウンロードサイトの隠しページでも探してろよ」
「カミやんが探してくれるならやってもいいぜ。それで見つけたら使うか売るか考えてみるにゃー」

大して本気そうでもない顔で笑う土御門の顔に、不意に影が差す。

「そこ! なんて話をしてるですか!」
「げ、小萌先生」

見上げると、もとい、見下げると、小萌先生がすぐそばまでやってきて、仁王立ちでこちらを睨みつけていた。
いかんせん身長135センチ、自分たちよりはるかに年下にしか見えない担任だった。睨まれても、正直に言って怖くはない。
「げ、とはなんですか! 上条ちゃん。いいですか、そういうものに安易に手を出すような子たちじゃないって、もちろんわかってるです。
 でもちょっとならやってみてもいいとか、手に入れるだけならとか、そういう思いが非行に走る第一歩なのです」
「や、やりませんよ」

三人の表情を見て、小萌先生は満足したようにうなずいた。三人の顔に後ろめたさがなかったからだろう。

「よろしい。それじゃ、寄り道はしないで帰るですよ。特に上条ちゃんは」
「へ? なんで俺だけ」
「トラブルに恵まれる率が一人だけ桁違うからね」
「ま、そういうことぜよ。それじゃ、俺はそろそろ帰るわ」

舞夏が待っている、ということなのだろう。さっさと土御門がカバンを手にして、椅子から立ち上がった。

「それじゃ、また明日」
「またねー」

それを合図にして、当麻と青髪ピアスも腰を上げることにした。


小萌先生の言いつけを守らず、当麻はその足でセブンスミストへと向かう。
次の週末までにはデートだろうし、それまでに下見に行くならいつ行っても同じだからだ。
もちろん、帰り際に土御門と話したことは、すっかり頭から抜け落ちていた。

「……さすがに下着と水着はパスでいいよな」

そこは光子を同伴していても、入りづらい場所だった。
通りを曲がれば到着、という所で信号に引っかかる。ぼんやりと車の流れを眺めていると、視界の端でチラチラと小さい少女が動くのが映った。
手書きと思わしき地図を見ながら、不安げにあちこちを見上げ、途方に暮れているらしかった。

「なあ、どうした?」
「えっ……?」
「道に迷ったか?」

小学校の低学年くらいだろうか。綿のブラウスにサマーセーターを来た制服姿は、いかにも学校帰りという感じだ。
こちらを見つめる視線に戸惑いはあるが、あまり警戒感はなかった。不審者みたいに見られないのはありがたいが、あんまり無防備なのはどうかとも思う。
とはいえ学生の多くその大半が親元から離れているこの町では、学生同士は少々年が離れていても気安いものではあった。

「えっと。洋服屋さんを探してるの」
「洋服屋?」
「うん。こないだテレビでやってて、それで」

声をかけた流れで、たどたどしい少女の説明に付き合うことになる。
根気よく聞き取ったところ、テレビで見た大きな衣料店が学校で話題になり、「テレビの人みたいにおしゃれする」ために一人でここまで出てきたらしい。
いかな学園都市とはいえ、この少女くらいの年なら十分冒険と言っていい外出先だった。

「その店、デパートみたいにでかいやつか?」
「うん!」
「まあ……セブンスミストだろうなぁ」

このあたりで服飾専門となると、おそらくはそこに違いない。

「知ってるの?」
「たぶんな。ってか、俺もそこに行くつもりだったんだ。よし、道曲がって向こうだから、一緒に行くか」
「ありがとう、お兄ちゃん!」

物おじしないで屈託なくそういう顔は、年より大人びて見えるものの、もちろん当麻にとっては子供でしかない。
特に光子に対して後ろめたさを感じることもなく、少女の隣に立った。

今日はここまで。
上条さんはこの少女とのフラグをいつ回収するんでしょうね。
そしてこの子とセブンスミストに行くということはこの後の展開はもうわかりますよねー

レベルアッパー編キタ! 続きを楽しみに待ってる。

乙です
これを読んで興味が出たので、三連休使ってこの後の話を全部読んできました
とても面白いので、続きを頑張ってください!

やったー!
こっちに投下される!
ひゃっはー!

乙でっすー
流石上条さん!呼吸するようにフラグを建てる!そこにしびれぬあこがれぬーっ!
いやしかしこのフラグ建築士スキルは付き合う女子にとっては煩悶必至すなww

そして例の事件へと続くわけですね。そしてみこっちゃんへの可愛がりが始まると……
いやあ、楽しみですね(ゲス顔)

戻ってきてたー!!
アルカディアよりこっちで見る方が好きだから嬉しい

さて、レールガン最新刊を読んだんだが、みさきち可愛すぎワロタww
だがこれトンデモに入れるとまた修羅場らばんば……?それともみこっちゃんの癒し?
むぎのんもそうだけどどう料理するか楽しみww

(コメントだけで投稿はまだです)

>>94
ご新規さんいるとすごい励まされる。ありがとうございます。

>>97
細かくこっちで上げてペースを速めたいと思います。

>>98
これ! 食蜂さんどないしたらええんや……
連載の最近のほうだと記憶喪失前の上条さんと出会いがあったような描写があったり……。
当麻さんが気になるみさきちとすでに彼女ポジの婚后さんとか、こんなん絶対からませんとあかんレベルですよね。
どうしたもんか。夢は広がるけど、練り直しも大変です。

派閥を作る代わりに当麻をよこせと光子さんに究極の選択を迫る悪女なみさきち…

でも光子のお熱っぷりをみると派閥よりも当麻を選ぶよねきっとw

婚后ちゃん大変ですわ

>>99
最悪の場合は食蜂≠心理掌握にすればいい
つまりレベル5第5位の心理掌握は存在するけど、食蜂さんじゃない(心理掌握は一昔のオリキャラみたいな感じ)
どこにもいる今時女子中学生(ただし胸は高校生)の食蜂操祈……みたいな?

横暴に見れるけどこれなら食蜂さんの問題も一応クリアできる

婚后航空って、重工系であって、エアライン系じゃないみたい。
学園都市に試験飛行場持ってて、ロボットも作ってる。
いや、エアラインも持ってるかもしれんけど。

生存報告です。ちょっとSS書く時間が取れない。。。

>>102
うーん。。。今のところ原作に反した設定でそこまで大胆なのは採用してないからなー。
でも最後の手段としてはそれくらい大ナタふるう必要もあるかなぁ。
ところで雑談スレでもおんなじこと言ってましたねw

>>103
ナントカ航空と世につくものはすべてエアライン系な気がするんですよね。
飛行機作ってるボーイングもエアバスも、路線は持ってないし。
だから婚后航空って、現実世界で例えるなら三菱重工が出資して作ったエアライン系の会社、
みたいなのかなと勝手に想像しています。

婚后航空(エアライン系)の下に航空機開発も行う婚后重工という子会社があるのかもしれん
流石にエアライン系オンリーであんなロボット持ってる理屈はつけられないからなw

食蜂は助けてもらって恩人と思ってるが、上条さんは顔見知り程度の認識しかないでもいいとおもうけどねー

ただみさきちはエロ可愛くて運動音痴、みこっちゃんとタメのレベルと凄まじく魅力的なキャラ…
常盤台やから光子さんやサテンさんとも絡めることができる…
正直みさきちをどう料理するかめがっさ楽しみでもありますw

前から見てます

ボーイミーツの過去スレ読もうかと思ってググったら、まさかの復活で俺歓喜!

佐天さんの活躍と科学面の描写楽しみにしてます!

面白い!
新規なんだけどこのスレを追えばいいのかな?
アルカディアに載せてたやつを1から加筆修正してるって認識でいいの?

>>109
プロローグ改稿だったはずだからそれが終われば理想郷の最新話(シスターズ7)の続きからだと思うよ

>>109
>>110の言うとおり、アルカディアでprologueと銘打ってるところだけ改稿です。
それが終わったら再び最新話の更新始めます。vipでやるかは決めてないんだけど。

>>109
>>111
ありがとう
じゃプロローグ終わってから続きみよう
引き続き楽しみにしてます

「ほら、到着っと」
「あっ、ここ、ここだった! テレビで見たの!」
「そりゃよかった。……しかし、こっからどうするかな」

無事着いたからもうあとは知らない、というのもできなくはないだろう。
だがこの少女、はたして無事に寮に帰りつけるだろうか。

「なあ、こっから家までの道、わかるか?」
「えっ? え、っと」
「あとこの店の中で迷ったりもしないか? 言っとくと、地下一階から九階まであるみたいだぞ」

その二つの質問で、早々と少女の表情は曇ってしまった。思わず頭を掻く。当麻の予想通りだった。

「乗りかかった船だ。どうせ行先も対して変わんねーし、一緒に行くか。迷子になるなよ」
「あの、ごめいわくで、ごめんなさい」
「迷惑ってほどじゃないから大丈夫だって。ほら行こう」
「うん!」

そう当麻が促すと、ごく自然に少女は当麻の手を握った。
おそらく迷子にならないために、大人と手をつなぐ機会が多いのだろう。

「さて、フロアは……婦人服、ティーンズ、子供服」

女の子向けの服のフロアは男より区分が広く、また数も多い。

「てぃーんずっていうところ!」
「んー」

子供服を選ばなかったのは背伸びしてのことだろう。だが悩ましい所だった。
学園都市の購買層で一番厚みがあるのは当然、中学高校生だ。
セブンスミストには、その彼女らに合わせたフロアが二つあり、20代以上の、教師たち向けのフロアが一つ、
そして小学生以下の子供向けのフロアが一つあった。
少女の身長は小萌先生と同じくらいだから、多分130センチ台だろう。
ティーンズ向けの服は、おそらくSサイズでも大きすぎるに違いない。
そう諭そうと口を開きかけて、当麻はやめることにした。

「じゃ、そっから見てみるか」

光子のために訪れるフロアは当然そこになるし、背伸びをしに来たこの少女に、
最初から子供服売り場に行けと言わなくてもいいだろうと思ったのだった。
背格好で自分に合うものがないとわかれば、おのずと適切な場所へ行くことになるだろうし。
少女の手を引いて、当麻は目の前にあったエスカレータに乗り4階を目指した。

「えっとね、テレビでお姉さんが、ナチュラル系っていう服着てて、それ見たい!」
「ナチュラル系……」

それはいかなるものであるか、を当麻は明確に定義できなかった。
想像はつくのだが、カジュアルとどう違うのかと聞かれるとうまく答えられない。
なんにせよ、ゴシックとかロリータみたいな服への憧れでなくて助かった。売っているかもわからないし、子供向けとなるとなおさらだ。

「ま、このフロアであってるだろ。こういうとこ、来たことないのか?」
「んー、あったかも。でも覚えてない」

自分で自分の服に興味を持ったのが、この少女にとっては今だったのだろう。
当麻は通りすがりの高校生でしかないが、そう思うとこの子の成長が垣間見える気がして微笑ましかった。

「ほら、到着だ」
「わぁ……!!!」


目の前には、それぞれのブランド名を入り口付近に掲げ、8畳くらいのスペースを服で埋めたショップが立ち並んでいる。
その光景に目を輝かせる少女を見て、当麻も満足げにうなずいた。
今日の目的は、この子に付き添いつつ、どんな感じの服が並んでいるかをざっと見て回ることだ。

「どっから見る?」
「あっち!」

迷わずリクエストをしてくれるのがむしろ当麻には有難かった。
当麻を振り返りもせず駆け出した少女に苦笑いをして、ゆっくりと後を追う。
道すがらにあった店を何気なく眺めていると、見覚えのある服を着たマネキンが目に入った。

「このワンピ……そっか」

全く同じデザインではないようだが、こないだの遊園地で光子が来ていたものとよく似ていた。
きっとここで、光子は服を買ったのだろう。

「同じ店はパス、かな。でもこういう路線はアリだよな」

こういう、華美すぎない服を光子に着せたいと当麻は思った。
自分で着てきたということは光子にとっても好ましいものなのだと思うし、そのままでも十分に華のある容姿だから、あまり主張の激しい服を着なくても映えると思うのだ。
その当麻の好みには、隣の自分が釣り合うかどうか、という点も反映されていたかもしれない。

「ワンピースは買ったばっかだし、上下どっちがいいか、聞いてみないとな」

ウインドウショッピングの視線を前に向けると、少女が早くも服を手にして手を振っていた。

「おにーちゃん、これ」
「ん?」

少女が見せてきたのは、長めのカットソーだった。ゆったりとしていて体のラインが出にくく、かつお尻の下まで届くような長さのヤツだ。
街中で、ショートパンツと合わせることでまるで下を履いていないように見える女の子を見かけるが、そういう着こなし方もできそうだ。
もちろんそれは、もっと背の高い十代の女の子での話。
少女が自分の体に当ててみると、ひざ下まであるワンピースと呼べるくらい、下に余ってしまった。

「デザインは似合うと思うけど、さすがに大きいか」
「うん……もっと小さいの、ないかな?」
「Sサイズだよな、それ。SSとかもっと小さいのがあればいいけど」

少女が取り出してきた棚に近づき、サイズを調べる。
……まがりなりにも女の子の付添いであり、大義名分はあるのだが、周りの女の子の視線に緊張せずにはいられない当麻だった。

「ないな。それが一番小っちゃいやつっぽい」
「えー……」

はっきりとした落胆を少女は表情にのぞかせる。大人の女性のファッションに憧れてきたはいいが、年齢の壁に阻まれるのはどうしようもない。

「小さいサイズのを売ってる店もあると思うし、探してみ」
「うん」

深刻そうに深くうなずいて、少女はあたりを見渡した。
当麻もそれに倣うが、やはり周りにいるのはその少女よりは年上ばかりだ。最終的には、子供服売り場で同じような服を探してやることになるだろう。

「……お?」

そう思いながら、フロアの先のほうを見つめると。
見覚えのある、常盤台のお嬢様がやや挙動不審そうにあたりをうかがっていた。

「アイツ、なんであんなキョロキョロしてんだ」

別に、服を買いに来て戸惑うことはないだろう。普通に女子中学生なんだし。
声をかけるか、逡巡する。変に絡まれても面倒なのは面倒だ。
ただまあ、美琴の不審な態度に興味もあるし、あれで万引きと間違われても可哀そうだ。
そんな風に考えて、当麻は美琴のほうへと歩み寄った。

セブンスミストの四階、当麻たちがそこにたどり着く十分ほど前。
同じようにエスカレータではしゃぎながら登ってきた三人組の女子中学生たちがいた。

「こっちこっち!」

先頭にいた少女が、まだ登り切っていない連れに向かって急かすように声をかける。
快活に手を振るしぐさにつられて、肩甲骨くらいまで伸びる長いストレートの黒髪が揺れた。
見下ろす先では、すこしお姉さんらしい落ち着いた少女が苦笑いをしながら、隣の少女と顔を見合わせていた。

「初春さんは見たいトコある?」
「んー……特に、決めてないんですけど」

そう思案しながら、生花をあしらった大きな花飾りを身に着けた少女が返事を返した。
長髪の少女と花飾りの少女、佐天涙子と初春飾利の二人は同級生だった。
どちらも第七学区にある柵川中学校の一年生である。
そしてその二人と一緒にいるのが、美琴だった。
一人だけ超名門校、常盤台中学の学生で、しかも学年の違う二年生。
初春は風紀委員(ジャッジメント)として、美琴のルームメイトの白井とよく一緒に活動している。
そのつながりで美琴と初春たちは仲良くなったのだが、仕事に追われて今日は白井が欠けているのだった。
知り合ったのは昨日や今日ではないので、別に白井がいないからと言って気まずいことはない。

「あの子の息抜きも兼ねてたつもりだったんだけどねぇ」

そうひとりぼやいた美琴に、初春が苦笑を浮かべた。
ここの所、能力を利用した連続爆破事件が続いているのだ。
風紀委員が何人か被害に巻き込まれていることもあって、仕事の代理を買って出たり、調べ物に精を出しているらしかった。

「うーいーはーるー! ちょっとちょっと!」

その呼び声で、美琴と初春は顔を上げる。
見つめる先にはランジェリーショップが店を構えていて、その入り口にほど違いワゴンから、佐天が一枚、扇情的なパンツを取り上げていた。

「な、なんですか」
「じゃーん、こんなのはどうじゃ?」

履いてみてはいかがでござろうか、という顔つきでみょんみょんとゴムを伸ばしながら、佐天は初春にそれを見せつける。
腰の両端にリボンがついた、大人なデザインのものだった。
二人が来ている野暮ったい中学のセーラー服の下には、さすがに合わないであろうデザインだ。
目の前に掲げられて、初春の顔が、ぽんと赤く弾ける。

「むっ、無理無理無理です! そんなの穿ける訳ないじゃないですか!」

両手をぶんぶんと振って初春は否定する。実際、そんな大人っぽい下着なぞ、着けたこともない。
目の前の佐天とちがって、初春は自分がまだお子様体型なことくらい、わきまえている。

「これならあたしにスカートめくられても、堂々と周りに見せつけられるんじゃない?」
「見せないでください! めくらないでください!」

美人で周りにも気遣いのある、佐天はとてもいい少女なのだ。
友達として彼女のことを大好きなのだけれど、初春にとって、決して看過できない悪癖が佐天にはあった。
すなわち、なんの脈絡もなしに、町中で、初春のスカートをめくるのである。
それも、結果として周囲にいた男子学生や大人にも見えてしまうような形で。
今回も抗議を込めて佐天を睨みつけたのだが、どこ吹く風という感じでさっと下着をワゴンに戻した。

「ありゃー、残念。御坂さんは、何か探し物とかあります?」

佐天が話を美琴に振った。これと言って買うべきものを決めて来たわけではなかったので、思案する。

「えっ? そうねぇ、私は、パジャマとか」
「だったら、こっちですよ!」

美琴が今愛用しているのは、緑の水玉模様のパジャマだった。デザイン的にはごく普通だろう。
Tシャツやジャージで寝る気にはならないし、白井がこっそり隠し持っているようなネグリジェなんて、着るのも着ているのを見せられるのも御免こうむりたい。
夏場は汗をかきやすいからもう一着必要なのだが、現在サブ扱いのパジャマは、もう襟元がヘタってきていてそろそろ替え時なのだった。

「いろいろ回ってるんだけど、あんまりいいの置いてないのよね。って、あ」

初春に先導された先で、何気なくマネキンの来たパジャマに、目を奪われた。
ピンク地に、黄色や薄紫の花柄があしらってある。上着の裾はフリルになっていて、柔らかい印象のパジャマだった。

「これ……」

とっても、可愛い。美琴の好みを直撃するような、愛らしいデザインだった。
同意を求めるように、傍らの佐天に呼びかける。

「ねえねえ、これすっごくかわ……」
「うわぁ、見てよ初春このパジャマ。こんな子供っぽいの、いまどき着る人いないよねぇ」

それは、正直な佐天の感想だった。サイズは身長150センチ台後半から160台までの、普通のティーンズ向けだった。
女児用としては悪くないだろう。でも、ここまでストレートに可愛い路線狙いだと、可愛いというよりは幼稚に佐天には見えた。

「小学生の時までは、こういうの着てましたけど。さすがに今は……」

苦笑いで初春も答えた。
つい半年前までは二人は小学生だったのだが、きっとこういうパジャマを『卒業』したのはもっと低学年の頃なのだろう。そう思わせる回答だった。
そんな二人の反応に、美琴は一瞬固まる。そして無理やり同意するようにぶんぶんとうなずいた。

「そっ、そうよね! 中学生にもなって、これはないわよね! うん……ないない」

過剰気味の美琴の反応に、初春と佐天はきょとんとなる。だがすぐに、今日の目的の一つを思い出したらしい。
目の前にたくさん服があれば、ついそちらに気を取られるのも、女子中学生としては当然のことだった。

「あっ、あたし、ちょっと水着見てきますね」
「水着なら、あっちにありましたよ」

美琴に軽く会釈して、二人はパタパタと水着のエリアへと駆けていった。
まだ猶予はあるとはいえ、完全下校時刻という門限がある以上、せっかくの放課後は無駄にできない。
美琴は一人、溜息をついてパジャマを着たマネキンを見上げる。
――いいんだもん、どうせパジャマなんだから。他人に見せるわけじゃないし。
視界の片隅で、佐天たちは水着を眺めてあれこれ言い合っている。こちらに気付く様子はなかった。
今なら、大丈夫だろう。

「一瞬、合わせてみるだけなんだから」

素早く、棚に並べられた一着を手に取って広げる。
一瞥で姿鏡を探し、美琴はその前へと素早く移動した。

「それっ」

いささか服のチェックにふさわしくない掛け声とともに、美琴はピンクのパジャマを体の前面に当て、その姿を鏡で確認した。
鏡に映る、ピンクのパジャマを着た自分。
その行為はもちろん、パジャマ似合うかどうか、可愛いかどうかを試すものだったはずなのだが、そんな感想を抱くよりも先に、美琴の耳に衝撃的な声が響いた。

「……何やってんだ、ビリビリ」

鏡に、なぜか自分以外に、もう一人の人間が映っていた。
自分より身長の高い、男子高校生。ツンツン頭で、変なものでも見るような顔をしていた。
愕然となって、美琴は後ろを振り返る。
いっそ嘘であってくれればよかったのに、あいにく鏡は嘘をついてなんていなかった。
「うぇっ?! な、え、ど、ど」
いつも街で会うバカ、上条当麻が、そこにいた。

>>105
だね。その辺うまく考えつつ、設定の微修正します。
妹達編終わったら帰省シーズン突入だから、光子さんたち実家帰りの予定ですし。

>>106-107
この辺は原作にも留意しつつ、なんとかうまいこと作ります。

>>108
妹達編はまた科学ネタ出せるからそっちも進めたいんだけど、両方やれるほど余裕がありませんで。。。
気長に待っていただけたら、と思います。


さて次は美琴と当麻が絡むシーンですね。

角界的可愛がりが好きだからなあwwwwww

乙ですた!
流石のエスコート能力。これも彼女持ちだからというのがよく分かりますね。
少女の背伸びを分かりつつも指摘しない。ワザマエ!
上条さんはほんま紳士()やでぇ……

そしてみこっちゃんww
みこっちゃんかわいいなあww
可愛がられるんだろうなあwwすっげー楽しみですww

そしてまた、みさきち参戦にも期待しております。

乙おつ
うーん…確かにこのSSでは食蜂さんは光子さんと激突したりして目の上のたんこぶになる可能性もあるよね(失礼ながら…)
簡単に引き下がるような性格でもないしね(


もちろん、>>1氏が言うように電磁本編がどうなるかみてみないとわからないけど、いい結果になることを期待しています。

おつおつ
妹達編の後は帰省編か
帰省編早く見たいわぁ

ソギーはブレないなwwwwwwwwwwwwww

>>122
すまん操作ミスった!コレは気にしないでくれ!

「ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール」って以前Arcadiaでも見ました!支援!

だいたい2か月から半年周期だから気長に待つかな。
続き楽しみにしています。

ごめん生存報告だけ。。。
気長に待たせてすんませんです。

生きてれば、いい。

そう。私も。原作では『生きてる』レベルの存在感しかない。

次回も楽しみにしてますよー

>>127
■■は「もてた」で大勝利だったじゃないか!

■■さんwwwwwwwwwwwwww

■■さんの存在感消失は御使堕し並の大魔術を超えて最早魔法の域だからな……

Arcadiaの方はどうしたの?

また生存報告。
10月あたりに書ききれなかったのが悔やまれる。。。
>>132
あっちも更新していますよー

生存報告のありがたさ
続きはいつまでも楽しみにしてます!

ああ、自己顕示欲が強い>>1
生存報告とかならまだしも、単に返レスだけでageるとか

えっ…何それは

1行目の日本語も読めないのか……?

続きを楽しみに待ってます

>>135は巧妙な釣りかもしれん
なんでもいいから目立ちたい自己顕示欲がそうさせたんやな

おい
まだか

更新頻度から考えるに、あと2,3ヶ月はかかると覚悟している。

美琴が手にしたパジャマを慌てて後ろ手に隠した。
それを見届けながら、当麻は軽く嘆息する。

「万引きの現場見られたみたいなリアクションだな」
「へっ?」
「なんで隠すんだよ、それ。もしかしてマジで盗る気だったのかよ」
「ちがうわよ! 変な疑いかけるなっ!」

そう言われても、美琴はパジャマを隠したまま、どうすることもできなかった。
だって返そうとしたら、自分がどんな趣味の服が好きなのか、ばれてしまう。
こんなピンクの、フリフリのついた服なんて見たら、コイツはきっと子供っぽいって笑うに決まっている。
そんな考えばかりが頭の中で巡り、当麻の呼びかけで周りの店員さんが
どんなことを考えるか、まるで思い当たらなかった。
幸い、常盤台の制服を見てか、あるいは気安い男女がくだらない掛け合いをしていると判断されたか、
店員に目をつけられることはなかったが。

「そういうの、着るんだな」
「……っ! 見るな!」
「いや、隠したつもりかもしれないけど、普通に見えてるし。ってか、別に隠すことないだろ」
「うっさい! 人の趣味をどうこう言われたくないの!」
「どうこうって、別に普通のパジャマだろうに」

たとえ普通の趣味だろうと、他人に揶揄されるのは不快なのは当麻にも分かる。
だがそれにしても美琴の対応は過敏すぎるように当麻には見えた。

「べ、別に取り繕わなくていいわよ。子供っぽいって知り合いにも言われたトコだし」
「そうかねえ」

睨みつけてくる美琴の視線に取り合わず、光子がこのパジャマを着たところを想像する。
……ちょっと合わない気がした。
光子はあまりファンシーな、こういう可愛らしさとは別の路線の可愛さを持っていると思う。
もちろん、着せてみたらそれはそれで可愛い気がするけれど。
ついでに美琴が着たところも想像してみる。
美琴は光子みたいに脱中学生級のスタイルの持ち主ではないが、年相応の可愛らしさを備えていると思う。
ピンクのフリル付きパジャマでおかしなことなんてないというのが当麻の感想だった。

「あんまり気にしなくていいんじゃないか?」
「……」

恥ずかしいのか、頬を赤らめて美琴が視線を逸らした。返事がないので当麻としても対応に困る。

「まあ、俺が言っても、って話だけど、結構似合うと思うぞ」
「お世辞はいらないわよ」
「わざわざお世辞を言う理由もないだろ。それにパジャマでもっと大人っぽい趣味って言っても、なあ」

ゆったりとしていて、寝るのに邪魔にならず、脱ぎ着しやすいといった特徴を満たすように作るため、
ほとんど形が決まっているのがパジャマというやつである。
色が落ち着いているとか、そんな程度で大人もなにもないというのが当麻の感想だ。
そういう意図を伝えるつもりで、あたりを見渡す。だが、視線の先に映ったのは。


「げ」
「え?」

中学生に、いや、高校生でもふさわしくないようなネグリジェがマネキンに着せてあった。
ふわふわとした素材で、中が透けている。
マネキンはカップ付きのインナーシャツを着た上半身しかディスプレイされていないが、
実際に着れば上下ともに下着がよく見える恰好だろう。

「なんでこのフロアにあんなの置いてるんだよ……」
「……あ、あんなの着ろって言うんじゃないでしょうね!?」
「ち、違うって! 逆だ逆!」
「逆?! お前にはああいうのは似合わないよなって、馬鹿にしたいわけ!?」
「そういう意味じゃねえ! その人に似合った服ってのはあるだろう。
 お前が持ってるそれ、よく似合うと思うし、普通に可愛いと思うって話をしてるだけだ」
「か、かっ……!」

激昂していた美琴が、急に黙り込む。落ち着いてくれたのはありがたいが、
美琴の機嫌が変わるタイミングが当麻にはまるで読めなかった。
一方美琴のほうも、突然に言われた言葉に、どうしていいかわからなかった。
どうせお世辞を言われただけなのに、自分は何をこんなに動揺しているのか。
隠すように後ろ手に持っていた服を、そっと前に持っていく。
当麻と視線を合わせないまま、美琴はそれを丁寧に畳んだ。

「アンタ、さ、その……」
「あん?」

自分は何を、当麻に尋ねたいのだろう。それすらよくわからないまま、美琴は沈黙を間延びさせる。
どうしていいかわからないまま頭の中で思考がどんどんぐるぐると
渦を巻きだしたところで、不意に横から幼い声がした。

「おにーちゃーん、このおようふくー」
「お、サイズ合うのあったか」

やけに緊張していた自分と真逆に、急なその声にも当麻はのほほんと返事を返し、美琴から視線を外した。
それに安堵と苛立ちの両方を感じながら、美琴はパジャマを棚に戻した。
そしてすぐ、声をかけた誰かを探す。
小学生くらいの女の子だった。身の丈にあったワンピースを手にこちらへ駆けてくる姿が愛らしい。
そして、その子の姿には見覚えがあった。

「こないだのカバンの子……」
「あ、トキワダイのおねーちゃんだ!」

先日、風紀委員の手伝いをした時に面倒を見た少女だった。
向こうも覚えていたらしく、すぐにぱっと明るい笑顔を見せてくれた。
その少女の態度に美琴も笑みを返そうとして、愕然となる。この子は、誰に会いにここに来た?

「お兄ちゃんって、アンタ妹がいたの?!」

がばっと当麻を振り返る。相変わらず弛緩したままの、気の抜けた顔をしてぱたぱたと手を振った。


「違う違う。俺はこの子が洋服店探してるって言うから、ここまで案内してきただけだ」

同意を求めるように当麻が目を向けると、少女が大きく頷いた。

「あのね、お兄ちゃんにつれてきてもらったんだー。私もね、テレビの人みたいにおしゃれするんだもん!」

これくらいの年なら、確かにそろそろ自分で服を揃えるようになる頃かもしれない。
無邪気に大人びた憧れを語るその少女が可愛らしくて、
直前まで当麻に対して抱いていた戸惑いをどこかにおいて、美琴は髪を撫でてやった。

「そうなんだ。今でも十分、お洒落で可愛いわよ」
「パジャマは置いといて、制服の下に短パンの誰かさんと違うよな」

からかうように、当麻がそんなことを呟く。美琴はその言葉にまたカチンとなる。

「何よ、ケンカ売ってんの? だったらいつぞやの決着、いまここでつけてやるわよ!」
「えぇ? ……お前の頭ん中はそれしかないのかよ。大体、こんな人の多い所で始めるつもりですか?」
「それは……」

次の言葉が出てこなくて、美琴は口ごもる。
最近、このツンツン頭に会うと、いつもこうなってしまう。
他の人なら気にならないような当麻の細かい仕草や言い回しが気になって、すぐに苛立ってしまうのだった。

「ねえねえ、お兄ちゃん。あっち見たい」

結局、二人のじゃれあいに幕を引いたのは少女の一言だった。

「わかった。……じゃあなビリビリ」
「だからその呼び方やめろって言ってるでしょうが!」

何度言えば通じるのか。このバカには。

「あーはいはい」
「次は覚えてなさいよ!」
「あーはいはい」
「ばいばい、お姉ちゃん」

美琴の態度に動じることもなく、少女が手を振った。
当麻はと言えば軽く手を振って振り返った後、こちらを見もしなかった。

「ったく……ほんっとムカつくヤツ」

その言葉にこもった感情の複雑さに、美琴は気づいていなかった。

>>140
予想を裏切ってすまん

今日か明日にもうちょっと続き上げますね。

上条さんを当麻って表記してる時点で色々と無理なんだよな
なんていうか一言で言うと気持ち悪い

>>146
じゃあ閉じろよ

>>147
的確すぎるレスでワロタ

このペースで再構成って
どう考えても完結無理だろ
あっちでも話の風呂敷広げすぎだし
絶対に完結前にまたエタるな

愛知も健在か

乙です。
のんびり書いていってください。

「こっちのほうは着れるのいっぱいあるの!」
「みたいだな」

フロアはティーンズ、つまり字義通りに取れば13歳以上を対象としているが、
どうやら10歳くらいからを対象とした小さいサイズの服を扱う店が数軒はあるらしかった。
せっかく面倒を見てやった子なので、目的を達成できて嬉しそうなのを眺めると、当麻としても満足感がある。

「ナチュラル系って、あるかな?」
「んー、どうだろ」
「お兄ちゃんも知らない?」
「だな。ほら、店員さんに聞いてみな」
「えっ!? で、でも……」

少女が軽い足取りを急に止めた。戸惑いながら、当麻を見上げる。

「どうした?」
「笑われちゃったり、しないかな?」
「なんで?」
「だって私、こういうところに来たことないもん」
「大丈夫だって」

わしゃわしゃと、髪を撫でてやる。
もとより人見知りをしない子ではあったが、美琴の知り合いということも作用してか、
少女は随分当麻に気を許してくれているようだった。
そうして残ったもう片手で手を挙げ、近くにいた店員の注意を引いた。

「あのー、すみません」
「あっ、お兄ちゃん」
「ほら、聞いてみ」

すぐさま服を畳む作業を中断して、若い女性店員がこちらに向かってきた。

「何か御用でしょうか」
「あの……ナチュラル系、って、お洋服、ありますか?」

おどおどと、少女がそう切り出す。舌が回らなくてナチュラルがアチュラルに聞こえたのはご愛嬌だろう。
店員は慣れているのか、それを笑ったりするようなことは少しもなく、朗らかにうなずいた。

「ありますよ。あちらのお店がお客様には合うかと思います」

指さした先はすぐそばの店だった。

「ありがとうございました!」
「すみません。ありがとうございます」

きちんと礼を言う少女の後ろから当麻も礼を言い、その店に向かう。
入り口のマネキンは、リネン生地のゆるいブラウスに、マフラーみたいなものを巻いていた。
こういうのが、ナチュラル系というやつなのだろうか。文字からして、確かに派手なデザインの服ではないのだろうが。


「あっ、これ! テレビでこれ着てた!」

指さしたのは、そのマフラーみたいなヤツだった。

「サマーストール……ストールってこういうのだっけか」

当麻のイメージでは、ストールは冬に女の子が羽織る、横幅の広いマフラーみたいなものだった。
首というよりは肩にかける印象がある。
夏場にわざわざそんな暑いものをなぜ、と思わないでもない。

「これ、似合うかなあ?」

少女はストールを手にとって、首から肩に羽織ってみていた。鏡でそれを見て、自分でも首をかしげている。
似合う以前に、巻き方が全然なっていなかった。単に首にかけて、両端がだらりと体の前で垂れているだけ。
さすがにこれでは何とも言いようがない。

「よろしかったら巻きましょうか?」

試着している少女を目ざとく見つけ、店員が声をかけてきた。

「お願いします」
「お嬢ちゃん、制服かな? そういう服装だったらこういう巻き方が合うんだよ」

手早く店員はストールを首に回し、ラフに括ってしまう。
ナチュラル系という言葉にたがわず、無造作なそれが何とも様になる。
少女が一つか二つ大人びて見えた。快活そうなもとからの魅力を、よく引き出していると思う。

「わぁ……!」
「ね? ストールは結び方でいろいろ遊べるから、面白いよ。ほかにも、ほら」

今度は丁寧に広げて、肩を隠すように覆った。

「脇の下を通すから、ちょっと手を挙げててね」
「うん!」

カーディガン風に、方と背中に広がっている。当麻の知っている使い方はこちらに近かった。
半袖のブラウスにサマーセーターの少女にはさっきの結び方のほうが似合っていたと思うが、それでもこちらも悪くはない。

「へー! すごーい!」
「こっちなら、襟付きのブラウスよりもああいうブラウスのほうが合うかな。
 良かったら着てみる? あ、それと髪をおろしたほうが合うかも」
「えっと……」

次々と勧めてくる店員に、少女は戸惑いを見せた。着てみたいのは着てみたいらしい。
だがこうして当麻を見上げてくるあたり、当麻が離れるのは不安らしかった。
彼女の、光子との買い物なら腹をくくって付き合うが、この少女にそこまで付き合う義理があるわけではない。
だから正直に言えば面倒だし御免こうむりたいのだが、頼られてそれを無碍にするのも、気が引けた。

「待っててやるから。ほら、行って来い」
「ありがと! お兄ちゃん!」

ぱあっと顔を輝かせる少女。当麻としても悪い気はしなかった。
……店員の顔も心なしか輝いたのは、何とも言えないが。

「さ、それじゃこちらにどうぞ」

店員はさっと似合いそうな服を見繕って、少女を試着室に送り込んだ。
そしてすぐさま振り返って、当麻に顔一面のスマイルを送った。

「ご兄妹ですか?」
「いえ、ちょっとまあ、知り合いです」
「そうでしたか。お客様自身は、何かお探しで?」
「ええと……」

こういう、服の営業は相手にするのがしんどい。当麻の苦手な相手の一人だった。
だがまあ、せっかくこういうところに来たのだ。相談しない手もない。

「実は、彼女に贈る服を探してまして」
「彼女、と仰いますのはあちらの……」
「ちがいます! 二つほど年下なんですけど、中学生で」
「これは失礼いたしました」

20代も後半に差し掛かっているであろうその店員にしてみれば、当麻も子供なのだろう。
店員なのにこちらをからかって上品に笑ってから、近くにあったストールを手に取った。

「サマーストール、今年は結構流行ってるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。大判のストールといえば秋冬物が主流なんですけど、今年は大手のメーカーが通気性と水分の揮発性、
 防臭性を備えた最新モデルの生地を出したので、かなり攻勢をかけているんです」
「はあ」
「あちらのお客様で見ていただけますけど、かなり着こなし方のバリエーションがあるアイテムですし、
 お値段も低めからありますから、相手の方の好みにもよりますけど、結構おすすめできると思いますよ」
「へー……」

興味をそそられる内容だった。値札を見てみても、決して無茶な額ではない。
付き合い始めの光子にあまり高価なものを贈るのは気が引けるが、これなら悪くはない。
ただまあ、だからと言って乗り気な態度を見せると、ひたすら売り込みで話してもらえそうにない気がしていた。

「あのー、できたの!」
「はい、それじゃ最後に結びますね」

声を掛けられてすぐ、店員は当麻の横を離れ、試着室に近づく。
手早くストールを整え、店員は当麻にその姿を見てみるよう手で促した。
ひとしきり自分の姿を鏡で眺め、手櫛で髪を整えてから少女が当麻を見上げた。

「どう、かな?」
「へー! いいな、これも」

小学生の制服然とした上着を脱いで、鎖骨をのぞかせたラウンドネックのブラウスを着ていた。
それだけでもぐっと大人びて見えるのだが、そこにストールを羽織って、さらに髪を下すと、小学生高学年くらいには見えてくる。
だからと言って当麻の恋愛対象には全く入ってこないのだが、女は化ける、
というのがこの程度の歳の少女であっても当てはまるというのは、すごいことだ。

「えへへー」

少女もまんざらではないらしく、はにかみながら嬉しさ全開、という顔だった。

進行遅い話って面白いものが多い気がする

幾つかの結び方をさらに試してもらい、少女はすっかり満足げだった。
ただストールは小遣いで買える額ではなかったらしく、最後にはしょんぼりしていた。
買ってもらえなかった店員にとっても働き損だろうが、
こうやって服という楽しみを新しく少女に覚えさせたのが満足だったのか、
嫌そうな顔は最後まで見せなかった。

「ありがとうございました」
「どうもすみません」
「ぜひまたお越しください。どうもありがとうございました」

一円も使っていないことに若干気が引けながら、少女を連れて当麻はその場を離れた。

「楽しかったか?」
「うん!! お兄ちゃんも、見てくれてありがと」
「いいって」

内心、疲れたのは否めなかった。光子が連れでも、きっとそうなのだろうと思う。

「この後、どうするんだ?」
「えっと、もうあんまり時間ないよね?」
「小学生は……そろそろだな」

小学生は高校生より二時間ほど早く、家に帰るよう推奨されている。少女の門限までもうあまりなかった。
帰りに付き合うとすると、当麻もこれで下見は終わりになる。
見ていない場所はまだあるが、当麻もかなりもう疲れていた。

「じゃあ、そろそろ帰る準備するか」
「うん。あっ、あれ見ていい?」
「ん? あれって……水着か?」
「今度みんなでプールいくの!」

カラフルな布が乱舞するその一角を見て、足が固まる。
小学生の少女を連れて、女性ものの水着コーナーに足を踏み入れる高校生というのは、さすがに如何なものか。
この子に「お兄ちゃん、似合うかな?」と聞かれたとして、自分はなんて答えればいいのか。
普通の服なら、自分とて光子に合うものを見に来たわけだし、少々の視線の痛さにも耐えられるが、
さすがに水着は厳しいものがある。

「な、なあ。俺もちょっと見たいところあるから、一人じゃだめか?」
「えっ? ……そっか、お兄ちゃんも行きたいところ、あるよね」

躊躇う当麻の一言を聞いて、少女の顔にさっと遠慮が浮かび上がった。
そういうところを見てもよくできた子だとは思うが、当麻にも事情がある。

「まあな。ほら、あと15分くらいで出なきゃいけないだろ? ここにいてくれれば、また迎えに来るから」
「うん、でもお兄ちゃんもっとここにいたいんだよね」
「大丈夫だって。用事はすぐ終わるし、迷子になってるかもって気になるしな。寮か駅の近くまで連れてってやるさ」
「ありがとね」

にっこり笑う少女に少し後ろめたさを感じながら、当麻はフロアの遠方、まだ行っていないほうへと足を延ばした。
道すがらに談笑する美琴の後ろ姿が見えたが、もちろん声はかけない。

「眺める分には無害なんだけどな」

うっかり接触すると、本当に面倒なヤツなのだった。あの御坂という少女は。

今日はここまで。
明日も投稿する予定です。

投下乙です! 2日連続とのことで今からもう楽しみにしてます

投下乙です
楽しみにしてます

これはいい予想の裏切り 素晴らしい


愛知とか懐かしすぎワロタ

少女につられたせいか、フロアをめぐる間、当麻が足を止める店はカジュアル・ナチュラル系の店が多かった。
どうもこの夏の流行の路線でもあるようだ。
光子に、合いそうな気がする。
おそらく普段はこういう「飾らない」服よりも、凝った服を着ているのではないかと思うけれど。
だから趣味に合わなければそれまでだが、普段とは少し違う服ということで喜んでもらえるかもしれない。
「ま、リサーチとしては十分見ただろ」
そろそろ、あの少女のところに戻るかと思案する。
少女から離れて強く感じるが、このフロアは、やはり気疲れする。

「やっぱ男一人だとなぁ、って……あいつもか」

知った顔ではないが、フロアの向こうから当麻と同じ高校生と思しき男子学生が歩いてくるのが見えた。
周りの女性服には目もくれないのは、気恥ずかしさの裏返しだろうか。
カエルのぬいぐるみを大事そうに手に抱いているのは、ゲームセンターの景品らしかった。

「このフロアにゲーセンあったっけ」

口の中でそう呟き、さしたる感慨もなくその学生とすれ違う。
そして少女がいるはずの水着店がどこだったか、遠くに視線を飛ばした、その直後。




――――ピーンポーンパーンポーン
お決まりのアラームの後に、硬い声のアナウンス。




「お客様にご案内申し上げます。店内で電気系統の故障が発生したため、
 誠に勝手ながら、本日の営業を終了させていただきます。
 係員がお出口までご案内致します。
 お客様にはご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます――――」

唐突なその放送の内容は、迷子の案内などではなかった

「営業を終了って、今すぐ出てけってか?」

その放送の裏で、周囲の客もざわめき始めていた。
だって放課後のこんな時間帯に、いきなり閉店なんて珍しい事態だ。
電気系統の故障というのは、それほど深刻なのだろうか。
少なくとも停電はしていないのは、周りを見れば明らかなのだが。
どうするかな、なんて考えながらに三歩進めたところで、ハッとなる。

「そうだ、あの子んとこ行ってやらねーと」

後で合流するなんて言った以上、ほっておくわけにはいくまい。当麻は早足で水着店を目指す。
その道すがら、先程と同じところに目をやると、美琴たちが店先に集まっているのが見えた。
その表情は、戸惑いを見せる周囲と異なって、やけに険しい。
中でも大きな花の髪飾りと、風紀委員の腕章を付けたを少女が誰かと電話をしていて、
ひどく逼迫した表情を浮かべているのが、やけに気になった。

「お客様。どうぞこちらからお降りください。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

機械的とも言えるような態度であちこちの店の店員が通路へ出てきて、
足取りを澱ませる当麻や他の客に声をかける。
エスカレータや階段への誘導が始められていた。

「あの……。連れがいるんで、探してきます」
「かしこまりました。御用がありましたら他の店員にもお声がけください」

そう告げる店員に会釈を返し、当麻は水着の売り場へと早足で進む。
近くには階段があって、そこにはすでに人だかりができていた。

「もう……降りたか?」

水着ショップの入口には早々とガードが置かれていて、中に人がいないことを物語っている。
あの少女も、当麻を気にすることはあっても、まさか指示に背いて店内に隠れているようなことはないだろう。

「あの、お客様?」
「すみません、連れを探してるんで!」

店内にふさわしくない速度で、当麻は駆け出した。もう一度フロアを探してみるつもりだった。
たぶん上の階に上がることはないだろう。だから1フロアずつ下がって探していけば、いずれ確認できるはずだ。
何もないことを願いつつ、当麻はひたすら少女を探し続けた。

日付変更前に1レスだけ。
寝る前にもうちょい書いて投下します。

キター!!


「出口はこっちです! ゆっくり進んでくださーい!」

声を張り上げて、美琴は客の誘導を手伝う。
一番混雑する時間帯だったからかなりの人がいたが、目の前のこの人だかりを外に出せば、
ほとんどの人は出たことになるはずだ。
ひとまず、任務を果たしたことにほっとする。
あのバカの顔は見えなかったが、まさか逃げ遅れるようなヘマはしないだろう。
つなぎっぱなしにしていた携帯で今日の相棒に声をかける。

「初春さん。こっちは最後尾が今出ていったわ!」
「ありがとうございます。ほかの出口も誘導が済んだみたいです。
 あとは、警備員(アンチスキル)もあと数分で着くそうですから、
 御坂さんは佐天さんとそのまま外で待っていてください」
「何か力になれることは?」
「大丈夫です! ここから先は、警備員の仕事ですから。私もすぐにそちらに向かいます」
「了解」

初春は今、逃げ遅れた人がいないか確認しながら、退避のしんがりを務めている。
彼女も決して高位の能力者ではないが、風紀委員(ジャッジメント)としての職掌以上に、
学生たちの安全に尽くそうとしている。
もう一人の連れである佐天は一般人ということでもう避難を済ませているはずだ。

「って言っても、こんなに人が多いんじゃ……」

人だかりの中に、佐天の影は見えなかった。自分も佐天もとりたてて背が高いわけではないから、仕方がない。
キョロキョロとあちこちを見渡していると、待っていたのとは別の声がした。

「ビリビリ! あの子見なかったか?!」

緊張を伴った、当麻の声。尋ねられたその内容に、美琴は愕然となる。

「えっ?! 一緒じゃなかったの?」

無駄と知りつつ当たりを見渡す。少女の影は、やはり見えない。
この人だかりにあのような子どもが混ざってしまえば見つからないもの無理はない。
だが、ひとしきり探したらしい当麻が、厳しい顔をしていた。

「外にいないんだ。もしかして中に」

戸惑う当麻の声に、カッとなる。当麻は当然知らないだろうけれど、
この店は、ここしばらく連続発生している連続爆破事件の最新の爆破対象なのだ。
そんなところにあの子を放っておける訳がない。

「何やってんのよっ!!」
「あ、おい!」

当麻に構わず、美琴は出来てた扉をくぐり直し、セブンスミストの店内に戻った。


「待てよビリビリ……御坂!」
「うるさい! アンタは邪魔だから外で待ってなさい!」
「二手に別れないと意味ないだろ」
「エスカレーターはもう封鎖されてるわ! あとは階段だけ」
「じゃあ俺も行く!」
「邪魔!」

責任だとか義憤なんて、今は邪魔なだけだ。
そう思いながらも、わざわざ当麻を排除する時間が惜しい。
美琴は当麻を無視して階段を駆け上がり、少女を探す。

「ついてくんなって言ったでしょうが」
「知らねーよ」
「……ホントにいるんでしょうね?!」
「下じゃ見つからなかった! それ以上はわかんねぇよ」
「使えないわね!」

そう毒づきながらフロアを駆け上がり、声をかけながら少女を探していく。
だがそこに返事はなかった。あるのはちらほらと見える、店員たちの影だけ。
このバカが、単に見落としただけじゃないのか。年の割にはもののわかる少女だった。
とっくに避難していると考えるのが普通じゃないのか。
そうあってほしいという願望と裏表の不安とを噛み殺し、美琴は当麻と共に、階段を駆け上がっていく。
少女にとって大して興味もなさそうなフロアをしらみつぶしていき、やがて先程のフロアにたどり着いた。

「いない、か? ……っ!」

当麻が見える範囲に誰もいないことを確認しかけたところで、二人は気づいた。

「あっ、ちょっと待ってくれ! 小学生くらいのちっちゃな子、見なかったか?!」
「さ、さあ。僕は見てないよ」

おどおどとした態度の、男子高校生。そういえばこの警報がなる少し前にこのフロアですれ違った覚えがある。

「そうか、それじゃ――――」
「待ちなさい」

美琴が警戒感をあらわに、男子生徒を睨みつけた。

「アンタ、なんで逃げてないわけ?」
「それは……い、いま降りるところだったんだよ」
「御坂? それより早く」

自分の判断で走って逃げられる高校生を相手にしている場合じゃない。
だから美琴に早く動くよう促そうとして、美琴の腕に触れる。
だがそれを振り早うようにして、美琴はキッと相手を睨みつけた。

「今避難してるのはね、どっかの爆弾魔がここを爆破しようとしてるからなのよ」
「爆破?!」
「だからコイツに聞いてるの。心当たり、ないかしらって」
「ヒッ」

一瞬のにらみ合い。目の前の高校生の動揺は、どう見ても尋常ではなかった。
美琴がさらに詰め寄ろうとした、その時だった。




「おねーちゃーん!」




二人の後ろを、探していた少女が駆けていく。
呼びかけた相手は美琴ではなく、もう一人この場に残った風紀委員の、初春だった。
少女は緑色のカエルのぬいぐるみを大事そうに手で抱いて、それを初春に渡そうとしているらしかった。

「よかった、中にいたんだな」
「心配させるんだから。って、あのぬいぐるみ……っ!」
「おい、御坂?!」

戸惑う当麻の横を、美琴がすり抜け走っていく。
それを見てか、男子高校生も駆け出し、階段を勢いよく降りて行った。

「あ、おい! くそっ」

どちらを負うべきか、一瞬の逡巡。判断を決めさせたのは初春の悲鳴だった。

「逃げてください! あれが爆弾です!」

初春がとっさに少女の手からそれを取り上げ、あらぬ方向へと投げつけた。
綿しか入っていないはずの、ぬいぐるみが、不自然にひしゃげ、つぶれていく。

「くそっ!」

間に合え、と念じながら当麻は爆弾と少女をかばう風紀委員、初春の間に割り込む。
すでにそこには美琴がいて、もしかしたら美琴でも何とか対処はできるのかもしれない。
だがそういうことを考えるより先に、当麻は誰より爆弾の近くに体を滑り込ませる。
目の前のそれが、能力によって爆発を引き起こそうとしているのは一目瞭然だ。
そういうものになら、自分の右手は、それこそジョーカーのように劇的に効果を示す。

「っ! アンタ――――」
「お兄ちゃ――――」



美琴と少女の声が、当麻の耳に聞こえかけたところで。
――――ズガンッッッッッ!




体に直接響くような、すさまじい破裂音が周囲をひどく叩いた。


「ぅぁっ! つつ、あ……」

強烈な光が目を焼き、美琴は瞬間的に前後不覚となる。
そしてまず、自分の体に痛みがないことを確認する。自分のところまで爆風や破片なんかは迫ってこなかったのは確かだ。
ならおそらく、後ろの初春と少女も大丈夫だろう。
でも、自分より前に立ったあのバカは?

「大丈夫か、御坂」
「っ! ちょっと、脅かさないでよ。アンタこそ」
「俺も大丈夫だ。そっちは?」
「……だ、大丈夫です。私たちも、何ともありません」
「お兄ちゃん!」

ホッとしたように息をついた少女が、当麻をみて涙ぐんだ。

「良かった、やっと見つかった」
「……ごめんなさい」

黒煙舞う中、当麻は少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
そしてなるべく優しい声で、確認する。

「風紀委員のお姉ちゃんに渡そうとしたぬいぐるみさ、誰にもらった?」
「眼鏡をかけた、おにいちゃん」
「ひょろっとしてて、ヘッドフォンつけっぱなしのヤツか?」
「うん」
「わかった。御坂、俺はあいつを負うからこの子を――」
「逆でしょうが。アンタが連れてきた子なんだからアンタがケアしてやりなさいよ。
 初春さん、犯人に心当たりがあるから、私は追っかける。連絡は携帯にいれて!」
「気を付けてください! すぐに白井さんも来ると思います」
「了解!」

とりあえずは、これで急を要する要件にすべて手を打てたはずだ。
立ち上がった少女の服を軽くはたいてやり、当麻もあたりを見渡した。

「ひどいな、これ」
「ええ……でも、御坂さんのおかげで無傷で済みました」
「あ、お姉ちゃん――」

目の前の少女をかばうので精一杯だったのだろう。爆風を防いだのが誰なのかは、見ていなかったようだった。
事実を伝えようとした少女の頭に、当麻はもう一度手をやって風紀委員の少女に声をかけた。

「それで、これから俺たちはどうしたらいい?」
「えっと……すぐに警備員の方が来ると思います。たぶん、その時にいろいろ聞かれることがあると思います」
「わかった。じゃあ、とりあえずここに残ってる」
「ご協力ありがとうございます。私は警備員の先導をしますので、ちょっと下に行ってきます」
「わかった」

駆け出す初春を二人で見送り、当麻は少女を連れてベンチへ向かった。
不安なのか、少女は当麻の手を放そうとしない。

「もう心配ないさ。嫌な目に会っちまったな」
「うん……」
「家、こっから近いのか?」
「えっと、電車に乗ってきたの」
「何駅くらい?」
「すぐ隣」
「そうか。ちゃんと家まで送ってやるから、もう怖がらなくていいからな」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん。やさしいね」
「ま、乗りかかった船だからな」
「お船?」

慣用句に首をかしげる少女に、当麻はくすりと笑い返した。
不安が少しずつほぐれてきた様が見えての、安堵の笑みだった。

しばらくして警備員がやってきて、事故現場の見聞を始めた。
それと同時に、下校時刻の近い当麻と少女からの聞き取りが進められた。
聞いたところによると早々に犯人が捕獲されたらしく、それほど質問の数は多くなかった。
すぐに解放され、目立たないようそっとセブンスミストの外に出て、二人で帰路につく。
今日、ほんの数時間前に出会った少女だったが、事件のせいか、ひどくなつかれていた。
帰りはもうずっと、手を放してくれない。

「当分あの店には買い物にいけないな」
「うん……」

店内は当然ぐちゃぐちゃだったから、それを直すのに一週間では足りないだろう。

「お兄ちゃん」
「ん?」
「あの時、助けてくれたの、お兄ちゃんだよね」
「あー、そういやそうだったかな」
「いいの?」

当麻は警備員の取り調べでも、美琴が防いだのかと尋ねてくる相手に対し、首肯を返していた。
少女の質問はおそらく、それに対する疑問なのだろう。自分の功績を、伝えなくていいのかという。

「別に誰が助けたんでもいいんだよ。それに、細かいこと聞かれると説明が面倒だしな」

当麻の右手に宿る『幻想殺し』は、学園都市という科学の街においてもなお不可解な能力だ。
同じ学校の教師として事情を知る黄泉川のような警備員にでもないと、
自分が爆発を防いだなどという主張は受け入れられないだろう。

「お兄ちゃん、かっこいいなあ」
「そりゃどうも」

ストレートな憧れを口にされて、つい苦笑いが出てしまうのはひねくれた高校生の精神年齢ゆえか。
より強く手を握ってきた少女の頭を、撫でてやる。

「……お兄ちゃんは、高校生だよね?」
「え? そうだけど」
「私と、何歳違うのかな?」
「5つか6つくらいだろ」

そう思案して、互いの年齢を教え合う。実際、そのくらいだった。

「そっかあ。私のお父さんとお母さんも、それくらい違う」
「へえ。うちの親はどっちも同じ年だな。同じのほうが老けて見えるんでたまにボヤいてるけど」

当麻の母、詩菜は何度会っても見た目があまり変わらない。
しかし、この子はなんでそんな話を気にしたのだろうか。

「お兄ちゃんって、好きな人……」

少女が何かを口にしかけたところで、当麻は視界の先に揺れるものを見つけた。

「ん? なあ、あっちの人、手を振ってるぞ」
「あっ、先生だ!」

夕日が随分と傾き、アスファルトを焼いている。その先に、少女の住む寮はあるらしかった。
寮母か学校の担任かはわからないが、少女の保護者らしかった。

「よし、それじゃもうこっからは大丈夫だな」
「えっ? うん」
「今日みたいなことは何度もあることじゃないけど、街に出るときは気を付けるんだぞ」
「うん。お兄ちゃん、きょうはほんとに、ありがとう。あの――」
「それじゃ、俺はもう帰るから。じゃあなー」
「またね、お兄ちゃん。また遊ぼうね!」
「おー」

高校生にもなるとさすがにあの年の子の相手はつらいのだが、まあ正直にそんなことを言うのも酷だろう。
安請け合いをして、当麻は少女に手を振りかえす。

「しっかし、デートの下見しようと思ったら爆発に会うって、どれだけ不幸なんだか」

溜息ひとつで今日の事件を押し流し、当麻は今日の晩御飯のことを考えながら、自分自身の帰路についた。

数日後。
当麻は再び、街に服を見に繰り出していた。
もちろん一人ではない。当麻の隣で、光子が嬉しそうに手をつないでいた。

「で、今日行く店なんだけどさ、実は行ったことのない場所でさ。
 いい物見つからなかったら、その時はごめんな」
「それでも全然構いませんわ。当麻さんと、デートできるのが楽しみなんですもの」

光子は入院とそれに続く学舎の園での療養(単に街に繰り出す許可が出ないというだけである)を
ようやく終えて、当麻と会えるのが嬉しいらしかった。
当麻としても、もちろん悪い気はしない。

「……それにしても、物騒な事件でしたわね。こう言うと不謹慎かもしれませんけれど、
 デートの日が重ならなくてよかったですわ」
「だな」

二人が当初行先に挙げていたセブンスミストは、目下、爆発事故の影響で営業停止中だ。
数日後には部分開店するらしいが、肝心のティーンズ女性向けのフロアは爆発の現場なので、
もっと先まで閉店したままになる。
その爆発のひどさは誰よりも当麻が一番よく知っているのだが、光子に言う気にはなれなかった。
心配をかけるし、別にいう必要もないことだ。

「最近、こういう目を引くような事件が多発しているそうですわ」
「そうなのか?」
「ええ。犯人のレベルと実際に運用された能力の強度に差があるのが特徴だとかで。
 私を襲ったのも、どうやらそういう能力者だったとか」
「物騒な話だな。……それこそ、天気『予知』までやれる演算力があるんだから、
 誰がどんな能力を開花させるのか、全部計算すりゃいいのに」
「いくらなんでもそんなことは無理ですわ」

当麻のその意見を無茶苦茶だと言わんばかりに、光子がクスリと笑う。

「そういや俺のほうもさ、知り合いからレベルアッパーってのを聞いたな。それと絡んでたりして」
「なんですの、それ」
「飲むと……ああ、なんか音楽形式だとか言ってるヤツもいたな。なら、聞くと、が正しいのかな。
 とにかく使うとレベルが上がるって代物らしい」
「はあ。噂話にしても、ひねりがないというか、陳腐な印象がありますわね」
「だよな」
「そんなもの、本当にあるとしたら、もっと大きなニュースになるはずですわ。
 研究者は誰だって公表したいに決まっていますもの」
「でも隠したほうが利益を独占できるんじゃないか?」
「そういうものがあるということを公表して、細かい方法を秘匿する、
 というのが一番利益を得られる方法ですわ。だから、そんなものが本当にあるなら、
 もうちょっと詳しい話が流れていてもおかしくはないと思いますの」
「言われてみれば、そうかもな」

まあ、仮にそんなものがあるとしても、きっと当麻のレベルは上がらないだろう。
光子も、そんなものを欲するような人間ではなかった。
他愛もない会話をしながら、すぐそばの公園に目をやる。

「ルイコ、ほら、できた、できたよ!!!」
「すごい、アケミ、浮いてるじゃん!」

きっと、学園都市に来てすぐの学生なのだろう。能力が発現してすぐの、レベル1の学生らしいふるまいだった。
一学期がようやく終わりに差し掛かるこの時期の、ごくありふれた光景だから二人は気にも留めなかった。

「それでさ、光子。どういうものが欲しいとか、イメージ固まったか?」
「えっ? い、いえ。ずっと家におりましたし、当麻さんがくださるって考えたら、それだけで嬉しくて……」

そうして二人は、これからの買い物の算段に取り掛かった。



上条当麻がレベルアッパー事件にかかわったのは、この一件が最後だった。

以上、『prologue 08: セブンスミストにて』でした。
あとは佐天さんや光子さんの出てくる『prologue 09: 失ったものと得たもの』を書いたら、
プロローグの改稿は終了です。
>>171で能力使えてやったー、って佐天さんが喜んでますが、
次回はレベルアッパー事件終わったところからなので、
佐天さんの落ち込み回です。

お待ちしてました 投下乙です

乙でした。
小学生にまでフラグを立てる上条さんマジパネェ。

乙乙

いつエタるかなー?

待ってました!

>>176
別にこのスレが初めてじゃないんだよね
もうずっとこのシリーズやってるよ

>>140だが
まさかコメントした日に来るとは思わなかったwww
Arcadiaの更新のが先だと思っていたから余計になw
でも素直にうれしい。

続けてるからこそ、エタると思ってるんだけどな
このスレ見ても分かるように投下スピードが遅い上に、完全に風呂敷を広げ過ぎてる
このペースで再構成なんて完結できるはずがない
どうせ中途半端なところで未完結になるのは目に見えてる

>>180
分かった分かった
そーゆーのいいからホント

何か嫌なことでもあったのかな
そんな思考をしてるとつらいぞ

おもしろいんだけど、未完のまま終わったかー
とか思ってると突然再開されるからびっくりする

>>174
対上条属性持ちのあの子でもないとちょっとイベントがあっただけでこうなる、というお話でした。

>>183
連載して三年半で、三か月以上の休載をもう5回はしてると思う。
そういうペースの作品なんだと思って気長に待っててもらえると大変うれしい。
遅くてごめんなさい。

とりあえず今日書けたところまで上げる。


朝。
カーテン越しに、すでに猛暑を感じさせる日差しが否応なしに突き刺さる。
ピピピピというけたたましい音で、佐天は夢の中から強制的に引き上げられた。

「……」

不機嫌そうに壁を見つめ、目覚ましをオフにする。
二度寝の誘惑をすぐに断ち切って、佐天は大きく伸びをした。
とりあえずテレビでもつけようとリモコンに手を伸ばしたところで、不意に止めた。
手のひらを、じっと見つめる。
回れ、と念じながら、瞬きすらせずに、その手の上をただひたすらに睨みつける。

「……そりゃ、無理だよね」

結果は、何も起こらなかった。
当然だ。だって佐天涙子に対し学園都市が与えたレベルは、ゼロなのだ。
だが手のひらの上に感じる、あの日の感触の残滓は、まぎれもなく本物だった。

「さて、今日の朝は……控え目のほうがいいかなー」

軽い溜息ひとつで胸にたまった何かを押し流す。
ぱっとテレビをつけて、佐天は洗面所へと向かった。



数日前、佐天はその手の中に、小さな渦を作った。
それを手にしたことは、とてつもなく嬉しくて、楽しかったけれど、
反則技に手を出して得たものでもあった。
幻想御手<レベルアッパー>。木山春生という名の研究者が開発したそれは、
使用者同士の脳波をリンクさせ、互いが互いの演算を補うことで、
個人にはなしえないような大規模な演算を可能とする技術だった。
佐天はそれを利用し、ほんの短い間の喜びをかみしめた後、
使用者の昏睡という副作用を代償に支払って、そしてまた力を失った。
空力使いに分類されるその能力、いわば自分の可能性が泡沫(うたかた)のように儚く消えたことに、
ショックがないと言えば嘘になる。
もちろん、もう一度、あんな手を使って能力を使いたいとは思わない。
人一倍、努力をして能力を磨くしかない。そのはずだ。
だけれど、レベル0という事実は、その努力をしようという強い意志を萎えさせる、強い足かせだった。


顔を洗って戻ってくると、ニュースがレベルアッパー事件の続報を流していた。
音楽ファイルとして配布されていたことと、二次利用しても効果がないことが、繰り返し強調されている。
佐天は被害者、いや使用者としてより詳細を聞かされていた。
脳波の同期を統括する存在、すなわち木山春生が身柄を拘束されているため、
学園都市内にばら撒かれたあの音楽データを聞いても、誰にも繋がらないのだそうだ。
だから、佐天が再び能力を使える日は、果てしなく遠い。
――――あんな風に、お手軽にじゃなくてもいいから。努力を、実らせる方法が知りたい。
そうした希望と、これまでため込んできた諦観が、心の中でせめぎ合う。
それが佐天の、今の偽らざる心情だった。

「いただきまーす」

用意したトーストにかじりつきながら、テレビの画面に映る時刻をチェックする。
今日は『撮影のお仕事』が入っている日なのだった。

時は少し遡る。
光子は、年下の友人たち、湾内と泡浮と一緒にお茶のテーブルを囲っていた。
ただし目の前の二人の雰囲気は、いつもとちょっと違う。
「どうしましたの? なんだか、今日は変に遠慮されているみたいですわ」
一体何が原因だろうか。自分に心当たりはないから、おどけて見せて二人に言うよう促した。

「ええ……ちょっと、婚后さんにお願いがありますの」
「ただ、少し切り出しにくいことで」
「あら。遠慮なんて必要ありませんわ。お二人のお願いでしたら、できる事ならお引き受けしたいもの」

年下ではあるが、この二人には本当に世話になっているという思いが光子にはあった。
その気持ちをストレートに伝えると、二人は救われたように顔をほころばせて、軽く頭を下げた。

「そう言っていただけて、本当に助かりますわ」
「いいんですのよ。それで、どのような頼まれごとをすればよろしいのかしら」

雑用くらいなら喜んで手伝うし、勉強を見てほしいなんてのも大歓迎だ。
途中編入ではあるが、光子は常盤台でも少数派のレベル4、かなり優秀な学生だった。
そういう依頼なら喜んで引き受ける、のだが。

「実は、水着のモデルを、探しておりますの」
「……え?」

二人の頼み事は、そういう光子の予想を全く裏切るような内容だった。




「――それで、光子はどうするんだ?」
「いえ、その、何でもおっしゃってって言ってしまった以上、引っ込みがつかなくなって……」

光子に依頼をした後、二人は短いティータイムを終えてすぐ、他の人員を探しに行った。
一方光子はと言えば、断るに断れず引き受ける旨の返事をした後で、
当麻に反対されるんじゃないかと不安になって電話をしたのだった。

「当麻さんは、やっぱりお嫌?」
「んー……。急な相談で混乱してるってのが正直なところだけど、まあ、不安、かな」
「不安、ですの?」

そのニュアンスは光子の危惧とは少し異なっていた。
はしたないと、そう怒られるかと心配していたのだけれど。

「やっぱり、水着なんだから露出が多いんだよな? その、変な写真撮られたりとか、さ」
「それは……私も初めてですから、確実なことは言えませんけれど、
 湾内さんと泡浮さんが言うには、心配なさそうですわ」
「そうなのか?」
「はい。毎年、常盤台の水泳部の子が協力しているそうですから。
 こういう言い方はなんですけれど、問題がある相手ならどうにかできる後ろ盾ですから。常盤台は」

それが今まで動いていないのだから、依頼してきた相手はまっとうな企業なのだろう。
実際、ブランドの名前は学園都市ではよく耳にするものだ。

「もし当麻さんが、駄目っておっしゃるなら」
「駄目、とは言いたくないんだよな」
「え?」
「彼氏だからって、あれこれ命令するのはおかしいだろ?
  光子が危ないことなら絶対に反対だし、男向けのきわどい写真を撮るってのも反対だ。
 けど、そういうのじゃないんなら、なんでも駄目っていうのは、よくないかなって思ってさ」
「当麻さん……」
「それに、光子の友達も一緒なんだろ? それなら、たぶん余計な心配だと思うしさ。
 光子がいいと思うなら、行ったらいいと思う」
「本当は、反対されているとか、そういったことはありませんのね?」
「正直なことを言うと、なんか光子が他の男にも見られるかもしれないってのがあんまり嬉しくない、かな。
 でも、無暗に束縛するのも、彼氏として違うと思ってる」
「……当麻さん、ありがとうございます」
「いや、礼を言われるようなことじゃないって」
「ううん。当麻さんに電話した私のほうにも、甘えがあったって、思いましたの」
「甘え?」

頼まれた以上は後輩に応えたいし、自分のプロポーションにはそれなりに自信がある。
でも、肌を人目にさらすことで当麻に嫌われるのは絶対に嫌だ。
だから、駄目だと怒られるのが怖くて電話したけれど、
同時に、お前が好きで、死ぬほど独占したいから行くなと、
そんな風に言われたい気持ちもどこかにあった。
でも、恋人は、そういう強権的なものじゃないのだ。
当麻の言ったことは、光子の勝手にすればいいという、ある意味で突き放したものだ。
それをさびしく思う自分に、光子は反省した。
過剰に束縛したりされたりするのは、たぶん、後でどんどん辛くなるのだと思う。
だから、当麻の信頼にもきちんと応えることが、一番大事なのだ。

「当麻さん。この話、やっぱりお受けしようと思います」
「……ん。わかった」
「絶対に、当麻さんに嫌な思いをさせるような水着は着ませんし、変な写真も撮らせません」
「わかった。ってまあ、あまり堅苦しくならなくていいって。普通の水着メーカーの水着だろ?」
「ええ。それも中学生から高校生がターゲットと聞いていますから」
「それなら、あんまり制約かけなくていいんじゃないか。
 ……俺こそ、なんか嫌な彼氏みたいになってたら、ごめん」
「そんなことありません! 当麻さんにお電話してよかったって、思いますもの」
「ならよかった。それでさ、光子」
「はい?」
「撮ったやつ、俺にも見せてくれよ?」
「えっ?! わかりました。印刷されたらお見せします。でも、恥ずかしいですわ」
「なんでだよ。撮られるんだから今さらだろ」
「でも、当麻さんに見られるのは恥ずかしいんですの」
「そういうもんかねえ」
「だって、当麻さんにしっかりと見られてしまうんだって思ったら……っ」

想像して、顔がほてってくる。
今回は普通の水着姿だけど、ずっと先、このままずっと当麻と一緒にいたら、いつかは――――

「お、おう。なんか俺もドキドキしてきた。すげー楽しみだ」
「もうっ! 当麻さん、嬲るのはおよしになって!」

戸惑いながらもからかってくる当麻につい文句を言いたくなって、光子は電話に向かって叫んだ。

固法先輩の学年調べたら高2っぽいなあ。上条さんより年上か。

そういやこの作品中で同学年描写あったな

この作品に出会えてよかった
完結に途方もない時間がかかるとは思うけど、応援してる

どうせ完結しない作品をグダグダと続けられてもな
垣根や吸血鬼の話といい、絶対に風呂敷は畳めないだろうし
佐天の急激なレベルアップも素養格付のことを考えると完全に矛盾してるしな

>>191
お前何なんだよこないだからもう目障りだからこのスレ閉じろ二度と来んなそして首をつれ

>>188
高2で確定かな

>>192
全部読んでない感じだし無視で

カス条もカス条厨も禁書から消えろ

しつこいのはともかく、垣根と吸血鬼の件を知ってるってことは読んではいるんだろ?
確かにここまで完結が見えないssも珍しいが最後まで頑張って

つかアルカディアに元があるわけで

>>195
完結が見えないのはどの辺りで完結にするか次第で、一方通行編で終了ならなんとかなるんじゃないかな(垣根のも同時進行で)
原作に追いつくのは無理ゲーだけど、それはどの二次創作もですし(原作のペースが早すぎてアニメも漫画も追いつかない状態)
むしろ早く最新話の続きを読みたい。あの対決はどうなるんだー

そろそろやめるのじゃ
 見苦しいし恥ずかしい

>>194
死ね
色んな禁書SSスレに湧いて気持ち悪いんだよ

ほんと気持ち悪い作品だな
原作を馬鹿にしてる二次作品でも最底辺のゴミ

>>200
最底辺のゴミが何言ってんだ?

>>189
そうなんだよね。後で一緒に直しておきます。

>>197
展開はもう決まってるんで、プロローグを早く片付けてそっちに行きたいですね。

あとまあ、批判については的を射たものもありますが、
議論をしようとすると荒れるので、みなさんほどほどでお願いします。

寝るまでに頑張って2レスする

お待ちしてました

そんないきさつがあって、今日これからが、水着の撮影会になる。
佐天は家を出すぐ、初春と合流して集合場所へと向かっていた。

「初春はどんなの着るのかなー」
「私、ちんちくりんですし、似合わないのばっかじゃないかなってそれが不安です」
「ないない! 初春はとっても可愛いんだから、絶対合う水着あるよ。
 っていうか、初春の水着が見たくて今日のお仕事引き受けたんだから、
 そんな後ろ向きな気持ちじゃ駄目だよ」
「佐天さん!? そんな理由で引き受けたんですか?!」

この水着撮影はもともと、常盤台の水泳部がお世話になっている水着メーカーから依頼されたものだ。
その水泳部員が美琴と白井、佐天たちの友人に声をかけ、さらにその伝手で自分たちにまでお鉢が回ってきたのである。
撮影依頼を白井から聞いた瞬間に、初春が難色を示すより先に佐天が快諾し、今ここに至る。

「そんな理由って、可愛い初春をコーディネートするのは友達としての義務だよね」
「佐天さんのほうがスタイルいいのに」
「お互いまだまだこれからだよっ。それと、いろいろあったから気晴らしもしたくって、さ」

佐天が明るく、さらりと口にしたそれに、初春はとっさに返事を打つことができなかった。
幻想御手<レベルアッパー>事件からまだ数日。
佐天とともにレベルアッパーを使用したクラスメイト達は、みな昏睡から目覚め、退院を済ませている。
けれど、やっぱりどこか心に傷を負って、陰りのある表情を見せていた。

「あ、あそこだよね」

佐天が、目的地らしきビルを指差す。建物の側面には、佐天らもよく知るブランドのロゴが描かれていた。
そのビルの足元を見れば、見知った白井や美琴の姿もあった。
手を振って挨拶をしてくれた美琴にこちらからも手を振りかえし、信号を渡って合流する。

「おはよー、二人とも」
「おはようございます、御坂さん、白井さん。それと……」

佐天は出迎えてくれた二人とあいさつを交わし、目線で隣にいた常盤台の学生たちの紹介をお願いする。

「ごきげんよう、お二人とも。こちら、私たちと同じ一年の、湾内さんと泡浮さん」
「ごきげんよう。初春さんに、佐天さんですわよね」
「あ、どうも、おはようございます」

おっとりとしていて上品な挨拶に、佐天は少し気圧される。
美琴も白井も、常盤台の生徒ながらあまりお淑やかな印象を感じさせない相手だが、
やはり普通の常盤台の学生はこうなのだろうか。
隣ではセレブな人々にあった一般人みたいに、初春が感激の表情を見せていた。
だが、もう一人、そこにいた女性の紹介をする段になって、その穏やかな雰囲気にひびが入った。
さっきとは打って変わって、ぞんざいな視線を投げて、白井がつぶやく。

「で、この残ったのがお姉さまと同じ二年の婚后光子ですわ」
「あら白井さん。なにも長幼の序を押し付けるようなことは言いたくありませんけれど、
 外部の方に紹介する場合にそんな態度をとるのは、常盤台の学生として如何なものかと思いますわ」

嫌々紹介する、といった態度の白井に、これまた嫌味ったらしく婚后と呼ばれた少女が返事をした。
バカだのアホだのといった単語が出ないのはお嬢様らしいのかもしれないが、
こと人間関係でこういう仲の悪い例もあるというのは、お嬢様であろうとなかろうと関係ないらしい。

「お二人は私の友人ですから。けれど猫をかぶって貴女を持ち上げる必要なんてありませんもの」
「別に持ち上げてくださる必要はありませんけれど、ぞんざいに扱われる謂れはありませんわ。
 年上の学友を呼び捨てにする白井さんとは違って」
「貴女の人格的問題はそんな表層に現れているのではありませんわ。もっと根深い問題ですの」
「こら黒子、いきなり喧嘩しないでよね」

ため息をついて、美琴が白井の言葉を遮る。こんなところを見せられても初春と佐天は困惑するだけだろうし。

「喧嘩なんて。私はただ、あの女の――」
「あーはいはい。私からも紹介するね。
 婚后さんは、佐天さんたち、泡浮さんたちより一つ上で、私と同学年なの。
 一人だけ浮いちゃわないでちょっと安心したわ」

そう言いながら光子に笑いかけると、光子も美琴に笑顔を返してくれた。


「知り合いがいたほうが安心なのは確かですわ」
「今度はこっちの二人の紹介もしないとね。初春さんと、佐天さん。
 初春さんが黒子と同じ風紀委員で、そのつながりで今日は来てもらったってこと」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしますわね」

美琴の紹介で全員の名前の交換が終わる。
仲の良かった相手とゆるやかにまとまりながら、談笑が始まった。
人見知りをあまりしない佐天も、初春や白井、美琴との会話をメインにしつつ、
初めて会った常盤台の学生たちに目をやる。
同学年の湾内と泡浮は、おっとりしていて、まさに想像通りの常盤台の女子中学生、という感じだ。
初春も同感なのだろう、柄にもなく同い年相手に敬語で話しかけていた。
一方、もう一人、婚后という二年生の生徒がいるが、彼女は少し近寄りがたい感じがした。
あの我の強い白井といがみ合う根性がある時点で、気さくに話しかけるのはちょっと難しい。
ただ、美琴と話すその表情は穏やかで、さっきほどには険があるように見えなかった。

「おはようございます。お待たせしました」

少しの時間をおいて、エントランスからスーツ姿の若い女性が現れた。

「……あの人は?」
「メーカーの担当者さんですよ」

湾内に尋ねると、そっと教えてくれた。

「今日はよろしくお願いしますね。一人、二人……あら、あとの一人は?」
「まだいらっしゃるんですの?」

そう呟きながら目で問いかける光子に、泡浮が知らないというように首を振った。
「ああ、おひとりだけ別の伝手で来ていただく方がいるんです。
 あとはその方のようですね。あちらが、そうかしら」

こちらに向かって、ジャージ姿のラフな格好をした女子高校生が歩いてくる。
企業のオフィスに場違いな年恰好からして、そうらしかった。
眼鏡をかけて、聡明な印象のある女性。
目があった初春が、「あれっ?」と驚いた声を上げた。

「固法先輩?」
「あら、初春さんに白井さんも。おはよう」
「先輩も水着のモデルを?」

思わず、初春はそう確認してしまった。
固法は初春や白井と同じ、第177支部を拠点とする風紀委員<ジャッジメント>の一人だ。
モデルをするのに全く見劣りのしない、素晴らしいプロポーションの持ち主だが、
生真面目なのでこういうことはしないと思っていたのだが。

「ええ。いつも通ってるジムで、風紀委員の先輩に頼まれちゃって。あなたたちは?」
「私たちは、水泳部の子に頼まれたんです」
「ああ。もしかして、常盤台はこちらのメーカーと提携しているのかしら」

固法はすぐに事情を言い当て、納得したように頷いた。

「お知り合いの方だったんですか?」

企業の担当がそう尋ねた。一人だけ違うルートで依頼したはずの相手が、
互いに面識があったことが気になったらしかった。

「ええ。私と、こちらの白井さんと初春さんとは、風紀委員の同じ支部で活動しているんです」
「そうでしたか。できればみなさんで一緒に過ごしていただきたかったので、面識があるのは助かります。
 それでは、さっそく水着を選びに向かいましょうか。どうぞみなさん、こちらにお越しください」

その案内につき従い、光子たちは水着の並んだ試着室へと足を運んだ。

今日はここまで。あまり話進んでなくてごめんです。
ここ書くために何度も超電磁砲一期の13話見てるけど、
湾内さんのバスト、数字より盛ってあるなあ。けしからん。

長井空間にはバストアッパーがあるから

「どれにしようかしら……。これ、はちょっと野暮ったいし」

一人、決めあぐねながら光子はハンガーラックに並べられた水着の間を歩いていく。
一緒に選んでいた水泳部の二人は、早々に決めてもう試着室に向かっていた。
着るならビキニにしようかと考えていたのだが、当麻に自分からわざわざ約束をしたし、
あまり布地が少ないのは良くないかとも思う。

「あら、これ」

目に映った水着を取り上げ、眺めてみる。
色は濃いワインレッド。光子のお気に入りの色だ。
ワンピースタイプなのだが、背中側が大きく開いていて、後ろから見るとビキニに見えるデザインだった。

「これにしようかしら」

あまりに選択肢が多いと、完全なベストを選ぶことは難しい。こういうのは直観に頼ってしまうに限る。
光子はさっと候補を決めて、試着室のほうを振り向いた。

「あら、御坂さん」
「ぅえっ?! ど、どうしたの? 婚后さん」
「どうしたもなにも、水着を選んでいるんですけれど……。あら、御坂さんはそういうのが好みですの?」
「えっ?! いや、その」

美琴が手にしているのは、トップス・ボトムともに大きなフリルのついた、
水玉模様の可愛らしいビキニだった。
トップスはカップの見えないチューブ状となっていて、
あまり起伏に富んだほうでない美琴のスタイルにはよく似合っていると思う。

「きっとよく似合うと思いますわ」
「そう、かな」

心中複雑な顔で、美琴がそうつぶやいた。
似合うといわれるのは嬉しいのだが、素直に褒め言葉と受け取れない。
だってそう言ってくれた光子の、同い年なのになんと成熟した体つきをしていることか。

「婚后さんはそういうの、似合いそうだね」
「そうかしら? 私の好きな色ですし、これくらいなら派手すぎないかと思って」

……いや、婚后さんなら何着ても派手になると思う。
そういう心の声を押し隠して、美琴は苦笑いに見えないよう笑顔を見せた。

「私も、もうちょっとそういう落ち着いたのにしようかな」

溜息をついて、ハンガーをラックに戻そうとした時だった。

「えーっ、いいじゃないですか、それ」

やや大げさな、残念そうな声が隣から聞こえてきた。

「佐天さん?」
「あたし見てみたいなー、御坂さんのその水着姿」
「私も。是非着てみてください」

佐天に並んで、ひょっこり初春も顔を出した。
ここ最近になって、二人は美琴の好みと葛藤を、理解し始めているのだった。
どうやら「常盤台でもトップランクに位置するお姉さま」は、
可愛らしいもの好きなのだが、立場上それを表に出すのがはばかられるらしい。

「い、いやいや。さすがにこれは、ね? ほら、また黒子になんて言われるかわかんないし」
「そう言わずに、試着だけでも」
「ぜーったいに、可愛いですって!」
「その、そうは言うけど、婚后さんと並んじゃうと、ほら。いくらなんでも子供っぽいっていうか」
「あら。いいではありませんの。その人に似あった水着ってあるでしょう。
  きっと御坂さんが来たら、子供っぽいんじゃなくて可愛くなると思いますわ」
「そう、かな……?」

美琴は周りの勧めに、つい抗えなくなる。
本当は一目で気に入った、大好きなデザインの服だ。着てみたいに決まっていた。
そういえば、この間のセブンスミストでもどっかのバカは、最後までこういう服の趣味を笑いはしなかった。
白井の趣味に合わないせいか小言をもらうことは多いけれど、
別に、こういう服や水着が好きでも、いいのかもしれない。

「じゃあ、着てみよう、かな。と、とりあえず試着。試着だけだけど」
「よーし、じゃあ早速行きましょう! ほら初春も、それもってあたしたちも突撃だー!」
「はいっ」
「ちょ、ちょっと二人とも。何も押さなくても――」

善は急げ、美琴の気が変わるうちにと佐天と初春が美琴の背中を押していく。
試着室がいっぱいになったのでもう少し水着を眺めようかしらと光子が思案していると、
隣でもう一人、まだ決めあぐねている眼鏡の少女が近寄った。

「楽しそうにしていたわね。あなたはもう決まったの?」
「ええ。こちらにしようかと」

まだ水着を一つも確保していない固法に、光子は手にしたそれを持ち上げて見せた。

「あら、なかなか刺激的なデザインじゃない」
「そうでしょうか? 布地の多いものを選んだつもりなんですけれど。
 何せ、サイズの問題であまり数がなくて」
「そう! それよね。ホント、選択肢がないのが不満っていうか。
 大手のメーカーだから期待してたんだけど、やっぱり少数派よね」

ため息をつく固法の胸元を見る。光子よりも、さらに大きかった。
羨ましいというよりは、煩わしそうというのが感想だった。

「下着もそうですけれど、不平等ですわよね」
「本当にね。年々サイズが変わるからすぐ使えなくなるし」
「そうなんですの!」

つい、身を乗り出して同意してしまった。
こういう話ができる友人の中に、光子の苦労をわかってくれる相手がいなかったのだった。

「まだ成長中? なら、私に追いつかないようにってお祈りしてあげるわよ」
「確かに、これ以上はいりませんわね」

共感たっぷりな苦笑いを、光子は返した。

「私は結局この辺しかサイズが合うのはないし、諦めてこれにしようかしら」

固法が手に取ったのは、白黒の水玉模様のビキニで、ボトムには小ぶりなフリルがついているものだった。
普通サイズのを普通の少女が着れば単に可愛らしいデザインなのだろうが、
固法に着せるとかなりセクシーさが強調されるだろう。

「じゃ、着てみましょうか」
「ええ」

湾内と泡浮が着終えて、空きの出た試着室へと二人は向かった。


「そーれぇっ!」
「あっ、ずるいですわお姉さま!」
「ついさっき空間移動<テレポート>つかったアンタが言うな!」

文句の中身に反して意外と上機嫌な美琴の声が、あたりに響き渡る。
佐天、初春はいつもの美琴と白井のコンビと一緒に、ビーチバレーをしているところだった。
ホログラフィを始めたとした映像技術などをフルに生かした、
学園都市最新の拡張現実技術を利用して作られた空想のビーチ。
海のない学園都市の、それも第七学区のビル内に再現された浜辺で皆は戯れているのだった。

「よしっ、これで勝ち越しっと!」
「もう、お姉さまったら本気になって」

佐天はガッツポーズをする美琴の後ろ姿を見て、うんうんとうなずいた。
やっぱり水着の効果だと思う。美琴自身嬉しいのだろう、
いつもよりも美琴は快活な印象を周囲に与えていた。

「し、白井さん。ちょっと休憩しましょう」
「そうですわね。ゲームセットですし。私たちの負けで」

ふう、と白井はため息をついて、チームメイトの初春をねぎらった。
この四人の中では、初春が一番運動が苦手なのだ。それもあって疲れたのだろう。
傍の浅瀬に目をやると、湾内と泡浮、光子が水の中で水を掛け合いながら戯れていた。

「捕まえまし――――あっ、」
「ふふ。残念でした」

まるでイルカのように、滑らかに水中を突き進んだ湾内に対し、
泡浮は捕まらないようにと水中から逃げ出した。
それも陸に上がるとかそういうのではなく、
何と光子ひとりを抱きかかえて、水面に立っているのだった。

「すご……泡浮さんて、力持ち?!」

横から眺めつつ、佐天はついそう呟いた。
湾内は水泳部で、使った能力はまさに水流操作そのものといった感じだ。
一方、泡浮の能力は、想像がつかない。
あんな細い腕で光子を抱きかかえられるとは考えにくいし、能力を使っているのだと思う。
けど、それなら同時に水面にも浮かんでいるあの能力はいったいなんだろうか。
多重能力<デュアルスキル>はあり得ないというのが学園都市の定説だから、
それらはきっと一つの能力に違いないのだが。

「泡浮さんは少々変わった能力の持ち主なんですの」
「水流操作じゃない、ですよね?」
「ええ。でも流体と関わりの深い能力ではありますわ。あの三人とも」

学園都市のマナーとして、白井は他人の能力そのものを教えてくれることはなかった。
視線の先では、水中を魚みたいなスピードで追う湾内から、
水上を走る泡浮という構図が出来上がっていた。
だが、軽そうではあるものの、光子を抱えた泡浮は走るフォームをきちんと取れない。
わずかな駆け引きの後に追いつかれて、
うねるように立ち上がった水流に絡め取られ、再び水中へと戻されていた。

「も、もう! お二人とも容赦がありませんわね」

そう文句を言いながら、光子は不敵に笑って起き上がる。

「あら、こういう時に遠慮をしては面白くありませんわ」
「水中は私たちの活躍の場ですもの」

年上相手だが、二人は能力を使って遊ぶのにためらいはなかった。
光子は二人より上の、レベル4の能力者だ。
環境の不利くらい平気で覆して、遊びに加わってくれることだろう。

「まあ、水中で分が悪いのは認めざるを得ませんわね。でも――――」

光子が、傍にいた泡浮の肩に手をかけた。
泡浮の力を借りてふわりと飛び上がり、体を横にしながら足を水面から出す。
そして、水面から1メートルくらいの高さを、滑らかに飛翔した。

「私から逃げられるかしら?」
「負けませんわ!」

湾内は光子のそのアクションを見ても、まだ余裕を感じていた。
光子は自由自在に空を飛べるタイプの空力使いではない。
方向転換は不得意なはずだし、なにより空気より密度の大きい水流を扱う自分のほうが、機敏な動きは特異なのだ。
追いつかれる前にと、湾内は再び水に潜ろうとした。その時だった。

「引っかかりましたわね」

おかしそうに光子が笑うと同時に、幾本もの水柱が、湾内の周りで噴出した。

「きゃっ!」
「――――捕まえましたわ」

光子が、自らの滑空速度を減じながら、腕を湾内に絡めた。そのままギュッと抱きしめて、体を水に投げ出した。



ザッパーーン!



盛大な水音があがる。じっと眺めていた佐天以外の、陸にいた残りのメンバーも何事かとそちらを見ていた。

「ふふ。私の勝ちですわね」
「こ、婚后さん。水中にも『仕込んで』いましたの?!」
「油断してましたわね。湾内さん」
「婚后さんは、さっき落ちた時に空気の泡を全部ここの底に貯めていたんですよ」

笑いながら、そういうことだったのかと納得するように湾内が頷いた。
三人としては、ずいぶん能力を抑え目にしてのちょっとした遊びだったのだろう。
遠巻きに見る佐天には、そんな風に見えた。ただ、それでも少々、羽目を外しすぎたのかもしれない。
ビーチを再現したフロアに、どこからかアナウンスが響いた。
『お楽しみのところ邪魔をしてごめんなさい。能力を使って運動をされると、
 企業として安全が保障できなくなってしまうので、申し訳ないんだけど控えてくださいね』
「す、すみません!」
「失礼しました」

依頼を受けて皆を誘った側の湾内と泡浮が、恥ずかしそうに謝った。

『常盤台の学生さんですから、もちろん大丈夫だとは思うんですけど、依頼している我々の体裁もありますから。
 そうだ、そろそろお昼になりますけど、みなさんどうされますか?』

もうそんな時間だったのかという顔をした学生たちに向かって、撮影担当の女性は、続けて提案を行った。
曰く。撮影用に飯盒(はんごう)などのキャンプの道具と食材も用意しているから、自分たちで準備されますか、と。
ずっと遊んでいたい彼女たちにとっては、願ったりかなったりだった。

ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎといったオーソドックスな野菜と、牛肉のブロック、
エビやイカなどの海鮮が並んだテーブルを挟んで、全員で顔を見合わせる。

「それじゃ、作りましょうか」
「はーい!」

固法の音頭に全員で返事を返し、それぞれの担当作業に手を付け始める。
相談の結果、美琴と白井が飯盒でご飯を炊き、佐天と初春が牛肉入りの普通のカレーを、
美琴と湾内、泡浮がシーフードカレーの調理をすることになった。
固法は全体を見回しつつ、シーフードカレー組のサポートに入ることになる。
理由は簡単、その組だけが、全員に調理経験があまりなかったからだ。
手始めにニンジンや玉ねぎの皮を剥かせ、包丁を三人に渡す。

「いい? 包丁は野菜を押さえるほうの手の形にさえ気を付けておけば、
 指を切ったりすることなんてまずないわ。だから左手には気を付ける事」
「わかりましたわ」

根は素直な三人なので、固法はあまり心配はしていなかった。
現に、恐る恐るではあっても、危なげない手つきで光子たちは野菜を刻んでいく。
手つきが安定してきたのを見計らって、他のメンバーの進捗を見にいくことにした。

「それじゃこれ、全部切っておいて。
 準備の山場はエビの処理だろうけど、難しいと思うからちょっと待っててね」
「はい」
ひときわはっきりと、光子が頷く。
先ほどから自分たちよりも光子がやる気になっているのが、湾内と泡浮は気になっていた。
普段の光子は、ことさらに食に関心があるほうではない。
料理が趣味だなんて印象はなかったし、現にスキルという意味では自分たち同様、素人そのものだ。
だから、やる気の原因は、きっと。

「婚后さん、張り切ってらっしゃるのって、やっぱり」
「えっ?」
「作ってあげたいって、思ってらっしゃるのかしらって」
「な、何のことですの? 私別にそんなこと考えていませんわ」
「そんなこと、ですって! 湾内さん」
「私たち、別に何も言ってませんわよね?」

不穏な空気を感じて、光子が警戒感をあらわにする。
だが視線が落ち着きなく揺れていて、口元が決して嫌そうな感じに見えないあたり、
光子の内心はバレバレだった。

「婚后さんは、お付き合いなさっている殿方の話をするときだけは、嘘をつけませんわ」
「嘘なんて、私言っていません!」
「そういう照れ隠しが、素直すぎるんですわ。
 目上の方に失礼ですけれど、ちょっと可愛いって思いますもの」
「そ、そんなこと」
「ね、婚后さん。もう一度お聞きしますけど、手料理、振る舞って差し上げたいんではないんですの?」

穏やかそうな声で、しかしどストレートにぶつけられた質問に、光子は窮してしまった。
確かに自分は、嘘をついた。

「……いつも食事を用意するのが面倒だって、おっしゃいますの」
「常盤台みたいに寮で食事まで用意される学校ではありませんのね」
「高校でしたら、そういうのも普通だと聞きましたわ」
「今の私は、正直に申し上げて、あの人よりきっと料理下手なんですの。
 だからお力になれませんし、それが悔しくって」
「だから、料理を勉強しようって考えていらしたんですね」
「……ええ。お恥ずかしながら」

拗ねたようにそっぽを向く光子に、二人は温かく微笑んだ。

「とっても素敵ですわ」
「どこがですの。お付き合いしている方よりも、料理ができない女なのに」
「それを改めようとしているところが、格好いいんですわ。……いいなあ。
 私にも、そういう方がいたらもっと家庭科の勉強に身が入るのかしら」

愚痴のような独り言を泡浮が漏らす。湾内にとっても全く同意できる内容だった。

「婚后さんって、彼氏がいるのね」
「えっ?!」

慌てて振り向くと、後ろで固法が興味深げな顔をしていた。
どうやら別のチームの監督はすぐ終えて戻ってきていたらしかった。

「た、立ち聞きなんてお行儀が悪いですわよ」
「それはごめんなさい。でも周りに聞こえる声で話していた側にも非はあると思うわよ。
 ね、それより、どんな彼氏なのか気になるなー、って」

大人の余裕が垣間見える態度で、固法がそう問いかけてくる。
あまり知らない相手に話すのなんて、照れくさいし恥ずかしい。


「そんなこと聞いてどうなさいますの。別に、普通の方ですわ」
「普通の方、ですって。泡浮さん」
「そうとは思えませんわよね。あんなに素敵な恋をなさっているのに」
「もう! お二人とも! 人の秘密をあけすけにばらすのはおやめになって!」
「秘密ですって! やっぱりお付き合いなさっている方が素敵な方だっていうことは、
 人には知られたくないんですわね」
「それはそうですわ。大切な人を独占したいっていう気持ちは、わかりますもの」
「そんな意味で言ったんじゃありませんわ!」

しれっと自分の言葉を曲解していく湾内と泡浮が恨めしくて、じっとりと睨みつける。
だが最近はもうすっかり慣れてきたのか、年下の二人は全く物怖じしなくなっていた。
そんな三人のやり取りを、固法が楽しげに見つめる。

「固法さん、でしたわね。貴女こそどうですの?」
「えっ、私?」
「確かに気になりますわ。とってもお綺麗で、大人の女性ですもの。
 素敵な恋の一つや二つ、経験されているかも」
「あなたたちに綺麗って言ってもらえるほどじゃないわよ。
 それと、大人って言っても高校生だし、そういう浮ついた話は残念ながらできないわ」

光子の続きで盛り上がる湾内と泡浮に、固法は苦笑せずにいられなかった。
恋愛話は固法の周囲でももちろんホットな話題だが、その内容はもうちょっと下世話というか、
オトナな内容になっているのは事実だった。

「じゃあ、お付き合いしている方は」
「いないわよ。別に、今すぐ欲しいとも思わないし」
「それなら、今までに恋をした殿方はどんな方でしたの?」
「恋って、別に、そういうのはないわよ」

固法がその返事にわずかに言いよどんで視線がぶれたことを、三人は見逃さなかった。

「今の、ちょっと怪しかったですわ」
「湾内さんも泡浮さんも目ざといですわね。
 固法さん、私に聞くんでしたら、貴女からもお話していただかないと」

ようやく自分にも攻める側に回るチャンスが巡ってきたので、光子が嬉しげに頷いた。

「あらあら。こりゃちょっと旗色が悪いわね。言っておくけど、
 これまでに付き合った相手なんていないんだから、面白い話なんてないわよ」
「じゃあ、片思い」
「さあ。でもそれくらい、誰だってある話でしょ?」

それは紛れもない固法の実感だったのだが。
うーんと首をかしげる三人の態度を見て、お嬢様とはこういうものかと変に納得させられた固法だった。

今日はたぶんここまで。
あと数レスでプロローグの加筆は終了です。
終わったら一度スレ落として、最新の話を別スレ立ち上げて書いていこうと思います。

乙どす

>>213の調理分担のとこ、美琴が2回出てきて光子がいませんの

なんでわざわざこっちでスレ立てする必要があるの?
こっちじゃ話が飛び飛びで追いづらいから、あとはarcadiaでだけ続ければいいんじゃないの?

確かに前みたいに途中で落とされるよりは、新しい話はあっちで続けてくれれば十分
今回も話の補完って感じで話が飛び飛びでわかりづらい
あっちだったら落ちる心配もないし、ペースを気にせずに気ままに続ければいいんじゃないの?

うわー
うわー

ニヤニヤが止まらない
ニヤニヤがえらいこっちゃ祭りですよ姉さん!

光子さんは可愛いなあ。

乙でした!こっちでの再開、気づかなかったですよ。ありがとうございますですだよ。
キャラの魅力をこれでもかと引き出す……!ワザマエ!

もしや、ニンジャ……?

乙!

理想郷は清書のようなものじゃなかったっけ
追いづらいんならハナから理想郷だけチェックしておけばいいとしか

ここは下書きだべ

乙!!

>>218-219
こちらで読みにくいようでしたら、理想郷で読んでいただけるとありがたいです。
書き手としてここの環境も大変ありがたいので、引き続き利用させていただこうと思っています。

>>220
先の展開が決まっていて、制約がある分ちょっと書きづらさもあるんですけどね。
次のレスは婚后さんより固法先輩の成分が多めです。

じゃあ、プロローグ改稿の加筆部、最後いきまーす

>>218-219
こちらで読みにくいようでしたら、理想郷で読んでいただけるとありがたいです。
書き手としてここの環境も大変ありがたいので、引き続き利用させていただこうと思っています。

>>220
先の展開が決まっていて、制約がある分ちょっと書きづらさもあるんですけどね。
次のレスは婚后さんより固法先輩の成分が多めです。

じゃあ、プロローグ改稿の加筆部、最後いきまーす

「あっちは盛り上がってるねえ」
「ちょっと手が止まってますけどね」

初春と一緒に苦笑しながら、佐天はシーフードカレー組を眺める。
こちらは野菜のサイズをどうするかでちょっと揉めたくらいで、あとは順調に進んでいる。
失敗するほうが難しいのがカレーという料理だし、慣れた佐天にとってはなんてことはない作業だった。
野菜くずをまとめてゴミ捨て場へと持っていくと、向かいからも湾内が捨てにやってきた。

「調子はどうですか?」
「固法さんのおかげで、今のところ順調ですわ」
「常盤台では、調理実習とかないんですか?」
「たしか二年か三年の時に、ありますわ。
 でもそれだってほんの数回のことですし、手際よくは難しいんじゃないかと思いますわ」
「まあ、そりゃそうですよね。寮は全部作ってもらえるんですよね?」
「ええ。ですからこんなことを言うと嫌味みたいですけれど、
 毎日ご自分で食事を用意される方って、尊敬しますわ」

湾内がそう言って、にっこりとほほ笑み掛けてくれる。
確かに内容は嫌味ともとれるのに、全くそう感じさせないおっとりとした笑みだった。
柄にもなく、佐天は気恥ずかしくなる。

「そ、そんな大したことじゃないですよ。とびきりおいしい料理が作れるわけでもないですし」
「きっとそんなことありませんわ。お向かいから、佐天さんの手つきを拝見していましたけれど、
 包丁の動きがとってもリズミカルで、なんだか自分の母親のことを思い出しましたもの」
「褒めすぎですって。それに、湾内さんたちは能力の開発を頑張ってるわけですから、
 私からすれば、そっちのほうがかっこいいです」
「そう言っていただけるのは、光栄ですけれど。でも能力を日常の中でに活かせることなんて限られていますし、
 自分のことを自分でできるのは大切なことですわ」

心のうちに広がる複雑な感情に気づかないふりをして、佐天は湾内に頷き返す。
きっと湾内も、自分を気遣って言葉を選んでくれているのだろう。湾内はそういうことのできる女の子だと思う。

「そういえば、さっきプールで見ましたけど、湾内さんって水流操作系の能力者……なんですよね?」
「ええ。そうですわ」

そう言って湾内は、手近な蛇口をひねって水を出し、手のひらの上に貯めて見せた。
水塊はこぼれることなくまとまり続け、自然には絶対ありえないような、立方体のブロック形状を示した。

「わー、なんかこのサイズだと可愛いですね。この能力を利用して、水中で早く移動していたんですよね?」
「はい。その通りですわ」
「じゃあ、泡浮さんの能力も、水流操作(ハイドロハンド)なんですかね?」

素朴な疑問を、ぶつけてみる。
水面から浮き上がっていた様子から察するに、どうも違うような気がしていたのだ。

「いいえ。泡浮さんはちょっと違う能力をお持ちですの。
 私や婚后さんと同じ、流体に関する能力ではありますけれど」
「――――浮力を操る能力なんですよ」

隣から、泡浮本人がひょっこりと顔を出した。

「泡浮さん。下ごしらえのほうはよろしいんですの?」
「エビの皮むきは、婚后さんが全部するっておっしゃって」

苦笑気味に、泡浮は手持無沙汰を暴露する。
あちらでは光子が固法の手つきをまねながら、大きなブラックタイガーの頭を取り除いていた。

「浮力を操るって、よくある能力なんですか?」
「流体制御の一分野という意味ではよくある能力なんですけれど、
 浮力を直接対象とする能力はかなり珍しいですわ」
「珍しさで言えば、婚后さんに引けを取りませんわね」
「そういえば、泡浮さんもですけど、婚后さんも、空を飛んでましたよね」
「正確には、私の場合は浮いていただけですの。婚后さんはまさしく飛翔されていましたけれど」
「はあ」

本質的にどう違うのかわからなくて、佐天としては生返事を返すしかない。
二人はその態度を見て、佐天の疑問を察してくれたようだった。

「私は水の浮力を極端に大きくすることで、ほんの数センチ、足を沈めただけで浮かべるようになるんです。
 他にも、空気の浮力を大きくして、空中にものを浮かべることもできるんですよ」

そう言いながら、泡浮も能力を実演してくれた。
手渡された空の鍋がステンレス製と思えないほどに、ふわりと佐天の加えた力に応じて持ち上がる。

「軽っ! っていうか、水でも空気でも操れるって、すごいですよね」
「この能力は重力と逆向きの力しか生み出せませんから、そういう不便もありますわ。
 そして、私と違って、空気の流れを操る空力使い<エアロハンド>でいらっしゃるのが、婚后さんですわ」
「空力使い……」
「それもレベル4ですから、非常に優秀でいらっしゃるんですよ」

それを聞いて、佐天は内心で、驚きを禁じ得ないでいた。
光子が空力使いだということが意外なのではない。
それ以前に、自分と同系統の能力者がいて、自分よりずっと高レベルであるということが、
佐天にとってひどく新鮮な事実だったのだ。
空力使い<エアロハンド>はありふれた気流操作の能力に対する大きな分類に過ぎず、
仲間意識など持ってはあちらに失礼だとは思う。
けれど学園都市に来て以来、能力の系統すらまともに判定してもらえなかった佐天にとって、
それは感慨を覚えるに値することだった。

「あたしと同じ、なんですね」
「佐天さんも空力使いなんですの?」
「はい。って言っても、そう名乗れるようなレベルじゃないですけどね」

苦笑いして、佐天は手を振った。

「さて、そろそろ炒めないと、先にご飯炊けちゃいますね」
「そうですわね。美味しく召し上がっていただけるものを、ちゃんと作りませんと」

悲壮な決意を見せる、といった感じに湾内がおどけて見せたのをひとしきり笑って、三人はそれぞれの持ち場に戻った。

「……それでは、今日の撮影を終わりにしたいと思います。
 写真を収録した雑誌は発行する前にチェックのためにいったんお送りしますから、
 問題があれば二日以内にご連絡くださいね。今日はお集まりいただいて、ありがとうございました。」
「お疲れ様でしたー!」

そう声を唱和させて、固法はふうとため息を一つついた。
慣れない体験に、気づかないうちに気を張っていたのだろう。
周囲の女子中学生たちにも、一様に仕事をした後の笑みが浮かんでいた。

「それじゃみんなお疲れ様。先に失礼するわね」

夏も真っ盛りだから、濡れていた髪の枝先ももうすっかり乾いている。
これからの予定を相談して盛り上がる残りのメンバーより先に、固法は水着メーカーのオフィスを後にした。

「相変わらず暑いわねー」

一人そう呟き、昼下がりの太陽にケチをつける。
冬なら日も翳ろうかという時間帯だが、あいにく外はまだ十分に明るかった。
メールをチェックして、この後会う予定のあった友人とやり取りをする。
予定通りの時間に終わったから、このあともうひと遊びするつもりだった。
そして、駅のほうへと歩き出したところで、見覚えのある相手が歩いてくるのに気が付いた。

「あら、上条君?」
「へ? って、メガネの先輩じゃないですか」
「その呼び方やめなさいよ」
「へーい。お久しぶりです、固法先輩」
「久しぶりね。もう一年くらい会ってなかったかしら」
「話したのはそれくらいだっけ。半年に一回くらいは街のどっかで見かけてましたけど」

そう言い返してきた相手は、上条当麻という学生だった。
風紀委員になってからも、その前からも、ちょくちょくと縁のある相手だった。

「私のほうには覚えがないんだけど……」
「そりゃ先輩、風紀委員<ジャッジメント>やってるじゃないですか。
 いたいけな一般市民としてはお近づきになりたくないっていうか」
「君が一般市民だって意見には納得できないんだけどね」
「それ言ったら、夜にバイクで流してた先輩が風紀委員ってほうが納得いかないんですけどね」

う、と固法は言葉に詰まる。親しい友人にしか知られていないが、
二年ほど前の固法は、それなりにやんちゃだったのだ。
目の前の彼とは、その頃からの知り合いである。
本人は別にバイクの趣味もないし飲酒も喫煙もしないくせに、
荒事の起こる界隈に出没する不思議な学生だった。

「ま、それは置いておくとして。こんなところで何してたんですか?」

当麻の質問は、もっともだった。
風紀委員とはいえ高校生でしかない固法が、水着のメーカーのビルを訪れる理由はあまりない。

「ちょっとお仕事でね」

風紀委員の、とは言わなかったけれど、そうとも取れるような言い方で固法は答えをはぐらかした。
納得してくれたかと相手を観察すると、ふーんとつぶやいて、判断を保留するような顔をしていた。
だが、一呼吸おいて。

「てっきり俺は、先輩が水着のモデルでもやってたのかと思ったんですけど?」

当麻が見透かすように意地悪く笑った。

「っ! な、なんでいきなりそういうことを考えるのかしら」
「髪、ちょっと濡れてますよ」
「汗かいてるだけでしょ」
「今ビルから出てきたところなのに?」

ニヤニヤとした笑いをひっこめず、さらに問いかけてくる当麻を睨み返す。
一つ年下のくせに、固法に対して妙に遠慮がないのだ。この男は。

「上条君って、そういうデリカシーのないことは、あんまり言わないタイプだと思ってたんだけど」

当麻を牽制するつもりで放ったその言葉に、嘘はない。この男は口では女性に対して気を使えるほうだ。
隣にいる女性が、『不幸なアクシデント』にめぐり合うことが多いだけで。

「いや、俺は気になったことを聞いてるだけですよ。先輩が嘘をついているみたいだったんで」
「嘘だなんて。決めつけはよくないわ」
「じゃあ何してたんですか。そんな着替えでも入ってそうなスポーツバッグなんか持って」

そう言われて、むしろ固法は不審を抱いた。
お互い久々に話したことで少々テンションはおかしかったのかもしれないが、
それにしても当麻の態度に余裕がありすぎる。
固法が本当に水着の撮影をしていたことを、内心では完全に確信しているように見えた。

「上条君こそ。こんなところにどうしているの? 駅から離れているし、遊ぶところも近くにはないのに」
「友達に会ってから、繁華街に繰り出すところだったんですよ」

その言葉に、嘘を感じた。だってこのあたりに学生寮はない。
不意に、撮影現場での会話が脳裏に思い出された。

「友達だなんて、言い方はないんじゃない?」
「え?」

論理的な裏付けのないまま、固法は直観に従って当麻の嘘を穿った。



「婚后さん、とってもきれいな女の子だと思うけれど」



効果は覿面だった。

「ちょ、ちょっと先輩?! なんで」
「やった、正解だったのね。ごめんなさい上条君、確かに君の言うとおり、水着の撮影を頼まれていたわ」

面白いように狼狽した当麻の態度を見て、心の中でガッツポーズをする。
もう、水着姿を取ってもらったという話をばらしても恥ずかしくない。立場は固法が上だった。

「もう終わったんだけど、婚后さんはお友達とまだ帰る支度をしていたわ。
 待っていれば、そのうちここに来るとは思うけど」
「なんで、いきなり婚后の名前が出るんですか。
 っていうか、知ってたんならとぼけなくてもいいでしょう」
「婚后さんのお相手の名前なんて聞いてなかったわよ、もちろん。上条君が調子に乗って自爆しただけ」
「……ちぇ」

クスクスと笑うと、ふてくされた顔で当麻がそっぽを向いた。珍しく、可愛い所もあるものだ。

「それにしても、上条君に、ついに恋人登場かあ。あの子、一人目の彼女よね?」
「さあ。別に先輩に言う義理ないと思いますけど」
「それはそうね。でも今度婚后さんに会ったら、なんて言おうかしら。
 昔っからいろんな女の子に言い寄られてて、何人目の彼女かわからないって正直に伝えてもいいの?」
「人聞きの悪い! 俺、誰かに言い寄られたことなんてないですよ。
 それと、俺の名誉のために言っときますけどとっかえひっかえなんてしたことないですからね」
「うん。まあ、それは信じてあげるわ。陰で泣いてる女の子は多そうだけどね」
「いるもんなら光子と付き合うより前に彼女ができてたでしょうよ」

からかうつもりが地雷を踏んだ当麻の不機嫌な顔がおかしくて、つい固法は笑ってしまった。
それを見た当麻の口元が、さらにひん曲がるのがさらにおかしかった。

「ま、久しぶりに会って楽しい話も聞けたし、よかったわ。私はそろそろ行かなきゃいけないから、またね」
「俺は会いたくない理由が増えましたよ。ったく。まあ先輩も、お元気で」

当麻が最後に見せた苦笑に満足して、固法は当麻に背を向けた。
そして数歩歩みだして、誰にも聞こえないように、そっとつぶやく。

「やっぱり恋人がいると、輝いて見えるわねー……」

独り身の自分を、全く嘆かないわけでもないのだ。
今から会う相手、と言ってもただのルームメイトだが、
彼女にもまた恋人がいないことを意地悪く喜びながら、固法はその場を後にした。






「はー、なんだかんだで楽しかったねえ」
「そうですね。いつの間にか、撮影だってこと忘れて遊んでました」

夕焼けをバックに、佐天と初春は自分たちの寮を目指して歩く。
手には行きと同じバッグに加えて、夕飯の材料を詰め込んだ袋があった。
今日はこのまま、二人でお好み焼きパーティーの予定なのだった。

「にしても、やっぱ常盤台の人って、遊んでる時でも平気で能力が出てくるんだよね。
 あの辺の感覚は、やっぱうちらと違うよね」
「そうですね。レベル3以上の学生しかいないとなると、
 みんな何かしら、使える能力があるわけですもんね」

精一杯うんうん唸って、スプーンを曲げるのが限界な連中ばかりのクラスメイトと違うのは、むしろ当然だった。

「あの婚后さんって言う人、空力使いだった」
「……佐天さん」

その一言の意味を、初春はすぐに察した。
能力を行使したところを実際に見たわけではないけれど、
幻想御手<レベルアッパー>によって発現した佐天の能力は、気流操作だったと聞いている。

「能力を使ってるところはちょっとしか見なかったけど、
 滑るみたいに空を飛んでたし、水中でも能力を使って水柱を上げてた」
「私も見てました。レベル4ってことは、きっともっとすごい能力を持ってるんでしょうね」
「そうだよねえ」

歯切れの悪い佐天の言葉は、彼女の苦しみを、物語っているのだろうか。
あの事件以降、良くも悪くも、佐天が能力のことを口にすることが、多くなっていた。
一瞬手に入れて、すぐ失ったそれに対する葛藤なのか、あるいは罪悪感の裏返しなのだろうと思う。
佐天を癒してやれない自分に、初春は少し苛立ちを覚えた。

「ねえ、初春」
「はい?」

佐天が、澄んだ瞳で自分を見つめていた。

「あの人に、能力の使い方を教わるのって、ダメかな?」

なんでもないことのように告げられた佐天の一言に、初春は思考を麻痺させた。

「えぇっ? さ、佐天さん?」
「この街に来たからには、あたしはやっぱり、能力を伸ばしたい。
 そのために、やれることをやりたいんだ。
 もちろん婚后さんに無理って言われたらそれまでだけど、
 まずは、当たって砕けてみよう、って。そう思うんだ」

そう言って照れくさそうに微笑む佐天を見て、初春は満面の笑みを浮かべた。

「そうですね。砕けちゃだめですけど、当たってもみないのはもっと駄目ですよね!」

佐天は、ほんの短い間だけ能力を身に着け、それを失った。
その喪失感ばかりが、ずっと佐天を苛んでいるのだと、初春はそう思っていた。
けれど、違うのだ。初春のよく知る佐天という少女は、弱さを抱えてはいても、弱いだけの少女ではなかった。
失くしたことで、佐天が得たものもまた、あるのだろう。

「とりあえずは婚后さんが街に出てくるところを待ち伏せかなー」
「待ち伏せって……御坂さんか白井さんに聞けば、連絡先を教えてくれるんじゃ」
「ま、そうだね。でもとりあえず今日は宴会だー。疲れたし飲むぞー!」
「佐天さん! その言い方は誤解を招きますよ! 私ジュースしか買ってません!」

初春は苦笑しながら、バッグをぶんぶんと振り回す佐天を追いかけた。




誰も、気づく者はいなかったけれど。
紛れもなく今日こそが、佐天涙子の『はじまり』の日だった。

『prologue 09: 失ったものと得たもの』でした。
改稿に長いこと時間をかけてすみませんでした。
これで一応、想定していた加筆部分の執筆がすべて終わりました。
この先、以前からあった部分と展開が矛盾しているところがあるので、修正を施しつつ、
プロローグ部分を全部投稿して、今月下旬にスレを落とそうと思います。

おつおつ 楽しみに待ってますぜ

乙です。
因みにep.4_Sisters 07: 同能力者対決の続きはもう書き溜めているのでしょうか?
楽しみにしています。

乙!!


続き楽しみに待ってます。

それでは最後の部分、すべて投稿します。
以降は改稿前の内容に修正を施したものです。
次話に相当する『prologue 10: レベル4の先達に師事する決心』は若干変化が大きめです。


「婚后さん! あたしに空力使い<エアロハンド>の極意、教えてくださいっ!」

どんな心境の変化だったろう。
彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。
それも自分にとって決して親しみやすいとは言えなさそうな自信家のお嬢様。
これまでにもあったことはただの一度で、ほとんど話をしたこともない相手だというのに。

その日、光子は当麻と会うため、学舎の園と普通の区域の境となるゲート前で、
一人待ち合わせ時間までの数分をぼんやり過ごしていた。
当麻が到着するまでにはもう少し掛かりそうなので漫然と景色を眺めていると、
視界の中に、見覚えのある二人の姿が見えた。
向こうも遊ぶ気なのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、
ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が、こちらに向かって歩いてくる。
彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。たしか白井や美琴の友人だったはずだ。
先日はどうもというような当たり障りのない挨拶をし、一体今日はどうしたのかと聞こうとした直前で。



いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。



「え、ちょっと、お待ちになって。唐突にどうしましたの? 極意を教えてって」

目を白黒させる光子に、焦った顔をした初春が頭を何度も下げた。

「佐天さん! いきなりそれじゃわからないですよ」
「あ、そうですよね。アハハ」

脈絡のない性急な切り出しは、佐天の緊張の表れだったらしい。
光子と初春から説明を求める目で見つめられて、佐天は続きを言いよどんだ。
だが、すぐに意を決したように視線をまっすぐ光子に向けて、もう一度自分の願いを口にした。

「あたしの能力、空力使いなんです。レベルは全然、大したことないですけど」
「はあ」
「これまでもずっと能力は伸びないで、全然駄目なままだったんですけど、
 最近、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって、思うことがあったんです。
 それで、知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか」
「だから、能力について教えて欲しい、と?」

続きを先取りするように光子はそう言い、佐天に確認を取った。
帰ってきたのは、あっさりとした首肯だった。

「はい。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、
 アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」

光子がこの申し出をどう思うか、それは初春には分からなかった。
しかし佐天が明るい態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。
佐天は言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。

「あの、お願い、出来ませんか?」

光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女とは、直接話したことはほとんどない。
初めて会った水着撮影の一日で、光子は佐天のことを、明るくて苦労の類と縁がない子だと勝手に思っていた。

「佐天さん、だったわね」
「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」
「可愛いお名前ね」
「はあ」

佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。

「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。
 能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違いますから、
 簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっとよろしいわ。
 私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」

それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。
試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、

「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」
「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」

即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。


「でも、努力ならいつだってしていましたわ。
 そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」

その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。
白井との喧嘩を横から眺めていて、この婚后という先輩は気が強く嫌味な相手なのかもしれないと、
不安に思っていたが、どうやら少し違うようだった。
彼女が口にした天才という言葉には、自分より力のない他者を見下すような意味合いではなく、
自分自身に言い聞かせるような響きがあった。

「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、
 グラウンドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。
 それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。
 だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。
 婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。
 いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」

ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。
かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。

「私に出来ることなんて高が知れているでしょうけれど。でも、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ」

弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。

「えっ、あの、教えてくれるんですか?!」

半分くらい、断られるのを覚悟していた佐天は、あっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。

「貴女にやる気があるのなら、ね」

試すような目付きでのぞき込まれて、ビッ、と佐天は敬礼のポーズをとった。

「はい! 頑張ります!」

それを聞いて、話に割り込まず隣で聞いているだけだった初春も、安心するように笑った。
劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。
前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。
初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。
能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。

「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」

しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。

「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」

その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。

「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。
 ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、
 そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」

わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、
彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。
光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、
自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。

「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」
「あ、えっと……ゼロ、です」

噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。
ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。
だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、
レベル0いきなりであるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。

「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」

弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。

「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。
 先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」

はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、
思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。


「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」
「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」

自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと、そう決めてかかった行為だった。

「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」
「え、宿題、ですか?」

光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。
そして、自分の面倒を見てくれている先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。

「貴女、風はお好き?」
「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」

その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。

「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き?
 それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」
「はあ……」

どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。

「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。
 念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」
「自分で、ちゃんと考えてみます」

不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。

「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」
「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか?
 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」
「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ?
 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」

佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。





それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。
当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。
遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、
自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。
そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。

「どうして遅れましたの」

最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら
自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。
当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。
ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、
この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。
だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。
なじるのを止めたりはしなかったが。

二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。
当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。

「鞄、持つよ」

自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。

「はい、お願いしますわ」

ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。
鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。
当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。
私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。
そう光子は納得していた。
自分のプロポーションに自信があるものの、
それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。

「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」

安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。
初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。
今でもそれをアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。
そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。

「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」
「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」
「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」

そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。
彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。
自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。
だからこそ当麻と一緒にいることに息苦しさを感じないでいられるのだろう。
そして彼の能力について付き合うより前に聞いてから、実はあまり詳しい話は聞いたことがなかったのだった。
レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。

「あの、怒ってらっしゃらない?」
「へ? なんで?」

恐る恐る確認を取った光子に、当麻は間の抜けた顔をした。
急に光子が不安な表情を見せたことが全く理解できなかったらしかった。

「その、当麻さんも確か、レベルが」
「あ、うん。ゼロだな」
「ですから、その、佐天さんにあれこれと能力のことでアドバイスなんてするのを、
 当麻さんがお嫌だったらどうしようって」
「ああ、そういうことか。なんだ、そんなの気にすることないのに」
「構いませんの?」
「気にしないって。その子、光子と同じ系統の能力なんだろ?
 それならうなずける話だし、光子がいくらレベル4だからって、俺の右手をどうにかできるとは思えないしな」

そう言って握った拳を見せつけてきた当麻に、光子は曖昧な笑みを返した。

「じゃあ、佐天さんにこの週末、お会いしてきますわね」
「ああ」
「それで、当麻さんの能力の話についてなんですけれど」

光子の視線が右手に落ちたのを見て、当麻が首をかしげる。
ちょうどいいタイミングだから、光子は当麻の能力について尋ねてみる気だった。

「当麻さんの能力は……AIM拡散場を介した能力のジャミング、でよろしいのかしら?」
「へ? なにそれ」

まるで初耳だと言わんばかりの顔で当麻が聞き返してきた。
断片的な会話からの光子の推測だったのだが、どうやら外れたらしい。

「ごめんなさい、違いましたのね。右手で能力を打ち消すようなことをおっしゃっていたから、
 身体接触を条件にAIM拡散力場に直接干渉できるような能力なのかしらって思っていたんですけれど」
「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」

よくそんなことを考えつくな、という風に感心しながら、当麻がニッと笑った。

「せっかくだし、試してみるか」

そう言って、当麻が大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。


ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。
能力者に特別な準備は必要ない。風を作るよう指示されて、光子は当麻の右手の手のひらに、風の噴出点を作ろうとした。

「嘘……なんで、どうしてですの?!」

結果を知るのも、あっという間だった。
能力の制御に失敗するだとか、妨害されるといった感覚とは、全く違っていた。
とにかく、何も起こらない。遠慮をしてはじめは小さな威力で始めるつもりだったが、
今や台風台風を優に超える風速と風量を発現させるつもりで脳をフル回転しているのに、
世界は普段ならいつでも観測できるような超常現象を、これっぽっちも光子に感じ取らせない。
顔に困惑といらだちが浮かぶと共に威力は上がっていき、もはや、光子は全力だった。
本当なら当麻は。自分の視界から音速で吹っ飛ぶはずなのに。何故か、そうはならなかった。

「何も出来ないなんて……。当麻さん、本当にレベルはゼロですの?」

当麻の右手は、学園都市でも明確にエリートに分類されるレベル4の能力者である自分の能力を、完全に押さえ込んでいる。
いや、それどころか、どんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。
それは途方もない異常のはずだ。
もし当麻が、光子自身が推測したようにAIM拡散場を介した能力のジャミングを行なっているのだとしたら、
当麻のレベルは5でなくてはならない。

「こんなことをできる能力者が、無能力者なわけがありませんわ」
「だよなぁ。ホント、これでレベルが貰えるんなら貰いたいよ。
 レベル上がればこないだみたいに卵だけでタンパク質取らなくてももっといいメシが食えるのにさ」
「身体検査<システムスキャン>で結果は出ませんでしたの?」
「ああ。俺自身が世界に対して何かを働きかける能力は完全にゼロだ。
 十年近くこの街にいて、それこそ身体検査なんて何回受けたかわかんないけど、
 一度たりとも能力が発現したことはない。
 まあ、この右手のせいなのは一目瞭然だから、逆に気は楽だけど」

ため息たっぷりに、当麻がそんな愚痴をこぼした。当麻の環境に、光子は目眩を覚えそうになる。
能力のレベルは学園都市で最も重んじられる数字だ。
通える学校から奨学金まで、それこそカーストのように学生たちのあり方を決定づける因子である。
それを、生活費の足し程度にしか考えていない当麻も当麻だし、
こんな変わった能力を放置している学園都市側も問題だろう。

「当麻さんより、学園都市側に文句を言うべきなのかしら……。
 本来、レベル4の能力者がレベル0の無能力者に純粋な能力の比べ合いで負けた、
 というのはあってはならないことだと思うんですけれど」
「うーん、レベル制度に穴があるって状態だもんな。でもこれ、能力なのかどうか、わかんないんだよな」
「え?」

当麻の言葉の意味が、光子にはわからなかった。
だって、能力でもないのに光子の風をキャンセルするなんて、どうやったらできるのだろう。

「能力者は多かれ少なかれ、何かに干渉するために演算を行うわけだろ? 俺、そんなの考えたことないし」
「はあ」

その言葉には肯けるところがないでもない。能力同士のぶつかり合いに負けたという意識は、光子の側にもない。
ただ一方的に、なかったことにされただけというのが正直な感想だ。あまりに非常識すぎる結論だが。

「それに演算の速さだとかの比べ合いだってんなら、レベルが高い奴には負けるはずだろ?
 俺の右手は、それが超常現象なら何でも無効化できるんだ。
 レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」
「はあ……え? ちょっとお待ちになって。
 当麻さん、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」

レベル5の雷撃と言えば、光子の同級生の超電磁砲<レールガン>の能力だろう。
名前も知らないし面識はないのだが、その能力の凄まじさは見たことがある。
身体検査の日に、音速をはるかに超えて加速されたプロジェクタイルの運動エネルギーを殺すため、
盛大にプールに水柱を立てていたのを思い出した。
やり方によっては回避・無効化することはもちろん可能だが、
真正面から受け止められる能力者なんて、果たして何人いるのだろうか。

「ああ、なんか道端で知り合ってさ」

その言葉に、ちょっと引っかかる。当麻は、道端で自分以外の常盤台生にも、声をかけたということだろうか。


「そうですの」
「それから時々街で見かけるんだけどさ、その度にアイツ、やたらと絡んで来るんだよな。
 こないだの決着をつけてやる、とか訳わかんないこと言ってさ。
 そういや、光子はやっぱりアイツと知り合いなのか? 確か中二って言ってたし、光子と同級生だよな」

共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。

「仲、よろしいのね」

自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。
知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、
同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。

「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」
「そうですの」

全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と当麻が首をかしげた。
そんな反応に、ますます苛立つ。唇が尖るのを、抑えられなかった。
他の女性の話なんて、しなくていいのに。

「……もしかして、妬いてるのか?」

驚きのこもった表情で、当麻がストレートにそう問いかけてきた。それに答える義理なんて、あるものか。

「知りません」

扇子をたたんで、鞄の取手に手をかける。
本気ではなかったけれど、立ち上がる素振りを見せたところで、当麻にきゅっと抱き寄せられた。

「可愛いな、そういうとこ」
「だって」

軽く睨むと、邪気なく微笑む当麻に髪を撫でられた。
それで機嫌を直してしまうのは悔しいのに、つい喜んでしまう光子だった。
当麻にされるがままになり、
二人は警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らした。




あっという間にはすぎて、週末を迎える。
第七学区の中央近くにある小さな公園のゲートをくぐって、佐天は広場の方へと進む。
ここが、宿題を課した光子との待ち合わせ場所だった。

「こんにちは、佐天さん」
「こんにちわです。婚后さん」

姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。

「今日はよろしく、お願いします」

光子は厳しいでも朗らかでもない、その真ん中くらいの表情だった。
これから自分は、アドバイスを与えるに値する人間かどうかを評価されるのだと、否応なしに自覚させられる。

「それで宿題はできましたの?」

一言で、光子が単刀直入に本題に踏み込んだ。

「あ……はい、一応、考えてきました」
「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」

佐天はその質問にはいという返事を返そうと、思い切れないでいた。
宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。
数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。
もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、
結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。

「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」
「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」

誰かの口調の真似たと思わしき、少し前に聞かされた問いと、寸分たがわぬ言い回し。
自分が空力使い<エアロバンド>だというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。
きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。
自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。

「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」

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ここまで『prologue 10: レベル4の先達に師事する決心』でした。

おお、乙です!

誤字つ談。

>>242、「台風台風」となっているところがございますの


「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」

くじけそうな顔をしながらそう返事をする佐天を見て、
どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。

「そう」

しかし、フォローすることなく、話を続ける。

「そのまま続けて質問に答えてくださいな」

返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。
しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。

「どうして好きになれないの?」
「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」
「違う? 説明して御覧なさい」

ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。
だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。
どこか佐天の態度に逃げがあることを、光子は漠然と感づいていた。
解決できない現実問題に対し、逃避という選択肢をとることは誰だってやっている。
恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。
だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。
無言で圧力を掛ける。光子は、佐天が自分自身で説明することから逃げることを許さなかった。

「風が気持ちいいとか、能力で空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。
 でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。
 水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、
 きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」

空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。
もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。
たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。
そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。

「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」
「使う風、ですか?」
「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。
 レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」

そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。

「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。
 空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。
 空間に急激な密度差を作って、その断層に触れた際の剪断応力で物体を切断する力ですわ。
 そしてその能力者は飛翔には向いていない」

空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。
だが言われてみればそういうものかもしれない。
知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、
片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、
もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるが、
その火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。

「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね」

佐天はその言葉に頷いた。
光子が能力を使ってなめらかに水上を滑空したところを、こないだ見たばかりだ。

「それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。
 風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」
「えっと……私が想像したのは、なんか手からぶわーって風が吹いていく力とか、
 腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」


到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、

「あの!」

思わず声をかけた。その意図を光子はすぐに悟ってくれたようだった。こちらを宥めるように、軽く微笑んだ。

「合格ですわよ。ちゃんと真面目に考えていていますから。
 もちろん、もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」

その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。
しかし気楽になれはしなかった。
自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。

「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」
「あら、お聞きになりたいんですの?」

光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心でしまったと呟いた。
だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。

「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」

そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。

「え?」

光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。
ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。

「うわわ、っとっと。びっくりした」

乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。

「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」
「風を出す……」
「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」

ふむ、と光子は思案して、佐天に問いかけた。

「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」
「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ!
 なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」
「まあそうですわよね……流体力学も?」
「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」

学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。
能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の科目が
普通に存在するあたりが最も特殊だ。
だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。
低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、
中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、
高校では多重積分や偏微分、ラプラス・フーリエなどの各種の変換などをマスターする。
高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。
そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。
それは能力による差別というよりも、
高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。
光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。

「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、
 もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」

光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。

「どういうことですか?」
「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」
「え?」


質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。

「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。風船の外にも空気はあるし、
 風船の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」
「はあ、それはそうですけど」
「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」
「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」
「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、
 風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」

そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。

「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」

苦笑して光子は首を振る。原子や分子よりも先に量子という単語が初学者の口から出てくるあたりが、学園都市の歪なところだ。

「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。
 2000年以上前にその概念を提唱されていながら、
 ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。
 光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」
「へぇー」

確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。

「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」

普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。
光子は足元の石を拾い上げた。

「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。
私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」

ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。

「こうして物体が飛翔するというわけです。
 文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」
「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」
「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。
 ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」

自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。

「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年生からいられなかったのも、それが理由ですわね。
 去年の私はレベル2でしたから」
「え? 一年でレベル2から4ですか!?」

それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。
成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。

「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、
 分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。
 能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。
 何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」

そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。

「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。
 貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。
 沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。
 今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」

能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。
だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。
それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。
佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。
気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。
それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。


「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」
「え?」
「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、
 その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。
 あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」

そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。

「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、
 どうやって動かそうとか、考えたこともなかったです」

それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。
佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。
そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。
光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。

「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、
 そういう些細な事だったりもしますわよ。
 もちろん、この学園都市の能力開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」

その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、

「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」

そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。

「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」

光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。
腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。
その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。

「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。
 自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、
 そこから風になるような感じには中々いかないじゃないですか」

自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、
と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。

「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」
「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」

佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。

「では扇子は?」
「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、
 なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」

ふむ、と光子は思案した。
風は、渦から生まれるわけではない。
そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱うのもおかしな話だろう。
風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、
光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。
そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。
そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。
季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。
自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。
空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。
佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。

「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」
「え? えーと……」

その一言で、佐天が授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。

乙でした。
貴方のSSは描写が丁寧で読んでて楽しい。


「すみません、ちょっと思い出せないです」
「そう、どこで習いましたの?」
「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」

それも学園都市の中か、実家で見たかも定かではなかった。
はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが
空気中に撒き散らされている映像。
突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、
ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。
きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。
別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。
それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。
佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。

「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。
 分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと?
 その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」
「っ――はい!」

突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。


渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。
それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。
確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、
どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。
だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。
そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。
いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。
小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。
佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。
チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。
その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。
そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。
空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。
その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。
すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。
そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。
頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。
なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。
理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、
不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、
それに似た気持ちを抱いていた。


「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」

五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。

「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」
「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、
 空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」

それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、
理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。

「そこをもう少し上手く説明できません?」
「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。
 それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」
「そこから風はどう生まれますの?」

光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。

「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、
 その引き込む流れが風なんだと思います」
「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」


本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。

「え?」
「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」
「えっと……いつかはほどけるんだと思います。
 膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」
「なるほど、わかりました」

佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。
……次の瞬間。

「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」

一つレベルの高い要求が飛んできた。


身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。
その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。
佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。
特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。
佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。
固まっていないイメージを人は妄想という。
それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。
常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。

「さて、そろそろおしまいにしましょうか」

ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。

「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」

佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。

「宿題も出しておきますわね」

笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。

「あー、はい。がんばります」
「宿題といっても今日の復習ですわ。
 学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。
 イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」
「わかりました」

真面目にそう返事をする。

「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」

佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、
おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。
それを定着させるためだろうとは思っていたが、
説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。

「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」
「あ、はい!」
「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」

信じられない言葉だった。思わず、へ? と聞き返してしまう。

「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」

自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。

「なんでそんな……」
「どうして、と問われるほうが心外ですわ。貴女、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」

佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。

「……違います」
「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。
 そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」
「あ」

パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。
それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。
そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、
実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。

「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。
 教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。
 とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。
 5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。
 充分にやってみる価値はあるはず」

すごい、佐天は一言そう思った。
レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、
あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!
能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。
面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。

「あたし、頑張ります!」

光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。
おかげで買い物が随分適当になった。出来あいの惣菜ばかりを買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。
帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、
あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。
相手を適当に空想して、その人物に向かって説明を試みる。それは中々楽しい作業だった。
どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、
自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれたからだ。
その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。
だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。
それはおとぎ話を書くような、創作行為に似てるように佐天は感じていた。


風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。
それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。
もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。
だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。
能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける。
そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。
それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。
薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。
そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。
つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。
どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。
そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。
薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。
コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。
電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。
お盆はどうしよっかなー。
初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。
左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。
真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。

「あー、思ったより効きが早いなあ」

薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。
食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。
こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。
もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。

「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」

指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。
まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。
今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。
何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。

「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」

佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。
この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。
佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。
普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。
ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。
なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。
指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。
こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。
普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、
このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。
佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。
指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。
幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。


パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。
違うんだ。
あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。
そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。
「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」
その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。
能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。





ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。
約0.2秒、数ミリ立方メートルという、分子にとって気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、
億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、
一つの現象を生じさせるように動いていく。
それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。
それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。
佐天の観測するそれはマクロを記述する古典力学に決定的に反しながらも、量子論のレベルでは『自然な現象』だった。
エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。
途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。
佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。

「あ……あ! これ、これって!!」

言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。
規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。
機械を使っても中々測れないかもしれないけど、
風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!
佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。
誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。

「すごい! すごい!」

世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。
もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。
右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。

「あは」

馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。
何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、
人差し指をくるり、で発現する。
自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。
それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。
その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、
あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。
その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、
佐天は渦を作ることに没頭した。


二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。
渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、
遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。
個数で言えばそれはいくつだっただろうか。
疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。
時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。
とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、
今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。
手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。
これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。
すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。
しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。
机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。
ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。
紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。

「よかったぁ……」

これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、
もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。
今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。
能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。
佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。
あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、
佐天の意識は睡魔に奪われていった。
多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、
どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。

髪を整えていると、けたたましいコール音がした。

「もう、こんな朝から誰ですの?」

当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。

「もしもし」
「あ、婚后さんですか!」
「佐天さん? どうしましたの?」
「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」
「え――」

興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。
アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。

「本当ですの?」

疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。

「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……!
 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」

紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。
光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。
だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。

「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」
「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」

それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。

「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。
 それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」
「はい、なんですか?」
「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」

年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。
だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。
授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。
受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。

「え……っと、変わりますかね?」

レベル0から、レベル1へ。

「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」

その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。

「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」

そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。
同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。
それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。
そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。
それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。

「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」

そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。
学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、
浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。
自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。


朝の学校。職員室に行って担任に相談した。
そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。
低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。
小さな部屋で済むものばかりだった。
手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。
一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。
今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。
そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。

「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい?
 佐天みたいなのは数年に一人くらいしかいないね」
「珍しいんですか?」

書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。

「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあることなんだけど、
 それだってこんな短期間での成長じゃなくて、一学期分まるごとかかるくらいの成長速度が普通だよ。
 おめでとう、佐天」

担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。

「あ……」

佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。

*********************************************************
ここまで『prologue 11: 渦流の紡ぎ手』でした。


「さて、それでは始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」

その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天が返事をした。
常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。
佐天が建物に入る直前に見たプレートには、流体制御工学教室と書いてあった。
そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、
この教室を案内されたのだった。
部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。
お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、
壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。
佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。

「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」

涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。

「はい」

その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。
ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。
それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。
部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。
この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。
そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。
それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。
きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、
より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。

「あら」

光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。
渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。
レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。
明らかに、成り立てのレベル1の域を超えていた。

「こんな、とこです。あ!」

佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。
生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。

「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。
 貴女、きっと才能がおありなんですわ」
「はい? え?」

才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。


「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」
「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますから、
 レベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。
 その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」
「へっ?」

やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。
念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。
もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。

「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」
「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。
 空力使い<エアロハンド>や電撃使い<エレクトロマスター>のような凡百な能力の使い手は、
 高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、
 凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される超電磁砲<レールガン>は相当のものですわよ」

光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。

「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。
 どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」
「はあ」

佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。

「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」

そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。
気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。
部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。
光子は厳かに告げる。

「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」
「……はい?」

佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。

「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。
 渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」
「はあ……」

運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。
ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、
てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。

「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」

打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。


「……ぷは、あの、どうですか?」

光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。

「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。
 佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」
「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」

困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。

「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。
 その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。
 超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。
 ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」

光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。
師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。

「うーん……」

佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。
「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう?
 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」
「粒……水の粒……」

あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。
水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。
なんとなく、水を粒として見られているような気もする。
だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。
佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。
水には、その核を見出すことはできなかった。
ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。

「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」
「そうみたいです。すみません」
「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。
 残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。
 そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」
「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。
 粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」
「圧縮性の問題かしら?」

時々光子は佐天に分からない言葉を使う。
それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。

「圧縮性? あの、どういうことですか?」
「空のペットボトルは潰せるけれど、中身入りだと無理ということですわ。
 空気は、体積に反比例した力がかかりはしますけれど、圧縮が可能です。
 しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」

その説明で佐天はハッと気づく。

「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」
「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」

光子がやっぱりかと諦める顔をした。
パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。

「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。
 水が無理ならどうせ全部無理ですわ」

また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。

「次のはなんですか?
 ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」


小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。

「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。
 でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」

スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。
ふと思いついたように光子が佐天を見た。

「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。
 夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」
「ライターなんて持ってませんよ」

この年でタバコなんて吸わない。
発火能力者<パイロキネシスト>の真似をして遊ぶのには使えるが。

「では、これで渦を作ってくださいな」

そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。
白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。
佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。

「やることはわかってらっしゃる?」

その一言でハッとなる。

「あ、はい」
「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」

平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。
そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。
空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。
目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。
50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。

「すごい」

思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。
普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。
粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。
普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。
その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、
時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。

「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」
「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」

言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。
少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。
もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。
それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。
他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、
もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。

「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」

あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。

「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。
 それにしても、貴女のその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」


建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、二人が服と髪をはたいている間に、
研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。

「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」
「あ、はい」
「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、
 そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」
「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」

軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。
だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。
手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。

「く……」

もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった。
掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。
グレープフルーツ大の、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。

「これくらいが限界みたいです」

出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。
当然のことながら気流は視覚では捉えられない。
だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。

「今日初めに見せていただいたのよりは、
 ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」
「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、
 それが中々難しいんですよねえ」

二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。

「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」
「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」

自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。

「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。
 ああいった練習を毎日なさるといいわ」
「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」
「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」
「頑張ってみます」

そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。

「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。
 ……ああ、確か第七学区の繁華街の広場で、水を霧にして撒いているところがありましたわね」

ふと思いついたように光子が顔を上げる。

「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」
「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。
 水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですから、うまく行かないかもしれませんけれど、
 お金もかかりませんし試す価値はありますわね」
「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」

初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。

「ええ、そうされるといいわ。そういう貪欲な姿勢は嫌いではありませんわね。
 さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」
「はい」

休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。
そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。
佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。
野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、
ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。
佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。
そして頬を撫でる風が生ぬるいことに、改めて気づいた。

「んー、これくらいが限界みたいです」

何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。

「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」

光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。

「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。
 空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。
 普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」

やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。

「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」
「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。
 もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」
「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」
「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。
 圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」

自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。

「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」
「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、
 私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。
 さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」
「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」

手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。
じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。
携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。
エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、
この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。
温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.03℃と表示されていた。
その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは感じ取れるが、
他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。
温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。
室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。
その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。
……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、
一部が冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。
ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。
その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。
佐天がストップウォッチを見て、ため息をつく。

「2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。
 すみません、あんまり上手くできなかったみたいです」
「いえ、充分ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやってもらうつもりですから、
 記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」
「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」
「ああ、自覚がありましたの」
「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」
「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。
 ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」


光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、
渦は外から力を加えて作ったものではない。
すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、
ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。
数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。
そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。
能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。

「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」
「へー。……言われてみると、そんな気もするような」
「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。
 水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。
 圧縮性流体を扱うものの宿命です」
「はい」
「それよりも、面白いのは別のところですわ。
 渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」
「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」
「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。
 なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。
 そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。
 でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」
「はあ」

光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。

「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、
 その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、
 漉しとり、蓄える機能を持っているということです。
 空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、
 あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」
「熱を、集める」
「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、
 部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」
「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」

そう佐天が茶化して言うと、

「あら、結構真面目に言ってますのよ。
 能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。
 毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。
 部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」

そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。


ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。
4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。

「これ……」
「燃焼試験室ですわ。私が関わっているプロジェクトの一つです。
 より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。
 私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。
 夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」

光子がそう自慢げに言った。
万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、
口には出さなかった。

「えっと、それで何をすればいいんですか?」
「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」
「はあ、分かりました」
「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」
「お小遣い、ですか?」
「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、
 航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。
 貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、
 可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」
「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、
 できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」

恥ずかしげに佐天は頭をかいた。

「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、
 そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。
 とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。
 まずは、実験をやっていただかないと」

その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。

「あれ、入らないんですか?」
「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」

クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。

「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。
 手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」
「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」
「では行きますわ」

光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。
さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。

「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」
「……」

佐天は返事をせずに、渦に集中する。
1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。
いつもの渦の制御失敗とは違っていた。
ボッ、という音と共に渦が爆発する。
青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。

「ば、爆発?!」

思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。
「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。
 炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。
 まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」
「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。
 まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」
「ええ。私もそう思いますわ」

光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、

「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」

なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。

「婚后さん、それってもしかして」

そう言えば、こないだの水着撮影の時に湾内や泡浮と騒いでいた話の中に、
お付き合いしている殿方がどうのという内容が聞こえてきたように思う。
その時はあまり自分に近しい人の話のでもないからと、とりたててアンテナを立てていなかったのだが。


「え? あ、別に大したことではありませんわ」
「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」
「な、どうしてそう思われますの?」

図星だったらしく、目を見開いて光子が焦りだした。

「こないだその話してませんでしたか?」
「ああ、聞いておられましたのね……。まあ、そういうことですわ。
 『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くんです」

しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。

「はー、婚后さんオトナですねぇ」
「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」

ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。
この人につりあう男の人ってどんな人だろう。
あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。
きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、
学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。

「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」

そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。

「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと?
 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。
 毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」
「わかりました」
「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。
 小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」
「はい」
「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。
 貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」
「はい」
「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。
 今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。
 微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、
 夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」
「う……」

微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。

「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、
 むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」
「あー……、はい、頑張ります」
「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」

光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。




その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。
部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。
あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。
だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、
あるいは失敗したときのフォローがきかない。

「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」

そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。
空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。
そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。

*********************************************
ここまで『prologue 12: 能力の伸ばし方』でした。


「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。

「今日は! 断じてさせません!」
不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。
今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。
初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。

「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」

今日の佐天は、今までと違っていた。
佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。
一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。
だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。
螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。
おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、
ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。

「え、ええっ?」

初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。
人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、
いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、
おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、
これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。

「あ、あ……」

何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。
佐天はもう笑うしかなかった。

「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。
 上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」
「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」

テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。

「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、
 出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。
 そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ?
 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。
 冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」
「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」

初春が膨れ顔でそっぽを向いた。

「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」

アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。

「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」

佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。
その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。
デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、
水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、
有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。

「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」

自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。
「やってみなきゃわかんないよ。
 でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」

どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。
近くには小さい子達がはしゃぎ回っている。


「む……」

今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。

「これはちょっと、難しいかも」
「風、強いですもんね」

初春がそう相槌を打つ。

「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」
「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」

屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。

「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」

噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。
そして一定量が継続的に噴出する。
綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、
佐天は水霧を巻き取った。

「お、お、お……」

一つの口から吹き出る霧の量は知れている。
そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。

「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」

手の上に50センチくらいの大玉ができた。
束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。

「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。
 あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」

佐天の体感では「3倍」だった。
どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。

「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」

初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。

「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」

自分でも試したことがあるから知っている。
初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。
だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。

「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」

生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。

「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」

指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。

「ひゃっ!」

渦は佐天の手を離れ解き放たれる。
なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。
霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。
だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。

「あー、今のは初春も悪いと思う」
「……何も言わないでください佐天さん」

ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。


「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」
「でも随分と大きく集まりましたね」
「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」
「そうなんですか。なんか、
 やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」
「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」

嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、

「きっと佐天さんには才能があるんですよ」

本心でそう言った。

「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」
「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」

初春はまっすぐ上を指差した。

「アレって……雲?」

天候に直接関与できる能力者は少ない。
理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。

「いやいや初春、天候操作は大能力者<レベル4>以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。
 いくらなんでもそれは」
「試してみませんか?」
「え?」
「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」

初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。
雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、
ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。

「……いけるかも」

佐天がポツリと呟いた。

「え、ええぇっ?!」

初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。
すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。

「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」
「え?」

またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。
どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。

「ぬぅん」

低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。
雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。
それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。

「……あの」
「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」

何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。

「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」
「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」

大能力者への道は、果てしなく遠い。


ザァザァと水の流れる音がする。

「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、
 空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」

学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。

「その点は空力使い<エアロハンド>は大変ですわね」
「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」

ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会って、
シャワールームの間仕切り越しに会話する。
この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、
能力の相性がいいことも影響している。
二人は水流を操作に関わる超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。
気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。
必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。
それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。
他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。

「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう?
 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」
「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、
 計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」

液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。
気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。
シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、
そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。
固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、
それに完全に支配される。
つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。
液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、
個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。
光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、
水というのはこの上なく使いづらいものだった。

「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。
 この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」

シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。
そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。
水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。
光子の言う使いにくい分子間力を持つ水を制御することこそ、湾内の能力だ。
泡浮は浮力の制御という特殊な能力だが、
流体が関係する能力だから当然彼女自身もそういった話には精通している。
そして彼女達はレベル3。充分なエリートだった。

「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、
 私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」
「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」

流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを演算するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。
だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。
だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。
そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。

「これだけ流体操作の能力者がいますのに、
 まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。
 どなたか解いてくださらないかしら」

おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。

「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、
 なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」

それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。


シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。
上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。
部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。
コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。
どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。

「ここ、ですわね」

エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。
表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。
ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。
光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。
ほどなくして、扉が開かれる。

「こんにちは、当麻さん」
「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」
「はい、お邪魔しますわ」

光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、
そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。
靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、
ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。

「これが、当麻さんのお部屋なのね」

当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。
当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。
部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。
コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。

「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」

当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。

「今日は何作ってくれるんだ?」
「出来てからの、お楽しみですわ」

相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。
光子は料理の腕を、見せることになる。
食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうが料理には慣れている。
これまでの話から当麻はそう察していた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。
あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。
……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。
勿論当麻は何も言わなかった。

「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ?
 失敗は、多分しないと思いますけれど……」

ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。

「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」

麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。

「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」
「もう!」

失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。


テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。
常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、
光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。

「……いいなあ」
「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」
「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」
「それは良かったですわ」

光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、
危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。
その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。
音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。

「結構練習した?」
「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。
 泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」

光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。
仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。
それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。
その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。
どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。
光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。

「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」
「下の扉を開けたところだ。わかるか?」

光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。

「こちら、ですの?」
「あ、そっちじゃなくて」

別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。

「ありがとうございますわ……あ」

1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。
恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。
屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。

「今からそれ、炒めるのか?」
「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」
「ああ、ごめん」

謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。
光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。
当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。

「あ、すみません」
「ん」

うっかりしていた光子に笑い返す。
光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。
台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見える。
ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。

「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」

火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。

「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」
「光子が可愛いのが悪い」
「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」

中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、
光子に意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。

「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」

そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。

「じゃ、またあとでな」

当麻は笑って婚后の髪に触れた。


軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。
沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。
ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。

「台所はやはり暑いですわね」
「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」

当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。
エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。

「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」
「そうですわね」

時計は11時30分を指している。
朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。
いい感じに空腹だ。
朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。

「はぁー、幸せだ」

ガラにも無い言葉を呟く。

「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」

コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。
同じ部屋で女の子と過ごす。
それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、
後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。
土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。
そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。

「さっきみたいには、してくれませんの?」

甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。

「ふふ、暑いですわね」
「ああ、暑いな」

真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。
抱きついてくるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。
暑いくらいが、嬉しい。

「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」

当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。
ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。
光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。
触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。

「あはっ! もう、当麻さん!」

つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。
光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。

「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」

光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。

「う……」

突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。

「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」
「ねえよそんなの!」
「じゃあ、初めてですの?」
「……うん。光子は、どうなんだ?」
「私だって初めてですわ」

付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。
普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。
いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。
……い、いいよな?
眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。
化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。
薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。
当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。
すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。




――――プルルルルルルル
そんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。



ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、
当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。

「は、はい上条です!」
「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか?
 まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」
「ととと当然じゃないですか!」

電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。

「それで、何の用ですか?
 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」
「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。
 だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」
「はい?」
「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」

最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。

「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」
「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ?
 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」

学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。
ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。

「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」
「上条ちゃん?」
「いえなんでもないです」

この小学生並の身長と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。
逃がしてはくれないだろう。
当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。

「光子」
「聞こえていましたわ」

つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。

「昼からは一緒にいられませんのね?」
「……はい」
「明日からも補習漬けですの?」
「……はい」
「いつなら、お会いできますの?」
「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」
「そうですか」

はあっと、光子がため息をつくのが分かった。

「補習って、皆受けるものですの?」
「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」
「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」
「……ああ」

むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。

「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」


光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。

「み、光子、料理上手いじゃないか」
「褒めていただいて嬉しいですわ」

これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。
カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。
自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。
これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。
手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。
もくもくと、二人でカレーを消費する。

「……当麻さん」
「なんだ?」
「今日はいつ、学校に行かれますの?」
「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」

登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。

「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」

小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。

「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。
 せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」

当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。

「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、
 ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」
「……」

光子はむっとした表情を変えない。

「こないだ、水着をいろいろ着てみたんだろ?
 せっかくだから、プールでも行こうか。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、
 それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」
「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」

ちょっと不安があったらしい。
光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。

「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」
「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」
「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、
 男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。
 今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」
「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃありませんの?」

率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、
その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。
だけど違うのだ。

「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも上等な洋食屋で二千円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ?
 そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」
「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」

光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。


食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。
ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。

「その、光子はこれからどうするんだ?」

言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。

「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、
 部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」
「う……ごめん」
「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」

今なら30分の遅刻といったところだろう。

「まあ、な」
「……寂しい」

ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。
何日も前から努力して用意してきて、
なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。
当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。
だけど構ってもらえないのは、嫌だった。
また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。
当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。

「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」
「はい」

でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。

「光子」

名前を呼ばれた。

「どうされましたの」
「キスしていいか」
「――っ!」

ドキン、と心臓が跳ねた。
そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。
心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。
口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。
光子の教えられてきた貞操観念ではそういうことになっている。
当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。
それなら、あと6年くらいになる。
だが、手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。

「当麻さんの、好きになさって」

恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。

「それは嫌だって、意味か?」

当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。

「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」

こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。

「光子、好きだ」
「私も……」
「私も?」

続きを言うのが照れた。

「当麻さんのこと、すごく大好きです」


呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。
はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。
光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。
当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。



「ん……」


ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、
あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。
当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、
そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。
そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。
当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。

「嬉しい、嬉しい……」

自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。
当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。
ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。

「はあ……」

体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。
それを見て、当麻はドキリとした。

「どうしましたの?」

光子は、その意味を考えてないみたいだった。

「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」
「はあ……って、あっ」

恋人、二人きり、そしてベッド。
二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。

「そそそそんな、私はっ」
「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」

二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。

「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」
「え、ええ。仕方ないですわよね」

何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。
当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。
頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。


――そしてそこで、おかしな光景を眼にした。


「……あれ? 布団が干してある」

自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。
勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。

「当麻さん?」

怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。




ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。




********************************
以上、『prologue 13: 彼氏の家にて』でした。
プロローグは以上でおしまいです。

>>244
誤字脱字等のご指摘ありがとうございました。さっそく修正しておきます。
言い忘れてたんですが>>217もありがとうございました。

>>234
プロットはほぼ出来上がってるんですが、具体的に文章としての書きためはあんまりないんですよね。。。

>>249
そういってもらえてこちらも励みになります。
続き頑張らないとですね

長らくプロローグ部分の改稿にお付き合いくださってありがとうございました。
こちらのスレに投下する話は以上でおしまいになります。
最新部分のアイテムvs美琴たちのシーンは、以下のスレに投下しますので、
どうか皆さんそちらにもお付き合いしていただければと思います。

【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】 part4
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】 part4 - SSまとめ速報
(ttp://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1392442751/)

やっと終わった―

乙でした!

乙っした!!!!

ここは婚后さん好きの聖地か

やっぱりここの作者は超能力と科学知識の説明がうまいな。
難しい理論もなんとなく分かったような気分になる。

きてたか!

乙でした!やああ。うわあ。
あかんやろ。あかんやろ。上条さんもげろ。
つか、こんな青春送りたかった!(尚、これから起こるトラブルは除く)

おひさです。
ss速報vip自体が落ちてたので伸びましたが、
そろそろこのスレは落とそうと思います。
読んでくださってありがとうございました。
引き続き、最新部分を読んでいただけたら嬉しいです。
これからもよろしくお願いします。

乙でした
続きも楽しみにしてます

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