キョン「世界でたった一人だ」(638)
「様子はどうですか?」
「芳しいとはいえない。昏睡の原因が不明」
「長門さんの力を以ってしても、治療は無理でしたか。今のところ生命活動に異常を来していないだけでも、よしとするべきなのかもしれませんが……」
「わたし自身が所有する能力は、然程大きくない。すまない」
「な、長門さんのせいじゃないですよぅ。あたしも、役立たずで……」
「御自分を責めないで下さい。こうなってしまった以上は、誰に責を問うも無意味……いえ、違いますね。根本的な原因を言えば、これは『機関』を発端に起こったこと。僕は、彼にも涼宮さんにも合わせる顔がありません」
「古泉くん……」
「『機関』は全力で彼を守ります。ともかく彼が事態を打開する鍵であることに間違いはありません。根気良く、待つしかありませんね」
・ ・ ・
「キョンくん、いつになったら起きるかなぁ。
寝ぼすけさ~ん、寝ぼすけさ~ん。もう朝だよ~」
「………」
「も、もう少しですよ、きっと!」
「彼が可愛らしい妹さんを残して目覚めない筈はない。僕は信じています。責任感の強い人ですからね」
「……うん、ありがとー。キョンくん、きっと起きてくれるよね。大学行くのずっと楽しみにしてたんだもん」
「………妹さん」
「あたしも信じてる。でも、……さびしいな。――おにいちゃん」
・ ・ ・
「……キョンくんのご両親と、妹さんの様子、どうですか?」
「双方『睡眠』に突入した。今は機関の保護下にある」
「そのことですが、悪い報せです。機関員からも、僅かではありますが脱落者が出始めました」
「そんな…!」
「涼宮ハルヒに近しい者ほど残り得るという仮説は正しそうですが……。いけませんね。超能力者にまで波が及んでしまったら、閉鎖空間の拡大を止めることが出来なくなります。彼の目覚めまで、世界が持つかどうか。
水道、ガス、電気、いずれかの供給が停止する日も近いでしょう」
「……生き延びるために、貯蔵が必要」
「ええ。動かなくなってからでは、遅いですからね。多方面から協力を呼び掛け、機関で準備を進めています」
「でも、古泉くん。今は少し休んだ方が……ずっと寝てないみたい。顔色も、あんまりよくないし」
「神人狩りが、僕の仕事ですから。と、……失礼。交代の時間です」
・ ・ ・
「為すべきが為せない。それって、とても辛いことです」
「そうかもしれないわね。でも、私たちに特殊な力はない。こうして見守ることしか出来ない。そのことを、歯痒く感じるのは、至って標準的な感覚じゃないかしら」
「――私に力があれば――。単なる組織力だけじゃなくって。ダメですね、古泉さんたちが死力を尽くしているのにって思うと、ついネガティブになってしまいます」
「その仮定は、無意味だと、自分で分かっていたんじゃなかった?
第一橘さん、あなたがこの現状に、彼ら超能力者と同じ力を得ていようと思うなら――あなたたちは涼宮さんを仰ぐ者たちであったはず。私ではなく、ね」
「……そうですね」
「今でも、力は私に宿るべきであったと、そう思ってる?」
「わかりません。あたしには……この現状にあって、そら見たことかって、古泉さん達に言いたい気持ちもあったのです。
でも、こんな途方もない、膨大な力を佐々木さんに譲渡してもらうっていうのは……佐々木さんに今の涼宮さんと同じ苦しみを背負わせるのと変わりなかったのかもしれません。
――あたしは、勝手ばかり」
「人間は、いつでも勝手なものじゃないかな? ……私も含めて、きっとね」
どうでもいいが名前を前に入れてくれるとありがたい
・ ・ ・
「今日で、二月め、ですね」
「――そう」
「………まだ電気がきてるのが不思議です。殆どの人は、眠っちゃってるって聞いてましたから」
「機関一派が、供給が絶たれないよう最低限を回している。ただ、」
「ただ?」
「もう、長くは保てない。彼らも限界に近い」
「じゃ、古泉くんは……」
「………彼は眠ってはいない。――ただし、精神状態は悪化している。これ以上は危険だが、彼以外に動ける者がいない。サポートが必要」
「あ……じゃあ、長門さんは古泉くんを見ててくれませんか? 長門さんの力、まだ、有効ですよね?」
「気休め程度の保護なら」
「キョンくんは、あたしが見てます。あたし、それくらいしか出来ないから……」
「――わかった。あなたに任せる」
>>8
演出上の問題なので
すぐ終わります
・ ・ ・
「カウントダウンが始まったか。ふん、澱んでいるな。不快な空気だ」
「――――波動―――大きな力………周囲に――」
「涼宮ハルヒの、か? 自らが撒いた種だというのに、未練は止まないらしいな。未熟な精神に未熟な個体。所詮、器ではなかったということか」
「収束――近づいている」
「木偶なりに感じるものはあるらしい……佐々木を呼んでおくか。現地人の中ではまだ使える方だろう。この男に対しても、涼宮ハルヒに対してもな。
いずれ愚昧な暴君の肩代わりをして貰わなきゃならない。宛がわれる責務には同情するが、僕にとっても必要なことだ」
「この世の、規定を変えるためには。そうだろう、××××××。
―――あなたの遊びを、これで終わらせてみせる」
・ ・ ・
・ ・ ・
・ ・ ・
桜が咲いていた。
少々早いような気がするが満開だ。いつかの映画撮影の折のように、ハルヒパワーの成せる業かもしれん。
前回と違ってシーズン的にはなんら問題ないが、来月には入学式を迎える新入生のために、花弁が突風との耐久勝負に打ち勝ってくれることを祈るばかりである。
日差しは柔らかで、吹き寄せる風も心地よく、空はあつらえたかのように澄み切った青に満ちていた。
勉学の徒の巣立ちに相応しい日和だ。三年間の高校生活を懐かしんで感傷に浸っている面々にも、いい慰めになることだろう。
俺はペダルを漕いでいた。踏みしめるスニーカーの先は、なかなかの重量感だ。卒業式だからと自分でアイロンをかけさせられた、開襟シャツの下にじっとりと汗を掻いた。
暑いのは気候のせいだけじゃない、どちらかと言えば俺の腹回りをしかと抱いている、二の腕の温もりの存在が大きい。
後部に跨り、俺にしがみついている女。
涼宮ハルヒだ。
「キョン、ほら、もっとスピードあげなさい!」
「無茶言うんじゃ、ねえ……よっ!」
全く、こんな日まで肉体労働するはめになるとは思わなかったぜ。溜息は噛み殺して、前景を見据える。
クラスメートと挨拶を交わして回り、三年間世話になった文芸部室の大掃除まで済ませて、帰途につこうというときだった。団長殿が最後まで平団員のままであった俺に、居丈高に命じなさったのである。
「自転車ここまで持ってきて、あたしを後ろに乗せてきなさい!いいわね!」
どういう意図かと思えば、指定されたコースは景観が見事なことで有名な桜並木を辿っていた。花見が魂胆かと一度は納得したものの、それならば長門や古泉や、既に卒業済みの朝比奈さんを誘っても良さそうなものだ。
どういうわけかと考えたが、ハルヒのビッグバンを常に起こしているような脳味噌の中身など推し量れるわけもない。すぐに思考を放棄した。
――卒業式に二人きり。まさか、という思いがないこともなかったのだが。
「――キョン」
ちょうど並木道の真ん中に差し掛かった辺りで、緊張に微かに震えたハルヒの呼び声。
鼓動が背中越しにまで伝わってくる気がした。想定外の運動に俺の心臓も勢いよく弾みをつけていたから、重なった音がどちらのものかはよく分からなかった。
「なんだ、ハルヒ」
「ん……」
意を決したように、ハルヒが息を吸う気配。
「……あたし、高校に入学して以来ずっと悩んでたことがあんの」
唐突なようにも思えるその台詞は、ハルヒの舌先で何度も転がされた後に、ようやく踏ん切りをつけて吐き出されたもののようだった。
後先考えずに思ったことはポンポン口にして、周囲の人間の心臓をひたすら縮み上がらせるのが得意技の、涼宮ハルヒらしくもない慎重さだ。
それだけ特別な――何か。
風向きが変わって感じた。聴くほうに意識を傾けるせいで、ペダルを漕ぐペースは自然と緩慢になる。
「あんたも知っての通り、あたしは自分のポリシーは裏切りたくない、それをするくらいなら死んだ方がマシだと思ってる。誰にどんな文句を言われたって蹴飛ばしてやろうって、これでも懸命に生きてきたつもりよ」
『懸命』ね。そんな慎ましくひたむきな響きが似合うような大人しさはなかったと思うが。言い換えて、横暴、傍若無人の方が正しいような気がするぜ。
ぼやいた俺に、ハルヒは機嫌を損ねるでもなく鼻を鳴らした。
「ばっかね。懸命ってのは、命懸けてんのよ。大人しくてどうすんのよ。体当たりで直線を走っていかなきゃ、その言葉を口にする資格なんてないわ」
見ないでも分かる、唇を尖らせているに違いないハルヒは、俺の背中に胸部を押し付けて、滔々と言葉を吐き出し続ける。
「キョンに会って、皆を引き込んで、SOS団作って、不思議探索や町内パトロールをやって、合宿して夏祭りに励んで。宝探しもやったわね。年中行事は一通り。庶民的スポーツも制覇したわ。
今だから言える。……全部が全部、本当に楽しかった。
宇宙人や未来人や超能力者と会合する機会を逸しちゃって、当初の目的からすると結果は芳しくなかったわけだけど、それ以外に得られた成果は沢山あったしね。
あたしのSOS団は世界中探したってこれ以上見つかりっこない最強、最高の団よ」
「……ああ」
その意見に関しては全面的に同意する。最初から最後まで雑用係のまま昇格し損ねた俺も、心から賛同できるさ。他の連中にとってもそうだろう。
SOS団ほど、とんでもなくトリッキーで、愉快で、心の底から楽しいと叫べる集まりが他にあったら、是非ともお目にかかってみたいもんだ。
でも、とハルヒは声のトーンを落とした。
「そんなSOS団団長としているうちに、もしかしたらって気持ちがあったの。そんな筈ないって気付かないフリして、だけど押し込め切れなくて爆発しちゃって、めちゃくちゃ惨めになった日もあるわ。
なんであたしはみくるちゃんじゃないんだろ。なんであたしは有希じゃないんだろうって」
「………」
「精神病の一種だって、あたしがそんなものに罹るわけがないって思ってた。あたしはそんな『フツー』になりたかったわけじゃないもの。
でも、卒業式で、大学が別れたら今までみたいに一緒にはいられないんだって思って、それなら――あたしは、真っ向から決着をつけるべきなのよ。
齎される答えが何であれね。それがSOS団団長としてのケジメのつけ方ってもんだわ」
ハルヒの熱を帯びた声に、俺はSOS団結成の契機を思い出した。「ないなら作ればいいのよ!」と、爛々とした瞳を真っ向から俺にぶつけてきた、あの始まりの日。
……鈍い鈍いと散々古泉たちに扱き下ろされてきた俺だが、ここまで直接的に捲くし立てられて、それでも事の内容に気付けないような朴念仁のつもりはない。
花見を持ち出したのは俺と二人きりになるシチュエーション作りのためで、恐らくは今並べ立てられた台詞も、前から準備していたもんなのだろう。
まったく、こういう時くらい捻くれずに、素直な打ち明け話にすればいいものを。前置きが何でこんなに長いんだ?
俺は胸が暖かくなるのを感じた。むず痒いような、照れくさい様な気持ちだ。
お前がこの話をしてみせるまでに延々と迷ってただなんて、俺には想像の埒外だぜ。
思いつけば即実行を貫いてきた、気まぐれで向こう見ずな猪突猛進娘、涼宮ハルヒが―――。ベタな想いに一喜一憂して、悩み明かした夜もあったのかもしれないなんてさ。
ずるずると色んなことを保留にして誤魔化してきたのは、俺もだ。人のことは言えないかもしれないが。
「だから、だからね、あたしが言いたいのは――」
ハルヒが怒鳴るように、真正面の直球ストレートで投げ込む。
たった三文字の、決定的なその告白を俺は聞いた。
終点手前にブレーキをかけ、急停車する。止まったのは並木道の最後尾列、小ぶりのソメイヨシノに差し掛かった辺りだ。反動で、回されていたハルヒの腕に力が篭った。
舗装された地面に足を乗せる。
「……キョン?」
恐る恐る、俺の反応を窺うハルヒに、俺は笑みを隠した。
――ドラマのようには決まりきらないだろうことは分かってる。けど、構わないだろ?
18年間の人生で初めてのことなんだ、多少の挙動不審には目を瞑ってくれ。
満開の桜に見守られながら、俺は息を吸う。
サドルに跨ったまま振り向いた先、散り吹く桜の中で揺れた黒髪に見蕩れたが、この際ご愛嬌だ。俺は真っ赤になっているハルヒへの返事を、喉が震えないよう虚勢を張りつつ、精一杯の想いを詰めて風に乗せた。
春が薫っている、目の眩むような清涼な陽射しの中。
―――忘れがたい光景だ。
だがそのとき、本当二ソレデイイノカと、俺は「誰か」に問い掛けられた。
桜を散り散りに舞い上がらせる、突発的な春の嵐に巻き込まれる。
清明そのものだった空が瞬く間に闇の気配を纏い、藍色に早変わりした。まるで時間の経過を記録したビデオテープを早送りしたかのような様変わりだ。目を瞠った。
――そこに、先程まで俺達を取り囲んでいた桜並木は影も形もなくなっていた。
跨っていたサドルも、使い古されて錆付いたフレームも、小川のせせらぎも、白昼のプロポーズ劇も、跡形もなかった。
代わりに現れたのは、かつてに体験済みの光景だ。月が煌々と照らす夜。星屑を集めてばら撒いたような幻想的な天の川。蒸し暑い、夏の気配。
物語の核心にしては地味な舞台装置の、ハルヒの母校。
東中学の、味気ない校庭の真ん中。
そして―――
気位の高い面差しをつんと逸らした、中学生時代の、涼宮ハルヒ。
―――こいつは、『あの日』の再現か?
ハルヒが校庭に白線でメッセージを書き殴ろうとしていた、七夕の夜。俺は朝比奈さんに連れられてタイムトリップを果たし、ある意味SOS団結成の種ともなったのだろう、宇宙人未来人超能力者の存在をハルヒに吹き込んだ。
朝比奈さん曰くは規定事項であった出来事なのだから、俺が気を揉んでも仕方のない話ではあったが、後に思い返しては冷や冷やしたもんだった。俺が余計なことを言おうものなら、それがそのまま未来に反映されていることだって有り得たんだからな。
眼前に広がる光景は、あの夜に酷似している――というより、そのものだった。
俺は過去に舞い戻ったのか?
さっきまでのハルヒはどうなった?これは現実なのか?
……と、溢れかえる疑問符の洪水に思考が呑まれても可笑しくない状況下であったのだが、俺は不思議と、ああもしかしてこいつは夢なんじゃないか、と考えることで逆に落ち着きを取り戻した。
過去を夢見るのは、別段珍しい話でもない。それが強烈な体験であったなら尚更だ。
整合性の取れない出来事がどれだけ変則的に繋がりあっていたとしても、どんな突飛な展開を見せつけられようとも、夢ならば致し方ないと割り切れる。
桜並木でお互い告白を取り交わしたのは、つい最近の記憶だ。多少は浮かれもしたから、夢に見るのもそれほど変な話じゃない。
それに関連付けて、初タイムトリップした記念すべき日、『ジョン・スミス』と名乗りを上げたあの懐かしき七夕の日を思い出す事だってあるだろう。
俺は自らの説に納得し、では出会い頭のハルヒの台詞はなんだっけかと思い巡らせた。
……予想外のことを小さなハルヒに口にされたのは、そのときだ。
「ここであたしを手伝ったら、あんたの人生はその瞬間に決まるわ」
「……何?」
いきなり何を言い出す。こんな台詞は身に覚えがないぞ。
訝る俺を尻目に、ハルヒは淡白な眼で俺を見据えていた。
理性的な、まるで年齢に似つかわしくない平静さを刻み込んだ眼差しが、俺の動きを縫いとめる。
「……あたしを手伝うことで、あんたは途方もない事件に巻き込まれ、命を狙われ、非日常を日常に収めるために奔走することになるってことよ。望む望まないに関わらずにね。
――ねえ、キョン。今なら、後戻りできるのよ。最初っからね。あんたが、あたしを手伝わなければいい。あんたが、あの教室で、あたしに声を掛けなければいい。
そうすればあんたは何に煩わされることもなく、平穏な学生生活を送って、高校を卒業して。何処かの大学を出て、就職して、恋人を作って、結婚して。
ありきたりだけど、皆が享受してるような幸福に生きていける。あたしはつまんないと思うけど、でも、それだってパンピーからすれば、立派な『幸せ』には違いないでしょ?」
「お前……」
これは夢、そのはずだ。
ならばこのハルヒの台詞は、俺の願望、俺の葛藤の産物なのだろうか?
――俺が、かつての選択を、後悔しているとでも言いたいのだろうか。
ふざけてんじゃねえぞ。
「何を言うかと思えば、馬鹿馬鹿しい。この世の何処に、こんな奇跡的体験を、スペクタクルのオンパレードを自分から手放そうって奴がいるんだ。そんな奴には勿体無いお化けが常時襲来するに決まってるぜ。
そりゃあな、偶にしんどいこともあるさ。だが、それだってひっくるめて俺が選んだことだ。俺が、お前や、朝比奈さんや、長門や、古泉たちと一緒にいることを選んだんだ」
「……」
「――俺をあんまり見くびるな、ハルヒ」
涼宮ハルヒは、涙を無理やり堪えるように顔面をくしゃりと、崩れた紙風船の如く歪めた。……こんなハルヒは、俺の初めて見るものだ。
すぐにでも庇護してやらねばならないと使命感を燃やさせるような、胸に詰まる表情だった。幼く華奢なハルヒは、俺をきっと睨み据える。
「…………ばーか」
こんな面して、吐き出す言葉は相変わらず可愛げの欠片もないな、おい。
だがハルヒはそこでくるりと俺に背を向け、「わかった」と物分り良く頷いてみせた。
「しょうがないわね、あんたがそう言うなら。……何とか、あんたが来るまでもう一度踏ん張ってみるから」
――何の話だ?
ハルヒは応えなかった。見えない表情の向こう側を俺は想像するしかない。涼宮ハルヒは短く息を吸い、敬虔な聖職者が祈りを捧げるときの始まりの言葉にも似た、哀願の響きを奏でた。
「キョン。あたしを―――」
………
……
「………お目覚めかい。随分と長い眠りだったね」
見知らぬ天井。――何処かで聞いたフレーズだな。
しゅるしゅるりと林檎の皮を剥く音。連想したのは、エスパー戦隊があったら嬉々として端役のグリーンあたりを拝命するだろう、SOS団副団長のニヤケスマイルだった。
一年の冬、改変世界で右往左往した挙句に、修正された世界で最初に聴いたのがあいつの声だったのだ。よく憶えている。
だが、寝覚めの俺に真っ先に話し掛けたその声は、当然ながら古泉一樹のものではない。
「……佐々木、か?」
「うん。どうやら意識も正常らしい。実に喜ばしいことだ。嘆かわしい話だが、こういったシチュエーションに記憶喪失というベタな属性が備え付けられることは少なくないからね」
視線を巡らす。――すぐ隣に、いた。
椅子に腰掛けて、小さなナイフをすっかり皮の剥かれた林檎に当てている。理知的な瞳も、理性的ながら皮肉めいた微笑も久しぶりだった。
見間違える筈も、聞き違える筈もない。佐々木だ。中学時代から続く、気安い友人。
「……俺はどうしてこうなってる。何故お前がいるんだ?」
佐々木は驚いたように息を呑み、「そうか」と呟いた。
「健常とは言い難い時間を経ているのだから、キミに覚えがなくても無理はないかもしれない。こうやって病院生活を送ることになったきっかけの方も、全く覚えていないかい?」
青と白のストライプの寝間着。衰えた足腰。個室らしい、室内は明かりも点いていないが、窓の外が明るいせいか問題はなさそうだ。
俺は、どうやら長らくベッドの上の住人となっているらしい。佐々木が言うように、疑う余地なくここは病院なのだろう。
鉛を括り付けられたかのように重い全身を伸ばす。
上体だけでも起こそうと試みたものの、まるで力が入らない。
「……大学が始まる前の最後の休みに、皆で集まって不思議探しに出たところまでは覚えてるんだが。……すまん、これ以上は思い出せん。
佐々木、いまはいつなんだ? 俺は事故にでも遭ったのか?」
また階段を転がり落ちたことになってやしないだろうな。―― 前後の記憶が曖昧だ。一体どれくらいの間、俺はこうしているんだ。
「ハルヒたちは――いないのか?」
口にした途端に、嫌な予感が胸中を這った。
俺が何某かを理由に寝込んでいるのならば、佐々木を残してあいつらの姿がないのはどうしたわけなんだ。もう大学が始まってていい時期だと考えると講義か? それとも何か、揃ってイレにでも行ってるのか。連れションなんてハルヒの最も嫌いそうな事だが。
佐々木は手元の林檎を皿に移し終えると、それを食しようとするわけでもなく、無造作に戸棚に置いた。
体勢を変え、俺の混乱すら注視するように静かな眼差しを注ぐ。改まった佐々木の態度に、ハルヒ風に言うならば、俺の不安感は鰻の滝登り状態だ。
>>41
始まってていい→始まってる
イレ→トイレ
佐々木は言った。
「キョン、僕はこれも『彼女』の思し召しに思えてならないよ」
微笑は掻き消え、佐々木は無表情に俺を見る。普段笑みの多い相手が彩りを消すだけで、こうも迫力の出るものだとは思わなかった。
「病院に緊急搬送された後、医者や看護士、または宇宙人的存在であるというキミの友人がどんな手を尽くしても、キミは目覚めることがなかった。キミが最後の頼みの綱だと、一心に期待を浴びていたにも関わらずだ。
それがちょうど三日前になって、奇蹟的に覚醒を果たしたんだ。これほど出来過ぎた話は、物語の上でならばまだしも、現実では中々起こり得るものじゃない。
間違いなく采配は彼女の手によって振るわれたのさ。僕自身としては、キミにそんな役目を押し付けるのは唾棄すべき責任転嫁だと信じているが」
「―――佐々木?」
怒りの火さえ相貌に垣間見えた佐々木は、夢で泣く寸前だったハルヒと同じく、俺の初めて見る類のものだった。だが、佐々木はその感情を、いけないものとばかりにすぐに打ち消した。
「ああ、すまない。いけないね、こういう時こそ平常心であらねばならないというのに。……そう、キミの問いに回答を提示するのは容易だよ。カレンダーさえ指し示せばいいんだ。見てみたまえ」
佐々木の目線が、俺の前方を移動し、小型の棚の上へと行き着いた。後を追った俺は、動物柄に彩られた置きカレンダーがあるのに気付かされた。
一番上のカードは、七月。
赤いサインペンでつけられた×印は、七月四日の上まででストップしていた。
「キミが不思議探索の最中、暴漢に襲われた涼宮さんを庇って負傷、昏睡状態に陥ったのが四月十二日」
佐々木は吟じた。
「人々が次々に倒れ、眠りに落ち、動かなくなるという奇怪な現象がおき始めたのも同時期さ。――しかも驚くべきことに、人は『眠りについた』誰かのことを不審に思うことがないんだ。
ごく当たり前のこととして受け止め、やがてその人も同じように眠りについてしまう。今のこの世界は、時が止まったようだよ」
「………」
俺は唖然として、突っ込みすら忘れた。
何が起きている? 一体何が――
「キミは三ヶ月あまりの間、植物状態にも近しい有様だったということさ。仔細は後で話そう。といっても、僕の知ることがそれほど多いわけじゃない。より詳しい話は朝比奈さんに聞くといい。彼女は今のところ無事だからね。今日も此処を訪れることになっている。
起き抜けに申し訳ないが、事態が深刻であることは理解してもらえたかい、キョン?」
「……俺が寝てる間に、とんでもないことになってるって話だけはな」
正直、頭が通常通りに働いてくれているかと言われたら怪しいが。佐々木が今すらすらと話した数行の現状説明にすら、既に頭痛がしてきた。
夢でないなら――誰がこの悪夢を描いたんだ?
佐々木は理解し難い言葉を並べ立て、俺の反応を見守るように憔悴した笑みを刻んだ。
「今日は七月五日。僕らは世界終焉までの三日間のモラトリアムを、どうにか満喫しなければならない、というわけだよ」
・ ・ ・
――俺は佐々木から一部始終を聞かされたときも、これが果たして現実なのか、それとも夢の中で佐々木に模した自分が繰り出す戯言を延々聞いているだけなのか、そんなことを思わずにはいられなかった。
ああそうだ、現実逃避も甚だしい。だが、三ヶ月も意識不明の寝たきり状態で、目が覚めたら世界が終末を迎えていただなんて、いかにもドッキリショーの札が後ろから表れそうなシチュエーションじゃねえか。
全部が全部、古泉やハルヒの仕込みで、病室らしきここの何処かには監視カメラがあちこちに仕掛けられていて、俺が佐々木から嘘八百を吹き込まれているのを、リアルタイムで奴らが笑って観賞してやがるって寸法だ。
俺の知る涼宮ハルヒなら、いかにも有り得そうな、手の込んだ芝居だろ?
だが夢を疑って頬を抓ろうともしてみても、痛みを生むほど指先に力が入らない。性質の悪い冗談のためだけに、ハルヒが佐々木の協力を仰ぐとも考え難かったし―――何より、俺の過ごしていた時節、記憶で途切れている四月とは、遥かに体感温度が異なっている。
蒸し暑いのだ。春ではちょっと有り得ないような暑さだった。
要するに、俺は佐々木の言を否定できるだけの材料を何一つとして持っておらず、佐々木が入院していたらしい俺にホラを吹くためだけに待機していたとも思えない。
佐々木の話を疑う余地などこれっぽっちもない俺は、信じるしかなかった。己の現状について。世界の窮状について。
佐々木は語り続けた。
「高校を卒業して、キミと涼宮さんが付き合いだしたという話は聞いたよ。遅れたが、おめでとうを言わせて欲しい。――聞き得る限り、キミたちの交際は順調だったそうだからね。
キミと涼宮さんは同じ大学、古泉さん、長門さんは違う大学だそうだね。それでも涼宮さんはSOS団の集まりを継続するため、定期集会を開催した。『不思議探索』という、捻りの効いた恒例行事だ」
大学が始まって二週目の土曜日だった。確かに、その事実を俺は覚えている。
何も新学期の慌しい時期に開催せんでもと思ったが、一月以上探索がないなんて事態は、団長殿には考えられなかったようだ。
「効率を重視し、毎回二つの班に分かれて探索という名の遊覧を行う。実に楽しげだ。僕も一度くらいお邪魔してみたかったよ。……そう、班分けには爪楊枝を使うのだったね。そこでキミと涼宮さんのチームと、長門さん、朝比奈さん、古泉さんのチームに分かれた」
俺達が付き合いだしたことを報せたばかりであったせいか、古泉たちが妙にニヤけていたのを記憶している。朝比奈さんは天使とタメを張れるだろう柔らかそうな頬を桃色にしていらっしゃったし、長門は分厚い本で口元を隠して、興味深そうに俺達を眺めていたっけ。
ハルヒと俺は、何処となく送られる冷やかしの目線から逃れるように商店街に入って、そうして―――
「不審な男が、突如包丁を握り締めて突撃してきた」
俺は身を硬くした。
――そうだ、そうだった。ハルヒと並んで、人混みを抜けた先に立っていた男が居たのだ。
男は、異様にギラついた眼をしていた。
咄嗟にハルヒを庇うように身体が動いたのは、まったく、反射的なものだった。黒瞳が、俺を直ぐに射抜き、ハルヒは俺を見据えながら叫んでいた。
警戒の声は意味を為さず、俺はただ凶刃からハルヒを護ろうと、頭にあったのはそれだけだった。恐怖を凌駕して行動を躊躇わなかった、あの時の俺の脚のことは褒めてやっても良いと思っている。
躊躇いなく突き出された凶器に、胸に走った激痛に身を捩った。刺される瞬間に、俺はどうにも刃物と縁のある人生らしいと思ったが、記憶はそこまでだ。
「……思い出したみたいだね」
「ああ。だが、刺されたとこまでだ。あれから一体どうなったんだ? それにハルヒはどうした、襲ってきた男は……!」
現実味を少しずつ取り戻し、俺は背筋を這うような恐怖を覚えた。
未だによく飲み込めていないのだが、佐々木は人がどんどん眠っていく奇病が流行しているようなことを言っていた。それもハルヒが原因なのだろうか。俺が刺されたことで、ハルヒが何か――途方もない、決定的にヤバい何かを起こしている、ということか?
「キミたちを襲った男は、その場で自殺したらしい。男の素性については、僕は聴いていないんだ。『機関』といったかな、そちらの方で恐らく調べはついているだろうと思うんだけどね。僕の持つ情報は限られていて、それも凡そ伝聞だから確実性に乏しい」
佐々木は声を区切り、ふっと廊下へ続いている扉へと眼を向けた。そうして、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょうどいいタイミングだった。その後の質問は、彼女に聞くといい」
カタン、と軋みを上げて開いた白塗りのドアの隙間から、毛糸のような栗色の髪がふわりと覗いた。
踏み入った細い肢が、躊躇して入り口付近に立ち止まる。
少しやつれ、それでも輝きを失わない宝石のような大きな瞳と、どんな清純系アイドルも裸足で逃げ出すだろう愛らしい顔立ち、健気な表情もセット売りの、SOS団に欠かせぬ未来人上級生。
――朝比奈さんだった。佐々木の「三ヶ月」という言葉を耳したばかりなせいか、随分、懐かしいような気がする。夢では何度も会っていたんだが。
見開かれた大粒のダイヤのような瞳が、俺をはっきりと捕らえ――みるみる盛り上がった涙が、朝比奈さんのシミ一つない白い肌を伝い落ちた。
「キョンくん……っ!」
悲鳴は甘く、朝比奈さんの手は震えている。一度は止まった足が、再び早足に進みだした。今度は佐々木のすぐ隣、俺のベッド間近にまで、よろめくような足取りで辿り着く。
腰を沈めると、ぼろぼろと落ちた涙を拭うことも思いつかずに、朝比奈さんは両手を俺の放り出されていた手に重ねた。
「眼が、覚め…っ…、よかった……っ! ほんとに、ほんとにっ。もう、起きないんじゃ、ないか、って……! キョンくんが、キョンくんが、起きてくれなかったら、あたし……!」
朝比奈さんは咽び、所々つかえながら、よかったを繰り返す。
猛烈に心配をお掛けしていたようだと分かって、よく考えてみれば心優しい朝比奈さんのことだから仲間が何ヶ月も死んだように眠っていれば当然のことであり、そこまで最初の段階で思い至っていなかった俺は正真正銘のアホンダラだ。
「朝比奈さん、すみません。心配をお掛けしたみたいで――」
「んんっ、いいの。ぜんぜ、いいから……。眼を覚まして、くれただけで……!」
「酷いことになってるって、佐々木から聞きました。まだ具体的なとこはよくわかってないんですが」
この朝比奈さんの衰弱ぶりを見て、佐々木の説明を疑うような奴がいたら、俺はそいつの頭を疑うことにしている。
やはり、本当なのだ。何もかも。
「――もう、キョンくんしか、いないんです」
泣きじゃくりながら、朝比奈さんは俺の胸に額を押し付けて、声を振り絞って嘆願した。
「涼宮さんを、たすけてあげてください」
佐々木は、「SOS団同士、積もる話もあるでしょうから」と、俺たちに気遣って退室した。
俺は別に佐々木が滞在していても構わなかったのだが、朝比奈さんの方が、佐々木を前にすると話しにくいことがあるかもしれんので、引き留めるような真似は出来なかった。未来人は色々と制約がきつそうだしな。
後で礼を言っておくことにしよう。――後、なんていう余裕が、俺にあればの話だが。
暫く涙を流し続けていた朝比奈さんは、十分ほどを経過すると落ち着いたようだ。気恥ずかしそうに、俺から身を離した。遠ざかる温もりが若干名残惜しい。
「……ごめんなさい、キョンくん。佐々木さんとお話中だったのに、あたし、取り乱しちゃって」
「あいつは気にしてないと思いますよ。それに俺は朝比奈さんにこんだけ心配掛けて、ぐうすか寝てたらしい自分の方を殴りつけたい気分です」
ほっと緩んだ、朝比奈さんの口元に俺は至福を味わう。朝比奈さんはやはり笑顔が似合うお方だ。泣き顔もたまには良いが、俺としては断然この控えめなスマイルの方を推すね。
「――それより、ハルヒのことなんですが」
「………はい」
朝比奈さんは一時の笑みを収め、真摯に俺を見つめる。
「キョンくんが刺されて、病院に搬送されて、……そのとき、涼宮さんはもういなくなっていました」
「いなくなった……?」
「はい。あたしたちが駆けつけたときには、血だらけで伏せってるキョンくんしかいなかったの。涼宮さんが何処にいったのか、誰もわからなくて……。
キョンくんは手術が成功した後も、ずっと目覚めないままで、身体の何処にも異常がないのに、へんだって話になって。長門さんが、涼宮さんの力の影響じゃないかって。
それから、閉鎖空間が発生して、人が眠り始めて――神人を狩っても狩っても、閉鎖空間が消えないんです。少しずつ、拡大を続けてるの。
何も狩らないでいるよりは、進行を遅らせられるからって、古泉くんたちは日夜ずっと閉鎖空間で戦ってました。キョンくんが眼を覚ますまで、何とか世界を持たせようって」
俺の想像していた以上に、世界は危機的な局面に来ているらしい。俺は絶句する他ない。
三ヶ月、意識のない間に、世界が滅びの道へスタートダッシュしているだなんて、――いや、閉鎖空間が発生しているって話なんだから、滅亡というよりは創生と言うべきなのか。
俺は夢を思い出した。本当二ソレデイイノカと、俺に問い掛けた声。
あれは、お前か?
ハルヒ。
「空間自体が断絶しているの。未来にも帰れないし、連絡も取れません。長門さんも、思念体との接続を強制的に切られてて、個体としての能力もあまり使えないみたい。
涼宮さんを見つけることが、現状を打開する唯一の方法だって、古泉くんは言ってました。涼宮さんが姿を隠したのも、世界をこんな風にしちゃったのも、きっとキョンくんが刺されちゃったからだと思うんです。あのとき、キョンくんが死んじゃったと思って、それで――」
果たしてあいつがそんなタマだろうか? だが思えば俺は、散々朝倉のナイフの餌食になりかけながら、瀕死の重傷を負ったのは一度きりだ。それも改変された世界での出来事であり、規定事項でもあった。ハルヒの認知には全くない話だ。
目の前で知人が思いっきり腹を刺されて、血まみれに倒れていたら、冷静になれないまま死を錯覚してもおかしくはないのかもしれない。
ということはなにか、ハルヒは俺が死んだと思い込み、姿を消し、世の中に絶望して世界崩壊キャンペーンを始めやがったってのか。
それじゃあ、あまりにも浮かばれないだろう。閉鎖空間を必死で処理しようとしてる機関の方々や、未来に帰れなくなった朝比奈さん、能力の大半を封印せざるを得ない長門、巻き込まれた一般人の方々がさ。
「ハルヒは、まだ見つかってないんですか」
「はい。――古泉くんは、少し心当たりがあるようなことを言ってました。でも、キョンくんが目覚めなければ、意味がないって」
「……すぐ、支度します。古泉のとこに行きましょう。ハルヒのやつ、絶対に連れ戻してやりますよ」
見つけたら、いの一番に平手打ちして、抱きしめて帰ってやる。
とにもかくにも、朝比奈さんの話に俺の方針は決まった。
俺は涼宮ハルヒを見つけなければならない。
二時間ほど空けます、申し訳ない
・ ・ ・
朝比奈さんは何処かに携帯で連絡を取り、その後、「ここを出ましょう」とか細く告げた。緊張していらっしゃるようだ。
朝比奈さんの重荷を、できるなら俺が全て肩代わりしたい。だが俺は覚醒したばかりで、現状の知識も碌なものではない。
朝比奈さんが何を思いつめているのか――恐らくハルヒたちのことなのだろうが、推測するための材料すら持ち合わせてはいないのだ。己の無力が腹立たしい。
俺は自宅から持ち込まれていた私服に着替え、病室を出た。長らく寝たきり生活だったというだけあって、怠った足が覚束なく、何度もけ躓いた。朝比奈さんに支えられて、やっとのことでまともに歩けているような体たらくだ。
体力も削られているようだし、元の暮らしに戻るにはリハビリが必要そうだ。気が滅入るが致し方ない。
一緒に行かないかと佐々木にも訊ねてみたが、「暫くここに残るよ」と佐々木は同行を拒んだ。
「僕は他に行く宛てがなくてね。キミが目覚めるまでの守り人を言い付かっていたわけだが、キミが覚醒した以上、僕に出来ることはもうなさそうだ。
――どうか無理はしないでくれ、キョン。僕は世界の命運よりも、キミの身体の方を案じているよ」
何処までが本気だったのか分かりかねる事を言い放ち、佐々木は病棟の奥に姿を消した。
病院は静寂に沈んでいた。しんとしていて、喋り声の一つも聞こえない。病室で明るい窓の外を見ていなければ、深夜の幽霊病院と勘違いしそうだ。
外界の雑音も皆無。排気ガスをふかす大量の車やら、電車待ちの踏み切りの信号やら、選挙運動のアナウンスやら、世界には雑多な音が溢れていて然るべきだというのに。
世界は、異常な静けさに満ちていた。
廊下を渡る間に、靴音が高く反響するのに居心地の悪さを覚える。
寒々しいのだ。世界に俺と朝比奈さんしか残されていないんじゃないかと錯覚しそうになるくらいの不気味さだったからな。
「……朝比奈さん、これは……」
「皆、『眠って』いるんです。――って言っても、本当の眠りとは違ってて。時が止まったみたい、っていうか……」
朝比奈さんが、行中に通り掛かった病室のドアをそっと開かせ、俺に合図する。
朝比奈さんの手招きに誘われるまま、俺は見知らぬ誰かさんの滞在する一室を覗き込み、見た。
――ベッドの上に、同い年くらいだろう、男性患者がいた。
死んだようにぴくりともしていない。眠っている、のか? 佐々木と朝比奈さんの話を聴いていなかったら、病状が悪化して息絶えた死体だと思ったかもしれん。
「みんな、あんな風なんですか?」
「はい。――ここの病院で起きていたのは、キョンくんが目覚めるまで、佐々木さんとあたしだけ。病院の外も同じなの。今起きているのはほんの少数です」
「じゃあ、俺の両親や、妹は……」
俯いて首を横に振る、沈痛な面差しの朝比奈さんに、俺は眩暈を覚えた。
階段を降り、エントランスを抜けて、病院の外に顔を出す。
久しぶりの筈の陽射しを浴びて、俺は新鮮な空気を吸い込んだ。空は快晴、夢に見た桜並木のワンシーンのようだ。太陽の光は燦燦と降り注ぎ、辺りをくまなく照らしている。
だが――やはり、そこは異様だった。
人がいない。
車も、殆どない。
ガラガラの駐車スペースを通り過ぎ、本道へ続く道路を一望してみても、一台の車も走っていない。
圧倒的な静寂を纏い、世界はそこに存在していた。色つきではある分幾らかはマシかもしれないが、かつて旅した閉鎖空間と何ら変わりない。そこに生きている住人が誰一人として視界に映らないのだから。
こんな光景は、洋画でなら経験がある。街中の人間がウイルス感染して変異しちまって、主人公の男と相棒の犬のみが生きている映画だった。
荒廃したニューヨークを流離って、同胞を捜し求める男。一種の世の終末を扱った話だ。
俺には朝比奈さんがいる。佐々木だっている。聞くところ、古泉も長門も無事らしい。
だから、あの映画の主人公のような孤独と悲嘆にはまだ遠いどころか、十倍くらいは俺の方が幸運だろうが――それにしたって、俺の想像力はまだまだ甘かったのだろう。
佐々木の諦念を、朝比奈さんの怯えの意味を、俺は世界を目の当たりにしてやっと実感したのだ。脳髄の方の出来の悪さは自覚してるが、共感能力も退化させたら俺の中には何も残らない。情けないことこの上ないね。
世界が終わるまでのモラトリアム。
その経過を見つめ続けてきた佐々木や朝比奈さんは、より身に染みて感じているのだろう。いつ終焉するとも分からない恐怖。明日は我が身かもしれない恐怖。
俺を支えてくれている朝比奈さんの手に、俺は掌を添え、そっとその指先を握りしめた。
朝比奈さんを安心させようと思ったわけじゃない。もっと酷い理由だ。――俺が、安心したかったのだ。ここにはまだ仲間がいるのだと、その温もりに心を落ち着かせたかった。
朝比奈さんは驚いたように俺を見、だが何を咎めることもなく、優しく微笑んでくれた。何処か、悲しさを湛えた笑みだったが。
朝比奈さんと連れ立って、俺は古泉が滞在しているという長門のマンションに向かった。
交通機関は完全にストップしており、徒歩で行くしかないのが辛いところだったが、贅沢は言ってられない。
こうして隣に朝比奈さんがいること自体が、ひょっとしたら奇蹟的な事なのかもしれないのだから。
………
……
長門の高層マンション。
降りかかったサイエンス・フィクション的事件の解決の糸口を、常に与えてくれるのが此処だった。俺にとっては聖域に等しい場所だ。
困ったときの信頼度で言えば俺の家以上、下手をすると文芸部室以上を誇る、宇宙人・長門有希の根城である。
自販機で購入した水を摂取し、無人のコンビニで保存の効く食糧を選んで腹ごしらえをした。金はちゃんと置いた。誰も見ていないとはいえ、盗難は躊躇われたからな。
休憩を取りながら、えっちらおっちらと三時間ほど歩いたろうか。出掛けの時刻は見ていないが、恐らく今は昼を過ぎた辺りだろう。
結局、道中に出歩いている人間を見掛けることはなかった。本当に、街中の人間が眠ってしまっているのだ。
さながら眠り姫の童話の中の世界だった。「姫君」が百年後に目覚めても寂しくないように、御付の者たちも茨の中に眠らせましょうってヤツだ。
姫は寝たきりだった俺で、魔法使いはハルヒか?
おぞましい想像だ。ちっとも笑えやしねえ。
見慣れたそのマンションに辿り着く頃には、体力不足も相俟って、俺は疲労困憊していた。朝比奈さんも、はあ、ふう、と荒く息をついている。天気が晴れやかなのは良いことだが、陽射しの強さは考え物だ。帽子を被ってくるべきだったな。
交通機関が麻痺している分、常日頃、自分たちがいかに乗り物に頼ってるかが分かるというものだ。移動手段が馬か徒歩しかなかった、大昔の人の苦労が偲ばれた。今ならご先祖様にも心から手を合わせられそうである。
「そういえば、何で古泉が長門のマンションに?」
待機場所としてなら、こんなに離れた地点に作らなくてもいいんじゃないか。情報を交換するにも不便で仕方ないような気がするのだが。
現に朝比奈さんは、俺の世話のために、佐々木と一緒に病院で寝泊りしてくれていた。
古泉と長門が同じ方法を取らなかったのは何故なんだ?
「……それは……」
口ごもる朝比奈さんの表情は暗い。――あまりよろしくない事情があるのだろうか。
「すぐに、わかります」
朝比奈さんの声に応じるように、一階にエレベーターが到着した。
708号室前まで来たところで、自動ドアのように扉が開いた。
頼もしい姿が出迎えに登場だ。高校を卒業して、もう学生服は身に纏っていないが、私服も馴染んで様になっている。こんな緊迫した状況でさえなけりゃ、「似合うぞ」と褒めそやす言葉くらいはかけられたんだけどな。
背丈も体型も一年時から変化がないが、その感性や考え方はSOS団の活動を経て、多彩に成長していることを俺は知っている。人間味を増した言動、好奇を反映する宇宙のような瞳がそれを裏付けている。
SOS団門番(ゲートキーパー)の長門有希。
俺を満遍なく眺め回した後、長門はようやく一言を漏らした。
―――よかった、と。
たった一声でこんなにも人を感動させちまうんだから、お前は大した奴だよ、長門。
俺が相好を崩しかけると、長門は扉向こうに引っ込んじまい、俺はタイミングを外された形になった。
「照れたんですよ、きっと」
朝比奈さんはぎこちなく微笑んでいる。俺たちは顔を見合わせると、開かれたきりのドアを「入ってよし」の許可証と受け取り、勝手知ったる玄関口を静々と潜り抜けた。
「お邪魔します」という朝比奈さんの声が後ろからついてくる。こんな時も礼儀を忘れないのが朝比奈さんらしかった。
踏み込んだ先では、開けたリビングに長門がぽつんと立っていた。そしてその傍らには、見飽きたと思っていたが、やはりこんな危急時には居合わせるだけで安心感を齎す、超能力者・古泉一樹が座り込んでいる。
俺は古泉が五体満足で、大怪我をしているような痕跡がないことを確かめ、ほっと息をついた。
安堵と同時に拍子抜けした思いだ。案外元気そうじゃねえか。朝比奈さんが深刻そうにしていたから、てっきり閉鎖空間で負傷でもして身動きが取れなくなっているんじゃないかと、無駄に肝を冷やしたぜ。
ともあれ、これでSOS団は、ハルヒを除いて勢揃いというわけだ。俺は一息つき、遠出のために疲れきった足腰をフローリングに寝かせた。
聴きたいことは、正直なところ山ほどある。
肝心のハルヒの居場所に関してもそうだし、閉鎖空間は今どうなっているのか、何か新しく掴めた情報はないのか。
その辺の詳しい事情は、朝比奈さんにもまだ尋ねていないことだ。
SOS団は試練や困難にぶつかっては、何だかんだと一致団結して乗り越えてきた、最高のパーティーだと俺は思っていた。
こいつらがいれば百人力だ。どんな絶望的な場に取り残されたとしたって、何とかなる。――してみせる。
そのための作戦会議に、まず司会進行役として順当な男を呼びつけようと、俺は息を吸い――
「おやおやぁ。お客さん、増えたんですね?」
――俺は最初、その声が誰のものか分からなかった。
調子はずれの、狂った螺子巻きの玩具。そんな印象の声だ。底抜けに陽気で、でも中身はからっぽ。不安定で収まりが悪い、道化師じみた発声。
血の気が引くのを感じた。
「……古泉……?」
俺の呆然としたつぶやきに、古泉は首を傾げ、へらりと笑う。
「ん――それは、僕の名前ですねえ。もしかして、オシリアイでしたか? それは失敬、恐悦、至極です」
「……古泉、こんな状況で冗談はよせ」
「ジョーダンのつもりはないですよ。ありがとうございます。僕のパーソナルに書き加わりますね。なかなかのものでしょう」
「古泉っ!悪ふざけは――」
信じたくない想いばかりが先行して、怒気が入り混じる。俺が声を荒げたのと、長門の制止が入ったのはほぼ同時だった。
「キョンくんっ……!」
朝比奈さんの手が、きつく俺の肩に掛かった。……小刻みに震えている。
俺の腹の底に、どす黒い絶望感が渦を巻いた。
古泉の、無垢な赤ん坊のような茶色の瞳。唇は笑みを作っていても、いつもは他者に読ませないよう計らっている、秘めたる感情が其処には浮かんでいない。
――理解したくないことを理解しちまった。朝比奈さんが憂鬱そうにしていた訳が、これだったのだ。
「閉鎖空間に長期間滞在したことによる後遺症。……古泉一樹は、『睡眠』から逃れる代わりに、精神を病んだ」
「………っ!」
唇を噛んだ。
何てこった、なんてありきたりな叫びを漏らすことでさえ、この現実を真正面から認めることになるようで忌々しく、遣り切れない。
古泉は、常にポーカーフェイスで、演説好きの超能力者だった。
ひとたびハルヒ絡みのアクシデントが発生すれば、解決のために奔走するのは大概俺と古泉、長門だ。
「機関」というバックアップを擁しての古泉の立ち居振る舞いは、ある種の安定を俺たちの団に敷いていた。長門が外敵から俺たちを護る防壁だとするなら、古泉は土台を保持するための支柱の一本だ。
どんな状況にあっても、こいつだけは冷静さを失うことなどありはしないと、俺は心の何処かで信じていた。
それがまさか、こんな形で。
「古泉一樹は超能力者。涼宮ハルヒの閉鎖空間内に蔓延した、狂気の影響を直に受けた」
「……狂気?」
長門は、微かに首を振る。淡々としているが、気のせいか、そこには古泉に対する哀れみの情が垣間見えた。
「涼宮ハルヒは、恐らく正気ではない。あなたが負傷したことにより、涼宮ハルヒの中に存在した何らかの枷が外れた可能性がある。結果、涼宮ハルヒの能力が暴走し、彼女は自我を保てなくなった。
……閉鎖空間の中は、混沌とし幾つもの歪みを内包している。分析を試みたが、わたしの精神にも影響を及ぼすことが確認されたため、半ばで接続を断ち切った」
長門でさえ解析を断念するほどの閉鎖空間、んなデンジャー地帯で、古泉は神人相手に立ち回ってたってのか。
神人を狩っても狩っても消滅しない、不毛の閉鎖空間で、ただ進行を遅らせて、俺を終末に間に合わせるためだけに――。
俺は、拳を握った。力む腕を床に垂直に保ち、震えを押さえ込む。
「古泉が、ハルヒの居場所に心当たりがあるらしいって話を聞いた。長門は、その場所を知ってるか?」
「――古泉一樹の自我が保たれていたとき、受け取っている」
長門が見下ろす先で、無邪気に笑み此方を見上げている古泉一樹は、容姿こそ古泉の爽やかフェイスだが、雰囲気はまるっきり別人だ。
それこそ、アリとキリギリスくらいの差異がある。しきりに眼球を動かし、落ち着きなく、突拍子もない独り言を呟く。喋る内容は支離滅裂で、わけのわからない解説を得手にしていた以前の古泉以上のわけのわからなさだ。
こんなになるまで、俺の復活を信じて戦い続けた古泉の覚悟を、俺は無為にするわけにはいかない。
……絶対にだ。
「―――教えてくれ、長門」
俺の要請を、長門は一拍と置かずして、受諾した。
・ ・ ・
………閉鎖空間内に、更に生じた小型の閉鎖空間が確認されている。
云わば、二層の閉鎖空間の形成。
拡大を続けているのは外側の閉鎖空間であり、内側の閉鎖空間は現在に至るまで大きさを変化させていない。
外側の閉鎖空間であれば超能力者も出入りが可能だが、内側の閉鎖空間は侵入不可能である。
また、内側の閉鎖空間周辺には神人が複数常駐しており、突破するのは容易ではない。
――涼宮ハルヒが在留しているとしたら、『内側の閉鎖空間』の中である可能性が高いと、古泉一樹は踏んだ。
そして、『内側の閉鎖空間』に入り込むことを涼宮ハルヒに赦される者は、あなたしかいないと古泉一樹は考えている。
あれか
閉鎖的閉鎖空間
>>108
実は元ネタなんだ、すまない
長門の簡潔な説明を受け、俺は古泉の説の妥当性を吟味した。
確かに、モロに怪しい。閉鎖空間内に閉鎖空間が出来たなんて話は初耳だ。古泉たちにとっても、今回が初体験だったに違いない。
ハルヒの失踪に合わせて、今までになかった「内側の閉鎖空間」が生じたのなら、そこにアイツがいる確率は高そうだ。
問題は、本当に俺がその「内側の閉鎖空間」に侵入できるのかどうか。それに、「外側の閉鎖空間」を突破するにも超能力者の協力は必須だろうが、こんな状態にある古泉に俺の誘導役を任せるわけにはいかないだろう。
他に使えそうな超能力者を確保しなきゃならんということだ。
「他にも問題はある」
長門はいたって平静な双眼を俺に向け、条件に付け加えを行った。
「閉鎖空間内は、涼宮ハルヒの狂気に侵食された領域。超能力者ではないあなたが生身で入り込めば、あなたの精神が崩壊する危険性がある」
「……そいつは、どうすればいいんだ?」
「防壁の展開が必要。わたしの力を最大値まで抽出すれば、展開自体は可能。ただし、長時間の維持は難しい。わたし個人の能力では五分の維持が限界」
―――五分、か。
神人の包囲網を突き抜けて「内側の閉鎖空間」に潜り込み、ハルヒを見つけ出し、何とかして正気に還すか地上に連れ戻すかするための持ち時間が、たったの五分……。さすがに心許ない。
最低十五分くらいは欲しいんだが、ないものねだりをしてみたところで、ここで頼りに出来るのは長門くらいだ。
五分で、やるしかないか。
どのみち放っておけば世界が終焉を迎え、作り直された新世界に過去総てが塗り変えられることになるのだ。当たって砕けるならそれまでのことだと、俺は腹を括るべきなのかもしれん。
「閉鎖空間は既にかなり拡張しちまってるんだろ。俺たちに残された時間は、あとどれくらいだ?」
「計算上では、残り二日と十時間。――七月七日の午後23:59をもって、閉鎖空間の展開は完了する」
七夕の夜か。今朝の夢といい、つくづく因縁というものは絡み合って繋がるものらしい。
それとも、これさえもお前のお膳立ての上なのか?
――なあ、ハルヒ。
これいつ頃終わる予定?
寝るに寝られないじゃないか…
「……あの、長門さん」
ふと、黙りこくって俺と長門のやり取りを見守っていた朝比奈さんが、応酬が途切れたのを幸いとばかりに口を挟んだ。
「だれか、来たみたいです。その、ノックの音がさっきから鳴ってますけど……」
俺は廊下側をばっと振り返る。――かん、かん、と金属のドアを打ち鳴らすような音が、確かに連続して響いていた。会議の方に夢中で、全く意識が行っていなかったようだ。
「また増えますか。今日は多いですね、土鍋ですかね。僕はトリコロールを愛好しています、美味です」
「……わたしが出る。あなたたちは此処にいて」
古泉の外れた声を素通りし、長門は無音歩行で玄関へと向かう。俺は一体誰が訪れたものやらと、長門の前方を注視した。
朝比奈さんの話では、殆どの人間は眠りに落ちているということだ。ということは、相手はまだ睡魔に侵されておらず、尚且つ長門の家を知る者に限られる。
心当たりは片手の指で足りる程度だ。
>>125
まだかなりかかりそうです
今で予定の半分くらい
「――吹き溜まりだな」
そうして、その心当たりの中でも『顔を拝むのさえ腹立たしい奴』ナンバー1の声が、朗々と室内に響き渡るに至り、
俺は漫画の一コマだったならば、間違いなく青筋をこめかみに浮き上がらせているだろう表情で、のっけから無礼な訪問者を睨み据えた。
迷いもなく、泰然とした足取りでリビングに姿を見せた黒い衣裳の男は、俺の呪いを込めた視線など意に介した様子もない。室内を一眺めし、鼻でせせら笑っただけだ。
古泉がダークサイドに堕ちたらこんな感じだろうか妄想してみたことがあるが、訂正だ。
こいつはたとえ古泉が不法と不正の蔓延る闇の稼業に転身したとしても、その古泉の二十倍くらいは禍々しい笑みを履いている。よって性格も悪い筈だ。比べるまでもなくこっちの副団長の圧勝だ。未来人勝負なら同じ土俵にも立てやしないさ。
>>144
書けるとこまで書いて、(多分午前五時前くらいに力尽きると思うので)
そこまでで終わらなければ仮眠を取って、昼過ぎくらいから再開できたらと。
五時前までに終われれば一番なんですが。
俺はせいぜい嫌悪の表情を繕い、藤原とかいう偽名を名乗っている未来人と向き合った。
「……何の用だ、藤原。ここはこっちのSOS団の仮アジトだ、お前たちに貸すスペースは置いちゃいないぜ」
長門も素直にこんな奴を入れなくてもいいぞ。同じ部屋の空気を吸っても不快になるだけだ。
吐き捨てた俺に、いけすかない未来人野郎はクッ、と皮肉げな笑みを零す。格好つけるような仕草が中々様になっているから、尚腹立たしさも増すというものだ。
「珍しく意見が合致したな。僕個人としても、この澱んだ空気の中に一秒だって身を置きたくはない。――だが、仕方がないんだ。僕は僕でアンタ達に用がある。おいそれと追い出されるわけにはいかないんでね」
藤原は元来た道を振り向き、「周防、来い」と短く呼んだ。
ギョっとしたのは俺の方だ。長門は藤原を招きいれたときからその存在に気付いていたようで、平然としている。敵意が生じた様子もないってことは、長門と周防の間で、何らかのコミュニケーションが交わされた後なのだろうか。
どうやら玄関先で待機していたらしい、光沢のある大量の黒髪がずるずると這い出、茫洋として揺れた。――ボリュームのある頭髪の真ん中からぼんやりと姿を現すのは、整った瓜実顔だ。
周防九曜、天蓋領域。
驚いたことに、その両腕には周防と同程度の身長をした少女が抱えられていた。
「橘さん……!」
朝比奈さんが叫びを上げ、俺はそこで、少女が橘京子――古泉に対する立場の組織の人間であったことを思い出した。
特徴的なツインテールが解けて、ただのストレートになっているから、一瞬誰だか判別がつかなかったのだ。
瞼は閉じられ、傍目からも深い眠りに落ちていることが窺える。……俺は病院で眼にしたマネキンのような男性患者を想起し、息を詰めた。
「橘も、駄目だったのか」
現状、涼宮ハルヒの捜していた「不思議」に近しい人間ばかりが残っているのは明白だ。俺は何の力もない平凡代表だが、ハルヒの知り合いであり、「ジョン・スミス」の切り札を持つ点で例外扱いなんだろう。
橘は佐々木を仰ぐ一派ではあるが、立ち位置としてはSOS団の古泉にあたる。他の誰より早く脱落するとは、予想外だった。
「――此処に来る途中で『眠った』。橘は特殊な能力を佐々木に関して以外でこれといって持たない、ただの組織人だ。順序としては適当だろう」
「……それが仲間に対する台詞か?」
「アンタらがどういう絆を取り結ぼうが勝手だが、僕らの関係に友情ごっこを持ち込まないでくれ。反吐が出る」
ああそうかよ、クソッタレ。
嘲弄する藤原に、怒髪天を突く勢いの俺を、朝比奈さんがおろおろと見ているのが視界の端に映る。……すみません朝比奈さん、こいつばかりは生理的に気に食わないんです。
「そう挑発に乗ってばかりで、よく胃酸を溜め込まないな。その愚直さはいっそ尊敬に値する」
「いちいち厭味を言わないと会話も出来ねぇのか」
「最初に突っかかってきたのはあんたの方だろう。まあいい、僕の本題は別にある。どれだけ直情的に感情論を振り翳しても、こちらの用件を呑まないという選択肢は有り得ない。リターンの大きい条件を、わざわざ提示しに来てやったんだ」
何を言い出すのかと身構える俺に、軽蔑の目線を落とし、つまらなさそうな顔をした藤原は顎で周防を指した。
「……あんたらは閉鎖空間に入るつもりなんだろう。――周防を貸してやる」
周防九曜を―――貸す?
呆気に取られるとはこのことだった。俺は瞬き、まず藤原の発言が聞き間違いではないかと疑った。
互いに敵愾心を剥き出しにしているというのに、わざわざ協力要員を届けに来るなんて、一から十までが厭味と罵倒で出来たようなこの男の行動とは到底思えん。どうしても下心があるんじゃないかと勘繰ってしまう。
俺は低く唸った。
「……どういう風の吹き回しだ。何を企んでる」
藤原は俺の反応などとうに見通していたようで、嘲りを深めただけだった。何度受け応えてもムカつく野郎だ。
「――どうもこうもない。僕自身、未来に帰ることが出来ないのは不都合なんでね。あんたらに助力した方が、滞りなく事を進められると判断したまでのことだ。
そっちの端末と周防が共同で防壁を生成すれば、片方はパワーの出力、片方は構成の維持に役割を分担できる。より長く持続させられる筈だ。
……あんたにとっても、願ってもない提案だろう?」
周防の協力さえあれば、俺はハルヒの閉鎖空間内で五分以上の防壁を得られる。
確かに、魅力的な提案だ。確実にハルヒを取り戻すためにも、『時間』は喉から手が出るほど欲しいものだった。タイムオーバーで揃って発狂なんて事態になったら、目も当てられんからな。
だが、こいつの提示っていうのがどうにも気に入らないのである。橘京子あたりが言い出しっぺなら、まだ大人しく納得出来たかもしれないものを……。
苦慮の挙句に、俺は沈黙したきりであった長門に問いを投げ掛けた。
「――長門、どう思う?」
「受ける価値はある」
拒否を期待して投げてみたものの、長門は冷静な応答だった。利害から見て、適切だと判断した方を俺に伝える。
「……五分の防壁では、成功の見込みは薄い。先程協議したが、天蓋領域の力を利用すれば、最長で防壁持続時間を六十分程度にまで伸ばすことが可能。メリットは大きい」
「協議って、周防とか?」
「そう」
何時の間にやらだ。――まあ、同じ宇宙人的存在であるのだし、電波や信号で意思疎通が叶うのかもしれないが。
俺は嘆息した。感情に惑わされて利を喪い、ハルヒも連れ戻せないなんてことになったら、俺はただの大馬鹿だ。多少の憎み合いは飲み込むべきかと己を宥める。
「まさか、こんなに明々白々なリスク管理にさえ迷うとは……。呆れたものだな。あんたは類人猿か?」
「―――煩えっ!」
妥協の姿勢を見せた途端にこれだ。
ともかく、こいつとソリが合うなんて事態だけは、天地が引っ繰り返っても訪れやしないに違いない。
・ ・ ・
議論の結果、周防と長門は二人で防壁に必要な情報を補い合いながら構築することになった。これで閉鎖空間内に滞在するための『時間』の無さについては解決したわけだが、まだ残っている肝心要の部分にぶつかり、俺たちは再び頭を悩ませるはめになった。
古泉の他に、超能力者が居ないのだ。
「古泉の代わりになりそうな超能力者は、本当にもう一人もいないのか?……機関はどうなってるんだ」
「機関の構成員の殆どは、『睡眠』、または古泉一樹と同じく精神を病み行動不能。現状、動ける超能力者は古泉一樹のみ」
「――ならば、話は簡単だ。この男しか行ける者がないなら、この男に行かせればいい。何の不都合があるんだ」
「藤原、てめえは黙っとけ」
俺の一喝に、藤原は片眉を上げ、珍しく反駁もせずに俺の言葉に従った。討論になるのが面倒くさかっただけかもしれないが、茶々を入れる奴がいないだけで大助かりだ。
「長門。周防。お前たちの力で、閉鎖空間に侵入することは出来ないのか」
「出来ないことはない。だが、本来閉鎖空間は超能力者しか踏み入ることを許されない領域。彼でなければ侵入は難しい。また、侵入の際に防壁の精度が落ちるだろうことが懸念される。推奨はできない」
「そうか……」
すみません、眠気で頭が回らなくなってきました
予定より早いですが、一旦落ちようかと思います
落ちたらまた立てますので、保守してくださってる方は無理をなさいませんようにお願いします
眠かったら寝てください
それでは、失礼します……
1です、保守ありがとうございます…!
申し訳ないですが、家族の分も昼食を作らねばならなくなってしまったので
きちんとした再開が13時を過ぎるかもしれません
料理まで短い時間ですが、投下します
長門が推奨できないと断じる以上、やはり別の超能力者に来て貰うのが望ましいのだろうが、八方塞だった。
俺は話を聞いているのかいないのか、にこにこと純真に此方を窺っている、まるで子供に還ったかのような古泉に視線を移す。
閉鎖空間でハルヒの狂気に中てられた古泉を、またしても閉鎖空間に向かわせるなんて案は論外だ。考慮に値しないと脳内会議室から閉め出し、屑箱に投げ捨ててやりたい。
藤原の言う通り、他に有効な人材がおらず、それがこの状況においては採用せざるを得ない案だと頭では理解しているから、余計にだ。
――畜生。俺は歯噛みした。
嫌だ嫌だと駄々をこねてるばかりじゃ、もうどうにもならない段階だってことを自覚しろ、俺。
わかっている。最善の策が何かなんてことは、俺にだってもう分かっているのだ。だが――
「閉鎖空間に行きたいんですか」
いつだってこの古泉一樹の言葉は神出鬼没だ。
俺は眼を剥いた。それは俺が今日このマンションを訪れて以来、初めて聴いたと言っても過言ではない、古泉の「意味の通じる」問い掛けだった。
「古泉……!」
「虎穴に入らずんば竜を得ることもまた能わずです、僕も飛べます。幸福、安寧、成就。あそこは好きではありませんが、連れて行くのは容易いでしょう。目指すのは家内安全、必要でしょう?」
にこ、と微笑んだ古泉は、歯車の一つが外れて何処かに転がり落ちてしまったのだとしても――確かに俺たちの、古泉一樹だった。
「彼は、その精神性の総てを喪ったわけではない。……残存している。記憶の隅に、わたしたちのことも」
「……ああ」
長門の言葉を、俺は噛み締めた。
ハルヒだけじゃない、きっと元のお前も取り戻してやる。俺は誓い、少しばかり泣けそうな気分で、古泉の頭を撫でる様に掻き回した。
俺たちのやり取りを睥睨していた藤原は、はっ、と気に障る笑い方をする。笑みも憎々しげで、俺たちの何もかもが侮蔑の対象と言わんばかりだった。
「茶番は済んだか? ――いかに美談に仕立てようと、僕を怒鳴りつけておいて結局この男に行かせることに変わりはない。無策にやっと思い至ったのは成長だが、底の浅さが知れる」
今回の藤原の挑発に関しては全く正論で、俺は反論すらできない。虫が良いことばかり口にしていたことは、重々承知していた。
行かせたくない、だが古泉に頼まなければ、神人を相手取っていた古泉の孤軍奮闘すら無駄になっちまうのだ。どちらを取るかと言われたら、俺は世界創生を見過ごすより、今の世界を保つために行動する方を選ぶ。
それが『この世界が割と好きなんです』と語っていた、古泉一樹の望みでもあることを俺は知っている。
では、重ね重ね申し訳ありませんが、昼食のため一旦席を外します
13:30には戻れると思います
俺のだんまりを見下ろしていた藤原は肩を竦め、腕組みを解くと、そのまま踵を返した。
出際に、円状に座り込んでいた俺たちを肩越しに一瞥する。その視線が朝比奈さんを一時捉えて留まったように見えたが、見間違いだろうか?
「僕の用事はこれで終わった、室内の毒気に中てられないうちに退散するとしよう。周防と橘は置いておく。二日後にまた来る」
付き合いきれない、という感情が色濃く出ている声だった。敵意を隠さない態度は分かり易い。
こっちの都合を一つも聞かずに言い捨てると、言ったもん勝ちとばかりに藤原はさっさと部屋から出て行った。
此方としてもあの顔を見なくて済むのは清々するが、二日後っていうのはどういうことだ?
「出来得る限り周防九曜と波長を合わせるため、防壁の構成に二日を費やす」
俺の疑問をフォローしたのは長門だ。
「じゃあ、閉鎖空間に突入できるのは七日ってことか」
「そうなる」
七日はワールドエンドのカウントダウン、残高1だ。何もかもギリギリだな。藤原の発言からして、あいつは端からこの事を知っていたようでもある。
見計らったように此処を訪問した事といい、藤原に対する不信感は変わらずに燻っているが、状況が状況だ。あいつの思惑に関しては、また改めて考えることにしよう。
「わたしと周防九曜は、これから暫し情報結合を行う。わたしたちが封鎖を解くまで、寝室には立ち入らないで欲しい」
長門の真っ向からの請願に俺は肯く。
ただし、と長門は、黒曜石の瞳をひたりと俺に据えた。
よく出来た銀細工のような睫毛の下に、意思が閃く。
「緊急の場合はその限りではない。……何かあったら、呼んで」
「―――呼んで―――」
黒真珠をペースト状にしたような黒髪が、傍でぶわりと広がる。相変わらず不気味だが、今はこの珍妙な宇宙人さえ頼もしさを感じるくらいだぜ。
「頼んだぜ、長門。周防もな」
「了解した」
「――ラジャ――」
周防と長門が二人とも寝室に滑り込むと、ぴしゃりと戸は閉ざされる。防壁を「練る」っていうのが具体的にどういったことなのかは、俺は知らんし説明されても分かりそうにないが、とにかく俺はあいつらを信じて待つのみである。
リビングルームに残されたのは、俺、朝比奈さん、古泉、そして眠ったままの橘。
話し合いの途中、余り参加して来なかった朝比奈さんはというと、フローリングに横たえられた橘に毛布を着せ、髪を丁寧にブラッシングしていた。
誘拐された件もあり、抗争もありで、佐々木グループの面々とは互いに心象は良くない筈なんだが。朝比奈さんは個人的感情で、相手の扱いを粗雑にしたりはしないのだ。
それが朝比奈さんの偉大な所であり、感情に振り回されがちな俺が、彼女に敵わないと心から思う部分でもある。
「煎茶、プーアール、青林檎赤林檎、バファリン。辛気臭いときは、飲むに限りますね。如何です?」
素っ頓狂に跳ね上がった古泉の声に、俺は苦笑した。
「……そうだな、お前の言う通りだ。朝比奈さん、台所借りてお茶にでもしましょう」
考えてみれば、俺たちは病院から此処までを歩き通すという強行軍の後に、ろくに休みもせずに打開策について議論していたのだ。長門が防壁構築を終えるまでの空き時間くらい、茶を飲んで心癒しても罰は当たるまい。
「あ、はい。じゃああたし淹れますね。ちょっと待っててください」
朝比奈さんがいそいそと立ち上がり、何度か立ったことのあるらしいキッチンへと足を向ける。
俺も手伝いますよと声を掛け、腰を浮かせた。
時計の短針が、一回転する。
・ ・ ・
・ ・ ・
・ ・ ・
「――それで、僕に何をしろというのかな」
「簡単だ。この男の傍についてさえいればいい」
「言われる前からその心算さ。僕の家族は既に皆、『眠って』しまっているし――看病し甲斐があるのがどちらかと言えば、僕はキョンの方を択ぶだろう。
だが、解せないな。何故わざわざ、そんな頼み事を僕にしに来たんだい。キミがキョンのことをそれほど気に掛けているとは、到底思えないのだけどね」
「僕自身は、この男に聊かの興味も抱いては居ないさ。僕がこの男に眼を向けるのは、この男が涼宮ハルヒの『鍵』であり、お前が涼宮ハルヒと同じモノであるということに尽きる」
「僕が彼女のような神的能力を有していないことは、先の事件に明らかにされたと思ったが。今更蒸し返す話でもないだろう」
「らしくもない逃げだ。本当は分かっているんだろう? ……あんたは『候補』で、『器』だ」
「………」
「お前が傍にいれば、この男の病状回復は幾らか早まるだろう。器が傍にいるということは、涼宮ハルヒの力を届けやすいということでもある――僕が伝えたかったことはそれだけだ」
・ ・ ・
「佐々木さん、今日はチョコレートプリンを作ってみました。手前味噌ですけど、なかなか自信作なのです」
「ありがとう、橘さん。一日中病院に詰めていると、あなたの持ってきてくれるお菓子が唯一の楽しみと言っていいくらい。同じ風景ばかりを眺めてるせいか、気詰まりしてしまうのは困りものね」
「病院関係者も、殆ど『睡眠』状態じゃ、気晴らしにもならないですね。あたしも毎日来られたらいいんですけど」
「組織の方が大変なんでしょ? 無理はしないで」
「佐々木さんも、根を詰め過ぎないでくださいね。……あら、花が増えてますね。一昨日来た時は見掛なかったのですけど」
「ああ、いつの間にかね。誰かが見舞いに置いていったみたい。――アルストロメリアっていう花なんですって」
・ ・ ・
「佐々木さん、こんにちはぁ。交代に来ました」
「今日は、朝比奈さん。いつもありがとう。濡れタオル、そこに置いてもらえます?」
「はい。お湯の方はまだ熱いので、手を入れるときは気をつけてください。この前言ってた新しい剃刀も見つけてきました」
「なら、私は彼の身体を拭きますから、髭剃りは朝比奈さんにお願いします」
「はい。……え? ふええ、あ、あたしですか…!」
「冗談ですよ。朝比奈さんは本当に可愛らしい方ですね。キョンが自慢したがりになったのも無理はないと思えてしまう」
「か、からかうのはやめてください~」
「あ、アルストロメリア。綺麗ですねぇ。これ、佐々木さんが?」
「いいえ、持ってきたのは私ではないのよ」
「……じゃあ、橘さんですか?」
「さあ。――どうかな。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない」
・ ・ ・
「キョンくん……。本当に、あたしのこと、そんな風に自慢してくれたんですか?」
「あたし、何も出来ないばっかりだから。もし、こんなあたしを認めてもらえるなら」
「――それだけで、あたしは凄く嬉しいです」
「………」
「………目、覚まして……。お願い」
「あたしは未来に帰れなくても構いませんから、だから……!」
「だから……っ!」
・ ・ ・
「――だからあんたが嫌いなんだ、僕は」
「嘆け。そして後悔すればいい。
………もうじき総てが終わり、始動するんだ」
………
……
俺の告白を受けて、顔を赤くして。
それでも別れ際には太陽みたいなエネルギッシュな笑顔を見せていた、お前の姿が忘れられない。
桜の降る、ピンクに染まった視界に、穏やかな触れ合い。
何もかもが順風満帆で、俺は確かに満たされていて、ハルヒだって同じ気持ちだろうと思っていたんだ。
――どうしてこうなっちまったのか。
ハルヒは俺が刺されたくらいで、世界を巻き込んで無理心中みたいな真似をするような、非常識な女じゃなかった筈だ。
寧ろその場で応急手当の一つでもして、自分に出来る最善をこなして、手術の成功を一心不乱に願うのが涼宮ハルヒだ。
生命というものに対してはリアリストで、動揺したからと言って、血を流している俺を放置していなくなるなんて事、通常のハルヒなら有り得ない。
何があったんだ。どうしてお前は、「そう」なった?
「………目が覚めた?」
夢見心地の意識が醒めた。長門の瞳に、俺の間抜け面が映し出されている。
「……って、おお!?」
跳ね起きた。長門は額と額がこんにちはをする前に、素早く衝突を回避してのけている。さすがだぜ、長門。ところで今は何時だ?
「7/7、13:15:42」
長門がすらすらと、体内時計でも飼っているのだろう、俺に正確な時刻を述べた。――昼過ぎか。昨日の夜、何時に寝たか、あまり記憶にないのだが……。
視界に飛び込むのは、白い照明が眩しい、昨日も寝泊りした長門のリビングルームだ。俺の身体にはタオルケットが掛けられており、俺は窓際を寝床にして転がっていたようだった。
周囲を見渡すに寝ていたのは俺一人のようで、朝比奈さんはエプロンを身に纏い食事らしきものを配膳中、古泉はソファでカピバラの縫いぐるみと戯れており、長門は眼前に佇んでいる。その傍らには、周防九曜の姿もあった。
「……もう、済んだのか? 防壁の方は」
「完了した」
長門が、揺るぎない応えを寄越す。――オーケー、長門たちの方の準備は万端整ったというわけだ。
俺は笑った。ここで笑わなければ、何時笑うんだという思いで笑って見せた。
「これで、ハルヒを取り返しに行けるってわけだな。……やってやろうじゃねえか」
すみません、>>1から読み返し入りたいので、書き込み遅れます
今晩(深夜)中に何とか終わらせるつもりではいます
失敗した時のことを考えたら、否が応にも足が竦んじまう。俺が死んで、これまで楽しくやってきた世界が、記憶もろとも消滅する――そんな未来絵図はごめんだ。
悲壮感溢れる顔で、ハルヒに会いに行きたくはない。
成功させる、そのために己を鼓舞する。長門は俺の意気を汲んでくれたようで、力強く、肯き返してくれた。
「キョンくん。簡単ですけど、昼食です」
朝比奈さんがお盆を手に微笑んだ。鼻腔をくすぐるのは、丸い器によそわれたコンソメスープの匂いだろうか。皿にはチーズとハムが挟まれていると思しきサンドイッチが並んでいる。
顔が自然と綻んだ。戦前の腹ごしらえとしては、最上級の食事だ。負ける気がしない。
「長門さんのマンションだけは、長門さんが細工をして、まだ電気も水道も通うようになってるから、助かりました。こうやって暖かい料理も作れて」
そういえば風呂も普通に使えたな。あれらは皆、長門の労力の賜物だったらしい。
「――どうぞ、周防さんも、食べてください。古泉くんも」
名指しで呼ばれた周防は、影のように移動すると、音もなくダイニングテーブルに着席した。こいつも長門と同じく飯は食うんだな。
ぬいぐるみから生えている布製の牙の観察に熱中していた古泉は、呼び出しに愉快そうに口笛を吹いた。かと思えば、徐に朝比奈さんに抱き着き、うろたえる朝比奈さんを差し置いて高らかに唄い始める。
ひええ、と朝比奈さんが悲鳴を上げて縮こまるのを見ては、さすがの俺も乱入せざるを得ない。おいコラ古泉、幾ら見境がなくなってるからって、朝比奈さんへのセクハラは、世界中の朝比奈さんファンクラブを敵に回すぞ。
「アサヒナさんは快哉です! 僕として、極上の一夜をあなたに捧げます、マイプリンセス」
「しかもベタベタに口説いてんじゃねぇ!」
この気障ったらしさ、やっぱりこいつ古泉だ。
俺が必死に古泉を引き剥がしているうちに、腹をすかした宇宙人コンビによって「合掌」が執り行われちまい、俺たちは後手に回りながら昼食にありついた。
世界が終わり掛けているなんて少しも感じさせない、和やかな食事会だった。
―― 一歩間違えたら、これが人生最期の食事になることも有り得るんだよな。
野菜のスープに入っていた星型のニンジンを眺めてそんなことを思いもするが、――いや。今は考えまい。
ハルヒを連れ帰り、皆で同じ食卓を囲おう。俺の目指すところはそれだけだ。
「……あ」
朝比奈さんが、長門のおかわりコールに応じて、鍋に追加分を盛り付けに立ったときだった。スリッパを履いた足が床を擦り、逡巡する。
――闖入者だった。
あれ、らしくない表現だな
浮いた かと思ってた
疲れてたら休むのもいいかも支援
>>253
何かおかしかったですかね
指摘あったらお願いします
もうじき夕飯になるので、一旦止まります
色々立て込むので二時間ほど空くかと思います
視線が一斉に集中する。一気に形成された気まずい空気を取り成そうと、朝比奈さんが健気にも声を上げた。
「あ、あの。藤原さんも、食べませんか? もう一人分、残ってるんですけど……」
「こんにちは」もなければ「お邪魔します」もなく、勝手に室内に上がりこんでいた未来人・藤原は、朝比奈さんの台詞に虚を突かれたように瞬いた。
そうして、それなりに秀麗な男の容貌に影が過ぎる。何かを堪えるような――それは、苦悩のような、憤りのような、複雑な感情の入り混じったものだった。
一瞬のことで、注視していなければ見逃すだろう男の変化を目の当たりにした俺は、悪辣なイメージしかない藤原の抱え込んだ「なにか」を、意外に感じた。
――こいつ、こんな顔もするんだな。
それは例えるなら、地元で名の知れた暴走族の頭が実は小動物に目がなくて、河原に捨てられていた犬猫に遭遇しては連れ帰ってしまう、なんてエピソードを聞いたときのような驚嘆だ。
理解不能だと感じていた相手に、人間らしさや、共感の叶う部分を見出し、親近感を得る。
何にせよ、それは藤原が初めて露出した、敵意や悪意や嘲笑以外の感情だった。
藤原は己がしてみせた微細な感情の表出に自覚があるのかないのか、あっさりと普段の態度に戻り、「和気藹々」という単語を親の仇とするように、あからさまに顔を顰めてみせた。
「呑気なものだ。それとも、現地に倣ってはこれを豪胆と感服してみせなければならないのか? 過去の慣習は僕には理解できない」
「英気を養ってんだ。こうなったら、慌てたって仕様がないだろ。俺たちは出来ることをするだけだ。――朝比奈さんのせっかくの勧めを無駄にするんじゃねえぞ、藤原」
スープを啜りながら言う俺の前で、朝比奈さんが残り物のサンドイッチの包みを、そっと藤原に手渡す。跳ね除けるかと思ったが、藤原は無言でそれを受け取った。
珍奇なものを見るように、ラッピングされたそれを眇める。……流石に、この場で食べようという気は起きないらしい。
まあ、捨てるなんて無礼を起こさない限りは、何処で食おうが構わないさ。朝比奈さんの手製をこいつが味わえるのは、これが最後の機会だろうしな。
「……準備は出来ているんだろうな」
サンドイッチから目を離した藤原が、何処か疲れたような声で確認する。スープの最後の一滴までを飲み干した俺は、器をテーブルに戻し、「ああ」と応えた。
「――行くか、長門」
「わかった」
長門も俺も手を合わせ、「ご馳走様でした」を宣し、椅子から立ち上がる。周防九曜も、たゆたう黒髪を宙に浮かせて、俺たちに倣った。
「そういうわけなんで。……留守番お願いします、朝比奈さん」
朝比奈さんはきゅっと唇を噛み締めると、「はい」、と俯き呟く。
「あたし、待ってますから。……きっと皆で、帰ってきて」
「勿論ですよ」
明確に帰る場所が規定されてるってのはいいものだ。朝比奈さんの淹れてくれるお茶が、いつだって俺たちの日常の指標である。
ハルヒ団長を天頂に据えた、栄えあるSOS団を取り戻すために――行こう。
「出発日和ですね。――今日は桜が綺麗でしょう」
暑い夏の空を窓越しに仰いで、古泉一樹が笑った。
・ ・ ・
「外側の閉鎖空間」は既に日本列島を覆いつくしているため、閉鎖空間に侵入すること自体は何処からでも可能であるらしい。
だが、防壁の持続時間が一時間未満であることを考えると、「内側の閉鎖空間」に出来るだけ近い距離から侵入することが望ましい、という長門の弁により、俺たちは坂を上っている。
俺たちの母校、県立北高校に続く、急勾配の坂道だ。
「ここ」
集団登校の引率の先生のように、先方を進んでいた長門が、坂の中途で立ち止まった。やけに半端な位置だが、上りきった場所からの方が近いんじゃないのか?
「接近し過ぎると、侵入を果たした瞬間に神人の猛攻に遭う可能性がある」
「……なるほど」
入った瞬間に、常駐しているという神人の巨躯に踏み潰されたりするかもしれんわけか。そう言われると、ある程度の距離は残した方がいいような気がしてくる。
「手順を確認する」
長門が俺と古泉を交互に見据えた。
「まず、わたしと周防九曜が防壁をあなたに展開する。展開中、我々は他のいかなる動作も出来なくなる。その後のことは、あなたと古泉一樹に任せるしかない」
「わかってる」
俺は深く頷き、古泉は微笑みながら首を傾げる。……まあ、俺が分かってさえいりゃ、平気だろう。
「……次に、『外側の閉鎖空間』へホールを作り、あなたと古泉一樹が共に閉鎖空間に侵入する。古泉一樹の能力で、神人の攻撃を掻い潜り、『内側の閉鎖空間』へあなたのみが侵入を試みる。
侵入に成功してからは、あなたの動き次第。涼宮ハルヒの説得が叶えば、閉鎖空間は自然消滅すると期待される。万が一侵入自体に失敗した場合は、閉鎖空間に待機している古泉一樹と共に帰還。古泉一樹が長期滞在の難しい場合は、わたしがあなたを救助する」
「ああ」
予め話し合っていた段取りはそんなところだ。一発限りの出たとこ勝負だが、これ以上は思いつかなかった。
再確認を済ませると、長門と周防が互いに目配せをしあうように見つめあい、瞬きを増やした。
その瞬きにリンクするように、鈍い光が明滅し、波状となって地に浮かび上がる。
――『防壁』の展開が始まったのだ。
傍目には特撮映画の特殊効果か何かのような青い光だった。波状の光はフラフープのような細い輪となって、俺の身を徐々に包み込んでいく。
ちょっとした変身ヒーロー気分だな、これは。
俺がどうやれば神人に見つからずに北校舎内へ速やかに移動できるかを考えていると、「僕は見届け役だ」と言い張って旅の道連れとなっていた男が、俺の目の前にすっと進み出た。
沈黙したっきりだから、どっかではぐれたのかと思ったぜ。作戦間近になんだ、いつもの悪態なら俺が閉鎖空間から帰ったときに聞かせてくれ。その時なら幾らか心の余裕もあるだろうしさ。
俺の精神的拒否を、藤原は丸っきり無視した。
「……あんた達の段取りには、必要な部分が欠けている。これを持っていけ」
「人の話を聞けよ。……なんだ、これ」
藤原流ジョークか何かか? お前の冗談のセンスは、俺にはさっぱり理解不能だ。それともこれが未来風ってやつなのか。流石にブラックにもほどがあるだろうよ。
俺は藤原の差し出したものを見た。
――大振りの、バタフライナイフだった。
「敢えて知らないフリをしているのか、それとも本当に気付いていないだけか?」
藤原は暗渠のような眼をしていた。
「世界規模の世界創生。眠りに落ちる人間達。閉鎖空間内に在るだけで精神汚染を被るほどの狂気。……本当にあんたは、涼宮ハルヒを取り戻せると思っているのか?
――主観を脱ぎ捨てて考えてみろ。不可能だ。涼宮ハルヒは完全に力の制御を失っている。どんなアプローチを試みようと、届きはしない。暴走のまま朽ちるだけの宿命だ。
世界を救う唯一の方法は、―――涼宮ハルヒを殺すことだ」
「お前………!」
俺は信じ難い思いで男を見返した。こいつ……!
昼食会の時に、青少年らしい感情の振れ幅を見たように思って、ほんの少しだけ見直しかけていたんだが――前言撤回だ。
「ふざけたことを……! んなもん、やってみなきゃ分からないだろうが!」
「その意気で涼宮ハルヒにぶつかるのはいい。だが、駄目だった場合はどうする? 見過ごせば現状の世界は消えてなくなる。あんたは世界と共に心中しても悔いはないかもしれないが、あんたにも家族や知人はいるだろう。彼等にも同じ事を強いるのか?」
藤原は「至って真っ当な提案」の一つとして、俺にハルヒを殺せと言っているのだ。それを理解した瞬間、心の臓が煮えくり返るような熱が、腹の底から噴きあがった。
藤原の胸倉を掴み上げ、額を寄せる。睨むだけで人を殺せるなら、間違いなく俺は目の前の男を殺している。
「涼宮ハルヒを殺した後、力は佐々木に譲渡すればいい。後の処理は僕と橘がやる。そうすれば、一時にせよ力は安定し、世界は安寧を取り戻す。
要は涼宮ハルヒの命を惜しんで世界を崩壊させるか、涼宮ハルヒを殺して世界を救うかだ」
俺は冷静になれ、冷静になれと言い聞かせながら深呼吸し、―――目鼻の近い男の顔に、思いっきり前頭部を叩き込んだ。
藤原がよろめく。俺は全身で荒く息を吐きながら、藤原を突き飛ばした。細身の身体はコンクリートの地面に背中から倒れ込んだが、こいつがどうなろうとどうでもいい。
「黙りやがれこの野郎。これ以上何か言ったらお前をぶん殴る」
「……」
「お前の指図を受ける義理はないんでな。俺は俺のやりたいようにやる。――絶対に、ハルヒを俺のやり方で止めてみせる」
腫れた鼻梁をそのままに、暫く寝転がっていた藤原は、もう俺を見ることはなかった。
弾き飛ばされたナイフは路地の脇に転がっていたが、其方の方すら見向きもしない。視線は果てない青空に向かいながら、独り言のように吐き捨てた。
「――それがあんたの答えか。なら、それでもいいさ。あんたが助言を聞き入れずに後悔することになろうと、僕の知ったことじゃない。好きにするがいい」
「ああ、そうさせてもらう」
俺も藤原を見なかった。……それがこいつと会う最期の機会になるとは、思いもせず。
青い光も収束、防壁の調整も完了。
俺は不思議そうに俺と藤原のやり取りを眺めていた古泉を呼びつけ、閉鎖空間への侵入を頼む。古泉は二つ返事で了承すると、初めての遠足を楽しみにする子供のように、満面の笑みで俺の両手を取った。
藤原にあんなことを言われた所為だろうか。
手応えのないゼリーに包まれるような、言い様のない感覚に身を浸しながら。俺は目覚める前に見た、夢のことを思い出していた。
『しょうがないわね、あんたがそう言うなら。……何とか、あんたが来るまでもう一度踏ん張ってみるから』
あの時ハルヒは泣きそうな顔をしていて、
『キョン。あたしを―――』
あの時ハルヒは、
「――ようこそワンダーランド。アトラクションはグライダーですか、ウォーターフォールですか!」
古泉の盛大な歓声に、俺は閉じていた瞼を開く。
訪れたことは何度かあるから、多少は慣れていたつもりだった。――だが、その閉鎖空間内の光景には、度肝を抜かされた。
あますところなく、万事が濃灰色で統一された世界。町並みなんてものはなかった。視界に映る限りの総てが瓦礫――山も丘もありゃしねえ。
神人の群れに平らになるまで叩き潰されたのか、何処も彼処も、凹凸なんてものは無いに等しかった。廃墟すらも破壊し尽くされ塵に紛れた、荒廃の大地だ。
「終わりの世界、ってやつだな……」
見上げた先に、威容を誇る青白い神人達がひしめきあっている。……北高校舎の、すぐ周りだ。
事前に聞いていた通り、紫色のドーム状のものが神人に護られるように備わっており、あれが長門の言う「内側の閉鎖空間」なのだと知れた。
長門と周防の防壁の効果なのか、特別身体に変異があるということはないが、こっちは時間制限付だ。急がないとな。
手を繋いだ状態で、酷くはしゃいでいる古泉の腕を引いた。この古泉も笑みがデフォルトなのは変わらないが、表情の質がくるくると入れ替わるので、見ていて複雑な気分だ。
元の古泉なら、登頂した富士山が急に噴火しても晒しはしないだろう顔を、好きなだけ見せてくれるのだから。
「――古泉、グライダーだ。終点はあの紫の塊の中。邪魔してくる奴らをよけて、あそこに辿り着かなきゃならん。……いけるか?」
極秘任務とばかりに息を潜めて囁くと、古泉は邪気のない笑顔で、「やってみせます、ヒーロー」と頼もしい返事をくれた。
――だが、実際にやってみると、言葉通りとはいかなかった。
何しろ神人の数が多い。「内側の閉鎖空間」を防護するように囲んでいる奴らだけで、五体はいるのだ。
そいつらが密集して、腕を無造作に振り回し、脚をばたつかせているのである。
すぐ傍から歩いて侵入するという戦法を取っていたら、俺は瞬く間に内臓を吐き出した蛙のようになっていただろう。
突入方法は消去法で空からに絞られたが、其方もまた問題があった。
俺は赤玉にはなれないので、人間型の古泉に抱えられる形で空を飛ぶしかないのだが、そうするとどうしても飛翔力が落ちる。すると、神人の鞭のような攻撃をかわしきれないのだ。
俺の場合、高所から落下しただけで致命傷になり得るため、古泉も安易に放り出せない。俺がどうしても足手纏いになっちまう。
三度の挑戦で敢えなく撃退されるとは、どうしたもんか。こうやって策を練り、試行錯誤を重ねる間にも、俺の持ち時間は刻一刻と減り続けている。
何かを熟考するような素振りを見せていた古泉は、不意にポンと掌を打った。
「……何か、思いついたのか?」
余り期待せずに、しかし藁にも縋る思いで訊ねると、古泉は閃きの電球マークをオプションに加えたような勝ち誇った笑みで、
「難関ですが、昇るより降りる方が早いですね。時間が入り用なら、急いで飛び込みましょう。賭け事は美味です」
……やはり、意味が分からなかった。
その後、古泉のジェスチャーで、どうやら俺を背負いたがっているらしいと判断し、俺は古泉に後ろから乗り掛かった。
赤い光に飲み込まれ、古泉が浮上するのに合わせて、俺の決して軽くない身も浮き上がる。
……詐欺はここからだ。
途端、古泉の身体は猛スピードで、天頂でも目指す気なのかと疑うほど高く高くに上り詰めていき、俺は「懸命に」悲鳴を飲み込むはめになった。
風を切って走る鳥は、こういう視点で空を飛んでるんだな――なんていう感想を抱けるだけの余力があるわけもなく、俺は振り落とされないよう必死で古泉にしがみつくしない。
地面がみるみる遠くなっていくんだが、高所恐怖症だったら確実に失禁するレベルだぞ。
>>1さん
何時位に終わりそうですか?
>>351
思った以上に進みが遅くて、ちょっと分かりません
五時ごろまで書いてみて、終わらなければ明日中になりそうです…
「古泉、お前何処まで……!」
「はい」
上昇がひたりと止まる。――地の果てが何処かも見えん。上空何百メートルだ? 一万くらい越えてるんじゃないだろうか。
灰色の空ばかりが延々と続く、風が吹き抜けるばかりの遥か高み。
俺が恐怖心と焦りを募らせ腕に力を篭める中、古泉がふっと、堪えきれずに笑う気配がした。
懐かしい苦笑だ、そう思った瞬間に鳥肌が立った。
「どうぞ、あなたの思うままに。――御武運を祈ります」
叫ぶ間は与えられなかった。口を開こうとした時既に古泉はその場になく、翼代わりの男を失った俺は、太陽に挑んだ哀れな勇者イカロスの如く宙を落下していたからである。
嘘だろ、おい。
最初はパニックに陥り、無我夢中で脚をばたつかせてみたが、そんなんで空飛ぶ魔法が使えるようになる訳もない。我に返った俺は、途中で自力で何とかしようとすることを諦めた。
古泉も何かしらの意図があって俺を空中に放り出したのだろう。だったら、あいつがフォローしてくれる筈だ。そうじゃなければ普通に死ぬだけであるから、放置ってことはないだろ、さすがに。
……そうして落下し続けた俺は、五体の神人を相手取って引き付け、北高から引き離している赤い光を見た。
鮮やかな舞踏だった。銀色に輝く神人の二の腕を切り刻み、旋回していく。同時攻撃を受けても、上手くすり抜けては反撃している。
地上がどんどん近づいていく中、俺は古泉の狙いを悟った。今、「内側の閉鎖空間」に神人は一体もいない。宙を舞い挑発する古泉を追って、どれもが重い腰を上げ、移動したのだ。
無秩序に破壊するだけの神人ならば、知略は意味がない。だが「内側の閉鎖空間」を護るために設置された神人たちは、接近する者を排除するように動く習性がついている……!
古泉はそこに気付いたのだ。囮作戦なんてものは普通の神人には効かないが、この神人達に限っては効果がある。
閉鎖空間内で古泉は撃墜王だったらしいと、以前森さんに聞いたことがあったが、これを見れば納得の光景だ。
――崖っぷちにも程が在る戦術だが、ここは俺の知る古泉一樹らしいと言うべきか?
俺は真上に上昇していると思っていたのだが、古泉は斜め方向にある程度の距離を移動していたようだ。
俺の落下先は―――「内側の閉鎖空間」の、ど真ん中。
落ち行く中、ぶれる視界の中で古泉を凝視した。何体もの神人に一人で立ち向かいながら、飛翔する赤い光が敬礼のポーズを取っているような、そんな錯覚を覚えた。
俺の身体はそのまま紫の半ドームに激突し―――嵌まり込んだ手足から、ずるりと中に吸い込まれた。
・ ・ ・
――正直な話、死んだかと思ったのだが。
俺は身を起こし、頭を振った。激突した際にかなりの衝撃を浴びたが、怪我をした様子はないから、あの粘膜のような層の入り口がクッション代わりになったのだろう。
古泉の作戦勝ちってことか。「内側の閉鎖空間」が俺を拒んでいたら即死だったろうから、運が良かったと言うしかない。
古泉の安否については敢えて考えないようにし、震える膝を叱咤して立ち上がった。
卒業したばかりで特に感慨も何もない、見慣れているはずの風景を見渡すが、空が紫色なのはやはり不気味だ。
俺は北高の屋上に立っていた。
北高の一部の校舎をすっぽりと覆うように出来ている「内側の閉鎖空間」の内部は、北高のまま変わりがなかった。
ラスボスのダンジョン風に改造でもされていたら、最上階に辿り着くまでの時間を危惧しなければならなかっただろう。ありのまま残されていた母校の姿に、俺は感謝した。
場所が北高なら、涼宮ハルヒが居そうな数箇所を、虱潰しに回ればいいだけだ。
階段を降りながら、俺はハルヒが立て篭もりそうな場所を指折り数え、真っ先に思い浮かんだところへと駆け出した。
俺達が三年間を過ごした、部室棟文芸部室。ハルヒがいるなら、まず間違いなくあそこしかない。
何せあの文芸部室は、涼宮ハルヒにとってのSOS団の総てが結集され、結実した神聖な部屋だ。膨大な物事があそこで生まれ、吐き出され、活動源となった。
依頼表の作成も、文集の編集も、コンピ研とのゲームバトルも、クリスマスの鍋パーティーも。あの場所で行われ、俺達の脳裏に焼きつく、沢山の思い出を形作ってきたのだ。
SOS団団長、涼宮ハルヒが居るべきは、あの部屋の一番奥、三角錐の立てられた、パソコン前の団長専用席の……!
軋む廊下を踏みしめ、息を切らして文芸部室に辿り着いた俺は、ノブを回す仕草さえもどかしく、扉を押し開ける。
何の障害もなく、扉は簡単に俺を招き入れたが、俺はその「何もない」空間を前に、吐き出す言葉を一つとして思い浮かべられなかった。
――――――いない。
息をつきながら、愕然と部室内を見渡すが、誰かが鬼ごっこよろしく隠れ潜んでいることを疑う余地もなかった。
何故なら、隠れようにも隠れる場所がないのだから。
テーブルがない、書棚がない。カーテンがない。
朝比奈さんのメイド服の掛かったラック。人数分の椅子、ノートパソコン。湯飲み。古泉のボードゲーム。長門の愛好していた数冊の小説。カエルの着ぐるみ。置き傘。俺が持ち込んだストーブ。
何一つ、そこにはなかった。空っぽの部屋が広がっていた。
愚かなことに、俺は綺麗さっぱり忘れていたのだ。三ヶ月眠りこけていた弊害だった。そうだ、とっくに俺達は卒業してるじゃないか!
北高SOS団支部は開放され、元の文芸部室となり、その文芸部室も入部部員が居らず消滅したのだろう。だからここは、生活感どころか人の匂いさえ希薄な、空き部屋になっているのだ。
SOS団ではなくなったこの場所に、ハルヒが居る道理はない。
――なら、何処だ? ハルヒは一体何処にいる?
見込みが甘かったと言わざるを得ない。俺は旧文芸部室を飛び出すと、次の心当たりに向けて走り出した。といっても、文芸部室が最有力候補だったために、安心感はかなりランクを落としている。
ここが駄目だったら、今度こそ俺は命が危うい。神人に手間取ったおかげで、三十分近くは優に消費しているのだ。発狂エンドだけは勘弁願いたいが、残り時間の少なさは如何ともしがたい。
全力疾走の甲斐あって、俺は馴染み深い教室へ、数分と置かずに到着した。
1年6組の、俺達の教室だ。
無謀な運動を立て続けに行った脚は限界に近く、ふらつくのを堪えるので精一杯だった。これでハルヒがいなかったら、念仏を唱えるための用意をするとしよう。木魚は何処で借りてくればいいんだろうな。
俺はあるだけの力を振り絞り、木枠にぶつける勢いで戸を開け放った。
整然と並べられた机の中に埋もれるように、顔を伏せた少女が、そこに座っていた。
>>385
すみません、5組に訂正です。指摘ありがとう。
ちゃんと調べてたのに何故間違えたのか(ry
―――いてくれたか。
ハルヒを見つけられないまま終焉を迎えるという、最悪の事態だけは免れたこともあって、俺は安堵の息を漏らした。
ハルヒが座っているのは、出席番号順で並べられた最初の座席だ。俺が一番最初にハルヒの声を聴き、ハルヒに声を掛け、仏頂面で応対されたあの始まりの場所である。
俺がハルヒの前の座席でなければ、俺はハルヒとお近付きになろうとさえ思わなかったかもしれない。俺とハルヒの邂逅は、過去や未来を越え、様々な運命的糸に結びつけられて成り立っている。
黄色いカチューシャに、まだ短くは切り揃えられていなかった黒髪。ストレスを募らせると、机に顔を埋めて不機嫌な顔を隠す癖。
何もかもが懐かしく、この教室内は、あの頃のハルヒを写真に撮って額縁に収めたような光景だ。
俺はハルヒの傍らに立ち、ハルヒの黒髪を掬い取って撫ぜた。
……油断していたのだ。これで終わる筈だと。凶刃に倒れ付しても、俺は死なずにこうして生き延びていたのだという事実をハルヒが知りさえすれば、ハルヒは正気に返ってくれるだろうと―――俺は。
―――ハルヒに触れたとき、俺は総てを見た。
すみません、やはり集中力が続きません
ここいらで寝ようと思います
今夜中に終わる予定だったんですが……
出来れば明日の13時以降にまた再開します
申し訳ない
明日には間違いなく終われると思います
1です、遅れて申し訳ありません
いきなりネットが不通になって四苦八苦してました……
再開します
・ ・ ・
再度瞼を開けた先にあったのは、満点の星空。
初めに思ったのは、織姫と彦星は、無事に再会できたんだろうかということだった。御伽噺の中とはいえさ。一年に一度の逢瀬だ、幸せな一日を営んでもらいたいもんだが。
俺は虚ろな意識をどうにかはっきりさせるために目尻を擦ろうとし、手が砂まみれなのを発見して、使用する部位を汚れていない腕の腹に変更した。
……と、いうかだな。
ここは何処で、今は何時で、ついでに俺は誰だ?
「――あんたって、ほんとバカね」
辛辣な声が降り注いで、俺は甲高い声の持ち主を探しに、眼を細めた。闇の中にぼんやりと浮かび上がる、小柄な少女。顔はよく見えない。
「手伝うなら手伝うで、ちゃんとやりなさいよ。転んでおでこぶつけて気絶なんて、今時小学生だってしないわよ」
むくれた少女の声に、俺は記憶を辿って見る。……駄目だ、さっぱり思い出せんな。
全身が怠い。頭の中で小人が金槌を振るってやがる。
「……悪かったよ。俺は気絶してたみたいだが、お前の用は済んだのか」
「あんた、線引き終わった後で倒れたじゃない。覚えてないの?」
僅かに、気遣うような調子に変わる声色。
ついさっきの記憶どころか、名前も忘失だ。どうしたもんだろう、と言うのは簡単だったが――少女がそれを聞いたら落ち込むだろうと思うと、何となく口に出すのは躊躇われる。
俺が答えを迷っていると、少女は何かを察知したようで、
「―――ごめんなさい」
やけに殊勝な声で、謝罪の言葉を呟いた。
「……なんで謝る? そういうの、らしくないぜ」
俺はこの少女の何を覚えているわけでもないのに、何でこんなことを口走ってるんだろうね。染み付いた習性か何かか?
少女の方は、「だって、」と愚図るように呟き、砂地にしゃがみ込んだ。
「やっぱり、あんたを手伝わせるべきじゃなかった」
「どうしてだ。俺は拒まなかっただろ?」
「頭打ったの、あたしに協力したせいでしょ。
あんたが、あたしの何かを変えてくれる気がしたから、線引きも頼んじゃったけど。
あたしっていつもこうなのよ。何でかしら。他人なんてどうでもいいって思ってた。どうせ味方なんていないって、あたしは世界でたった一人だって。
――でもそれは、あたしには関係ない人間たちのこと、傷つけてもいいって意味じゃなかったのに」
己の手の中から零れ落ちてしまったものたちを悔やみ、自信を喪失したように語る少女が、ひどく痛ましかった。
もっと全速前進で、生命力を漲らせて闊達として笑う様が、この娘には似合うだろうに。
「……まあ、何かに夢中になって外側が疎かになったりってことはあるよな。誰にでもさ。意図しなくても傷つけたり、些細なことで傷つけられたり。――でもそんなのは当たり前のことじゃないか」
少女が、「……そうかしら」と呟くのに、俺は大きく頷いてみせる。
「お前、もしかして慣れてないんじゃないか? 人と付き合うってのは、何かしらぶつかり合いがあったり、思惑があったりするもんだ。それを言葉で補って、分かり合って進む。
――お前はまだ、やり方を上手く知らないだけなんだよ。何かに突っ走ること事態は、そう悪いことじゃない。猪突猛進も、遠ざけられやすい奇想天外も、別の眼で見りゃ長所なんだ。
お前のそういうとこを、好きな奴もきっと居るぞ」
>>512
事態→自体
それに、と俺はこめかみを掻いて、
「俺がお前を手伝って気絶したのは、単に俺がトロいからであって、お前のせいじゃない。
――こんな綺麗な星空の夜に、俺とお前の二人が居るんだから。これだけで、お前が世界にたった一人じゃない証左にはなると思うがな」
――そんな簡単なことくらい、お前だったらちゃんと分かってるだろう?
俺の声に、少女はそっぽを向き、不本意そうに唇をひん曲げた。
「×××のくせに、生意気だわ」
その響きが拗ねたようだったので、俺は思わず笑っちまった。
その奇抜な特性も、何かを見つけたときに光り輝く好奇心旺盛な黒瞳も、風にたなびく黒髪も、百ワットの笑顔も。
俺は知っている。いつからか、ずっと惹かれてやまなかったものたちだ。俺が隣にあって、見つめ続けることを願ったものたちだ。
―――そう、この少女の名前は、
・ ・ ・
消毒液のような匂いが鼻をついた。
蒸気のように霞んでいた思考が、徐々にクリアになっていく。寝返りを打とうとして、上体が動かせないように固定されていることに気付いた。
冷たくさらりとした布地の感触を確かめながら手を滑らせると、そっと柔らかな温もりに包まれる。誰かが俺の手を護るように、握り込んでいるのだ。
ざわめきが耳を通過していく。眼を閉ざしていても分かる、ここには明るく白い光が満ちている。
「――――――――――――――ハルヒ?」
唇を動かし、それなりの声量を発揮したつもりであったのだが、零れた音はごく微量だった。殆ど囁きに等しい。
だが、優しい手の主は、俺の口唇の動きをつぶさに読み取り、しっかりとした返答を遣した。
「そう、あたしよ。――あんた、まだ寝てなさい。一応重傷患者なんだから」
声のみだったが、俺には劇的なリラクゼーションだった。ハルヒが傍に居り、俺の手を握っている、それだけで安らぐものを実感する。
これが死体の見ている一縷の夢、なんて不吉なものでないなら――ここは俺たちの生きていた世界から、地続きの現実である筈だ。
どうやら俺は無事にハルヒを取り戻せたらしい。何がどうなってハルヒの能力が収束したのかが分からないため、据わりが悪いが。
――しかし、重症患者? 俺が?
「そう。三日前、通り魔からあたしを庇って刺されたのよ。下手したら出血多量で死ぬとこよ。ほんと、生きた心地がしなかったんだから。
優秀な医療スタッフに感謝しなさい」
「………そうか」
通り魔ってことは、不思議探索の時の話だよな。
――発言内容を鑑みるに、時間軸が巻き戻っている。ハルヒの世界崩壊騒ぎは、もしや全般が「なかったこと」になっているのだろうか?
後で長門たちに確認を取った方が良さそうだ。俺のみの記憶に留まっているということはないだろうが、念のためにな。
「長門たちは、いないのか」
「ううん、みんな来てるわよ。今、花瓶の水を取り替えにいってるの。――佐々木さんも、今日の講義が終わったら来るって言ってたわ」
この口ぶりだと古泉も一緒で、それも恐らく普段通りの古泉だろう。
何もかもが元の通りに、修正されていると判断してしまって平気だよな。――取り返せたんだよな、俺は?実はこの平穏な情景は幻で……なんて、悲劇にありがちなどんでん返しのオチだけは勘弁してくれよ。
「………キョン?」
ハルヒが訝しげに俺を呼ぶ、ただそれだけの声が胸に染みる。俺はハルヒの掌を離さないようにと、指先を強く絡めた。
引き攣る咽喉から、俺は息を吸う。
「―――ハルヒ。お前に、話さなきゃいけないことがある」
紡いだ小さな声を余すところなく聞き取って、ハルヒは沈黙した。
「ずっと言わなきゃいけなかった。……ちゃんと全部話す。もう、俺たちの間に、隠し事はナシにしなきゃな」
言葉が足りなかった。釦を掛け違え、ハルヒを暴走に追い込んだのは、恐らく互いに想いを尽くすことが不足していたからだ。
俺の伝えた覚悟に、ハルヒもまた、「そうね」と静かな肯定を残した。
「あたしも、あるわ。あんたにだけじゃない、SOS団のみんなに言わなきゃいけないこと」
総てを吐露し合い、知り合って、SOS団が単なる仲良しグループではなかったことが表沙汰になったとき。
俺たちの間にどんな変化が生じるのか、俺にはまだ分からない。
だが、信じている。長門や朝比奈さんや古泉と俺たちとの間に築かれてきた絆が、易々と千切れたりはしないだろうってことを。
何度分断されても、再び手を繋いできたのが俺たちなんだ。蟠りが解ける日は、きっと遠くない。
なあ、知ってるだろ?
例え俺たちの物語にハッピーエンド以外の脚本を用意した奴がいたとしても。―――涼宮ハルヒを筆頭に、その不届き者をSOS団総出で返り討ちにしてやるまでのことなのさ。
本編はこれで終了です。多大な支援ありがとうございました…!
30分ほど置いてから、エピローグ書きます。
物語の背景的な話になるので、ここまででも支障ありません。
乙
藤原ェ…
支援
>>571
なんだか惜しいIDだな
フラグビンビンじゃねーか
藤原ェ…
真の主人公は藤原だったのか支援
超乙
「未来への憧れ」「エキゾチック」「機敏」「持続」「援助」「幸福な日々」
(白)「凛々しさ」
>>1乙
朝比奈さんが好きになれた
ありがとう
あと>>1乙
ほかに面白かったハルヒSSあったら教えてくれよ
>>608
ノドアメってサイトのssは外れがないと思う
刺される→夢(告白の回想→場面変わって七夕)→目覚めて佐々木と話して
刺されたことを思い出す
だと思われ
最後花の前が良くわからないエロい人教えて!
>>618
藤原が黒幕
みくる「どうしてこんなことするの?」
藤原「お前に幸せになってもらいたかったからだよ
言わせんな恥ずかしい」
おお帰ってきた
最後に聞きたいんだけどタイトルは
「涼宮ハルヒの~」だったら何ですかね?
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