ジャン「中秋の名月」(21)

白雲に 羽うちかわし飛ぶ雁の 数さえ見ゆる秋の夜の月

鈴虫鳴く夕暮れ時、ゆっくりと往来を下って行く。時代遅れの革靴は、土埃にまみれている。

見えにくくなった目で、夕陽を浴びて霞む街を見渡した。もう店じまいの時間だ。

とうとう家に着いた。玄関を抜け、歩きなれた階段を上り、自室へと入った。変わらぬ古ぼけた木の椅子、机、寝台。ノックしろよ、などと言っていた頃が懐かしい。それを言う相手も、今はいない……

帽子をドアノブに掛け、ベッドに腰を下ろした。秋の日は釣瓶落としの如く、もう夜の帳は降りていた。

暫くじっとしていると、窓を通して月光が部屋に差し込んできた。無意識に惹かれるよう光の筋を目で追っていくと、それは机に置かれた小さな色褪せたハンカチを照らした。

たちまち時は一転し、少年の日が戻ってきた――

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訓練兵時代

長月も半ばのその日は、朝から雨が降っていた。普段こんな日は気が進まないが、立体機動の訓練だったため、ミカサに良いところを見せようと発奮した。

訓練自体は最高の出来だった。ライナー達を抑え、ミカサに次いで模造巨人を仕留めることができた。だが、先を行く彼女がこちらを振りむくことはなかった。

「これにて本日の訓練を終了する!各自速やかに食堂へ向かうこと!」

毛根に職務放棄された教官が言い放つ。オレの隣にいるのは、相変わらずマルコだ。

「ジャン、今日もすごかったね! どうやったらあんなに上手く飛べるのか教えてほしいよ」

「別にそんな難しいことじゃねえ。お前は右利きだから右手側に力が入りすぎなんだよ」

濡れた体を拭きながら、食堂へ向かう。少年らしい心で、聞こえるようデカい声で喋っているのだが、ミカサは死に急ぎ野郎から視線を移す気配はない。しっとりした髪が、美しかった。

食堂でもいつものメンツと飯を食う。勿論こいつらが嫌なわけじゃないが、たまにはという考えが頭をよぎる。思えばミカサとは綺麗な黒髪だとかいう間抜けな口切りをした会話以来、とくに話していない。

依然として雨はしとしと降り続き、窓に垂れていた。晴れていれば、中秋の名月が拝めるんだが。

就寝の時鐘が鳴り、灯りが落とされた後も、暫く起きていた。弱くなった雨の音に混じって、鈴虫が鳴いているのが聞こえる。

寝冷えして目を覚ましたときには、まだ外は真っ暗だった。少し考えた後、誰にも気づかれないように寝室を後にした。

雨は上がっていた。遠く空を眺め、雲の切れ間を探す。足の向くままに、時鐘がかけられたやぐらへと駆けた。

ハシゴを上り切ると、中秋の名月が典雅に輝いていた。そしてオレは、先客がいるのに気付いた。

墨を流したような黒髪、ミカサだ。

無言のまま、へりにもたれて月を眺めている彼女の横に並んだ。距離は一メートルちょっとくらい。

宵闇のしじまの中、そのまま並んで満月を見ていた。ふうわりと頬をかすめていく風が薫る。

静黙。ほんの少しづつ動きながら表情を変える月。飛燕が空を切った――

「月が、きれいですね」

呟くように自然に口から出た。水を打ったような静けさの中、ほんの少し、彼女は頷いたように見えた。

それからどれほど経ったかはわからないが、ミカサは一言「おやすみなさい」と言うと帰って行った。

さっきまで彼女が居た場所をみると、薄水色のハンカチが一枚落ちていた。呼ぼうとしたが、一寸考えて、やめた。

その後どうやって帰ったかはおぼろげにしか覚えていない。再び意識が戻ったときには、オレは寝台の上で寝ていた。結局それ以降彼女と話すようにもならなかったし、何度も夢じゃないかと思った。だがあのハンカチは、確かにあった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

月光はもはやハンカチを照らしてはいなかった。静謐が部屋を領している。

今彼女がどこで何をしているか、オレは知らない。けれどあのとき、たとえ露の間であっても、確かに彼女と同じ時を共有していた。

寒い夕べに指を暖めてくれる、消えやらぬ炉火のような思い出は、今でも追憶の中の名月として光を放っている。

Finis

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