ホロ「わっちには夢がありんす」 (33)


ロレンス「……」

危うく手にする器を湯に落としてしまうところだった。

ロレンス「それは……初耳だな」

飲んでいるのは決して安物ではないはちみつ酒。
とはいえ、たかが一杯の損を嘆くほど、今の彼の懐は寂しくない。

だからこそロレンスはちょっと驚いていた。

ロレンス「今の生活に何か不満でも?」

ホロ「おっとすまぬ。そう言うつもりではありんせん」

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あえてそう口にしたがそうでないことは分かっている。
こうしてここで時間をともにしていることが、ホロが、なにか不満の種を抱えているわけではないことの何よりの証拠だ。

ロレンス「……」

聞くべきかどうか。

ホロの方から言葉をこぼしたならばとすんなり口が開いた。

ロレンス「客に魅力的な異国の料理でも教えてもらったか」

ホロ「む」

茶化すような言葉に賢狼はくっと鼻を上げ「失敬な」と言う。

そのすぐあとに浮んだ、不満げというよりさびしげな表情が少しだけ気になった。

かつてならそんな姿を見れば「なにかあるに違いない」と構えたことだろう。
そのころに比べて、ずいぶん素直に受け取ろうとする今の自分に苦笑する。


ロレンス「冗談だよ」

雪のかかった亜麻色の髪と、そこに鎮座する威厳と愛しさを混濁とした獣の耳。
ぜんぶまとめて優しく撫でる。

ホロ「たわけ」

ホロ「じゃがたしかに食にもすっかり満足したわけではありんせん」

ロレンス「なにか食べたいものでもあるのか」

ホロ「くふ。とぼけるのかや?」

ロレンス「……とぼけているつもりはないんだが」

ぼけているのはどっちだろうなと言う台詞は飲み込んだ。
夢の話は初耳だが、こちらの話は耳にたこができるほど聞かされている。


ホロ「のうぬしよ」

首に手を回し顔を寄せるホロの口元が妖しく歪む。
いつになっても、裸で身を寄せ合うのには慣れることがない。

ホロ「わっちは楽しみにしておるからの」

と言ってホロは幼い少女のように笑う。

ロレンス「べつに金を惜しんでいるわけではないんだがな」

桃のはちみつ漬けを口にする機会がついぞなかったのは、そう言う巡り合わせだったのだとしか言いようがない。
ニョッヒラ一の湯屋にまでなった「狼と香辛料」の主は、今となっては金貨一枚を崇めることもない。

ホロの方こそもはやそれを求める台詞自体を口癖にしている節があるから、あまり本腰を入れていないというのが本音だった。


ホロ「くふ?」

わざとらしく小首をかしげるのもお決まりだ。

ロレンス「……はは」

ロレンス「けほっ」

そんなホロにごまかすように笑いかけ、そのまま思わずむせ返る。

ホロ「だ、大丈夫かや?」

ロレンス「んん…けほ、わ、悪い」

ロレンス「今日はちょっと甘くしすぎたのかもな」

ホロ「なにを?」

嬉しそうにとぼけるホロの顔に、いっそうむせかえる。

ロレンス「……けほっ」

ホロ「くふふ」

ロレンス「……はあ、まったく」

ホロ「……」

ホロ「ぬしは優しい雄じゃな」

ロレンス「ん?」

ホロ「何でもありんせん」

ロレンス「……そうかい」

それは、いつも通りの幸せなやり取りだった。








居間に戻ると、ホロが暖炉の前で編み物をしていた。
手元に焼き栗が転がっている辺り相変わらずちゃっかりしている。

ロレンス「なにを編んでいるんだ?」

ホロ「できてからのお楽しみじゃ」

ロレンス「そうか」

剥いてある栗に手を伸ばしかけ、編み棒で鋭くたしなめられた。
大人しく自分で剥いて口に放り込む。

ホロ「……」

このところ、ホロは何の用かたびたびどこへともなく姿を消した。
だからこうしてのんびりと時間を過ごすホロを見るとついほっとしてしまう。


ロレンス「けほっ」

ホロ「……風邪かや?」

ロレンス「ん……ああ。かもな」

ホロ「わっちの塩っ気がすぎたわけではなかったようじゃな?」

ロレンス「それもある、けほっ」

咳込んだおかげで物を投げられずに済んだ。

ホロ「……むぅ。のんびりしておる場合ではないの」

小さくつぶやきいそいそと指を動かす。
ホロのそんな様子で嬉しくなる。


冬を迎えるころに、一度体調を崩した。

書き入れ時にごまかしごまかしやっていたつけが回って来たらしい。
ああこんなに動転するホロは旅をしていたころでもあまりなかったなと、病床でぼんやりと思ったことを覚えている。

それ以来どこかひっかかるような調子を引き摺っている。

それこそすっかり元気だと胸を張って言える日を迎えた覚えがない。
そんなことをしようものなら、きっと「たわけ」とホロに頭を叩かれる。


ホロ「早く治しんす」

手元に視線を落としたままホロが言う。

暖炉の火に亜麻色の髪がとろけるようにきらめいている。

ホロ「宿の主はどっしりと構えておらんとの」

ロレンス「……そうだな」

ホロ「まあ、腹回りの方は少し貫禄が出て来たようじゃが」

ロレンス「え」

ホロ「ぬしももう若いとは言えぬな?」

ロレンス「まじまじと見るんじゃない」

ホロ「くふふ」


ロレンス「うちには料理にうるさい賢狼がいるからな」

ロレンス「おかげでいつもつい食べ過ぎてしまう」

ホロ「ほう? わっちのせいにするとはいい度胸じゃ」

ロレンス「ハンナさんがいなければお互いもっとひどいことになっていただろうさ」

ホロ「くふ。それは確かに」

他愛のない会話とともに、静かに夜が更ける。








翌日。
まず来客のないこの時期にそれがあったことを驚き、その正体を知ってなおさら驚愕した。

ロレンス「ディアナさん」

一面銀世界の中にいる黒髪黒装束の彼女は、まさに異彩を放っていた。

ディアナ「どうもこんにちは」

ロレンス「どうしてまた、こんなところへ」

ディアナ「ふふ。ちょっとした気まぐれかしら」

気まぐれでこんな果ての果てまでと思うが、彼女にはそんな疑問を「ああそうですか」と思わず飲み込ませてしまうような凄みがある。

ディアナ「……」

ロレンス「……な、なんですか?」


ディアナ「……」

彼女らしくもない泣き出しそうに歪んだ顔。
それはいつか、ホロが俺に見せた表情そのままだった。

しかしそれも一瞬のこと。
いつだったかを思い出す前に声で思考を遮られる。

ディアナ「ところで、ホロさんはどちらかしら?」

ロレンス「あ、えっと、奥の部屋にいると思いますが」

ロレンス「ホロに用が?」

ディアナ「……」

ディアナ「一人きりで温泉に浸かっても楽しくないでしょう?」

確かに。








ロレンス「ふう」

用を済ませて宿に戻ると、背中から雪玉をぶつけられた。
そんなことをするのはまず一人しかいない。

ロレンス「…痛いじゃないか」

ホロ「くふ」

ロレンス「えっと、ディアナさんは?」

ホロ「もう帰ってしまいんす」

ロレンス「え?」

ホロ「ぬしよ」

近づいて来たホロがそっと服の袖をつまむ。
浮んだいろいろの疑問は、らしくない彼女のしおらしい行動への驚きにかき消えてしまった。

ロレンス「……うん」

ホロ「話がありんす」


ぬしは病にかかっておる。
もう、治らぬ病のようじゃ。


わっちなりに手は尽くしんす。
いや、尽くしたつもり、じゃな。

方々巡って、駆け回って、何か手はないかと探した。

ディアナが来てくれたのもそのためじゃ。
手紙での返事でよいと言ったのじゃがわざわざ足を運んでくれた。
くふ。わっちらは、本当によい出会いに恵まれたの。


……すまぬ。ぬしよ。
わっちには、もう、どうしようもありんせん。


ロレンス「そうか」

ロレンス「……今まで俺のために黙っていてくれたんだな。ありがとう」

ホロ「……ひっく」

泣き笑うホロの表情は普段よりいっそう幼げに見えた。

ホロ「くふ、本当にぬしは年をとったの。わっちが、こうして……泣いておるのに、落ち着きおって」

ロレンス「どんと構えていろと言ったのはホロだろ?」

ホロ「こんなときのことを言ったのではありんせんっ」

ロレンス「はは」


ロレンス「まあ、……何となくは、な」

それになによりホロのことだ、という確信があった。

ロレンス「今日明日で死ぬわけではないんだろう?」

ホロ「……むぅ」

いつだって悲しいほど冷静でこそ賢狼だ。

ホロ「まあの」


目の前でむくれるホロはどう見ても幼い少女で。
俺が年をとり病に犯され、それでもいつまでも幼いままだ。


ロレンス「ホロが残してくれた時間を、大切に使わないとな」

ホロ「んむ」

ようやく少しだけらしさを取り戻し、ホロは元気よく頷いた。

ホロ「それについては、わっちから提案があるんじゃが」

ロレンス「そこまでもう考えてあるのか」

ホロ「まあの。のうぬしよ———」








ようやく雪山を過ぎのどかな街道に出る。
初めこそおっかなびっくり手綱を引いたが、さすがにそれは体が覚えていた。

ロレンス「……」

ホロ「……」

雪が姿を消し、それにつれて徐々に暖かくなって来た。
ホロは、寒くて御者台にはとてもおれぬと、荷台の方で毛布を被ってそのまま眠ったらしい。

ロレンス「……」

ホロ「くふ」

そろそろ手袋を外してもいいかと思ったが、思い直したところで聞き慣れた声が耳に届いた。

ホロ「ぬしは本当に、優しい雄でありんす」

ロレンス「起きていたのか」

ホロ「当然じゃ」

毛布を剥ぎ荷台で一つ伸びをして、それから軽快に御者台へとやって来る。


旅に出ようと言い出したのはホロである。
立派な聖職者になったというコルや、コルに限らず世話になったたくさんの人々に、最後に顔を合わせておくのはどうかと言うホロの提案だ。



もっともらしいがそれが建前であることは、賢狼の耳を持たない俺でも聞いていてよく分かった。


ホロ「……」

ホロ「ぬしよ」

ロレンス「なんだい」

ホロ「わっちにはの、夢がありんす」

ロレンス「いつか言っていた話か」

ホロ「んむ」


ホロ「……」

隣に来たホロが、じっと見つめて来る。

そして、俺の頭の上に手を乗せ優しく動かした。

ロレンス「…恥ずかしいんだが」

ホロ「わっちはぬしに甘えるのが大好きじゃった」

ロレンス「……」

ホロ「ぬしにはたくさん助けてもらった」

ロレンス「俺も、ホロにはたくさん助けてもらった」

ホロ「んむ」

くすぐったそうにはにかむホロの顔には少しだけ影が射している。

きっと今、俺は、彼女と同じようには笑えていないのだろう。


ホロ「もう、わっちは十分ぬしに甘えた」

ホロの方から俺を抱き締めて来ることはあまりない。

彼女に抱きつかれるのではなく、俺は抱き締められていた。

ロレンス「っ……」

ホロが力を込めるほどに、自分が、もう彼女を守ることはないのだと分かる。
こんなにも自分は年をとったのだと痛感する。

そしてホロはいつだってこちらを見透かすようなことを言う。

ホロ「もうぬしも若いとは言えぬ」

ホロ「今度はぬしが、わっちに甘える番でありんす」

ロレンス「……」

ロレンス「はは」


なぜホロが、旅に出ようと言い出したのか、分かった気がした。


ロレンス「ひどいやつだ。宿でのんびり甘えさせてくれてもよかったじゃないか」

ホロ「たわけ。それでは何も面白くありんせん」

ロレンス「ああそうだな」


予め練習したような会話。
最期の最期に、なんてわがままなことだと思う。

それと同時に——こんなときだって素直に賢狼が甘えて来たことを誇りに思う。


ホロ「一人旅では一人ですべてを為さねばならぬ。じゃがわっちらは番でありんす」

ロレンス「ああ。困ったら、連れを頼ればいい」

ホロ「んむ。その通りじゃ」

ロレンス「……まったく」


二人の最期は騒々しく、困難に満ちた旅こそが相応しいのかもしれない。


ホロ「ではぬしよ。まだ少し時間はありんす」

ホロ「気負わず、の。のんびり行こう」

ホロ「あ、それからまずは桃のはちみつ漬けを探すからの!」

ホロの笑顔に曇りがないと言えば嘘になる。
返す俺の笑顔こそ痛々しいものかもしれない。

だが、これはそう言う旅なのだ。

ロレンス「……そうだな」

ロレンス「のんびり、な」


死ぬときにはどうホロにすがってやろうかと考えながら、俺は死に行く旅へと出発した。


おしまい

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