梓「サナララ」 (253)

『地獄への道は善意で舗装されている』


誰の言葉か知らないけれど、
何処かで聞いた事のあるその言葉を、最近、身に染みて感じてる。
別に世を儚むほど年齢を重ねてるわけじゃないし、
世界全体を残酷な物と捉えて、あるのかどうかも知らない地獄を連想してるわけでもない。
この自分の考えが思春期の漠然とした不安から来てるって事も分かってる。
我ながら可愛げが無い性格をしてるなあ、と思わなくもないけど、
これが生まれついて以来、付き合って来た自分の性格だからどうしようもない。

小さく嘆息。
中学三年生の夏休みが終わって、少し経った秋口の空の雲を私は見上げる。
雲は茜色の空に普段通り浮かんでいて、私の考えなど知った事じゃないって様子に見えた。
雲と私の思考が連動してるわけじゃないんだし、
そんなの当然だったけど、それでも何だかやるせなくなって、私はまた少しだけ溜息を吐いた。

雲を見上げながら、夏休み前に友達に言われた言葉が脳裏に響くのを私は止められない。
あの日以来、期を見計らっては耳鳴りみたいに響くあの言葉。
私に何度も何度も溜息を吐かせてるあの言葉が、また私の脳裏に響いている。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの日、一緒に音楽をやって来た友達は、
少しだけ残念そうな口振りで、苦笑しながらそう言った。
中学生になってからずっと一緒に音楽をやって来たのに、あの子は少しだけ残念そうに笑った。
ずっと一緒に音楽をやってたのに……。
ちょっと背伸びして難しいジャズを選んで練習して、
苦労しながら少しずつ確実な演奏が出来始めた頃だったのに……。
あの子は……、そう言って笑った。
少しだけ、残念そうに……。

あの日以来、私はあの子と疎遠になった。
夏休み、何度か息抜きの遊びに誘われる事もあったけど、
受験勉強で忙しいから、と返して、あの子からの誘いは全部断った。
学校で話し掛けられても、おざなりな返事を返す事しか出来ない。
そんな事しちゃいけないって分かってても、私はそんな反応をする事しか出来なかった。

裏切られた、と感じた。
ずっと一緒に音楽をやっていく仲間だと思ってたのに、
よりにもよってちょっと残念そうな顔しか浮かべてくれなかったあの子が恨めしかった。
私達の関係はその程度の関係だったの? って何度も問い詰めそうになった。
私は今まで通りの私達で居られれば、それだけで嬉しかったのに……。

でも、私だって本当は分かってる。
あの子はそんなに勉強が得意な方じゃない。
私だって勉強せずに受験に臨めるほど優等生なわけじゃない。
同じ高校に進学して、また二人で笑い合うためには、私達の練習は中断するべきだって事は分かってる。
夏休みから受験が終わるまでは我慢と雌伏の時だってあの子は分かってるんだ。
そう。あの子の言う事は全面的に正しいんだ。
こんな事で裏切られたと感じてしまってる私の方こそおかしいんだろう。

そんなの分かってる。
分かってるに決まってるじゃない……。
そんな事が分からないほど、私は子供じゃないんだから……!

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「でも……なあ……」


分かってるはずなのに、私は苦々しく呟く事をやめられない。
もしかしたら、何も分かってないのは私の方なのかもしれない、って考えが私の脳裏を過ぎる。
あの子はこれからの自分の事を考えてる。私の事もきっと考えてくれてる。
だから、言いにくかったはずなのに、自分から切り出してくれたんだと思う。
これから勉強に集中しようって。
自分達の将来について真剣に考えようって。
それを分かりたくない私の方こそ、ずっとずっと子供なのかもしれない……。
何だか自嘲気味に笑いまで漏れて来た。
何もおかしくなんてないのに。

ただ一つ言えるのは、あの子は善意で行動してくれたんだって事。
私を傷付けるつもりも裏切るつもりも無かったんだって事。
それだけは私にも分かってる。
だからこそ、裏切られた、今のままで居たい、
って感じてしまってるのは、単なる私の我儘なんだろうと思うし、きっと現実にもそうだ。
あの子の善意を受け取れられなかった私の方が、恐らくは子供なんだ……。


『地獄への道は善意で舗装されている』


またその言葉が私の頭の中に浮かんで来る。
善意が、辛い。
善意をそのままに受け取れなくて、苦しい。
世界は悪意に包まれてるってよく聞くけど、もしかしたら違うのかもしれない。
本当はほとんどの人が善意から行動しているのに、
周囲に居る人達を幸福にしようと努力しているのに、
その行動が結果的に地獄に繋がってるだけなのかもしれない。
この言葉通りに。
私は最近、そういう事ばかり考えてる。


「……それはそうと」


私はこれまでと違った意味で嘆息しながら、周囲を見回してみる。
平日の夕暮れの公園。
防犯のためか、TVゲームで遊んでいるからなのか、
子供達の姿はほとんど見えなかったけど、それは別に珍しい光景じゃない。
自分が日焼けしやすい体質だって事もあって、
私も子供の頃は外よりも家の中で遊ぶ事の方が多かった。
単に公園の古い遊具で遊ぶ子供達が減って来たってだけなんだろう。

何故か私と同い年くらいのカチューシャをしたショートヘアの人が、
友達らしい長い黒髪の人を連れて、楽譜を見ながらドラムのスティックを振り回していたりしたけど。
位置的に丁度いいのか、ブランコの外柵をリズム良く叩いたりもして……。
まあ……、何をするのも、人それぞれって事だよね……。

楽譜……か……。
部活で音楽をやってる人達なんだろうか。
こんな夕暮れにも練習してるって事は部活帰りなのかもしれない。
いいなあ……。
羨望の気持ちが私の胸に湧き上がる。
私だって音楽がしたい。またあの子とセッションしたい。
自分の部屋で一人でギターを弾くのは寂しいよ……。
弾きたく……ないよ……。

夏休みに入って以来、私はギターを弾いてない。
受験勉強のために練習を中断したのに、あの子と距離を置いたのに、
それでもギターを弾くなんて、色んな意味で裏切りに思えて仕方が無かったから。
私達はただ中断してるだけ。
受験が終わればまた音楽を続けられる。
そう信じられるために、私は部屋の隅に置いたギターに視線を向ける事も避けるようになっていた。
だから、私は今はあまりギターを弾きたくない。
弾くのが……怖い……。
ギターを弾いていて孤独を感じて、ギターを嫌いになりたくないから……。

私が見つめていた事に気付いたのか、
カチューシャをしたボーイッシュな人が私の方に視線を向けた。
一瞬、私達の視線が交錯する。
まじまじと見つめるなんて、失礼な事をしてしまったかもしれない。
私は自分の顔が少し熱くなるのを感じながらも、その人に軽く会釈して公園の倉庫の裏手に回る。
別に公園の倉庫の裏手に行きたかったわけじゃない。
そこしかその人の目から逃げられる場所が見つからなかっただけだった。
そんな事をするくらいなら、公園から出て行けばいい……。
自分でも分かっていたけど、私には何故かそれが出来なかった。
何故だかここから離れちゃいけない気がしてるんだよね……。

大体、アウトドア派でもないのに、どうして私は公園に来てるんだろう?
特に外出する用事も無かったはずなんだけど……。
外の空気が恋しくなったってわけでもないし……。
喉が乾いたから、ジュースでも買いに行きたかったんだっけ……?
って、今お金持ってないじゃない、私……。
分からない……。
家で勉強をしていたら、気が付けば本当に衝動的に私はこの公園まで来てた。
テレパシーか何かで誰かに呼ばれたんだろうか?
前世から運命で繋がった光の戦士に……とか……?
まさかね……、そんなオカルトやファンタジーじゃあるまいし……。
そうやって自分の中学生らしい空想に自分で苦笑して、肩を竦めた瞬間、


「あのー……」


「ふにゃっ!」


唐突に後ろから声を掛けられて、私は変な声を出してしまった。
自分で出した声ながら、「ふにゃっ!」って何よ、私……。
そんな事だから「梓って猫っぽいよね」とか言われちゃうのよ、私……。
ううん、そんな事よりも……。

本当に光の戦士だったりして……、
ってちょっとだけ本気で考えながら、私は恐る恐る振り返ってみる。
そこにはまた私と同い年くらいの……、
でも、さっきのカチューシャの人とも黒髪の人とも違う女の子が首を傾げて立っていた。
まとめるには少し短めの柔らかそうな髪をリボンでポニーテールにした女の子。
家庭的な女の子っぽい服装や穏やかな表情から、何処か優しそうな印象を受ける。
多分、本当に優しい性格の子なんだろうと思う。

いやいや、そんな事は今は関係無かった。
光の戦士とか関係無さそうな子でよかったけど、私はこの子を知らなかった。
見かけた事もないはずだから、確証は無いけど同じ学校でもないと思う。
でも、だとしたら、知り合いでもないこの子が、私に何の用事があるって言うんだろう……。

瞬間、その子が急に私の両手を取って、急ににじり寄った。
拳二つくらいの至近距離で、私とその子は見つめ合う事になった。
な、何……?
どうしてこの子は私の手なんか握ってるの……?
気圧されて胸が強く動悸するのを感じながら、私はどうにかその子に訊ねてみる。


「な、何……? 私に何か用なの……?」


「よかった……」


「えっ?」


「やっと……、会えた……」


「何の話……?」


「あの……、すぐには信じてもらえないかもしれないんですけど……、どうか私の話を聞いて下さい。
いいですか? 驚かずに聞いて下さいね……。
どんな願い事でも一つだけ叶えられる一生に一度のチャンスが、貴方にやって来たんです……!」


「……はっ?」


私が若干呆れた声を出すと、そのポニーテールの子は恥ずかしそうに少し目を伏せた。
どうやらその子も自分が荒唐無稽な事を言ってる事には気付いていたらしい。
片方は事態を全く分かってなくて、もう片方は照れた顔で目を逸らしていて……。
冷静に考えなくても、何だかとても間抜けな出会いのシーン。
とても間抜けだけど、それが私とその子の始まり……。
これから私とその子の何かが始まるんだ、って、何故か私もそれだけは確信出来ていた。



今回はここまでです。
突然失礼します。
このSSはけいおん!とサナララのクロスとなります。
上手くまとめられればと思いますので、よろしくお願い致します。






「えっと……」


何かを言葉にしようとして口を開いたけど、上手い言葉が思い付かなくてすぐに閉じる。
私の手を握った子の方も照れた様子で新しい言葉を探してるみたいだった。
初対面なのに手を握られて二人で沈黙してるなんて、変な状況にも程がある。
どうしよう……、早くこの空気をどうにかしたい……。
本当に前世からの知り合いとかじゃないよね……?

でも、不思議とその子から逃げようという気は、私の中に湧き上がらなかった。
同い年くらいだからってのもあるけど、
その子の雰囲気が何故か私を落ち着かせてくれた。
きっと私だけでなく、その家庭的な服装に大人しそうな顔つきで、
普段から周囲に優しい空気を漂わせて、皆に温かさを振る舞っているんだろう。
もしもこの子が私のクラスメイトだったりしたら、
私も迷いなくこの子に気軽に話しかけていたに違いない。
私とは全然違うタイプの子なんだろうな、ってちょっと羨ましくなる。


「一生に一度のチャンス……って?」


私は少し苦笑してから、彼女の言葉を促してみる。
この子に困った表情を取らせたままだと、何だか私の方が居た堪れない。
どんな用件にしろ、まずはこの子の話を聞いてあげるのが一番だろう。


「は……、はいっ。
すみません、突然こんな事言われても、何が何だか分からないですよね……。
『対象者』の人にやっと会えたのが嬉しくて、私、つい舞い上がっちゃって……」


「『対象者』……?」


「はい、『対象者』と言うのはですね……。
……あっ! すみません、私、ずっと貴方の手を握ってしまってましたね……。
今から詳しい事をご説明しますから、あちらのベンチに座りませんか?」


その子は私から手を離して、倉庫裏から辛うじて見えるベンチを指差した。
確かに倉庫裏で女同士で手を握り合ってるだなんて、
クラスメイトにでも見られたらどう誤解されるか分からないしね。
友達の間では登下校手を繋いでる子達も居るけど、
残念ながら私はそういう事が出来るタイプじゃない。
その子に促されるままに脚を進めようと思った瞬間、ちょっと迷った。
まだ時間もそんなに経ってない事だし、カチューシャの人達がまだブランコ周辺に居るかもしれない。
あの人達の視線から逃げて倉庫裏に来たのに、図々しくまた顔を出すのはちょっと恥ずかしい。


「あの……?」


その子が首を傾げて、私の顔を覗き込む。
私が妙に躊躇っているのを変に思ってるんだろう。
ううん、もしかしたら、自分自身が不審に思われてるんじゃないか、って考えてるのかもしれない。
その証拠にその子はまた不安そうな表情を浮かべていた。
初対面なのに、その子にそんな顔をさせるのはやっぱり少し心苦しかった。
私は首を横に振って、足を一歩踏み出して口を開いた。

「ううん、何でもない。何でもないの。
一緒にベンチに行きましょう、えっと……」


「あ、ヒラサワです。
私、『ヒラサワウイ』って言います」


私がその子の呼び名に困ってるのに気付いてくれたらしく、訊ねる前に応じてくれた。
私の想像通り、細かい気配りの出来る子みたいだった。

『ヒラサワウイ』……。
『ヒラサワ』の漢字は平沢かな。
『ウイ』はどう書くんだろう?
初……、羽衣……、他に何か漢字あったかな……。
まあ、今はいいか。
私は軽く頷いてから、平沢さんがさっき示したベンチに足を進めた。


「ありがとう、平沢さん。
じゃあ、ベンチに座りましょう。
詳しい話はそれから……、って事でいいですよね?」


「はい!」


私が言うと、こっちが嬉しくなってくるくらい、平沢さんが笑顔で頷いてくれた。
私は友達が多い方じゃない。
自分でも自覚出来るくらい固い性格だと思うし、
そもそも友達が沢山欲しいって思うタイプでもなかった。
仲のいい友達がほんの少し居てくれれば十分だって思うタイプだ。
そんな感じで友達が多いわけじゃない私だけど、
平沢さんみたいな子と会って話をするのは初めてだった。
言ってる事は荒唐無稽なのに、どうしてか凄く信頼出来るって感じられる。
全身から滲み出る人柄の良さのおかげかもしれない。

ベンチまで歩いて行って、平沢さんより先に腰を下ろす。
少し待ってみたけど、平沢さんは私の隣に座らなかった。
突然居なくなったわけじゃない。
平沢さんはベンチ横に立ったままで、意外な方向を見つめていた。
平沢さんの視線の先では、カチューシャの人と黒髪の人がまだ楽譜を見つめていた。
幸い、カチューシャの人達は私の存在を気にしてないみたいだったけど、
そんな事より平沢さんが寂しそうな表情を浮かべている事の方が気になった。
穏やかな雰囲気を漂わせてる平沢さんのその表情……。
何だか今にも泣き出してしまいそうな様子にも思える。


「……お知り合いですか?」


訊ねるべきかちょっと迷ったけど、気付けば私は平沢さんにそう訊ねていた。
訊ねるべき事じゃなかったのかもしれないけど、
平沢さんにそんな表情をさせるものの正体を知りたかったんだと思う。
平沢さんは微苦笑を浮かべ、ゆっくり頷いてから私の質問に応じてくれた。

「はい。お姉ちゃんの同級生の方達です。
とっても楽しくていい方達なんですよ」


その言葉に嘘は無かったと思う。
でも、微苦笑を浮かべながらも、その寂しそうな瞳が変わらなかったのが気になった。
あの人達が本当に『とっても楽しくていい方達』なら、
どうして平沢さんはこんなに寂しそうにしてるんだろう……?


「そうなんですか……。
私待ってるから、声を掛けて来てもいいですよ」


「ううん、いいんです。
今は……、声を掛けられませんから……」


「今……は……?」


「そんな事より」


平沢さんが私の隣に腰を下ろして、急に笑顔になった。
もうその表情から寂しさは感じられなかった。
『今は』という言葉の意味が気になったけど、
初対面の相手に食い下がって深い所まで訊ねるのも失礼な気がしたから、私は口を閉じた。
平沢さんは笑顔のまま、優しい声になって続ける。


「もう夕暮れですし、お時間を取らせるのも申し訳ないので、すぐ説明しちゃいますね。
あ、でも、それより先に……、
失礼ですけど、貴方のお名前をお訊ねしていいですか?」


言われて初めて気付いた。
そう言えば、私はまだ名前を名乗ってなかった。
平沢さんの名前を教えてもらっておきながら、これは失礼な事をしてしまったみたいだ。
私は軽く頭を下げてから、小さく口を開いた。


「ごめんなさい、平沢さんには名前を教えてもらってたのに……。
私は中野梓って言います。
よろしくお願いします、平沢さん」


初対面の相手に名前を名乗るなんて不用心だったかもしれない。
だけど、私は何の抵抗も無く、平沢さんに自分の名前を名乗っていた。
大好きってわけじゃないけど、決して嫌いじゃない私の名前。
この世界に生まれて以来、ずっと付き合って来た私の名前を。
何故かこの初対面の平沢さんに知ってほしい気分だったんだと思う。

平沢さんが笑顔のままで頷いてから続ける。

「教えてくれてありがとうございます、中野さん。
素敵な名前ですね。中学一年生くらいですか?」


「中三なんですけど……」


「えっ? そうなんですかっ?
実は私も中三なんですよ。
同級生だったんですね、中野さん!」


私の言葉に平沢さんが驚いた声を上げた。
自分で鑑みるのも嫌なんだけど、私は小柄な方だ。
女性的な曲線ってやつにもまだ乏しいし、
実年齢より幼く見られる事なんて日常茶飯事なんだよね、悲しい事だけど……。
でも、中学一年生って言ってくれただけ、まだよかったのかも。
酷い時なんて、小学生に間違えられる事もあるもんね……。
確かに小六で私より大きな子なんて沢山居るしね……。

でも、驚いたのは私の方も同じだった。
同級生くらいだと思ってはいたけど、
平沢さんがまさか本当に同級生だなんて思ってなかった。
落ち着いた雰囲気もあったから、てっきり高二くらいだと思ってたんだよね。

私達が同級生……。
そう考えた瞬間、私はつい軽く笑ってしまっていた。
何だかとっても滑稽な気がしたからだ。
抑え切れず、私は笑い声を漏らしてしまう。


「あははっ」


「えっ、えっ?
どうしたんですか、平沢さん?」


「あははっ、だって……、
同級生で気を遣い合って敬語で話し合うなんて、何だかおかしくて。
私の方はいいよ?
平沢さんの事、二歳くらい年上だって思ってたんだもん。
でも、平沢さんったら、自分より二歳は年下だと思ってた子に敬語使ってたんでしょ?
律儀と言うか丁寧と言うか……、あはははっ」


「え、でも、初対面の人ですし……」


私がどうして笑ってるのか分からないって様子で、平沢さんが真顔で呟く。
多分、平沢さんの言っている事の方が間違ってないんだろう。
年下とは言え、初対面の人間には敬語で話し掛ける方が確かに普通だ。
でも、そう分かってても、年下の子に丁寧な敬語で話し掛ける人なんてほとんど居ない。
それを律儀にやっちゃうのが平沢さんって子なんだろう。
やっぱり今まで私の周囲には居なかったタイプの子だ。
新鮮で、何だか楽しい。


「中野さん……?」


平沢さんが戸惑った表情を私に向ける。
その平沢さんの様子を見て、私はまたこの子の事をよく知りたいって思った。
『一生に一度のチャンス』って言うのが何なのかまだ分からないし、物凄く胡散臭い。
でも、それを抜きにしても、私は平沢さんにとても興味を持った。
まだ確証は無いけれど、平沢さんが嘘を言ってないって気までしてる。
だから、私はもっと平沢さんの事を知りたくて、笑顔で言った。

「ごめんね、平沢さん、変に笑っちゃって……。
でも、うん、もう大丈夫。
それより平沢さん、私達が同級生って事が分かったわけだし、敬語はやめない?
私も敬語を使うのやめるから……、どう?」


「えっ、でも……。
……うん、分かった。そうだよね、同級生なんだもんね。
これからは普通に話すよ、中……ううん、梓ちゃん。
これでいいかな?」


「うん、それでお願い」


返事をしながら、私は本当はちょっとだけ戸惑っていた。
敬語をやめようと発案したのは私だけど、まさか呼び名まで変わるとは思ってなかったから。
堅苦しい口調はやめたかっただけなんだけどな……。
でも、それもいいかな、って不思議とそう思えた。
平沢さんにとっては、名前の呼び方も含めて、敬語と普通の喋りの線引きがあるんだろう。
私の方はまだちょっと照れ臭いから呼べそうにないけど、
その内に平沢さんを名前で呼ぶのも悪くないかもしれない。


「……それで本題に戻るけど、平沢さん。
『一生に一度のチャンス』って何なの?
……宗教とかじゃないよね?」


「うん、宗教じゃないよ、梓ちゃん。
誰が呼び始めたのかは私も知らないんだけど、『チャンスシステム』ってシステムがあるの。
その『チャンスシステム』の順番が、今回、梓ちゃんに来たって事なんだ」


『チャンスシステム』……。
余計に胡散臭い上に微妙に安っぽい……。
平沢さんは信じられるけど、そのシステムはどうにも信じられない……。
と言うか、信じたくないなあ……、単に気分的にだけど。
平沢さんもそれは百も承知みたいで、微苦笑を浮かべながら説明を続けてくれた。



今回はここまでです。
地の文多いですが、お付き合い頂けると幸いです。
もうそろそろ導入部も終わります。

「『一生に一度のチャンス』って言うのはね、
名前の通り一生に一度だけ誰にでも来るチャンスの事なの。
神様なのか仏様なのか分からないけど、
そんな誰かに何でも一つだけ好きなお願いを叶えてもらえるシステムなんだよ」


「それは……、何と言うか……。
こう言うのも悪い気がするけど、凄く胡散臭いね……」


「あはっ、こう言われてもすぐには信じられないよね。
私も最初はそうだったもん」


「平沢さんも……?」


「うん、そうなんだよ。
私ね、もうチャンスシステムにお願いを叶えてもらってるんだ。
実はお願いを叶えてもらったら、一度だけ果たさないといけない義務が発生するの。
それがね、自分が『ナビゲーター』になって、
次の人に『チャンス』を伝えて、導いてあげる事なんだよ」


「次の『チャンス』って事は……、
平沢さんも前に他の『ナビゲーター』の人に導いてもらったって事なの?
いや、まだ『ナビゲーター』って言うのが、どんな役割なのかは分からないけど……」


私が横目に訊ねると、平沢さんは目を細めて軽く頷いた。
楽しい事を思い出しているような、
でも、辛い事も一緒に思い出しているような、そんな複雑な表情だった。
数秒くらい経ってから、平沢さんは私の方に顔を向け直して、また微笑んでくれた。


「うん、私も前の『ナビゲーター』の人にお世話になったんだ。
年上のお姉さんだったんだけど、元気で、前向きで、楽しい人で、
どんなお願いを叶えてもらったらいいのか分からない私のアドバイスもしてくれて……、
本当に……、素敵な人だったなあ……」


平沢さんのその表情はとても輝いているように見えた。
楽しさも辛さも全部抱えたからこそ浮かべられる表情……、そんな気にさせられる。
いいなあ、と思った。
今の私には多分、平沢さんみたいな表情を浮かべる事は出来そうにない。
いつかは私も平沢さんみたいに微笑む事が出来るんだろうか……?
それはまだ、分からない。

そうして少し私が黙り込んでいたのを別の意味に捉えたのか、
平沢さんが困ったような苦笑に表情を変えて、ゆっくりと首を傾げた。

「やっぱり……、いきなりこんな事を言われても戸惑っちゃうよね。
私もそうだったから分かるよ、梓ちゃん。
逆にね、こんな話をすぐに信じられたら、私の方が心配になっちゃうもん」


それはそうだ。
もしこの平沢さんの話が本当だったとして、
願いを叶えてもらった私が『ナビゲーター』になった時に、
次の『チャンスシステム』に選ばれた誰かにこの話をすぐ信じられたら、私だって逆に不安になる。
こんな話、そう簡単に信じられるはずがない。

でも、気が付けば私は苦笑してしまっていた。
私の中の複雑な葛藤が滑稽に思えたからだ。
私の頭の中の理性は平沢さんの話を否定している。
そんな荒唐無稽な話が存在するはずがないって警告している。

同時に。
私の心は完全に平沢さんの言葉を信用していた。
何故だか上手く説明出来ないけど、平沢さんの言葉を真実だって受け止めている。
頭じゃなくて、心が平沢さんの全てを信用してるんだよね……。

不思議な感覚だった。
頭で思う事と心で感じる事が逆だって経験が今まで無かったわけじゃない。
例えば立ち入り禁止の屋上に行く時なんか、
頭で屋上に行っても誰も気にしないから大丈夫と思いながら、心では後ろめたい気分を感じたりしていた。
そんな風に、人間には頭と心がそんな相反した事を感じてしまう事が結構あるはずだと思う。

だけど、こんな感覚はやっぱり初体験だ。
『頭では信用するべきだって分かってるが、俺の心と本能がこいつを信用するのを拒絶している』
っていうシーンは、映画や小説でよく目にする。
今の私の状況はそれとは全く逆だった。
頭で疑うべきだと分かってるのに、心で完全に信用しちゃってる、なんて。
自分でも分かるくらいに滑稽で、何だか笑えて来る。
ひょっとすると、それも『チャンスシステム』の効能みたいな物なのかな……?
って、そんな風に考えちゃう事自体、もう平沢さんの事を信用しちゃってるって証拠なんだろうなあ……。


「あ、そうだ!」


両の手のひらを胸の前で軽く重ねると、
平沢さんが何かを思い出したみたいな甲高い声を上げた。
どうしたの? と私が訊ねるより先に、
平沢さんはベンチから立ち上がって小走りにブランコの方に向かっていた。
ブランコまで残り数歩くらいの距離に辿り着いた時、
平沢さんはその場に立ち止まってから私の方向に振り返って少し大きな声で言った。


「梓ちゃん、見ててね!
これは前の『ナビゲーター』の人が、
『チャンスシステム』を信じられない私に見せてくれた事なんだけど……」


そこまで言うと、また平沢さんは私に背を向けて小走りにブランコに向かった。
平沢さんはすぐにブランコの外柵を越えて、
そのままブランコに乗るのかと思ったけど違った。
ブランコを素通りして平沢さんが足を止めたのは、
ドラムの練習をするカチューシャの人のすぐ後ろ側だった。

何をするつもりなんだろう……?
それはそれで疑問だったけど、私はもう一つ大きな疑問を胸に抱いていた。
平沢さんは小走りにブランコに向かって行ったけど、
その間中、カチューシャの人と黒髪の人は平沢さんの方に一度も視線を向けなかった。
ドラムの練習に夢中ってだけの話じゃない。
あの二人は知り合いのはずの平沢さんに、
これまで一度たりとも視線を向けてなかった気がする。
いじめとかそんな単純な話でもない。
例えいじめにしたって、ここまで完璧に無視する事なんて出来ないはずだ。
ひょっとして、あの二人には平沢さんが見えてない……の?

私の疑問を証明するみたいに、
平沢さんは腰を屈めてカチューシャの人の耳元に自分の唇を寄せていた。
な……、何だか背徳的な雰囲気だなあ……。
って私が変な事を考えたのと同時に、
平沢さんは大きく息を吸い込んでからその唇を尖らせて……。


「あぅんっ!」


カチューシャの人から甲高い声が上がる。
ボーイッシュな外見に似合わず、その声は何だか妙に色っぽい。
……それはともかくとして。
そのカチューシャの人の反応から判断するに、
平沢さんはその人の耳に息を吹きかけたらしかった。
そういう事をする子に見えなかっただけに、私はちょっと驚いていた。
でも、それ以上に驚いたのは、その後のカチューシャの人達の行動だった。


「ど……、どうしたんだよ、律!
何があったんだ?」


カチューシャの人——律さんという名前らしい——から、
一メートルくらい離れた場所に居た黒髪の人が、驚いた表情で駆け寄ってその肩を叩く。
原因なんて分かり切っているのに、平沢さんの方に視線一つ向けないで。
黒髪の人に訊ねられた律さんも、
平沢さんなんかその場に居ないみたいに、不思議そうな表情を浮かべて呟いていた。


「急に耳に生暖かい空気が当たってさ。
いやー、何か気持ち悪かったなー……。
ひょっとして、澪、おまえの仕業か?
あの距離から私の耳を狙って息を吹き掛けられるなんてすげーな……」


「そんな事出来るか!」


「照れるな照れるな。
私がドラムの練習ばっかりやってて寂しかったんだろ?
いやーん、澪ちゃんったら寂しがり屋さんなんだからあ!」


「気持ち悪い事を言うな!」


黒髪の人——澪さんらしい——が軽く叫んで律さんの後頭部に拳を下ろす。
「いでぇっ!」という律さんの呻き声から察するに、その拳はかなり痛そうだ。
バ……、バイオレンスだなあ……。
私はまだほとんど知らない律さんの事が心配になったけど、
律さんは殴られた後頭部を擦りながらも楽しそうに笑い出していた。

「冗談だよ、冗談。
でも、練習に夢中になって、澪に構えてなかったのは本当だしさ。
多分、生暖かい空気も気のせいだろ。
ひょっとすると、汗が耳にでも入ったのかもな。
ま、そんな事はどうでもいいや。
私の練習ばかりしてても仕方が無いし、次は澪のベースの出来を見てやるよ。
エアベースでさ、今から弾いてみろよ」


「ここでっ?」


「何だよー。
もうすぐ学祭なんだから、開けた場所での練習もしとかなきゃだろ?
心配しなくても、大丈夫だよ。
今の所、公園に居るのは、あのベンチに座ってるツインテールの子くらいだろ?
一人くらいの観客には耐えられるようになっとかなきゃな」


「ううー……、それはそうなんだけどさ……」


「ほらほら、ファイトファイト!」


殴られたというのに、澪さんに対する律さんの対応はとても優しかった。
きっとそれがあの二人の関係なんだろう。
からかわれても、殴られても、それでもお互いを許し合えて、尊重し合える関係。
傍から見るだけでそんな二人の関係が強く感じられる。
私もあの子とそんな関係になりたかった。
離れていても信じ合える関係で居たかった。
受験が終われば、あの子とまたそんな関係を歩んでいけるんだろうか……?

……ううん、そんな事より、今は考えなきゃいけない事がある。
律さん達から少し離れて申し訳なさそうに頭を下げている平沢さんに、私はゆっくりと視線を向けた。
その視線に気付いたらしく、平沢さんが苦笑しながら私の座るベンチまで小走りに戻って来た。
ベンチに腰を下ろしながら、平沢さんが静かに私に訊ねる。


「どう、梓ちゃん?
分かってもらえた……かな?」


訊かれるまでもなかった。
私は軽く頷いてから、隣に座る平沢さんの表情を窺ってみる。
平沢さんはやっぱり少し寂しそうに微笑んでいた。
寂しく感じるのも当然だと私は思った。


『公園に居るのは、あのベンチに座ってるツインテールの子くらいだろ?』


さっき律さんは平沢さんに視線を向けもせずに澪さんにそう言った。
耳に息を吹き掛けたのも澪さんじゃないかと疑っていた。
勿論、平沢さんを無視したわけじゃない。
深く知っているわけじゃないけど、あの人達はそんな事をする人達じゃないと思う。
例え心の底から誰かを嫌ったって、完全に無視なんてする人達じゃないはずだ。
大体、そんな事、やろうと思ったって出来るわけないじゃない。
つまり、平沢さんが見えていないんだ、あの人達には。
私は一息吐いて、平沢さんに向けて小さく応じた。

「うん、よく分かったよ、平沢さん。
これも『チャンスシステム』……なんでしょ?
『ナビゲーター』の人は、今回チャンスが来た人以外、
誰からも見えなくなる……、って事でいいのかな?」


「うん……。
仕方が無い事だけど、ちょっと寂しいシステムだよね……。
勿論、『ナビゲーター』が終わったら、
元に戻るらしいからそこは安心なんだけど……」


「そっか……。
あ、平沢さんに一つだけ確認があるんだけど……」


「何、梓ちゃん?」


「平沢さん……、幽霊ってわけじゃないよね……?」


私が言うと、平沢さんは優しく微笑んだ。
何だか凄く儚い、愛しくなるくらいの笑顔だったけれど、
とても綺麗な笑顔で、そのまま私の手を軽く握って言ってくれた。


「大丈夫。
私、ちゃんとここに居るよ、梓ちゃん」


柔らかくて温かい手のひらだった。
そもそも律さんだって平沢さんの息は感じていたんだから、
単に平沢さんの姿が見えなくなってるだけって可能性の方が遥かに高いよね。
私はちょっとだけ微笑んで、「うん」と大きく頷いた。



今回はここまでです。
大変遅くなりました。
もう少しペースを上げて行きたいと思います。
あと、これは梓憂のお話になる予定です。
よろしくお願いします。

ここに居る。
平沢さんは確かにここに居る。
奇妙な現象ではあるけど、奇妙な縁ではあるけど、
平沢さんは柔らかい笑顔を浮かべて、ここに居てくれてるんだ。
私のお願いを叶えてくれるために。

気が付けば、私は平沢さんの言葉の全てを信じていた。
ううん、むしろ『チャンスシステム』の存在が嘘でも構わなかった。
不思議と私の心を惹き付ける。
平沢さんにはそんな魅力があるんだと思う。


「それにしても……」


私は微笑みながら言葉にしていた。
微笑みながら誰かと話すなんてどれくらいぶりだろう。
学校でクラスメイトと話す事はあるけど、あの日以来、笑う事は少なくなってた気がする。
でも、今、私は笑えてる。とりあえず、笑えてる。


「どうしたの、梓ちゃん?」


私の顔を覗き込みながら、平沢さんが首を傾げる。
その視線は真剣そのものだった。
私が『チャンスシステム』の事を完全に理解するまで、
丁寧に確実に真摯に私と向き合ってくれる……、そんな視線だった。
でも、私はもう平沢さんの言葉を信じてたし、
平沢さんに訊ねようと思っていたのはもっとどうでもいい事だ。


「うん、『チャンスシステム』って変なシステムだなー、って思って。
『ナビゲーター』の人がリレー方式で『一生に一度のチャンス』の事を次の人に伝える。
まだちょっと胡散臭い気はするけど、システムとしては理に適ってるって思うよ?
でもね、そのために『ナビゲーター』の人の姿が次の人以外の人間から見えなくなる、
って現象の意味が分からないんだよね」


「あ、詳しく言うとちょっと違うみたいだよ、梓ちゃん。
『対象者』以外の人の目に写ってはいるけど、
その誰からも気にされないくらい存在感が薄くなってる状態らしいの。
梓ちゃんは『ドラえもん』の『石ころ帽子』ってひみつ道具知ってる?
それを被ると石ころみたいに誰にも気にされなくなるって、ひみつ道具。
そんな感じになってるみたいなんだ」


「そうなんだ。
でも、どっちにしても、変なシステムだよね。
お願いを叶えてあげるなら、『ナビゲーター』をそんな状態にする必要無いでしょ?
……無理矢理理由を考えれば、
『チャンスシステム』をどうしても信じられない人のために、
『ナビゲーター』を非現実的な存在にして、無理矢理信じさせるため……とか?」


「あははっ、それもあるかもしれないね。
梓ちゃんって想像力が豊かなんだね。
でも、『ナビゲータ』の存在感が薄くなるのは、それが一番の理由じゃないみたい。
それはね、きっと……」

ここに居る。
平沢さんは確かにここに居る。
奇妙な現象ではあるけど、奇妙な縁ではあるけど、
平沢さんは柔らかい笑顔を浮かべて、ここに居てくれてるんだ。
私のお願いを叶えてくれるために。

気が付けば、私は平沢さんの言葉の全てを信じていた。
ううん、むしろ『チャンスシステム』の存在が嘘でも構わなかった。
不思議と私の心を惹き付ける。
平沢さんにはそんな魅力があるんだと思う。


「それにしても……」


私は微笑みながら言葉にしていた。
微笑みながら誰かと話すなんてどれくらいぶりだろう。
学校でクラスメイトと話す事はあるけど、あの日以来、笑う事は少なくなってた気がする。
でも、今、私は笑えてる。とりあえず、笑えてる。


「どうしたの、梓ちゃん?」


私の顔を覗き込みながら、平沢さんが首を傾げる。
その視線は真剣そのものだった。
私が『チャンスシステム』の事を完全に理解するまで、
丁寧に確実に真摯に私と向き合ってくれる……、そんな視線だった。
でも、私はもう平沢さんの言葉を信じてたし、
平沢さんに訊ねようと思っていたのはもっとどうでもいい事だ。


「うん、『チャンスシステム』って変なシステムだなー、って思って。
『ナビゲーター』の人がリレー方式で『一生に一度のチャンス』の事を次の人に伝える。
まだちょっと胡散臭い気はするけど、システムとしては理に適ってるって思うよ?
でもね、そのために『ナビゲーター』の人の姿が次の人以外の人間から見えなくなる、
って現象の意味が分からないんだよね」


「あ、詳しく言うとちょっと違うみたいだよ、梓ちゃん。
『対象者』以外の人の目に写ってはいるけど、
その誰からも気にされないくらい存在感が薄くなってる状態らしいの。
梓ちゃんは『ドラえもん』の『石ころ帽子』ってひみつ道具知ってる?
それを被ると石ころみたいに誰にも気にされなくなるって、ひみつ道具。
そんな感じになってるみたいなんだ」


「そうなんだ。
でも、どっちにしても、変なシステムだよね。
お願いを叶えてあげるなら、『ナビゲーター』をそんな状態にする必要無いでしょ?
……無理矢理理由を考えれば、
『チャンスシステム』をどうしても信じられない人のために、
『ナビゲーター』を非現実的な存在にして、無理矢理信じさせるため……とか?」


「あははっ、それもあるかもしれないね。
梓ちゃんって想像力が豊かなんだね。
でも、『ナビゲータ』の存在感が薄くなるのは、それが一番の理由じゃないみたい。
それはね、きっと……」

そこで平沢さんが口ごもった。
まだ出会って間もない平沢さんだけど、珍しいな、って私は思った。
平沢さんは素直でまっすぐで真剣な子だって、私は勝手に思ってる。
ちょっと話しただけだけど、それは凄く感じるんだ。
だからこそ、口ごもった平沢さんの様子を私は見逃せなかった。

平沢さんはもう少しだけ言葉を止めてから、
少しだけ悲しみがこもったような笑顔を私に向けた。


「あ、それより、梓ちゃん。
今日、どうしてこの公園に来たか憶えてる?
この公園に来た理由……、憶えてる?」


「理由……?
えっと、それは……」


平沢さんに続いて口ごもるのは私の番だった。
それは平沢さんと出会う前から疑問に思っていた事だ。
思い出せない。
と言うか、この公園に来た理由に心当たりが無いんだよね。
お金も持ってないし、アウトドア派というわけでもないし……。
本当にどうして私はこの公園に来たんだろう……?

私が少し声を上げて唸り始めると、
平沢さんがとても簡単な答えを私に伝えてくれた。


「それもね、『チャンスシステム』のルールなんだ。
『一生に一度のチャンス』に選ばれた『対象者』の人は、
特に何の理由も無く『ナビゲーター』の居る場所に引き寄せられるらしいの。
私もね、前の『ナビゲーター』の人と会った時はそうだったんだよ。
何故か急にプールに行きたくなっちゃって、
一人で近所の市民プールに行っちゃってたんだ。
一人でプールに行く事なんて、今まで一度も無かったのにね……。

それでね、そのプールに前の『ナビゲーター』の人が居たんだよ。
『ナビゲーター』の人に引き寄せられるって話を聞いた後、
私が「どうしてプールで私を待ってたんですか?」って訊ねたら、
前の『ナビゲーター』の人は嬉しそうに言ってたなあ……。
「『対象者』が可愛い子だったら、
その子の可愛い水着姿が見れるかもしれないじゃない!」って……」


なるほどなあ……。
分かってしまえば単純な理由だ。
私が公園に来た理由は、真の意味で平沢さんと巡り合うためだったんだ。
何だか自分の心を操られてるみたいでちょっと怖いけど、
それは今平沢さんの姿を確認出来ない律さんと澪さんも同じ状況だった。

『チャンスシステム』がどんなシステムなのか完全に分かったわけじゃない。
でも、私には何となく分かっていた。
お願いを一つだけ叶えられる……、その許容範囲はかなり広そうだって。
人の心を軽くでも操作出来るくらいに……。
少しだけ……、それが怖いって思わなくもない。

ただ、怖いのは『チャンスシステム』の事もだったけど、
私はそれ以上に得体の知れない何かへの怖さを感じてもいた。
ちょっとだけ深呼吸をしてから、私は平沢さんにそれを訊ねてみる。

「前の『ナビゲーター』の人ってどんな人だったの……?
話を聞く限り、かなり変質者に近いよ、その人……。
耳に息を吹き掛けたり、水着の女の子を待ってたりとか……。
平沢さん、大丈夫だった?」


「あ……、あはは」


平沢さんが困ったように苦笑する。
平沢さんもその前の『ナビゲーター』の人について思う所も多少あったらしい。
私だったら、そんな人に『チャンスシステム』の説明をされても、信用出来ないなあ……。
でも、平沢さんは真剣な表情になって、私の瞳を覗き込みながら続けた。


「大丈夫、安心して、梓ちゃん。
確かに変わった人だったけど……、でも、素敵なお姉さんだったんだ。
大人の女の人で、ふざける事も多かったけど、決める時はしっかり決めて……。
一生に一度のお願いが決まらなかった私の相談にも乗ってくれて……。
本当に素敵なお姉さんだったなあ……。
また……、会えるかなあ……」


平沢さんがそう言うんなら、きっと本当に素敵なお姉さんだったのだろう。
私も一度見てみたい気はする。
会話はあんまりしたくないけどね……。
とにかく、平沢さんがその人に変な事をされたわけじゃないのは何よりだった。
安心した私はその言葉を軽い感じに言ってしまっていた。


「だったら、また会いに行けばいいんだよ、平沢さん。
あ、今は『石ころ帽子』状態だから無理か……。
じゃあ、平沢さんの『ナビゲーター』の役割が終わった時にでも……」


瞬間、平沢さんが軽く首を横に振った。
「どうして?」と私が訊ねるより先に、平沢さんは口を開いていた。


「残念だけど無理なんだよ、梓ちゃん……。
さっき『ナビゲーター』の存在感が薄くなる本当の理由について話してたよね?
はっきりしてるわけじゃないけど、その本当の理由はね……、
『チャンスシステム』が終わった後の事後処理を簡単にするためだって思うの」


「事後処理……?」


「実はね、梓ちゃん……。
『チャンスシステム』が終わったらね……、
システムの事、お願いが叶った事、何もかも全部忘れちゃうんだよ……」


「えっ……?」


嘘でしょ?
とは続けられなかった。
平沢さんの表情を見るだけで、その言葉が真実だって事はよく分かったから。
同時に『チャンスシステム』は本当によく出来たシステムなんだって感じさせられた。
私は多分複雑な表情を浮かべて、平沢さんに訊ねていた。

「そのための『石ころ帽子』……?」


「うん……、そうだと思うよ……。
『チャンスシステム』に関わった皆の思い出を消すのは大変でしょ?
だから、システムを『ナビゲーター』と『対象者』だけの秘密みたいな形にするの。
そうすれば、お願いが叶った後、手広く関係者全員の思い出を消す必要も無くなるから。
そういう……システムなんだろうね……」


「じゃあ、前の『ナビゲーター』の人も……?」


「うん……、お願いが叶う前にね、
『私の事を憶えてたらプールで会いましょう』、
って約束したんだけど……、その人はね……、来てくれなかったんだ……。
仕方が無い事だけど、ちょっと……寂しいよね……」


残念だな、って私は思った。
本当に……、凄く残念だ。
平沢さんが前の『ナビゲーター』の人と再会出来なかったって事だけじゃない。
私の中の平沢さんの思い出が残らないという事が、残念で仕方が無い。
平沢さんとはもっと仲良くなれる気がしてた。
こんな変な形の出会いだったけど、ひょっとしたら大切な友達になれていたかもしれない。
それくらい、私は平沢さんに惹かれていた。
だから……、とても……、残念だなあ……。

それともう一つ、困る事が出来て来る。
お願いが叶ったという事すらも忘れてしまうって、平沢さんはそう言っていた。
これは大きな問題だよね……。
お願いは叶った事を憶えているからこそ、それを生かす事が出来るって私は思う。
例えば『チャンスシステム』お願いで大金を求めたとして、
その大金を得た理由の記憶を失くしてしまっていたら、本当に大切なお金の使い方は出来ないはずだ。
その大金を得たかった理由すら忘れてしまったら、そのお願いには何の意味も無い。
だとしたら、叶ったという事を忘れてしまっても構わないお願いにするべきだろう。
そんなお願いがあるのかどうかは私にも分からないけど……。



今回はここまでです。
長くなりましたが、次回、冒頭が終わる予定です。

>>25

間違って連投してしまいました。
すみません。

「あ、ごめんね、梓ちゃん。
何か湿っぽい事言っちゃったみたいで……。
だけど、お願いが叶ったら全部忘れちゃう……、
ってシステムもよく考えたら結構難しいよね。
そのシステムを聞いてから、私もずっと悩んじゃってたし。

だからね、梓ちゃん。
私、梓ちゃんにもよく考えてお願いを決めてほしいの。
全部忘れちゃうのに変だけど、後悔しないように……」


まだ前の『ナビゲーター』の人との別れで胸を痛めてるはずなのに、
それでも、平沢さんは優しく微笑んで私に言ってくれた。
その表情は私の事を心の底から考えてくれてるみたいに見えた。
それはとても嬉しい事だったけど、同時にちょっとだけ複雑な気分が湧き上がった。

平沢さんは人の事を心から思いやれる子なんだ……。
こんな初対面の私相手にも、真正面から向き合って考えてくれてる。
凄い事だと思う。
自分の事を冷たい人間だと思ってるわけじゃない。
でも、私が次の『ナビゲーター』になった時に、
平沢さんみたいに次の相手に丁寧に安心させる説明が出来るとも思えない。
いい所、さっき平沢さんが律さんの耳に息を吹いたのを真似て、
次の相手の知り合いの人の耳にでも息を吹いて、
『石ころ帽子』を『チャンスシステム』の証拠として使うくらいしか出来なさそう。

だから、私は平沢さんの事がもっと知りたくなった。
一生に一度のお願いについては考えてる事が無いわけじゃない。
でも、今はそれよりも先に、平沢さんの事をもっと深く知りたい。
平沢さんがどうしてこんなにも他人に優しく振る舞えるのか。
どんな生活をして、どんな経験をして、その性格を持つ事になったのか。
そして、それが分かれば、私はもっと友達に対して優しくなれるのかな?
って、私はそういう事ばかり気になって、お願いの事を気に出来なかった。


「やっぱり難しいよね、梓ちゃん。
後で全部忘れちゃっても大丈夫そうなお願いをいきなり見つけるなんて……」


私が難しい顔で唸っていたのを別の意味で捉えたのか、
平沢さんがちょっとだけ苦笑を浮かべてそう言ってくれた。
本当は平沢さんの事を考えてたんだよ、……なんて流石に言えない。
私は自分の頬が熱くなるのを感じながら、
平沢さんからちょっとだけ目を逸らして口を開いてみた。

「うん、そうだね……。
夢や叶えたい事が無いわけじゃないけど、
それが一生に一度のお願いでいいのかって言われると正直悩んじゃうし……。
あ、そうだ、一つ気になる事があるんだけど、訊いていいかな?」


「何? 私に答えられる事なら何でも訊いて」


「一生に一度のお願いって、どれくらいの事なら叶えてくれるの?
何でも叶えてくれる……って言っても、流石に無茶過ぎるお願いは駄目なんじゃない?
例えばだけど、世界征服って願えば叶えてくれるものなの?」


「世界を征服したいの、梓ちゃん?」


「いやいや、単なる例えだってば」


「あははっ、そうだよね。
うーん……、どうなんだろう……。
詳しくはお願いしてみないと分からないんだけど、多分無理なんじゃないかな?
今まで一度くらいそういうお願いをした人も居るかもしれないけど、
世界を征服するのってそんなに簡単な事じゃないって思うんだ。
ただ世界のトップに立つってだけじゃなくて、
世界の色んな人にトップとして認めてもらえないと世界征服って言えないと思うし……。
そのためには世界中の人の心を操らないといけなくなるよね?
でも、そういう人の心を操るようなお願いは、叶えてもらいにくいみたい。
前の『ナビゲーター』の人が言ってたんだけど、
そういう自分身の丈に合わない、他人に迷惑を掛けちゃうお願いはスルーされるらしいんだ」


「スルー……?
それはまた随分と適当なシステムだね……」


「うん、でもね、
「それでいいんじゃない?」って前の『ナビゲーター』の人は言ってたんだ。
「そういう無茶なお願いをする人は、
最初から一生に一度のお願いをする資格がなかったって事でしょ?」って。
大人の人の意見だよね。
うん……、本当に素敵な人だったなあ……」


なるほど、そういう考え方もあるのかもしれない。
身の丈に合わないお願いはスルーされる……。
そう聞いて私は逆にちょっと安心出来ていた。
そもそもそんな大き過ぎるお願いが私に出来るとは思わないし、
私じゃない誰かがそんな大きなお願いを叶えてもらってるって考えるのもちょっと怖いもんね。
身の丈に合ったお願いでいいんだよね……。
うん、それなら何とか考えられそう。
勿論、まだもう少し悩んでからだけど。

私は一人で小さく頷いて、平沢さんの瞳に視線を向けた。
まだ悩んでたいし、平沢さんともう少し話してたかったけど、
気が付けば夕陽がかなり傾いて、夏の終わりの宵闇が迫りつつあった。
門限もあるし、これ以上悩んでるわけにもいかないよね。
ちょっと申し訳ない気分で、平沢さんに訊ねてみる。


「ごめんね、平沢さん。
一生に一度のお願いなんだけど、何にするかもうちょっと悩んでみてもいいかな?
今日初めて聞いた話だし、いきなり一番いいお願いなんて決められそうにないんだよね……」


「うん、気にしないで、梓ちゃん。
私だって前の『ナビゲーター』の人と長い間悩んじゃったんだもん。
悩む気持ちはすっごくよく分かるんだ……。
それにね、梓ちゃんにとって一番いいお願いを見つけてくれた方が、私も嬉しいよ」


「ありがとう、平沢さん。
それで一生に一度のお願いなんだけど、お願いの期限とかあるのかな?
流石に何ヶ月も待ってくれるってわけじゃないよね?
私としてはその方が助かるんだけど、平沢さんの方はそうもいかないでしょ?」

「それは私も困るかも……。
期限は別に詳しく決まってるわけじゃないんだけど、
多分、大体一週間くらいじゃないかって前の『ナビゲーター』の人が言ってたよ。
期限を過ぎても大丈夫かって試す人も居なかったみたいだから、
期限については詳しい事は分からないみたいなんだ。
私もね、『ナビゲーター』の人と会ってから六日目にお願いを決めたんだよ」


一週間……。
妥当な期限だろうと思う。
自分のお願いについて考えるには丁度いい時間だし、
逆に一週間過ぎても決められなかったら、どれだけ経ってもお願いなんて決められない気がする。
そんなに長く考えてお願いを決められないなんて、
それこそ『一生に一度のお願いを叶える資格が無かった人』だと思う。

私はまた頷いてから、平沢さんの手を取って口を開いた。


「うん、ありがとう、平沢さん。
これから一週間ずっと……ってわけじゃないけど、
私の一生に一度のお願いについて真剣に考えてみる。
あのね、それで……」


「うん、どうしても難しいみたいだったら私が相談に乗るよ、梓ちゃん。
私も前の『ナビゲーター』の人にお願いを探す手伝いをしてもらったんだ。
だからね……、私じゃあんまり役に立たないかもしれないけど、
梓ちゃんのお願いを見つけるお手伝いをさせてくれたら嬉しいな」


「そんな事ないよ、ありがとう、平沢さん。
じゃあ、平沢さんの連絡先を教えてもらっていい?
何かあったら連絡を……」


「あっ!」


「ど……、どうしたの、平沢さん?」


「ごめんね、梓ちゃん。
私、一つ大切な事を伝えるの忘れてたみたい。
梓ちゃんが私の話す事を信じてくれたから、もう一つシステムがある事を忘れちゃってた」


「もう一つのシステム……?」


「うん、『チャンスシステム』をどうしても信じられない人のためのシステムがあるの。
それはね、『お試しお願い』……。
何でもってわけじゃないんだけど、
一生に一度のお願い以外に、もう一つだけお試しでお願いを叶えてもらえるんだよ」


『お試しお願い』。
確かに『チャンスシステム』を信じられない人を信じさせるためには、一番の方法だろう。
口で言っても分からない人には、直接体験させてあげるのが一番だ。
とても合理的なシステムだ。
……なんだけど、これはまた妙に世知辛システムと言うか何と言うか……。
神様なのかどうか知らないけど、お願いを叶えてくれる誰かも色々苦労してるんだなあ……。

でも、実際の所、私には特に必要無いシステムだった。
平沢さんの人柄のおかげか、私はもうチャンスシステムの事を信じてるもんね。
今更、平沢さんの今までの言葉を試すような事はあんまりしたくない。
そう思って私が首を横に振ろうとした瞬間、平沢さんが微笑んで私の手を取った。
穏やかな口振りで続けてくれる。

「私を信じてくれるのは嬉しいけど、『お試しお願い』を使った方がいいよ、梓ちゃん。
『お試しお願い』を使っても何の損も無いし、折角だから……ね?
あ、心配しなくても大丈夫だよ?
何をお願いしたのかは、『ナビゲーター』の私にも分からないようになってるんだ。
一週間くらいで効力も切れるらしいから、軽い気持ちでお願いしてみて。
それが『一生に一度のお願い』を決めるきっかけになるかもしれないし……」


そこまで言われて、断る理由も無かった。
何の損も無いみたいだし、軽い気持ちでお試ししてみるのもいいかもしれない。
すぐには思い付かないけど、そうだなあ……、
好物の鯛焼きを沢山お願いしてみるって言うのも素敵かもしれない。
……って、流石にそれはお試しとは言え、勿体無いかな?

瞬間、私は平沢さんの瞳を見つめながら、一つの事を思った。
そうだよね……。
鯛焼きもいいけど、折角ならこういう事でしか叶えられないお願いの方がいいよね。
例えば、そう……。
私は決心して、平沢さんに静かに頷き掛けた。


「うん……、分かった。
じゃあ、一つ試してほしいお願いがあるんだ。
叶えてもらっていいかな、平沢さん?
……って、どうやったら叶えてもらえるのかはよく分からないんだけどね」


「あ、それは簡単だよ、梓ちゃん。
お願いを強く心に思い描いててくれる?
それで私が梓ちゃんと私のおでこを合わせるとお願いが叶うようになってるんだよ」


「また変わったお願いの叶え方だね……。
でも、分かったよ、平沢さん。
ちょっと待っててね」


そう言った後、私は前髪を右手で掻き上げた。
それから、平沢さんと軽く見つめ合う。
……何だかキスする直前みたい。
私はちょっと恥ずかしくなったけど、
平沢さんは何も気にしてないみたいにゆっくりと目を瞑った。


「じゃあ……、行くね?」


私が上擦った声で呟くと、平沢さんは目を瞑ったまま頷いてくれた。
緊張する自分に気付きながらも、
私は一つのお願いを強く胸に抱いて、平沢さんと軽くおでこを合わせた。
私は知りたいんだって強く願いながら……。

どれくらい経ったんだろう。
多分、おでこを合わせて十秒くらい経ってから、平沢さんが急に目を開いた。
私からおでこを離してから、静かに微笑んでくれた。


「うん、これで『お試しお願い』が叶ったはずだよ、梓ちゃん。
どんなお願いなのかは私には分からないから、
叶ったかどうか梓ちゃん自身に確かめてもらっていい?」


「う、うん……」

平沢さんの言葉に頷いてみたけど、別に何かが変わったようには思えなかった。
知りたかった事に対する私の知識が急激に増えたって事も無さそうだった。
家に帰ったら私の知りたかったをまとめた本でも置いてあるのかな……?
それもそれで間抜けな光景だなあ……。
まあ、どんな方法でもお願いが叶ったのなら助かるんだけど……。
それを確かめるためにも家に戻った方がいいのかな?

そう考えた瞬間、私はそれに気付いた。
耳に聞こえて来ていた音に異変が起きてるって事に。
私はその音の方向に視線を向ける。
私の視線の先では澪さんが律さんに見守られて、エアベースを弾いている。
ううん、エアベースだけならさっきまでも恥ずかしそうに弾いていたんだけど、
今は急に歌まで歌い始めていて、明らかに伸び伸びとエアベースを演じるようになっていた。


「お、急にエアベースのノリがよくなったなー、澪。
やっぱり観客が居ないと真の実力が出せるってやつか?
ミュージシャンとしてはそれもどうかと思うけどさ」


律さんがからかうみたいに言うと、澪さんが少し恥ずかしそうに苦笑した。
ついさっきまでには見た事が無い、緊張から解放された苦笑だった。


「それを言わないでくれよ、律……。
エアベースとかすっごく恥ずかしいんだぞ?
あのツインテールの子の前でも、どうにか弾けてた事は褒めてくれよ……。
勿論、学祭までにはもうちょっと緊張しないように頑張るけどさ」


「わーってるって。
おまえにしては頑張ったじゃん、澪。
知らない人の前でエアベースが弾けただけで十分な進歩だよ。
頑張ったじゃんかよ。
あのツインテールの子はいつの間にか居なくなっちゃってたみたいで残念だけどな。
澪の練習のためにももうちょっと見ててほしかったんだけどなー」


律さんが笑い、澪さんもそれに釣られて笑った。
二人きりだからこそ見せる信頼し合った笑顔……。
そんな風に見えた。
本当に羨ましく思える二人の関係だ。

でも、私の頭の中はそれどころじゃなかった。
『ツインテールの子がいつの間にか居なくなっちゃってた?』。
私はここに居るのに?
変わらず公園のベンチに座って、二人の姿を見つめているのに?
当然だけど、律さんと澪さんが私を見ない振りをしてるわけでもない。
こんな事有り得るはずない……。
有り得るはずないのに、私は何故こんな事になったのか心当たりがあった。
勿論、私のお願いのせいだ。
他にこうなる理由なんて存在するわけがない。

でも、どうしてこうなるの……?
私はこんな事をお願いしたりなんかしてないのに……。
自分の姿を『石ころ帽子』で消す事なんて願ってないのに……。
私がお願いしたのは……、そう……。


『平沢さんの事をもっとよく知りたい』ってお願いだったのに……。



今回はここまでです。
やっと冒頭が終わりました。
もたもたしてる内にサナララのリメイクが発表されて、狙ってないのに驚きました。
またよろしくお願いします。






突然の状況に私が動揺している事に平沢さんも気付いたらしい。
平沢さんは心配そうな表情で私の顔を覗き込んで、私に訊ねていた。


「梓ちゃん、大丈夫……?
『お試しお願い』、叶ったんだよね……?」


「そ……、そうだと思うんだけど……」


それ以上の事は私にも言えなかった。
確かな事は何も分からない。
何せ私の想像していた状況と全然違ってるんだもん。
私は『平沢さんの事をもっとよく知りたい』ってお願いをした。
どんな環境で生きて来たら、平沢さんみたいな素直で優しい子になるのか。
それを知りたかった。

だから、私はてっきりこの『お試しお願い』が叶ったら、
平沢さんの思い出か情報が頭の中に突然流れ込んで来るとか、
家に帰ったら誰がまとめたのか分からない平沢さんについてのレポートが置いてあったりとか、
そんなちょっと安っぽいSFみたいな状況になる物だとばかり思っていた。
むしろ、そうなる事こそ望んでいたのに……。

なのに、これは一体全体どういう事なんだろう。
まだ律さんと澪さんの様子を確認しただけだから分からないけど、
この調子だと私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているんだろう。
それは後で確かめられる事だし、後で確かめればいい事だとして、
どうして私の『お試しお願い』がこんな形で叶ってしまったかって事の方がどうしても気になった。
平沢さんに失礼かもしれない、と頭の片隅で思いながらも、気付けば私は平沢さんに訊ねていた。


「ねえ、平沢さん……。
平沢さんの『一生に一度のお願い』って何をお願いしたの?
よかったら教えてくれない?」


「えっ、どうしたの、突然……?」


「お願いってどんな形で叶うものなのかなって思って……。
だって、こんな……、ううん、ごめんね、平沢さん。
人の『一生に一度のお願い』を聞くのなんて失礼だよね。
ごめん、ちょっとびっくりしちゃって……」


「う、ううん、梓ちゃんが悪いわけじゃないよ。
でも、梓ちゃんがそう言うって事は、
『お試しお願い』が想像してた事と違った形で叶ったって事なんだよね……?
私も何となくそれは気付いてたんだ。
だって、律さんと澪さんがさっきから急に梓ちゃんの方を見なくなったんだもん。
「ツインテールの子はいつの間にか居なくなっちゃってた」って律さんも言ってたし……。
って事は、梓ちゃんも『石ころ帽子』を被った状態になっちゃったって事でしょ?」

鋭い子だな、と私は舌を巻いた。
私が何を説明するよりも先に話の先を読んでいてくれる。
気配り、観察眼、性格、何をとっても私より先んじてる。
悔しくなってくるくらいに……。
やっぱり、平沢さんの事、もっとよく知りたいな……。
って、今はそんな事を考えてる場合じゃないよね。
私は平沢さんの瞳を正面から見つめながら頷いた。


「うん、そうなんだ。
今の状況、私がお願いした事と全然違ってるの。
だから、平沢さんのお願いはどんな形で叶ったのかな、って思ったの。
失礼な事を聞いて、ごめんね」


「こっちこそごめんね、梓ちゃん。
『一生に一度のお願い』の事はちょっと内緒にさせてほしいんだ……。
流石にそれを誰かに知られるの恥ずかしくて……。
でも、私の『お試しお願い』の事なら教えてあげるね。
それが参考になったら何よりだって思うし……」


「いいの、平沢さん?」


「うん、それくらいなら大丈夫だよ。
それで私の『お試しお願い』なんだけど、
私は『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いしたんだよ」


「お姉ちゃん……?」


そういえば平沢さんは律さんと澪さんを『お姉ちゃんの同級生の方達』って言ってたよね。
一人っ子の私には分からないけど、
普通の妹はお姉さんの同級生の事を憶えているものなんだろうか。
まあ、普通に憶えているものなのかもしれないけど、
お姉さんの同級生を憶えるくらいにはお姉さんに興味がある事だけは間違いない。
ううん、むしろ平沢さんの様子を見る限り、お姉さんの事をかなり好いてるみたいだ。
大体、『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いするくらいだもんね……。
何だか自分の事しか考えていなかった私の事が恥ずかしくなってくるけど……。


「どうしたの、梓ちゃん……?」


そうやって私が複雑な表情を浮かべていたせいだろう。
平沢さんが心配そうにまた私に訊ねた。
いけないいけない、今は平沢さんのお願いの事だ。
私は軽く自分の頬を叩くと、平沢さんに視線を向け直した。

「ごめんね、またちょっと考え事しちゃってたみたい。
とにかく、平沢さんはお姉さんの元気と幸せをお願いしたんだよね?
そのお願いはどうだった?
お姉さん、元気で幸せになってた?
……って、傍から見てるだけじゃ、
元気なのか幸せなのか分かりにくいかもしれないけど」


「そんな事無いよ、梓ちゃん。
『お試しお願い』が叶って一週間、お姉ちゃんすっごく幸せそうだったよ。
夏の暑さに弱いお姉ちゃんなんだけど、
その一週間はすっごく元気だったし、幸せそうに微笑む事も増えてたもん。
本当に元気で幸せになれてたんだと思うなあ……」


そう言ってから平沢さん自身も幸せそうに微笑んだ。
お姉さんの幸せが平沢さん自身の幸せでもあるんだろうな。
でも、その数秒後、平沢さんの笑顔は少しだけ曇った。
幸せなのに幸せじゃない……、そんな感じの表情に見えた。
私がそれを指摘するより先に、平沢さんはまた微笑んで話を続ける。


「だからね、梓ちゃん。
『お試しお願い』はちゃんと叶ってるんだと思うよ?
想像してた形とは全然違ってるのかもしれないけど、きっと叶ってるんだと思う。
何か心当たりないかな?
よかったらでいいんだけど、梓ちゃんの『お試しお願い』が何だったのか訊いてもいい?」


「あ……っと、それは……」


私は口ごもってしまう。
親身になってくれる平沢さんに真実を話したい気持ちはやまやまだけど、
流石に面と向かって『貴方の事を知りたかったから』って本人に伝えられる度胸は私には無い。
だから、私はちょっと嘘を吐いていた。
完全な嘘ではないけど、本当でもない事を口にしてしまっていた。


「私の『お試しお願い』はね……、えっと……。
『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いだったんだ」


「私と同じ生活……?」


「うん、だって、平沢さんっていい所のお嬢さんっぽいじゃない?
だから、どんな生活をしてるのかなって気になっちゃって……。
セレブリティな生活を体験してみたかったんだよね」


「ええっ、私がお嬢さんだなんて、そんな事無いよ、梓ちゃん。
私の家、普通だし、私自身だって普通だよ?
お嬢さんっぽい所なんて無いと思うんだけど……」


「ううん、それこそ無いよ、平沢さん。
平沢さんの家は本当に普通の家なのかもしれないけど、
平沢さん自身はすっごくお嬢さんの貫録を漂わせてるもん。
落ち着いてるし、気配りも出来るし、
優しく私に『チャンスシステム』の説明もしてくれるし、だから……」

平沢さんの事が知りたかったんだ、
って心の中だけで言ってから私は軽く苦笑した。
誤魔化しから出た言葉だったけど、
あながち今の状況に繋がってなくもないって感じたんだよね。
私は苦笑を浮かべたまま、平沢さんに向けて言葉を続けた。


「何か……分かっちゃったかも……。
私、『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いをしたでしょ?
それを神様か仏様が変な風に受け取っちゃったんじゃないかな?
『平沢さんと同じ生活をしたい』って事は、平沢さんと同じ様な状態になりたい』。
つまり、『平沢さんと同じく石ころ帽子を被った状態になりたい』ってお願いか!
って、お願いを叶えてくれる誰かさんが勘違いしちゃったのかも」


「そ……、そうなのかな……。
そんなに適当でいいのかな、『チャンスシステム』って……」


「分からないよ?
大体、あんまり無茶なお願いはスルーするって変わった神様じゃない?
それくらい適当な所があるのかも」


そう言って私が笑うと、平沢さんも困ったように苦笑してくれた。
口から出任せを並べてみただけだけど、何故かそれが正解な気がする。
お願いを叶えてくれるのは結構適当な神様みたいだから、
『平沢さんの事が知りたい? だったら平沢さんと同じ状態になってみたら?』、
って考えたのかもしれないし、その想像は多分間違ってないだろうな。
本当に適当な神様だなあ……。



お久しぶりです。
今回はここまでです。
もうすぐ一日目が終わります。

でも、神様だか誰なんだかが何を考えていたにしても、
こうなってしまった以上は『お試しお願い』を取り下げる事は出来ない気がする。
もしも訂正しようともう一度お願いを試してみて、
それが『一生に一度のお願い』と勘違いされて叶えられても困るしね……。
勘違いで叶えられちゃった一つ目のお願いかあ……。
何だか私らしいと言うか何と言うか。

何となく平沢さんの表情を窺ってみると、
平沢さんの責任じゃないのに申し訳なさそうに肩を落としていた。
面倒見のいい性格だけに、何でも自分の責任として考えちゃう子なのかもしれない。
私は慌てて平沢さんの肩に軽く手を置いた。


「そんな顔しないで、平沢さん」


「で、でも……、折角の梓ちゃんの『お試しお願い』がこんな事になっちゃって……。
私がもっとちゃんと詳しく説明していれば、こんな事には……」


「いいんだってば、気にしないで。
変な勘違いしちゃった神様が悪いんだし、
私だって我ながら変なお願いをしちゃった気もするしね。
だから、これは平沢さんの責任じゃないよ。

それにね、これで一応は『お試しお願い』の効力が確かめられたわけでしょ?
『チャンスシステム』の事は実はまだ半信半疑だったけど、
こんな事になっちゃった以上、もうシステムの事を信じるしかないもん。
そういう理由ではしっかり『お試しお願い』の意味があったんだなあ、って私は思うよ」


「そう……かな……。
梓ちゃんがそう考えてくれてるんだったら、私も安心出来るんだけど……」


「うん。だから、気にしないで、平沢さん。
これは変なお願いをしちゃった私の責任なんだし、
『一生に一度のお願い』の時はもっとちゃんとお願いについて考えるから」


その言葉は平沢さんへの慰めからの言葉でもあったけど、本心からの言葉でもあった。
実は『一生に一度のお願い』の事は本気で考えたい、
って気持ちは平沢さんの事を信用する前から既に私の中にあった。
『一生に一度のお願い』の事を平沢さんから話された時、
それが本当に叶うにしろ、叶わないにしろ、それは考えなきゃいけない事だって思ったから。
自分の進んでいく将来のために……。

私は中学三年生だ。
受験をもう少し先に控えた時期……。
将来について考えるのには、少し早い時期かもって気は勿論してる。
だけど、私の夢の一つについて考えるのには、遅過ぎる時期でもあった。
考えなきゃいけないんだ。
私の夢の内の一つを諦めるか、継続させるのかどうかを。
だから、『チャンスシステム』の話を抜きにしたとしても、
私は自分の叶えたい『一生に一度のお願い』を考えなきゃいけないんだと思う。
そういう意味で、私は今の時期に平沢さんと出会えただけでも運が良かった気がする。

まだ私の中でそのお願いがはっきり固まってるわけじゃない。
固まらせられるかどうかも分からない。
でも、この『お試しお願い』の効力が続くらしい一週間、
私はその『一生に一度のお願い』を精一杯探して行きたい。
それがこの先、あの子との付き合い方を決めるって事にもなるんだろうから……。

だけど、それよりも何よりも。
私達には決めなきゃいけない事がたくさんあった。
私は少し申し訳ない気分になりながら、平沢さんに訊ねてみる。


「ところで平沢さん……、これからどうしよう?
さっきも言ったけど、私、『一生に一度のお願い』についてよく考えてみたい。
『お願い』が出来る期限が来るまで、考えたいんだ。
平沢さんはそれでもいい?」


「うん、それは勿論だよ、梓ちゃん。
私だって梓ちゃんには一番いい『一生に一度のお願い』を見つけてほしいもん。
私もね、自分のお願いを見つけるのには、丸ごと一週間掛かったんだ。
その間、前の『ナビゲーター』の人は私の事を待っていてくれたの。
私も梓ちゃんにそうしてあげたいから、
梓ちゃんはこの一週間、自分の『一生に一度のお願い』について考えてみて。
そうしてくれた方が、私だって嬉しいな」


「ありがとう、平沢さん」


私が軽く微笑み掛けると、平沢さんも柔らかく微笑んでくれた。
その微笑みはとても嬉しかったけど、同時にちょっとだけ私の胸は痛んだ。
一週間後……、じゃなくて、
お願いが叶った後は私も『ナビゲーター』をやらなきゃいけないから、約二週間か。
その約二週間後には、私の心の中から平沢さんの記憶は消えてしまうらしい。
折角いい友達になれそうだったのに、何だかとても……残念だな……。
でも、その分、私はこの一週間で平沢さんの事を本気でよく知ろうと思う。
例え消えてしまう思い出だとしても、
それには何かの意味があるはずだって思いたい。

私がそうして一人で決心していると、
不意に平沢さんが私の両手を握って私の瞳を覗き込んだ。
顔を少し赤く染めながら妙に真剣な表情で、平沢さんはその口を開いた。


「あの……、それでね、梓ちゃん……。
凄く突然で不躾な事を言うかもしれないんだけど、
あのね……、梓ちゃんに一つお願いしたい事があるんだ……」


平沢さんはそのお願いを私に申し出た。
その申し出は私にも願ったり叶ったりで、
断る理由なんて全然無かったら、快く了承させてもらった。

ちなみに公園から自宅に戻る直前、
念の為に澪さんの耳元に息を吹き掛けてみたけれど、
律さんと同じく、澪さんも私の姿に気付いた様子は無く、
「急に耳に息を吹き掛けるな!」と律さんの後頭部を強く叩いただけだった。
半分以上分かってはいた事だけど、
やっぱり私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているらしい。
それはそれとして。
私達のせいで二回も澪さんに叩かれる事になって、ごめんなさい、律さん。
いつか何かでお詫びが出来ればいいんだけど、出来る機会があるかなあ……?






「平沢さんが私に会えて嬉しかった理由がよく分かったよ……」


自室のベッドに腰を下ろしてから、私は大きく溜息を吐いた。
平沢さんが私の猫型クッションに正座をしてから、軽く苦笑して頷く。


「あはは、分かってもらえて嬉しいな。
それにしても、結構危なかったよね、梓ちゃん。
大丈夫? 怪我は無かった?」


「あ、うん、それは大丈夫。
でも、本当に危なかったし、びっくりしちゃったよ……。
あの時、平沢さんが私の手を引いてくれなきゃ、
大怪我どころか死んじゃう所だったと思うなあ……。
ありがとね、平沢さん」


「ううん、梓ちゃんが元気なら何よりだよ。
あ、そういえば前の『ナビゲーター』の人が言ってたんだけど、
『ナビゲーター』はどんな状態になっても死なないんだって。
大怪我をしても、お腹がどんなに空いても、死ぬ事は無いらしいんだよ。
……誰も試した事ないらしいんだけどね」


「試さないでしょ、そんなの……」


試したいとも思わない。
死なないからって好き好んで痛い目に遭う趣味なんて私には無いし……。

ちなみに『危なかった』と言うのは、さっき私が車に轢かれそうになった事だった。
私が信号無視をしたわけじゃない。
車の方が信号無視をしたわけでもなければ、
道路で轢かれそうになってた子猫を助けようと私が飛び出したわけでもない。
私も平沢さんも車も交通法規を守っていたけれど、結果的に私が轢かれそうになってしまったのだ。

交差点の横断歩道の信号機が青になった時だった。
青信号を確認した私が普段通り横断歩道を渡ろうとした瞬間、
交差点を左折しようとした車と私が衝突しそうになってしまったのだ。
平沢さんが私の手を引いて歩道に引き寄せてくれたから難を逃れたけど、
車は私の事なんか見向きもせずにそのままクラクションも鳴らさずに直進して行った。
何て危険なドライバーだろう、と一瞬考え掛けたけど、すぐに考え直した。
そうだった。
私は『石ころ帽子』を被ってしまっているんだ。
車のドライバーは危険な運転手だったわけじゃなくて、単に私達の姿が見えてなかっただけなんだ。

そう考えた途端、ぞっとした。
私の姿が見えていないという事は、私を轢いても何の気にもしないという事なんだ。
気にしないどころか気付かないって事なんだ。
これは怖いなあ……。
ちょっとそこまで歩くだけでも命懸けだ。
平沢さんが言うには『ナビゲーター』は死なないらしいけど、そういう問題じゃない。
さっき平沢さんと初めて公園で会った時、妙に平沢さんが嬉しそうだった理由がよく分かる。
私に出会えた事も勿論嬉しかったんだろうけど、
私に出会うまでの道程が心底大変だったに違いない。
私と違って一人きりで私を探していたわけだし、その心細さは察して余りあるくらいだ。

大変だったんだね、平沢さん。
そう言おうと思って口を開いた瞬間、「あのね」と平沢さんが先に言葉を口にした。
別に今伝えないといけない言葉でもない。
私は口を噤んで平沢さんの次の言葉を待つ事にした。
数秒後、少し躊躇いがちに平沢さんが言葉を続ける。


「私の我儘を聞いてもらっちゃってごめんね、梓ちゃん。
迷惑だったでしょ?
急に梓ちゃんの家に泊めてほしいなんて……」


来る前から遠慮がちだったけど、
申し出を私に簡単に受け入れられた事で、
余計に平沢さんの私への申し訳なさが膨れ上がってるみたいに見えた。
初対面の相手の家に泊まりたいって言い出すだけでも、
平沢さんには相当に勇気の居る事だったんだろうしね。
本当の事を言うと、私だって初対面の相手を泊めてあげる社交性なんて無い。
今だってちょっと緊張してる。
でも、平沢さんを泊めてあげたいって思ったんだ。
それは私が平沢さんともっと話がしてみたかったからでもあるけど、
私の家に泊まりたいって申し出た時の平沢さんの表情が寂しそうでもあったからでもある。

どうしてそんなに寂しそうなんだろう。
その平沢さんの気持ちは自宅に戻った時にちょっとだけ分かった。
自宅に戻った時、お父さんはいつの間にか家に帰って来ていて、お母さんと夕飯を食べていた。
私の夕飯を用意しないで、二人で談笑しながら、夕飯を食べていたんだよね。
これは私の胸もかなり痛くなった。
勿論、お父さん達が私を無視してるわけじゃない。
私が『石ころ帽子』を被った事で、存在自体を気にしなくなってしまってるんだろう。
それを分かってはいても、その光景はやっぱり辛かった。

私は別にお父さんとお母さんと仲良しってわけじゃない。
クリスマスくらいには家族で過ごす事もあるけど、それ以上仲良くしてる憶えはない。
だけど、別に仲が悪いってわけでもない、普通の家庭環境だと思う。
私の年頃だとそれくらいが当然だろう。

でも、多分、平沢さんは違う。
平沢さんがお姉さんを大切にしてる事は初対面の私にもよく分かる。
何せ『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いをするような子だ。
自分よりお姉さんの事を第一に考える子なんだ。
きっとお姉さんの事が本当に大好きなんだろうって思う。
そのお姉さんに自分の存在が気付かれないなんて、
傍に居ても気付いてもらえないなんて、どれだけ辛い事なんだろう。
一人っ子の私には想像すら出来ない。
だから、せめて私は平沢さんの申し出を叶えてあげたくなったんだ。
短い間だけど、その間くらいは……。

私は出来る限り優しく平沢さんに微笑み掛ける。
笑顔が得意なつもりはないけれど、微笑んであげたかった。

「いいんだって、平沢さん。
私も平沢さんともっと話してみたかったし、お願いを叶えてもらう立場なんだしね。
私に出来る事でよければ何でも言ってよ」


「でも、それじゃ、梓ちゃんに悪い気がして……」


言いながら、平沢さんが頬を赤くして私から目を逸らす。
人に気配りが出来る子なのに、他人から何かされる事には慣れていないのかもしれない。
何となく、勿体無いな、と思った。
これだけ誰かの事を考えられる子なんだから、
平沢さん自身だって誰かから大切にされてもいいはずだ。
ただ、それを伝えるには、まだ私では説得力が足りない気がした。
そういう言葉を伝えられるのは、もっと平沢さんと仲良くなった友達だけだ。
そうでない人間が何を言っても嘘っぽいだけだろう。

だから、私は思い付いた事を言った。
さっき律さんと澪さんを見ていて、思い付いた事。
それをきっかけとして、平沢さんの事をもっとよく知れたら。
それこそ私のためにも、平沢さんのためにもなる事だと思う。
特に今の私は都合良く『石ころ帽子』を被ってる状態になってるんだしね。

私はベッドから腰を上げて、平沢さんの二の腕を軽く掴んだ。
わざとらしくちょっと悪い笑顔を浮かべて、申し出てみる。


「そうだ!
だったら平沢さん、私のお願いも聞いてくれない?
勿論、『一生に一度のお願い』じゃない方のお願いね。
私が平沢さんのお願いを聞く代わりに、平沢さんも私のお願いを聞いてくれる。
これなら平沢さんだけが気に病む必要は無くなるでしょ?
これこそ等価交換だよ」


「えっ……?
う、うん、私に出来る事でよければ……」


「ありがと、平沢さん。
じゃあね、私、ちょっと行ってみたい所があるんだけど……」



今回はここまでです。
一日目終了です。またお願いします。






「練習、始まらないね……」


私はちょっと呆れながら、平沢さんと顔を合わせて呟いた。
平沢さんはそれには何も答えずに苦笑して、軽く首を傾げるだけだった。
確かに平沢さんの立場としては、どうにも反応しにくいだろうけどね……。

部室。
とは言っても、私の部室でも平沢さんの部室でもない部室。
私達は長椅子に腰を下ろして、昨日顔を知ったばかりの人達の部室に来ていた。
私達が座る長椅子の先、音楽室には不似合いな机が並べて固められている。
そこでは三人の女子高生が紅茶を飲んで談笑していた。

カチューシャをしたショートヘアの律さん。
流れる黒髪が綺麗で美人の澪さん。
それともう一人、こんな所に居るのが不自然にしか思えない柔らかい金髪の人が居た。
金髪の人は紬さんと言う名前で、この部のキーボードを担当しているらしい。
ちなみに昨日見た通り、律さんはドラマー、澪さんはベーシストなんだそうだ。
それは全部、私の隣で苦笑している平沢さんが教えてくれた事だった。

そう。ここは桜が丘女子高等学校の軽音部部室。
私が平沢さんに無理に頼んで連れて来てもらった場所だった。
昨日、律さん達が公園でバンドの練習をしているのを見て、私、思ったんだよね。
ひょっとしたら、律さん達は学校で軽音楽部かジャズ部にでも入ってるんじゃないかって。
平沢さんに訊ねてみたら、私の想像は正しかったみたいで、
律さん達は平沢さんのお姉さんと同じ、桜が丘女子高等学校の軽音楽部に所属していると教えてくれた。

それが分かった途端、私は律さん達の姿をどうしても見たくなった。
一つ年上らしいけど、同じ年頃の女の子達がどんな音楽活動をしてるのかを。
それも何の飾りも無い本当の意味での生の姿を。
それが私の夢と『一生に一度のお願い』にとって大切な事だと思ったんだ。

その意味で、私は幸運だったんだろう。
今の私は、神様の勘違いか、適当なシステムの弊害か、
とにかくそんな偶然で、平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被ったみたいな状態になってしまった。
誰にも気にされないし、誰にも気付かれない妙な状態に。
困った状態では勿論あるけど、これは使えるかもしれないって私は気付いた。
この状態なら誰にも気付かれないし、誰にも迷惑を掛けずに目的を果たす事が出来るもんね。
律さん達の軽音楽部の生の活動が、この目で見る事が出来るんだもん。
いい加減な神様だけど、その辺だけは感謝してもいいかもしれない。

だけど、一つだけ気がかりな事もあった。
平沢さんのお姉さんの事だ。
平沢さんはお姉さんとかなり仲がいいみたいで、
お姉さんに他人相手の視線を向けられるどころか、
『石ころ帽子』の効果で完全に無視されてしまう事を相当辛く思ってるみたい。
私だってそれなりの仲のお父さん達に完全に無視されてしまうのは、かなり胸が痛んだ。
平沢さんの辛さは私なんかには想像も出来ないくらいだと思う。
だから、お姉さんが所属する部の部屋に案内して、なんて本当は頼みづらかった。
平沢さんが辛いみたいだったら、部室の大体の場所だけ教えてもらって一人で行こうかとも考えてたくらい。
幸い、桜が丘女子高校……桜高は受験するつもりだったから、場所くらいは知ってるしね。

でも、平沢さんは昨晩した私のお願いを快諾してくれた。
「お姉さんが居るかもしれないのに、いいの?」と恐る恐る訊ねると、
「最近、お姉ちゃんは顧問の先生の家で特訓してるから、部室に顔を出してないみたいなの」と笑ってくれた。
そういえば昨日、律さんがもうすぐ学祭って言っていたような気がする。
平沢さんのお姉さんはその特訓をしてるんだろう。
その偶然は私にとっても、多分、平沢さんにとっても好都合だった。
本音を言うと、平沢さんのお姉さんがバンドのギタリストらしいから、
同じくギターをやってる私としては一番見ておきたかったんだけど、そこまで望んだら流石に罰が当たるよね。

そういうわけで、私は自分の中学を休んで桜高の軽音楽部に行く事にしたんだよね。
学校をサボるのなんて初めてだったからちょっと緊張したけど、
平沢さんが言うには、この『チャンスシステム』中は何故か欠席扱いにならないらしかった。
『石ころ帽子』の効力なのかどうかは分からないけど、これはまた律儀な神様だなあ……。
余計な事を考えずに『一生に一度のお願い』の事だけを考えなさい、という事なんだろう。
色んな所で抜けてながら気配りが出来る、って本当に変な誰かさんだ。
おかげ様で欠席に何の罪悪感も無く……、
ってわけにはいかなかったけど、少しだけ救われた気分で桜高に向かう事が出来た。

桜高に到着したのはお昼の二時過ぎになった。
朝ごはんを食べたり、色んな用意をしている内に、遅くなっちゃったんだよね。
部活は放課後からだからそれでも何の問題も無いんだけど、
そんな事より困ったのが朝ごはんの時の平沢さんの行動だった。
昨日の夕飯は適当に置いてあったカップ麺を食べたんだけど、
平沢さんは「もう食べたから」と言って、もう一つあったカップ麺に手を伸ばそうとはしなかった。
その時は、そうなんだ、としか思わなかった。

異変に気付いたのは今日の朝の事。
お父さん達が家から出た後に食パンを二人分焼いて、
平沢さんの前に置いても平沢さんは食パンを食べようとはしなかった。
「今、お腹空いてないから」と平沢さんは呟いたけど、
その空腹に満ちた表情で言われても、何の説得力も無かった。
流石にもう私にも平沢さんの嘘は通じない。
心配になって平沢さんを問い詰めてみると、
『ナビゲーター』になってから一食も口にしてない、としばらく後に告白してくれた。

どうも自宅とは言え家の物を勝手に食べる事に抵抗があったらしく、
丁度タイミング悪くお小遣いもほとんど無くなった所だったから、自動販売機とかでの買い食いも出来なかったらしい。
「でもでも! 『ナビゲーター』の人はお腹空いても死なないらしいから大丈夫だよ!」と、
平沢さんが無理な笑顔を浮かべて言ってたけど、いやいや、そういう問題じゃないでしょ、平沢さん……。
お腹はしっかり空いてるみたいだし……。
それから私は「いいから食べてよ、平沢さん」と言ったのに、中々首を縦に振ってくれはしなかった。
「梓ちゃんの家の物を勝手に食べるなんて出来ないよう……」というのが平沢さんの弁だった。
どうにも生真面目なだけでなく、意外と頑固な所もあるらしい。

どうしたらいいものか長い事考えて、結局私は単純な折衷案を出す事しか出来なかった。
単純で簡単な折衷案だ。


『私の家の物を勝手に食べる事に抵抗があるのなら、
平沢さんに私の家の用事をやってもらって、そのお礼に私がごはんを提供するから』


その案で平沢さんはようやく折れてくれた。
他の家事はともかく、ごはんの調理だけはお母さんに頼り切っていたから、私としてもその方が助かった。
お恥ずかしい話だけど、正直言って一週間のごはんのレパートリーを考える自信は無いしね。
だからと言って、お母さんの財布からお金を抜いて自動販売機の食べ物で済ませるわけにはいかないし、
いくら姿に気付かれないからと言っても、お店の物を勝手に盗んで食べてしまう事にもかなり抵抗がある。
だから、これは私にも平沢さんにもいい案のはずだと思う。

外見と雰囲気に違わずと言うか、平沢さんの家事の腕前はかなりのものだった。
空腹なはずなのにあっという間に朝食と昼食のお弁当を調理し終わると、
少しだけ申し訳無さそうな顔をして、ようやくごはんに箸を付けてくれた。
ごはんを食べながら平沢さんが言うには、
平沢さんのご両親は家を留守にしがちで、お姉さんのごはんの用意をよくしているんだって。
普通は逆でしょ、と思ったけれど、私はそれを口にしなかった。
お姉さんの事を話す時の平沢さんの顔が本当に幸せそうだったからだ。
やっぱりお姉さんの事が大好きで大好きで仕方が無いんだろう。
それが平沢さんの優しさや思いやりに繋がってるのかな?
私にも大切な誰かが出来れば、平沢さんみたいに誰かに優しく出来るのかな?
それはまだ、分からない。

私が前に作った物より数倍は美味しいごはんを食べてから、私達は私服で桜高に向かった。
平沢さんには私の服を貸してあげた。
服の寸法は身長はともかく、胸の方をきつく感じてたみたいだけど、
平沢さんは何も言わないでくれたし、私もそれについては触れない事にした。
まだ……、まだ中三なんだから、私は。
その内、驚くくらいに背も伸びて、胸も膨らんで来るはずなんだから……。
膨らんで来る……よね……?

平日の昼間に私服で歩いているにも関わらず、誰にも見咎められる事は無かった。
それどころか誰も私達の方に視線すら向けない。
分かってはいた事だけれど、やっぱりそれは怖かった。
私達だけが世界の片隅に残されたみたいだったし、
誰にも気付かれないって事は、誰にも助けてもらえないって事でもあるんだから。
私達は出来るだけ車の通りの少ない道を選んで、
注意深く歩きながら色んな話をしていると、いつの間にか桜高に辿り着いていた。

桜が丘女子高等学校。
オープンキャンパスで二回ほど来た事があるけど、自由に行動するのは初めてだった。
平沢さんも少しだけ緊張しているらしく、息を何度も呑んでいるみたいだった。
もっとも、それは桜高の雰囲気に緊張しているわけじゃなくて、
何処かでお姉さんと顔を合わさないか、って緊張の方が大きいみたいだったけど。
軽音楽部の部室の場所はすぐに分かった。
平沢さんが場所を完璧に憶えていたからだ。
お姉さんの忘れ物を届けに、何度か部室に顔を出した事があるんだとか。
本当にどっちがお姉さんなんだろう……。

時計を見ると二時ちょっと過ぎだったから、私達はまずお弁当を食べる事にした。
校長先生(?)の銅像の前に陣取って、二人でお弁当箱を広げる。
お弁当自体は朝ごはんと同じく美味しかったんだけど、一つだけ気になった事がある。
一年生のタイを着けて横の髪を巻き毛にした女子生徒が、休憩時間中に私達の方に視線を向けた事だ。
『石ころ帽子』の状態の私達を見る事は出来ないはずだから、気のせいだと思うんだけど……。
それとも、いい加減な神様だから、たまには誰かに見られる事もあるのかなあ……?
でも、例えその巻き毛の人に私達の姿が見えた所で、何かが変わるわけでもないか。
私はその人の事を出来るだけ気にしないようにしてお弁当を食べ終え、
平沢さんと体育館や講堂なんかを見学していると、気が付けば放課後になっていた。
そんなこんなで軽音楽部の部室に入って、部員の三人の様子を見てるわけなんだけど……。


「もう一時間になるよね……」


溜息がちにまた私が呟く。
そう。私達が部室に入って一時間にもなるのに、律さん達は全然練習を始めようとしなかった。
それどころか紬さんっていうお嬢様っぽい人に紅茶を淹れてもらって、
「今日のおやつはモンブランですよー」と紬さんの持参の物らしいおやつを食べている。
一時間も音楽の話すらせずに、のんびりと今日あった出来事なんかを話しているんだよね……。


「ここ、本当に軽音楽部だよね……?」


何だかかなり自信が無くなって来たから、
遂に私は何度も言おうとしながら言えずにいた事を平沢さんに訊ねてみる。
これじゃ軽音楽部じゃなくてお茶会部じゃない……。
私の気持ちを察してはいてくれたらしく、平沢さんは私の肩に軽く手を置いてくれた。

「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん。
今はちょっと充電期間なだけじゃないのかな?
それにね、「ムギちゃんのおやつを食べると元気に演奏が出来るんだよ!」って、
前にお姉ちゃんも言ってたよ!」


ムギちゃんと言うのは、紬さんのあだ名なんだろう。
と言うか、なるほどね……。
平沢さんのお姉さんが居ないからのんびりしてるわけじゃなくて、元からこういう雰囲気の部なんだ……。
学祭前だって言ってたのに、大丈夫なのかな、この部……。
私が見たかったのは、こういう部活動じゃなかったんだけどな……。
いや、確かにこれも、私の望んだ音楽活動をする女の子達の飾りの無い姿ではあるけど……。
あるんだけど……、これは違う気がする……。


「大丈夫。大丈夫だって、梓ちゃん。
お姉ちゃん、言ってたもん!
澪ちゃんのベースはカッコいいし、
りっちゃんのドラムを聴くと元気になるし、
ムギちゃんのキーボードも上手で、作った曲も可愛いし、って!」


「ひ、平沢さんがそう言うんなら……」


平沢さんの言葉に押され、私は軽く頷いた。
平沢さんがお姉さんの言葉を信じ切ってる以上、私も平沢さんの言葉を信じるしかないよね……。
平沢さんのお姉さんがどんな人なのかはまだ知らないけど、多分かなりのんびりした人なんだろう。
でも、この平沢さんが慕ってる以上はいい人なんだろうと思う。
そうだよね……。
私も真面目過ぎるって言われる事も多いし、意外とこれが普通の女子高生なのかもしれない。
私は深呼吸をして落ち着いてから、律さん達の会話に耳を傾けてみる。


「なあ、澪ー。ユイの奴、どんな特訓してんだと思う?
歯ギターとか教えてもらってんのかな?」


「学祭に必要無いだろ、そんなテクニック……。
さわ子先生もあれで音楽には真面目な先生なんだから、
きっとちゃんとギターを弾きながら歌えるように特訓してくれてるよ。
……多分」


「多分って何だよ、さわちゃんも信用無いなー……。
まあ、あんな本性を隠してる先生だとは、私も思わなかったけどなー。
でも、私、さわちゃんの事嫌いじゃないぞ。
面白いじゃん! なあ、ムギもそう思うだろ?」


「うん、私もそう思うな。
さわ子先生があんなに元気な先生だとは思ってなかったけど、
でも、何だか頼り甲斐があって面白い先生だし、とっても素敵だと思うな。
私ね、さわ子先生が顧問になってくれてすっごく嬉しいし、ドキドキしてるの」


「ドキドキ……ね」


澪さんが曰くありげに苦笑し、律さんと紬さんが首を傾げた。
一応、雑談レベルだけど、少しは音楽の話になってきた……のかな?
話を聞く限り『ユイ』さんが平沢さんのお姉さんで、
『さわ子先生』が顧問の先生で、『ユイ』さんの特訓をしてるって事なんだろう。
『ユイ』と『ウイ』で姉妹なんて、何だか可愛らしくて羨ましい。

……あ。
そういえば、まだ訊いてない事があったんだ。
私は平沢さんの方に視線を向け直して、気になっていた事を訊ねてみる事にした。

「平沢さんって『ウイ』って名前なんだよね?
突然だけど、どんな漢字を書くか教えてもらっていい?
羽に衣で『羽衣』とか?」


「あ、ううん、その漢字じゃないんだ。
憂鬱の『憂』でウイって読むんだよ」


「それは……、えっと……、予想外の漢字だね……。
本当に憂鬱の『憂』でウイなの?
こう言うのも失礼なんだけど、その漢字、あんまりいい意味が無いんじゃ……」


本当に失礼な発言だったと思うけど、平沢さんは穏やかに笑ってくれた。
無理をして笑ってるとか、怒りを隠してるとかじゃなくて、心の底から優しい笑顔だった。
その笑顔のまま、平沢さんが言葉を続けてくれる。


「あははっ、やっぱりそう思っちゃうよね。
でも、私、憂って名前好きなんだよ、梓ちゃん。
『憂』って漢字ね、部首のにんべん……人が加わると『優』しいになるでしょ?
『誰か人と関わって、優しい子になってほしい』。
それで『憂』って漢字の名前になったらしいんだ……」


「そうなんだ……。それなら納得のいい名前だね……」


「なんちゃって」


「えっ?」


「ごめんね、梓ちゃん。
私ね、本当は私の名前の漢字の本当の意味は知らないんだ。
今のはお姉ちゃんが教えてくれた話なの」


「お姉さんが……?」


「小学生の頃ね、ちょっと意地悪な子とか居るでしょ?
悪気は無いんだろうけど、その子がね……、
私の名前の漢字にあんまりいい意味が無いって事に気付いて、からかって来たんだ。
他の事なら何とか出来るかもしれないけど、名前の事ばっかりはどうしようもないよね?
だから私、どうしようもなくて一人で落ち込んでたんだけど……、
落ち込む私を心配したお姉ちゃんが私の相談に乗ってくれて、言ってくれたんだ。
「憂って漢字は人と一緒に居たら、優しいって漢字になるんだよ!
その証拠に私と一緒に居る時の憂はすっごく優しいよね!」って。

本当の所は分からないし、お父さん達は違う意味で私に名前を付けたのかもしれない。
でも、お姉ちゃんがそう言ってくれるならそれでいいんだ、ってそう思ったの。
私はそれでとっても幸せなんだ……」


優しい顔をした平沢さんが懐かしげに呟く。
平沢さんもいい妹みたいだけど、お姉さんも素敵な人なんだ……。
平沢さんには仲の良いお姉さんが居る……。それがとっても羨ましい。
『一生に一度のお願い』は『お姉ちゃんが欲しい』にしようかなって、半分本気で思う。
勿論、そんなわけにもいかないけどね。
特に私のお姉ちゃんなんて、私と同じで可愛くないお姉ちゃんになりそうだし……。

「あっ、ご、ごめんね、梓ちゃん。
何か変な話しちゃって……!」


平沢さんがはっとした表情で、私に何度か頭を下げる。
ううん、全然、変な話なんかじゃないよ、平沢さん……。
私も何だか優しい気持ちになって、ゆっくり首を横に振る。
それで少し照れてしまったのか、平沢さんが少し頬を赤らめて言った。


「あ、ちなみにね、
私のお姉ちゃんはユイって名前で、漢字は唯一の『唯』って書くんだよ。
私のたった一人の唯一のお姉ちゃんなんだよ」


「『唯』と『憂』……。
うん、二人ともいい名前だよね……。
いいなあ、私も名前の由来を詳しくお父さん達に訊いてみようかな。
勿論、この『石ころ帽子』の状態が終わってからだけどね」


「ねえ、梓ちゃん……?
何度も言うみたいだけど、私、自分の名前が大好きなの」


「うん、いい名前だって私も思うよ、平沢さん」


「だからね、私、梓ちゃんには『憂』って名前で呼んでほしいな。
もう梓ちゃんの事は名前で呼んでるし、
私ね、自分だけじゃなくて皆の名前の事も好きなんだ。
どんな名前にも意味があるんだって思うし、
お姉ちゃんのおかげでそう思えるようになったし、だからね……」


そうなんだ、と妙に納得した。
平沢さんはほとんど最初から、私の事を名前で呼んでいた。
それだけじゃない。
律さん、澪さん、紬さん。
自分とそう関わりの無いお姉さんの友達も、名前で呼んでいたんだ。
自分の名前と同じくらい、他の誰かの名前も大切にする子だから……。
だったら、その話を聞かせてもらった私も、
平沢さんと同じ様に名前を大切にするべきじゃないのかな?

私は大きく息を吸って、顔が熱くなるのを感じながらも、
平沢さんの瞳を強く見つめて、精一杯の声で伝えてみせた。


「じゃあ、憂……ちゃん……」


「うん、梓ちゃん……」


「何て言うか、えっと……、残り六日、よろしくね、憂ちゃん……」


「こちらこそ改めてよろしくね、梓ちゃん!」



今回はここまでです。
ようやくお話が進んできました。






「梓ちゃんも音楽をしてるんだよね?」


帰宅後、夕飯を食べて一息吐いた時、憂ちゃんが少し躊躇いがちに私に訊ねた。
そんなに遠慮しなくてもいいのに、とは思ったけど、
そういえばまだ憂ちゃんに私が音楽をしている事を伝えてなかった気がする。
軽音楽部を見学に行きたいってだけで、
憂ちゃんには伝わってるだろう、って一人で勝手に勘違いしちゃってたみたい。
そうだよね。
ちゃんと伝えないと、私が音楽をしている事なんて分かるはずもないよね。
私は自分の勝手な思い込みに首を振ってから、小さく頷いて言った。


「そういえば、まだ言ってなかったね。
うん、私、小学生の頃から音楽をやってるんだ。
こう見えて音楽一家なんだよね……、って家を見れば分かるけどね。
レコードとかたくさんあるもんね」


私が苦笑すると、憂ちゃんは安心したように微笑んでくれた。
訊いちゃいけない事だと思っていたのかもしれない。
でも、そう思われても仕方無いか……。
憂ちゃんのお姉さん達の軽音楽部に見学に行きたい、
って頼んでおきながら、自分が音楽をやってる事を口にしないなんて不自然過ぎる。
今だって……。

そう。
今だって、私は音楽をやっているとは伝えたけど、楽器の話を自分からしていない。
自分がギターを弾いてる事を、自分から伝えられてない。
その方が凄く不自然なのに、私は自分からギターの話をするのを避けてしまっていた。
自分でも何故だか分からないけど、口にしにくかった。

だけど、憂ちゃんももう気付いてると思う。
私が演奏している楽器はギターなんだって。
分からないはずがない。
だって、私の部屋の片隅には、ケースの中に入れられたギターが置いてあるんだから。
弾かないなら押し入れの中に片付けておけばいいのに、未練がましく部屋の隅に置いてあるんだから。
でも、憂ちゃんはそのギターについては何も訊かなかった。
憂ちゃんは人の気持ちに立って気配りの出来る子だ。
私がギターの事について触れない以上、触れてはいけない話題だと思ってくれたんだろうと思う。
だからこそ、憂ちゃんは勇気を出して、音楽の事だけについて訊ねてくれたんだろう。

憂ちゃんの気配りを申し訳なく思いながら、私は部屋の片隅のギターに視線を向けてみる。
受験勉強のために練習を中断してから、一度も弾いていないギター。
あの子との繋がりだったはずのギター。
一人で弾きたくなかったギター。
今度弾く時はあの子と一緒に弾きたい、ってそう考えていたギターだ。
でも、今なら、多分、弾いても……。
そうだよね、一人で弾くのは嫌だったけど、
憂ちゃんと一緒なら別に孤独を感じる事なんて……無いよね……?

うん、と一人で軽く頷いてみる。
今は『一生に一度のお願い』を考える時なんだもんね。
色んな事を経験しておいた方がいいはずだよね。
本当にやりたい事、本当に叶えたい事のために、
多分だけど、避けていた事もやっておくべきなんだ……。

「ねえ、憂ちゃん……」


自分でも口先がちょっと震えるのを感じながら、言葉を出してみる。
胸が、高鳴る。
色んな所から汗が噴き出して来そう……。
でも、私は拳を軽く握ってから、憂ちゃんの瞳をまっすぐに見つめた。
憂ちゃんは優しい顔で私の顔を見つめていてくれた。


「どうしたの、梓ちゃん?」


「私……、私ね……、ギターをやってるんだ」


中々言い出せなかった言葉。
簡単で、隠すほどの事じゃないのに、言い出せなかった言葉を私は言った。
半分消え入りそうだったけど、とりあえずは憂ちゃんに伝える事が出来た。


「そうなんだ」


瞬間、憂ちゃんの微笑みが輝いた。
私が少し心を開いたと思ってくれたのかもしれない。
ごめんね、憂ちゃん。
私が変な思いを胸に抱えていたせいで、変に気を遣わせる事になっちゃって……。
そうだよね、怖がらなくても大丈夫なんだよね。
受験シーズンが終われば、何もかも元通りに戻るはずなんだもんね……。


「それでね」


言いながら、私は部屋の隅に置いていたギターのケースを手に取った。
懐かしい重さ、懐かしい感触、懐かしい感覚。
色んな懐かしさが私の全身を駆け巡っていく。
胸に切なさを感じながらも、私は久し振りにギターのケースを開いていく。
現れたのは、受験が終わるまでは見る事も無いだろうと思っていた私のギター。
私の想いや夢や色んな物が詰まったムスタング。


「これが私のギターなんだよ、憂ちゃん」


懐かしい感触を指先に感じながら、私は憂ちゃんに自分のギターを見せた。
見せたくなかったわけじゃない。
忘れたかったわけじゃない。
弾きたくなかったわけじゃない。
本当はずっと弾きたかった私のムスタング。
憂ちゃんは笑顔で私と私のギターを見比べながら、また輝くように微笑んだ。


「わあっ、梓ちゃんにぴったりな可愛いギターだね!」


「か、可愛い……?」


予想外な感想に、喜んでいいのか迷いながらも私は苦笑した。
ギターの事を可愛いって言われたのは初めてだ。
憂ちゃんってそういう独特な感性を持っている子なのかな?
話を聞く限りじゃ、憂ちゃんのお姉さんも結構独特な人らしいし、そういう独特な姉妹なのかも……。
でも、別に感性が独特だろうと、可愛いと言われて悪い気がしないわけじゃない。
可愛いらしいよ、君。
って、私は心の中だけでムスタングに声を掛けてから、また憂ちゃんに訊ねてみる。

「ねえ、折角だし、弾いてもいいかな?」


「うん、勿論だよ、梓ちゃん。
私、梓ちゃんのギター、聴いてみたいな」


「あ、でも、こんな時間だし、この部屋だと近所迷惑になっちゃうかな?
そんなに大きい音を出すつもりはないんだけど……」


「ううん、それは大丈夫だよ、梓ちゃん。
『石ころ帽子』の効き目は、その人の身に着けている物にもあるみたいなんだ。
すっごく大きな音を出しても、私達以外には誰にもギターの音が聞こえないと思うよ」


それは好都合だった。
何故だか分からないけど、今はすっごい大きな音で弾いてみたい気分だったんだ。
久し振りに弾くからどうなるかは分からないけど、
それよりも今は誰かと一緒に音楽を演奏する楽しみを感じたかった。
うん、そうだ。
憂ちゃんにもギターを触ってもらって、一緒に軽い練習会なんて悪くないよね。
そのためには、まず……。
私は憂ちゃんにギターを渡して、少しだけ頭を下げた。


「ごめんね、憂ちゃん。
ちょっとだけギターを持っててくれる?」


「いいけど……、何をするの?」


「ちょっとチューニングをね。
ギターを弾くなら、ちゃんと音程を合わせておかないといけないんだ」


「そうなんだ。
お姉ちゃんがやってるの見た事無いから、知らなかったな」


「お姉さん、チューニングやってないんだ……」


「あ、でもね!
制服とか着せたり、添い寝とかしたりして、
お姉ちゃん、ギターの事すっごく可愛がってるんだよ!」


可愛がるベクトルが違うと思う……。
軽音楽部はともかくとして、ギタリストとして大丈夫なのかな、憂ちゃんのお姉さん……。
勿論、そんな事は口にはしなかった。
私は少し苦笑しながら、学習机の中に入れてあるはずのチューナーを探し始める。
確か四段目に入れてあるはずだ。
チューニングしたら、弾いてみよう。
受験の後、あの子ともう一度演奏するために、そのきっかけに出来るためにも。
あ、でも、かなり長い事放置してたから、弦を交換した方がいいかも……。

瞬間、
私は、
息を呑んだ。
心臓が、
馬鹿みたいに、
早く、
鼓動していた。

息を呑んだ理由は耳に届いた旋律のせいだ。
滑らかで耳に心地良い音楽。
聞き入っていたい奏で。
見事なまでの、聴き惚れるくらいの演奏……。
ギターの。
私のムスタングの……。

驚いた私は自分のムスタングに視線を向けた。
音を出しているのは確かに私のムスタングだった。
私のムスタングがこんな音を出せるなんて……。
そして勿論、私のムスタングを演奏しているのは……。


「憂……ちゃん……?」


私は呻くみたいに呟いた。
ううん、呻いていたと思う。
多分、衝撃で声が上手く出せなかった。
憂ちゃんが申し訳なさそうに苦笑して、私に頭を軽く下げた。


「あ、ごめんね、梓ちゃん。
お姉ちゃんがギターを弾いてる所を思い出したら、つい弾いてみたくなっちゃって……。
まだ梓ちゃんに断ってないのに、ごめんね」


「ううん、それはいいの。
それはいいんだけど……」


そんな事はいい。
そんな事はどうでもよかった。
私が気になるのは……、もっと気になる事は……。
私は胸の鼓動で喉が痛くなるのを感じながら、また呻いた。


「憂ちゃんも……、ギターを演奏出来るの……?」


「あ、ううん、私、ギターはそんなに触った事無いんだ。
お姉ちゃんが演奏してるのを見てる時、たまに触らせてもらってるくらいなの。
お姉ちゃんを真似て弾いてみたんだけど、ギターってやっぱり難しいよね」


瞬間、私の中が言い様の無い感情で支配された。
憂ちゃんが嘘を言ってないのは分かる。
嘘を言うような子じゃないし、こんな事で嘘を言う必要なんて無い。
嘘じゃないからこそ、私はどうしようもない感情に支配されてしまってる。

原因はさっきの憂ちゃんの演奏だった。
長くチューニングをしてないギターだから、
音こそバラバラだったけれど、そのテクニックには驚かされるものがあった。
演奏としては、まだ私の方が上手い。
まだ……。

でも、追い着かれる……。
ううん、追い越されるのは、時間の問題だって実感した。
憂ちゃんの言う通りなら、憂ちゃんはまだ五度くらいしかギターに触れた事がないんだろう。
五度くらいでこの腕前なんだ。
ほんの少し腰を据えて練習すれば、あっという間に私の実力なんて超えてしまう。

天才って居るんだ……、って感じた。
この世界には確かに天才が居る。
だけど、私は天才じゃない。
演奏が上手だとはよく言われるけど、それは天性の物じゃない。
小学生の頃から練習して練習して、やっと上手だって言われる腕前になれただけ。
中学生の中では上手いと言われる腕前になれただけ。
でも、そんな腕前なんて、天才の前じゃ何にもならないんだって思わされた。
憂ちゃんの事だけの問題じゃない。
私の住む県に憂ちゃんって天才が居たんだ。
全国を見回せば、憂ちゃんと肩を張る天才なんて大勢居るんだろう。
私なんか足下にも及ばない天才が……。

いつの頃からだろう。
私は音楽の道に進みたかった。
音楽を生業にする職業に就きたかった。
その気持ちに嘘は無かったし、本当に将来の夢にしようと思ってた。
でも、中学生の中では上手いと言われる程度の腕前で、
どうにか出来る世界じゃない事も、私はよく知っていた。
私より遥かに上手い実力のお父さんですら、音楽の世界で生き残るのに必死なんだ。
私なんかじゃ何処まで行けるか、全然自信が無かった。

そして今、私は完全に打ちのめされた。
もうすぐ世に生まれようとしている天才の前で、
しかも無自覚な天才の前で、私が演奏なんかしても滑稽なだけだった。

私は何をしてるんだろう、って気にさせられた。
同時に思い出した。
私があの子に申し出をされてから、音楽を中断した理由を。
思い出さないようにしていた現実を、思い出さされた。
あの子と本当に演奏を続けたいなら、受験より何よりあの子を引き止めるべきだった。
それが出来なかったのは私が……、私の自分の実力が……。
私に才能があったなら……。

刹那、私の中に悪魔の囁きが響いた。
それとも、天使の誘い?
今の私には一つチャンスがある。
悪魔なのか天使なのか神様なのか、誰かさんが与えてくれたチャンスが。
だけど、それに頼るのは……。


「梓……ちゃん……?」


私が何も言わなかったのを不審に思ったんだろう。
憂ちゃんが首を傾げて、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
やめて、と思った。
こんな私の顔を見ないで。
こんな惨めで情けなくてどうしようもなくて、
下手な誘惑に乗りそうになっちゃってる私の顔なんて見ないでよ……!

結局、「チューナーの電池が切れていたから」、
って苦しい言い訳で、私はその日のギターの演奏をやめさせてもらった。
どんなに苦しい言い訳だろうと、そうしないと、私の心が壊れてしまいそうだった。



今回はここまでです。
こういう話でした。
またよろしくお願いします。






深夜、午前二時頃。
憂ちゃんが寝静まった頃を見計らって、私は一人で夜の公園に来ていた。
憂ちゃんと初めて出会ったあの公園に、
上着を一枚羽織り、私の辛さと悩みの元凶を腕の中に抱えて。

夜の公園は誰一人居なくて静かだったし、
公園に辿り着くまでの道中、誰ともすれ違う事も無かった。
通り過ぎる車に注意する必要も無く、あっさりと公園まで辿り着けた。
そんな事なんて無いのは分かっているけど、
何だかまるで夜の世界に私一人が取り残されてしまったみたい。
それに……、ある意味、その考えは正解でもあった。
今、この世界に私の存在を認識出来るのは憂ちゃんしか居なくて、
その憂ちゃんは私の部屋で静かに寝息を立てて眠りに就いているんだ。
だから、この世界には私しか居ないのとほとんど一緒なんだよね、今……。

私が何をしても、何をしなくても、誰も気にしない。
誰にも気に留められない。
今の私にとっては、幸いな事だった。
私は昨日憂ちゃんと話したベンチの上に立って、
生身のままで持って来ていたギターのストラップを肩から斜めに掛けた。
パジャマのポケットの中からピックを取り出して、小さく深呼吸をしてみる。
情けないとは思うけど、自分自身でも自分の身体が震えているのがよく分かった。

夜の闇が怖いわけじゃない。
一人ぼっちなのが怖いわけじゃない。
こんな深夜に一人で夜の公園に居るのは初めてだけど、怖いのはそんな事じゃなかった。
私にはそんな事よりもっともっと……、もっともっと怖い事がある。
それを確かめに、私は夜の公園まで一人で来たんだから。


「……やろう」


自分に言い聞かせるために呟いてから、ギターを胸の前に構えた。
寒さじゃない理由で震える指先を必死で押し留めて、弦に左手の指を掛ける。
お願い……!
お願いだから……!
自分になのか、神様になのか、他の誰かになのか、
私自身も分からない誰かにお願いしながら、私は演奏を始めていく。
夏休みに入る前、あの子と練習していた曲を。
受験が終わったら真っ先にあの子と弾こうと思っていた大切な曲を。

旋律が流れる。
耳にするだけで懐かしさで胸が張り裂けそうな旋律。
私の指が奏でる私達の大事な曲。
弾ける。
私はこの曲を弾く事が出来る。
このかなり難しい曲を、私は弾けているんだ……!
私にだって、まだ弾けるんだから……!

でも、私の胸は高揚しなかったし、逆に痛みだけを強く感じるようになっていた。
私はこのかなり難しい曲を弾けている。
弾けているけれど……、弾けているだけだ。
弾きながら、自分でも実感出来る。
例えるなら、難しいリズムゲームをクリアの最低スコアで終えているレベルだ。
クリアは出来ているけれど、それ以上でもそれ以下でも無いレベル。
その程度のレベルでしか、私はこの曲を弾けていなかった。
だけど、そんな事すら私にはどうでもよかった。
この曲はとても難しい曲だし、そう簡単に上手に弾けるなんて思っていないから。
だから、あの子と二人で挑戦してたんだから。
いつかは上達出来るはずだって信じて。

辛かったのは、もっと別な理由。
それは、思ったより指が全然動かなかった事。
想像以上に、出来の悪い演奏になってしまった事。
あの子との練習を中断してから、確実に下手になってしまっている事。
その事こそが私の胸を強く痛めた。
勿論、当然の事ではある。
ずっと練習してなかったんだもんね。
あの子との事ばかり考えて、練習する勇気が出せなかったんだもんね。
演奏が下手になるのなんて当然だよ……。
私は間違っても天才なんかじゃなくて、秀才にもなれなくて、
単に練習してそれなりにギターが弾けるようになっただけの人間なんだから。
当たり前の事が当たり前に起こってるだけなんだ……。

私は天才でも秀才でもない。
それを深く実感出来たおかげで、私の胸の中にはもう一つ気付けた事があった。
憂ちゃんの未完成ながら間違いなく天才の演奏を耳にして、分かったんだ。
あの子が苦笑して練習の中断を申し出た理由が。
一緒に練習してて、あの子は気付いたんだと思う。
私達じゃ、ある一定以上の水準に、どうやっても辿り着けないって事を。
どうやったって……。

最初の頃、私があの子にギターを教えてあげていた。
上達はそんなに早くなかったけど、私と演奏出来るくらいのレベルにはなった。
お互いに決して上手いわけじゃなかったけれど、
また中学生なんだし、焦る必要は無いと思ってていた。
私はそれでいいと思ってたし、あの子もそう思っていてくれると私は考えていた。
でも、そうじゃなかったんだよね……。
あの子は私が気付かない所で悩んでいたんだ……。
このまま続けても先が見えないんだって気付いて……。

考えてみれば、その兆候はいくらでもあった。
あの子は練習に熱心だったけど、少し不器用で演奏のミスもたまにあった。
弾いて来た年月が違うから、当然の事だ。
でも、あの子はその度に、
「私が梓の足を引っ張っちゃってるよね……」と苦笑しながら呟いていた。
私が「もっと練習すれば大丈夫だよ」って言う度に、あの子は浮かない顔をしてた。
あの子は私より先に気付いていたんだと思う。
自分の限界を。


『自分の限界を決めるのは自分だ』


そんな言葉はよく聞くし、その通りだと思うけれど、
自分が限界を超えるまでがむしゃらに努力出来る人は、どれくらい居るんだろう。
その一部門……、つまり、私達の場合はギターだけど、
ギターだけに目を向けていられるんだったら、ひょっとしたらそれも出来るのかもしれない。
だけど、私達は中学生で、ギターだけに目を向けてなんていられない。
音楽で稼いで生きていくなんて狭き門を目指して、頑張り続けるのなんて至難の業だ。
そんな事は出来ない、ってあの子は思ったんだろう。
元々、あの子を音楽の道に誘ったのは私で、
あの子は将来的に医療系の道に進みたいらしかった。
音楽をいつまでも続けていられる立場じゃない子だったんだ……。

それは多分、仕方が無い事なんだろうと思う。
私達は将来について考えなきゃいけなくて、出来ない事から消去法で消していくしかない。
あの子は自分の夢を見つけるためにも、
私の足を引っ張らないためにも、音楽の道を諦めるしかなかったんだ……。
辛い……、とっても辛いし、悲しいよ……。
私は出来る事ならあの子とずっと音楽をやりたかった。
やりたかったのに……。

でも、それがあの子の選んだ道なら、私はそれを止められない。
あの子の将来を応援してあげる事しか出来ない。
それが私に出来る最後の事だと思うから……。


「でも、私……は……?」


気が付けば呟いてしまっていた。
私は音楽を続けたい。
出来る事なら、一生だって音楽を続けて行きたい。
プロになるのを漠然と夢に見た事も今まで無いわけじゃない。
私は音楽で生きていきたいんだ……。

でも、それは無理かもしれない、って今日思わされた。
ううん、薄々気付いてはいたけど、完全に実感させられたって方が近い。
勿論、憂ちゃんの演奏を聴いたからだ。
憂ちゃんが嘘を吐くとは思えないから、
憂ちゃんが今までギターを演奏した時間は、私の百分の一にも満たないはずだ。
私の百分の一にも満たないくらいギターを演奏しただけで、
憂ちゃんは私をもうすぐにでも追い越しそうな演奏が出来ていた。
きっと、あと数日ギターに触れただけで、
私の実力なんて簡単に抜き去ってしまうんだろう。
それが天才なんだ……。

しかも、憂ちゃんが一番の天才ってわけじゃない。
世の中には憂ちゃんが足下にも及ばない天才も居るだろうし、
努力している天才だって大勢存在しているんだろうなって思う。
そんな世界で、私なんかが生きていけるはずがない。
音楽を、続けていけるはずがない。
私の夢が……、叶うわけなんかない……。
私なんかの実力じゃ……。
どうして私は天才じゃなかったの……?
天才に生まれて来なかったの……?
もしも私が、天才だったら……。

「……あっ」


不意に私の頭の中に考えてはいけない望みが浮かび上がった。
昨日からずっと頭の中を過ぎっては目を逸らしていた、私のお願い。
私の……、『一生に一度のお願い』……。
とても単純で分かりやすい私のお願い……。


『私をギター演奏の天才にして下さい』


あんまり無茶なお願いはスルーされるらしいけれど、
このくらいなら誰かに迷惑を掛けるわけでもないし、
『石ころ帽子』なんて異常な状況を作り出せる神様なら、とても簡単なお願いだろう。
このお願いが叶えば、私の悩みなんて完全に消え去るはずだ。
自分の無力に思い悩む事も無いし、プロになる夢だってきっと叶えられる。
誰も損をしない、とても真っ当なお願いだと思う。
だから、私はこれを『一生に一度のお願い』にしたっていいんだ。


「でも……、でも……」


自分の無力を感じてた時以上に、私の身体は震え始めていた。
確かにそのお願いをしたなら、私の悩みは全部消え去ってしまうと思う。
何もかも乗り越える事が出来ると思う。
だけど、そんな事をして、私は満足なんだろうか?
自分の努力でなく、他力本願で夢を叶えて、満足出来るんだろうか?
一人だけ不正をして、私は本当に両手を上げて素直に喜べるの……?

しかも。
憂ちゃんの説明が本当なら、願いが叶った後、私は全てを忘れてしまうんだ。
つまり、私は自分のギターの腕前が唐突に上がった理由も分からず、
恐らくはそれを嬉しく思って、悩む事も無く音楽の道を進んでいく事になるんだと思う。
自分がどうしようもない不正をした事にすら気付かないままに……。
そんなの……。
そんなのって……、無いよ……。
滑稽で哀れ過ぎるよ、そんなのって……。

瞬間、私は一つの言葉を思い出してしまった。


『地獄への道は善意で舗装されている』


最近、ずっと考えていた事。
私は本当は心の何処かで気付いていた。
あの子は私を傷付けないために、練習を中断と言ってくれた事を。
善意で、私のために、行動してくれていたんだって。

この『チャンスシステム』も同じ。
神様だか仏様だか分からないけれど、
何も私達を苦しめるためにこんなシステムを作ったわけじゃないはずだ。
一度きりの人生をよりよく生きてもらうために作られたシステムのはずだ。
そこには善意しかなかったはずなのに……。
善意で作られたシステムなのに……、私は……、私はこんなにも胸が痛くて……。
他者に思いやられる地獄を感じてしまっていて……。
こん……なにも……。


「わあああああああああっ!」


いつの間にか私は大声で叫んでしまっていた。
自分が望んでいる事が本当は何なのか、
善意に彩られたこの世界で生きていく私はどうしたらいいのか、
そもそも何をしたらいいのか、
色んな事が分からなくなって、沢山の感情が混乱して、大声で叫んでいた。
叫びながら、私の理想には程遠いギターの演奏を続けて、また叫んだ。
どうせ今の私の姿は誰にも見えない。
私の声も私の演奏も誰にも聞こえない。
だから、思う存分、叫んでしまおう。
私の胸の痛みを少しでも吐き出せるように。
ほんの少しでも消し去ってしまえるように……。


「わああああああああああっ!」


私のお願いは何?
私の夢は何?
私の進みたい道は何処?
そもそも、どうして私は音楽を続けたいの?
色んな思考に頭の中が塗りつぶされながら、私はそうやって長い間、公園で叫び続けた。



今回はここまでです。
そろそろ折り返し地点となります。
またよろしくお願いします。






「えっと……、ボーカルは唯で曲目が『ふわふわ時間』……と。
オッケー、じゃあ出演時間決まったら、また連絡するね」


蝉の声がまだ聞こえる軽音楽部の部室の中、
眼鏡を掛けたお姉さんっぽい人がそう言ってノートにメモを終えた。
名前は真鍋和さんと言って、憂ちゃんの一つ年上の幼馴染みで桜高の生徒会役員らしい。
さっき部室に和さんが姿を現した時、やっぱり少しだけ寂しそうに憂ちゃんが教えてくれた。
和さんに自分の姿が認識されていない事が、分かってはいても辛く感じているんだろう。
『和ちゃん……』と私に聞こえないように一人で呟いてたし、
和さんは憂ちゃんにとって大切な幼馴染みだと思って違いない。
年上の幼馴染みを『ちゃん』付けで呼べるなんて、相当長い付き合いなんだろうしね。
私にはまだ付き合いのある年上の幼馴染みが居ないから分からないけど、
憂ちゃんは和さんの事をもう一人のお姉さんみたいに感じてるんじゃないのかな。

一晩中とは言わないけれど昨晩……じゃないか、
正確には今日の午前一時頃から二時間以上ギターを弾いてから、私は一人で家に戻った。
二時間弾いて、何の上達も感じられずに、自分の衰えだけを実感させられて……。
部屋に戻った時、憂ちゃんは私が外出した時と同じ様に寝息を立てていたけど、
本当に眠っていたか、気付かない振りをしてくれているのか、私にもよく分からなかった。
憂ちゃんは気配りの出来る子だから、私のする事なんか全部お見通しなのかもしれない。
分かっていて、そっとしておいてくれてるのかもしれない。
……なんて、そんな事を考えてしまう私は嫌な子だと思う。
人の善意を素直に受け取れられないなんて最低だと思うし、
大体、憂ちゃんは単に本当に眠っていて、私の外出に気付いてもいないはずなんだ。
自分の才能が乏しいからって被害者面して、どうにかなるわけでもないのにね……。
とにかく、私はギターをまた部屋の片隅に置いて、そう考えながら眠りに就いた。

珍しく夜更かしをしてしまったせいか、目を覚ました時には午前十一時を過ぎていた。
学校を欠席しても問題無いとは言っても、やっぱり何となく罪悪感がある。
そんな妙に真面目な自分に苦笑しながら、部屋を見渡してみると憂ちゃんの姿は見えなかった。
散歩にでも行ってるのかな? と思って居間に降りると、ちょっと驚いてしまった。
憂ちゃんが私のお母さんのエプロンを着けて、掃除機を掛けていたからだ。
ごはんを提供する等価交換として家事をしてもらうとは言ったけれど、ここまでしてくれるなんて……。
どうも憂ちゃんは私なんかよりずっと律儀で真面目みたいだ。


「おはよう、梓ちゃん。今日はお寝坊さんなんだね。
朝ごはんの準備出来てるよ。
あ、もうそろそろお昼ごはんになっちゃうかな?」


私の姿を見つけると、優しい顔をして憂ちゃんが笑った。
その笑顔が私の胸を軽く痛くしたけど、胸の痛さの原因は憂ちゃんじゃなくて私にある。
私は胸の痛みを誤魔化して「ありがとう」って言って苦笑すると、
ごはんの用意されたテーブルに座って「いただきます」と胸の前で手を重ねた。


「今日の予定はどうするの、梓ちゃん?」


掃除機を停めてから、憂ちゃんが私の顔を見て首を傾げた。
私が食べている間、埃が立たないように掃除を中断してくれるらしい。
本当に親切な子だなあ、憂ちゃん……。
お母さんなんか、私がごはんを食べてても掃除してるのなんてしょっちゅうなんだよね。
いや、別にそんな事はどうでもいいんだけど。


「うーん……、そうだなあ……」


憂ちゃんの美味しい朝ごはんを食べながら、私も憂ちゃんと一緒に首を傾げた。
正直な話、迷っていたから。
当初こそ、この一週間は律さん達の軽音楽部を見学させてもらいたかった。
もうすぐ学園祭があるらしいし、その日まで見届けさせてもらおうと思ってたんだ。
折角、公園ですれ違った縁だってのもあるけど、
私じゃない誰かの音楽との日常を見届けたかったんだと思う。
他人の音楽との付き合い方を知りたかったんだよね。

今は、迷ってる。
律さん達の演奏に問題があったわけじゃない。
お茶ばかりしてる部活だったけど、実力だってそれなりにあると思うしね。
予定通りなら、このまま律さん達の軽音楽部を見届けても何の問題も無いと思う。
私の目的は果たせるはずなんだ。

でも、昨日の憂ちゃんの演奏を聴いてから、私は迷っていた。
私の実力なんか簡単に追い越しそうな素人の憂ちゃんの演奏。
天才の存在を思い知らされたあの演奏を聴いて、思った。
律さん達よりももっと上手な演奏をする人達を見た方がいいんじゃないかって。
将来的に音楽を続けるつもりなら、憂ちゃん以上の天才を知っておくべきじゃないのかな?
特に今の私は自分の姿を誰にも気付かれない状態なんだ。
誰の演奏だって傍で見放題なんだ。
そう言えば、あの海外アーティストが武道館でコンサートを開催するとかテレビで言ってた気がする。
あの人の演奏は大好きだし、目前で見られるんだったら是非見てみたいし……。
私の将来の事を考えるんなら、それでいいはずだよね。

って、そう思っていたはずなのに。
私は昨日と同じく桜高の軽音楽部の見学に来てしまっていた。
どうしてなのかは、私にもよく分からない。
武道館までの電車を無賃乗車する勇気が無かったから。
なんて、そんな馬鹿みたいな言い訳はいい。
どうしてかは分からなかったけど、桜高の軽音楽部の人達を見たかったんだと思う。
学園祭の最後まで見届けたくなったんだと思う。
だから、私は憂ちゃんと一緒に、軽音楽部の部室の机に座っているんだ。
部員の人達の会話を、練習を、ずっと見続けたいんだ。


「よかった。
わざわざ来てもらってありがとう」


不意に穏やかにそう言ったのは、紬さんだった。
勿論、私達に向けて言ってくれた言葉じゃなく、和さんに向けた言葉だ。
話を聞いている限り、今日は生徒会と部の最後の会議を行う日みたい。
それで生徒会役員の和さんが、軽音楽部まで足を運んで来たって事なんだろう。


「これも生徒会の仕事だから」


和さんが何でも無い事みたいに微笑んだけど、すぐに表情を少し崩して続けた。


「でも、本当に唯で大丈夫なの?」


唯……と言うのは、憂ちゃんのお姉さんの名前だ。
和さんは唯さんの幼馴染みでもあると憂ちゃんが言っていた。
幼馴染みであるだけに、唯さんの事をよく知ってるし、それで心配にもなっているんだろう。
心配と言えば、私にもちょっとした心配がある。
この桜高軽音楽部の演奏する曲名だ。
昨日も隠れて楽譜を見せてもらったんだけど、
曲名の欄には『ふわふわ時間(タイム)』と記されていた。
『ふわふわ時間(タイム)』って……。
曲名に違わず、歌詞も相当甘い感じだったし……。

しかも、律さん達の会話を聞く限り、
意外な事に『ふわふわ時間(タイム)』の作詞をしたのは澪さんみたいなんだよね。
背が高めで長くて綺麗な黒髪をした美人の澪さんの作詞した曲が『ふわふわ時間(タイム)』……。
意外だなあ……。
いや……、そうでも無いのかな……?
見た目と違ってかなり照れ屋さんみたいだし、ある意味、澪さんに合ってるのかも……?

とにかく、そんな感じでちょっと心配になって来ちゃったな……。
私の目指す音楽性とは全然違ってるけど、私の選択は間違ってないよね……?
この部を見学してて、大丈夫だよね……?


「先週から、放課後、さわ子先生の家で特訓してるからな!」


「多分、間に合うんじゃないかと」


私を安心させるためじゃないのは分かっているけど、
そんな和さんに向けられた律さんと澪さんの優しげな声を聞くと、私の心も少し落ち着いた。
律さん達が唯さんの事を信じてるんだったら、私も唯さんとこの部の事を信じよう。
天才の憂ちゃんが信じてるんだもんね。
きっと唯さんだって相応の実力を持ってるはずだよね。
話を聞く限り、人格にはちょっと不安が残るけど……。

瞬間。
唐突に軽音楽部の扉が大きく開け放たれた。
逆光の中には、二人の女の人が立っていた。
一人は前髪の右側を二本のヘアピンで留めて、髪を下ろした憂ちゃんとかなり似ている人だった。
うん、ギターを抱えてるわけだし、間違いない。
あの人が憂ちゃんのお姉さんで、この軽音楽部のギタリスト兼ボーカリストの唯さんだ。
唯さんが放課後にしていたという特訓が終わったんだろう。
それでこうして軽音楽部に姿を現したに違いない。

私は申し訳ない気分になって、憂ちゃんの方に視線を向けた。
不可抗力とは言え、お姉さんに自分の事を無視されるのが辛くて私の家に泊まっている憂ちゃんなんだ。
唯さんの姿を見て辛い気持ちになってるんじゃないか、って思ったから。
でも、私が視線を向けた憂ちゃんが見ていたのは、予想外にも唯さんじゃなかった。
憂ちゃんが見ていたのは、眼鏡を掛けて女性物のスーツを着た髪の長い人の方で。
憂ちゃんは驚いた様子で小さく呟いていた。


「えっ……?
キャサリン……さん……?」


キャサリンさん……?
あの髪の長い女の人の事なのかな……?
でも、外見は完全に日本人だよね。
この部室の中でキャサリンって名前が似合いそうなのは、あの人より紬さんの方だし……。
ひょっとして、芸名か何かなの?
あ、でも、唯さんと一緒に来たって事は、
あの人こそがさわ子先生って言う名前の唯さんを特訓してた人って事……?
ああ……、よく分からない……。
そう思いながら私が頭を抱えている間に、
キャサリンさん(?)の話が始まってしまっていた。


「待たせたわね……。
完璧よ!」


キャサリンさん(?)が自信満々に親指を立てる。
その様子を見る限り、やっぱりあの人が唯さんを特訓してたんだろう。

「さあ、唯ちゃん……、見せてあげなさい!」


キャサリンさん(?)が宣言すると、唯さんが言われるままにギターを弾き始めた。
音階では知っていた『ふわふわ時間(タイム)』のギターパートだ。
憂ちゃんと違って、驚くほど上手いってわけじゃない。
でも、高一からギターを始めた事を考えれば、十分過ぎる腕前だった。


「おおっ! すげえ!」


「上達している!」


「自身に満ち溢れた表情!」


律さん、澪さん、紬さんの順番で称賛の声が上がる。
唯さんの前の実力は知らないけど、
部員のこの三人がそう言うのなら、唯さんの特訓は成功したんだろう。
でも、私が気になったのは、唯さんのギターの腕前よりその表情の方だった。
紬さんが言った通り、唯さんは自信に満ち溢れた表情でギターを弾いていた。
腕前より何より、伸び伸びと思いのままに弾いているみたいに見えた。
多分、今の私には出来ない表情で、今の私には抱えられない想いを抱いて。
あれが……、憂ちゃんのお姉さんの唯さん……。

と。
唯さんが軽くブレス。
そっか。唯さんはボーカリストでもあったんだ。
ギターをこんなに自信を持って弾けるんなら、きっとボーカルの方も伸び伸びと……。
そして、唯さんが口を大きく開いて歌い始めた。


「君を見てるといつもハートドキド……」


刹那、軽音楽部の三人がその場に倒れ込み、私も釣られて机に突っ伏してしまった。
歌が下手だったわけじゃない。
唯さんの歌声が物凄い濁声だったからだ。
唯さんの普段の声を聞いた事が無い私でも分かるくらい、その声は完全に嗄れ切っていた。

倒れ込んだ律さん達が、どうにか顔を上げて唯さんに視線を向ける。
「てへっ」と言って唯さんが自分の頭を掻くと、
それに倣ってキャサリンさん(?)も同じようなポーズを取って笑った。


「練習させ過ぎちゃった!」


「声嗄れちゃった!」


一大事のはずなのに、悪びれもせずに二人で楽しそうに舌を出す。


「カワイコぶっても駄目だあっ!」


律さんが非常にもっともな突っ込みをして、呆然とする。
私も律さんと完全に同意見だった。
こんな状態で唯さん達はどうしてまだ楽しそうに出来てるんだろう……。


「そんな……、じゃあ、ボーカルは?」


「変更するなら今日中よ」


「えっ? そうなのかっ?
だとすると……」

私と同じ気持ちだったらしく、
紬さん、和さん、律さんの戸惑いの声が上がる。
こんな状態で戸惑わないわけがない。
まだこの軽音部の事をよく知ってるわけじゃないけど、
他にボーカルが出来そうな人なんて居るのかな……、って、あっ。
瞬間、私の頭の中にはある人の名前が浮かんでいた。
部外者の私ですら思い付けた人の名前を、部員の人達が思い付かないはずがない。
律さんと紬さんがその人の方に顔を向けた。
当然、澪さんだった。
私が公園で聴いた澪さんのエアベースの時のあの歌声は見事だった。
あの歌声なら、十分にボーカリストだって務められるはずだと思う。


「……えっ?」


その事実に気付いてないのは当事者の澪さんだっただけらしく、
周囲の全員から視線を向けられて、やっと自分に白羽の矢が立った事に気付いたみたいだった。


「そうね、澪ちゃんなら歌詞憶えてるだろうし」


「歌詞作った本人だしなあ」


「頑張ってね、澪ちゃん」


「ハスキー唯からもお願い!」


部室内に次々と上がる澪さん推薦の声。
注目を浴び過ぎた澪さんはよっぽど恥ずかしかったのか緊張したのか、
顔を真っ赤にしてしばらく震えてから、「うわぁ……」と呟いて後ろ側に倒れ込んでしまった。
そ……、そんなに人前で歌うのが嫌なのかな……。
照れ屋さんな人だとは思ってたけど……。
そう言う私も歌は全然上手い方じゃないんだけどね……。

律さんの言葉通りなら、確か学園祭まで後三日。
たったそれだけの期間しかない上に初ライブなのに、
この桜高の軽音楽部の皆さんは無事に学園祭を乗り切れるのかな……。
何だか違う意味で見逃せなくなって来ちゃったみたい……。
私が学園祭に出るわけじゃないのに、とても胸がドキドキしてしまう。
一方的にだけど、知った人達が学園祭で失敗する姿なんか見たくないし……。

だけど。
心配する私なんか関係無く、憂ちゃんは苦笑しながら唯さんを見つめていた。
『お姉ちゃんったら……』とでも言わんばかりの穏やかな顔で。
そして、それは憂ちゃんだけじゃなかった。
キャサリンさん(?)も律さんも紬さんも唯さんも和さんも、
澪さんを除いたその場に居た全員が穏やかな表情で笑っていた。
こんな状態なのに、どうして笑えてるんだろう……。
失敗するかもしれない学園祭なのに、どうして……。
多分、私は澪さん以上に学園祭の成否を心配して、一人でそんな事を考えてしまっていた。



今回はここまでです。
またよろしくお願いします。






桜高の軽音楽部の練習の見学を終えた後、私は憂ちゃんと肩を並べて帰路に着いていた。
唯さんが姿を見せた事だし、早めに帰った方がいいのかも、
って思ったけど、意外と憂ちゃんは最後まで軽音楽部の見学を私に続けさせてくれた。
いいのかなって思ったけど、憂ちゃんは平気な顔で笑ってくれていた。
寂しいと感じるのは唯さんと二人きりで一緒に居る時だけで、
お姉ちゃんが友達と楽しそうにしてる時は一緒に居ても平気だし、逆に嬉しいんだよ。
と憂ちゃんは言っていた。
確かにそういうものなのかもしれないなあ。
私も仲の良い子と二人きりの時に視線すら向けられなかったから、相当に辛いと思う。

実を言うと、私も憂ちゃんと同じ事を考えているのかもしれない。
こんな状態になるずっと前から、似た事を考えてたんだと思う。
練習を中断して以来、あの子と遊びに行かなくなったのも、それが理由な気がする。
あの子と二人きりで何を話したらいいのか分からない。
口を開けば、あの子を責めてしまいそうで怖い。
一緒に居る事が怖い。
あの子から他人を見る視線を向けられるのが怖い。
だから、私はあの子の傍に居られなかったんだよね……。
いつか……、いつかは話をしなきゃいけないのは分かってるんだけど……。


「……梓ちゃん?
浮かない顔をしてるみたいだけど、どうかしたの?」


私の表情が気になったのか、憂ちゃんが私の隣で首を傾げた。
駄目だ駄目だ。
そう思いながら、私は一人で首を振る。
あの子の事も私の将来と夢の事も考えなきゃいけないけど、それで暗くなってたって意味が無いよね。
残された期間は短いし、私はたくさんの事を同時に考えられるほど器用じゃない。
だから、今は桜高の軽音楽部の皆さんの見学に専念しよう。
多分、それが私にとって一番いい選択肢なんだって信じて。

私は出来る限りの笑顔を作って、憂ちゃんに向けて軽く首をまた振った。


「ううん、何でも無いよ、憂ちゃん。
ちょっとだけ考え事をしてただけだから、心配いらないよ」


「そう……?
でも、何か悩み事があったら、何でも言ってね。
私に出来る事なんて少ないかもしれないけど、
ちょっとでも梓ちゃんの力になれたら私も嬉しいな」


「うん、ありがとう、憂ちゃん。
その時はお願いするね……って、
そう言えば一つ悩んでた事があったのを思い出しちゃった。
早速なんだけど、聞いてもらっていい?」


「うん、何でも話して」


「あのキャサリンさん……だったよね?
あの人は憂ちゃんとどういう関係の人なの?
どうもずっとそれが気になっちゃってるんだよね。
唯さん達の会話を聞いてる限りじゃ、桜高の軽音楽部の顧問の先生みたいだけど……。
でも、顧問の先生と憂ちゃんじゃ、何の接点も無いだろうし……。
それで思ったんだけど、あのキャサリンさんってひょっとして……」

私が訊ねると、憂ちゃんはその足を止めて顔を上げた。
釣られて、私も足を止める。
憂ちゃんの表情を窺ってみると、空に浮かぶ雲に視線を向けているみたいだった。
何かを懐かしんでるんだろうって事は、私にだってすぐに分かった。
数秒、雲を見上げた後で、憂ちゃんが私に視線を向け直して微笑んだ。
その微笑みは少し寂しそうだったけれど、それ以上に嬉しそうにも見えた。


「うん、梓ちゃんが考えてる通りだと思うよ。
キャサリンさんはね、私の前の『ナビゲーター』の人だったんだ。
一週間、私の『一生に一度のお願い』を考えるお手伝いをしてくれた素敵な人なんだよ」


憂ちゃんの言葉を聞いて、私は妙に納得してしまっていた。
キャサリンさん——もう(?)はいいか——を見た時の憂ちゃんの反応から考えてもそうだったし、
そもそも憂ちゃんが話してくれた前の『ナビゲーター』の人の印象に合致し過ぎてるもんね。
まさか憂ちゃんの言葉通りの人が誇張無しに存在してるとは思ってなかったけど……。
しかも、軽音楽部の顧問の先生だったなんて……。
キャサリンさんが顧問で大丈夫なのかな、軽音楽部の皆さん。
唯さん達の反応を見る限り、音楽に関してはちゃんとした先生ではあるみたいだけど……。


「でも、本当にびっくりしたなあ……。
まさかお姉ちゃん達の部の顧問の先生が、キャサリンさんだったなんて……。
これも縁って言うのかな?」


憂ちゃんが嬉しそうに苦笑する。
キャサリンさんに自分の姿が見えていない寂しさは勿論あるんだろう。
多分、キャサリンさんが憂ちゃんを完全に忘れ去っている事も辛いはずだと思う。
それでも、憂ちゃんは笑顔を見せていた。
それがどんな形でも、キャサリンさんと再会出来た事を嬉しく思ってるみたいだった。
何だかそれが私まで嬉しくさせて、気付けば私も笑顔で呟いてしまっていた。


「うん、素敵な縁だよね、本当に……。
神様だか誰だか分からないけど、今回ばかりは素敵な事をしてくれるよね。
もしかしたら、その神様が単に手を抜いて身近な人の間で、
『チャンスシステム』の引き継ぎをしてるだけかもしれないけどね」


「あはは、そうかもしれないよね……。
だけどね、私はそれでも嬉しいな!
キャサリンさんが私と別れてからどうなったのか、ずっと気になってたんだもん!
キャサリンさん……、元気そうでよかった……」


そう言った憂ちゃんは少しだけ目尻を濡らしてるみたいだった。
心の底から、キャサリンさんとの再会に感激しているんだろうな。
憂ちゃんとキャサリンさんの間に何があったのかは分からない。
でも、そうやって憂ちゃんの目尻を濡らすくらい、
キャサリンさんと憂ちゃんの間には色んな事があったんだろう。
何だか羨ましいし、ちょっと妬けちゃうかも……。

って、妬けちゃう……?
私が?
自分で考えた事ながら、その想像は私を結構動揺させた。
こう言うのも何だけど、私は友達を作るのがかなり下手糞だと思う。
あの子とだって仲良くなれ始めたのは、出会って二ヶ月くらい経ってからだった。
別に人間嫌いだってわけじゃないけど、それくらい付き合わないと友達になれない性格だと思う。
我ながら、可愛げが全然無くて嫌になるよね……。

そんな私がいつの間にか憂ちゃんに妬いちゃってるなんて……。
それだけ憂ちゃんが優しくて魅力的な子だって事なんだろうけど、何となく気恥ずかしいなあ……。
私は自分の顔が熱くなるのを自分で誤魔化して咳払いをすると、軽く話を逸らしてみる。


「そう言えば、憂ちゃん。
キャサリンさん……って名前は何なの?
さわ子先生……だったっけ。
ひょっとして、あの先生がキャサリンとしか名乗らなかったとか?」


「うん、そうなんだ。
私がどれだけ聞いてもキャサリンって名前しか教えてくれなくて、
何歳なのかも普段何をしている人なのかも教えてくれなかったんだ。
私と会ってくれてる時はさっきみたいなスーツじゃなくて、
もっと派手なバンドを組んでる人達みたいな服装だったから、
そういう音楽関係の人なんだって思ってたんだけど、音楽の先生だったんだね」


「それは……、よくそんな人を信じたね、憂ちゃん……。
怪し過ぎるでしょ、そんな人……」


私が若干呆れた表情を浮かべて言ってみたけど、
憂ちゃんは気を悪くした風も無くまた笑顔を見せてくれた。
キャサリンさんの言動が怪しいとは、憂ちゃん自身も思ってた事だったんだろう。
それでも、憂ちゃんはキャサリンさんを信じる事に決めたんだ。
どうしてなんだろう?
何で憂ちゃんはそんな怪しい人を心から信じられたんだろう?

私の考えていた事が分かったみたいで、憂ちゃんが話を続けてくれた。
それは憂ちゃんがキャサリンさんとの思い出を誰かに話したかったからでもあるんだろうけど、
私が私のお願いを見つけられるための手助けになれば、って考えて話してくれているようにも見えた。


「キャサリンさんって、確かにちょっと一見すると怪しい人だよね……。
でも、プールで出会って、お話をしていて思ったんだよ。
キャサリンさんは本気で私のお願いの事を考えてくれてるんだ、って。
キャサリンさんは私の話を真剣に聞いてくれたし、
『チャンスシステム』についてもちゃんと説明してくれたし、
私の『一生に一度のお願い』の事も一緒になって考えてくれたんだもん。
誰かの事を真剣に考えられる人なんだ、って思ったんだ……。
それにね……」


「それに……?」


「私が最初にキャサリンさんの事を信じられたのは、
キャサリンさんが叶えた『お試しお願い』の事を最初に教えてくれたからなんだ。
ううん、それだけじゃないよ。
『一生に一度のお願い』の方も最後の最後、私のお願いを決める直前に教えてくれたの。
私ね、これって凄い事だと思うんだ。
だって、自分のお願いって、自分の夢と同じでしょ?
そんな自分のお願いを言葉にして誰かに話すのなんて、すっごく難しい事だと思うんだ。
出来そうで出来る事じゃないと思うな……。

それなのにキャサリンさんは自分のお願いを教えてくれたんだよ。
だからね、私はキャサリンさんの事が信じられるって思ったんだ」

憂ちゃんのその言葉を聞いた後、私は自分の身を鑑みて少し恥ずかしくなった。
憂ちゃんの言う通りだ。
自分の叶えたいお願いなんて、誰かにおいそれと話せる事じゃないよね。
特に私は憂ちゃんに自分の叶えた『お試しお願い』について嘘を吐いてる。
『平沢さんの事をもっとよく知りたい』って本当のお願いを誤魔化してるんだよね……。

でも、キャサリンさんは、多分本当のお願いを憂ちゃんに伝えた。
確証は無いけど、キャサリンさんはそういう事で嘘を吐く人じゃないと思う。
そして、憂ちゃんも私に自分の『お試しお願い』を教えてくれた。
ちょっとした緊急時にではあったけど、教えてくれたんだ。
二人とも……、凄いなあ……。

何となく、ちょっと分かった。
私が憂ちゃんの言葉を信じられた理由。
それは憂ちゃんがキャサリンさんを信じていたからなんだ。
キャサリンさんって信頼出来る見本があったからなんだ。
だから、憂ちゃんは私の事を真剣に考えてくれてるし、私も憂ちゃんを信じる気になれたんだと思う。


「これは私の勝手な想像なんだけど……」


憂ちゃんが笑顔を浮かべて話を続ける。
その顔はもう寂しそうな笑顔じゃなかった。
弾けるような満面の笑顔だった。


「キャサリンさん、私の顔を見てすぐにお姉ちゃんの……平沢唯の妹だって気付いたって思うんだ。
顧問になる前でもお姉ちゃんの顔くらいは知ってたと思うし、
私もキャサリンさんには「平沢憂です」って名前を伝えてたし。
でも、キャサリンさんは私にそんな話を一回もしなかったんだ。
私の想像だけど、きっとキャサリンさんはわざとそうしたんだって思うの。

変な先入観無しに私の『一生に一度のお願い』を見つける手助けがしたかったから
あくまでただの『ナビゲーター』として私の手伝いをしたかったから、
私にお姉ちゃんの話も自分の本当の名前の話もしなかったんじゃないかな?
あははっ、ちょっと私の考え過ぎかな?」


少し照れたらしく、憂ちゃんが頬を赤く染める。
私はキャサリンさんの事をよく知ってるわけじゃない。
一度も会話すらしてないし、姿すら見られてないわけだから、
キャサリンさんが本当は何を考えてたのかなんて分かるはずもない。
でも、憂ちゃんの言う事は間違ってないって思った。
キャサリンさんの事を信じてるわけじゃない。
キャサリンさんを信じる憂ちゃんの事を信じられるから。
信じてるから。
だから、私は憂ちゃんの想像が間違って無いはずだって思った。


「ううん、考え過ぎじゃないって私は思うよ、憂ちゃん」


「うんっ!
ありがとう、梓ちゃん……!」


私が思ったままの言葉を届けると、憂ちゃんはまた弾けるような笑顔を浮かべてくれた。
それはとってもとっても……、とっても魅力的な笑顔だった。
唯さんやキャサリンさんや、色んな人の事を大切に思っている素敵な笑顔。
私もいつかは憂ちゃんみたいな笑顔を浮かべる事が出来るのかな……。
出来たら……いいな……。



短いですが、今回はここまでです。
またよろしくお願いします。






「『素敵な出会い』……か」


放課後、セッション中の桜高軽音楽部部室。
私はキャサリンさんの横顔を見つめながら何となく呟いた。
憂ちゃんのお姉さんの顔を初めて見た翌日、私は一人で部室にお邪魔していた。
ちなみに今日は傍に憂ちゃんは居ない。
喧嘩したとか気まずくなったとか、別にそういう理由じゃない。
今日は何となく、私一人で軽音楽部の見学をしたかったんだよね。
自分でもその理由ははっきりとは分からないけど、
二人より一人で見学した方が見えて来る何かがあるかもしれない。
って、ひょっとしたら、そんな風に心の何処かで考えていたのかも。


『今日は一人で軽音楽部の見学をしたい』


今日の昼過ぎ、私がそう言うと、憂ちゃんは穏やかに微笑んで私を送り出してくれた。
もう『一生に一度のお願い』の期限の日まで、残された時間はどんどん少なくなってるんだもんね。
その期限の日まで、私の行動を見守ってくれるつもりなんだろうと思う。
当然だけど、まだ私の叶えてほしい『お願い』は見つかっていない。
見つけられる気配すらも全然無い。
勿論、音楽の才能が欲しい気持ちはある。
もっと上手にギターを弾いてみせたいし、才能があればきっと私の悩みは解消される。
その『お願い』が叶えば、私は幸せになれると思う。

でも、やっぱり。
私の中には、それで本当にいいのか、って思いもあって。
そんな事で幸せになって満足なのか、って迷いもあって。
私は結局、軽音楽部の皆さんの見学に来る事しか出来ない。
その先に私の答えがあるなんてとても断言出来ないけど、それでも。
私の心の中には、軽音楽部の皆さんの演奏を聴きたい気持ちがあるから。
心の何処かに強く引っ掛かっているから。
私は今日も桜高の軽音楽部の部室に足を運んでしまう。


「はいはい。またドラムが走ってるわよ、りっちゃん」


キャサリンさん——出席簿に記された名前からすると山中さわ子先生——が胸の前で軽く両手を叩いた。
キャサリンさんが演奏を止めるのは、これで今日三度目くらいだろうか。
学園祭が近いせいもあるのかもしれないけれど、今日のキャサリンさんの態度はとても真剣だった。
憂ちゃんが信頼してるだけあって、やる時にはやる先生だという事なのかもしれない。


「えーっ、マジかよ、さわちゃん。
私、これでも走らない様に結構気を遣ってるんだぜ?」


律さんがげんなりした表情で、キャサリンさんの言葉に応じる。
いつもいい加減に見える律さんだけど、今回ばかりは私も律さんの言葉には頷きたかった。
キャサリンさんは『走ってる』と言ったけれど、今回の律さんの演奏が走ってるようには思えなかったからだ。
キャサリンさんも律さんがそう言うのは百も承知みたいで、優しく微笑んでから言葉を続けた。


「そうね、りっちゃんのドラムもかなり走らなくなってはきたわ。
でも、やっぱり少しだけ走ってるのよ。
本番じゃそれが命取りになったりするんだから、その辺は気を付けなきゃね。
リズム隊が崩れたら、バンドの演奏は総崩れになっちゃうもの。
勿論、りっちゃんのドラムは澪ちゃんのベースが組むときちんとした土台になるわ。
やっぱり、幼馴染みだからかしら?
二人が組むと楽器歴が浅いと思えないくらいのリズム隊になれてるのよね。
でもね……」

キャサリンさんが誰も居ない空間に視線を向けて軽く苦笑する。
その空間……、場所はいつも澪さんがベーシストとして陣取っている場所だった。
そこに澪さんの姿は無い。
今日、澪さんは部室に姿を現していなかった。
律さん達の会話からすると、今日は一人だけ部活を休むらしい。
何でもカラオケ屋で一人で歌の練習をするつもりなんだとか。
そんなに自分が歌う事に自信が無いんだ、澪さん……。
澪さんの事を考えると、私は自分の心臓が嫌な速度で鼓動するのを感じる。
澪さん、ああ見えて凄く気が弱いみたいだし、大丈夫なのかな……。

私は自分が澪さんと同じ立場になってしまった時の事を想像してみる。
あの子にボーカルを任せて練習していたとして、
何かのアクシデントでライブの三日前に急に私にボーカルのパートが回って来たとしたら……。
ああ、駄目だ……。
想像するだけで身の毛がよだつ。
だって、私はそんなに歌が上手くないんだから。
歌のパートをやろうって考えた事もないんだもん。
いきなりボーカルをやれって言われても、全然やれる自信が無いよ……。
単に想像してみた私ですらそうなんだ。
実際にそんな立場に立つ事になってしまった澪さんの不安はどれくらいなんだろう……。


「そう……だな」


キャサリンさんの視線を辿って、澪さんの定位置を見てから律さんが微笑んだ。
その律さんの表情を見た時、私は正直驚いた。
律さんの微笑みがすっごく優しい表情だったから。
いつも適当に見えてた律さんがこんな表情を浮かべるなんて……。
当たり前だけど私のそんな考えに気付かない素振りで、律さんが穏やかな声色で続けた。


「ボーカルを澪に押し付けちゃう形になっちゃったんだもんな。
その分、同じリズム隊の私がしっかりしてやらなきゃいけないよな。
うん、学祭ライブが終わるまでは、澪の分もリズム隊を頑張るよ、さわちゃん。
澪にはボーカルに集中してもらわなきゃいけないもんな。
面倒だけど、これが部長の辛い所だぜ……ってな」


『面倒』と言いながら、全然『面倒』じゃなさそうに律さんが笑う。
律さんの姿を見て、キャサリンさん、紬さんが顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
それから、唯さんが嗄れた声を出しながらその場で飛び跳ねる。

「さっすが、りっちゃん!
流石は私達の自慢の部長だね!」


「ふっ、よせやい。部長として当然の事をしてるだけだからな……。
つーか、澪がボーカルをやらなくちゃいけなくなったのは、おまえとさわちゃんの責任でもあるんだからな?
その辺をよーく肝に命じとくように」


「えー……、それはひどいよ、りっちゃん……」


「分かってるわよー。
だから、責任感じて忙しいのに皆の練習を見てるんじゃないのー」


突然の律さんの言葉に、唯さんとキャサリンさんが頬を膨らませて口を尖らせる。
でも、その二人の目元は笑っていたし、紬さんも皆さんの様子を笑顔で見つめていた。
学園祭を前に相当なピンチのはずなのに、昨日と同じくこの軽音楽部の皆さんは笑っていた。
ピンチですらも心から楽しんでるみたいに。

でも、私にはそんな軽音楽部の人達が分からなかった。
どうして、こんな時に皆で笑えてるんだろう。
学園祭が失敗してしまっても構わないのかな?
学園祭なんてお遊びだからどうでもいいって意味なのかな?
ううん、そんな風には見えない。
練習時間こそ少なめだけど、皆さんが音楽に向ける情熱は本物だと思う。
一度一度のセッションに皆さんの真剣な想いが感じられる。
いい演奏をしようっていう強い決心が感じられる。
未熟な私だけれど、それくらいは分かるんだ。
だからこそ、皆さんの落ち着いた態度が私には全然分からなかった。
もしかしたら、その理由が分かりたくて、私は今日一人で軽音楽部の見学に来たのかもしれない。

憂ちゃんには、と不意に私は思う。
きっと憂ちゃんには、その理由が分かってるんだろう。
昨日、憂ちゃんも微笑んでいた。
お姉さんの唯さんがボーカルを務められなくなってしまったってピンチを目の前に、笑顔だった。
きっと憂ちゃんも軽音楽部の皆さんと同じ想いを抱いてるから、笑顔だったんだ。
多分、私が訊けば憂ちゃんはその理由を答えてくれるだろう。
優しく穏やかに教えてくれるだろう。
でも、私はそれが嫌だった。
その答えは私が自分で見つけたいから。
それを見つけられた時にこそ、私は自分の本当の『お願い』を見つけられる気がするから……。


「よし、と。
それじゃあ、練習を再開するわよー。
りっちゃんはもう少しだけ走らないように心掛けてね。
唯ちゃんとムギちゃんは逆にもっと力強く、りっちゃんのペースに負けないように。
三人とも分かったー?」


「はーいっ!」


キャサリンさんが宣言するみたいに言うと、部員の皆さんが元気よく返事をして練習を再開する。
あまり上手ではないはずなのに、どうしても私の心に残る演奏が部室の中に響き始める。
勿論、劇的に上達出来てるわけじゃない。
でも、キャサリンさんの言葉をきっかけに、確実にさっきより上手な演奏になっている気がした。
キャサリンさんが満足そうに頷き、身体でリズムを取る。
私もキャサリンさんに倣って、全身で皆さんの演奏を感じながらさっきと同じ事を呟いてみた。

「『素敵な出会い』……か」


それは昨日、憂ちゃんに教えてもらったキャサリンさんの『お試しお願い』だった。
キャサリンさんは『お試しお願い』でそのお願いを叶えてもらったらしい。
憂ちゃんが言うには、凄く美人なキャサリンさんだけど何故か恋愛運はよくないんだとか。
これまでもいくつもの恋をしてきたのに、幸福な結末を迎えられた事は無かったらしい。
それでキャサリンさんが選んだお願いが『素敵な出会い』なのは、理に適ってる気がする。
だけど、憂ちゃんは一つ疑問に思って訊いてしまったそうだ。
『素敵な出会いよりも、運命の恋人を下さいってお願いした方がよかったんじゃないですか?』って。

言われてみると、それもそうだよね。
誰かと素敵な出会いをしても、その人と結ばれるかどうかは分からない。
出会っただけで、その出会いを生かせずに終わってしまうかもしれないわけだし。
だったら、最初から『運命の恋人』をお願いした方が確実だよね。

でも、キャサリンさんは憂ちゃんのその言葉に首を振ったらしい。
『そんなの面白くないじゃない?』と不敵に笑いながら。
キャサリンさん曰く、欲しいのは『素敵な出会い』って機会だけで、
本当に自分が付き合いたい『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れたい。
『素敵な出会い』は縁に寄るものだから自分にはどうしようもない事だけど、
『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れられるはずのものだって思いたいから、との事だとか。

でも、その『お試しお願い』をしてみた結果、
残念ながらキャサリンさんに恋人が出来る事はなかったみたい。
『素敵な出会い』は一週間の内に何度もあったけれど、どうにも生かし切れなかったらしい。
おかげで一週間で三度もの失恋を経験する事になってしまったそうだ。
それでもキャサリンさんは笑ってたんだよ、と憂ちゃんは言っていた。

『一生に一度あるかどうかの出会いを、
一週間で三度も体験出来ただけで儲け物だと思わない?』


出会いを生かせなかった自分に後悔もあるはずなのに、
そう言ったキャサリンさんの姿はとても素敵だったらしい。
確かに、素敵だな、と私も思う。
確固とした自分の意志を持った素敵な人だ。
そんなキャサリンさんの人柄を分かっているからこそ、
軽音楽部の皆さんもキャサリンさんの指導を安心して素直に受けられるのかもしれない。


「チャンスを生かせられるかどうかは自分次第……、って事だよね……」


私は自分に言い聞かせるみたいに言う。
ううん、実際に自分に言い聞かせる。
つまり、キャサリンさんの言いたかった事はそれなんだと思う。
チャンスはいつ訪れるか分からない。
いつかは訪れるかもしれないけれど、一生訪れる事が無い可能性だってある。
チャンスの有無自体は自分自身の力ではどうしようもない。
無理矢理に掴む事が出来る人も居るのかもしれないけれど、そんな人は極一部なんだ。
だからこそ、キャサリンさんはチャンスを望んだんだよね。
まずは『素敵な出会い』ってチャンスを貰って、後は自分の力でどうにかしたかったんだ。
その結果がどうなったって自分の責任。
生かせなくて失敗してしまったとしても、キャサリンさんにはそれでよかったんだろうな。


「今がチャンス……だよね」


震え始めた自分の身体を押し留めながら、私はもう一度一人で呟いてみる。
チャンスと言えば、今の私にも一つのチャンスがあった。
キャサリンさんと違って望んで手に入れたチャンスじゃないけど、私には生かすべきチャンスがある。
今の私は『石ころ帽子』を被った状態になってしまっている。
神様だか誰なんだかの手違いで、誰からも姿を認識されない状態になってるんだ。
誰にも気付かれずに行動出来るんだよね。
勿論、あの子にも。

本当はこんな事しちゃいけない。
こんな事したって、あの子も私も幸せになんかなれない。
二人とも傷付くだけだって分かってる。
こんなの最低だって分かってる。
でも、分かってるけど、止められない。
確かめたいから。
私と一緒に夢を見てくれていたあの子の最後の真意を確かめたいから。
ずっとずっと目を逸らしてたあの子の気持ちを知りたいから。
私は偶然訪れたこのチャンスを生かそうと思う。

こんな最低の事をしてしまう私は神様に見放されてしまうかもしれない。
『一生に一度のお願い』を叶える資格の無い人間だと判断されてしまうかもしれない。
別にそれでもよかった。
今の私にとって一番大切なのは、あの子の気持ちを確かめる事なんだから。
確かめなきゃ、私はもう前に進めないから。
だから……。

私は部室に配置されている長椅子から立ち上がって、歩き始める。
あの子の家へ。
あの子の下へ。
見ようとしなかった、見るのが怖かった私達の夢の結末を確かめるために。
私は、駆け出して行く。

ひょっとしたら。
最初からこうするつもりで、私は今日一人で桜高まで来たのかもしれなかった。
こんな最低な私の姿を、憂ちゃんにだけは見られたくない。



非常にお久し振りです。
またよろしくお願い致します。






人の家に無断で入るのは初めてだった。
小学生の頃、家の鍵は開けてるから勝手に入って休んでてよ、
って当時の友達に言われた事はあったけど、何となく気後れしてしまってそれも出来なかった。
家はその人の踏み込んではいけない領域なんだって、幼いながらにそう感じていたのかもしれない。
だからこそ、私が人の家に、人の部屋に無断で入るのは、今日が初めてだった。

やっちゃいけない事だって分かってる。
こんな事なんかやっちゃいけないんだって。
でも、私はそれを分かっててやっててしまってる。
そんな私には反省する資格すらも無い。
『一生に一度のお願い』を叶えてもらう資格だって無くなるだろう。

それでも、私はこの場に立っている。
嫌になるくらい激しい鼓動に息苦しくなりながら、
全身が自己嫌悪と罪悪感に震わされながら、
決して逃げ出さずに、投げ出さずにあの子の部屋に立ってしまっている。
立って、あの子——いや、この子——の横顔を見つめている。

私の大切な友達。
ずっと一緒に音楽を続けて来た友達。
これからもずっと一緒に音楽を続けていきたい友達。
受験のせいで引き離されてしまったけれど、
受験が終わればまた元通りに二人で音楽を演奏出来る……。
そう信じていた……、そう信じていたかったこの子。

私が無断でこの子の部屋に入った時、既にこの子は勉強を始めていた。
色んな事に不器用で、勉強が苦手で、勉強する事自体も苦手で、
試験週間にはいつも私に泣き付いて来ていたこの子が、自主的に勉強を始めていたんだ。
いつも私に見せていた勉強への嫌悪感の表情も見せず、ただ真剣に。
きっと夏休み中もこうやってずっと勉強してたんだろう。
私がこの子を避けて、一人で悩んで部屋の中で佇んでいた時にも、ずっと。

本気なんだなあ、って思った。
この子は自分の将来に本気なんだ。
自分が不器用な事だって、勉強が苦手な事だって百も承知。
だからこそ、その分、努力してる。
私とずっと続けてた音楽の練習も中断して、大好きなはずの音楽からも離れて。
この子だって私との音楽を楽しんでくれてた……、と思う。
最初こそ初心者丸出しだったけど、上達も遅かったけど、
たまにセッションしてみて上手く演奏出来た時のこの子の顔は眩しかった。
音楽を好きになってくれたんだ、って思えて凄く嬉しかった。
この子の笑顔をずっと傍で見ていたかった。


「私だって……」


小声じゃなく、結構大きい声で呟いてみる。
勿論、この子は私のその呟きには気付かない。
今の私はそういう状態になってるんだから、当然だった。
でも、だからこそ、私はまた呟いた。
自分の選んだ決心を揺らしたくなくて、選んだはずの将来を信じたくて。
私は大きな声で呟いて……、ううん、言ってみせた。

「私だって……、本気なんだよ……」


本気なんだ。
誰よりも夢に本気なつもりだった。
本気だから、この子が練習の中断を言い出した時は辛かった。
凄く悔しかった。
私の目指した夢はそんな事に邪魔されてしまうの?
私の選んだ道はそんなに小さな障害で躓いてしまうものだったの?
本当はそう言って詰め寄りたかった。
この子と離れ離れになんかなりたくなかった。
だから、あの日から私はこの子を……。

唇を強く噛んで、拳を握り締める。
駄目……。
泣いたりしちゃ駄目……。
まだ泣いちゃ駄目だよ、私……。
私は真剣な表情のこの子の横顔を見ながら必死に胸の痛みに耐える。
どんなに胸が痛くても、どんなに泣き出したくても、まだそれは駄目なんだ。
今日はそれを確かめに来たんだから。
私達の夢の辿り着く先を確かめに、こんな最低な事までしてここまで来たんだから。
だから、まだ私は泣いちゃいけない。
涙を堪えないといけない。

私は大きく溜息を吐いてから、勉強を続けるこの子の学習机に近付いていく。
この子の勉強の内容を確認するためじゃない。
この子の表情を身近で確認するためでもない。
私が確認したい物はもっと別な物だ。
私が今からする事はもっと最低な事なんだ。

震える腕を動かして、私はこの子の学習机の一番上の引き出しを開く。
勿論、この子は私の行動には気付かない。
それは私が憂ちゃん以外には視認されない姿になってるからでもあったけれど、
ひょっとすると、そうじゃなくてもこの子は私の行動に気付かなかったかもしれない。
それくらいこの子は勉強に真剣だった。
私はそんなこの子を眩しくも辛くも思いながら、机の引き出しの中を探る。
自己嫌悪に吐きそうになってしまいながらも、目当ての物を必死に探す。


「……あった」


目当ての物は案外と簡単に見つかった。
それを手に取った時、私は自分の息が荒くなってしまってるのに気付いた。
あった……。
やっぱりあったんだ……。
あの子は練習の中断を申し出て以来、私に何度も話し掛けようとしてた。
私はその申し出からずっと逃げてた。
申し出を受けてしまったら、これを手渡されてしまう、って心の何処かで分かっていたから。
この便箋の中にある手紙を……。

便箋には『あずさへ』と記してある。
この子の私に宛てた手紙がこの便箋の中に入ってる証拠だった。
この子は手紙を書くのが好きだった。
口にすればいい事でも、授業中でも、何度も何度も私に手紙を回した。
遊びの誘いですら、手紙に記していた事だってよくあった。
それくらいこの子は手紙が好きだったんだよね。
だから、この子はきっと私への気持ちを手紙に記してるはずだって思ってた。

躊躇う。
手の先が震える。
こんな事をしても何にもならないって、私の中の冷静な私が大声で叫ぶ。
きっとその通りなんだって事は頭では分かってる。
でも、心では納得出来てない。
納得出来ないから、納得させられないから、私はここまで来たんだから。

「……ごめんね」


呟いて、私は便箋の中の手紙を取り出す。
ゆっくりとした動作で、私への手紙を広げる。
私は大きく二回深呼吸してから、その手紙の文字の羅列に視線を下ろした。


『ごめんね』


最初に目に入った文字列はそれだった。
それから次々と私の目は『もう続けられない』、
『わたしじゃ、あずさの足をひっぱっちゃう』、『ホントにごめん』という言葉を捉える。
私達の夢の終わりを記した言葉が私の胸の中に響いた。
頭の中に反響するみたいに、何度も何度も響く。
やっぱり、もう私の夢は終わってたんだ、ずっと、ずっとずっと前に。

意外と驚きは無かった。
悲しさも涙も湧き上がって来なかった。
湧き上がるのは『やっぱり』って思いだけ。
ずっと分かってた。
分かってて、見ないようにしてたんだよね、私は。
答えを突き付けられるのが怖くて、自分からこの子に距離を取って。
確かな答えを目にしない事で、自分の夢が終わってない事を信じたかっただけなんだよね……。
衝撃なんて受けない。
泣き出したり悲しんだりする必要も無い。
私は確認したかっただけなんだから。
私はこれを見たくて、不法侵入なんて最低な事までやったんだから。
勿論、この子が悪いわけでもない。
この子は自分の夢を追い掛けただけで、私に謝る必要なんて一つも無い。
悪いのはむしろ私の方だ。
私が自分の実力を考慮もせずに無謀な夢を見てしまったのが間違いだったんだ。
私くらいの実力で、音楽と一緒に生きていきたいなんて、夢の見過ぎだったんだ。
私にもっと実力があれば、私はこの子を引っ張っていく事が出来たのかもしれない。
この子も安心して私と一緒に夢を見られる勇気を持てたかもしれない。
でも、私にはその実力が無かった。才能も無かった。ただ当ての無い夢を見てただけだった。
私はそれを理解する事が出来た。
だから、私はこれで満足なんだ。

私は小さく溜息を吐くと、手紙を便箋に戻し、机の中に戻して引き出しを閉じた。
もう私がこの部屋に来る事は二度と無いだろう。
私とこの子の道は完全に違うものになってしまったから。
同じ夢は二度と見られないから。
そう思いながら、私はこの部屋から立ち去っていく。
涙も流さず、胸の痛みも感じず、躊躇いもせず、ただ去っていく。

この家の玄関から足を一歩踏み出した時、少しだけ肌寒い秋風が吹いた。
これから秋が深まって、冬が訪れる。
寒い季節が来るんだ。
でも、それより前に……、って私は思った。
あともう少しで私の『チャンスシステム』の期間は終わる。
その後、私はこの期間の間で起こった事を、全部忘れてしまうらしい。
憂ちゃんの事も、自分のお願いも、あの子の記した手紙を見た事も。
この期間に起こった事を全部忘れてしまっても、これから先に起こる事が変わるわけじゃない。
きっといつか、私はあの子からあの別れの手紙を渡される事になるんだろう。
その時、私は泣いちゃうのかな……、なんて何故かそんな事を思いながら、私は家路に着いた。
秋風は、そんなに気にならなかった。






「おかえりなさい、梓ちゃん」


帰宅した私を憂ちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」と私も多分出来る限りの笑顔で返して、すぐに自分の部屋に戻った。
憂ちゃんは何かを言いたげではあったけれど、私はそれに反応してあげられる余裕が無かった。
疲れた……んだと思う。
精神的にじゃなくて、肉体的に。
今日は一人で車に気を付けながら桜高まで行って、それからあの子の家まで走って行ったんだ。
体力には自信がある方だけど、これは流石の私でも疲れるよ。

荷物を置いてベッドの上に横になると、そのまま寝入ってしまいそうになる。
疲れ過ぎて、今は出来るだけ何も考えたくない。
何かを考え始めてしまったら、悪い事しか考えなくなりそうで嫌だった。
帰ってばかりだけど、食欲も無いし、もう眠ってしまおう。
一日くらい夕食を食べなくたって、別に命には何の別状も無いよね。
そう言えば、この『石ころ帽子』の状態なら、いくらお腹が空いても死ぬ事は無いんだっけ?
だったら、これから期限の最後の日まで何も食べなくたって別に……。

と。


「梓ちゃーん?」


不意に自室の扉が叩かれ、私はベッドから身を起こした。
響いたのは憂ちゃんの声だ。
憂ちゃんどころか誰の相手をする気力も無かったけれど、無視するわけにもいかない。
「どうしたの?」と私が小さく訊ねると、「ごめんね、開けてくれる?」という返事があった。
私が首を捻りながら自室の扉を開けると、
扉の向こうにはお盆いっぱいに料理を載せた憂ちゃんが立っていた。
エビフライ、ステーキ、スープ、サラダ、フルーツポンチ。
お盆の上に載っていたのは、そんな感じのとても豪勢な料理だった。


「ど、どうしたの、これ?」


私がちょっと驚いて訊ねると、憂ちゃんは柔らかく苦笑して頭を下げた。


「えへへ、ごめんね、梓ちゃん。
今日は一人だったから、いつものお礼に梓ちゃんに何かしてあげたいなって思ったんだ。
それで、それなら美味しい料理を作ってあげよう、って頑張ってみたんだけど……。
ちょっと作り過ぎちゃったみたい。ごめんね、梓ちゃん」


「いや、それは別にいいんだけど……」


憂ちゃんを部屋の中に通しながら、私はそう呟く。
憂ちゃんが私のために何かをしてくれるのは、勿論嬉しい。
私のために頑張ってくれてるんだから、憂ちゃんが謝る必要なんて全然無い。
食欲はあんまり無いけど、少しくらいは食べてもいいかもしれないって思う。


「ちょっと待ってて。
今から料理を置くテーブルを用意するから」


言って、テーブルを用意しながら、思う。
憂ちゃんは誰かのために一生懸命になれる子なんだな、って。
私だけじゃない。
大好きなお姉さんの唯さんは勿論、
軽音楽部の人達の事も凄く大切に思ってるみたい。
知り合った人達全員を大切に思ってて、誰かのために動く事を苦にもしないで。
唯さんと早くまた話せるようになりたいはずなのに、私のお願いが決まるまで待ってくれて。
本当に……、優しくて……、優しくて……、優し過ぎる子なんだよね……。
こんな……私なんかとは違って……。

「冷蔵庫の物を使い過ぎちゃってごめんね、梓ちゃん。
私のお小遣いで補えそうなら、家からいくらか持って来ようかな……」


「いいってば。ありがと、憂ちゃん」


憂ちゃんと話しながら思う。思ってしまう。
私は、そう、自分の事しか考えてない。
あの子の夢を知った時、私はあの子の未来より自分の事を考えてしまっていた。
これからどうやって音楽を続けていけばいいんだろう、ってそればかり考えてた。
あの子の夢を受け容れて応援するべきなのに、私は私の事しか見えてなかった。
今後、受験して、私は多分、桜高に入学する。
それで桜高で音楽関係の部に入部する事になるとして、私は上手くやっていけるの?
私はあの子と仲良くなって音楽を演奏するようになるまで、半年掛かった。
私はそれを繰り返せるんだろうか?
何とか繰り返して、誰かと音楽の道をまた歩いて行くようになったとする。
でも、私の実力じゃ、またあの子と迎えた結末を繰り返す事になるんじゃないのかな……。
私に実力が無いから、私が天才じゃないから、誰も引っ張る事が出来なくて、同じ結末を迎える?
同じ喪失を繰り返すの?


「あ、そうだ、梓ちゃん。
悪いんだけど、ちょっと待っててくれるかな?」


料理を配膳し終わった憂ちゃんが、何かを思い出したように私の部屋から出て行く。
お箸かスプーンでも忘れたんだろうか。
別にどうでもよかった。
これ幸いと私はまた色んな事を考え始める。
考えたくなかったはずなのに、湧き上がる思考を止める事が出来ない。

私は天才じゃない。
ギターを弾くのが周囲の人よりちょっと上手いだけ。
大きな視点で見れば、全くお話にならない実力なんだ。
将来的に音楽をやっていくのなんて無理だって分かり切ってる。
だったら、今後のためにも私が望むのは、たった一つの事じゃないのかな?
『一生に一度のお願い』って降って湧いたチャンスを生かす方法なんてきっと一つだけ。
やっぱりお願いするべきなんだ。
私の将来のために一番必要なもの……、『音楽の才能』を。
そうすれば私と音楽をする皆を不安にさせる事も無い。
私の才能で皆を引っ張って行く事が出来る。
ひょっとしたら、あの子だって戻って来てくれるかもしれない。
皆で夢を掴めるんだよね……。

でも……。
でも、そんなの……。


「お待たせ、梓ちゃん。
ちょっと梓ちゃんに見てほしいんだけど……」


憂ちゃんが扉を開いて私の部屋に戻って来る。
その手に持っていたのはお箸でもスプーンでもフォークでもなくて……。

憂ちゃんが、
持っていたのは、
私の、
今は見たくもなかった、
ギターだった。

「梓ちゃんのギターのチューニングをしてみたんだ。
お姉ちゃんのギターでした事があるだけだから、ちょっと自信は無いんだけど……。
でもね、私、やっぱり梓ちゃんのギターが聴いてみたくて……」


「やめてよ!」


気が付けば叫んでしまっていた。
家中に響くような大声の絶叫。
まさか自分がこんな大声を出せるなんて思ってなかった。
こんな大声を出しても何の意味も無いって事くらい分かってる。
でも、後々から湧いて来る言葉が止まらない……!


「どうしてそんな……!
貴方はどうしてそんなに誰かの事ばっかり考えられるのっ!
私……、私なんかがギターを持ったって!
何も出来ないし! 弾いたって何にもならないのに!
皆、私から離れて行って! 私から! 私から!
わた……し……、私か……ら……。
うっくっ……、うううううううううっ!」


両目から大粒の涙が流れて止まらなくなって、喉の奥からは嗚咽が漏れ出していた。
止まらない。
涙も嗚咽も止まらない。
ああ……、そうだよね……。
ショックを受けなかったなんて嘘。
涙も出て来なかったなんて真っ赤な嘘。
私はただ必死に涙を止めてただけなんだ。
私、泣きたかったんだ……。
あの子と同じ夢を見るのはもう無理だって、夏休み前からずっと分かってた。
分かっていたけど、少ない可能性を信じたかった。
また二人で楽しく演奏出来るって、儚い夢でも見てたかったのに……。
その夢はずっと失われる事になってしまって……。
もう、私の涙は止まらない。止められない。



今回はここまでです。
かなり長い話になってきましたが、よろしくお願いします。

「あ、梓ちゃん……」


憂ちゃんが持っていたギターを置いて、戸惑った声を上げる。
戸惑って当然だと思う。
こんな突然に泣き出されて、戸惑わない方がおかしい。
私だって泣くつもりじゃなかった。
泣きたくなかった。
増して憂ちゃんの前でなんて、絶対に泣きたくなかったのに。
なのに……。
私はこんなに大声で泣き出してしまってる。

見せたくなかった。
この子の前で泣き顔なんて見せたくなかった。
憂ちゃんは優しい。
私の事を考えて行動してくれてる。
周りの皆の事を大切に想って動いてる。
それが私の胸を痛いくらいに傷付ける。
憂ちゃんには色んな才能があって、きっと私以上の音楽の才能もあって……。
それなのに憂ちゃんは音楽に対する夢は無くて、
夢なんかよりもちょっとした事こそが幸せで、
きっと大好きなお姉さんこそ幸せだったら、憂ちゃん自身も幸せなのに違いない。
私が欲しい物を持っているのに、何の欲も無い憂ちゃん。
何の欲も無く、私が『お願い』と『夢』を見つける事に協力してくれる憂ちゃん。
そんな憂ちゃんの姿を見せつけられる私はとても滑稽で、惨めだ。
私は立っているのも辛くなって、膝を折ってその場に崩れ落ちてしまう。


「ごめんね、梓ちゃん、私……」


憂ちゃんが中腰になって私の肩の方に手を伸ばす。
優しさと心配に満ち溢れた想いで包み込もうと手を伸ばしてくれる。
私はその手を強く払った。
拒絶して、呻き声混じりで、また、叫んだ。


「やめてったら!
もういい……! もういいから……!
うっ……、うっく……、私に……、私に構わないでよおっ……!」


叫んだ後、両手の手のひらで涙の溢れる私の両目を塞ぐ。
もう出ないで……。
流れないでよ、私の涙……。
どれだけ泣いても意味が無い事くらい、私だって分かってる。
憂ちゃんに八つ当たりしたって意味が無い事くらい、自分自身で分かってる。

八つ当たり……。
そう、これは八つ当たりだ。
あの子との夢を失って、それがショックで凄く辛くて、
それを必死に誤魔化してて、憂ちゃんがギターを見せたってきっかけで私は泣いてしまって……。
そうして、私は見たくなかった自分の嫌な感情と直面する事になった。
夢を失くした悲しみ。
才能を持つ憂ちゃんへの嫉妬。
自分が何も持ってない事の劣等感。
夢を誰かの力で叶えようとしている虚しさと後ろめたさ。
見たくなかった自分の汚い感情をまざまざと見せつけられて、目眩までしてしまいそうだった。
だから、私は憂ちゃんに八つ当たりをしてしまっているんだ。
そんな気なんて一切無かったのは分かっているけれど、
私がこの汚い感情に気付くきっかけを作った憂ちゃんに責任を押し付けようとして……。

分かっていても、
もう、私の言葉と感情は止められない。

「来ないで……!
もう傍に……、ひっく、来ないでったら……!
貴方を見ていると辛いの!
貴方を見てると、自分で自分が嫌になるの!
だから……、だ……から、もう……!」


汚い言葉が止まらない。
卑怯で弱くて、今の現実から逃げ出したい私の感情が止まらない。
自分自身で弱い自分を更に弱くしちゃってる気がしてくる。
でも、私は思った。
そんな弱くて情けないのが本当の私だったんだって。
見ないようにしてたけど、見たくなかったけど、それが本当の私。
憂ちゃんに手助けしてもらう価値も無い。
『一生に一度のチャンス』に選ばれる価値なんて最初から無い。
そんな最低な私が本当の私だったんだ……。

憂ちゃんは……。
憂ちゃんは私の言葉に何も返さなかった。
それもそうだと思う。
憂ちゃんはきっと私がどうして泣いているのか、見当も付いてないだろう。
当然だよね……。
ギターのチューニングをして、それを私に見せたら急に泣き出されてしまったんだから。
こんなの憂ちゃんじゃなくたって、他の誰だって訳が分からない。
私だって、自分が同じ事をされてしまったら、戸惑う事しか出来ないと思う。
憂ちゃんはそんな訳の分からない理由で、私に泣かれて、責められてしまってるんだ。
私に愛想が尽きてしまっても仕方無いし、それが普通の反応だと思う。
いつもそうだ。
私は色んな事から逃げて逃げて、逃げ回って、
その結果、最終的に当たり前みたいに色んな物を失ってしまうんだ……。
それが私って人間なんだ……。

なのに……。
私は左肩に感じてしまっていた。
人の手のひらの温かさを。
憂ちゃんの手のひらの温かさを。
憂ちゃんが置いたんだ、私の左肩に自分の手のひらを。
こんな私に、自分の想いを伝えるために。


「梓ちゃん……。
私、余計な事しちゃったみたいだね……。
ごめんね……、梓ちゃんの気持ちに気付いてあげられなくて……」


憂ちゃんが悲しそうな声色で私にそう囁く。
私は涙を拭いながら、顔を上げて憂ちゃんの顔に視線を向ける。
それでやっと、悲しそうなのは声色だけじゃなくて、表情もだったんだって気付けた。
まだ涙でぼやけていたけれど、その悲しそうな憂ちゃんの顔だけははっきりと見えた。
私が憂ちゃんにそんな顔をさせちゃってるんだ……。
優しい笑顔が印象的で、いつも微笑んでくれていた憂ちゃんを私が……。

どうしようもないくらいの罪悪感が私の胸に湧き上がる。
やっぱり私は最低なんだ。
何も出来ない上に、誰かを傷付ける事しか出来ない最低な人間なんだ。
それが私なんだ……。
こんな私が憂ちゃんの傍になんか居ていいはずがないんだ。
もうこんな……、こんな悲しい憂ちゃんの顔なんて見てたくないよ……。


「離し……」


呟きながら憂ちゃんの手を振り払おうとして、瞬間、私の動きと言葉が止まる。
憂ちゃんの手を振り払う事が出来なかったからだ。
悲しい顔をしているのに、憂ちゃんの手のひらには強い力がこもっていた。
強い力と強い想いを感じて、振り払えなかった。
私は止まらない涙を拭えないまま、呆然と憂ちゃんの瞳に自分の瞳を向けた。
憂ちゃんと私の視線が交わる。
悲しそうな表情なのに、憂ちゃんの瞳は強い力を宿しているように見えた。
強い力のこもった瞳を私と合わせたまま、憂ちゃんが柔らかく、でも、強い声色で続けた。


「ううん、離せないよ、梓ちゃん。
今だけはちゃんとお話ししなきゃいけない時だよ、梓ちゃん。
後で私の事をどれだけ嫌ってくれても構わない。
本当はそんなのすっごく辛いけど……、悲しいけど……。
でも、梓ちゃんとはちゃんとお話ししたいの。
今、梓ちゃんが辛い思いをしてるのは、きっと私も原因だと思うんだ……。
私がもっとちゃんと梓ちゃんと色んなお話をしてれば、
梓ちゃんはこんなに辛い思いをしなくてもよかったんだと思う。
だから……、ごめんね、梓ちゃん……」


予想もしてなかった言葉だった。
私に訳も分からない文句を言われて、
意味も分からないまま泣かれてしまってる憂ちゃんはもっと怒ってもいいのに。
私の事なんか放っておいてくれても構わないのに。
憂ちゃんは私に優しい言葉を向けてくれている。
それは本当は喜ぶべき所だったんだろうけど、また私の胸を凄く傷付けた。
やっぱり憂ちゃんは私とは全然違うんだって思い知らされた。
他人の事を一番に考えて、大事に出来る立派な子なんだよね……。
それと比べて私は自分の事ばかり……。
私のその気持ちを分かっているのかいないのか、憂ちゃんが優しい声で続ける。

「ホントはね……、梓ちゃんが何か悩んでるのは分かってたんだ。
多分、音楽の事で悩んでるんだろうな、って事くらいは何となくね……。
この前、急にギターを弾くのをやめたのもそうだし、
実はね、私、その日の夜に、梓ちゃんがギターを持って何処かに行ってたのも気付いてたの。
それで梓ちゃんが音楽……、ギターの事で何かを悩んでるんだ、って思ったんだよ。

でもね……、どうしていいか分からなかったんだ。
梓ちゃんの悩みに私が勝手に踏み込んでいいのか分からなくて……。
『ナビゲーター』の私がどれくらい手助けしていいのか分からなくて……。
それで私、ずっと考えてたの。
どうする事が梓ちゃんにとって一番いいのかなって。
それをずっとずっと考えてたんだ……」


憂ちゃんに悩みに気付かれていた。
その事実に私はあんまり驚かなかった。
よく思い出さなくても、私の行動は色々不自然だったと思う。
鋭い所がある憂ちゃんなら、私の考えていた事に気付いててもおかしくない。
それから、「でも……」と憂ちゃんが続け、私はその言葉にまた耳を傾ける。


「私、間違っちゃったみたいだね、梓ちゃん……。
私ね、ずっと梓ちゃんの悩みの事を考えてて、一つ思った事があるんだ。
梓ちゃんは今、ギターの事で悩んでる。
だったら、その悩みを晴らすのもギターじゃないのかなって。
どんなに悩む事があっても、好きな事をすれば元気になれるって単純に考えちゃったの。

でも、それは私の勝手な思い込みだったんだ、って今気付いたの。
そんなの単純過ぎたよね……。私の勝手な思い込みだったよね……。
本当は梓ちゃんとちゃんと話し合わなきゃいけない事だったのに。
自分一人で考えてても、いい答えなんて出るはずなかったのに。
だから、本当にごめんなさい、梓ちゃん……」


憂ちゃんが辛そうな声色で、その想いを私に伝える。
それは多分、憂ちゃんが私にほとんど見せた事が無い弱さだった。
憂ちゃんは色んな才能を持っていて、私には届かない強さもたくさん持ってる。
でも、何もかもを完璧にこなせてる、ってわけじゃないんだよね……。
何でも出来るように見えるけど、憂ちゃんも私と同い年の中学生なんだから……。
憂ちゃんだって悩んで、考えて、一生懸命生きている。
失敗しちゃう事だってある。
分かってる……。
分かってるよ、そんな事……。
分かってるから、辛いんじゃない……。

また私の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今度の涙は悲しかったから流れたものじゃなかった。
辛かったから流れた涙でもなかった。
情けなくて……、自分の無力が情けなくて流れた涙だった。

憂ちゃんには才能がある。
でも、才能に頼り切ってるわけじゃないのは、傍に居て私にもよく分かった。
ううん、才能云々より、そもそもの努力を欠かさないタイプだって事も分かる。
憂ちゃんの優しさや思いやりは才能で身に着けたものなんかじゃない。
憂ちゃんは才能があって努力もしてて、誰にでも優しい思いやりを持ってる。
私なんかじゃどうやったって届かない物をたくさん持ってる。
それを羨ましく思うだけの自分が情けなくて、悔しかった。

「どうして貴方は……、そんなに優しいの……?」


何度言ったか、何度思ったか分からない言葉を私は口にする。
結局、私の疑問はそれに尽きるのかもしれない。
自分の事しか考えられてない私が思う一番の疑問。
私は才能だけじゃなくて、誰かへの思いやりを持てる憂ちゃんが眩しかったんだ、きっと。
私はあの子と夢を見られなくなった事が悲しかった。
でも、一番悲しかったのは、あの子の夢を応援出来ない自分が心の中に居た事だった。
あの子は音楽を始めた当初から、私の夢に付き合ってくれてる所があった。
私が望むから、私と組んで音楽を演奏してくれていたんだよね、あの子は。
私の夢を叶えてくれるために。
今ならそれが分かる気がする。
今度は私があの子の夢を応援する番なのに、心の底からそれが出来ない私が居る。
それどころか、悲しくて辛くて泣いてしまって、憂ちゃんに八つ当たりしてしまう私が居る。
それこそ私が本当に悔しくて情けなくて悲しい事だったんだと思う。

それを言ってしまうと、そもそも私は最初に何を望んでたんだろう?
いい曲を弾けるようになる事?
音楽で有名になる事?
それとも、あの子と音楽を続ける事?
音楽の才能を手に入れて、あの子と音楽を続けられるようになったとして、その後に私は何がしたいの?
……分からない。
ずっと悩んでいた事のはずなのに、いつの間にかそれが分からなくなってる。
自分が何で悩んでいたのかを。

不意に、憂ちゃんが私に一つの答えを届けてくれた。


「私は別に優しくなんかないんだよ、梓ちゃん」


「えっ……?」


私は思わず変な声を漏らしてしまっていた。
だって、こんなの意外な言葉過ぎるよ……。
もっと意外だったのは、そう言った憂ちゃんの表情が悲しそうな苦笑だった事だった。
謙遜なんかじゃないって事は、その表情を見ただけでよく分かった。
どうも憂ちゃんは本当に自分の事を優しくなんかないと思っているらしい。
私の心臓がどんどん妙な速度で鼓動を速めていく。
どういう事なの?
こんなに周りの人の事を考える憂ちゃんが優しくないだなんて、そんなの変だよ……。
それだけは絶対におかしいよ……。
気が付けば、私の涙はいつの間にか止まっていた。
泣くよりも先に、その憂ちゃんの言葉だけは否定したかったからだと思う。
私は憂ちゃんの肩に手を置いて、口早に捲し立てるみたいに言った。

「そんな事……、そんな事あるはずないでしょ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは私によくしてくれてるし、優しくないなんてそんな事あるはずないよ。
憂ちゃんが優しくて思いやりがある子だから、私は……。
それが辛くて……、嫌で……、嬉しくて……、悲しくて……。
大体、憂ちゃんは『お試しお願い』を唯さんのために使ったんでしょ?
そんなの、簡単に出来る事じゃないよ。
誰かのために自分のお願いを使えるなんて……。
特に自分の事ばっかり考えちゃってる私なんかには……。

それに、まだ教えてもらってはないけど、
きっと『一生に一度のお願い』の方も唯さんのために使ったんだよね?
『お姉ちゃんをずっと幸せにしてあげて下さい』みたいな、そんなお願いをしたんでしょ?」


私はその自分の言葉を憂ちゃんに同意してもらいたかった。
憂ちゃんが優しくない子だなんて、私が一番認めたくなかった。
憂ちゃんが優しい子なんだって事は、私だってよく分かってるんだから……!

だけど。
憂ちゃんは困った苦笑を浮かべたまま、
その首をゆっくりと横に振って、静かで穏やかな声で続けた。


「ううん、違うよ、梓ちゃん。
内容はまだちょっと……、教えてあげられないけど……。
でもね……、『一生に一度のお願い』の方はお姉ちゃんの事をお願いしなかったんだ。
お姉ちゃんの事はお願い出来なかったんだ。
本当だよ?
勿論、証明は出来ないんだけど、信じてくれる?」


私としては信じたくない言葉だったけど、憂ちゃんが嘘を言っているとは思えなかった。
憂ちゃんはいつも私に対して真剣に向き合ってくれる子だったから。
今回の言葉からも憂ちゃんの真剣な態度が感じられたから。
だから、私は憂ちゃんの言葉を信じるしかなかった。
でも、一つだけ気になった言葉があった。


「『お姉ちゃんの事はお願い出来なかった』……って?」


私が訊ねると、憂ちゃんは視線を私から逸らして彷徨わせ始めた。
きっとその答えを私に伝えるべきかどうか迷っているんだろう。
それくらい、憂ちゃんにとっても秘密にしていたい事に違いない。
だけど、憂ちゃんは小さく頷くと、私の無遠慮な質問に答えてくれた。



今回はここまでです。
またよろしくお願いします。

「私ね、梓ちゃんが考えてくれてる私より、ずっと我儘な子なんだ。
確かに『お試しお願い』はお姉ちゃんが元気で幸せになれるようにお願いしたよ?
『お試しお願い』の効力はすぐに出たみたいで、
傍から見てもお姉ちゃんはすっごく幸せになれたみたいだったんだ。

例えばお姉ちゃんが割った卵の中に黄身が二つ入ってたり、
失くしたと思ってたCDが二年振りくらいに見つかったり、
朝に弱いはずのお姉ちゃんが早起き出来るようになったり……。
一つ一つはちょっとした事なんだけど、お姉ちゃん、幸せそうだったなあ……。
最初はね、そんな幸せそうなお姉ちゃんの笑顔を見てるのが嬉しかったんだ。
でもね……」


「でも……?」


「お姉ちゃんの幸せそうな顔を見てる内に、私、怖くなっちゃったの。
お姉ちゃんは私に幸せそうな笑顔を見せてくれてる。
お姉ちゃんはいっぱいの幸せを感じてくれてる。
すっごく嬉しいし幸せな事なんだけど、私にはそれが怖くなっちゃったんだ。
だって、今のお姉ちゃんは私の『お試しお願い』が幸せにしてるだけで、
私自身がお姉ちゃんを幸せにしてるわけじゃないんだ、って事に気付いちゃったから」


「だけど、それは憂ちゃんが優しいから……」


私が反論しようとすると、憂ちゃんが私の唇に右手の人差し指を当てた。
それ以上は言わないで、って事なんだろう。
だけど、私はその憂ちゃんの言葉に反論したかった。
唯さんを幸せにしたのは、確かに憂ちゃんの『お試しお願い』の効力かもしれない。
憂ちゃん自身が唯さんの幸せのために、何かをしているわけじゃないのかもしれない。

それでも、唯さんのために、誰かのために、
自分の『お試しお願い』を使える事自体が、憂ちゃんの優しさなんだと私は思う。
私は『お試しお願い』も『一生に一度のお願い』も、自分のために使う事しか考えてなかった。
誰かのために使おうだなんて、全く思いも寄らなかったんだもん。
誰かのために自分のチャンスを使える事、それこそが憂ちゃんの優しさの証明なんだ。


「私は優しくなんてないんだよ、梓ちゃん」


優しい微笑みを浮かべて、憂ちゃんが自分の優しさを否定する言葉をまた口にする。
それを認めたくなくて私が首を横に振ろうとすると、急に全身に温かさを感じた。
柔らかさと温かさが私を包む。
憂ちゃんに抱き締められたんだって気付いたのは、五秒くらい経ってからだった。


「憂……ちゃん……?」


突然の事にちょっと驚きながら、私は憂ちゃんに訊ねてみる。
私を抱き締めた理由は答えずに、憂ちゃんは私の耳元で囁くように話を続けた。

「私ね、怖かったんだよ、梓ちゃん。
お姉ちゃんがどんどん幸せになっちゃうのが。
私が何もしなくても、すっごく幸せになっていくのがね……。
とってもね……、怖かったんだよ……。

ううん、お姉ちゃんが幸せなのは凄く嬉しいんだ。
私が居ない所でもお姉ちゃんが元気で笑ってるって思える事自体は安心出来るの。
いつまでも元気で幸せなお姉ちゃんで居てくれるなんて、とっても嬉しい。
それが『お願い』の効力でも何でも、お姉ちゃんが幸せなら私は嬉しいんだよ?

でもね、私、気付いちゃったんだ。
『一生に一度のお願い』を叶えて貰った後は、何もかも忘れちゃう決まり事だよね?
叶えて貰った『お願い』の事も含めて、あった事の全部を忘れちゃう……。
そう思ったらね、怖くなっちゃったの。
『お願い』を叶え終わって何もかも全部忘れちゃった後、
『お願い』の効力で幸せそうなお姉ちゃんを見て、私はどう思うんだろうって。

幸せそうなお姉ちゃんの姿が見られるのは、勿論嬉しいよ。
だけど、思ったんだ。
私が何もしなくても幸せそうにしてるお姉ちゃんを見て、
お姉ちゃんのためにそれ以上の何かしようと思えるのかな、って。

だって、私が何もしなくても、お姉ちゃんは幸せな笑顔を見せてくれるんだよ?
大好きな笑顔を見せてくれるんだよ?
私、きっとそれだけで満足しちゃうと思うんだ。
きっとお姉ちゃんのために何かしようと思わなくなっちゃう。
お姉ちゃんの事をどんどん考えなくなっちゃう。
お姉ちゃんが私の中から居なくなっちゃう……。
そう思うとね……、胸の中が不安でいっぱいになっちゃって、
『一生に一度のお願い』をお姉ちゃんのために使えなくなっちゃったんだ……」


話している間、憂ちゃんの身体は震えていた。
その考えは憂ちゃんを本気で不安にさせていたんだろう。
普段、優しい笑顔を浮かべている憂ちゃんの身体を、こんなに震わせてしまうくらいに。


『お姉ちゃんが私の中から居なくなっちゃう』


憂ちゃんはそう言った。
勿論、現実に唯さんが憂ちゃんの心の中から居なくなるわけじゃない。
唯さんをあんな大事に思ってる憂ちゃんに、そんな事があるわけがない。
でも、憂ちゃんの言おうとしてる事は私にもよく分かった。
憂ちゃんはきっとこういう意味で言おうとしたんだと思う。


『お姉ちゃんを大切にしたい気持ちが無くなっちゃう』って。


その憂ちゃんの考えはこんな私にもよく分かった。
ううん、こんな私だからこそ、痛いくらいに分かっちゃったんだ。
手を伸ばしても届かない物を欲しいと思っていた私だからこそ……。

やっぱり。
私は、憂ちゃんを優しくないとは思わない。
我儘だとも思わない。
憂ちゃんは唯さんの事を心の底から大切にしてる。
単純にお願い出来ないくらい、唯さんの事を大事にしようとしてる。
それは間違いなく憂ちゃんの優しさで、そんな選択が出来る憂ちゃんと知り合えた事を誇りに思えた。
まだ数日の付き合いだけど、そんな考え方が出来る子が居たんだ……。
だったら、私は……、私も……。


「憂ちゃんは……」


憂ちゃんの胸の中で、私は小さく声を出した。
憂ちゃんは望んでないかもしれないけど、この気持ちだけは伝えなきゃいけない気がした。
どうしても、想いを伝えたかったんだ。


「憂ちゃんは優しいよ」


私がそう伝えると、憂ちゃんは自分の胸の中から私を解放した。
私の両肩に手を置いて、複雑そうな表情を浮かべて私と視線を合わせる。
それから、私は……。
……。

深呼吸。
私はまだ残っている涙の跡を拭ってから、憂ちゃんの瞳をまっすぐに見つめる。
それから、私は……、私は、笑ったんだ。
上手く笑えてる自信なんて無い。
自分の笑顔に説得力がある気もしない。
でも、笑顔を見せなきゃいけないって思った。
逃げていた私。
泣いていた私。
そんな私じゃ憂ちゃんの優しさを証明出来ないから。
私は笑顔を憂ちゃんに向けるんだ。
あんまり上手く出来てない笑顔だと自分だと思うけど、それでも……。


「梓ちゃん……」


憂ちゃんが少しだけ戸惑った表情を見せる。
私の笑顔の意味が掴めてないんだろうか。
それとも、やっぱり私の笑顔がちぐはぐだったのかも。
私の想いを上手く伝えられなかったのかな……?

そうして私の胸に不安が生まれ始めた頃、
憂ちゃんはまた勢いよく私の頭を自分の胸の中に抱き締めた。
憂ちゃんが私の笑顔をどう捉えたのかは分からない。
単に私をまた抱き締めたくなっただけかもしれない。
でも、確かに私は見たんだ。
私を抱き締める一瞬前の憂ちゃんの表情が、今まで見た中で一番輝いた笑顔だったのを。


「ありがとう、梓ちゃん……」


憂ちゃんが私の耳元でそう優しく囁いてくれた。






私は憂ちゃんの胸の中に抱き締められて、
しばらくそのままの体勢でお互いの体温を感じていた。
私を抱き締めている間、憂ちゃんは私に何も訊ねなかった。
私が急に涙を流した理由も、大声で叫んだ理由も訊ねずに私の頭を撫でてくれた。
同い年の女の子に頭を撫でられるのなんて恥ずかしい。
そんな気持ちは勿論あったけど、憂ちゃんに撫でられていると不思議と心が落ち着いた。
もしかしたら、私は自分が思ってる以上に子供なのかもしれない。

ううん、私は結局、何も分かってなかった子供だったんだよね……。
ぶつけ合うって程じゃないけど、憂ちゃんと話せて、
少しでも本音を交わせて、やっと少しだけ分かりかけてきた気がする。
私が本当に欲しかったものは、ひょっとしたら……。


「ねえ、憂ちゃん……」


憂ちゃんに頭を撫でられながら、私は小さく、
でも、精一杯の決意を込めて、口を開いてみる。
まだ完璧には固まっていない想い。
自分自身でもはっきりしていない気持ち。
それをもっと確かにするためにも、声に出して想いを言葉にしようと思った。
自分自身の気持ちを、自分の耳と憂ちゃんの耳に届けたかった。


「うん、何?」


憂ちゃんが手の動きを止め、私の頭の上で頷いたのを感じる。
私は深呼吸をしてから、気持ちを声に乗せていく。


「私ね、将来、音楽が関係する職業に就きたかったんだ。
ギターを弾くのは周りじゃ結構上手な方だったし、上手に演奏出来ると嬉しかったから。
だから、ずっと音楽を続けたくて、そんな夢を持ってたの。
思い返してみると、何だか単純でちょっと恥ずかしいけどね」


「ううん、素敵な夢だと思うよ、梓ちゃん」


「ありがとう、憂ちゃん。
でもね、最近、本当にその夢でいいのかな、って思うようになってたんだ。
私は本当に音楽を続けたいのかなって」


「……どうして?」


「私ね、一緒に演奏する友達が居たんだよね。
あんまり器用な子じゃなかったんだけど、セッションは楽しかったし、
たまに驚かされるくらい上手な演奏を聴かせてくれる事もあったんだ。
本当に楽しかったなあ……。
酷い演奏になる事も多かったけど、とっても楽しかった……。
ずっと二人で音楽を続けられたらいいな、って思ってたんだ……。

でもね、夏休み前くらいにね、その子に言われたの。
『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね』って。
勿論、受験は大事だと思ってるよ。
でも、勉強の合間に少しくらい二人で演奏出来るはずだって思ってた。
そのくらいの時間の余裕くらい、あるはずでしょ?
だから、ショックだったんだよね。
私達の夢は受験なんかに邪魔されるくらい小さなものだったの?
って、その子に問い詰めたい気持ちでいっぱいになっちゃうくらいに。

だけど、問い詰められなかったんだ。
怖かったんだ、その子から本当の事を聞くのが。
『高校生になってからも演奏する暇は無いと思う』、
なんて言われたらどうしようって……。
その子、最近、他の夢を見つけたみたいだったから余計にね……。

でも、そんなもやもやを抱えたままなのも辛くて、
耐えられなくなって来て、それで今日、その子の家に確かめに行ってみたの。
その子の気持ちを……」

言葉を止め、私はあの子の家で見つけた手紙の事を思い出す。


『わたしじゃ、あずさの足をひっぱっちゃう』

『ホントにごめん』


それは私達の、ううん、私の夢の終わりを告げる言葉。
思い出すだけで息が苦しくなって、胸が激しく痛む。
また大声で泣き出しそうになってしまう。
でも、駄目。
もう泣いたら駄目だよ、私。
これ以上、何も出来ないなんて駄目なんだから……!

そう思うのに、想いを言葉に出来ない。
口を開くとまた大声で泣き出しそうになっちゃってる。
何も、出来なくなる。
もう……、何やってるのよ、私は……。
でも、もう私はまた涙を……。

瞬間、私の頭に置かれた温かさがまた動くのを感じた。
優しく包み込まれるように頭を撫でられる。
憂ちゃんが私の頭を撫でてくれる。


「いい子、いい子……」


赤ちゃんをあやすみたいに憂ちゃんが私の頭を撫で続ける。
憂ちゃんの温かさと優しさが、私の頭から全身に広がっていく。
それだけで私の涙は何処かに飛んで行ってしまった。
やっぱり私はまだまだ子供なんだろう。
こんな事で涙が出ちゃうくらい嬉しくなっちゃうなんて……。
って、折角涙が引っ込んだのに、別の理由で泣いてちゃ意味が無いよね。
私は一息吐いてから、何とか言葉を出したけど、
それは私が言おうとしてた事とは全然違った言葉だった。


「もう……、そんなに子供扱いしないでよ、憂ちゃん……」


ああ……、私ったら何を余計な憎まれ口を叩いちゃってるのよ……。
憂ちゃんは私のためを思ってやってくれてる事なのに……。
でも、照れ臭いのは確かだし、ああ、もう……!
そうして、私は憂ちゃんの胸の中で自分の顔が熱くなるのを感じていたけど、
憂ちゃんは気を悪くした風でもなく、私の頭を撫でる手を止めてから言ってくれた。


「ごめんね、梓ちゃん。
つい自分がされると落ち着く事を梓ちゃんにしちゃったみたい。
私が悲しい時や寂しい時にね、お姉ちゃん、私にいい子いい子してくれるんだよ」


「唯さんが憂ちゃんに……?」


「うん、そうなんだよ。
私って結構泣き虫だから、お姉ちゃんによく慰めてもらってたの。
そのせいなのかな?
今でもお姉ちゃんにいい子いい子されるとすっごく落ち着くんだ。
梓ちゃんは落ち着かない?」


「落ち着かないわけじゃ……ないけど……」


「よかった」

そう言うと、憂ちゃんはまた私の頭を撫で始めてくれた。
照れ臭さはまだあるけど、心が落ち着くのも確かなんだよね……。
私は開き直って、憂ちゃんの手のひらの温かさに心を落ち着かせてもらう事にした。
まずは私の気持ちを憂ちゃんに伝える方が先決なわけだし……。

それにしても、憂ちゃんが唯さんを慕う理由がちょっと分かった気がする。
まだそんなによく知ってるわけじゃないけど、
唯さんは憂ちゃんにとって本当にいいお姉さんなんだろう。
今まで軽音部を見学させてもらった限りだと、唯さんは少し変わった人にしか見えなかった。
練習のし過ぎでライブ前に声嗄れちゃうなんて、天然って言葉じゃ片付けられない。
でも、きっとそれだけの人じゃないんだよね。
そうじゃなきゃ、憂ちゃんがこんなに唯さんの幸せを願うわけないもん。

憂ちゃんは唯さんに頭を撫でられると落ち着くから、私の頭を撫でてくれてる。
という事は、間接的に唯さんが私の心を落ち着けてくれてるって事でもあるのかな?
優しくて思いやりのある憂ちゃんを形成してるのは唯さんでもあるんだよね。
何だかまた唯さんに興味が湧いてきた。
ううん、唯さんだけじゃなくて、キャサリンさんを含めた軽音楽部の皆さん全員に。
きっとあの軽音楽部には、私の知りたい何かがあると思うから。
また見学に行きたいな……。

でも、今はそれより先に、憂ちゃんに私の想いを伝える時だった。
憂ちゃんの手のひらに勇気を貰いながら、私はまた言葉に想いを乗せる。



今回はここまでです。
更新遅くてどうもすみません。
またペースを上げていければと思います。

「それでね……。
私と音楽を一緒にやってたその子なんだけどね……。
その子の部屋でなんだけどね……。
見つけたんだ、手紙を。
便箋に私の名前が書かれた手紙を……。
悪いと思ったんだけど、中身を確認せずにはいられなかったんだ。
その子の本音が知りたかったから、今の自分の状態をいい事に隠れ見ちゃったの。
最低だよね、私……。

それで手紙にはね……。
『ごめん』って書いてあったんだよ。
『ごめん』って……。
終わっちゃったんだ、って思ったなあ……。
私達の夢……、私の夢……、ずっと叶えたかった夢が終わっちゃったんだって。

辛かったし、悔しかったんだけど、でも、本当は心の何処かで思ってたんだ、私。
ずっとずっと前から思ってたんだ。
私の実力が足りなかったから、私の演奏が未熟だから、
その子は音楽をやめようとしてるんじゃないかのかな、って。
私にもっと実力があれば、その子に夢を信じさせてあげられたはずじゃないかって。
私が天才なら、私と一緒に音楽を続ける自信をその子に待たせてあげられたはずじゃないかって。
そんな事ばかずっと考えてて……。
だからね、私は音楽の才能が欲しかったんだ。
才能があれば、またその子と楽しく音楽が出来るはずだって思ってたんだ。
『一生に一度のお願い』もそれにしようかって考えちゃうくらいに……」


その言葉は情けなかった私の感情の吐露。
私自身が見たくなかった自分。
憂ちゃんに見せたくなかった自分。
今度こそ私はその自分と向き合わなきゃいけなかった。
自分が本当に求めていた物は何だったのかを考えるために。
私の本当の気持ちを憂ちゃんに知ってもらうために。
だから、考えていた思いを言葉に乗せ、自分の耳に届ける事で再確認していく。
私の本当の気持ちを。

今までより少しだけ強く。
憂ちゃんの胸の中に包み込まれた。
私の頭をゆっくりと撫でながら、憂ちゃんが優しく訊ねてくれる。

「ねえ、梓ちゃん……?」


「何、憂ちゃん?」


「才能って……、欲しいよね。
私にも分かるよ、梓ちゃん。
私もね、お姉ちゃんを見てていつも羨ましくなるんだ。
お姉ちゃんはいつも私を喜ばせてくれるの。
私には思いも付かなかった素敵な方法で、周りの人達を幸せにしてくれるの。
そんな……、すっごいお姉ちゃんなんだよ。
皆を笑顔にしてあげられる才能を持った素敵なお姉ちゃんなの。

だからね、私もお姉ちゃんがすっごく羨ましいんだ。
私もお姉ちゃんみたいに周りの人達を笑顔にしてあげたい。
私もお姉ちゃんが私にしてくれたみたいに、お姉ちゃんを笑顔にしてあげたいもん。
才能を持ってる人は羨ましくなっちゃうよね……」


それはとても意外な言葉だった。
口振りからしても、私の事を慰めてるわけじゃなくて、本気でそう考えてるみたい。
私からは才能に満ち溢れてるように見える憂ちゃんでも、そう考える事があるんだ……。
ううん、ひょっとしたら私の考え方がおかしかっただけなのかもしれない。
憂ちゃんには音楽の才能がある。色んな才能がある。
人よりちょっと上手にギターを弾けるレベルの私よりも、ずっとずっと才能がある。
それは間違いないと思う。
でも……。

私はまとまりかけたその想いを言葉にしようと口を開く。
だけど、私が言葉を口に出すより早く、憂ちゃんが言葉を続けていた。
偶然なのか、必然なのか、その言葉は私が考えていた事とよく似た言葉だった。


「音楽の才能が欲しい梓ちゃんの気持ち、私にもよく分かるよ。
すっごくよく分かるよ……。
だけど、私、梓ちゃんに一つだけ聞かせてほしいんだ。
物凄い音楽の才能があれば、梓ちゃんのお友達も音楽を続けてくれるかもしれないよね?
将来、音楽が関係する職業に就けて、ずっとずっと音楽を続けられるかもしれないよね?
そうなったら梓ちゃんも嬉しいよね?

でもね、私、思うの。
それって本当に梓ちゃんが叶えたい夢だったのかなって。
梓ちゃんが本当に欲しかったものだったのかなって……」


その言葉は憂ちゃんが憂ちゃん自身に浴びせ掛けてるみたいにも聞こえた。
ううん、きっと憂ちゃんは実際にも自分自身に問い掛けてるんだと思う。
求めた才能を手に入れて、それで本当に幸せなのかって。
求めていたものは本当にそれだったのかって。
私が、憂ちゃんが、二人が叶えたい夢は本当にそれなのかって。

私が黙り込んでいたせいか、憂ちゃんの腕から少しだけ力が抜けた。
不安そうな声色混じりに憂ちゃんが続ける。


「ごめんね、梓ちゃん……。
知り合ってまだそんなに経ってない私が偉そうに言っちゃった……。
でも、これが私の考えなんだって事だけは、梓ちゃんに知ってほしかったんだ。
私の気持ち、知っておいてほしかったんだ。
本当はもっと落ち着いた時に話すべきだったよね?
梓ちゃん、今日、とっても悲しい事があったのに……。
でもね、私達に残された時間はもう……」

瞬間、私は腕を憂ちゃんの腰に回した。
強く強く、腕に力を込める。
私達に残された時間を手離さないために。
やっと本音で語る事が出来た想いを、もう嘘で誤魔化さないために。
軽く深呼吸してから、私は憂ちゃんから身体を離す。
今はお互いの体温を感じるよりも、視線を交わしていたかったから。
視線と言葉と心で話し合いたかったから。


「ありがとう、憂ちゃん」


言葉に込める。精一杯の想いを。
見つめ合う。出来る限りの笑顔を浮かべて。
繋げる。二人の心を。

憂ちゃんは……。
まだもう少しだけ不安そうな表情をして、
目尻に悲しみの雫を浮かべながらも、でも……。
憂ちゃんは、すぐに優しく笑ってくれた。
いつも私に向けてくれていた素敵な笑顔を私に向けてくれた。

だから、
私も憂ちゃんに、
自分の想いをまた伝えられるんだ。
無理して浮かべたわけじゃない、
とても自然な笑顔を見せて。


「憂ちゃんの言ってくれてる事……、私にも分かるよ。
私が本当に欲しかったもの……。
それはね、きっと才能より手に入れるのが難しいものだったんだと思う。
憂ちゃんが話をしてくれて、私、やっと分かってきた気がする……。
だから、ありがとう、憂ちゃん。
私ね、後少しで『一生に一度のお願い』が見つけられるかもしれないんだ」


「ううん、そうじゃないよ、梓ちゃん。
『お願い』が見つけられるのは、梓ちゃんがちゃんと自分の事を考えたからだよ。
悲しい事があっても、辛い事があっても、ちゃんとずっと考えてたから。
簡単に『お願い』を決めたりしないで、自分と向き合ってたからだって思うな。
だから、私は別にお礼を言われる事なんて……」


「違うって、憂ちゃん。
私が自分と向き合えたのは、憂ちゃんが居てくれたおかげ。
唯さんの軽音楽部の見学にも嫌な顔せずに付き合ってくれたし、
私が悩んだ時には一緒に悩んでくれたし、
こんな急に泣き出したりする自分でも面倒だと思う私に付き合ってくれて……、
そのおかげで私はやっと自分の『お願い』と『夢』を見つけられる気がするんだ。
私がどうにか全部を投げ出さずにいられたのは、憂ちゃんのおかげだよ」


「でも、それは梓ちゃんが頑張ったからで……」


「ううん、憂ちゃんが私を助けてくれたからだよ……。
って、これじゃ切りがないね……」


「うん、そうかもね……。
だったら、梓ちゃん、こういうのはどう?
梓ちゃんが『お願い』を見つけられそうなのは、私と梓ちゃんの二人が頑張ったから。
二人で一生懸命頑張ったから。
そういう事にするのはどうかな?」


「二人で?」


「うん、二人で」

二人で……、かあ。
私としては憂ちゃんに支えてもらった感覚しかないけど、
二人で頑張ったという考え方はとても素敵な考えだと私は思った。
私は頷いて、憂ちゃんに笑顔を向ける。


「うん、じゃあ、そういう事にしちゃおうか、憂ちゃん」


「そういう事にしちゃおうよ、梓ちゃん」


二人で笑い合う。
多分、知り合って初めて、お互いに心の底からの笑顔を向け合えた。
やっと辿り着けた私達の笑顔の時間。
もうすぐ私達が一緒に居られる時間は終わってしまう。
『チャンスシステム』が終わるまでの時間はとても残り少ない。
でも、残り少ないからこそ、私は憂ちゃんと一生懸命に『一生に一度のお願い』を探したい。
今度こそ、心の底からの笑顔で。

……本当は。
もうほとんど見つかってるんだけどね、私の『お願い』。
その『お願い』で確定だと自分でも思う。
でも、それで決めちゃうのも勿体無いよね。
残された時間は少ないけど、まだ時間は残されてるんだから。
考えるための時間は残されてるんだから。
時間いっぱいまで憂ちゃんと一緒に居て、憂ちゃんとの時間を過ごして、
それから、完全な自信を持って、その『お願い』を叶えて貰いたいな、って私は思うんだ。






二人で笑顔を向け合った後、私はふと思い付いて、
憂ちゃんに私のギターを軽く弾いてもらう事にした。
憂ちゃんは少し恥ずかしがっていたけど、私が強く頼むと折れてくれた。
私が夢を見つける手伝いが出来るなら……、と恥ずかしそうな笑顔を浮かべて。
我ながら我儘な事を言っちゃったなあ、とは思うんだけど、
憂ちゃんの演奏はどうしても聴いておきたかったんだよね。

無理を言って聴かせてもらった憂ちゃんの演奏はやっぱり上手かった。
劇的に上手いというほどじゃないけど、少なくとも素人の演奏には思えない。
私がギターを弾き始めた頃はもっともっと下手だったしね。
憂ちゃんが本気で音楽に取り組むようになったら、
私なんか簡単に抜かれてしまって、すぐに手の届かない存在になっちゃう気がする。
でも、多分、憂ちゃんが音楽で大成する事は無いんどゃないかな、と思う。
憂ちゃんが叶えたい夢は、音楽の道とは別の場所にあるから。
もっと大切な物が憂ちゃんの胸の中にはあるから。
そして、多分、私も……。

それにしても。
憂ちゃんは本当に優しい子なんだ、って思った。
自分自身で自分を優しい子だと思いたいために、
自分の優しさを主張してくる子はたまに見かけるけど、憂ちゃんはそうじゃない。

例えば、そう……。
憂ちゃんが初めて私のギターを手に取った時、こう言っていた気がする。
『ギターをチューニングするものだなんて知らなかった』って。
勿論、チューニングという行為自体は知ってたんだろうけど、
日常的に行うものだとは知らなかった、って意味の言葉なんだと思う。
それくらい憂ちゃんはチューニングを知らなかったんだよね。

でも、今日、憂ちゃんはこう言っていた。


『梓ちゃんのギターのチューニングをしてみたんだ。
お姉ちゃんのギターでした事があるだけだから、ちょっと自信は無いんだけど……』


矛盾した言葉。
憂ちゃんらしくない嘘の言葉だった。
ギターのチューニングをよく知らなかったという言葉と、
唯さんのギターのチューニングをした事があるという言葉。
私は後者の方が嘘なんだと思ってる。
憂ちゃんはきっと私にギターを弾いてもらいたくて、一人でチューニングをしたんだ。
唯さんのギターのチューニングをした事があるって嘘を吐いてまで。
多分、私の部屋に置いてあるギターの本を読んで、四苦八苦しながら……。
それでも、憂ちゃんはそれを私に報告しなかった。
私に気を遣わせないようにしたかったんだろうな、って思う。
あくまで自然に私にギターを弾いてもらいたくて……。

もう……。
憂ちゃんってば、どうしてこんなに優しいのかなあ……。
勿論、その理由は私にも分かりかけてる。
大好きなお姉さんの唯さんに近付くためなんだ。
憂ちゃんの優しさは、きっと唯さんとの生活の中で培われたものなんだよね。
だから、私は明日、今まで掛けていた沢山の色眼鏡を外して、
心の底から素直に唯さん達の軽音楽部の見学に行きたいと思う。
そして、出来る事なら、学園祭のライブまで見届けて……。

そこまで考えた瞬間、私は一つ大変な事に気付いてしまった。
他でもない唯さん達の学園祭のライブの成否の事だ。
唯さんが声を嗄らしてしまって、代理のボーカルの澪さんも何だか頼りない。
なのに、律さんと紬さんには焦ってる様子も無くて、このままだとライブの失敗は目に見えてる。
うう……、あの軽音楽部の皆さんのライブの失敗は見たくないなあ……。

それでも、今日まで心の何処かで少し安心もしていた。
憂ちゃんが『一生に一度のお願い』で唯さんの幸せを願ったはず、って今日まで思ってたから。
それなら神様の何かの計らいで、ライブ当日に唯さんの嗄れた声が都合よく治ったりするんじゃ……。
なんて、我ながら都合のいい期待をしてたんだよね。

だけど、憂ちゃんの言葉が本当なら、
憂ちゃんは唯さんの幸せを『お願い』にしていないらしい。
こうなると私のしていた期待は完全にお門違いになってしまう。
そもそも『お願い』自体をしてないんだから、期待するだけ全くの無駄になっちゃうわけだし。
だとしたら、ライブが失敗する可能性の方がずっと大きいじゃない……!

湧き上がる不安に耐え切れず、
私がそれを口にすると憂ちゃんは笑顔で応じてくれた。


「お姉ちゃん達を信じてあげて、梓ちゃん。
お姉ちゃん、ライブの成功のために頑張ってるんだから、きっと大丈夫だよ。
それにね、もしもライブが失敗しちゃっても、お姉ちゃん達はそれでいいんだと思うな」


失敗しても構わない……?
あの軽音楽部の人達の失敗なんて、私は見たくないよ……。
今の私にはまだ憂ちゃんのその言葉の意味は分かりそうにないな……。
でも、唯さん達を信じ切ってる、その憂ちゃんの笑顔だけは私の胸に強く残った。
これは何としても軽音楽部の皆さんのライブを見届けなきゃいけないよね。
もしかしたら、そこにこそ私の『お願い』の最後のきっかけがあるかもしれないから……。



今回はここまでです。
四日目の終了です。
期間も残す所、後三日。
書き手も頑張ります。


もっと評価されるべき。

>>1、何かサイトとか持って平行更新してけばどうです?

しっかりと作り込んであるし広めればきっと……

ってことで乙です!






「りっちゃん、これはここに置けばいいのかな?」


「うん、そこそこ。そのままそこに置いといてくれ。
いやー、助かるよ、ムギ。
私一人じゃどうしてもきつい所があってさ、付き合ってくれてありがとな。
しっかし、前から思ってたんだけど、ムギって力持ちさんだよなー」


「そうかな?
自分じゃよく分からないんだけど……」


「うん、力持ちさんだと思うぞ?
普段からキーボードを持ち運んでるだけあって、力持ちで頼りになるよ。
こりゃいいお母さんになるぞー、ムギは」


「お母さん……?」


「あっ、今ムギ、お母さんに力が必要なのかな? って思っただろ?
意外と必要なんだぞー。
まあ、特にうちのお母さんの話になるんだけどさ。
うちのお母さんさ、すっげー力持ちなんだよ。
お米も平然と持ち上げるし、重い洗濯物も軽々持ち運んでるんだよな。
私が小学生の頃の話なんだけど、弟と一緒に抱き上げたりしててくれたもんな。
母は強しってやつだな、マジで。
そういうわけで、お母さんには力が必要なのだよ。
分かったかな、ムギくん?」


「うふふ、分かりました、先生。
でも、そうなんだ。
りっちゃんのお母さんって、素敵なお母さんなんだね」


どうかなー、と呟きながら律さんが苦笑する。
紬さんはその律さんの横顔を見て、嬉しそうに笑った。
活発な律さんとお嬢様っぽい紬さん……。
全然違ったタイプの二人に見えるから、二人っきりの時にどんな話をするんだろう、って私は思ってた。
正直、上手くやれてるのか、ちょっと不安だったくらい。
でも、そんな私の不安なんて、傍から見てるだけの人間の考えなんて、浅はかだったんだね。
その事が私はすっごく嬉しい。
だって、律さんと紬さん、二人ともとても楽しそうなんだもん……。

桜高学園祭の前日。
私と憂ちゃんは軽音楽部の部室……、じゃなくて、一年生の教室に来ていた。
部室に向かう途中、私達は廊下で部室じゃない何処かに向かう律さんと紬さんの姿を見つけた。
だから、私達は部室に向かうより先に、二人の背中を追う事に決めたんだ。
学園祭のライブも近いのに、二人で何をしているのかが気になったから。

何をしているのかは教室に到着してすぐに分かった。
教室とはとても思えないおどろおどろしい空気がその場に漂ってたんだ。
勿論、変な意味でのおどろおどろしい空気じゃない。
単に教室が暗幕に覆われて、薄暗い雰囲気にされてるだけの事だった。
教室には人体模型やマネキンの生首が配置されていて、
蝙蝠やカラスの模型が天井から吊るされたりもしている。
何故か北海道土産によく見る熊の置物も配置されていたのは、ご愛嬌……なのかな?
熊の置物はともかく、この教室の様子から察するに間違いない。
律さんと紬さんはお化け屋敷の準備をしているんだ。
廊下側の壁に『悪夢の館』って書いてあるしね……。

一応、訊ねてみると、憂ちゃんが『そういえば……』と応じてくれた。
前に唯さんが『りっちゃん達、お化け屋敷やるらしいんだー』と自宅で羨ましそうに話していたらしい。
何でも唯さんも学園祭でお化け屋敷を出し物にしたかったのに、多数決で負けてしまったんだとか。
あー……、唯さんなら凄くやりたそうだよね……。

そっか……。
当然だけど、学園祭は部活動の出し物をするだけの場所じゃないんだ。
クラスの出し物、学園祭のためだけに結成された団体の出し物、色んな出し物がある。
私はクラスの出し物にしか参加した事がなかったから、その辺がすっかり盲点だった。
普通はクラスか部活動の出し物……、
そのどちらかに専念するものなんだろうと思うけど、
律さんと紬さんはそのどちらともに参加するつもりなんだ……。
ううん、律さんと紬さんだけじゃないか。
憂ちゃんによると、唯さんもクラスで焼きそばを作って販売するらしい。
『お姉ちゃんの作った焼きそば、食べてみたいなあ……』と寂しそうに苦笑していた。
今の私達の状態じゃ、焼きそばを売ってもらえないだろうしね……。

でも、それよりも何よりも、律さん達って凄いなあ、と私は思った。
今日は学園祭の前日。
つまり明日、律さん達は軽音楽部のライブに参加する。
私だったら、練習しても練習し切れないくらい緊張してしまうと思う。
下手すると、徹夜で練習しても足りない気がするな……。
特に律さん達はボーカルの唯さんが声を嗄らしてしまうというアクシデントの真っ最中なのに。
代理の澪さんがボーカルをしなくちゃいけないって不安材料が残っているのに。
律さんと紬さんは楽しそうだった。
楽しそうに、ライブと関係無い準備をしていた。
昨日だってそう。
凄いピンチのはずなのに、律さんと紬さん、唯さんは笑顔で楽しそうで……。
ピンチすらも楽しんでるみたいで……。

分からなかった。
私にはそれがどうしてなのかずっと分からなかった。
失敗する確率の高いライブを目の前にして、笑える感性が理解出来なかった。
正直、見学する軽音楽部を間違えたかも、って思ってしまった事もあった。
だけど……、今はちょっとだけ分かる気がする。
軽音楽部の皆さんだって、失敗したいわけじゃない。
出来る事なら大成功のライブをしてみせたいに違いない。
でも、皆さんにとっては、もっと大切な事があるんだよね。
もっともっと大切にしたい事があるんだよね。
ライブの成功よりも、もっともっと大切な何かが……。

だから、私はハラハラしながら、皆さんのライブを見届けたい。
ううん、ライブだけじゃなくて、ライブ以外の皆さんの行動を。
皆さんの、部活動を。


「ねえ、りっちゃん?」


ある程度、お化け屋敷の小道具の配置が終わったのか、
一息吐いた紬さんが、小さく首を傾げて律さんに声を掛ける。
律さんはそれに笑顔で応じた。


「ん? どうしたんだ、ムギ?」


「さっきから気になってたんだけど、そのキノコは何なの?
りっちゃんが迷惑じゃなかったら、訊いてもいい?」


それは私も訊ねてみたい事だったから、紬さんが訊ねてくれて助かった。
廊下で見つけた時から、律さんは何故か左のこめかみ付近にキノコのぬいぐるみを付けていた。
深緑色(……かな?)の色の傘に斑点が散りばめられた、いかにも毒々しいキノコのぬいぐるみ。
いくら何でも、アクセサリーにしては独特過ぎるよね……。
そう思って私が首を傾げていると、律さんが頭を掻きながら続けた。

「別に迷惑なんかじゃないって、ムギ。
このキノコはさ、昨日、澪に貰ったんだよ」


「澪ちゃんに?」


「うん、澪に。
澪の奴さ、昨日、私の家にこのキノコを持って来たんだよ。
カラオケ屋でボーカルの練習しながらもさ、
お化け屋敷の準備の手伝いが出来ない事を気にしてたみたいなんだよな。
それでせめてものお詫びにって事で、お化け屋敷の小道具のつもりで持って来たらしい」


「お化け屋敷の小道具……なの?」


「ああ、そうみたいだな。
実は澪の奴、昔からキノコの外見が苦手なんだよな、食べるくせにさ。
「あの毒々しい形が怖いんだー」とか言ってたよ、確か。
まあ、そう言われると、怖い気がしないでもない気がしないでもない気も……。
そんなわけで、澪の中ではキノコはホラーなアイテムになるらしいぞ。
でも、流石に使い所が思い付かなくってさ、昨日は悩んだなー。
キノコをお化け屋敷にどう使えばいいんだ、ってそりゃ悩んだんだぜ?

だが、私は思い付いたね、思い付いちゃったね。
キノコの寄生されたキノコ人間って設定なら、結構怖いんじゃないかってな!
キノコノコノコー! とか呻き声を出すキノコ人間。
どうだ? 結構怖くないか?
ま、そんなわけで、澪に貰ったキノコを髪飾りにさせてもらう事にしたんだよ」


す……、凄い発想の転換だなあ……。
律さんって、ある意味凄い人なのかも……。
確かにキノコ人間って設定なら怖い気がしないでもない気も……。

紬さんはその律さんの言葉に目を丸くして、しばらく黙り込んだ。
両手を頬に当てて、何かを考え込んでるみたいだった。
ひょっとして、紬さんもキノコ人間を怖いと思い始めてるのかな……?
私は無言で憂ちゃんに視線を向けてみる。
憂ちゃんは私と視線を合わせて静かに笑ってから、また紬さんに視線を向けた。
憂ちゃんには紬さんの考えている事が分かってる、って事なんだろうか。
私は憂ちゃんに促されて、紬さんに視線を戻して次の言葉を待った。

十秒くらい経っただろうか。
不意に紬さんが口を開いて、私と多分律さんも考えていなかった言葉を口にした。


「りっちゃんって優しいよね」


「は、はあっ?
急に何だよ、それ……!
別に私は優しいとかそんにゃんじゃにゃくてだな……!」


律さんが顔を赤くして紬さんの言葉に反論した。
よっぽど驚いたのか、言葉をちょっと噛んじゃってる。
紬さんの突然の言葉に驚いたのは私も同じだった。
まさか急に紬さんがそういう事を言い出すなんて思ってもなかった。
私の事じゃないのに、何だか私が気恥ずかしい気持ちになってくる。

でも、不思議と私は納得もしていた。
そっか……、律さんは優しい人だったんだ……、って。
活発で大雑把に見えるけど、律さんは優しい人なんだよね。
私だって、初めて見た時から何となく気付いていた。
律さんは澪さんを本当に優しい視線で見守っていたから。
ずっと澪さんの事を考えてるように、少なくとも私には見えたから。
律さんは優しい人なんだ。
勿論、律さんの優しさに気付く紬さん自身も……。

紬さんが優しく微笑んで律さんの両手を取る。
穏やかで何の誤魔化しも無く思える真っ直ぐな言葉を続ける。

「ううん、りっちゃんは優しい子だと思うの。
りっちゃん、澪ちゃんの事、すっごく大事に思ってるもん。
そのキノコだって、澪ちゃんの分も頑張ろうと思って髪飾りにしてるんでしょ?
澪ちゃんが歌の練習が出来るために、お化け屋敷とか他の事を心配させないように……」


「いや……、えっと……」


律さんが口ごもる。
誰かの真っ直ぐな感情を口先で誤魔化せるほど、律さんも器用な人じゃないらしい。
普段の姿があんな感じだから、誰かに褒められる事にも慣れてないんだろうな……。
不謹慎な気もするけど、何だか私は律さんに凄く親近感が湧いた。
私も誰かの真っ直ぐな感情を向けられる事には慣れてないから。
憂ちゃんと出会えて、戸惑う事も結構あったから。
今、律さんが何を考えているのか、私にはよく分かる。
何を感じているのかも。


「えっと……だな……」


律さんが顔を赤く染めたまま口を開く。
上手く言葉がまとまらないんだと思う。
多分、自分の中の感情に戸惑ってるんだろうな。
胸の中から湧いてくる嬉しさに。


「このキノコはアレだよ、ムギ……。
明日に向けて気合いを入れようと思って付けたやつなんだよな……。
澪の分も準備してやるぞー! ってつもりでさ……。
私にはボーカルのアドバイスとか出来ないから、
他の事でフォローしてやりたかっただけで、優しいとかそんなんじゃ……」


きっと律さんは自分で自分が何を言っているのか気付いてない。
その言葉が律さん自身の澪さんへの想いを物語っている事に。
素直な気持ちを口にしてしまっている事に。
でも、それでいいんだよね。
人の好意に慣れてなくて、自分の気持ちを表現する事に不器用な律さん。
そこもきっと軽音楽部の皆さんが惹かれてる所なんだろうから……。

律さんの言葉に紬さんがまた微笑む。
今度は今までの優しかった笑顔とは違った少し寂しそうな笑顔で。


「いいなあ、幼馴染みって……」


「そ、そうか……?」


急に寂しそうな表情になった事を不安に思ったのか、
律さんが頬の赤みを引かせて紬さんにおずおずと訊ねる。
紬さんがゆっくり頷いてから続けた。


「うん、すっごく羨ましい。
りっちゃんは澪ちゃんの事を大事にしてて、
澪ちゃんもりっちゃんを大切に思ってて、傍から見てて羨ましいな。
唯ちゃんも和さんって幼馴染みが居て、二人の間にはいい空気を感じるもの。
私にはずっと一緒に居る同い年の幼馴染みとか居ないから……。
年下の子には居るんだけどね、少し歳が離れててちょっと特殊な関係だから……。

だからね、りっちゃん達の事、羨ましいんだ。
幼馴染みっていいなあ、って思うの」

「幼馴染みか……。
改めて考えてみた事は無いけど、そんなに羨ましいもんなのか……?」


「うん、すっごく!」


「そっか……、そうかもな……」


「無い物ねだりだって事は自分でも分かってるんだけどね。
今から幼馴染みなんて作れる物でもないし……」


「何を言ってるんだよ、ムギ」


「えっ?」


「えっ?」


紬さんが小さく呟き、私も釣られて呟いてしまった。
律さんが何を言おうとしてるのか分からなかったから。
幼馴染みなんて作れる物でもない、って紬さんの言葉に間違いはないはずなのに。
どうして律さんは自信満々に紬さんの言葉を否定出来るんだろう……?
その答えはすぐに真顔で応じた律さんの言葉で分かった。


「そりゃ今から同い年の幼馴染みを作るのは無理だけどさ、
長年連れ添った昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?
それこそ今からだって、さ。
私とムギが知り合ってまだ半年くらいしか経ってないけど、
これを十年、二十年と続けていけば、幼馴染みじゃないけど昔馴染みにはなれるじゃんか。
それじゃ駄目なのか?
幼馴染みと昔馴染み、どっちが上って話でも無い、って私は思うんだけど」


律さんの言葉に紬さんが押し黙る。
呆然とした表情で、律さんを見つめている。
律さんがまた不安気な表情を浮かべて、呆然とする紬さんに訊ねる。


「あ、私と昔馴染みなんて駄目……だったか……?
それなら、まあ……、仕方無いけど……」


瞬間、紬さんは首を左右に大きく振った。
お嬢様っぽい紬さんらしくない、激しい感情のこもった動きだった。
教室中に響くくらい、大きな声で紬さんが叫ぶ。


「ううん! そんな事無い!
そんな事無いよ、りっちゃん!
私、りっちゃんと昔馴染みになれるなんて、すっごく嬉しい!
嬉しいの!
りっちゃんこそ……、私と昔馴染みになるの、嫌じゃない?」


「いや、何でだ?
ムギは見てて面白いし、楽しい奴だし、
出来る事なら、これからずっと先も一緒に遊びたいな、って思うぞ?」


律さんの言葉に紬さんの表情がぱあっと輝く。
普段笑顔を浮かべている紬さんだけど、こんなに輝いた笑顔を見るのは初めてだった。
それくらい嬉しかったんだろう。
私の事じゃないのに、私まで嬉しくなってくるくらいの笑顔だなあ……。


「ありがとう、りっちゃん!
だったら、私、りっちゃんと昔馴染みになるね!
ずっとずっと一緒に居て、大切な昔馴染みになろうね!
そのためにも、明日のライブ頑張ろうね!
明日のライブ、大切な思い出にしようね!」


「おうよ!
まっ、先にお化け屋敷の準備をしなきゃなんだけどな!」

そうやって律さんも眩しい笑顔になって、紬さんと笑い合った。
律さんと紬さん……、大切な二人の仲間達の姿。
笑顔の空間。
笑顔の連鎖。
気付けば私も笑顔になってしまっていた。

不意に。
私は視線に気付いてその方向に視線を向けた。
私に視線を向けていたのは、当然だけど憂ちゃんだった。
二人で視線を向け合う。
憂ちゃんは笑顔だったけれど、少しだけ寂しそうでもあった。
私も多分、憂ちゃんと同じ様な表情になったと思う。


『昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?』


律さんの言葉が私の頭の中で響き続ける。
私も、作りたい。
大切な昔馴染みを今から作りたい。
他の誰でもないこの子に、私の昔馴染みになってほしい。
私はこの子の事が凄く大切だから。
凄く大切に思えるようになったから……。
それは叶わない、叶えて貰えない『お願い』なのかもしれない。
だけど、私はそう願った。
強く強く、そう願ったんだ。



今回はここまでです。

>>131

ありがとうございます。
並行はちょっと難しいので、完結したら考えたいと思います。






律さん達のお化け屋敷を後にして軽音楽部に向かう途中、
憂ちゃんが少し申し訳無さそうに、
「寄り道したい場所があるんだけど、いいかな?」と私に訊ねた。
唯さん達の練習の見学は勿論したかったけど、別に急ぐ事でも無いもんね。
逆に憂ちゃんが私に自分の意思を伝えてくれるようになった事の方が嬉しかった。
だから、私は笑顔を向けて頷いて、憂ちゃんと肩を並べてその場所に向かう事にしたんだ。


「はいはい、そこ、音が弱いわよ。
初めての学園祭で緊張する気持ちも分かるけど、音はきちんと強気にね。
練習の成果を出せない方が後々で後悔しちゃうでしょ?」


厳しさの中にも優しさを感じさせる言葉が部屋の中に響く。
言ったのは軽音楽部の中で見せる顔とは違う、
凛々しい表情と声色の大人の女の人……、キャサリンさんだった。
そう、憂ちゃんが寄り道したいと言っていたのは、
軽音楽部じゃなくて、吹奏楽部が活動してる方の音楽室だったんだよね。


「キャサリンさん、吹奏楽部の顧問もやってたんだ……」


それは単なる独り言のつもりだったんだけど、
私の言葉が聞こえていたらしい憂ちゃんが笑顔で頷いてくれた。


「うん、そうみたいなんだよ、梓ちゃん。
私ね、昨日、ちょっと前にお姉ちゃんが話してた事を思い出したの。
『軽音部に顧問の先生が来てくれる事になったんだ。
その先生はね、吹奏楽部の顧問もやってて皆に人気がある楽しい先生なんだよー』って。
そう楽しそうに話してたのを……。

だから、私、キャサリンさんの姿をどうしても見てみたくなっちゃったんだ。
私の前で見せてくれてた姿じゃなくて、軽音部での楽しそうな姿でもなくて、
吹奏楽部の顧問で桜高の皆さんに人気があるっていうキャサリンさんの姿を……。
我儘言っちゃってごめんね、梓ちゃん」


私はその憂ちゃんの言葉には首を振る事で応じた。
憂ちゃんが謝る必要なんて無いんだし、そのキャサリンさんの姿は私も見てみたかったから。
昨日、一人で軽音楽部に見学に行った時、
私はキャサリンさんが何度かギターを弾いたのを目にした。
正直、身体と胸が震えた。
年上の人だから当たり前ではあるんだろうけど、私なんかよりずっとずっと上手かった。
もしかすると、プロやインディーズでやっていけそうなくらい、キャサリンさんの腕前は見事だったんだ。
そんな腕前を持つキャサリンさんなのに、今は高校の音楽の先生をやっている。

勿体無いな、って正直思う。
もっと別の場所でその技巧を活かせるはずなのに、って。
昨日までの私はそう思ってた。
折角のギターの技巧を誰にも見せずにしておくなんて、勿体無いしとても悔しい。
壁を感じ始めてる私としては、特にその気持ちがあった。
昨日までは……。

でも……。
私の心は少しずつ変わり始めてるって、そんな気もする。
卓越した技巧を持つという事。
音楽的な才能を持つという事。
どちらも羨ましいし、私は今までそのどちらも喉が出るほど望んでいた。
『一生に一度のお願い』って卑怯な方法に頼ってでも、凄く手に入れたかった。

けれど、それはやっぱり何かが違ってたのかもしれない。
卓越した技巧を持つキャサリンさん。
音楽的な才能を持つ憂ちゃん。
二人とも私の欲しい物を持ちながら、私が望んでいた道には進んでない。
多分、私が望んでいたものとは違う何かを大切にしているから、私と違う道を進んでるんだよね。
私は今、その何かを見たくて、キャサリンさんの姿を見つめている。
憂ちゃんの傍に居るんだ。


「……あれ?」


不意に私は考えていた事とは別の事を思い出した。
大した事じゃないのかもしれないけれど、気になり始めると止まらなくなった。
私はキャサリンさんの吹奏楽部の顧問としての姿を見たかったから、ここに居る。
吹奏楽部の顧問だって分かったのは、憂ちゃんが唯さんからキャサリンさんの話を聞いていたからだ。
つい最近、キャサリンさんが吹奏楽部の顧問になったって……。

あれ、おかしいなあ、計算が合わない……?
キャサリンさんが憂ちゃんのナビゲーターをしていたのは、つい最近の事のはずだよね?
うん、大体、二週間前くらいでよかったはず。
でも、憂ちゃんのナビゲーターをしてたのに、ちょっと前に軽音楽部の顧問になれた?
憂ちゃん以外の誰にも姿が見えない『石ころ帽子』を被った状態だったのに?
リレー方式で憂ちゃんがキャサリンさんのナビゲーターを引き継いでるはずだから、
少なくとも二週間以上前にはキャサリンさんが軽音楽部の顧問になってないとおかしい。
二週間以上をちょっと前と呼ぶかどうかは個人差があるだろうけど、
もっとよく考えたらキャサリンさんって唯さんの特訓をずっとやってたんだよね……?
顧問になるより何よりも、『石ころ帽子』の状態で唯さんの特訓なんて出来るはずがないじゃない……。

気になった私は憂ちゃんにそれを訊ねてみる事にした。
どうでもいい事なのかもしれないけれど、
心に引っ掛かりがある状態じゃ明日の学園祭に臨めないって思えたんだ。
明日の学園祭には、出来る限り何の悩みも無い素直な心で私は臨みたいんだよね。

憂ちゃんはその私の疑問の言葉を聞くと、
少し困ったような苦笑を浮かべながらも応じてくれた。


「詳しい説明を忘れてたみたいでごめんね、梓ちゃん。
実はね、チャンスシステムってリレー方式ではあるんだけど、
すぐにナビゲーターを引き継ぐ場合と引き継がない場合があるみたいなんだ。
前の人の『お願い』が叶うために時間が掛かる時とか、
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時とかには、しばらく間が空く事があるんだって。

私がキャサリンさんにナビゲーターをしてもらってたのは、
二週間前じゃなくて、それよりもうちょっと前の夏休みの頃だったんだよ」


なるほど、と思った。
それならキャサリンさんが憂ちゃんのナビゲータをやってても、時期的に問題無いよね。
でも、やっぱり結構いい加減なシステムなんだなあ……。
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時、って、
そんなに行き当たりばったりなの、『チャンスシステム』って?
まあ、憂ちゃんの叶えて貰った『一生に一度のお願い』が、
時間の掛かるお願いだったって可能性もあるにはあるけどね。


「そうなんだ……。
ねえ、ひょっとして、憂ちゃんのお願いってそんなに手間が掛かるお願いだったの?」


それは私の口から出た何でもない軽口だった。
いい加減な神様だか誰だかに対する苦言みたいな言葉で、深い意味は込めてなかった。
でも、その私の言葉を聞いた憂ちゃんは、何故だかとても困った表情を浮かべてしまった。
私、変な事を訊いちゃったのかな……?
憂ちゃんのお願いって、本当にそんなに手間が掛かる変わったお願いなの?
ううん、憂ちゃんがそんな変わったお願いをするはず無いし……。

私は自分の軽口に後悔しながら、黙り込んでしまう。
憂ちゃんも困った表情を無理に笑顔に変えようとしてる。
折角憂ちゃんと一緒に居るのにまた気まずくなっちゃってる……。
ああ、もう……、駄目だよ、私。
こんなんじゃ、駄目。
私が変な事を訊いちゃったのが原因なら、ちゃんと憂ちゃんに謝らないと……。
丁度、私がそう思った時……。

「謝る必要は無いわ」


部屋の中に厳粛な言葉が響いて、私と憂ちゃんは驚いてしまった。
そう言ったのは勿論私と憂ちゃんじゃなくて、真剣な表情をしたキャサリンさんだった。
キャサリンさんのその言葉も私に向けられたものじゃない。
さっき演奏で失敗した生徒の人に向けられた言葉みたいだった。
私と憂ちゃんはお互いから視線を離して、キャサリンさんに向け直した。


「ミスは誰でも起こしてしまうものだし、そんなに謝らなくてもいいのよ。
大事なのは自分のミスを自覚して、次こそ同じ失敗をしないように努力して修正する事よ。
貴方が努力して演奏してるのは皆知ってるんだから、ミスしてもそうそう責める事なんてしないわ。
皆、貴方を見ていて、知っているの。

だから、貴方もしっかり胸を張りなさい。
自身を持て、なんて簡単には言えないけど、せめて胸だけは張るの。
そうすれば前も見えるし、周りも見えて、少しずつ自信を持って演奏出来るようになるものよ。
貴方は貴方に出来る精一杯の事をやればいいのよ。
本番で縮こまって、練習して来た事の半分も出せないなんて後悔しか出来なくなるでしょう?
だから、しっかり……、ね?」


「……はいっ!」と言われた生徒の人が目尻を潤ませて強く返事をする。
悲しみで泣いているわけじゃなくて、感激で胸が詰まってるって感じの表情。
周りの人達も優しい視線で見守る。
そして、その生徒の人は、キャサリンさんに言われた通り胸を張った。
自信が持てたわけじゃないと思う。まだ不安でいっぱいだと思う。
でも、胸を張ったんだ、皆と学園祭を成功させるために。

キャサリンさん……。
憂ちゃんの言っていた通り、本当に格好いい大人の女の人なんだよね……。
軽音楽部で見せる顔は適当なようにも見えたけど、
それも一面なんだろうけど、それでもキャサリンさんは強い大人の顔も持ってる。
吹奏楽部の皆さんに勇気を与えられるくらいに。
多分、軽音楽部の皆さんにも勇気を与えてくれてるくらいに……。
私も……、もっと胸を張らなきゃ……!

私は胸を張って、決心を込めて大きな声を出す。


「あのね、憂ちゃん!」


「あのね、梓ちゃん!」


その言葉は憂ちゃんが私と同時に出した声に重なった。
憂ちゃんも私と同じく、キャサリンさんの言葉に感じる物があったのかもしれない。
私と憂ちゃんの視線がぶつかる。
言葉が重なってしまって次に切り出すのがちょっと難しかったけど、そういうわけにもいかないもんね。
私は出来る限りの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに自分のそのままの想いを伝える。


「えっと、先に私に話させてもらうね。
さっきの話なんだけど……、変な事を訊いちゃったみたいだったら、ごめんね、憂ちゃん。
『お願い』って自分の胸の中で大切にしなきゃいけないものだもんね。
無神経な事を言っちゃって、ごめん。
憂ちゃんが困る事なら、私、もう訊かないよ。

私、憂ちゃんともっと仲良くなりたいから……、
もっと色んな話がしたいから、私が変な事を言っちゃったらいつでも言ってね。
代わりに憂ちゃんも私に色んな事を訊いて。
私に答えられる事なら、何でも答えるから」

そう、伝える。
胸を張って。
いつか本当の意味で胸を張れるように。


「ありがとう、梓ちゃん」


憂ちゃんが、笑顔を浮かべる。
胸を張って、まっすぐに私に視線を向ける。
本当の想いを込めて、言ってくれる。


「実を言うと私の『お願い』はね……、
梓ちゃんが言う通り叶うまでに時間が掛かるお願いだったんだよ。
正直に話せばよかったんだけど、まだそれは駄目、って思ったんだ。
まだ私や梓ちゃんのためにならないって思ったんだ。
梓ちゃんが本当に大切な『お願い』を見つけるまでは……。

だから……、私の『お願い』が何か梓ちゃんに伝えるの、
もうちょっとだけ……、もう少しだけ……、待っててくれる……?」


意外な言葉だった。
まさか私に自分の『お願い』を伝えるつもりだなんて……。
それも私のために黙っておこうと思っていてくれるなんて……。
いいのかな? って思った。
私にそんな事をしてもらう価値があるのかな、って。
私にそんな価値があるだなんて、まだ思えない。
でも、私が自分自身を否定するのは、
私の事を考えてくれている憂ちゃんを否定するって事でもあるよね……。
そんな事……、しちゃ駄目だよね……!

私は憂ちゃんの手を取って、額がぶつかるくらい間近で瞳と視線を合わせる。
胸を張って、見つめ合う。
想いを言葉に乗せる。


「うん……!
待つよ、憂ちゃん……!
でも、無理はしないでね。
憂ちゃんが私に伝えたいって本当に心から思った時、その時にでいいから。
私、憂ちゃんがそう思ってくれるような『お願い』を絶対に見つけるから……!
頑張るから……!」


「……うんっ、分かったよ、梓ちゃん!」


間近で視線を合わせ、手を握り合う私達。
笑顔の決心。
その私達の隣では……。
キャサリンさんの指導に奮起した吹奏楽部の皆さんが、ミスの無い見事な音楽を奏でている。



今回はここまでです。
またよろしくお願いします。






憂ちゃんの作ってくれた美味しい朝ごはんを食べて、私は洗い物をしていた。
憂ちゃんにはいつも朝ごはんを作ってもらってるんだもん。
洗い物くらい私がやらなくちゃ、物臭にも程があるってものだよね。
それに私の着替えはもう終わってるんだから。
憂ちゃんが外着に着替えてる間、時間は有効活用しなくちゃ。
もう憂ちゃんの手伝いを出来る機会も、残り少ないんだし……。


「残り少ない……んだよね……」


スクランブルエッグが載っていたお皿を洗いながら、私は気付けば呟いてしまっていた。
憂ちゃんと出会ってもうすぐ一週間。
『チャンスシステム』の期限も多分一週間。
一週間を過ぎるとどうなるか分かってないけど、試した人はあんまり居ないらしい。
期限が過ぎたらどうなるのかを試すために、折角のチャンスをわざわざ棒に振る人は少ないだろうしね。
私だって試そうとは思わない。
『チャンスシステム』の期限は続くかもしれないけど、
何となく憂ちゃんの『ナビゲーター』の仕事は終わってしまうんだ、って心の何処かで分かってるんだよね。
ひょっとしたら神様の警告か、親切心からのお言葉が心の何処かに直接届けられてるのかもしれない。
だったら、自分で直接『チャンスシステム』を運用すればいいのになあ……。
適当でいい加減で変なシステムを作った神様みたいな何処かの誰かさん……。

でも、ちょっとよく考えてみたら……。
私の考え過ぎかもしれないけれど、つい考えてしまう。
意外と色々と考えてる神様だったのかもしれない、って。
例えば一番最初、私はお試しお願いで『平沢さんの事をもっとよく知りたい』って願った。
その結果、神様の勘違いで『石ころ帽子』を被らされた、って思ってたんだけど……。
それはもしかしたら違ってたのかもしれない。
結果的にだけど、私はこの状態になって、憂ちゃんの事をよく知れたと思う。
自分自身で言葉を交わして、自分自身で触れ合って、自分自身の心を曝け出して……。
直接頭の中に憂ちゃんの知識を流し込まれるより、
ずっとずっと憂ちゃんの事をよく知る事が出来た気がするんだ。
神様はそこまで考えて私に『石ころ帽子』を被らせたのかな……?
まあ、本当に私のお願いの内容を捉え間違った可能性もあるけどね……。

だけど、ありがとう、適当でいい加減な神様。
貴方のおかげで私は一つ目の願い事が叶いました。
どんな形にしろ貴方が願い事を叶えてくれたおかげで、
憂ちゃんの見ていたもの、憂ちゃんの望んだものが私にも少しずつ分かってきた気がします。
私の一生に一度の願い事ももうほとんど心の中で決まりそうです。
残り少ない期限ですが、それまでには貴方にお願いを届けられそうです。
私の身に合わないお願いだったら、却下してくれても構いませんし、それを恨んだりしません。
ただ私の『一生に一度のお願い』が何だったのか、という事だけはしっかり受け止めてくれると嬉しいです。
本当は、もっと叶えて欲しいお願いもありますけど、それは心の中にしまっておきますから。
だから……。


「一番叶えて欲しいお願いはルール違反だろうしね……」


洗い物を終えてから、私は小さく苦笑した。
それがルール違反だっていう事は分かってる。
そのお願いがまかり通ってしまったら、チャンスシステムの意味自体が失われてしまう。
絶対に叶えるわけにはいかないお願いなんだよね。
私はそのお願いを必死で胸の中の心の箱に片付けて、鍵を掛ける。
憂ちゃんもきっと私と同じお願いを我慢して、私の『ナビゲーター』をしてくれてるんだろうから。
だからこそ、私ももう少しの間、笑顔で居よう。
笑顔で『一生に一度のお願い』を神様に届けられるように頑張ろう。

「お待たせ、梓ちゃん」


台所の扉が開いて、明るくて優しい声が響く。
勿論、憂ちゃんだった。
私は出来る限りの笑顔を向けて、憂ちゃんの言葉に応じる。


「ううん、別に待ってないよ、憂ちゃん。
準備は終わった?」


「うん、終わったよ、梓ちゃん。
居候してる身なのに、洗い物を任せちゃってごめんね」


「そんなの気にしないで。
これはいつも美味しい朝ごはんを作ってくれる憂ちゃんへのお礼だよ。
たまには私にも手伝わせてよ」


「えへへ、ありがとう、梓ちゃん」


「ねえ、それよりも、憂ちゃん……」


「何?」


「本当に準備は万端なの?」


「そのつもりだけど……」


「髪は結ばないの?」


「えっ……、あっ!」


私に指摘されて自分の髪を触ってから、憂ちゃんが驚いた表情を見せた。
普段みたいに髪を結んでない事に、私が指摘するまで気付いてなかったみたい。
憂ちゃんらしくないミスだ。
憂ちゃんも緊張してるのかな?
それはそうだよね。緊張してないわけが無いよね。
だって、今日は憂ちゃんの大好きな唯さんの学園祭ライブの当日なんだから。
初めてのライブなんだから。

私だって緊張してる。
緊張してない様子の軽音楽部の皆さんの姿を見て、逆に私が緊張してしまってる。
ライブをするのは私じゃないのに、すっごくドキドキしてる。
気を抜くと心臓が喉から出ちゃいそうなくらいに……。
私ですらそうなんだから、憂ちゃんが感じてる緊張は私なんか比較にならないと思う。


「居間のソファーに座ってちょっと待ってて、憂ちゃん」


洗い物が終わった手をタオルで拭いてから、私は台所から出て自分の部屋に飛び込んだ。
結構前に私が使ってたリボンをタンスの中から出して戻り、居間のソファーに座る憂ちゃんの後ろに回る。


「お古のリボンでちょっと悪いんだけどね……」


言いながら、私は憂ちゃんの髪を結んでいく。
憂ちゃんの事だし遠慮するかも、って思っていたけど、憂ちゃんは何も言わずに静かに頷いてくれた。
憂ちゃんも私の気持ちに気付いてくれてるのかもしれない。
残り少ない時間、憂ちゃんが私にしてくれたみたいに、
私も憂ちゃんに何かをしてあげたいんだって気持ちを……。
でも……。

「あ……、あれっ……?」


憂ちゃんのポニーテールを結び終わった瞬間、私はつい呻くみたいに言ってしまっていた。
何かが……、違ってる気がする……。
いや、勿論、ポニーテールの位置と形なんだけどね……。
毎日見ていた憂ちゃんのポニーテールを再現したつもりだったのに、よく見なくてもかなりずれていた。
おかしいなあ……、何をやってるのよ、私……。
でも、何となく納得もしていた。
自分の髪はともかく、私は誰かの髪を結んだ事があんまり無い。
あの子はいつも髪が短めだったから、逆に私の髪で遊ばれるのが日常だったんだよね。
考えてみたら、誰かの髪を結ぶのなんて、お母さんの髪を結ばせてもらった時以来じゃないかな?

……って、そんな言い訳はどうでもよかった。
流石にこんな失敗してしまった髪型じゃ、憂ちゃんに申し訳ないにも程がある。
「ごめん、憂ちゃん。結び直すね」って言って、
私がリボンに手を掛けると、憂ちゃんは大きく首を振って笑顔を私に向けてくれた。


「ううん、これでいいよ、梓ちゃん」


「え、でも、こんなんじゃ……」


「梓ちゃんが私の事を思って結んでくれたんだもん。
勿体無くて解けないよ。
だからね、これでいいの。
ううん、私はこれがいいなあ……」


その憂ちゃんの笑顔にはお世辞も何も含まれてないように見えた。
本気で私の失敗してしまったこの髪形を、いいと思ってくれてるんだろう。
勿論、とても申し訳ない気分はなったけど、でも、同時に嬉しくもあった。
憂ちゃんの笑顔には、人の気持ちを優しくさせてくれる力があるんだよね……。
きっとお姉さんの唯さん譲りの不思議な笑顔……。
今回は仕方ないけど、次こそは憂ちゃんの髪型をちゃんと結んであげたいな。
いくら失敗したって、今度こそは……。
私は「ありがと」とだけ言ってから、少しだけ話を変える事にした。


「ねえ、憂ちゃん?」


「どうしたの?」


「憂ちゃんも緊張……してるんだね……」


「勿論だよ、梓ちゃん。
お姉ちゃんの初めてのライブだし、律さん達にも頑張ってほしいもん。
最高のライブにして、最高の思い出を作ってもらいたいもん。
だからね、私……、すっごくドキドキしてるんだ」


「うん、そうだよね。
私も軽音楽部の皆さんには頑張ってほしいもん。
中々練習を始めない困った部の人達だけどね、
お茶ばっかりしてる不思議な部の人達だけどね……、
でも、軽音楽部の皆さんには、このライブを絶対成功させてほしいんだ。
あの人達の笑顔が……、見たい……んだよね……」


それが私の気持ち。
ずっとあの軽音楽部を見てきて、辿り着けた単純な気持ち。
私は結局、あの人達に憧れてたんだと思う。
音楽の腕前とかじゃなくて、お茶ばかり飲んでるからでもなくて、
あの仲の良い仲間同士の皆さんの姿が眩しかった。すっごく憧れたんだ。
だから、皆さんには最高のライブを成功させてほしい。
失敗なんてしてほしくない。
でも、憂ちゃんは笑顔で首を振った。

「成功してほしい気持ちも勿論あるんだけどね……、
私はね、別に失敗しても構わない、って思ってるんだ。
成功出来なくても、失敗しちゃっても……、
それがお姉ちゃん達の辿り着いた結果だし、大切な思い出になると思うの。
大切なお友達の皆と辿り着けた結果だもん。
だから……、どんな形でもやり遂げてほしいな、って思ってるんだよね」


憂ちゃんが前から言っていた『失敗してもいい』って言葉。
私は最初、それがどういう事なのか分からなかった。
失敗なんてしない方がいい。
したくないし、しないに越した事は無い。
ずっとそう思ってた。
でも、今なら憂ちゃんの言っている事が何となく分かる気もする。
まだ、何となく……だけどね。


「そう言いながら、私もドキドキしてるんだけどね」


憂ちゃんが苦笑しながら言って、何だかそれが面白くて私も笑った。
何はともあれ、最後まで見届けよう。
私の憧れた仲間達の辿り着く最初のライブの顛末を。
その顛末がどんな形であっても、憂ちゃんとなら受け止められる気がする。

不意に。
憂ちゃんが私の手を引いて、ソファーに座らせた。
何をするつもりなんだろう、と思っていたら、また憂ちゃんが優しい笑顔で微笑んだ。


「梓ちゃんの髪は私が結んであげるね」


言われてやっと気が付いた。
私も憂ちゃんと同じように、自分の髪を結ぶのを忘れてた事に。
自信満々で憂ちゃんに指摘しておいて何をやってるのよ、私は……。
もう……、恥ずかしいなあ……。
でも、私と憂ちゃんの二人ともがすっごく緊張してる事が分かって、何だか嬉しくもなった。
この緊張感……、うん、二人でなら悪くないよね。
二人でなら楽しめるよね。
だから、二人で見届けよう。
素直な気持ちで見届けなきゃ。
もうすぐ、待ちに待っていた唯さん達の学園祭のライブが始まるんだから……。



今回はここまで。
六日目が始まりました。
今後もよろしくです。






「はい、いらっしゃいいらっしゃい!
安いよ安いよー!」


「この声……!」


まだ治らない嗄れた声が響き、澪さんがとても不安そうな声で呟く。
誰も居ない軽音楽部の部室から飛び出した澪さんの後を追って数分。
私と憂ちゃんは何度か立ち寄った事のある唯さんの教室に辿り着いていた。
勿論、偶然辿り着いたわけじゃなくて、
澪さんは最初からこの場所を目指してたんだろう。

不意に視線を向けて見た澪さんの表情はとても焦っていた。
それはそうだよね……。
さっきまで私と憂ちゃんは、軽音楽部の部室で皆さんが来るのを待っていた。
学園祭の出し物があるとは聞いていたけど、朝練くらいはするんじゃないかなって思ってたから。
だけど、待てども待てども、軽音楽部の皆さんは部室に顔を出さなかった。
ひょっとして練習やらないのかな……。
私が憂ちゃんとそんな話をし始めた頃、
やっとの事で澪さんが姿を現したんだけど、その時の澪さんの面食らった表情は凄く印象に残った。
不安と緊張と焦りが綯い交ぜになった表情。
澪さんと同じ立場だったら、私も同じ表情をしてしまってたんじゃないかなって思う。
ううん、きっとしてたはずだよね……。
だから、澪さんが他の部員の皆さんを求めて、部室から飛び出した気持ちは私にもよく分かる。
でも……。


「あっ、澪ちゃーん、焼きそば?
ちょっと待ってねー」


「何でそうなる……」


呻くように呟きながら、澪さんがテーブルに手を置いて崩れ落ちた。
それもそのはず。澪さんが教室に飛び込んでやっと見つけた一人目の部員……、
唯さんがお客さんに焼き立ての焼きそばを渡した後、澪さんに無邪気に微笑み掛けていたからだ。
こんなの私だって崩れ落ちてると思うよ……。
と言うか、唯さんのクラスの出し物って焼きそば屋さんなんだ……。

しかも、学園祭とは言え、唯さんはとても妙な恰好をしていた。
何て言ったらいいのかな……?
服自体は一緒に焼きそばを焼いてるクラスメイトの人と一緒なんだけど、
何故か唯さんだけ黄色いマフラーを巻いて、紫色のアフロのかつら(かな?)を被ってるんだよね。
例えるなら関西のおばちゃん……みたいな感じになるのかも。
そう例えたら、関西のおばちゃんの人に怒られるかもしれないけど……。

と。
私は不意に思い立って、隣の憂ちゃんに視線を投げ掛けてみた。
お姉さんの事が大好きな憂ちゃん的にこの唯さんの恰好はどうなのかな、って思ったんだよね。
憂ちゃんは私の視線に気付いた様子も無く、とても嬉しそうに唯さんを見つめていた。
あ、憂ちゃん的にはこういう恰好の唯さんもありなんだね……。
と言うより、学園祭当日に緊張する事も無い、無邪気な唯さんの姿を嬉しく思ってるのかも。
憂ちゃんはそれくらい唯さんの事をいつも大切に思ってる子だもん。

でも、私の心中はまだそこまで穏やかではいられない。
唯さん達の事は信じてるけど、息が止まりそうになるくらいの緊張はまだ時たま感じてる。
もうすぐ唯さん達の学園祭のライブが始まる。
出来る事なら唯さん達の失敗のライブは見たくない。
失敗してほしくない……。
それが偽らざる私の本心。

どちらかと言えば私に近い感性を持ってるんだろう。
澪さんが机に手を置きながら、唯さんに向けて上目遣いの視線を投げ掛けた。

「そうじゃなくて……、今日、本番だろ?
目一杯練習しておこうよ……!」


「ごめんねー……。
私も練習したいんだけど、朝イチはクラスの当番になっちゃって……」


澪さんの言葉に申し訳なさそうに唯さんが頭を掻いた。
でも、その表情にはやっぱり緊張が見られなかった。
声だけは相変わらず嗄れているけど、それは三日前からだしね……。
本当に肝が据わってる人なんだなあ、唯さんは……。
いや……、ひょっとしたら肝が据わってるとは、またちょっと違うのかもしれない。
不思議と唯さんの姿を見てるとそう思えてくるんだよね。

何て言ったらいいかよく分からないんだけど、
唯さんはこの学園祭を楽しもうとしてる気がするんだ。
それも、ただ普通に楽しむんじゃなくて、全身全霊で心の底から。
でないと、クラスの出し物の当番なんて引き受けずに、
澪さんの言う通りに朝から部員の皆さんと練習していたはずだもん。
ライブに専念していたはずだもん。
でも、唯さんはそうしなかった。
そうしなかった事に唯さんのしたい事とその意味がある……、今はそんな気がしてる。
やっぱり唯さんは私の思う以上に凄い人なのかもしれない。

不意に。
教室の中の電気が突然消えた。
何が起こったのか私はちょっと驚いたけど、周囲の人達は誰も驚いてないみたいだった。


「あっ、ブレーカーが落ちたー」


「えっ、また?」


「生焼けになっちゃうー」


「今日、何回目よ、もー……!」


教室内が呆れた声で少しだけ包まれる。
なるほど、ブレーカーが落ちたんだ。
焼きそばを焼いている人達の口振りからすると、もう何度も落ちてるみたい。
だから、誰も驚かなかったんだ。
あ、生徒会の人なのかな?
「ちょっと! ホットプレートは三台までよ! ちゃんと守ってる?」なんて叱ってる。
学園祭の出し物は出し物で大変なんだなあ……。
とりあえず、いつか私が学園祭で出し物をする時は、色々と覚悟しておく事にしよう。
この一週間の事はきっと憶えてはいられないだろうけど……。

少し寂しい気持ちになって、私は自分の隣に視線を向けた。
今だけでも憂ちゃんの表情を私の心に焼き付けておきたかったから。
でも、それは叶わなかった。
何故かと言うと憂ちゃんが私の隣には居なかったからだった。
当然だけど、急に姿を消したってわけじゃない。
探してみると、いつの間にか憂ちゃんは唯さんの隣に立っているみたいだった。
単に私が澪さんに気を取られている間に、唯さんの近くに移動したんだろうな。
唯さんの作る焼きそばに興味があったんだと思う。

それはそれで憂ちゃんらしくて微笑ましい事なんだけど、
何故か憂ちゃんは青ざめた顔色で目の端を少し潤ませていた。
完全に泣いてないとは言っても、憂ちゃんのそんな悲しそうな表情を見るのは初めてだった。
な、何があったんだろう……。
動揺した私は憂ちゃんの隣にまで移動して、軽くその肩に手を置いた。

「ど……、どうしたの、憂ちゃん?」


「あ、梓ちゃん……。
私……、私……!
と、とんでもない事を……、しちゃって……」


「お、落ち着いて、憂ちゃん。
何をしちゃったのかちゃんと聞くから、落ち着いて話して……!」


「えっと……、えっとね……」


「うん」


「お姉ちゃんのホットプレートのね……」


「うん……って、ホットプレート……?」


「温度が低かったから……、
生焼けになっちゃうと思って、それで私……!」


「あー……」


最後まで聞かなくても、憂ちゃんの言おうとしている事が分かった。
つまり、憂ちゃんは唯さんのホットプレートの温度を上げたんだ。
唯さんの焼く焼きそばが生焼けにならないように……。
それは純粋な憂ちゃんの思いやりだったんだけど、
そのせいで限界寸前の電力で保っていたブレーカーが落ちてしまったんだろう。
勿論、ブレーカーが落ちたのが、憂ちゃんのせいかどうなのかは分からない。
さっきこの教室の誰かが言っていたけど、五組の誰かが電力を使い過ぎたからなのかもしれない。
でも、流石にタイミングが良過ぎるよね。
例え直接の原因じゃなかったとしても、憂ちゃんが自分の責任だと感じてしまうのも仕方無い。


「お姉ちゃんの邪魔しちゃった……」


独り言みたいに憂ちゃんが呟く。
何だか凄く落ち込んじゃってるみたい。
クラスの人達も誰もそんなに困ってないみたいだし、そんなに大きな失敗じゃないのに……。
でも、それだけ憂ちゃんが唯さんの事を大切にしてる、って意味なんだよね。
考えてみれば、私には憂ちゃんの今の様子を大袈裟だって言う事は出来ない。
私だって同じだから。
夢の事で一人で勝手に悩んで、勝手に泣いて、憂ちゃんに八つ当たりして……。
そうなんだよね。
人には個人個人で色んな悩み事がある。
それは本人にしか分からない事で、他人の物差しじゃ計れない事ばかりなんだ……。

でも、不謹慎な気もするけど、私はそれが嬉しかった。
憂ちゃんだって悩んでるんだよね。
叶えたいお願いだって持ってるし、失敗に落ち込んじゃう事もあるんだよね。
そんな当たり前の事が私には分かってなかった。
優しい憂ちゃんに頼り切りで情けなくて、辛かった。
だけど、そういう事じゃなかったんだ。
憂ちゃんはきっと人にはそれぞれの悩みがある事が分かっていたから、
分かってくれていたから、私なんかのために一生懸命になってくれたんだ。
だから、私は今こそ憂ちゃんに笑顔を向けてあげなきゃいけないんだ。
お姉さんの事が大切で仕方が無い憂ちゃんを私も大切にしたいから。

「大丈夫だよ、憂ちゃん」


憂ちゃんの顔を覗き込んで、自分に出来る精一杯の笑顔を見せた。
憂ちゃんが落ち込んだままの顔を私に向ける。
私は笑顔を崩さず、私達の存在に気付かずに微笑んでいる唯さんを指し示した。


「ほら見て、憂ちゃん。
唯さん、笑ってるよ。
ブレーカーが落ちた事なんて気にしてないみたいでしょ?
それどころか何だか楽しそうにも見えるし……。
だからね、憂ちゃんも気にしなくていいんだよ」


「で、でも……、
私がお姉ちゃんに迷惑掛けちゃったのは確かだし……」


「ねえ、憂ちゃん?」


「な……、何?」


「唯さんって憂ちゃんが失敗した時、怒っちゃう人じゃないよね?
話した事も無いけど、見てたら私にも分かるよ。
唯さんは憂ちゃんが何かを失敗した時にも、許してくれる人だって事くらい。
ううん、唯さんは憂ちゃんの失敗を笑顔で受け容れてくれる人だと思う。
憂ちゃんがいつも一生懸命だから、笑顔で受け容れてくれるんだよ、きっと。
だからね、私も……」


私も憂ちゃんの事を信じられるんだよ。
流石にそれは口に出しては伝えられなかった。
今はそれを伝えるべき時じゃないと思ったから。
でも、心の中では強くそう思ってた。
憂ちゃんはいつも一生懸命だった。
お姉さんのためにも、私のためにも、一生懸命になってくれた。
だから、私は憂ちゃんが大好きな唯さんの事を信じられるんだ。
唯さんも憂ちゃんの事が大好きなんだって。
だからこそ……。


「大丈夫だよ」


不意に教室の中に優しい言葉が響いた。
私の言葉じゃないし、憂ちゃんの言葉でもなかった。
声がした方向を確かめるまでもない。
もう聞き慣れ始めた掠れたハスキーボイス……、唯さんの声だった。
私と憂ちゃんはちょっと驚いて唯さんの横顔を見つめる。
ひょっとして私達の存在が見えているのかも、って思えたから。
でも、勿論、そんな事があるはずも無かった。


「大丈夫だからね、澪ちゃん」


もう一度、唯さんが優しく呟く。
その呟きは私達じゃなくて、澪さんに向けたものだったらしい。
気が付くと澪さんはいつの間にか教室の中から居なくなっていた。
きっと律さんか紬さんを練習の誘いに行ったんだろう。
つまり、唯さんの呟きはここに居ない澪さんに向けられた呟きだったんだ。

他の誰にも届かないはずの唯さんの呟き……。
でも、そう呟いた唯さんの横顔は優しくて、胸が詰まりそうになるくらいに優しくて……。
いつの間にか憂ちゃんは笑顔になっていた。
私もきっと今まで以上の笑顔になった。
澪さんの不安は分かる。
分かり過ぎるくらいに分かる。
でも、不安を抱えながらでも、澪さんにも分かってほしい。
澪さんを想ってくれている人がここに確かに居るって事を。
私が信じる憂ちゃんが大好きな唯さんが、
澪さんをこんなにも大切に思ってるんだって事を……。

憂ちゃんと視線を合わせる。
憂ちゃんはもう瞳を潤ませてはいなかった。
私だってこの学園祭が終わるまでは泣かないでいよう。






何処かで悲鳴が聞こえた気がした。
……のは気のせいだったのかな。
ブレーカーが復旧した後、しばらくクラスの人達が焼きそばを作る様子を見ていると、
教室に見知った眼鏡の人が足を踏み入れ、唯さんがそれに気付いて嬉しそうな声を上げた。


「和ちゃーん!」


「唯、その声、大丈夫なの?」


「部活で練習し過ぎちゃっただけだから大丈夫だよー」


答えながら、唯さんが首のマフラーを楽しそうに回す。
幼馴染みと顔を合わせられた事が嬉しかったんだろう。
唯さんの言葉通り、教室に入って来たのは生徒会役員の和さんだった。
警察帽(みたいな帽子)を被って、『実行委員』と書かれた腕章をしてる。
凄い……。
物凄い似合いっぷりだなあ……。
堂に入っていて、とても一歳だけ年上だなんて思えない。
道端で擦れ違ったら本物の警察官と見間違える気がする……。
こんなしっかりした人と唯さんが幼馴染みだって言うんだから、世の中は不思議だよね。
……それとも、逆にこれくらい違ってた方が長続きするのかな?


「今日が初ステージでしょ?
三時からだっけ?」


心配そうな表情で和さんが続けると、「うん」と唯さんが笑顔で応じた。
幼馴染みの和さんの前でも、唯さんの落ち着いた笑顔は崩れない。
何処までも唯さんは唯さんみたい。


「じゃあ、まだ結構時間あるし、練習しておきたいんじゃないの?」


「うん、この担当が終わったらするつもり」


「そっか。なら、もうそっち行ってもいいわよ。
誰か他の人に頼んでみるから」


「えっ、でも……」


「いいっていいって。後は任せて」


和さんの申し出には流石の唯さんも戸惑った表情を浮かべた。
唯さんの本当の気持ちが推し量れるほど、私は唯さんの事をよく知らない。
でも、気持ちの想像は出来る。
きっと唯さんは澪さんを早く傍で応援してあげたい気持ちと、
クラスの皆のために担当を頑張りたいって二つの気持ちを持ってるんだと思う。
初めての学園祭をどうすれば精一杯皆で楽しめるかを真剣に考えてるんだと思う。
これまでずっと見学させてもらって出来た、私の中の唯さん像はそういう人だった。

「唯」


不意に唯さんと一緒に焼きそばを焼いていたクラスメイトの人が笑う。


「行っておいでよ」


「頑張って」


全然困った表情の混じってない純粋な笑顔で、
唯さんのクラスメイトの人の二人は優しい声を上げた。
心から唯さんの活躍を願っている笑顔……。
その笑顔で唯さんの決心も固まったみたいだった。
初めての学園祭、クラスメイトや軽音楽部の皆さんや観客の人達や、
そんな多くの人達を一番楽しませてあげられる方法が、今から練習を頑張る事だって。
出来る精一杯のライブを皆に見せてあげる事なんだって。


「ありがとー! 行ってくる!」


言うが早いか、瞬く間に準備を終えて、唯さんがギターを持って駆け出して行く。
気持ち良いくらいの笑顔を浮かべて、軽音楽部の皆さんの下へ。
和さんやクラスメイトの皆さんも嬉しそうに唯さんを見送っていた。

私達も追い掛けなきゃ……。
そう思って憂ちゃんの方を見た瞬間、私はちょっと驚いた。
憂ちゃんなら私よりも先に唯さんを追い掛けて行くんじゃないか、
って思っていたのに、意外にも憂ちゃんは予想外の場所に視線を向けたまま動いてなかったから。
何を見てるんだろう、と私は憂ちゃんの視線を辿ってみる。
視線の先には唯さんが最後に作り置いた焼きそばがあった。


「……食べたいの?」


「えっ、えっとね……!
別にそんなんじゃなくて……!
折角、お姉ちゃんが作った焼きそばなのに、冷めたら勿体無いな……って」


私が訊ねると、胸の前で激しく手を振って憂ちゃんが動揺する。
たまにしか見られない憂ちゃんの動揺した姿だから、何だか新鮮だなあ。
と言うか、やっぱり憂ちゃんは唯さんの作った焼きそばが食べたいんだ……。
でも、姿が誰にも見られない私達だから、
クラスの人達に頼んで譲ってもらう事も出来ないし……。
空腹で死にそうになってもお店から食べ物を貰えなかった憂ちゃんだもん。
そういう事には躊躇いがあるんだよね……。
だったら、ここは私が憂ちゃんのために一肌脱がなきゃ。

私は念の為持って来ていた財布を取り出すと、
ホットプレートの置かれたテーブルの更に奥の方、売上金の入っている箱の中に焼きそばの代金を入れた。
そのまま唯さんの作り置いていた焼きそばと箸を取って、憂ちゃんに差し出す。

「ほら、憂ちゃん。食べちゃおうよ」


「で、でも……」


「お金はちゃんと入れてるんだし、誰も困らないって。
大体、今の私達の状態は神様の変な設定で困らせられてるだけだもん。
これくらいしたって、神様がフォローしてくれると思うよ」


「そ、そうかなあ……」


「お客さんが少ない時間帯だから、このまま放っておいたら冷めると思うし。
それは流石に勿体無いでしょ?
ね? だから、食べちゃおうよ、憂ちゃん」


「あっ……、えっと……」


「何?」


「ありがとう、梓ちゃん……」


「いいって」


照れた様子で憂ちゃんが微笑み、私も釣られて微笑んだ。
あんまり褒められた事じゃないけど、
憂ちゃんへのせめてものお礼って事で今だけは見逃してね、神様。
これで私が『一生に一度のお願い』を叶える資格を失くす事になっても構わないから。
今はもう憂ちゃんが笑顔で居てくれる事の方が大事に思えるから……。


「お姉ちゃんの焼きそば、美味しいね」


憂ちゃんに半分分けてもらった焼きそばは、憂ちゃんの言う通り意外と美味しかった。
意外と、って言うのも失礼かもしれない。
だけど、それくらい凄く美味しかったんだよね。

それはきっと。
満面の笑顔の憂ちゃんが隣に居てくれた事と、無関係じゃないと思う。


今回はここまでです。
また宜しくお願いします。






焼きそばを食べ終わった私達は、ゆっくりと学園祭の様子を見ながら廊下を歩いていた。
急がなくても大丈夫。
澪さんと唯さんの行き先は軽音楽部の部室に決まってるもんね。
それにしても……、と私は周囲を見回しながら考える。
高校の学園祭って、こんなに賑やかな物だったんだ。
中学でも学園祭の真似事みたいな事をやってたけど、それとは全然違う。
熱気も活気もお客さんの数も段違いだ。
中学と高校じゃやっぱり別の世界なんだよね……。

急に。
何故か私はあの子の事が頭の中に浮かんだ。
私と違う道を生きる事を選んだあの子……。
出来る事なら、私はあの子と一緒に同じ高校の制服に身を包みたかった。
私が小さめの制服を着て、あの子が、『馬子にも衣装だね』と私をからかって、
『そっちだって私とそんなに身長変わらないじゃない』って頬を膨らませたりして。
放課後には軽音楽部がジャズ研か、音楽に関係する部で演奏して笑い合ったりして……。

それは私の夢。
私の見ていたかった夢。
もうきっと、叶わない夢。
諦めるしかない夢。

胸が痛まないと言ったら嘘になる。
けど、この前ほどじゃない。
私には叶えたい夢があった。
でも、あの子にも叶えなきゃいけない夢がある。
私とあの子の夢はいつの間にか違うものになってしまった。
この前はそれが悲しくて泣いてしまったけど、それは本当に悲しい事なんだろうか?
勿論、辛くて悲しい事には違いないけど、多分、それだけじゃない。
それだけじゃないはず……、って何となく今は思える。


「あ、律さんと紬さんだよ、梓ちゃん」


私の隣で歩いている憂ちゃんが嬉しそうに笑った。
憂ちゃんの視線を辿ってみると、確かにその場所には律さんと紬さんが居た。
昨日来た『悪夢の館』の前、ちょっと申し訳なさそうな笑顔を二人で浮かべている。


「んじゃ、後の事、頼むな」


「皆、お願い」

その二人の言葉を聞くと、クラスメイトらしい女の人が爽やかな笑顔を見せた。
同時に、周囲に居た数人の生徒達も声援を上げる。


「了解だよ、りっちゃん! ライブ、頑張ってね!」


「田井中さんのドラム捌きを見るの、楽しみにしてるよ!」


「こっちはこっちで頑張るから、琴吹さん達も頑張って!」


多くの声援に囲まれ、律さん達が照れ笑いを浮かべる。
おお……、律さんと紬さんってこんなに人気があったんだ。
クラスメイトの皆さんもまだ軽音楽部の演奏を聴いた事は無いはずだから、
これは単に律さん達の人望って事なんだろうな。
もしも私が何処かの高校の学園祭でライブをする事になった時、
私はこんなに周りのクラスメイトから賑やかに見送ってもらえるだろうか。
……んー、悔しいけどちょっと無理かもしれない。
自分で言うのも何だけど、私はあんまり人付き合いの上手い方じゃないもんね。
でも、それが分かった今からなら、少しは変えていけるかもしれない。
ううん、変えなきゃいけないよね。
それがこの数日、憂ちゃんと過ごして、私にもやっと見えて来た事なんだ。


「律さん達と一緒に行く?」


憂ちゃんが首を傾げて私に訊ねる。
もうちょっと学園祭の雰囲気を感じていたい気持ちはあったけど、
当初の目的をおざなりにしてても駄目だよね。
私が桜高に来た目的は軽音楽部の皆さんのライブを見届けるため。
そして、私の気持ちに最後の決着を付けるためなんだから。
私は頷いて、憂ちゃんの瞳を見つめた。


「うん、そうだね、憂ちゃん。
律さん達と一緒に部室に行こうよ」


私の言葉を聞くと、憂ちゃんは少し嬉しそうな表情を見せた。
何だかんだと言っても、憂ちゃんもお姉さんの唯さんの事が気になってるんだろう。
特に唯さんは喉の嗄れも治っていないのに、飄々と楽しそうだった。
こんな状況でも笑ってた……。
憂ちゃんはきっと唯さんが笑ってる理由を分かってるはずだ。
分かってるからこそ、私に優しい言葉を掛ける事も出来たんだと思う。
だけど、頭では分かってても、心配する気持ちが少しはあるのも確かなんだろう。
自分がライブをするわけじゃないのに……、
ううん、自分がライブをするわけじゃないからこそ、
見守る事しか出来ないからこそ、不安を忘れられないんだろうな……。


「お化け屋敷、中々好評だったなー」


「うん! すっごく楽しかったよね!」


私達の目の前では、律さん達が楽しそうに歩いている。
さっきまでやっていたらしいお化け屋敷の事なんか話しながら、
不安な気持ちなんか全然感じてないって様子の眩しい笑顔を浮かべて。
律さん達もライブに対する不安感なんて、全然持ってないみたい。
ううん、そうじゃないよね。
律さん達だって、ライブを成功させられるか不安な気持ちはあると思う。
本当は胸がドキドキしてるのかもしれない。
でも、律さん達は笑うんだ。
それはきっとライブに対する不安なんかよりずっと……。

「……ん?」


軽音楽部の部室に向かう階段の踊り場。
律さんが不思議そうに首を傾げて、部室の扉の方を見た。
私と憂ちゃんは一度顔を見合わせた後、律さんの視線を追ってみる。


「……お姉ちゃん?」


憂ちゃんが小さく呟いてから首を傾げた。
憂ちゃんの言う通り、部室の扉の前では唯さんが一人で佇んでいた。
扉のガラスの部分から、部室の中を覗き込んでる……のかな?
唯さんが扉の前に居るって事は、部室の中には澪さんが居るんだろうけど……。


「何やってんだ?」


「しーっ!」


律さんが訊ねると、唯さんが口元に左手の人差し指を立てた。
いつの間にか律さんと紬さんが、唯さんの隣にまで歩み寄っていたみたい。
律さん達に続いて、私達も早足で部室の扉の前に辿り着く。
手を伸ばせば律さん達に届く距離。
こんなに近付いても、律さん達は私達に気付く様子は全然無かった。
『石ころ帽子』の状態とは言っても、やっぱりちょっと寂しいな……。
って、今はそんな事なんかどうでもいいよね。

律さん達が唯さんに示されるままに、扉のガラスを覗き込む。
私と憂ちゃんも少しだけ空いたガラスのスペースから、中を覗き込んでみた。


「澪さん……」


私の言葉は憂ちゃんにしか届かないはずだったけど、
まるで私の言葉が届いてるかのように、律さんと紬さんがタイミングよく微笑んだ。
澪さんの事が羨ましくなるくらい、優しい優しい律さんと紬さんの微笑み……。
そっか……。
やっぱり、そういう事だったんだよね……。

部室の中では、澪さんが一人で緊張した面持ちを浮かべていた。
でも、ただ怖がって緊張してるだけじゃない。
胸の前で手を握って、素敵な歌声を響かせていた。
澪さんに出来る精一杯の努力をしていたんだ。


「ずっと……練習してたんだな……」


「うん……」


律さんが小さく呟いて、紬さんが頷いた。
大切な仲間を見つめる優しい表情を浮かべたままで。
勿論、唯さんも嬉しそうな微笑みを浮かべてる。
仲間の……、澪さんの頑張りに感激してるんだよね、三人とも。

分かった。
私が軽音楽部の皆さんに失敗してほしくなかった本当の理由。
それは、そう、皆さんが私の理想だったからなんだ。
音楽の腕前はまだそれほど大したものじゃない。
失礼な言い種だけど、きっと私の方が上手に演奏出来る。
そのくらいの腕前なら、私にもある。
でも、そんな事は重要じゃないんだよね。
ギターの腕前なんかより、上手に演奏する事なんかより、大切な事があるんだ。
一流の人達はそうじゃないかもしれないけど、私にとってはそうなんだ。
私が本当に欲しかったのは、ずっと一緒に音楽を続けられる仲間……、友達なんだ。
例え下手でも一緒に笑い合える友達が欲しかったんだ。
だから、あの子と音楽が続けられないのが悲しかったんだ……。

桜高軽音楽部の皆さんはそれを持っていた。
私がずっと求めていた大切な物を持っていた。
私が辿り着きたい夢の形だった。
皆さんは私の理想なんだ。
そんな私の夢を体現している人達の失敗を見たくないんだ。
それが私の未来の姿になってしまうかもしれないから。


「待たせたな、澪おっ!」


澪さんの歌の練習が一段落した所を見計らって、律さんが部室の扉を勢いよく開いた。
驚いた様子で澪さんが律さんの方に振り向く。


「一人にしてごめんなさい」


「私も練習するよー」


紬さんと唯さんが律さんに続いて澪さんに笑顔を向ける。
皆さんに続いて私と憂ちゃんが部室の中に身体を滑り込ませた頃、
澪さんが嬉しいのか不安なのか複雑な表情を浮かべて、ちょっとだけ頬を膨らませた。


「皆……、遅いぞ」


きっと軽音楽部の皆さんの中で、一人だけ失敗を恐れている澪さん。
私と同じく、不安な気持ちでいっぱいなんだろう澪さん。
折角、これまで一緒に活動して来た皆さんと、
学園祭の失敗っていう嫌な思い出を作りたくないんだろうな……。
それが普通の考え方だし、私だってかなりそう思う。

だけど……。
澪さんはまだ大事な事に気付いてないだけなんだよね。
私だって第三者じゃなかったら、きっと気付けなかっただろうけど。
それでも、こんな『石ころ帽子』って妙な状態だからこそ、私にも分かり始めて来た。
失敗とか成功とかより、もっと大事な事があるんじゃないかって。
だからこそ、唯さん、律さん、紬さんは笑顔でいられてるんじゃないかって。

固まりかけた私の答えに気付きながら、
私はこれから始まる軽音楽部の皆さんの練習に備えて、一人で気合いを入れた。
単なる練習でだって、私は軽音楽部の皆さんの演奏を聴き逃したくない。


今回はここまで。
かなり終盤に入ってきました。






「りっちゃんと澪ちゃんって幼馴染みなんだよねー?」


突然やって来たキャサリンさんとのちょっとした騒動があって、
軽音楽部の機材を講堂に運び終わった頃、お茶を始めた唯さんが不意にそう言った。
もうすぐライブなのにお茶するなんて、唯さんも律さんも紬さんも本当に度胸が据わってるよね。
何の緊張も感じてないみたいに、律さんが飄々とした表情で唯さんの言葉に応じる。


「そだよー」


「いつから一緒なの?」


「そりゃもう幼稚園からずっといっし……、
あれ? 小学校……からだっけ?」


「幼馴染み違うんかい」


唯さんが呆れた表情で突っ込む。
本当なら澪さんが訂正する所だったんだろうけど、今ここに澪さんは居なかった。
仲間外れにされてる……、ってわけじゃ勿論無い。
澪さんだけ機材の運搬じゃなくて、生徒会との伝達とかをやっていたからなんだよね。
律さん曰く、『危なっかしくて機材は運ばせらんないよ』との事だけど、確かにそうかも。
練習してちょっとは落ち着いたように見えたけど、
でも、やっぱりたまに凄く不安な表情を見せてたもん。
他ならともかく、ボーカルだけは澪さん的に一番やりたくなかったパートだったんだろう。
ボーカルが崩れると演奏全てが崩れてしまうから。
観客の人達は大体がボーカルに注目してしまうものだから……。

それにしても、どうして澪さんはあんなに恥ずかしがりなんだろう?
男言葉だし、あんなにカッコよくて、ベースの腕前もかなりのものなのに……。


「澪ちゃんって小さい頃から恥ずかしがりだったの?」


私の考えを読まれたってわけじゃないと思うけど、
唯さんがタイミングよく私の疑問を律さんに訊ねてくれた。
唯さんも前々から澪さんの恥ずかしがり屋には疑問を抱いていたんだろう。
律さんは目を細めて遠い目になってから、ちょっと微笑んだ。


「そうだぞー。
私が『綺麗な髪だねー』って言ったり、
『すごーい、左利きなんだ! 皆ー、澪ちゃん凄いよー!』って言ったら、
顔真っ赤にして恥ずかしがってたもんなー」


「いや、それ、りっちゃんのせいじゃん!」


「それ、律さんのせいでしょ!」


唯さんと私の突っ込みが見事に重なる。
紬さんは唯さんの方、憂ちゃんは私の方を見ながら何故か穏やかに微笑んでいた。
どうして紬さんと憂ちゃんが微笑んでるのかは分からなかったけど、
今はそんな事より澪さんの恥ずかしがり屋について考える時だった。

なるほどなあ……。
普段、カッコよく見える姿じゃなくて、恥ずかしがり屋の姿の方が澪さんの素だったんだ。
凛々しい外見や男言葉の方を、成長する内に身に着けていったんだろう。
考えるまでもなく、その影響は律さんから受けたものだと思う。
それが澪さんにとって良かったのか悪かったのかは分からないけど、
そんなに影響を与えるなんて、律さんの存在はそれだけ澪さんにとって大きい存在だったんだろうな。

私も多分、色んな人から影響を受けてると思う。
音楽を好きになったのはお父さんの影響だし、
セッションが好きになれたのはあの子の影響だし、
今、こうして軽音楽部の皆さんの見学を出来るのも憂ちゃんのおかげだし……。
そんな風に、私は自分でも気付かない内に、少しずつ変わってる気がする。

と。


「機材運ぶの終わったー?」


突然、軽音楽部の扉が開いたかと思うと、話題の渦中の人、澪さんが入って来た。
あれ?
澪さん、微笑んでるし、意外と落ち着いてるみたい。
緊張が一周して開き直れたのかな?
だったら、いいんだけど……。


「お、何か落ち着いてんな」


自分の席に着く澪さんに律さんが訊ねる。
「はい、どうぞ」と紬さんが澪さんの席にお茶を用意するのを見届けて、
律さんは自分の頭の後ろに両手を回して続けた。


「あんなにボーカルするの嫌がってたのに」


「そんな子供じゃないんだし……」


言いながら、澪さんが紬さんの用意したお茶のカップを持ち上げる。
想像以上の満面の笑顔で。


「いつまでも動揺していられないわよー」


急に女言葉になって。
両手のカップとお皿を激しく揺らして……。

うわあ……。
見るからに動揺し切ってるよ、澪さん……。
本当に恐怖した時、人は笑う事しか出来なくなる。
そんな話を聞いた事がある気がするけど、澪さんの笑顔もそういう意味だったのかもしれない。

「もうすぐ本番なのに、そんな調子でどうするんだよ……」


流石の律さんも心配そうに澪さんに声を掛ける。
長い付き合いだけど、律さんもまさか澪さんがまだこんなに動揺してるなんて思ってなかったんだろうな。
特に律さんにとっても初ライブなわけだから、澪さんのこういう反応も初めてで戸惑ってるんだと思う。
律さんだってライブは初体験なんだもんね……。


「もうやだ……」


瞳を俯かせたまま、澪さんが不意に呟いた。
かと思ったら、必死の形相で胸の前で手を合わせて激しく続ける。


「律、私とボーカル変わって!」


「そしたら、ドラムどうするんだよ……」


「私がやるから!」


「んじゃ、ベースどうするんだよ?」


「それも私がやるから!」


「やってもらおうか! 逆に見てみたいわ!」


「律、律ぅ……」


「離せってばー!」


最後には澪さんが座る律さんの膝に縋り付こうとしていた。
その澪さんの頭を律さんが片手で押し退ける。
何、この夫婦漫才……。
とは思ったけど、それだけ澪さんも必死だって事なんだろう。

流石にここまで動揺するとは思わないけど、私だって凄く胸がドキドキしてる。
軽音楽部の皆さんのライブを間近にして、本当は大声で叫び出してしまいたいくらい。
隣に憂ちゃんが居るから、必死に我慢してるだけで。
澪さんの場合、人より少しだけ臆病なだけなんだよね。
怖さや不安を素直に表現出来てるだけなんだよね……。
そんな澪さんの姿は決して悪くないと思う。
同時にちょっと羨ましくもなった。
澪さんには律さんっていう感情を素直に表現していい相手が居るって事が。
泣き付いてもいい相手が居るって事が。

考えてみれば……。
私は、あの子に対して、そこまで感情的になれただろうか?
結構、仲の良い友達だったのは確かだと思う。
怒ったり拗ねたり、悲しい顔を向けたり、それなりに感情を見せて来た気はする。
でも、本当の心の芯にある何かを見せた事は、少なかったかもしれない。
中学生になってからの友達だし、私は誰かに感情を見せる事が得意じゃない。
ううん、もしかしたら、感情を誰かに見せる事が恥ずかしかったのかも。
そのくらいには私は妙に大人びようとしてた自覚がある。

もっと……、あの子にも本当の気持ちを見せるべきだったな……。
それで何が変わるわけでもなかったかもしれないけど、
少なくともあの子の事をもっと応援出来てたんじゃないかな……。
今からでも遅くない……のかな?
この『チャンスシステム』が終わった時、
私はあの子に本当の気持ちを見せたいって想いがまだ残っているのかな……?
せめて……、一度、謝りたい。
あの子の事を避けてしまっていた事を、心の底から……。
ごめん、って。


「ごめんね澪ちゃん、私のせいで……」


律さんの膝に縋り付こうとする澪さんを見ながら、唯さんが申し訳なさそうに言った。
相手こそ違うけど、唯さんはまた私と同じタイミングで同じ事を考えてみたい。
ひょっとすると、思考回路が意外と似通っちゃっているのかな?


「私がこんな声にならなかったら、澪ちゃんが歌う事無かったのに……」


悲しそうに続ける唯さん。
自分の責任なだけに、唯さんも色々気負ってしまう所もあるんだろう。
そこまでは私と唯さんの考え方は似ていた。
でも、そこから先の唯さんの言葉は違った。


「よーし!
やっぱ私がボーカルするよ!」


「いやいやいやいや」


「いやいやいやいやいやいや」


唯さんの力強い宣言に律さんが突っ込み、私も同じく突っ込んでしまっていた。
いくら何でもそれは無茶がある。
そんな嗄れた声じゃお客さんの苦笑と失笑の渦に巻き込まれちゃうよ、唯さん……。

でも……。
唯さんは凄いな、って正直に思った。
どんな形でも唯さんは自分の責任を果たそうとしてる。
普段、お気楽に見える唯さんが、ちゃんと自分の役目と責任を考えてるなんて。
うん……、私も負けてられないよね……。
ふと思い付いて視線を向けてみると、憂ちゃんが感極まった顔で涙ぐんでいた。
泣かなくても……、とは思ったけど、それだけ嬉しかったんだろうな。
唯さんの場合、家族の前だとここまで真剣な表情を向けない気がする。
こんな真剣な唯さんを見るのは、ひょっとしたら憂ちゃんにとって初めての事なのかも。

「ご、ごめん、唯……。
そんなつもりじゃなかったから……」


澪さんが戸惑った表情で唯さんに謝った。
自分の不安が軽音楽部の皆さんに伝わってしまった事に責任を感じてるんだと思う。
自分が無茶な事を言っているのも承知。
叫んでたってどうしようもない事だって承知。
それでも、不安だったんだよね、澪さんは……。


「……っ」


立ち上がった澪さんが軽音楽部の皆さんに背を向けて、胸の前で拳を握り締める。
前を向くために。
皆に迷惑を掛けないために。
澪さんは戸惑いながらも、必死で勇気を出そうとする。

軽音楽部の皆さんが澪さんの後姿を見つめてる。
今度は心配そうな表情じゃなくて、真剣な表情で。
大切な仲間を待つ表情で。
じっと……。

でも、澪さんにはまだその勇気が無い。
勇気を持てるほど、自信を持っててる人じゃない。
それは誰しもが分かってる。
澪さん自身も。
ほとんど赤の他人でしかない私にも。
何より幼馴染みの律さんには特に……。


「あっ」


不意に律さんが真剣な表情から笑顔になった。
こんな状況に似つかわしくない爽やかな笑顔だった。


「そうだ、MC考えておかなきゃ!」


「MCって何?」


「自己紹介とか……。
ほら、コンサートなんかで曲と曲の間で喋ったりするじゃん?」


「あー、あるあるー!」


唯さんの質問に律義に答えてから、律さんが部室の真ん中辺りに脚を進める。
それから、少しだけ沈黙。
MCの内容を考えてるのかな?
私がそう思った瞬間、律さんはすぐに右腕を上げて、
左手をマイクの形に見立てて口元に当てると満面の笑顔で続けた。


「皆さーん! こーんにーちわー!
今日は私達軽音部のライブへようこそー!」


物怖じしていない律さんの笑顔。
凄いなあ、律さん……。
律さん以外には軽音部の皆さんしか居ないけど、観客の数なんて問題じゃない。
逆に身内ばっかりだからこそ、結構恥ずかしいと思う。
私だったら先陣切ってはやれないなあ……。
でも、律さんは素敵な笑顔でMCの練習を続けていた。

「じゃあ、メンバーを紹介しまーす!

ギター!
休みの日にはいつもゴロゴロ!
甘い物は私に任せろ!
のんびり妖精、平沢唯ー!」


ちょっとあんまりな言い方だなあ……、って私は思ったけど、
唯さんは「じゃっじゃーん!じゃらららららら、ぎゅっいーん!」って、
嬉しそうにエアギターを始めた。
あ、そういう紹介でもいいんだ……。
何となく憂ちゃんに視線の横顔を窺ってみると、憂ちゃんも凄く嬉しそうな表情をしていた。
憂ちゃんもそれでいいんだね……。
だったら、私もいいと思う事にしよう。

続いて、律さんが紬さんに視線を向ける。


「キーボード!
お菓子の目利きはお手の物!
しっとりノリノリ天然系お嬢様!
琴吹紬ー!」


「ぽろぽろぽろぽろぽろろろろろろんっ」


紬さんもエアキーボードを始め、律さんのMCに乗る。
大人しい人に見えるけど、結構ノリノリな人だよね。
うん、しっとりノリノリ、って言い得て妙だけどぴったりだと思う。

次に律さんが紹介を始めたのは律さんだった。


「ベース&ボーカルッ!
怖い話と痛い話が超苦手!
軽音部のドン!
デンジャラスクイーン!
秋山澪ー!
あたっ!」


『あたっ!』と律さんの軽い呻き声だ。
紹介が終わるが早いか、澪さんが律さんを叩いていたんだよね。


「誰がデンジャラスだっ!」


「ほら、その感じが……」


澪さんの突っ込みにも律さんは負けない。
デンジャラスクイーンはあんまりだけど、でも、律さんの言葉は間違ってないよね。
よく特徴を捉えていて見事な紹介だと思う。

「最後に私!」


澪さんの拳を物ともせず、律さんはまた楽しそうに続ける。


「ドラム!
容姿端麗、頭脳明晰!
爽やか笑顔で幸せ運ぶ皆のアイドル!
田井中律ー!
あいたっ!」


『あいたっ!』はやっぱり律さんの呻き声だった。
またやっぱり澪さんが律さんを叩いてたんだよね。
釣り目をもっと吊り上げて、澪さんが突っ込む。


「自分だけ持ち上げ過ぎだろ!」


うん、私もそう思う。
律さんが容姿端麗じゃないとは言わないけど、自分だけ持ち上げ過ぎだ。
だけど……。


「あはははははははっ!」


「うふふふふふふふっ!」


唯さんと紬さんから大きな笑い声が上がる。
今を心から楽しんでるって素敵な笑顔。
いつの間にか澪さんも大きく笑い出していた。
私と憂ちゃんも何がおかしいのか幸せな気分で笑ってた。
素敵だな、と思った。
仲間の形。
皆と笑い合える事。
これが私の見たかったものだったんだ、って心から実感する。

律さんも皆さんの笑顔を見届けると、一緒になって笑い始めていた。
大雑把で適当な人に見えたけど、
律さんが部長でこの部は大丈夫なのかなって思ってたけど、
でも、律さんは部長に一番必要な物を持っている気がした。
部員皆を大切にする、っていう、何よりも大切な物を……。

こうして、もうすぐ……。
もうほんの数十分後に、軽音楽部の皆さんの初ライブが始まる。


今宵はここまでです。
大変長くなりましたが、ようやく次回からライブが始まります。
よろしくお願いします。






憂ちゃんに手渡されたポケットティッシュで鼻血を拭った後、
私と憂ちゃんは軽音楽部の部室が入っている校舎の屋上に座り込んでいた。
少し肌寒さを感じる時期のはずなのに、屋上に吹く強い風は全然冷たくなかった。
胸と心が温かくて、むしろ熱さまで感じるくらい。
素敵な学園祭だった。素敵なライブだった。
それくらい……、とっても素敵な演奏だったんだと思う。


「お姉ちゃん達、すっごくカッコよかったね、梓ちゃん……」


私と肩を並べて座っている憂ちゃんが頬を紅潮させて呟く。
やっぱり唯さんの事ばかり見てたのかな、
って一瞬考えはしたけど、私はすぐにその考えを振り払った。
憂ちゃんはお姉さんの事が大切で、唯さんの事が大好きだけど……、
でも、憂ちゃんはそれだけの子じゃないんだもんね。
唯さんと同じくらい……、ってのは言い過ぎかもしれないけど、
でも、憂ちゃんには唯さん以外にもたくさんの大切なものがあるんだよね。
桜高軽音楽部の皆さんやキャサリンさん……、
自意識過剰かもしれないけど、私の事だって大切に思ってくれてるはず。

そう考えていると、憂ちゃんは私の思った通りの言葉をまた呟いてくれた。
心の底から溢れ出る笑顔を隠せない様子で、呟いてくれた。

「お姉ちゃん、カッコよかった……。
あんな大勢のお客さんの前で演奏出来るくらいの腕前があって、
澪さんや律さんや紬さん……、皆さんの事を勇気付けられる優しさもあったなんて……。
私はお姉ちゃんの妹だからそんな事分かってたけど……、
分かってたつもりだったけど……、でも、全然分かってなかったんだ……!
私ね……、それが……、それがすっごく嬉しいの、梓ちゃん……!
私の知らないお姉ちゃんのいい所を見られて……、すっごく……!」


「うん……、いい演奏だったよね、本当に……」


「でもね、梓ちゃん……。
今日はそれよりも、もっとよかった、って思ってる事があるんだよね。

それはね……、お姉ちゃんの大切な友達の事を知れた事なんだよ。
律さん、澪さん、紬さん、和ちゃんにクラスの人達やキャサリンさん……、
皆さん……、お姉ちゃんの事を見ててくれてて、大切に思ってくれてて、
お姉ちゃんも同じくらい皆さんの事を大切に思ってるのがよく分かって……。
だから、あんな素敵なライブになって……!
私ね、それが……、その事がとってもとっても嬉しいんだ……!」


ほら、と私も溢れ出る笑顔を隠せなくなった。
憂ちゃんは色んな事を見ている子なんだよね、私の事も含めて。
お姉さんの唯さんの事が大切だからこそ、
唯さんが大切な全ての人達の事も大切に思ってて……。
それで憂ちゃんはこんな素敵な優しさを持てるようになったんだと思う。

顔を見合わせて、二人で笑う。
吸い込まれそうな憂ちゃんの笑顔に、私はちょっと心臓を高鳴らせてしまった。
さっきから見てたはずなのに、いざ憂ちゃんの笑顔を間近に見ちゃうと何だか照れちゃうな……。
私は軽く咳払いをして、頬のくすぐったさを誤魔化すために軽口を叩く事にした。


「ねえ、憂ちゃん?
素敵なライブだったのは確かだと思うよ。
でも……」


「何?」


「唯さんのコーラス、すっごく嗄れた声だったよね」


「それは……、うん……」

私の言葉に、憂ちゃんが困った感じの苦笑を浮かべる。
反論しなかったのは、憂ちゃん自身もそう感じていたからだと思う。
今日のライブはとっても素敵なライブだった。
でも、完璧なライブだったわけじゃない。
澪さんがこけてしまったトラブルは仕方が無いにしても、
唯さんの嗄れた声のコーラスだけは言い訳出来ないくらい浮いていた。
『ふわふわ時間(タイム)』の旋律が甘くて爽やかなだけに特に際立って……。
完璧なライブと呼ぶには程遠い唯さん達の初ライブ。
成功ではあったけど、細かい所では失敗しちゃってる初ライブだったんだよね。

だけど、憂ちゃんは私の見たかった……、
私の大好きなとびきりの笑顔になって続けてくれた。


「でも、お姉ちゃん達、すっごく楽しそうだったよね!」


それは唯さん達の弁護のためでも、
私への誤魔化しのためでもないまっすぐな言葉。
憂ちゃん自身が本気でそう思ってる、って事がよく分かる言葉だった。

うん、そうだよね。
照れ隠しに憂ちゃんにちょっと意地悪しちゃったけど、本当は私だってそう思ってた。
そう思ってたからこそ、私は憂ちゃんと同じに笑顔を隠し切れなくなっちゃうんだよね。
溢れ出す笑顔をまた止められなくなる。
だから、私はまた笑顔になって、憂ちゃんに向けて力強く頷いた。
もう胸の高鳴りを無理に沈めようともしなかったし、したくなかった。


「楽しそうだったよね、唯さん達……」


呟きながら、まだ余韻の残るさっきのライブの事を思い出す。
今日の学園祭を唯さん達は心から楽しんでた。
初ライブだけじゃなくて、多分、演奏するまでの全ての事を。
お化け屋敷の準備、焼きそばの出店、荷物運び、
キャサリンさんが用意した衣装でのコスプレ、MCの練習……。
初めての学園祭を楽しみ切ろうって様子で、たくさんの事を全力で。
だから、皆さんはあんなに楽しそうだったんだよね。
固さと緊張こそ解けなかったけど、あの澪さんまで最後には少し楽しそうに見えたくらいに。

ああ、そうなんだよね……。
もうはっきりと自覚出来るよ。
私が本当に欲しかったものはやっぱりこれだったんだって。
私は一緒に笑い合えて楽しみ合える仲間が欲しかったんだ。
例え色んな失敗をしちゃったって、今日の唯さん達みたいに全てを楽しめる仲間が。
そのために必要なのが音楽の才能なんだって、私は勝手に思い込んでた。
才能が無い、周りから認められない音楽を続けてたって意味が無い。
大した実力も無しに音楽を楽しむなんて、やっちゃいけない事なんだって。

今考えてみると、私はただ、将来に誰からも認められなくなるのが怖かったんだと思う。
私は自分の性格にそんなに自信が無い。
あの子とだって親友になるまで長い時間が掛かった。
面倒で可愛げの無い性格だって自分でも思う。
だから、音楽の才能っていう、別のものを求めちゃってたのかもしれない。
音楽の才能があれば、私の性格に難点があっても、皆が付いて来てくれるかもしれないから。
どんな事があっても、皆と音楽を続けられるかもしれないから。

本当はそういう事じゃないのに。
皆と……、あの子と音楽を続けたいんだったら、
どんなに才能が無くても、あの子と話し合うべきだったのに……。
それが私の犯しちゃった失敗なんだよね……。

自分の心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。
勿論、それはあの子との事を考えて、辛い気持ちが湧き上がって来るから。
後悔と悲しさが湧き上がってくるから。
だけど……、でも……。
私にはそれ以上に心臓が早く動いちゃう理由があるんだ。

今、この時、私の目の前にいる女の子。
私と同い年なのに、同学年なのに、私よりずっとしっかりしてて、
可愛くて、優しくて、私の事を大切にしてくれる、私に前に進む勇気をくれた女の子。
憂ちゃんが傍に居てくれたから。
傍で笑っていてくれたから。
私は勇気を出して我侭を言わないといけない。
もうすぐ来る、別れの前に。

「ねえ、憂ちゃん……?」


喉がカラカラに渇いて、泣き出しそうなくらい緊張するのを感じながら声を出す。
大した事を言うつもりじゃないのに、胸が痛いくらいに心臓の動悸が激しくなる。
「何、梓ちゃん?」と憂ちゃんが笑顔で首を傾げる。
優しい憂ちゃんの笑顔が私を包む。
その笑顔がまた私の気持ちを一歩進めてくれた。


「『一生に一度のお願い』の日までにね……、私、やりたい事があるんだ」


「やりたい事……?」


「うん、実はね、私……」


大きく深呼吸。
本当は怖い。
憂ちゃんにそれが断られる事がじゃなくて、自分の無力を思い知らされる事が。
才能が全てじゃないって分かり掛けては来たけど、それでも、やっぱり……。
弱くて悩んでばかりの私がそれを受け止められるのかって。

だけど、もう私達には時間が残されてなかったし、それ以上に私は変わりたかった。
憂ちゃんとのこの一週間はもうすぐ終わる。
システムのルール通りなら、きっと今日まで起こった全ての事は記憶に残らない。
何もかも忘れ去ってしまうはずだ。
だったら、これから私がしようとしてる事には何の意味も無い……?

ううん、そうじゃない。
そうじゃないって信じる。
もうすぐ忘れてしまうとしても、今この時に勇気を出そうと思えた事だけは真実だと思いたいから。
信じたいから。
私は精一杯の勇気を出して、想いを言葉にするんだ。


「憂ちゃんと……、セッションしてみたいんだよね。
二人でギターで、『ふわふわ時間(タイム)』の……」


「えっ……?」


私の言葉を聞いて、憂ちゃんが驚いた表情を浮かべる。
それはそうだと思う。
憂ちゃんには凄い才能があるけれど、憂ちゃん自身はそれにまだ気付いてないはずだもん。
そんな状態でセッションだなんて言われても、戸惑って当然だよね。
それは分かってるけど、私は憂ちゃんのギターの本当の腕前を知りたかったし、
それよりも何よりも、二人で『ふわふわ時間(タイム)』をセッションしてみたかった。
私と憂ちゃんを繋いでくれた軽音楽部の皆さんの曲。
私に大切なものを見つけさせてくれた『ふわふわ時間(タイム)』を。

残された時間で完璧な演奏が出来るなんて考えてない。
きっと出来の悪い演奏になっちゃうはずだと思う。
それでもいいんだ。
残された時間、私は憂ちゃんとそうして過ごしたいと思ったんだもん。

私は戸惑った表情の憂ちゃんの両肩に手を置いて、真剣な眼差しを向ける。
完全に私の単なる我侭だけど、それでも憂ちゃんと一緒だから、
憂ちゃん相手だからこそ、言いたくなった我侭だって事を分かってもらうために。


「いきなりこんな事を言われても困っちゃうのは分かるよ、憂ちゃん。
自分でも変な我侭だって思うよ、正直……。
でも……、でもね……、私、憂ちゃんと演奏してみたいの。
分からない所があったら私が精一杯教えるから……!
だからね……!」


「あの……、えっと……」


「と言っても、私にも耳コピは無理なんだよね。
だからね、今から私、軽音楽部の部室に行ってくるよ。
勝手にだけど、楽譜をコピーさせてもらって、それを見ながら憂ちゃんと練習したい。
『一生に一度のお願い』を願うその寸前までそうしたい。
もしも……、もしも憂ちゃんが……よければだけど……」

私の言葉はそれで終わった。
これ以上の言葉は無理強い過ぎたし、無理に憂ちゃんに付き合ってもらっても辛かった。
これで憂ちゃんが嫌だと言うなら、それも仕方無かった。
それは憂ちゃんが悪いわけじゃなくて、私が憂ちゃんに迷惑しか掛けなかったって事だもんね……。
とても悲しい事だけど、それはそれで私の一つの結果なんだと思うもん……。

憂ちゃんはまだ戸惑った表情を浮かべてる。
私の申し出を断る言葉でも考えてるのかな……?
そう思って胸の痛みを強く感じていると、不意に憂ちゃんが静かに口を開いた。


「楽譜のコピーなんて……、行かなくてもいいよ、梓ちゃん」


「そう……なんだ……」


辛うじてそう言葉には出来たけど、本当は泣き出してしまいそうだった。
自業自得なのは分かってる。
憂ちゃんと出会って、私は憂ちゃんに迷惑ばかり掛けちゃってたもんね。
最後の最後まで憂ちゃんの優しさに頼るなんて、いくら何でも憂ちゃんに失礼だよ……。
辛いけど……、本当に辛いけど……、断ってくれた憂ちゃんに感謝するべきなんだよね。
勇気を最後に出せただけ……、それだけでよかったと思えなきゃ……。


「ごめん……ね、憂ちゃん……。
私、変な事、言っちゃって……」


私は掠れた言葉で呻くみたいに呟いた。
言葉に出せた事が奇跡的なくらい、自分でもその声が掠れてるって分かった。
憂ちゃんは私のその声色に驚いた表情を浮かべてた。
まさか私がこんなに悲しそうな顔をするなんて思ってなかったのかな……?
憂ちゃんは優しい子だから、私の事を思って、
申し出を受け入れてくれる気になってくれたのかもしれない。
でも、そんなのは嫌だ……。
もう憂ちゃんの優しさに頼るだけの私じゃ居たくないよ……。

憂ちゃんがきっと泣き出しそうにしてるんだろう私の表情を見ながら続ける。


「ご、ごめん、梓ちゃん。
私、びっくりして言い方を間違っちゃったみたいで……」


「う、ううん、気にしないで、憂ちゃん……。
はっきり断ってくれてありがとう……。
自分でも……、我侭だって分かってたから、だから……」


「そうじゃなくて……ね。
私はね、梓ちゃん、楽譜のコピーには行かなくていいんだよ、って。
それだけを梓ちゃんに伝えたかったんだよ。
言う順番を間違っちゃって、ごめんね……」


「どういう……事……?」


「実は……ね」


憂ちゃんがとても申し訳無さそうな顔になって、
スカートのポケットの中から綺麗に折り畳まれた紙を取り出した。
厚さからすると五枚くらいはあるだろうか。
憂ちゃんはその紙を開くと、私に静かに手渡してくれた。
その紙に記されていた言葉は……。

「君を見てるといつもハート……」


はっとして顔を上げると、憂ちゃんがとても真剣な表情で頷いていた。
それ以上読まなくても分かる。
憂ちゃんがポケットの中に入れてたのは、
『ふわふわ時間(タイム)』の楽譜のコピーだった。
びっくりした私は憂ちゃんにまた掠れた声で訊ねた。


「これ……、どうした……の?」


「昨日ね、トイレに行く振りをして、梓ちゃんに隠れてコピーさせてもらってたの。
私もね……、梓ちゃんとこの曲の練習がしてみたかったんだ……。
教えてもらいたかったんだ……。
でも、梓ちゃんは『一生に一度のお願い』の事を考えなきゃいけない時だし、
お姉ちゃん達のライブを見るまで集中して欲しかったら……、
ううん、断られたらどうしようって思うと、言い出せなかったんだよね……。

だから、梓ちゃんの方から言い出してくれた時、びっくりしちゃったの……。
梓ちゃんも同じ気持ちで居てくれたんだ、って。
嬉しい気持ちとびっくりした気持ちがごっちゃになって、
それで……、変な言い方になっちゃったみたい……。
本当にごめんね……。
だけど、梓ちゃんとこの曲の練習をしたいって言うのは、私の本心なんだ……」


「どう……して……?」


「梓ちゃん達が一生懸命だったから」


「私が……?」


「うん。
この一週間、梓ちゃん、すっごく一生懸命だったよ。
自分のお願いと夢を見付けるために凄く頑張ってた。
音楽の事、とっても真剣に考えてるみたいに見えたの。

だからね、梓ちゃんやお姉ちゃん……、
律さん達やキャサリンさんが一生懸命な音楽の事、もっとよく知りたくなったんだ。
残された時間じゃそんなに上達出来ないだろうし、
この曲を演奏するなんて無理かもしれないけど……、でも、私、ちょっとだけでいいの。
ちょっとだけでも梓ちゃんと音楽を経験してみたいんだ。
だって私、梓ちゃんの事、もっとよく知りたいんだもん。

私からもお願いさせて、梓ちゃん。
残り少ない時間だけど、何処まで出来るか分からないけど、
私、梓ちゃんと『ふわふわ時間(タイム)』の練習がしたいな……!
私の勝手な我侭だけど、引き受けてくれる……?」


言い終わって、憂ちゃんは柔らかい苦笑を浮かべる。
すれ違ってるみたいで同じ様な事を考えてた私達に対して苦笑いするみたいに。
釣られて私も少し苦笑。
これまで色んな事ですれ違ってた私達だけど、最後くらいはすれ違わずにいられたみたい。
私にはそれがとっても嬉しかった。
だから、私は信じよう、って思った。
私を大切にしてくれてる憂ちゃんの事を。
憂ちゃんが一生懸命だと言ってくれる私自身の事を。
まだ自信はあんまり持てないけど、私が私を信じないのは、憂ちゃんにとても失礼だと思うから。

私は涙を心の片隅に追いやって、自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべる。
憂ちゃんの信じてくれる私の笑顔を見せて、口を開いて想いを言葉に乗せた。


「勿論だよ、憂ちゃん。
一緒に……、『ふわふわ時間(タイム)』の練習、しようね……!」


今回はここまでです。
またよろしくお願いします。






「痛っ……」


ギターの練習中、不意に部屋の中に軽い呻き声が聞こえた。
憂ちゃんの手を掴んでその細い指に視線を向けると、
すぐに私は軽い一本線の傷を憂ちゃんの人差し指に見つけた。
うん、少しだけ皮がむけてるみたい。
私は念のため用意していた消毒スプレーを、憂ちゃんの指に噴き掛ける。


「んっ……」


「沁みる?」


「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん……。
面倒掛けちゃってごめんね……」


「それは別にいいんだけど……。
でも、無理しちゃ駄目だよ、憂ちゃん。
力を入れ過ぎたら弦で指を切っちゃうって言ったでしょ?」


「それは分かってるんだけど、でも、力を入れないと音が出なくて……」


「それもそうなんだけどね。
でも、憂ちゃんはまだ練習を始めたばっかりだし、
指の皮がまだギターの弦に慣れてないんだから、無理するとすぐむけちゃうの。
ギターってそういう物だから、少しずつ慣らしていくしかないんだよ」


私が微笑み掛けると、逆に憂ちゃんは落ち込んだ表情を浮かべてしまった。
憂ちゃんの気持ちは私にもよく分かる。
私の場合もお父さん達の腕前が凄いから、
少しでも早く追い着こうと無理して練習してた事があったんだよね。
それで何度、指の皮がむけちゃったっけ……。
うーん……、あの時の痛さはちょっと思い出したくないなあ……。

唯さん達の学園祭が終わってから一日。
私達は早起きしてからギターの練習を始めていた。
昨日は休む事に専念する事にして、ごはんを食べたらすぐに眠った。
今日……、多分、『チャンスシステム』の『お願い』の期限の日。
とっても忙しくなるんじゃないかな、って思ったんだよね。
今日の終わりまでに体力が尽きちゃっても本末転倒だし、私達の選択は間違ってないと思う。

ひょっとしたら、今日が終わっても『チャンスシステム』の期限は来ないかもしれない。
神様が何かの気紛れで期限を延長してくれる可能性は確かにあった。
試した人なんて居るわけじゃないから、試してみる価値はあるのかもしれない。
でも、私はそれを試すのはやめておこうと思った。
私の『一生に一度のお願い』は凄いお願いじゃない。
ほんのちょっとした……、とても些細なお願いだ。
例え叶えてもらえなかったとしても、そんなに気にもならない。
憂ちゃんと長く一緒に居られるか試す事の方が、よっぽど大切に思える。

だけど、私はそれをしちゃいけない、って心に決めていた。
一週間って期限は私のけじめだったし、
私の『お願い』が叶わない事を憂ちゃんは望まないはずだから。
その『お願い』がどんな些細なものだとしても。

だから、今日で『チャンスシステム』は終わり。
私達はどんな出来でも『ふわふわ時間(タイム)』を二人で弾いて、
それから私の『一生に一度のお願い』を神様か誰かに届けて、そうしてお別れをする。
憂ちゃんは何もかも忘れて元の生活に戻って、私は次の『ナビゲーター』になる。
私達に出来るのは、それまで精一杯ギターの練習をする事だけなんだ。

「じゃあ、憂ちゃん、絆創膏を貼るね」


箱の中から絆創膏を取り出そうとすると、
憂ちゃんが私の手首を掴んでから首を振った。


「ううん、絆創膏は貼らないで、梓ちゃん」


「えっ、でも……」


「いいの、私は大丈夫だよ、梓ちゃん。
皆、何度も皮がむけながらギターの練習をしてるんだよね?
お姉ちゃんの練習を見てたから、私もそれは知ってるよ。
だから、いくら皮がむけても大丈夫だよ。
それがギターが上達するための一歩なんだもんね」


憂ちゃんが優しく微笑む。
そこまで言われたら、憂ちゃんに絆創膏を貼っちゃうわけにもいかないよね。
私は絆創膏を箱の中に片付けて、まだ髪を結んでない憂ちゃんの頭に軽く手を置いた。


「うん、分かったよ、憂ちゃん。
でも、無理だけはしないで、痛い時は痛いって言ってほしいんだ。
実はね、こんな目標はどうかって自分でも思うんだけど、
私、どんなに下手な演奏でも、出来る限りの演奏でいいって思うんだよね。
今日一日の練習で出来る演奏でいいんだよ、本当に……」


「今日一日の練習で出来る演奏……?」


「勿論、ちょっとくらいの無理はするけど……。
でも、必要以上の無理をしても意味が無いって思うんだ。
そんなの、私の演奏じゃないし、私達がやりたかった演奏でもないよ。
だから、下手でも、一生懸命な自分達なりの演奏にしたいんだ」


「そう……なの……?」


「うんっ!」


私が大きく頷くと、憂ちゃんも私に続いて笑顔で頷いてくれた。
憂ちゃんがすぐに納得してくれたのは、昨日のライブをまだはっきりと憶えてるからだと思う。
私だって目を瞑れば鮮明に思い出せる。
上手さとか技術とか、そういうものを超えた唯さん達の昨日のライブ。
本当に素敵で、私も軽音楽部の皆さんみたいな演奏をしたいって思った。
憂ちゃんとそうなりたいって思ったんだ。

朝ごはんを食べた後、私のお父さんの部屋から拝借したギターに憂ちゃんが視線を向ける。
柔らかな数秒の沈黙。
それから、少しだけ傷の出来た指を見つめて、憂ちゃんは微笑んだ。
口を閉じたまま、私の瞳を見つめて笑ってくれたんだ。
分かったよ、梓ちゃん。
憂ちゃんの瞳はそう言ってくれてるように見えた。
私は小さく頷いて、憂ちゃんと同じくまだ結んでない髪を掻き上げてから、口を開いた。

「じゃあ、ちょっとだけ休憩しちゃおうよ、憂ちゃん。
ちょっと早いけど、お昼ごはんにしちゃおう。
お腹が空いたら練習にも支障が出ちゃうもんね」


「そうだよね。
だったら、今から私が準備を……」


言い様、立ち上がろうとした憂ちゃんの肩に私は手を置いた。
そのまま私の方が立ち上がって、軽く微笑み掛ける。


「いいよ、憂ちゃんはゆっくり練習してて。
いつも準備してくれてたんだし、今日くらいは私にごはんの準備をさせてよ」


「えっ、でも……」


「あっ、もしかして、私にごはんが作れるか心配してるの?
大丈夫だって。
確かに今まで憂ちゃんにごはんの用意をしてもらってたけど、
私だって料理の本を見ながらだったらそれなりのごはんを作れるんだから。
……信用出来ない?」


「そんな事、無いけど……」


「だったら、任せてって」


精一杯の自信に満ちた表情を憂ちゃんに見せる。
憂ちゃんは私に悪いと思ったのかちょっと迷ってたけど、
私の厚意を無視するのも申し訳無いって思ってくれたんだろう。
普段の優しい笑顔に戻って、肩に置いた私の手にその手を重ねてくれた。


「それじゃあ、ごはんの用意をお願いしてもいい?」


「うん、任せてよ。
ちゃちゃっと料理してくるから、憂ちゃんは……」


「うん、無理せず、一生懸命に練習しておくね」


「分かればよろしい」


私が軽口を叩いて、二人して笑い合う。
最後の一日なのに危機感が無さ過ぎる気がしないでもない。
でも、それでよかったんだと思う。
今日で最後だからって、憂ちゃんとの関係を劇的に変えたいわけじゃないもんね。
私は今まで見せてくれた憂ちゃんの優しさに惹かれてるんだもん。
だから、私も今まで憂ちゃんが信じてくれてた私のままで何かを成し遂げたいんだ。
結果、あんまり出来の良くないセッションになっちゃったって、それはそれで私は満足だ。

……なんて考えてはみるけど、実はあんまり心配はしてなかったりするんだよね。
私のずっと考えてた通り、憂ちゃんの技巧がとても凄かったから。
天才なのかどうかはともかく、少なくとも私よりはずっと筋がいい。
流石に今まで積み重ねてきた私の数年に一日で辿り着くほどじゃないけど、
二年……、ううん、一年くらい毎日練習すれば、私の実力なんて超えちゃうんじゃないかな。
悔しくないって言ったら嘘になる。
だけど、そんな事よりも今は、憂ちゃんの技巧に感心しちゃう気持ちの方が強かった。
基本を教えてる私の方が勉強になっちゃうくらいなんだよね。
そんなやり方があったんだ、って基本を再確認出来る。
それは私にとっても凄くためになる事だった。
うん。憂ちゃんって、本当に凄い子だなあ……。

だけど、同時に思う。
憂ちゃんの技巧は凄いけど、将来的にプロになる事も無いんじゃないかな、って。
勿論、憂ちゃんの技巧に申し分は無い。
これから練習すれば、誰よりも凄い演奏が出来るようになるはず。
でも、プロの音楽ってそういう物じゃ無いんだって事も、私は何となく分かってる。
プロの音楽はたくさんの人に受け入れられる。
限られた人の心だけに残る音楽じゃなくて、たくさんの人が好きになる音楽が演奏出来る。
それはとっても凄い事で、滅多に出来る事じゃ無いし、出来る人こそがプロになっていく。
私はともかく、憂ちゃんの技巧ならそれが出来るようになるかもしれない。
たくさんの人に受け入れられる音楽を今から目指していけば、将来的にはきっと。
それでも、憂ちゃんはそれを求めない。
それはきっと、私の目指してる音楽も同じで……。

うん、やっぱり私は三流だ。
今だけじゃなくて、将来的にもずっと三流のままだと思う。
だけど、でも、三流にだって出来る事、三流だからこそ出来る事があるはずだから……。
だから、今日は精一杯、無理せず一生懸命に頑張ろう。
それが私の本当に求めてた物に繋がるはずだって信じて。

まあ、そのためには、まずちゃんとしたごはんを作らないといけないんだけどね。
料理の本を見ながらなら作れる……よね?
お母さんの手伝いだって結構してたんだし、調理実習もやった事があるし、カレーくらいならきっと……。
あ、不安になって来た。
駄目駄目。
憂ちゃんが練習に専念出来るように頑張らなきゃ……!

それにカレーならお昼ごはんと夜ごはんにしても飽きは来ないはず。
一度作っちゃえば、温めるだけで夜のごはんにも出来るんだもん。
結果的に私達の練習時間を延ばせるはずだもんね。
そうやって、私は憂ちゃんとじっくり楽しく練習するんだ。
じっくりとこんなに優しい憂ちゃんの笑顔と一緒に……。

不意に。
憂ちゃんの笑顔を見ながら、私は胸が強く鼓動するのを感じた。
ずっと訊ねてみたかった事、訊ねようとしながら訊ねられなかった事……。
それを憂ちゃんに訊ねておくべきだ、って私の胸が叫んでるみたいに。
憂ちゃんと私が笑顔で居られる内に……。

二度、大きな深呼吸。
それから、私は出来るだけの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに訊ねてみた。
ある意味、私達の未来に関係する重大な質問を。


「それじゃあ、憂ちゃん……。
私、今からごはんの用意をするけど、その前に一つだけ質問してもいい?
ちょっと急に気になっちゃって……」


「うん、どうしたの、梓ちゃん?」


「憂ちゃんは、受験はどの高校を受けるつもりなの?
唯さんも居る事だし、やっぱり桜高?」


「うん、そのつもりだよ。
やっぱり、お姉ちゃんの事が気になるし、でも、それだけじゃなくて、
律さん達みたいな素敵な人達が居る高校だし、桜高に入りたいなって思ってるんだ。
桜高ならいつでも好きな時にお姉ちゃん達の演奏を聴けるかもしれないしね」


「そうなんだ……。
うん……、やっぱりそうだよね……」


「梓ちゃんは何処を受けるつもりなの?」


「一応……、ね?
桜高を受けようかと思ってるんだけど……」


「梓ちゃんも?
だったら、、ひょっとしたら一緒のクラスになれるかもね。
それで、もしも私と梓ちゃんが同じクラスになれたら、その時は……。
その時の私達は……」


「うん……、その時、私達……」






「じゃあ、今日もお願いしていい?」


「うん、勿論だよ」


髪を下ろしたままの憂ちゃんが笑顔で頷いてくれる。
午後九時。
どうにか無難に完成させられたカレーを夜ごはんに食べ終わって、
私達はどちらが言うともなく、自然と学校の制服に身を包んでいた。
憂ちゃんの制服には私の予備を貸してあげた。
桜高の制服は当然うちの中学の制服とは違うんだけど、
せめて一度くらい憂ちゃんと一緒に同じ制服を着てみたかったんだよね。
同じ学校に通って、同じ部に所属してる普通の友達みたいに。

同じ制服に身を包んで、憂ちゃんが私の髪に櫛を通してくれる。
昨日よりもずっと真剣な表情で、私の髪を整えて、髪留めを着けてくれる。
優しく、真剣に、私達がこれから向かう最後の舞台のために。
二つ結び……、ツインテール……、呼び方は何でもいい。
とにかく、憂ちゃんは私を普段の髪型に整えてくれる。
言い方はちょっと変だけど、これで私の戦闘態勢は整った。


「ありがと、憂ちゃん。
それじゃ、次は私が……」


「うん、お願い、梓ちゃん」


憂ちゃんに纏めてもらった髪を翻して、私は憂ちゃんの背中側に移動する。
櫛を受け取って、出来る限り柔らかく丁寧に梳いていく。
傍に置いていたリボンを取ってから、憂ちゃんの髪をポニーテールに纏める。
うっ……、やっぱり人の髪を結ぶのは難しいな……。
特に憂ちゃんのポニーテールはかなり絶妙な位置にあるんだよね。
それで昨日は結構微妙なポニーテールにしちゃったわけだし……。
でも、今日は昨日みたいな髪型にしちゃうわけにはいかない。
だって、これから私達はセッションするんだもん。
私達だけのライブを開催するんだもん。
私達以外に誰も観客が居ないライブだけど、それでも十分。
ライブに適当な衣装で向かうなんて、そんなの曲がりなりにもギタリストとしては許せないよね。

だから、私は丁寧に真剣に憂ちゃんのポニーテールを結ぶ。
私の記憶する最善の位置にポニーテールを配置してみせる。
……うん。
正確には違うかもしれないけど、私の中ではこれが憂ちゃんのポニーテールのベストな配置だ。
手鏡を手渡して髪の位置を確認してもらうと、憂ちゃんは笑顔で頷いてくれた。
私を気遣ってるわけじゃなくて、本当にその位置でぴったりみたいだった。
よかった。
これで憂ちゃんの戦闘態勢も整ったわけだよね。

二人で立ち上がってから、ギターに手に伸ばす。
憂ちゃんは私のお父さんのギターに。
私は自分の小さなギターに。
そうして私達は二人でギターを構えて、向かい合って、微笑み合う。

練習が完璧だなんて口が裂けても言えない。
見事なセッションが出来る気なんて全然しない。
それでも、私の胸には不思議と不安は無かった。
憂ちゃんも笑顔で居てくれていた。
どんな形のセッションになっても、どんなひどいセッションでも、満足出来る。
何故だかそんな気がするんだよね……。

私達はギターを抱えて部屋から出て、肩を並べて歩き出して行く。
向かうのはあの場所……、私達が初めて出会えたあの公園。
そこが私達の最初のライブ会場なんだ。
どちらからともなく、私達は手を繋いでいた。
お互いの体温を感じていると、とても落ち着ける。

歩いて行く。
憂ちゃんは私が整えた戦闘態勢で。
私は憂ちゃんが整えてくれた戦闘態勢で。
二人で用意し合った舞台衣装で。


「君を見てると」


「いつもハートDOKI☆DOKI」


二人で口ずさみながら、私達は笑いながら進む。
今日が終わるまで残り数時間。
思い残す事が無いように……、
って言うのは無理かもしれないけど、
せめて出来る限りの精一杯の事をやってみせるために。
結局、『チャンスシステム』とか『お願い』とか関係無しに、
それこそが私達に出来る……、やらなきゃいけない事なんだと思うから。
思えるようになったから。


今夜はここまでです。
もうすぐ終わりますので、
展開について何か疑問や質問があればいつでもお気軽に聞いて下さい。
またよろしくお願いします。






秋口の夜の公園。
憂ちゃんと出会ってから約一週間、
少しは寒気も強まってきたはずだけど、私は全然寒くなかった。
街灯に照らされてる憂ちゃんの表情も、全然寒そうには見えない。
二人ともセーラー服を着てるのに、不思議と温かい気までするんだよね。
きっとそれは胸の中がいっぱいだから。
私達の音楽の始まりの時を考えて、心が昂ぶっているからだと思う。

そうして、私達が立つのは出会えた初日、憂ちゃんと話したベンチの上。
私が自分の無力を実感させられて叫び続けたベンチの上。
短い間に色んな感情を思い出させるようになったその場所。
今はその二回の感情と全然違った想いが私の胸にある。
未来に向けて進んで行こうって決心が、憂ちゃんと見つけられた決心が、私の中にはある。

だから、私は胸を張る。
憂ちゃんも私に倣って胸を張ってギターを構えてくれた。
二人とも『ふわふわ時間(タイム)』の楽譜の用意はしてない。
街灯の明るさで楽譜を見るのは流石に難しかったし、
演奏中に見ない事は二人でいつの間にか暗黙の了解になってた。
今日出来た練習の成果をそのまま出す。
どんなに下手でも、酷い演奏でも、今の私達が今日出来た結果を出す。
それが私が最後にしたかった事だから。

勿論、楽譜を完全に憶えたなんて、口が裂けても言えない。
自信の無いパートなんてたくさんあるし、憶えてても弾けない所の数も両手の指じゃ足りない。
これはやっぱり、相当に出来の悪い演奏になりそうだよね。
覚悟してた事だけど、我ながらちょっと落ち込んじゃうな。

でも、一つだけ自信がある事だってあったりする。
それは『ふわふわ時間(タイム)』歌詞。
私と憂ちゃんは楽譜を見なくても完全に歌詞だけは憶えてる。
それくらいの事だけは出来るようになった。
自分が歌の上手い方だなんて絶対に言えないけど、
きっと音痴な歌声がこの公園に響く事になっちゃうけど、今はそれで十分。
それだけで……、十分。

だけど、諦めてるわけでもない。
出来の悪い演奏でも、精一杯一生懸命の演奏をしてみせる。
今の私に、私と憂ちゃんに出来る最高の演奏を。
それがやっと踏み出せる私の第一歩なんだから!

「憂ちゃん」


「うん……!」


私の軽い目配せと一言だけで、憂ちゃんは私の気持ちを汲み取ってくれた。
いい相棒だよね、なんて変な事を考えながら、私はつい苦笑する。
それから二回、大きく深呼吸。
何となく視線を向けてみると、憂ちゃんも私と同じタイミングで深呼吸してるみたいだった。
憂ちゃんのその姿を目にした瞬間、私の肩の力も一気に抜けた。
力なんてあんまり入れてなかったつもりだけど、知らない内に少しは気負ってたのかもしれない。
また、私は笑う。
今度は苦笑じゃなくて、胸の奥から湧き出る温かい気持ちをそのまま出した笑顔で。


「ワン・ツー・スリー・フォー・ワン・ツー・スリー!」


カウントを取る私。
緊張じゃない高揚感と、怖さからじゃない震えを全身に感じる。
ドキドキとワクワクを一身に感じて、私達は演奏を始める。
ベースどころかドラムもキーボードも無い私達のツインギター。
リードギターとサイドギターの区別も無いちょっと奇妙なセッション。
でも、私と憂ちゃんにとってはそうじゃない。
軽音楽部の皆さんのライブで聴いたのは一度だけだけど、
練習では百度で済まないほど聴かせてもらったんだもんね。
失敗しやすい所や、難解なパートを耳と胸と心が記憶してる。

勿論、それだけじゃない。
何度も何度も聴く事で、私達はこの不思議な魅力を持った曲を好きになった。
甘い……、とっても甘い歌詞なのに、何処か爽やかさを感じる素敵な曲。
私達の大好きな曲の『ふわふわ時間(タイム)』。
だから、私達は失敗しそうになっても、
心に残ってる軽音楽部の皆さんの演奏に支えてもらえてる。

走り気味だったけど元気いっぱいの律さんのドラム、
どうして軽音楽部に在籍してるのか結局分からなかった紬さんの優雅なキーボード、
満面の笑顔で演奏を楽しむ唯さんの明るいギター、
緊張の中でも素敵な歌声と一緒に着実な重低音と刻んでくれた澪さんのベース。

そうして、私達の心の中に、軽音楽部の皆さんの演奏がある。
忘れたくない……、ううん、忘れられない演奏が私達に勇気を与えてくれる。
弾ける。
所々失敗しながら、狂った音程を出しながら、それでも笑顔で弾ける。
私の欲しかった……、やりたかったセッションが出来てる……!

私と肩を並べて、憂ちゃんがギターを笑顔で演奏してる。
たった一日の練習なのに、分かってはいたはずなのに、その上達の速度は驚いちゃうくらいだった。
天才かどうかはともかく、私よりずっと才能があるのはやっぱり間違いない。
練習だけじゃなくて、本番でもこんなに弾けるなんて肝もすっごく据わってる。
私なんかよりもずっとプロを目指した方がいい人材。
でも、憂ちゃんはきっとプロなんて目指さない。
もっと大切な物を重視してるって、今の私にはもう分かってる。

プロは不特定多数の大勢の人達に向けて演奏する人達。
たくさんの人に感動を与える演奏が出来る人達なんだよね。
でも、その分、特定の誰かに向けて曲を演奏したりなんて滅多に出来ない人達だ。
例えば友達一人のためだけに演奏するなんて、そんな事はしちゃいけないんだ。
ううん、してもいいんだけど、それを演奏のスタイルに組み込んだりなんかは絶対に出来ない。
それはもう不特定多数の人達に向けた曲じゃなくなっちゃうから。
いいとか悪いとかじゃなくて、プロってそういう人達がなるものなんだと思う。

勿論、プロの人達には憧れる。
私だって大勢の人達に感動を与えたい気持ちは確かにあった。
だから、自分の才能の無さに苦しんだりもしたんだもん。
でも、そんな私にもやっと分かった。
憂ちゃんと一緒に軽音楽部の皆さんの演奏を聴いて、分かったんだ。
私が本当に求めてたのは不特定多数の誰かの笑顔じゃなくて、
大勢の人達から褒められる事でもなくて、
本当に心の底から一番欲しかったのは……、あの子の笑顔だったんだって。
大切なあの子と、笑いながら演奏をしたかったんだって。

傍から聴いてると粗末な演奏でもいい。
他の誰の心に届かなくたっていい。
一生、三流と呼ばれ続けてもいい。
ただ傍に居てくれたあの子と大きな声で笑いたかったんだ……!

もう……、私にそれは出来なくなった。
私の勝手な勘違いのせいで、あの子と話し合いもしないまま違う道を歩く事になってしまった。
それはこの先、どんなにあの子に謝っても、許されない事かもしれないけど……。
私の背中を押してくれる子が居た。
私の傍で微笑んでくれてる子が出来たんだ。
憂ちゃん……。
私に悩みや悲しみや辛さや、喜びや夢や笑顔を届けに来てくれた憂ちゃん……!
憂ちゃんが居てくれたおかげで、私はやっと前に進めるようになった。
だから、私はこの『チャンスシステム』が終わったら、あの子と話をしようと思う。
憂ちゃんとの一週間を憶えてなくたって、それだけは絶対に成し遂げたい。

だから、まずは私は憂ちゃんと一生懸命セッションをしてみせる。
難解なパートだって、唯さんの演奏を思い出しながらどうにか失敗せず弾き終える。
リズムを崩しそうになった時は律さんのドラムと澪さんのベースを思い出して、
旋律に自信が無い時は紬さんのキーボードを感じながら、憂ちゃんと一緒に演奏を進めていく。
そんな演奏の中でも、一際耳に残るのが憂ちゃんのギターだった。

直接弾いてるんだから当たり前ではあるんだけど、
それ以上に憂ちゃんの演奏から温かさや思いやり、一生懸命さが感じられたから。
私のために弾いてくれてるんだって分かったから。
その意味では憂ちゃんも三流なのかもしれない。
憂ちゃんは傍に居る誰かの笑顔のために、
大切な誰かのために全力になれるけど、それ以外の事には意外と無頓着な子なんだもんね。
不特定多数の誰かのためじゃなくて、たった数人の誰かのために頑張る子なんだ。
だからこそ、その数人の誰かになれた私の胸に強くその演奏が響く。
とっても強く。

私はそれがとっても嬉しい。
自分が三流だって事まで嬉しくなってくる。
今、憂ちゃんの事しか考えられないのが、誇らしいくらいに。
だから、今、私は憂ちゃんのためだけに演奏するんだ。
憂ちゃんの事だけを考えて、私達の大好きな曲を演奏したいんだ……!


「あぁカミサマお願い一度だけの」


演奏が終わりを告げようとしている。
もうすぐ私達のためだけの、私達のセッションが終わってしまう。
楽しくて嬉しくて最高だったからこそ、
失敗も多くかったけど満足出来るほど素敵だったからこそ、
名残惜しくて、寂しくて、セッションを終えるのが怖くなる。
……切なくなる。

もうすぐ……、もう数時間先には私と憂ちゃんは赤の他人になる。
『チャンスシステム』の期限が終わっちゃう。
期限を延ばしてもらう事なんて、まず出来ないだろうな。
なら、私はこの先、憂ちゃんと再会出来る事に望みを掛けるしかない。
憂ちゃんは桜高を受験するって言ってた。
私も元から桜高を受験するつもりだったし、もしかしたら同じクラスにもなれるかもしれない。

だけど……、再会出来たとして、私達はまた友達になれるのかな……?
憂ちゃんは変わらず優しい子だろうけど、私は自分から憂ちゃんに声を掛けられるか自信が無い。
私は友達が多い方じゃないし、自分でも結構面倒臭い性格だと思う。
こんな性格の私が、憂ちゃんとまた今みたいな関係を築けるんだろうか。
再会出来たとしても赤の他人のままなんじゃ……。
そう思うと、身震いまでしそうになる。

でも……。
その時、私は憂ちゃんと同じ言葉を口にしていた。
言おうと思ってた言葉じゃない。
セッション中だから、自然と口から出て来た言葉だった。


「もしすんなり話せれば、どうにかなるよね」


それは『ふわふわ時間(タイム)』の歌詞。
私の悩みに対する笑っちゃうくらいに簡単な答えで、実際にも私は笑ってしまった。
そっか……、そうだよね……。
同じ学校に居るんだから、一度くらい……、
一度くらいは絶対に憂ちゃんと話す機会があるはず。
その時に私が憂ちゃんと仲良く出来るって信じよう。
憂ちゃんと一緒に居られたこの一週間の事を信じよう。
例え全部忘れたって。
二度と思い出す事がなくったって!
だって、私は憂ちゃんが信じてくれた私なんだから……!


「ふわふわ時間……!」


私は歌う。
歌い終わる。
未来を信じて。
この一週間が無駄じゃなかったんだって信じて。
大切な憂ちゃんと笑い合えた一週間を絶対に無駄にしないために。

こうして、私達の最後の……、
ううん、最初の素敵なセッションは終わった。






「月が綺麗だよね……」


セッションが終わった後、月明かりに照らされながら憂ちゃんが微笑んだ。
ベンチに座って浮かべてるその笑顔はとても嬉しそうだった。
勿論、私だって無事にセッションを終えられて嬉しかったんだけど、
それより、『月が綺麗ですね』って言葉、確か遠回しな愛の告白だったような……。
いや、勿論、憂ちゃんにはそんなつもりなんて無いんだろうけどね。

私はちょっと苦笑しながら憂ちゃんの見ている月に視線を向ける。
憂ちゃんの言った通り、月はとっても綺麗だった。
満月でも半月でもない中途半端な形の月だけど、十分過ぎるくらい綺麗。
月が綺麗だなんて思う事なんて、そう言えば最近無かったような気もする。
それくらい心に余裕が無かったのかもしれない。
心に余裕が少しでも持てるようになったのは、やっぱり憂ちゃんのおかげだよね。


「今日は付き合ってくれてありがとう、憂ちゃん……」


気が付けば私は口にしてしまっていた。
今更な言葉だったかもしれないけど、自然に呟いちゃってた。
それくらい自然に私は憂ちゃんに感謝してたんだと思う。


「お礼なんていいよ、梓ちゃん」


ちょっと照れたみたいに憂ちゃんが頬を赤らめる。
お礼の言葉くらいもっと言わせてほしいなあ……、
なんて思わなくもなかったけど、憂ちゃんってそんな子なんだと思う。
誰かにお礼を言われるためじゃなくて、感謝されるためじゃなくて、
そこに困ってる誰かが居たら手助けをしたくなっちゃう子なんだよね。
頬を赤らめたまま、憂ちゃんが続ける。


「だって、私も梓ちゃんとセッションしてみたかったんだもん。
だからね、私の方こそお礼を言わせてよ、梓ちゃん。
今日は私とセッションしてくれて……、練習に付き合ってくれてありがとう。
私……、すっごく楽しかったよ……!」


それはまさしく私の予想していた通りの憂ちゃんの言葉だったから、私はつい微笑んでしまった。
もう……、損な性格をしてるなあ、憂ちゃんは……。
でも、本人はそれを損だなんて全然考えてない。
そこが憂ちゃんの魅力で、私もそれに救われたんだよね。
そう思えたから、私はそれ以上お礼を言うのをやめておいた。


「どういたしまして」


何度でも言いたいお礼の言葉を飲み込んで、代わりに憂ちゃんの感謝を受け取る。
それがきっと憂ちゃんへの一番いい感謝の示し方なんだと思ったから。


「本当に……、ありがとう……!」


不意に憂ちゃんが私の手を取って、またお礼を言ってくれた。
そんなに私にお礼を言ってくれなくても、って考えはすぐに吹き飛んだ。
私の瞳を見つめる憂ちゃんの瞳が潤んでいたから。
今にも泣き出しそうなくらい、瞳に涙を溜めていたから。

「憂……ちゃん……?」


私は動揺して、声を震わせながら呟いてしまう。
何度か憂ちゅんの悲しそうな表情は見て来たけど、こんな表情を見るのは初めてだった。
ただ悲しそうってわけじゃなくて、嬉しさや喜びや寂しさや、色んな感情がこもった表情を。
『どうしたの?』なんて訪ねられなかった。
憂ちゃんは勇気を出して、何かを私に伝えようとしてる。
そんな気がしたから、何も言わない方がいいんだって思えた。
多分、それでよかった。

一分近く、私達は見つめ合う。
詰まるような憂ちゃんの息遣いが私の耳に届く。
でも、私は憂ちゃんの言葉をじっと待つ。
私は今まで何度も何度も憂ちゃんを待たせて来てしまった。
それを考えれば、今、私が憂ちゃんを待つのなんて何でも無い事だもんね。


「あの……ね……?」


消え入りそうな声で、憂ちゃんが呟いた。
「うん」と私が頷くと、自分の声が小さかったと思ったのか、
大きく首を振ってから、また憂ちゃんが私の耳元で言ってくれた。
もうそれはよく透き通る私の好きな憂ちゃんの声だった。


「梓ちゃん……、私との約束、憶えてる?」


「約束……って?」


「前に……、したよね?
梓ちゃんが梓ちゃんの『一生に一度のお願い』を見つけられたら、
私の『一生に一度のお願い』を教えてあげるって約束……。
叶えるまでに時間が掛かっちゃった私の『お願い』の事……。
梓ちゃん、自分の『お願い』……、もう見つけてるんだよね……?」


「うん……」


「だよね?
だからね、私の『お願い』を梓ちゃんに伝えたいと思うの。
本当は伝えない方がいいのかもって思ってたんだけど、
梓ちゃんの頑張りやセッションしてる姿を見てたら、何か卑怯な気がしてきちゃって……。
私の『一生に一度のお願い』、梓ちゃんに聞いてもらえると嬉しいな」


「いいの、憂ちゃん?」


「うん、聞いてほしいの。
前も話したと思うけど、キャサリンさんもね、私に自分の『お願い』を教えてくれたんだ。
私に伝える必要なんて無いのに、嘘を言う事だって出来たのに、
私が『お願い』を決めるためだからって、照れ笑いを浮かべながら教えてくれたの。
色んな『お願い』を聞く事で、選択肢を広げてほしいって。

だからね、私も梓ちゃんにそうしたいの。
最後に梓ちゃんが決めた『お願い』をもっと強く決心出来るように……。
キャサリンさんの『お願い』は私とキャサリンさんだけの秘密だから内緒だけどね」


憂ちゃんが軽く微笑む。
私も微笑んだけど、すぐに胸が痛んだ。
私はまだ憂ちゃんに嘘を吐いているんだもんね。
勿論、私の『お試しお願い』の事……。
今すぐにでも本当の事を伝えたかったけど、私は口を噤んだ。
今は憂ちゃんが話をする時で、私はそれを聞いて最後の決心をしなきゃいけない。
私の吐いてた嘘を謝るのはその後にしなきゃね……。


「叶うまでに時間が掛かる『お願い』だったんだよね?」


私が憂ちゃんの瞳を見つめながら訊ねると、真剣な表情で憂ちゃんが頷いてくれた。
それから、何かを思い出してるような表情になって口を開いた。

「うん、今日ね、やっと叶えられたんだよ。
ううん、きっと叶えられた……、と思うんだけど……」


「どういう……事……?」


「えっとね、これも前に話したと思うんだけど……、
私はお姉ちゃんの事を『一生に一度のお願い』に出来なかったって話したよね?
『お願い』にお姉ちゃんの事を願っちゃったら、
これからお姉ちゃんを大切に出来ないような気がしたから、って……」


「うん、その気持ち、何となく分かるよ……。
私も結局、『音楽の才能』をお願いになんてしたくなくなったから。
叶えたいもんね、本当に叶えたい『お願い』は自分の力で……」


「そう……、そうだよね……。
それでね、私、もう一歩踏み込んで考えてみたんだ。
本当にお姉ちゃんのためになる事って何なんだろう……、って。
それを考えたらね、何となく気付けたんだよ。
お姉ちゃんは優しいから……、すっごく優しいから……。
『憂は憂のしたい事をして』って、絶対そう言ってくれるんじゃないかなって。
『それが私にとって一番嬉しい事なんだよ』って」


私はその憂ちゃんの言葉に対しては何も言わなかったけど、心の中では納得してた。
憂ちゃんの言う通りだよね。
唯さんの事を深く知ってるわけじゃないけど、
今まで唯さんを見ていて、唯さんは周りの人達を大切にする人だって私も思った。
周りの人が幸せで居てくれる事で喜べる人なんだって。
そんな唯さんなんだもん。
唯さんが憂ちゃんに望む事はそれに尽きると思う。

憂ちゃんが私の手を握る手のひらに力を込める。


「それでね、お姉ちゃんはこうも言ってくれるって思ったんだ。
『私だけじゃなくて、憂の周りの皆も笑顔にしてあげて』って……。
それで私、ハッとしちゃったんだよね。
私はお姉ちゃんの事ばかり考えてて、周りの人達の事を考えてなかったのかもって。
そう思っちゃったら、今までの友達に悪い事しちゃったかも、って思えて来たの」


そんな事……、そんな事は無いと思う。
憂ちゃんは周りの人達にも気配りが出来る子だもん。
でも、憂ちゃんの中では、そういう気後れみたいなものもあったのかな。
唯さんの事が大好きな事で、それで友達の誘いを断ったりした事も何度かあったのかもしれない。
だから、そんな風に考えちゃったのかも。
人の願いや夢や望みは人の数だけあって、それが周りの人と同じとは限らないから。
あの子と私みたいに……。


今夜はここまでです。
次回、憂ちゃんのお願いが明らかになるかもです。
またよろしくお願いします。

「急に……、不安になっちゃった……」


憂ちゃんが自嘲気味に続ける。
それはまるで、今までの自分を苦笑してるみたいに見えた。


「きっと、お姉ちゃんは私がお姉ちゃん以外の人を笑顔にしてあげられる事を望んでくれてる。
それが私の大好きなお姉ちゃんだし、私にとって大切な事だとも思うの。
だからね、不安になっちゃったんだ。
私がお姉ちゃん以外の事を幸せに……、笑顔にしてあげられるのかな、って。
私だってお姉ちゃん以外の人に笑顔になってほしいけど、
お姉ちゃん以外を笑顔にしてあげられる自信が無かったから……。
それで……、私は『お願い』したんだ……」


憂ちゃんの話が核心に近付いていく。
本当は言わない方がいいかもしれない事を私に伝えようとしてくれて。
私が『お願い』を決めるための最後の決心をさせてくれるために。
手まで少し冷たくさせながら。

叶うまでに時間が掛かる『お願い』。
『ナビゲーター』をすぐに引き継がなかった理由。
唯さんの事についてはお願い出来なかった憂ちゃんの望み。
ひょっとしたら、今日叶ったかもしれないその『一生に一度のお願い』。
それは……、もしかするとそれは……。

憂ちゃんが私の瞳をまたまっすぐに見つめる。
何度も深呼吸しながらも、私からは視線を絶対に逸らさない。
自分が『お願い』した事を後悔無く私に伝えられるように。
四回目の深呼吸が終わった時、憂ちゃんは大きく頷いてそれを伝えてくれた。


「ねえ、梓ちゃん……、
私の『一生に一度のお願い』はね……、
『誰かを笑顔にしてあげたい』ってお願いだったんだよ。
私ね、お姉ちゃん以外の誰かを笑顔にして、幸せにしてあげたかったの。
そうすれば私も自信を持って前に進めるかも、って思えたから……。
友達や周りの人達をもっと大切に出来るようになるかも、って……。

ごめんね……。
本当は梓ちゃんに伝えない方がいいかも、って思ったんだけど……。
でもね、やっぱりね、本当の事、梓ちゃんに知っててほしくて……」


一瞬、私は息を呑んでしまっていた。
憂ちゃんが私の事のために一生懸命でいてくれたのは、
全て自分の『一生に一度のお願い』を叶えるためだったの……?
自分に自信を持つための『お願い』の続きでしかなかったの……?
私は単なる『お願い』を叶えるための道具でしかなかったって事なの……?

突然、目前に晒された真実に目眩がしそうになる。
心臓の鼓動が強く高鳴っていく。
気を抜けば泣き出しそうになってしまってる……。


「憂ちゃん……」


呟きながら、私は憂ちゃんに握られた手から自分の手を離す。
その間も私は憂ちゃんの瞳から視線を逸らさない。
ただ見つめ続けて、憂ちゃんも私の瞳を見つめていて……。
そうして……。


「ありがとう」


私は憂ちゃんの両手を柔らかく包んでから微笑んだ。
勿論、誤魔化しでも何でもない。
胸の中から湧き上がる感情から出た自然な笑顔だった。

さっき、私は一瞬、憂ちゃんを疑ってしまった。
私の事を道具として考えてたのかって、不安になってしまった。
でも、それは一瞬だけだった。
憂ちゃんの『一生に一度のお願い』がそれだったとしても、
今まで一緒に居てくれた憂ちゃんはそれだけで動く子じゃなかったから。
心の底から本心で私を支えてくれた事だけは、言葉じゃなくて行動で分かってたから。
私は笑顔を浮かべられたんだ。

「いいの、梓ちゃん……?
こんな『お願い』をしちゃった私に……、お礼なんか言っても……」


憂ちゃんが戸惑った表情で続ける。
予想もしてなかった私のお礼の言葉に驚いてるみたいだった。
その表情を見て、憂ちゃんはやっぱり優しい子なんだよね、ってまた実感させられた。


「勿論だよ、憂ちゃん。
この一週間、憂ちゃんが私のために一生懸命頑張ってくれたの、知ってるよ。
他の誰よりも、それこそこの一週間の事に関しては、唯さんよりも憂ちゃんの事を知ってるんだよ。
そんな憂ちゃんの姿をずっと見てたんだもん。
憂ちゃんにはありがとうって言葉しか言えないよ。

それにね、憂ちゃん……。
その『お願い』……、本当の『お願い』とはちょっと違うんじゃない?」


「えっ……?
私、嘘なんて吐いてないよ、梓ちゃん……?」


「あっ、そうじゃなくて、うーんと……、ニュアンスって言うのかな?
憂ちゃんの『お願い』はそれだって私も信じてるよ。
でもね、『お願い』の詳しい内容が違ってるんじゃないのかな、って思うんだ。
ねえ、憂ちゃん、もうちょっと詳しく教えてくれる?
憂ちゃんのお願いは本当に『誰かを笑顔にしてあげたい』ってだけだったの?」


「えっと……、『誰かを笑顔にしてあげたい』って『お願い』だったのは本当だよ。
私、お姉ちゃん以外の誰かを幸せに出来るようになりたかったから……。
それが私の一番叶えたいお願いだったから……。
あ、でも……、梓ちゃんの言う通り、もう少し詳しくお願いしてたかも……。

うん……、ちょっと言い直させてもらうね。
正確に言うと私の『一生に一度のお願い』はね……、
『私に誰かを笑顔にしてあげられるチャンスをください』だったんだ」


「ほら、やっぱり」


私が笑うと憂ちゃんがまた戸惑った表情になった。
でも、今度はただ私の言葉の意味が分からない、ってだけに見える戸惑いだった。
首を傾げてポニーテールを揺らすその表情がとっても愛らしい。
首を傾げたまま、憂ちゃんがまた口を開いて私に訊ねる。


「どうして、正確には違うって分かったの……?」


「分かるよ」


「どうして?」


「だって、憂ちゃんが憂ちゃんだから」


「えっ……?」


憂ちゃんが顔中に疑問の表情を浮かべてる。
やっぱり、憂ちゃんは自分の事が分かってないんだよね。
自分が優しい子なんだって事を。
それを説明してあげたかったけど、今の憂ちゃんにはそれがまだ分かってもらえないかもしれない。
だから、私はまず憂ちゃんの求めてるはずの答えを伝える事にした。


「憂ちゃんだから……、って話は後にするけどね、
私が憂ちゃんのお願いが正確には違うんじゃないか、って考えた理由はまだあるんだよ。

一番そう思ったのは、キャサリンさんの『お試しお願い』の事を憂ちゃんに聞いたから、かな。
キャサリンさん、『素敵な出会い』を『お試しお願い』にしたんでしょ?
『素敵な恋人』じゃなくて、『素敵な出会い』ってチャンスを。
キャサリンさんも自分の欲しい物は、自分の力で手に入れたかったんだよね。
私もそうだからよく分かるし、憂ちゃんだってそうだと思ったんだ。
『お願い』の力で誰かを笑顔にしたって嬉しくないし、自信も持てないもんね……」

『お願い』の力で凄過ぎる何かを手に入れても嬉しくない。
嬉しい人も居るかもしれないけど、少なくとも私は嬉しくなかったし、憂ちゃんもそのはずだった。
本当に欲しい夢は自分の力で掴みたい。
例え掴めなくたって、その夢に向かって自力で頑張りたい。
だから、『一生に一度のお願い』にしたいのは、大きな『お願い』じゃなくて些細な事なんだ。
ほんの少しのちょっとした偶然やきっかけみたいなもの。
何が変わるわけでもないくらい、小さな小さな願い事。
よっぽど切羽詰まってでも居ない限り、私達が願いたいのはそういう『お願い』になると思う。
それ以上大きな何かなんて手に入れられても嬉しくないから。
虚しいだけだから……。


「うん……、そうだね……」


憂ちゃんが小さく呟く。
まだ、自分のした事に自信が無さそうに。


「私、梓ちゃんの言う通り、『誰かの笑顔』自体はお願いしなかったよ。
私の力で笑顔にしてあげられないと意味が無いって思ってたし、
神様の力でその誰かを笑顔にしても悲しいだけだし、その人に悪いだけだもんね……。

私ね、キャサリンさんとの一週間が終わってからね……、
早くその誰かを笑顔にしてあげたいな、って思ってたんだ。
すぐに『ナビゲーター』の役割が回って来なかったのは、
きっと私が一番笑顔にしてあげるべき人を神様が捜してたからだって思うの。
そうやって神様が長い時間を掛けて捜してくれたのが梓ちゃんで……、
そんな梓ちゃんとやっと公園で会えた時、私、すっごく嬉しかったんだ。
絶対絶対、一番の笑顔にしてあげたいって思ったんだよ」


その時の事は私もはっきりと憶えてる。
『よかった……。やっと……、会えた……』って私の手を握ってた憂ちゃん。
あれは本当に言葉通りの意味だったんだよね。
自分の『お願い』をやっと叶えられるかもしれない、って嬉しかったんだ。
長い間待たされたわけだし、憂ちゃんのもどかしかった気持ちはよく分かるよ……。


「でも……、でもね……」


憂ちゃんが私から視線を逸らしてしまう。
予想外の私の言葉に罪悪感が膨らんできたのかもしれないし、
私に責められなかった事が逆に不安になり始めたのかもしれなかった。
でも、視線を逸らしながらも、憂ちゃんは言葉を続けてくれた。
それが自分のしなきゃいけない事だって考えてるみたいに。


「梓ちゃんの頑張る姿を見てるとね……、
どんどんどんどん私の『お願い』が悪い事に思えて来て……。
梓ちゃんは夢の事を真剣に考えてるのに、
私は自分に自信を持てる事しか考えてなくて……。
こんなのお姉ちゃんにも梓ちゃんにも悪い事をしてる気になって来て……。
それが梓ちゃんに申し訳なくて……」


私の手のひらの中で、憂ちゃんの両手がまた震え始める。
ある意味、憂ちゃんの言う通りではあった。
本当の意味で誰かを笑顔にしたいんだったら、
憂ちゃんはそれを『一生に一度のお願い』にするべきじゃなかった。
誰か困っている友達を見つけて、その子のために尽力すればよかったんだ。
それが分かってるからこそ、憂ちゃんは後悔しちゃってるんだよね……。
憂ちゃんの『お願い』は、誰かのために動く勇気を持てなかった結果だったんだ。

だけど、それは私だって同じ事だよね。
私なんか、誰かのために動く勇気を憂ちゃん以上に持てなかった。
あの子と話す事だってそうだし、『お試しお願い』に願った事だってそうだった。
本当に憂ちゃんの事が知りたいなら勇気を出して踏み込まなきゃいけなかったのに、
『お試しお願い』に頼らずに話していくべきだったのに、あの時の私にはそれが出来なかった。
今、私はそれを反省してる。
もっとやりようがあったはずなのに、それが出来なかった事を深く反省してる。

でも……、それでも……。
後悔は……、後悔だけはしてないし、したくない……!
だって……!

「憂ちゃん、こっちを向いて」


「……うん」


「こっちを向いて、私の顔を見てくれる?」


「梓ちゃん……」


「どう見える?」


「梓ちゃん……、笑ってる……」


「そうだよ、憂ちゃん。
私、笑ってる……。笑えてるんだ。
これはね、憂ちゃんのおかげ。
憂ちゃんが私のために頑張ってくれたおかげで笑えるようになったんだよ……!」


「で……」


多分、『でも』と言おうとして、憂ちゃんが口を噤んでくれる。
私の言おうとしてる事を分かってくれたんだと思う。
憂ちゃんは決して鈍い子じゃないもんね。
でも、その考えが正しいって事を分かってもらえるために、私は言葉を続けるんだ。


「きっかけは確かに『お願い』だったかもしれないよね?
憂ちゃんが最初は自分のために頑張ってたのも分かるよ。
今も……、そうなの?
自分のためだけに私の傍に居てくれてるの……?」


「そんな……、そんな事無い……と思う……。
梓ちゃんの頑張ってる……、一生懸命な姿を見てるとね……、
私、『お願い』なんて関係無しに梓ちゃんの頑張りを助けてあげたくなったの。
一番の笑顔にしてあげたくなったんだ……。
それは本当の気持ちだと思うよ?

だからこそ、ね……。
『お願い』をきっかけにしちゃった事が梓ちゃんに申し訳なくて……。
それで私……、私……」


「それでも、私は憂ちゃんに会えて嬉しかったんだよ。
憂ちゃんに会えた事、私、神様に凄く感謝してる。
最初がどんなきっかけでも、どんな理由でも、憂ちゃんは私のために頑張ってくれたんだもん。
今なんか『お願い』関係無しに私を助けたいって思ってくれてるんでしょ?
だからね……、憂ちゃんが罪悪感を持つ必要なんて無いんだよ。
胸を張って、とまでは言わないけど、少しでも自信を持ってもらえなきゃ私も困るな。

だって、私、憂ちゃんのおかげで笑えるようになったんだもん。
上辺だけじゃなくて、愛想笑いでもなくて、自然と出る笑顔になれたんだもん。
それが出来た憂ちゃんに自信を持ってもらえなかったら、私の立場が無いじゃない」


最後だけわざと舌を出して軽い感じに言った。
だけど、この言葉は全部本音だった。
私は憂ちゃんのおかげで笑顔になれた。
些細だけど『一生に一度のお願い』だって見つけられた。
それは全部憂ちゃんが傍に居てくれたおかげなんだから、
自信までは持てないとしても、罪悪感だけは感じないでいてほしい。


「私の『お願い』……、叶えられたのかな……?」


手の震えを少しだけ止めて、憂ちゃんが私に訊ねる。
だから、私は満面の笑顔を見せた。
私の笑顔を少しでも憂ちゃんに分けられるために。
憂ちゃんが私にそうしてくれたように。

「うん、十分過ぎるくらいに!
憂ちゃん、本当にありがとう!」


私の言葉に憂ちゃんの震えが完全に止まる。
それから、無言で見つめ合う憂ちゃんと私。
私は変わらない笑顔で。
憂ちゃんは口を閉じたままの真顔で。
十数秒後、その沈黙を破ったのは、予想もしてなかった憂ちゃんの言葉だった。


「ふ……」


「ふ?」


「ふええええええええっ……!」


「えっ……?」


「ひっく、ぐすっ、う……、うええええええええっ!」


言葉……、って言うより、行動だったのかも。
憂ちゃんの瞳から大粒の涙が流れ出して、嗚咽と一緒にそれが止まらなくなった。
全然、止まらない。止まる気配が無い。
まさか急に泣き出されるなんて、予想してなかった。
これまで涙目になる事はあったけど、こんな大泣きをする憂ちゃんを見た事なんて無かった。
初めての事に私はどうしていいのか戸惑ってしまう。
涙を止められないまま、憂ちゃんが悲痛な言葉を絞り出した。


「いやだ……! やだよう……!」


「何……が?」


「折角……、仲良くなれた……のに……、
やっと笑顔になってもらえた……のに、ひっく……。
もうすぐ梓ちゃんの事を忘れちゃうなんて、絶対にやだよう……!
うっ……くっ……、うええええええええっ!」


もうすぐ忘れる……。
この一週間の事は何もかも忘れちゃう……。
最初から分かってた事。
何でも無いはずだった事。
平気だって思ってた事。
でも、その現実は私の胸を強く痛めて、憂ちゃんをこんなに大泣きさせて……。
私は唇を強く噛み締めて……、今にも泣き出しそうになってて……。


今夜はここまでです。
まだもう少しだけ続きます。
長い話ですが、もう少しお付き合い頂けますと幸いです。

初めてってわけじゃないけど、再確認させられた。
私の目の前で泣いている憂ちゃんは、私と同じ学年の中学生なんだって。
しっかりしてていつも忘れそうになっちゃうけど、憂ちゃんはまだ中学生なんだ。
悲しい事や辛い事があれば大声で泣き出したりするくらい、
自分の力でどうにもならない事をすぐに受け容れられないくらい……、
とっても普通な女の子なんだよね……。

この一週間、私は何度も辛くて苦しんで泣いた。
自分の才能の無さと無力さを自覚させられた。
だけど、何もかも投げ出す事はしなかったし、こんなに自然に笑えるようになった。
それは一生懸命頑張ってると思ってくれてる憂ちゃんが傍に居てくれたから。
自分も一生懸命頑張ってる事に気付いてない憂ちゃんが傍に居てくれたから。
だから、私は憂ちゃんの震える身体を胸の中に抱き留めるんだ。
抱き締めるんだ、強く。

その間、結局、私は溢れ出す自分の涙を止める事が出来なかった。
瞳から自分でも分かるくらい大粒の涙を、気付けば流してしまっていた。
でも、私は笑った。
涙を流しながらだって、涙に負けずに泣きながら笑ってみせた。
憂ちゃんの震えを胸の中に感じながら、その頭を柔らかく撫でる。


「いい子、いい子……」


ポニーテールの辺りから全体を撫でていく。
前、憂ちゃんが私にそうしてくれたみたいに。
憂ちゃんの心を落ち着かせるために。
私の心も落ち着けるために。
この後、二人でまた笑顔になれるために。


「梓ちゃ……」


憂ちゃんが何かを言葉にしようとして詰まらせる。
まだ溢れ出る涙に立ち向かえるほど、落ち着けてないんだろうな。
別れへの戸惑いと悲しみに向き合うには、もうちょっと時間が掛かるんだろうな。
だったら、私にしてあげられるのは、自分が落ち着いて一緒に向き合ってあげる事だよね。
私は軽く自分の涙を拭ってから、また憂ちゃんのポニーテールを撫でた。
私が結んだいつもよりちょっと出来の悪いポニーテール。
でも、私達の繋がりの証でもあるポニーテール。


「あんまり無理して話そうとしなくていいよ。
落ち着くまで私が話して、頭を撫でてあげてるから。
ただ耳だけ傾けていてくれればいいから……。
今は好きなだけ泣きたい時に泣いてていいんだよ」


「あず……。う……ん……」


震えを少しだけ止めて、私の胸の中で憂ちゃんが小さく頷く。
私より背は高いけど、歳相応の小ささと弱さを持った憂ちゃんを感じる。
ただしっかりしてるだけじゃなくて、
私と同じく悲しさに戸惑う事だってある憂ちゃんを。

「ねえ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは桜高を受けるつもりなんだよね?
私もね……、さっき家で話した通り、やっぱり桜高を受けるつもりだよ。
もし二人とも合格したら、来年から同級生になれるよね。
それで同じクラスになれたらいいよね」


「そう……だよね……。
でも……」


「うん……、二人ともこの一週間の事は忘れてると思う。
適当な神様だけど、それくらいのシステムはしっかりしてるだろうしね……。
でも、そういえば、憂ちゃん?
私達は忘れちゃうとして、形として残る物はどうなるか知ってる?
例えば手紙を残したり、写真を撮ってみたりとか……、そういう物はどうなるのかな?」


「えっと……ね……。
実はね……、私、キャサリンさんと一枚だけ写真を撮ってみたんだ……。
肩を並べてね……、ひっく、二人でね……、
だけど、後で見てみたら……、写真からキャサリンさんだけ消えてて……。
うっ、ううっ……、うえええっ……」


「うん……、ありがとう、憂ちゃん」


また泣き出した憂ちゃんを強く抱き締める。
やっぱり……、物として残すのも無理って事なんだよね……。
薄々気付いてはいた事だけど、実際に直面させられると結構きついな……。
もう……、適当な神様なのに、こんな所だけしっかりしてるんだから……。

私達の一週間は……。
思い出には残らない。
形としても残せない。
何もかも無かった事にされてしまう。

だけど……、『ひょっとしたら』の可能性もある。
一つだけ、私達がこの一週間の事を憶えていられるかもしれない可能性が。
勿論、『一生に一度のお願い』だ。
私の『一生に一度のお願い』を『この一週間の事を忘れさせないで下さい』にすれば、
ひょっとしたらこの一週間の事を忘れずに居られるのかもしれない。
忘れずに居させてほしい。

それこそが今の私の一番叶えたい『お願い』だったけど……、
今すぐにでもそう願ってみせたかったけど……、それはしちゃいけない事だと思った。
そもそもそれはシステムとして認められない事だろうし、
もしも認められた所で憂ちゃんはそれを嫌がるだろうと思った。
それは今の憂ちゃんを見れば簡単に分かる事だもんね。
憂ちゃんは私に自分の『お願い』を叶えてほしいと思ってくれてる。
自分の夢を見つけてほしいと思ってくれてる。
そのために自分の『一生に一度のお願い』まで私に教えてくれたんだもんね。
憂ちゃんだってキャサリンさんとの一週間を忘れたくなかったはずなのに、
それを願わずにちゃんと自分の叶えたかった『お願い』にしたんだよね……。

だから、私はその『ひょっとしたら』を口にしない。
憂ちゃんのために。
憂ちゃんが信じてくれた自分自身のために。
もうほんの少し先、もうすぐ私達が赤の他人になっちゃうとしても。
私はそれを受け止める。
それに……。
それにもしかしたら私達は『お願い』に頼らなくたって……。

私は溢れ出す自分の涙を最後に拭った。
もう流せるだけは流せたと思う。
後は憂ちゃんの前で笑顔で居続けるだけだ。
笑って、憂ちゃんに訊ねてみる。

「話は変わるんだけどね……、憂ちゃんは音楽が好き?」


「……えっ?
うっ……、うん、好きだよ……。
この一週間で……、今まで以上に好きになったよ……。
お姉ちゃん達のライブも凄かったし……、
梓ちゃんとの……、ギターの練習も楽しかったしね……」


「じゃあ、質問なんだけど、憂ちゃんは軽音楽部に入部するつもりとかある?」


「どう……かなあ……。
今はね……、すっごく入部したい気持ちがあるよ……。
もっともっと……、ギターの練習がしたいな……。

でも……ね……?
それは梓ちゃんとの練習が楽しかったからだし、
この一週間の事を忘れちゃったら……、多分、私は……」


「ありがとう、憂ちゃん。
私もね、実を言うと、軽音楽部に入部するかどうかは分からないんだ。
軽音楽部の皆さんは素敵だけど、それは傍に居ないと分かりにくい事だし、
実は私ってジャズ専門だから、軽音楽部よりジャズ研究会の方に入部しちゃうかもしれないしね。

でもね、私、思うんだ。
また憂ちゃんと一緒にセッションしたいな、って。
それも出来る事なら軽音楽部で、学園祭のライブでね」


「うん……!
それは私も……、私もだよ、梓ちゃん……!」


「だからね……!」


私は抱き締めていた憂ちゃんから少しだけ身体を離して、その両肩に手を置いた。
そうして、私の瞳に憂ちゃんの瞳に向けて、見つめ合う。
憂ちゃんの目尻は潤んでいたけど、かなり落ち着いて来てるみたいに見えた。
だから、私も安心して、憂ちゃんが私にくれた笑顔を見せられるんだ。


「私ね、どっちの部に入部する事になっても、ギターを頑張ろうと思うんだ!
まだまだ全然実力が足りないと思うけど、これからもっともっと努力する!
大勢の人を感動させたいなんてとても言えないけど、
せめて憂ちゃんにだけは感動してもらえるギタリストを目指すよ!

そうしたら、そうしたらね……!
私達がこの一週間の事を忘れちゃったって、憶えてなくたって、
私の演奏に感動した憂ちゃんが私の入った部に入部してくれるかもしれないし……!」


無茶な事を言ってる自覚はある。
憂ちゃん一人にだって感動させられる演奏なんて相当に難しいのも分かってる。
私の実力でそんな事が出来るかって不安も勿論ある。
だけど!
今のこの想いだけは否定したくないし、それが私の『お願い』にも繋がるから……!
私はこれからも精一杯、一生懸命に音楽を続けていこう……!

力を入れ過ぎた言葉だったかもしれない。
でも、憂ちゃんは自分の目尻から涙を拭うと、表情を緩めてくれた。
とても優しくて可愛らしい笑顔になってくれた。

「うん……!
私もその時が楽しみだよ、梓ちゃん……!
あ、でも……」


「でも……?」


「折角だし、私、梓ちゃんとは軽音部で一緒に演奏したいな。
梓ちゃん、律さんや澪さん達の事も気になってるよね?
だったら、やっぱり皆さんと梓ちゃんは同じ部になってほしいな。
同じ部で演奏してほしい。
きっととっても楽しいと思うよ……!」


「うーん、私もそうしたい気持ちは山々なんだけどね。
その辺は私と言うか、新入部員勧誘に頑張る軽音楽部の皆さん次第だよね。
ライブじゃなくていつもの活動を見せられたら、私が入部したくなるかどうか自信無いもん」


「あはっ、梓ちゃんったら」


「それと憂ちゃんも今のままの憂ちゃんで居てほしいな」


「今のままの私……?」


「さっき言ったでしょ?
私が憂ちゃんの『一生に一度のお願い』が正確には違うかも、
って思ったのは、憂ちゃんが憂ちゃんだからなんだって。
憂ちゃんには自覚が無いかもしれないけど、やっぱり憂ちゃんは優しい子だと思う。
憂ちゃんは絶対に優しい子だよ。それは私が保証する。
その優しさのおかげで私も頑張れたんだもん。

だからね、憂ちゃんにはそのままの憂ちゃんで居てほしいんだ。
こう言うのも変なんだけど、私って結構取っつきづらい所があるって思うんだよね。
もしも憂ちゃんと同じクラスになっても、私からはすぐに声を掛けられないかもしれない。

でも、心配はしてないんだよ。
憂ちゃんは優しくていい子だから、
入学してすぐには無理でもいつか気軽に話せるようになると思う。
憂ちゃんが憂ちゃんのままで居てくれたら、私はまた憂ちゃんと友達になれると思うんだ……!」


「私って……、そんなに優しいかな……?」


「勿論だよ!」


私が自信満々に言ってみせると、憂ちゃんが珍しく頬を赤く染めた。
ちょっと戸惑ったみたいに視線を彷徨わせてる。
照れてるんだ……、って思うと憂ちゃんにまた凄く親近感が湧き始めた。
この短い間に、私は今まであんまり見られなかった憂ちゃんの色んな一面を見られた。
泣き顔、楽しそうな笑顔、照れた顔……。
しっかりしてて優しくて完璧に見えてた憂ちゃんの歳相応の表情達。
私と同じ様に悩んだり悲しんだりもする、私と同じ学年の極普通の女の子の顔。
気が付けば、私は思いも寄らなかった言葉を口にしてしまっていた。

「自信を持って、憂!」


自然と意識せずに私は初めて呼んでいた。
『憂』って。
『憂ちゃん』じゃなくて、呼び捨てで『憂』って。
失礼かもと思う隙もなかった。
だって、今、私の目の前に居るのは、私と同い年の親しみやすい女の子。
完璧なだけじゃない可愛い女の子だったんだもん。
そう呼ぶのが自然なんだって、今更だけど呼んだ後に私は思った。


「……うんっ、ありがとう!」


気を悪くした風でもなく、憂ちゃんが笑ってくれた。
それは優しいだけじゃない、楽しそうな笑顔に見えた。
不意にポケットの中に入れていた腕時計に視線を向けてみる。
今日が終わるまで残り一時間強だった。
残り一時間強しかないけど……、でも、私は嬉しかった。
私達はこれまでも友達ではあった。
だけど、やっとこれまでよりももっと近い距離の友達になれた気がしたから。
親友になれた気がしたから。
私は憂ちゃん……、ううん、憂と笑顔を向け合うんだ。
残された時間を、二人で。






「あ、そうだ!」


今日が終わるまで残り十分くらいになった頃。
私は何となく思いついて、近くに落ちている尖った小石を二つ拾った。
うん、これなら丁度良さそう。


「その小石、どうするの?」


憂が首を傾げて私に訊ねる。
憂に小石を一つ渡してから、私はベンチから離れて公園の倉庫に向かった。
不思議そうな顔をしながらも、私に着いて来る憂。
倉庫のコンクリートの壁を確認すると、私は「いい事を思い付いたんだ」と憂に笑い掛けた。


「いい事……?」


「うん、記念に……ね」


言い様、私は小石の尖った部分を壁に突き立てると、ゆっくり動かし始める。
カリカリ、と小さな音を立てて、壁に線が刻まれていく。


「えっ、梓ちゃん、何してるの?
駄目だよ、見つかったら怒られちゃうよ?」


「大丈夫だよ、憂。
記念なんだし、こんな所の落書きなんて誰も気にしないって。
それに多分、適当な神様がすぐ消しちゃうと思うし」


「神様が……?」


まだ私のしようとしてる事が分かってないみたいに、憂がまた首を傾げる。
説明するより見てもらった方が早いかも。
そう思った私はとりあえず口を噤んで、壁の左側の方にゆっくりと文字を刻んでいく。



 ナ
 カ
 ノ
 ア
 ズ
 サ


縦書きで刻んだそのカタカナの文字はちょっと歪んでたけど、
憂はそれだけで私が何をしたいのか分かってくれたみたいだった。


「そっか……、記念なんだね、梓ちゃん」


「うん」


私が頷くと、憂も笑顔で私の右隣に自分の名前を刻んでいってくれた。
『ヒラサワウイ』って私に倣ってわざわざカタカナで。
律儀なのか真面目なのか、どうにも憂っぽくて何だか嬉しい。

これは記念。
そう、単なる記念だ。
倉庫の壁に文字を刻んだ所で、神様が残してくれるなんて思ってない。
適当な神様だけど、どうにかして目ざとく消してくれるはずだと思う。
もし適当な神様が消し忘れた所で、こんな落書きなんて、
この一週間を忘れた私達が見ても単なる悪戯としか思わないだろうしね。

でも、それでいいんだ。
これは壁じゃなくて私達の心に刻む記念だから。
この一週間、一緒に悩んで、一緒に頑張って来た証だから。
心に刻みたいお互いの名前だから。
だから、私はちょっと悪戯っぽく笑うんだ。


「うーん……、ちょっと字が小さかったかも」


「そう? 私は結構大きめだと思うんだけど……」


「どうせ消されちゃうんだし、折角だからもっと大きく書いちゃおうよ、憂」


「……うん。
それもそうだね」


「あ、でも……」


「何?」


「今度は私が憂の名前を書くよ。
憂は私の名前を書いてくれる?」


「うん、いいよ、梓ちゃん」

私の考えが分かっているのかどうかは分からないけど、憂は笑顔で頷いてくれた。
場所を入れ替えて、今度はお互いの名前を倉庫の壁と刻んでいく。
憂はもうすぐ私の事を忘れてしまう。
私も『ナビゲーター』を終えた後に憂の事を忘れてしまう。
きっとこの一週間の事を二度と思い出す事も無いんだろう。
それでも、私は心の何処かに小さくとでも刻んでみせたい。
不思議で奇妙なこの一週間の事を。
大切な親友の事を。




 ナ
 カ   
 ノ   ナ        ヒ
     カ    ヒ   ラ
 ア   ノ    ラ   サ
 ズ   ア    サ   ワ
 サ   ズ    ワ
     サ    ウ   ウ
          イ   イ




壁に、心に刻まれる二人の名前。
いつか再会した後、また二人で演奏出来るように。
未来に進むために。
私はこれからも頑張っていく。
どんなに才能が足りなくて自信が持てなくたって、
顔を上げて、胸を張って、音楽と一緒に生きていく。
いつかきっと、こんな風に二人で笑えるように。


此度はここまでです。
残り二回か三回で終わると思います。
長らくありがとうございました。

「憂」


「梓ちゃん」


不意に同時にお互いの名前を呼んでしまう私達。
さっきまで一時間以上話していたけど、その程度で満足出来るはずも無かった。
もっと話していたい。
お互いの事をもっともっとよく知り合いたい。
それが出来ない事なんて、勿論、二人ともよく分かってる。
だから、私は憂ちゃんに話さなきゃいけない事を優先して話さないといけない。
苦笑を浮かべ、軽く頷いてから私は続ける。


「じゃあ、私の方から話していい?」


「うん、梓ちゃんが先に話して」


「私の『お試しお願い』の事、憶えてる?」


「うん、憶えてるよ。
確か私と『同じ生活をしてみたい』ってお願いだったよね。
だから、梓ちゃんも石ころ帽子の状態になっちゃったんだもんね」


「あれ、嘘だったんだ」


「嘘?」


憂が不思議そうに首を傾げて、それに私は罪悪感と気恥ずかしさを感じる。
実を言うと、これを憂に伝えるのはかなり恥ずかしい。
一週間前の私と願望やちょっとした嫉妬が知られてしまうみたいで、続きの言葉を躊躇いそうになる。
でも、一週間前の私と今の私は違うから。
全然違う事を考えられるようになったから。
一度だけ深呼吸をして、私はもう一度、憂の瞳に視線を向けた。


「うん、嘘。
実はね、私の本当のお試しお願いは、
『憂と同じ生活をしてみたい』じゃなくて、
『憂の事をもっとよく知りたい』ってお願いだったんだ」


「私の事?」


「うん、そうだよ、憂の事。
初めて憂と会った時に思ったんだよね。
すっごくしっかりしてて優しい子だなあ、って。
どういう毎日を過ごして、どういう事を考えて生きてたら、憂みたいな子になれるのかなあ、って。

だから、もっと知りたかったんだ、憂の事を。
それでお試しお願いにしてみたんだよ。
『憂の事をもっとよく知りたい』って。
私はてっきりそのお願いで神様が私の部屋に憂の情報をまとめた資料を置いてくれるとか、
頭の中に憂の情報を直接流し込んだりしてくれるのかな、
って思ってたんだけど、そのお願いの結果は憂ももうよく知ってるよね」


「うん、神様が梓ちゃんに石ころ帽子を被せてくれたんだよね。
あれは梓ちゃんに私と『同じ生活』を経験させてあげるためじゃなくて……」


「そうすれば、私が憂と一緒に生活するようになる……、
そこまで分かってたのかどうかは微妙な所だけど、
どっちにしても私と憂が普通の状態の時よりは傍に居るようになる、って考えてたのかもね。
『相手の事を本当によく知りたいのなら、背中だけは押すけど後は自分の力で知ろうとしなさい』。
なんて、神様が私にそうお説教してたのかも」


「そうだったんだ……」

憂は少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。
ひょっとして、私が嘘を吐いてた事に幻滅しちゃったのかな?
ううん、憂がそんな子じゃないって事は、私ももうよく知ってる。
憂が悲しむのは私が変なお願いをする事じゃなくて、
私が自分の気持ちに嘘を吐く事だってよく分かってるから。
私は安心して憂の次の言葉を待てた。
十秒くらい経って、憂が小さく口を開いて続けてくれた。


「その『お試しお願い』は叶ったの?」


「うん、叶ったよ、憂。
自分で言うのも変だけど、単に憂の情報を資料にまとめてもらうより、
もっともっと、ずっとずっと憂の事をよく知れた気がするんだよね。
結果的に、凄くいい形で叶えられたと思うよ。
もう……、適当な神様のくせにこんな所だけはしっかりしてるんだから」


「よかった」


憂が微笑んでくれる。
私の『お試しお願い』がちゃんと叶ってた事を知って喜んでくれてる。
気が付くと私は憂と左手の指先を絡めていた。
もうすぐ来る別れの時間まで憂の体温を感じていたかったし、
憂にも私の体温を感じていてほしかったから。
真正面から憂と私が向き合う。
空いていた右手の方にも体温を感じる。
右手の方はいつの間にか憂の指先が絡められていた。
二人で指先を絡め合い、強く握り合う。

そうして微笑み合ってから、今度は憂が私に訪ねた。


「じゃあ、次は私の方の話をしてもいい?」


「うん」


頷きながら、時間的にこれが最後の話になるな、って私は感じていた。
憂だってきっと分かってる。
分かってて、憂は微笑みながら私に最後の質問を続けてくれる。


「梓ちゃんの『一生に一度のお願い』って、何なのか教えてもらってもいい?
これから『お願い』を叶える時にも、『お試しお願い』の時と同じで、
その『お願い』の内容を私が知ってる必要は無いから、もしも梓ちゃんがよければ……」


「勿論だよ、憂。
教えてあげる……って言うか、憂にも知っててもらいたいんだ。
この一週間、憂と一緒に過ごせて見つけられた『お願い』だもん。
やっと形に出来た私の『夢』なんだもん。
憂が知っててくれると……、嬉しいな」


「ありがとう、梓ちゃん。
教えて、梓ちゃんの『お願い』と『夢』。
梓ちゃんの叶えたい事、叶えようと思ってる事を……」


「すっごく小さな『お願い』だから、ちょっと恥ずかしいんだけどね……。
でも、憂だって自分の『お願い』をちゃんと教えてくれたんだもんね。
私も胸を張ってその『お願い』を憂に伝えるよ。
私の『一生に一度のお願い』……、それはね……」

私は躊躇わずにそのお願いを憂に伝え切った。
とても些細で馬鹿みたいだけど、自分の力で未来に繋げるための私の『お願い』。
何もかも忘れてたとしても、意外と単純な所もある私ならきっと……。

私の『一生い一度のお願い』を聞き終わった後、憂がまた笑った。
勿論、私を馬鹿にして笑ってるわけじゃなくて、
私の見つけられた『お願い』の本当の意味を分かってくれてる優しい微笑みで。
憂が私のおでこに自分のおでこを重ねる。
温かい体温を感じ合う。
指と指、手と手、おでことおでこ、想いと想いで、ここに居る自分達を感じ合う。


「素敵な『お願い』だね、梓ちゃん」


「そう……かな?
自分でも結構馬鹿みたいって思うんだけど、でも、これでいい気もしてるんだよね。
正直言うとね、憂の『お願い』はすっごく立派だって思った。
私も似た感じの『お願い』にしようかとも思ったよ。
でもね……、そうした方が逆に憂に失礼だし、
私が見つけた『お願い』でもない気がしたんだ。

だから、これがきっと私の一番の『お願い』。
これからもずっと頑張っていくための、『夢』っていう『約束』だと思う」


「『夢』っていう『約束』……。
うん……!
とっても素敵だよ、梓ちゃん……!」


「私、『約束』するよ、憂。
この一週間の事を思い出すのは多分、きっと無理だと思う。
それでもね、私、絶対、桜高に入学する!
桜高に入学して、音楽系のどれかの部に入って、
学園祭か新人勧誘かのライブで憂を感動させてあげる!
絶対絶対、感動させるんだから!
それで憂に思わせるんだ、『あの人と一緒に音楽したいな』って……!

流石に一年の頃は無理かもしれない。
ひょっとしたら高校生の間に憂を感動させられるのも無理かもしれない。
でも、私は諦めたくないし、諦めないよ。
高校生の時に駄目でも、大学に入っても社会人になっても音楽を続ける。
いつかきっと……、憂の感動する音楽を演奏してみせるから……。
その時は……!」


「うん……!
一緒にまた『ふわふわ時間(タイム)』の演奏をしようね……!」


憂の嬉しい言葉に心を躍らせながら、
私は『一生に一度のお願い』を強く思い始める。
憂が私のお願いを叶えようとしてくれてるのが感覚で分かる。
もう数秒後には私の『お願い』が叶えられて、憂が『チャンスシステム』の事を忘れ去る。
それでも、私達は焦らない。
悲しまない。
二人で笑って考えるのは、私達の未来の事。
未来、いつか必ず出会って、また二人で演奏出来る未来の事。
そのためにまず私達には言わなきゃいけない事がある。

「憂」


「梓ちゃん」


だから、私達は言うんだ。
最後にもう一度だけ強く両手を握り合って、
まずはほんの少しの別れのための言葉を。












「またね……!」








って。
二人とも心からの笑顔で。


短いですがきりもいいので今夜はここまでです。
後は残り二回くらいの後日談的な話になります。
最後までよろしくお願いします。






「ひゃんっ!」


桜高の校舎の廊下に可愛らしい叫び声が上がる。
叫んだのは長い黒髪が映える人……、澪さんだった。
ちなみに澪さんが叫んだ理由は、私が澪さんの耳に息を吹き掛けたからだったりする。


「急に何するんだよ、律っ!」


止める隙もなく、澪さんが少し先を歩いていた律さんの頭に拳骨を落とす。
「急に何って痛いっ!」って、これはまた可愛らしい律さんの呻き声が漏れた。
二人の間にはちょっと距離があるから澪さんも勘違いしないかな、
って思ってたんだけど、ちょっとくらいの距離なんて澪さんには関係無いみたいだった。
『耳を息を吹き掛ける人と言えば律』。
即座に頭の中でそう直結させてしまうくらい、
澪さんは律さんに耳に息を吹き掛けられて来たんだろうなあ……。


「耳に息吹くのやめろ、っていつも言ってるだろ」


「いやいや、私じゃないって……」


「こんな事するの、他に誰が居るって言うんんだよ」


「確かにそれはそうなんだけど……」


澪さんに言われた律さんが、頭を擦りながら周囲を見回す。
勿論、澪さんの一番近くに居たのは、私を除いては律さんだけだった。
不思議そうな表情になって、納得いかなそうに律さんが小さくぼやいた。


「あっれー……?
ひょっとして無意識の内に澪の耳に息を吹いてたとか……?
いやいや、いくら何でもそれは無い……と思いたいけど……」


「何をぶつぶつ言ってるんだよ、律。
ほら、教室に忘れ物を取りに行くんだろ?
あ、もう耳に息を吹くのはやめろよな」


「ほいほい」


痛そうに頭を擦りながらも、律さんが笑って応じる。
その表情には安心の色が多く含まれてる様に見えた。
律さんを置いて、でも、ゆっくりとした速度で教室に向かう澪さん。

「ま……、いいか。
澪も少しは元気になったみたいだしな」


澪さんに聞こえないようにそう呟いてから、律さんが澪さんを追い掛けていく。
すぐに肩を並べると、二人してもう笑顔になっていた。
ついさっき澪さんが律さんを叩いてたなんて思えないよね。
傍から見てるとちょっとハラハラするんだけど、その実は心配する必要なんて全然無い。
これが二人の信頼関係なんだよね。

澪さんも元気になったみたいでよかった。
さっきまでの軽音楽部の部室での澪さんは真っ白に燃え尽きてたもんね……。
学園祭のライブに燃え尽きたわけじゃなくて、ライブ後に転んじゃった事のせいで……。
講堂中の人達にパンツを見られちゃったわけだもん。
私だったらしばらく立ち直れないかも……。

でも、耳に息を吹き掛けられた事で、澪さんも少しは自分を取り戻せたみたい。
前回は律さんが憂に耳に息を吹き掛けられてたから、
ってそれだけの理由で今回は澪さんの耳に息を吹き掛けたんだけど、結果的によかったみたい。
それにしても、可愛かったなあ、澪さんの水色縞々パンツ。
澪さんのクールな外見のイメージにギャップがあって逆にそれがまた……。
って、いやいや、それはもう考えないようにするとして。

私は軽く一息吐いてから、待ってもらっていた人の方向に振り向いた。


「これで信じてもらえましたか?」


私が首を傾げて笑顔で訊ねてみると、
待ってもらっていた人……、桜高の一年生の人は小さく頷いてくれた。
その人は憂と出会った翌日、二人で桜高に初めて行った時に見た人だった。
『石ころ帽子』を被ってる状態の私達を何故か見ていたように見えた桜高の一年生。
もしかしたら、この人はあの時点で私達の姿が見えていたのかもしれない。
だって、この人が私の次の『対象者』なんだもん。
次の『対象者』だって事が決まってたから、私達の姿を前倒しの形で見えてたのかも。
そうだと考えてみても、また神様の適当さが見えて来る気がするから、微妙な感じなんだけどね。

昨日、『一生に一度のお願い』をお願いした次の瞬間、
気が付いた時には私はいつの間にか家のベッドの中に寝転んでいた。
いつの間にかパジャマに着替えさせられてて、
眠気も疲れも完全に無くなってて、それどころか夜が明けて朝になっていた。
眠らされた状態で神様に家に戻されたって事なんだと思う。
想像とてみるとちょっと怖いけど、それはそれで助かった。
私の『お願い』を叶えてもらった瞬間、深夜の肌寒い公園に、
私と過ごした一週間の事も『チャンスシステム』の事も全部忘れた憂と二人で残されても、どうしたらいいか分からないもん。
それにこの様子なら、憂も神様が無事に平沢家に送り届けてくれてるはずだと思う。

朝ごはんを食べて一息吐くと、私は自分の中に妙な感覚が生まれてる事に気付いた。
何処かに向かわなきゃいけない、っていう不思議な使命感。
不思議な感覚だったけど、それが私が『ナビゲーター』ってなったって事なんだってすぐに分かった。
向かわなきゃいけない何処か……、そこに次の『チャンスシステム』の『対象者』が居るんだって事も。
私は服を着替えた後、勝手に進む私の足に任せてその場所に向かう事にした。
『お願い』がちゃんと叶ってるのかどうかは気になったけど、それはやめておいた。
それを確かめるのは、この『ナビゲーター』の役割が終わってからにしようと決めてたから。
適当な神様だけど、『お願い』だけはちゃんと叶えてくれてるはずって安心感もあったしね。

そうして使命感の導くままに進んだ先に辿り着いたのは、一昨日まで何度も訪れてた桜高だった。
やっぱり神様って『ナビゲーター』の近所の人から、適当に次の『対象者』を選んでるんじゃ……。
ちょっと呆れながら軽音楽部の部室の皆さんの様子を見た後、
校舎の中を軽く歩いていて見つけたのが、この人だったってわけなんだよね。

横の髪を巻き毛にした無口な雰囲気の女子生徒。
ちょっと苦手なタイプの人だったけど、そんな事を言ってる場合じゃなかった。
『ナビゲーター』の役割を終わらせない事には憂との約束も果たせないし、
それ以上にちゃんと自分の意思で『ナビゲーター』を務め上げたいって気持ちもあったから。
憂に影響を与えたキャサリンさんみたいに……。
私のために一生懸命になってくれた憂みたいに……。
私も精一杯自分と誰かの『お願い』に向き合ってみせたいから……。

巻き毛の人は私服なのに誰にも見咎められてない私を少し不思議そうに見ながらも、
それ以上の事には特に興味無さそうに、急に声を掛けた私の話を聞き流すみたいにしていた。
ドッキリか何かと思ってるのか、それとも私の存在自体にあんまり興味が無いのか……。
ちょっと不安になって来たけど、巻き毛の人はとりあえずは私の最初の質問には答えてくれた。
私の最初の質問……、まずは名前と今叶えたいと思ってる『お願い』について。


『名前は若王子いちご。
叶えたい『お願い』は特に無いよ』


とても簡潔で素っ気無い答えだった。
『チャンスシステム』なんていきなり過ぎるし、まだ私の事なんか信じられないよね。
そう思って私は『石ころ帽子』の事を説明した後、
タイミングよく近くを通り掛かった澪さんの耳に息を吹き掛けてみたわけなんだけど……。
巻き毛の人……、若王子さんの様子はやっぱり全然変わらなかった。
頷いてくれたわけだし、私の話を信じてはくれたみたい。
でも、それ以上感じる事は特に何も無かったみたいだった。


「若王子さんは叶えたい『一生に一度のお願い』って無いんですか?」


「別に」


また訊ねてみても、返って来る言葉は素っ気無かった。
若王子さんが冷たいわけじゃなくて、本当に叶えたい『お願い』が無いんだと思う。
私の場合はあの子との事もあって音楽関係の『お願い』はあったけど、
他に叶えたい『一生に一度のお願い』があるかと聞かれたら、やっぱり迷っちゃうんじゃないのかな。
自分の『お願い』や『夢』に真剣に向き合うのは勇気が必要だから。
どうしても乗り越えられない壁にぶつかってしまう事が分かり切ってるから。
私達はそれくらいは分かってしまう年頃だから……。
だけど……。


「若王子さん」


私は自分の巻き毛を触っている若王子さんの手を握った。
突然の事なのに、若王子さんは嫌そうどころか興味を示した様子も無かった。
ただ視線を私の方に向けて、軽く首を傾げただけだった。
これは大変そうだなあ、って私はつい苦笑してしまう。
私にこの人の『ナビゲーター』を務められるのかな。
まずは若王子さん自身の『一生に一度のお願い』どころか、
私に少しでも興味を持ってもらう事から始めなきゃいけなさそうだし。
若王子さんと私の相性ってあんまりよくなさそうだしね……。

これから先の事に不安が湧いて来ないと言ったら嘘になる。
だけど、私は微笑んで、真剣な視線を若王子さんに向ける。
私は決めたから。
私と憂と『対象者』の若王子さんの『お願い』……、
『夢』と向き合う事を。
今度こそ逃げずに。


「今は特に無いかもしれません。
でも、今は無くても探してもらいたいな、って思います。
若王子さんの叶えたい『夢』を。
例えそれを見つけられなくても、例え叶えるには大きすぎる夢でも、
それを考える事には意味があるはずですから……、私はそう思いますから……!
あんまりお役に立てないかもしれませんけど、私もそのお手伝いをしますから!」






私の部屋の窓の外を枯れ葉が舞い落ち始めてる。
もうすっかり季節も秋になり始めたんだなあ、って感じる。
いよいよ受験シーズンも近付いて来たってわけなんだよね……。
内申点的には問題無いと思うんだけど、試験が失敗したら勿論落ちちゃうわけだからやっぱり少し不安。
そろそろ本腰を入れて受験勉強を始めなきゃいけない。
ただでさえ、最近は勉強が遅れがちなんだし……。

特に二週間分の勉強の遅れは痛かった。
どうしてなのか私自身にも全然分からないんだけど、
二学期に入ってすぐの頃の二週間分の授業の内容を全然覚えてないんだよね。
風邪で休んでたわけじゃないし、ちゃんと出席してた記憶もあるんだけど、
何故だかその二週間に授業で習ったはずの内容がどうしても思い出せない。
しっかり身を入れて授業を受けるようにしてたはずなのに、これは何でなのかなあ……。
ひょっとして、その間、私は宇宙人に誘拐されてて、
周りの人も含めて偽の記憶を埋め込まれてるとか……、は流石に無いよね。
いくらなんでも荒唐無稽過ぎるよね……。

実を言うと、思い当たる事は一つあったりもする。
それは夏休みに入る前、ずっと一緒に音楽の練習をやってたあの子の言葉。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの子は私にそう言った。
ずっと一緒に音楽を続けられると思っていたのに、
受験シーズンになっても変わらないと思ってたのに、それは叶わなかった。
私達は受験生で、音楽よりも勉強の方を優先させなきゃいけないのは確かで、
あの子の言ってる事は全然間違ってなくて、それが分かってるからこそ辛くて……。
あの日以来、私はあの子の事ばかり考えてた。
ギターを弾くのも止めて、あの子の誘いも断り続けてるくせに、あの子の事を考えてる。
だから、二学期が始まったばかりの頃の授業の内容を憶えてないのかもしれない。
夏休みが終わって久し振りに見たあの子の姿に戸惑ってしまって、授業に集中出来なかったのかもしれない。
今だってあの子の事を思い出すと胸が痛んでしまう。
強く強く痛んでしまう。

だけど、今、私は何故か手にムスタングを持っている。
胸に痛みを感じながらも、何故だか不思議な高揚感を感じてる。
弾いてるわけじゃない。
ただ手に持って重さを感じてるだけ。
それだけで私は何故か嬉しさまで感じちゃってるんだ。

きっかけはもう憶えてない。
単なる気紛れだったのかもしれない。
とにかく昨日、学校が終わって部屋に戻った私は、
何故か部屋の隅にあるギターケースに片付けていたムスタングに視線を向けてしまっていた。
押し入れの中に片付ける事も出来なかった私のムスタング。
見るのも嫌だったはずなのに、視界の中に入れないように努めていたはずなのに。


『久々にケースから出してみようかな』


その日の私は不思議とそう思っていた。
もしかしたら、弦も錆びてるかもしれないし……。
誰に向けてるのか分からない言い訳をしながら、
私は自分でもよく分からない胸の高鳴りを感じてムスタングのケースを開いた。
封印されていた私のギターを取り出した。

取り出してみて、正直、私はすっごく驚いた。
ギターケースの中のムスタングが新品みたいに磨かれていたからだ。
あの子との練習でかなり使い古してるはずなのに、
夏休み前からメンテナンスなんてしてないはずなのに、新品みたいにピカピカだったんだ。
少なくとも私はメンテナンスなんてしていないし、そもそもこんな技術だって無い。
ひょっとしたら、お父さんがやったのかな?
娘の部屋からギターの音が聴こえなくなって久しいから、気になってメンテナンスをしてくれたのかな?
お父さん、自分のギターこそボロボロなのに、私のギターをメンテナンスしてくれたの?
そんな技術なんて持ってたの?
こんな新品みたいに磨ける技術を?
って、本当にそうだとしたら、年頃の娘の部屋に勝手に入らないでよね……。

お父さんに確かめてみてもいいけど、私はそうするのはやめようと思った。
このピカピカのムスタングについてお父さんの方から話を切り出した事は無いって事は、訊かない方がいいって事なんだよね。
もしかしたら、お父さんがやったわけじゃないかもしれないしね。
それなら誰がやったのか確かめるのも怖いし……。

それでも、この新品みたいなムスタングを見るのは嬉しかった。
ただ新品みたいなだけじゃなくて、私が付けた傷をそのまま残していてくれたから。
単なる新品を買ってもらえるより、何倍も何十倍も嬉しく感じた。
我ながら単純だなあ、と思う。
でも、私の歩んで来た道をそのままに、心機一転で進めるような気がして来て、
過去の私と未来の私と今の私の姿が、そのままこのムスタングに込められてるみたいな気がしたんだ。
なんて、ちょっと気障過ぎる考え方かもしれないけどね。


「……うん!」


過去の私と未来の私。
そして、今の私。
全部の私と一緒に前に進むために……。
とても単純なきっかけだけど私は、もう迷うのは嫌だな、って強く思った。
ムスタングを持ったまま、携帯電話のメール機能を開く。
怖さと不安と切なさは勿論ある。
でも、それだけじゃきっと前には進めないから。
ピカピカのムスタングを見てると不思議と勇気が湧いてくるから……、
だから、私は勇気を出して、凄く久し振りにあの子へのメールを打ち始める事にしたんだ。


今夜はここまでです。
次かその次くらいで最終回になると思います。
これまでありがとうございました。






「もー、純ってば……」


「まあまあ、梓ちゃん。
純ちゃんにも用事があったんだからしょうがないよ」


秋口の風に吹かれながら私が嘆息がちに呟くと、
私と肩を並べて歩いていた憂が優しく純の弁護を始めた。
私の言葉を否定される形になっちゃったけど、私にはそれが嫌じゃなかった。
自分でも自覚がある事なんだけど、どうも私は一言多い性格みたいなんだよね。
気を付けなきゃ、と思いながら、本心とは逆に余計な事を言っちゃう事が多い。
だから、憂が私に軽口を言われた相手の弁護をしてくれるのは、すっごく助かるんだ。
特に純相手だと私の軽口がどんどん増えちゃうから余計にね。
純は私の軽口なんて全然気にしてないみたいなんだけど。


「憂も純を甘やかしちゃ駄目だって。
お小遣いの前借りの話を、何も当日に切り出さなくたっていいじゃない。
そんなの純のお母さんだって急過ぎて驚いちゃうでしょ。
今日は菫達がクラスの出し物の準備だからよかったけど……。
まったく……、純ってばいっつもやる事がギリギリなんだから……」


また純への軽口。
今度は憂も純の弁護をせずに、ただ微笑みを見せてくれた。
微笑んでくれたのは、私のいつの間にか笑顔になっていた事に気付いてくれたからだと思う。
純にはいつも困らせられる。
純が軽音部に入部する前からそうだったけど、
入部してくれてからはその奔放さに振り回される事がもっと多くなった。
でも、何でなんだろう?
私はそんな純が嫌いじゃないし、むしろ大切な親友だとも思ってるんだよね。
うーん……、二年間、唯先輩や律先輩に振り回される事に慣れちゃったからなのかも。
それを成長と呼ぶのかどうかは微妙な所だけど、純の事を素直に大切に思えるのは嬉しかった。
純は大切な私の親友で、大事な軽音部の後輩なんだから。
軽音部の先輩達がそうしてくれたように、私も親友や後輩をもっと大切にしたい。
そのためにも……。


「とにかく、早く純との待ち合わせ場所に行かないとね」


「そうだね、梓ちゃん。
純ちゃんが教えてくれた近道だと、この公園を横切ってすぐの場所のはずなんだけど……」


憂が純の書いてくれた地図に視線を下ろしながらまた微笑む。
その微笑みは苦笑いっぽく見えたけど、仕方が無いかな。
だって、純の書いてくれた学校から待ち合わせ場所までの地図、物凄く適当なんだもん。
固有名称も書かずに単に『公園』とか『駐車場』とかだけ書かれても、地元民以外には絶対分からないよ……。
『学祭に向けて楽器屋で最後の準備をしたい』ってやる気を見せてくれるのは嬉しいけど、
その最後の準備のための費用を当日の放課後まで用意せずに、
急いで帰ってお母さんに前借りするなんて純らしいと言うか何と言うか……。

だけど、意外としっかりしてる……のかな?
『お母さんに前借りしてくるから、梓達は安心して待ち合わせ場所で待ってて!』
そう言った純の顔に不安の色は全然無かったし、
適当な地図でも地元民の私達には分かりやすい地図だったし、
何より学祭をただ楽しみに待ってるって素振りが心強かった。
ずっとジャズ研のサバイバルな状況で鍛えられて来たからなのかもしれない。
軽音部での最初で最後の学祭ライブを目前にしても、純は普段通り飄々としてくれてるんだよね。
口には出さないけど、私を信頼してくれてる視線も向けてくれてるし……。
すっごく心強くて大切な私の親友の純……。

いい学祭にしたいな、って心の底から思う。
二年間軽音部を続けて進級して、新生軽音部で臨む学祭ライブ。
新生軽音部の最初の学祭ライブで、私の最後の学祭ライブ。
練習はしっかりして来た……って信じたい。
初心者混じりのメンバーとは思えないくらい、いい演奏も出来るようになった。
不安点と言えばボーカル初挑戦の私の歌声くらい。
歌がそんなに得意じゃないってのもあるけど、ギターを弾きながら歌う事って凄く難しいしね。
唯先輩や澪先輩、それにムギ先輩も凄かったんだなあ、って改めて実感させられる。
出来れば律先輩のメインボーカルも聴きたかったんだけど、それは欲張り過ぎかな。
ドラムを叩きながらのメインボーカルの難しさなんて、ギターを弾きながらでも苦戦してる私には想像も出来ないよ……。
とにかくそんな感じで、学祭ライブに対する不安点はとりあえず私の歌だけのはずだった。
一番の不安点が部長の私って現実がちょっと情けなくもあるけど、
それは信頼出来る部員が多かったから、っていい方向で考える事にすればいいだけだ。
だけど……、だけど、私は……。


「ふう……」


気が付けば大きな溜息。
学祭が嫌なわけじゃない。そんな事があるわけない。
最高のライブにしたいってやる気もあるし、後輩達にライブの楽しさを教えてあげたい気持ちもある。
でも、何度も経験した学祭ライブのはずなのに、私は緊張して震えてしまう事が多くなった。
学祭が近付くにつれてつの緊張と不安はどんどん大きくなった。
自分が部長だから……、だってずっと思ってた。
単なる責任感からの緊張のはずだって。

だけど、本当にそうなのかなって、この時期になって思い始めてる。
学祭の事を考えてないわけじゃないし、皆にも最高のライブを経験してもらいたいのは本心だ。
絶対に五人で素敵な学祭ライブをやってみせたい。
それでも、私の心は何か別の事に緊張してるみたいな不思議な感覚もあるんだよね。
その別の事が何なのか自分でも分からないけど、
まるで学祭よりずっと前から求めてた何かを目の前にしたみたいな……。

……ううん、駄目駄目。
今は学祭に集中しなくちゃ。
今の私にとって学祭ライブ以上に大切な事なんてあるはずないもん。
こんな姿を見せてたら、部員は勿論、憂にだって心配されちゃう。
だから、こんな不安なんて気のせいって事にして、しっかりしなくちゃ!


「学祭、頑張ろうね、憂!」


いきなり過ぎたかなとも思ったけど、私は自分に言い聞かせる意味もあってそう宣言した。
うん、頑張ろう。
皆のためにも、自分のためにも、それに憂のためにも、私は高校最後の学祭ライブを頑張るんだ。
それが私に出来る事だし、憂も不安な私の表情なんて見てたくないはずだって思うしね。
突然の宣言だったけど、純の思い付きの言葉に慣れてる憂なら笑って頷いてくれる。
私に笑顔を見せてくれる……。
そう思っての宣言だったのに、憂は……。
憂は……。


「う、うん、頑張らなくちゃ……ね……」


その歯切れの悪い言葉に驚いて、私は憂の顔の方向に視線を向ける。
純の適当な地図ばかり見ていて気付けなかった。
憂の顔が緊張に満ちた表情を見せている事に。
唯先輩の事以外で憂がそんな表情を見せるなんて、滅多に無い事だった。
よく見てみると、純の地図を持っている手も小刻みに震えているみたいだった。


「う、憂……?
どうしたの……?
何か嫌な事でもあったの……?」


訊ねていいのか分からなかったけど、私は気付けば訊ねてしまっていた。
それは部長としての責任感からでもあったけど、
親友として憂の異変を見逃したくないって気持ちも大きかった。

「嫌な事なんて何も無いよ、梓ちゃん……。
私ね……、学園祭が楽しみなんだ。
お姉ちゃんと同じ舞台に立てるなんてすっごく楽しみだし、
皆との演奏をお客さんに聴いてもらえるなんてとっても嬉しいんだよ」


まだ小刻みに震えながら、それでも憂は無理をして笑顔を見せてくれる。
学祭が楽しみだって言葉は嘘じゃないと思う。
部室での練習の際も憂は凄く楽しそうに皆と練習をしてた。
私もそれが嬉しくて、今まで以上のやる気を込めて練習が出来た。


「でもね、梓ちゃん……」


憂が無理のある笑顔で続ける。
多分、自分の中に膨れ上がる不安感に戸惑いながら、続けてくれる。


「私、ライブが近付いて来て、何だかとっても緊張して来たんだ……。
おかしいよね……?
楽しみなはずなのに、嬉しいはずなのに、
前にクリスマスにお姉ちゃんに聴いてもらった演奏の方が緊張してたはずなのに……。
しかもね、どうしてか分からないんだけど、ライブじゃない何かに緊張してる気もしてるんだ……」


憂も……?
そう思った一瞬、私は息を止めてしまっていた。
私は学祭が近付くにつれて、不思議な緊張が膨れ上がり始めている。
多分、学祭そのものとは違う何かに緊張してしまっている。
それが何なのかは分からないけど、言い様の無い緊張に駆られてしまっている。
変な例えだと思うけど、ずっと求めていた宝物を見つけた冒険家みたいな緊張に。

歩きながら憂は言葉を続ける。
緊張をどんどん膨らませてても、私達は歩みを止めるわけにもいかない。
だから、歩きながら私達は自分達の緊張を語る。


「あのね、梓ちゃん……。
変な事を言うみたいだけど、聞いてくれるかな……?」


「うん……、聞かせて、憂」


「私ね、最初、この緊張はライブが近付いてるからだと思ってたの。
初めての学園祭ライブだから、新しい軽音部でのライブだから、緊張してるんだって。
だからね、この緊張も皆と一緒ならすぐに気にならなくなる、って思ってたんだ。
だって、皆が居るんだもん。
皆と一緒なら、どんな緊張するライブだって怖くないもんね。

でもね、緊張は無くなるどころかどんどん大きくなってたの。
皆が一緒に居るのに、純ちゃんや梓ちゃんが一緒に居てくれてるのに。
学園祭の事を考えるとこんなに震えちゃうくらい、緊張し始めてたの。
不思議だよね、皆が一緒に居てくれてるのに……。

それでね、思ったんだよ。
もしかしたら、私は学園祭を緊張してるわけじゃないのかも、って。
心当たりがあるわけじゃないんだけど、そう思うと不思議と納得も出来るの。
学園祭のライブじゃなくて、もっともっと前から……、
それこそ高校に入学して梓ちゃんと友達になる前から求めてた何かを目の前にしてるみたいな……。
そんな不思議な感覚があるんだ……。

ごめんね、梓ちゃん。
急にこんな変な事を訊ねちゃって……。
でも、こんなよく分からない気持ちを抱えたままじゃ、皆に迷惑を掛けちゃうって思ったんだ……。
皆と一緒に素敵なライブを開催する事なんて出来ないって思ったんだ……。
ねえ、もしかしたらだけど、梓ちゃん……。
梓ちゃんも私と同じ不思議な緊張を感じたり……しない?」

憂は観察力のある子だ。
唯先輩だけじゃなく、私や純や菫達にも気を配ってくれてる子だ。
だから、憂も気付いてたんだろう、私も不思議な緊張を感じている事に。
多分、憂と同じ原因の感覚を。
それで憂は私に自分の奇妙な感覚を打ち明けてくれるつもりになったに違いない。

どう答えたらいいのかは分からなかった。
『気のせいだよ』なんて単なる気休めで何の解決もしないし、
『そうだよ』って言ってみても、二人で理由も分からない不安を共有してしまうだけだ。
だったら、私はどうしたらいいんだろう?
理由は分からないにしてもせめて二人で緊張を分かち合った方がいいんだろうか。

そうしていくつもの考えを抱いて、憂の表情を窺いながら歩いていると……。


「あっ、梓ちゃんっ……!」


「あだっ!」


憂の言葉に反応するより先に、私は左の脛に鈍痛を感じて妙な呻き声を上げてしまう。
そのままバランスを崩した私は、少し先の倉庫まで片足で倒れ込むように足を進めた。
倉庫の壁に手を付いて、私は左脛の鈍痛の原因を探してみる。
原因はすぐに見つかった。
ブランコの外柵だ。
憂の表情を窺いながら歩いていたせいで、ブランコの外柵に脛をぶつけてしまったらしい。
もう……、こんな大切な時に何をやってるのよ、私は……。
まあ、ちょっと痛かっただけで、傷にはなってなさそうだからそれはよかったんだけどね。
そう苦笑していると、憂が心配そうに駆け寄って来た。


「だ……、大丈夫?
ごめんね、梓ちゃん、私が変な話をしちゃったから……」


「いいよ、気にしないで、憂。
これは私の不注意なんだし、ちょっと痛かっただけだから心配しなくても大丈夫。
丁度、倉庫があったおかげで転ばずに済んだしね。
ギターを持ったまま転ぶなんて大惨事だし、それよりはずっといいでしょ?」


「それはそうなんだけど……」


「気にしない気にしない。
私も気にしてないから、憂もそんな顔しないでよ。
ほら、早く純との待ち合わせ場所に行っちゃおう?
そうしたら私達の……」


『私達の不思議な緊張感も少しは薄れるかもしれないから』。
その言葉を最後まで言う事は出来なかった。
私を転倒から救ってくれた倉庫の壁に妙な物を見つけたからだ。

「どうしたの、梓ちゃん?」


「いや、ちょっと壁に変な……」


「落書き?」


「うん」


頷いた後、私は憂と二人して壁に彫られた落書きに視線を向けた。
ううん、落書きには違いないんだけど、ちょっと変な落書きだった。
消された跡があるのに、中途半端に文字だけが残ってるみたいな感じかな?
公園の管理人なのか、善意の第三者なのか分からないけど、
この落書きを消した人って、よっぽど適当な人だったのかなあ。
中途半端に残したりなんかせずに、ちゃんと消せばいいのに……。
それくらい忙しい人だったって事でもあるんだろうか。

不意に。
私の胸の中に、何だか分からない不思議な気持ちが胸の中に湧き上がって来た。
どうしてなんだろう……?
さっきまでの緊張や不安が一気に何処かに行っちゃった感じがする。
この落書きの変さを気にしちゃったせいなのか、
落書きを消した人の適当さに呆れちゃったからなのか……。
ちょっと気になって振り返ってみると、
憂も私と同じで自分の感覚の理由が分からないみたいに首を傾げていた。
でも、その顔は素敵な笑顔だった。
いつの間にか私と憂は満面の笑顔を浮かべていた。


「何なんだろうね、この落書き……?」


「さあ……?」


微笑み合ってから、もう一度二人で落書きに視線を向ける。
適当な人が中途半端に消したらしい落書き。
そこに書かれていた文字は……。






  
     
     ナ         
              ラ

          ラ    
               
 サ         
               
               






「サナララだって、憂」


「サナララだね、梓ちゃん」


「まあ、元あった文章は違うんだろうけどね……」


「それはそうだと思うけど、でも……」


「でも?」


「何でかな?
すっごく綺麗な言葉って感じがするよ」


「落書きを消した人の適当さから生まれた言葉だけどね」


「あははっ、そうだね」


「でもね、憂、私も思うよ。
綺麗な言葉だなあ、って。
よく分からないんだけど、見てて落ち着く気もするし」


「梓ちゃんも?
実は私もなんだ。
さっきまであんなに緊張してたはずなのに、
すっごく不安だったはずなのに、どうしてなんだろう……?」


「うーん……。
理由がよく分からない不安だったから、よく分からない理由で解消されちゃったとか?」


「そうだね……。
そうかもしれないね、梓ちゃん」


「ねえ、憂」


「何、梓ちゃん?」


「さっき言ってたよね、私は学祭を緊張してるわけじゃないのかも、って。
学園祭のライブじゃなくて、もっともっと前から……、
高校に入学する前から求めてた何かを目の前にしてるみたいな……、って。

私もね、実は同じ事を考えてたんだ。
ずっとずっと前から、今度の学祭を待ち望んでた気がするの。
憂が言うみたいに高校に入る前から……、憂達と友達になるずっとずっと前から……。
もしかしたら、憂と私は憶えてないいつかに誰かと約束してたのかもね」


「約束……?」


「うん、約束。
それがいつなのか誰となのか憶えてないけど、約束した事だけは心の何処かで憶えてたんだよ。
今度の学祭ライブを今までのライブ以上に素敵にするって約束を。
それで不思議と緊張しちゃってたんじゃないかな、って何となく今思った。
勿論、単なる思い付きだけどね」


「そうなのかな……?
でも、そうだったら素敵だし、勿体無いよね」


「勿体無い……?」


「だって、それが誰かとした大切な約束なら、緊張してたら勿体無いって私は思うんだ。
折角、ずっと待ち望んでた約束の時なのに、緊張して自分の力を出せないなんて勿体無いよ。
だから……、私、頑張りたいな、今度の学園祭のライブ」

「『頑張りたいな、』じゃないでしょ、憂。
一緒に頑張ろうよ、皆と、私と。
それが約束を果たすって事だと思うしね」


「うん、そうだね。
一緒に頑張ろう、梓ちゃん。
それと私、一ついい事を思い付いたんだけど、聞いてくれる?」


「いいよ、何?」


「梓ちゃんがその約束をした誰か……、私って事にしない?
だって、私も梓ちゃんも誰かとの約束で緊張してたなんて、凄い偶然だよ?
だから、勿論そんな事は無いと思うけど、
いつか約束した二人は私達だったって事にしちゃおう?
その方が楽しんで学園祭のライブに臨めるって、私、そう思うんだ」


「憂も変な事考えるよね……。
でも、いいよね、それ。
うん、折角だし、そういう事にしちゃおう。
それなら緊張する必要なんて全然無くなるし、それにもしまた緊張して来たら……」


「『サナララ』……だよね?」


「うん、『サナララ』を合言葉にしちゃおう。
はっきり憶えてない約束と適当な偶然から生まれた『サナララ』って言葉。
不思議で何だか笑えちゃって、緊張なんか何処かに行っちゃいそうだしね」


「うん、不思議だね。不思議で素敵だよね。
不思議で素敵なライブにしたいよね、今度の学園祭。

……何だか私、またすぐに皆と練習したくなって来ちゃったな」


「私も、だよ、憂。
そのためにも純との待ち合わせ場所に急がなきゃね」


「……うんっ!」


私達は倉庫の壁の落書きにとりあえずの別れを告げて、二人で足を踏み出して行く。
公園にちょっと長居しちゃったから、純はきっと待ちくたびれているんじゃないかな。
私と憂はどちらともなくお互いの手を握って、気が付いた時には走り出していた。
緊張を忘れる事は出来ないだろうけど、今はその緊張がとても心地良い。

もうすぐ私達の高校最後の学園祭が始まる。
憶えてないいつか、誰かと待ち望んでたかもしれないライブ。
その約束の日、出来る限り最高の演奏をしてみせたい。

公園の中に秋の風が吹く。
肌寒さを感じ始める秋口の風。
だけど、私は風の肌寒さなんて感じない。
手のひらに憂の体温を。
心に思い出や約束を。
たくさんの大切な物を抱いて、前に進んで行ける気がするから。
だから、願わくは今度のライブが終わっても、皆や憂と大切な友達で居られるように——






——精一杯、皆と音楽を頑張っていこう!













         おしまい


これにて完結です。
長く掛かった上にミスも多少ありましたが、
それなりにまとまった作品に出来たのではないかと思います。
これまで長い間読んで頂けました皆様、ありがとうございました!

スレももう少し残っていると思いますので、何か疑問などあれば質問してくださいませ。

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