【男&女】本屋とバス停と男と女(45)


あれほど誇らしげに自らの存在を主張していた夏は、もうそのなりを潜めている。

まして今は夕暮れを過ぎ、空はすっかり藍色に染まった時間。

高校の制服の半袖のポロシャツでは、少し寒くさえ感じる。

通う学校からほど近い、住宅地へと上る坂の下にあるバス停で、俺は今日も帰りのバスを待っていた。

ほど近い…とはいっても学校から最寄りの停留所というわけではない。

俺は放課後、学校から歩いて10分程のところにある本屋でバイトをしている。

その本屋は親戚の伯母さんが経営する店で午後7時までの営業なのだが、伯母さんも中学生の息子と小学生の娘を持つ身。

五時を過ぎる頃には夕飯の支度をはじめ家事に追われる事になるから困っているという話を聞き、俺が自ら志願した。

店番を始めて解った事だが、その時間帯はちょうど仕事終わりのサラリーマンや学校帰りの学生達が立ち寄り、意外とよく売れる。

店を早い時間に閉めるわけにはいかないというのも納得のいくところだ。


毎日ほんの一時間半程のバイト、少々の時間のズレはあれど賃金は日に千円と決めている。

でも月に20日程度は従事しているわけで、高校生の経済事情からすれば結構馬鹿にならない収入だ。

正直、助かっている。

それともう一つ、このバイトの魅力を増す要素がある。

その要素とは決まって午後6時40分頃に店に寄り、閉店間際まで立ち読みをして過ごす女の子。

店からすぐ近くにある女子高の制服を着たその娘が来るのを、俺は密かに楽しみにしている。

実際に本を購入する事こそ稀だが、週に四日くらいは来ていると思う。

そしてどうやらその娘が店に寄るのは、バスの時間待ちのためらしい。


俺はいつもバイト後、店舗と繋がった伯母さんの家で夕食をご馳走になっていた。

しかし半月ほど前のある日、自宅の夕食が俺の好物だと聞かされていたから、夕食を食べずに伯母さんの店を出た。

すると、バス停にあったのは気になるあの娘の姿。

残念ながら乗るバスの路線は違うものだった。

でもその日から毎日、彼女が乗るバスが来るまでの五分間、俺の至福の時は延長される事となった。

そのかわりせっかく得たバイト代の一部が、夕食のパン代に消える事にもなったけれど。


そして今日もまた、幸せな五分間を過ごしている。

バス停には雨よけのシェルター屋根が設置されているものの、座るベンチなどは無い。

道に向かって背後となる側には地域のお知らせ事の貼り紙をするための古い掲示板があり、彼女はいつもバスが来るまでそれをぼんやりと眺めていた。

俺は身体を道の側に向けつつも、視線はちらちらと彼女を盗み見る。

ちょうど彼女の立つ位置から見ると俺の向こうに街路灯があるから、俺の姿はシルエット気味になっていて視線なんかはよく判らないはずだ。…たぶん。

焦げ茶色の通学バッグを両手で前に提げた立ち姿。

紺色のスカートは下品に短くされてなどいない、標準的な長さの清楚なものだ。

それがまた、いい。


二人の距離は1メートル程、手を伸ばせば触れられそうだけど伸ばすわけは無い。

時々彼女の方から風が吹き、少し甘いような彼女の髪の香りに鼻をくすぐられ、また幸せになる。

《…お待たせしました。○△行きです》

しかし、そんな想いを皮肉るように、彼女の乗るバスは停留所に着いてしまった。

彼女は振り返り、開いた自動ドアへ向かう。

そしてゆっくりと、でも軽やかに二段のステップを上がってドアのすぐ後ろの座席に座った。

バスが走り始める時、ちらりとこっちを見た気がする。

たぶんあの本屋の店番だという事には気付いているのだろう。


…また明日も会えますように。

俺は心の中で小さくそう願い、バスのテールランプを見送った。

程なく、今度は俺が乗るバスが停留所に滑り込んだ。

自動ドアが開く。それに向かって一歩踏み出した時、俺は足下のアスファルト上に何か落ちているのを見つける。

猫の足形をかたどった、フェルト生地縫いの小さなマスコット。

ボールチェーンのリングが外れて落ちたらしいそれに、俺は見覚えがあった。

彼女の持つ焦げ茶色の通学バッグにぶらさがっていたものだ。

それを拾い上げ、これは神がくれたチャンスかもしれないと考えた、その時。

《早く乗って下さい》

運転手にマイクで急かされてしまう。

俺は恥ずかしくなり、慌ててステップを駆け上がった。


その夜、俺は自分の部屋のベッドの上で悶々としていた。

もし明日、あの娘に逢えたらマスコットを返す事になる。

やっと『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』以外の言葉をかけられるということであり、初めて彼女の声を聞く事ができるという事。

…どんな声なんだろう?

たぶん、天使みたいなんだぜ?

マスコットが彼女の持ち物である事を俺が知っているのは、不自然かもしれない。

でももしそういう反応をされたとしても、落とすところを見たけど声を掛ける間が無かったとでも言えばいいだろう。

よし、今日はもう寝よう。早く来いこい明日の夕方、だ。

…すぐに寝付けるかは判らないけど。


《…おい》

「ん…?誰」

《起きろ。いや寝てていいんだけどよ》

「意味解らねえ事、言うな。誰だよ?真っ暗で見えねーぞ」

《俺が誰でもいいんだよ。お前、それより明日あの娘に話しかけるんだろ?》

「あ?…ああ、そのつもりだ」

《ビシッと決めろよ、その場で何か約束くらい取り付けるんだ》

「はぁ?無茶言うなよ」

《無茶じゃねーよ、好きなんだろ?》

「好きかどうかと、それが現実的か否かは別の話だろーが」

《なっさけねーな、とにかく次に繋げるんだぞ…!?》


翌朝、幸いの快晴の空。

これなら雨に祟られる事なく、バス停で会話できそうだ。

…しかし、なんか変な夢を見たな。

あの声は何なんだろう。無責任な事好き放題言いやがって。

…まあいい。あの出来事を知っているという事は、俺本人の潜在意識とかそういう何かだろう。

そりゃアイツの言う通りになれば、それに越した事は無い。

でもひとまずは焦らずに、今日は声が掛けられたらそれでいいんだ。


俺は少なからず動揺した。

今日も店に訪れたあの娘は、閉店間際に珍しく一冊の本を俺のいるレジに持って来た。

一瞬、ここでマスコットを返そうか…とポケットに手を伸ばした、その時。

俺は彼女が持って来た本のタイトルに目を奪われた。

『恋の育て方』

淡いピンク色の表紙には大きな字でそう書かれていた。

下部に巻かれた帯には『告白の仕方から初めてのデート、一周年記念日までのガイドブック。恋する乙女必携の一冊!』との推薦文。

彼女は、恋をしている。


「…あの?」

動きの止まった俺に、彼女は不思議そうに声を掛けた。

予想していた通りかそれ以上の可愛らしい天使の声だったが、俺の気持ちは喜びとは違う感情に支配されていた。

「あ、すみません。…600円頂戴いたします」

それでも俺はその感情を殺し、レジ打ちを済ませる。

彼女は通学バッグから折りたたみの財布を取り出し、千円札と百円玉を会計皿に置いた。

「500円のお返しでございます。ありがとうございました」

レシートとお釣りを会計皿に置いて、ビニール袋に入れた本を手渡した。


彼女はそれを受け取り、さっさと店を出る。

その後ろ姿がドアの向こうに見えなくなるまで目で追った後、俺はもう一度さっき頭に浮かんだ言葉を心の中で繰り返した。

彼女は、恋をしているんだ。

…いつかこの店に彼氏となった男を連れて訪れる事もあるのだろうか。

それは、それだけは見たくない。

もやもやと、心の中に暗い霧が立ち込める。

仕方ない、当たり前の事だ。できるだけその霧を晴らそうと、深呼吸をした。

「あのー、すみません」

ハッとして前を見ると、週刊誌をカウンターに置いたサラリーマンが怪訝にこっちを見ている。

「あ、失礼しました。…420円になります」

…今日は久しぶりに伯母さんの料理でもご馳走になって、時間をずらして帰る事にしよう。

そういえばマスコットを返しそびれたな。

遅くなるときっと渡し辛くなる。

でも、明日だ。心を落ち着けて、明日…渡す事にしよう。


《お前はアホか?アホなのか?》

「…また出やがったか」

《なんでマスコットを渡さない?なんで話しかけないんだよ》

「うるせー、お前に俺の気持ちが解ってたまるか」

《あの本か?…ハッ!ばっかじゃねーの?あんな本、年頃の女の子なら誰でも読むって》

「でも少なくとも目当てのヒトでも居ないと買わないだろ」

《それが自分だと思えばいいじゃねーか》

「お前こそアホかよ。どんだけポジティブシンキンなんだ?一目惚れされるような容姿はしてねえぞ」

《あー、とことん情けねえ。とにかく明日は絶対に話しかけろよ?本当、マスコットだって遅くなりゃ渡しにくくなるぞ?》

「解ってるよ、それは必ず返すから」

《信用できねーなあ…》


翌日の日中は恐ろしく長かった。

授業の内容はさっぱり頭に入って来ない。それはいつもか。

ずっと彼女の事を考え、どこの誰かも解らない想い人を呪うばかり。

どうか彼女が恋に破れますように、なんて女々しすぎる考えさえ出てくる始末だった。


それでも長い一日は過ぎて、やはり彼女の姿は店に現れた。

いつも通り20分ほどの立ち読みをして、閉店間際に店を出ようとした…その時。

彼女の歩みがドアの前で止まった。

その理由、実は解っている。俺の仕業だからだ。

ガラスのドアの内側にセロハンテープでボールチェーン部分を貼り付けた、あのマスコット。

その横に『落し物です』と手書きのメモも貼り付けておいた。

彼女はそれに手を伸ばし丁寧にセロハンテープごと剥がすと、俺のいるレジに寄ってきた。

「あの、これ私のなんです」

「え?ああ、そうですか。それは良かったです」

俺はすっとぼけて返事をする。

「ありがとうございました、持って帰りますね」

彼女は小さく笑ってからお辞儀をし、そして足早に店を出ていく。

俺は今日もその姿がドアの向こうに消えるまで目で追い、今度は他の客がレジに来ないかを気にしながら想いを馳せた。


正直、マスコットを取ったら何も言わずに帰るかな…と思っていたので、少し嬉しかった。

…やっぱり天使のような笑顔だったな。

近い将来、それは誰かのものになってしまうのかもしれないけれど。

でも少しだけふっきれたような気がする。

彼女は見た目通りの良い子だ。

きっと彼女が好きになった男も、それに見合うような人物に違いない。

だから見守っていればいいんじゃないか、ほんの少しだけでもそう思えた。


少し遅れてバス亭に着くと、予想通り彼女の姿はそこにあった。

いつものように地域の掲示板を眺め、可憐な横顔を見せている。

でもその日の五分間は、一昨日までとはちょっと違うものとなった。

「…あの」

俺は大して意気込む事もなく、彼女に声をかける。

少しでも諦めがついてしまえば、こんなにも心の持ちようは変わってくるものなんだな。

「さっきは、よかったよ。あの落し物」

「あ…、やっぱり。私の事、気付いてたんですね」

「うん、よく見かけるからね」


あれほど望んだ彼女との会話。

でも何だか、胸の奥がちくちくする。

彼女は掲示板から俺の方に向き直り、改めて「さっきはありがとうございました」とお辞儀をした。

「…いつもその掲示板見てるよね。何か特別な事、書いてある?」

「え?…いえ、見てるっていうか眺めてるだけで」

そう言われて恥ずかしくなったのだろうか、彼女は今度は俺と同じ車道の側に身体を向けた。


「あの…ごめんなさい、いつも立ち読みばかりして」

「ぜんぜん構わないよ。少しでもお客さんの姿が多い方が、他の人も店に入りやすいと思うしね」

「そんなものですか」

「たぶんだけどね。…それに昨日は本、買ってくれたし」

「え、覚えてるんですか…」

「何の本かは見ないようにしてるから、知らないけど」

彼女が僅かに気まずそうな表情をした気がして、俺は咄嗟に嘘をつく。

本当なら本のタイトルの事に触れて『好きな人がいるの?』とでも訊きたいところだった。

でもそれはこの場に限らず、店員としてやってはいけない事だと思ったから。


そして間もなく、彼女が乗るバスはやってきた。

俺はまたそのテールランプを見送ってから、彼女が眺めていた掲示板を確認してみた。

ああ、なるほど。

そこに貼られていたのはもうすぐの日付が書かれた、彼女の通う学校の文化祭のポスター。

これを見てたのか。

行ってみたいけど、男独りで女子高の文化祭なんて行けるわけがないな…。


《まじか、お前は本当にヘタレか》

「うるせえ。お前もう出てくんなよ」

《なんだあの『落し物です』って?あんな渡し方しかできないのかよ》

「いいんだよ、ちゃんと話はできたんだから」

《名前も訊かずに?ばっかじゃねーの、名前とメアドくらいすぐ訊ける雰囲気だったのに》

「俺はそうは思わなかったね」

《しかも挙句の果てには人の恋路まで邪魔しやがって…殴れるもんなら殴ってるぜ》

「はぁ?意味解らねえし」

《あのな、言っとくけど俺にはもうあんまり時間が無いんだよ》

「…?」

《こっちの彼女は結構積極的にモーションかけてくれたんだけどなぁ…。やっぱそっちはお前が頑張らなきゃダメなんだって》

「だーかーらー、意味が解らねえんだって」

《これ以上は言わない約束なんだよ。とにかくお前もっと気合入れてけよな!》


次の日もまた、バス停で彼女はいつも通りに掲示板を眺めていた。

俺が横に立ち、少しして。

…ピピッ、カシャッ

携帯のカメラの音…?

もしかして俺を撮ったのかと彼女を見るも、ぜんぜん違う。

俺とは反対方向に手を延ばしている。

そしてその後、彼女は俺に向き直って言葉を発した。

「あのね、私…もうすぐ引っ越すんです」

「え…!?」


しまった、少し驚き過ぎた。

でも本当に一瞬、気が遠くなりかけたから。

「…って、すぐ近くなんですけどね。両親が家を建てたから」

彼女に悟られぬよう、そっと安堵のため息をつく。

「でも、乗るバスの方向が逆になっちゃうから…バス停も向こう側になるんですよ」

道を挟んだ反対側、少しずれた所に反対行きのバス停があるのを指差して彼女は言った。

彼女の姿が遠目にしか見られなくなる事を思い、俺は少なからず寂しさを感じた。


「でも、店には来てくれるよね」

「はい。時間も少しずれるかもだけど、行くと思います」

「そっか、よかった」

精一杯だった。

その『よかった』には、意味を含ませたつもりだ。

でもそれ以上に意志を伝える事は出来ないまま。

だってそうだろう。彼女には好きな人がいるはずなのだから、これ以上に深入りすると傷も深くなる。

《…お待たせしました。○△行きです》

停留所には、彼女が乗るバスが着いた。

彼女はぺこりとお辞儀をして、バスのドアに向かう。


その時、脳裏に夢の中のアイツの声が過った。

『ばっかじゃねーの、名前とメアドくらいすぐ訊ける雰囲気だったのに』

…じゃあ、今日のこの五分間の雰囲気はどうだっただろう。

引っ越しをするなんていう、多少プライベートな事まで彼女は教えてくれた。

名前を訊いたとして、変に思われる事があるだろうか。

『言っとくけど俺にはもうあんまり時間が無いんだよ』

それは彼女の引っ越しと何か関係があるのか。

『とにかくお前もっと気合入れてけよな!』

もうステップに足を掛けた彼女の背中に向かい、俺は意を決した。


「あの…!俺、男っていうんだ!」

前触れもない、飾りもない自己紹介を無理矢理に投げる。

それでも彼女は優しく微笑んでくれた。

「…私は、女っていいます。男さん、また明日ね」

彼女が席に着くと同時に、バスが走り始める。

彼女はその時、小さく手を振ってくれた。

俺はバスのテールランプを見送りながら、つい今しがた知ったばかりの彼女の名前を、幾度となく思い返していた。


《うーん…まあ、頑張ったよ》

「…おう」

《明日はもっと、頑張ってみようぜ?》

「んー、保証はしかねる」

《いやいやいや…頼むよ、まじで》

「彼女、引っ越すらしいしなー」

《だからこそ、だよ。ちなみにそれはもう今週末の事だぞ?》

「なんで解るんだよ」

《こっちの彼女から聞いてるんだよ。つまりもう明日の金曜日しかねえんだ》

「あー、そういやあの娘…土曜日は来ないな」

《もうここまできたらお前に任せるけどよ…。ああ…どうしようかなー》

「何を?」


《言うなって言われてんだけどなー。もういいや、あのな…女はお前に気があるんだよ》

「また根拠もない事を…。だから一目惚れされるような面してないだろがよ」

《ふた月ほど前かなー。お前さ、本屋に来た婆さん覚えてる?》

「ん?…ああ、あの孫の絵本を探してた」

《そう!それよ!…で、お前お節介にも一生懸命探してやってたじゃん?》

「あれは婆さんの出すキーワードが難解だったからな。『ゴジラ』とか『料理の本』とか」

《そうそう、孫が欲しがってるって言ってたけどな。ゴジラが出てくる料理本で子供向けってなんだよそれ…って感じだった》

「結局、『おまえうまそうだな』だったけどな」


《で、それをあーでもないこーでもない…と世話を焼くお前を見てさ、いい人だと思ったらしいんだよ》

「まじかよ。そこまで理由づけされたら俺、信じちまうぞ」

《それからお前、暇な時にオススメ本のポップ作ってんじゃん?あれのチョイスもあの娘好みらしいぜ?》

「はー、なるほどねー」

《だから、告っちゃえよ。絶対上手くいくって。あー、これは話した事バレたら怒られるだろうな…》

「うーん…」

《何を迷ってんだよ、しっかりしろよ》

「いや、お前…意外といいやつだな」

《よせよ、今更過ぎるぜ》


金曜日、夢の中のアイツの言う事を信じれば、彼女がこっち側のバス停に立つ最後の日。

その日も秋晴れの気持ちいい一日だった。

普通に授業を受け、普通に居眠りをして、普通に怒られる。

そんな普通の一日の、放課後。

俺にとって普通ではない、特別な時間の始まりだ。

本屋の店番をしながら待つ、あの娘の姿。

やはり6時40分頃、店のガラス戸から愛しいあの娘は現れた。


「こんばんは、男さん」

「やあ、いらっしゃい」

名前を教えたからなのか、店に入る時に挨拶をしてくれた。

地味に嬉しい。

彼女は俺の作ったポップや手書きの売り上げランキング表をしげしげと見て、それからお決まりの文庫本の棚へ。

そして20分程して、いつも通りに彼女は店を出る。

本当ならこの後、俺は閉店時刻を3分ほど過ぎるのを待つ。

それからシャッターを下ろしたり表の立て看板を片付けたりするのだが、今日はバス停に急ぎたかった。


「伯母さーん。ごめん、今日はちょっと早目に帰るよー」

店の奥、伯母さんの自宅へ続く廊下の扉から、俺は少し大きな声で言った。

「あら、そうー。看板とかは片づけとくから、ありがとうね。気をつけてー」

台所にいるのであろう伯母さんの声が返ってくる。

俺はガラス扉に掛けてある『営業中』の札だけを『本日の営業は終了しました』に裏返し、足早に店を出た。


少し息を切らせてバス停に走る。

そしてあと50m程、彼女の姿が見えたところで足を止め、ゆっくりと歩きながら息を整えた。

「あれ?今日はちょっと早いんですね」

彼女は相変わらず掲示板の側を向いていたが、俺が来たのに気付くとこちら側に向き直った。

「ちょっとだけね」

「…よかった。私、こっち側のバス停に来るのは今日が最後なんです」

聞きながら、少し寂しくなった。

そして夢の中のアイツの言う事の信憑性が少し増したな…と考える。

…と、いう事は。この娘が俺に気があるってのも、満更ウソでもないのだろうか。


「…新しい家、楽しみじゃない?」

「それは…そうなんだけど」

彼女は来週から立つ事になる向かいのバス停を見ながら、ぽつりと言った。

「ちょっと、寂しいかな…」

「寂しい?」

「せっかく、男さんに名前も教えて貰ったのにな…って」

俺は予期せぬ言葉に内心、狼狽えた。

寂しいとは言っても、向かいのバス停になるだけ。しかも店では顔を会わせる。

なら、何が寂しい?

深読みすればこのバス停での五分間を、彼女も特別に思ってくれている…そうとれなくもない。

なんの気も無い、俺をたてるための言葉である可能性もあるけど。


「俺としても、寂しい…かな」

「本当ですか?」

「うん、本当」

でもこれは、いいんじゃないのか?

少なくとも『じゃあメアドや携帯番号教えてよ』って言っても、特に不自然ではないのではないだろうか。


でもどうしても、踏み切れない。

他に好きな人がいるなら、おそらく違う男に教えはしないだろう。

逆に教えて貰えなかった場合は、そういう事だと考えた方がいい。

だから、恐い。

彼女は黙って、車道の側を見ている。

何かを待っているような、何かを迷っているような横顔で。

しかしタイムリミットは訪れてしまった。

遠くに見えてきたあのヘッドライトは、彼女を乗せるバスに違いない。

ああ、俺って奴はやっぱり臆病で、煮え切らない男だ。

夢の中のアイツが怒るのも無理は無い。


その時、彼女はくるりと後ろを向いた。俺の方ではない、いつものあの掲示板の方を。

文化祭の事で何か気になる事でもあるのだろうか?

でも、なぜバスも迫ったこのタイミングで。

不思議に思って彼女の方を見ると、彼女が掲示板を見て居ない事に気付いた。

身体こそ掲示板を向いているが、視線は俺から見て向こう側。何も無い歩道の先を見ている。

ふと昨日の事を思い出す。

携帯のカメラで彼女は、今まさに見ている方向にある何を撮ったのか。


でもやはりそちらには何も見当たらない。

あるのは街路灯がつくる、少し長く伸びた二人の影だけ。

俺は車道を、彼女は掲示板側を向いているから、影は向き合うように寄り添っている。

その時、俺は『まさか』と思った。

そして顔を前に向けると、横目にそちらを見ながら首を少し頷いてみる。

俺の影が彼女の影を見つめるように。

少しして、彼女はそっと上を向いた。

それはちょうど二人の影が口づける仕草だった。


…そうか、オマエは。

俺は自らの両手を身体の前に持ち上げ、目の前の空気をそっと包む。

俺の影が、彼女の影を抱き締めた。

それを見ていた本当の彼女は、驚いたように振り返る。

俺は腕を降ろすと彼女に向き直り、その瞳を見て言った。

「俺、ずっと君を見てたんだ」

「男さん…」

「あの店でも、このバス停でも」

バスが停留所に滑り込む。

《…お待たせしました。○△行きです》

彼女にことわりもせず、俺は開いた自動ドアの中に向かって「すみません、次のバスに乗ります」と言った。


彼女は動かない。

すぐにバスは走り去っていった。

勇気を振り絞るなら、今この時をおいて他になど無いだろう。

「今度から、俺も向かいのバス停で君を見送ってもいい…かな」

彼女が小さく頷く。

「影の事、いつから…?」

「つい、さっきだよ」

本当の事だ。

それにちゃんとそう言っておかないと、アイツが怒られかねない。

彼女の背後に伸びる俺の影が、ニヤリと笑ったように思えた。

おしまいヴォッ

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