植木鉢と小瓶 (273)

〜 桜が舞い散る異界 〜

狐娘「……む?」

川沿いをのんびりと歩いていた狐娘はふと足を止めた。

男「……」

狐娘「……この場所に死体が流れ着くとは、珍しい事じゃな」

男「げほっ!」

狐娘「っ!?」

男「げほっ! げほっ!」

狐娘「ほう、まだ生きておるとは……どうしたものか」

しばし考えるように狐娘は首をかしげ、やがて何か思い立ったのか、両の手のひらを打ち鳴らした。

狐娘「大稲荷様の神域を死によって汚すわけにはいかぬ、者共出会え!」

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〜 屋敷 〜

男「……? ここは?」

狐娘「ほう、気がついたか」

男「少女……っ!?」

狐娘を見る男の瞳はうつろ。
しかし、みるみるうちに男の瞳に光がこもって来る。
そして突然、男は布団から素早く飛び起きた。

男「き、狐耳に尻尾だと!? 貴様、もののけのたぐいか!?」

狐娘「命の恩人に何を言うやら……これじゃから下等な種族は……」

男「い、命の恩人だと?」

狐娘「左様、川沿いに打ち上げられて死にかけていたお主をワシが助けたのじゃ。何か思い出さんか?」

男「……」

狐娘「ん? どうした?」

男「……おれは」

狐娘「?」

男「おれは誰だ?」

〜 数分後 〜

狐娘「なるほど、記憶喪失か」

男「……」

狐娘「何か思い出せる事は?」

男「……くろ……くろうど?」

狐娘「蔵人? 天皇の秘書官がどうした?」

男「……分からない」

狐娘「ふむ、しかし他に情報が無いとなると……そうじゃ」

男「?」

狐娘「お主の名前は今から蔵人じゃ、いいな?」

蔵人「なんで? って、もう名前欄が変わってる!?」

狐娘「何度も口に出しておれば、いずれは思い出せるやも知れぬという配慮じゃ。……それと」

蔵人「?」

桜守「ワシの事は桜守様と言うがいい」

蔵人「さくらのかみ?」

桜守「うむ、ここには稲荷大明神様の侍従である狐娘たちが大量におる。狐娘では紛らわしい」

蔵人「わかった、よろしくな桜守」

桜守「……よろしく? それに呼び捨てとな? 勘違いするな、ワシは従三位の高貴な存在じゃ。
こうやって話しておるのもただ珍しい獣に興味が湧いただけのこと。
どこの馬の骨とも知れぬ行き倒れと、仲良くするつもりはない」

蔵人「き、きついなぁ……」

桜守「わかったか?」

蔵人「うーん、わかった。けど……」

桜守「?」

蔵人「感謝するのは別に良いよな? ありがとう桜守」

桜守「っ!」

蔵人「うん? どうかしたか?」

桜守「……ちゃんと様を付けんか、バカめ」

ぷいっ、と桜守は逃げるようにそっぽを向いた。

〜 一週間後 〜

狐娘1「こんにちは」
狐娘2「こんにちは」
蔵人「はい、こんにちは。今日も良い天気だな」

狐娘3「ええ、ここはいつでも快晴ですよ。まれに霧雨に煙る事はありますが」

狐娘4「ところで、今日はいったい何を?」

蔵人「いや、居候の分際でゴロゴロしてたらバチが当たると思ってね、近くの畑仕事を手伝って来た」

狐娘5「まあ! それは助かります、ここは圧倒的に男手が足りていませんから」

蔵人「というか、なんで男がいないの?」

狐娘7「稲荷大明神様は女神ですので、男性を近くに侍らせると問題が起きるやも、と」

蔵人「……オレはいいの?」

狐娘8「はい、稲荷大明神様は数奇な『縁』を好みます。その点、蔵人様は行き倒れという珍しい客人。
現在、稲荷大明神様は不在ですが、そんな数奇な巡り合わせを無断で追い返したりしたら、さぞや残念がる事は目に見えております」

狐娘9「ですので、蔵人様には稲荷大明神様が帰宅なされるまで、私たちが丁重におもてなしさせて頂きます」

蔵人「なるほど、それはありがたい事だ」

狐娘10「ちなみに、ここの娘たちは彼氏持ちが大半ですよ?」

蔵人「あちゃー、そりゃ残念」

狐娘たち「うふふふふ」
蔵人「わははははは」

桜守「……」

蔵人「うおっ!? 桜守!」

桜守「随分と楽しそうじゃな?」

蔵人「あ、あはは……畑で大根もらったけど、いる?」

桜守「いらぬわバカ! お前たちもさっさと持ち場に戻れ!」

狐娘たち「……はーい」

桜守「ふんっ」

不機嫌そうに唇を尖らした桜守は蔵人たちに背中を向け、すたすたと歩み去って行った。

狐娘1「あー、こわいこわい」
狐娘2「アレだから桜守は……」

蔵人「アイツ、なんか嫌われてる?」

狐娘3「嫌われてるもなにも、侍従たちの天敵ですよ」
狐娘4「他人に厳しく自分に甘い」
狐娘5「目上にはペコペコして目下には図々しく」
狐娘6「そのくせ、巨悪にも染まれないから無駄にウザったるい」
狐娘7「小心者のくせに威張り散らすから、たまに睨み返されてビクッってなっちゃうし」
狐娘8「なんというか、器が小さい?」
狐娘9「要は、お金と権力だけが友達の嫌われ者の代名詞ですね」
狐娘10「蔵人様も、あんなのの屋敷にいたら変な目で見られるかも知れませんよ?」

蔵人「す、すごい嫌われようだな……」

狐娘1「そうですよ、嫌われてるんです」
狐娘2「他人の手柄を横取りするし……」
狐娘3「他人に失敗を押し付けるし……」

蔵人「あ、あはは……」

その後、延々と続く桜守への愚痴を、蔵人はただ苦笑いで聞くしかなかった。

〜 夜の屋敷、居間 〜

蔵人「ちょっといいか?」

桜守「なんじゃ? 急に」

蔵人「いや、桜守はなんでオレを助けてくれたのかな、て」

桜守「……稲荷大明神様は数奇な巡り合わせを好むからじゃ」

蔵人「目上のご機嫌取りの道具にするためオレを助けたと?」

桜守「そうじゃ」

蔵人「……」

桜守「ん? ワシに失望したか?」

蔵人「……いや、思惑はどうあれ、命の恩人に代わりはない。ありがとう桜守」

桜守「……」

蔵人の言葉を予期していなかったのか、ぽかんと桜守は口を開けて固まった。

蔵人「……どうした?」

桜守「な、バ、バカ! ワシはお主を利用すると認めたのじゃぞ? なぜ感謝する!?」

蔵人「助けてくれた相手に感謝するのは当然だろ?」

桜守「ウソじゃ! ワシをからかう気じゃな!?」

蔵人「なっ! 何を言うんだ!」

桜守「声を荒げた! やっぱりウソじゃった!」

蔵人「それはお前が変な難癖を付けてきたからだろうが!」

桜守「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」

桜守は両手を耳に当て、叫びながら居間から走り去って行った。

蔵人「な、なんだよ……アイツ」

桜守の奇行に、蔵人は訝しむように眉をひそめたのだった。

〜 翌日 〜

蔵人「……ん、朝か」

蔵人は布団の中で、まばゆい朝の日差しに目を細めた。

お手伝い「あら? おはようございます」

蔵人「おはよう。桜守は?」

お手伝い「すでに屋敷を出立しました、もう昇殿した頃でしょうか?」

蔵人「わかった、ありがとう」

桜守は何気に偉い奴……というか偉い奴が名乗れる役職名だった。
稲荷大明神の領域であるこの常春の村には様々な役職と位階があるが、桜守は桜の木の統括保全という役目を与えられた者が名乗れる名前で、位は従三位。
稲荷大明神の名において任命されるその位は他の種族間においても有効らしく、人間においての有力貴族や国主と同等の権威を持つ……らしい。

蔵人「……まあ、領地や私兵を持たないから、名ばかりな気もするが……」

お手伝い「……?」

蔵人「いや、何でもないよ、独り言」

お手伝い「そうですか、それで蔵人様、今日の予定は?」

蔵人「そうだな……近くの湖で釣りでもするかな」

お手伝い「それでは、いつもより大きな鍋を用意して待ってますね」

蔵人「ああ、大漁を期待しておいてくれ」

蔵人は右手を自分の目の前にかざし、大仰なガッツポーズをとった。

〜 湖 〜

蔵人「とは言ったものの、小魚しか釣れん」

蔵人はため息をついた。

蔵人「大物の魚影がチラチラ見えているんだが、食い付く素振りも見せないのはなぁ、……エサが悪いのかね?」

蔵人は釣り針を引き上げ、朝の残飯の欠片をまじまじと見つめる。
だがその時、ふと視界に奇妙なものが映った。

幼狐娘「ん〜」

蔵人「……?」

幼狐娘「ん〜」

幼ない狐娘が、シッポを垂らして釣りをしていた。

蔵人「おーい、釣れてるかー?」

蔵人は釣竿を片手に、幼狐娘の元に歩み寄った。

幼狐娘「あっ、蔵人様!」

蔵人「ここの釣り方は変わってるな、シッポを使うのか?」

幼狐娘「いえ、その、これは……」

蔵人「ん?」

幼狐娘「昔話にあるから釣れるかな、って」

蔵人「はは、それは無理だよ。せめて釣り針くらいは付けないと」

幼狐娘「そ、そうですよね」

幼狐娘は顔を赤くしてうつむいた。

蔵人「ところで、釣りが好きなのか? 何なら釣竿を貸すけど」

幼狐娘「いえ、好きというか、なんというか……」

猫「にゃーん」

幼狐娘「ああっ! 出て来ちゃダメ!」

蔵人「ネコ?」

幼狐娘「あ、あうぅ……」

〜 数分後 〜

蔵人「……つまり、内緒で野良猫を拾ったけど、誰にも言えないから自分で食料調達に来たと」

幼狐娘「はい、私はまだまだ見習いの身の上でして、野良猫を飼いたいとはとても厚かましくて言い出せず」

ネコ「にゃーん」

幼狐娘「ど、どうかこの事はご内密に!」

蔵人「うーん、でもオレが言わなくてもいつかはバレるよ? 隠さずに自分から言った方が良い」

幼狐娘「それは……」

蔵人「もし反対されたら……と思ってるんだね?
でも、こういうのを内緒にするのは仲間を知らずの内に裏切ってるのと変わらないよ?」

幼狐娘「……」

蔵人「生き物を飼うのは難しい事なんだ。それに君が見習いならやる事も多いはず。
他人に言いだせない程度の覚悟しかないなら、やがてはこの子から愛着も感じ無くなり、世話も面倒になる。そうなったら捨てるしかない。
今はまだ拾ったばかりで、野山に放り出してもこの子は立ち直れるだろうけど、長く飼うにつれて野性は失われる。
早くに決めた方がいい。……わかるね?」

優しく、親が子供に言い聞かせるように蔵人は言葉を紡いでいく。
そして、しばらくの無言の後、幼狐娘は小さくうなずいた。

幼狐娘「……はい、帰ってみんなに話してみます」

蔵人「うん、それがいい」

幼狐娘「色々と、ありがとうございました」

蔵人「ああ、待って……これを」

幼狐娘「……このビツは?」

蔵人「小魚しか入ってないけど、その子のご飯にはなるはずだよ。
それと説得、がんばってな」

幼狐娘「……はい!」

幼狐娘は蔵人に一礼して背中を向け、少し走った所で再び振り返って一礼した。
そのまま遠ざかっていく幼狐娘を見ながら、残された蔵人はポツリとつぶやいた。

蔵人「さて、とうとう夕飯が寂しいものになるな」

魚を入れるビクも無し。
大物を片手に帰宅という夢を描いて、釣り針を湖に垂らす。

やがて日も暮れるが、釣り針はピクリとも動く事は無かった。

〜 翌日、湖 〜

蔵人「ふう」

無駄に大きな鍋で質素な青菜煮を食べるというハメになった昨日の屈辱を晴らすため、蔵人は再び湖を訪れていた。

蔵人「さて、今日こそは大物を釣るとしようか」

幼狐娘「蔵人様ーっ!」

蔵人「おや? 昨日の幼狐娘じゃないか、野良猫はどうしたんだい?」

幼狐娘「あっ、その節はありがとうございました!
おかげさまで、猫を飼ってよしとお許しも頂けました!」

蔵人「それは良かった……で、何を急いでるんだ?」

幼狐娘「は、はい! 猫ちゃん、朝からどこかに行っちゃって……ずっと探してるんですよ」

蔵人「ほう、ならオレも手伝おう」

幼狐娘「え? いいんですか?」

蔵人「湖の波紋を数えている暇人なんだ、使ってくれた方がありがたい」

幼狐娘「クスッ、なら是非ともお願いします」

蔵人「おう! 任せておけ!」

蔵人は釣竿をその場に固定し、腕まくりをして答えた。

蔵人「見つからないな」

幼狐娘「はうぅ……どこに行ってしまったのでしょう?」

蔵人「しゃあない、手分けして探すか」

幼狐娘「は、はい! それでは、私は村の南から見て来ますね」

蔵人「なら、オレは北からか」

村は南に畑があり、西に湖や森や川などの自然、東に家屋が並ぶ。
そして北は稲荷大明神の御所があって、巫女服を着た狐娘たちが忙しく政務をこなしており、さながら繁盛している神社のような風情となっている。
そんな忙しい所に一人でぶらぶらと出かけて良いかと一瞬だけ考えるが、見習いである幼狐娘を向かわせるとなると客人の蔵人よりも嫌味を言われるのは目に見える。
蔵人が行く方が適任だろう。

蔵人「それじゃ、待ち合わせはどこにする?」

幼狐娘「はい、それでは村の中央の『一つ桜』で」

一つ桜とはその名の通り、一つだけ生えている巨大な桜である。
目印には丁度よいと蔵人はうなずき、答えた。

蔵人「なら、一通り探し終わったらそこに集合な。じゃ、行ってくる」

幼狐娘「はい、ありがとうございます!」

北に歩を向ける蔵人に、幼狐娘が深々と頭を下げた。

こうして、二人は別々になって野良猫を探し始めた。

〜 稲荷御所、庭 〜

蔵人「さて、あまり目立ちたくないなぁ」

桜守「お主、何をしておる?」

蔵人「うげっ、桜守」

桜守「なっ!? 人を見ての第一声が『うげっ』とは何事じゃ!」

蔵人「あ、ああ、ごめん。つい……」

桜守「ふんっ! どうせぶらぶらとしておる所に嫌味でも言われると身構えておったのじゃろう、このたわけ者め!」

蔵人「おっしゃる通りです……」

桜守「よし! 望み通りにワシがねちねちと嫌味を言ってやろう!」

蔵人「いえっ! 結構ッス!」

桜守「よいよい遠慮するな。……二度と舐めた口を聞けない位に叩きのめしてやるわい。そこに座れ!」

蔵人「……はい」

蔵人はしぶしぶ、その場に正座した。

〜 数分後 〜

桜守「……じゃから、お主はダメなのじゃ」

蔵人「はい……」

桜守「その上、命の恩人であるワシに対して口の聞き方もなっておらんし、つまりお主は目上を敬うという事が……」

ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち……

蔵人「……」

〜 十数分後 〜

桜守「まったく、お主はまったく……」

蔵人「あの……」

桜守「なんじゃ?」

蔵人「足が痛くなってきたから、ちょっと崩し」
桜守「却下じゃ」

桜守が蔵人の言葉をぴしゃりと遮った。

蔵人「……」

桜守「そもそも、反省しておるならばその様な痛みなぞ……」

ねばっこい嫌味は延々と続く。

〜 三十分後 〜

桜守「ケチの付け始めはその品行足らずな口の聞き方で……」

蔵人「……」

まだまだ止まる兆しを見せないガミガミ話に、蔵人は頭を下げてこっそりと嘆息した。
なぜなら、話す桜守は疲れるどころか興が乗ってきたようにイキイキとしていたからである。

──本当にイヤな性格なんだなぁ、コイツ。

狐娘たちに嫌われるのも無理は無いかもしれない。
蔵人はうんざりと、実感していた。

その時だった。

狐娘「た、大変です! 桜守様!」

巫女服の狐娘がシッポを揺らしながら庭に飛び込んできた。

桜守「む? なんじゃ慌てて?」

狐娘「そ、それが『一つ桜』に登っている娘がいるようでして……」

桜守「な、なんじゃと!?」

狐娘の言葉に、桜守は大きく目を剥いた。
その異様な驚きようを見た蔵人は不思議に思い、小首をかしげた。

蔵人「どうした? 何か問題があるのか?」

桜守「大アリじゃ! 『一つ桜』は稲荷大明神様の大のお気に入り! 万が一にも傷をつけたとなれば、その責は桜守であるこのワシが……」

そう言い、桜守は拳を握りしめてワナワナと震えだした。

桜守「ええい、こうしてはおられん! お前も早くついてこい!」

狐娘「は、はい!」

蔵人「ちょっ、おい!」

蔵人は声を上げるが、桜守たちはそれを無視して走り去って行った。

蔵人「……くっ、足がしびれて……」

それから遅れて一分後。
やっとこさ立てるようになった蔵人は桜守を追って走りだした。

〜 一つ桜 〜

桜守「早く降りて来んかー!」

蔵人「おーい! どんな感じだー!」

騒がしくなった広場に、蔵人が遅れて到着する。
すると、近くの狐娘が慌てて近づいてきた。

狐娘「あ、あぁぁ蔵人様……あそこに幼い娘が……」

蔵人「どれどれ……」

幼狐娘「ふえぇ……」

蔵人「……」

呆然と数秒、はっと我に返った蔵人は桜の木のうえにいる幼狐娘に向かって大声で叫んだ。

蔵人「な、なにをしてるんだお前はっ!?」

幼狐娘「ね、猫ちゃんが……猫ちゃんがいたんです……」

猫「にゃーん」

しかし、猫の鳴き声は足下から。
蔵人が見てみると、探していたはずの猫が桜の木の前でお座りのポーズを取り、幼狐娘を見上げていた。

蔵人「……猫はここにいるんだが」

幼狐娘「そ、そうなんです……でも、少し前は桜の木の上にいて……降りられなくなっちゃったと私が勘違いして……」

蔵人「助けに登ってみたけど、猫は楽々と降り、自分だけ降りられなくなった……と?」

幼狐娘「は、はいぃ……」

蔵人「……はぁ」

蔵人は片手を顔に当て、疲れたように深く息を吐き出した。

桜守「バカか! 貴様はッ!」

話を聞いていた桜守が突然大声を上げた。

桜守「この『一つ桜』は稲荷大明神様のお気に入りの桜じゃぞ! 猫なんぞを登らせた挙げ句、それを追って自分まで桜に登ったじゃと!? 貴様は自分のしでかした事の重大さを分かっておるのかッ!!」

憤怒の表情で桜守が幼狐娘を恫喝した。
その顔は怒りで火が出そうな程に赤くなっている。

幼狐娘「ふ、ふえぇ……降りたくても、怖くて降りられないんですぅ」

桜守「いいから飛び降りよ! 早く!」

蔵人「お、おい! ちょっと待て! 関所の簡単な櫓(やぐら)より高い位置だ、飛び降りたら骨折しちまう!」

皆が見上げている幼狐娘の位置は高く、十メートル近くある。
下は固い地面、もし飛び降りて打ち所が悪ければ、重傷も負いかねない。
そう考えての蔵人の制止だったが、返ってきた桜守の言葉はあまりに非情なものだった。

桜守「ふんっ! 骨折がどうした! いっそのこと首の骨でも折れてしまえ!」

蔵人「……っ!」

蔵人は驚いて息を詰まらせた。
いや、蔵人だけではない。
周囲の狐娘たちでさえ桜守の言葉に驚き、皆が目を剥いて桜守を見ていた。
そして、その目が次第に失望と蔑視と嫌悪を混ぜた視線、汚らわしいものを見るそれに変わって行った。

桜守「な、なんじゃ!? ワシは桜の木の保全を任されておる! こと桜の木においてはワシが……」
蔵人「いいから黙ってろ」

周囲の視線に言い訳がましく言葉を紡ごうとする桜守を、蔵人は静かな、怒りで底冷えする声で断ち切った。

桜守「うっ……」

桜守は口を閉じ、おずおずと引き下がる。
強い意思も持たず、自己の保身しか考えてない者のこざかしい匂い。
桜守にそれを感じ取った蔵人は桜守を眼中から切り捨てると、一つ桜に一歩近づいた。

桜守「な、なにをする気じゃ!」

無視。
そのまま一つ桜へと両手を伸ばし、太い幹に足を掛ける。

蔵人「よっと」

狐娘たち「蔵人様!?」

蔵人「ちょっと助けに行って来る」

桜守「ワ、ワシを無視するでな……なにぃーッ!?」

桜守「こ、こらーッ!」

わたわたと桜守が両手をバタつかせて蔵人を制止しようとする。
だが桜守の体躯は十代前半の少女と比べてみても、なお小柄である。
すでに蔵人は桜守の手の届かない高さまで、桜の木を一息に駆け登っていた。

桜守「く……さ、桜を傷めるでないぞ!」

自分が追いかけて行くわけにも行かず、桜守は頭上の蔵人に怒声を飛ばす事しか出来なかった。

〜 桜の木の上 〜

蔵人「おい! 大丈夫か!」

幼狐娘「ああ! 蔵人様!」

蔵人「動くな動くな、ちょっと待て」

大人の腕ほどの太さがある枝の上で、幼狐娘が振り返ろうとする。
蔵人はそれを一声かけて押し留め、状況を確認した。

蔵人「オレがそっちに行ったら枝が折れそうだが……ん? いや、少し下の枝はまだ頑丈そうだな」

幼狐娘「ふえぇ……」

蔵人「よし、オレが下から支えるからゆっくり降りてこい」

幼狐娘「お、降りるんですか……?」

蔵人「ああ、必ず受けとめてやるから安心しろ」

幼狐娘の下の枝にてスタンバる蔵人が力強い声で答える。
幼狐娘は僅かな逡巡の後、おどおどと首を縦に上下させた。

蔵人「さ、下りて来るんだ」

幼狐娘「……あう」

幼狐娘が体をずらし、足から下りてくる。
蔵人は両手を高く上げ、幼狐娘の腰を掴んだ。

蔵人「よし、枝から離れていいぞ」

幼狐娘「は、はい」

幼狐娘が両手を枝から離す。
確かな重みが蔵人の腕に伝わって来た。

蔵人「ふう、大丈夫か?」

幼狐娘「は、はい。迷惑を掛けて申し訳ありませ……」

抱き止められた幼狐娘が反省の弁を語り始めようとすると同時、

ミシリと、蔵人の足下の枝から嫌な音が響き渡った。

幼狐娘「あ」
蔵人「あ」

幼狐娘の重量がトドメになったのか、蔵人の重みで曲がっていた桜の木の幹との接合部がポキリと他愛なく折れた。

足下に喪失感。
ガクリと体勢を崩した蔵人は幼狐娘を抱き抱えたまま、折れた桜の木の枝と共に落下した。

蔵人「うおーっ!?」
幼狐娘「きゃーっ!?」

地面が急速に近づいてくる。
知らず、蔵人は幼狐娘をかばうように胸元へ引き寄せ、そして──

蔵人「つ、つつ……どうなったんだ?」

蔵人がまぶたを上げると、空を覆う満開の桜が視界に入り、ついで慌てて近寄って来る狐娘たちが見えてきた。

狐娘たち「蔵人様ー! 大丈夫ですかー!?」

蔵人「お、おお、何とか大丈夫みたいだが……そうだ! 幼狐娘は!?」

蔵人が胸元に顔を向ける。

幼狐娘「……ふにゃー」

幼狐娘は蔵人に力強く抱きしめられて目を回していたが、どうやらケガは無いようだった。

蔵人「……良かった、でもなんで無事だったんだ?」

狐娘1「満開の桜が蔵人様たちへ向かう衝撃を殺してくれたのです」

狐娘2「有り難い事です。桜が蔵人様たちを助けてくれたとしか思えません」

蔵人「そうか、感謝しないとな」

桜守「な、な、何が感謝じゃ! 桜の枝を折りおってからにッ!!」

平穏を取り戻し始めた一帯に、突然桜守の怒声が響き渡った。

桜守「折れた枝が満開だったから衝撃を和らげられたじゃと!? 桜が意思を持って助けてくれたじゃと!?
舐めた事を抜かすな! 『一つ桜』を傷つけた大罪人めがッ!」

幼狐娘「ひっ……」

蔵人「おいおい、枝を折ったのは確かにこちらの不手際だが、そんなに罵る事は無いんじゃないか? 命あっての物種とも言うし、この事故は命を尊重した結果の……」

桜守「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れーッ!」

蔵人「……取りつく島も無いな」

蔵人はやれやれと首を横に振る。
すると、狐娘の一人が蔵人に近づき、こっそりと耳打ちした。

狐娘「桜守は桜の木の保全が使命、桜の木の痛みや欠損はすべて桜守の不手際となります。それはこの『一つ桜』も例外ではありません」

蔵人「なるほど、自分に累が及ぶのを嫌がっているのか……」

桜守「何をごちゃごちゃと言い合っておるか!」

そう桜守が一際大きく怒鳴り声を上げた時だった。

?「まったくであるな、いったい何を騒いでおるのか?」

凛とした声が、辺りに響いた。

桜守「はうっ!? 摂政様ッ!?」

摂政「うむ、なかなかによい反応だな桜守よ」

声に遅れ、はっと狐娘たちが無言で飛び退き、深々と頭を下げる。
そうして出来た道を歩いて来るのは、切れ長の鋭い瞳が特徴的な女。
女は腕を通していない紋付きの羽織を肩にひっかけて纏い、その下に狐娘たちと同じように緋袴と小袖の巫女服を着ては頭から狐耳をとがらせている。
ただ巫女服の胸の部分をはだけさせ、ふくよかな胸の谷間を強調するように見せ付けている大胆な点が、他のおしとやかな狐娘たちの佇まいと見事に相反していた。

桜守「せ、摂政様……そ、そのような破廉恥な格好は……」

摂政「お偉方へ行脚の間、十重二十重(とえはたえ)とガチガチに礼服を着こなしておったのであるぞ? 我が家とも呼べるこの村、この里、この神域にて気を休めるくらいは大目に見よ」

桜守「は、はい!」

ちらと目を細められただけだというのに、桜守は雷に打たれたようにビクリと背筋を伸ばした。

蔵人「……摂政?」

幼狐娘「は、はい。私たち妖狐の中で一番偉く、稲荷大明神様の留守中に政務を代行する方です」

幼狐娘は蔵人に小声で説明する。

幼狐娘「摂政様は稲荷大明神様から神位を賜り、天上に名を連ねる天狐となった方なのです。下々の私たちにはとても恐れ多き方ですので、蔵人様もどうかご無礼無きようお願い致します」

蔵人「あ、ああ、分かった」

摂政「それで話は戻すが、この騒ぎはいったい何事か?」

桜守「い、いえっ! こ、これは別に大したことでは!」

バレたら危ないという判断からか、とっさに桜守がお茶を濁そうとする。
だが、そこにポツリと声が割り込んできた。

狐娘「……『一つ桜』の枝が折れてしまったのです摂政様」

桜守「っ!?」

割り込んできたのは狐娘の一人。

摂政「なんと? それはまことか?」

狐娘「はい、証拠はそちらにございます」

ついと狐娘が蔵人の方へと視線を向けると、それを目で追った摂政も蔵人の存在に気付き、怪訝に眉をひそめた。

摂政「む? なぜに男がここに……」

狐娘「はい、蔵人様……この者は西の川に漂着しておりまして、それを桜守様に助けられたのです」

摂政「ほう、そういえば旅の間に届けられた文にそんなことが書かれていたな」

桜守「……」

狐娘と摂政の話を一歩離れて聞きながら、桜の枝が折れたのを隠そうとした桜守はバツが悪そうに目を伏せていた。

摂政「それでは、事の顛末(てんまつ)を聞かせてもらおうか?」

狐娘「はい、それは……」

蔵人「待った。それはオレから説明させてくれ」

摂政「ほう、お主が?」

蔵人「蔵人だ、お初にお目にかかる摂政殿」

摂政「蔵人? ……まあよい、説明してみよ」

蔵人「ああ、枝を折ったのはオレだ。『一つ桜』に登って見たところ、枝が体重を支え切れなかった」

幼狐娘「っ!?」

摂政「……それはまことか?」

蔵人「嘘偽り無い」

摂政「……ふーむ」

摂政は一度睫毛を伏せ、数秒の後に再び瞳を細く開ける。
瞬間、剣呑な雰囲気へと変わった摂政の鋭い視線が蔵人を貫いた。

摂政「そちの言うことに嘘偽りは無いかも知れぬ、だが全てを語った訳でもないようであるな?」

蔵人「……」

摂政「妾(わらわ)は隠し事が好かん、煩わしくて仕方ない。白状せよ、これ以上に真実を隠すのならば妾への無礼と見なすぞ?」

言外に、全身から威圧感を漂わせながら摂政が勧告した。

幼狐娘「待ってください! 犯人は私です!」

摂政「うん? 犯人とはどういう事であるか?」

幼狐娘「はい。実は私が桜の枝を……」

蔵人「お、おい! 待て!」

幼狐娘「ごめんなさい蔵人様。かばってくださるのは嬉しいのですが、やはり真実を話さなければならないと思うのです」

蔵人「しかし……」

幼狐娘「逃げ続けてもいつかはバレます。それに、他人を犠牲にして自分だけのうのうと過ごすのは耐えられません!」

蔵人「む……そうか、ならば……仕方ない」

幼狐娘「……ありがとうございます」

摂政「で、説明はまだであるか?」

幼狐娘「は、はい。今からさせて頂きます! 申し訳ありませんでした!」

〜 数分後 〜

幼狐娘「……という訳です」

摂政「ふむ、なるほど。よく分かった」

幼狐娘から説明を聞いた摂政は難しそうな顔で首をかしげた。

摂政「さて、どうしたものかのう……」

言葉はそれきり。
皆が口を閉じ、嫌な沈黙が場を支配していく。
だがやがて、そこにいる一人が静かに口火を切った。

桜守「わ、ワシの……」

摂政「?」

桜守「ワシのせいではない!」

摂政「……」

摂政の目がわずかに細められる。
しかし、桜守はそれに気付かずに言葉を続けた。

桜守「そ、そもそもの原因はそこの二人にある! 罰するならばワシではなく、そいつらを罰するのが筋というもの!」

摂政は一言も罰するとは言っていないのだが、桜守の中ではすでに誰かが罰されるのは決定事項になっているようだった。

幼狐娘「待ってください! 私が猫の管理を怠ったのが全ての原因です! 蔵人様は悪くありません!」

蔵人「いや、枝の耐久性を考えず、先走って桜に登ったオレが悪い。罰するならオレだ」

罰という言葉に、幼狐娘と蔵人が続けて声を上げる。
だが二人の弁明は桜守と違い、相手を守るために自分を犠牲とするものだった。

摂政「……ふむ」

摂政は柳眉を下げてそれを一聴した後、ゆっくりと桜守の方に顔を向けた。

桜守「摂政様! あの者たちもああ言っておりますゆえ、何とぞ処罰を!」

摂政「……はぁ」

摂政は桜守を見ながら、憂いたように嘆息した。

桜守「……な?」

失望の視線。
マズいという雰囲気を鋭敏に感じ取った桜守は、逃げるように声を荒げた。

桜守「こ、事の発端は猫なんぞの飼育を認めた者にもある! いったい誰じゃ!」

責任をなすりつける相手を探し、桜守が首を振って辺りを見回す。
だがそこで初めて、桜守は周囲から自分に向けられている視線に気付いた。

狐娘たち「……」

桜守「な、なんじゃ! その目はッ!」

あわれみすら感じられる蔑みの視線が、狐娘たちから桜守に向けられていた。

桜守「ワシは従三位じゃぞっ! 貴様らごときがそんな目を向けて……」

摂政「もうよい」

不意に、摂政の芯の通った声が場の空気を波打たせた。

桜守「へ? は、はい!」

摂政の機嫌を損ねぬよう、桜守はあわてて口を閉じる。

摂政「ふぅ」

摂政はそんな桜守から目を離して辺りを見回し、一息置いてから沙汰を下した。

摂政「この度の問題責任は全て桜守の不徳から起きた問題である。ゆえに桜守の現位階の剥奪、その上で自宅謹慎を命じる。追って命令あるまでおとなしくしておれ」

桜守「……は?」

何を言われたのか分からない、というふうに桜守は口をぽかんと開けた間抜けな顔を浮かべた。
そのまま数秒の空白。
岩にしみ込むように遅めの理解がやっとのこと及ぶと、桜守は青ざめた顔で叫んだ。

桜守「な、なぜ!? 今回の問題は明らかにあの二人が起こした問題であり、そこにワシは介在して……」

摂政「いい加減に致せ!」

桜守「ひっ!?」

摂政の怒号が、桜守の体を打ち据えた。

摂政「桜守という役目は桜の木に関するあらゆる事象の責任を負う、それは貴様も知っておるだろう」

桜守「し、しかし」

摂政「口を閉じよ! 煩わしい!」

桜守「……うっ」

摂政「最初、貴様は桜の枝が折れた事を隠そうとした。これは貴様を桜守に任命した妾への背徳行為であり、稲荷大明神様の威信に泥を塗る行為でもある! 貴様は従三位という位階を声高らかに叫んでおったが、それは桜守という役目の責任の深さゆえに与えられた位階! 他人に責任をなすりつけ、甘い汁だけをすすろうとする貴様には全くもって相応しくない!」

桜守「う、うぅ……」

摂政の断とした弁を浴びせられた桜守は顔を伏せ、小さく肩を揺らし始めていた。

摂政「何か釈明する事があるならば言ってみよ。万が一にも妾が納得のいく理由を言えるのならば、処罰について一考の余地はある」

桜守「ワ、ワシは……」

桜守は何かを言おうと口を開くが、発するべき言葉が思いつかない。
そのまま桜守は助けを求めるような目で辺りを見回し、しかし自分を取り囲むのが蔑視の目だけであると悟ると、そのまま顔を伏せてしまった。

桜守「ワシは……悪くない……悪くないんじゃ……」

桜守は洩れ始めた嗚咽を飲み込み、その場で小さくつぶやき続けることしか出来なかった。

〜 夕方・桜守の屋敷 〜

お手伝い「それでは、失礼します」

蔵人「……ああ、いきなりですまない」

最後の一人に頭を下げ、蔵人はその背中を見送った。

昼頃、帰宅した桜守は開口一番に家中の者に暇を出した。
突然の事に目を白黒させていた手伝いたちは蔵人に事情を聞き、納得しないながらも支度を済ませ、先ほど全員が屋敷を後にしたのだった。

蔵人「さて、オレはどうするかな」

悩むように渋面を作るが、答えはすでに決まっていた。

蔵人「……謝っておくか」

悪気が無かったとはいえ、自分のせいで桜守が責任を被ることになったのだ。
謝って許してくれるとは思えないし、実際に顔も合わせてくれない状態なのだが、このまま放置しておくのはさすがに良心が痛んだ。

蔵人は心に決めると、お手伝いの背中が遠くに消えたのを確認した後、屋敷に向けてきびすを返した。

蔵人「おーい、桜守」

返事はない。
蔵人はやれやれと首を振り、玄関にて草履を脱いで薄暗い廊下に一歩を踏み出す。
縁側から入り込む陽光に照らされて茜色に染まった家の中は、しかし日暮れの陰影も色濃く表れ、物音一つ聞こえないさまはどこか物悲しい。
まるで今の桜守の心境が滲み出ているように思えてしまい、蔵人は眉間にシワを寄せて苦い顔を浮かべた。

蔵人「どこにいるんだー?」

返事は期待せずに自分の足で探していくが、土間、居間、床の間と一通り探しても桜守の姿は見当たらない。
蔵人の脳裏に、桜守の姿がちらつく。
──瞳に涙を溜めて、今にも崩れ落ちそうな桜守の儚げな姿が。

蔵人「……くそっ」

蔵人が舌打ちし、苦虫を噛み潰したように顔を歪めたその時だった。

蔵人「……おっ?」

見つけた。

寝室の手前。
廊下を挟んだ縁側に腰を下ろし、中庭をぼんやりと眺めている桜守の姿があった。

蔵人「おーい、桜守」

桜守「……なんじゃ、疫病神めが」

蔵人「……随分な言い草だな、おい」

桜守「ふんっ、本当の事じゃろうが」

ちらと横目に答えた桜守は、それだけ言って再び正面の中庭に顔を戻した。

蔵人「……」
桜守「……」

会話が途切れる。
桜守の方は話を続ける気が無いようで、貝のように口を閉じている。
その沈黙が暗に責めているようで、蔵人にとって非常に居心地が悪かった。

蔵人「えっと、そろそろ日も暮れるぞ?」

桜守「……」

蔵人「夕飯の支度もしないといけないし、風呂の準備も……」

桜守「……」

何かを言わないといけないと口を開くが、出て来るのはどうでもいいような話だけ。

蔵人「……」

蔵人は短く息を吐き、口を閉じる。
そのまま手持ちぶさたになった蔵人は縁側に一歩踏み出し、桜守の隣に腰を下ろそうとして、

桜守「近づくなッ!」

桜守が大きく怒鳴り声を上げた。

蔵人「……っ!」

桜守「貴様の企みは分かっておるぞ! この疫病神め!」

蔵人「へ? 企み?」

桜守「どうせ、甘く言い寄ってワシから財産をかすめ取ろうという魂胆じゃろうが!」

蔵人「なっ、なにをバカな事を言ってるんだ! そんな事あるわけないだろうが!」

桜守「いいや! 未来の無いワシに構っても貴様に得は無い、ならば今ある財産を奪いに来たと考えるのが普通じゃ!」

蔵人「全然普通じゃないだろうが! 何だそのひねくれた考え方は! 人が心配して来たというのに!」

桜守「ほら! 怒っておる! 心配して来たというくせに、歯を見せて威嚇か? 化けの皮が剥がれたな!」

蔵人「屁理屈を言うな! 揚げ足を取ったつもりか!」

桜守「ふんっ! 事の元凶は貴様ではないか! 口を閉じて、さっさとワシの屋敷から出ていけ疫病神め!」

蔵人「こ、このっ!」

話にならない。
というか、桜守に話をする気がない。
何を言っても歪んで受け止め、悪言にして返してくる。
引け目から下手に出ていた蔵人だが、そんな桜守の態度にさすがに堪忍袋の緒が切れた。

蔵人「ああ、分かったよ! 出て行くさ!」

そしてそのまま桜守に背を向け、吐き捨てるように言い放った。

蔵人「他人の好意を無碍に払い退けやがって、お前にはこの屋敷で一人ぼっちがお似合いだ!」


桜守「……っ!」

背中でびくりと身じろぎする気配。
しかし、蔵人は振り返らずに屋敷の玄関へと歩を進め、草履を履くとそのまま屋敷を後にした。

〜 村の西側・湖 〜

蔵人「はぁ……」

蔵人は湖のほとりに座り、ぼんやりと水面を眺めていた。

蔵人「少し言いすぎたか……元の原因はオレにあるわけだし……いや、だからと言ってアイツの言い草は……はぁ」

悩み、頭をかきむしり、ため息。
進展しない思考に、うじうじと捕らえられてしまう。
そして、そんなふうに蔵人が何度目かのため息を吐いた時だった。

幼狐娘「あ、あの」

幼狐娘がひょこりと、蔵人の横から顔を覗かせて来た。

蔵人「うおっ!?」

幼狐娘「あ、ご、ごめんなさい! 驚かせてしまいました」

蔵人「い、いや、気にしないでいいよ。……でも、いつから見てた?」

幼狐娘「えっと……村の中で背中を見つけてから……」

蔵人「おぉう……」

移動中の時点で見つかっていた。
つまり、湖での姿は全部見られていたという事になる。
いじけた姿を他人に見られるのは、やはり少しばかり恥ずかしい。
蔵人は気を取り直すように話題を変えた。

蔵人「えっと、それでオレに何か用か?」

幼狐娘「はい、あの……」

幼狐娘は小袖の内側から両手でやっと掴みきれる程の大きさの包みを取り出し、蔵人に差し出して来た。

蔵人「これは?」

受け取りながら聞いてみる。
幼狐娘は何とも言えない苦い笑みを作って答えた。

幼狐娘「おにぎりです。桜守様はお手伝いさん全員にお暇を出されたと小耳に挟みまして、お腹が空いていらっしゃるかと……でも、やっぱり私が関わると迷惑でしょうか?」

蔵人「……いや、そんな事は無いだろう」

蔵人は包みを丁重に持ち直した。

蔵人「……」

しかしながら、今しがた喧嘩別れした桜守の所へすぐに戻るというのはどうにもバツが悪い。
蔵人は包みを持ったまま、時間潰しに幼狐娘へと話し掛けた。

蔵人「ところで、一つ聞いていいか?」

幼狐娘「はい、何でしょうか? 私の知っている事ならば何でも」

蔵人「ああ、桜守の事についてだが、何か知らないか?」

幼狐娘「桜守様について、ですか?」

幼狐娘は困ったような顔で眉根を寄せてしまった。

蔵人「おっと悪い、曖昧すぎたか、……桜守の性格が何であんなに歪んでいるか教えてくれ」

幼狐娘「ゆ、ゆがんで……」

今度は少しぶっちゃけ過ぎたらしい。
幼狐娘は蔵人の言葉に苦笑いを浮かべた。

…………………………

蔵人「摂政が推挙?」

蔵人が聞き返すと、説明をしていた幼狐娘がコクリと蔵人に頷いた。

幼狐娘「はい、桜守様は摂政様から直々に現在の任を拝命されたのです」

蔵人「そう言えば桜守の奴は従三位とか貴族の階級を事あるごとに誇示していたな、つまり桜守は摂政を丸め込めるくらいに名実ある家柄のお嬢様というわけか」

幼狐娘「い、いえ、それが桜守様のお家は……」

幼狐娘は何かを言おうとして口をつぐんだ。

蔵人「ん? どうした?」

幼狐娘「その……これは先輩たちが話していた事なんですけど、桜守様は捨て子だとか……」

蔵人「捨て子だって?」

幼狐娘「あ、いえ! 捨て子と言ってもそれは先輩たちの弁でして……」

幼狐娘はたどたどしく、時折つっかえながら言葉を紡いでいく。
それはおそらく、先輩たちとやらの話が『嫌われ者』である桜守の悪口であり、直接に蔵人へ言う事をはばかられるような内容だからであろう。
蔵人は一人納得し、幼狐娘の声に耳を傾ける事にした。

幼狐娘「桜守様にはちゃんと両親がいたようなのですが、ある出張を境にぱったりと連絡が途切れてしまったらしいのです」

蔵人「ふむ」

幼狐娘「それで、まだ幼かった桜守様は親戚中をたらい回しにされ、やがてそのうちに摂政様から推挙されてこの村へと来たようです」

蔵人「なるほど、何となく分かった気がする……でも、何で摂政が推挙したんだ? 話を聞く分には桜守と摂政はまったく関係ないだろ?」

幼狐娘「申し訳ありません、さすがにそこまでは……」

蔵人「あ、いや、責めているわけじゃないよ。ありがとう、ためになった」

そう言い、蔵人はおもむろに幼狐娘へと背中を向けた。

幼狐娘「蔵人様?」

蔵人「ちょっと桜守の所に行って来る。ちゃんと包みを渡しておくから心配するな」

蔵人が軽く振り返って言うと、幼狐娘は顔を輝かせた。

幼狐娘「は、はい! よろしくお願いします!」

蔵人は幼狐娘にひらひらと手を振り、元来た道を引き返し始めた。

バツが悪いという気持ちは、すっかり霧散していた。

〜 桜守の屋敷 〜

蔵人「さて、と」

屋敷に戻った蔵人は草履を脱ぎ、廊下をひたひたと歩いていく。

蔵人「アイツはまだ縁側にいるのかね……」

肌寒くなり始めた大気に、蔵人は一度軽く身震いした。
いつの間にか、すでに夕陽は稜線の影へと消えている。
今は残光によって辺りも照らされているが、すぐに夜の帳が降りてくるだろう。

蔵人「まあ、さすがにアイツも部屋に戻って……」

言いながら廊下を進んでいた蔵人だったが、ふと急にその足を止めた。

蔵人「……?」

どこからか、声が聞こえていた。
足を止め、耳を澄ませる。
すると、声はすぐに明瞭なものとなって蔵人の元へと届いてきた。

「ううっ……く……」

女の子が、すすり泣く声。
声は蔵人の向かう先、桜守のいた寝室前の縁側から聞こえてくる。
誰の声かなんぞ、考えるまでも無く分かる事だった。

蔵人「……」

足を止めていた蔵人は、わずかに思案する。
私事を見られるのは時に大きな苦痛となると知っての躊躇だったが、蔵人は軽く頭を振ると止まっていた足をすぐに動かし始めた。

ここは退いてはいけないと、蔵人の直感が告げていた。

桜守「うぅ……えぐっ……」

桜守は暗くなった縁側に座り、顔を伏せて、声を殺すようにして泣いていた。

蔵人「……よう、なに泣いているんだ?」

桜守「……っ!?」

蔵人が声をかけると、桜守は弾かれたようにバッと素早く顔を跳ね上げた。
涙をたたえ、赤くなった瞳が、蔵人の黒い瞳と視線を重ね合わせる。
そして状況を理解したのか、桜守はあわを食ったように取り乱し始めた。

桜守「な、なな! 何で貴様がここに!?」

蔵人「いや、お前が気になって戻って来た。それと、これ」

桜守「……これは?」

蔵人「おにぎりらしい、幼狐娘から渡してくれと頼まれた」

桜守「……」

桜守は座ったまま渡された包みを無言で見ていたが、不意に眉尻をキッと吊り上げて、包みを廊下の床板へと叩きつけた。

蔵人「お、おいッ!」

桜守「黙れッ!」

見上げる桜守の怒声が、蔵人の二の句を塞ぎ止めた。

桜守「なんじゃ! 何を企んでおるのじゃ貴様は! ワシに何をするつもりなんじゃ!」

一息に言い切った桜守はそこでグッと息を飲む。
その瞬間、桜守の憤怒の表情が一転。
代わりに表れたのは、苦痛に喘ぐような、悲哀に満ち満ちた表情だった。

桜守「ワシは渡さんぞ! この屋敷も! 地位も名誉も! 全部、全部ワシの物じゃ! 誰にも……びた一文とてくれてやらぬわッ!」

桜守は顔をくしゃりと歪ませ、力一杯に吠える。
それは虚勢だった。
弱々しく、怯えた子犬が牙を見せて威嚇するような、そんな桜守の、精一杯の虚勢だった。

蔵人「……盗らないよ」

知らず、声を出していた。

桜守「……ふぇっ?」

きょとんと、桜守が涙の浮かんだ目を丸くした。
蔵人は桜守の疑心を刺激しないように、自然な微笑みを顔に作りながら、桜守の座る縁側の隣に腰を下ろした。

桜守「な、なんじゃ!? 勝手に隣に座るでない!」

蔵人「いいから、お前もこっちに来い」

桜守「んなっ?」

蔵人は桜守の腰回りを両腕で掴むと、そのまま桜守を持ち上げ、あろうことか自分の両膝の上へと桜守を移動させた。

桜守「な、なな……っ!」
そして、蔵人が両手を離す。
ちょこんと、借りてきた猫のように桜守が蔵人の両膝の上に腰を下ろした。

蔵人「うん? おそろしく軽いな、もっと食わなきゃダメだぞ?」

桜守「い、いきなりなにをするんじゃ! このたわけが!」

蔵人の言葉をはねのけ、膝上で桜守が暴れ始める。
だが、蔵人は桜守を後ろから羽交い締めにして、その動きを封じ込めた。

桜守「ええい! 離せ! 離さんか!」

蔵人「離したら多分逃げるだろ? お前は」

桜守「当然じゃ! そんなことよりも、貴様はワシに何の恨みがあってこんな事をするんじゃ!?」

蔵人「恨みなんてないさ、ただ助けてやりたいと思っただけだ」

桜守「た、助けるじゃと!?」

蔵人「ああ、崖っぷちに立たされているお前に手を貸してやろうと思ったわけだ」

桜守「ば、バカな事を申すな! 他人の助けなんぞいらん! それにお前なんぞに何が出来るというのじゃ!」

蔵人「うーん、そうだな……お前が解雇した手伝いたちの代わりに家事全般や食料調達を」

桜守「いらぬわボケッ!!」

桜守は蔵人に羽交い締めにされたまま、ジタバタと手足を暴れさせて拒絶した。

桜守「はーなーせー!」

蔵人「あきらめろ」

ジタバタと暴れ続ける桜守だが、いかんせん体格が違いすぎる。
その上、男と女という根本的な力の差もあり、桜守の数分間に渡る抵抗もただただ徒労に終わった。

桜守「はぁ……はぁ……」

蔵人「ん? 落ち着いたか?」

桜守「や、やかましいわい! ……それよりなんじゃ、貴様は何を企んでおるのじゃ!?」

蔵人「またそれか……」

自由に動かせる首だけを回して背後の蔵人へと振り返ってくる桜守に、蔵人はやれやれとため息をついた。

桜守「なんじゃその態度は! しかとした理由がなければワシは納得せんぞ!」

だが桜守はぷんすかという言葉がぴったりな様子で、蔵人に顔を詰めよらせて来る。
どうやら、何かしらの理由がなければ引き下がりそうに無かった。

蔵人「そうだなぁ……理由か……」

桜守「理由が無いならば、ワシに構う意味もあるまい! さっさとこの腕を離して……」

蔵人「いや、理由ならあるぞ、確かなものがな」

桜守「……? なんじゃ、言うてみよ」

眉をひそめる桜守。
蔵人はその訝しむ桜守の顔に、自身満面に答えた。

蔵人「オレがそうしたいからだ」

桜守「……は?」

蔵人「オレが、お前を、助けてやりたいと思い立った、それが理由だ」

蔵人が一言一句分かりやすく説明する。
すると、桜守は呆気に取られたような顔でポカンと口を開けた。

桜守「そ、そんなものが理由になるものか! 人をバカにするでない!」

蔵人「いや、至って真剣だ、今のお前はどうにも危なっかしくて見ていられない。だから、オレはお前を見捨てる事が出来ないんだよ」

桜守「な、なんじゃそれは……なにを言うとるんじゃ貴様は! ワシに同情でもしたと言う気か!」

突然、桜守は激昂し、牙を剥いて叫んだ。
何か桜守の逆鱗に触れるような事を蔵人が言ってしまったらしい。
だが、蔵人に謝るつもりは無かった。
代わりに、桜守の声に負けないくらいの大声で蔵人は叫び返した。

蔵人「同情で何が悪いッ!」

桜守「……っ!?」

一瞬、桜守の体が蔵人の大声で竦み上がった。
その隙をついて、蔵人は一気に畳み掛ける。

蔵人「言葉を交わせる者同士だ、お互いの意思を相手に伝えられる者同士なんだ、まともに向き合って話せば情が移るのが当然じゃないか! 何度か面と向かって話した相手が窮地に立たされて困っているなら、助けてやりたいと思うのが人情じゃないか!」

しかし、桜守にも退く気はない。
桜守は顔を赤くして、羽交い締めにされたまま怒声を上げて応える。

桜守「だ、だまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれーッ!! 元はと言えばワシが窮地に立たされた原因を作ったのは貴様自身ではないか! 今頃になって罪悪感から尻拭いか! もう遅い! 何もかも遅過ぎるわッ!」

蔵人「遅くない! オレが何とかする!」

桜守「力も後ろ盾も、記憶すらないヤツが何を偉そうに!」

蔵人「確かに今のオレには何もない。だが、絶対にお前を助けてみせると約束する!」

桜守「ふざけるな! ワシはそんなに安っぽい存在ではない! ちっぽけな人間風情がこのワシの何を助けると大口を叩くというのじゃッ!」

感情を剥き出しにして言い争う二人。
一方は、自分の意思を相手に伝えるために。
もう一方は、動きを封じられて逃げられぬ身で、精一杯に虚勢を張り通すために。
しかし次第に一方──桜守の言葉が鈍ってくる。
桜守は他人とのぶつかり合いを煙に巻いて逃げるようにして今まで過ごして来たのだろう。
ゆえに、桜守は声を荒げての本心でのぶつかり合いという経験が皆無であろうと、自身も何度となく煙に巻かれた経験や狐娘たちからの情報で蔵人はそう踏んでいたが、それはどうやら正解だったようだ。

桜守「人間風情がワシをバカにしおって! 命を助けてやった恩を忘れおって!」

桜守は頭を動かす余裕も無くなって来たのか、蔵人に悪言を垂れ流すのみで話を変えるとっかかりも作ろうとはしなくなっていた。

蔵人「恩は忘れていない! その一端に僅かでも報いればという気持ちも確かにある! だが、お前を助けたいという気持ちは義務感から来たものではない! オレがそうしたいと思ったのが最大の理由だ!」

──だが、それでいい。

蔵人は桜守と本心での会話を交わしながら、並行して考えていた。

──なぜ、桜守は他者をないがしろにするような態度で自ら溝を作り、今まで距離を置いて他者と接して来たか?

おそらく、それは桜守が生きていくために身に付けた自衛のための手段に他ならない。
本心を、胸の奥に潜めた思いを誰にも知らせず、弱みを握られないための自衛の手段に……。

蔵人「一度生まれた縁だ、それを切り離す事は奇物好きな稲荷大明神の意思にも反する事ではないのか?」

桜守「減らず口を叩くな!」

口を動かし、桜守を羽交い締めにし続けるために両手と全身に力を込めながら、蔵人は忙しなく頭を働かせ続ける。
今の桜守の心は、例えるならば幾重にも及ぶカラに覆われた卵のようなもの。
こうなってはどんな誠意ある言葉も心奥に届きはしない。
しかしそれを指摘し、カラを外から無理やりに剥がした所でその傷は桜守の心の傷となり、反感を買うのは目に見えている。
それは、この精神のカラが桜守の備える最後のより所に他ならないからだ。

自分だけが持つ、唯一無二の価値観。
他者が踏み入る事の出来ない絶対の聖域。

内包するためのカラを剥ぎとられ、それらを衆目に晒された挙げ句に批判を浴びたとなれば、精神が受ける苦痛は想像を絶する。
もし心奥を暴かれた時、今の弱りきった桜守に出来る事と言ったら、剥ぎとられたカラをそのまま『他者に絶対の価値観を暴かれた』という新しい劣等感で作り直すしかないだろう事は想像に難くなく、それでは根本的な解決には至らない。
しかし、話をしようにもカラが邪魔で桜守の本心と向き合えない。

──ならば、どうするか?

答えは簡単……というわけでもないのだが、少なくとも、蔵人には一つの策があった。

──正面から、ひたすらに自分の思いを伝える。

それが蔵人の考えた、とても策とは呼べない策。
要は、桜守の自尊心を傷つけずに本心を引きずり出せば良い。
ならば必要なものは罵声や非難ではなく、自分自身の本心。
それをぶつける事によって相手も気兼ねなく本心を話せる対等な状況を作り出すしかない。
上手く行くかは蔵人にも分からない。
ただ苦境に立たされ、相談する相手もいない。
そのような状況で口をつぐみ、一人堪え忍び続ける事は困難を極める。
声にして吐き出したい言葉の一つや二つくらいは、桜守の胸の中にもあるはずだった。

桜守「さっさと離せ! このクソ虫めが!」

蔵人「いやだ! オレはお前の助けになりたいんだ!」

桜守「今こうやってワシを苦しめておいて何をほざくかッ! それにワシは貴様の助けなんぞいらん! 否、誰の助けもいらんッ!」

桜守の抵抗が一層激しさを増す。
だが、ここで逃がすわけにはいかない。
もしもここで桜守に逃げられた場合、桜守は心に新しいカラの仕切りを作って蔵人への対策を施すだろう。
そうなってしまっては取りつく島も無くなり、元々こんな手段しか残されていない蔵人には完全に打つ手が無くなってしまう。
それは、何としても避けなければならなかった。
蔵人自身のため、そして桜守のためにも。
だから蔵人は、桜守の心中を揺さ振るべく大きな一歩を踏み込んだ。

蔵人「だったら、何で一人で泣いていたんだよ!」

桜守「……っ!」

蔵人「つらいんだろう? 苦しいんだろう? 誰かに分かってもらいたいんだろう? だったらオレが聞いてやるよ! だから……」

桜守「……だまれ」

桜守の体が、小刻みに震え始める。
それが怒りによるものか、それ以外の何かによるものかは、背後から羽交い締めにしている蔵人には桜守の顔が見えないため判別がつかない。
しかし、差し伸べた手は握り返される事も無視される事も無く、牙を立てて噛み付かれたのだという事実を蔵人は直感的に理解していた。

桜守「貴様に……貴様にワシの何が分かるというのじゃ! 知ったふうな口を利くな!」

桜守が大きく口を開き、吠えた。

桜守「ワシは今までずっと一人で生きてきたのじゃ! 父様と母様がいなくなってから、ずっと一人で生きてきたのじゃ!」

桜守は上体をひねり、背後の蔵人へ射殺さんばかりの睨みを飛ばしながら叫び続ける。

桜守「今まで誰一人としてワシを助けてくれた者はおらん! 気遣ってくれた者も、優しく接してくれた者も、誰一人としてワシの前には現れ無かった!」

桜守の声には、様々な感情が渦巻いていた。
憤怒、憎悪、悲哀、それら負の感情を煮詰めたようなドロドロとしたものが滲んだ言葉を、桜守は堰を切ったような勢いで蔵人へと吐き出し続けた。

桜守「じゃが、じゃがそれでも! ワシは必死に生きてきたのじゃ! たった一人で! 皆に疎まれようとも気にしていないフリをしながら!」

喉を枯らし、えづきながら、血を吐くように叫び続ける。

桜守「それでも全部ワシが悪かったというのか!? 人の前に出てこないで、暗い穴蔵の奥底で一生を費やせば良かったのか!? ワシには、そんな道しかなかったのか!?」

途中から詰問する言葉に変わっていた桜守の声は、とても聞いていられない程に痛々しい響きを帯びていた。
逆上し、蔵人へと噛み付いた桜守は、しかし結果として身を猛る怒りに任せ、その開いた口から胸中の思いを吐露したのだった。

桜守「ワシは……ワシはなぁ……」

長きに渡って欝屈し続けた気を一斉に吐き出したのだろう。
桜守は両肩を上下させながら息を荒く切らしている。
そして、その赤く充血した瞳は潤みを帯び、やがて溢れ漏れた涙の滴は筋を作って顔を流れ落ちていった。

桜守「うっ……くぅぅ……」

桜守は蔵人から顔を逸らし、嗚咽の衝動をこらえるように歯を食い縛る。
桜守の背中越しにその気配を感じ取った蔵人は、突如と生まれた胸を貫く痛みに息を詰まらせた。

それは、罪悪感。

面と向き合い、腹を割って話し合えば解決できると思っていた。
本心で話し合えば思いを共有出来ると、桜守の気も少しは晴れるだろうと思っていた。
しかし、すべては甘い見通しだった。
桜守と目を合わせ、本心からの痛烈な言葉を直に浴びた蔵人には分かってしまった。……桜守の疑心の根底には、蔵人の想像にも及ばない漆黒がのっぺりと腰を下ろしていると。
腐泥の如く堆積した悪意から放たれる臭気だけで分かる、これはとてもではないが共有出来そうに無い。
いや、そもそも、半生をかけて培われて来た他者の精神を、その一部なりとはいえ共有出来ると考える方がおこがましいのかもしれない。

桜守「うぅ……」

結局、蔵人のやった事は、桜守が押し殺していた感情を無駄に刺激して溢れ返らせて、行き場の無い思いに身を苛ませただけの事になる。……このままで終われば。

蔵人「……」

当然、蔵人にこのまま終わらせる気はなかった。

蔵人「ごめん……ごめんッ桜守!」

だが、蔵人に良案が思いついた訳でも無かった。
ただ、苦しむ桜守をどうにか助けたくて、しかし自分にはその手段が思い付かず、その上、原因が二重に自分と来た腑甲斐なさ……。
蔵人は全力で謝っていた。自分の情けなさと桜守を傷つけた罪の意識から、涙と鼻水を垂れ流した顔で。

桜守「……なっ、なにを泣いておるのじゃ貴様!?」

蔵人「ごめん! オ……オレが嫌な事を思い出させたから……桜守が苦しむ事になって……ごめん!」

桜守「……!」

恥も外聞もかなぐり捨てて、蔵人はひたすらに謝る。
助けられるだろうとタカをくくり、刺激し、より苦しい思いをさせた挙げ句に謝る。
なんとも情けない話だった。

桜守「い、いたい! 腕をゆるめ……いや離せ!」

蔵人「うん……うん!」

無意識に力が入り過ぎていたらしい。
蔵人は桜守を羽交い締めにしていた腕を解いた。

桜守「って、今度は何で体を抱き締めるのじゃ!?」

蔵人「桜守に……謝らないといけないから……ごめん桜守」

蔵人はしゃくり上げながら背後から桜守を抱き締め、その小さな体を胸元に抱き寄せて謝り続ける。
すると、桜守が体をひねり、蔵人へと牙を剥いてきた。

桜守「バ、バカが! 今さら謝ってもワシは許さんぞ!」

蔵人「うん……ごめん……ごめんよ」

桜守の後ろから、蔵人は謝罪の言葉を発し続ける。

桜守「ゆ、ゆるさん……からな……」

蔵人「ごめんよ……今までずっと一人で頑張って来たんだよな……ごめんよ……辛い事を思い出させて……」

桜守「ワ……ワシは……ゆ……ゆるさ……ん、から……」

振り返って牙を剥く桜守の瞳が、再び揺れ始める。
声に出そうと口を開いたのがいけなかったのか、桜守が噛み殺していた嗚咽の衝動が、蔵人のしゃくり声を呼び水に揺り動かされてしまう。

桜守「う……うえぇ……あ、あぁぁ」

一端が口から放たれたら、もう桜守にも止めようが無かった。

桜守「う、あぁぁ……っ!」

蔵人「ごめんよ、ごめんよ……」

桜守「お……おぬしが……おぬしが……原因ではないかぁ……っ!」

蔵人「うん……うん……」

桜守「ばかぁぁッ! ばかぁぁぁぁッ!」

すすり泣き、もらい泣き、わめきちらし。
二人はひしと体を合わせたまま延々と泣き続けた。
やがて発する言葉は意味を為さなくなり、泣き声だけがこだまするようになっていった。

太陽は完全に沈み、辺りはどっぷりと暗闇に浸かっていく。
しかし、空のどこかには月が浮かんでいるのだろう。
満天の星々の下、二人の周りは蒼く煙り、儚げな明るさに包まれていた。

…………………………

………………

桜守「……」

蔵人「……」

鼻をすする音だけが時折聞こえる。
会話は無い。まるで、胸の内につっかえる物すべてを吐き出したかのように。

蔵人「……」

だが、それは不思議と心地のよい沈黙だった。
いつから触り始めたのか、桜守の黒髪を右の指先で撫で流しながら、蔵人はぼんやりと満天の星空を見上げる。
蔵人の膝上にいる桜守も、同じように空を見上げていた。
拘束する腕は既に解いているが依然として蔵人の膝上から動かない辺り、桜守もまんざらではないようだった。

桜守「……のう、蔵人」

不意に、桜守が口を開いた。

蔵人「……なんだ?」

桜守「ワシは軽いか?」

蔵人「……ん、すっごく軽い」

桜守「……理由を、聞きたいか?」

蔵人「……聞きたい、けど……無理には」

桜守「遠慮するな、ワシも話したい……しかし、喉が渇いた」

蔵人「確か、台所に汲み置きが……」

桜守「いや、ぬるいのはいらん。きんきんに冷えた井戸水が良い」

そう言って、桜守は蔵人の膝上からゆっくりと腰を上げ、中庭へと足を下ろした。

蔵人「足袋(たび)が汚れないか?」

桜守「ん? そうじゃな」

言われて気付いたように桜守は片足を上げ、足袋をつかんで脱ぎ始める。
脱ぎ終わると今度はもう片方の足。
やがて二足の足袋を脱いだ桜守は足袋を縁側に座る蔵人の隣に放り、地面がむき出しの中庭に裸足で立つ。そして水平に手を伸ばすと、桜守はその場でクルリと横に一回転した。
桜守の着物の裾が僅かにめくれ上がり、月明かりの下で細く伸びた脚が一瞬だけ蒼白く浮かび上がる。

蔵人「裸足だと足の裏が……」

桜守「よい、昔のワシは履き物なんぞ持っていなかった」

目尻を下げ、どこか楽しげな顔で桜守は答えた。
そして、桜守はその右手を蔵人へと差し伸べてきた。

桜守「ほれ、お主も早く来い、置いていくぞ?」

蔵人「今行くよ」

蔵人は縁側から静かに腰を上げ、桜守と同じように裸足で中庭へと降り立った。

〜 井戸 〜

井戸から引き上げた水桶に直で口をつけて喉を潤す桜守。
豪快に水桶を傾け、口に収まり切れず溢れ出た水が仄かな光をてらつかせながら地面へとこぼれ落ちていった。

桜守「言っておくが、許したわけではないからな」

濡れた口の端を軽く拭いながら、桜守はジト目で蔵人を見据えながら言い置いた。
そしてそのまま桜守はどこか遠い場所を見るような目を星空に向け、蔵人へと語り始めた。

桜守「今は昔、ワシがまだ幼かった頃の話じゃ。あの頃のワシはまだ、今のように歪んではおらんかった」

蔵人「自覚はしているんだな」

桜守「なぐるぞ?」

蔵人「うぃっす、黙って聞く」

桜守「こほん、……あの頃は毎日が楽しかった。ただひたすらに優しい母様、厳しいがやはり優しく頼もしい父様。……そう、毎日が楽しかった、あの日が来るまでは……」

蔵人「……失踪」

桜守「うむ、揃って出張に行っておった父様と母様が突如、何の音沙汰もなく煙のように消えてしまったのじゃ」

桜守は小さく息を吐き、続ける。

桜守「いったい何があったのかも分からん。当時、手伝いの女中と家に留守番しており、まだ幼かったワシには知るすべも無い。ともかく、ワシの人生……もとい狐生が狂い始めたのはその時からじゃ」

蔵人「……」

桜守「ワシはわけもわからずにずっと泣いておったが、あわただしくなり始めたのは父様と母様が失踪してから1ヶ月後のこと。急に親戚を名乗る見たことも聞いたこともない連中が大挙して家に押し寄せて来たのじゃ」

蔵人「親戚が?」

桜守「ワシの父様と母様が死んだと見越して遺産目当てに集まって来た忌々しい畜生共じゃ」

吐き捨てるように答えた桜守の顔は滲む嫌悪感に歪み、鋭く細められた瞳の奥には心底憎らしい物を見るような怒りを湛えていた。

桜守「そして右も左も分からぬうちに、あれやこれやと決まっていった。家や財産はすべて分盗られ、ワシは見知らぬ親戚に預けられたが……それからの日々は毎日が地獄じゃった」

月明かりに照らされた桜守の横顔には、何とも言えない憂いの表情が浮かんでいた。

桜守「ワシを引き取った親戚は財産だけが欲しかったらしく、ワシにはひどく冷たかった。ろくにメシを食わせてくれんのは当たり前、着れる衣はボロ布で、住みかは家の外、気に入らなければ殴る蹴る。家族どころか愛玩動物以下の扱い。まあ、冗談抜きにワシには死んでもらった方が良かったんじゃろうなぁ……」

蔵人「……そんなの、ひどすぎる……」

歯ぎしりしながら、蔵人はうめいた。
桜守の言葉を聞いているうちに、親戚とやらへの怒りが蔵人の内側から沸き立って来ていた。
今さら怒った所で意味はないと蔵人にも分かってはいるが、しかしそれはどうやっても抑えようのない怒りだった。

桜守「……おぬし」

ふと桜守が夜空の星へと向けていた顔を下げ、蔵人に視線を動かしてくる。
蔵人へと振り向いた桜守は驚いたように目を丸くし、そして目尻を下げ、呆れたような嬉しがるような、そんな不思議な表情を浮かべた。

蔵人「ん? どうした?」

桜守「いや、なんでもない……それで話を戻すが」

ぷいと蔵人から顔を逸らし、桜守は元通りに空を見上げて言葉を紡ぎ始めた。

桜守「延々と続く地獄のような日々……しかしそんなある日、ワシに転機が訪れた。摂政様が……当時はまだ稲荷様の勅令を受けていないため、高級政務官の一人であったが……直々にワシの元へと会いに来てくださったのじゃ」

蔵人「摂政が直々に?」

蔵人は首をかしげた。
なぜそこで摂政が出てくるのか分からない。
すると、蔵人の訝しむような態度に気付いたのか、桜守がちらと横目を蔵人へと向けた。

桜守「なぜ、ワシの元へと摂政様が来てくださったのかは分からん。ただ、摂政様は泥だらけのワシの手を取って『ついてこい』とだけ言った。
……そしてワシはここに連れて来られ、桜守という役職と地位を与えられて今に至る」

蔵人「……むう」

桜守「腑に落ちないといった感じかの? 実を言うとワシもそうじゃ。一度だけ摂政様に『なぜワシを引き取ったのか?』と尋ねた事があるのじゃが、上手くはぐらかされて満足に答えてもらえんかった」

蔵人「そう、なのか……」

相手は稲荷大明神の政治代行を担うまでの知恵者である。
色々と含むものがあるのかもしれない。
そんな事を蔵人が考えていると、桜守がポツリと小さな声で言った。

桜守「──ただ、それがワシには恐ろしくて仕方がなかった」

一瞬、桜守の顔に影が射した気がした。

蔵人「それは、どうし……」
桜守「さて、これで話はおしまいじゃ」

問いかける蔵人だが、その声をかき消すように桜守がやれやれと軽い声を上げた。
その顔からは、すでに先ほどあった影は消えている。

桜守「というわけで、食べ盛りじゃった頃にひもじい思いをしたワシの体は、こうして小さいままというわけじゃ」

蔵人「ああ、話はそこに繋がるわけか」

一瞬だけ見せた桜守の表情が気になる蔵人だが仕方ない、誰だって話したくない事がある。
ただそれよりも、今日一日で少しだけでも桜守が打ち解けてくれたという事実が、蔵人にはとても嬉しかった。
ほほ笑みながら相づちを返した蔵人は桜守をそのままに、中庭を裸足で歩いて屋敷の縁側へと戻る。
そして床に転がる、幼狐娘からもらった包みをつかんで頭の上に掲げて見せた。

蔵人「なら、もっと食ってさっさと大きくならねばな」

桜守「それは……む、むう……」

蔵人「まあ、誰かさんが床に叩きつけたから、おにぎりはひどい形になってるだろうがな」

桜守「……嫌味なヤツじゃなぁ」

ふてくされたように唇を尖らせる桜守だが、反対する気は無いらしい。
桜守は蔵人と同じく裸足で中庭を渡って縁側へと戻って来た。

蔵人「はんぶんこ、な」
桜守「うむ」

包みを開ける。

──ご飯が潰れ、ひとかたまりになっていた。

蔵人「……」
桜守「……」

しばし、無言。
やがて──

蔵人「……ぷっ」
桜守「く、くくっ……」

二人はこらえ切れないとばかりに笑い始めた。

蔵人「な、なんでっ、笑ってんだよっ……くくっ」

桜守「あー! アホらしいアホらしいっ! うくくっ」

蔵人「ぷっ……じ、じゃあ、……半分な?」

桜守「じゃあ、ワシはこっからここまで……っと」

蔵人「多い! 目算で七割超えてる!」

桜守「七公三民」

蔵人「横暴だ!?」

桜守「うるさいのう、家事手伝いなんじゃから腹が減ったのなら自分で作れば良いではないか」

蔵人「おい、いつオレが家事手伝いに……って、自分で言ったっけ?」

桜守「うむ、家事全般を任せろとか抜かしていたな。……というわけでもらうぞ」

蔵人「何が『というわけで』だよ! つーか増えてる! 配分が九割一割になってる!」

桜守「聞こえーん、何にも聞こえーん」

そして一人、両手に盛ったご飯をむしゃむしゃと食べ始める桜守。

蔵人「ちょっ!? こらっ!」

桜守「むふっ、ワシの食べる量が増える分、ワシの成長速度もうなぎ登りじゃな?」

蔵人「成長出来る年齢をすでに越えてる! 成長限界だ、諦めろ! 横に伸びるだけだ!」

桜守「なっ!? 早く成長しろと包みを差し出したのは貴様ではないかッ!」

蔵人「おぼえてないッ!」

桜守「この無責任男がッ! ともかく、このメシはワシのじゃからな! おぬしは台所で味噌ツボでも舐めておれ! 犬のように這いつくばってな!」

蔵人「ひでえッ!?」

やんややんやとやかましく叫び合う。
静寂にたゆたう世界に音を奏でるのは蔵人と桜守の二人だけ。
しかし、それを聞く者も辺りにはおらず、ただ中天に懸かる月と数多の星々だけが晧々と瞬いていた。

〜 翌朝 〜

蔵人「ふあぁ……」

あくびを一つ、早朝の新鮮な空気を肺に取り込みながら蔵人は廊下を歩いていた。
眠い目をこすりながら目指す場所は台所。
早く起きたのだから、朝食でも作っておこうと思い立ったのだった。
なんせ、この屋敷には蔵人と桜守の二人しかいない。
朝のまどろみの尾を引きながら、眠い目をこすりつつ進み続ける蔵人。
しかし、ふと妙な音が耳に届き、蔵人は足を止めた。

蔵人「……?」

トントンという、包丁とまな板が奏でる音。
それに混じり、鼻歌のようなものも聞こえてくる。
どうやらそれは蔵人の向かう台所の方から聞こえて来ているようだった。

蔵人「……桜守が? いや、まさか……」

『あの』桜守が料理する姿など想像も出来ない。
しかし、屋敷には桜守と蔵人しかいない。
蔵人でないならば、自然と該当者は桜守になる。

蔵人「……」

考えていても仕方ない。
蔵人は足を再び動かし、廊下を進む。
そのまま蔵人は台所へと続く障子を静かに開けた。

桜守「ふんふ〜ん」

蔵人「……」

割烹着姿の桜守がいた。
桜守は手際よく包丁を動かして具材を細かく切っていくと、続けて釜戸の火にかけている鍋にそれを放り込んでいく。
……えらく楽しそうに。

蔵人「……」

桜守「ふんふふんふ〜ん……ハッ!?」

桜守と蔵人の目が合った。

蔵人「……」

──ぴしゃり。

無言で、蔵人は障子を閉じた。

桜守「ま、待たんかバカ者ーッ!!」

…………………………

桜守「で、何故に逃げ出したのじゃお主は?」

蔵人「いや、ごめん。なんか見たらいけない物を見た気がして……」

桜守「ふん、ワシとて料理くらいはするわい。それよりも丁度よい所に来たな、朝食を運ぶのを手伝え」

蔵人「ああ、分かった」

うなずき、お椀に味噌汁とご飯をよそおって盆に載せていく。
そのまま蔵人が居間へと向かおうとした時、不意に桜守が蔵人を呼び止めた。

桜守「お、おい……」

蔵人「うん? どうした?」

桜守「き、昨日の事……じゃがな……」

もじもじと、顔を赤らめながら桜守が言葉を紡いでいく。

桜守「あの……その……なんというか……うん……あの……」

しかし、桜守は視線をせわしなくあちらこちらへ行き来させるだけで、言葉は要領を得ない。
蔵人が眉をひそめて桜守を見ていると、桜守はその視線に気付いたのか、赤い顔をさらに赤らめて急に大声を上げた。

桜守「……う、うぬぼれるでないぞッ!」

蔵人「なんの話!?」

桜守「やかましい! さっさと運べ!」

蔵人「呼び止めたのは自分だろうが!」

今にも背中を蹴り飛ばしてくるような勢いで叫ぶ桜守に、蔵人はわけもわからないまま朝食を居間へと運ぶのだった。

〜 居間 〜

桜守「いただきます」
蔵人「いただきます」

桜守「……じーっ」

蔵人「どうした? ずっとこっちばかり見て」

桜守「なんでもない、早く食え」

蔵人「あ、ああ……」

朝食の献立はご飯と味噌汁に漬物という、和食の基本料理たち。
蔵人は漬物に箸を伸ばし──

桜守「違う、それではない」

蔵人「……」

ご飯を盛ったお椀に手を伸ばし──

桜守「それも違う、味噌汁じゃ、味噌汁」

蔵人「……なんだよ、もう」

小さく肩をすくめて、蔵人は味噌汁の入ったお椀を持ち上げる。
そしてそのまま蔵人は味噌汁に口をつけた。

蔵人「……!」

桜守「……どうじゃ?」

蔵人「う、美味いぞっ! 何の間違いだ!?」

桜守「……それはどういう意味じゃ?」

桜守が口元を吊り上げ、にんまりと笑みを浮かべる。
だが、その目はちっとも笑っていやしない。

蔵人「い、いや! 単純に驚いたって意味だよ!」

桜守「ふん、今さら取り繕っても遅いわ」

蔵人「ごめん、へそを曲げるなって! 実際にそれぐらい味噌汁は美味かったんだからさ!」

桜守「……ふんっ、だ」

蔵人があわてて褒めるが、桜守は頬を膨らませたままそっぽを向いてしまった。

〜 食後 〜

蔵人「ごちそうさまでした」
桜守「おそまつさまでした」

蔵人「……口調にトゲがあるのは気のせいか?」

桜守「ふんっ」

蔵人「はぁ……、まあいいか、食器はオレが洗っておくけど、お前は何か今日の予定でもあるか?」

桜守「嫌味か? 有るわけなかろう。いつ財産を奪われるか、この屋敷で震えて待っておることしかワシには残されておらん」

蔵人「だから、へそを曲げるなって」

桜守「ふんっ!」

唇を尖らせて拗ねたように顔を背ける桜守に、蔵人は苦笑いを浮かべた。

蔵人「しかし、それは良くないな」

桜守「む? ワシが屋敷におることが何か問題なのか?」

蔵人「ああ、落ち込んでる時こそ外に出るべきだ。外はいいぞ、歩いているだけで気分転換になるからな」

桜守「そういうものかのう……」

蔵人「疑うなら試してみればいい。そうだな、近くに景観の良い場所は……」

桜守「い、いや待て! ワシは外に出るとは一言も言うておらんぞ!」

蔵人「ん? どうした、外に出たくないのか? 何で?」

桜守「い、いや……その……」

蔵人「……ああ、人目が気になるのか」

桜守「……う」

桜守は言葉を詰まらせる。
蔵人の指摘は当りだったようだ。

桜守「わ、悪いか! ヒソヒソ話とか気になって仕方がないのじゃ!」

蔵人「いや、悪いというわけではないけど、そうだな……」

桜守「うん? なんじゃ一人で考え込んで」

蔵人「ちょっと待ってろ……うーん……あれをこうして、そうして……」

桜守「……?」

うんうん唸る蔵人に、桜守が怪訝そうに眉をひそめる。
やがて、蔵人は顔を上げて一人うなずいた。

蔵人「よし、ちょっと待ってろ、用意してくる」

そう言い残し、蔵人は玄関に向けて歩き始めた。

桜守「え? こ、こらっ! どこへ行くのじゃ!?」

蔵人の背中に桜守が声を投げ掛けてくるが、蔵人はひらひらと片手を上げて応えるだけで、そのまま草履を履くと桜守を置いて屋敷を後にした。

〜 一時間後 〜

狐娘「あら? 蔵人様ではないですか、お散歩ですか?」

蔵人「ああ、いい天気だから、少しぶらりとな」

狐娘「……おや? その背中のつづらは何でしょうか?」

蔵人「ああ、ちょっとした用事でね、気にしないでくれ」

狐娘「はぁ、そうですか、ところで桜守の事ですが」

蔵人「ん? 桜守がどうかしたか?」

狐娘「悪い事は言いません、蔵人様も早く桜守から離れた方が良いでしょう。でないと、蔵人様も……」

蔵人「忠告ありがとう、でもオレは桜守のそばにいるよ」

狐娘「どうして、そんな……」

蔵人「ははは……桜守だけどな、意外にかわいい所もあるんだぞ?」

──ガタッ。

狐娘「っ!? い、いま蔵人様の背中のつづらが勝手に動いてっ!?」

蔵人「気のせいだ。それと急いでいるから、それじゃ」

狐娘「あ、は、はい。それではまた……」

〜 村の西・小高い丘 〜

蔵人「おーい、出て来ていいぞー」

桜守「……ふんっ」

地面に降ろしたつづらから、桜守がゆっくりと出て来た。

蔵人「いやー、軽い軽い。半分は冗談だったが、まさか本当に運べるとはな」

桜守「……悪かったのう、ちっこくて」

頬を膨らませた桜守は、蔵人からぷいっと目を逸らした。

蔵人「拗ねるなって。それよりも、さっきは驚いたぞ? 話している最中に急に動き出すんだからな」

桜守「あ、あれは! お主が!」

蔵人「オレが?」

桜守「う、う〜っ!!」

桜守は威嚇するように蔵人へと牙を剥く。──その顔を真っ赤にして。

蔵人「なに赤くなってるんだ?」

桜守「っ! だ、だまれだまれだまれだまれだまれーっ!!」

蔵人「?」

桜守「は、早く行くぞ! この丘の上じゃな!」

蔵人「おい、置いてくなって!」

さっさと先を進んでいく桜守に、蔵人はつづらを背負い直すと、すぐにその後を小走りで追いかけ始めた。

…………………………

桜守「ぜいっ、ぜいっ……どこまで……登るのじゃっ!」

蔵人「体力無いなぁ、日頃からゴロゴロしているからそうなるんだぞ?」

桜守「お主も日頃からゴロゴロしておるではないか!」

蔵人「日中は畑仕事とかを手伝ってるから、それなりに健康体なんだよオレは」

桜守「暇人め!」

長い黒髪を揺らしながら桜守が叫んだ。
肩で息をするそんな桜守の様子に、蔵人は小さく息をつく。

蔵人「少し休むか?」

桜守「……うむ」

頂上までもう少しだが、仕方ない。
蔵人と桜守はその場で軽く歩を休める事にした。

桜守「……のう、ワシなんかに構っておって良いのか?」

唐突に口を開いた桜守の言葉に、蔵人は目を丸くした。

蔵人「なんだよ、いきなり」

桜守「……ワシはあまりに人望が無い。権力を失った今、どんな扱いを受けるかは自明の理。じゃから、お主だけは……」

蔵人「……」

そのまま黙って目を伏せる桜守に、蔵人は困ったような顔で頭をかき、急に桜守へと詰め寄った。

蔵人「よっと」

桜守「ぬわわっ!?」

そして蔵人はその場にしゃがみこむと、桜守を素早く抱き上げ、丘の頂上目指して走り始めた。

桜守「な、なにをするんじゃ! たわけ!」

お姫様抱っこをされた状態のまま桜守が蔵人へと抗議の声を上げてくる。
蔵人は足を止める事無く、大きな声で答えた。

蔵人「お前がつまらん事を言うからだ! これは早く気分転換せにゃならん! ゆえに、オレが慎んで運ばせてもらう!」

桜守「な、ならば離せ! ワシは一人で歩けるわい!」

蔵人「ダメだ、お前はちっこいから無駄に時間がかかる。そうしたらまたウジウジと考えるに決まっている」

桜守「ちっこいと抜かしたな貴様ーッ!?」

蔵人「あ、わりぃ」

ぽかぽかと胸板を叩いてくる桜守に、蔵人は苦い笑いで謝った。
丘の頂上は、もうすぐ。

〜 頂上 〜

蔵人「とうちゃーく」

桜守「くっ、早く下ろさんか!」

蔵人「わかってるって、いま下ろすから」

桜守「まったく、お主は……ん?」

幼狐娘「どきどき……どきどき……」

ふと視線を感じた桜守が顔を動かすと、幼狐娘が木陰から二人を窺っていた。
ちなみに、桜守はまだ蔵人にお姫様抱っこをされている最中である。

桜守「……な、なぜ貴様がここにッ!?」

幼狐娘「あっ、ごめんなさい! お楽しみを邪魔してしまいました!」

その言葉に、ぷつんと桜守の頭の中で何かがキレた。
桜守は真っ赤な顔で蔵人の両腕から飛び降り、烈火の如く幼狐娘へと叫び散らした。

桜守「誰がお楽しみじゃーッ! ワシはちっとも楽しんでおらんわッ!!」

幼狐娘「きゃー!」

蔵人「まてまて桜守、この子はオレが呼んだんだ」

桜守「はぁ……はぁ……お、お主が?」

蔵人「ああ、この子に景観の良い場所を聞きに行ったんだが、何か手伝いたいと言われてな、丁度よいから手を貸してもらった」

幼狐娘「はい! 腕によりをかけて、おにぎりをたくさんこしらえてきました!」

ドン、と自信有りげな顔で幼狐娘は重箱を突き出した。

蔵人「というわけで、花見をしようと思う。異論は?」

桜守「もう……好きにせい……」

どっと疲れたように、桜守は桜の木にもたれかかった。

丘の頂上は一面、満開の桜に覆われていた。

桜守「この常春の村では桜の無い場所を探す方が難しいわい」

とは桜守の弁。
なるほど確かにその通りだと、蔵人も納得するほどの桜吹雪だった。

幼狐娘「ゴザを敷いておきましたので、どうぞこちらへ」

蔵人「うん……おおっ!」

幼狐娘にうながされて移動した蔵人は思わず感嘆の声を漏らした。

幼狐娘「すごいでしょう! 私も最近みつけたばかりなんです!」

胸を張る幼狐娘。
ゴザの敷かれた場所は、丘の突き出た先端付近。
遮られる物もなく見晴らしの良いその場所からは、村を一望することが出来た。
湖、屋敷、田畑、御所、そして見渡す限りの桜、桜、桜。
色彩の乱れ舞う風景はどこか幻想的で、浮き世のものとは思えぬぐらいに日常の景色から逸脱している。
しかし、目の前の光景はすべて現実のもので、目に映る場所一つ一つに短い間ながらも小さくない思い入れがある。
それが、蔵人に何とも言えない不思議な感慨を与えてきた。

蔵人「絶景、だな」

自然と言葉がこぼれた。
万人の心を捕える名勝とは違うが、それは蔵人にとって確かに絶景だった。

幼狐娘「えへへー、そうでしょう、そうでしょう!」

蔵人「うん、本当に良い場所だよ、教えてくれてありがとう。なあ、桜守?」

蔵人は同意を求めて桜守に振り返り、そこで思わず固まった。

桜守「……」

桜守の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。

蔵人「……桜守」

幼狐娘「え? ……あわわっ!? いったいどうしたのですか桜守様!?」

桜守「ん、いや、すまん。急に込み上げて来てしまった」

桜守は目尻の涙を指先で払いつつ、頂上からの景色を眺めながら声を返して来る。

桜守「久しぶりじゃ、こうやって村全体を眺めるのは。……いったい、何時ぶりかのう」

蔵人「……」
幼狐娘「……」

桜守なりに色々と含むものがあるのだろう。
笑顔の中に一抹の寂しさを潜めながら桜守はもう一度、静かにつぶやいた。

桜守「本当に、美しいのう……」

そんな桜守の様子に幼狐娘はどうしたらいいのかわからないようで、助けを求めるように視線を蔵人と桜守の間を行き来させてくる。
蔵人は無言で幼狐娘にうなずき、重箱を両手で抱えるとそのフタを開く。
そのまま蔵人は、中に並ぶおにぎりを一つだけ掴み取り、桜守に掲げて見せた。

桜守「……なんじゃ?」

蔵人「食え、食って全部まとめて飲み込んでしまえ」

ぶっきらぼうとも受け止められる蔵人の言葉に、しかし桜守は小さく笑みを作って答えた。

桜守「……ふふ、そうじゃな、そうするとしよう。どれ、一つもらおうか」

幼狐娘「は、はい!」

幼狐娘がパタパタとシッポを振りながら、重箱からおにぎりを取り出して桜守に渡す。

幼狐娘「中の具を一考したのです! 味わってみてください!」

桜守「ほう? 具を一考とな?」

幼狐娘「はい!」

桜守「くく、ワシの採点は辛いぞ? はてさて、何が入っておる事やら……」

──みょーん。

桜守「……」

蔵人「……」

幼狐娘「おモチです!」

鼻息荒く、幼狐娘は両手を自分の腰に当てて胸を張った。

〜 夕方 〜

蔵人「さて、名残惜しいが、もうそろそろ帰るとしよう」

幼狐娘「そうですね、暗くなってからでは危険ですし」

桜守「そうじゃな、もう十分に堪能した。帰る頃合いじゃろう」

一同は帰り支度を始める。
そして最後に、夕暮れに染まり始めた村を高目に一瞥して、三人はゆっくりと丘を下り始めた。

桜守「のう、お前」

幼狐娘「はい、何でしょうか?」

桜守「この後は暇か? 暇ならばワシの屋敷に来ても良いぞ?」

幼狐娘「えっ! よろしいのですか!?」

桜守「うむ、なんなら泊まっていっても良い。今日の花見を上手く取り計らってもらった礼じゃ」

幼狐娘「あ、ありがとうございます! でも、見習いの私が桜守様の屋敷に来客として泊まるのは……」

桜守「ワシの屋敷に泊まれ」

幼狐娘「命令に変わった!?」

蔵人「はは、桜守は寂しがり屋なんだよ、言う通りにしてやってくれ」

桜守「なっ!? 誰が寂しがり屋か! このたわけが!」

桜守はシッポをせわしく振りながら牙を剥く。
その様子がおかしかったのか、幼狐娘は小さく吹き出した。

幼狐娘「クスッ、それでは仕方がないですね。桜守様のためにも屋敷に行かねばなりません」

桜守「『それでは仕方がない』とはどういう意味じゃ!? こらっ!」

幼狐娘「きゃー!」

蔵人「そういや、帰りはつづらに入らないのか?」

桜守「人も少ないし大丈夫じゃ、それに……」

蔵人「……?」

桜守「村の景色を目に焼き付けておきたいからのう」

蔵人「……そうか」

幼狐娘「あっ、そう言えばそろそろ畑仕事の人たちが帰る時間です」

ふと思い出したように幼狐娘が声を上げた。

桜守「……だからなんじゃ?」

幼狐娘「このまま帰ると、畑仕事帰りの集団とばったり出くわしますね!」

幼狐娘は笑顔で答えた。

桜守「……」

桜守が、ぴしりと固まる。

蔵人「……」

──ドン。

蔵人は無言で背中のつづらを地面に下ろす。

桜守「……」

すると、これまた無言で桜守がつづらの中へと入っていった。

〜 桜守の屋敷 〜

幼狐娘「とうちゃーく!」

蔵人「ほら、出て来い桜守」

桜守「やれやれじゃ、まったく……」

下ろしたつづらから桜守が出て来る。
桜守はこりをほぐすように軽く肩を回すと、続けて蔵人の方へと振り向いてきた。

桜守「それで、これからどうするのじゃ?」

蔵人「そうだな、おにぎりで腹は膨れているし、風呂に入って寝るだけだな」

桜守「よし、風呂の用意をせよ。手早くな」

蔵人「……」

そういえば家事全般を任されていたなと、いまさらながらに思い出す蔵人だった。

〜 風呂場 〜

蔵人「ふぅ、後は火を入れるだけだな」

井戸と風呂場の往復を水桶片手に何十回。
なみなみと水を貯えた浴槽を前にして、蔵人は額の汗を拭った。

蔵人「しかし、風呂の準備というのも意外に重労働だな」

幼狐娘「そうなんですよ、結構な重労働なんです」

蔵人「うおっ!?」

突然に背後から上がった声に、蔵人は思わず飛び退いて身構えた。

蔵人「な、なんだ幼狐娘か、驚かせるなよ」

幼狐娘「あっ、申し訳ありません!」

ゆっくりと肩を下ろす蔵人に、幼狐娘はぺこりと頭を下げた。

蔵人「いや、謝らなくていいよ。でも、いったいどうした? 風呂を沸かすにはまだ時間が掛かるが」

幼狐娘「あの、その……私も手伝った方がいいかなって……」

蔵人「今は桜守に招待された客人なんだ、のんびり休んでいてくれ」

幼狐娘「でも……」

心根が真っ直ぐなのだろう、幼狐娘は納得しづらいように顔を曇らせた。

蔵人「……うーん」

このまま押し返すのも気が引ける。
しかし、後は風呂の釜に火を入れるだけ。
作業としては蔵人一人で十分な上に、火を扱うから万が一を避けるために幼狐娘は遠ざけておきたい。
それに、いま桜守が苦境に立たされている原因を作った幼狐娘を、桜守みずから招待したのだ。
これは桜守が幼狐娘を許したと見て間違いない。
遺恨を晴らしたという意味合いも兼ねて、是非とも幼狐娘をもてなしたいという気持ちが蔵人にはあった。

蔵人「……そうだ! お前には桜守の話相手を頼もう」

不意に思いついた案を口に出し、蔵人は両手を軽く叩き合わせた。

幼狐娘「桜守様の話相手を……ですか?」

蔵人「ああ、あいつは寂しがり屋だからな、構ってやらないとすぐに落ち込んでしまう」

幼狐娘「ですが……」

蔵人「ん? イヤなのか」

幼狐娘「いえ、そういうわけでは無くて……」

言いにくそうに曖昧な表情を浮かべる幼狐娘を前にして、蔵人は小首をかしげたのだった。

〜 居間 〜

桜守「すぅ……すぅ……」

居間の障子を開いた蔵人を穏やかな寝息が出迎えた。

蔵人「これまた見事に寝ているな」

幼狐娘「はい、私が気づいた時には、もう寝息を立ててまして……でも、本当に幸せそうな寝顔です」

蔵人は苦笑い、幼狐娘はほほえましいものを見る顔で、畳の上に横になった桜守を見やる。
桜守は長い睫毛(まつげ)を伏せ、胎児のように丸まって眠りこけていた。横腹を申し訳程度に覆うように掛け布が乗っているが、それは幼狐娘が気遣ってやったのだろう。
桜守の顔は安心しきった赤ん坊のもののように穏やかで、普段の気の強い様子とは似ても似つかなかった。

蔵人「ここまで清々しい寝顔だと、いっそ小突きたくなるな」

幼狐娘「だ、だめですよぅ、かわいそうです」

蔵人「冗談だよ、ここ数日は気の休まる時なんて無かったんだ、このまま休ませてやろう」

蔵人は音を立てないように、ゆっくりと障子を閉じた。

幼狐娘「……桜守様に、私が何か出来ることは無いでしょうか?」

蔵人「そうだな……出来ること、か……」

廊下を歩きながら蔵人と幼狐娘は言葉を交わす。
確かに、このままではいけないという思いが蔵人にもある。
蔵人は口を閉じ、現在の桜守が置かれた状況を頭の中で整理してみた。

まず、階位の剥奪である。
それを決めた摂政については、桜守を村に連れて来たり上等な地位を与えたりと行動がいまいち不明瞭だが、一つ桜を折った罪の裁きとして皆の前で桜守を処断している。
人の上に立つ摂政はその面子から、易々とは前言を撤回しないだろう。
このままではそう遠くない未来、地位を喪失した桜守は狐娘たちと一から肩を並べて仕える事になる。

そして、そこで問題になるのがもう一つ。
村の狐娘たちとの隔絶である。
桜守が僅かながらも心を開いてくれたのは蔵人と幼狐娘だけで、依然として村の狐娘たちとの不和は解消されていない。
正直、嫌われ者の桜守の入り込める場所が、今現在の狐娘たちの間に有るとは蔵人にも思えなかった。

蔵人「摂政の判決を覆させるか、はたまた狐娘たちとの仲を良好なものへと変えさせるか……」

言うは容易く、成すは難しい。
蔵人は社会というもののむつかしさに眉をしかめた。

幼狐娘「両方をいっぺんに解決できないものでしょうか?」

蔵人「それは少し難しいな……」

トテトテとついてくる幼狐娘が、蔵人の背後でため息をつく。
蔵人は足を止めて一度頭をかくと、幼狐娘を元気付けるように努めて明るい声と共に振り返った。

蔵人「まあ、ゆっくりと解決していけばいいさ。オレたちが桜守を助けてやり続ければ、桜守もいつかは他の狐娘たちや摂政に認められて元の階位に戻れるはずさ」

幼狐娘「そう、ですね……うん、そうですよ! 私たちが桜守様を手助けしましょう!」

幼狐娘は考えるように口の中で反復していたが、すぐに蔵人へとうなずき返し、鼻息荒く自分の両の拳をがしっと握り締めた。

蔵人「うん、その調子だ」

認められるのにどれくらい掛かるかは分からない。
しかし、三人で頑張ればなんとかなる自信はあった。
それまではしっかりと桜守の手を引いてやろうと──罪悪感からの義務感ではなく一人の友人として──蔵人は考えていた。

蔵人「さて、そろそろ灯りが必要な時間かな」

まだ太陽は頭半分ほど見えているが、じきに辺りも暗くなってくるだろう。
突き刺してくるような夕陽の赤光に目を細めながら蔵人がつぶやいた時だった。

幼狐娘「……あれ?」

おもむろに幼狐娘が耳をピンと立て、ぴくぴく動かし始めた。

蔵人「どうした?」

幼狐娘「あ、はい。玄関に誰か来ているみたいです」

蔵人「玄関に?」

蔵人は首をひねった。
客人とは珍しい、時間的にも状況的にも。

蔵人「誰かわかるか?」

幼狐娘「……いえ、申し訳ありません」

集中するように瞳を閉じる幼狐娘だったが、すぐに目を開いて首を横に振った。

蔵人「まあいいさ、行ってみたらわかる」

幼狐娘「はい、そうですね」

蔵人が言うと、幼狐娘はコクリとうなずいて賛同する。
そのまま二人は玄関に向け、早足で歩き始めた。

──しかし、二人はまだ知る由もない。
玄関に立つ者が、桜守に大きな転機を運んで来る事に。……そしてそれが良きか悪しきかも、また。

〜 ??? 〜

「準備は出来たか?」

精悍な顔つきの偉丈夫が女に尋ねる。
女は男にうなずいて応えると、荷物を詰めた麻袋を背負い、幼いワシの方へと右手を伸ばしてきた。

「お母さんたちが帰って来るまで、ちゃんとお留守番をしているのよ?」

「うん、わかった!」

幼いワシが元気よく答えると女──母様は柔らかい笑みを浮かべ、その背後で偉丈夫の父も相好を崩した。
そして母様の右手が幼いワシの頭の上に置かれる。
母様の右手は幼いワシの頭を優しく撫で、幼いワシは嬉しさに目を細めて母様の右手になされるままに髪を揺らめかせた。

──愛想笑いしか出来なくなったのは何時からじゃろう?

ふと頭に浮かんだ疑問に気づいた時、『ワシ』は三人のいる屋敷の前に飛ばされていた。
同時に、やけに頭が冴えてきて、これが自分の見ている夢なのだと無意識に理解できた。

「ほら、お父さんもなでなでしてやろう」

「いたいいたいーっ!」

「おヒゲでホッぺをジョリジョリしてやろう」

「やめてやめてーっ!」

開いた玄関の内側で父と幼いワシがじゃれあう姿を、母がほほえみを浮かべたまま前庭に佇んで眺めている。
この時は他にも家の手伝いが数人いた記憶があるが、『ワシ』の記憶にとってはどうでもよいことらしく、辺りには手伝いの影も形も無い。
実際、顔も思い出せないからそういうものなのだろう。

そうこう考えるうちに過去の情景は進んでいき、別れの場面。

「それじゃ、行って来る」

「おみやげいっぱい持って帰って来てねー!」

歩き始めた父様と母様に向かって、下駄を履いて前庭に出てきた幼いワシが声を投げ掛ける。
この後は覚えている。
言葉を投げ交わしながら、お互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けるのだ。
何という事もない普通の、旅立ちの風景。
ただ普通との違いがあるなら、もう二度と邂逅の機会が訪れないことか。

「おみやげ忘れないでねー!」

しかし自分のことながら、あのやけに幸せそうなバカ面にはいらいらする。

──いっぺん小突いてやろうか? ここはワシの夢のようじゃし。

夢の中だし、自分で自分を殴っても問題ないだろう。
『ワシ』が半ば本気にそう考え始めた時だった。

「……おいたはダメよ?」

──心臓が飛び出るかと思った。

庭先から出て来た母様は『ワシ』の方に顔を向け、茶目っ気を含んだ笑みを浮かべながら片目を閉じて見せたのだった。

「……」

唖然と口を開き、その場に固まる。
しかしその間にも母様は歩みを止めず、道の端に立つ『ワシ』の隣を父様と一緒に通り過ぎて行った。

「母様!」

母様と父様が行ってしまう。
我に返った『ワシ』はコレが夢だという認識もどこかへ投げ捨て、弾かれたようにあわてて母様と父様へと振り向いた。
しかし、先ほど目の前を通り過ぎたばかりの二人の背中はもう道の遥か彼方、まるで豆粒のように小さくなってしまっていた。

「母様! 父様!」

世界が白く霞み、歪んでいく。
両の瞳から溢れてくるもののせいだけではない、『終わり』が近づいているのだと直感で理解した。

「待って! 待ってくれぃ!」

叫びながら母様と父様の後を追って走りだそうとする。
だが、両脚は鉛を詰めたかのように重く、微動だにしない。

「あぐっ!」

無理に脚を動かそうとして体勢を崩し、地面に前のめりに倒れてしまう。
這いつくばったまま、溺れ藻掻くように、必死に手だけを伸ばす。
指先が空を切る。
届かない……届かない届かない届かない届かない届かない届かない!

「母様ーっ! 父様ーっ! ワシを置いていかないでくれ! ワシを一人にしないでくれぃッ!」

動かぬ足を恨みながらも懸命に地面を這いながら両手を前に突き出し、土埃で汚れた顔を涙で濡らしながら叫んだ。
その瞬間、不意に母様と父様の歩みが止んだ。
そして、二人はゆっくりとこちらに振り返ってきた。
世界は白いモヤに煙り、とうとう要領を得ない程に視界を奪い始めていたが、母様と父様の柔和に笑んだ口元だけは、はっきりと見えた。

歪んでいく世界に佇む母様と父様の唇は、優しく諭すように動いていた。

──おまえは一人ではない、と。

〜 居間 〜

?「……さま……桜守さま」

桜守「……むぅ?」

手伝い「桜守様、お目覚めになられましたか?」

桜守「お主は女中の……」

手伝い「はい、お暇を出された女中の一人です」

桜守は目をこすり、体を起こす。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、外はすでに暗くなっていた。
桜守は畳に両膝揃えて座ると、起き抜けで上手く働かない頭で手伝いに尋ねてみる。

桜守「それで、何用じゃ? 再び雇われに来たというわけでもあるまい」

行灯に照らされ、黄暖色に顔を染めながら桜守が言うと、手伝いもまた、ゆらゆらと揺れる灯りで顔に色濃い陰影をつくりながら答えた。

手伝い「はい、私は摂政様の命令を桜守様に伝えに来たのです」

桜守「摂政様の命令を!?」

その一言で桜守は完全に目覚めた。

桜守「い、いったいそれは?」

目をしかと開いて眠気を払い、心持ち居住まいを正して返答を待つ。
対する手伝いはノドを動かしてツバを嚥下すると、一息にて桜守へと告げた。

手伝い「摂政様いわく『桜守の進退にて重要な話が在る、この命令を聞きしだい可及的すみやかに御所へ馳せ参じよ』とのこと」

桜守「御所へ……」

手伝い「さて、それではお着替えの準備を致します。昇殿するというのに、普段着では問題でしょう」

桜守「そ、そうじゃな……うむ」

桜守は言われるままに着物を脱ぎ始める。
手伝いはすでに着替えを畳んで用意しており、慣れた手つきで桜守に着せ始めた。
そんな中で桜守の頭に浮かぶのは疑問。
重要な話?
なぜこんな時間に?
可及的すみやかに?
浮かんでくるそれらの疑問に思索を巡らすが、答えはどうにも出て来ない。
桜守の頭はその問題について考えることだけで精一杯だった。

ゆえに、夢に見た内容はおろか、夢を見たという記憶さえ、すでに桜守の頭からは霧散してしまっていた。

〜 玄関 〜

桜守「では、行って来る」

手伝い「はい、行ってらっしゃいませ」

支度を済ませた桜守は手伝いに見送られて屋敷を出た。

手伝い「……さて」

屋敷の玄関に残った手伝いは桜守の姿が見えなくなったのを確認し、両手を合わせて打ち鳴らす。
すると、玄関脇の暗闇から滲み出るように一人の狐娘が現れた。

狐娘「首尾は?」

手伝い「何ら問題なく。貴女も桜守様に感付かれないように」

狐娘「承知した」

短い受け答えが終わると、狐娘は颯爽と闇夜を駆けて行った。

手伝い「さて、私も行かなくちゃ」

そう言うと手伝いは疲れた息を吐き、自分もまた屋敷を後にしたのだった。

〜 桜並木 〜

村は東西南北に区分けでき、また交通の便も考えて整備された大道が十字に走っている。
大道の左右には桜が植えられて長い桜並木を形成しており、桜守の近くに舞い落ちてくる花弁が提灯の明かりを受けて薄い紫を帯びていた。

桜守「急がねば、急がねば……」

桜守は提灯を片手に桜並木を早足に御所へと向かっていた。
その動きに合わせて、黒い髪が闇夜に踊る。
桜守の黒髪は後ろで一纏めにしただけで、化粧も唇に淡く紅をさしただけの簡単なもの。
礼を逸しない最低限度のものだが、『聞きしだい馳せ参じよ』との命令を受けておきながら悠長に化粧に時間を掛けてもいられない。
たっぷり時間を掛けておめかしした上での昇殿など、逆に礼節を欠く。
なにより、摂政の性格からしてそんな事は許されないだろう。
摂政は無駄が嫌いなのだ。
弊害にしかならない、無駄以外の何物でもないと見たら、摂政は古来よりの伝統ある習いさえ平気で切り捨てるだろう。
必要とあらば、時に無慈悲に、時に冷酷に。
その峻烈なる処置をして摂政を摂政たらしめんとするのかもしれないのだろうが、普段のざっくばらんな摂政から垣間見えるその本質がいつか自分に向かうのではないかと、桜守にはとても恐ろしく思えたものだった。

桜守「まあ、もう失うものも無いわけじゃから前ほど怖くは無いが……あ、まだ屋敷が残っておったか……」

むなしいため息をついて、桜守は脚を動かし続ける。

ちなみに、この村では機能性を重視する摂政の案で無駄に重くて引きずる十二単などは廃止され、動きやすい巫女服を原型とした着物が主流である。
もちろん、桜守が今着ている着物もその流れを汲み、緋袴と白衣の巫女服に少しばかり厚着したもの。

それはそれは、本当に進みを阻害しない良いものだった。

桜守「しかし、あやつらはどこへ行ったのじゃろうか? 手伝いに聞いても『さあ』としか言わぬし……」

不満げに言う『あやつら』とは蔵人と幼狐娘のこと。
着替えた後、ざっと屋敷を探してもその姿は見当たらず、何か胸につっかえるものを感じながらも手伝いに急かされるまま屋敷を後にした次第である。

桜守「……むう」

──仲間外れにされた気がして、やけに腹が立つ。

桜守の苛立ちに呼応するかのように、提灯の中の狐火が一際明るくなった。

桜守「って、ワシは子どもかーッ!」

桜守は自分で自分にツッコミを入れた。
少し、気分が晴れたような気がした。

桜守「ふう……、ともかく、帰ったら嫌味の一つくらい言ってやらねばな」

ふんっ、と息を吐いて桜守は桜並木の大道を進んでいくのだった。

村の中央にたどり着いた桜守は一つ桜を北に曲がり、御所への道を行く。
やがて桜守がそのまま進んでいくと、十分としないうちに御所の巨大な門とそれを照らす赤いかがり火が見えてきた。

桜守「……」

辺りに人影は無い。
稲荷大明神の御所へ殴り込みに来る不届き者なんぞはいないだろうから問題は無いのだが、一人きりで御所の前に立っていると、言い知れぬ不安が桜守の胸中をよぎってくる。
日中は開かれているために存在感が希薄な門だが、頑なに口を閉じ、炎の光に巨躯を赤々と染める今の威容は悪鬼を調伏する仁王像かとも思えてきてしまう。
だが、その桜守が受ける印象は当たらずとも遠くない。

桜守「……」

桜守はかがり火にちらと視線を動かす。
三つ脚に組まれた台座の上の火皿で勢いよく燃えたぎるかがり火だが、火皿に油は無い。
桜守が持っている提灯の中身と同じく、熱も実体も持たない狐火なのだ。
そして、かがり火代わりの狐火の数はざっと見ただけで御所の周りに十以上。
これだけの数と質の狐火を操れる者となると、桜守の知る中では一人しかいない。

桜守「……」

──摂政。

神の位を賜った神狐は稲荷大明神の代理として御所に君臨している。
言わば目の前の御所は摂政の領域。
強大な力を持つ者の元をみずから訪れ、かつ何をされるか分からないのだ、桜守の不安も致し方なかった。

桜守「……行くか」

このまま突っ立ってばかりもいられないと、桜守は固いツバを飲み込んで気合いを入れた。
そして、桜守が門の隣の通用口へと足を向けた瞬間、

──ゴトリ。

門の内側から、閂(かんぬき)の外れる重い音が響いた。

桜守「……っ!」

桜守が反射的に背筋を伸ばして姿勢を正すと、御所を守るようにそびえ立っていた門が内側へゆっくりと開いて行った。

桜守「……」

開き切った門の内側には、誰もいない。
だというのに、周囲から突き刺してくるような視線を桜守は感じていた。

桜守「来い、ということか」

桜守は誰にでもなくつぶやくと、決意の一歩を御所の内へと踏み出した。

〜 御所 〜

桜守が歩を進めていく度に、からからと歯の無い下駄が石畳を打つ音が辺りに響く。
それ以外、御所に人の気配は無く、虫の鳴き声一つ聞こえてこない。

異様だった。

今がどのくらいの時間帯かは分からないが、例え草木も眠る丑三つ時でさえ御所には幾人かの狐娘が在中しているはず、摂政の命令で御所へと赴いた桜守に案内役がつくのが普通である。
しかし、桜守を迎える者は誰一人として現れず、誰何の声を上げても姿を見せないために桜守は一人で摂政の元へと御所の庭を進んでいたのだった。

桜守「なんじゃ、嫌な感じがするのう……」

顔を撫でた冷たい風に一つ身震いし、桜守は不安げな視線を辺りに向けた。

御所は複数の建物から成り立っている。
居住、儀式、政務などの用途別に建てられたそれらは単体で桜守の屋敷の数倍はある。
桜守はそれらのうち、摂政が常駐している政務殿へと移動していたのだが、ふとその足を止めた。

桜守「狐火?」

ふわふわと虚空に漂う、手の平ほどの蒼い狐火が桜守の行く手を遮っていた。
桜守が眉根を寄せて訝しむ視線を向けると、狐火はゆらりと移動を始める。

桜守「ついてこい、ということか」

狐火は答えない。
代わりに、その蒼炎を揺らめかせながら『ある建物』へと進路を取る。

桜守「儀式殿?」

儀式殿は豊作祈願などの神事や、稲荷大明神の名の下に高位政務官の任命式を行う場所である。
今回、進退の話を聞きに来ただけの桜守が呼ばれる場所としては場違いだった。

桜守「……どういうことじゃ?」

桜守は考える。
だが、答えを弾き出すには情報があまりに乏しい。
桜守は必要以上に辺りへと気を配りながらも、狐火に先導されるまま儀式殿に進むしかなかった。

〜 儀式殿 〜

桜守は下駄を脱ぎ、足袋を履いた小さな足で儀式殿正面の段差を昇る。
そして木戸の前で両膝を突き、うやうやしく頭を垂れた。

桜守「桜守、参りまして御座います」

摂政「うむ、入れ」

声を上げるまでは半信半疑だった桜守だが、摂政の声が返って来たことでこの儀式殿に参上した事が間違いではなかったと理解した。
桜守は頭を上げると、木戸に手をかけて音を立てないように横へと滑らせる。
果たして、視界に入って来たのは障子に囲まれた全面板張りの殿内。
そして、その中央にて座布団に座る摂政と、その前方に敷かれたもう一枚の座布団の姿だった。

摂政「まったく、待ちくたびれたぞ」

摂政は巫女服の上に紋付きの千早を羽織った簡素な格好で言った。

桜守「も、申し訳ありません。すっかり寝入っておりまして……」

摂政「ふむ、まあよい。座れ」

摂政は自分の前に置かれた座布団を人差し指で示す。

桜守「は、はあ……」

──板張りで座布団? ていうか、なぜに儀式殿の大広間で話を?

疑問は絶えない。
だが、桜守は拒否するわけにもいかず、摂政に言われるまま静かに腰を上げて板張りの広間に進み入った。

摂政「近況は?」

桜守「な、なんら問題なく……」

摂政「階位を剥奪されておいて『問題なく』は無いだろう?」

桜守「は、はい。自身の不徳に恥じ入る毎日でして……」

──胃が痛い。

 ぺこぺこと頭を下げながら桜守は思った。
 座布団に座って対面する摂政と桜守との距離は十歩に満たない。そのため、まるで大広間の周りから十重二十重に囲まれているような威圧感が、摂政から桜守へと直にひしひしと伝わって来る。
 なんとか本題に進んでもらいたい桜守だが、急かすような真似も出来ないのがまたつらい。が──

摂政「まあ、世間話もこの程度にして本題に入るとするか」

 摂政から本題へと話を切り進めて来た。

──よっしゃ!

 心の中で小さく拳を握り締める桜守。
 しかし、続く摂政の言葉は、桜守の思いもよらないものだった。

摂政「それで本題なのだが、お前の階位を元に戻してやろうと思ってな」

桜守「……はひっ?」

一瞬、桜守の思考が止まった。

摂政「どうした? 嬉しくないのか?」

桜守「っ! い、いえっ! この身に余る光栄に御座います!」

 桜守は勢いよく摂政へと頭を下げた。
 遅れて、摂政の言葉の意味が桜守の頭の中で氷解する。

──やった!

 自然、桜守の頬は緩み、嬉しさの余りに勝手に笑みの形を作っていく。

摂政「ほう? 嬉しいのか?」

桜守「も、もちろんに御座いまする!」

摂政「ふふ、先ほどまで戦々恐々としておったくせに現金なヤツめ」

桜守「は、はは……」

 呆れた笑みを浮かべる摂政に、桜守は苦笑いを返した。
 摂政に何と思われようと、桜守にとって階位復活はとても喜ばしい事だった。

──よし! よしよしよしよし! 極めて良し!

 心が弾む。しかし、同時にちょっとした疑問も首をもたげてきた。
 ゆえに、桜守は弾んだ声のままで摂政へと聞いてみた。

桜守「しかし摂政様、なぜこのような取り計らいを?」

摂政「うむ、先日に下してしまった裁定だが、お前の言い分も一理あると思ってな」

桜守「私の言い分、ですか?」

──はて?

 内心で首をかしげる桜守。
 しかし、桜守の記憶から導き出される前に摂政の口が答えを紡いだ。

摂政「お前は言っただろう? 『ワシは悪くない』と」

桜守「あ、ま、まあ……確かに」

 桜守は愛想笑いを浮かべながら、摂政から顔を逸らすように頭を下げた。
 あの時は自分に降り掛かった責任の重さに、桜守は半狂乱とも言ってよい精神状態だった。なにも、すべて本心からの弁というわけではない。むしろ、消してしまいたい記憶という部類に入る。

──じゃが、それがこうして身を救う事になるとは、世の中は何が起こるかわからんものじゃ。

 そう桜守が安堵のため息をついた時だった。

摂政「……ゆえに、お前ではなく、蔵人と幼狐娘の両名を処断することにした所存である」

 摂政の底冷えする声が、大広間に響き渡った。

桜守「……は?」

 何を言っているのか分からない。
 再び、桜守の思考が止まる。
 すると、摂政が桜守の様子に気付いたのか、目を鋭く細めた。

摂政「うん? 聞こえなかったのか? 蔵人と幼狐娘の両名を処断すると言ったのだ。ゆえにお前は無罪放免、これまで通り忠勤に励め」

 20×20メートル程の大広間に摂政の声が波紋を打ち、広間の四隅に配された狐火が昼間のような明るさを以て二人を照らし上げる。

桜守「は、はい!」

 桜守は額に汗を浮かべ、内心で激しく混乱しながらも、摂政の静かな気迫に押されるままに頭を下げて承諾した。

摂政「……よし、話はこれで終わりだ。妾は無駄が嫌いなのでな」

 摂政は桜守をちらと一瞥してうなずくと、座布団から腰を上げようとする。
 桜守はあわてて口を開き、摂政を押しとどめた。

桜守「お、お待ちください摂政様!」

摂政「なんだ? まだ用があるのか?」

桜守「そ、その……蔵人と幼狐娘にはどのような処置を……」

摂政「聞きたいか?」

 途端、摂政は凄味を帯びた、それでいて感情を映さないガラス玉のような瞳で桜守を睨んできた。

桜守「ひっ」

 桜守の頭頂から尻尾の先まで怖気が走った。
 血の気が一気に引き、桜守は氷水を浴びせられたかのような青ざめた顔で息を詰まらせてしまう。

摂政「はは、そんなに怯えるな。お前には『関係ない』ことなのだからな」

 そう言って口元を吊り上げる摂政だが、目はまったく笑っていない。

摂政「まあ、そうだな。どうしてもと言うならば聞かせてやろう」

桜守「……」

──聞きたくない!

 恐怖に目を見開いたまま、桜守は叫んだ。
 だが、震える唇では声をまともに発する事も出来ず、言葉は胸中にとどまるに過ぎない。

摂政「聞けば、お前は二人に言ったそうだな? 『首でも折れて死んでしまえ』とな」

 止める者もいないため、坦々とした口調で摂政が話を続ける。
 この時点で、桜守には話の終着点がうっすらと見えてきた。

摂政「そして、二人の罪科は一つ桜の枝を『折る』ときている。……なんとも数奇な符合よな?」

桜守「……」

 汗が滝のように顔を流れ落ち、心臓が早鐘を打つかの如く鼓動を刻む。
 桜守は今にも泣き出しそうな眼差しを上げて摂政に縋ろうとするが、摂政は縋る手を振り払うように、厳然たる態度で桜守へと告げた。

摂政「二人への処罰は死罪! 処刑法は一つ桜の頂点から地面へ向け、死ぬまで頭から何度でも叩き落とし続ける、以上!」

桜守「死……罪……」

 桜守は目を剥き、愕然とした。
 摂政のいやに酷薄な様子から予想は出来ていた。
 摂政が、必要ならば情を挟まない苛烈な裁定を下せるのも知っていた。
 しかし死罪という裁定と一つ桜の頂点から叩き落とし続けるという処刑法は余りにも酷で、到底桜守に納得できるものではなかった。

摂政「どうした? 納得できないといった表情だな?」

 桜守の青ざめた顔を見ながら摂政が静かに説明を始めた。

摂政「此度の処置は若干残酷な物であるが、象徴的な意味合いを考慮してのものだ」

桜守「……象……徴?」

 おうむ返しに桜守が問い返すと、摂政は小さく首を上下にうなずかせた。

摂政「そうだ。蔵人は客人であるが、村の外の、まして狐ではなく人間である。外部の人間が稲荷大明神様の気の懸かった桜に手を出して損壊させたという事実、その発端となった幼狐娘。これらを看過しては稲荷大明神様の沽券に関わりかねない」

 人が神の持物に手を出したという、分をわきまえない行為の事実。
 悪しき前例が危機として萌芽するより先んじて摘み取る。
 それが摂政の言い分。
 だが、それに賛同する事は桜守には出来かねた。出来るはずがない。
 摂政に賛同する事は、すなわち蔵人と幼狐娘の死罰を認めることになるのだ。短い間ながらも親しく言葉を交わし、呆れながらも笑みを向け合った二人の死罰を。
 ゆえに、桜守は萎えた心を奮い立たせ、震える唇から言葉を必死に吐き出して抗議した。

桜守「しかし! それは論理の飛躍では!? 稲荷大明神の威光はその程度で曇りは……!」

摂政「……妾の裁定に口を挟むか?」

桜守「……っ!」

 駄目だった。
 摂政が一睨みするだけで、桜守の言葉は肺の中に縫い止められてしまう。
 しかし、桜守は引き下がらない。どうしても、引き下がりたくはなかった。

桜守「し、しかし……でもそれは……あまりにも酷にして、慈悲深いという稲荷大明神様の評を……貶めかねないものにあらせられまする……」

 何とか食い下がろうと、震える声で言葉を紡ぐ桜守。
 対する摂政は桜守の言葉を受けて、何事か思案するように天井を見上げる。
 そして、顔を上に向けたままで摂政はポツリとつぶやいた。

摂政「……ふむ、お前がそこまで言うのならば、二人の減刑を考えてやってもいい」

桜守「ほ、本当にあらせられますか!?」

 桜守は摂政へと詰め寄るように座布団から身を前へと乗り出した。

摂政「妾も鬼ではない、かかる裁定は稲荷大明神様と狐たちの未来を考えての処置。他に始末をつける方法があるのならば前言を覆すこともあり得る」

桜守「他の方法?」

摂政「……誰かが責任を取ればよい、蔵人と幼狐娘の代わりにな」

 摂政はことさら大きく一つ息を吐き出すと、天井に向けた顔を下げ、桜守の顔をじっと見つめてきた。

摂政「妾の言っている意味は理解できるな? 『桜守』よ」

桜守「なっ……」

 摂政の視線の圧力に弾かれるかのように、桜守は前へと乗り出していた身を元の位置へと仰け反らせた。

摂政「……」

 対面の摂政は背筋を伸ばしたまま、言うべき事は言ったとばかりに口を閉じて桜守の瞳を見据えてくる。
 細められた摂政の瞳には威圧するような迫力があるが、それは裁定を下す法の番人として真摯に事態へと取り組む姿勢の表れにすぎない。
 現に、摂政は高圧的に何かを強制するわけでもなく、ただ桜守へと視線で問い掛けるだけだった。

──お前に二人の責任を負う覚悟はあるのか、と。

桜守「……」

 責任と覚悟。
 それは桜守がひたすらに逃げ続けてきた物だった。
 事態が危うくなったら真っ先に逃げ、代わりの誰かに責任を擦り付けてやれば自分が不利益を被ることもない。
 そんな自分自身の悪行に心が痛む時もあるが、生き残るためだ、階位を守るためだと、陳腐な言い訳で心の傷を慰め続けた。
 それでいいのだと、金と権力さえあれば生きていけるのだと、自分で自分に言い聞かせた。
 右も左も分からぬうちに他人から与えられた階位だ、上に立つ者の覚悟など初めから有る訳も無く、育む土壌も自分で叩き潰した。
 すべては自分が、自分だけが生き残るために。

桜守「……」

 しかし、そんな他人を蔑(ないがし)ろにした考え方が、逃げるだけで悪に徹する事も出来ない半端な考え方が、社会で通用し続けるはずが無い。

 ついに首根っこを掴まれた桜守は、目の前に蔵人と幼狐娘の命をちらつかせられ、どちらに転んでも相応の責任と覚悟を必要とする決断を迫られていた。

桜守「……もし」

摂政「うん?」

桜守「もし、私が責任を被るとしたら、いったいどのような処罰に?」

 問題は天秤の傾き加減。
 こうやって呼び出し、階位の復活やら二人の処罰やらをいちいち摂政みずからの口で桜守に教えてくれるのだ。
 もしかしたら、被る責任も少しは──。

摂政「階位剥奪のまま、数ヶ月と立たずに村からの追放が決まるだろうな」

──天秤が、弾け跳んだ。

桜守「……」

 吐き気すら覚えるほどの、凄まじいめまいが桜守を襲う。
 天地が逆転したかのような衝撃。
 だが、さもありなん。
 摂政の置いた重りは天秤の基部、桜守の価値観にして絶対に認める事が出来ないものだった。

桜守「……」

 嫌な汗が止まらない。
 喉元に胃液がせり上がってくる。
 桜守は後ろに崩れ落ちそうになる体を左手で支え、歪んで引きつる顔を右手で覆うように隠した。

摂政「して、お前の返答は如何に?」

 しかし、摂政はそんな桜守に返答を求めてくる。

桜守「……」

 桜守は答えられない。
 桜守の頭はあまりの衝撃に過負荷状態。
 とても、ものを考えられる状態ではなかった。
 階位は、権力は、桜守の唯一の寄り辺。自身の存在価値そのもの。
 それを手放して残されるのは、矮小で、卑屈で、醜悪な、何も取り柄の無い自分だけ。
 果たして、階位を失い、社会的に抹殺された状態で、そんな自分が生きていけるだろうか?
 いや、疎まれ、蔑まれ、虫けらのように扱われたあの頃と大差ない日々が待ち受けているに違いない。

桜守「……」

 そんなの耐えられるわけが無い。
 階位を失う事は、絶対に避けねばならない。
 だがそれはすなわち、あの二人を見捨てるのと同義である。
 親しく笑顔を見せ合ったあの二人を。

桜守「うぅ……」

 答えが出ない。出せない。
 ゆえに、桜守は口を閉じて黙するしかなかった。

 時が無為に流れてゆく。
 桜守からしたら、永遠に続くような重苦しい時間。
 しかし、それもわずか数十秒の出来事。やがては終わりを告げる。

摂政「……ふぅ」

 桜守に会話を続ける気が無いと見たのか、摂政は睫毛を伏せ、つまらなそうにため息を吐いた。
 そして摂政はそのまま座布団から腰を浮かすと瞼を開き、軽く着物を正して両の脚で立ち上がりながら、桜守へと口を開いてきた。

摂政「話は終わりだな。刑の執行は二日後、以上」

 そして摂政はひたひたと板張りの床を、桜守の背後の出口へ向かって歩き始める。

桜守「……」

 行ってしまう。
 摂政が、蔵人と幼狐娘の命を助ける機会が、桜守の手から永遠に離れて行ってしまう。
 だというのに、桜守は未だに決めかねていた。

──どちらを選び、どちらを切り捨てるか。

 長い年月の経過によって凝り固まった価値観は変えようも無い。
 自分を守る砦を、自分の唯一の寄り辺を、どうして自分の手で崩せようか。
 しかしだからといって、二人を切り捨てる事を考えると、言い様もない痛みが桜守の胸を突き刺してくる。

桜守「……」

 落ち着け、感情ではなく理性で考えろと、桜守は必死で自分に言い聞かせる。

──自分に必要な物は何か?
──自分に大切な物は何か?
──自分を救う物は何か?

 今までの経験を元に、脳が答えを導く。
 答えは一瞬で弾き出された。地位と権力、それ以外に無いと。

桜守「……」

 そうだ。間違いない。
 経験が言っているのだ。
 世の真理を。生存に必須な物を。つらく、苦しい、生死に関わるひもじさに直面した経験が言っているのだ。

──二人を切り捨てろ、と。

桜守「……」

 桜守は沈黙する。
 それでよかった。
 そうすれば、摂政が桜守の前からいなくなり、話は自然と終わる。
 桜守の手元に、必要な物だけが残る。
 そんな考えで、隣を通り過ぎて行く摂政の着物の裾を、桜守はただ横目に見て──。

桜守「お、お待ちください!」

 桜守の声が、大広間に響き渡った。

摂政「なにか? いきなり大声を上げて」

 摂政は驚いたように目を丸くして、桜守の方に顔を向けてくる。
 だが、何よりも驚いていたのは桜守自身だった。
 反射的に、喉奥から声が発せられたのだ。
 それは桜守にとっても、まったく思いもよらない行動だった。

桜守「えと……そのっ……これは……」

 ゆえに桜守も何と続けて良いのか分からず、摂政の方に顔を向けたまま、すぐにしどろもどろになってしまう。

摂政「……ちっ」

 そのどっちつかずの様子が気に障ったのか、摂政は目を細めると小さく舌打ちした。
 それで急かされてしまった桜守は、ますます混乱してしまう。

桜守「ち、違うのです……あの……あのっ……」

摂政「ええい! はっきりと言わんかッ!」

桜守「ひぃっ!」

 ついに、摂政の怒りが噴出した。

摂政「妾は無駄な事が嫌いだと知っておるだろうが! その上で妾に無駄口を叩くつもりか!」

桜守「う、あ……」

 桜守は摂政から逃げるように体を仰け反らせ、首を勢いよく横に振って否定する。
 摂政の怒気にあてられ、桜守はすっかり腰を抜かしてしまっていた。

摂政「ならばお前はどうする気だ! 二人を助けて階位を捨てるか!」

 摂政の怒声が、動けぬ桜守に浴びせかけられる。
 桜守は声も出せず、代わりに震える首を横に振って応えた。

摂政「……ならば、二人を見殺しにして自分だけのうのうと過ごす気か!」

桜守「う、うぅ……」

 この摂政の問いにも、桜守は首を横に振って応えた。

摂政「はっきりしろッ!」

桜守「ひっ……」

 摂政の一喝。
 桜守の潤んだ瞳から一気に涙がこぼれ始める。

桜守「う……うぅ……」

 桜守は嗚咽を漏らしながら、両手で自分の頭を抱え、すべてを否定するように首を横に振り続けた。

摂政「……もうよい! 時間の無駄だ!」

 肩を震わせ、怒り心頭に発した摂政が再び脚を動かし始める。
 だがそれを見た桜守は、隣を通り過ぎて行こうとする摂政の脚に咄嗟に飛び付き、その場から動けぬように全力でしがみついた。

摂政「なにをするか! まともに言葉を紡ぐ事も出来ぬ者と問答するほど、妾は暇では──」

桜守「もういやじゃあぁぁぁぁぁぁッ!」

 断末魔にも似た桜守の悲痛な叫び声が、大広間を激しく震わせた。

摂政「……なっ!?」

桜守「もういやじゃ! もういやじゃッ! 何でワシばかりこんな目に遭うのじゃ!? 何で、みんなしてワシから大切な物を奪って行こうとするのじゃ!?」

 桜守は摂政の脚にしがみついたまま頭を振り乱す。
 涙が珠をつくり、宙に散った。

桜守「教えてくれぃ! ワシはどうすればよいのじゃ!? 何が正解なのじゃ!?」

摂政「ま、待て! 落ち着け! ひとまず妾の脚から離れよ、話はちゃんと聞いてやるから──」

桜守「ウソじゃッ!」

摂政「っ!」

 桜守は悲痛に眉を歪め、瞳から溢れる涙で顔をべたべたに濡らしながら、しかし確かな意思を瞳に宿し、摂政の言葉を遮るように断言した。
 それは摂政にとってまったく予期出来なかったものだったらしく、摂政はアワを食ったような顔で、桜守に気圧されるように上体を僅かながら後ろに引いた。
 そのまま数瞬、桜守と摂政の視線が交差する。
 再び口を開いたのは摂政が先だった。

摂政「……ウソとはどういう意味だ? 妾を侮辱する気か?」

 立ち直った摂政が眉間にシワを寄せ、怒りを露に桜守へと聞いてくる。
 普段の桜守ならばここで言葉を詰まらせるが、言動を抑制にかかる弱気はすべて、普段の言葉遣いを隠す美辞麗句と共に砕け散っていた。

桜守「侮辱ではない! 事実じゃ!」

 ──なので、桜守は臆する事無く摂政へと言い放った。

桜守「摂政様はワシの話をまともに聞いてくれた事はない! いつもフリだけじゃ! ワシの言葉に適当に相づちを打つばかりで、いつも面倒くさそうに、腫れ物に触るようにワシを扱うではないか!」

摂政「なっ……! ち、違う! それは!」

 ここにきて初めて、摂政が目に見えて焦り始めた。
 しかし、摂政が何かを言うよりも先に桜守は一息に畳み掛けた。

桜守「ならばなぜワシをこの村に連れてきたのじゃ!? 才や財を何一つ持たぬワシを、何故に階位を与えて貴人として手厚く扱うてくれたのじゃ!? 答えてくれ!」

摂政「……」

 桜守の懇願、叫びを受け、摂政は何かを言おうと口を動かす。
 だが口の中で呻くように声が漏れ聞こえてくるだけで、形にならない。
 摂政は渋面をつくり、強く下唇を噛み締めた。

摂政「……桜守よ、話を逸らすでない。いま話を進めるべきは蔵人と幼狐娘についての処遇である」

 桜守に詰め寄られた摂政がおもむろに口を開くが、声は芯が抜けたみたいに弱々しく、先ほどまでの威圧感は無い。
 その言葉に、今の桜守を止める力は当然ながら備わってはいなかった。

桜守「わかっておる! しかし、自分でも押さえ切れんのじゃ! 胸の内で色々なものが渦巻いて、口を閉じればそのまま張り裂けてしまいそうなんじゃ!」

摂政「……」

 桜守が涙ながらに摂政を見上げると、摂政はそれで再び口を閉じた。
 そのまま桜守は続ける。

桜守「摂政様に拾われる前、ワシは今にも飢えて死んでしまいそうじゃった。それを助けてくれた摂政様には感謝してもしきれない程じゃ。
 ……しかし」

 桜守は言葉を区切り、大きく息を吸い込むと、腹の中につかえていたわだかまりを一気に吐き出した。

桜守「ワシはそんな摂政様が……恐ろしくて堪らんのじゃ!」

摂政「な、なんと!?」

 摂政はその言葉に、信じられないといった顔を浮かべた。

摂政「い……いま、妾が恐ろしいと言った、のか……?」

 桜守の言葉がよほど衝撃的だったのか、摂政は目を見開き、その自分の顔を右手で隠すようにしながら呆然と桜守に問い返す。
 桜守は一瞬、摂政のそんな顔を見て胸を突き刺すような痛みを覚えるが、小さく首を上下させながら摂政へと答えた。

桜守「摂政様は聡明で定見のある御人じゃ。ワシなんかを手元に置いておく理由が、ワシには一つしか思いつかなんだ」

摂政「なんだ、言うてみろ」

桜守「……身代わりじゃ。摂政様にも拭い切れぬ問題が起きた時、人身御供としてワシの命を火消しに使う算段じゃと、ワシにはそれしか……」

 桜守がそう言うと、摂政がすぐさま声を荒げて割って入ってきた。

摂政「な、なにを言っておるのだッ! 妾がそのような事をするわけがなかろう!?」

桜守「……じゃが、摂政様はまともにワシと話し合ってくれた事は無い……それを教えてはくれなんだ……」

 そこで嗚咽が込み上げて来て、桜守は小さく鼻を鳴らしながら肩を揺すり始める。

摂政「……くっ」

 それを棒立ちで見下ろす摂政の顔はまるで痛みを我慢するかのように歪み、深いシワが刻まれていた。

 桜守は蚊の鳴くようなか細い声で続けた。

桜守「……じゃが、ワシは人身御供に捧げられるまで皆と仲良くしようと……その日その日を誠実に生きていこうと思っておった……じゃが、じゃが駄目じゃった! ワシの性根は腐り切っておったのじゃ!」

 不意に桜守は頭を大きく左右に振り乱し、叫んだ。

桜守「ワシは劣等感でいっぱいじゃった! 周りの誰よりも劣っておるからあんな目に遭ったのじゃと、そう考えておったのじゃ! じゃから、摂政様に与えられた階位をその場しのぎに唯一無二の自身の価値として、他者を見下したのじゃ!」

摂政「……」

桜守「もちろん、今ではすべて理解しておる! 自身の無能も、矮小さも、卑屈な精神も! じゃが、分かっておっても変えられん……もう、変えられんのじゃ!」

 わめき散らすように、桜守は声を張り上げた。

桜守「ワシは、今のワシは、ワシを引き取った親戚のクズ共と……同じ存在になっておったのじゃ! 他者を見下し! 金と権力にしがみつき! 嫌な事があったら逃げて! 責任を誰かに擦り付ける! 最悪の奴らの一員になってしまったのじゃ!」

摂政「……」

 桜守は胸に堆積させ続けた思いを吐き出し続ける。
 摂政は何も言わず、それを黙って聞き続けた。

桜守「実を言うと人身御供に捧げられるよりも何よりも、ワシはそれが一番恐ろしかった。それが他者に露呈し、親戚のクズ共とワシが同格のものと見られるのが一番恐かった。
じゃから、ワシは極力他者との関わりを持たぬように突っぱね、差し伸べられた好意の手すら振り払った」

 摂政の脚を掴む桜守の手に一際力がこもる。
 桜守は泣き濡れた顔を摂政から外し、俯き加減に小さく震える声をこぼした。

桜守「恐いのじゃ……他者の視線が、声が、ワシを悪だと責め立てるようで……しかし生き方を変えることはワシには出来ん。歪み、ねじくれた価値観でもワシの寄る辺はそれしかないのじゃ……」

 そう桜守が口を閉じる。その時だった。

摂政「……お前は、決して悪ではないよ」

 下げられた桜守の頭の上に、ふわりと何かが被さってきた。

桜守「……えっ?」

 桜守の上に被さってきていたのは紋付きの千早。
 腰を曲げ、桜守の頭を包み込むように抱く摂政の腕だった。
 そしてえづき続けていた桜守に、摂政は優しく言い聞かせるように語りかけてきた。

摂政「お前は悪なんかじゃない、妾には分かる。お前が本物の悪ならば、なぜに自分が悪であると悩み苛まれなければならないのだ? お前の心根は腐ってなどおらんよ」

桜守「……摂政様」

摂政「それに、お前は無能なんかじゃない。性格に少しくらい難があったとしても、今まで与えられてきた責務はちゃんとまっとうしてきたではないか。
それは階位でも何でもない、お前自身の実績だよ」

桜守「し、しかし……ワシは……」

摂政「ええい、まだるっこしい!」

 摂政はその場にどっかと腰を下ろすと、桜守の頭を自分の胸元に引き寄せた。

桜守「わぷっ!? 摂政様!?」

摂政「妾が許す。全部許す。だから思い悩むな」

桜守「……」

 摂政は半ば無理やりに桜守の頭を自分のふくよかな胸元に押し当て続ける。
 正直、息苦しさを感じる桜守だったが、それ以上に、込み上げて来る思いが胸を詰まらせた。
 ひりひりと痛む目頭がさらに熱くなるのを感じて、桜守はぽつりとつぶやいた。

桜守「……これでは、摂政様の服が汚れてしまうのじゃ」

摂政「構わん。それに、妾にも責任がある」

桜守「摂政様にも責任?」

 桜守は顔を上げようとしたが、押さえつけるように摂政の両手から頭を撫でつけられ、そのまま動きを止めた。

摂政「ああ、妾の曖昧な……無責任な行動が、お前を苦しめてしまったのだ。それも一度ではなく、三度も」

桜守「三度? なにを言っておるのじゃ摂政様?」

 桜守は頭を上げる。
 摂政の両手は桜守の髪を梳かすように流れて、桜守の両肩へと落ち着いていた。
 そして、摂政は桜守の瞳をしかと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

摂政「こうなったのだ、全部言おう。妾の業を、過去に犯した過ちを、全て」

…………………………

摂政「あれは今から十数年前のこと、妾がまだ摂政ではなくただの一政務官だった時の話だ」

桜守「……」

 桜守は座布団に座り、口をつぐんで静かに摂政の話を聞く。
 その正面で摂政もまた座布団に座り直しているが、二人の距離は手を伸ばせば届くほどに接近していた。

摂政「両親から恵まれた才を授かった妾は着々と出世し、周囲からの羨望と嫉妬の眼差しを受けることとなった。だが、その渦中において他者の醜い内面と幾度となく相対することとなった妾は疑心暗鬼となってしまっていた」

桜守「摂政様が疑心暗鬼に陥った……」

 今の芯が通った摂政からは少し想像出来ず、桜守が目を丸くする。
 すると、摂政が軽く説明してきた。

摂政「荷物を隠されたり衣服を気付かない程度に切り裂かれたりと、軽度のイタズラを延々とされ続けてな。まあ、後々にイタズラしてきた全員を再起不能なまでに叩きつぶしたがな」

桜守「は……はは……」

 ニヤリと不敵に笑う摂政に桜守は苦笑いを浮かべるしかない。

摂政「まあ、そんなこんなで誰も信用出来なくなっていた妾だが、ある日、一人の女官と会ったのだ。その女官は妾より階位こそ低かったが、誰にでも笑顔で接する気立ての優しい奴でな、疑心暗鬼に固まっていた妾の心をたちまち解きほぐしてしまった。
 そして、あっという間に妾とその女官は仲良くなり、階位を越えた友となったのだ」

 過去を懐かしんでいるのか、摂政の頬が和らぐ。
 それだけで、二人は本当に仲が良かったのだなと桜守は納得した。

桜守「良い友人だったのですじゃな……」

摂政「ああ、そしてお前の母親でもある」

桜守「……は?」

 桜守は口を開けたまま固まった。

摂政「だから、その女官はお前の母だ。当時、お前の母はこの村にて稲荷大明神様に仕えていたのだ……知らなかったのか?」

桜守「は、初耳ですじゃ!」

 それは本当に摂政の話を聞くまで桜守も知らなかった事実だった。

桜守「母様が、この村に……」

 理由もわからず桜守の心臓の鼓動が早まる。
 桜守は胸を押さえて、今は遠い母の残影に思いをはせるようとするが、それより先に桜守の正面で摂政が小さく微笑んだ。

摂政「話を続けて良いかな?」

桜守「あ、はいですじゃ」

 桜守は一旦考えるのをやめ、再び摂政の話に耳を傾けた。

摂政「あやつは本当に、本当に良い奴だった。妾はどれだけあやつに救われたか」

 懐かしむように語る摂政だったが、そこで急に声の調子を落とした。

摂政「……しかし、妾はその恩をアダで返してしまったのだ」

 摂政は瞼をかたく閉じ、柳眉を歪めて沈痛な面持ちを浮かべる。
 そして、そのまま数秒の沈黙。
 よほど内に秘めたものが言いにくい事なのか、摂政の葛藤が桜守にも伝わってきた。
 だがやがて摂政は静かに瞼を上げる。葛藤を終えたその瞳は桜守を真っ直ぐに見据えていた。

摂政「……ある年のこと、大風がこの日の本の国を横断した。その規模は凄まじく、物や人に多くの被害が出た」

桜守「大風? いったいそれが母様と……」

摂政「まあ待て、ちゃんと話す。
 ……その大風の被害は当然ながら我々、狐たちにも影響が及んだ。そこで我々は被害の規模を調査確認し、被害を受けた現地狐たちへの支援交渉を行うため、各地へ調査官を送らなければならなくなった。
 その中で妾に与えられた仕事は、誰をそれらの調査官へ任官するか、だった」

 摂政が一つ息を飲み込み、続けた。

摂政「妾は被害甚大なる地域は治安が悪く、交渉も難しいと見て手練の者を送り、被害軽微なる地域へは熟達のために経験が浅い者を複数人で行かせた。この判断は稲荷大明神様の御了承を受けた上で行ったために特に問題はなかった。
 ただ、ここで……これは……妾は問題を……」

桜守「……?」

 ふと、しどろもどろになり始めた摂政に桜守は小首を傾げてみせる。
 どうかしたかと声をかけてみようとする桜守だったが、それは手のひらを小さく上げてきた摂政に止められた。

摂政「大丈夫だ、言葉を選んでいただけだ気にしないでよい。話を戻す。
 ……適材適所という考え方に間違いは無かったのだが、それには選定する者に相応の眼力が必要とされる。誰がどれに適するかを判断する眼力がな。
 そして、当時の経験未熟な妾にその眼力は備わっておらず、結果、過ちを犯してしまった。
 取り返しのつかない過ちを……」

桜守「過ちを? それは…………っ!」

 口に出したところで、桜守は気づいた。
 話の断片が繋がり、流れが見えたのだ。
 だが、桜守の頭に浮かんだ予感は、『それ』を認める事は……。

摂政「……気づいたか、賢いなお前は、本当に頭の巡る。アイツに良く似ているよ」

 摂政はどこか悲しげな笑みを浮かべて言うと、背筋を心持ち伸ばして、桜守に『それ』を告げた。

摂政「お前の母親と父親に調査官としての出張を命じ、死なせたのは──妾だ」

桜守「……っ!」

 桜守は目を見開いた。
 大きく脈打った心臓につられるように、桜守の体が小さく震えた。
 衝撃に固まる桜守に、摂政は視線を伏せながら説明する。

摂政「被害の大きな地域はそれだけ人の関心を集める。情報も広がりやすく、早々に経験豊富な調査官が任官出来た。
 だが問題は被害の軽微と思われる地域、なにぶん被害範囲が広すぎて入って来る情報は細々としており、こちらで大まかな予測を立てるしかなかった。
 本来、同行させるべき熟達者も人手不足で払底状況にあり、経験未熟な者をまとめて送るしかなかったのだ」

桜守「し、しかし、それは摂政様の失策という訳ではないのじゃ! こうやって聞くだけでも、芯の通ったもっともな話じゃと……」

摂政「違うのだ」

桜守「えっ?」

 ゆらりと、摂政が顔を上げた。
 そして、それを見た桜守は思わず息を飲んだ。
 摂政は悲痛な、桜守も今まで見たことが無い、今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべていた。

摂政「他の者が任命する役を拝していたならば、あんな事にはならなかった。妾の責任以外に理由があろうはずがない」

桜守「……」

 やけになって自分を責めている様子でもない。
 何かしらの、確信に至る理由がある。
そう感じた桜守はじっと、続く摂政の言葉を待った。

 やがて摂政がおもむろに口を開き、話を再開する。

摂政「ある日、被害軽微な地域に調査官を割り当てている途中、一つの地域が妾の目についたのだ」

桜守「……それは?」

摂政「京だ。この日の本の国において最大の、人間たちの都市だ。
 それだけあって、京から入って来る情報は多く、正確な物だった。妾はその情報から、すぐに京は被害が軽微なるものだと判断した。
 ……そして、誰を調査官にしようかと考えた時、ふとお前の母親が頭をよぎったのだ」

桜守「……なぜに?」

摂政「一度でよいから京見物に行ってみたい、そうお前の母親が言っておったのを思い出したのだ。
 妾は京の被害が軽いために安全だろうと判断して、複数人で行かせる所をお前の母親一人だけ調査官に任命し、その連れ合いとして一家での旅行をさせてやろうとした。……もっとも、公私混同はダメだとお前の母親自身から諭され、幼かったお前は家で留守番することになってしまったが」

桜守「なんと。じゃが、それじゃと京は安全ではなかったのか?」

摂政「京自体に大風の被害は少なかったが、周りの村や町は違うのだ。最大の都市は最大の物流拠点でもある。そこが無事ならば、荒廃した村や町を生活苦から捨てて流れてくる者が多くなるのは必定。結果的に貧しき民を多数抱えた京の治安が悪化するのも必定。
 だが、当時の妾は机上で計算するだけの世間知らず、そんな必定すら目に入らなかった」

桜守「……」

摂政「そして、お前の母親から最初の手紙が届いた。我が目を疑った。書かれていたのは仲睦まじい夫婦の記録ではなく、死屍累々たる京の地獄のような有り様だったのだ。
 大風の影響による不作で食物の値段が高騰、町人ですら米を食えない状態、家を捨てて一縷の望みを持って京へ来た者たちは盗賊になるか餓死かの二つしか選べない。
 京では連日、数十件の強盗殺人が起き、商家への焼き討ちも後を絶えない。
 京は最大の都市であるが、それは物が流れてきてこそだ。消費する人間だけが流れ、需要のある物の流れが止まった時点で、京の都市機能は破綻していたのだ」

桜守「それでは、母様と父様は……」

摂政「……妾はすぐさま帰還するようお前の母親に伝えるため伝令を出した。だが、伝令はお前の母親と父親に接触する事も出来ず、お前の母親から二通目の手紙が来ることも無かった……」

桜守「……そう、か」

 桜守はそれだけ言って、脱力するように肩を下ろした。
 今まで知らなかった、知らされなかった真実は、思いのほか容易く胸に溶け込んでいった。反発するような気持ちはなぜか感じない。もしかしたら短時間にあまりにも多くの事があったため、単に精神がマヒしてしまっただけなのかもしれない。
 脱力。
 それは形容しがたい疲労に包まれた脱力だった。

摂政「妾は自分の手で友を死地へと送ってしまったのだ。到底許される行為ではない。
 そして妾はその罪から逃げるように職務に一層深く取り組んだ」

 摂政は嘆息すると、桜守を見る目に力を込めてきた。

摂政「だが、それは現実から目を背けるのと同義だったのだ。
 現に、妾は無意識のうちに終わらせようとしていたのだ。葬式に参列し、見舞金を払い、そしてアイツの娘であるお前から遠ざかった。それがお前にとって幸せなのだろうと、妾なんぞに顔を出されるよりも親戚に囲まれて暮らした方が好ましいだろうと理由をつけてな。
 ……だがまさか、お前があんな酷い扱いを受けておったとはッ!」

 摂政は眉間にシワを寄せ苦悶に歪んだような顔で、首を大きく一度横に振り払った。

摂政「妾はお前から母を奪っただけではなく、絶望の淵へと突き落としてしまったのだ!
 お前の噂を聞き訪ね、泥にまみれて痩せ細ったお前を見つけた妾は驚愕した。 妾は友を殺しただけではなく、その娘の命さえ奪うところだったのだ!」

桜守「ま、待つのじゃ摂政様! 摂政様が母様を殺した訳でも無し、ワシが親戚に酷い扱いを受けていたとも知らなかったのじゃろう?」

摂政「知らなかったからといって、それが理由にはならない!
 それにもし妾が悪くないというならば、なぜ妾の心はこうも激しく痛むのだ!? お前に残るアイツの面影を見る度に、なぜ妾は自分自身に憤りを覚えるのだ!?」

桜守「せ、摂政様……」

摂政「そして、妾は誓ったのだ。お前を一人前に育て上げようと、アイツの出来なかった事を代わりにすべてやり通そうと。それが妾に出来る唯一の贖罪だと信じてな。
 ……だが結果はこれだ!
 お前は妾のせいで一人思い悩み、苦しみ続けた!
 妾は無理やりにお前を村に連れてきて、よかれと思って階位を与えたが、それがお前の価値観をいびつに歪めてしまった!
 妾は……妾はお前に、何一つアイツの代わりをしてやる事も出来なかったのだ!」

 摂政の叫びは涙で濡れていた。
 摂政が長年胸に秘めていた思いが、慟哭となって現出した瞬間だった。

摂政「これが……妾の真実なのだ。友を死なせ、無責任な考え足らず。神狐とうそぶいてみても、その実は矮小なる一匹の女狐にすぎぬのだ」

桜守「……」

摂政「桜守よ……妾を殴れ」

桜守「えっ?」

摂政「今なら分かる。妾は恐かったのだ。お前に真実を話すことを恐れていたのだ。卑怯者、母殺しとの罵りを受けることを嫌い、お前と無意識に距離を置いていたのだ。
 ……表向きではお前を一人前に育て上げると決心しておきながら、私はお前から目を背けていたのだ。妾はお前に殴られるだけのことをしていたのだ」

桜守「だから殴れと?」

摂政「ああ、むしろ殴れ。妾に怒りをぶつけてくれ」

 摂政の目は真剣そのものだった。
 笑って流すのも憚られる雰囲気に桜守はこくりと頷くと、座布団から立ち上がり、ゆっくりと右手を上げた。

摂政「……」

 摂政が両目を閉じる。
 潔く処刑を待つ罪人のような、来るべき日を待ち望み続けていた聖人のような、そんな顔だった。
 そして、桜守は高く上げた右手を摂政に向けて振り下ろす──

摂政「……っ!?」

 ──ように見せて、両手を広げてそのまま摂政に飛び付いた。

摂政「……なっ、なぜ殴らない? 苦しんだのだろう? 辛かったのだろう? 怒りの矛先を、諸悪の根源である妾に向けるのが道理であろう?」

 アワを食った摂政が桜守の体を支えながら疑問を飛ばしてくる。
 桜守は摂政の胸元に顔を押し付けながら、首を横に振った。

桜守「殴れぬ。例え摂政様の采配に問題があって母様と父様が死……いや、失踪したとしても、ワシには摂政様を殴ることは出来ぬ」

摂政「な、なぜ!?」

桜守「……こんなにも」

摂政「……?」

桜守「こんなにも、母様とワシを思うてくれておる摂政様を殴ったら、ワシは父様と母様に顔向け出来ぬではないか……」

摂政「……っ!」

 桜守の両の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
 桜守は嬉しかった。
 摂政の言葉には、悩み、苦しみ続けた者の重みがあった。
 例え、暗く淀んだ悔恨の叫びであったとしても、それは摂政の本心の言葉であり、摂政の実意ある真実なのだ。
 そしてそれは他ならぬ母と父と、桜守を思って積もり積もった苦悩の山でもある。
 それほどまでに自分と母の不幸を思い嘆き、これほどまでに心を痛めてくれる相手を、いったいどうして殴ることが出来ようか。
 摂政の心の一端に触れた桜守は喜びに打ち震えると同時に、空虚だった心が暖かいもので満たされていくのを感じていた。
 摂政への畏怖、小さな反発心、それらすべては桜守の心のうちに溶けて消え失せたのだった。

摂政「しかし……妾は罪を……」

桜守「摂政様のした事が罪になるならば、ワシの独りよがりなワガママなんか万死に値してしまう。
 それに母様と父様は摂政様を罰する事を良とせぬはずじゃ、絶対にな」

摂政「そんなこと……なぜ分かるのだ?」

桜守「母様と父様の娘であるワシがそう思うからじゃ。ワシは今、摂政様をちっとも恨んでおらんし、代わりに心は感謝でいっぱいじゃ」

摂政「感謝? 妾に感謝だと?」

桜守「摂政様、もう苦しむ事は無いのじゃ。摂政様──」

 桜守は摂政の胸元から顔を上げ、心の声を言葉に変えて摂政に贈った。

桜守「ありがとう」

摂政「──!」

 途端、眉根を寄せて気の落ちた顔をしていた摂政の顔が驚きに変わると、それが涙と共に歪み、崩れた。

摂政「くっ……うぅ……」

 歯を食い縛り、口を閉じる摂政だが、口の隙間から嗚咽が漏れてしまう。
 だが、桜守はそれを止めようとはせず、全部吐き出させるように声をかけ続けた。摂政が少しでも楽になるように、自分の気持ちをただ伝え続けた。

桜守「ありがとう……ありがとう、摂政様……」

摂政「あぁ……うぅ……」

 二人はそのまま肩を寄せ合い、すすり泣き続けたのだった。

──十分後。
 落ち着いた二人は目尻の涙を指で拭っていた。

桜守「……しかし、なんじゃ。もっと早く腹を割って話をするべきじゃった」

摂政「そうだな、まったく……その通りだった」

 どこか清々しい顔で、摂政は答えた。

摂政「妾も、お前も、自分の腹に抱えてないで口を開けば良かったのにな」

桜守「うむ。……ちなみに言うておくが、母様と父様はあくまでも『失踪』じゃ。二人が帰ってくれば、摂政様の先ほどの涙は無駄泣きじゃったことになるのう」

 にやりと桜守が口元を吊り上げる。

摂政「……しまった。これは思わぬ弱味を握られてしまった」

 すると、摂政は大げさに頭を抱えて嘆いた。
 そのわざとらし過ぎる様子に桜守が思わず吹き出すと、摂政もつられて顔の笑みを深くした。

桜守「くく、愉快じゃ」

摂政「ああ、愉快だ。こんな気持ちは久しぶりだ」

桜守「まったくそうじゃ、このような気持ちは久しぶ……」

──ん?

 何かが、桜守の胸にひっかかった。

桜守「……」

 最近、ごく最近、このように胸のすく心地になった気がする。
 ──というか、そもそもなぜ桜守と摂政が面と向かって話をすることになったのか?

桜守「……あ」

 桜守の脳裏に無邪気で幼ない狐娘と、そこはかとなく気になっている人間の男の姿が浮かぶ。

 話が脱線してしまったために、本題をすっかり忘れていた桜守と摂政だった。

桜守「摂政様。そういえば蔵人と幼狐娘のことなのじゃが……」

摂政「……あ」

 言われて思い出したように、摂政がぽかんと口を開ける。
 桜守はうつむき加減に、自分の手の指を合わせてまごまごさせながら摂政に言った。

桜守「ワ、ワシは大事なものを見失っておったようじゃ。本当に大切なものは心と心を繋ぐ絆で……」

摂政「あ、ああ……そ、そうだな……」

桜守「……?」

 桜守はそれなりに覚悟のいることを言おうとしているのに、聞いている摂政は心ここにあらずといった感じだった。
 なんだか気勢の削がれてしまった桜守は、ちょこんと小首を傾げて摂政に問うてみた。

桜守「……どうしたのじゃ? そんなにあわてて?」

摂政「あ、あわててなどおらんぞ? き、気にするな!」

 摂政の様子を訝しげに見ていた桜守だが、ふと嫌な予感が頭に飛来してくる。
 その嫌な予感が当たっていた場合、摂政のこの態度を説明出来てしまう。
 桜守はがらりと顔色を変えた。

桜守「ま……まさか、すでに二人は……」

摂政「いや、違う! それは違うぞ!?」

桜守「で、では、あ奴らは今いったいどこにおるのじゃ? 寝る前までは屋敷にいたのじゃが、起きたら綺麗さっぱりいなくなっておったのじゃが……」

摂政「いや、その……だな……」

 だらだらと汗をかきながら摂政が桜守から目を逸らした時だった。

『にゃーん』

 大広間を囲む障子の向こうから、小さな声が桜守の下へと届いてきた。

桜守「……ネコ?」

 それは確かにネコの鳴き声だった。
 桜守は眉をひそめて障子に目を向ける。
 その時だった。

『ダ、ダメですよーっ』

 どこかで聞いたような声がしたかと思ったら、障子がガタゴトと大きく揺れ──

「きゃー!?」

 障子がバターンと大広間の方に倒れてきた。

桜守「ぶふぉっ!?」

 障子を見ていた桜守は思わず吹き出した。
 なぜなら倒れた障子の上には、今しがた摂政としていた話の主役の一人がいたからだった。

桜守「な、なぜお前がここにおるのじゃ──幼狐娘っ!?」

幼狐娘「ふ、ふえぇ……バレちゃいましたーっ!」

 幼狐娘はネコを両手で捕まえた格好のまま涙ぐんだ。

桜守「バレた!? どういう事じゃ!? 説明せい!」

「それはオレがするよ」

 割って入って来た声は倒れた障子の向こうから。
 桜守が目を向けると、そこにはもう一人の主役がいた。

桜守「く、蔵人!?」

蔵人「な、いいだろ摂政?」

 蔵人は赤い目をこすりながら摂政にそう言った。

摂政「う……し、仕方あるまい……」

桜守「な、なんじゃ!? なんなのじゃ!? なぜ二人がここにおるのじゃ!? というか、まさかワシらの話を聞いて……」

蔵人「落ち着け桜守、全部話すから」

 蔵人は大広間に歩き入りながら語りはじめた。

〜 回想・日が沈む前の屋敷 >>89の後 〜

蔵人「おっ?」

幼狐娘「摂政様!?」

摂政「む、蔵人……と幼狐娘か」

 玄関に立っていたのは摂政だった。
 摂政は顔を合わせた一瞬だけ硬い表情をしていたが、まるで肩透かしをくらったように軽く息をついた。

摂政「まあいい、桜守はどうしている?」

蔵人「居間で寝ているが……起こしてこようか?」

摂政「いや、そこまでしなくてもよい」

幼狐娘「は、はぁ……なら、他にどのような御用事でしょうか?」

摂政「まあ、その……お前たちから見て、桜守はどうだ?」

蔵人「……?」

摂政「反省、しているか?」

 摂政はどこか照れくさそうに視線をそわそわと彷徨(さまよ)わせながら蔵人に言った。

蔵人「ああ、青菜に塩といった感じで落ち込みまくっている。気の毒になるくらいにな」

幼狐娘「で、でもでも! 蔵人さんと私の三人で行った桜見物では、桜守様も楽しそうでした!」

摂政「そ、そうか、桜守は良い友を持ったな。……しかし反省しておるならば、もうよいか」

蔵人「もうよい? いったい何をする気だ?」

摂政「うむ、桜守の階位を復活してやろうかと思ってな、桜守も大いに喜ぶだろう」

 摂政は満足そうに胸を揺らした。

幼狐娘「桜守様の階位を復活ですか!?」

摂政「ああ、もう十分に堪えただろうからな、そろそろ良い頃合いだろう。
 ……桜守にはまだ言うなよ?」

幼狐娘「は、はぁ……」

 目を細めてくる摂政に幼狐娘があいまいに頷く。
 だがその隣、蔵人は何かを考えるような顔で摂政に口を開いた。

蔵人「……それは少し軽率過ぎじゃないか?」

摂政「む? 妾の判断が軽率だと?」

蔵人「ああ」

 蔵人は頷き、続けた。

蔵人「一度決めた裁定をそう簡単に覆したら、他から反発があるのは当然の流れだ。桜守がさらに孤立してしまう」

 桜守の立場を危惧しての忠告。
 だが、返された摂政の言葉は蔵人と幼狐娘の度肝を抜くものだった。

摂政「大丈夫だろう。桜守ほどの仁徳があれば、皆も納得するはずだ」

 しれっと、摂政は答えた。

幼狐娘「え?」
蔵人「え?」

 幼狐娘の声と蔵人の声が見事に重なった。
 ……が、摂政は二人の様子なんぞどこ吹く風とばかりに、自慢気に自分の胸の前で腕を組んだ。

摂政「妾は桜守が一人前に育つよう接している。貴人として問題があると見たら今回のように処罰して反省させ、悩み事があると見たら面と向かって話を聞いてやっている。さぞかし声望を集めている事だろう」

幼狐娘「……」
蔵人「……」

摂政「ん? どうした? 間の抜けた顔をして?」

幼狐娘「じ、冗談がお上手ですね摂政様っ!」

摂政「……冗談だと?」

 摂政の目が鋭く細められた。

幼狐娘「ひっ!?」

蔵人「マジか!? マジなのか!?」

摂政「マジもなにも、冗談を言う話でもあるまいに。むしろ、お前たちの挙動が不審すぎて冗談臭いぞ。いったいどうした?」

蔵人「実はかくかくしかじか……」

 桜守の村での評判を説明する蔵人。
 ──そして、数分後。

摂政「バ、バカなっ!?」

 事実を聞かされた摂政は、信じられないと頭を振った。

蔵人「残念だが事実だ。というか、今までにも桜守の様子を上申する者がいただろうに」

摂政「そんなの、桜守を追い落とす策謀に決まっている!」

幼狐娘「う、うわっ!」

摂政「『うわっ!』とは何事だ!」

幼狐娘「ひぃっ!」

蔵人「おいおい、少し興奮しすぎだぞ? 何か桜守に執着しすぎていないか?」

摂政「し、執着なぞ……というよりも、お前たちが正しい事を言っておるとも限らん!」

 不自然に話を逸らし、摂政はそっぽを向いた。

蔵人「しかし、桜守の村での評判は事実だ。摂政が信じる信じないは別だが、看過するのは危ういが過ぎると思うぞ?」

摂政「む……くっ! ならば桜守の本性を狐娘たちに見せてやればよい!」

 摂政は叫んだ。

摂政「追い詰められた時こそ、その者の本質が現出する! 桜守を追い詰め、その本性を村の狐娘たちに曝(さら)け出させればよい!」

蔵人「お、おい」

摂政「妾は怒ったぞ蔵人! お前の鼻を明かしてやる! 二時間後に村の全員で儀式殿に集合だ!」

 摂政はぷんすかと怒りながら屋敷を去って行った。

蔵人「……」
幼狐娘「……」
蔵人「……」
幼狐娘「……ど、どうしますか?」

蔵人「うーん……いや、まてよ? これは好機かもしれない」

幼狐娘「好機?」

蔵人「おう、ただ一歩間違えると最悪の事態になりかねないな……」

 蔵人は腕を組んで沈みゆく太陽に目を細めた。

蔵人「すべては桜守の行動次第だな……まあ、何かしでかしても俺たちは仲間でいてやろう」

幼狐娘「は、はい!」

 蔵人が振り返ると、幼狐娘は元気に頷いた。

〜 回想終了 〜

蔵人「……というわけでな」

桜守「ド阿呆ーッ!!」

 桜守の拳が蔵人の腹部にめり込んだ。

蔵人「ぐべらっ!?」

桜守「はぁはぁ……悪は滅した。じゃが、村の皆を集めると言っておったな……まさか!?」

摂政「あ、ああ。すまぬ…頭に血が上っておって…つい……」

 摂政が申し訳なさそうに頭を下げた瞬間、大広間を囲む障子が一斉に開いた。

狐娘たち「桜守様ーっ!」

桜守「うおぅッ!?」

 現われたのは狐娘たちの山。
 皆一様に涙ぐんだ赤い目をこすっており、桜守は瞬時に状況を理解した。

桜守「お、お前たち! ワシらの話を全部聞いて!?」

狐娘1「桜守様! 本当は良い狐だったんですね!」
狐娘2「桜守様! 悲しい過去で性格が歪んでしまっていたんですね!」
狐娘3「桜守様! 以下略!」

桜守「あ、あわわ……」

 詰め寄って来る狐娘たちに桜守は顔を紅潮させ、耳をピンと立て上げた。
 そして……

桜守「最悪じゃ……最悪じゃあ……」

 桜守は頭を抱えてその場にうずくまった。

摂政「ま、まあ……すべて良し!」

桜守「なにが『すべて良し』じゃーッ!!」

 桜守は両手を振り上げて摂政の頭をぽかぽかと殴った。

摂政「いたっ、痛いぞ桜守!」

桜守「痛くしとるのじゃ! たわけ! たわけーッ!!」

幼狐娘「ど、どうしよう! どうしよう!」

蔵人「ふふ、いい拳だ。これなら世界を……」

狐娘たち「桜守様ーッ!」

桜守「ああもう! ああもうーッ!!」

ネコ「にゃーん」

 混迷を深める夜は騒がしくも賑やかに過ぎていくのだった。

〜 数日後、一つ桜の前にて 〜

狐娘「こんにちは、桜守様」

桜守「う、うむ。今日は良い日和だな」

狐娘「ところで、今日は何を?」

 いつもなら頭を下げて横を通り過ぎるだけの狐娘たちだが、その狐娘は足を止めて桜守と日常話を続ける。
 儀式殿に村の皆が集まったあの夜から、こんな調子で村の皆は桜守にちょっとした好意を向けるようになっていた。

桜守「今は一つ桜の補修をしておる。折れた枝の部位に薬油を塗って、腐らないようにな」

 そう狐娘に答えて、桜守は一つ桜を見上げる。
 すると、ちょうど良く蔵人が一つ桜の幹を伝って降りてくる所だった。

狐娘「おや、私がいたら邪魔をしちゃいますね。そうだ、コレをお裾分けで渡しておきます」

桜守「お、おい!?」

 狐娘はカゴから桃を二つ取り出すと、桜守に渡してそそくさと退散した。

桜守「む、むう……」

 桜守は桃を両手に持ってじっと考えた。
 
──コレではまるで、一緒に話しながら食えと言っておるようではないか。

 事実、そうとしか考えられない。
 あの賢そうでバカそうで、格好良さそうで情けなさそうで、気が利いてるんだか利いてないんだか分からない、無駄に優し──もとい厄介な男。
 それと肩を並べて、談笑しながら、桃をかじり合って──。

蔵人「おーい、どうした?」

桜守「っ!」

 急に上から声を投げ下ろされ、桜守は思考を止めて咄嗟に両手を後ろに回し、二つの桃を背中に隠した。

桜守「な、なんでもないわい! それよりも、一つ桜の様子はどうじゃった?」

 胸の鼓動を隠すように、桜守が蔵人へと言葉を投げる。
 蔵人はさっさと幹を下り、地上に足を伸ばしながら答えた。

蔵人「言われた通り、折れた箇所の根元を一度綺麗に切り落として薬油を塗り込んだ。最後に和紙で固めて縛ってきたから大丈夫だと思うが……っと」

桜守「うむ、ならばよい」

 地面に降りた蔵人に桜守は満足そうに頷いた。

蔵人「じゃあ帰るか?」

桜守「ま、待て!」

 桜守はあわてて蔵人を呼び止めた。

蔵人「なんだ? まだ何か仕事が残っているのか?」

桜守「いや、そうではなくてだな……」

 簡単な事だった。
 両手を前に出して、一緒に桃を食べようと言えばよい。
 だが一度意識してしまうと、なぜか声が肺から放たれずに詰まってしまう。

──って、相手はただの人間じゃぞ!? ワシは何を恥ずかしがっておるのじゃ!?

 わたわた、わたわた。
 桜守は赤い顔で視線をうろちょろさせる。

蔵人「……?」

 蔵人が眉根を寄せて桜守に小首を傾げてきた。

桜守「う、うぅ……」

──落ち着け! 変に間を置かずにさっさと渡してしまえばよいのじゃ!

 短く目をつむり、決意する桜守。
 そして息を大きく吸って深呼吸すると、桜守は蔵人に口を開いた。

桜守「あ、あの、じゃな……お前も一仕事終えた事じゃし、少し休憩を」

幼狐娘「こんにちは、桜守様、蔵人様」

桜守「はうっ!?」

 背後から聞こえてきた幼狐娘の声に、桜守は思わず飛び上がった。

幼狐娘「あれ? その手に持っているのは……桃ですか?」

桜守「そ、そうじゃ! ほれ、一つやろう!」

幼狐娘「あ、ありがとうございます」

桜守「ほれ、蔵人! お前にもやろう!」

蔵人「お、すまん……あれ? お前の分は?」

桜守「ワシはもう食った! 気にするな」

蔵人「そうか、なら遠慮せずに……」

 蔵人が桃にかじりつく。
 それを見て、幼狐娘も桃に小さく口をつけた。

桜守「……ふぅ」

 一つ桜の幹に背中をつけ、桜守は小さく肩を落とした。
 そしてそのまま空を見上げる。
 桃色の天幕の隙間から、陽光がさんさんと降り注いで来ていた。

桜守「……」

 綺麗な光景だった。
 少なくとも、二人が桃を食べ終わるまでの手持ちぶさたな時間くらいは潰してくれるだろう。
 しかし、ふと桜守は考えた。

──桜はこんなにも美しかったか?

 頭に浮かんだ疑問は、すぐにみずから解を得た。

──そうか。そうじゃったのか。

 つい先日、真実を知るまで桜守は束縛されていたつもりだった。
 村に、摂政に、階位に、自分の未来を。
 今までの桜守にとって、村に生えた桜の木もそんな忌むべき束縛の鎖の一つに過ぎなかったのだ。
 嫌悪の色メガネ越しに、物の美醜をまともに判断出来るはずが無く、そもそも桜をまともに見る余裕も無かったのだろう。
 ゆえに真実を知って今見る桜は、そしてすべてを失ったと思い込んでいた時に三人で丘から見下ろした桜の風景はあんなにも美しかったのだろう。
 要は、自分の心の有様なのだ。
 そして今、桜を美しいと思えるようになった原因は──

桜守「……」

 桜守は顔を下ろし、桃にかじりつく蔵人と幼狐娘に視線を向ける。
 彼と彼女、この二人が原因なのは間違いなかった。
 大広間の舞台を用意したのは摂政だが、この二人がいなければあんなことにはならなかっただろうし、万が一に同じように話が進んでも、自分中心な今までの桜守だったら酷い醜態を晒して一層のひんしゅくを買っていただろうことは想像に難くない。
 桜守は助けられたのだ。
 醜悪な自分から変わるのを。胸の内を包み隠さず相手に話す事を。
 蔵人と幼狐娘の手助けによって、桜守は望む未来に一歩を踏み出せたのだ。

桜守「……」

 だが、大広間の仕打ちはまだちょっと許せない。
 いまだに思い出しただけで、恥ずかしさから穴を掘って入りたくなる程である。
 確かに助けられたのは事実だろうが、認めるのは少しばかり癪だった。

──まあ、感謝はしておるがな、一応。

 ふう、と桜守が一息ついた時だった。

蔵人「ん? やっぱり腹が減ってるのか?」

 蔵人が桃から口を離して桜守へと近づいてきた。

桜守「へ? いや、別に……」

蔵人「遠慮するな。ほれ、半分近く食っちまったが、お前も食べるといい」

 そして、蔵人は食べかけの桃を桜守に手渡した。

桜守「……」

 桜守は渡された桃をまじまじと見つめる。
 おもに、蔵人がかじった辺りを。

蔵人「ん? 食いかけはイヤか?」

桜守「べ、べつにそういう訳ではない」

蔵人「なら食え、遠慮するな」

桜守「む、むう……そう、だな……」

 桜守は渡された桃に唇を近付け──

狐娘「桜守様ー!」

 狐娘が道の向こうから近づいて来るのが見え、反射的に桃を持つ手を下げた。

桜守「な、なんじゃ! 何があった!」

狐娘「それが、南の桜林が傷つけられておりまして、近くにイノシンがいたという情報も……」

桜守「なんと!? よし、すぐに向かうぞ!」

蔵人「お、おいおい! 危ないぞ!」

桜守「なに、野生動物ならば狐火で追い返せる。それにワシの役職名を忘れたか?」

蔵人「……やれやれだ。仕方ない、ついていくよ」

桜守「うむ、危ないから幼狐娘はここに残っておれよ?」

幼狐娘「は、はい! どうかご無事で!」

桜守「よし! 行くぞ蔵人!」

蔵人「ああ!」

 桜守は蔵人を先導するように走りだし、同時に手に持っていた桃を思い出す。
 桜守は数秒考えた後に大口を開き、桃を思い切り頬張った。
 甘く、みずみずしい桃の果肉が、桜守の口一杯に広がった。

──春夏秋冬、季節を問わずに桜の花弁が舞い落ちる狐娘たちの村。
 時が静止したかのようなこの村でも、物語は常に歩みを止めずに紡がれ続けいくのだった。


〜 完 〜


途中ちょっと泣かされたわ

結局蔵人はそのまま狐の世界で暮らすのか?
てか蔵人は何もんだったんだ?
って質問は無粋か


とにかく乙
久々に楽しみなSSだったわ

他に何か書いてんのか?

>>137
ex14.vip2ch.com/test/mread.cgi/news4ssnip/1339718063/l20

わかってる、何も言うな。

ごめん>>138だった。
それとURLミスかなこれ、誘導(?)できない。

物を内包する器などが意味するのは「家庭」や「女性」ですが、植木鉢はそれらの中でも特に「世界の型を創る」意味合いが強いです。
これはひとえに植木鉢に植えられる植物が多様であり、人々からしたらそれら植物が主役となるため植木鉢は入れ物──引き立て役でしかなく、ですが植物を育てるためには植木鉢は必要不可欠な物でもあり、そのような認識に至ったと思われます。
ちなみに、植えられる植物は言わずと知れた桜です。
桜は江戸を最盛期として様々な意味付けがなされていますが、この場合は万葉集などに詠まれた「恋」の意味付けをしています。
そして小瓶ですが、小瓶は近年代にガラスが発達するまで陶器でした。
陶器の小瓶には水や、小分けにした味噌などの調味料が入れられていました。
それで……

理由を考えてみましたがこれ以上は無理です。ごめんなさい。
タイトルはノリでつけました。

ちなみに続ける予定はありますが、少し時間を置きます。
一月ちょいくらいです。

落とすような事はしない予定です。
それでは、今まで長々とありがとうございました。

〜 ある日の御所・摂政の部屋 〜

摂政「……」

──パチン。

 摂政の指先に弾かれた木の珠が、一つ小気味よい音を鳴らした。
 畳張りの部屋に置かれた書机の上、ソロバンと紙束に左右の手を伸ばしながら何事かを計算する摂政の顔は、実に難しいものだった。

摂政「……」

──パチンパチン。

 摂政は仏頂面のままソロバンを弾き続け、 やがて動きを止める。

摂政「……」

──シャラララ。

 そして摂政は無言のまま珠を戻し、再び一から計算を始める。
 だが、出来上がった珠の配列はまったく同じ。
 ここに至り、摂政は小さく肩を落としてため息をついた。

摂政「……参ったな、これは」

 発せられた摂政の声は、言葉通りにうんざりとしたものだった。

〜 午前・桜守の屋敷前 〜

狐娘「それでは、どうもありがとうございました」
桜守「うむ。次からは気をつけよ」
狐娘「はい」

 狐娘が桜守に一礼して去っていく。
 すると、そこへ入れ違いに幼狐娘がやって来て桜守に頭を下げた。

幼狐娘「おはようございます桜守様。……ところで、先ほどの方は?」

桜守「屋敷の前を通りかかっただけじゃ。……ただ」

幼狐娘「ただ?」

 そこで桜守はどこかバツが悪そうに幼狐娘から目を逸らして答えた。

桜守「……どこかで転んだらしく、足を擦り剥いておった。じゃから手持ちの薬草をいくらか分けてやったのじゃ」

幼狐娘「へーっ! そうなんですか桜守様!」

桜守「な、なんじゃ? いきなり目を輝かせおってからに」

幼狐娘「いえ、桜守様がみんなと仲良くなってくれて嬉しいんです」

 そう言って幼狐娘はパッと笑顔を咲かせた。
 途端、桜守は耳をピンと跳ね上げ、顔をみるみるうちに赤く染めていった。

桜守「んなっ!? む、ぐぅっ……」

 反論しようと口を開くが、無邪気な笑顔を前に口ごもる桜守。
 仕方なく、逃げるように顔を逸らした。

桜守「ふ、ふんっ! そ、そんなことよりも蔵人はどこで何をしておるのじゃ! まったく!」

 分かりやす過ぎる桜守の話の曲げ方に、しかし幼狐娘は特に口を挟まず、代わりに蔵人という言葉に小さく首を傾けた。

幼狐娘「蔵人様がどうかしたのですか?」

桜守「どうしたもこうしたもない。少しばかり頭が切れそうじゃから、御殿での仕事を手伝わせようと思っておったのじゃが、気がつけば屋敷からいなくなっておった」

幼狐娘「蔵人様が? いったいどちらへ?」

桜守「それはワシが聞きたいくらいじゃ!」

幼狐娘「きゃっ」

 桜守の怒り声に幼狐娘が思わず顔を背けた。

幼狐娘「……あれ?」

 しかしそこでチラと、話の渦中にいる人物が幼狐娘の視界に映った。

桜守「なんじゃ、どうした?」

幼狐娘「いえ、蔵人様がこちらに向かって来ているように見えるのですが……」

桜守「なんじゃと!?」

 幼狐娘の視線をたどり、桜守が振り返る。
 果たして、そこには確かにこちらへと向かって来る蔵人がいた。……両脇に狐娘をはべらせてニヤニヤとした笑みを浮かべている蔵人が。

桜守「……」

 その瞬間、ぴしりと桜守が固まった。

幼狐娘「あれ? どうしたのですか桜守様?」

桜守「……ふう」

 桜守は幼狐娘に答えず、ただ深く息を吐き、その場で腰を落として足元に落ちているちょうど杖くらいの手頃な木の枝を拾い上げた。

桜守「……せーのっ」

 そして桜守はそれを両手に持ちかえると、そのまま体を「く」の字に曲げて力を蓄え、

蔵人「あ、桜守と幼狐娘じゃないかー! いったいなにを……」

桜守「なーにを朝っぱらから遊びほうけておるかーッ! このスカポンタンがーッ!!」

 手を振ってくる蔵人の顔面めがけて木の枝を投げつけた。

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ガチで泣く

〜 数分後 〜

蔵人「……」

桜守「いや……そのな……ワシはな……」

蔵人「…………」

桜守「あ、あぅぅ……」

 じっとりとした恨みがましい蔵人の視線を正面から受け、桜守は狐耳をしおらしくうなだれさせた。
 状況は見事に一変していた。
 原因は、蔵人の背中に隠れていた──今はこれみがよしに蔵人が腕に持っている壺にあった。

蔵人「朝からハチに刺されまくって、やっと帰れたと思ったら顔面に棒切れであいさつとはな……」

桜守「い、いや、加減したぞ? 中身はスカスカじゃと確認して投げたし……」

蔵人「ぶん投げる時点で問題なのッ!」

桜守「はぅぅ……」

 肩を怒らせる蔵人に桜守が一歩後退りする。
 しかし、桜守の視線は蔵人の持つ壺にがっちりと固定されていた。

幼狐娘「……ハチミツ、お好きなんですか?」

桜守「大好きじゃッ! ……はっ!?」

 桜守は瞬時に幼狐娘へと振り返り、よだれを口の端から垂らしつつ答え、

桜守「……ではなくッ! あくまで貴人のたしなみとして好きというだけじゃッ!」

 すぐによだれを袖で拭き取りながら、胸を張って答えた。……いまだに横目で、蔵人の抱えるハチミツ壺をじっと見つめながら。

幼狐娘「……」

蔵人「ほう? 桜守はハチミツが好きなのか?」

桜守「べ、べつにそんなことはないぞッ!?」

幼狐娘「……なんで隠そうとしちゃうんだろう」

蔵人「ほう? ほうほうほうほう?」

桜守「な、なんじゃその言い方は? 気持ち悪いぞ?」

蔵人「いや、そういえばこのハチミツの元となる蜂の巣を駆除する時、桜守に関する面白い話を狐娘たちから教えてもらったもんでな」

桜守「ワ、ワシの面白い話じゃと?」

蔵人「……夜……つまみ食い……」

桜守「……っ!?」

蔵人「……摂政……シッポ……狐火……」

桜守「や、やめーいっ! 掘り起こすでない! ワシの黒歴史を掘り起こすでなーいッ!!」

幼狐娘「……」

桜守「ぐ、ぐぬぬう……っ! ワシをおちょくって楽しいか蔵人!」

蔵人「ああ、楽しい」

桜守「む、むぐぐっ!!」

幼狐娘「蔵人様!?」

蔵人「冗談だよ、冗談。これでおあいこ様ってこった」

 蔵人は今にも噛み付いてきそうな様子の桜守にひらひらと手を振り、その脇を抜けて道を歩き始めた。

蔵人「あ、そうだ」

 が、蔵人は道の途中で振り返り、ハチミツがなみなみと貯えられたツボを桜守に高々と掲げてみせた。

蔵人「いるか?」

桜守「いるッ!! ……ではなく! ワシに対する誠意と忠心として献上されるものを『むげ』に断るのは気がひけ……」

蔵人「やらないぞ?」

 長々とくっちゃべる桜守に蔵人はぴしゃりと言い放った。

桜守「……へ?」

蔵人「ハチミツは滋養に良く、物を腐らせない特性もある。つまり使い道はたくさんあるんだ、それをさっさと食ってしまうなんてもったいない」

桜守「え? い、いや……それではさっきワシに『いるか?』って聞いたのは……」

蔵人「嫌がらせだ」

桜守「……」

 固まり数秒、やがてぷるぷると桜守の身体が震えだす。
 蔵人は素早く桜守に背を向け、その場から全力疾走で逃げはじめた。

蔵人「よし! 雷が落ちる前に逃げるぞ幼狐娘!」

幼狐娘「な、なにが『よし』なんですか!?」

桜守「く〜ろ〜う〜ど〜ッ!」

幼狐娘「あ、あわわっ!? 待ってください蔵人様〜!」

 地の底から聞こえてくるような桜守の暗い怒りをたっぷりと含んだ声に、幼狐娘も蔵人の背中を追って走り始めた。
 そして、桜守もすぐに二人の後に続く。

桜守「待てーい二人ともッ! ワシがシバキ倒してくれるわ!」

幼狐娘「なんでわたしもなんですか〜!?」

桜守「おまけじゃ!」

幼狐娘「そんなおまけいりませ〜ん!」

蔵人「こりゃ、つかまったら大変だな」

幼狐娘「原因は蔵人様ですよぅ〜!」

桜守「待て待てーいッ!」

 三人連なりやかましく、どこを目指すでもなく地肌むき出しの道を駆けていく。
 その後ろでは巻き上げられた風によって、道を彩っていた桜の花弁たちが宙を乱れ舞っていたのだった。

〜 桜守の屋敷 〜

桜守「まったく……ほんにまったく……」

 桜守は渋い色味の湯飲みを大事そうに両手で包み持ち、お湯にちびちびと少しずつ口をつけながらつぶやいた。

幼狐娘「え、えへへ……」

蔵人「……本当に好きなんだな、ハチミツ」

 蔵人は呆れたように肩をすくめた。
 桜守の屋敷の周りをぐるりと全力疾走で一周してきた三人は現在、屋敷の中庭に面する縁側にて仲良く(?)腰を落ち着かせている。
 ご立腹だった桜守は、ハチミツを溶いたお湯を渡したらこれまた見事におとなしくなっていたのだった。

桜守「まったく……お前たちは、まったく……」

 口ではそうつぶやき続ける桜守だが顔はだらしなくにやけ、なんとも言えぬ恍惚の表情を浮かべて中庭の向こうを見つめていた。

蔵人「……本当に効果てきめんだな。桜守の避雷針として常備しておこうか?」

幼狐娘「まず、雷を落とさないように努力してください……おや?」

 幼狐娘の狐耳が急にピンと立ち上がった。

蔵人「どうした?」

幼狐娘「お客様です……って、あれ? 勝手に玄関から上がってこちらに……」

 耳をぴょこぴょこと動かしながら状況説明を行う幼狐娘。
 しかし、説明の最中に『それ』は皆の前に姿を表した。

摂政「ん? 三人とも揃っていたか」

蔵人「摂政? いったいどうしたんだ?」

 廊下の向こうから歩いて来た摂政に一同振り返り、目を丸くした。

桜守「まったく……まったく……」

 桜守を除いて。

〜 居間 〜

蔵人「祭り?」

摂政「ああ、ここから少しばかり北の神社で行われる稲荷神の祭りだ。今年の収穫に対する礼と来年の豊作祈願という意味合いがある」

 摂政と蔵人はちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。
 桜守と幼狐娘は縁側にいて話に加わっていない。
 なぜか、摂政が蔵人だけと話をしたがったからだった。

蔵人「で、その祭りが何か?」

摂政「うむ。これを見てくれ」

 言いながら、摂政は胸元から丸めた紙束を取り出した。……血色豊かな柔肌のふくらみがつくる双丘の谷間から、取り出した。

蔵人「……」

摂政「お? 欲情したか?」

蔵人「わ、わかっててやるんじゃない!」

摂政「くっくく……ほれ、読め」

 摂政はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、ぽいっと蔵人に向けて紙束を放った。
 蔵人は苦い顔をしながらも紙束を片手で受け止め、中身に目を通し始める。

蔵人「ったく、なになに……河川の水量?」

摂政「左様。祭りが行われる一帯の、河川の水量だ」

蔵人「ふむ」

 なぜ河川の水量と祭りが関係するのか、とは聞かずに蔵人はとりあえず紙束に書かれた数値の羅列に目を流した。

蔵人「……河川の水量が極端に、減っているな」

摂政「うむ。稲荷神の加護があるとはいえ、水が無ければどうにもならん。早急な対応が必要だ」

蔵人「……」

 蔵人はこめかみを指先でさすりながら頭の中で状況を整理する。
 答えは十秒と経たずに導き出された。

蔵人「水が無ければ収穫は見込めない。当然、祭りなんぞやる余裕もなく、『稲荷』の名を冠した祭りが潰れる事になる。
 『御所』のあるここから近いとなるとなおさらその影響は大きく、最悪他の勢力が稲荷の信用失墜と同時にこの地方へと食い込んで来る恐れもある……と?」

摂政「ほう? お前は頭が巡るな。さすが、この妾に物怖じしない図々しさを備えているだけはある」

蔵人「その言葉そっくりそのままお返ししますよ、摂政様?」

摂政「……ふふふふふふふ……」

蔵人「ははははははは……」

 くらーい笑顔を見せ合いながら、摂政と蔵人の二人は渇いた笑い声を上げた。

〜 一方そのころ、縁側 〜

桜守「……」

幼狐娘「……」

 ずずっと、桜守のハチミツ湯をすする音だけが辺りに響いていた。

幼狐娘「……そんなに美味しいものですか?」

桜守「美味い」

 さも当然とばかりに桜守は答え、正面の中庭を見据えたまま口元を吊り上げると満足げな微笑を形作った。

幼狐娘「……ごきゅり」

 桜守の自信満々な言葉と笑顔に、自然と幼狐娘のノドがツバを飲み込んで上下する。

 その時だった。

 今まで中庭にしか目を向けていなかった桜守が首をひねり、急に幼狐娘の方へと視線を投げ掛ける。
 そして幼狐娘が何事かを問うよりも先に一言、桜守はまるでからかうような声音で幼狐娘に聞いてきた。

桜守「飲みたいか?」

幼狐娘「……へ?」

桜守「ハチミツを味わった事が無いのじゃろう? よいよい、飲むがよい」

 幼狐娘が反応するよりも先に、桜守は湯飲みを床に置き、ずりずりと幼狐娘の方へと押しやって来た。

幼狐娘「確かにハチミツを味わった事はありませんけど……い、いいんですか?」

桜守「うむ」

幼狐娘「……そ、それでは」

 幼狐娘はおそるおそる湯飲みを両手で持ち上げ、口をつける。
 そのまま音を立てずに、幼狐娘はハチミツ湯を小さくすすった。

幼狐娘「……っ!?」

 瞬間、幼狐娘の口腔内でかつて味わった事が無い、甘潤な風味が一斉に膨れ上がった。
 草原に咲き誇る名も無き花々の蜜を濃縮したようなその衝撃は、鼻腔から入り込んできた空気と混じり合い、溶け込んで、さながら一陣の風のように幼狐娘の脳髄まで駆け登ってきた。

幼狐娘「あ、あまーいっ!?」

桜守「甘露じゃろ?」

幼狐娘「は、はいっ! よく煮たゴボウよりも数倍、いや数十倍は甘いですっ!」

 自然と頬が緩んでいく。
 幼狐娘はだらしなく顔をほころばせながら、鼻息荒く桜守に答え、

桜守「では、おかわりをもらおうかの?」

幼狐娘「──はっ!?」

 渡された湯飲みに残っているハチミツ湯が一口二口──幼狐娘に『飲ませる』ぶんくらいしかないことに、幼狐娘は今更ながら気が付いたのだった。

〜 台所 〜

幼狐娘「悪知恵はよく働くんですから……もう」

 幼狐娘は草履を足の指に軽く引っ掛けて土間を歩いていく。

幼狐娘「でも、蔵人様の言った通りです。ハチミツ壺の場所は隠して正解でした」

 言いながら幼狐娘はその場で膝を曲げた。
 屋内空間の床板張りと土間では高さが違う。その高さを有効活用してのちょっとした物置き。
 体勢を低くしてそれを眼前に持ってきた幼狐娘は、ゆっくりと物置きに手を伸ばし、両開きの扉を左右からつかんで引っぱった。

幼狐娘「よっと」

 扉を開くと味噌壺やら梅干し壺などに混じって、先ほど見慣れたハチミツ壺が暗がりからこちらを覗いている。
 桜守に全部食べられないように配慮しての隠し場所。
 幼狐娘は壺の乱立する暗がりの中、ハチミツ壺に向けて手を伸ばした。

幼狐娘「うんしょ」

 ハチミツ壺をうまく両手でつかむ。
 幼狐娘はハチミツ壺を引きずり出そうと力を込めた。

幼狐娘「うんしょ、うんしょ」

 しかし、どうにも動かない。
 保存用の厚い作りの陶器の上、中にはハチミツがみっちり詰まっているのだ。
 幼狐娘では少しばかり力が足りない。

幼狐娘「うんしょ、うんしょ、うんしょ……」

 それでも諦めずに幼狐娘がハチミツ壺を懸命に引っ張っていると不意に誰かが頭の上──屋内の床張りから話しかけてきた。

?「手伝おうかの?」

幼狐娘「あ、はい。お願いしま……」

 幼狐娘は顔を上げながら答える。
 だが声をかけてきたその相手を瞳に捉えた途端、幼狐娘の体は顔を上げた体勢のままでぴしりと固まった。

桜守「くっくく、そんな所に隠しておったとはな」

 桜守が、目を細めながら舌なめずりしていた。

幼狐娘「は、はうっ!?」

──罠!?

 幼狐娘の頭の中を、稲光のような閃きが瞬いた。
 今まで息をひそめながら後をついてきていたのだろう桜守の顔には、肉食獣の如き『勝者』の笑みが湛えられている。

幼狐娘「し、しまったー!」

 幼狐娘は直感的に自分の『負け』を理解した。
 おかわりを強制するための罠に見せておいて、桜守の真の狙いは隠されたハチミツ壺本体。
 幼狐娘はまんまと二重の罠にはめられていた。

幼狐娘「はう……はぅぅ……」

桜守「くっくく……甘いのう? その壺の中身のハチミツくらい甘いわい」

幼狐娘「う、うぅ……」

桜守「というわけで、その壺はもらうぞ?」

幼狐娘「なにが『というわけで』ですか!? このハチミツは蔵人様が食べ物の保存用に使うと言ったんです! 無計画に食べさせはしません!」

桜守「えーい! 蔵人の犬め! 黙ってよこさんか!」

幼狐娘「ダメです!」

桜守「ならば実力行使じゃ!」

幼狐娘「きゃー!」

 桜守はバッと両手を広げ、土間の幼狐娘へと飛び掛かったのだった。

〜 数分後 〜

桜守「ぜい……ぜい……」

幼狐娘「はぁ……はぁ……」

 二人は荒い息をつきながら睨み合っていた。
 揉み合いの中で引きずりだされたハチミツ壺にしがみつく幼狐娘と、それを引き剥がそうとする桜守。
 いまだ勝負は決していなかった。

桜守「くっ! 力任せに蹂躙できないこの体が悔やまれる!」

幼狐娘「蔵人様より頭二つ分はちっこいですからね、桜守様は」

桜守「なーにが『ちっこい』じゃー! このボケナスがーッ!」

幼狐娘「きゃー!」

桜守「しかも! よりによって蔵人を引き合いに出して頭二つ分小さいじゃと!? ワシはそこまでちっこくないわ! 頭一つと半分くらいじゃー!」

幼狐娘「似たようなものじゃないですかー!? というか、実に判断すると頭二つと半分くらい小さいですよ!」

桜守「ええい! やかましい! いいからハチミツをよこさんか!」

幼狐娘「だからダメですって言ってるじゃないですかー!」

 ぐいぐいと桜守が幼狐娘の体を引っ張る。
 しかし、幼狐娘はがっしとハチミツ壺にへばりついて離れない。

桜守「ふぅ……ふぅ……おぬしも強情じゃな?」

幼狐娘「さ、桜守様こそ」

桜守「……よし、提案じゃ」

幼狐娘「?」

桜守「このまま無意味に時を労するのはお互いのためにならぬ。ならば双方とも納得できる折衷案を出そうではないか」

幼狐娘「折衷案、ですか?」

桜守「左様。そうじゃな……ワシはハチミツ壺を奪うことを諦める、代わりにおぬしはワシにハチミツを一杯ほどよこして諦める。というのはどうじゃ?」

幼狐娘「……はい、それなら。そもそも一杯だけなら汲んでいくつもりでしたし……」

桜守「なら、早く頼む。ワシは一歩下がっておくから」

幼狐娘「……ズルはダメですよ?」

桜守「分かっておる。早くせい」

幼狐娘「よいしょ」

 幼狐娘はハチミツ壺の口に巻かれている布を解き、陶器のフタを開く。
 すると同時、幼狐娘の後ろに立っていた桜守が急に走りだした。

桜守「よっしゃ!」

幼狐娘「きゃッ!?」

 そのまま桜守は幼狐娘のわきをすり抜け、

桜守「せーい!」

 すぽーんと、頭からハチミツ壺に突っ込んだ。

幼狐娘「ぎゃーッ!?」

 桜守の突拍子もない行動に悲鳴を上げる幼狐娘。
 だが桜守は「そんなこと知るか」とばかりに、逆直立不動の姿勢でハチミツ壺に突っ込んだ頭を動かし、ごきゅごきゅと喉を鳴らしていた。

桜守「んぐっ、んぐっ……」

幼狐娘「そ、そこまでやるなんて……はっ!」

 愕然と目を見開く幼狐娘だが、ふとそこで気が付いた。
 今現在、桜守は逆さまになっている。
 自然、重力によって着物がめくれ下がってきており、さらにぱたぱたと着物の下で忙しなく動く桜守のシッポが着物のはだけるのを一層助長していた。

幼狐娘「見えちゃいます! 女の子の大切なところが見えちゃいますよ! 桜守様!!」

桜守「ぐびっ、ぐびっ……」

 しかし微動だにしない桜守。

幼狐娘「わ、わかりましたよ! 私の負けでいいですよ! だから早く足を下ろしてー!!」

 こうして、桜守はハチミツ壺を手に入れた。

〜 さらに数分後 〜

桜守「最初からこうやって渡せばよいものを」

 土間に立つ桜守は顔にぬらつく琥珀色のハチミツを指で拭い取り、その指をペロペロとしきりに舐めながら戦勝に得意げな顔を浮かべてみせた。

幼狐娘「……はい、そうですね。なんかもう後悔というか残念な気持ちしかありません……」

 対する幼狐娘はうつむき加減に力なく答えた。

幼狐娘「とにかく、ハチミツを味わうなら湯飲みに移すなりしてから味わってください。それと前髪にもハチミツがべったりなので洗い流しましょう」

桜守「もったいないのう」

幼狐娘「貴人としての自負はいったいどこに?」

桜守「……しかたないのう」

幼狐娘「はい、瓶(かめ)に貯めた水で洗い流しますのでこちらに来て下さい」

桜守「うむ」

 幼狐娘が先導するようにトテトテと歩いて土間の端にある瓶まで行くと、桜守もハチミツ壺を片手に持ったままその後をついてきた。

幼狐娘「力、あるんですね……その壺けっこう重いと思うんですが……」

桜守「む? そうでもないぞ?」

 答える桜守は本当に何でもないように、ハチミツ壺を持ったまま腕を上下させた。……波々とハチミツの詰まった壺を、指先が白くなるまでがっちりと万力のように握りしめながら。

幼狐娘「……無意識、ですか?」

桜守「……? なにがじゃ?」

幼狐娘「……いえ、なんか、もういいです。さっさと洗い流しましょう」

桜守「うむ」

 じゃばじゃば。

幼狐娘「……」

 柄杓(ひしゃく)で水をすくい、下げられた桜守の頭にかけて桜守の髪にへばりついたハチミツを洗い落としていく幼狐娘。
 しかし、にわかにその動きが鈍くなった。

幼狐娘「……」

 ──もったいない。

 少し前、桜守に勧められたハチミツ湯の味が幼狐娘の口内でよみがえる。幼狐娘は無意識に小さく喉を鳴らした。
 口ではさっさと髪を洗うように桜守を急かした幼狐娘だが、貧乏性なのは見習いの性か。内心、少しばかり後悔していた。

 ──桜守様はアレな方(かた)ですけど、一応は高貴な方ですし、バイ菌とか少なそうですし、今からでもちょっとくらいなら小瓶により分けて……

桜守「おーい、腕が止まっておるぞー」

幼狐娘「……あっ! も、申し訳ありません!」

 幼狐娘はあわてて柄杓を握る腕を動かし始めようとするが、その動きが再開されるより先に桜守の声が響いてきた。

桜守「まあ、待て。少し疲れているようじゃ、一杯やらんか?」

 そう言って桜守が取り出したのは、琥珀色の液体が口の近くまでたっぷりと注がれたおちょこ。
 幼狐娘はぴしりと固まった。

幼狐娘「そ、それは!?」

桜守「ハチミツじゃ、言うまでもないじゃろ?」

幼狐娘「ケチな桜守様が私にハチミツを……はっ!?」

 本日二度目の直感が幼狐娘を襲った。

幼狐娘「買収ですね!? 私が蔵人様に報告するのを阻止するために!」

桜守「うむ、話が早くて助かる。このハチミツを飲んで口を閉じよ。そうすれば、先ほどワシのことをケチとのたまった件についても目をつぶっておいてやろう」

幼狐娘「ば、買収なんかされません!」

桜守「……甘いぞ〜?」

幼狐娘「はうっ!?」

桜守「お湯で溶かしたハチミツなんぞより断然、甘いぞ〜?」

幼狐娘「はうぅ……」

桜守「このまま見習いからトントン拍子で出世しても、次にハチミツを口にする機会はいつのことになるかの〜?」

幼狐娘「……あう〜」

 ……そして、それから十数分後。
 桜守の髪は綺麗さっぱりハチミツを洗いながされ、水で濡れた艶やかな黒髪は、今は陽光の下で麗しく優美に揺れている。
 
 中庭の片隅にて二人で味わう純粋なハチミツは、とても、とてもとても美味しいものだった。

〜 一方、居間にてちゃぶ台を挟んで向かい合う蔵人と摂政の二人 〜

蔵人「状況は分かった。それで、俺に求めることは?」

摂政「言わなくても分かっておるだろうに」

蔵人「祭りを楽しんで来いって事だな? よし、任せろ。摂政の分まで楽しんできてやる」

 蔵人は腕まくりをして元気よく答えた。

摂政「そうか、では祭り衣装としてこれをやろう。存分に『おめかし』していくといい」

 そう言って、ぺちーんと蔵人の顔面に一枚の葉っぱを叩きつける摂政。

蔵人「わーお、ありがてー、でもオレは狐じゃなくて人間なんだよなー」

摂政「いや、葉っぱそのものを衣装に使うという手段もあるぞ?」

蔵人「なるほどー、一人裸祭りでみんなの注目の的だなー。摂政の思いつきそうな話だー」

摂政「それはどういう事だーッ! 妾が痴女とでも言うつもりかーッ!」

 バーンと頑固オヤジのように摂政がちゃぶ台をひっくり返した。

蔵人「いきなりキレるくらいなら話に乗っかるなよ!」

摂政「お前がくだらん事を最初に言うからだろうが! このスカポンタン!」

蔵人「『口頭で説明しないと正しい意志伝達が出来ない』と暗に伝えようとする俺の親切が分からねーのか!?」

摂政「だったらそれこそ口頭で説明せんか! この野良瓢箪が!」

蔵人「野良瓢箪!? 野良瓢箪って何!? って、いたいいたい……ってか熱い!」

 そのまま座布団やら狐火やらを投げ合い、数分ほど経過。
 お互いに頭が冷えて来た所で話をゆっくりと再開した。

摂政「……つまり、だ。河川の水量減少の調査、現状回復、後顧の憂いを残さぬように上手く取り計らうことを摂政として命じる」

 小競り合いの余韻に小さく肩を上下させながら摂政が説明すると、蔵人の方も額に浮かんだ汗を手の甲でなぞるように拭いながら頷いた。

蔵人「分かった。今まで暇を持て余してゴロゴロしていたからな、少しは義理を見せるさ。枕を高くして待っていてくれ」

摂政「ああ、お前が失敗した時の事を想定して、夢うつつの中で施す仕置きを考えておこう」

 蔵人が口の端を小さく吊り上げて見せると、摂政は楽しげに、意地の悪そうな笑みを顔に張り付けながら蔵人に答えてきた。

──似てるなぁ。

 そんな摂政に桜守の姿を重ね見て、蔵人はしみじみと感じ入るのだった。

摂政「ところで、お前だけにこの話をする意味を分かっているな?」

蔵人「オレ一人だけで行けって事だよな?」

摂政「うむ。行き先は人里、稲荷神を敬う連中ゆえ、使者である妖狐を襲う不届き者はおらなんだろうが、万が一というのもありうる」

蔵人「ま、この話は人間であるオレの方が色々と動きやすいわな」

摂政「そういうことだ、頼むぞ。……ところで……」

 摂政はそこまで言うと、居心地悪そうに蔵人から目を離して視線を室内へとさまよわせ始めた。

蔵人「ん? 何だよ急にソワソワと」

摂政「いや、その、な。……お前も自分の屋敷を持ちたくはないか?」

蔵人「オレの屋敷?」

摂政「う、うむ。このまま『桜守の』屋敷に留まるのは色々と面目が立たないだろう? どうだ?」

蔵人「うーん。これ以上、摂政たちの世話になるのは気が引けるな」

摂政「……桜守の世話になるのはいいのか」

 ぼそりと摂政が小さくささやいた。

蔵人「……何か言ったか?」

摂政「いや、なにも。ところで……桜守の事をどう思っている?」

蔵人「桜守? どういうこった?」

摂政「他意は無い。お前が桜守をどう思っているか聞いておるだけだ」

蔵人「そうだなぁ……意地っ張りで小心者で、ついでに食い意地も張ってて……」

摂政「ていっ!」

──ぼふん。

 摂政の放った狐火が蔵人の顔面に命中した。

蔵人「ナニすんだテメェッ!?」

 チリチリと焦げた前髪から煙を出しながら蔵人が牙を剥く。
 だが、対する摂政も引くことなく犬歯を見せて蔵人を威嚇した。

摂政「妾の前で桜守の悪口を宣うからだ!」

蔵人「意見を聞いておいてそりゃねえだろ!」

摂政「蔵人よ、前言撤回だ。お前は見る目がない。桜守は比肩する者無き知謀と、屈する事無い勇気をその胸奥に秘めているのだ。日々の所作から垣間みえる智慧の片鱗がお主にはわからぬか?」

蔵人「見る目がねぇのはテメェじゃねえか! アイツは転がるオニギリを追いかけて行って、最後はオニギリをつかんだままガケから笑顔で落ちていくようなヤツだぞ!」

摂政「袋叩きにするぞ貴様ーッ!」

蔵人「上等だ! もっぺんやるかーッ!?」

 こうして、狐火と座布団が再び宙を舞い始めた。

〜 中庭の片隅 〜

幼狐娘「……ほとんどカラ、ですね」

桜守「……そうじゃな」

 これと言った感情も言葉に滲ませず、ツボの中に残った僅かなハチミツを見ながら二人はつぶやいた。
 というのも、幼狐娘からしたら、もうすっかり諦めて開き直っている塩梅。
 おそらく桜守もそうなのだろうと幼狐娘は踏んでいたので、無感情な声にも特に疑問は湧かない。

幼狐娘「それで、どうしますか?」

 小皿を両の手で大事に握り持ち、小さな舌先でハチミツをチロチロと舐めとりながら幼狐娘が桜守へと尋ねる。
 桜守もまたハチミツを御神酒のようにグッと煽りながら何気なく言葉を返した。

桜守「幼狐娘よ、一休(ひとやすみ)さんという小僧の話を知っているか?」

幼狐娘「ひとやすみさん? 確か、無理難題をトンチで切り抜ける小話ですよね?」

桜守「そう、その小話の中に、今のワシらと似たような状況の話があるのじゃ。それを利用すれば……」

幼狐娘「今の私たちと似たような状況の話、ですか?
 はて……高価なお皿を割ってしまって、毒と言われていた飴を残らず食べる話なら前提条件から違いますよね? 蔵人様はハチミツを毒とは言ってませんし、特に大事にしている物も持ってないようですし……」

桜守「……はっ!?」

幼狐娘「『はっ!?』!? いま、『はっ!?』って言いましたか!?」

桜守「し、しまったーッ!」

幼狐娘「『しまったーッ!』!?」

 急に、桜守がわたわたと慌て始める。
 その姿を見て、幼狐娘は即座にすべてを理解した。

幼狐娘「ま、まさか……聞きかじったトンチでなんとかなると思い込んでいたから、あんな暴挙に走っていたと?」

桜守「悪いかッ!」

幼狐娘「怒られたーッ!?」

桜守「くっ! ワシとした事が一生の不覚! こんな落とし穴があったとは!」

幼狐娘「……」

──もしかして、桜守様はハチミツ欲しさに、後付け設定で『なんとかなる』という理由をこじつけて思考停止していたんじゃあ──

 もしくはとんでもないバカである。

桜守「な、なんじゃその目は!? 言いたい事があるなら、はよ言わんか!」

幼狐娘「い、いえ! 何でもありません!」

 幼狐娘は首を横に振って思考を中断した。
 食い意地が張っているのか、おバカさんなのか。
 これ以上考えると、そのどちらかに桜守が区分されちゃうしかないという事実に幼狐娘が気付いたのは内緒の話である。

桜守「落ち着け! 落ち着くのじゃ……ワシ!」

幼狐娘「……」

桜守「……むっ! スゴい解決策を思いついたぞ!」

幼狐娘「なんです?」

桜守「まず、ハチミツ壺を井戸まで持って行く!」

 ハチミツ壺と呼ぶには中身が少しばかりさびしくなった壺を持って、桜守は井戸まで駆けていく。

幼狐娘「……それから?」

桜守「それから、こうやって、井戸から水を、汲み上げるッ!」

 言葉の端をところどころ気合いで区切りながら、桜守が井戸の水桶に繋がる縄を身体全体で引っぱる。

幼狐娘「……で、どうするんです?」

桜守「最後に、井戸から引き上げた桶の水を壺に移し替えて終わり」

 だばだばだばだば……。

幼狐娘「無理ーッ!? さすがにバレますって!」

桜守「もう、こうするしかないじゃろうが! 大丈夫! ワシを信じろ!」

幼狐娘「なんですかそのヤケクソじみた自信は!? けど、無理なものは無理です! これ、ハチミツじゃくて単なる甘い水になってます!」

桜守「口答えするな!」

幼狐娘「横暴だー!?」

桜守「ま、何はともあれ、これで一件落着じゃ」

 事態の先送り、負の遺産、いずれ炸裂するであろう『てつはう』。
 何の解決にもなっていないが、桜守は一仕事終えたような爽やかな顔で、壺の中で波々と揺れるハチミツ水をヒシャクですくった。
 そしてそのまま桜守はヒシャクに直接口をつけてハチミツ水を飲み始めて、

幼狐娘「はぁ……あまりやりすぎると蔵人様に愛想を尽かされちゃいますよ?」

桜守「ぶぼらばっ!?」

 ──幼狐娘の言葉に思わず吹き出した。

幼狐娘「きゃーッ!?」

桜守「げ、げほっ……な、なんじゃその言い方は!? ワ、ワシがなにゆえ蔵人の顔色を窺わねばならぬのじゃ!?」

幼狐娘「え? えっ? べ、別に深い意味は無いのですけど……わたし、なにか気に障ることを言ってしまいましたか?」

桜守「う、うぐっ……!」

 本当に他意もないために、ただただ困った顔を返す幼狐娘。利発であるがまだまだ幼く、純粋である。
 ただ、その純粋さが桜守を余計に苦しめた。
 幼狐娘の純粋な問いかけを前にして桜守はたじろぎ、顔を真っ赤にして、何とも言えない表情で口をつぐんだ。
 それは例えるならば『すごく文句を言いたいけれど、そういう文句を言うこと自体とても恥ずかしくて口に出せず、口に出しても「なんで?」と詮索されたら本当に逃げ場が無くなる』という感じの顔だった。

桜守「ぐ、ぐぎぎ……」

 桜守は出したくても出せない喉につまらせた言葉が如何ともしがたいようで、頭を抱えながら身をよじらせ、やがてその場で片足を上げると地団駄を踏み始める。

幼狐娘「あ、あの……桜守様?」

桜守「しゃーッ!」

 そして突然、桜守は両手をカマキリの威嚇行動のように広げ、幼狐娘へと突撃してきた。

幼狐娘「ぎゃーッ!?」

 反射的に逃げる幼狐娘。

桜守「ぎしゃしゃーッ!」

 追う桜守。
 二人はそのままグルグルと中庭を走り回り始めた。逃げる幼狐娘はともかく、なぜか追う桜守まで涙目になって。

蔵人「元気だなおまえら」

桜守「……はっ!?」

 中庭に蔵人が現れ、鬼ごっこが終了を告げたのはそれから十分以上後のことだった。

幼狐娘「く、蔵人様〜!」

蔵人「よしよし」

桜守「なっ……こっ……お、遅かったな! 二人で何を話しておったのだ蔵人よ!」

 姿勢と着物を整えながら、強引に話を切り替えようとする桜守。
 蔵人は「それはこっちのセリフだ」とは特に突っ込まず、片手で幼狐娘の頭をぽふぽふ撫でながら答えた。

蔵人「ああ、近くの村……渡された資料を見た感じの規模でいえば町に近い所だが、そこでちょっと看過出来ない水不足が起きてるらしい」

桜守「水不足? それで?」

蔵人「調査して解決してこい、だとよ。近々、稲荷神の祭りがあるそうで、それまでに解決しないと祭りが潰れるらしい」

幼狐娘「稲荷大明神様の祭りが!? それって、大問題じゃないですか!?」

桜守「しかし、何で摂政様はその話をお主に?」

蔵人「知るか! あんにゃろ、人の顔面に狐火をぶつけやがって!」

幼狐娘「あ、あはは……信頼されてるんですよ、きっと」

桜守「なるほど、体よく使い走りにされたわけじゃな……というよりも、ワシらに話してよかったのか? それ?」

蔵人「さあな」

桜守「さあなって、お主……」

蔵人「いや、摂政はオレだけに伝えたかったようだが、お前たちだけに話すなら特に問題は無い内容だ。
 もちろん、情報はどこから漏れるか分からないから、知りえる者を少なくした方がいいとは分かる。
 だけど、友人に隠し事はしたくないだろ?」

桜守・幼狐娘「っ!?」

 蔵人の言葉に、桜守と幼狐娘の二人……もとい二狐が、同時に息を飲んだ。

蔵人「ん? オレ、何か変な事を言ったか?」

幼狐娘「いえっ! 蔵人様がわたしたちの事をそんなに思って下さっていてくれたなんて、あまりの嬉しさになんだか胸が熱くなってしまって……」

蔵人「前にオレたちは友人だって言っただろうに」

幼狐娘「言葉だけじゃなくて、心から想われていた事が嬉しいのです!」

蔵人「そ、そうか……ん?」

 幼狐娘の迫力に、蔵人がたじろぐ。
 そしてそこで、蔵人は無言で顔を伏せる桜守に気が付いた。

蔵人「おい、桜守? どうした?」

桜守「っ!」

 蔵人が声をかけると、桜守は全身に電流が走ったようにビクリと身を跳ね上げ、並んで上がった紅潮する顔で蔵人を睨み付けた。

桜守「く、口が軽いわ間抜けめが! 摂政様が他言無用だと言ったら、ちゃんと口を貝のように閉めておかんか! そのようでは誰からも相手にされなくなるぞ!」

 桜守は一息にそう言い、荒々しく肩を上下させる。
 もちろん、桜守とて蔵人が不義理な性格だとは本心では思っていないのだろう。
 しかしそれは裏を返せば、桜守と幼狐娘に話をすることで何か問題が起きれば、蔵人はその責任をちゃんと取るだろうとも思えるわけで……。
 つまりは、それだけ桜守は蔵人に信頼されている『特別な存在』でもあるというわけで……。

蔵人「いや、そうか……そうだな、すまん」

桜守「謝るでない!」

蔵人「なら、堂々としておこう。終わったことだしな」

桜守「ふてぶてしいわ!」

蔵人「どうすりゃいいんだよ!」

桜守「知るか!」

 時は、いつも通りに騒がしく流れていくのだった。

八十行以上だとすっかり思い込み、『何行減らす必要があるかな?』と確かめるためsageずに、また読み返しもせずに送信してしまいました。
申し訳ありません。

一応、このまま続けて行きます。
それと、シエンしてくれている人ありがとう。

〜 それから数分後 〜

桜守「はぁ……はぁ……」

蔵人「じゃ、ちょっくら旅支度をしてくる」

桜守「う、うむ! ところで、どれくらいの日程になりそうかの?」

蔵人「今から最速で支度をしてから出発したとして……到着するのが夕暮れ前くらいだな。
 それから状況の確認、ここまでなら一日、二日で終わるだろうが、状況の改善となるとまた別に……」

桜守「まてまて、今からいきなり出立するのか?」

蔵人「ああ、早くしないと摂政が夢枕でオレの仕置き計画を積み立てて行くからな」

桜守「……は?」

蔵人「ま、冗談はさておき、何事も急いだ方がよいという訳だ。今の時期、水不足は稲作には深刻すぎる」

桜守「むう、確かに」

 刈り入れ前の重要な時期。
 稲穂自体は食べれる程度に出来上がっていると思われるから飢饉への発展はまず無いだろう。
 しかし米の出来、不出来はこの時期に大きく決まる。
 良い出来ならばそれだけ米の価値が上がって、他の村や町の組織などと余剰米を売買する際に色々と交渉事が有利になり、悪い出来ならばその逆で不利になる。
 稲荷神を信仰する村には豊かであってもらった方が、巡り巡って桜守たち妖狐たちにも有利である事は間違いない。
 急いで状況の改善に走る蔵人の判断は理にかなっている。
 桜守はそう結論を出して蔵人に頷いてみせた。

桜守「で、旅立つからには、摂政様から貰うモノは貰ったのだな?」

蔵人「ほれよ」

 蔵人は小袖の内側から麻の小袋を取り出し、桜守に手渡す。
 するとそれを見て、難しい話だと一歩離れて聞いていた幼狐娘が、興味津々に蔵人へと尋ねてきた。

幼狐娘「それ、何ですか?」

蔵人「金、だな」

 言ってるうちに、桜守が幼狐娘にも見えるように小袋の口を開いた。
 小袋の中には、黒ずんだり、欠けまくった銅銭が、こんもりと詰まっていた。

幼狐娘「……え、えっと」

桜守「ふむ、ボロいのう……額面通りの価値から三割引というくらいか」

 現在、国内には大陸から渡って来た銅銭や、国内で鋳造されたいくつかの種類の銅銭や銀銭が出回っている。
 民衆の取り扱う貨幣が複数種類ほど存在する場合、一つ一つの貨幣の価値は堅実ではなく流動しやすく、また貨幣自体の状況によっても価値が大きく上下してしまう。
 桜守の開いた小袋の中にある、欠けたり汚なく変質した貨幣がその影響をモロに受ける事は想像に難くない。もちろん、ダメな方に。

蔵人「……手早く終わらせて戻って来るだろうと、オレを高く評価しているんだろうな」

桜守「そうじゃろうな。では有能なる蔵人に、ワシらへのお土産も頼んでおこうか?」

蔵人「金が余ったらな!」

 不機嫌そうに、ことさら大きい足音を立てながら去っていく蔵人の背中を視界に映しながら、桜守は幼狐娘に口を開いた。

桜守「さて、ハチミツ壺を戻すとするか」

幼狐娘「あっ! そ、そうでした。ハチミツ壺の事をすっかり忘れていました」

 ハチミツ壺は井戸の傍らにひっそりと密着して置いてある。
 それが幸いしたようで、ちょうど蔵人からはハチミツ壺が見えなかったようだった。

幼狐娘「でも、今からハチミツ壺を元あった場所に戻すとなると、蔵人様と鉢合わせになりませんか?」

桜守「むっ、そうじゃな。ならば、土蔵にでも一時的に置いておくか。蔵人もすぐに出立するみたいじゃし、その後に元の場所へと戻しておけば大丈夫じゃろう」

幼狐娘「そうですね。ここに置いておくよりかは幾分かマシですね」

桜守「では運べ」

幼狐娘「……へ? わたし一人で、ですか?」

桜守「うむ。ハチミツは美味しかったじゃろう?」

幼狐娘「た、確かにハチミツは美味しかったですけど……」

 今現在、ハチミツ壺の中には井戸水がたっぷりと注がれている。
 持てない事はないが、下手をすると落として割ってしまう可能性があった。

幼狐娘「わたしだけだとハチミツ壺を上手く運べません。どうか、お力添えして頂けないでしょうか?」

桜守「むう、貧弱な奴め」

 桜守は不満げに目を細めるが、しかしハチミツ壺に近づくと腰を曲げ、片手を伸ばしてハチミツ壺の口を掴んだ。

桜守「ほれ、お主も手伝わんか」

幼狐娘「は、はい!」

 あわてて幼狐娘もハチミツ壺に近づき、桜守の掴んだ場所と反対の位置を掴む。
 そのまま桜守と幼狐娘は二狐でハチミツ壺を挟み込むように持ち上げ、土蔵に向けてトテトテと歩き出した。

幼狐娘「そういえば、蔵人様は一人だけで旅立つのですかね?」

桜守「あやつの口振りだと、多分そうではないのか?」

トテトテトテトテ……。

幼狐娘「少し、心配じゃないですか?」

桜守「大丈夫じゃろ。治安が悪いわけでも無し、辻斬りが出没するわけでも無し」

トテトテトテトテ……。

幼狐娘「いえ、そうではなくて……」

桜守「うん? ならばなんじゃ?」

トテトテトテトテ……。

幼狐娘「蔵人様って、昔の記憶が有りませんよね? それで何か問題を起こしてしまうかも……」

桜守「あやつはアホじゃが、そこそこ要領か良い。上手くするじゃろう」

トテトテトテトテ……。

幼狐娘「そうですね。それに、もしかしたらこの旅で蔵人様の記憶が戻ったりするかもしれませんし」

桜守「まあ、新鮮な刺激にはなるじゃろうな」

トテトテトテトテ……。

幼狐娘「あっ、でも途中で記憶が戻ったからこの村に二度と帰って来ない、なんてことになりませんかね?」

桜守「っ!」

ピタッ。

幼狐娘「わっ!? わわっ! いきなり止まらないで下さいよ桜守様!」

桜守「……」

幼狐娘「……桜守様?」

〜 玄関 〜

蔵人「巧遅よりも拙速、っと」

 さっさと旅支度を終えた蔵人は、手荷物を床に並べ置いて確認していた。

蔵人「替えの着物一着、竹の水筒、非常食の味噌、そして金、以上。
 ……簡素すぎるか?」

 蔵人は首をひねって考えてみるが、他に必要な物は思いつかない。
 というか、そもそも蔵人の持ち物が少なすぎるのだ。
 流れ着いた時に着ていた服と、押し入れの奥で眠っていた不要品の男用の着物数着、それが現在の蔵人の全財産である。

蔵人「……むう、一張羅くらいは持っておきたいな」

 蔵人が本気でそう考え込み始めた時だった。

摂政「おーい、桜守やーい!」

蔵人「ん?」

 摂政が桜守の名前を呼びながら、廊下の向こうから近づいて来ていた。

蔵人「おーい、どうした摂政ー!」

摂政「む、蔵人か……桜守を知らぬか?」

 蔵人が声を掛けると、摂政は足早に蔵人へと近づいてくる。
 蔵人は摂政の言葉に首をかしげた。

蔵人「桜守がどうかしたのか?」

摂政「ああ、帰る前に一目会っておこうと思っておったのだが、どうにも姿が見えぬのだ」

蔵人「廁(かわや)じゃないのか?」

摂政「いや、一応は探してみたがいなかった」

蔵人「ふむ」

 桜守の屋敷は広い。
 それもそのはず、女中が数十と侍っては暮らしの世話をするのが前提で造られているのだから当然である。
 しかし先日の事件以降、屋敷に常駐する女中は一狐もおらず、朝夕に飯を作りに来たりちょっとした掃除をしに来たりする程度になっている。なぜ元通りに戻さないのか蔵人にも疑問であるが、理由は桜守だけが知るところである。
 ともかく、広い屋敷では桜守を探すのも摂政一狐では骨が折れるだろう。
 蔵人はそう考えて摂政の手伝いをすることにした。

蔵人「なら、オレも手伝うよ。出掛ける前に一言くらいは声を掛けなきゃいけないしな」

摂政「……いや」

 だが、摂政は蔵人の提案にゆっくりと首を横に振った。

摂政「お前は早く屋敷を出るがよい。桜守には妾から言っておこう」

蔵人「え? でも……」

摂政「妾とお前が交わした会話は桜守も知らぬはず、ならば急に出立するとなると説明が難しかろう?
 それとも……よもや桜守に話した、と?」

 摂政の瞳が細く狭められる。
 摂政の放つ妙な威圧感に、蔵人の頬をたらりと嫌な汗が流れた。

蔵人「い、いや……出立するとは話しておいた、ぞ?」

 実際は包み隠さず全部話しているが、一応嘘はついていない。

摂政「ふん、口の軽い奴め」

 すると、摂政は少し苛立たしげに首を振り、自分の髪を廊下に揺らがせたのだった。

蔵人「じ、じゃあ、行ってくる。桜守に上手く言っておいてくれよ?」

摂政「うむ、じゃあな」

 蔵人は床に並べていた荷物を乱暴に一所へと掻き集めると、それを風呂敷に包んで背負い、玄関先に腰掛けてはその場から逃げるように急いでワラジを履き始める。
 そして素早くワラジの後ろヒモと前ヒモを結び終えて、いざ立ちあがらんと蔵人が腰に力を入れた時だった。

摂政「ほれっ、持っていけ」

 摂政が手首だけを動かし、座る蔵人へと何かを放った。
 蔵人は片手を上げてそれを見事に受け止めると、掴んだ物に目線を向けて確かめる。
 手のひらに易々と収まる大きさの、まばゆい白銀色が目に付いた。

蔵人「これは……銀銭? どうしたんだ摂政? 金ならもう……」

摂政「前の金は仕事の必要経費、それはお前への駄賃だ」

蔵人「お、おぉう。それは何ともありがたいが……」

摂政「いいから貰っておけ。遊び回れる程の価値は無いが、そのカビ臭い身なりを整える位は出来ようぞ」

 ふんっ、と鼻で笑う摂政。
 蔵人はそんな憎まれ口に混じる摂政の優しさに少し申し訳なく感じたが、こうなれば断る方が余計に失礼である。銀銭を銅銭とは異なる袋、懐の巾着袋へと移しながら素直に感謝しておく事にした。

蔵人「そうか、うん。なら貰っておく、ありがとな」

摂政「貰った分はしっかり働いて返せばよい。馬車馬の如く、な?」

蔵人「はは、馬も度肝を抜くオレの健脚っぷりを見せてやる。すぐに終わらせて帰って来てやるさ」

 瞳を細め、挑発するような笑みを浮かべる摂政に、蔵人は立ちあがって不敵な笑みを返すと、そのまま元気良く玄関を飛び出して行ったのだった。

〜 数秒後 〜

蔵人「……」

 屋敷の塀を抜ける手前で、蔵人は足を止めていた。

大きいツヅラ「大きいツヅラじゃ」

小さいツヅラ「ち、ちいさいツヅラです」

 大小二つのツヅラが、道をとおせんぼしていた。

蔵人「……」

大きいツヅラ「さあ、好きなツヅラを選ぶがよい。大きいツヅラならばこのワシが旅のお供に、小さいツヅラならば小さいツヅラとワシが揃って旅のお供になって……」

 ──どげしッ。
 蔵人の前蹴りが大きいツヅラに命中した。

大きいツヅラ「は、はうっ!?」

 蹴りを入れられたツヅラは為す術もなく後ろに倒れる。
 その衝撃でフタが外れ、『中身』が地面にびたーんと転がり出てきた。

桜守「はぐっ! い、いたた……な、なにをするんじゃ蔵人よ!」

蔵人「摂政が探してたぞ? じゃあな」

 びしっ、と片手で敬礼して蔵人が走りだす。

桜守「ま、待て! 待つのじゃ!」

 だが動き始めた蔵人の足に、桜守がいきなり飛び込んでしがみ付いてきた。

蔵人「うおっ!?」

 その桜守の突進は、蔵人が桜守を無視していたため、見事死角からの強襲と相成った。
 体勢を崩した蔵人はそのまま前のめりに倒れ、走る勢いを微塵も殺せず盛大に地面へとぶつかった。

 ──びたーん。

蔵人「ぐべらっ!」

桜守「ぬおぅ!? だ、だいじょうぶか蔵人!?」

蔵人「け、ケンカ売ってんのかテメェーッ! ぐぼばーッ!」

桜守「お、落ち着け蔵人ッ! 衝撃に肺がまいっておる!」

 わたわたと慌てふためく一人と一狐。

幼狐娘「……」

 その場に居合わせたもう一狐は一部始終を眺め終わると、ゆっくりと自分の隠れている小さいツヅラのフタを閉じたのだった。

…………………………

桜守「落ち着いたか?」

蔵人「おかげさまでな!」

桜守「そ、そういじめるでない。ワシとて、わざとしたわけでは……」

蔵人「狙ってやってたら殴ってるよ!」

桜守「む、むぅ、だからワシが悪かったと言っておるではないか。
 しかし、そもそもワシの話をろくに聞こうとせず逃げ出したお主にも少しは非があるのではないか? 屋敷を宿に借りておいて出掛けの挨拶を一言も無し、それがお主の礼儀なのか?」

蔵人「……わかったよ。それでは行って来ます桜守様」

桜守「そうではないわ! ああもう! まだるっこい! ワシらも連れていけと言っておるのじゃ!」

蔵人「連れていけって、旅に?」

桜守「うむ!」

蔵人「桜守と幼狐娘を?」

桜守「うむ!」

蔵人「無理!」

桜守「なぜじゃーッ!?」

蔵人「こっちは遊びじゃないんだよ。桜守こそ、なんで旅に連れて行って欲しいんだ?」

桜守「そ、それはっ……その……あの……」

蔵人「……?」

 急に桜守がそわそわと落ち着かなくなる。
 それを見て、蔵人は首をかしげた。

蔵人「……?」

 桜守のそれは、まるで何か言いにくい事がある時の態度。
 その原因は何だと考えた所で、蔵人の頭の中に摂政の言葉が瞬時によみがえった。

摂政『桜守には話すなよ?』

 特に『桜守』には話してはいけない。
 しかし知らされてしまった桜守は、蔵人について来たがっている。
 摂政は、話を聞いた桜守が蔵人について行く事を予感していた事になる。
 これはつまり、行き先が桜守に縁の深い場所で……

 蔵人の頭の中で、結論が導き出された。

蔵人「……よし、一緒に旅に行こう桜守」

桜守「……へ? い、いいのか?」

蔵人「ああ、誰が止めるものかよ……」

桜守「……? なんで遠い目で空を眺めてるんじゃ?」

蔵人「お月様が綺麗だなって思って」

桜守「いま、昼じゃぞ? 大丈夫か蔵人?」

蔵人「大丈夫さ、全然平気さ」

桜守「????」

蔵人「じゃあ行こうか? 『故郷の墓参り』へと」

 見仰ぐ顔を下げた蔵人の頬に、つっと涙が流れた。

桜守「????????」

 その涙の意味を、桜守が知るよしもなかった。
 行き先の村は桜守とは縁もゆかりもない村であるから当然である。

〜 旅路 〜

 村を出た一人と二狐は、細々と続くケモノ道を一列に並んで進んでいた。
 先頭を蔵人が進み、遅れて桜守と幼狐娘が続く並び順である。

桜守「いったいぜんたい、何がどうなっておるのか」

 道中、桜守が幼狐娘に口を開いた。

幼狐娘「……」

桜守「しかしまあ、結果的に問題はないか」

幼狐娘「……というか」

桜守「ん? どうしたのじゃ?」

幼狐娘「なんで、わたしまで?」

桜守「旅は道連れ」

幼狐娘「世は情け、は?」

桜守「ハチミツ、美味かったじゃろう?」

幼狐娘「悪業は、自分に還ってくるのですね。よく理解しました……」

蔵人「おーい、遅れてるぞー」

桜守「いま行くのじゃー! ほれ、お主も来んか」

幼狐娘「……はい、わかりました」

 幼狐娘は一度頭を振って気持ちを切り替えると、先を進む蔵人の下へと桜守と一緒になって走り出した

蔵人「……ん?」

桜守「どうしたのじゃ?」

蔵人「いや、さっきまで辺りに桜が並んでいた気がするんだが……」

 蔵人はケモノ道を振り返った。
 元来た道の先には鮮やかな桜色が見える。だが蔵人が立っている辺りからは、陽光に照らされて映えるみずみずしい木々の緑色が広がっていた。

蔵人「あれ? 何かおかしいな」

桜守「これが結界というものじゃ。中と外では世界が異なる」

蔵人「なるほど、境に来ると一目瞭然だな。でも、少し目立ち過ぎじゃないかコレ?」

 季節によって色を変える山々の中に、常世変わらぬ桜色。
 それは白い和紙に墨を垂らしたかのように目立つ。
 首をひねる蔵人だったが、そこに桜守が説明した。

桜守「ワシらのおる結界は常人ならば存在すら気づかぬよ。万が一にも結界に迷い込んだ所で、方向感覚を狂わされて村にはたどり着けなくなっておる」

蔵人「たどり着いていなかったかオレ?」

桜守「お主の場合は意識がもうろうとしていて幻覚が通じず、川に流されるままじゃったから偶然たどり着けたのじゃろう。運が良かったな」

蔵人「今現在、オレの目にも桜が見えているのは?」

桜守「長く結界の中に居て耐性がついたのじゃろう。これなら生半可な幻術くらい看破出来るぞ、山伏顔負けじゃな?」

蔵人「わーい」

幼狐娘「……ということは、このまま行けば蔵人様も妖怪に」

桜守「管狐というものがあるらしいが、対抗して管人というのを作ってみるのも一興やも知れぬな」

蔵人「さらりと怖いこと言わないでッ!?」

>>209
『故郷の墓参り』を『故郷への里帰り』へ脳内で変更してください。
ご迷惑おかけしています。

…… 森の中を進んで数分 ……

蔵人「森の出口か? 開けた場所があるな」

桜守「うむ、そうじゃな」
幼狐娘「はい」

 一行の進む先でケモノ道が途切れており、その途切れた辺りの草木が光でさんさんと照っている。
 道の先は見えないが、その様子からケモノ道の先には草木が少なくなっているのが一行には分かった。

蔵人「出口が見えたからって、安心して転ぶなよ?」

桜守「ふふ、そんな間抜けなことは……」

 ──ずるり。
 言ってるそばから桜守の体が不自然に揺らいだ。

桜守「ぬわっ!? ぬわわわわーっ!?」

 桜守は倒れ行くままにバタバタと手を振り、

幼狐娘「え? ちょっ!? きゃー!」

 隣にいた幼狐娘を巻き込み、二狐まとめてすっ転んだ。

桜守「あたた……」

幼狐娘「はうぅ……」

蔵人「おいおい、大丈夫か二人とも? さ、掴まれ」

 青々と生い茂る草を下敷きに、揃って地面に尻餅をつく桜守と幼狐娘。
 蔵人は二人に近づいて膝を曲げると、まずは幼狐娘へと右手を差し伸べた。

幼狐娘「あっ、ありがとうございます蔵人様。わたしの方は大丈夫ですけど、桜守様は?」

桜守「う、うむ。大丈夫じゃ、それよりも巻き込んですまぬな……むっ?」

 幼狐娘が蔵人の手を借りて立ち上がりながら、桜守へと顔を向ける。
 桜守はバツの悪い顔をしながら自力で立ち上がろうとしていたが、方膝をついた所でふと何かに気が付いたように顔を下げた。

蔵人「ん? どうした?」

桜守「……しもうた、さっきので下駄の緒が切れたようじゃ」

蔵人「下駄の緒が?」

 蔵人が桜守の視線を追って見てみるとすぐに、桜守の小さな足を包む白い足袋と、底の薄い作りの木製の下駄が目に入る。
 そしてその爪先、下駄の先から伸びる二つの緒の片方。第一指と第二指の間に引っ掛かるはずの下駄の緒が、ぷっつりと切れていた。

蔵人「あちゃー……、ていうか、結構歩かにゃならんのに下駄は無いだろう?」

桜守「し、仕方ないじゃろうが! こっちも急いでおったから、そこまで気が回らなんだ!」

幼狐娘「あの、ワラジの代えは無いのですか蔵人様?」

蔵人「無い。確かにワラジは使い捨ての消耗品だが、帰りの物は向こうの村で調達する気だったからな。
 一旦、妖狐の村に戻るか?」

桜守「そ、それは……ダメじゃ!」

蔵人「なぜ?」

桜守「その……あの……」

 桜守はどこか歯切れ悪く視線を辺りにさまよわせる。
 そんな桜守の脳内では、もしも村に帰った場合の一連の流れが空想されていた。
 摂政に見つかったら蔵人との同行を桜守は止められるだろう。
 少なくとも、疑問に思われるのは間違いない。
 その際、桜守は摂政へと、蔵人に同行するという行為について納得のいく説明を果たさないといけないわけになり……。

桜守「ダ、ダメと言ったらダメなんじゃーっ!」

 桜守は頭を左右に激しく振り乱し、思考を捕らえていた空想を霧散させた。

蔵人「お、おう、そうか」

 桜守の急な大声に、思わずたじろぐ蔵人。
 だがすぐに調子を取り戻すと、蔵人はアゴに片手を添えて考え始めた。

蔵人「となると、辺りから木のツタでも集めて足に巻き付けるか、それとも……」

幼狐娘「あの、山のふもとに人家があるので、そこでワラジを頂くというのはどうでしょうか?」

蔵人「おお、それはいい考えだ」

桜守「……で、ワシはそこまで片緒が切れた下駄で苦心しながら歩けと?」

蔵人「それなら安心しろよ、っと……」

 蔵人は桜守に一歩近づくと腰を落とし、桜守の小さな身体を両手で抱え上げた。

桜守「ぬ、ぬおわぁっ!? い、いきなり何をするのじゃ!?」

 背中と脚を両手でそれぞれ支えられる「お姫様だっこ」を急にされて、桜守がバタバタと両手を振って抵抗する。
 しかし、蔵人はさも当然とばかりにけろりとした顔で桜守に答えた。

蔵人「オレの背中は風呂敷が独占しているからな、前しかないんだよ」

桜守「だからと言って! こうやって持ち上げるヤツがおるか!」

蔵人「イヤか? イヤなら降ろすが……どうする?」

桜守「……っ!!」

 問われた桜守は目を大きく開き、下唇を噛み、耳をピンと立て、なんとも言えない赤らめた顔をさらに紅潮させる。
 そして数秒後、桜守は蔵人に答えた。

桜守「は、はやく山を降りよ! このノロマめっ!!」

 蔵人に抱き上げられた桜守は足指に引っ掛かる下駄をプラプラと揺らしながら、ぷいっと蔵人の顔からそっぽを向けた。

蔵人「りょーかい、急ぐぞ幼狐娘」

幼狐娘「は、はい」

桜守「……ふんっ!」

 急ぎ足で歩き始める一人と一狐。
 桜守は流れ始める景色を見ながら、不機嫌そうに鼻から息を吐き出した。

 ただ、そんな桜守の着物の下。
 脚を支える蔵人の腕に引っ張られて、シワも無く伸び張った、着物の下。
 誰をはばかることも無いその場所では、桜守の尾が激しくぱたぱたと、それはもう元気よく動き回っていた。

時間が……巻き戻ってる!?

 森を抜けると、そこはちょっとした高台になっていた。

幼狐娘「わー、遠くまで見渡せますー」

 山腹から見下ろす裾野の光景に、幼狐娘が声を嬉々と跳ねさせる。
 桜守は蔵人の腕に抱き上げられたまま、高台から見渡せる雄大な深緑の景観をちらと一瞥し、しかし呆れたような顔で言い放った。

桜守「ふんっ、珍しい物でもなしにまったく、子どものようにはしゃぐでないわ」

幼狐娘「わたし、まだ子どもですよー?」

桜守「……」

幼狐娘「えっへん」

桜守「……のう、ちょっと近くに来い」

幼狐娘「何ですか?」

 手招きする桜守の下に、幼狐娘が無用心に近づいてくる。

桜守「てい」

 そして頃合いを上手く見計らい、桜守は爪先を蹴り上げて幼狐娘のおでこを足の指先で軽く叩いた。

幼狐娘「は、はうぅ〜」

 おでこを押さえてうずくまる幼狐娘。
 そこにすかさず桜守は続けた。

桜守「幼狐娘よ、知っておるか?」

幼狐娘「へ? な、なにがですか?」

桜守「昔話にはな、桃太郎や竹取り物語みたいな夢多き作品もあるが、子どもに心の傷を残すような後味が悪い作品も多い。
 そして、それら後味の悪い作品は山や海などの『危険な場所』を発祥とする事が大半じゃ」

幼狐娘「桜守様、いったいなにをおっしゃって……」

桜守「つまりじゃ、時に自然の猛威は軽くワシらの命を奪っていく。
 転落死、水死、遭難等々……、昔の者たちはあえて作品を後味悪く作り、注意喚起のための戒めとしたのじゃな」

幼狐娘「えっ、と……つまり?」

桜守「さっきのワシの蹴りには山ではしゃぐなという、そういう注意喚起の意味合いが深く込められておったわけじゃ」

幼狐娘「あ、そういう話のオチですか……」

桜守「文句あるのか?」

幼狐娘「ありません」

 足をぷらぷらとさせながら睨みを利かせてくる桜守に、幼狐娘は背筋をぴしりと伸ばして敬礼を返した。

蔵人「……」

桜守「む? さっきから無言じゃが、お主も何かワシに言いたい事があるのか?」

蔵人「あ、いや……山を見てたんだよ」

桜守「山? それはまた何でじゃ?」

蔵人「ここが山だとは聞いていたけど、村の外に出てやっと実感が湧いてきたんだよ」

桜守「ふむ、お主も内心では子供のようにはしゃいでおると?」

 瞳を細め、冷やかすように意地の悪い笑みを浮かべる桜守。
 しかし対する蔵人はそんな桜守に顔を合わせながら、なんとも自然な笑みを浮かべて返して見せた。

蔵人「はは、確かにそうかもしれないな」

桜守「……っ!?」

 桜守の視界いっぱいに、蔵人の笑顔が広がる。
 桜守は今現在、蔵人の両腕に抱かれている。
 ゆえに、互いの顔の位置も驚くほど近かった。
 それは、首を精一杯に伸ばせば唇が触れ合うかもと思えるほどに。

桜守「〜〜っ!」

 瞬間、ぼふんと頭から湯気が出るかと思うほど、桜守の顔が一息に赤くなった。

桜守「か、顔が近いわバカ者!」

蔵人「あだっ、あだだ……」

桜守「バカ者! バカ者!」

蔵人「わ、わかった! ごめんごめん、オレが悪かった」

 桜守はぽかぽかと蔵人の胸を殴り続ける。
 両腕で桜守を抱き上げている蔵人は防御も出来ず、かといって逃げる事もかなわず、わけもわからぬうちに降参した。

桜守「ふんっ、まったくお主は……まったく!」

 ぷいとそっぽを向く桜守。
 すると、それに合わせて幼狐娘が話の流れを変えようとしてか、話に加わって来る。

幼狐娘「あのー、それで蔵人様は山を見ていらしたのですね?」

蔵人「ん? ああ、山……と、川かな」

幼狐娘「川……ですか?」

蔵人「うん、オレは川から流れて来ただろう?
 その上流に何か記憶の手掛かりがあるかもって思ってな」

幼狐娘「なるほど」

桜守「……」

 話を弾ませる蔵人と幼狐娘、そして顔を背けながらも耳をぴんと立てて会話に集中しているのが丸わかりな桜守。
 ここで話が終わるなら特に問題は無かったのだが、続く幼狐娘の言葉は聞き耳を立てる桜守に思わぬ衝撃をもたらした。

幼狐娘「でも大丈夫ですよ。きっと麓の民家に住む誰か一人くらいは、蔵人様の事を知っているはずです」

桜守「っ!」

 思わず身を起こしかける桜守だが、そこは蔵人の腕の中。
 蔵人の腕を大きく揺さぶるに留まる。

蔵人「うおっ! いきなりどうした桜守?」

桜守「い、いや、なんでもない。なんでもないぞ?」

蔵人「あ、ああ、わかったから落ち着け? な?」

桜守「う、うむ」

 桜守はなだめられるままゆっくりと肩の力を抜いた。

…………………………

桜守「……」

──失念していた。

 桜守は無言で考えていた。
 このまま民家まで下れば蔵人の素性が分かってしまう。
 そうなると、蔵人が妖狐の村に留まる意味が無くなってしまう。
 だが、それは桜守にとって非常に──

桜守「……うむ、決めたぞ」

蔵人「……?」

 怪訝な顔をする蔵人を尻目に、桜守は大きく頷いたのだった。

〜 民家が並ぶ集落前 〜

桜守「というわけで、お主はここで待っておれ」

 蔵人の腕から降りた桜守は集落へと続く道の前で腕を前に組み、蔵人の行く手をふさぐように立っていた。

蔵人「なにが『というわけで』なんだ?」

桜守「では説明しようぞ。
 ……こほん、お主は記憶が無くなって右も左も分からぬ状態。
 もしも下手な粗相をしでかしたら、お主だけではなく村の狐たちにまで火の粉が飛んでくるやもしれぬ。
 だからダメじゃ!」

蔵人「いや、さすがにそれくらいの分別は……っていうかお前、最後はごり押し……」

桜守「とにかく、旅の準備はワシらに任せて、お主はここで待っておれ!」

 びしりと蔵人を指差してから、桜守は蔵人に背を向ける。
 そしてそのまま桜守は片緒の下駄をカラカラと鳴らしながら、集落へと向かって器用に歩きだした。

幼狐娘「……『ワシら』ってことは、わたしも着いていかなければならないのでしょうか?」

 桜守と蔵人の間に立つ幼狐娘が、潤んだ瞳で蔵人を見つめてくる。
 人間の群れに突入するのは、少しばかり幼狐娘には酷かもしれない。
 というか、先導者が桜守な所が一番の不安要素だろう。
 蔵人はそう思った。そう思ったが……

蔵人「……桜守は色々と抜けている所がある。手助けしてやってくれ」

 まあ大丈夫だろうと踏んで、救いを求める幼狐娘の視線から顔を逸らした。

幼狐娘「ふえぇ……」

桜守「おーい! はよ来んかー!」

幼狐娘「は、はいぃぃー!」

蔵人「許せよ」

幼狐娘「ふえぇーん!」

 幼狐娘は泣く泣く、泥船へと乗り込まされたのだった。

〜 桜守と幼狐娘 〜

桜守「さて、まずはワラジを……」

幼狐娘「あの、それよりも先に耳を隠すべきでは?」

 幼狐娘はシッポを着物の中に隠しながら言った。
 桜守は着物の中にシッポを隠すのが常日頃なので、そこは問題が無い。
 しかし、ピンと立った耳はそう易々と隠せるものでもない。
 すると、桜守は幼狐娘の言葉で思い出したようにゆっくりと首を縦に振った。

桜守「おお、そうじゃった。ではこのほっかむりを頭に……」

幼狐娘「え? 妖力で隠せないんですか?」

桜守「……お主は隠せるのか?」

幼狐娘「いえ、まだまだ『見習い』なので無理です」

 暗に桜守が見習いと同程度の妖力しか持っていないのではないかと指摘する幼狐娘。
 だが、長年に渡って都合の悪い話を右から左へと聞き流し続けていた桜守の耳は、これまた見事に幼狐娘の言葉の裏をすくい上げることなく聞き流した。

桜守「ふっ、自分に出来ぬことを他者に強いるでない」

幼狐娘「それは……あ、はい」

 何を言ってもヤブヘビだと悟った幼狐娘は、渡されたほっかむりを被りいそいそと桜守に連れ立って集落へと進んでいった。

〜 蔵人 〜

蔵人「ただ待つだけ、というのも退屈だなぁ」

?「もし……旅のお方ですか?」

蔵人「うん?」

 急に話しかけられた蔵人は声のした方を振り返る。
 そこには背中に籠を背負った女がぽつりと立っていて、蔵人へと向けて軽く頭を下げて会釈していた。
 蔵人は女に向き直り、頭を下げて返した。

蔵人「はい、ここには旅の途中で立ち寄ったのです。貴女は?」

女「私は見ての通りの一農民ですよ。何か買っていきません?」

 女はそう言うや背中から籠を降ろし、籠の中から山菜や畑で取れたであろう野菜を掴んで持ち上げて見せる。
 蔵人も籠に近づき、その中からきゅうりを手に取って大仰に首を回して眺めて見せた。

蔵人「ほうほう、なかなかに良い育ち方をしている」

 すると女もノッて来る。

女「手間暇掛かっているからね。これで育ちが悪かったら、作り手の私もお上品な京言葉を覚えないといけなくなっちゃうよ」

蔵人「はは、しかしそうなると野菜が上品に『しな』を作り出すかもしれないぞ?」

女「あちゃ、それじゃ町で高く売れなくなっちゃうでありんす」

 そう言うと女はくねくねと身をくねらせながら、蔵人へと流し目を送って来た。

蔵人「……ぶはっ!」

女「笑うなんてあんまりでありんす」

蔵人「ごめんごめん。代わりに少し奮発するからさ。
 少し型崩れした銭だけどいいかい?」

女「型落ちした旧銭じゃなければいいよ」

 新しく鋳造された銭は新銭と呼ばれ、時の権力者が自身の威光を輝かせるために過去の銭、旧銭よりも価値が高くなるように交換比率を設定する。
 旧銭:新銭=10:1
 といった感じである。
 ただ、旧銭を蓄えた豪族が反発したり、新銭を造りすぎて貨幣価値が暴落したり、外貨の価値が優秀だったり、そもそも物々交換が地方では主流だったりで中々新銭の価値は安定しないが、それはまた別の話である。

蔵人「型落ちした旧銭でなければ、ねぇ……」

 だがそこは記憶喪失の蔵人。
 持っている銭が新しいか古いかなんて分かる訳が無い。
 ただ小袋を袖口から取り出して開き、ボロボロの銅銭を眺めて見るに、とてもコレが新銭とは言いがたい事だけは蔵人でも理解出来た。

蔵人「……」

女「あれ? 急にいったい……わおぅ! なんとも古風なお金を、まあ」

蔵人「ちと古いかな?」

女「うーん、私でも見た事ない古さだよコレは……」

蔵人「ダメ、かな?」

女「お金としてはダメダメだけど、縁起物としての物々交換ならいいよ?」

蔵人「ありがたい、頼むよ」

女「どういたしまして〜」

蔵人「ああそうだ、ところで……」

女「ん? なんですか?」

 トントン拍子で進んだ話の最後に、蔵人は本題を何気なく切り出した。

蔵人「少し聞きたい事があるんだ。ちょっと時間、いいかな?」

…………………………

桜守「さて、一通りの道具は揃えたか」

幼狐娘「……は、はひぃ」

 首を回して肩をほぐす桜守と、来た時には無かった荷物を背中にどっさりと背負う幼狐娘。
 それら幼狐娘が背負う荷物は何を隠そう桜守の交渉の賜物であった。

桜守「ん? なんじゃ、言いたい事があるなら言ってみるがよいぞ?」

幼狐娘「い、いえ……桜守様って交渉事は得意だったんですね」

 始まりは拾った一本のワラだった。
 それに途中でハエを結んで子供の玩具に早変わり。
 それが物々交換していくうちにあれよあれよとミカンやら反物やらと変化していき、最終的に立派な旅装へと変化していたのだった。

幼狐娘「あ、あり得ない……あり得ないです……」

 思わぬ結果にぶつぶつとつぶやく幼狐娘。
 そこに桜守は余裕綽々の笑みを湛えながら、物々交換の途中で得た扇子で自身を扇ぎつつ幼狐娘を下目に見下して言った。
 ちなみに身長が足りないので、首を持ち上げての無理やり見下しである。

桜守「……ところで、ワシは交渉事『は』得意じゃと?」

幼狐娘「こ、交渉事『も』得意ですね桜守様。
 そ、それと少しばかり手を貸して頂けたらありがたいのですが」

桜守「むふふ、まったく、お主は貧弱虚弱無知無能じゃなぁ……」

幼狐娘「……」

 御機嫌うるわしく鼻高々にのたまう桜守に、幼狐娘のこめかみにぴしりと青筋が浮かび上がったのは言うまでもない。

桜守「まあ、寛容にして才気溢れるワシは、お主みたいな何の変哲も無い平凡なポンコツ狐にも救いの手を差し伸べてやるのじゃ。
 ありがたく思うとよい」

 調子をこき始めた桜守がそう幼狐娘に告げた時だった。

幼狐娘「……ぶちのめしますよ?」

 ぷつん、と幼狐娘の堪忍袋の緒がキレた。

桜守「……ふぇっ!?」

 思いもしない返答に驚き、桜守が聞き間違えかと幼狐娘に顔を振り向ける。
 するとそこには、背中と両手に風呂敷を持ち、小さな身体全体で荷物を背負う幼狐娘が瞳に涙を浮かべ、やさぐれた目で桜守を睨んでいた。
 それを見た桜守は唖然と口を開いて固まる。
 しかし、幼狐娘は止まらなかった。
 キッと目を鋭く細めた幼狐娘は、桜守に向かって勢いよく怒声を飛ばし始めた。

幼狐娘「そもそも! わたしは桜守様に無理矢理に旅へと連れ出されたのですよ!? ちゃんと手続きも踏まずに! 摂政様の目から逃げるように! 帰ったらわたしも一緒に叱られるのを覚悟して!
 そんなわたしに荷物を全部押しつけて、こうやってイジメて楽しいですか桜守様!」

桜守「い、いや……だからワシも手伝おうと……」

幼狐娘「なら持ってください! はやく!」

 幼狐娘はそう言うやいなや両手の風呂敷を乱暴に放り投げ、桜守の足元へと投げ捨てるようにしてよこした。

桜守「むっ」

 幼狐娘の迫力に押されて引き腰になっていた桜守だが、それには少しカチンときた。

桜守「な、なんじゃ! その態度は!
 その荷物の中には、お主のための着替えや旅道具もあるのじゃぞ!」

幼狐娘「それがどうかしましたか?
 桜守様がわたしに旅支度をさせてくれるだけの時間さえくれなかったからじゃないですか!
 それともなんですか? 着替えも何も持たせずに旅の連れにする気だったんですか? ひどいですね!」

桜守「お、おぬし! そんな言い方はないじゃろ!」

幼狐娘「こんな言い方じゃないと桜守様は分かってくれません!」

桜守「む、むぅ〜!」

幼狐娘「うぅ〜!」

 歯を見せて威嚇しあう二狐。
 このまま時間だけが無為に過ぎていくかと思われたが、今の桜守には万事解決の手があった。

桜守「ふんっ、幼狐娘よ!」

幼狐娘「……なんですか?」

桜守「ハチミツは美味かったよな?」

幼狐娘「……っ!」

桜守「く、くくっ」

 奥の手を打った桜守は扇子で口元を隠し、緩む頬を隠す。
 幼狐娘はやはり正直者なようで、そうする間にも幼狐娘の先ほどまでの気勢が削がれていくのが桜守にも分かった。

桜守「ふふふふふ……、貸しがあるからには返さねばならぬなぁ?」

幼狐娘「うぅ……」

桜守「黙ってついてくるのじゃ、そうしたら先ほどまでの無礼はすべて水に流してやろうぞ」

 これで一件落着。
 少なくとも、桜守はそう思っていた。
 そう、桜守は。

幼狐娘「……」

 だが突然、幼狐娘が道の往来の真ん中へと移動を始め、そのままそこに腰を下ろした。

桜守「む? どうしたのじゃ?」

幼狐娘「泣きます」

桜守「……へ?」

 桜守が間抜けに聞き返すより早く、幼狐娘は行動を起こした。

幼狐娘「うっ……うぇ……」

 声が湿り、嗚咽となる。
 瞳が潤み、溢れた雫が涙となって幼狐娘の頬を流れ落ちた。

桜守「ま、まて!」

 桜守があわてて止めに入るが、時すでに遅く、

幼狐娘「う゛えぇぇえぇぇぇ〜〜んっ!」

 幼狐娘は堰を切ったように大声で泣き始めた。

男1「ん、なんだなんだ?」
男2「見かけない娘だな」

 幼狐娘の声につられて、次第に野次馬が集まってきた。

桜守「お、おい! 泣き止まぬか! 人が集まってきおったぞ!」

 桜守はおろおろと狼狽しながら、泣きじゃくる幼狐娘を必死になだめようとする。
 しかし、泣く子となんとかには勝てないとはよく言ったもので、火のついたように大声で泣き続ける幼狐娘には桜守のささやかな努力も焼け石に水な有様だった。

幼狐娘「う゛えぇぇ〜〜っん!」

桜守「こ、これ! 地面に転がって駄々をこねるでない! シッポと耳が見えてしまう!」

幼狐娘「びえぇ〜〜ん!」

桜守「あ、あぁぁぁ……もう〜!」

 桜守はどうしようもない状況に地団駄を踏んで頭を抱える。
 しかし、名案が浮かぶわけでもなく、行き詰まった桜守はすぐに両手を上げて降参した。

桜守「ワ、ワシが悪かった! だからもう泣き止んでくれ!」

 そうすると幼狐娘が地面に転がったまま、涙で濡れた瞳だけを動かして桜守を横目に見てくる。
 そのまま幼狐娘は鼻をすすりながらしゃがれた涙声で、桜守へと聞いてきた。

幼狐娘「えぐっ……嫌味をもう……言いませんか?」

桜守「い、言わぬ!」

幼狐娘「もう……揚げ足を取りませんか?」

桜守「取らぬ!」

幼狐娘「もっと……優しくしてくれますか?」

桜守「優しくする!」

幼狐娘「……本当に?」

桜守「本当にじゃ!」

幼狐娘「……本当?」

 そして地面に倒れたまま桜守をじっと見つめてくる幼狐娘。

桜守「う、うむ!」

 桜守は思わず目を逸らしながら答えた。

幼狐娘「……目を逸らしました」

桜守「え? いや、その、これは」

幼狐娘「ふえぇ……」

桜守「ああっ! 待て! 待ってくれぃ!」

 桜守は再び泣き出しそうになる幼狐娘をなだめつつ、周囲からの視線をひしひしと感じながら、涙目で叫んだ。

桜守「もう! ああもう!
 泣き出したいのはワシの方じゃーっ!」

〜 一方そのころ、蔵人 〜

女「この山について、ですか?」

蔵人「うん。色々と面白い話のある山だと聞いていたから、そこの所をちょっとね」

女「はあ、そうですか」

蔵人「あ、いや、言いにくいなら無理にとは言わないけど」

女「いえいえ、別にそういうわけではありません。
 ただ、言葉にするのは少しばかり難しいというか……うーん」

 女は腕を組んで、しばしウンウンと唸り続ける。
 蔵人が無言でじっと待っていると、やがて女はぽつぽつと言葉をつむぎ始めた。

女「ここらを取り巻く山々一帯は昔から神様の領域と呼ばれていました。
 そしてその理由は、この山の上に神様がお住みになっておられるからです」

 そうして女は目の前の山、蔵人たちが降りてきた山の上を指差して続けた。

女「神様はこの山の上に社(やしろ)を構えておりまして、そこで数多くの狐たちと……あっ、狐たちは神様の使いなんです」

蔵人「神様の使い?」

 さも知らないように装って、蔵人は聞き返した。
 蔵人の知る情報は当の桜守たちからもたらされた情報のみで、客観性に乏しい。
 いま「知っている」と答えて女の話の腰を折り、他者の視点からの情報を聞きそびれる意味は無かった。
 するとそんな蔵人の考え通りに、女は組んでいた腕を解きながら蔵人にうなずき、そのまま話を続けた。

女「ええ、稲荷大明神……ウカノミタマとも言ったかしら?
 ともかく、狐たちはそういう神様のお使いでして、この山の膝元に住まう者たちは狐を神聖な霊獣として敬っております」

蔵人「神聖な霊獣……」

 蔵人は桜守の顔を思い浮かべてみる。
 縁側に座って、のほほんとハチミツを舐める桜守。
 ご飯を美味しそうに食べる桜守。
 ツヅラに入った桜守。

──畏敬の念ではなく、ため息が出るのはなぜだろうか?

 蔵人は妙な頭痛を感じ、静かに頭を押さえた。

女「……あの?」

蔵人「いえ、少し立ちくらみを……どうぞ続けてください」

女「あ、はい。
 えっと、それで山の上には狐たちと神様がいまして……えと……うーん……」

蔵人「……?」

女「……それで終わりです?」

蔵人「何故に疑問系?」

女「す、すみません。話が広がらなくて申し訳ないのですが、本当にそれだけなんです。
 私たちは山に住まう稲荷大明神様を信仰していますが、たまに軽いお祭りと一緒にお供え物をしたりするくらいで、普段は特に……」

 もじもじと申し訳なさそうに答える女に、蔵人は小さく笑いかけた。

蔵人「いや、十分だよ、ありがとう。
 それと、もう一つ聞いておきたいんだけれど」

女「なんでしょうか?」

蔵人「この山に登る人っているのかな?」

 軽く首を傾け、桜守たちの村がある山を肩で差し示して聞き尋ねる蔵人。
 女は首を横に振りながら答えた。

女「いえいえ、まったく皆無です。
 地元の人間は恐れ多くて登りませんし、そのせいで道という道も無く、旅人も上手くこの山だけを避けるようにして通って行きます。
 あなたもそうだったでしょう?」

蔵人「ああ、確かにそうだな。……登ったら危ないのか?」

女「狐に惑わされる。延々と山を歩かされる。何故か頂上に辿り着けない。
 死んだお爺ちゃんが生前、最期とばかりに神様見たさに真冬の山に登って遭難。その挙げ句、桜が咲き誇る村へ辿り着いたという曰く付きの一品でございます」

蔵人「なるほど、それは危ない」

 茶化すように言って来る女に、蔵人は苦笑いを返したのだった。

女2「おーい、いつまで油売ってるのー」

 不意に、違う女の声が遠くから話に割り込んできた。
 蔵人が顔を向けると、目の前にいる女と同じように背中に籠を背負った女が道の先で手を振っていた。

女「おっと、そろそろ仕事に戻らないと……
 楽しかったよ、じゃあね」

蔵人「うん。あ、最後に一つ。
 最近、神様と狐たちが住まうこの山に登った人はいないかい?」

女「いないよ。さっき言ったとおり村の人はこの山の上には登らないし、よそ者が登ったり降りてきた所も見てないからね」

蔵人「そうか、ありがとう。それじゃあ」

女「はい、それじゃあまた」

 去って行く女。
 こうして、蔵人と女は互いに手を振りながら別れたのだった。

あけおめ帰還。

今年も一年、よろしくお願いします。

頑張る所存!

一年の計は元旦にありと言うので、1日最低1レス本編進行の目標を立ててみます。
2ヶ月も進行停止していて申し訳ない。

…………………………

蔵人「うーん、山に登った者はいない、か。
 いや、一概に断定する事はまだ出来ないが……」

 蔵人はうんうんと唸りながら思案に耽る。
 不安に包まれる……というほどではないが、やはり蔵人も自分の過去の記憶が無いのは気掛かりだった。
 が、過去の自分の足跡探しに没頭するのもそこまで。

桜守「蔵人〜ッ!」

ふと聞き慣れた声が村の方から届いて来たので、蔵人は考えるのを止めてそちらに顔を向けた。

蔵人「おう桜守、遅かっ……」

 しかし振り返った蔵人はそこに広がっていた光景に言葉の途中で口をぽかんと開けたまま固まった。
 村へと続く道の先にいたのは蔵人の予想どおりに見知った顔ぶれ、桜守と幼狐娘である。
 ただ桜守の姿は自身の両手と両肩、そして背中にぱんぱんに膨らんだ風呂敷を乗せ、さらにその背中の上にクスンクスンと鼻をすする幼狐娘を乗せているという、珍妙な鏡餅のようなものだった。

蔵人「……」

──何があったの!?

 内心で突っ込む蔵人に、ほっかむりの下で歯を食い縛りどこの悪鬼様かと見紛う形相となった桜守が一言。

桜守「手伝え」

蔵人「お、おう!」

 地の底から響いてくるようなその桜守の呻き声を断れる訳もなく、蔵人は桜守を手伝うためにそそくさと小走りで駆け出した。

〜 峠 〜

桜守「……」

幼狐娘「……」

蔵人「……」

──沈黙が重たい……。

 蔵人は二狐から顔を逸らして小さくため息を吐いた。
 あの後、三者は村から出発して予定通りに旅路へと就いた。
 桜守の背負っていた大量の荷物は蔵人の背中へと移動している。
 だが、男の力ならばまだまだ余裕があるのでそこは問題無い。
 問題は桜守と幼狐娘の様子だった。

桜守「……」
幼狐娘「……」

 二狐はぷいっと露骨にお互い顔を逸らしてふてくされている。
 しかし嫌悪感を滲ませて、という様子ではない。
 二狐はしばらくしてどちらからともなく様子を窺うように横目を動かし合うと、視線が重なってあわてて顔を背ける……そんな流れを繰り返している。
 お互いにもう怒ってないが謝るにはどうにも素直になれずバツが悪い、そんな様子だった。

蔵人「おいおい、旅仲間同士だろ? いったいどうしたんだよ?」

桜守「……ふんっ」

幼狐娘「……」

蔵人「……はぁ」

 二狐の間で何があったのかはその場にいなかった蔵人に知る由もないが、二狐がいざこざを抱えていると蔵人まで気が暗くなってしまう。
 二狐に引きずられるように気を落とした蔵人が再びため息を吐いた、そんな時だった。

蔵人「……お? 茶屋だ」

 峠の向こうにぽつんと『茶』の登りを立てている小屋を蔵人は見つけた。

蔵人「桜守、幼狐娘、少し休もう」

桜守「……うむ」

幼狐娘「……はい」

 蔵人の意見に耽る二狐は小さく頷く。

蔵人「よし、じゃあ行こう」

 こうして三者はしばしの休息をとることにした。

〜 茶屋 〜

老爺「お? いらっしゃい」

蔵人「三人で」

老爺「はいはい、どうぞお座りになっててください」

 茶屋にいた老爺はしわくちゃの顔で人の良さそうな笑みを蔵人に作ると、茶屋の中へと向けて歩いていった。
 蔵人たちは老爺に言われた通り、茶屋の前に備えられている長椅子に揃って腰をかける事にした。
 だがここでも桜守と幼狐娘は無言で示し合わせたように、桜守・蔵人・幼狐娘という、間に蔵人を挟んで隣り合わないような座り順をするのだから蔵人は苦笑いするしかない。

蔵人「ちゃんと耳と尻尾を隠しておけよ?」

幼狐娘「はい」

桜守「ワシは子供ではない、言われずとも分かっておるわ」

 つまらない事を言うなとばかりに、ふんっと不機嫌そうに唇を尖らせる桜守の様子こそ子供のそれであるが、蔵人は苦笑いの内にその言葉を飲み込んだ。
 すると、そうこうしているうちに茶屋の奥から老爺が盆を両手に戻って来た。

老爺「どうぞ、少しお熱いのでお気をつけて」

蔵人「どうも、失礼します。ほら、二人とも」

幼狐娘「あ、どうもありがとうございます」

桜守「うむ」

 蔵人は白い湯気の立つ湯飲みと串通しの団子の皿を老爺から受け取り、桜守と幼狐娘に手渡した。
 幼狐娘は両手で団子の皿と湯飲みを一つずつ受け取り、自分の隣に丁寧に並べ置いてから、しかし団子は蔵人が先に食べ始めるまで手を付けずに待つつもりのようで湯飲みを小口にすするに留まる。
 対する桜守は団子を渡されるや否や、団子の串を乱暴に掴んですぐに横から団子に歯を立て、茶の入った湯飲みを豪快にあおると、茶のあまりの熱さに噴き出した。

桜守「ぶふーッ!」

蔵人「……何やってんだお前?」

桜守「う、うるさいわい! 黙っておれ!」

 あわてて取り繕うとする桜守だが、そこがまた何ともほほえましい。例えるなら自分の尻尾を追いかけ回す犬みたいに。
 その光景につられて老爺もしわくちゃの顔を楽しそうに緩めて口を開いた。

老爺「ははは、個性的なお子さんですなぁ」

桜守「なっ!? だ、だれがお子さんじゃ!」

 桜守が老爺に食ってかかる。

老爺「ありゃ? それじゃあ妹さん?」

桜守「違うわい!」

老爺「ん〜、それじゃあ……」

 老爺は首をひねって考える。
 蔵人は二者のやり取りを横目に湯飲みに口をつけて、

老爺「あ、……ああっ!
 なるほど、ご夫婦でしたか」

蔵人「ぶふーッ!?」

 盛大に噴き出した。

老爺「いやっはっはっ、ご夫婦とはこりゃあスマンことを言いました。申し訳ない」

蔵人「げほっ、げほっ……いや、ちがっ……!」

 蔵人はむせ返りながら必死で否定した。
 確かに、十二歳で嫁入りという話も珍しくないご時世であるため、老爺が小柄とはいえ女である桜守と男の蔵人をそう勘違いするのも蔵人には分からないでもない。
 しかし断じて、蔵人は桜守と『そういう』関係ではない。

蔵人「ジイさん! オレとコイツは『そういう』関係じゃなくてだなっ!」

老爺「はて? では不義密通? 愛人の仲で?」

蔵人「なおさら違うわッ!」

 蔵人は反射的に椅子から立ち上がって大口にツッコミを入れる。
 だが老爺は「はてさて」と首をかしげるのみ。

蔵人「くっ……お、おい! 桜守! お前からも何か言ってやれ!」

 蔵人は助け船を求めて桜守の方を振り返った。
 が、しかしそこに思わぬものを見て蔵人はぴたと動きを止めた。

桜守「……」

 桜守は椅子に座ったまま固まっていた。
 目を大きく見開き、口をポカンと開けたままで。

蔵人「……桜守?」

桜守「……ッ!!」

 蔵人が声をかけると、彫像のように固まっていた桜守は電撃を受けたように小さく一度身震いをして、素早い動きで蔵人に顔を向けて来た。

蔵人「うおっ?」

桜守「……」

 蔵人と桜守の視線が重なる。
 すると、それに合わせてなぜか桜守の顔も火鍋に放り込んだように徐々に赤くなっていく。

蔵人「ど、どうしたんだ桜守? なんだか顔が赤いぞ?」

桜守「…………」

 蔵人が声をかけるが桜守は赤らめた顔で、無言のままぷるぷると震えるだけだった。

蔵人「……」

──明らかに桜守の様子がおかしい。
 嫌な予感が蔵人の胸中に飛来する。
 そういえば、とここに来て蔵人は思い出す。

──前にも似たような事があったような……無かったような。

 既視感。それもあまりよろしくない方の既視感である。
 蔵人は瞬時に状況の沈静化に努めた。

蔵人「よ、よ〜し! 熱を計ってみるか〜!」

 蔵人はわざとおどけた調子で軽く腰を曲げ、自分の顔を桜守の顔に近付ける。
 そしてそのまま蔵人は桜守のおでこに自分の額をひっつけた。
 おでことおでこがひっつき合って蔵人の顔と桜守の顔が急接近する。

蔵人「ん〜? やっぱり熱いな〜? 風邪かな〜?」

 蔵人は目を上に、軽いノリで言ってみる。
 それは場の空気を流して綺麗さっぱりにしようとする蔵人の涙ぐましい努力だった。
 ただいかんせん、原因不明のままに行動を起こすとロクな事が無いのは世の条理。

桜守「……ッ!」

 鼻先が触れ合う至近距離。
 桜守の顔が火を噴いたように一気に紅潮した。

桜守「〜〜〜〜ッ!」

 そしてそのまま桜守は声にならない声を放ちながら蔵人の顔を押し退けて急に立ち上がると、両手を頭上に掲げて蔵人の頭をぽかぽかと叩いてきた。

蔵人「ぬわっ!? いきなりなんだよ!」

桜守「このバカたれ! バカ蔵人!」

蔵人「ちょっ……急になに!?」

桜守「バカたれ! バカたれーッ!」

蔵人「お、おい? やめ…ちょっ……」

 蔵人が立ち上がるとたちまち桜守の両手は蔵人の頭に届かなくなる。

桜守「む〜ッ!」

 すると桜守は不満そうに唸りながら、今度は蔵人の腹をやはりぽかぽかと殴って来た。
 あまり痛くは無いので怒りは無いが、さすがに理由もわからず一方的に叩かれると蔵人も困り果ててしまう。

蔵人「ま、待て待て! 何が不満なんだ? 理由を言ってくれ!」

 という歩み寄りの言葉も、

桜守「言えるかーッ!」

 しかし桜守の一喝に消し飛ばされた。

蔵人「理不尽だーッ!?」

桜守「う〜ッ! ううぅ〜〜ッ!」

 歯を見せて威嚇する桜守に蔵人はジリジリと追い詰められるように後退る。

蔵人「すわっ! 逃げろ!」

 やがて蔵人は桜守に背を向けて駆け出した。

桜守「待てー! 待たんかバカたれーッ!」

 そして、その背中を追うようにして桜守も同時に駆け出したのだった。

老爺「ふぁっふぁっふぁっ、元気な若者たちじゃなあ……」

幼狐娘「わざとですよね?」

老爺「……ん?」

幼狐娘「わざとですよね?」

老爺「……」

幼狐娘「……」

老爺「…………」

幼狐娘「…………」

老爺「団子、おかわりいるかい?」

幼狐娘「わーい!」

〜 数分後 〜

蔵人「ぜい……ぜい……」

桜守「はあ……はあ……」

幼狐娘「あ、帰って来ました」

老爺「おお、ではお茶でもどうぞ、お二人さん」

蔵人「あ、ああ、すまない」

桜守「うむ、もらおうか」

 老爺から渡された湯飲みを一気にあおる二者。
 それを見計らったように老爺の口元がにたりと歪んだ。

老爺「……ところで」

蔵人「ん?」

老爺「次のお子さんの予定は男の子ですか? それとも女の子?」

桜守「ぶふーッ!」
蔵人「ぶふーッ!」

 桜守と蔵人は再び揃って盛大に噴き出した。

蔵人「げほっ、げほっ……だ、だから違うって言ってんだろうが!」

桜守「そ、そうじゃ! ワシにはまだ子どもなんかおらん! 断じておらん!」

老爺「はて? このお嬢ちゃんはお二人によく似ておりますが?」

 そう言いながら老爺は幼狐娘の両肩をポンポンと叩く。
 そして老爺は蔵人たちが反論する間もなく、そのまま満面の笑みを浮かべながら続けて言ってきた。

老爺「それに『まだ』いないという事は、いずれお作りになるおつもりなのでしょう?」

桜守「……ッ!!」

 老爺が指摘すると、桜守の顔が、ぼふんと火が点いたように一気に赤くなった。
 そのまま桜守は口を引き結び、口中で何事かうめきながら震え始めた。涙目で。

蔵人「ちょっ!? 大丈夫か桜守!?」

桜守「う〜ッ! う〜う〜ッ!!」

老爺「ふぁっふぁっふぁっ」

 狼狽する蔵人、うなる桜守、笑う老爺。
 そんな収拾がつかないような状況になって来たところで、そこに新たにもう一狐が加わってきた。

老爺「ふぁっふぁっ……ふぁ?」

幼狐娘「お爺さん、あまり調子にのったらダメですよ?」

 先程まで黙って見ていたはずの幼狐娘は頬を膨らませてむくれながらそう言うと、老爺の手の甲をぎゅっとつまみ上げた。

老爺「いたっ! いたた……」

幼狐娘「二人に謝ってください」

 蔵人と桜守が突然のことに唖然としてるその前で幼狐娘が老爺に謝罪を要求する。
 老爺はあっさりと折れた。

老爺「わ、わかった! 謝るよ。
 からかってすまなかったね、お二人さん」

蔵人「……」

桜守「……」

 何だか分からないうちに謝罪を受けた蔵人と桜守はしばし硬直し、やがてその意味が頭に浸透していくと、

蔵人「わざとだったのかテメェーッ!!」
桜守「わざとじゃったのかキサマーッ!!」

 二者仲良く揃ってブチ切れた。

老爺「ふぁっふぁっふぁっ、すまんのう。
 見ていて微笑ましいものだから、ついついちょっかいを掛けてしまったわい」

蔵人「いい迷惑だよ! このやろう!」

桜守「まったく不愉快じゃ! もう行くぞ! 出発じゃ!」

幼狐娘「あっ、は、はい!」

──スタスタ。

蔵人「よっこらせっと、ほら金だ」

老爺「おや? いいよいいよ、久しぶりに楽しかったからね」

蔵人「そういうわけにもいかんだろう。
 ただ、イタズラ分は値切らせてもらうからな?」

老爺「ふぁっふぁっふぁっ、わかったよ、ありがたく貰わせてもらおう。
 それと、ほれ」

蔵人「団子の包み?」

老爺「あの娘さんへの謝罪代わりですじゃい。なかなか良い食いっぷりじゃったからのう」

蔵人「ん、わかった」

桜守「おーい! 早く来んかー!」

蔵人「おっと、じゃあなジジイ。もう変なイタズラすんなよ?」

老爺「ああ、帰りにまた寄ってくれ」

蔵人「御免被る」

〜 老爺 〜

老爺「……行ったか、なかなかに楽しい一時じゃったわい」

老爺「しかし、あの者たちはどこから来たのじゃろうか?
 峠の向こうには村しかないし、山を越えて来た長旅にしてはあまりくたびれておらんかったし……」

老爺「はてさて……考えてもわからん。
 ただ、義理がたい所には好感が持てるわい、あの男め」

 老爺は蔵人から受け取った銅貨を手の中にいじりながら、ふんっと楽しそうに鼻を鳴らした。

老爺「しかし、よくもまあこんなボロい銭を持って……ん?」

 と、そこで老爺は何かに気付いたように急に眉をひそめて手の中の銅貨を注視し始める。

老爺「……」

 そのまま老爺はボロボロの銅貨を指先でつまみ上げると、首をひねって視点を変えながら何度も眺め上げた。
 そしてしばらく時間が経過して、やっと何事かを得心した老爺は「はあ」と長い感嘆のため息を胸の奥深くから吐き出した。
 そして老爺はゆったりとした動きで銅貨から目を離し、三者の去って行った道の彼方に眼を向ける。
 だがそう遠くまで行ってはいないはずの三者の姿は、すっかり秋の色に変じた紅葉樹たちの影に隠れて老爺からは見えなかった。

老爺「……なんてことじゃ、ちとバチ当たりな事をしてしまったかのう」

 老爺はしわくちゃの顔をさらに歪めて渋面をつくり、バツが悪そうに自分の額をぺしぺしと叩いた。

老爺「まさか、お狐様とは……まいったまいった。しかし、どうしたものかのう?」

 愚痴るようにつぶやきながら老爺はボロボロの銅貨をひっくり返した。
 銅貨の裏面には、円を描くように伸び曲がった稲で作られた紋様──稲荷の神紋である抱き稲が黒ずみの下から顔を覗かせていた。

老爺「むう……縁起の良い事が起きたというに、素直に喜べなんだ自分の悪業が情けない。
 ……ああ、いかんいかん。こんなことしとる場合じゃない。お狐様たちが帰って来たときのために油揚げを作っておかなくては……」

 老爺はかぶりを振って気持ちを切り替え、茶屋の奥へと爪先を向ける。
 だがその途中、ふと頭によぎるものがあった。
 それは男と一緒にいた、気の強そうな少女の姿。
 老爺の言葉に少女はコロコロとせわしなく表情を変え、しまいには照れ隠しにと拳を振り上げて男とじゃれ合うように走り回っていた。
 あの者たちの仲が良好で、そして互いに信頼しあっているのだとは老爺でなくとも一目で分かる。そして少女が『あと一歩』を踏み出せていないことも。
 つついて容易く揺れ動く少女の様がなんともいじらしく、老爺もついつい調子に乗ってしまってが、帰りに寄って来たのならばもう一押ししてみるのも……

老爺「おっと、いけないいけない。変な事を考えてたらバチが当たってしまうわい」

 そこまで考えて老爺は自分の頬が筋でも切れたかのように緩んでいた事に気付き、表情をきりと引き締め直す。
 しかしそれが自分自身またなんともわざとらしく思えてしまい、やがて土間の釜戸の前に辿り着いた所でとうとう老爺は堪えられなくなって笑いだしてしまった。

老爺「ふ、ふふ……ふぁっふぁっふぁっふぁっふぁっ!」

 自らの口から溢れだす笑声に包まれながら老爺は一人、そのまま面白おかしく何度も手を叩き合わせ続けたのだった。

〜 夕方 〜

蔵人「日が落ちて来たな」

桜守「ぜぃ……ぜぃ……」

幼狐娘「はぁ……はぁ……」

蔵人「……少し休むか?」

桜守「そ、そうしてくれたら……、ありがたい……のう」

幼狐娘「で、でも……、目的の村はまだ峠二つ先……ですし……」

蔵人「そうだな、どうしたものか」

 蔵人だけならば今から駆け出したとしても今日中に村までたどり着けるかもしれないが、桜守と幼狐娘はそうはいかない。
 蔵人は後ろに首を回して自分の背負ってる荷物を軽く見上げると、桜守たちに向けて小さく微笑して見せた。

蔵人「今日はここらで野宿でもするか?」

桜守「野宿じゃと?」

 だがしかし、返って来たのは明らかに嫌がっている桜守の渋い顔。

蔵人「ダメか? 夜営するのに必要な荷物は一通り揃ってるんだけど」

桜守「いや、ダメというわけでは無いのじゃが……」

幼狐娘「それじゃ、いったいなんでですか?」

桜守「むう……、一日歩き通しで……その、においが気になってな」

蔵人「におい? どれどれ……」

 蔵人は上体を軽く前に倒し、桜守の艶やかに揺れる頭髪に自分の鼻先を浅くうずめた。

桜守「なっ! ちょっ、何をするか!?」

蔵人「……うん、別に臭くないぞ。
 こうやって頭を嗅いでも特に……ん? いや、なんだかうっすらとした甘い香りがする、……かな?」

桜守「〜〜ッ!? ふがーッ!!」

 疑問符混じりに蔵人がつぶやいた瞬間、桜守が両手を振り乱して蔵人を突き飛ばした。

蔵人「うおっ! とっ、とっ……」

桜守「アホな事を言ってないで宿の一つでも探して来るのじゃ! このたわけ!」

蔵人「お、おう……、じ、じゃあちょっと先を見てくれわ」

桜守「ふんっ、早く行って来い」

 ぷんすかぷんすかという擬音がぴったりの様子で桜守がぷいっと明後日の方にそっぽを向けると、蔵人の方は桜守の迫力に気圧されるようにせっせと情けなく駆けていく。
 しかしながら、それでもお互いまんざらでもない様子であった。

幼狐娘「ふぅ……」

 幼狐娘はいつもの光景に肩をおろして息を吐き、そして桜守に聞こえないように口中でポツリとつぶやいた。

幼狐娘「……そういえば、朝にハチミツまみれになってましたね、髪……」

 ただそんなツッコミを入れたら本当に手に負えなくなると分かっていたので、幼狐娘はその言葉を一人静かに胸奥へと飲み込んだのだった。

〜 峠の宿 〜

蔵人「……で、コレが仰せの通りに探しだした宿でござい」

桜守「ずいぶんと寂れておるのう」

幼狐娘「そうですね。でも峠の一軒宿が新築できらびやかだと逆に不審極まりないですけど」

蔵人「まあ『宿』と大きくのぼりを立ててるんだ。人はいるだろう。
 ともかく、二人とも耳と尻尾を見せないように用心を……ん?」

老婆「ぐふふ、お泊まりかえ?」

幼狐娘「きゃーっ!?」

桜守「ぬおぅっ!? ヤマンバじゃ! ヤマンバが出たぞ!」

蔵人「お、落ち着け! ただの婆さんだ」

老婆「ぐふふ、まあまあ旅の方々、もう夜も近い。お入りなさい」

幼狐娘「え、えっと……どうしますか蔵人様?」

蔵人「ありがたく上がらせてもらおう。野宿はしたくないだろ?」

桜守「そ、そうじゃな。……うむ、上がらせてもらうぞ」

老婆「ぐふふ、どうぞどうぞ」

幼狐娘(……この人、なんでこんなに嬉しそうなんだろう?)

 老婆はシワにたるんだ顔をさらに嬉しそうに歪めてみせながら、宿というには少し狭い民家の一室へと蔵人たちを案内した。

老婆「ぐふふ……、夕飯は必要かえ?」

蔵人「出来れば頼みたい」

老婆「ぐふっ、ならすぐこさえて来るから待っておきな」

 そう言って老婆はそのままぐふぐふと呼吸するように言いながら廊下を歩き去っていった。

幼狐娘「はぁ、親切な方です」

桜守「うむ、シワだらけで表情はよく見えぬが、悪い奴ではなさそうじゃ。
 人里離れた峠に一人住み着いておるのもあって、ワシはてっきりヤマンバかと思ってしもうたわい。わっははは」

蔵人「おいおい、そういうものは思ってても口に……って、オレも言えたもんじゃないか」

桜守「そうじゃ。どうせ初対面でやらかしてしまったのじゃ、向こうも笑ってくれておるし下手に取り繕う必要もあるまい。
 それよりも、先ほどからそわそわとしておるの? 何か言いたい事があるのではないのか?」

蔵人「む、わかるのか?」

桜守「わかる。それに、この宿に入ってから露骨に忙しなく老婆とワシらの姿を見比べておる所から察するに、ワシらの正体がバレるのを恐れておるというのじゃろ?」

蔵人「お、おう、そうだ……妙に鋭いな。……でも何かヤダな」

桜守「な、なにが『ヤダ』なのじゃ?」

蔵人「いや、何というか……その……」

桜守「くっ! まったく歯切れの悪い奴め、幼狐娘はそんなことないじゃろう?」

幼狐娘「……普段は平々凡々でちゃらんぽらんとしてるのに時たま鋭くなるのが厄介。そんな蔵人様の気持ち、私には少しわかる気がします……」

桜守「幼狐娘っ!?」

 蔵人たちがそんなこんなをやっているうち、廊下へのフスマが横に滑って老婆が顔を出してきた。

老婆「ぐふふ……、なんだか楽しそうじゃのう?」

蔵人「うん? 何か……あ、そういや宿賃を払って無かったな。
 すまない、すぐに払うよ」

老婆「ぐふふ、宿賃なんぞ後でよい。それよりも飯が炊けるまで暇であるからに、少し話でもと思ってな」

幼狐娘「私たちとお話、ですか?」

老婆「ぐふふふふ、そう深く考えなくてもよい。適当に世間話をするだけじゃ。
 一人寂しいババアには語らう相手もロクにおらぬでな」

桜守「ふむ、そういうことならば話相手になってやろうではないか」

老婆「ぐふぐふ、ありがたい。ちなみに、お前さんがたは旅をしておるようじゃが何処へ行こうとしておるのじゃ?」

幼狐娘「峠二つ先の村まで用事がありまして、そこへ行こうと思っています」

老婆「……ほう? それはまた何故?」

蔵人「身内の、ちょっとした問題です。話すほどのことではありませんよ」

老婆「……ふむ、そうかい。しかし、時期が悪かったね」

蔵人「時期が悪い?」

老婆「今、向こうの村はちぃと気が立っておるでな。下手に村へと入れば難癖をつけられるかもしれん」

桜守「……蔵人」

 桜守が蔵人に目配せをしてくる。
 これは村の状況を知る良い機会に他ならない。
 蔵人は桜守に頷くと、老婆へと向き直った。

蔵人「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえないか?」

老婆「ぐふふ、ええよええよ。
 しかし、どこから話したもんかのう?」

幼狐娘「えっと、なんで村の人たちは気が立っているんでしょうか?」

老婆「おおうおう、そりゃ水が足りんでな。
 我田引水……とは意味が違うが、自分の田んぼに少しでも水を引こうと躍起になっておる。それで村中ピリピリしとる」

桜守「何故水が足りぬのか? 雨恵に見放されたのか?」

老婆「いや、雨はちゃんと降った。降りすぎたくらいにのう」

幼狐娘「……雨が降ったのに水が無い?」

老婆「長雨というわけでもないが、降り方が悪かったのじゃよ。直接に稲を害するものでは無かったが、おそらくは山の方で土砂崩れがあって川の流れを変えてしまった。
 そう村のもんは言っておったな」

蔵人「土砂崩れか。でもそれなら村の男衆たちを集めて二、三日もあれば何とかなるんじゃないのか?」

桜守「そうじゃ、原因が分かっておるのに何故放置したまま手を出さないのじゃ?」

老婆「そこが少し説明の難しいところでな。うーむ……まあ『出る』のじゃよ」

蔵人「出る?」

幼狐娘「何がですか?」

老婆「山がな、曰く付きでな。こう……うらめしや〜、と」

 老婆は目玉をぐるりと回し、血管浮かぶ白目を剥いて舌をダラリと垂らした。

幼狐娘「きゃ〜!?」
桜守「ぎゃーッ!?」

 ヤマンバそのものと化した老婆を前に、二狐は脱兎の如くその場から逃げ出した。

〜 数分後 〜

 廊下から一歩居間に入った所に老婆は座り、三者に向かって重い調子に口を開いた。

老婆「むかしむかしの事じゃった。ある殿様が城を落とされ、僅かな手勢と共に山を越えて逃げようとしておった。
 しかし、追っ手は精強。対する味方は疲労困憊。
 このままでは逃げるのも難しい。
 そこで殿様は兵たちに命令を下した。
『無理に倒そうとするな。一合打ち合え、さすれば敵の脚は止まる』
 一合ならばと兵たちは満身創痍の身に鞭打ち、刀を抜き放っては追っ手の前に立ち塞がる。
 じゃが、そんな捨て身の覚悟もむなしく、負傷してまともに戦えぬ兵たちは次々に追っ手に蹴散らされ、殿様もついには追い付かれて斬り殺されてしまった。
 無念なのは殿様を守れなかった兵たちで、成仏出来ずに亡霊と化した兵たちは『一合、一合……』と刀を片手に今も山中をさまよっておる。
 ゆえに、その山は一合山と呼ばれるようになったそうな」

幼狐娘「こ、こわいです〜」

桜守「……で、そんな世迷い言が理由で男衆は山に入れぬのか?
 何とも情けない話じゃ」

老婆「いやいや、さすがにこんな昔話をまともに信じておる者はおらんかった。昔は山菜採りにこのババアもよくあの山には入ったものじゃが亡霊なんぞ見たこともない。
 しかし、ここ最近になって亡霊を見たという者が急に増えたのじゃ。
 今は確か……、村ごと祟られたら元も子もないという事で神社の巫女が村人の山への立ち入りを禁止しておるはずじゃ」

蔵人「亡霊を見た者がいる? 兵の亡霊が本当に存在するというのか?」

老婆「さあ、のう? ババアにはよくわからん。
 ……おっと、そろそろ飯も炊ける頃合いか。ぐふふふふふ……」

 よっこらせと腰を上げて老婆が居間から出ていく。
 その背中から目を離し、蔵人は考えるように「ふむ」と首をかしげた。

蔵人「亡霊……亡霊、ねぇ……」

幼狐娘「あの……、村へはやっぱり行かなければならないのですか蔵人様?」

蔵人「ああ、一応は確かめないといけないからな」

幼狐娘「ふえぇ……」

桜守「泣くな泣くな。亡霊なんておるわけ無い。のう、蔵人?」

蔵人「お、おう! 亡霊がいたとしてもオレが二人とも守ってやるよ」

幼狐娘「うぅ……、蔵人様〜」

桜守「くふふっ、頼もしい限りじゃな」

老婆「ぐふふ、そうじゃのう」

幼狐娘「きゃ〜!?」
桜守「ぎゃーッ!?」

蔵人「おいおい、いきなり入って来られると心臓に悪い。ちゃんと一声かけてくれ」

老婆「ぐふふ、すまぬすまぬ。
 それよりも飯を持って来たでな。たんと召し上がってくれ」

幼狐娘「あっ、運ぶの手伝います」

老婆「ぐふふ、ありがとうよ」

桜守「……ふむ。玄米蒸した強飯に山菜の緑。そして生姜とニンニクの揚げ物に梅干し、と」

老婆「それとほれ、スッポンの煮卵じゃ」

蔵人「いや、そんな豪勢にされても払える金は無いぞ?」

老婆「ぐふふ、オマケじゃオマケ。無理に金をふんだくろうとは微塵も思っておらん」

蔵人「しかしだな……」

老婆「ぐふふ、それともう一つ。このおちょこを……」

蔵人「ん? これは……血?」

老婆「煮卵と同じく、スッポンの生き血じゃ。旅は大変じゃろう? たんと精をつけるのじゃぞ?」

蔵人「は、はあ……」

老婆「ぐふふ、そちらの娘さんも生き血をどうぞ」

桜守「う……む、いや、ワシは生臭いのは少し……」

老婆「では、この肉を」

幼狐娘「肉? あ、これ蛇肉……」

老婆「ぐふふ、お嬢ちゃんはまだ早いから食べちゃダメじゃい」

幼狐娘「私には早い……?」

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