ヴォルグ「半額弁当?」佐藤「北欧の狼?」 (325)


 ベン・トー、はじめの一歩のクロスSSです

*はじめの一歩はヴォルグのみ登場
 52巻で再来日し、一歩と再会するまでの2日間のお話になります

*ベン・トーは特に時系列を定めず出したいキャラを出します

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1362855364

 アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフは、成田空港に降り立った。

ヴォルグ「着いタ……」

 懐かしい日本の地。
 
 久しく使っていなかった日本語が自然と口から漏れる。

ヴォルグ「懐かしイ……本当に」

 かつて長期滞在するつもりで覚えた日本語。

 しかし夢破れ、使う必要のなくなった日本語。

ヴォルグ「…………」

 その日本語を再び口にする事で、ヴォルグは破れた夢に再び挑む闘志を自覚した。

 破れた夢。

 プロボクシングで成功する事。

 世界王座を掴む夢。

 ヴォルグはかつてこの国でプロボクサーとして活動していた。

 アマチュアボクシングの世界選手権で優勝した経歴を見込まれ、祖国よりも経済的に豊かでチャンスの多い日本のジムに渡り、5戦のプロキャリアを積んだ。

 結果は3勝2敗。
 
 2つの敗北がヴォルグの夢を断った。

 一つはA級ライセンスを所持するボクサーが日本王座挑戦権をかけて争うA級トーナメントの決勝戦。
 もう一つは空位の日本王座を賭けた日本王座決定戦。

 どちらも大一番であり日本のトップ選手を相手取った試合だったが、ヴォルグは勝利を掴む事が出来なかった。

 戦った二人のボクサー、幕ノ内一歩と千堂武士の実力、そして自身のプロキャリアの浅さを考えれば、悔しさはあっても納得のいく敗戦ではあった。

 しかし輸入ボクサーのヴォルグにとって、この2つの敗戦は致命的なものだった。

 A級トーナメント敗退。
 その直後に巡ってきた日本王座決定戦での敗北。
 大一番での2連敗。
 興行的価値が薄れたヴォルグはあっさりと所属ジムを解雇され、祖国ロシアに送り返された。

 現役を続ける意思がなかった訳ではない。

 しかし祖国で待つ病床の母の看病のため、ヴォルグは僅か5戦のキャリアで引退を決断した。

ヴォルグ「…………」

 その母もつい先日他界した。
 当然、大きな喪失感と悲しみがあった。
 
 だがそれと同時にヴォルグは気付いた。

 もう失うものが何もないという事に。
 もう後ろを振り返る必要がないという事に。

 前だけを見て自分の思う道を行けばいいのだと、母を失った事でヴォルグは気付いた。

 母の喪失、それは現役復帰を断念する理由がなくなった事を意味していた。

ヴォルグ「ここダ……」

 入国審査を済ませ空港内を歩いていたヴォルグは、出国審査場へ続く階段の前で足を止めた。

 かつて日本を去った時、盟友幕ノ内一歩と別れた場所だ。

ヴォルグ「…………」

 破れた夢への再挑戦。

 現役復帰。

 そのために再び日本を訪れた。

 再起の第一歩を踏み出すためにも、まずは幕ノ内に会い、預けていた品を返して貰う必要がある。

ヴォルグ「しかシ……」

 ヴォルグは幕ノ内の家の住所を知らなかった。

 連絡先も知らなかった。

 なんの当てもない来日だった。

ヴォルグ「まァ、なんとかなるよネ……」

 まずは僅かでも土地勘のある、以前暮らしていた地域から探し始めよう。
 知人に会えれば幕ノ内の住所を聞く事も出来るだろう。
 手持ちの現金も少ないためなるべく早く見つけたいが、 なに、日本は暖かい。いざとなれば野宿でもして滞在期間を延ばし、ゆっくりと探せばいい。

 懐かしい日本を訪れた高揚感で、ヴォルグは楽観的になっていた。

ヴォルグ「フフ……」

 訳もなく笑みが漏れる。

ヴォルグ「元気にしてルといいナ、マクノウチ……」


 そう呑気に呟いて、ヴォルグは空港を後にした。


**  **  **

**  **  **

 ある土曜日の昼下がり。

 烏田高校男子寮の一室。

 ロシア美女愛好家の矢部君は言った。

 ロシア美女の、腋のラインは素晴らしい。

 神の創り給うた芸術品だ。

 東洋人にはちょっと真似出来ない美しさだよね、と。

矢部「わかってくれるよな?佐藤」

佐藤「…………」

 僕、佐藤洋にはわからなかった。

 外国人女性のエロ画像を蒐集する趣味は、強くは肯定できないが、まぁ、まったく理解できない事もない。

 僕の場合、金髪碧眼のモデルを見ると姉弟同然に育った従姉妹でハーフの著莪あやめを想起してしまうため、なんとなく西洋人女性のエロ資材には抵抗を覚えてしまうのだが、異国情緒のエロスというものには一定の理解を示す事が出来る。

 しかし問題が腋のラインに及ぶとなると少し話は難しくなる。

 腋のライン。

 腋のラインである。

 腋のラインに、洋の東西による差異がある……それもロシア美女限定の腋の美、そんなものの存在を主張する矢部君の言に、僕は困惑し沈黙した。

佐藤「…………」

 矢部君の陶然とした語り口を、何言ってんだお前と切り捨てるのは簡単だ。

 簡単に切り捨ていい下らない話題である。

 しかしそれではあまりに友達甲斐がない。

矢部「佐藤……」

 下らない話題に付き合ってこその友達。

 彼に歩み寄り理解を示せるなら、それに越した事はない。

 僕は黙考する。

 女の子の腋に性的魅力を感じるという話なら簡単に同意できたのだが……。

 矢部君は話題をロシア美女に限定している。

 矢部君は何を考えている?

 彼には何が見えている……?

佐藤「…………」

 考えろ。

 僕は男、矢部君も男。

 ならばその異性に対する性的な視線をトレースする事は可能なはず。

 腋。

 ロシア美女の腋。

『ロシア美女の』腋。

佐藤「…………」

 なるほど。

 言われてみれば、ロシア美女の腋はロシア美女だけのものであり『ロシア美女の腋にしかない美』というものは確かに存在するのだろう。

 こう考えればいい。

 仮にある一人のロシア美女がいたとして、そのロシア美女の腋が美しかったとする。
 であればそこには、そのロシア美女の腋には『ロシア美女の腋の美』が存在する事になるのだから、矢部君は何もおかしな事は言っていないと、そう考える事ができる。

佐藤「…………」

 しかし考えてはみたものの、僕には矢部君の、『東洋美女の腋の美』と『ロシ ア美女の腋の美』、その差異に価値を見出すという発想が 理解出来なかった。

 人種の違いによる肌の色の違いで、当然国ごとの女性の腋の趣きは変わるが、僕にはそれが些細な問題だとしか思えなかった。

 僕は矢部君に理解を示そうと思考して尚、沈黙した。

 安易な肯定を許さない程、矢部君の主張と僕の感性には隔たりがあったのだ。

佐藤「…………」

矢部「佐藤……!」

 矢部君の必死な眼差し。

 わかるよな!?ロシア美女の腋のライン最高だよな!?という、賛同を求める眼差し。

 気持ちはわかる。

 友人に自身の性癖について語り、黙っていられたら不安になる。
 性癖を否定され、気持ち悪いと言われるかもしれない。
 矢部君は今、そんな不安と戦っている。

矢部「…………!」

 性癖というものは人それぞれ。
 十人十色。
 みんな違ってみんな良い。

 理解者を求めおかしな性癖を痛々しく吐露した友人を慮り、僕は『いや、腋なんてどこの国の女も同じだろ』という言葉を飲み込んだ。

佐藤「うん……」

 性癖の否定は僕たち思春期の男子高校生にとって手痛い精神的ダメージとなる。
 僕は胸の内に湧き上がる『うわぁ……』という気持ちを抑え、矢部君の青い主張に賛同しようとした。

 しかし。

佐藤「……よくわかんないな」

 僕の口をついて出たのはそんな言葉だった。


矢部「な……あ……!?」

 愕然とする矢部君。
 その表情を見、僕は僕で矢部君が『ロシア美女の腋の美』にそれほどまでに入れ込んでいるのかとドン引きしていた。

 ドン引きしつつ、その熱意を評価してもいた。

佐藤「はぁ……矢部君……」

矢部「佐藤……そんな……」

 僕は首を振り、ため息をついた。

 矢部君は、他人に自分の性癖を語る上で、ある重大な……あまりにも重大なミスを犯していた。

 その重大なミスがあったからからこそ僕は、頭ごなしの否定も、話を合わせるだけの肯定も、どちらも選べなかったのだ。

佐藤「口だけでそんな事言われても、ね?」

矢部「————ッ!!」

 矢部君は自分のミスに気がついたようだ。

矢部「そうか……そうだな、佐藤!お前の言う通りだ……!」

佐藤「フッ……」

 僕は矢部君にこう言ったのだ。

 参考画像を寄こせ、と。

矢部「早速俺の部屋に行こう!なぁに、見て貰えればお前にもすぐわかる!ロシア美女の腋の魅力がな!」

佐藤「そうだね、拝見させて貰うよ……」

 僕はゆっくりと立ち上がる。

 イカさないチェリーボーイの弁舌に欲情できるほど、僕の想像力は豊かではないのだ。


 僕たちは矢部君の部屋に移動した。


**  **  **

**  **  **


 結論から言わせてもらえば、ロシア美女は最高だった。


佐藤「ほう、これは……中々……」

矢部「わかってくれたか……佐藤!」

 百聞は一見に如かず。

 矢部君のパソコンに保存された大量のロシア美女画像は、僕と矢部君を夢の世界に誘った。

 土曜の昼下がりに男二人でパソコンの前に陣取りロシア美女画像を鑑賞する虚しさもまったく気にならない。

 ロシア美女には、ロシア美女の腋にはそれだけの魅力があった。

 夢が詰まっていた。

佐藤「悪かった、矢部君。ロシア美女の腋は素晴らしいよ……これは……うん、確かに……東洋人には真似できないね」スッ

矢部「佐藤……!あぁ……わかってくれたならいいんだ……!」スッ

 ガシィッ!!

 僕たちは熱い握手を交わした。

矢部「はは……」

佐藤「ふっ……」


???「馬鹿だろ……お前ら……」




佐藤・矢部「「!?」」バッ!

 突如背後から聞こえた女の声。

 向かい合い握手をしたまま、僕たちは観音開きの扉のように振り返った。

著莪「引くわ……せっかくの土曜に男二人でエロ画像鑑賞とか……」

 そこにはジト目で腕組みした従姉妹の著莪あやめが立っていた。

佐藤「しゃ、著莪!?何故ここに……!?」

矢部「馬鹿な……!この俺が女子の自室への侵入に……著莪さんの侵入に気づけなかった、だと……!?」

著莪「何故って……今日は一緒に西区のスーパーに行く約束だろ?迎えに来たんだよ」

佐藤「スーパーって……まだそんな時間じゃあ……」

 僕は矢部君の部屋のデジタル時計を確認し、驚愕する。

佐藤「なっ……!?」

 時刻は17時30分。

佐藤「嘘……だろ……?5時半、だと……!?」

 僕と矢部君がロシア美女鑑賞を開始した時、時刻は14時を少し回った所だった。

 あれから3時間以上が過ぎていた……!?

 僕の体感ではせいぜい2、30分しか経っていないように感じていたのだが……。

矢部「くっ……!」

 矢部君がきつく目を閉じ時計から顔を背ける。

 そして一言、またやっちまった、と呟いた。

佐藤「…………ッ!」

 そうか……これが……!

佐藤「時間さえ忘れさせる……ロシア美女の魔性の美……!」

著莪「アホか」ポカッ

佐藤「あいた」

 著莪に頭を小突かれる。

佐藤「痛いな、何も叩く事ないだろ」

著莪「アホ。変態。自分との約束忘れてエロ画像に夢中になってたら叩きもするわ」

佐藤「だから、忘れてた訳じゃないんだって。ロシア美女の魔力がだな……」

著莪「ロシア美女ぉ?」

 著莪は僕たちを押しのけ、バソコンのモニターを覗き込む。

矢部「ああ……!」

 矢部君がなんとも言えない声を漏らす。

 無理もない。自身のロシア美女画像コレクションを、リアル西洋美人の著莪に見られているのだから、その心中は察するに余りある。

 従兄弟の僕ですら、著莪に自分のエロ本を見られるのは嫌だ。

 赤の他人の矢部君は尚更だろう。

 しかも矢部君は著莪に気がある節があるから、現在の彼は内心で羞恥に悶えている筈だ。

著莪「これ、お前の?」

矢部「ハイ……」

 著莪は矢部君のコレクションをざっと閲覧し、聞いた。
 著莪から目を逸らし、か細い声で答える矢部君。

著莪「ふぅん……」

 咎めるでも蔑むでもない著莪の目。

 そこから一切の感情は読み取れない。

矢部「ゴメナサイ……」

 何故か謝る矢部君。

 矢部君が何故謝ったのかはわからない。

 しかしなんとなく気持ちはわかる。

 もう見ていられなかった。

佐藤「しゃ、著莪!もういいだろ?行こうぜスーパー!」

著莪「ん……だな。行こうか」

矢部「…………」

著莪「ほいじゃお前の部屋にいるから。さっさと来いよ〜?」

 著莪はあっさりと引き下がり、部屋から出ていった。

佐藤「矢部君……」

矢部「佐藤……俺もう全てがどうでもいいよ……」

 うなだれる矢部君。

 かけるべき言葉はない。

 彼の傷心を癒せるのは。

矢部「行けよ……佐藤、著莪さんを待たせちゃいけない……」

 矢部君はそう言って、パソコンに向き直る。

佐藤「うん……」


 彼を癒せるのは、ロシア美女だけ……。


 矢部君がマウスをクリックする音を背後に聞きながら、 僕は彼の部屋を出た。


**  **  **

今日はここまで
ゆっくりと書いていきます

そうなります
書きながら画像検索してみたのですがあれはいいものです
あと>>1に書くのを忘れていたのですが時代背景はベン・トーに合わせているのでヴォルグがペレストロイカで来日したという設定は無視します
単にチャンスの多い日本のジムからデビューしたした元アマ世界王者のロシア人ボクサーという事で

すっげえコラボですねw
ぜひ支援させてください
続きが楽しみです

最近餓狼伝とのクロスも見たし、こっちも期待w

>>21
一歩の作中ではまだ三年位しか経ってないから設定変更は仕方ないね
……現実の方はずいぶん経ったけどなぁ、いつの間にか一歩より年上になっちまったぜ

今頃一歩は沢村戦に向けて色々と悩んでるのかww

そう考えると不思議な気分だなwwww

もうすでに先が気になってしょうがない。面白いぜ期待してる!

ありがたいので最初だけ全レスさせて頂きます

>>22
ありがとうございます
ゆったりと更新していくので気が向いた時に開いてやって下さい
>>23
あっちを書き終わったら寂しくなったのでまた立てました
餓狼伝クロスは無駄に12万字も書いたのですが今回はその3分の1ほどでまとめるつもりです
>>24
やっと日本タイトル返上しましたね、一歩
長かった……本当に。気づけば>>1も一歩より……
>>25
今頃、

一歩「デンプシーのいい所悪い所。いい所悪い所……」

鴨川「雑念払え。タイヤ引いて走ってこい」

の頃ですねw
>>26
ありがとうございます
餓狼伝クロスはハイペースで書いてしんどかったので今回はゆっくりやります

**  **  **

 僕の部屋でしばらくバーチャで対戦して時間を潰し、僕と著莪は男子寮を後にした。

 今夜は久しぶりに西区に遠征したいという著莪の希望で、一緒にホーキーマートで争奪戦を戦う事になっていた。

 槍水先輩と白粉も現地で合流する予定だ。

著莪「佐藤さぁ……」

佐藤「なんだよ」

 並んで路地を歩いていると、著莪が何処か冷たい目で口を開いた。

著莪「いやさぁ……お前……」

 いつになく著莪の口が重い。

佐藤「な、なんだよ……」

 先ほど矢部君との『男の世界』を覗かれた事もあって、 僕は著莪の言動に対し神経過敏になっていた。

 著莪と同じ西洋の血に欲情していた事に突っ込みを入れられるのではと、無駄にビクビクしてしまう。

 矢部君のコレクションの中に、無造作金髪ロングでグラマラスなモデルの画像があって、ちょっと著莪に似てるなと思いドキドキしてしまったのは内緒だ。

著莪「あの中のあたしに似てるモデルに欲情してドキドキしてたろ?」

佐藤「!?」

著莪「図星か」

佐藤「ば、馬鹿な……あ!いや、な、何を言ってるんだ著莪。お前は従姉妹なんだぞ?血縁者に似たモデルに欲情するなんてある訳ないじゃないか。それにあれは矢部君のコレクションであって僕の趣味とはまったくの無関係だし矢部 君の興味はロシア美女に集中しているから多分イタリア系のモデルはいないはずだしそれに今日はヌードよりもノー スリーブ着用時の腋のエロスにテーマを置いた画像のチョ イスだったんだまあそりゃあちょっとはヌードも観たよ? でも髪型はショートのモデルを厳選したよ?本当さむしろ著莪に似てるヌードモデルの画像は有無を言わさず消去させたくらいさだから僕を怒るのは筋違いってものさ悪いのは僕じゃない矢部君さ本当の事さ」

著莪「動揺しすぎだろ……」

佐藤「ど、どどど動揺なんてしてないよ?本当さ、本当、よく探してくるよね矢部君も、髪型から体型からご丁寧に眼鏡までかけててもうホント著莪にそっくりでさ、著莪もあれ見たらビックリするよ、うん本当に似てたから、あれ あたしいつヌードなんて撮影したっけ〜?とか言っちゃう事請け合いの激似っぷりで————」

 あれ?

 僕、何言ってんだ?

著莪「ほほう……やっぱりあったんだ……あたしに似てる画像……しかもヌード……」

 あ、

佐藤「ああ……」

 先ほど矢部君が漏らしたのと同じような、吐息混じりの声にならない声を僕も時間差で漏らす。

 やってしまった。

著莪「佐藤〜」ガシッ

 著莪がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮べ、僕の肩に腕回をす。

 僕の後ろめたい部分につけ込んでまたぞろ何かよからぬを考えているのは明らかだった。

 これならまだ洋くん最低!とか言われて頬をはたかれた方がマシだ。

 一体著莪は今回、僕にどんなペナルティを課すつもりなのか。

著莪「水臭いじゃん……佐藤ぉ……」

 著莪は体を密着させ甘い声色で囁く。

 どうやらまずは僕をイジって遊ぶつもりらしい。

佐藤「水臭いって……何がだよ……」

 こうなってしまっては腹を括るしかなかった。

 著莪の気が済むまで付き合うしかない。

 僕は著莪に相槌を打つ。

著莪「あたしの裸が見たいならわざわざ似てるモデルなんか探さなくても……」プチプチ

佐藤「!?」

 何故か上着のボタンを一つ二つと外す著莪。

 厚着の季節だからボタンを二つ外した所で胸元が露出したりはしないのだが、その蠱惑的な仕草に思わず目を奪われる。

著莪「言ってくれれば、佐藤になら見せてあげるのに……」

佐藤「!!?」

 フゥ、と一息僕の耳に吐息を吹きかけ、甘えるように著莪は言う。

 わかっている。
 これは演技、僕をからかうお遊び。

 しかし間近に接近した著莪から香るイタリア製シャンプーの良い香りと、二の腕に当たる柔らかな例のあの二つの感触で、僕の愚息は……なんというか、その……エレクトしかかっていた。

 これはまずい。
 つい先程まで矢部君とエロ画像を鑑賞していた事もあって、その、とにかく非常にまずい。

著莪「ね?聞いてる?」グニッ

佐藤「あ、あ、はい!聞いてましゅ!」

著莪「ふふふ、佐藤噛んじゃったね。あたしも噛んじゃお〜」ハミ

 そう言って僕の耳をアマガミする著莪。

佐藤「〜〜〜〜ッ!?」ゾワワッ

 それは噛む場所が違う!!

著莪「えへへっ噛んじゃった〜」

佐藤「くうっ……!」ビクンビクン

 まだか、まだ終わらないのかこの茶番は!

 このままじゃ本当にまずい!

 これ以上やられたらハーフ・エレクトがフル・エレクトになってしまう!

 こんな往来で!!

著莪「ホントに佐藤ならいいんだよ?…… なんだったら……」

 ファ○ク!今日の著莪はしつこい!

 このままでは僕の不本意な二つ名【変態】を裏付ける新たなエピソード『往来で従姉妹に密着され仁王勃ち』がここに爆誕してしまう!

著莪「この後スーパーに行くのやめて……あたしんち、行く?」

佐藤「あ、ああ……!」

 なんだ……!これは!!

 相手は著莪だぞ!?

 なのになんだこれは……!

 著莪のマンションなんて春から何度も遊びに行ってその度に宿泊しているし、著莪とは幼い頃から現在まで数え切れないほど同じベッドで寝た仲だというのに、この流れでそんな風に言われるとなんだか新鮮なエロイベントが待っていそうで凄くワクワクする!

 不思議!

著莪「ね?佐藤……」フゥ

 トドメとばかりに耳に息を吹きかける著莪。

佐藤「そ、ソウダネ、コンヤはスーパーにイクのはやめて著莪のマンションに————」

 イコうか。

 著莪の色香に惑わされ、半ば洗脳されたようにそう言おうとした、その時だった。


???「スイマセーン、困ってまース。とても困ってまス……」

 背後から聞こえた、弱々しい片言の日本語に振り返る。

佐藤「え?」

著莪「ん?」

???「とっても、とっても困ってまス……」

 そこにいたのは、片手にキャリーバッグを引いた一人の外国人男性だった。

 赤みがかった茶髪を緩く撫で付け、スーツにネクタイを締めた優男。

佐藤「あぁっと……」

???「困ってまス……あの」

 不安げな表情で男は繰り返す。

 中腰で手の平をこちらに開いてみせ、必死な様子でたどたどしい日本語を操る姿が哀れを誘う。

 そのジェスチャーと言葉から困っている事は十二分に伝わって来るが、こちらも結構困っていた。

佐藤「ぇあっと……」

???「?」

 相手が日本語を使っているのに情けない話だが、道端で見知らぬ外国人に声をかけられるというシチュエーションに委縮し言葉に詰まってしまった。

 外人に話しかけられてビビりながらも股間はハーフ・エ レクトしているという、攻めているのか守っているのか自分でもよくわからない状態に僕の精神は混乱していた。

???「えと……」チラ

著莪「ん?」

 男も言葉に詰まり、著莪を見る。

 ああ、そうか。
 著莪なら言葉が通じると考えて僕たちに声をかけてきたのか。

 おそらく簡単な日本語は覚えているが、それでは不足するトラブルに遭遇して、母国語、あるいは英語の通じる相手を探していたのだろう。

佐藤「著莪……」

著莪「いいとこだったのに……」

 著莪は日本語の他に、著莪ママことリタの母国語であるイタリア語と、英語を少しだけ話せる。

 僕は著莪の服の裾を引っ張り助けを求めた。

著莪「わあったよ……******?」

???「あ、その、***……*……**」

 著莪は僕から体を離し、まず英語で話しかけた。

 しかし、何を言っているのかはわからないが、男の返した英語は日本語以上にたどたどしく聞こえた。

著莪「※※※※※?」

 続いてイタリア語を試す著莪。

???「??うぅ……すいませン……ボク日本語、少し話せまス。日本語でお願いしまス」

著莪「ああ、なんだ」コツン

佐藤「ごめん」

 著莪が僕の脇腹を小突く。

 僕が一人で勘違いしたせいで余計な手間を取らせてしまった。

著莪「それで、どうされました?」

???「知り合いの家に行きたいのですガ、道に迷ってしまっテ……駅への道を聞きたイのでス……」

 男の日本語は、多少の外国訛りこそあれ流暢なものだった。

佐藤「ああ、それなら案内しますよ」

???「!ホ、本当?」

 言葉が通じる事にすっかり安心し、僕は請け負う。

 男の表情がパッと明るくなる。

著莪「おい佐藤、時間……道教えるだけでいいだろ?」 ヒソヒソ

佐藤「大丈夫だよ、余裕持って出てきたし……」ヒソヒソ

???「……?」

 僕の安請け合いに著莪が眉を顰める。

 不慣れな土地で口頭の案内だけでは不安だろうと思ったのだが、確かに今から駅まで行ってそれからスーパーに向かうのでは、半値印証時刻に間に合うかどうか微妙な所だ。

 だが、それでも。

佐藤「それにさ、なんかこの人……」ヒソヒソ

著莪「いや、まあ……」ヒソ


???「あの……本当にすいませン。デート中だったのに……」シュン


 この人はなんだか放っておけない。

 優しげな面立ちが萎れているのを見ると、無性に力を貸してあげたくなる。

 道端で今出会ったばかりの見知らぬ外国人だというのに、男は如何にも苦境に立たされた善人という雰囲気を醸し出していて、出来る限りの親切をしてあげたくなってしまう。

著莪「う……」

 著莪も同じように感じたようだ。

 そんな義理はないはずなのに、この人を前に自分たちの都合を優先させるのは気が引ける。

???「道だけ教えて貰えたラ、あとはなんとかなルと思うのデ……」

 デートの邪魔をしてしまったと勘違いしているらしい男は、そう言って申し訳なさそうに俯いた。

 頼み事をされているのはこちらなのに、気を遣わせてしまったと罪悪感を覚えるほどその姿は弱々しい。

著莪「い、いや、大丈夫ですよ?大した用がある訳でもないし」

 珍しく焦った様子の著莪。

佐藤「そうそう!それにデートじゃないですから!僕たちイトコ同士なんです」

???「そうなのですカ?随分と仲が良さそウに見えたから、てっきり恋人同士なのかと……」

佐藤「ハハハ、まさか!それは有り得ないですよ。今もちょっとスーパーに————って痛!」

著莪「…………」グリッ

 著莪に足を踏まれた。

 踵を爪先にねじ込まれる。

佐藤「痛いな!なんだよ、もう!」

著莪「べぇっつに〜」

???「フフフ……本当に仲が良いんですネ」

 まだ何か誤解をしているようだが、男の不安げな雰囲気が薄れてきたのでよしとしておこう。

???「それであの、スーパーっていうのハ、スーパー マーケットのコト?」

佐藤「?ええ、そうですけど……」

???「あの……厚かましくて申し訳ないんだケド、僕も 連れて行って貰えませんカ?スーパー……朝、日本に着いた時にオニギリ食べたきり何も食べていなくて……さっきからコンビニやスーパー、ずっと探してたんでス。お金あ んまり持ってないからレストラン、入れなくテ……」

佐藤「……!」

 なんと、それはいけない。

 異国の地で道に迷い、その上お腹まで空かせているなんて。

 これはますます放っておけない。

佐藤「いいですよ、一緒に行きましょう。いいよな?著莪」

著莪「ん。そんであたしらの買い物が済んだら駅まで送ってあげればいいしね」

???「本当?ウワァ、ありがとう!助かりまス!」

佐藤「僕、佐藤洋っていいます。こっちは——」

著莪「著莪あやめです。佐藤の『従姉妹』です」

 何故か従姉妹を強調しこちらを睨む著莪。

???「フフ。ボク、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフといいまス。ヴォルグと呼んで下さイ。よろしく、サトー、シャガ」

佐藤「よろしく、ヴォルグさん」

著莪「よろしく〜じゃあ行くか」

ヴォルグ「本当にありがとウ。日本人、みんないい人」

 一転して笑顔のヴォルグさん。

 争奪戦に巻き込まないよう配慮が必要だが、とにかくヴォルグさんが安心してくれたようで何よりだ。

ヴォルグ「感謝感謝デス」

 
 すっかり表情が柔らかくなったヴォルグさんとともに、僕たちはスーパーを目指した。


**  **  **

今日はここまでです

**  **  **


著莪「ヴォルグは何しに日本に来たの?」


 スーパーに向かい歩き出して数分。

 早くも著莪はヴォルグさんを呼び捨てにし、タメ口で話していた。

 人好きのする容姿で親しみ易い性格の著莪は、他人との距離を詰めるのが異常に早くて上手い。

 日本人が相手だと著莪のこういった態度は見ていてヒヤヒヤしてしまうが、今回は相手が外国人のヴォルグさんなので比較的気楽でいられた。

著莪「観光にしては日本語上手いし、こっちに住んでた事あるんじゃない?」

ヴォルグ「はイ、以前に仕事で少シ。今回はその頃の友人に会いに来ましタ」

 著莪の砕けた態度を気にする様子もく、ヴォルグさんは穏やかな笑みを浮かべて答える。

佐藤「出身はどちらなんですか?」

 さすがに著莪のように馴れ馴れしくは出来ないが、ヴォルグさんの柔らかな物腰に僕の口も軽くなる。

 ヴォルグさんには著莪とはまた違った種類の親しみ易さがあるように思えた。

ヴォルグ「ロシアでス。ロシアの凄く田舎。電気も通ってない何もない村でス」

佐藤「へぇ……やっぱりロシア……」

ヴォルグ「やっぱり?」

佐藤「いや、ロシアの人の姓といえばザンギエフってイメージが日本では強いですから、ゲームとかの影響で」

 某有名格闘ゲームの赤いショートタイツを履いた髭面のプロレスラーとか。

 僕も著莪も直撃世代ではない上、メガドライブ版のダッシュプラスしか遊んだ事はないけれど。

ヴォルグ「もしかしテ、ストリートファイターですカ?ボクも昔モスクワにいた時、友人の家で少シ遊んだコトありまス」

佐藤「そうです、ロシアでも売ってたんですね」

 なんと。
 ロシアでも販売されていたのか、スト?。
 ご友人は北米版を買ったという可能性もあるが。

ヴォルグ「目が悪くなるといけないからあんまり遊べなかったけド、面白いよネ————」

 どちらにせよ、ヴォルグさんが遊んだのは世界的覇権ハードのSFC版だろう。

 アメリカではメガドライブの方が優勢だったらしいが、さすがにロシアでは————


ヴォルグ「——メガドライブ」


佐藤・著莪「「———!!」」

ヴォルグ「ボクの故郷の村にはテレビゲームなんテなかったかラ、あれは衝撃でしタ」

佐藤・著莪「「…………」」

ヴォルグ「ん?サトー、シャガ?どうしたノ?」

佐藤「ヴォルグさん、一日歩き回って疲れたでしょう?荷物お持ちしますよ。それと、僕のことは洋って呼んで下さい」

ヴォルグ「え?ありがとウ……ヨー……?」

著莪「あたしもあやめでいい。ヴォルグ、空きっ腹にいきなり食事はよくない。あそこの自販機で温かいお茶でも奢るよ」

ヴォルグ「??ありがとウ……アヤメ……?」

 急に優しくなった僕たちの態度に不思議そうな顔をするヴォルグさん。

 口振りから察するに、ヴォルグさんはさほどゲームに詳しい訳ではないのだろう。

 メガドライブがセガから発売されたハードだという事すら知らないかもしれない。

 それでも十分だった。

『面白いよネ、メガドライブ』

 この一言があれば、もう僕たちは友達でる。

 一家揃ってセガ派の著莪と、メガドライバーである父の熱き血潮を受け継ぐ僕にとって、どんな美辞麗句よりも胸を打たれるその言葉。

 メガドライブは面白い。

 メガドライブは衝撃的。

 初対面の、それも外国人のヴォルグさんの口から思いがけず飛び出したセガへの賛辞に、僕たちは舞い上がっていた。

佐藤「ささ、行きましょうヴォルグさん。まずはお茶です」

著莪「空きっ腹には乳飲料がいいよね。ミルクティーにしようか。疲れてるだろうし甘いのがいいよね」

 ヴォルグさんのキャリーバッグを半ば奪い取るように引き受ける僕。

 この手の出費がある時は大抵僕の財布を当てにする著莪も、今回は自分の財布を取り出した。

ヴォルグ「???なんだカ、急に至れリ尽くせリですネ……」


 新たな魂の友(ソウル・メイト)を、まずはジュースで歓待だ。


*  *  *

*  *  *


 素晴らしき出会いを自販機のジュースで祝い、僕たちはホーキーマートに到着した。


槍水「佐藤、そちらは?」

白粉「…………!」

 
 店内で槍水先輩、白粉と落ち会う。

佐藤「ロシアからいらしたヴォルグさんです。さっきそこで道を聞かれて、ここまでご案内したんです」

ヴォルグ「ヨーとアヤメのお友達?」

著莪「そう。こっちが槍水仙で——」

槍水「どうも。槍水です」

著莪「こっちが白粉花」

白粉「…………」

ヴォルグ「はじめましテ。ヴォルグでス」

白粉「…………」

佐藤「?」

 著莪が先輩と白粉を紹介する。

 先輩とヴォルグさんは互いに軽く頭を下げ、初対面の挨拶を済ませた。

白粉「…………」

 しかし白粉の様子が何処かおかしい。

 てっきり見知らぬ外国人を前にオドオド挙動不審になると思いフォローに回るつもりでいたのだが、白粉はヴォルグさんをジッと見据えたまま黙りこんでしまった。

ヴォルグ「?」

佐藤「白粉?」

白粉「はっ!あのっ、お、おお、白粉です!はじめまして!」

ヴォルグ「はじめましテ、よろしくネ」

 我に返り、どもりながら挨拶する白粉。

 ヴォルグさんは白粉の様子を気にするどころか、微笑ましそうに目を細めた。


著莪「んじゃヴォルグ、日本語読めないだろ?あたしが探すから買いたいもの言いなよ」

ヴォルグ「あ、助かりまス。えぇっと————」

槍水「私も行こう」


 先行した先輩たちの後ろを歩きながら、僕は 白粉の肩を肘で小突いた。

 白粉が白粉先生モードに移行した気配を感じたのだ。

 ヴォルグさんに粗相をしないよう注意しておかないと。

佐藤「……白粉、失礼だろ。なに無言でガン見してんだよ」

白粉「ご、ごめんなさい……あの、ヴォルグさん、スーツがよくお似合いだなって……」

 …………スーツ?

 あれ、なんだ普通の感想だ。

 ヴォルグさんをよからぬ妄想の材料にしていないか不安だったのだが、余計な心配だったようだ。

佐藤「まぁ確かに。手足が長いし頭も小さいし……ホントよく似合ってるよな」

 横に並んで歩くまで、ヴォルグさんの身長が僕より低い事に気づかないほどのスタイルの良さである。

 マッチョ好きの白粉がスマートなヴォルグさんに興味を示した事を意外に思いつつ、僕は同意した。

白粉「はい。確かに、等身の高さ、リーチの長さは重要な要素ですが……」

佐藤「…………」

 眼鏡を片手でクイと持ち上げる白粉。

 なにやら不穏な空気である。

 やはり先生……白粉先生なのか?

白粉「スーツが似合うという事は、肩周り、そして背中の筋肉が発達しているという事です」

佐藤「…………」

 ふむ。

 まぁ聞こうじゃないか。

 まだおさげを引っ張るような話ではない。

 先生の眼鏡が照明を反射してキラリと光る。

白粉「スーツは誰が着てもそれなりに見栄えのする、服自体のシルエットがしっかりした衣服です。ですが、真の意味でスーツを着こなすにはやはり着る人間の体格、すなわち上半身の筋肉が重要になります」

佐藤「単に細身でスタイルがいいからスーツが似合うってことじゃないのか」

白粉「はい。上半身の筋肉が貧相だと、スーツを着ているというより、スーツに着せられているように見えてしまうものです。体がスーツに合わず服の型が崩れてしまうんです」

佐藤「なるほど」

白粉「その点……」

 その点ヴォルグさんってスッゲーよな、と言わんばかりにヴォルグさんの背中を指し示す白粉。

白粉「あの方、一見しただけでは細身に見えますが……その実、見事な筋肉を身に纏った細マッチョです……それ故スーツがよく似合う……ヴォルグさんの背中を上から下になぞるように見て下さい」

佐藤「…………」

 言われるがまま、ヴォルグさんの背中を肩から腰にかけて観察する。

佐藤「……ホントだ。見事な逆三角形だな……」

白粉「でしょう?」

 白粉は我が意を得たりとほくそ笑む。

 ヴォルグさんのスタイルはスーツのシルエットに依存していない。

 肩周りの布地はピンと張り、腰の辺りには適度なゆとりがある。

 スーツの奥に綺麗に鍛え上げられた逆三角形の上半身が想像できた。

 白粉の言う通り、ヴォルグさんが隠れ細マッチョである事が窺い知れる。

佐藤「何かスポーツでもやってるのかな?」

白粉「そうですね……背筋の発達具合からして、水泳……い や、水泳にしては少し線が細いでしょうか……ううん……歩行動作から観察できる身体バランスの良さから察するに ————」

 歩行動作から観察て。

 何者だよ白粉先生……。

佐藤「察するに?」


白粉「なんらかの立ち技格闘技……」

佐藤「ハ……」


 ……何を言い出すかと思えば。

佐藤「それはちょっと無理があるよ、白粉」

 あの優しそうなヴォルグさんが格闘技経験者だって?

白粉「で、でも……」

佐藤「ないない。イメージできないよ、ヴォルグさんが格闘技なんて……」

 白粉先生の筋肉観察眼はある意味では信頼に値する。

 しかし、この場合は飛躍した想像であるとしか思えなかった。

 温厚で優しいヴォルグさんのイメージは格闘技とは到底結びつかない。

白粉「そうでしょうか……ヴォルグさんの引き締まった体付きや健康的な肌ツヤから、あの方が日常的に己を律し、厳しく節制している事が容易く想像できます……少なくとも、なんらかのスポーツに本格的に従事しているのは間違いありません。あの肉体美は一朝一夕で完成するものではないですから……」

 白粉先生は引き下がらない。

 僕には理解できないが、何かよほど強い確信があるようだ。

 祖父や父に鍛えられた僕の筋肉を、制服のブレザーの上から看破した白粉先生である。

 その筋肉察眼と知筋肉識による推測が意外と侮れない事を、僕はよく知っていた。

 興味を引かれ、白粉の言葉を待つ。


白粉「…………ボクシング、とか」


 じっくりと黙考した後、白粉は呟いた。

佐藤「…………」

白粉「ボクシングなら、階級制の競技ですからヴォルグさんの体格でも本格的に取り組む事ができますし、日常的な節制も必要になります。身体バランスの良さもそれで説明がつきます」

佐藤「うぅん……でもなぁ……ヴォルグさんがボクシング……」

白粉「ボクシングは格闘技の中ではスポーツ色が強い競技です。ヴォルグさんのような方がやっていてもおかしくはないと思いますが……」

 先生の話を聞いていると納得してしまいそうになる。

佐藤「それは理屈の上ではそうだけど……うぅん……」

 やはり白粉の飛躍した想像だとしか思えず、僕は唸ってしまう。


槍水「お前たち————」


 著莪とともにヴォルグさんを案内していた先輩がこちらを振り返る。

槍水「そろそろ時間だ。下見に行こう」


佐藤「はい!——行こう、白粉。ヴォルグさんの事は後で本人に聞けばいいよ」

白粉「そ、そうですね。でも、あの……」

佐藤「まだ何か気になるのか?」

白粉「あ、あの方、狼って事はないですよね?」

佐藤「ああ、それはさすがにないよ。日本に住んでいた事もあるらしいけど……ないはずだよ」

白粉「そうですか……」

佐藤「なんでそんなこと気にするんだよ。外人さんだぞ? 争奪戦の事を知ってる訳ないじゃんか 」

白粉「は、はい。それはそうなんですが、ただあの方の名前……『ヴォルグ』って————」

 先生モードから普段の白粉に戻り、彼女は言う。


白粉「ロシア語で『狼』って意味なんです。それでちょっと気になったというか……奇遇だなって思いまして……それだけなんですけど……」


* * *

*  *  *


ヴォルグ「お弁当ですカ?」


佐藤「ええ……」

 ヴォルグさんが弁当コーナーの陳列棚を覗き込む。

ヴォルグ「ボク、日本のお弁当大好きデス。ロシアにはこういうの売ってないかラ」

佐藤「そうなんですか?」

槍水「そういえば弁当は日本独特の文化だと、以前金城先輩に聞いたことがあるな」

佐藤「へぇ……」

ヴォルグ「とっても美味しそウ……」

 空腹のヴォルグさんの視線が弁当に注がれる。

槍水「…………」

佐藤「…………」

著莪「…………」

白粉「…………」

 僕たち狼の間に緊迫した空気が流れた。

 まさか道に迷いお腹を空かせた外国人を『豚』として処理する訳にはいかない。

 ヴォルグさんが現在3割引きの弁当に手を伸ばした場合、僕と著莪で弁当コーナーから引き離す手筈になっていた。

佐藤「ヴォルグさん、お弁当、買います……?」

 半値印証時刻までもう5分もない。

 ヴォルグさんを避難させるなら急ぐ必要がある。

 僕は思い切って聞いてみた。

ヴォルグ「……いえ、やめておきまス。ちょっと油っ濃イね、このお弁当……」

 ……どうやら、アブラ神の高カロリー弁当はお気に召さなかったようだ。

著莪「……ヴォルグは油っ濃いの苦手?」

 著莪がホッとした様子で聞いた。

 僕も内心で胸を撫で下ろす。

ヴォルグ「いえ、そういう訳ではないんですガ……ちょっト今は油を控えないといけないんデス。節制しないト……」

著莪「?ダイエットが必要には見えないけどな」

佐藤「…………!」

白粉「…………」

 まるで白粉の推測を裏付けるような一言に驚く。

ヴォルグ「ダイエットではないんですけド……ちょっとネ。何か別のニしまス」

著莪「そう?ならあっちのパンコーナーでも見に行こうか?」

ヴォルグ「ありがとウ。でも一人で大丈夫デス。アヤメたちも自分の買い物すませテ下さイ」

著莪「そっか、わかった。じゃああたしらもう少しこの辺見てるから」

ヴォルグ「ハイ。また後デ……」

 そう言ってヴォルグさんは弁当コーナーを後にした。

佐藤「……まさか、ね」

白粉「は、はい……それに、私もスポーツをやっているという所までしか断定できませんし……まだ格闘技をやっていると決まった訳では……」

佐藤「そうだけどさ……ちょっと驚いたよ」

 そして白粉から見ればスポーツをやっている所までは断定できてしまうのか……。

 白粉先生のマッチョに対する眼力には戦慄するばかりだ。

槍水「これであの人を巻き込まずに済むな……」

 先輩が壁掛け時計を見ながら呟いた。

槍水「もう時間がない、二人とも獲物は決めたか?」

佐藤「はい。僕はヒレカツにします」

槍水「私は唐揚げだ。白粉は?」

白粉「私はアジフライにします」

 狙いが被らないよう手短に打ち合わせ、僕たちは一旦弁当コーナーを離れた。

 
 半値印証時刻まであと2分。


* * *

*  *  *

レ トルト食品の棚の前で半額神の降臨を待つ。


著莪「佐藤、あたしもヒレカツ狙いなんだよね」

 不意に著莪がそんな事を言う。

佐藤「ふうん……じゃあ今日はライバルだな」

著莪「いや、そうじゃなくてさ……」

佐藤「?」

著莪「ヌード」

佐藤「!」

 そうか、ペナルティ……!

 完全に忘れていた……!

茶髪「なぁに?また何かやったの、ワンコ」

顎髭「ヌード……?」

坊主「また【変態】の二つ名に箔をつけるようなことやらかしたのか?」

 先に店に来ていたいつもの三人が食いつく。

著莪「いや実はさ————」

佐藤「しゃ、著莪!わかった!わかったからストップ!! OK、今日は共闘だな!全力でサポートさせて貰うよ!」

著莪「わかればいい」

佐藤「はぁ……」

 ヴォルグさんと出会った事で失念しかけていた。

 争奪戦前の高揚感が一気に萎れていく。

 今頃矢部君も先ほどの羞恥プレイを思い出しながら一人悶々と画像蒐集に励んでいるのだろうか。

 男子高校生の性とロシア美女の魔性が恨めしい。



 バタンッ

アブラ神「…………」



 時間だ。

 バックヤードの扉が開き、アブラ神が姿を現す。

 惣菜コーナーの売れ残りを並べ直し、割引シールを貼っていく。



著莪「ヴォルグ、争奪戦の最中に戻って来なきゃいいけど……」

佐藤「大丈夫だよ。今夜は僕たち七人だけだし。先輩は速攻で勝ち抜けるだろうからフォローに回ってくれるだろ」

著莪「だな。あたしらもできるだけ早くケリつけよう」

佐藤「うん」




アブラ神「…………」

 
 続いてアブラ神は弁当コーナーへ。

 惣菜コーナーと同様の作業を繰り返す。


アブラ神「…………」

 
 
 月桂冠は出なかった。


 アブラ神はバックヤードに引き返す。



佐藤「…………」

著莪「…………」



 バタンッ



佐藤・著莪「「ッ!」」ダッ!

 半額神が売り場から去り、争奪戦が開幕する。

 真っ先に飛び出したのは著莪だった。

 僕のフォローを当てにした、妨害を考慮しない無防備な突出。


茶髪「行かせないッ!」グンッ!

佐藤「!」


 茶髪が僕を追い越し著莪の肩に手を伸ばす。


佐藤「ぬっ!」バッ

 ドンッ!

茶髪「くっ!ワンコ!」ザザッ


 茶髪の背中に飛び掛るように体をぶつける。


佐藤「行け!著莪!」

著莪「任せた!」ダッ!


茶髪「このっ!」シュバッ!

佐藤「ッ!」サッ

 茶髪の右ストレート。

 上体を捻り皮一枚で躱す。

佐藤「ふッッ!」ブンッ!

 ガッ!

茶髪「ぐっ!」ズザッ

 こちらも右ストレートを返す。

 左のガードに阻まれるも、打ち終わりを捉えた一打に茶髪はバランスを崩す。

佐藤「ぬッ!」ブンッ!

 左で追撃。

茶髪「チッ!」サッ

 躱される。

 しかしこれは当てに行った一撃ではない。

 茶髪の体勢を整えさせないための威嚇の一打。

佐藤「フンッ!」ブオッ!

 ドゴンッ!

茶髪「ッ!!」

 無理な回避動作で片膝を折り、体勢を低くした茶髪にスリークォーター気味の右アッパーを打ち込む。

茶髪「くっ!」ザザッ

 茶髪は体を捻りアッパーを肩で受け止め間合いを外す。

 さすがに簡単には決めさせてくれない。

佐藤「ッ!」ダッ!

 だがいける。

 普段は乱戦の不確定要素を活用した茶髪の戦い方に翻弄されがちだが、今夜のような少人数の争奪戦、それも一対一の状況なら優勢に戦える。

佐藤「ふッ!」ブン!

 ゴンッ!

茶髪「!?」

 右フック。

 ガードの上を叩く。

佐藤「ぬんッ!」ブン!

 ゴガッ!

茶髪「ぐっ!」

 返しの左フック。

 またもブロックされる。

 しかしこちらの攻勢だ。

 何度防がれようが構うことはない。

佐藤「おおッ!!」グァッ!

 ゴンッゴンッガンッ!!!

茶髪「ッッ!?」ズッザザッ


 ガードごと叩き潰すつもりで左右のフックを叩き込む。

 茶髪の体が左右に揺れる。

茶髪「くっ……!」

 アームガードに隙ができる。

佐藤「!」

 いける。勝てる。

佐藤「ッッ!!」グオッ!

 僕は大きく右腕を振りかぶった。

 茶髪のガードを真ん中からぶち破る……!

茶髪「…………ッ!」

 
 今夜は僕の勝ちだ!


佐藤「うおおッ!」ブオッ!


 シーリーコートッ!!


ヴォルグ「ヨーッッ!」ザッ!

茶髪「!?」


佐藤「!!」

 ヴォルグさん!?

 
 バチィッッ!!


ヴォルグ「ヨー……!」ビリビリ

佐藤「ヴォルグさん……!」

 渾身の右を振り抜いた刹那、僕と茶髪の間にヴォルグさんが割り込んできた。

 僕の右ストレートを掌で受け止め、強く握り締める。


ヴォルグ「何をやってるんダ!女性に手をあげるなんテッ!!」


佐藤「…………ッ!」


ヴォルグ「一体どういうつもりダ!」

 
 争奪戦を知らなければ、もっともな怒り……!

 これは下手に巻き込むより面倒なことになってしまった……!

佐藤「違うんです!ヴォルグさん!これは————」

ヴォルグ「何が違ウ!君がこんな事すルなんて……!」

 信じられないという風に眉を顰め、首を振るヴォルグさん。

 どうやらヴォルグさんの怒りには僕に対する失望も含まれているようだ。

佐藤「う……!あの、ヴォルグさん、これはですね、その————」

 ヴォルグさんにそんな顔をされると辛い。

 争奪戦の最中だというのに、つい釈明の言葉を探してしまう。

 しどろもどろになり、視線を彷徨わせ、そこで僕は気付いた。


佐藤「あれ?」

ヴォルグ「?」

 
 茶髪がいない……!


茶髪「ふふっ」ペロッ



佐藤「あ————!」

 茶髪は既に弁当コーナーに向かって走り出していた。

 こちらを振り返り、小さく舌を出す。

 その意地の悪い表情……!

 クソッタレ……!

 あの女、なんて……!


佐藤「〜〜〜〜ッ!!」ギリッ


 なんて可愛いんだ!

 小悪魔的可愛いさ!

 なんて罪深い……!

 僕を玩弄するその表情、その巨にゅ————

佐藤「——って違うッ!そうじゃなくて!あぁ〜〜っもう!ヴォルグさんどいて!事情は後で説明しますから!」 ダッ!

 頭の中がグチャグチャだ!

ヴォルグ「あッ!ヨー!」

 右腕を強引に引き剥がし、僕は茶髪を追って駆け出した。

ヴォルグ「ヨー!」


佐藤「クソッ!」ダッ!

 弁当コーナーに急行する。



槍水「はあッ!」

 ドンッ!

顎髭「ぐあっ!」


著莪「ふッ!」

 ゴッ!

坊主「ぐっ!」

白粉「あわ、あわわ……!」オロオロ


 
 弁当コーナー前で先輩と著莪が顎髭、坊主のコンビを相手に共闘していた。

 その後ろで白粉がリードを取る野球のランナーのように左右にシャカシャカ動いている。

 乱戦の隙を突く非戦闘タイプの白粉にとって、今夜のような少人数の戦いでは持ち味を発揮できないのだろう。



茶髪「ッ!」ダッ!

槍水「————」



佐藤「!」

 顎髭に蹴りを放った直後の先輩に茶髪が迫る。

 まずい————!

佐藤「先輩!」ダッ!

 僕は叫んだ。



茶髪「ふッ!」ブン!

 ドゴンッ!

槍水「!?」



佐藤「!」

 先輩は打ち終わりの隙を突かれ、茶髪の拳を腹部に受けた。

槍水「ぬっ……ぐっ!」ググッ



 上体を折りながらも、先輩はなんとか踏みとどまる。

佐藤「くっ!」

 早く援護しないと……!

 茶髪が加わって弁当コーナー前の戦闘が三対ニになってしまった。



顎髭・坊主・茶髪「「「ッッ!!」」」ダッ!

著莪「やっべ!」



佐藤「著莪!」

 腹部のダメージで動きを止めた先輩を捨て置き、三人が一斉に著莪に飛びかかる。


ヴォルグ「アヤメ!」ダッ!


佐藤「!?」

 後方からヴォルグさんが僕を追い越し、猛然と著莪のもとへ駆ける。

佐藤「ヴォルグさん待って!」

 駄目だ!本格的に巻き込んでしまう!


ヴォルグ「やめなさイッ!」グンッ!


佐藤「!?はっ————」

 速い!?

ヴォルグ「ッッ!!」キュキュッ!

坊主「!?」

著莪「ヴォルグ!?」



佐藤「ヴォルグさん!」

 ヴォルグさんは著莪と、著莪に拳を振りかぶった坊主の間に割って入った。



坊主「ッ!」ブオッ!

ヴォルグ「……!」

 
 坊主は構わず拳を振り抜いた。


佐藤「!!」

 駄目だ坊主!

 その人は————!



ヴォルグ「————」スッ

 スカッ

坊主「!?」



佐藤「あ————?」


 その人は————



ヴォルグ「……!」フォン!

 ガコッ!

坊主「!?〜〜〜〜……」ガクンッ



佐藤「!?」

坊主「…………」ドサッ

ヴォルグ「…………」

著莪「なっ……!」



 『なんらかの立ち技格闘技……』



佐藤「嘘、だろ……?」



ヴォルグ「……君たチ」グッ

茶髪「……!」

顎髭「……!」



 坊主を神速の一打で失神させ、ヴォルグさんは顎髭、茶髪に向き直る。

 向き直り、構えを取る。

 左足を前に、右半身を引き。

 両拳を顎の下に。

佐藤「嘘だろ……白粉先生……」



 『…………ボクシング、とか』



ヴォルグ「何故こんな事をするのかはわかりません ガ……退いて下さイ……怪我をさせたくありませン……」ギラッ



 『ヴォルグってロシア語で狼って意味なんです……』



佐藤「…………狼」

 ヴォルグさんの気配が豹変する。

 先程までとはまるで別人だった。

 構えを……


 ファイティングポーズを取ったヴォルグさんは。


*  *  *

今日は以上です

* * *


ヴォルグ「…………」


茶髪「…………」ジリッ

顎髭「…………」

 
 ヴォルグさんが構えた瞬間、売り場の空気が一気に重くなる。


著莪「…………」

槍水「…………」

白粉「…………」


 全員が固唾を飲みヴォルグさんの動向に意識を集中させていた。


佐藤「…………!!」


ヴォルグ「…………」


 威圧感に体が硬直する。

 ヴォルグさんと向かい合う茶髪、顎髭の背後から、僕もまた構えたヴォルグさんを正面に捉えていた。

 事情を説明し戦いを止めるべきだと頭ではわかっていても、足が一歩も動かない。

 ただ立ち尽くし、信じられない思いでヴォルグさんを見詰めていた。

ヴォルグ「…………」キュッ

 
 堂に入ったヴォルグさんの構え。

 右半身を引いて上半身を斜にする事で、急所の集まる正中線を相手から遠ざける。

 その上でさらに、腕で上半身と顎をカバーする合理的な防御体勢。

 そして同時に、顎の高さにキープされた両拳から滲む攻撃の予兆。

 坊主を一撃で斬って落とした前手の左拳と、奥に引かれ発射体勢を整えた右拳が安易な踏み込みを躊躇させる。

 打ち込む隙がなく、かといって受けに回る事にも焦燥と恐怖を覚える攻防両面に備えた構え。

 素人が形だけ真似してもこうはいくまい。

 もう間違いない。

 白粉先生の推測は正しかった。

 この人は、ボクサーだ。

 ただ一つ白粉に誤りがあるとすれば、スポーツ色の強いボクシングなら、ヴォルグさんのような穏やかな人物がやっていてもおかしくはないと言っていた事だ。

 先程までの優しい人柄とボクシングを結びつけるならその考え方は正しかった。

 しかし実際にファイティングポーズを取り、ボクサーとしての顔を覗かせたヴォルグさんは、スポーツ、フィット ネスといった言葉とは縁遠い。

 嗜み程度の取り組み方で、これほどの殺気を放てるとは思えない。

 ただ構えただけで売り場を凍りつかせるこの気配。

 まるで獲物を前に臨戦態勢に入った獣。


 まるで————


ヴォルグ「…………」グッ


 狼。


 ヴォルグさんは両足のスタンスを広げ、重心を僅かに落とした。

茶髪「……ッ!!」バッ!

 その瞬間、茶髪は大きくバックステップを踏み、

顎髭「〜〜ッッ!!」ダッ!

 顎髭はヴォルグさんの間合いに踏み込んだ。


茶髪「馬鹿っ!」

佐藤「駄目だ!顎髭!」


 ヴォルグさんの性格を考えれば、自分から仕掛けるつもりがあるとは思えなかった。

 重心を落とし仕掛ける素振りを見せたのはあくまで威嚇。

 茶髪はヴォルグさんの思惑通り退いた。

 しかし顎髭は。


顎髭「うおおッ!」ダンッ!

ヴォルグ「…………」


 ヴォルグさんの思惑を察したからこそ飛びこんだ。

 顎髭はヴォルグさんを狼だと思っている。

 であれば、相手が誰であろうと退く彼ではない。

 茶髪とて戦闘自体は続行するつもりだったはずだ。

佐藤「顎髭!」

 僕の心配は既に、ヴォルグさんから顎髭の無事に移っていた。

顎髭「ふッ!」ブン!

 顎髭の右ストレート。

ヴォルグ「………」スッ

 ヴォルグさんは足を動かさず、左肩を内側に巻き込むように、軽く上体を捻り回避する。

 顎髭の右がヴォルグさんの左肩と顔面の間を通過する。

顎髭「ッ!」ブオッ!

 返しの左フック。

ヴォルグ「…………」サッ

 ヴォルグさんは膝を沈め、今度は右肩を内側に巻き込むように上体を倒した。

 ダッキング。

 左も空を切る。

顎髭「ぬぅッ!」グオッ!

 顎髭は右を大きく振りかぶった。

ヴォルグ「…………」キュッ

 ヴォルグさんは顎髭が振りかぶったと見るや、重心の位置を戻し構えを維持したまま足一つ分バックステップを踏んだ。

顎髭「あぁッッ!」ブオンッ

ヴォルグ「…………」

 顎髭渾身の右ロングフック。

 ヴォルグさんは一歩後退したきりピクリとも動かない。


茶髪「捉えた!」

佐藤「……!」


 しかし。


ヴォルグ「…………」

 スカッ

顎髭「〜〜〜〜ッ!?」


佐藤・茶髪「「!?」」


 顎髭の右は、またも空を切った。

 ヴォルグさんは身じろぎ一つせず、顎髭の空振りを冷淡な瞳で見詰めていた。

佐藤「そんな……!」

茶髪「…………!」

 
 見切られていたのだ。


ヴォルグ「……良い右でス」


 振りかぶった時点で。

 顎髭の右ロングフックの軌道は。

 足一つ分のバックステップで、既に回避動作は完了していたのだ。


顎髭「なっ……あ……!」


 当たる訳がない。

 外れて当然。

 そう言わんばかりのヴォルグさんの表情。


ヴォルグ「こんなところデ、女性を相手に振るウには勿体なイ拳でス」

顎髭「…………」

ヴォルグ「下がりなさイ。ボクは君を傷つけたくなイ」

顎髭「ぬっ……うぅッ!」

 
 歯噛みする顎髭。

 その悔しさが痛いほどに伝わってくる。

ヴォルグ「もう、わかったでしょウ?」

顎髭「〜〜〜〜ッ!!」


 顎髭本人は勿論、傍で見ていた僕にも理解できた。

 ヴォルグさんが本気なら、最初の右ストレートの時点で顎髭は倒されていた。

 ヴォルグさんの回避動作は全て、自身の攻撃の間合いを保ったまま行われていた。

 カウンターを打とうと思えば打てたのだ。

 右ストレートには右アッパー。

 左フックには左ボディアッパー。

 右ロングフックには、振り抜く前、あるいは打ち終わりの腕の戻り際に右ストレート。

 回避動作が、そのまま攻撃の予備動作になっていた。

 なのに打たなかった。

 ヴォルグさんは。


ヴォルグ「…………」

顎髭「くっ……!」


 明らかに手を抜いていた。

 その上で、純粋に技術だけで、半額弁当を前に『腹の虫の加護』を得た顎髭をあしらったのだ。

 強すぎる。

 僕たち狼では、この人には敵わない。


茶髪「ワンコ、あの人もしかして……」

 茶髪はヴォルグさんの口振りで気付いたようだ。

佐藤「あぁ、狼じゃない。あの人はそもそも半額弁当を求めていないんだ」

 狼だけど、狼じゃない。

茶髪「これってつまり……どういう状況?」

佐藤「えと……あの人の立場からすると……道案内してくれた親切な日本人が何故かあんたに殴りかかっていて……そうかと思えば親切な日本人とその友人があんたら三人に襲われていて……」

茶髪「……それで助けに入ってきたと」

佐藤「うん……そんな感じ……」


ヴォルグ「何か諍いがあったのなら話し合イで解決すべきでス。無闇に暴力に訴えてはいけなイ……」

顎髭「……?」

ヴォルグ「こんな事をしていてハ……あなたのお母さン、 とても悲しみまス……どうか拳を引いて下さイ……」

顎髭「???」


 構えを解き、お説教を始めるヴォルグさん。

 悔しさに歯噛みしていた顎髭も、ヴォルグさんの言葉に訝しげに眉を顰めた。


茶髪「……いい人なのね」

佐藤「……うん。本当にいい人なんだ」

茶髪「でもどうすんのよ、これ。狼じゃないからって、まさか犬と見做して潰す訳にもいかないし……潰せるとも思えないし……豚でもアラシでもないし」

佐藤「本当、どうしよう……」

茶髪「どうしようじゃないわよ。あんたたちが連れて来たんでしょ?責任持ちなさいよ」

佐藤「そう言われても……」

茶髪「あの人の言うこと聞いて争奪戦の中断なんて絶対認めないからね。そんなの半額神とスーパーへの冒涜よ」

佐藤「それは……僕だってそう思うけど……」

 どうすればいいのか見当もつかない。

 ヴォルグさんは争奪戦をただの高校生同士の諍いと勘違いして(当然の反応とも言う)介入してきた。

 ヴォルグさんは半額弁当を求めていない。

 半額弁当争奪戦の存在も、争奪戦の暗黙のルールも知らない。

 従ってヴォルグさんは誇りを持ってスーパーを駆ける『狼』でも、未熟な『犬』でもない。

 そして、礼儀を持たず半額弁当を求める『豚』『アラシ』当然ながら『大猪』にも分類できない。

 それでいて狼を圧倒する戦闘力を持っているとなれば、 ヴォルグさんはスーパーに於いて、争奪戦に於いて、一体どう位置付けされる存在なのか。

 本来なら保護対象になる半額弁当を求めていない一般客が、たまたま狼よりも強かった場合……。


ヴォルグ「わかりましたネ?」

髭「うぅ……??」


 初めて出会う、圧倒的な力と善意で争奪戦を『妨害』するイレギュラー。

 どう対処すべきなのか判断がつかない。

佐藤「ここは……」チラッ



槍水「…………ん?」



佐藤「…………」ジッ

 先輩にアイコンタクトを試みる。

 ここは、このホーキーマートを縄張りとする二つ名持ちの狼、【氷結の魔女】槍水仙の裁量に委ねるしかない。

 僕の知る限り、前列のないイレギュラーだ。

 おそらく全員が僕と茶髪同様、困惑し対応に窮しているはず。

 最近姿を見せない魔導士に代わり、この激戦区の筆頭と目される槍水先輩の判断なら、この場にいる全員が納得するだろう。

佐藤「…………」ジッ



槍水「…………」コクッ



 僕の視線に気付き、任せろ、という風に頷く先輩。

茶髪「……まぁ、それしかないか」

佐藤「うん。先輩なら……なんとかしてくれるはず」

 先輩ならヴォルグさんを説得し、争奪戦を続行する方向で話を纏めてくれるはず。

 僕たちの目的はあくまで弁当の奪取。

 戦いはあくまで手段。

 狼ではないヴォルグさんとわざわざ戰う必要などないのだ。

茶髪「可能性があるとすれば魔女さんぐらいなものよね」

佐藤「ん?うん、そうだね……?」

 茶髪の口振りに引っ掛かるものを感じたが、争奪戦について理解してもらうには先輩による説得が一番効果的、という意味での『可能性がある』だと解釈し、同意する。

茶髪「不本意だけどここは任せるわ……」

佐藤「…………」

 ん……?

 あれ……?

 やっぱり茶髪の奴なにか勘違いしてないか?



槍水「ヴォルグさん……」


ヴォルグ「ヤリズイ?もう大丈夫ですヨ。彼らと何かトラブルがあったのなラ話し合いで————」


 先輩がヴォルグさんの前に歩み出る。


槍水「いや……ヴォルグ」


佐藤「…………あれ?」

 あれ…………?

 先輩……?


ヴォルグ「?なんでしょウ?」


槍水「あなたに悪意がない事はわかっている……この介入が善意によるものだという事はあなたを……お前を見てい ればよくわかる……」


ヴォルグ「ヤリズイ……?」


 まさか……

 先輩……!


槍水「だが、はっきり言わせて貰う。ありがた迷惑だ……!」


 まさか……!

 まさかまさかまさか!!!

槍水「お前のやっている事は、我々狼の誇りに……神聖な争奪戦に泥を塗る行為……!」
 

 せ、


槍水「到底許せる事ではない。よってお前を……【氷結の魔女】槍水仙の名に於いて、スーパーから排除する!」


 先輩!!


ヴォルグ「??えっト……どういうこト…?」


 アイコンタクトがまったく通じていない!


槍水「邪魔だと……」ダッ!

ヴォルグ「!??」


佐藤「!?」


槍水「言っているッ!!」ブオッ!

 ドゴンッ!!

ヴォルグ「うがっ!?」


 先輩の右の中段蹴りがヴォルグさんの腹部に突き刺さる。

佐藤「あ、ああ……!」

 や、やっちまった……!

 そうじゃない!

 そうじゃないですよ先輩!

 あなたの狼としての威厳でもってヴォルグさんを説得して貰いたかったのに!


ヴォルグ「ぐ、え……な、なんデ……!」

槍水「悪く思うな……もう決めているんだ……」カッ


 上体をくの字に折り、苦悶の表情を浮かべるヴォルグさん。

 先輩はブーツの踵を踏み鳴らし、言い放つ。


槍水「もう唐揚げのお腹なんだ……!それもただの唐揚げじゃない。勝利の一味とともに食する唐揚げだ……!争奪戦を台無しにされては困るんだ……!」


茶髪「やっぱりあの人ボクサーね。足技への反応は悪いわ。魔女さんの蹴りなら通じるんじゃないかと思ったのよ」

佐藤「…………!!」

 
 茶髪……!

 やっぱりお前もやる気満々か!!


*  * *

今日は以上です

>>98
まあ分類するとしたらベン・トーはスラップスティックSFとでも分類するのかな?

楽しませて貰ってます
一歩側もベン・トー側も違和感与えずに読ませているのは凄いと思う

ベントーしかわからんが
ヴォルグさんいいキャラだな
そして先輩なにしてるんですかwwww

*  * *


 先輩はお腹を空かせていたのだ。


槍水「事情は後で説明する。しばらくフロアで寝ていてもらおうか……」ジリッ

ヴォルグ「うぐ……!」


 それ故の強硬手段。

 半額弁当を目前に争奪戦に水を差された事で、先輩の狼としての苛烈な一面が出てしまった。

佐藤「先輩……!」

茶髪「どうしたの、ワンコ?まぁ、正面から仕掛けるあたりあの娘らしいっちゃあの娘らしいわよね。馬鹿正直というかなんというか……」

佐藤「……いや、そうじゃなくてさ」

茶髪「?」

 僕は仕掛けたこと自体に驚いてるんだけど……。

佐藤「著莪……!」チラッ

 ここはなんとか先輩を止めないと……!


著莪「……」

 僕は著莪に目配せした。

著莪「…………」フルフル


佐藤「……!?」

 著莪は腕組みをし、ゆっくりと首を左右に振った。

 な、なんだよ……?

 その諦めたような表情は……?

佐藤「白粉……!」

 続いて白粉を見る。

白粉「…………」ジッ


 白粉には目配せが通じなかった。

 白粉の目線が横に、弁当コーナーに流れていたからだ。

 体こそ先輩とヴォルグさんの方を向いていたが『これ、 今チャンスなんじゃ……』とでも考えていそうな表情で、弁当を横目に見ていた。

佐藤「まさか……」

 僕だけだったのか?

 穏便な形でヴォルグさんを争奪戦から離脱させようと考えていたのは……!


茶髪「さて、ワンコ」

佐藤「……なんだよ」


 茶髪がこちらに向き直る。


茶髪「ふッッ!」ブンッ!

佐藤「うおっ!?」サッ!

 
 唐突な攻撃。

 僕はかろうじて茶髪の左拳を躱した。


佐藤「なっ何を!?」

茶髪「何をじゃないわよ!」ブオッ!

佐藤「うっ!くっ……!」サッ

茶髪「再開!続行!!」

佐藤「!」

茶髪「さっきの借りは返すわ!」ブンッ!

佐藤「くっ……!」サッ


 みんな、やる気だったのだ。


茶髪「あたしもヒレカツ狙いなのッッ!!」ブンッ!

 ゴガッ!

佐藤「ぐっ!」ズザッ!


 ヴォルグさんの強制排除も、戦闘の続行も当然といった狼たちの態度。

 僕は著莪のフォローを優先していたため、半額弁当を求める気持ちが今夜に限っては希薄だった。

 僕だけが穏便な解決を考慮していた。

 僕が馬鹿だった。

 獲物を前にした狼たちが、冷静に話し合いなどするはずがなかったのに。


茶髪「ふんッ!」バオッ!

 ガキィッ!

佐藤「くっ!」チラッ

 
 茶髪の蹴りをガードで受け止め、横目でヴォルグさんの安否を確認する。


槍水「ッッ!!」グアッ!

 ゴガンッ!

ヴォルグ「ヤリズイ!」ズザッ

 先輩の蹴りをガードを固めて受け止めるヴォルグさん。

 腹の虫の加護を得た先輩の蹴りを無防備に受けたヴォルグさんだったが、もうダメージの色は見られない。

槍水「あああッッ!」グオッ!

 バババババッッ!!

ヴォルグ「くっ……オッ!ヤリズイやめテ!」ササッ

 先輩の左右のパンチを最小限の動きで躱すヴォルグさん。

 さすがにパンチに対するディフェンスは隙がない。

 四連打、五連打と繰り出される先輩のパンチを滑らかな体捌きで外していく。


茶髪「よそ見するな!ワンコ!!」ブオッ!

 ガンッ!

佐藤「ぐあっ!?」

 顔面に茶髪の右拳がめり込む。

佐藤「くぅっ……!」ズザッ

 あの様子ならヴォルグさんはそう簡単にはやられない。

茶髪「はあっ!」ブンッ!

佐藤「ッ!」サッ

 集中しろ!

 もうこうなったら弁当を奪取して争奪戦を終わらせるしかない!

佐藤「おおおッ!」ダッ!

 ドンッ!

茶髪「うっ!」ズザッ

 茶髪に体当たり。

 弁当コーナーは僕の背後だ。

 まずは茶髪を弁当コーナーから遠ざける。

佐藤「著莪!!」

 僕は叫んだ。

 僕が茶髪を足止めし、著莪と白粉の弁当奪取をアシストする。


著莪「わかってる!」ブオッ!

 ゴキャッ!

顎髭「ぐっ!」ドサッ

 
 顎髭に膝蹴りを決めながらの著莪の返答。

 ヴォルグさんのお説教で気の抜けていた顎髭は、簡単にフロアに倒れた。


著莪「ふんッ!」

 ドスッ!

顎髭「ごはっ!?」

 鳩尾にとどめの肘鉄。

顎髭「うっ……あ」ガクッ

 顎髭は気を失ったようだ。

 茶髪と顎髭を引き受けるつもりでいたのだが、著莪が僕の意を察して一人仕留めてくれた。

茶髪「ワンコ!」グオッ!

 ガカッ!

佐藤「弁当を!白粉もッ!」


白粉「は、はいっ!」

著莪「あと任せたよ!」ダッ!


 これで二人の弁当奪取は確定だ。

 あとは!

茶髪「はあッ!」ブオッ!

佐藤「ッッ!!」サッ!

 僕が茶髪を倒し先輩に唐揚げ弁当を奪取して貰えば、HP同好会と湖の麗人の大勝利!

 ヴォルグさんも戦闘から開放され万事解決だ!

茶髪「そう簡単に行くと思う!?」グオッ!

 茶髪が迫る。

佐藤「!?」

茶髪「ワンコッ!!」ブンッ!

 ガンッ!

佐藤「くっ……!」ズザッ!


 思って……いない!

茶髪「はあッ!」ブンッ!

 ガキィッ!

佐藤「……ッ!」ザザッ!


 背後からの奇襲をきっかけに押し込んだ開幕直後の戦闘とは、もう条件が変わっている。


茶髪「ふんッ!」グオッ!

 ゴガッ!

佐藤「……ッッ!!」ズザッ


 もはや自分で弁当を獲る気がない僕と、残る一つの弁当に対し腹の虫の力を高めた茶髪。


茶髪「だぁッッ!」ブオッ!

 ドゴンッ!

佐藤「……ッッッ!!!」


 その力の差は歴然。

 腹の虫の加護による身体能力の向上が身込めない以上、 僕の素の戦闘力で茶髪を、シーリーコートを相手にしなければならない。

佐藤「…………!!」ザッ!

 残された道は一つだけ。

 取るべき戦法は一つしかない。

 こちらの腹の虫の力が弱いのなら、相手の力を削げばいい!

茶髪「あああッ!」ブオッ!

 ガッ!

佐藤「……!」グッ

 茶髪の右フックを左ガードで受け止める。

茶髪「!」

佐藤「ふんッ!」ブオッ!

 ドゴッ!

茶髪「げはっ!?」

 茶髪の豊かな胸部、その谷間をガイドラインに、下から抉るようにして右アッパーを鳩尾に捻り込む。

 茶髪の苦悶の表情。

 厚着の季節、そしてブラを着けていないはずがないのに、それでも打撃の衝撃で、茶髪の胸は大きく揺れる。

 なんという質量。

 その重量をいつかこの手で感じてみた——

 ——いや、まあ、それはいいとして。


茶髪「ぐっ……!」

 ダメージは通った。

佐藤「………」ニヤッ

 かつてビッグ ・マムのスーパーで戦った【ガリー・トロット】山木柚子の取った戦法。

 腹部に攻撃を集中させ、茶髪の食欲を減退させる戦い方。

 茶髪との現在の戦力差を埋めるにはこれしかない。

 狼としてのキャリアが浅い僕が思いつく戦法など、二つ名持ちの茶髪には筒抜けだろう。

 だがそれでも、愚直に繰り返すしかない……!

 今の僕にはこれしか……!


 これしかないんだッ!!


佐藤「……ッ!」バッ


 そして二打目を打ち込むため、茶髪の体から拳を引こうとした、その時だった。


 フヨンっ


佐藤「!?」ビクッ!


 腹部のダメージで上体を前に倒した茶髪の胸に、僕の右拳が触れた。


 その————


佐藤「〜〜〜〜ッ!???」バッ!


 ————柔からな感触。

茶髪「ぐっ……?ワンコ……?」


佐藤「!」


 しっ……しまった!

 つい反射的に後退してしまった……!

佐藤「うぅっ……!」

 何かいけない事をしてしまったような気がして!

 せっかくボディ打ちの間合いに入れたのに!


佐藤「〜〜〜〜ッく!」ギリッ


茶髪「?」


 腹の虫の力を削ぐ戦法と同時に、僕はガリー・トロットの事を思い出していた。

 ガリー・トロットといえば、リアルボクっ娘のノーブラ派である。

 かつて僕は彼女と戦った際、その食欲減退戦法とユルユルな胸元に集中を乱され、大変に変態な苦戦を強いられた。

 効果的な食欲減退戦法、そして神聖な争奪戦の最中に、対等なライバルであるはずの柚子を異性として意識してしまった後ろめたさで、僕の戦闘力は大幅に下降した。

 今回もあの時の状況に近い。

 弁当を求める気持ちが薄れた事で、普段は意識しない茶髪の女性としての魅力に目を奪われてしまっていた。

佐藤「くっ!僕はまた……!」

 僕はまた同じ過ちを!

 あの戦いで僕は、女性狼との戦闘における大きな教訓を得たはずだったのに……!

 これではあの時体を張ってくれた茉莉花に……!

 なにより今、真剣に戦っている最中の茶髪に申し訳ない……ッ!


佐藤「ぐうぅ……ッ!」ギリリッ


 申し訳ない……ッ!


 申し訳ないけど、ちょっとラッキーだと思ってしまっている自分もいるッ!


 だってすっげー柔らかかった!

 フヨンってなったもん!


佐藤「…………」ジッ

 フヨンって……

茶髪「???」

 フヨン……フヨン……

佐藤「…………」ゴクリ

茶髪「わ、ワンコ?」

 も、もう一回……なんとかあの感触を……

佐藤「…………」ジィッ

茶髪「ワンコ、あんたまさか……!?」バッ

 チッ、凝視しすぎたか。

 茶髪は両腕で自身を掻き抱くように胸を隠した。

茶髪「あ、あんた!戦いの最中に何考えてんのよ!」ムギュ ウ

 だがしかし、彼女の胸はその細腕で隠し切れるボリュームではない。

 隠すどころかむしろ、腕で圧迫する事でその立体感と質感が強調され、より扇情的になってさえいる。

佐藤「むぅ……」

 加えて照れる茶髪というのが新鮮で、またポイントが高い。

 一対一の状況でいつものような余裕がないのだろうか。

茶髪「このっ……!」ダッ!

 心なしか顔が赤い。

佐藤「…………」

 照れているのか。

 こうなってくると、こちらに襲いかかってくるのも照れ 隠しに必死になっているように見えて、大変に可愛らしい。

茶髪「この変態!」ブンッ!

 ドガッ!

佐藤「…………」ザッ


 茶髪の右ストレートを顔面で受け止める。

 不思議と痛みはない。

 何故だ?

 これは、腹の虫の加護を得て痛覚が麻痺したあの感覚に近い。

 今の僕は弁当を求めていないのに。

 何故————

佐藤「…………そうか」

 そうか。

 矢部君。

 著莪。

 ロシア美女。


茶髪「もう寝てなさい!この変態ワンコ!」ブオッ!

 ドゴンッ!

佐藤「…………」グラッ


 茶髪の左フック。

 やはり痛みを感じない。


佐藤「…………」ニヤッ

茶髪「なっ……!?」


 今夜、僕は腹の虫の加護を得られていない。

 それは弁当を求めていないからだ。

 では何故、腹の虫の力を引き出した茶髪の攻撃に耐える事ができるのか。

茶髪「なんなのッ!?」ブンッ!

 ゴキャッ!

佐藤「…………」


 それは食欲を由来とする腹の虫の力を得る代わりに、別の欲求により力を引き出していたからだ。


 別の欲求———

 そう。


佐藤「フヨンフヨン……」ギンッ!


 性欲である。


茶髪「ひっ————!?」ゾワッ


佐藤「…………」ダッ!

 茶髪の懐に踏み込む。

茶髪「!!」

佐藤「はあッ!」ダンッ!

 ドンッ!

茶髪「ぐはっ!?」

 腕を曲げ、固めた肘鉄を茶髪の鳩尾に叩き込む。


 ポヨンっ


 当然、僕の二の腕が茶髪の胸に当たる。


佐藤「よし……!」


 これはあくまで事故である。

 茶髪の腹の虫の加力を削ぐため、懐に飛び込み腹部に攻撃した結果、体が胸に触れてしまったという、仕方のない事故なのだ。

佐藤「うおおッ!」ブオッ!

 ドンッ!

茶髪「がっ!?」

 フヨンっ


 仕方ない。


佐藤「あアッ!」ブンッ!

 ドムンッ!

茶髪「ぐはっ!」

 ポヨンっ


 仕方ない!


佐藤「であッ!」ブンッ!

 ボゴンッ!

茶髪「うぐっ!?」

 フヨンっ

 仕方ないんだ!

 これは腹の虫の力を削いでいるのであって、決して胸を触っている訳ではないッ!


茶髪「ぐっ……あ……!」

 ボディへの三連打で茶髪が後退する。

 上体をくの字に折り、両腕でお腹を抑えたその姿勢は、 さながら胸の谷間を強調するポーズを取ったグラビアアイドルのようだ。

 僕のリビドーがさらに高まる。

茶髪「へ、変態……!」

佐藤「……十分だ」


 今夜だけは、二つ名【変態】で十分だッ!!


佐藤「はああああッ!!」ダンッ!

 
 ドッゴンッッ!!


茶髪「がっあ!?」

 ムニュうっ

 上体をくの字に折った茶髪の腹部を、下からアッパーで すくい上げる。


茶髪「あ————」グラッ


 ほとんどお腹に胸がつきそうなほど前に倒れた上半身、その鳩尾に、強引にアッパーを捩じ込んだ。


佐藤「…………」

 至福の感触。


茶髪「う……どうして……」ドサッ


 じゃなかった。

 勝利の手応え。


茶髪「弁当を獲る気がない……ワンコなんかに……」


佐藤「てめーの敗因は……たったひとつだぜ……茶髪…… たったひとつの単純な答えだ……」


茶髪「う……あ……」


佐藤「『てめーの胸がデカすぎた 』」


茶髪「……!へ……【変態】め……!」ガクンッ


 茶髪は意識を失った。


佐藤「さて、あとは————」


 ヴォルグさん……!

 先輩!

 二人を止めなければ!




著莪「うわぁ……」

白粉「え、ぇあっと……」

* * *

今日は以上です

>>99
スラップスティックはともかくSFがつくと>>1の読書遍歴では具体例が思いつかない……
評価はされてもセールス面では大ヒットとまではいっていないらしいベン・トーにはしっくりくる分類だというのはなんとなくわかりますが

>>100
ありがたいです
完結まで頑張ります

>>101
ベン・トー好きな人はよっぽどやらかさない限り大抵の事は笑って許してくれると思ってやってます
ヴォルグは最後まで徹底して崩さずいきます

* * *


 ヴォルグは日本のスーパーマーケットが好きだった。


 日本のスーパーの雰囲気は明るく、どことなく空気が柔らかい。

 和やか、というべきだろうか。

『和やか』という日本語のニュアンスを正しく理解できている自信はなかった。

 だが日本のスーパーで買い物をしていると、 その店内の雰囲気には『和やか』という言葉が ピタリと当てはまるように思えた。

 どの店舗も大きく、肉も野菜も魚も綺麗にラッピングされ、店員はこちらが恐縮するほど丁寧で笑顔を絶やさず、 店の入り口には警備員もいない。

 店内には常に楽しげな音楽が流れ、訪れた客はゆったりと商品を見て回り、その表情は皆一様に穏やかな笑顔だった。

 決してロシアのスーパーが暗いという訳ではない。

 商品の陳列や売り方、店員の態度にも、ロシアにはロシアなりの秩序があり活況がある。

 どちらが優れていて、どちらが劣っているという事もない。

 しかし外国人のヴォルグにとって、日本のスーパーは特別な場所だった。

 スーパーでの毎日の買い物は、辛い現役時代、カルチャーギャップに苦しんだ来日当初のささやかな慰めになっていた。

 店員と言葉を交わし満足のいく買い物ができれば、その度に異国で暮らす不安が和らいだ。

 店内ですれ違う夫婦や親子連れ、その笑顔を見るだけで、異国のリングで戦う孤独が僅かでも癒された。

 スーパーにある暖かな人の営みは、ヴォルグに日本で暮らしていく自信と安心、勇気を与えてくれた。

 ヴォルグは、日本のスーパーが好きだった。

 新しい友人との出会いにも恵まれ、久方ぶりの来店を心楽しく過ごしていたのだ。


 それなのに。


槍水「ッッ!!」グアッ!

 ゴガンッ!

ヴォルグ「ヤリズイ!」ズザッ


 それなのに何故、そのスーパーで。


槍水「あああッッ!」グオッ!

 バババババッッ!!

ヴォルグ「くっ……オッ!ヤリズイやめテ!」ササッ


 何故、今、自分は。


槍水「ふッッ!」バオッ!

ヴォルグ「ゥッ……オ!」サッ!


 女子高生に襲われているのか。


ヴォルグ「ヤリズイ!」

 自分に何か過失があるとは思えなかった。

 出会ったばかりの友人が女性に暴力を振るっていたかと思えば、その女性を含む三人組が別の友人に襲いかかっていた。

 訳もわからず助けに入り、一人を昏倒させ一人をあしらい退かせた。

 人として当然の倫理を説き、これで荒事は収まったと安心した矢先、友人の一人、槍水仙が襲いかかってきた。

 まったく訳がわからない。

 自分が離れている内に彼らの間で何か諍いがあり、不幸にも喧嘩に発展してしまったのだと解釈していたのだが、どうやらそうではないらしい。


槍水「ちィッ!」ブンッ!

ヴォルグ「くっ……!」サッ!


 坊主頭の少年、顎髭の少年と違い、槍水は問答無用という訳ではなかった。

 ありがた迷惑。

 狼の誇り。

 神聖な争奪戦。

 全体的にはなんの話をしているのかさっぱりわからなかったが、彼女が自分を疎ましく思っている事だけは理解できた。

 排除。

 邪魔。

 唐揚げのお腹。

 自分の何が彼女をこれほど怒らせた?
 唐揚げといえば先ほど見た弁当の中に唐揚げ弁当があったが、何か関係があるのだろうか。

槍水「おおッ!」バババッ

ヴォルグ「ぬっ!くっ!?」ササッ

 パァンッ!

ヴォルグ「うっ!?」ビリビリ

 槍水の左右のパンチの三連打。

 その三打目がヴォルグの頬を捉えた。

 如何に技術で圧倒しようと、守りの一手では捌くにも限度がある。

ヴォルグ「……ッッ!」キュキュッ!

 ヴォルグは堪らずサイドステップを踏んだ。

槍水「……ッ!」ギュンッ!

ヴォルグ「!?」

 槍水もほぼ同時にサイドステップを踏んだ。

 こちらを正面から逃すまいと追いすがって来る。

槍水「ふッッ!」ヒュバッ!

ヴォルグ「〜〜ッッ!?」バッ!

 ヴォルグの逃げ道を塞ぐように放たれた槍水の右フック。

 ヴォルグは咄嗟にバックステップを踏んで躱した。


ヴォルグ「ハッ————あ!」キュッ


 ヴォルグは混乱の極みにあった。

 訳のわからない状況に加えて、さらに驚かされたのが槍水の女性離れした強さだった。

 先程のミドルキックの威力。

 そして、今見せたヴォルグのフットワークへの追従。

 攻撃の威力は耐えられないほどではないが、こちらの動きへの対応があまりにも適格すぎる。

 槍水は明らかに戦い慣れていた。

 適度に防御を意識し、威力、速度に緩急をつけた連打。

 ストレート、フック、アッパー、そしてヴォルグにとっ ては専門外の足技を織り交ぜたコンビネーション。

 動き自体は荒い。

 科学的に体系化された技術を身につけているようには見えない。

 なのに、槍水の戦闘動作は一々理にかなっていた。

 その瞬間ごとの最善手を、刹那の迷いもなくただの勘の良さだけで打ってくる。

 その野生の獣じみた戦いぶりと可憐な外見のミスマッチに、ヴォルグは悪い夢を見ているような錯覚に陥っていた。


槍水「ッッ!」ブオッ!

ヴォルグ「!」


 右を大きく振りかぶりつつ、槍水が踏み込んでくる。

 空振りに焦れて大振りになった?

ヴォルグ「……!」

 いや。

 この右は————

槍水「————ッ」ピタッ!

 やはり!

槍水「ふッッ!」ギュンッ

ヴォルグ「————!」ゾワッ

槍水「ッッ!!」ブオッ!

 バチィッッ!

ヴォルグ「〜〜ッ!」


 踏み込みざまの右をフェイントに、威嚇に使い、本命は左のボディアッパー。

 ヴォルグは槍水のリバーブローをブロックし、戦慄した。


ヴォルグ「…………ッ!!」ビリビリ


 踏み込み時の気の強さ、随所に見せる獣じみた勘の良さは、まるで千堂武士。

 威力こそ遠く及ばないが、左ボディの背筋が凍るスウィングと角度は、まるで幕ノ内一歩。


 もう、本当に訳がわからない。


 こんな少女から、よりにもよってあの二人を連想するなんて。

槍水「ちっ……!」


 攻撃が失敗に終わり、舌打ちする槍水。


ヴォルグ「な……!」


 こ、これは誰だ……!?

 親切にスーパーを案内してくれていた、あの優しい槍水は何処に行った!


槍水「ッ!」ブオッ!

ヴォルグ「ヤリズイ!」サッ!


 本当に!


槍水「ふんッ!」ヒュバッ!

ヴォルグ「お願いダ!もうやめテ!」サッ!


 何がどうしてこうなった!


槍水「はッ!」ブンッ!

 バチィッッ!

ヴォルグ「くっ!」

 槍水の左アッパーを掌で受け止める。

ヴォルグ「ヤリズ———」

槍水「————ッ」バッ

 瞬間、動きを止めた槍水にヴォルグは説得を試みた。

 しかし槍水は即座に身を離した。



佐藤「先輩!」



ヴォルグ「!ヨー?」チラッ

 佐藤の声。

 一瞬気を取られる。

槍水「ッッ!!」ダッ!



佐藤「ッ!ヴォルグさん!!」



ヴォルグ「————ッ!」バッ!

 佐藤の必死な声。

 一瞬目を離した隙に、槍水が間合いを詰めていた。

槍水「ッッ!!」グオッ!

ヴォルグ「!」

 
 右半身を大きく引いている。

 右フック?

 いや違う。

 何だ?

 何がくル?


槍水「ふッッ!」ブオンッ!

 まさか。

ヴォルグ「—————ッッ!?」


 右の————


 ガコンッッ!!


ヴォルグ「がはッ————!」ガクンッ


 ハイキック。


 ヴォルグの膝が大きく落ちる。


*  *  *

* * *


佐藤「ヴォルグさん……!先輩!」チラッ


茶髪「…………」


佐藤「…………」ダッ!


 うつ伏せに倒れ、フロアに胸を圧迫された茶髪をチラ見しつつ、僕は駆け出した。


佐藤「……ッ!」ダダッ!


 今度、著莪に聞いてみよう……!


佐藤「…………ッ!!」ダダダッ!


 胸の大きい女性は、うつ伏せで寝る時苦しくないのかどうかを……!


佐藤「!」


 先輩とヴォルグさんは、弁当コーナーから少し離れた位置で戦っていた。


佐藤「先輩!」

 声を張り上げた。

 あとは先輩が唐揚げ弁当を奪取すれば争奪戦は終わる。

 もう二人が戦う必要はない。




ヴォルグ「!ヨー?」チラッ



 ヴォルグさんがこちらの声に反応する。



槍水「ッッ!!」ダッ!



 しかし先輩は僕の声に反応するどころか、ヴォルグさんが気を逸らした隙に踏み込んだ。

 まずい————!

佐藤「ッ!ヴォルグさん!!」

 危ない!前を!



ヴォルグ「————ッ!」バッ!

槍水「ッッ!!」グオッ!

ヴォルグ「!」

槍水「ふッッ!」ブオンッ!

ヴォルグ「—————ッッ!?」

 ガコンッッ!!

ヴォルグ「がはッ————!」ガクンッ



 先輩の十八番の足技、その中でも最大威力の右ハイがヴォルグさんの顎にクリーンヒットした。

 ヴォルグさんの膝から一瞬で力が抜け、大きく腰を落とした。



ヴォルグ「う……ア……」グラッ



 そのままフロアに倒れないあたりはさすがだが、ダメージはやはり甚大なようだ。

 ヴォルグさんは上体を前に倒したまま、呻き声をあげ力無く後退した。

佐藤「ヴォルグさんッ!!」

 声をかけたのが仇になった。

 こちらに気を取られたせいで、そう簡単に決まるはずのない大技が完璧に決まってしまった。

佐藤「先輩!」



槍水「ん?佐藤。なんだ?」クルッ



 ヴォルグさんを戦闘不能に追い込み落ち着いたのか、先輩はこちらに振り返る。



佐藤「はぁ……」

 なんだじゃないですよ……もう。

 狼としては間違った事はしていないのだが、ヴォルグさんの身になってみるとあまりにもあんまりだ。

佐藤「白粉と著莪はもう弁当を獲りました!あとは先輩だけで————ッ!?」



槍水「?」


ヴォルグ「————」ギュッ



佐藤「————」ゾクリッ


 先輩の背後で、今にも尻餅をつきそうなほど脱力していたヴォルグさんが構えを取っていた。

 
 腰が落ちるに任せて重心を落とし、両足のスタンスを広げ————


 上体を前に倒し、拳は顎の下。


ヴォルグ「————」グギュ

 
 先程の腰高に構えたスタイルとは違う、前傾姿勢の構え。

ヴォルグ「————」



佐藤「あ?」

 目に光がない。

 まさか、意識がないのか?

 無意識に構えを————?



ヴォルグ「——マクノウチ」ボソリ


槍水「ッ!?」


ヴォルグ「————」ダッ!



佐藤「先輩!」ダッ!


ヴォルグ「————ッ!」ブオッ!

 ガキンッ!

槍水「ぐっ!」


 ヴォルグさんの左アッパーを両腕で受け止める先輩。


佐藤「先輩ッッ!!」

 
 まだだ!

 ヴォルグさんは左アッパーと同時に————


佐藤「ッッ!」ガバッ!

槍水「ッさと——」


 先輩を抱き寄せるように体を入れ替え、二人の間に割って入る。


ヴォルグ「————ッ!」グアッ!


 バキンッ!


佐藤「がっ!?」

槍水「佐藤!」


 アッパーとほぼ同時に放たれた打ち下ろしの右を則頭部に貰う。


佐藤「あ————!?」


 意識が————


佐藤「————……」ガクンッ


 ドサッ


* * *

とりあえずここまで
また23時頃に来ます

* * *



 何もない暗闇の中————



佐藤「……!」



 目の前に、一匹の狼がいた。



「グルル……」グッ



 喉を鳴らし前足を沈め、臨戦態勢を取っ狼。



佐藤「……!?」



 狼の獲物は、僕だった。


 この空間には、他には何もない。


 僕以外、あの狼の獲物になりそうなものは、何も。



「グゥゥ……」



佐藤「っ……!」



 背を向けて逃げる勇気はなかった。


 隙を見せるのが恐ろしかった。


 ただ立ち尽くし、狼と見つめ合う。



「————ガァッッ!」ダッ!



佐藤「!」



 狼が僕に向かって駆け出した。


「ガァゥッ!」


佐藤「ひ!」



 白銀の体毛をなびかせ距離を詰め、狼は地を蹴り飛び上がった。



「————ッァァ!」バッ!


佐藤「〜〜〜〜ッ!!」


 その牙を僕の喉元に突き立てるために。

 僕を喰らうために。


「ガァァッッ!!」グアッ!


 狼が迫る。


佐藤「あ————」


 恐怖で動けない。

 大きく開かれた口から鋭い牙が見えた。

 僕を貫く牙が。


佐藤「!?」


 しかし、目前に迫った狼は———


ヴォルグ「ッッ!」


 唐突に、ヴォルグさんに姿を変えた。


佐藤「!?!??」


ヴォルグ「————ッ!」グアッ!


 ヴォルグさんの拳が迫る。


佐藤「————ッ!」


 
 ヴォルグさんの牙が————



* * *

* * *


佐藤「————っ!!」ガバッ!


槍水「!起きたか……」


佐藤「————先輩?」


 狼は?


著莪「はぁ……心配させやがって」

白粉「よかった……」


佐藤「著莪、白粉……」


 ヴォルグさんは————


佐藤「——ぁ、夢……?ここは……」


 目覚めた場所は、ホーキーマートのバックヤードだった。

 僕はソファに寝かされていた。

 どうやらヴォルグさんの一撃を受けて気を失っていたらしい。


佐藤「はぁ…………」ブルッ


 夢を見ていた。

 狼に、ヴォルグさんに襲われる夢を。

 覚醒後の混乱が収まり、思わず安堵のため息が漏れた。


ヴォルグ「ヨー……」

佐藤「ヴォルグさん……」ビクッ


 体が強張る。

 夢の中、僕に拳を向けたヴォルグさんの姿がフラッシュバックしていた。

ヴォルグ「ごめんなさイ……ヨー……大丈夫ですカ?頭クラクラしなイ?気持ち悪くなイ?」

佐藤「あ…………はい。大丈夫ですよ、平気です」


 緊張が解ける。

 先程の獰猛さはなりを潜め、もとの優しいヴォルグさんに戻っていた。


佐藤「ヴォルグさんこそ、大丈夫ですか?」

ヴォルグ「はイ、僕は大丈夫。ああいうの慣れてまス。さすがにハイキックは初めてだけド……」

 ヴォルグさんは笑う。

ヴォルグ「あれくらイ綺麗に喰らうト、かえって後を引かないものでス。ヤリズイ、お見事」

佐藤「あはは……」

 おどけた様子で先輩の手並みを褒める口振りに、こちらもつい笑ってしまう。

 あれだけ理不尽に蹴り飛ばされ、尚も笑っていられるあたり本当に人がいい。

ヴォルグ「でも、綺麗に貰いすぎましタ……頭の中、マッシロ。そのせいで君たちにとんでもない事ヲ……本当にすまなイ、ヨー」

 やはり、あの時ヴォルグさんは意識を失っていたのだろうか。

 それで無意識に体に染み付いたボクシングの戦い方が————

佐藤「…………」

 いや。意識があろうとなかろうと、関係ない。

 いいのを貰って反射的に……カッとなって反撃してしまったのだとしても、ヴォルグさんが謝る筋合いはない。

佐藤「謝るのはこちらの方です。ヴォルグさんは悪くありません……すっかり巻き込んでしまって……」

著莪「あたしからも謝っとくよ。最初から事情を話しておくべきだった。ごめんな、ヴォルグ」

ヴォルグ「ヨー、アヤメ……」

佐藤「先輩、ヴォルグさんに争奪戦の事は……」

槍水「話した。大まかにだがな」

ヴォルグ「ちょっトびっくりでス。お弁当を奪い合って戦うなんテ」

 ちょっとなのか。

 普通なら下らない争いに巻き込まれたと怒りそうなものだが、ヴォルグさんは何処か楽しそうですらある。

佐藤「えと、変に思うでしょうけど……そういう訳なんです。本当にごめんなさい」

ヴォルグ「構いませン。君たちガいがみ合って喧嘩していたのではないとわかっテ、安心しましタ」

佐藤「…………」

著莪「…………」

白粉「…………」

槍水「…………」

ヴォルグ「本当によかっタ……」

……争奪戦を奇異に思うより、僕たちの心配が 先に立つのか、この人は。

佐藤「……先輩」

槍水「む……」

著莪「仙……ここはさすがに……」

槍水「ぅ……わかった」

 先輩はヴォルグさんの前に歩み出た。

槍水「すまなかった……」

 頭を下げ、謝る先輩。

槍水「一撃で失神させるつもりだったのだが……あなたが思った以上に強くてついムキになってしまった……」

 ……謝るのはそこじゃないですけどね。

 戦いを仕掛けたこと自体、謝罪しないといけないんですけどね!

槍水「本当にすまない……」

佐藤「…………」

 でも、まぁ……僕たちにも狼としての誇りがある以上、この辺が落としどころなのかもしれない。

 非は完全にこちらにある。

 全面的な謝罪は必要だが、争奪戦そのものを否定するような謝り方は僕にもできない。

 先輩の的外れな謝罪は正直、理解できなくもなかった。

ヴォルグ「いいんですヨ、ヤリズイ。たとえどんな事情があってモ、僕が君たちに手を出したのは凄くいけなイ事……ボウズの彼にも悪い事をしましタ……」

槍水「ヴォルグ……」

 本当に、人がいい。

ヴォルグ「やってはいけない事をしたのはこちらも同ジ。だから気にしないデ。お互い様、デス」

 この人は寛容で、優しい。

佐藤「…………」

 しかし、その人のよさ、穏やかで優しい人柄に対する印象は、出会った頃とは変わっていた。

 その優しさの背景に、あの強さがある事を知ったからだ。

 ヴォルグさんの戦いを止めようとする振る舞いや言動は、その根底に強い自制心を感じさせた。

 僕たちを殴ってはいけない。

 僕たちの争いを止めなくてはならない。

 和解に導かなくてはならない。

 顎髭、坊主、槍水先輩の三人に襲われ、それでも実力行使を最小限に抑えた冷静さは、僕の目には強者の余裕と映った。

 高い技術を持ち、その力の強さに自覚的だからこそ、この人はこんなにも他者に対して優しく寛容なのだろう。

 出会った当初のヴォルグさんに感じた線の細さ、弱々しい印象は、既に霧散していた。

佐藤「それでも……ヴォルグさんが謝るのはおかしいですけどね」

ヴォルグ「んン?そうかナ?まァいいじゃなイ。えっと、ケンカ、りょうせいばイ、でス」

著莪「難しい日本語知ってるね」

佐藤「はは」

槍水「ふ……」

ヴォルグ「それよリ、ヨーが大丈夫なラご飯にしましょウ。僕、お腹空きましタ」

佐藤「そうですね。そうしましょう」

 それがいい。

 ヴォルグさんさえ許してくれるのなら、不幸な行き違いは夕餉を囲んで忘れよう。

槍水「だな。佐藤、閉店までもう時間がない。早く買い物 を———」


アブラ神「おう、起きたか、佐藤」


佐藤「アブラ神」

 レジ袋を片手に、アブラ神が姿を見せた。

佐藤「すいません。またお世話になりました」

アブラ神「いいって事よ。それよりもう表は閉めるからよ、これ」

 そう言ってアブラ神は袋をこちらに差し出した。

佐藤「なんですか?」

アブラ神「晩飯。お前とヴォルグの分だ」

ヴォルグ「あ、お金……」

アブラ神「いらねぇよ。俺の奢りだ」

ヴォルグ「いいんですカ……?」

アブラ神「ああ、金はいらねぇ。代わりにあんたのサインをくれ」

ヴォルグ「!」

槍水「サイン……?」

著莪「なんでサイン?アブラ神、ヴォルグのこと知ってるの?」

佐藤「…………」

白粉「…………」

 やはり、ヴォルグさんは……。

アブラ神「この人はプロのボクサーだよ。少し前まで日本で試合してたんだ。引退してロシアに帰ったって聞いてたが……」

佐藤「……!」

 ボクサーであるという確信は得ていた。

 そしてある程度は予想していたが、やはりプロ。

槍水「プロボクサー……」

著莪「道理で……じゃあ日本で仕事って……」

ヴォルグ「はイ、ボクシングやってましタ……でも、驚いタ……まさか僕のこと知ってる人がいるなんテ……」

アブラ神「いやあ、こっちこそ驚いたぜ……まさかヴォルグ・ザンギエフがうちの店で狼と戦ってるなんてよ」

ヴォルグ「ハハ……」

著莪「あたしボクシング見ないんだけど、ヴォルグって有名だったの?」

ヴォルグ「それほど有名ではありませンでしタ……日本の2 位までいっテ、タイトルマッチもやったけど負けてしまっテ……それでジム、クビになりましタ」

著莪「ふうん、2位か。強かったんだな」

槍水「大したものだ」

白粉「ほほう……これは現役時代の画像を検索する必要がありますね……」ボソッ

佐藤「————」グイッ

白粉「あたっ」

 さらりと飛び出したタイトルマッチという言葉に絶句しつつ、僕は白粉のおさげを引っ張った。

佐藤「————」

 日本2位……!?

 タイトルマッチって……!

 プロはブロでも名のあるブロだったんじゃないか!

 著莪も先輩もサラっと流してんじゃねぇよ!

 大したものだって……僕はあんたの大物ぶりに感心するわ!

 あなたその日本2位とさっきまでガチでやり合ってたんですよ!

ヴォルグ「今は無職でス。昔の話」

アブラ神「でもよ、日本にいるって事は……」

ヴォルグ「……はイ、再起するつもりでス」

アブラ神「やっぱりな。嬉しいぜ、俺ぁあんたのファンだったからよ」

ヴォルグ「ありがとウ。僕も嬉しいでス」

 照れ臭そうに笑うヴォルグさん。

 喜色満面のアブラ神というのも珍しい。

アブラ神「ゆっくりしてってくれ。お前らも、どうせ公園 にでも行くつもりだったんだろ?今日はここで食って行っていいからよ」

槍水「そうですか?ではお言葉に甘えて……」

著莪「レンジ借りるねー?」

白粉「あ、私も……」

アブラ神「俺も色紙取ってくるわ」

 アブラ神はそう言って、いそいそとバックヤードから出て行った。

 先輩たち三人もそれに続く。

 バックヤードには僕とヴォルグさんだけが残された。

ヴォルグ「なんだろウ……」ガサガサ

佐藤「…………」

 ヴォルグさんはアブラ神から貰った袋を漁り始めた。

ヴォルグ「ウワァ!オニギリでス!スープもある!これ、お湯を入れルやつだよネ!ヨーはどれにすル?ウドンもあるヨ!」

 またえらい喜びようだけど、お握り好きなんだろうか?

 朝も食べたって言ってたけど。

佐藤「うどんにしようかな、ヴォルグさんはどれにします?」

ヴォルグ「これはなんですカ?」

佐藤「それは春雨スープですね」

ヴォルグ「ハルサメ?」

佐藤「ええっと……豆とかイモのデンプンで作った麺です、たしか。そんなに詳しくないんですけど」

ヴォルグ「へぇ……食べてみようかナ……」

佐藤「春雨はヘルシーですからね、ヴォルグさんにはいいかもしれません」

ヴォルグ「じゃア、これにしまス」

佐藤「じゃあ僕はうどんで。ヴォルグさん、お握りの好きな具、先に選んでいいですよ」

ヴォルグ「いいノ!?ありがとう!ええっトそれじゃア————」ガサ


 無邪気な笑顔でお握りを選ぶヴォルグさん。

佐藤「…………はは」

 
 お握りと春雨のカップスープ。

 OLのお昼ご飯のようなメニューに喜ぶ姿は、やはりプロボクサーには見えない。


** ** **

** ** **

 
 夕食をたべ終え、僕たちは約束通りヴォルグさんを駅まで送り届けた。

 改札口で立ち止まり、ヴォルグさんは口を開いた。


ヴォルグ「見送り、ここまでで結構でス」

著莪「なんか名残惜しいな。また日本に来たら遊びに来いよ」

ヴォルグ「うン、そうするヨ。ありがとウ、アヤメ」

槍水「その時は今夜の決着をつけるというのはどうだ?」

佐藤「先輩、無茶ですよ」

ヴォルグ「……それもいいかもネ。考えておきまス」

佐藤「ヴォルグさんまで……」

ヴォルグ「……フフ、冗談でス」

槍水「私のは冗談じゃないぞ」

佐藤「もう……今日は色々と心臓に悪かったんですから勘弁して下さいよ。相手は元日本2位ですよ?」

槍水「誰が相手だろうと、場所がスーパーなら私は引く気はない」

 プイッと拗ねたように顔を背ける先輩。

 いや……やたらとカッコイイ台詞をそんなに可愛らしく言われましてもね……?

佐藤「駄目なものは駄目です。ヴォルグさん、大事な体な んですから」

著莪「アメリカかぁ。向こうに行っても頑張れよ〜」

 夕餉の際、日本にはヴォルグさんを雇うジムはないという話を聞かされていた。

 日本には、アメリカで再起するためのツテを探しにきたのだそうだ。

 アブラ神はがっかりするかと思いきや、ヴォルグさんが本場のリングに立つ事を大いに喜んでいた。

槍水「……健闘を祈っている」

白粉「ど、努力は筋肉を裏切りません!が、頑張って下さい!」

 なんだよ、その謎のエールは。

 確かにさ、筋肉に関しても向こうは本場って感じがするけどさ……

 まあ、いいや。

 今夜は疲れたからツッコミもなしだ。

佐藤「日本から応援してます。頑張って下さいね」

ヴォルグ「うン、頑張るヨ。必ずチャンピオンになりまス」

 ヴォルグさんは力強く頷いた。

著莪「お、ヴォルグ、そろそろ時間だぞ。もう行かないと」

 著莪が構内の時計を見て言った。

ヴォルグ「うン……それじゃア————」


 ヴォルグさんはキャリーバックから手を離し————


ヴォルグ「色々と、ありがとウ。お世話になりましタ」


 深々と頭を下げた。


ヴォルグ「また何処かで会いましょウ」

佐藤「……はい、必ず」

ヴォルグ「それでハ……また。本当にありがとウ」

 そう言ってヴォルグさんは改札を抜け、ホームに姿を消した。

 最後まで、優しい笑みのままお別れとなった。


著莪「行っちゃったなー」

佐藤「うん……」

槍水「私たちも帰るか……」

白粉「はい……」


 出会って数時間しか経っていない事もあって、寂しさよりも物足りなさを感じる別れだった。


** ** **

** ** **


 ヴォルグはホームのベンチに腰掛け、今日の幸運で奇妙な出会いを反芻していた。


ヴォルグ「…………」

 道に迷い、ヨーとアヤメに出会い、スーパーに導かれた。

 導かれた先でヤリズイとオシロイに引き合わせて貰い、孤独な再来日が一気に賑やかになった。

 そして。

ヴォルグ「フフ……」

 思わず笑みが漏れる。

 そして、半額弁当争奪戦に巻き込まれた。

 最初は若者同士の喧嘩だと思った。

 というか、それ以外に解釈のしようがない状況だった。

 まさか、店側にも公認されている弁当を奪い合う戦いだなんて、思う訳がない。

 奇妙な戦いだった。

 まず、男性が女性を情け容赦なく攻撃した事に驚かされた。

 その逆も身を持って体験した。

 彼らの話では、争奪戦に於いては年齢や性別、そして自分のような戦いの技術を習得したプロですら、区別なく弁当を争って戦うのだという。

 信じ難い話だったが、その信じ難い争奪戦は、弁当がタイムセールまで残る限り、日常的に行われているのだそうだ。

 あれが、彼らの日常。

 自分と同じ、狼の名で呼ばれる彼ら。

 正直最初は、馬鹿な争いだと思った。

 しかし話を聞く内、理解できる戦いだと思えた。

 ボクサーのヴォルグにも共感できる二つの言葉、概念があった。

 まず一つは、腹の虫の加護。

 空腹時の食欲、本能を源に身体能力を引き出す力。

 元になるのが食欲か純粋な闘争心かの違いはあるが、本能的な力、野生が強さの支えになるという感覚は、ボクサーのヴォルグにも理解できる話だった。

 そして勝利の一味。

 これはよくわかる話だった。

 強く共感できた。

 ライバルたちと競い合い、戦いに勝利して食べる弁当は、ただの弁当ではない。

 そこには勝利の一味という、至高のスパイスが加わっている。

 ヴォルグはそれを知っていた。

 経験があった。

 勝利の一味が加わった、オニギリを食べた経験が。

ヴォルグ「…………」

 あれは、デビュー戦の夜の事。

 試合を終え、ラムダコーチと別れ帰路につき、その道すがら入ったスーパーでお握りを一つ買った。

 部屋に帰り、不慣れなお握りの包装を解き、一口齧った。

 疲れた体に染み渡る美味さだった。

 不慣れな日本でのプロデビュー戦、その精神的な疲労まで吹き飛ぶような感覚があった。

 あっという間に食べきり、一つしか買わなかった事を激しく後悔した。

 以来ヴォルグはコンビニやスーパーでよくお握りを買うようになった。
 
 だが、あの味は試合の後、勝利の余韻と共に食した時にしか味わえなかった。

 あれが、スーパーでいうところの『勝利の一味』なのだろう。

 争奪戦が勝利の一味を得るための戦いだとするのなら、彼らの戦いを下らないと一蹴する気にはなれなかった。

 スーパーの狼とは、勝利の一味に魅入られた者の集まりだと聞かされて、理不尽な暴力に怒る気が失せた。

 あの弁当コーナーの前が、彼らのリングなのだと理解できたからだ。

 ヤリズイの言う通り、今夜の自分はその戦いに水を差した存在。

 怒る筋合いは、あるようで、ない。

 いや、ないと思いたい。

 あの滑稽な戦いに、誇りを持って挑むと堂々宣言した彼ら。

 たとえ、プロボクサーが相手でも引く気はないと言った槍水の力強い言葉。

 今夜、戦いに巻き込まれた事に怒りを示すという事は、 彼らの戦いを否定し侮辱するという事になってしまうのではないか。

 怒るよりも、友人たちの真剣で誇り高い姿を汚したくないと、素直にそう思えた。


 
 プァー



 電車の警笛が聞こえた。

ヴォルグ「…………」

 ヴォルグは立ち上がる。


 
 なんにせよ、面白い出会いだった。

ヴォルグ「…………」

 そして、後ろ髪を引かれる別れだった。

 電車を待っている間、考えていた。

 想像していた。

 もし今夜、彼らと本気で戦い、半額弁当を手に入れたなら。


 その弁当は、一体どんな味がしたのだろうか。


 デビュー戦の夜と同じ、あの感動を味わえたのだろうか。


ヴォルグ「…………」


 電車が減速しながらホームに入って来る。

 やがて停車し、乗車口が開いた。


ヴォルグ「…………」

 ヴォルグの足は動かなかった。

 槍水の別れ際の言葉を思い出していた。


槍水『その時は今夜の決着をつけるというのはどうだ?』


 この先アメリカに渡り、世界を目指す行程に入れば、そんな機会はおそらく二度と訪れない。


 訪れたとしても、現役復帰した自分が彼らと戦うなんて、あってはならないことだ。

 
 彼らと再び会い、旧交を温めることはできても————


ヴォルグ「…………」


 狼として、自分と彼らの道が交わるのは今夜だけだったのではないか。


 ブランクで体力が衰え、引退状態の今だけが、彼らと拳を交える事が許された唯一の機会なのではないか?


 スーパーの勝利の一味。


 半額弁当を勝利の一味とともに食す機会は————


ヴォルグ「…………」

 ヴォルグの足は動かない。


 プシュー

 乗車口が閉まる。



 ヴォルグは————



** ** **

** ** **


著莪「そんじゃ、また」

佐藤「うん。気をつけて」


 寮の前にバイクを停めていた著莪と別れ、僕は一人、玄関の前に立ち尽くした。


佐藤「…………」

 
 色々と慌ただしい夜だった。

 全てが終わった今でも、虚脱した体に熱が残っていた。

 なんとなく、このまま部屋に戻る気になれず、僕は夜の街に歩み出した。

 少し散歩して夜風にあたり、体を落ち着かせないと眠れない気分だった。


佐藤「…………」


 近くの自販機を目指して歩き出し、少ししたところで。


???「ヨー!」


佐藤「!?」


 背後から、声を掛けられた。


佐藤「ヴォルグさん!?」

ヴォルグ「ハァッ、ハァッ……よ、よかっタ……!見つかっタ……!」


 ヴォルグさんだった。

 走って来たのか、呼吸が荒い。

 肩で息をしている。


佐藤「ど、どうしました?何か忘れ物でも——」


ヴォルグ「わ、忘れ物といえバ、忘れ物、デス……!」 ゼーッゼーッ


佐藤「?」


ヴォルグ「ヨー」


佐藤「な、なんですか?」



ヴォルグ「頼みがあるんダ……!」



** ** **

今日は以上です

ヴォルグのお握りの話は鷹村の例のアレと、JUNKスポーツで畑山か徳山か長谷川か誰かが話していた、計量後は適当に買ったコンビニ飯でもめちゃくちゃ旨いという話(うろ覚え)を元にしクロス用エピソードということで

以降は週一更新になります
残りは2日目日常パートをチョロっと 
ヴォルグさんガチ参戦
今月中には終わります

** ** **

 
 翌朝、僕は寮の自室で目を覚ました。


佐藤「ん…………」


 体を起こしベッドの傍らに目をやると、そこにはきちんと畳まれた毛布と枕が。


佐藤「……あれ、ヴォルグさん……?」


 毛布と枕は、ヴォルグさんが使ったものだった。

 昨夜別れたあと、慌てた様子で戻ってきたヴォルグさんを寮の自室にこっそり泊めた。

 ヴォルグさんは衝動的にこちらに残る事を決めたらしく、宿を取っていなかった。

 頼みがあると、そう言っていた。

 それは槍水先輩を始めとした僕たち狼への、再戦の申し込みだった。


佐藤「ふぁあ……」


 正直、意外だった。

 僕はてっきり、ヴォルグさんはその懐の深さで、理解できないまでも争奪戦を受け入れ、怒りを収めてくれたのだと思っていた。

 しかしどうやら、それは僕の見込違いだったらしい。

 ヴォルグさんは僕たちの戦いを正しく理解した上で、昨夜の蛮行を許してくれていたのだ。

 ヴォルグさんは言っていた。


ヴォルグ『今を逃せバ、もう君たちとは戦えなくなル…… だかラ……』

 
 体力を維持する程度のトレーニングしかしていない今なら、現役ではない今なら、僕たちスーパーの狼……素人が相手でも、全力でぶつかる事ができると。

 そして、もう一つ。

 これが傑作だった。


ヴォルグ『それニ僕、さっき戦ったのにお弁当、獲ってませン。ヤリズイは獲った……!アヤメも、オシロイも……!これってサ、君たちのルールでいうト……』


 女の子に負けタって事になるよネ?


佐藤「ふふふ……」

 思い出し、笑いが漏れる。

 ヴォルグさんの表情は、真剣そのものだった。

 話を要約すると、こういう事らしい。

 アメリカに渡りプロに復帰すれば、もう自分が争奪戦を戦う事はできない。

 たとえ争奪戦のルールが現役復帰後の参戦を許しても、自分のボクサーとしての誇りがそれを許さない。

 一方で、女性に負けたまま渡米する事には大きな抵抗があった。

 今、自分は現役ではない。

 現役ではない今なら、槍水先輩へのリベンジに乗り出す事を、ギリギリで自分に許せる。

 だから残った。

 半額弁当を求め、勝利の一味を求め、一夜限りスーパーで戦うために。

 夕餉の際の、表面上の穏やかで楽しげな態度を思い出し、その腹の中ではそんな事を考えていたのかと思うと、つい笑いがこみ上げる。

 確かにそうだ。

 これから世界王者を目指そうという人が日本の女子高生にKO寸前まで追い込まれたとあっては、黙って引き下がる訳にはいかないだろう。

 意外と……いや、勝負の世界に生きるプロボクサーらしい、というべきか。

 負けず嫌いなのだ、ヴォルグさんは。

 争奪戦に巻き込んでしまった事をただひたすら申し訳なく思っていた自分が、少しだけ滑稽に思えた。


佐藤「で、どこ……?」


 それにしても、ヴォルグさんは何処に行ったのだろうか。

 トイレくらいなら別に構わないのだが、いくら男子寮の管理が緩いからといって、あまりウロウロされても困る。

佐藤「んしょ……」

 ベッドから降りる。

 一応、寮内を探しておいた方がいいだろう。

 他の寮生にはヴォルグさんを泊める事を伝え面通しも済ませてあるが、万が一寮母さんに出くわしたら面倒な事になる。

 今日は日曜だから寮母さんはいないはずで、心配しすぎだとは思うのだが。

 とにかく探そう。

佐藤「…………?」

 部屋を出ようとドアノブを握った所で、気付いた。


 ザッ ザザッ

 シッ! シッ!


佐藤「ん……?」

 窓の外から忙しなく地面を蹴る音が聞こえ、続いてリズミカルな独特の息遣いが聞こえてきた。

 窓辺に歩み寄り、外を確認する。

 そこには。

佐藤「いた……」


ヴォルグ「シッ!シッ!」ヒュンッ!ヒュバッ!


 シャドーボクシングに励むヴォルグさんの姿があった。

佐藤「あぁ……」

 そうか、朝のトレーニングに出掛けていたのか。

 ヴォルグさんは汗だくだった。

 もしかすると、シャドーだけではなくロードワークにも行って来たのかもしれない。

佐藤「…………」

 僕は窓を開けた。


ヴォルグ「シッ!シシッ!」バッ!ババッ!


 フットワークを織り交ぜながら、小気味よくパンチを放つヴォルグさん。

 地面の上を滑るような華麗な足捌き、伸びやかでキレのあるパンチ。

 昨夜使っていた防御の動きも見られる。

 地を滑り、蹴る音。

 パンチが空気を切り裂く音。

 一打放つ度、息を切る音。

 それらの音が調和の取れたリズムを刻む。

 流麗な動きと合わせて、僕の目にはヴォルグさんが踊っているように見えた。

佐藤「はぁ……」

 見事なものだった。

 これがボクシングの練習である事を忘れさせるほど、優美な身のこなしだった。

ヴォルグ「……ッッ!」バババババッ!


佐藤「……!」

 連打の回転が上がる。

 僕の目では何発打ったのか確認できないほど速い。

 風切り音が断続的なものから、ほとんど継ぎ目のない連続的なものに変わっていく。

 周囲の大気が唸りを上げる。

 回転が上がるごとにダンスのような優美さが消え、ボクシングの、戦いの荒々しさが顔を覗かせる。


ヴォルグ「ッッッ!!」バババッ!ブオッ!


 高速の連打を大きなスウィングの左フックで打ち切り、ヴォルグさんは軽くバックステップを踏んだ。


ヴォルグ「…………」グッ!


 そして、昨夜ほど極端なものではないが、前傾姿勢の構えを取り————


ヴォルグ「ッッ!」ダンッ!


佐藤「!」


 鋭く力強いステップイン。


ヴォルグ「シッ!」グアッ!


 ブオァッ!


佐藤「…………!」


 風切り音が、二つ重なって聞こえた。

 ほぼ同時に放つ左アッパーと右の打ち下ろし。


ヴォルグ「僕は覚えてないんだけド……これだよネ?」

佐藤「はい……」


 僕が見ている事に、気づいていたようだ。

ヴォルグ「いくら意識を失っていたとはいエ、これを君たちに使うなんテ……久しぶりに日本に来テ気が昂っていたのかナ……」

 ヴォルグさんは苦笑しつつ、自分の拳を見詰めた。

佐藤「あれは仕方ないですよ。僕も先輩も気にしてません」

 昨夜、アブラ神が言っていた。

 お前たちは果報者だと。

 ヴォルグ・ザンギエフの『ホワイト・ファング』を、身を持って体験できるなんて、と。

『ホワイト・ファング』

 現役時代のヴォルグさんのフィニッシュブローにして、ボクサー、ヴォルグ・ザンギエフの代名詞になっていた技。

 ほぼ同時に放たれるアッパーと打ち下ろしのパンチで相手の顔面を挟み打つ、高速のコンビネーションブロー。

 使用者の『ヴォルグ』という名前、狼が獲物に牙を突き立てる様になぞらえて、そう呼ばれていたらしい。

 昨夜はその下顎のアッパーを先輩が、上顎の打ち下ろしを僕が受け止めた訳だ。

 果報者とは気楽な言い草である。

 上顎だけでも、本当に洒落にならない威力だった。

佐藤「ふむ……」

 そして、スーパーを駆ける狼としては、気になる点が一つ。

ヴォルグ「?」

 代名詞、という事は、【ホワイト・ファング】とは、ヴォルグさんの二つ名という事になるのだろうか。

 スーパーの狼の二つ名としては由来がちょっと格好良すぎるが、まぁ、そういう事になるのだろう。

佐藤「むぅ……」

ヴォルグ「どうしたノ?変な顔しテ」

 その格好いい二つ名は、ヴォルグさんが残した輝かしい実績と、その影にある血の滲むような努力によるものだという事は承知して いるが、それでもやはり————

佐藤「ぬぅ……」

 羨ましい。妬ましい。

 ルックスだけではなく、二つ名にまで格差が……!

 僕の二つ名なんて【変態】である。

 ヴォルグさんが【ホワイト・ファング】と呼ばれるべくして呼ばれているように、僕もまた、悲しい事に呼ばれるべくして【変態】と呼ばれている。

 昨夜の茶髪相手の戦闘では開き直ってあの柔らかな感触を堪能したが、一夜明けてみると賢者タイムが凄い。

 僕たちチェリーボーイは身近に美男美女がいると萎縮して、欲望に対し冷静になってしまうナイーブな生き物である。

 心身ともに圧倒的イケメンなヴォルグさんの存在が、欲望への没入を、愚者であり続ける事を阻害していた。

ヴォルグ「フフ……ヨー、その顔、面白いネ」

佐藤「ぐぬぬ……!」


 昨夜、こんな事があった。

——
————
——————
————————


佐藤『あ、ちょっと待ってて貰えますか?』

ヴォルグ『?うン』


 ヴォルグさんを寮に案内し、僕はある部屋の前で立ち止まった。

 ある部屋。

 そこは、おそらくは昼間の悲劇により、魔境と化しているであろう矢部君の部屋の前だった。

 僕の手には、缶ジュースが一本握られていた。

 矢部への差し入れ……いや、この場合は見舞いの品、というべきだろうか。

 矢部君の秘蔵コレクションを鑑賞し、食欲とは別の欲求に支配され————

 まぁ、言ってしまえば、ムラムラしていたおかげで。

 そのおかげで僕は茶髪との厳しい戦いに勝利する事ができた訳で、お礼の意味も込めたお見舞いのジュースだった。

 気になるあの娘にエロ画像コレクションを見られた傷心を、僅かでも癒してあげたい。

 そんな僕の友愛の心が、矢部君の部屋に足を向けさせたのだった。

佐藤『矢部くーん、いるー?』


矢部『おーう……』


 力無い返答。

 僕は心配になり、すぐにドアを開けた。


佐藤『入るよー……ッ!?』


 瞬間————


佐藤『なっ……あ!?』


 部屋から、瘴気が溢れ出す。

 その、中心に。


矢部『おーう……お帰りー……』

 
 虚ろな声で返事をする、矢部君の姿があった。

佐藤『やっ矢部君!?』

 矢部君は部屋の明かりもつけずパソコンの前に座っていた。

 ディスプレイの明かりだけが、矢部君の血走った病的な目を照らしていた。

 その、幽鬼の如き変わり果てた姿。

佐藤『なんてこった……!』

 ま、まさか……!

 あれからずっと……!?

佐藤『……ッ!』

 馬鹿野郎が……ッ!

 もう9時過ぎだぞ!!

佐藤『矢部君っ!』

 僕は矢部君に駆け寄った。

矢部『見ろよ……佐藤……新顔……だぜ。最高にキュート、だろ……?』

 パソコンのディスプレイには、まったく何が書いてあるのか判らない謎の海外サイトが表示されていた。

 表示されたサムネイルを見る限り、矢部君のロシア美女画像蒐集サイトと思われた。

佐藤『…………!』ゴクリッ

 ロシアのアダルトサイトとか初めて見るわ……。

 僕のような無知な少年は、読めない言語の海外サイトを見ると、判読できないからといって自分勝手にアングラ感を見出しなんとなくワクワクしてしまうものだが……。

 この時ばかりは、青少年の心を蝕む不健康な妖気が漂っているとしか思えなかった。

 僕と二人で三時間以上。

 僕が出掛けてから、さらに三時間半。

 矢部君は華の土曜日に、七時間近くロシア美女を愛で続けた事になる。

 荒行……圧倒的荒行である。

佐藤『矢部君……』

 いくらショックだったからといって、無茶が過ぎる……!

矢部君『見ろよ……この娘なんて最高だろ……?』

 しかも、そう言って指し示す画像を見るに、この男、まだロシア美女の腋に執着している……!

佐藤『くっ……!う、うん!そうだね!最高だよ矢部君! 矢部君の画像チョイスは素晴らしいよ!』

 矢部君が孤独に画像蒐集に励んだ数時間を思えば、否定的な言葉を発する事はできなかった。

矢部『はは……だろ?素晴らしいだろ?』

佐藤『うん……!うん!』ジワッ

 涙が滲む。

 悲しい、なんて悲しい男なんだ……!

 何が悲しいかって、矢部君はこれほど長時間に渡ってエロ画像を検索していたのにも関わらず————

 
 ソロプレイに、励んだ様子がないのだ。


 ドアを開けた時、部屋の臭気はフラットなもので、ファブリーズなどで不自然に消臭した様子もなかった。

 覚悟していた青少年の香りが、まったくしなかった。

 ティッシュも先ほど見た時から目減りしておらず、当然ゴミ箱も綺麗なまま。

 矢部君は大好きなロシア美女を、三時間半、ただ黙って鑑賞し続けたのだ。

 おそらく、ソロプレイに励もうとはしたはずだ。

 しかし、できなかった。

 何故か。

 著莪の顔がチラついたからに決まっている。

 著莪のあの時の、能面のような冷たい無表情が矢部君の脳裏をよぎったのだろう。

 著莪に、気になるあの娘にエロ画像コレクションという極めてパーソナルな領域に踏み入られた事で、矢部君は性癖の追求、すなわち愚者の行いを、愚者の行いであると自覚してしまったのだ。

 己の愚を自覚し、矢部君は賢者になった。

 矢部君に、賢者タイムが訪れたのだ。

 欲望を発散して突入する賢者タイムならまだいい。

 しかし矢部君は肉体的な発散の前に、精神的な要因で賢者タイムに突入してしまったのだ。

 親にエロ本を見られ、『年頃だものね』などと言われてしまった時に突入する例のアレである。

 もっと言えば、幼少期にごっこ遊びに夢中になっている最中に、周りの大人に『無邪気ね』とか『俺も昔はやったなぁ』とか言われて急に現実に引き戻され楽しい気分が萎えてしまう例のアレである。

 さらに言えば、漫画やライトノベルに夢中になっている所に、背伸びした同級生から『そんなものより古典文学でも読めよ』とか言われた時の例のアレである。

 趣を解さない第三者による水入り、その水差しによって我に返り、突入する賢者タイム。

 それによりにもよって、想い人の著莪の手によって突き落とされた精神的ショックで、矢部君はソロプレイに及ぶ事ができなかった。

 そしてその悪夢を振り払おうとした結果の、三時間半。

佐藤『うっ……!』ブワッ

 辛かったろう。

 苦しかっただろう。

 矢部君の過ごした孤独な三時間半を想像し、僕は涙した。

佐藤『ズッ……グスッ』

矢部『おいおい佐藤、感動したからって泣く奴があるかよ……』スッ

 そう言って矢部君は、本来なら矢部君の罪悪を無為に受け止めるはずだったティッシュを、僕に差し出した。

 ティッシュは矢部君の罪悪の代わりに、僕の友情の涙を受け止めた。

佐藤『は、ハハッ!ごめんよ、あんまり素晴らしい……その……美しい腋のラインだったものだから、感動してしまってね!』

矢部『はは、大げさな奴だな』

佐藤『はは、は……』

 空虚なものでも、矢部君に笑顔が戻るならそれでいい。

 僕がそんな事を考えていた、その時だった。


???『ふム……確かに美しイですネ……』


佐藤・矢部『『!?』』バッ!

 背後から、何者かの声。

 僕たちは昼間と同じように、同時に振り返った。

佐藤『ヴォっ、ヴォルグさん!』

 矢部君のあまりの惨状に、ヴォルグさんを待たせている事を忘れていた。

矢部『ヴォ!??ヴォあ!???』

 矢部君は泡を食った様子で奇声を発した。

 突然背後に謎のイケメン外国人が現れたのだ。

 矢部君にとっては驚愕の事態だろう。

ヴォルグ『ふム……』

佐藤『……あの、ヴォルグさん?』

 ヴォルグさんは右手を顎の下にやり、真剣な眼差しでパソコンのディスプレイを見詰めていた。

 表示されているのはロシア語のアダルトサイト、ヴォルグさんにとっては母国語である。

ヴォルグ『ふムふム……』

 目線が文面を追って左右に動く。

 どうやら、ヴォルグさんはアダルトサイトを精読しているようだった。

佐藤・矢部『『…………』』ゴクリッ

ヴォルグ『ふム……わかりましタ……』

 やがてヴォルグさんは得心したように顔を上げ、矢部君に向き直った。

ヴォルグ『君……名前ハ?』

矢部『あ、え、矢部といいます』

ヴォルグ『ア・エ・ヤベ?』

矢部『あ、あー、いえ、名前は矢部です』

ヴォルグ『これハ失礼。僕はヴォルグ、よろしク。それでネ、ヤベ……君に教えておかなければならない事がありまス……』

矢部『な、なんでしょう……』

佐藤『…………』

 ヴォルグさんは真剣な表情で矢部君を見据え、言った。


ヴォルグ『このサイトは……20歳未満の閲覧を禁じていまス……!』


矢部『…………!!?』

佐藤『〜〜〜〜ッッ!?』


 なん……だと……!?

ヴォルグ『ヨーのお友達でここの寮生という事ハ、君はまだ16歳か17歳でしょウ?』

矢部『は、はい……』

ヴォルグ『でハ、すぐにこのサイトを閉じルのでス』

矢部『はい……』

 矢部君はパソコンのブラウザを閉じた。

ヴォルグ『うン、よろしイ』

矢部『……はい』

ヴォルグ『たまたまロシア語を読める僕がいたかラよかったものノ……もう無闇に言葉の読めないサイトを開いてはいけないヨ?』

矢部『?…………はい』

 どうやらヴォルグさんの中では、矢部君はロシア語を読めないばかりに20歳未満閲覧禁止の一文に気づかず、年齢に不相応なサイトを閲覧してしまった、という事になっているらしい。

 僕たちが知っていて見ていたとは考えないのだろうか。

 きっとヴォルグさんにとっては、この手の年齢制限は守って当然なのだろう。

 どこまで真面目なんだこのひ————


ヴォルグ『…………』バチンッ

佐藤『!』


 と、は————いや。

 いや、どうやら、違うらしい。

 今、ヴォルグさんは矢部君に気づかれないよう、こちらにウィンクしてみせた。

 アイコンタクト。

 ヴォルグさんの目は、こう言っていた。


 そういうことにしておいてあげよウ?


 と。

佐藤『あ……あぁ……』


 ヴォルグさんは————


ヴォルグ『こういうものに興味を持つのハ、男の子なら仕方ない事でス……』


 目下の人間がエロ資材を漁る現場に遭遇した年長者の気遣いで————


ヴォルグ『でモ、程々にしないトいけませン』


 言葉が読めずに誤って20禁サイトを閲覧してしまっまた『そういうことに』して————


矢部『は、い……』


 この場を、収めようと————


『そういうこと』にして、矢部君を許そうと————


佐藤『〜〜〜〜ッ!!』

 なんてむごい事を……!

 矢部君が一体何をしたっていうんだ!

 あんたは矢部君のお父さんか!!

矢部『…………』ジワッ

 矢部君の目に涙が浮かぶ。

 この手の気遣いに、矢部君ほどの童貞が気づかないはずがない。

 おそらく内心では羞恥に身悶えているはず。

 昼間の著莪の来襲に続き、矢部君を再び悲劇が見舞った。

ヴォルグ『こういうものハ、大人になってかラ、節度を守って鑑賞するのでス————』

矢部『ハイ……』

 
 気遣いで場を収めたついでにお説教を始めたヴォルグさんの話は、その後二十分以上に渡り————

 
 最後には、日本人ならロシアの女性ばかりでなく、日本の女性、大和撫子の魅力にも目を向けるべきだという話に落ち着いて、終わった。

 
 矢部君の性癖の、全否定だった。


ヴォルグ『——わかりましたネ?』

矢部『ハィ、スイマセンデシタ……』

 
 昼はハーフ美人女子高生。

 夜は、ロシア美男子プロボクサー。

 二人がかりでデリケートな領域を踏み荒らされ、矢部君の命脈は完全に尽き果てた。


佐藤『…………』

 スーパーでの戦闘以上に、始末におけない状況だった。


————————
——————
————
——


佐藤「…………」

 正直、路上で再戦の申し込みを受けた時、僕はヴォルグさんのような善人を相手に全力で戦う事に抵抗を感じていた。

 しかし、昨夜の矢部君に対する優しい暴虐を目の当たりにし、腹は決まった。


 矢部君の仇は、僕がとる。


 ヴォルグさんに悪意がない事はわかっている。

 しかし矢部君は……僕の友達は、昨夜傷つけられたのだ。


 この————

ヴォルグ「ヨー、僕お腹空きましタ。朝ご飯買いに行きましょウ」

 気遣いのできすぎるイケメンボクサーに!

 争奪戦に理解を示してくれたように、矢部君の男心だって理解してくれてもいいじゃないか!

『いい趣味してるネ、俺の国の女は最高だロ?』とでも言って、あのサイトにどんな卑猥な文章が書いてあるか教えてくれるくらいでよかったんだ!

 昨夜のようなお父さん的な態度ではなく、お兄さん的態度で接してくれていたら……矢部君はあれほど深いダメー ジを受けずに済んだのだ……!

 ただノって来てくれれば……それで……!


佐藤「……そうですね、行きましょうか。コンビニでいいですか?」

ヴォルグ「はイ。構いませン」

 聞くところによれば、ヴォルグさんは子供の頃にボクシングに出会い、以来ボクシング一色の人生を歩んで来たのだという。

 つまりヴォルグさんは、ボクシングに真剣に打ち込んだ結果、健全に育った純粋培養のイケメンという事になる。

 なんとなく女っ気はなさそうだが、僕たちより遥かに充実した青春を送ってきた、謂わばリア充。

 矢部君はそのイケメンリア充に、エロサイトを見た事を叱られたのである。

 その心の傷は深い。

 心の綺麗なイケメンに叱られ、なけなしの自尊心を踏みにじられ、もう矢部君のHPは0なのだ。

 これが逆恨みである事は承知している。

 しかし争奪戦への参戦を表明した以上、矢部君に代わっ て報復はさせて貰う……!


佐藤「……顔洗ってきますね。ちょっと待っててください」

ヴォルグ「うン、ゆっくりでいいヨ」


佐藤「…………」


 良い人すぎるヴォルグさんを、敵だ、ライバルだと思い込むために、僕も必死なのだった。


* * *

今日は以上です

ベン・トー最新刊を読みふけっているとみた

最後まで書けませんでしたが量が多くなってきたので今夜9時頃に一旦投下します

注意点

繰り返しになりますが時代背景はベン・トーに合わせているので作中ではネットでヴォルグさんの試合が見れたりします

大阪をディスるつもりはまったくありません


>>188
途中で原作読み出すとエタりそうになるのでまだ読んでない……
パラパラとめくった感じすげぇ面白そうで辛い

いつも行く書店SD文庫の入荷少なくて売り切れで、代わりにデスニードラウンド二冊買う奇行に走った


* * *


 半値印証時刻までの間、ただ部屋に籠っているのもなんだったので、僕は著莪、槍水先輩、白粉の三人に連絡を取り、ヴォルグさんに町を案内する事にした。

 ヴォルグさんの滞在は今夜まで。

 今夜の争奪戦が終われば、ヴォルグさんは町を去る。

 僕たちはヴォルグさんの滞在が伸びた事を喜びつつ、時間を惜しむようにあちこち連れ回した。

 取り立てて見るべきものもない町ではあったが、ヴォルグさんは常に楽しそうにしてくれていた。

 午前中一杯遊び回り、昼食は夜の争奪戦を見越してカフェで軽く済ませた。

 そして、次は何処へ行こうかと腹ごなしに散歩をしていたところで、会話の流れがヴォルグさんのお国の話に移った。

 節制の反動なのか、ヴォルグさんは日本の食文化に強く興味を示していた。

 自販機で売られていたお汁粉に始まり、たい焼き、たこ焼きの屋台、果ては居酒屋チェーンの看板に描かれた提灯のイラストまで、ヴォルグさんは飲食に絡む日本文化にば かり興味を惹かれているようだった。

 HP部時代のOB、OGから豊富な知識を受け継ぐ槍水先輩がいた事もあって、道中の僕たちの会話は食べ物の話題が中心になっていた。

 みんなであれこれとヴォルグさんの疑問に答えていたのだが、途中で著莪が『ロシア人って普段なに食ってんの?』と質問を返した。

 きっと、こちらがヴォルグさんの質問に一方的に答えるのがつまらないと感じたのだろう。

 正直、僕も同感だった。

 今日一日しか一緒にいられないのだら、もっとヴォルグさんの話を聞いてみたいと思うのは当然で、僕も『ロシア料理ってボルシチくらいしか知らないな』と調子を合わせた。

 そして、調子を合わせた事を、少しだけ後悔した。


ヴォルグ「そうですネ……日本で有名なロシア料理というト、他にはピロシキとカ、ビーフストロガノフとカ……でモ、ビーフストロガノフは日本で思われていルほど、ロシアの人、食べませン」

槍水「家庭料理というと、どんなものを食べるんだ?」

ヴォルグ「ううんト……ペリメニ、プリヌイ、シャシャリク……」

佐藤「名前だけじゃどんな料理かわならないや」

白粉「呪文みたいですね」

ヴォルグ「ハハ、えっとネ、ペリメニは……餃子が近いかな。プリヌイはクレープみたいなもノ。シャシャリクはロシアのバーベキュー」

著莪「ヴォルグはどれが好きだった?」

ヴォルグ「そうですネ……どれも好きだったけド……」

佐藤「?」

 考え込むヴォルグさんの表情に、僅かに影が差したように見えた。

ヴォルグ「母さンの作るスープが、一番好きだったナ……」

 僕はヴォルグさんの表情の変化を、故郷への、家族への郷愁と捉えた。

佐藤「お袋の味ってやつですか」

著莪「何スープ?」

ヴォルグ「多分、世界中、どこにでもあるようナ、シンプルなスープでス。大きな鍋で、野菜をじっくり煮込んで作 ル……ロシアの煮込み料理によく使われル、サワークリー ムも入っていませんでしタ。だから、ロシア料理という訳ではないんだけド」

著莪「ふぅん」

ヴォルグ「ボクシングの試合を終えて家に帰るト、いつもそのスープを作ってくれテ……あれが一番好きだったナ…… とても優しい味でしタ」

槍水「ヴォルグにとっての勝利の味という訳か」

佐藤「じゃあ、次に食べる時は世界チャンピオンになってからですね」

 軽い気持ちで、先輩に話を合わせた。

 現役復帰の目処がまったく立っていないという話を昨夜聞いていたので、その励ましの意味も込めたつもりだった。

ヴォルグ「…………」

 ヴォルグさんは僕の言葉を受け、黙り込んだ。

 笑みに差す影が、濃くなったように見えた。

佐藤「ヴォルグさん……?」

ヴォルグ「そうしたかったけどネ……もう、できませン」

佐藤「あ……」

 好き『だった』優しい味『でした』

 過去形なのは、単にロシア時代を振り返っての事だと思っていた。

 しかし、これは……。

ヴォルグ「母さン、もういませン。ロシアを発つ少し前ニ……」

 ああ……やっばり。

佐藤「それは……すいません……」

 何と言っていいのかわからず、僕は謝った。

著莪「なんか……ごめん」

槍水「すまん……」

白粉「ぇあっと……」

 話題を振ったこと自体失敗だったと思ったのか、著莪と先輩も謝った。

ヴォルグ「いエ、いいんですヨ。気にしないデ」

佐藤「あ…………」

著莪「…………」

槍水「…………」

白粉「…………」

 気まずい沈黙。

 ヴォルグさんは笑う。

ヴォルグ「本当に、気にしなくていいんだヨ?」

佐藤「でも……」

 ずっと昔の話ならともかく、ロシアを発つ少し前という事は、ヴォルグさんのお母さんが亡くなったのはつい先日という事になる。

 気にするなと言われても、無理な話だった。

佐藤「えっと…………お母さん、どんな人だったんですか?」

 こういう話題でも、ヴォルグさん自身の話には違いない。

 このまま話題を逸らして気まずい空気になるよりは、深く聞いてみたほうがいいと思った。

ヴォルグ「うン……優しい、人だったヨ……」

 ヴォルグさんは僕の意を汲んだように頷き、笑みを深め、語る。


ヴォルグ「……母さンはね、僕がボクシングやるこト、反対してましタ……」

ヴォルグ「僕が人を殴るのモ、僕が殴られるのモ嫌だッテ。アマチュアの試合を終えて帰る度、ボクシングなんか辞めて傍にいてくれっテ……」


「でモ、僕が成功できる才能なんてボクシングしかなかっタ。父もいなかったシ、体の弱い母を助けるには、ボクシング、続けるしかなかっタ」


「僕、頑張ってアマチュアの世界王者になりましタ。そんな時に日本のプロモーターから、良い条件での契約持ちかけられタ。日本でデビューしないかっテ」


「ロシアはまだブロの興行の歴史が浅いシ、注目は重量級の選手に集まル。日本なら、最軽量級のチャンピオンでも中量級のチャンピオン並に稼げる事もあると聞いテ……それデ僕、日本に来ましタ」


「その時もネ、母はもう、大反対。ずっとロシアの田舎で暮らしていた人で教養もなかったかラ、日本の事なんて何も知らないシ、競技性の高いアマチュアボクシングからプロボクシングに転向する事も嫌がってましタ」


「プロボクシングは興行の世界、何も知らない母には、胡散臭い世界に見えていたみたイ。しかも外国のプロモーターから声が掛かったとなれば心配しない訳がないよネ?」


「それでも僕、日本に来ましタ。母を独りにするのは不安だったけド……母のために日本、来ましタ」


「母の事を思うト、僕もボクシング、好きになれなかった。あの頃はただ、ボクシングは経済的に成功するための手段、 母を助けるための手段だと思ってました」


「だけど日本で戦う内に……ある試合をきっかケに、ボクシング、大好きになっタ。大好きなボクシングで成功しテ、母を助ける、ロシアに帰ると前向きになれタ」


「でも、甘くなかったネ……」


「そんな風に前向きになった矢先ニ、負けてしまっテ、ジム、クビになっタ」

「負けて引退してロシアに帰ったんだけド……その頃から母の容態、悪くなり始めタ……」


「負けた事は悔しかっタ。ボクシングで初めテ味わった挫折だっタからネ」


「でモ、国に帰って弱った母に会ったラ考えが変わっタ。負けた事は運命だっんだっテ……。あの時負けてロシアに帰らなかったラ、母の最期に立ち会えなかっタ……そう思うとネ」


「負けてよかった、とまでは思わない。ケド、僕のボクシング人生は、一度終わるべくして終わったんダ」


「ならバ母が亡くなった今、再び立ち上がるコトもまた運命だト……そう思っタ」


「自分の死期を悟っていたのカ、最後には母も後押ししてくれたしネ」


 ヴォルグさんは立ち止まり、軽くパンチを振るった。


ヴォルグ「今度は母のためじゃなイ。自分のためニ。ロシア人の僕にとっテ、日本以上に厳しいアウェイとなるアメリカで、試してみたいんだ」


「自分がどれだけボクシングが好きなのかヲ。頂点を目指す事でネ」


著莪「…………」

槍水「…………」

白粉「…………」

 僕たちはヴォルグさんの話に黙って聞き入っていた。

 ヴォルグさんの現状と合わせると、あまりにも重い話だった。

 しかし悲しい話なのに、不思議とヴォルグさんに悲愴感はなかった。

 むしろ、夢を語るその目は輝いてさえ見えた。

佐藤「でも……」

 それでも、聞かずにはいられなかった。

ヴォルグ「なニ?」

佐藤「ヴォルグさんは辛くないんですか?独りで……外国で……」

 ヴォルグさんは独りぼっちだ。

 国に帰っても家族はおらず、多少は慣れ親しんだ日本での滞在も一時的なものだという。

 これからヴォルグさんはアメリカに渡る。

 見知らぬ異国の地で、拳一つで戦うために。

 話を聞く限り、ヴォルグさんには味方がおらず、退路がない。

 他人事ながら、胸が締め付けられるような焦燥を覚える。

 独りで辛くはないのか。

 寂しくはないのかという当然の疑問が、素直に口をついて出た。

ヴォルグ「……ヨーは優しいネ。でも、大丈夫……」

 ヴォルグさんはゆっくりと頷いて、言った。

ヴォルグ「僕、独りだけド、独りじゃなイ。だから大丈夫」

佐藤「……どういう意味ですか?」

 その言葉の意味は、僕にはよくわからなかった。

 単なる空元気という訳でもなさそうだが。

ヴォルグ「うーン……言葉で説明するの難しイ……でもネ、多分、君たちハもう知ってると思ウ」

佐藤「もう知ってる?」

 ますます意味がわからない。

 知ってる?

 僕たちが?

 ヴォルグさんは首を捻る僕を見て笑い、言った。

ヴォルグ「うン。知っているはズ。君たちスーパーの狼ハ……多分ネ」

 独りだけど、独りじゃない。

 僕たち狼なら、その意味を知っている……。

佐藤「…………」


 なんとなく……なんとなくではあるが、ヴォルグさんの言いたい事が、理解できたような気がした。

 そして、この理解が正しいのなら————


佐藤「……ヴォルグさん」

ヴォルグ「うン?」

 
 僕はようやく、この、どこまでも善良で、どこまでも優しいヴォルグさんに対して————


佐藤「今夜は……負けませんよ?」

ヴォルグ「……うン、僕も全力を尽くすヨ」


 闘志を、燃やす事ができる。

 ヴォルグ・ザンギエフ。

 北欧の狼が、今夜スーパーに求めるのは同情でも癒しでもなく、戦いだ。


 つまりは半額弁当だ。


著莪「二人だけで盛り上がるなよ」

槍水「こちらも全力で戦わせてもらう」

白粉「わ、私も頑張ります……!」

ヴォルグ「フフ……望むところでス」


 ボクサーもスーパーの狼も関係ない。

 ヴォルグさんと僕たちの間には、戦う者の共感がある。


佐藤「…………」グッ

 今夜だけは、僕たちスーパーの狼が、ヴォルグさんを独りにしない。


* * *

* * *


 その後、僕はヴォルグさんの案内を先輩たち三人に任せ、一人寮に戻った。

 今夜の争奪戦、ヴォルグさんを相手に全力で戦う決心をしたのはいいが、やはり実力差は歴然としている。

 今朝見たシャドーからして身のこなしの次元が違うし、 昨夜の戦いにしても、あの先輩ですら不意打ちと偶発的に決まった蹴りの二発しか攻撃が当たらなかった。

 このまま戦っても、僕ごとき昨夜の坊主のように、一撃で斬って落とされるだけだ。

 にわか仕込みでも構わない。

 せめて、少しの間だけでもヴォルグさんを相手にまともな戦いをするため、僕は策を練る事にした。

佐藤「矢部くーん」

 まずはヴォルグさんの現役時代の試合映像を見ようと、パソコンを借りるため矢部君の部屋に向かった。


矢部「おーう……」

 
 昨夜同様、力無い返事。

 しかしもう矢部君の仇討ちとかどうでもいいので、僕は普通に部屋に入った。

佐藤「パソコン貸して。見たい動画があるんだ」

矢部「いいけど……エロいやつ?」

佐藤「……エロくはない。ちょっとボクシングの試合が見たくて」

矢部「ボクシング?珍しいな。どうしたんだ急に」

佐藤「うん、まあ、ちょっとね……」

 矢部君にとっては見たくない映像かもしれないが、僕は構わずパソコンの前に座った。

 ヴォルグさんの試合の映像が残っていないか聞いてみるため、ホーキーマートのアブラ神に電話をかけてみたのだが、ヴォルグさんの試合はプロ5試合、全て動画サイトにアップされているらしい。

 アブラ神はヴォルグさんの参戦を喜んでいた。

 少し迷いつつカタカナで『ヴォルグ・ザンギエフ』と検索をかけると、ヴォルグさんの試合動画はすぐに見つかった。

矢部「な、なんだよ……あの人ボクサーだったの?」

 矢部君が横で声を震わせた。

 無視して再生ボタンをクリック。

 動画は、衛生放送のテレビ中継の録画だった。

 デビュー戦の映像だ。

 ヴォルグさんは元アマチュア世界王者という事もあって、デビュー当初から大きな注目を集めていたらしい。

 タイトルマッチの前座で行われ、その中継枠内で放送された試合のようだ。

 ボクシングを知らない僕でも、ルーキーに対する4回戦ボーイ、グリーンボーイという呼び方は知っていたが、この試合は6回戦だった。

 相手は10戦以上のキャリアを勝ち越している日本人ボクサー。

 実況のアナウンサーによれば、デビューのこの時点で、後のA級トーナメントへの出場が計画されていたらしい。

 最短のキャリアで日本の頂点に駆け上り世界を目指すプランが、この試合の前から報じられていたのだそうだ。

佐藤・矢部「「うはぁ……」」

 試合は1ラウンドで終わってしまった。

 KOタイムは2分24秒。

 試合開始当初は、昨夜見たような腰高の構えで様子を見ていたヴォルグさんだったが、1分過ぎからファイトスタイルを一変させた。

 ヴォルグさんの綺麗なボクシングに業を煮やした相手がラフに仕掛けた瞬間、ヴォルグさんは例の、前傾姿勢の構えを取った。

 そこからはただ一方的な試合になった。

 ヴォルグさんは1分の間に2度のダウンを奪い、3度目に相手が倒れたところで、レフェリーがストップをかけた。

 3度目のダウンは、ホワイト・ファングによるものだった。

矢部「つ……」

佐藤「?」

矢部「強えっ!!」

佐藤「……うん」

 矢部君は試合に見入っていた。

 僕も同様だった。

 策を練るという発想が馬鹿らしく思える強さだった。

 10戦以上のキャリアを持つプロに何もさせなかったのだ。

 僕たち素人がこの人を相手に、一体何がができるというのか。

矢部「次、見ないの?」

佐藤「ああ……うん。見るよ」

 しばらく放心し、矢部君に促され次戦以降の動画を再生した。

 2戦目は無難に相手を捌き最後はカウンターでKO。

 3戦目は、これが本当にあのヴォルグさんかと目を疑いたくなるような凄惨な試合だった。

矢部「うわぁ……死んだ……」

 3戦目、鈴木戦のKOシーンを見て矢部君が呟いた。

 確かに、それほどのインパクトがあるKOだ。

 フィニッシュのホワイト・ファングは勿論、試合を止めようとしたレフェリーを振り払う様子など、まるで興奮しきった獣のようだ。

 とてもあの紳士なヴォルグさんとは思えない。

佐藤「はぁ…………」

 なんというか……ため息しか出ない。

 試合を見る前に想像していたものとは、ベクトルの違う強さだった。

 もっとテクニカルな戦い方をする人だと勝手に想像していたのだけれど、これほど闘争心を剥き出しにして戦うボ クサーだったとは……。

 顎髭の攻撃を捌いた華麗スタイルではなく、先輩の蹴りで意識を失ったあの時こそが、ヴォルグさんの本来の姿だったのだ。

 思えば、昨夜の争奪戦の時点であの人の二面性は垣間見えてはいた。

 しかし、まさかこれほどとは……。

 これでは付け入る隙がない。

 スイスイと足を使って攻撃を躱すあのスタイルなら、著莪あたりとコンビを組むなどして複数人で同時に仕掛ければ、少しは戦いようもあるのではと考えていた。

 しかし甘かった。

 当てが外れた。

 この獰猛なファイトスタイルは僕の手には負えない。


 勝てる道理が、ない。

佐藤「……………」

 いや、僕たちの場合、ヴォルグさんより先に弁当を獲ってしまえば勝ちなんだけどね?

 それでも僕は今夜の争奪戦を、生意気にもヴォルグさんのための壮行試合だと考えていた。

 ヴォルグさんを出し抜いて弁当の奪取を優先する戦い方は、今夜に限ってはしたくない。

 できる限りヴォルグさんと正面から戦って、その上での弁当奪取を目指したい。

 ボクサー、ヴォルグ・ザンギエフと、対等な勝負を。

 スーパーでの戦いのノウハウを総動員し、他の狼との連携が上手くいけば、それも可能だと思っていたのだが……。

矢部「次、早く見ようよ」

佐藤「うん……」

 すっかりヴォルグさんの試合に夢中な矢部君に急かされ、僕は4戦目、幕ノ内戦の再生ボタンをクリックした。

 幕ノ内一歩。

 最初はリングネームかと思ったのだが、どうやらこれが本名らしい。

 ヴォルグさんと同じ階級にしては小柄で、どこか大人しげな顔立ちをした選手だった。

 アブラ神の話では、この人がヴォルグさんの最初の黒星の相手。

 ヴォルグさんはこの人に負けている。

 体つきは白粉が喜びそうなマッチョだし、戦績も9戦全勝全KOと凄まじいが、正直、あまり強そうに見えない。

 スマートなヴォルグさんといい、一見強そうには見えない人が実は強いというパターンが、案外ボクサーには多いのだろうか。

 放送席で賭け事を始めた日本王者二人のやり取りに笑いつつ、そんな事を考えていた。

 試合開始のゴングが鳴る。


佐藤・矢部「「……………」」


 ……この試合、ヴォルグさん負けたんだよね?

 話が違う。

 最初のダウンこそヴォルグさんが喫したものだったが、それ以外の場面ではヴォルグさんが幕ノ内を圧倒していた。

 ヴォルグさんは倒された2ラウンドの内にダウンを奪い返し、3ラウンドも猛攻を仕掛け、2度のダウンを追加した。

 相手はもう死に体に見えた。

 体の動きから明らかに力感が失せ、レフェリーが試合を止めないのが不思議なほどだった。

 ヴォルグさんのプロキャリアは5戦。

 その内の2つ、4戦目と5戦目が黒星だと聞いていたのだが……。

 4ラウンドのゴングが鳴る。

 ラウンド開始後、しばらくはヴォルグさんの猛攻が続いた。

 しかし。

矢部「ああ!貰った!」

佐藤「…………」

 徐々にヴォルグさんが押され始めた。

矢部「あぁ〜!!」

佐藤「…………!」

 矢部君が五月蠅い。

 ヴォルグさんが倒されたのだ。

 ボディへの痛烈な一打をきっかけにした幕ノ内のラッシュに晒され、ヴォルグさんはマットに膝をついた。

 起き上がり反撃に出るヴォルグさん。

 ダメージの深さは両者同等に見えた。

 打ち合いの中、4ラウンド終了のゴングが鳴る。

 そして5ラウンド。

矢部「あああーッ!!?」

佐藤「…………!」

 実況のアナウンサー並の大声を上げる矢部君。

 5ラウンドも息を飲む打ち合いは続き、その最中、幕ノ 内の低い体勢から放つ左アッパーがヴォルグさんの顎を捉えた。

 この試合で何度か決まっているパンチだ。

 ヴォルグさんは膝をつき倒れた。

矢部「あー……」

 ようやくトーンダウンする矢部君。

 なんとか立ち上がったヴォルグさんだったが、ファイティングポーズを取ろうと腕を上げたところで、力尽きたように崩折れた。

佐藤「はぁ……」

 言葉もない。

 劇的な逆転KOだった。

 関連動画を見ると、そこには『幕ノ内一歩  日本王座防衛戦』というタイトルが目についた。

 強いはずだ。

 防衛戦という事は、今ではこの人も日本王者なのか。

矢部「いやー……すげぇ試合。あと一つか」

佐藤「うん」

 そしてヴォルグさんの日本での最後の試合、日本フェザー級王座決定戦を再生した。

佐藤「!!」

矢部「おわ!」

 動画が再生された瞬間、僕は慌ててボリュームを下げた。

 まだ試合開始前だというのに、会場は凄まじい歓声に包まれていた。

矢部「すげぇうるせぇ」

佐藤「……うん。すごいね」

 僕としては矢部君の方が五月蠅い。

 怒号のような歓声を一身に浴びる選手の名前は千堂武士。

 幕ノ内と違って、この人は見るからに強そうだった。

 実況では『浪速の虎』なんて物騒な二つ名も紹介されている。

 筋肉的興味でボクシングに明るい白粉先生と違い、僕にとってはこの人のような、如何にも元不良、叩き上げという雰囲気の人こそがボクサーになるイメージが強い。

 歓声と鳴り物、歓声に負けじと声を張り上げる アナウンサーの実況とともに、異様な雰囲気の中試合は始まった。

佐藤「…………」

 この試合も負け試合には見えない、ヴォルグさんの圧倒劇だった。

 千堂のパンチは素人目にもラフで、その間隙を縫うヴォルグさんの的確なコンビネーションが、再三に渡ってクリーンヒットする展開が中盤まで続いた。

矢部「おお!いけんじゃね!?いけんじゃね!?」

佐藤「……うん」

 ヴォルグさんの連打が決まった場面で、試合の結果を知らない矢部君が大騒ぎし始めた。

 本当に五月蠅い。

 というか矢部君、生中継を見て騒ぐならともかく、動画サイトにアップされた録画でよくここまでテンション上げられるな……。

矢部君「————ッ!?」

佐藤「……!」

 ヴォルグさんの右ストレートが千堂の顔面を貫いた。

 瞬間、千堂の体から力が抜け、マットに膝をつき、そのまま前のめりに崩れ落ちた。

 観戦している間、すっかり耳に馴染んでしまった大歓声がピタリと止んだ。

 水を打ったように静まり返る会場。

 観客たちの気持ちはよくわかる。

 ヴォルグさんを応援していた矢部君ですら、言葉を失ってしまっている。

佐藤「…………」ゴクリッ

 これは、もはやショックシーンだ。

 今夜ヴォルグさんと戦う身としては、寒気のするような右ストレートだった。

 しかし、それでも千堂は立ち上がる。

 この試合、ヴォルグさんは負けているのだ。

 今のところは信じられない話だが、決定的に見えたこのダウンも、勝利には繋がっていない。

 体を起こす千堂の動きに呼応するように、千堂コールが巻き起こる。

 感動する場面なのだろうが、ヴォルグさんに肩入れして見ている僕の目には空々しく映るシーンだった。

 この会場はヴォルグさんにとってアウェイすぎる。

 後楽園ホールでの試合ではヴォルグさんへの歓声も聞かれたが、こうまで一方的な応援だとさすがに見ていて気分が悪い。

 ヴォルグさんは立ち上がった千堂にラッシュを仕掛け、とどめのホワイト・ファングを放つも、千堂がロープに体 を預けたまま体を後ろに倒した事で空振り、フィニッシュはならず。

 そのままこのラウンドは終了した。

矢部「あ〜……」

佐藤「…………」

 矢部君が落胆の声を上げる。

 一緒にスポーツを観戦するのはこれか初めてなので知らなかったが、矢部君は一々大げさなリアクションをするタイプのようだ。

 横目に矢部君の顔を見ると、本当に、心底残念そうな顔をしている。

 どこまで純粋な男なんだ。

 その純粋さが自身を性癖の追求に走らせ、童貞地獄の釜の底で踊り狂うはめに陥っている原因なのだと、何故気づ かないのか。

 これが男のSAGAなのか。

 業なのか。

 馬鹿なのか。

 7ラウンドのゴングが鳴る。

矢部「あーーーッッ!!」

佐藤「!」

 千堂をロープ際に追い詰め攻勢を強めるヴォルグさんだったが、その最中、強烈なボディストレートを貰ってしまった。

 その一打をきっかけに千堂が息を吹き返し、試合は打ち合いに発展する。

 千堂の左アッパーをガードで受け止め、ヴォルグさんは大きく後退した。

 このスリークォーターの軌道で放たれる前手のアッパーは、実況、解説によればスマッシュと呼ばれるものらしい。

 試合の序盤ではヴォルグさんの顔面を捉えていたが、今回は受け止めた。

矢部「おお……!もう……ッ!」

佐藤「……!」

 矢部君が何とも言えない声を上げる。

 後退したヴォルグさんへの追撃、千堂のスマッシュが決まってしまった。

 ただしこの一打は左ではなく、右のスマッシュだった。

 千堂が構えを左右逆にした事で不意を突かれたのか、豪快な一撃がヴォルグさんの顔面を見舞った。

 テレビ中継のマイクが、ヴォルグさんの体がマットに落下する音を捉えた。

 痛烈。ショックシーン再び。

 ヴォルグさんの頭が、力無くマットを転がった。

矢部「死んだ……」

 ……気持ちはわかるけど矢部君、きみ、昨日この人に会ってるからね?

 生きてるからね?

佐藤「…………」

 しかし、まあ確かに……。

 終わった、としか思えないダウンだった。

 しかし、昨夜アブラ神は言っていた。


アブラ神『あの最後の試合の判定は今でも納得いかねぇよ』


 判定ということは、起き上がるのか。

 ヴォルグさんは、この致命的なダウンから。

矢部「おーッ!おーッ!頑張れ頑張れ!!」

 今回ばかりは矢部君の気持ちもわかる。

 信じられない思いだった。

 完全に意識を失っているように見えたヴォルグさんは、カウントの開始とともに身を起こした。

 焦点の会わない瞳で虚空を見上げ、震える体をなんとか立て直し、ヴォルグさんは再開に応じた。

 あまりにも痛々しい。

 知人のこんな姿を見るのは辛かった。

 もう試合を止めてくれと思うようなダウンだった。

矢部「無視無視!逃げ切れ!あとちょっと!」

 クリンチで急場を逃れるヴォルグさんに、会場から容赦のないブーイングが浴びせられた。

 録画のヴォルグさんに声援を送る矢部君。

矢部「ふざけんなよ!頑張ってんじゃねぇか!」

佐藤「あんまりだよ……」

 やはり、こういう雰囲気のスポーツの試合会場は好きになれない。

 そのままヴォルグさんはこのラウンドを凌ぎきり、なんとか青コーナーに生還した。

佐藤「…………」

 獰猛な攻撃的スタイルや高度なボクシングの技術よりも、このダウンから起き上がるシーンの方が、ヴォルグさんの強さを見せつけられているような気がした。

 試合はその後、両者譲らない緊迫した打ち合いが続き、終了のゴングを聞いた。

 千堂への一方的な応援、ブーイングに続き、最終ラウンドにもモヤモヤする場面が訪れた。

 千堂のパンチを躱しざま、バランスを崩したヴォルグさんが倒れた。

 スリップだと思ったのだが、裁定はダウンだった。

 解説の元ボクサーが、試合後スロー再生を見ながら『パンチは当たってますから、ルール上はダウンで問題ありません』と話していたが、パンチは軽くかすった程度で当たっているようには見えなかった。

 千堂よりのコメントに憤る矢部君を宥めながら、僕もお腹の底に嫌なものが溜まっていく感覚を味わっていた。

 ボクシングに疎い僕でも、もういい加減にわかる。

 この会場の全てが、ヴォルグさんの敵だったのだ。

 観客にしてもテレビ中継のコメンタリーにしても、ヴォルグさんに対して暗に『お前が勝っても盛り上がらない』とでも言っているようだった。

 ギリギリの好勝負を演じた二人とは無関係なところで、興行スポーツの嫌な一面が垣間見えていた。

矢部「えぇーーーッ!?なんで!?」

佐藤「…………」

 判定が読み上げられ、ヴォルグさんの敗北が告げられた。

 アブラ神の言う通りだった。

 この判定は確かに納得がいかない。

 ダウンがあったとはいえ、全体的にはヴォルグさんが押しているラウンドが多かった。

 ボクシングの採点方法など知らないが、これで負けてしまうのでは、KO以外ヴォルグさんに勝ち目はないじゃないか。

矢部「なんだよ……最後の最後でスッキリしねぇな……」

 同感だ。

 ……とにかく、これで5戦全て見終わった。

佐藤「はぁ……」

 動画を見始めてから、これで何度目のため息だろうか。

 試合を見たところで、今夜の争奪戦に活路を見出すことなどできなかった。

 2つの負け試合ですら、収穫はない。

 強いてヴォルグさんの弱点を上げるなら、耐久力に欠ける点、スタミナに難がある点だが、それはボクサー中のでは、という話だ。

 今夜集まる狼の中では最大の攻撃力を誇る先輩の蹴りで倒し切れないのだから、耐久力はスーパーではむしろ高いとさえ言える。

 スタミナに関しても、争奪戦はボクシングの試合のように数十分に及ぶ事はまずないし、なによりヴォルグさんを相手に長期戦に持ち込む技量など僕たちにはない。

 弱点が見当たらない。

 やはり複数人による同時攻撃しか打つ手はないのだろうか。

 足技への反応の悪さを上手く利用して————

 いや、駄目だ。

 ヴォルグさんは昨夜の先輩との交戦で足技はさんざん見ている。

 試合中も、一度見たパンチはあっさりと躱していた。

 足技も昨夜ほどの効果は期待できない。

 複数人の同時攻撃にしても、争奪戦のルールを詳しく知った今なら既に折り込み済みだろう。

 単純に反射神経とスピードで対応されてしまう可能性が高い。

佐藤「うーん……」

 押せばあの華麗なテクニックで翻弄され、引けば獰猛に食らいつく牙の餌食。

 幕ノ内、千堂の二人には、ヴォルグさんの技術と競り合えるパワーとタフネスがあった。

 当然、僕たちにはそれがない。

 ヴォルグさんに対抗できるカードがなにもない。

 完全に、手詰まりだった。

矢部「これやっぱすげーな……」

 矢部君は千堂戦の動画を再生し、千堂のダウンシーンを見返していた。

矢部「これもよく立ったよな……死んだかと思った」

佐藤「そうだね……」

 続いてヴォルグさんのダウンシーンまで早送りし、しみじみとした様子で言った。

 矢部君なりにこの試合に対するモヤモヤを、両者を称える事で解消しようとしているのかもしれない。

 確かに会場の雰囲気は好ましいものではなかったが、千堂の戦いぶりは素晴らしかった。

 ヴォルグさんを倒した右のスマッシュなど、およそボクシングの試合では見たことのない豪快な一打だった。

 ヴォルグさんでも反応できていなかったのだ。

 まさかあそこで左にスウィッチするなんて、素人には想像もつかな———


佐藤「あ…………」


 矢部君が再生したヴォルグさんのダウンシーンを見て、気づいた。


矢部「どうした?」

佐藤「……いや、別に」


 5戦全て見たが、この右のスマッシュによるダウンはもしや————



 ヴォルグさんがプロキャリアを通じて唯一見せた、『技術的な』弱みだったのではないか————?


 
 幕ノ内、千堂はフィジカル面の優位を活かし、ヴォルグさんにギリギリで競り勝った。

 しかし技術面では、どの試合でもヴォルグさんが、常に相手を圧倒し続けていた。

 そんなヴォルグさんが唯一見せた、技術面での隙。


 これは————


 もしかしたら、突破口になるのではないか?


佐藤「! そうだ!」

矢部「なんだよ……」


 僕は2戦目の動画を再生した。


 2戦目。


 無難に相手を捌き、カウンターでKOした試合。


 ヴォルグさんの試合にしては大人しい、華麗な技術によるKO劇。


 その相手————


 その構えは、確か———


佐藤「やっぱり……」


 サウスポー。


 この試合の動画はテレビ中継の録画ではなかった。


 ファンが会場で手撮りした映像だったため実況と解説がついておらず、素人の僕では気づけなかった。

 ヴォルグさんの2戦目の相手はサウスポー。

 試合内容がヴォルグさんにしては大人しいのは、サウスポーを技術的に攻略する必要があったから……なのではなだろうか。

 この試合だけ、明らかにヴォルグさんの戦い方が違う。

 他の試合でのヴォルグさんは、左のパンチをコンビネーションの起点に使う事が多いが、この試合ではそういった場面が少ない。

 左を打たず、いきなりの右ストレート。

 そして相手の右手右足の外側に回り込み、左のフック、ボディアッパー。

 流れるような左右のコンビネーションは見られず、この二つの動きを多用し、単発のパンチを確実に当てていた。

 その動きは相変わらず華麗なものだったが、他の試合と見比べると、何処か窮屈そうに見えなくもない。

佐藤「矢部君、ちょっと構えてみて」

矢部「お、ボクシングごっこか?」

佐藤「いいから、千堂みたく右半身を前に出して」

矢部「ずるいぞ佐藤!俺がヴォルグさんやりたい!」

佐藤「ああもう……いいから、さっさとやってよ。サウスポーで構えて、ここに立って。やらないと矢部君の性癖を著莪に詳しく解説しちゃうぞ」

矢部「そ、それは困る。こうか?右が前?」

佐藤「そうそう」

 矢部君に構えを取らせて実験してみると、ヴォルグさんが2戦目で取った戦法の意味が理解できた。

 いきなりの右を多様するのは、右ストレートの障害になる左腕が後ろに下がり、右でガードの内側を狙いやすくなるからだ。

 逆に左のパンチを省略するのは、前に出た相手の右手が邪魔になり、左の牽制打が打ちにくくなるためだ。

 そして右手の外側に回り込み、ガードの外側から、前に出た相手の右半身を左のパンチで狙い打つ。

佐藤「なるほどなー……」

矢部「当てんなよ!寸止めだからな!」

 争奪戦は複数の狼が入り乱れる乱戦になる。

 純粋な一対一の状況は少ない。

 全方位からの攻撃を警戒するため、構えの左右を重要視した事はこれまでなかった。

 せいぜい、左利きの狼と正面から殴り合う際、なんとなく戦いにくいなと思っていたくらいだ。

佐藤「なるほどなるほど」

矢部「当てんなってぇ!」

 構えが左右逆になると向き合う相手にとって、頭の位置、距離が変わる。

 そして懐への入り口が左右逆になるのだ。 

 右ストレート、左フックで矢部君の顔面をペチペチと叩きながら、僕はヴォルグさんとの争奪戦に一筋の光明を見出していた。

 映像を見る限り、ヴォルグさんはサウスポーが苦手という訳ではない。

 しかしサウスポーで戦えば、ヴォルグさんに技術的な戦 い方を強いる事ができるかもしれない。

 無論、ただにわか仕込みのサウスポースタイルで戦ってもすぐにやられてしまうだろう。

 技術的な戦いに持ち込んだところで、こちらの不利は変わらない。

 ヴォルグさんとまともな勝負をするためには、もう一捻り必要だ。

 
 そしてそのための策は、すぐに思いついた。


佐藤「…………」ピッピッ

 
 携帯を取り出し、ある番号をコールする。

 相手はすぐに出た。


二階堂『何だ、変態。くだらない用だったらすぐ切るからな』


 かつてコンビを組んだこともある、二階堂連。

 思いついた作戦を実行するには、最適な相棒に思えた。


* * *

休憩します

いったんおつ
ヴォルグ来日って一歩vs沢村の直前くらいだっけ

ひとまず乙
そういえばベントー本編で争奪戦のときに左利きの狼っていたっけ?

>>217
はい
沢村戦前ですね

* * *


二階堂「なるほどな。ヴォルグ・ザンギエフ……確かに面白い相手だ」


 1時間後、寮にやって来た二階堂に事情を説明し、ヴォルグさんの動画を見せた。


佐藤「やってくれるか?」

二階堂「ふん、まあ今回は相手が相手だ。お前の策に乗ってやる」

佐藤「そうか……ありがとう」

二階堂「礼を言うなら争奪戦に勝ってからにしろ……それに、わかっているのか?お前が考えたこの策は……」

佐藤「……あぁ、わかってる。この戦法は……『策を練る事自体』僕たちにとっても大きな危険を伴う。正直、通用したとしても勝てる見込みは薄い……」

二階堂「わかっているなら何故……」

佐藤「それでも、まともな勝負に持ち込むにはこれしかない。他に方法はない」

二階堂「ヴォルグ・ザンギエフはそれほどまでに魅力のある相手、という事か……」

佐藤「ああ……全てを賭けるに足る相手だ」

二階堂「フ……承知した。とにかく、戦ってみるだけだな……」

佐藤「ああ……やるだけだ……!」


 よかった……。

 二階堂に断られたら、また手詰まりになるところだった。

二階堂「しかしこの男、争奪戦に参戦するのは今夜が初めてなんだろう?強さは疑うべくもないが、狼の資質はあるのか?」

佐藤「間違いなくある。昨日、腹の虫の加護を得た先輩の蹴りに耐えて見せた。それに……」

二階堂「……?」

佐藤「なんていうか……試合を見ていて思わないか?」

二階堂「…………」

佐藤「ボクサーには僕たち狼では到底及ばない戦いの技術がある。だけど、ヴォルグさんのような強い選手はそれだけじゃない。技術だけが、ヴォルグさんの強さじゃない」

二階堂「技術だけではない……」

佐藤「技術に加えて本能的な力が、強いボクサーにはあるんじゃないかな。腹の虫の力を引き出した僕たちスーパーの狼のような力が、ヴォルグさんには……」

二階堂「……なるほど」

 二階堂はヴォルグさんの動画を見ながら言った。

二階堂「腹の虫の力は食欲を原動力に本能的な……いわば野性の力を引き出すもの。人間の普遍的本能に由来する力なのだから、野蛮な戦いの側面を持つボクシングの世界に身を置くこの男が、同種の力を得ていてもおかしくはな い、か……」

 さしずめ戦いに餓えた狼といったところか、と————

 二階堂はそう結んで、小さく笑った。

二階堂「やはり馬鹿だな、変態」

佐藤「変態言うな」

二階堂「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。この変態」

佐藤「馬鹿と変態は関係ないだろ」

二階堂「いいや、お前は変態で馬鹿だ。そこまでこの男の狼の資質を買っていながら、お前の練った策は技術面の隙につけ込むものだ。スーパーで重要視すべき本能的な強さへの対策ではない。これはつまり————」

佐藤「…………」


 さすがに、察しがいい。


二階堂「——この戦い、俺たちは捨て駒か?」


 痛いところを突いてくる。


佐藤「……お前は僕が敗北を前提に戦うとでも思っているのか?」

二階堂「……思わんよ。お前がそんな男なら、一度でもコンビを組んだりはしない」

佐藤「僕たちはあくまで、ヴォルグさんの『理性』と戦う。そのあとは————」

二階堂「魔女と麗人が、ヴォルグの『野性』と戦う、という訳か……適材適所ではあるがな……お前の描いた絵図の通りに事が運ぶかどうか……」

佐藤「…………」


 ヴォルグさんの理性、技術に対して作戦を練り、実行する。

 これは腹の虫の加護を得ることが最重要とされる争奪戦に於いては、邪道と言っていい戦い方だ。

 本能の赴くままに戦う事こそスーパーの正道。

 よくよく考えてみれば、ヴォルグさんが僕たちを相手に最初からあの獰猛なスタイルで戦う事は考えにくい。

 ヴォルグさんは、体に染み付いた技術で、持ち前の理性で戦おうとするだろう。

 そうさせないため僕は、練り上げた策を、ヴォルグさんから理性の仮面を剥ぎ取るために使うことにした。

 そうする事で、ヴォルグさんを争奪戦の王道に引きずり込む。

 そして僕や二階堂よりも腹の虫の力を引き出す事に長けた槍水先輩と著莪に、その後を託す。

 今回、僕が練った策を実行すれば、僕たち二人はおそらく無事では済まない。

 技術的にも危険地帯に足を踏み入れる事になるし、本気を出したヴォルグさんの最初の相手を務めるリスクがある。

 『僕たちスーパーの狼が』ヴォルグさんとまともに戦えればそれでいい。

 僕一人の力では、ヴォルグさんに満足のいく戦いをさせ てあげる事は不可能だ。

 二階堂を相棒に選んだのは、諜報部隊、ガブリエル・ラチェットの元首領という経歴が、邪道をともにするには最適だと考えたからだった。

 二階堂の古傷を抉るような采配になってしまったのは、 心苦しくはあった。

 しかしヴォルグさんのために最高の争奪戦を用意するなら、先輩や著莪の奔放さを策で縛るのは無粋でしかない。


佐藤「……運ぶさ。ヴォルグさんはおそらく、戦闘開始後しばらくは理性的に戦う。多分、あの人は最初、全力を出せない」

二階堂「? それは何故だ?」

佐藤「ヴォルグさんはボクサーである事に強い誇りを持っている。争奪戦については理解してくれているようだけど、僕たち素人を相手に全力を出す事に最初は躊躇するはずだ」

 ヴォルグさんはまだ、争奪戦をスポーツの試合のように考えている節がある。

 だから————


二階堂「それはまた舐められたものだが……本当にそうなるのか?」

佐藤「なるよ、絶対になる。だから、まずはわからせてやる必要があるんだ」

二階堂「…………」

佐藤「僕たちが本気を出すに相応しい相手だと、一撃くれてやることで……!」

二階堂「そのために……ヴォルグに本気を出させるためにこの策を練ったのか……なら俺たちは捨て駒というより、前座だな」

佐藤「だから、そんなつもりはさらさらないんだってば! 僕たちだって最後まで戦うんだ!」

二階堂「ふん……わかったよ、そういう事にしておいてやる……だが言ったからにはミスは許さん。半値印証時刻までまだ三時間ある。少し動きをシュミレートしておくぞ」

佐藤「ああ……ありがとう、二階堂」


矢部「お前ら……」


 お前ら何と戦ってるんだよ……と怯える矢部君を仮想ヴォルグさんに仕立て、僕たちは時間一杯、作戦の動作を練習した。

 
 決戦の時が迫る。


* * *

* * *


 スーツを動き易い服装に着替えるため、一度寮に戻って来たヴォルグさんと合流した。


 ヴォルグさんは黒のTシャツに、同じく黒のジャージ、スニーカーを身に着けていた。

 思えば昨夜の立ち回り際、ヴォルグさんは足元が革靴だったのだ。

 さらに場所がスーパーのフロア上という悪条件で、あの身のこなし。

 動画を見てヴォルグさんの本気を目の当たりにしていなければ、昨夜よりもさらに、と戦慄しているところだ。

 悪条件を改善し、さらにヴォルグさんは、腕にバンテージを巻いていた。

ヴォルグ『拳を庇ってしまうかラ、素手ではどうしてモ本気を出せないんダ。ボクシング用具は引退した時に整理してしまっテ、これしか手元になくテ』

 との事だった。

 ヴォルグさんは僕が貸したマジックペンで左のバンテー ジに何か文字を書いた。

 英語ではない。

 ロシア語で何か書かれていた。

佐藤『これなんて書いてあるんですか?』

ヴォルグ『僕の名前、ヴォルグ』

佐藤『へぇ……そうやって名前を書くものなんですか?』

ヴォルグ『ン……まあネ。ヨー、右に君の名前を書いて』

佐藤『え?はい、いいですけど……』

ヴォルグ『小さくネ、後でアヤメたちにも書いて貰います』

佐藤『はい……これ、何か意味があるんですか?』

ヴォルグ『……記念、みたいなもノ。エンギが良イ?でス』

佐藤『ふぅん……?』

ヴォルグ『……あレ?ヨーって左利きなノ?』

佐藤『え?ああ、いや両利きなんです。無意識に左で書いてました』

ヴォルグ『へェ、珍しいネ』

佐藤『そうですかね。いつもは書く時は右なんですけど……はい、これでいいですか?カタカナで書きましたけど』

ヴォルグ『……うン、ありがとウ。完璧でス』

佐藤『…………』

 これから戦う相手の名前を拳に刻むというのもおかしな話に思えたが、深くは追求しなかった。


 そして、時刻は18時50分。



 僕たちはホーキマートの弁当コーナー前にいた。
弁 当は3つ売れ残っていた。

ヴォルグ「こレ……この漢字……」

 その内の一つに、ヴォルグさんは目をとめた。

 僕も気づいた。

 おそらくは、ヴォルグさんのファンだというアブラ神の計らいなのだろう。

ヴォルグ「幕ノ内……」

 特製幕ノ内弁当。

 ヴォルグさんのかつてのライバルと、同じ名前の弁当。

 僕としては、というか大半の日本人にとっては、人名としてよりもこちらの方が遥かにポピュラーだ。

 しかしヴォルグさんにとっては、弁当のラベルに表記されているのか意外に感じる文字なのだろう。

著莪「ヴォルグはそれにする?」

ヴォルグ「はイ、これにしまス。それにしても……フフ、 幕ノ内ってお弁当の名前だったノ?」

槍水「というと?」

ヴォルグ「いヤ、僕の現役時代の対戦相手に幕ノ内という名前の選手がいたんダ。対戦相手の名前の漢字は覚えていたかラ……」

白粉「珍しいですよね、幕ノ内さんてお名前」

ヴォルグ「そうなノ?」

槍水「ああ、弁当の名前としての方がよく知られている」

ヴォルグ「へェ、どういう意味なノ?」

槍水「そうだな……弁当名の由来としては諸説あるのだが、芝居の幕間、幕ノ内に客が食べる弁当だから幕ノ内弁当。あるいは役者が幕内に食べるから、という説もあるそうだ」

ヴォルグ「ふぅン……」

槍水「他にも相撲取りの小結、幕内力士に出された弁当だから、とか色々な説があるそうだが……とにかく、この弁当のように俵型のおにぎりを詰め、黒胡麻を散らし、梅干しを乗せ、卵焼き、焼き魚、蒲鉾などのおかずを少しずつ入れた弁当を幕ノ内弁当と呼ぶ。要はシンプルな弁当らしい弁当の総称だな」

佐藤「この弁当は純和風ですけど、洋風のおかずが入っている事もありますよね?」

槍水「その場合は単に洋風幕ノ内弁当と呼ばれる」

ヴォルグ「……このお弁当、いいですネ。ヘルシーだシ」

佐藤「…………」

 やはり、この弁当はアブラ神がヴォルグさんのために作った弁当なのだろう。

 この特製幕ノ内弁当は、スーパーやコンビニで売られているものとしては、あまりにも華がない。

 黒胡麻をまぶした俵型おにぎり、その上に梅干しが一つ。

 卵焼き、焼き魚、蒲鉾、野菜の煮物。

 良く言えばシンプルで、悪く言えば地味な弁当。

 しかしヴォルグさんの言う通り、ヘルシーではある。

 それは節制の必要があるヴォルグさんへの、アブラ神の気遣いなのだろう。

 洋風のおかずも、揚げ物もまったく入っていない、純正の幕ノ内弁当。

 ヴォルグさんのための『特製』幕ノ内弁当。

 そして、この弁当が今夜の————

槍水「私も特製幕ノ内弁当狙いだ」

著莪「私もー」

二階堂「俺もだ」

 僕たちの、獲物。

佐藤「……僕は、今夜は先輩と著莪のサポートに回ります」

白粉「私は、別のを狙います」

 HP同好会には会員同士の交戦を禁じる決まりがある。

 先輩が幕ノ内狙いなら、僕がヴォルグさんと戦うには弁 当を狙うのではなく、会員の先輩を援護する形を取る必要があった。

 他の弁当を狙ってヴォルグさんと戦ってもよかったが、 同じ弁当を意識して戦いたい気持ちが強かった。

 白粉は戦闘には参加しないため、今夜の戦いは僕たち5 人による幕ノ内弁当争奪戦になる。

佐藤「…………」

 ……いや、そう簡単にはいかないかもしれない。

 この幕ノ内弁当はおそらく、月桂冠になる。

 争奪戦を考慮し、狼のための弁当を作る事もあるアブラ神が特定の人物のために作った弁当なのだ。

 その可能性は高い。

 そうなれば、今宵スーパーに集った名も知らぬ狼たちが、この弁当に殺到する事になる。

 今夜の争奪戦は荒れる。

 ヴォルグさんがいる事もあり、かなりの激戦が予想された。

ヴォルグ「槍水、昨夜の借りは返すヨ」

槍水「こちらも、一夜限りの参戦で勝ち逃げなどさせない」

著莪「ほいじゃあ、あとは待つだけだな」

 
 僕たちは弁当コーナー前を離れ、適当な棚の前に移動した。


佐藤「先輩」

 ヴォルグさんと離れた位置で半値印証時刻を待つ間、先輩に声をかけた。

槍水「なんだ?」

佐藤「初手は僕と二階堂に任せて貰えませんか?考えがあるんです」

槍水「……わかった」

 先輩は、意外なほどあっさりと了承してくれた。

佐藤「いいんですか?」

槍水「構わん。弁当の奪取がなにより大事だが、今夜はヴォルグと戦えなければ意味がない。先に周りの雑魚を掃除する必要があるとは思っていた」

著莪「それじゃ、あたしも最初は仙の手伝いだね」

佐藤「著莪も、すまん」

二階堂「二人が他の狼の相手をしている間、例の策を実行するという訳か……」

著莪「なに考えてんのか知らんけど、貸し一つだぞ、佐藤」

佐藤「覚えておくよ。ありがとう」

二階堂「……時間だぞ」



 バタンッ



アブラ神「…………」



 二階堂が呟くのと同時に、バックヤードの扉が開いた。

 アブラ神は惣菜コーナーで売れ残りを並べ直し、割引シールを貼っていく。

アブラ神「…………」



 続いて弁当コーナーへ。

 惣菜コーナーと同様の作業を繰り返し————


アブラ神「…………」ペタッ



 特製幕ノ内弁当に、月桂冠のシールを貼った。



アブラ神「…………」



 立ち上がり、バックヤードへ引き返すアブラ神。



アブラ神「…………」



 バタンッ



 開幕。


佐藤・二階堂「「ッ!!」」ダッ!

槍水「————ッ!」ダッ!

著莪「っし!」ダッ!


 僕たちは、一斉に駆け出した。


ヴォルグ「————ッ!」ギュンッ!


 ヴォルグさんも別の列から飛び出す。

 背後には他の狼たちを引き連れている。

 その数、10人以上。

 ケージから出走する競走馬のように、棚の間から次々と駆け出してくる。

 予想を遥かに超える狼の群れ。

 ヴォルグさんはその先頭を駆けていた。

狼A「は!速……!」

狼B「くっ……!?」

狼C「ちょ……!」


ヴォルグ「————」グンッ!


佐藤「…………!」

二階堂「想像以上だ……!」


 他の狼たちの足も決して遅くはないが、ヴォルグさんはトップスピードに持って行く速さが桁違いだ。

 そのまま狼たちを置き去りにし————


ヴォルグ「ッ!」キュキュッ!


佐藤・二階堂「「————!!」」ザッ!

槍水「ふん……」キュッ

著莪「ははっ……!」


 ヴォルグさんは弁当コーナーに辿り着いた。

 こればかりはどうしようもない。

 段違いの脚力、瞬発力による一番乗り。

 しかし、ヴォルグさんは————


ヴォルグ「…………」グッ!


 当然のように、弁当コーナーに背を向けた。

 まるで弁当の奪取を目指す僕たちの、壁になるように。

 僕たちは足を止めた。

狼A「…………」

   狼B「…………」

     狼C「…………」
       
        狼D「…………」

          狼E「…………」

           狼F「…………」

            狼G「…………」


             佐藤「…………」

            二階堂「…………」

ヴォルグ「……みなさン」  槍水「…………」

             著莪「…………」

             白粉「…………」


            狼H「…………」

           狼I「…………」
        
         狼J「…………」

       狼K「…………」

     狼L「…………」

狼 M「…………」

狼N「…………」


 15人以上の狼がヴォルグさんを取り囲む。

 ヴォルグさんは不敵に笑い、口を開いた。

ヴォルグ「はじめましテ。ヴォルグ・ザンギエフといいま ス」



佐藤「!?」

二階堂「何を……?」

槍水「…………ふん」

著莪「マメだねぇ」


 突然、自己紹介を始めたヴォルグさん。

 狼たちは意図を掴めず、息を飲んだ。



ヴォルグ「ホワイト・ファング、北欧の狼と呼ばれていま ス……」ス……


 
 ヴォルグさんは両足を揃え、拳を腰だめに構えた。



ヴォルグ「どうぞよろしク……」グッ



 争奪戦は既に始まっているというのに、誰も動かない。

 いや、動けない。

 口では呑気に挨拶をしながら、構えたヴォルグさんの放つ殺気はやはり凄まじい。

 このあたりはスポーツ選手ならではといったところか。

 ヴォルグさんはONとOFFの切り替えが露骨すぎる。



ヴォルグ「……どうしたノ?」


 沈黙を埋めるホーキマートのテーマソング。


ヴォルグ「かかってきなさイ……お弁当、獲っちゃうヨ?」


狼A「くっ……!」

狼B「こいつ……!」

狼C「……ッ!」


 誰もが身構えたまま動けずにいた。

 一番手を務める事に躊躇しているのだ。

 この状況で突出し乱戦開始のきっかけを作るより、誰かが始めた乱戦に後乗りした方が有利だという計算があるのだろう。

 狼なら当然の思考。

 特に卑怯だとも思わない。

 ただ、この人は————


槍水「佐藤」

 槍水先輩は、そんなまどろっこしい事は考えない。

佐藤「……はい」


 先輩は腕を組み、苛立たしげにブーツの爪先でフロアを叩いていた。

 おそらく、今すぐにでもヴォルグさんに飛び掛かりたいが、初手を任せろと言った僕の手前それができず、苛ついているのだ。

 であれば、先輩の次の言葉は簡単に予想できた。

 僕としても、それしかないと考えていた。


槍水「行け。私の分は残しておけよ」

佐藤「はいッ!!」

二階堂「それしかないか……!」

 
 誰かが……僕たちが動けば、場も動き出す!


著莪「私が左、仙が右だね」ダッ!

槍水「ああ。佐藤、何人かは抜けてくると思え」ダッ!

佐藤「はい!」


 著莪と先輩が、ヴォルグさんの両サイドの狼のに向かって駆け出した。


佐藤「行くぞ二階堂!」ダッ!

二階堂「応!」ダッ!


 僕と二階堂は真っ直ぐヴォルグさんに向かって突進した。

狼D「!」ダッ!

狼E「! ッよし!」ダッ!

狼F「ッ!」


 周囲の狼たちは、突っ込んでくる先輩と著莪を迎え撃つ者、《氷結の魔女》《湖の麗人》との交戦を避け一か八かでヴォルグさんに仕掛ける者に分かれた。


ヴォルグ「シッ!」ヒュンッ

 バチィッッ!

狼M「!」


 ヴォルグさんが左から迫った狼の顔面に、下手から払うようにジャブを放つ。

 傍目には軽く振るったように見えたパンチだったが、その炸裂音は凄まじい。

 まるでコンクリートの壁を鞭で叩いたような音が売り場に響き渡る。

 貰った狼は体を硬直させ前進を止めた。


二階堂「厄介な……!」

佐藤「ああ……あの構えは……!」

二階堂「ボクサーなりに乱戦への対策を考えていたか……」

佐藤「まずはあの構えを崩さないと……」


 ヴォルグさんは両足を互い違いにするいつものアップライトスタイルではなく、野球の野手のような、足を揃え ガードを下げた構えをとっていた。

 関連動画にあった、幕ノ内の別の対戦相手、冴木卓麻の構え。

 二階堂の言う通り、ボクシングの構えの中では比較的一対多数の戦いに適した構えだ。

 視野を広く持ち全方位からの攻撃に対応するため、あの構えを選んだのだろう。

 弁当コーナーを背負ったのは、後方から攻撃される憂いを断ち、警戒範囲を前方と左右に限定する狙い。

 ヴォルグさんも無策ではない。

 ボクシングしか知らな い己の不利を、よく自覚している。


ヴォルグ「ッ!」ビュッ!

 バガッ!

狼M「がっ!?」ガクンッ!


 ジャブからの左フック。

 左のダブル。

 たったの二発で狼が一人倒された。

二階堂「くっ!」ダッ!

佐藤「………ッ!」ダッ!

狼G「————ッ!」ダッ!

狼N「ッ!」ダッ!

 僕と二階堂の動きに何人かの狼が呼応する。

 一人で突っ込んでも勝ち目はないと踏んだのだろう。


ヴォルグ「!」キュッ


 足を揃えたまま体を斜にするヴォルグさん。


佐藤「おおッ!」

二階堂「ッ!」
          グオッ!!
狼G「————ッ!」

狼N「だあッ!」


 四人一斉に飛び掛かる。


ヴォルグ「…………」ヒュヒュンッ

 パチバチバチバチィッッ!!

佐藤「っ!?」

ニ階堂「!!」

狼G「!??!?」

狼D「!!?」


 ヴォルグさんの左ジャブ四連打。

 僕たち四人は揃って足を止めた。


佐藤「〜〜〜〜ッ!?」ビリビリ

 先ほど倒された狼の気持ちがわかる。
 
 ヴォルグさんのパンチは速すぎる。

 一瞬何をされたのかわからず、体が反射的に硬直してしまう。


ヴォルグ「————ッ」キュキュッ

狼G「!!」


 最も動揺の大きい狼にヴォルグさんが迫る。


ヴォルグ「シッ!」ヒュバッ!

 ガコッ!!

狼G「っ!?」ガクンッ

 ドサリッ

 一人、脱落。

 右を一閃……!

 あまりにも簡単すぎる……!

佐藤「くっ!」ザッ!

二階堂「……ッ!」ザッ!

狼N「マジかよ……!」タッ!


 僕と二階堂は左右に別れ間合いを詰めた。

 名も知らぬ狼も、一歩遅れて続く。


ヴォルグ「…………」キュッ

 
 ヴォルグさんは再び冴木の構え。


佐藤「…………ッ!」ブオッ!

二階堂「…………く!」ブオッ!


 挟み打っているのに————


ヴォルグ「…………」ヒュオッ!


 この、プレッシャーは!


 バチッ!

佐藤「がっ!?」

 バチィッ!

二階堂「ぐっ!!」


 僕に左。

 二階堂に右。

 同時に仕掛けた僕たちを難なく迎撃。


佐藤「くお……!」ズザッ

 両足を揃えたこの構えでは、パンチにそれ程体重は乗らない。

 それでも反応できないハンドスピードに動きを止めてしまう。


ヴォルグ「…………」キュキュッ


 ヴォルグさんは戦闘中距離の開いた弁当コーナーへバックステップを踏んだ。

 ピタリと弁当コーナーを背後に、ヴォルグさんは動かない。

 あくまでも弁当コーナーを背にする戦法を堅持するつもりか……!

佐藤「ッ!」ダッ!

二階堂「佐藤!」


 このままでは埒があかない!

 僕たちの策は……!

 あの『技』はいつものヴォルグさんのスタイルでなければ————!


佐藤「おおッ!」ブオッ!

 精一杯の速度で右フックを振るう。

ヴォルグ「…………」キュッ


佐藤「!」


 しかし————

 弁当コーナー前で迎撃の構えを崩さずにいたヴォルグさんは、あっさりとその場を明け渡すように、フックを躱しざま右にサイドステップを踏んだ。


佐藤「あ————」


 フリーになった弁当コーナーが目の前に。

 スーパーの狼の本能で、思わず弁当に手を伸ばしかける。

 しかしフックを空振りした事でバランスを崩し、弁当コーナーの脇に体が大きく流れ、手は届かない。

 危ない。

 反射的に弁当を獲り、勝ち抜けてしまうところだった————

佐藤「————!」ハッ!


ヴォルグ「————」キュッ!


 フリーになった弁当コーナーを挟み————


佐藤「————!?」ゾクリッ


 サイドに迫るヴォルグさん。

 背筋が凍る。

 まさか————


狼N「! うおおっ!!」バッ!


 ヴォルグさんの真の狙いは————


ヴォルグ「…………」ヒュオッ!

 チッ

狼N「!? ッ————」


 弁当コーナーを背に迎撃態勢を取る事ではなく————


狼N「——…………」ガクンッ


 僕たちが、弁当を奪取しようとするその一瞬を狙った…………!

 
 ドサリッ

佐藤「な……あ……!」


 カウンター……!

 弁当に意識を向けた者を横合いから射抜く……!


ヴォルグ「————ッ」キュッ!


佐藤「!!」バッ!


 間合いを詰めてくるヴォルグさん。

 僕は慌ててバックステップを踏んだ。


佐藤「〜〜〜〜ッ!?」ザッ!

二階堂「佐藤!」

佐藤「二階堂……!あの人は……!」

二階堂「ああ……こちらが思っている以上に狼だ……!」


狼N「…………」


佐藤「…………」ゴクリッ

 倒れた狼を見詰める。

 僕が右フックを躱され体が流れ、弁当コーナーがフリーになった隙にあの狼が飛び込んで来なければ、今頃あそこで倒れているのは僕の方だった。

 まず弁当コーナー前のポジションを堅持すると見せかけ、相手の突進と同時に無防備にポジションを明け渡し、サイドから————

 相手が弁当に気を取られた瞬間、意識の外から放たれるカウンター。

 これが、ヴォルグさんの今夜の隠し玉……!

 狼なら、弁当を奪取する瞬間に大きな隙ができやすい事は誰もが知っている。

 しかし本格的な参戦は今夜が初めてのヴォルグさんがそこに目をつけるとは……!

 そして何より、その一瞬を捉える技量……!

 わかっていても実行できるものではない。

 そう簡単に実現するものではない。

 この————


狼N「…………」


 弁当に手を伸ばしたまま失神した、狼の姿は!

ヴォルグ「…………」キュッ!


 ヴォルグさんは再び弁当コーナー前に。

 失神した狼を間に挟む事で、ピタリと弁当コーナーに張り付くポジションは取れなくなっている。

 しかしむしろ、弁当コーナーに飛び込む隙が増えた事で、ヴォルグさんがあのカウンターを放つ隙もまた増えている。

 僕たち狼の最大の目標である弁当コーナーが、最大の危険地帯と化していた。


佐藤「くっ……!」

二階堂「スーパーにおける究極のカウンターといったところか……どう崩す?」

 ヴォルグさんはこちらが思っている以上に争奪戦を理解している。

 決められたルールの上で相手をやり込める頭脳もまた、スポーツ選手ならではという事……!

 予定通りと言えなくもないが、僕たちはやはりヴォルグさんの理性と対峙している。

 ただし手を抜くための理性ではなく、知略を尽くすための理性と!

 それならば……!

佐藤「やることは変わらない。ニ対一の状況は好都合だ。今度はこちらが仕掛ける……!」

二階堂「左右から同時に仕掛けるのはやめだ。それではあの構えを崩せない。一人ずつ行くしかないぞ」

佐藤「ああ……!僕から行く。なんとか合わせてくれ……!」

二階堂「任せろ、倒されるなよ?」

佐藤「ああ!」ダッ!


 僕はヴォルグさんに向かって突進した。

 僕たちが先ほど練った策は、両足を揃える冴木の構えが相手では使えない。

 ヴォルグさんのいつもの構え、アップライトスタイルでなければ作用しない。

 多方向からの同時攻撃を想定した冴木の構えを解かせるには、一人で正面から仕掛け、ヴォルグさんの攻撃を凌ぎ、アップライトスタイルを引き出すしかない。

佐藤「————ッ!!」ダンッ!

 頭を抱えるようにガードを固め、僕はヴォルグさんの射程距離に飛び込んだ。


ヴォルグ「…………」ヒュバババッ!

 バチバチバチィッッ!!

佐藤「ぐっ!」


 ガードの上をヴォルグさんのジャブが叩く。


ヴォルグ「…………」ヒュヒュンッ!

 バチッバチィッ!

佐藤「……!」


 くっ……!

 足が前に出せない……!

 速すぎ————


ヴォルグ「————ッ」ブオッ!

 ドムンッ!

佐藤「——る!?」


 ボ、ボディ……!

 だっ駄目だ!

 ガードを下げては!

 このボディは————


ヴォルグ「ッ!」ブオッ!

 ボグンッ!

佐藤「がはッ!?」


 ガードを下げさせるためのボディ!


ヴォルグ「…………」ヒュヒュンッ!ブオッ!

 バチバチンッ!
     ドゴンッ!!

佐藤「〜〜〜〜ッ!?」


 上にニつ。

 下に一つ……!


佐藤「う……げぇ……!」


 だ、駄目だ……!

 耐えろ!ガードを下げたらやられる!

 頭を、顎を晒せば一瞬で————!

ヴォルグ「ふッ!」ブオッブオンッ!

 ゴゴンッ!!

佐藤「…………ッ!!」ギリッ


 下なら耐えられる!

 耐えろ!

 耐えて!!


佐藤「うッ————おおおオッ!」ギュンッ!


ヴォルグ「!?」


 踏み込め!!

 手を出せ!!

 戦え!!


佐藤「ぬぅッッあアッ!!」ブオッ!

 ドゴンッッ!!

ヴォルグ「……!」ザザッ!


 ガードの上を叩く。

 『ガードの上』を。

 後ずさり、ブレーキをかけたヴォルグさんの足は互い違いになっていた。

 冴木の構えが崩れた。

 あと少し!


佐藤「おおッッ!」グアッ!

ヴォルグ「……!」サッ


 構えた!


佐藤「だあッッ!!」ブオッ!ブオッ!ブオンッ!

ヴォルグ「……!!」ササッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「う……!?」ザザッ!


 フォームも何もない無茶苦茶なパンチを振り回す。

 その内の一つがガードの上を捉えた。

 ラフな攻撃にガードを上げ、ヴォルグさんは冴木の構えを完全に捨て、腰高に構えるアップライトスタイルになっていた。

 一対一を想定した、ボクシングの構え。

 
 ここだ!


佐藤「ああッ!」ブンッ!


 僕は必死に腕を振るうフリをして、足の左右を入れ替えた。

 サウスポーにスウィッチした。

 そのまま腕を振り回す。


佐藤「だあッッ!」ブンッ!ブンッ!

ヴォルグ「くっ……!?」サッサッ

佐藤「ッッ!!」ブンッ!

ヴォルグ「!!」ピクリ

佐藤「であッ!!」ブンッ!

ヴォルグ「…………!」ピクリ


 反応は露骨だった。

 僕のラフなパンチを躱しながら、ヴォルグさんはいきなりの右を打つ素振りを何度か見せた。

 タイミングを測っている。

 体に染み付いたサウスポー対策の右ストレートを出すタイミングを。


佐藤「ッッ!」ブオッ!

ヴォルグ「!」シュッ!

 スパァンッ!

佐藤「————ッ!」


 来た!

 僕の左のスウィングに、右のショートストレートを合わせた。

佐藤「くッお!」ブオッ!

 続けて右を振る。

ヴォルグ「————!」サッ!キュキュッ!


 ヴォルグさんは右を躱し、僕の右腕、右足の外側に回り込んだ。

 ヴォルグさんが長年のトレーニング、実戦経験で身に着けた、対サウスポーの定石。

 左に右のショート合わせ、相手の右アウトサイドに回り込んで左フック。

 唯一、僕が規則性を見い出せたヴォルグさんの戦闘パターン。


佐藤「————」キュッ


 ここで再びスウィッチ。

 オーソドックスに戻し、ヴォルグさんを懐に捉える。


ヴォルグ「!?」キュッ!


 一瞬、体の動きを止めるヴォルグさん。

 その隙に————


二階堂「————ッ!」キュキュッ!

ヴォルグ「!!」


 サウスポーにスウィッチした二階堂が、ヴォルグさんを挟み込んだ。


 オーソドックスの僕と、サウスポーの二階堂。


 二人の懐に、ヴォルグさんを囲い込む。


 スウィッチした僕から間合いを取ろうとしていたヴォル グさんの動きが固まる。


佐藤・二階堂「「!!」」


 千載一遇————!!


佐藤「おお!」
 ブオッ!

ヴォルグ「!?」

 オンッ!!
二階堂「おおッ!!」


 急造必殺———!!


佐藤「あッ!!」

 バキッ
ヴォルグ「がッ!?」
   キンッ!!

二階堂「ッッッ!!」

 
 ツードッグス・ファング!!


* * *

* * *


ヴォルグ「ぐ————!?」ガクンッ


佐藤・二階堂「「……!!」」


 ヴォルグさんは対サウスポー時のみ、型に嵌った動作を繰り返す。

 戦闘パターンが一定になり、動きを読みやすくなる。

 まずはオーソドックススタイルのヴォルグさんに対し、サウスポーにスウィッチする必要があった。

 しかしあまり露骨にスウィッチしては何かあると警戒されてしまう。

 そのため僕は————


ヴォルグ『……あレ?ヨーって左利きなノ?』

佐藤『え?ああ、いや両利きなんです。無意識に左で書いてました』

ヴォルグ『へェ、珍しいネ』

佐藤『そうですかね。いつもは書く時は右なんですけど……はい、これでいいですか?カタカナで書きましたけど』


 あの時、咄嗟に嘘をついた。

 僕は右利きだ。

 カタカナで書いたのは慣れない左手での筆記だったからだ。

 ヴォルグさんが僕のスウィッチに抱く違和感を、少しでも軽減できればと考えていた。

 がむしゃらに腕を振り回すうち、意図せず構えが左右逆になったように装い、僕はヴォルグさんのサウスポー対策を引き出した。

 そして、ヴォルグさんがサウスポーの僕のアウトサイドに回り込んだところで、もう一度スウィッチ。

 オーソドックスに構えを戻す。

 ヴォルグさんを懐に、インサイドに捉える。

当然、それだけでは対応される。

スウィッチに動揺したとしても、単なるオーソドックス の素人を叩きのめせばそれで済む話。

そうさせないための二階堂とのコンビネーション。

オーソドックスの僕が懐に捉えたヴォルグさんを、さら にサウスポーにスウィッチした二階堂が、ヴォルグさんの アウトサイドから囲い込む。

僕のアウトサイドに回り込んだつもりのヴォルグさん。

そのアウトサイドを、二階堂が奪う。

僕のインサイドに、ヴォルグさんを閉じ込める事にな る。

僕から間合いを取るべきか、二階堂のサウスポースタイ ルに対応するべきか。

どんなに優れたボクサーでも一度に二つの事はできな い。

一対一の戦いを想定した構えと技術を、右の僕と左の二 階堂、どちらに先に行使すべきか。

ボクサー、ヴォルグ・ザンギエフは迷ったはずだ。

そこに生まれる一瞬の隙を狙い————

ヴォルグさんをインサイドに捉えた僕は左のフックを顔 面に。

ヴォルグさんのアウトサイドを制した二階堂は右のボ ディアッパーを突き上げる。

これぞ粗製連携『ツードッグス・ファング』

僕たちの、急造の牙。

ミス
訂正

 当然、それだけでは対応される。

 スウィッチに動揺したとしても、ヴォルグさんとしては単なるオーソドックスの素人を叩きのめせばそれで済む話。

 そうさせないための二階堂とのコンビネーション。

 オーソドックスの僕が懐に捉えたヴォルグさんを、さらにサウスポーにスウィッチした二階堂が、ヴォルグさんをアウトサイドから囲い込む。

 僕のアウトサイドに回り込んだつもりのヴォルグさん。

 そのアウトサイドを、二階堂が奪う。

 僕のインサイドに、ヴォルグさんを閉じ込める事になる。

 僕から間合いを取るべきか、二階堂のサウスポースタイルに対応するべきか。

 どんなに優れたボクサーでも一度に二つの事はできない。

 一対一の戦いを想定した構えと技術を、右の僕と左の二階堂、どちらに先に行使すべきか。

 
 ボクサー、ヴォルグ・ザンギエフは迷ったはずだ。


 そこに生まれる一瞬の隙を狙い————


 ヴォルグさんをインサイドに捉えた僕は左のフックを顔面に。

 ヴォルグさんのアウトサイドを制した二階堂は右のボディアッパーを突き上げる。


 これぞ粗製連携『ツードッグス・ファング』


 僕たちの、急造の牙。


ヴォルグ「が……!?」グラッ


佐藤「! 二階堂!!」

二階堂「わかってる!」


 ボディと顔面をほぼ同時に、完璧に捉えた。

 ヴォルグさんは腰を落とし後退した。

 ここを逃す手はない!


佐藤「はあッ!!」ブオッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「げはっ!」ズザッ


 左ボディ。


二階堂「ふッ!」ブオッ!

 バガンッ!

ヴォルグ「ぐっ!?」ザザッ!


 右フック。


佐藤・二階堂「「でぇぇあッ!!」」ブオッ!

 ゴゴンッ!!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!?」ガクンッ


 右と左のストレート。


ヴォルグ「ぐっ……あ!?」ドサリッ


 ヴォルグさんは尻餅をつくようにダウンした。

 ダメージは与えたはずだが、それほど深いものではない。

 これは意表を突かれた連撃にバランスを崩したダウン。

 それでも予想以上の成果と言えた。

二階堂「————!」ダッ!

佐藤「! 二階堂!」


 倒れたヴォルグさんに二階堂は追撃を掛ける。

 これはボクシングではない。

 相手がダウンしたからといって戦いは止まらない。


佐藤「くっ!」ダッ!


 しかしヴォルグさんは打ち込んだ後が怖い。

 今飛び込むのは愚策でしかない。

 先程の打ち合わせの際、二階堂は言っていた。



二階堂『しかしまあ……この策が成功した場合…………そのまま、倒してしまっても構わんのだろう?』



 あの時は言い出せなかったけど……!


佐藤「————ッ!」


 不吉すぎるぞ二階堂!


二階堂「うおおッ!」グオッ!


 死ぬ気か二階堂!!


ヴォルグ「…………」タッ


佐藤「!」


 二階堂が右を振りかぶり、それを見たヴォルグさんがフロアに片膝を立てた。

 やはりダメージは浅い。

 いや、深くとも、ボクサーはそこからの立ち直りの速さが違う。


ヴォルグ「…………」ギンッ


佐藤「二階堂!」


 ヴォルグさんの眼は死んでいない!

二階堂「〜〜〜〜ッ!!」ブオッ!

ヴォルグ「————ッ」グンッ!

 バキンッ!

二階堂「がっ……!?」


佐藤「〜〜〜〜!!」


 二階堂の打ち下ろしの右はヴォルグさんの右肩の上を虚しく通過した。

 対するヴォルグさんの、伸び上がるように放った右アッパーが二階堂の顔面を捉えた。

 フロアに片膝をついた状態から、カエルが飛び跳ねるような不格好なアッパー。

 見た目はともかく、ものの見事にカウンターで決まってしまった。


二階堂「————……」ガクンッ

 ドサリッ


ヴォルグ「————ッ!」ダッ!

佐藤「!」


 倒れる二階堂。

 ヴォルグさんは間髪入れず僕に向かって突進。


ヴォルグ「————!」キュキュッ!

佐藤「!?」


 あっという間に間合いを詰められる。

 先程より体勢が低い。

 距離が近い。ヴォルグさんの頭が、僕のすぐ鼻先に迫る。

佐藤「くっ!」バッ!

 
 咄嗟にバックステップ。

 しかし————


ヴォルグ「ふッ!」ブオッ!

 ボグンッ!

佐藤「が————!?」


 間に合わない。

 ヴォルグさんの左ボディアッパーが、僕の脇腹を捉えた。


佐藤「あ————ぐっ……!」


 足が止まる。

 上体が前に折れる。

 反射的に腕で腹を庇ってしまう。


ヴォルグ「シッ!」ブンッ!

 バガンッ!

佐藤「!?」ガクンッ


 当然、ヴォルグさんは上に右を返す。

 膝が落ちる。

 なんとか意識は繋ぎ止めたが、体から急速に力が抜けていく。

ヴォルグ「————ッ!」シュッ!

 ドッ!
  ドゴンッ!

佐藤「がはッッ!!」


 右ボディストレート。

 左のサイドボディ。


ヴォルグ「ッッ!」シュッ!シュバッ!

 パパンッ!
  バグンッ!

佐藤「————ッ?!!」


 左ジャブを二つ。

 右ストレート。


佐藤「う……く……!」


 容赦がない。

 なくなっている。

 ただ空いた隙を獰猛に狙い打つスタイルに切り替わっている。

 狙い通り、ヴォルグさんを本能の土俵に引き摺り下ろす事には成功した。


佐藤「ぐはっ……!」グラッ


 昨夜先輩が実践した通り、ヴォルグさんはダメージを受けるとスイッチが切り替わる。

 怜悧なボクサーから、冷徹なファイターに。

 現役時代の試合ですら、そういった場面は見られた。

 技巧を駆使し冷静に戦っていたかと思えば、一発貰った瞬間、相手がラフに仕掛けた瞬間、まったく別の顔を覗かせる。

 理性を捨て、体に染み付いたボクシングの攻撃技術を、内に眠る野性とともに行使するこの姿。

 これこそがヴォルグ・ザンギエフの真の姿。

 そしてこれこそが、策を実行するリスク。

 理性を剥ぎ取る役目を担うという事は、ヴォルグさんの本性と最初に向き合う事を意味する。

 策が成功すれば————

 成功しても————

ヴォルグ「シッ!」ヒュオッ!

 スパァンッ!

佐藤「————」


 そのまま、僕たちはヴォルグさんの猛攻に晒される。

 『策を練り、実行する』という事は————

 弁当ではなくヴォルグさんを強く意識した状態で……腹の虫の力が微弱な状態でヴォルグさんの本性と戦う事になる。

 二階堂は捨て駒、前座と言っていた。

 その通り、まさしく僕たちは前座にすぎない。

 だが、それならば————


佐藤「————ッ」ググッ



槍水「はあッッ!」

 ドゴンッ!

狼A「ぐはっ!?」




著莪「フッ!」

 ガキャッ!

狼J「がはッ!」



佐藤「————ッッ!」ギリッ


 著莪と先輩が他の狼を片付けるまでは。

 本命の二人がヴォルグさんの前に立つまでは……!


ヴォルグ「————ッ」ブオッ!

佐藤「————ッッ!!」ブオッ!


 この戦いは、僕の戦いだ!


 ゴキャッ! ドゴンッ!


ヴォルグ「むッ……!」ビリビリ

佐藤「がはッッ……!」グラッ

 ヴォルグさんの左ボディに左フックを合わせた。

 相打ち狙いだったが、やはり相手の方が速い。

 もう何度ボディを叩かれたかわからない。

 ただでさえ微弱な腹の虫の力が減退していく。


佐藤「ッッだあっ!!」ブオッ!


 限界は近い。


ヴォルグ「————ッ!」ブオッ!


 ガキンッ! バグンッ!


ヴォルグ「っ!」

佐藤「ハァッ!ハァッ!————っぬ!」


 振り絞れ!


佐藤「ああッ!!」グオッ!

 バガンッ!

ヴォルグ「————!?」ズザッ!


 ガードの上。


佐藤「あああッ!」ブオッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「!!」ザッ!

 
 ガードの上!

 構うものか!


佐藤「ああああアッッ!!」グオッ!


 叩き割るまでだ!

 
 バガッ ガンッ!!


ヴォルグ「ぶはッ!?」ザッ!


 抜いた!


佐藤「————ッッ!!」バッ!


 もう一発————!!


ヴォルグ「————」ギラッ


佐藤「!」


ヴォルグ「————」キュキュッ!

佐藤「! しまっ————」


ヴォルグ「————」グオッ!


 狼の牙————


佐藤「〜〜〜〜ッ!?」バッ!


 ホワイト・ファング!


ヴォルグ「————」ヒュオッ!


 バキッ————!


佐藤「!?!!!」


 下顎のロック。が間に合う。

 しかし————


ヴォルグ「————」グアッ!


 右の打ち下ろし。

 上顎が————!!


???「ふんッッ!」ブアッ!

 ガカッ!!

ヴォルグ「!?」


佐藤「あ————」


 上顎が、横合いからの蹴りで撃ち落とされた。


佐藤「せ、先輩……」

槍水「遅くなった」

ヴォルグ「…………」


 槍水先輩だった。

 狼たちを片付けて————

佐藤「く————あ……」フラッ


 安心感に、体から力が抜け落ちる。


槍水「よくやった。後は任せろ」


佐藤「は……い……」フラッ


 意図せず、僕は数歩後退した。

 ダメージで、もう自分の体重を支え切れない。


佐藤「…………」ガクンッ

 
 もう駄目だ。

 背中から倒れそうになる。


佐藤「————」グラッ


 その時だった。


???「おっと」ガシッ


 誰かに、体を支えられた。


佐藤「しゃ……著莪……」

著莪「お疲れ。後は任せて休んでな」


 著莪だった。

 著莪も、他の狼たちを……。


佐藤「…………うん」


 これで————



著莪「お待たせ。ヴォルグ」

槍水「さあ、やろうか」


ヴォルグ「ヤリズイ……アヤメ……!」

佐藤「…………」ドサッ


 僕はその場にへたり込んだ。

 これで、今夜の僕の役目は終わり。

 野性を剥き出しにしたヴォルグさん。

 その相手は、この二人こそ相応しい。



槍水「行くぞッッ!!」ダッ!

著莪「あいよッ!」ダッ!


ヴォルグ「————!」グッ!



佐藤「う……あ……」バタン


 僕はそのままフロアに背中を投げ出した。

 たった数分でボロボロにされてしまった。

 もう、立てそうにない。



 ガキンッ! パガンッ! ゴンッ!



 三人が打ち合う音が聞こえる。

 しかしもう、体を起こして戦況を確認する気力もなかった。


佐藤「————……」


 悔いはない。

 やれる事は全てやった。

 後は先輩と著莪が、ヴォルグさんに最高の争奪戦を。


佐藤「…………」


 照明を見上げ、目を細める————

 意識が、遠のいていく。



著莪「はああッ!」バオッ!

槍水「ッッ!!」ブオッ!

ヴォルグ「————ッ!」ヒュオッ!



 ヴォルグさんの一夜限りの争奪戦。

 その、真のゴングが打ち鳴らされた。


* * *

今日は以上です

>>218
いません
すいません
佐藤が日頃戦っているモブ狼の中に左利き一人くらいいるだろーって事で脳内補完してました

* * *


 ヴォルグは回想する。


 来日してまだ間もない頃、プロデビュー前の事。

 所属していた音羽ジムの会長から、人気を得るため観客にアピールしやすいファイトスタイルへの改造を打診された。

 ラムダコーチは特に難色を示す事なく了承し、ファイター型へのモデルチェンジを即断した。

 ヴォルグとしては客を呼べるボクサーを目指す事に異論はなかったが、コーチの迷いの無さは意外だった。

 旧ソ連時代からアマチュアボクシングに携わり、打たせずに打つ科学的ボクシングの追求に人生を捧げてきたラムダコーチは、自身のボクシング理論に絶対の自信を持っていた。

 ヴォルグとラムダが共に歩んだ十数年のアマチュアキャリアは、ヴォルグという優れたアスリートの躍進の歴史であると同時に、ラムダのボクシング理論を証明する歴史でもあった。

 その誇りと技術的な蓄積を、金のために捨てろという会長の言葉。

 自分はともかく、ラムダにとっては受け入れ難い提案のはずだと、ヴォルグは思った。

 しかし意外にも、ラムダは素直に受け入れた。

 元々、トレーナーとして柔軟な対応力を持った人物ではある。

 だがラムダは、自分のボクシング理論に自信と誇りを持つ頑固な一面も持ち合わせているはずだった。

 興行的な理由でファイトスタイルの改造に着手するなど、彼らしくもない。

 ヴォルグはファイター型への改造に納得しながらも、ラムダの素直さに違和感を覚えた。

 とはいえ、その時はそれだけだった。

 違和感は、ふと脳裏をよぎった一時的なものに過ぎなかった。

 慌ただしいデビューまでの行程、厳しいトレーニングをこなす内、ヴォルグは余計な事を考えなくなっていた。

 ラムダにとっても人生を賭けた来日なのだから、プロ仕 様への調整が念頭にあってもおかしくはない。

 日本には叩き上げのプロが多い。

 ラムダの決断はラフファイトに潰されず打ち勝つための方策なのだろうと解釈し、ヴォルグの中の違和感はやがて霧散していった。

 ラムダの決断。

 ヴォルグがその真意に気づいたのは、数ヶ月後のデビュー戦の後だった。

 後楽園ホールでのデビュー戦。

 相手はスポーツ選手というより、格闘家としての側面を磨いてきた生粋のプロボクサー。

 最初は戦い慣れた来日以前のスタイルで戦った。

 ラムダは何も言わず、黙って戦況を見守っていた。

 ボクシングでは敵わないと見た相手がラフに仕掛けた瞬間、ヴォルグは練習の成果を試す時が来たと判断した。

 クラウチングスタイルによるインファイト。

 結果は3度のダウンを奪ってのKO勝ち。

しかしヴォルグの感覚としては、内容は散々なものに思えた。

 ヘッドギア無し、サイズの小さいグローブ。

 プロの戦いに慣れていない事もあったが、あまりにも被弾が多すぎた。

 ハイテンポな接近戦に余裕を無くし、ただがむしゃらにパンチを振るって相手をなぎ倒した荒っぽい試合。

 派手な勝ち方にジムのスタッフや観客は喜んでくれたが、ヴォルグの自己評価は低かった。

 やはりプロは甘くない。

 接近戦に対する順応もまだまだ足りない。

 このままではいずれ躓く時が来る。

 そんな事を考えてナーバスになっていた。

 しかし翌日、ジムで試合の映像を見て、ヴォルグは愕然とした。

 映像で客観的に見る自分の動きは、試合中の自分の感覚よりも遥かに洗練されたものだった。

 被弾が多いと感じていたのは、ヘッドスリップ、ダッキ ングの際に相手のパンチが頭を掠めていたもので、クリー ンヒットは少なかった。

 がむしゃらに振るっていたつもりのパンチも映像で見ると、綺麗なフォームで正確に急所を打ち抜いていた。

 もっと荒れた試合をしたつもりだった。

 乱打戦の中、たまたま自分のパンチが綺麗に入って勝った試合だと思っていた。

 しかし客観的に見ると、攻撃的なボクシングによるクリーンなノックアウトだった。

 圧倒的な勝利だった。

 映像で見る試合の出来と自身の感覚の乖離に、ヴォルグは困惑した。

 感覚とは裏腹に、映像の中の自分はファイタースタイルが体に馴染みきっているように見えた。

 ラムダは言った。


ラムダ『まさか、これほど嵌るとはね』


 ——やはり君には適正がある。

 ラムダは満足そうに笑みを浮かべた。

 その時だった、ヴォルグがラムダの真意に気づいたのは。

 嵌るとはどういう意味だ。

 適性とは、何の適性なのか。

 決まっている。

 ヴォルグのボクシングが、接近戦に嵌るという意味だ。

 適性とは、ファイターとしての適性だ。

 そして『やはり』という事は。

 ラムダは気づいていたのだ。

 ヴォルグ自身も自覚できずにいた、攻撃的ボクシングへの適性に。

 ファイター型への改造は、会長の言葉を受け入れてのものではなかった。

 おそらくはラムダが当初から予定していた、ヴォルグの育成プランの一部だったのだろう。

 ただ会長の要請とラムダの指導方針が一致していただけだったのだ。


ラムダ『これまでのスタイルと比べると、どうし ても被弾は増える。ボディコンタクトも多くなる。君はラフな試合をしたと反省しているようだが、出来はそう悪くはないよ』


 ラムダは全てを見通していた。

 その後トレーニングを重ね、ファイタースタイルで戦う違和感を払拭していく過程を経て、ヴォルグは自覚していく。

 自分には相手を叩き伏せるこのスタイルが、恐ろしく馴染む。

 ラムダの十年来の指導で体に覚え込ませたボクシングの技術が、無意識の内に自然と機能し、相手の急所に喰らいつく。

 3戦目を戦う頃には、ヴォルグは完全にファイタースタイルをモノにしていた。

 自身の内に眠る野生と、ラムダの科学的ボクシングが溶け合っていく感覚があった。

 敗れはしたが、幕ノ内との戦いでその感覚はより顕著なものになった。

 千堂との戦いでは、彼の野生に自分の中の何かが呼応するのを実感した。

 
 ヴォルグは————


著莪「はああッ!」ブオッ!

ヴォルグ「————」サッ!


 ラムダからボクシングという盾と矛を授かり、その使い方を教わってきたつもりだった。

槍水「ふッッ!」ブンッ!

ヴォルグ「————」サッ!


 しかし違った。

 ラムダが、ヴォルグに教えてきたのは。


ヴォルグ「————」ギンッ!


 狩りのやり方だ。

 獲物の捕らえ方だ。

 ラムダはヴォルグに武器など与えてはいなかった。


ヴォルグ「————」ダッ!

著莪「!?」


 ラムダはただ、磨いていただけだ。


ヴォルグ「————ッ!」グアッ!

 バガンッ!

著莪「くっ————!」ズザッ!


 ヴォルグが生まれ持った、爪を。


ヴォルグ「シッ!」ブアッ!

 ガキンッ!

槍水「!!」ザザッ!


 牙を。


ヴォルグ「ッッ!!」ヒュッ!ヒュオッ!

 バチンッ!

槍水「ぐっ!?」

 バガッ!

著莪「っ!?」


 道半ばで完成を見ることはなかった、野生と科学の融合。

 しかし佐藤と二階堂に追い込まれた事で、思い出す事ができた。

 争奪戦を戦う前から予感はあった。

 昨夜彼らに襲われた際、無意識にボクシングの技術を使っていた。

 一線を退いたとはいえ、ボクサーとしての自分は死んではいなかった。

 腹の虫の加護、純然たる本能の力で戦うスーパーの狼と拳を交える事で、ヴォルグの野生は再び呼び覚まされた。

 道半ばで膝を折りはしたが、道自体は途切れていない。

 力も、闘志も————

 まだ、失われてはいない。

 それを確認できただけでも、このスーパーという戦場に立った意味はあった。


著莪「ふッ!』ブオッ!

 ガキャッ!

ヴォルグ「————!」


 あとは————


槍水「はあッ!」バオッ!

 ガキンッ!

ヴォルグ「————!」


 あの場所に————

 リングに帰る、その前に。


ヴォルグ「————ッ!」ダッ!

槍水・著莪「「!!」」


 君たちを倒し————


ヴォルグ「おおおオッ!!バッ!グアッ!

 ガキッ!

槍水「ぬっ……!」

 キンッッ!

著莪「うおっ……!」


 半額弁当に、喰らいつく……!


ヴォルグ「————」グギュ

槍水「……ッ!」

著莪「…………!」


 佐藤と二階堂の牙は見せてもらった。

 次は、君たちの番だ。


* * *

* * *


著莪「仙」ボソリ

槍水「?」


ヴォルグ「……!」

 著莪が槍水の耳元で何かを呟いた。

 おそらくは連携の打ち合わせ。

 構わない。

 何を仕掛けてこようと打ち崩すのみ。


著莪「ッッ!」ダッ!

槍水「————」サッ

ヴォルグ「!」

 著莪が前進。

 槍水は一歩後退した。

 狙いはタイミングをずらした連携攻撃——!

著莪「ッ!」ブンッ!

ヴォルグ「!」サッ

 著莪の右ストレート。

 回避。

ヴォルグ「シッ!」ビュッ!

 バチンッ!

著莪「っ!」

 左ジャブ。

 鼻先を捉える。

 槍水の横槍が入る前に決める!

ヴォルグ「————ッ!!」ババッ!

著莪「ッ!」バッ!

 ガンッ! ドガッ!

 ワンツーはブロックの上。

ヴォルグ「シッ!」ヒュンッ!

 バキンッ!

著莪「くっ……!」

 返しの左フックでこめかみを捉える。

 そしてとどめの————

ヴォルグ「フッ!」ブオッ!

 ビュオッ!

著莪「〜〜〜〜ッ!」

 右アッパー。

 は——躱された。

ヴォルグ「————」

 反応が良い。

 こちらがパンチの軌道に変化をつける事を読んでいる。

 そして————

槍水「————ッ!」グアッ!

ヴォルグ「……!」キュッ!

 ビッグパンチの打ち終わりに、即座に反応する槍水。

槍水「ッ!」ヒュオッ!

ヴォルグ「!」サッ!

 右の掌底。

 やはり鋭い。

ヴォルグ「————」ブアッ!

 バガッ!

槍水「ぐっ!」

 こちらも右を返す。

 佐藤と二階堂の連携技で負ったダメージもある。

 長期戦になれば、二人同時に捌くのは難しくなる。

 一旦槍水を後退させ、著莪を優先的に叩く。

ヴォルグ「—————ッッ!!」グオッ!

 ドンッドンッ!!

槍水「ぬっ……!?」ズザッ

 ドンドンドンッッ!!

槍水「く!」ザザッ!

ヴォルグ「シッ!」ブオッ!

 バガンッ!

槍水「〜〜〜〜ッ!!」ズザザッ!

 前進しながら左右の連打でガードごと後退させる。

 著莪との距離を引き離し、コンビを引き裂く。

著莪「————ッ!」バッ!

 ドガッ!

ヴォルグ「!」

 著莪も当然黙ってはいない。

 背後から迫った著莪の一打を防ぎ、即座に連打を返す。

ヴォルグ「ッッ!」ヒュオッ!

 ワンツー。

 ガガッ!

著莪「————」

 これはガードの上。

 フックを返す。

ヴォルグ「ッ!」ブンッ!

著莪「————」サッ

 躱された————!

 ダッキング!

ヴォルグ「シッ!」ブアッ!

 下がった頭に反射的にアッパーを放つ。

 しかしこれは————!

著莪「————」バッ!

 打たされたアッパー!

ヴォルグ「!」

著莪「————」ブンッ!

 ガキンッ!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」ズザッ!


 ワンツーからフックを返すコンビネーションを読みダッキングで躱す。

 ダッキングで頭を下げる事でこちらのアッパーを誘発。

 アッパーを躱しカウンター。


ヴォルグ「……!」

 先程ワンツー、フック、アッパーのコンビネーションを見せた事で学習された。

 そして対応された。

著莪「フッ!」シュバッ!

 パパンッ!

ヴォルグ「……!」
 
 著莪はサイドに動きつつ左を振るった。

 しかし軽い。

 ガードの上をノックするような軽打。

著莪「…………」ヒュオッ!

 ガガガッ!

ヴォルグ「…………!」

 サイドステップを踏む著莪の長い金髪が横に流れる。

 飄々と緩んだ口元が髪で隠れた。

著莪「…………」

 見られている。

 誘われている。

 これはこちらに手を出させるためのジャブ。

 反撃を誘い守勢に回り、こちらの手札を開示させる狙い。

ヴォルグ「————ッ!」ダッ!

 それでも構わない。

 二対一の状況では悠然と構えていられない。

 佐藤と二階堂に嫌というほど思い知らされた。

 速攻による各個撃破。

 それが出来なければ————


ヴォルグ「シッ!」ブアッ!

 バキッ!

著莪「……!」


 元アマ世界王者、元日本ランカーの自分でも、敗北は免れない。


ヴォルグ「ッッ!」ビュオッ!

 バガガッ! ガンッ!

著莪「…………」ザッ!


 このスーパーという戦場は、そういう場所だ!

ヴォルグ「ふッ!」ブオッ!

 右のショートストレート。

 ガッ!

著莪「…………!」

 アームブロックで軌道を逸らされる。

ヴォルグ「………!」シュバッ!

 バガガッ!

 スパァンッ!

 フックを右から左に返す。

 更に右ショート。

著莪「…………」

ヴォルグ「!」

 全てブロックされた。

 構わず手を出し続ける。

 パターンを変えて撹乱を。

ヴォルグ「ッッ!!」ヒュオッ!

 バチバチンッ! ドガッ! バグンッ!

著莪「…………」

 ストレート、フック、アッパー。

 スピードの緩急、スウィングの大小の使い分け。

 変化をつけたコンビネーションは、大半が著莪のガードに阻まれた。

著莪「…………」

ヴォルグ「……!」

 見られている。

 ガードから覗く眼光が恐ろしく冷ややかだ。

 表情の全体が見えなくなると、著莪の戦いを楽しんでいるような印象が僅かに変わる。

 冷たい眼。

 感情の変化を窺えない野生の獣のような眼。

 冷たくも生気に溢れ、強かに獲物を狙う獣の眼だ。

著莪「————ッ!」】ダッ!

ヴォルグ「!」

 著莪はサイドに動くのをやめた。

著莪「————!」バッ!

 強く踏み込みながらの左ジャブ。

ヴォルグ「————ッ!」ガバッ!

 右のクロスを被せる。

 だが、やはりこれは————!

著莪「————」ピタリッ!

 誘いのジャブ!

 ジャブは右フックを打たせるための疑似餌!

著莪「————」ブンッ!

 バガッ!

ヴォルグ「ぶはッ!」

 著莪の右フック。


 わかっているのかいないのか————

 おそらく知らずに使っているのだろうが————

 カウンターに対するカウンター……!

 クリス・クロスを決められた————!


著莪「ッッ!」ブンッ!

ヴォルグ「くオ……!」サッ!


 追撃を躱す。

 ダメージはない。

 反撃を————!


ヴォルグ「ッッ!」ビュビュッ!

 パパンッ!

著莪「…………」

 ガードの上。

ヴォルグ「ッッ!」ヒュオッ!

 バシィッ!

著莪「…………」

 パーリング!

 捌かれた!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」バババッ!

 バシンッ!
  バガッガガガッ!
 バガンッ!

著莪「……!」

ヴォルグ「くっ……!」

 打てば打つほど当たりが浅くなり、バーリングで捌かれる頻度が増え、空振りが多くなる。

 見られている。

ヴォルグ「ッッ!」グアッ!

 ブオアッ!

著莪「ッ!」ブオッ!

ヴォルグ「うッ……!?」サッ!

 観察され、対応されている。

 著莪はカウンターのタイミングを掴みかけている!


著莪「…………」キュッ


ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」

 著莪の戦略はこちらのパンチの中からビッグパンチを選びとってのカウンターだと思っていた。

 しかし違う。

 著莪は大振り一本に狙いを絞っている訳ではなかった。

 攻撃に関しても防御に関しても、著莪はこちらを観察し、その場ごとの最善を模索しながら戦っている。

 観察し、対策を練り————

著莪「————ッ!」ダッ!

 対策を即座に試行。

著莪「————ッ!」バッ!

ヴォルグ「……!」サッ!

 上体を屈め、そこから伸び上がるような著莪の左フック。

 咄嗟のスウェーバック。

 誘いの軽打、カウンターから、一転して大振りのこの一打。

 その狙いは————!?

著莪「ッッ!」ビュオッ!

ヴォルグ「!」

 右のストレート!

 大振りのフックはスウェーを引き出すのが狙い!

著莪「————ッ!」

 ブオンッ!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」チッ

 体を逸らし皮一枚でなんとか回避。

 攻撃、防御の動作を観察し、自身の攻撃を差し込む隙を探す。

 著莪が最初に眼をつけたのはモーションに比較的隙が多いアッパー。

 次にこちらがショートブローにクロスを被せる動作に眼をつけクリス・クロス。

 そして今度は防御動作の隙を狙われた。

著莪「…………」キュッ

ヴォルグ「……!」

 観察し、対策を練り、試行する。

 策に成功の確信を得る前に、即座に試行に移るため、動作に迷いがなく思考をこちらに悟らせない。

 試行が失敗に終われば、また最初から繰り返す。

 試行錯誤を繰り返す。

 失敗が成功になるまで、何度でも。

 それが彼女の戦い方。

 ボクシングという決まった型を持つ自分は、彼女にとっては与し易い相手なのだろう。

ヴォルグ「…………」

 ……似ている。

 その戦闘姿勢、精神性はどこか佐藤に似ている。

 事前に練った策を断行するか、戦いながらリアルタイムで対応するかの違いはあるが、ボクサーとしての自分を彼らなりに攻略しようとする姿勢に、何か通底する理念のようなものが感じ取れる。

著莪「…………」ジリッ

 著莪は間合いを取ったまま動かない。

 次は何をして来る。

 こちらから動くべきか、それとも————

ヴォルグ「…………」

 ……いや。

ヴォルグ「…………」チラッ



佐藤「…………」



 大の字で失神した佐藤を見やる。

 こんな風に頭で考えて戦っていては、佐藤に申し訳ない。

 スウィッチを利用した連携技を駆使する頭脳的な戦法は、おそらく彼の本懐ではない。

 その先にあるものを、彼は自分に見せてくれようとしていたのではないだろうか。

 この戦いの本質を。

 スーパーの狼の本質を。

 ならば佐藤と二階堂、二人の気持ちに応えるためにも、ここは。


ヴォルグ「…………」グッ!


 この局面……このスーパーに於いては、理性よりも野生。

 両足のスタンスを広げ重心を落とし、拳を顎の下に構える。

 クラウチングスタイル。

 一度現役を退き衰えた体力で、どこまで体がついてくるかはわからないが————

ヴォルグ「————!」グギュ


著莪「…………」


 ギアを上げる。

 単純に攻勢を強める事で著莪を叩き伏せる。

 一段上のスピードとパワー。

 ディフェンスはブロック主体。

 ボディワークは最小でいい。

 この場は日本時代のあのスタイルでいく。

 気掛かりなのは————


著莪「……ヴォルグ」


 著莪の身に危険が及ぶ事。


ヴォルグ「!」


 しかし。


著莪「遠慮すんなよ」


 どうやら、余計なお世話のようだ。

 今さら手を抜くのはただの無粋。


ヴォルグ「……承知しタ」


 女性だからといって遠慮はしない。

 手心を加えて勝てる相手ではない。

 思えば————

ヴォルグ「————ッ!」ダッ!

 これが最後なのかもしれない。

 おそらくアメリカのリングでは、ファイタースタイル一辺倒では通用しない。

著莪「!」

ヴォルグ「ッ!」ダンッ!

 だから、これが最後。

ヴォルグ「ッッ!!」ブオッ!

 ドゴッ
   ゴンッ!!

著莪「!?」ズザッ!

 このスーパーが、純粋なファイターとしての最後の戦い。

ヴォルグ「シッ!」バババッ!

 バガッ! ガンッ! ガキャッ!

著莪「〜〜〜〜!?」ザザッ!

 悔いは残さない。

 ラムダコーチと磨き上げ、幕ノ内、千堂と正面から打ち合ったこのスタイルで————!

ヴォルグ「————ッ!」グアッ!

 バキンッ!

著莪「ぐっ!?」

 君たちを倒す!

ヴォルグ「おおッ!」グオッ!

著莪「く————ッ!」バッ!

 上体を丸め、頭を覆うようにガードを固める著莪。

 反撃の色気を出さず守勢に回る潔さは見上げたもの。

 しかし、隙だらけだ。

 自分ならこのブロックは————!

ヴォルグ「シッ!」ビュアッ!

 ガキンッ!

著莪「ッ!?」

 打ち抜ける。

 右アッパー——!

著莪「がはっ……あっ!」グッ!

 さらにガードを固める著莪。

 無駄だ。

 下からねじ込まれたアッパーを意識するあまり————

ヴォルグ「ッッ!」ブオッ!

 バガッ!

著莪「!!」

 側頭部ががら空きだ。

著莪「————!」ガクンッ


 倒せる。


著莪「くっ!」グラッ

ヴォルグ「————ッ!」キュッ!


 とどめ————!


著莪「〜〜〜〜ッ!」ブオッ!

ヴォルグ「!」バッ!

 膝を落とし倒れかけた姿勢から反撃。

 まだ力を残している——!

ヴォルグ「……!」ダンッ!

 わかっていた事だ。

 狼たちは痛みでは倒れない。

 彼ら倒すには一撃で意識を断ち切るか————

ヴォルグ「ッッ!」グアッ!

 ボグンッ!

著莪「うぐっ!?」


 腹の虫の力を削ぐしかない。

 左ボディ。

 レバーを叩く。


ヴォルグ「ふッ!」ブオッ!

 ドンッ!

著莪「!?」


 ソーラープレキサス。

 右ボディアッパー。


著莪「が……はッッ!?」

ヴォルグ「————!」


 著莪の動きが止まる。

 今度こそとどめを————!


ヴォルグ「————ッ!」グオッ!

 
 終わりだ、著莪————!


著莪「ぐ……!」ギンッ!

ヴォルグ「ッ!」


 まだ!?


著莪「ああッ!」ブンッ!ブオッ!

 ガガッ!

ヴォルグ「く……!」


 急所をベストショットで貫いた……!

 それでもまだ……!


著莪「まだまだッッ!」ギリッ!

ヴォルグ「……!」


 承知した、著莪……!

 今度こそ、本当に遠慮はしない。


ヴォルグ「————ッッ!!」キュッ!

 
 全身全霊————!


ヴォルグ「ッッ!!」グギュ


 最高速度、最大威力————!!


著莪「!!」

ヴォルグ「おおッ!」ビュオッ!


 バキッ

著莪「がッは————ッ!」

     キンッッ!!


 ホワイト・ファング————!


著莪「ぐっ————……」ググッ

ヴォルグ「…………」

 直撃。

 著莪は倒れまいと体に力を入れたが————


著莪「ふっ————……」ガクンッ

 ドサリッ

 最後に笑みを浮かべ、フロアに倒れた。



ヴォルグ「…………」


 好敵手の最後を見届け、あと一人————


ヴォルグ「お弁当……」クルッ


 背後で決着を待っていた、最後の敵に振り返る。


槍水「…………」


 槍水仙。

 先ほど著莪が彼女の耳元で囁いたのは、連携の打ち合わせではなかった。


ヴォルグ「獲りに行かなかったんだネ……ヤリズイ」


槍水「著莪が……一人ずつやろうと言ったものでな」スッ


ヴォルグ「そウ……」グッ


 槍水が構えた瞬間、売り場の空気が一変する。

 変わった空気を感じ取れる。

 今は自分も、ただ一匹の狼という事。

 半額弁当を求める、ただ一匹の狼にすぎない。


槍水「決着をつけるぞ、北欧の狼……!」


ヴォルグ「望むところダ……氷結の魔女!」


* * *

* * *


ヴォルグ「ッッ!」

 ダンッ!

槍水「ッッ!」

 二人同時に距離を詰める。

ヴォルグ「フッッ!」ブオッ

 右を強振。

 ガッッ!

槍水「……!」ググッ

ヴォルグ「!」

 左腕一本で防がれた。

槍水「はあッ!」バッ!

 槍水も右を強振。

 ガッ!

ヴォルグ「……!」

 ブロック。

 避けようと思えば避けられた。

 しかし体が引こうとしない。

ヴォルグ「おおッッ!」グアッ!

 引きたくない!

槍水「ふんッッ!」ブオッ!

 バガガッッ!!

ヴォルグ「ぬッ——!」

槍水「ぐ!?」ガクンッ

 相打ち——!

 だがこちらの当たりの方が深い!

ヴォルグ「————ッッ!!」ババッ!

 追撃。

 連打!

 ガガガッ!

槍水「ッ……!」ズザッ!

ヴォルグ「シッ!」ブンッ!

 ガキャッ!

槍水「くっ!」ザッ

ヴォルグ「ふッッ!」ビュオッ!

 ドガッ!

槍水「ぐあっ!?」

 ブロックを破壊。

 右を捩じ込む。

 仰け反る槍水。

 しかし————


槍水「————ッぬ!」グッ!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」


 ——効いているだろうに!


ヴォルグ「……!」サッ!


 なんて気の強い!


槍水「ああッ!」ブアッ!

 バガンッ!

ヴォルグ「ぐウっ……!?」ザッ!


 重い……!

 昨夜よりもさらに!


槍水「ッッ!!」グアッ!

 ドガッ!

ヴォルグ「ぶはッッ!?」ガクンッ!

 左フック。

槍水「ふッッ!」ブオッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「げはっ!」

 右ボディ。

 槍水は距離を空ける気がない!

ヴォルグ「ッッ!」ブオッ!

 反撃を!

 手を出さなければ呑み込まれる!

 バガガッ!

槍水「ぐっ!」

ヴォルグ「くっ!」

 回転を上げろ!

 これでは崩せない!

ヴォルグ「————ッ!」グアッ!

 ガガガッ!
  バガンッ!
   ゴッガンッ!

槍水「……ッ!」

 ブロックが緩んだ……!

 強打を差し込む!

ヴォルグ「ッ!!」グオッ!

槍水「————ッ!」サッ!

ヴォルグ「!」

 ダッキング——

 潜り込まれた————

槍水「ふッッ!」ブンッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「ぐッッ!?」

 レバーブロー……!

 またボディ。

 深く踏み込まれている。

 連打を許す訳には……!

ヴォルグ「くっ……!」ブンッ!


槍水「……!」キュッ!


ヴォルグ「!」

 槍水はあっさりとサイドに逃れた。

 無理に近距離を維持するリスクを承知している。

 打ち合いに意固地になったかと思えばこの潔さ。

 著莪もそうだが、狼としてのプライドと戦況を見極める冷静さ、強かさが見事に同居している。

 厄介極まりない。

 やはり最初に感じた通り、スーパーで戦う槍水には千堂の姿がダブって見える。

 ホームの歓声に応え愚かな打ち合いに徹していたかと思えば、ボディ打ちによるゲームメイクと右のスマッシュという切り札を用意していたあの強かさ。

 誇り高き大阪の英雄であると同時に、クレバーな勝負師でもあるあの姿が————


槍水「————ッ!」ダッ!


 ——ダブって見える。

ヴォルグ「!」

 来た!

 右半身を大きく引いている。

 これは昨夜の————


槍水「ふッッ!」ブオッ!


 右ハイ!


ヴォルグ「ッッ!」バッ!

 大きく仰け反って回避。

槍水「…………」キュッ

 即座に体勢を立て直す槍水。

槍水「……!」ヒュバッ!

 ビシィッ!

ヴォルグ「なっ……!」グラッ

 右のローキック——!

 バランスが————

槍水「はあッ!」ダンッ!

 ドゴンッ!

ヴォルグ「ごはッッ!?」

 右の掌底……!

 鳩尾に————

ヴォルグ「ぐッ……は!」

 足技を織り交ぜたコンビネーション。

 体が硬直する。

 槍水の狙いはボディだ。

 それも腹の虫の力を削ぐという甘いものではない……!

 槍水はこちらの狼としての命脈を————


槍水「————ッ!」ダンッ!

ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」


 断ち切りに来ている!

槍水「ふッッ!!」ブオッ!

 ガゴッッ!

ヴォルグ「ッッ!?」


 左フック。

 無防備に貰ってしまった。

 体が大きく横に流れる。


ヴォルグ「————ッぐ!」


 効いた————


ヴォルグ「————ッ」ギリッ


 ——だが。

 まだ。


ヴォルグ「〜〜〜〜ッ!」ギャッ!


 まだ倒れる訳には。

 この程度で倒れていては————


ヴォルグ「ッッ!」ギンッ!

槍水「!」


 彼らに申し訳ない!

 何よりも————!


ヴォルグ「うおおッッ!」ブオッ!

 ガキンッ!

槍水「!?」ズザッ!

 
 まだ戦っていたい————


ヴォルグ「おオッッ!」ブアッ!

 バキンッ!

槍水「ぐッ!!」ザッ!


 狼たちと!

 争奪戦を!!

ヴォルグ「ああアッ!」グオッ!

 ドゴンッ!

槍水「がはッッ!」ガクンッ


 効いた!

 ここだ!


槍水「ぬッ……!」グラッ

ヴォルグ「————ッ!」ダッ!


 力無く後退する槍水。

 決めさせて貰う!


ヴォルグ「シッ!」ヒュバッ!


 左を突き出す。

 右に繋げて終わらせる!


槍水「————!」グルンッ

ヴォルグ「!?」


 スリッピングアウェイ————!?

 顔面でいなされた!


槍水「————」バッ

 パシッ

ヴォルグ「!?」


 腕を掴んだ!?

 しまった!

 ここへ来て投げ技!?

 組み技————

槍水「————」トッ

 ガシィッッ

ヴォルグ「!!??」


 右足を首に掛けられた!

 これは————

 サンボの——!?

 関節を————


ヴォルグ「ウ————」

 ゾワッ

槍水「ッッッ!!」ビュオッ!


 ガッキャアッッ!!


ヴォルグ「ガッ!?」


 左の——

 膝蹴り————!?


槍水「————ッ!」グイッ!

ヴォルグ「……!!」

 ドサッ

ヴォルグ「ぬッ……あ——……」フッ

槍水「——完了」ボソリ


 首に掛けた右足でこちらを押し倒し、腕を極める槍水。


ヴォルグ「————……」ガクッ


 槍水の呟きを最後に、ヴォルグは意識を失った。

* * *

* * *


佐藤「…………う」


二階堂「起きたか」

佐藤「二階堂……ぐ!?」ズキンッ


 目を覚まし、まず感じたのは腹部の鈍い痛みだった。

 右の脇腹と鳩尾の痛みで、身を起こすのも辛い。

 無理もない。

 ヴォルグさんのボディブローをあれだけ貰ったのだから。

佐藤「争奪戦は……先輩たちは……」

二階堂「まだ終わっていない。麗人は負けた」

佐藤「著莪が……」ムクリ

 痛みに耐え、なんとか体を起こす。


著莪「…………」


佐藤「著莪…………」

二階堂「どうやら、一人ずつ仕掛けたようだ。今は————」



ヴォルグ「うおおッッ!」ブオッ!

 ガキンッ!

槍水「!?」ズザッ!



佐藤「先輩が——!?」

二階堂「劣勢だ。魔女もいいのを入れたんだかな……」

ヴォルグ「おオッッ!」ブアッ!

 バキンッ!

槍水「ぐッ!!」ザッ!



佐藤「……!」

 先輩は防戦一方だ。

 ヴォルグさんの強打にガードごと後退させられている。



ヴォルグ「ああアッ!」グオッ!

 ドゴンッ!

槍水「がはッッ!」ガクンッ



佐藤「!」

二階堂「……!」

 膝が落ちた。

 効いてしまった。



槍水「ぬッ……!」グラッ

ヴォルグ「————ッ!」ダッ!



 この機を逃すヴォルグさんではない。



ヴォルグ「シッ!」ヒュバッ!



 間をおかず左を突き出すヴォルグさん。

 終わった————



槍水「————!」グルンッ

ヴォルグ「!?」



佐藤・二階堂「「!?」」

 い、いなした!

槍水「————」バッ

 パシッ

ヴォルグ「!?」



 腕を掴んだ!

 投げ技!それとも組み技か!



槍水「————」トッ

 ガシィッッ

ヴォルグ「!!??」



 先輩はそのまま、右足をヴォルグさんの首に掛けた。

二階堂「あの技は————!!」

佐藤「!」



ヴォルグ「ウ————」

槍水「ッッッ!!」ビュオッ!

 ガッキャアッッ!!

ヴォルグ「ぐガッ!?」



佐藤「なッ……!」

二階堂「…………」ギリッ

 なんだ……!

 あの技は!?



槍水「————ッ!」グイッ!

ヴォルグ「……!!」

 ドサッ

ヴォルグ「ぬッ……あ——……」フッ

槍水「——完了」ボソリ



 先輩は腕を取ったままヴォルグさんをうつ伏せに押し倒し、何事が呟いた。

 腕を取り首に右足を掛け、左の膝蹴り——

 そのまま腕を極める、組み技と打撃の複合技。

 相手の頭部に組み付いた両足は、さながら獣の顎。

 まるで獲物に喰らいつき、地に叩き伏せるような————


二階堂「そうか……魔女にはあれがあった……!」

 苦虫を噛み潰したような二階堂の表情。

佐藤「知っているのか、二階堂……!」

二階堂「ああ……以前『むっちゃハワイやんパーク』での争奪戦で……!」ギリッ

佐藤「……!」

 
 なん……だと……!?


佐藤「喰らったのか……あの技を……」

 むっちゃハワイやんパークで……?

 プールで……?

 水着姿の先輩から……!?

 頭部を太腿で挟み込むあの技を……!!?

二階堂「ああ……そして敗れた。苦い思い出だ」

佐藤「…………」

 やべぇ……

 やべぇよ……本気でキレちまいそうだ。

 何言ってんだこいつ。

 あの技を水中で、水着姿の先輩から喰らうなんて……!


佐藤「ただのご褒美じゃねぇかッッ!!」クワッ!


二階堂「!?」

佐藤「自慢かよ!なぁにが『苦い思い出』だ!お前イケメン振るのも出すのも大概にしろよ!?」

二階堂「なっ何を怒ってるんだ!?」

 そんでその後は松ちゃんの……人妻の手作り弁当分けてもらうとか……!

佐藤「お前のそういう……損してるようで得してる所が大っ嫌いだよ!畜生め!」

二階堂「さ、佐藤……?一体何を言って……?頭はそれ程打たれていないはずだが……」

佐藤「けっ!」プイッ

 駄目だこいつ通じてねぇわ。

 もういいや。

 とにかく————



槍水「…………」スッ

ヴォルグ「…………」



 逆転だ。

 ヴォルグさんはピクリとも動かない。

 今夜の争奪戦は先輩の勝利。



槍水「…………」クルッ



 ヴォルグ・ザンギエフ。

 一夜限りの争奪戦————



ヴォルグ「…………」



 勝ち逃げならず。

 先輩はヴォルグさんの腕を離し、弁当コーナーに向かって歩き出した。

二階堂「決着、か」

佐藤「……ああ」

 至難と思われたヴォルグさんの打倒は、先輩の手によって果たされた。

 さすがとしか言いようがない。

 氷結の魔女、縄張りの主の面目躍如といったところ————



ヴォルグ「…………」カリッ



佐藤・二階堂「「!」」



槍水「…………」ビタッ



 うつ伏せに倒れたヴォルグさんの手、その爪が、フロアを掻いた。

 先輩は足を止めた。

佐藤「……!」

二階堂「まだ……なのか!?」



槍水「…………」


ヴォルグ「…………ゥ」グッ



二階堂「馬鹿な……!あれを喰らって立てる訳が……!」

佐藤「…………!」



ヴォルグ「う——ア……ッ!」ググッ!


槍水「……!」



佐藤「……!」

二階堂「信じられん……!」

ヴォルグ「まダ……だ、ヤリズイ……!」ギンッ!


槍水「……いいだろう」カッ


 先輩はブーツの踵を踏み鳴らし、構えた。


槍水「こうなればとことんまでやってやる……!」グッ!


ヴォルグ「フッ……!」ググッ!


 ヴォルグさんも前傾に構える。

 ダメージは深い。

 先輩も無傷ではない。

 これが二人の———


二階堂「……ッ最後の————」

佐藤「……!」


 攻防。


ヴォルグ「————ッ!」ダッ!


 北欧の狼。


槍水「————ッ!」ダッ!


 氷結の魔女。


佐藤「……!」


 最後の一合。


* * *

* * *


 母が亡くなり——


 長年苦楽を共にした、ラムダコーチとのコンビも解消し——


 職も無く、唯一人生を捧げてきたボクシングからも遠ざかり————


 全てを失い、独り再訪した日本の地。


 そこで新しい友人たちに出会った。


 道に迷い、偶然出会ったスーパーの狼たち。


 些か奇妙な友人たちではあったが、自分は幸運だと思った。


 日本では、不思議と良い縁に恵まれる。


 再起に向けての幸先の良い出会いを。


 この旅は間違いではなかったと。


 深い喜びと共に、噛み締めた。


 だからこそ、嫌だった。


 道端で出会い、意気投合し、一度夕餉を囲んだだけで、彼らと別れるのは。

 
 何か、強く残る思い出が欲しかった。


 勝利の一味に興味を覚えたのは確かだ。


 だがそれ以上に、彼らに自分を『道に迷った哀れ な外国人』ではなく————


 競い合った一匹の狼として、覚えていて欲しかった。


 自分にとっての、幕ノ内や千堂のように。


 彼らの中に、自分の存在を刻み込めたなら。


ヴォルグ「おおオッッ!!」ブオッ!

 バガッ!

槍水「ぐはッッ!」


 別れは寂しいものではなくなる。


槍水「はああッッ!」グオッ!

 ガゴッッ!

ヴォルグ「がはッ!」


 片や元アマ世界王者、元日本ランカー。

 片やただの高校生。


 しかし半額弁当争奪戦に於いては、どちらも等しく、ただ一匹の狼に過ぎない。


 ボクシングも同じ。

 幕ノ内とも、千堂とも。

 別々の国で生まれ、まったく違う人生を歩み、ただ独りのボクサーとしてリングで巡り会った。


 孤高の狼と人は呼ぶ。


 だがボクサーである限り。


 狼である限り。


ヴォルグ「ッッ!」ダッ!


 戦い続ける限り、自分は独りではない。


ヴォルグ「————ッ!」キュッ!

槍水「!」


 独りだけど、独りじゃない。


ヴォルグ「シッ!」ビュオッ!

 ガンッ!

槍水「ぐッッ!」


 ヨー、アヤメ。

 声を掛けたのが君たちでよかった。


ヴォルグ「あアッ!」ブオッ!

 ゴガンッ!

槍水「はッッ!?」


 ヤリズイ、オシロイ、ニカイドウ。

 君たちと出会えてよかった。


ヴォルグ「————ッ!」グギュ!


 孤独を埋める戦いは————


槍水「————!!」


 これで終わり。

ヴォルグ「————ッ!」ダンッ!

槍水「!!」バッ!


 ホワイト・ファング——!


ヴォルグ「ッッ!!」グオッ!


 ダメージで体が言う事を聞かない。

 拳が返らない。


ヴォルグ「……ッ!」


 構まわない——!

 このまま叩きつける!


ヴォルグ「おおおおおオッッ!!」ギュオッ!


 ガードごと噛み砕く!


槍水「————!」ガチッ!

ヴォルグ「ぬんッッ!」グオッ!

 ズボォッ!

槍水「!?」


 バキッ

槍水「がッ————」

    キンッッ!!

槍水「——はッッ!!」

ヴォルグ「—————」キュッ

槍水「あ——ぐ……ッ!」グラッ


 通った。

 槍水は最後に————


ヴォルグ「…………」

槍水「く……あ……!」ブンッ


 ヒュオッ——


 ——ドサッ


槍水「う————……」ガクッ


 こちらに向かって拳を振るいながら、前のめりにフロアに倒れた。


ヴォルグ「…………」


 ——見事。


 最後の最後まで、見事な闘争本能。


 これで————


ヴォルグ「僕の……勝ちダ!」


 決着。


* * *

* * *

ヴォルグ「…………」フラッ

槍水「…………」



二階堂「…………」

佐藤「…………」

 逆転に次ぐ逆転。

 今度こそ、勝敗は決した。

 ヴォルグさんは倒れた先輩に背を向け、弁当コーナーに向かって歩き出した。

佐藤「…………」スクッ

二階堂「…………」


 座っている場合ではないと、そう思った。

 腹部に激痛が走る。


佐藤「行ってくる……」

二階堂「やはり馬鹿だな、変態」


佐藤「うるせえ」タッ!

 構わずに走る。

 ヴォルグさんを追って。


佐藤「ヴォルグさん!」


ヴォルグ「!」ピタッ


ヴォルグ「ヨー……」クルッ


 僕が立ち上がった事に、目を丸くして驚くヴォルグさん。

 その表情に、思わず口の端が持ち上がる。

 何故だろう。

 笑わずには、いられなかった。

佐藤「……もう勝ったつもりですか?」


ヴォルグ「…………ハ」


 ヴォルグさんも呆れたように笑った。


ヴォルグ「本当ニ……君たち狼ハ……フフ」グッ


 笑いながら、ヴォルグさんは構えた。

 もう足腰が効かないのだろう。

 上体を前に倒してはいるが、足はほとんど棒立ちだ。

 ダメージで重心を落とし切れていない。

 ヴォルグさんは限界を超えている。


佐藤「ええ……意地汚いんです。僕たちは」グッ


 それはこちらも同じだった。

 もう喋るのも辛い。

 体全体が軋む。

 今すぐ倒れてしまいたい。

 それでも、僕は構えた。


佐藤「行きます……!」ダッ!


 頭痛がする。


 吐き気もだ。


 それでも尚、体の奥底から湧いて出るこの力を。


ヴォルグ「フ……!」ダッ!


 叩きつけずにはいられなかった。


佐藤・ヴォルグ「「うおおおおおおおオッッ!!」」


 二人同時に拳を振るう。



 二人の拳が、交錯する。



* * *

* * *


「「「「「「——いただきます」」」」」」


 数十分後、僕たちはホーキーマートの近くの公園にいた。


 争奪戦を終え、夕餉を囲んでいた。


白粉「ご、5分経ちましたね」ペリペリ

 てっきり白粉は乱戦の混乱に乗じ弁当を奪取したと思ってたいたのだが、今夜は不首尾に終わったようだ。

 僕たちの戦闘を見守るのに夢中になり、途中で意識を取り戻した他の狼に先を越されてしまったのだそうだ。

 白粉の今夜の夕食はどん兵衛のうどんにイカの天ぷら。

 それでも白粉は、どこか満足そうだった。

白粉「いえ、今夜は良いものを見せて頂きましたので…… 私としてはそれでもうお腹一杯で……」ニチャア

 そう言って、粘度の高い邪悪な笑みを浮かべ、白粉は僕、二階堂、ヴォルグさんを順番に睨めまわした。

ヴォルグ「?」

二階堂「?」

佐藤「…………」グイッ

白粉「あたっ」

 白粉の脳内でどんな妄想が繰り広げられているのか、想像するのもおぞましい。

 僕は無言でおさげを引っ張り、白粉の邪気をシャットアウトした。

二階堂「なんだか知らんが……女性の髪を引っ張るのは感心しないぞ、佐藤」ペリペリ

 そう言って、シーフードヌードルの蓋を剥がす二階堂。

 ぐぅの音も出ない正論である。

 しかし白粉のおさげはもはや、彼女を正気に戻すためのレバーの様なものなので、こればかりはどうしようもない。

著莪「お前らそのやり取りホント飽きないよな」ペリペリ

 どん兵衛(うどん)の蓋を剥がしつつ、著莪が笑う。

佐藤「好きでやってる訳じゃないよ」

槍水「そうなのか?私はてっきりじゃれ合っているものだとばかり……」ズズッ

 どん兵衛(蕎麦)の出汁を啜り、先輩が意外そうな顔をする。

著莪「やっぱりそう見えるよな?佐藤、女の髪の毛大好きだもんな〜」

佐藤「やめろよ!その言い方だとまた変態の二つ名が補強されちゃうだろ!」

 しかも白粉に対して日常的に変態行為を働いている事になっちゃうだろ!

二階堂「何処を切っても変態だな。変態」

ヴォルグ「僕モ、ハナとヨーは凄く仲が良いんだと思ってたんだけド……違うノ?」

佐藤「ヴォルグさんまで……!いや、仲悪くはないですけどね……これはツッコミのようなもので……」

ヴォルグ「ツッコミ?」

 あ、ツッコミわからない?

佐藤「ええと、なんて言っていいのか……」

槍水「ふふ……佐藤、麺が伸びてしまうぞ」

佐藤「あ! そうですね。先に食べちゃいましょう」ペリペ リ

 僕はどん兵衛(うどん)の蓋を剥がした。

ヴォルグ「ねェ、ツッコミってなニ?」

著莪「んー……なんて説明すればいいんだ?」

 よほど気になったのか、隣に座る著莪に質問するヴォルグさん。

 著莪もどう教えていいものか苦慮して首を捻っている。


佐藤「いつか……」

 著莪に助け舟を出すことにした。

ヴォルグ「?」

佐藤「千堂さんにまた会えたら、聞いてみるといいですよ。大阪は本場ですから」

ヴォルグ「…………うン。そうするヨ」

佐藤「食べましょう。お弁当、冷めちゃいますよ」

ヴォルグ「そうだネ、それじゃア————」


 ヴォルグさんは特製幕ノ内弁当の蓋を取り、手を合わせた。


ヴォルグ「いただきまス!」


佐藤「…………」

 結局、負けてしまった。

 最後の相打ちに耐え月桂冠を手にしたのは、ヴォルグさんだった。

 月桂冠以外の2つの弁当は、僕たちが戦っている間に他の狼に奪われてしまっていた。

 正直、今夜はどうかしていた。

 弁当を意識し、腹の虫の加護を得て戦ってはいたのだが、僕たちは完全に弁当コーナーをフリーにしたままバチバチ殴り合っていたのだ。

 隙をついた狼の、弁当奪取にも気づかないまま。


ヴォルグ「はグッ、むぐっ、おいしいでス!」


 しかし、月桂冠だけは手付かずで残されていた。

 いくら特製幕ノ内弁当が地味だからといって、狼が月桂冠を無視するなんて事は有り得ない。

 二つの弁当を奪取した、名も知らぬ二人の狼。

 彼らは事情を知らないまでも、ヴォルグさんの戦いに何かを感じ取り、月桂冠には手を出さないでいてくれたのだろう。


ヴォルグ「むぐっ、はグッ!」ガツガツ


佐藤「はふ…………」ズルズル


 おかげで、特製幕ノ内弁当は渡るべき人の手に渡った。

 この弁当にはアブラ神からヴォルグさんへの配慮があっ たのだから、ヴォルグさんの手に渡って然るべき……。

 ……なんて、そんな事は今は考えていない。

 そもそもこの弁当がヴォルグさんのための弁当だという推測自体、間違いだったのだと……今ではそう思う。

 今夜の戦いはヴォルグさんが参戦する以上、仮に僕や著莪、先輩が勝利したところで、甚大なダメージを受けた上での勝ち抜けになるのは目に見えている。

 この、アブラ神らしからぬあっさりとした弁当は————

 ヴォルグさんという破格の強者が参戦する激闘、その勝者の、傷ついた体を労って作られた『特製』幕ノ内弁当だったのではないだろうか。

 ダメージの深い体でも食べやすいように。

 ヴォルグさん個人のためではなく。

 『ヴォルグさんが加わった奪戦』

 その勝者のために作られた弁当。

 今宵スーパーに集った、僕たちのための弁当。


ヴォルグ「これはカマボコだっケ。カマボコってなんですカ?」

佐藤「魚のすり身ですよ」

ヴォルグ「ふム……」パク

佐藤「どうですか?」

ヴォルグ「おいしいでス!」ムグ

著莪「ヴォルグ、卵焼き一口ちょうだい」

ヴォルグ「いいですヨ、それじゃアおウドン一口下さイ。交換でス」

槍水「では私は焼き魚を一口……」

佐藤「僕は野菜の煮物を」

白粉「ぇあっと、私はご飯が少し欲しいなぁ……なんて」

二階堂「……せっかくだ、俺も何か……」

ヴォルグ「フフ……じゃア、みんなで交換ですネ」


 その後は結局、みんなでカップ麺と弁当を回して分け合って食べた。


 ヴォルグさんとの最後の夕餉。


 楽しい時間は、あっという間だった。


* * *

** ** **


 一度寮に戻り、汗を流し着替えたヴォルグさんを駅まで送り届けた。


 昨夜と同じ改札の前で、ヴォルグさんは立ち止まった。


ヴォルグ「見送りはここまでデ……」

著莪「……元気でな」

槍水「獲れよ、世界」

二階堂「あんたならやれる。健闘を祈る」

白粉「頑張って下さい!努力はきんに——」

佐藤「それはもういい」グイッ

白粉「あたっ」

ヴォルグ「フフ……ありがとウ、ハナ。『努力は筋肉を裏切らない』忘れませン」

佐藤「忘れていいですよ……」

ヴォルグ「アハハ……ヨー」ゴソッ

佐藤「?」

 ヴォルグさんはポケットから何かを取り出した。

ヴォルグ「これを受け取って下さイ……」

佐藤「これ……さっきの……」

 渡されたのは、ヴォルグさんが争奪戦の時に着けていたバンテージだった。

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